湘南平
散策:2012年04月下旬
【低山ハイク】 湘南平
概 要 平塚と大磯の間のJR東海道線に沿って、標高200m足らずの低い丘陵が連なっています。 湘南平はその西端の山の上にあって、かつては千畳敷とも呼ばれていた広い場所になっています。 今回は高来神社から高麗山へ登り、丘陵に続く尾根道を通って浅間山を経て湘南平へ向かい、善兵衛池へと降っていきます。
起 点 大磯町 花水バス停
終 点 大磯町 大磯駅
ルート 花水バス停…慶覚院…高来神社…東天照…くお中道…高麗山…お中道…八俵山…地ごく沢分岐…浅間山…浅間神社…高田公園分岐…湘南平…善兵衛池…宮ノ上公園…御嶽神社…妙大寺…大磯駅
所要時間 3時間10分
歩いて... 高来神社から善兵衛池へと続くルートは関東ふれあいの道にもなっていて、 明瞭でしっかりとした道が続いています。 湘南平から広がる360度の眺めは、遠くが霞んでいてはっきりとはしませんでした。 周辺に植えられたツツジはまだ花の季節ではありませんでしたが、 既に小さな赤い花を咲かせている木が少しありました。
関連メモ 大磯・高麗山のみち, 湘南平, 高麗山, 湘南平, 湘南平, 大磯宿, 湘南平
コース紹介
花水(はなみず)バス停
平塚駅(JR東海道線)の北口のバスターミナルから、[平41][平43]国府津駅行きバス、[平44]小田原駅行きバス、 [平46][平47]二宮駅南口行きバス,または, [平48]大磯駅行きバスにて6分、1時間に3本程度の便があります。
今回歩く高来神社から善兵衛池へと続くルートは、関東ふれあいの道「大磯・高麗山のみち」の一部にもなっていて、 道標類が要所に設置され、安心して歩くことができます。
花水バス停の先へ続く国道1号を150mほど進んでいくと、高来神社入口交差点があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手の道は「西海岸バス停1.0km」、 右手の道は「高来神社200m・高麗山900m」となっています。 右手の道の入口には大磯町が設定するハイキングコースの標柱「高来神社0.2km・湘南平2.0km」が立っていて、 その道を指しています。 標識の先には「高来神社」の扁額が掛る鳥居や、「高来神社」と刻まれた石柱も立っています。 今回はここから高来神社を経て湘南平へ向かっていきます。
町指定の木シイニッケイが境内にある 高来神社 0.2km
相模湾を臨むサクラ・ツツジの名所 湘南平 2.0km
慶覚院
鳥居を過ぎていくと、二つ目の鳥居が立っています。 その袂には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の道は「高来神社0.1km・高麗山0.7km」、 今来た道は「西海岸バス停1.2km」となっています。 また、「大磯町観光案内図」も設置されていて、 高麗山や湘南平を巡るコースなどがイラスト風に紹介されています。 正面に続く石畳の参道を進んでいくと高来神社がありますが、 鳥居の右手のすぐ先に慶覚院があるので立ち寄っていきました。 鐘楼の先に本堂があり、右側には庫裡と思われる建物がありました。 本堂は建てられてから間もないのか、まだ新しい雰囲気でした。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、 高来神社の由緒書きによれば、神仏分離によって寺物が移された地蔵堂が、 今の慶覚院なのだそうです。
神奈川県指定重要文化財 木造地蔵菩薩坐像
もとは高麗寺地蔵堂の本尊であった、像高145.0cmを量る大ぶりな像です。 右手に錫杖、左手に宝珠を執る通例の地蔵尊ですが、右脚をはずして坐る安坐形が特徴です。 面部内に健治4年(1278)の造像時の墨書銘が残されています。 がっしりとした体躯や、張りのある面貌表現など、運慶に代表される慶派彫刻の伝統を認めることができ、 当代鎌倉仏師の制作とみられます。 鎌倉後期の関東彫刻の基準作例として重要です。 寄木造で玉眼嵌入。 近年の解体修理により優れた造形がさらに命無くとなりました。
 (大磯町教育委員会)
大磯町指定有形文化財 千手観音立像
慶覚院の秘仏本尊で、伝えでは大磯唐浜の沖より漁民が網で引き上げた像といわれ、 高麗人の渡来に関する由来を持つ像として著名です。 159.5cmを量る一本造の像で、残念ながら破損や腐蝕と、その後の補修により当初の像容はかなり損なわれています。 作風は全体に穏やかですが、地方色の濃い印象の像です。 制作時期については、造形の一部に藤原様のような点も指摘できますが、 古像を模した可能性もあり、現状での断定はできません。
 (大磯町教育委員会)
大磯町指定有形文化財 慶覚院蔵 木造仁王像
慶覚院に安置されていた2躯の仁王像は、廃絶した高麗寺の遺産として歴史的価値の高い資料です。 また、木像は中世の作例に学んだ江戸初期の作品であり、 類例の少ない資料であることから、平成11年(1999)に大磯町有形文化財に指定されました。 この仁王像は慶覚院に長く安置されていましたが、傷みが著しいことから、 平成12年度から修復を行いました。 現在大磯町郷土資料館において保管・展示を行っています。
 (大磯町教育委員会)
高麗山賛歌
若葉よく 紅葉またよく 廣重の 名所絵にある 大磯高麗山
湘南大磯八景
鴫立澤秋月、 化粧坂夜雨、 照崎之帰帆、 唐土原落雁、 花水川夕照、 小淘綾晴嵐、 富士之暮雪、 高麗寺晩鐘
元の道に戻って、鳥居の先に控える狛犬を過ぎて、両側に桜が並木を作る参道を進んでいきます。 短い石段を登っていくと高来神社の境内に着きます。 道端には丸まった石が二つあって「力石」というようです。 また「大磯八景の一 高来寺の晩鐘」の石碑もありました。 左手の手水舎の脇の石段を登った所に、「靖国之塔」と「忠魂碑」と刻まれた大きな石碑があります。 その右側に天然記念物に指定されているシイニッケイがあります。 シイとニッケイが一体化した木なのだそうです。 境内の右手は広場風になっていて、「杉本稲荷大明神」や小祠などがありました。
