横浜みなとみらい21
散策:2012年08月中旬
【海辺散策】 横浜みなとみらい21
概 要 横浜は日本のほぼ中央に位置する神奈川県の県庁所在地で、東京23区に次いで日本で2番目の大都市です。 開国時代の面影も随所に残っていて雰囲気のある街です。 今回は、近年になって新しくなった「みなとみらい21」の新港地区から山下公園を散策し、 シーバスに乗って海からの横浜の眺めを楽しみます。
起 点 横浜市 桜木町駅
終 点 横浜市 桜木町駅
ルート 桜木町駅…日本丸メモリアルパーク…汽車道…赤レンガ倉庫…象の鼻パーク…大桟橋…山下公園…氷川丸〜横浜港観光船〜みなとみらい21…コスモワールド…桜木町駅
所要時間 3時間20分
歩いて... みなとみらい21から山下公園にかけては横浜発祥の地です。 横浜市歌にも、苫屋が並ぶばかりだった寒村が立派な国際港になったことが歌われています。 何度か出かけている所ですが、今回は初めてシーバスに乗って海から横浜の街を眺めました。 いつもとは違った景色が広がっていて、新鮮な印象を覚えました。
関連メモ 横浜中区, 港の見える丘公園, 横浜みなとみらい21, 横浜中区, 横浜中区, 横浜中区, 港の見える丘公園
コース紹介
桜木町(さくらぎちょう)駅
桜木町駅(JR根岸線)から歩いていきます。
改札口を出て左手(海側)へ真っ直ぐに進んでいくと、信号の手前に周辺案内図があって、 これから向かう赤レンガ倉庫への道が載っています。 ここから「開港の道」として整備された散策路が港の見える丘公園までの3.2kmに渡って続いていますが、 今回はその中の山下公園までを歩いていきます。
周辺案内図の傍には、以前この地にあった「東横浜駅」についての解説板が立っています。 駅に纏わる歴史を読むと、時代の流れを感じずにはいられません。 脇には切り株のような道標があって、赤レンガ倉庫までは1200mとなっています。
移転した横浜駅と消えた神奈川駅
新橋-横浜間に日本初の鉄道が走った1872年当時の横浜駅は現在の桜木町駅でした。 現在の東神奈川駅と横浜駅の間、京急神奈川駅と青木橋を挟んだ反対側の辺りに神奈川駅がありました。 1915年に横浜駅は現在の地下鉄高島駅付近に移り、それまでの横浜駅は桜木町駅となりました。 1928年に東海道線のルート変更に伴い、横浜駅は現在の位置へ移動しました。 それに伴い、神奈川駅は距離が近すぎるということで廃止になりました。(参考:横浜市ホームページ)
ここに駅があった
大きな貨物駅だった
往時は65万トンが発着し
多くの人が働き汗を流した
ある時代は生糸だった
ある時代は疎開荷物であった
ある時代は進駐軍輸送
それに輸入食料だった
そしてこの駅はいつの時代も
市民の生活とともにあった
1979年10月この駅の使命は終った
かつて日本の鉄道開業の
栄えをになった駅
追憶のなかに永遠
東横浜駅
東横浜駅について
明治5年、汽笛一声新橋を発した日本初の鉄道の終着駅「横浜」はこの地でした。 時を経て横浜駅は現在の位置に移り、この地の駅は客貨の機能を分離して、 桜木町駅、東横浜駅となりました。 さらに幾星霜、国運いよいよ隆昌に向う我が国現代史の過程において、 鉄道の果たした役割はかぎりなく大きいものがありました。 この間、市民生活の一部としてその責めを全うした貨物駅東横浜は昭和54年、その終焉を迎えました。 いまこの地は新しい都市「みなとみらい」として秀麗かつ壮大な偉容をととえつつあります。 古より世のため人のために日々営まれる活動に支えられて、暮らしが、社会が、 街並みが時代に応じて生き生きと発展するさまは無量の感慨を私たちに与えてくれます。 この碑文は東横浜駅廃止に際し、往時ここに汗となみだをながした人びとの意をうけて書かれたものです。
 (東日本旅客鉄道株式会社 横浜支社)
日本丸メモリアルパーク
信号を渡って正面から左前方へと続く道を進んでいきます。 日本丸交差点を渡っていくと正面の先に汽車道が続いていますが、 左手に日本丸メモリアルパークがあるので立ち寄っていきました。 旧横浜舟渠株式会社第一号船渠に帆船の日本丸が係留されています。
日本丸について
昭和2年3月、練習帆船霧島丸999総トンが千葉県銚子沖で暴風のため沈没、 乗組員及び学生全員が船と運命を共にしました。 この惨事をきっかけに昭和3年の国の予算において、大型練習帆船2隻の建造費182万円、 1隻当り91万円が認められました。 当時我が国の一般会計予算は、軍事費、国債費を除くと8億7千万円程度に過ぎず、 2隻の建造費のしめる割合は2/1000に及ぶ巨費でした。 建造は神戸の川崎造船所が当りました。 昭和5年、田中隆三文部大臣は日本の海の王者のふさわしい船にしたいとの期待から 1月27日に進水した第一船を「日本丸」、2月14日に進水した第二船を「海王丸」と命名しました。 日本丸は昭和5年3月31日竣工し、同年横浜からカロリン諸島のポナペ島へ初の遠洋航海に出帆しました。 昭和18年には第二次世界大戦激化のため残念ながら帆装を撤去し、 戦争中の緊急物資輸送や戦後の引揚者25,423人の輸送などにも従事しました。 その後昭和27年に帆装を復旧し、現在の姿に戻ることができました。 建造以来昭和59年9月16日の退役までの半世紀余のあいだに地球45.5周に相当する約183万キロメートルを航海し、 約11,500人の海の男を育てました。 また、主機関ディーゼルエンジンの稼動年数54年半は舶用機関として現在世界最高記録です。 退役後の誘致運動は全国10都市に及び、その中で保存、公開、活用の計画に優れていた横浜市に払い下げが決まり、 公開のための整備をした後、昭和60年4月28日より、ここで公開されています。
汽車道