大磯八景の一 高来寺の晩鐘
さらぬたに 物思はるる 夕間暮 きくぞ悲しき 山寺の鐘 敬之
大磯町指定史跡名勝天然記念物 高来神社のシイニッケイ
町の天然記念物に指定されている高来神社のシイ・ニッケイは、 スダジイとヤブニッケイの二種が一体化した樹木です。 幹の心材が腐朽し、頂上部が凹状になったスダジイの古木にヤブニッケイが根付き生長した結果、 現在のような樹形になったと考えられています。 樹齢は幹下部のスダジイが300年以上、幹上部のヤブニッケイが150年前後と推定されています。 全国各地で様々な合体木が見られますが、違和感無く一本化したものは珍しく、貴重なものといえます。
 (大磯町教育委員会)
高来神社
鯉が泳ぐ池の脇の石段を登っていくと、正面に高来神社の社殿があります。 古くは「高麗寺」と呼ばれていたようで、 神社というよりもお寺のような雰囲気のする建物になっています。 由緒書きによれば、この建物は以前の「観音堂」で、右側にある大きな建物は「神輿殿」とのことです。 神仏習合と神仏分離の歴史の中で、高麗権現社・高麗神社・高来神社と改称されてきたようです。 往時の「高麗寺領境内見取り図」によれば、規模の大きな所だったようです。 境内の右側には「竜神宮」や「神明宮」の小祠があり、 その脇から少し降った先には「高麗山霊水 御供水」が湧出す所もありました。 合掌屋根の中には「龍神」と刻まれた小さな石祠もありました。
高来神社(高麗寺)略縁起
古代  大磯の東に聳える高麗山は昔より神宿る山として住民から信仰されて来ました。
創始  神功皇后が三韓を討った後に、高麗山の上に神皇産霊神・高麗大神和光(高麗権現)を遷し祀り、 天下の平和をお祈りされました。 後に瓊瓊杵尊・応神天皇・神功皇后が併せ祀られました。 この高麗権現は箱根神社並びに伊豆山神社に遷祀されております。
若光渡来  天智7年(668)高句麗国が滅亡するや高句麗の王族若光は大磯の高麗に渡来して大陸文化を伝えました。 霊亀2年(716)大磯を初め各地に渡来した高句麗人が若光を郡長として武蔵国高麗郡に移され開発を命ぜられました。
高麗寺の創建  養老元年(717)僧行基がこの地を尋ね大磯の照ヶ崎の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し 本地佛と定められ高麗寺を創建されました。 かくして神仏習合の聖地となり鶏足山高麗寺を別当寺とし長く信仰されて来ました。
中世  鎌倉時代は幕府の厚い信仰を受け相模の大寺社に列せられ、境内に二十四僧坊が置かれましたが、 室町時代には高麗山は要害の地として重なる戦いの被害を受け、 白山社・毘沙門三重塔など多くの伽藍、寺宝が焼失されました。
江戸期  天正19年(1591)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、 寛永11年(1634)東照権現(徳川家康)が勧請されました。 そして天海僧上より寺十三条掟書を授かりました。 参勤交代の殿様もお駕籠から降りて高麗寺の大鳥居の前で深々とお辞儀をして毛槍を下げて寺領内を静かに通り、 良民の土下座はなかったと伝えられます。
近代  明治の世となり神仏分離の政策により高麗寺は廃寺となり、明治30年に高来神社と改称されました。 現在旧観音本堂(下社)に遷座されています。 千手観音菩薩を始めとする寺物は現慶覚寺に安置されました。 高来神社は古来ほり高麗、大磯の鎮守神として地域住民の平和と安全を御守護されています。
祭神  神皇産霊神、瓊瓊杵尊、応神天皇、神功皇后
二つの建物の間の奥にある短い石段を登ると、小さな平嘉久社(比良加久社とも表記)があります。 脇には「高麗山県民の森案内図」と題した案内板があります。 高来神社の裏手にある山は「高麗山県民の森」になっているようです。 ここで道が左右に分かれています。 関東ふれあいの道の道標が立っていて、右手の道は「高麗山(女坂)」、 左手の道は「高麗山(男坂)」となっていますが、 今回は女坂の途中から東天照を経て大堂へ登っていきます。
(左手の道は「高麗山」を参照)
比良加久社
祭神 庚申地主神
合祀 高良明神、疱瘡神、天満天神
神奈川県指定天然記念物 大磯高麗山の自然林
高麗山は東海道沿線で、常緑広葉樹からなる自然林が残存している唯一の場所である。 花水川のつくった沖積地に接した海抜150メートル前後のこの山は 千畳敷山に東接している比較的急峻な山である。 頂上付近から南斜面一帯は自然林に近い形で存続している。ほとんど全山が スダジイ・タブ林によって被われていたのであろう。これらの森林は尾根口、凹地、 山麓部などの局地的な地形の変化に対応して、その種組成はことなる。すなわち、 クロマツは尾根筋などの土壌の浅い露呈した母岩上の潮風の強い立地に生育して いる。次いでスダジイ、アラカシも比較的乾いた土層の薄い立地にみられる。 一方凹地や山麓部の比較的湿っていて、しかも土層の厚い腐植に富んだ土壌上 には、タブ、ケヤキ、イロハモミジ、ネズミモチなどが見られる。いずれも ヤブツバキ、イタビカズラ、テイカカズラ、ジュズネノキ、ウラジロガシ、ベニシダ、 アオキ、イズタ、トベラ、ヤマイタチシダ、ツルマサキ、カヤ、ビナンカズラ、 キチジョウソウなどの照葉樹林(ヤブツバキクラス林)のスダジイ・タブ林の 構成種である常緑植物が主として生育している。特に注目したいことは、 モクレイシがほとんど全山の自然林の林床に生育していることである。モクレイシは 一属一種の常緑、大形低木であり、我が国では本州の伊豆、相模と九州の海岸付近に 生育しているだけである。 また、カゴノキの広く見られる。樹幹がかのこ模様で特異な暖地性常緑高木の 一種といえよう。このような南半分の残存自然林を、県の天然記念物として指定し、 学術的立場からも、県民の郷土の森としても保存することとした。
[注意]
樹木・草本の採取は勿論、枝葉の伐採、その他樹木をき損するおそれのある行為は 総て禁止します。 特に歩道でない斜面へ侵入し林床を痛めたり、登山をしたりしないでください。 またヤマイモ堀等地形を変更するようないっさいの行為を禁止します。 山崩れの原因になるからです。
 (神奈川県教育委員会)
高麗の山神輿
現在廃絶した高麗寺の本尊である千手観音の祭りが神仏分離令による影響で高来神社の春祭りの様相になった 相模国3大市のひとつに数えられる高麗寺祭、高来寺市(こうらいじまち)は、毎年4月17・18・19日に実施され、 江戸時代から大正の初め頃迄は「農具市」でしたが、現在は「植木市」になっています。 この祭りのなかで「山神輿」の行事があります。 寛永21年(1644)4月17日より始まったと伝えられ、由来については不明ですが、 高来神社(下宮)の神霊(みたま)を神輿に移し、麓から山頂の上宮(大堂)まで神輿を担ぎ上げるというもので、 祭りに大勢の人が集まるために地上の穢れを避けて山頂の上宮に仮宿するのだと言われています。 神輿は祭りが終わった19日に再び山を降ります。 この「山神輿」は平成元年(1989)10月18日に大磯町の無形民俗文化財に指定されています。
 (神奈川県自然環境保全センター県有林部)
広い道を緩やかに2分ほど登っていくと分岐があります。 角には高麗山県民の森の道標が立っていて、正面の道は「東天照20分」、 左手の道は「大堂30分(女坂)」、今来た道は「高来神社1分」となっています。 今回は女坂になっている左手の横木の階段を登っていきます。 すぐの所に関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手に曲がっていく道は「高麗山・湘南平」、 今来た道は「高来神社」となっています。
(正面の道は「湘南平」を参照)
自然環境保全地域
自然を大切にしましょう。 建築物の新改増築、土地の形質変更等は届出が必要です。
 (神奈川県)
この先 スリップによる転倒・転落 注意
 (神奈川県自然環境保全センター自然保護公園部自然公園課)
緑は友だち 山火事注意
 (森林国営保険、神奈川県)
指標植物 − 大気汚染と都市化 高麗山
植物は環境の指標(ものさし)の働きをします。
大気汚染を示すものさし
スギ、モミが梢の方から枯れる現象がここ高麗山でみられます。 京浜工業地帯から出た煤煙が主な原因といわれていますが、この様な現象は大気汚染の指標となっています。
都市化の進行を示すものさし
右上の写真のような植物(*)は帰化植物の代表的なものです。 これらの植物は都市化が進むにつれ、侵入種数が増え、生育密度が高くなるといわれています。
(*ヒメジオン、セイヨウタンポポ、ブタクサ)
途切れながら続く横木の階段を曲がりながら登っていきます。 岩盤が剥き出した所を登っていくと、道端にベンチがひとつ設置されていました。 先ほどの分岐から4分ほどの所になります。 左手が開けていて街並みを見渡すことが出来ました。 条件が良いと相模湾も見えるのでしょうが、生憎と雲が広がっていて見えませんでした。
みんなで注意!ふせごう山火事
 (大磯町消防本部)
すぐの所にある赤い「ホース格納箱」を過ぎて岩盤が剥き出した坂を登り始めると分岐があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の道は「高麗山0.5km・湘南平1.7km」、 右手に 戻るようにして続く道は「東天照250m」、今来た道は「高来神社0.2km」となっています。 女坂は正面へ続いていますが、ここから東天照へ向かって右手の坂道を登っていきます。
斜面を巻くようにして続く道を登っていくと、程なくして横木の階段を登るようになります。 それ程の急傾斜ではありませんが、前日に降った雨が蒸発するのか、かなり湿度が高く、 次第に汗が噴き出してきました。 袖で何度も拭いながら、右・左と曲がりながら続く横木の階段を登っていきます。 4分ほど登っていくと正面の上の方が明るくなってきて、稜線が近づいています。 更に登っていくと、道は尾根の手前で右手へ曲がっていきます。 緩やかになった道を進んでいくと、尾根にある広場風の所に出ました。 高来神社から18分ほどで登って来られました。 東天照は左手へ進んでいくのですが、右手すぐの所にベンチなどが設置された所があります。 脇には高来神社の傍で見かけたのと同じ「高麗山県民の森案内図」と題した案内板もありました。
森林の働き
森林にはさまざまな働きがあります。全ての生き物にとって、 なくてはならないものです。森林のもっとも身近な役割を紹介します。
散策・森林浴の場  森林は人間にとっても大切です。散策や森林浴を行なうことにより、 精神的な安らぎを与えてくれます。
保水機能  落葉が降り積もった土はやわらかく、水をたっぷりと含みます。 そのおかげで洪水や渇水を防ぐことが出来ます。
空気の浄化  植物は光合成を行なうことにより二酸化炭素(CO2)を吸収して酸素(O2)を 放出します。大気中の塵やほこりも取り除きます。
動物たちのすみか  森林は動物たちの活動・休憩の場です。 多くの生き物がいます。
その他の働き 
・防火−炎を遮断します
・騒音の低減−音を吸収します
・森林資源の供給−木材や山菜,キノコ
・気温差の緩和−昼涼しく、夜暖かい
・土砂崩れ等の防止
枯れの進む針葉樹の老木(スギ・ヒノキ・モミについて)
高麗山の「天然記念物範囲内」にはかつて針葉樹の老木が現在よりも ずっと多くありました。スギ・ヒノキは直径50〜80cm程度で、 主に江戸時代中期から明治初期にかけて植栽されたものと思われ、 モミは自然生のもので、直径1m、樹齢200年を越えるのもも十数本あったといいます。 これらの老木は昭和35年(1960)頃より、森から突出した梢の先端部分が枯れだして その後に枯死する現象が見られるようになりました。最初はモミに被害が出始め、 その後スギ、ヒノキにも被害が拡大しました。現在までにその大半が枯死し、現在残った ものも先端枯れの被害が拡大して腰が少しずつ進んでいます。