日本丸などを見学したら、汽車道を進んでいきます。 入口には「みなとみらい21エリアマップ」や「みなとみらい21ガイドマップ」があって、 大桟橋にかけての地図が載っています。 明治末期から昭和60年代まではこの地に東海道線の貨物支線があって、 東京駅とここにあった横浜港駅の間に、 外国航路へ接続する旅客列車「ボート・トレイン」も運行されていたようです。 現在、その廃線跡地が遊歩道として整備されていて観光名所にもなっています。 その頃の線路が残されていて、周りには木板が敷き詰められて木道のようになって続いています。 右も左も海になっていて、その中を砂州のように延びています。 規模は小さいながら日本三景のひとつ「天の橋立」を想わせる雰囲気も感じます。
左手にランドマークタワークイーンズスクエアなどのビル群やコスモワールドの観覧車などを 眺めながら汽車道を進んでいくと、港一号橋梁があります。 橋には「AMERICAN BRIDGE COMPANY, OF NEW YORK, U.S.A. 1907」の銘板が貼り付けられていました。 脇の解説板によるとこの橋はアメリカ製のようでした。
港一号橋梁
この橋は、明治42年(1909)に鉄道院によって架設されました。 2連の30フィート鈑桁橋と100フィートの鋼プラット・トラス橋(クーパー型トラス橋)からなっています。 100フィートのトラス橋は、明治40年(1907)にアメリカン・ブリッジ・カンパニーで製作され、 港二号橋梁と同形のももです。
港一号橋梁を過ぎていきます。 道端には樹木も植えられていて、遊歩道の雰囲気がする道が続きます。 この時は雲が広がる天候でしたが、休日とあって多くの人がやってきていました。 人波が途切れるタイミングを見計らって写真を写したりしていると、結構時間がかかったりもします。
汽車道を更に進んでいくと、港二号橋梁があります。 港一号橋梁とほぼ同じ感じの鉄橋になっています。 この橋もアメリカ製のようで、同じ銘板が貼り付けてありました。
港二号橋梁
この橋は、明治40年(1907)にアメリカン・ブリッジ・カンパニーで製作され、 明治42年(1909)に架設された100フィートの複線トラス橋です。 重量機関車の出現により、それまでのイギリス製トラス橋にとってかわり、 明治30年代から主流となったアメリカ系トラス橋の遺構として貴重なものです。
港二号橋梁を過ぎて、樹木が茂る道を進んでいきます。 道端には丸い椅子のようなものが幾つかありました。 船を桟橋に繋ぐ時にロープを括るのに使われていたのでしょうか。 座るのに具合が良さそうな形になっていました。 左右の景色を眺めながら進んでいくと、港三号橋梁があります。 この橋は元々ここにはなくて他所から移設されたようで、線路はその右側を通っています。
港三号橋梁(旧大岡川橋梁)
大岡川橋梁は北海道の夕張川橋梁(明治39年架設)と武蔵鉄道江戸川橋梁(明治40年製作)を転用し、 3連の100フィート・ポニー形ワーレン・トラス橋として、昭和3年(1928)に旧生糸検査所引込線に架設されました。 この橋は、そのうちの旧夕張川橋梁の橋長を短縮し、平成9年(1997)に移設したもので、 イギリス系トラス橋の遺構として貴重なものです。
港三号橋梁を渡っていくと、線路は正面に見える「ナビオスヨコハマ(NAVIOS YOKOHAMA)」の中を抜けていきます。 この線路のために、わざわざ下の部分を空洞にしてあるようです。 木道はその手前で終わっていて、その先は石畳の中に線路が続いています。 ビルの中を抜けていくと万国橋交差点があり、線路はその手前で終っています。 振り返ると、小さな花壇の中に大きな錨が展示されていました。 信号を渡っていくと「赤レンガ倉庫へお急ぎの方は車道沿いをお進み下さい」の案内板が出ていますが、 この時には特に「お急ぎ」ではなかったので、正面の芝地になった新港中央広場に続く道を進んでいきました。
この錨は、(株)アイ・エイチ・アイ・アムテック横浜工場の寄贈によるもので、 石川島播磨重工業(株)横浜工場で1971年に建造され、 中近東から日本へ原油を運搬した大型原油輸送船「高岡丸」(全長316m、幅50m、深さ25.5m、積載重量215.850K/T)に 備え付けられていたものと同型のものです。 錨の重量は18.27K/Tで、長さは4.8m、幅2.9mあります。
 ((財)日本船員更生協会)
赤レンガ倉庫
広場を過ぎて車道に出て右へ進んでいくと、赤レンガ倉庫交差点があります。 信号を渡っていくと、赤レンガ倉庫の1号倉庫と2号倉庫が並んで建っています。
赤レンガ倉庫(1号倉庫及び2号倉庫)
「はまの赤レンガ」と呼ばれ、市民に親しまれている港ヨコハマの最も著名な歴史的建造物。 当時の最先端技術を使い、鉄と煉瓦がみごとに組み合わされた構造で、 我が国の代表的な煉瓦造建築の一つでもある。 当初は、2棟とも同規模だったが、1号倉庫は震災で壊れ、現在は2号倉庫のおよそ半分の長さとなっている。
赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫はわが国最大級のレンガ造り倉庫で、「ハマの赤レンガ」の愛称で親しまれてきた建物です。 大型船が接岸できる岩壁や陸上輸送手段である鉄道などを備え、最新鋭の港湾施設として整備された新港ふ頭にあって、 赤レンガ倉庫は荷物を安全に効率よく保管するため、 当時の最先端の設備であるエレベーターやスプリンクラーなどを備えた模範倉庫として建設されました。 レンガ壁の中に帯状の鉄を積み込むことなどにより耐震性を高めた碇聯鉄構法が用いられていますが、 これはレンガ造建築の技術としての最終段階のものと言われています。