原因については次のようなことが考えられていますが、はっきりとしたことは判っていません。
 (1)山本来の自然植生の構成樹種であるスダジイ・タブノキ等の常緑広葉樹が植栽された
   スギ・ヒノキを押しのけて生育するようになった結果衰弱した。(植物遷移による影響)
 (2)伊勢原大山のモミ林のように都市部の大気汚染物質の飛来による影響。
(神奈川県自然環境保全センター県有林部)
広場のすぐ先で道が二手に分かれています。 角には高麗山県民の森の道標が立っていて、右手の道は「青年の家15分」、 左手の道は「県道15分」、今来た道は「大堂10分」となっています。
(右手の道は「湘南平」、 左手の道は「高麗山」を参照)
高麗山で見られる野鳥
コゲラ 高麗山に年間を通じて住むキツツキのなかま。 木の幹を掘って巣にします。 ギィーギィーと木のきしむような声で鳴きます。
ツグミ 高麗山では冬鳥としてよく見られます。
アオバト オー・アーオーという声で鳴きます。 春から秋にかけて丹沢方面から飛来し、 日中大磯の照ヶ崎の岩場で海水を飲む姿が見られます。
メジロ 目のまわりの大きな白い輪が目印。巣は木の枝のまたの 部分にクモの糸で固定されています。
オオルリ 高麗山には夏鳥として飛来しチーリーロージジッという 朗らかな声でさえずります。オスはあざやかな瑠璃色ですが メスは茶色で地味。
シジュウカラ ほおが白いのが特徴。 ツーピーと大きな声でさえずります。
キジバト ヤマバトとも呼ばれ、高麗山では留鳥として普通に見られます。 背中にうろこ模様がありデデ・ポーポーという声で鳴きます。
コジュケイ 「ちょっと来い」と聞こえる声で鳴くキジの仲間。 中国南部原産で大正時代に日本国内の各地に放鳥され 分布を広げました。
ヤマガラ 木の実などをある場所に隠しておき、それを後になって 取り出して食べる"貯食"という習性があります。
ウグイス 春夏のホーホケキョというさえずり声で、あまりにも有名ですが、 冬の間はチャッチャッという声で鳴きます。 高麗山の笹やぶの中で営巣をしています。
アオバズク 青葉の茂るころ、南から渡ってくるフクロウ。 ホッホー、ホッホーと柔らかい声で鳴きます。 主食は昆虫類。
 (神奈川県自然環境保全センター県有林部)
神奈川県指定天然記念物 大磯高麗山の自然林
大磯丘陵の東端に位置する高麗山は、標高わずか150メートルにすぎないが、 相模川の広い沖積平野に接し、特徴的な景観で古くから親しまれている。 この南面は、シイやタブを主とした常緑広葉樹で構成される沿海性の自然林におおわれている。 山腹斜面は土壌が浅く、アラカシやウラジロガシを多く混生したスダジイ林が発達し、 一方、谷部のように土壌が厚くて適湿、富養な立地では、タブノキ・イロハモジミなどが 高木層を形成するタブ林がみられる。 いずれの林内にも、ネズミモチ・ヤブツバキ・アオキなどの常緑樹が豊富に生育し、 また分布北限域ともなるモクレイシは注目される。 県内にわずかに残されたヤブツバキクラス域の自然林としては、林分面積が充分に確保され、 自然度も高い良質な森林として貴重であるばかりか、東海道線沿いに見事な常緑広葉樹林が展望できるのも珍しい。 学術的な立場からも、郷土の森としても、さらに景観的意味からも、指定天然記念物として保護するものである。
 (神奈川県教育委員会)
東天照 (標高135m)
広場から引き返して、赤い「ホース格納箱」の先に続く尾根道を登っていきます。 広い尾根道を緩やかに登っていくと、1分もせずに僅かな高みに着きます。 輪切りの丸太などがベンチ代わりに設置されているだけの狭いピークで、東天照と云うようです。 「東天照」と題した案内板が設置されていて、この先の道は「大堂」、 今来た道は「湘南青少年の家」となっています。
東天照 標高135m
八俵山・大堂・東天照の高麗山の三峰のうち、最も東側に位置する峰で、 東の展望台の役目を果たしていました。 鎌倉時代には白山社がまつられていたという記録が残されています。
 (神奈川県自然環境保全センター県有林部)
山火事注意
火の始末 山に来るたび 歩くたび
 (神奈川県)
東天照を過ぎて降り坂になってきた尾根道を進んでいきます。 少し傾斜が増してきた道を降って鞍部に着くと分岐があります。 角には道標が立っていて、右手に降っていく道(*)は「けやきの広場」となっていますが、 このまま正面の尾根道を登り返していきます。 若葉が茂って緑のトンネルになった尾根道を緩やかに登っていくと、1分もしない所に分岐があります。 脇には道標が立っていて、正面の横木の階段は「大堂」、 左手の道は「高来神社」、今来た道は「東天照」となっています。 高来神社の傍で見かけた案内図によると、左手の道は女坂と男坂が合流した先へと続いているようですが、 大堂へ向かって正面の横木の階段を登っていきます。
(*右手の道は「高麗山」を参照)
たき火・たばこに注意
 (神奈川県、森林国営保険)
イノシシ出没
危険ですので気をつけて歩いて下さい。
 (神奈川県自然環境保全センター県有林部森林整備課)
お中道
横木の階段を曲がりながら1分ほど登っていくと分岐があります。 角には道標が立っていて、右手の道(*)は「八俵山」となっています。 正面の道には何も示されてはいませんが、高来神社の傍で見かけた案内図によると、 前方から来て右手へと続く道が高麗山の山頂を取り巻くお中道になります。 右手の道は大堂の高みを巻いてその先の尾根道の木橋の所へ続いていますが、見送っていきます。 階段が終わって緩やかになると、左手から右手へ登っていく石段の途中に出ます。 脇には関東ふれあいの道の道標が立っていて、右手の石段は「高麗山0.1km・湘南平1.3km」、 左手の石段は「高来神社0.6km」となっています。 また高麗山県民の森の道標も立っていて、正面の道は「八俵山10分」、 左手の石段は「高来神社25分」、今来た道は「東天照10分」となっています。
(*右手の道は「高麗山」を参照)
高麗山 (標高167m)
かなり急な石段を真っ直ぐに登っていくと、大堂とも呼ばれる高麗山の頂上に着きます。 東天照そばの広場から11分ほど、花水バス停から50分ほどで登って来られました。 頂上は樹木が切り払われた小広い広場になっていますが、 周りには樹木が生い茂っていて展望は得られません。 この広場には、かつて高来神社の上宮があったそうで、 いまでもその名残として「上宮造営所」の立札と礎石が残されています。 以前には見かけませんでしたが小振りの石祠もありました。 銘板によると2010年8月に建立されたようでした。
高麗山 標高167.3m
高麗と若光
昔から日本と朝鮮の文化交流は深く、相模国をはじめ東国七州の高麗人を武蔵国に移して高麗郡をおいたと 「続日本記」には書かれています。 奈良時代のころ高句麗は唐・新羅に滅ぼされ、日本に難を逃れた人も多く、 その中に高句麗王族のひとり高麗若光もいました。 若光は一族をつれて海を渡り、大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂あたりに住み、 この地に高度な文化をもたらしました。 高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました。
 (環境庁・神奈川県)
注意
この地域一帯は「大磯高麗山の自然林」として神奈川県指定天然記念物に指定されています。 指定地内の植物を採取することはもちろんのこと、 植物の生育に影響を及ぼすことは禁止されています。 貴重な天然記念物を大切に守りましょう。
 (神奈川県教育委員会)
お中道
高麗山の左手のマウンドを越えて降っていきます。 尾根を1分半ほど降っていくと、左手から道が合流してきます。 高麗山の左手から降ってきた道になるようです。 その道を併せて丸い尾根の背を降っていくと、1分もしない所に木橋が架かっています。 橋を渡った所から、左右に戻るようにして道が分かれています。 角には道標が立っていて、正面の道は「八俵山」、 左手の道は「高来神社」、今来た道は「大堂」となっています。 左右に通る道はお中道で、右手の道は高麗山の手前にあった八俵山への分岐道から続いていて、 左手の道は手前の石段の途中へ続いています。 ここは八俵山へ向かって正面の尾根道を進んでいきます。
(右手の道は「高麗山」を参照)
八俵山 (標高160m)
僅かな高みを越えて尾根道を軽く降っていくと、両側にしっかりとした手摺が設置された木橋が架かっています。 下側は空堀のようになっていました。 木橋を渡って緩やかになった尾根道を進んでいくと八俵山に着きます。 高麗山から5分半ほどの所になります。 周りは樹木に被われていて展望は得られません。 ベンチがひとつと、高来神社の傍で見かけたのと同じ「高麗山県民の森案内図」などが設置されています。 ここで道が二手に分かれています。 脇には高麗山県民の森の道標が立っていて、正面の道は「地ごく沢入口5分」、 今来た道は「大堂10分」となっています。 また関東ふれあいの道の道標も立っていて、正面の道は「浅間山0.7km・湘南平1.0km」、 今来た道は「高麗山0.2km・高来神社0.8km」となっています。 左手の道は何も示されてはいませんが、高来神社から滝の沢を経て登ってきた道になります。 ここは正面に続く尾根道を進んでいきます。
(左手の道「高麗山」を参照)
八俵山(はっぴょうやま)
標高160m
八俵山・大堂・東天照の高麗山の三峰のうち、最も西側に位置する峰で、 "八俵"は仏教用語の八俵(隅の意味)から転じたと考えられます。 古くは毘沙門堂がここに建てられていたと記録されています。
 (神奈川県 県有林事務所)
城郭としての高麗山
高麗山は相模湾から相模平野一帯を見渡せることから、古くから軍事上の 要衛として重要な地域でもありました。山中にある寺の建物が軍勢を収容する ための城郭として使われるようになり、記録によれば室町時代の永亭10年(1438)に 関東公方の足利物氏(1398〜1439)が室町幕府に対して反乱を起こした(永亭の乱)際に これを討伐すべく上杉持房(?〜1490?)が山に陣をかまえたのが最初のようです。 その後、永正7年(1510)に北条早雲(1432〜1519)が上杉顕定(1454〜1510)を 討伐する際、山に立て篭もったということです。この戦い以降、山は北条氏によって 小田原城と相模平野を結ぶ狼煙台として「伝えの城」(連絡用の砦)として 使われるようになりました。 永禄3年(1560)には上杉謙信(1530〜1578)が小田原侵攻の際、山に陣をかまえて 北条氏康(1515〜1571)と交戦したということです。 現在でも八俵山から大堂に向う尾根道沿いに往時の空掘の跡と思われる遺構が残っています。
虎御前と八俵山の関わりについての伝説
日本三大仇討で有名な「曽我物語」の曽我十郎祐成と恋仲であった虎御前が 彼の死後、その悲しみのあまり19歳の若さで出家して尼となり、 長野の善光寺をはじめ全国の霊場を行脚し、晩年に現在のケヤキの広場(寺久保、寺窪) にあった高来寺に篭って、兄弟の菩提を弔いながら嘉禄3年(1227)に亡くなり、 その際に自身の生まれ育った大磯の地と兄弟の最後の地であった富士方面を 望める八俵山の南斜面に葬られたといわれています。
虎御前(1175?〜1227?)
彼女の生立ちについては一説には、現在の平塚市山下に住んでいたといわれる藤原実基郷: 通称「山下長者」の娘といわれています。寅の月、寅の日、寅の刻に生まれたので 「三寅御前」と名付けられ、長じてからは「虎御前」と呼ばれるようになりました。 容姿美しく、歌舞音曲に優れていたので、当時の有力者の宴席に招かれることが 多かったことから、十郎と恋仲になった後には、十郎に工藤裕経に関する情報を手紙等で 伝えていたようです。
曽我物語とは?