この時には、「横浜赤レンガ倉庫開館10年夏季限定イベント」として「red brick resort 2012」が開催されていました。 1号倉庫2号倉庫の間に、ビーチエリア・コテージ・ジャングルエリア・ステージなどが設営されていました。 中には飲食店舗やヤシの木パラソルなどもあって、南国ムードが漂っていました。 倉庫の傍からは霧が噴き出されていて、暑い中にあってヒンヤリとした心地も味わえました。 倉庫の中には店舗が沢山ありますが、今回は訪ねるのを省略しました。
red brick resort 2012
開催期間 7月28日(土)〜8月26日(日)11:00〜23:00
飲食店舗 『Village』 南国をイメージしたフードとドリンクを提供
『BAR』 モヒートや夏を感じるカクテルを提供
入場料 無料(飲食は有料)
主催 横浜赤レンガ倉庫
今回のレッドブリックリゾートは、ジャングルなどを彷彿させる木々と 白い砂浜やふんすい、ヤシの木パラソルで南国リゾート気分を味わい、 飲食エリアでは足水で涼を取りながら南国フードやドリンクを楽しんで下さい。
 (株式会社横浜赤レンガ、公益財団法人横浜市芸術文化振興財団)
横浜港駅
横浜港駅は明治44年(1911)に横浜税関構内の荷扱所として設けられましたが、 その後、大正9年(1920)には、東京駅から初の汽船連絡列車が乗り入れることとなりました。 さらに、昭和初期の華やかな海外航路時代には客船ターミナルに沿ってプラットフォームが設けられ、 列車が横付けされていました。 赤レンガパークの整備にあたり、プラットフォームの一部を保存することとし、 傷んだ屋根などの修復を行い、現在は休憩所として利用されています。
赤レンガ倉庫の間を奥へ進んで海辺まで行くと、芝地になった広場が広がっていました。 左手にはランドマークタワーなどのビル群が建ち並び、海上保安庁の横浜海上防災基地もありました。 右手には大桟橋が海に突き出ていて、沖の方には横浜ベイブリッジが見えていました。
赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫は、東洋で初めて築造された近代ふ頭である「新港ふ頭」に、 輸出入される貨物を税関が管理する倉庫として、国(大蔵省)によって建設されたもので、 耐震・耐火構造を採用した当時最新鋭の倉庫でした。 創建時から戦前までは横浜税関が管理し、葉煙草、羊毛、光学機器などの輸入品を取扱っていましたが、 戦時中は陸海軍の輸送司令部が管理し、戦後は米軍の港湾司令部として使用されました。 米軍の接収解除後は、1号倉庫を横浜税関が、2号倉庫を横浜市が、それぞれ管理していました。 しかし、海上貨物のコンテナ化とともに次第に取扱量が減少し、平成元年に倉庫としての用途が廃止されました。 横浜市では、この赤レンガ倉庫を貴重な歴史的建造物として保存し、 「港の賑わいと文化を創造する空間」として活用するため、平成4年から国から取得し、保存・活用工事を進め、 平成14年4月に商業・文化施設としてオープンしました。
広場の右側へ進んでいき、1号倉庫を過ぎて運河沿いの道から車道へ引き返してくると、左側に新港橋梁が架かっています。 大正元年(1912)に建造された橋のようで、橋の部分にだけ線路が敷かれていました。 先ほどの汽車道だけではなく、この辺りにも貨物の引込線が通っていたということなのでしょう。
象の鼻パーク
新港橋梁を渡っていくと、左手に広場があります。 正面の道が二手に分かれていて、その左側の道には「開港の道・山下臨港線プロムナード」の標識が立ってます。 山下公園へ続く道ですが、今回は左手に広がる象の鼻パークに入っていきました。 入口には「象の鼻パーク」の解説板が設置されていました。 左側の広場は開港の丘で、端の方には象の鼻テラスがあります。 「横浜開港150周年記念碑」もありました。 脇にはマスコットキャラクターの「たねまる」が立っていて、 その前には「開港200周年への夢」と刻まれたタイムカプセルもありました。
象の鼻パーク
象の鼻パークは横浜港発祥の地であり、横浜の歴史と未来を結ぶ象徴的な空間として、開港150周年を記念して整備されました。
開港波止場  開港波止場は港を感じることができる開放的な広場です。 明治時代に港の荷役作業で使用された軌道と転車台の遺構が展示されています。
象の鼻防波堤  象の鼻防波堤は明治中期の姿を復元しています。 当時のガス灯を模した照明灯が設置されているほか、 工事中に発見された関東大震災で沈んだと考えられる防波堤の一部を、そのままの形で展示・保存しています。
開港の丘  開港の丘はゆるやかな斜面の草地広場です。 ゆっくり腰をおろして港の雰囲気を楽しむことができます。
象の鼻テラス  休憩施設でもある象の鼻テラスは、文化観光交流の拠点としても活用しています。
スクリーンパネル  象の鼻防波堤から象の鼻パーク全体を包み込むようにスクリーンパネル(照明)が整備されており、港の夜景を彩ります。
 (横浜市港湾局大さん橋ふ頭事務所)
横浜開港150周年記念碑
平成21年(2009)に横浜開港150周年記念イベントを盛大に開催した。 この記念イベントを支えた多くの市民ボランティアの方々、また協賛いただいた多くの企業・団体に感謝し、 これまで横浜の発展のために尽力された先人たちの業績を讃え、 これからの横浜の発展に願いをこめて、開国・開港のこの地に記念碑を建立する。
 (横浜開港150周年記念碑設置協議会)
 ((社)横浜青年会議所、横浜商工会議所、(財)横浜開港150周年協会)
山下臨港線プロムナードへの出口まで進んでいくと、 開港50周年頃の横浜桟橋の写真が載っている解説板がありました。 「横浜市歌」の解説も載っていました。 苫屋が並ぶばかりの寒村だった横浜が、今のような立派な国際港になったことを歌った曲のようです。 楽譜も載っていましたがよく見えなかったので、 横浜市のホームページに掲載されている楽譜を見ながらMIDIファイルにしてみました。