所領をめぐる争いから、父親を殺された曽我十郎祐成・五郎時致兄弟が仇である工藤祐経を 建久4年(1193)、源頼朝が富士山の西麓で巻狩を催した際に討ち果すまでの物語。
八俵山に「まつたけ」の自生があった!?
大正時代頃には八俵山周辺ではマツタケが自生していたようです。 マツタケは林内が明るくて落枝や落葉が少ない風通しのよいマツ林に 生えることから、現在とは林内の環境が全く異なることが伺えます。 かつて山で拾われる落枝や落葉は周辺の人達にとって日々の生活を支える貴重な 燃料や肥料でした。山に人手が頻繁に加わっていたことが、マツタケの 好む環境をつくりあげていたといえます。
 (神奈川県自然環境保全センター県有林部)
地ごく沢分岐
四方に枝を伸ばした大木を過ぎていくと、道が二又に分かれています。 右側は細めになっているので、左側の広めの方を降っていきます。 両方の道はすぐ近くに並行していて、 ベンチが道端にポツンとある傍を過ぎて尾根道を緩やかに降っていくと、 二つめのベンチの手前で右側から道が合流しています。 その道を併せて降っていくと鞍部に着きます。 八俵山から3分ほどの所になります。 ベンチがひとつ設置されていて、傍には先ほどと同じような「高麗山県民の森案内図」がありました。 ここで右手へ道が分かれていきます。 脇には高麗山県民の森の道標が立っていて、正面の道は「湘南平」、 右手の道は「地ごく沢15分」、今来た道は「八俵山5分」となっています。 また関東ふれあいの道の道標も立っていて、正面の道は「浅間山0.5km・湘南平0.8km」 今来た道は「高麗山0.4km・高来神社1.0km」となっています。 案内図によると、「高麗山県民の森」はこの辺りが西端になるようです。
「湘南平」を指す板には、以前には「20分」と書かれていましたが、 この時には「20」の文字が削り取られていました。
(右手の道「高麗山」を参照)
高麗(こま)という地名の由来
西暦666年、当時朝鮮半島北部にあった高句麗の滅亡とともに難をのがれた人達が 船で渡来し、大磯の唐ヶ原に上陸して化粧坂あたりに居住し、周辺の開拓を行なったと いわれることに由来します。現在でも高来神社の夏祭の祝い歌にはこのことをうかがわせる 様子が歌われています。当時は高来(高麗)と書いてタカク、コウライと呼ばれていたようで、 コマと呼ばれるようになったのは明治時代になってからです。 山の名前については平安時代延長年間(932〜931)に編纂された和名鈔(和名類聚鈔)に 現在のコウライ一帯を「高来郷」(タカクゴウ)とする記述が見られることから、 郷にあるこの山を「高来山」と呼んでいたとも思われます。
高麗山の森の変遷
高麗山の森は幕末なで高麗寺の所有でしたが、明治維新とともに御料林(宮内省管理)となり、 その後昭和13年、神奈川県に御下賜となり県の所有する森となりました。昭和46年からは 県民のリクリエーション利用を目的とした整備を行い現在に至っています。
高麗山の植生について
山の植生は室町時代の戦火により荒廃したと考えられ、江戸時代になって高来寺(高麗寺)に 徳川家康の御神影を勧請した慈眼大師(天海僧正:1536〜1643)が定めた掟中には 高麗山の樹木の伐採を禁止する旨があり、森林が保護されてきました。このようにして 成立した植生は明治維新以降も保護されてきましたが、戦後、昭和21年に戦災復興資材確保の ために山の北〜東斜面約20ha(全体の3分の2程度)が伐採され、当時の植生は南斜面の 天然記念物範囲に残るのみとなっています。天然記念物範囲内はスダジイ、タブノキ、イロハモミジ、 ケヤキ等の常緑・落葉広葉樹林、それ以外の所ではイヌシデ、コナラ等の落葉広葉樹林とスギ、 ヒモキ植林が広がっています。なお、天然記念物範囲内のスギ、ヒノキの大経木は主に 江戸時代頃に信仰の関係で植栽されたものと考えられます。
高来神社(高麗神社)(たかくじんじゃ、こうらいじんじゃ)
11代垂仁天皇の御代に創建され、祭神神皇産霊尊、邇々杵尊を祀り、その後27代安閑天皇2年(6世紀初め)に 15代応神天皇と神功皇后を合祀されたと伝えられています。合計4柱が祭神として祀られています。
高来寺(高麗寺)(たかくじ、こうらいじ)
神社の敷地内にはかつて高来寺(高麗寺)と呼ばれるお寺がありました。奈良時代の養老元年(717)に 行基(668〜749)が、千手観音像(現在神社に現存)を本尊としたことが創建ともいわれています。 後に法相宗の僧によって鶏足山雲上院と称しました。斉衛元年(854)には慈覚大師(円仁:794〜864) によって山の右峰に白山社(現在の東天照周辺)、左峰に毘沙門社(現在の八俵山周辺)が建立され、 以降、平安〜鎌倉時代から寺は相模15大寺の中に数えられ、人々の尊崇を受けました。室町時代には 寺自身が城郭として用いられたために度重なる兵火にあいましたが、江戸時代の寛永11年(1634)には 東照権現(徳川家康)の御神影を勧請して上野寛永寺の末寺となり、幕府の保護を受けました。 しかし、1868年明治維新になると、神仏分離令により廃寺になりました。
高麗山の景観今昔「高麗山のマツ」について
高麗山には昭和40年代半ばまで山の尾根沿いを中心にマツの大経木が多く生えていました。 樹齢からさかのぼると江戸時代初期(17世紀初め)頃に生えてきた(植栽された)ものと 考えられます。山の尾根から突出した樹形は安藤広重の錦絵などに描かれ、すばらしい景観を 創出してきました。しかし、マツノザイセンチュウ(松くい虫)による被害で 昭和50年代初めには1本も無くなってしまいました。
 (神奈川県自然環境保全センター県有林部)
正面に続く広い尾根道を登り返していきます。 尾根道の周囲に生える樹木には、小さな解説板が点々と取り付けられていました。 見落としたのもあるとは思いますが、この先にかけて見かけたものを載せておきます。 次第に傾斜が増してくる道を2分ほど登っていくと、緩やかになってきます。 道の上に覆い被さるようにして生えている樹木を過ぎていきます。
アオキ 一年中青々としたつやのある葉が美しい。花は春咲く。雌雄別株。果実は冬に赤く熟れる。日陰でもよく育つ。
アラカシ 暖地に多い常緑高木。葉には大きなギザギザがあり、材はかたい。ドングリの皿には4〜7本のリングがある。
イヌシデ 岩手県より南に生える落葉高木。花は尾状、4〜5月に咲く。果実は葉のような苞を積み重ねてぶら下げる。
イロハモミジ 手のひら状の葉、プロペラに似た果実が特徴。春の新緑、秋の紅葉が美しい。山の谷間に普通な落葉高木。
エノキ 本州〜九州に自生する落葉高木で、沿海地に多い。昔、街道の一里塚に植えられた。国蝶オオムラサキの食草。
カマツカ 山野に生える落葉低木〜小高木。別名ウシコロシ。春、枝先に白い花が咲き、秋、梨果が赤く熟して食べられる。
クヌギ 暖地の山林には普通な落葉高木。花は4〜5月。実は翌年の秋、大きなドングリになる。シイタケの原木や炭に利用。
ケヤキ ホウキを逆にした姿、春の新緑、秋の黄葉ともに美しい。公園、並木に植えられる。高級建築、家具用材。
コナラ 暖地の雑木林を代表する落葉樹。ドングリができる。材はシイタケの原木となる。ナラの語源は不明、楢は俗字。
サザンカ 山口県より南に生える常緑高木。花は晩秋、白〜赤色、八重咲きの園芸品種がある。実は秋、種子から油をとる。
サンゴジュ 暖地に生える常緑小高木。白い花は春、円錐形に密生する。小さい楕円形の果実は夏〜秋、サンゴ色に熟す。
タブノキ 本州以南に生え、暖地を代表する木。花は早春、樹冠いっぱいに咲く。実は夏、径1cmの球形、黒紫色に熟す。
ツバキ 青森県より南に生えて、ふるさとの樹木を代表する。果実から椿油をとる。花は晩秋から春、園芸品種が多い。
ハコネウツギ 海岸近くの山野に自生する落葉低木〜小高木。花は5〜6月に咲き、花冠は初め白く、後に紅色に変る。
ハリギリ 山地に生える落葉高木。幹や枝には、大きな棘がある。花は7〜8月に咲き、果実は黒く熟す。良い家具材。
ミズキ 山地に普通な落葉高木。5〜6月、横に広がった枝の上に小さい白い花が一面に咲く。材は白く、コケシを作る。
ヤマグワ 山に生える落葉高木。雌雄異株。花は4月頃咲く。果実は初夏に黒く熟し、食べられる。葉を蚕の飼料とする。
たばこの投げすて!火事のもと
 (神奈川県、森林国営保険)
緩やかになった尾根道を進んでいくと、明るい草地のような疎林が右側に現れます。 地ごく沢分岐から3分ほどの所になります。 疎林へ入っていく踏み跡もありますが、広い尾根道を更に1分ほど進んでいくと、 枠だけになった案内板が道端にあります。 以前には「浅間山」と題した案内板でしたが、板は落ちてしまっていました。 その脇から右側の疎林へ小径が分かれていきます。 林の中には散策路が続いていて、円形テーブルやベンチなども設置されていますが、 このまま尾根道を進んでいきます。
以前に来た時には、右側の林の入口に「浅間山ハイキングコース」と題した白塗りの案内図があって、 尾根を越えていく道は「東コース」となっていました。 また、尾根道の少し先からも右の林へ道が分かれていて、その道は「西コース」となっていました。 東西のコースはその先で合流して、 JA教育センターから県道や下山下バス停へと降っていけるような図になっていました。、 案内図の裏面を見ると「高麗山公園を守る会」のサインがありましたが、 この時には案内図は見かけませんでした。 (右手のコースは「湘南平」を参照)
高麗山自然環境保全地域
76ha。 自然を大切に。
建築物の新改増築、土地の形質変更等は届出が必要です。
 (神奈川県湘南地区行政センター環境部、平塚市みどり公園課、大磯町都市整備課)
道端に立つ「関東ふれあいの道」の路傍サインを過ぎていくと、少し登り坂になってきます。 右側の尾根の樹木が疎らになっているのでちょいと入っていくと、 「彼岸花群生地」の看板が立っていました。 一応柵が設置されていて、花が植えられている所と歩道とに分かれていますが、 花の時期ではないので、若葉を出して青々とした眺めになっていました。 そのまま明るい雑木林を登り気味に進んで僅かな高みを過ぎていくと、 先ほど見かけたのと同様な円形テーブルやベンチがありました。 そこを過ぎて緩やかに降っていくと尾根道に合流しました。
広い尾根道を進んでいくと、岩が露出した所を登るようになります。 苔生した所もあったりするので、滑らないよう注意しながら登っていきました。 道端にはシャガの群落が綺麗な花を咲かせていました。 2分ほどで登り切って僅かな高みに着くと、その先は緩やかに降るようになります。 その途中から右手の疎林に踏み跡が分かれていました。 入口には「平塚高麗山」の看板が立っています。 この疎林にも散策路が続いていて、途中の十字路から「西コース」が北側へ降っていきますが、 今回はこのまま尾根道を進んでいきました。 1分ほど進んでいくと、右側の疎林への小径が分かれていきます。 入口には白塗りの案内図が落ちていましたが、描かれたルート図はほとんど消えていて、微かに見える程度でした。
(右手のコースは「湘南平」を参照)
平塚高麗山 自然環境保全地域
この自然は、県民共通の貴重な財産として、子孫に伝えるかけがえのない宝物です。 草や木、野生の動物を大切に。 ゴミは必ず持ち帰りましょう。
 (神奈川県)
燃やすまい 水のふるさと みどりの資源
 (平塚市消防本部)
広い尾根道を軽く登っていくと、「ハイキングコースガイド」と題した大きな看板があって、 「湘南平・霧降り渓流のみち」や「虎女が遊んだみち」が紹介されています。 今回歩く高麗山から湘南平にかけての山ではなくて、その北西側にあるコースになります。 広い尾根道はここから左手へ曲がって降っていきますが、この先すぐの所が浅間山なので、立ち寄っていきました。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手へ降っていく道は「湘南平0.3km・大磯駅2.5km」、 今来た道は「高麗山0.9km・高来神社1.5km」となっています。 浅間山への板はありませんが、正面へ進んでいきます。