横浜市歌
横浜市歌は、開港50周年を祝して明治42年(1909)に制定されました。 作詞は明治・大正期の文豪である森林太郎(森鴎外)、 作曲は東京音楽学校(現東京芸術大学)の教師であった南能衛で、 南がつくった旋律の上に森が歌詞をつけたといわれています。 この横浜市歌は、明治42年(1909)7月1日(旧暦の6月2日)に横浜港の新港ふ頭で行われた「開港五十周年記念大祝賀会式典」の席で 初めて披露されました。 当時は7月1日を開港記念日としていましたが、昭和3年(1928)からは旧暦の6月2日を開港記念日としています。 現在も市立の小学校では、校歌とともに歌唱指導されているほか、 開港記念式典や入学・卒業式などの行事で演奏・斉唱され、市民に広く歌い継がれています。
横浜市歌 【♪演奏
作詞 森林太郎(森鴎外) 作曲 南能衛
わが日の本は島国よ  朝日かがよう海に
連りそばだつ島々なれば  あらゆる国より舟こそ通え
されば港の数多かれど  この横浜にまさるあらめや
むかし思えばとま屋の煙  ちらりほらりと立てりしところ
今はもも舟もも千舟  泊るところぞ見よや
果なく栄えて行くらんみ代を  飾る宝も入りくる港
山下臨港線プロムナードへ出ると開港波止場へ降りていけないので、 象の鼻テラスの前に戻っていきました。 湾内には船が幾艘も係留されていました。 案内図にあるピア象の鼻は何処だろうと思いながら探していると、中ほどに突き出した桟橋になるようでした。
象の鼻地区の波止場
象の鼻地区の波止場は、時代とともにさまざまな愛称で親しまれてきました。 開港当初の波止場は東西2本の直線状の突堤で、 東側の突堤は「東波止場」と呼ばれ、主に外国からの輸出入貨物の積卸しに使用されました。 西側の突堤は「西波止場」と呼ばれ、国内貨物の積卸しに使用されました。 元治元年(1864)、貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに「東波止場」が造られると、 象の鼻地区の2つの突堤を総称して「西波止場」と呼ぶようになりました。 フランス人建築家クリペによる「横浜絵図面」には、慶応元年(1865)当時の西波止場の姿が描かれています。 当時の水際線は、現在の横浜開港資料館の海岸通りの位置にあり、 2本の突堤はそこから海に突き出ていたと考えられます。 東波止場はフランス人居住区の前面にあったんで「フランス波止場」とも呼ばれました。 明治2年(1869)、象の鼻地区の前面にイギリス領事館(現在の横浜開港資料館の所在地)が建てられると、 西波止場は「イギリス波止場」とも呼ばれました。 西波止場の西側の突堤は、国内貨物用だったので「日本波止場」、 税関の建物に近いので「税関波止場」とも呼ばれました。 象の鼻パークでは、西波止場の西側の突堤の位置を、広場内の舗装パターンを変えることで表現しています。
山下臨港線プロムナードの下を過ぎて陸側へ出ると開港波止場がありますが、 今では整備された広場になっています。 港湾の整備や象の鼻地区の変遷などに関する解説板が幾つか設置されていました。 この広場の整備中に転車台などが発見されたようで、その解説板もありました。 脇には「横浜港港湾労働者供養塔」も立っていました。 広場には四角いパネルが幾つも立ち並んでいます。 一見しただけではよく分かりませんでしたが、港を照らす「スクリーンパネル」とのことです。 この奥の道路を挟んだ向かい側に開港広場があります。
象の鼻地区の変遷
嘉永6年(1853)、開国を求めるアメリカ大統領の国書を携えたペリーの率いる黒船が浦賀に来航しました。 安政元年(1854)再度の来航の際に、ペリー一行は横浜に上陸し、開国に向けての条約締結交渉が行われました。 戸数数百戸の半農半漁の村であった横浜村が、歴史の表舞台に初めて登場したのはこの時です。 当時の横浜村は、大岡川の河口部に突き出た砂州に位置していました。 ペリーが上陸した地点はこの砂州のほぼ中間で、現在の横浜開港資料館の前面のあたりです。 幕府はここに横浜応接所を設け、ペリー一行を迎えました。 この地で日米和親条約が締結され、 後に安政5年(1858)のアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの5カ国との通商条約の締結によって、 わが国の200年余り続いた鎖国政策に終止符が打たれたのです。 条約によって神奈川の開港が決められましたが、 幕府はにぎやかな東海道の宿場であった神奈川宿の近くに外国人が居留することをさけるために、 神奈川の一部であるとして横浜での開港を進めました。 開港に伴い波止場と神奈川運上所の建設、その背後の外国人居留地と日本人街の整備が行われました。 波止場の位置は、ペリーが上陸した地点とほぼ重なっています。 (以下略)
横浜税関遺構 鉄軌道と転車台
明治33年(1900)に発行された「横浜税関一覧」の付図には、横浜税関の上屋や倉庫の背後に、 縦横に走る鉄軌道(線路)やその交差部に設置された転車台(ターンテーブル)が描かれています。 右図に示されているのが象の鼻パークの整備工事中に発見された4連の転車台です。 これらの鉄軌道や転車台は概ね明治20年後半に整備されました。 明治40年代の写真(右下)には、鉄桟橋(現在の大さん橋)方面に向かって敷かれた鉄軌道、転車台、 鉄軌道の上を走る台車状の車両が写っています。 鉄軌道の幅員は1.06mあり、わが国の一般的な鉄道の車軸幅と同じです。 また、転車台は、鉄部の直径が約2.5mありました。 この大きさでは回転できる車両の規模も限られることから、 発見された鉄軌道は敷地内で荷役作業を行うために設けられたものであると考えられます。 当時の工事記録によれば、当所は、鉄桟橋からの鉄軌道は税関敷地内を通って海岸沿いに大岡川河口部に至り、 横浜停車場(初代の横浜駅、現在の桜木町駅)に連絡する計画であったようです。
横浜港港湾労働者供養塔
横浜開港百五十周年の今、あらためてミナトの仕事に刻苦畜励、人生のすべてを捧げた多くの先輩たちとその家族の皆さまに、 心の底から御礼を申し上げます。
 (ヨコハマ港湾人代表、横浜港運協会会長)
塔の由来  横浜港は、開港以来百有余を経、世界有数の国際貿易港として大いなる発展の道を歩んでいる。 今日の隆盛は、港の各分野において刻苦精励、 その尊い生涯を横浜港の発展のために捧げられた労働者各位に負うものであることを想うとき、誠に感慨深いものがある。 我々は、今後更に努力を重ね、各位が築いてこられた礎のうえに新しい横浜港を築いていく決意である。 これが各位の苦労に報いる最良の方途だと信じる。 今日ここに我々は有志相図り、各位の功績を称え、永く後世に伝えるとともに、 その霊の安らかならんことを祈念し、この塔を建立する。
昭和四十九年七月吉日 横浜港港湾労働者供養塔建立委員会
山下臨港線プロムナードの下を進んでいくと左右に通る道に出ます。 プロムナードには「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」と書かれていて、 手前と正面に壁面には往時の横浜港を描いた絵が掲示されています。 この右手にある開港広場前交差点を渡っていくと開港広場、手前を左折していくと山下公園がありましが、 先ずは左手にある大桟橋へ向かっていきました。
明治43年(1910)頃の横浜港
中央に伸びているのが明治27年(1894)創建の大桟橋。 1923年の関東大震災で壊れるが、昭和初期の復旧工事などを経て、現在にいたっている。 大桟橋の中ほど左手に、現存する「象の鼻」突堤が見える。
 (横浜開港資料館所蔵)
街路樹が植えられた歩道を進んでいくと左側に広場があって、 象の鼻防波堤が少し曲がりながら海へ突き出ています。 手前には「象の鼻と神奈川台場」と題した解説板があって、開港当時の図も載っていました。
象の鼻と神奈川台場
「象の鼻」と「神奈川台場」について
日本が開国した当時、国際港には波止場とあわせて台場(砲台)が備えられており、 明治4年(1871)岩倉具視を全権大使とした使節団が西洋諸国に「象の鼻(波止場)」から出発した際にも、 「神奈川台場」から祝砲が打たれた記録が残っている。 「象の鼻」と「神奈川台場」の2つの史跡は現在もその遺構の一部が残っていることから、 横浜市では、平成21年(2009)開港150周年を記念して、開港当時の歴史を現在、そして後世に伝えるため、 「象の鼻」の復元工事、「神奈川台場」の周辺整備工事を行った。
象の鼻とは
安政5年(1858)に米、蘭、露、英、仏と通商条約が結ばれ、翌年(1859)横浜港が開港する。 港には波止場が造られ、そのうちの一つ西波止場(イギリス波止場、後の「象の鼻」)は、 国際航路に乗船した旅客の出入りや輸出入品の上げ下ろしに利用された。 初代の波止場は、2本の平行な形状だったが、慶応2年(1866)の大火をきっかけに周辺道路が再整備されたのにともない、 波止場の延長工事が行われた。 その際、東側の波止場は、波除けとして機能するよう大きく湾曲した形状に造り変えられた。 こうして、後に「象の鼻」と呼ばれる防波堤が誕生した。
神奈川台場とは
安政6年(1859)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で台場(砲台)を神奈川宿(現在の神奈川区)の沖合に構築した。 台場は、総面積約26,000u(約8,000坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と工期約1年を要し、 万延元年(1860)6月竣工した。 国交のある国々と礼砲や祝砲を交換するという、当時の国際港としてなくてはならない重要な役割を担った施設である。 明治32年2月に廃止されるまで台場として使われていたが、大正10年(1921)頃から埋め立てられた。 現在は、周辺整備工事により石垣の一部をみることができる。
象の鼻パークを過ぎていくと、大さん橋ふ頭ビルの脇に、 大桟橋を支えるために101年間使われていたという「螺旋杭」が野外展示されていました。
101年間旧大さん橋を支えた螺旋杭
明治27年〜平成7年
螺旋杭は桟橋を支えるため下端に螺旋状の円盤が付いた杭で、 その形状を利用し人力で海底にねじ込まれたものです。 展示してある杭は関東大震災の復旧工事(大正13年〜14年)で施工されたものです。 長さ21m、円盤直径1.8m、重量約6t
大桟橋
大さん橋ふ頭ビルを過ぎたすぐ先に大桟橋があります。 1階は駐車場、2階は出入国ロビーや税関などになっていて、 屋上は一般公開されていて板敷きの広場になっています。 出入国ロビーに入ってみると、大桟橋の移り変わりや横浜港に寄港した大型客船の写真が展示されていました。 また「北光丸」という帆船の大きな模型も展示されていました。
大さん橋国際旅客ターミナルで「北光丸航海旗掲揚セレモニー」が開催されました
「帆船模型北光丸」をご存知でしょうか? 大さん橋国際旅客ターミナル2階左手に展示されている帆船模型です。 10月29日、函館水産高校2年生が修学旅行で横浜を訪れた際に、 「北光丸」に復元された航海旗の掲揚セレモニーを行うこととなり、 当日は全日本船舶職員協会他関係者らが参加して行われました。 「帆船模型北光丸」と「函館水産高校」、そして「横浜の大さん橋」。 この関係について少し補足説明が必要でしょうか。
帆船模型北光丸は大正2年(1913)に製作され、函館水産高校の前身である函館商船学校(商船世界不況の余波で廃校)の 机上教材として昭和10年(1935)まで使用されていました。 戦後は同校が米軍に接収され、帆船模型北光丸も破損し修理されることもなく倉庫へ保管されていました。 平成20年(2008)に函館商船学校の校旗が発見され、 模型製作当時に撮ったと想われる北光丸の写真に同校校旗が掲揚されて写っており、 今回この校旗を製作し航海旗として掲揚していた大正2年当時の状態に復元しようと、 函館水産高校教諭が中心となりセレモニーを行うに至りました。 続いてなぜこの北光丸が横浜に設置されているのか?についてですが、 昭和56年(1981)に全日本船舶職員協会が「50年史編纂」にあたり函館水産高等学校を訪ね、 函館商船当時を取材中、同校倉庫に眠る「北光丸帆船模型」を発見した事から始まります。 発見当時マストは全損、ヤード帆布の離脱・破損など、 修復し復元するには大変な大事業となることが即座に理解できる状態ではありましたが、 同協会は修復委員会を立ち上げることにし、約1300万円の修復費をかけ、 それから約7年の歳月をかけて復元に成功しました。 長さが6.5メートルもあり、現存する教材模型帆船としては世界有数の大きさであるこの「北光丸」を 沢山の人に見てもらえる展示場所はないかと探し、 紆余曲折の後リニューアルオープンした大さん橋国際旅客ターミナルに設置され現在に至るのです。
帆船模型「北光丸」は大正、昭和、平成の長い年月と、沢山の人々の思いや力添えがあって今も現存しています。
広い屋上には「くじらのせなか」という愛称が付けられていて、まるで滑走路のように思えたりもしました。 中ほどには屋上広場があり、その先には大さん橋ホールもあります。 屋上の先の方にはネット敷きの上に青々とした芝生が広がっていて、雰囲気が良くなっていました。
くじらのせなか
この屋上広場を多くの方々により一層親しみを持っていただくために、 平成18年7月13日(木)から9月30日(土)まで愛称を公募しました。 約4,000件の応募があり、審査の結果、上記の愛称「くじらのせなか」(最多26件)に決定いたしました。
ウッドデッキと芝生におおわれた屋上広場に公募で選ばれた愛称がつけられました。 その名のとおり、海に浮かぶ雄大なくじらのせなかをイメージさせる大空間がひろがります。
 (大さん橋プロジェクト)
芝生を大切に
この芝生は、人工土壌を土留めアングルで留めています。 また、給水ホースが芝生のすぐ下を通っています。 芝生に立ち入ると土壌の流出、ホース破れの恐れがありますのでご遠慮ください。
 (大さん橋プロジェクト)
くじらのせなかには5箇所の「ビューポイント」が設定されていて、簡単な解説文と写真が取り付けられています。
(画像を左クリックすると、各ビューポイントからの写真が順次表示されます)
ビューポイント【1】  赤レンガ倉庫が並ぶ、わが国初の近代的埠頭として大正3年(1914)に完成した新港埠頭と、 バックのみなとみらい21地区の高層ビル群のコントラストが美しいビューポイントです。 夜はライトアップされた赤レンガ倉庫とみなとみらい21地区の夜景が楽しめます。
ビューポイント【2】  赤レンガ倉庫から、みなとみらい21地区までが一望できます。 早朝には朝日に輝く黄金色のビル群、夕方には美しい夕焼けが楽しめます。 天kの良い日には、二つの赤レンガ倉庫の間に、遠く富士山を望むこともできます。
ビューポイント【3】  左から、キング(神奈川県庁)、その右上に塔の部分が見えるのがジャック(開港記念館)、 中央の県庁新庁舎をはさんで右側がクイーン(横浜税関)、そして手前に象の鼻(昔の桟橋)と、 横浜の歴史的建造物が一堂に会するビューポイントです。
ビューポイント【4】  鶴見つばさ橋とベイブリッジが一望できます。 大型客船の入出港が見られる絶好のポイント。 ベイブリッジの向こうから入ってくる客船、向こうへ去りゆく客船…出会い、再会、そしてしばしの別れ。 入出港時には、人の数だけドラマがあります。
ビューポイント【5】  氷川丸、マリンタワー、山下公園を望めるビューポイントです。 早朝には太陽の光を受けた、美しい山下地区が浮かびあがります。 手前に停泊しているのは、横浜市の海事広報艇「はまどり」です。
日本唯一のエンターテイメントレストラン船 ロイヤルウイング
ロイヤルウイングは大さん橋より出航し「横浜ベイブリッジ」・「本牧シンボルタワー」・ 「みなとみらい21」などをめぐり再び大さん橋にもどる港内クルーズ船です。 船内では本格中華広東料理のバイキングやコース料理をはじめ、 ケーキ&フルーツバイキングや飲茶セットなどもお楽しみいただけます。 もちろん乗船だけでもご利用いただけます。
山下公園
大桟橋からの眺めを楽しんだら、来た道を引き返していきます。 山下臨港線プロムナードの下をくぐっていくと開港広場前交差点に出ます。 正面には開港広場がありますが、交差点を左折していきます。 大桟橋バス停を過ぎていくと、左手に山下公園があります。 海辺に沿って続いていて、幅100m・長さ800mほどの細長い小振りな公園です。 園内には「赤い靴はいてた女の子」などの記念碑を始め、 インド水塔・ZANGIRI・水の守護神・沈床花壇・ガールスカウトの像・せかいの広場などもあり、 すぐ側には展望の得られるマリンタワーもあって、市民の憩いの場所になっています。 海沿いに出ると、左手には先ほどの大桟橋が海に突き出し、右手には氷川丸が浮かび、 沖には横浜ベイブリッジ大黒埠頭が見えました。 岸辺には潮位標尺が立っていました。
赤い靴  作詞:野口雨情 作曲:本居長世 【♪演奏
赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて いっちゃった
横浜の はとばから 船に乗って 異人さんに つれられて いっちゃった
今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび かんがえる 異人さんに 逢うたび かんがえる
この曲は横浜港を舞台に作られ、1921年(大正10年)に発表された童謡です。 女の子の像はこれを記念し、多くの人に親しまれる彫刻となることを願って、ここに置かれています。
 (横浜市緑政局)
潮位標尺について
横浜港における海面の変動を身近に感じられるように潮位標尺を設置しています。
●海面の変動の原因について
海面の変動は主に以下の要因で起こります。
・月や太陽のおよほす引力と地球の自転によって起こる海面の周期的昇降(潮汐)
・風によって起こる波浪
・台風による気圧低下に伴う海面の吸い上げと強風による海水の吹き寄せによって起こる高潮
・地震による津波
●横浜港における海面の高さの基準について
港に出入りする船舶の安全な航行のためには干潮時においても充分な水深が必要となります。 そのため海面の高さは、海面が最も下がった状態を基準としており、これを基本水準面といいます。 基本水準面は各港ごとに設定されており、この標尺は横浜港の基本水準面からの高さで表示しています。 船舶の航行に使用される海図には水深が記入されていますが、 水深はこの基本水準面からの深さ(メートル)で表されます。 また港湾工事の基準となる横浜港工事基準面(Y.P.)も基本基準面です。 なお山などの標高を表すときの基準はこれとは異なり、東京湾の平均海面(T.P.)からの高さとして表され、 横浜港の基本水準面より1.09m高い位置になります。
●警戒水位について
横浜地方気象台が定めている神奈川県の高潮に関する注意報や警報を発令する際の 潮位の基準は以下のとおりです。(いずれも基本水準面からの高さ)
 注意報:2.49m以上、警報:2.89m以上
 (横浜市港湾局)
外国人が多く訪れる街とあって、この時も「水の守護神」の噴水花壇の前では、 入れ替わり立ち替わりポーズをとって写真に納まっている外国人のグループを見かけました。 しばらく待っていると、水が像の背の高さほどに吹き上がってきました。 記念碑には「美しのサンディエゴ」の歌の楽譜と歌詞の一節が載っていました。 明瞭に見えない部分もあったので間違っている所もあるかも知れませんが、MIDIファイルにしてみました。
横浜サンディエゴ姉妹都市提携二十五周年記念碑
アメリカ合衆国カリフォルニア州の南の端にあるサンディエゴ市と横浜市は、 昭和32年10月29日に姉妹都市として有効の契りを結びました。 その後、横浜からは「友好の鐘」と「茶室」が贈られ、サイディエゴからは「ミッションベル」と 「水の守護神」の像が寄贈されたほか、 学校交換や児童画展の開催など多くの交流が幅広い市民の参加によって続けられ、今日に至っております。 このたび、友好親善の発展に寄与された市民の皆さんに対し、深い感謝の念をこめるとともに、 今後ますます両市間の友好関係が増進しますよう祈念し、 ここに「美しのサンディエゴ」の歌を刻みます。 また英訳した歌碑をサンディエゴへ贈ります。
 (横浜サンディエゴ姉妹都市提携25周年記念歌碑をつくる会一同)
美しのサンディエゴ
おおサンディエゴ サンディエゴ 美し港
水青く 花赤く 何か倖せ 知らせるように
鳴るよ 鐘の音 空高く 空高く
おおサンディエゴ サンディエゴ 美し港
おおサンディエゴ サンディエゴ 愛の町
♪演奏
 (佐伯孝夫 作詞、 吉田正 作曲、 渡辺はま子 歌)
氷川丸
沈床花壇の先には、現役を引退した氷川丸が係留されています。 船内は一般公開されていますが、今回は中へ入るのは省略しました。 この時は係留する鎖にカモメが列を成していました。 近くには「かもめの水兵さん」の歌碑がありました。
氷川丸
氷川丸は、日本郵船のシアトル航路の新鋭船として1930年4月、 三菱重工業横浜造船所で建造されました。 太平洋戦争中は病院船、戦後は引き揚げ船等として従事の後、 1953年7月我国唯一の外航客船として、シアトル航路に再デビューしました。 本船は戦前戦後を通じて248回太平洋を横断しています。 1961年5月、横浜開港100年記念事業の一つとしてこの地に係留されて以来、 マリンタワーと共に、山下公園の、そして横浜港のシンボルとして市民に親しまれています。
碑を建てることば
作詞者 武内俊子さんは昭和8年の秋ある日、このメリケン波止場から船で布教のため ハワイへ旅立たれる叔父さんを見送りにこられました。 それはよく晴れた日の午後のことで、桟橋一帯に白いかもめがたくさん飛びまわり、 それが折からの夕陽に映えてとても美しく印象的でした。 この童謡はこのときの光景を描いたもので、 横浜港は「かもめの水兵さん」の発祥地であります。
 (昭和54年11月 野間省一)
かもめの水兵さん  作詞:武内俊子 作曲:河村光陽 【♪演奏
一、 かもめの すいへいさん ならんだ すいへいさん
白いぼうし 白いシャツ 白いふく
波にちゃぷ ちゃぷ うかんでる
二、 かもめの すいへいさん かけあし すいへさん
白いぼうし 白いシャツ 白いふく
波をちゃぷ ちゃぷ こえていく
横浜港観光船
氷川丸を過ぎた所には横浜港観光船の乗り場があって、 マリーンシャトル(Marine Shuttle)、マリーンルージュ(Marine Rouge)、シーバス(Sea Bass)が運行されています。 シーバスは、『山下公園…赤レンガ倉庫…みなとみらい21…横浜駅東口』のルートの便が1時間に2本程度、 横浜駅東口への直行便も1時間に2本程度出ています。 山下公園の先には港の見える丘公園もありますが、 今回はシーバスに乗って、日本丸が係留されているみなとみらい21まで戻ることにしました。
切符を買って桟橋に出て待っていると、程なくしてシーバス3号がやってきました。 長らく横浜市に住んでいますが、まだシーバスには乗ったことがなかったので、鼓動の高鳴りを覚えます。 運行している四艘は形や大きさが僅かながら異なっているようです。 今回乗った船は、42トン・定員140名・全長21.01m・幅5.00mとのことです。 前部が窓付きの客室で、後部は開放的なデッキになっていました。 客室に入っていくと、左右に4列の座席が並んでいました。 横浜港から見た陸の眺めを写そうと、左側の窓際の席に座りました。
後ろ向きに出港し、方向転換して氷川丸の沖合いを進んでいきます。 みなとみらい21地区のビル群を眺めながら進んでいきます。 これまで海側から眺めたことがなかったので、新鮮な気持ちで景色を楽しんでいきました。 山下公園大桟橋の沖合いを過ぎていくと次第に陸地に近づいていきます。 山下公園を出港してから9分ほどで、赤レンガ倉庫の傍にある観光船ターミナルの桟橋に着きました。 5分ほど泊まってから再び出港していきます。
(画像を左クリックすると、5枚の写真が順次表示されます)
みなとみらい21
船がたてる白波の向こうに広がるみなとみらい21地区を眺めながら進んでいきます。 振り返ると、横浜ベイブリッジもよく見えていました。 やがてコスモワールドの観覧車が近づいてくると、みなとみらい21地区にあるぷかりさん橋に着きました。 赤レンガ倉庫を出港してから8分ほどで到着しました。
(画像を左クリックすると、7枚の写真が順次表示されます)
浮き桟橋を通って上陸すると、ビルの前に「みなとみらい21主要施設案内」があります。 桜木町駅を目指して左手へ進んでいくと、道は右へ曲がっていきます。 その角にも案内図がありました。 道なりに進んでいくと、国際橋へ続く上下線に分かれた道路の下をくぐっていきます。 橋をくぐった所に「桜木町駅方面案内図」があったので、これからのルートを確認していきました。
コスモワールド
左手に観覧車を眺めながら、海沿いの道を進んでいきます。 この辺りがコスモワールドになるようで、少し進んだ所に入口がありました。 入口を見送ってその先に架かる橋を通って左側へ渡っていくと、再び入口がありました。 あまり広くはありませんが、遊具などが色々と設置された遊園地になっていました。
コスモワールド
当園では下記の行為をお断りしております。
・ペット同伴でのご入園
・お持ち込み飲食物の園内での飲食
・自転車等の園内乗り入れ(持ち込み)
・園内にて、無許可の物販行為
・園内にて、無許可でのビラ等の配布
・危険物および凶器等の持ち込み
・業務目的の無許可での撮影
コスモワールドを過ぎていくと、大さん橋を支えてきた螺旋杭、ドック用排水ポンプ・カバー、 銅像「希望 世界へひろがる若い夢」、トーテムポールなどがありました。
大さん橋を支えてきた螺旋杭
現在の大さん橋の前身である鉄桟橋は横浜港の第一期築港工事で明治27年(1894)に完成しました。 鉄桟橋は海底にねじり込まれた505本の鋳鉄製の杭で支えられていました。 この杭はイギリス製で、直径は約30cm、長さは約16〜20mありました。 耐荷力を増すために先端にスクリューパイル(螺旋沓)がつけられています。 明治32年(1899)から始まった第二期築港工事で鉄桟橋の拡張工事が行われ、 新たに194本の鋼製の螺旋杭(およそ直径17cm、長さ20m)が追加されました。 また、鉄桟橋は大正12年(1923)の関東大震災で陥没、挫折、傾斜など大きな被害を受けました。 その後の震災復旧工事のなかで、さらに579本の鋼製の螺旋杭(およそ直径18cm、長さ20m)が使われました。 螺旋杭は大さん橋の再整備工事(平成4年(2002)竣工)の中で、平成6年(1994)に海中から掘り出されました。 ここには、これまで大さん橋を支えてきた3種類(第一期築港工事、第二期築港工事、震災復旧工事)の螺旋杭があります。
横浜船渠株式会社 第一号・第二号ドック用排水ポンプ・カバー
横浜船渠株式会社が第一号と第二号の2基のドック内の水を排水するために、創業期(1899年開業)にイギリスから購入しました。 修理を重ねながら約85年間にわたってドックの排水機能を担ってきました。 当初は蒸気機関で運転されました。 そのためポンプと一緒にボイラー(蒸気を発生させる装置)も導入し、その購入価格は37,114円29銭でした。 ポンプは第一号ドックと第二号ドックの間の海寄り(渠口部)に造られた地下ポンプ室に2基設置されていました。 横浜船渠株式会社の修繕部門を象徴する設備です。 第一号ドックの付属として、平成12年(2000)12月4日国の重要文化財に指定されました。
 (三菱重工業株式会社横浜製作所)
このトーテムポールは、カナダ・バンクーバー港から横浜港との姉妹港10周年を記念し、 両港の友好の印として寄贈されたものです。 制作者はバンクーバー島に住むコーストサリッシュ族の彫刻家フランシス・ホーン氏で、 カナダインディアンの神話にもとづき、上からフクロウ、熊、カエルが彫り込まれています。
桜木町(さくらぎちょう)駅
海沿いに進んでいくと、右側には最初に訪ねた日本丸が係留されています。 横浜マリタイムミュージアムの上に続く歩道を進み、日本丸交差点を渡っていくと、 最初の桜木町駅(JR根岸線)に戻ってきます。