浅間山 (標高181.3m)
左手へ降っていく尾根道を見送って正面の坂をひと登りすると広い所に出ます。 テーブル・ベンチが設置された脇には「浅間山 標高181.3m」の解説板が設置されています。 ここが浅間山になります。 高麗山から27分ほどで到着しました。 浅間神社や三角点もあって、ベンチが幾つか設置された広めの山頂部になっています。
浅間山 標高181.3m
浅間社  江戸時代、雲をぬいて天高くそびえる富士山を神とした浅間信仰が広まりました。 白い衣裳をまとい、口々に「懺悔懺悔、六根清浄」と唱えながら登る。 六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意のことで、「六根清浄」が登山の精神であり、 富士山は信仰登山のあこがれでした。 しかし、富士登山は費用と日数がかかり、女人禁制でもあったため、 浅間社を富士山の見える高台や山頂にまつり、そこにお参りすることにより願いが富士山に通じると、 庶民の間にひろまり厚い信仰を集めました。 浅間社は木花佐久夜毘売命を主神とし、美しい富士山を桜の花にたとえた名前と伝えられ、 浅間社を祀った山であることから浅間山と呼ばれるようになりました。
 (環境省・神奈川県)
浅間神社
登り着いた右手のすぐ先に浅間神社が建っています。 金属製の鳥居の先に、小さな石の祠が柵に囲まれて鎮座しています。 脇には「浅間神社」と刻まれた石柱が立っていて、 前の花差しには緑色の葉を沢山付けた木の枝が入れてありました。
浅間神社
高根共有林組合
昭和59年12月吉日 再詞再建
(2006年3月末現在で、一等三角点は全国に972個あり、この浅間山の三角点もその中の一つになります)
浅間神社の裏手には一等三角点があります。 以前に来た時には三角点は四角い礎の上に石標が立つ形をしていたのですが、 数年前に整備し直されて、今では三角点の石標の周りは綺麗な板で囲まれていて、 中には土が入れられ、石標は僅かに頭を出すほどにまで埋っています。 石標の脇には「浅間山181.2m」と書かれた立て札も添えられていましたが、 何故だか、先ほどの解説板とは標高が0.1mだけ異なっています。 傍には「一等三角点 建設省国土地理院」の標識も立っています。 以前には三角点に関する解説板もあったのですが、老朽化したためか、数年前に撤去されたままになっています。 その解説板には次のように書かれていました。
浅間山一等三角点と浅間神社
浅間山の名称は、浅間信仰−浅間社の尊信から賜わられたといわれている。 浅間社は富士山への信仰を母体とし、祭神は木花咲耶姫である。 この浅間山の浅間社は江戸後期に鎮座せられたと思われ、 流造りの形の石祠である。古来からおまつりしていたところ、 富士山の噴火などにより、農耕神の意味を持つ富士山信仰−浅間社の神徳に対し、 崇敬と祈願のため社を勧請したもので素朴な信仰である。
  浅間山一等三角点
  位置 東経139度18分15秒 北緯35度19分7秒
  標高 181.28m
  標高の名称 浅間山
全国的にわたる広い地域に統一した測量を行なうため、精密な天文測量により 経度・緯度及び方位を定め、一等三角点を原点とし、これにもとづいて、全国的な地図の 作成や地勢の調査その他各種の測量の重要な基準になっている。 戦前は視準のための三角塔があったが今はなく、石祠の傍に古びた標識石に、一等三角点と刻してあるにすぎない。 三角点について補足すると、丹沢山・浅間山・大島を三角形の 頂点とし、丹沢・浅間山の距離が判っているとき、丹沢と浅間山の 二つの角を測ると、丹沢・大島、浅間山・大島の距離を数学的に 求めることができる。このように、三角形の角のみを測ることによって 三角形の網を全国的に広げ、測量を進めていくことを三角測量という。 三角測量には基の長さが必要で、この長さは相模原基線であり、 この相模原基線を測量的に増幅したのが、浅間山一等三角点である。
 (平塚市)
高田公園分岐
5分ほど居た浅間山を後にして、湘南平へ向かっていきます。 手前にあった分岐まで引き返して、道標「湘南平・大磯駅」に従って、広い尾根道を降っていきます。 程なくして縦コンクリートの階段が始まります。 段差がかなりあって歩き難い思いをしながら降っていきます。 一旦緩やかになりますが、その先で再び階段が現れます。 鉄パイプの手摺も設置されていますが、特に必要な感じはありませんでした。 階段を避けようというのか、脇にはしっかりとした坂道も出来ています。 そんな道を4分ほど降っていくと鞍部に着きます。 ここから左手へと道が分かれていきます。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面に登り返していく道は「湘南平0.2km・大磯駅2.4km」、 今降ってきた道は「浅間山0.2km・高麗山1.0km」となっています。 また大磯町が設定するハイキングコースの標柱も立っていて、 左手の道は「高田公園1.3km・楊谷寺谷戸横穴群0.4km」、正面の道は「湘南平0.2km」、 今来た道は「高麗山1.1km」となっています。 左手の道は高田公園や楊谷寺谷戸横穴群へ降っていけますが、 湘南平へ向かって、正面の尾根道を登り返していきます。
(左手の道は「湘南平」, 「湘南平」, 「湘南平」, 「湘南平」を参照)
スダジイ・タブなど県指定の天然記念物になっている 高麗山 1.1km
「海の色は日射しでかわる」高田保 高田公園 1.3km
四段に配列する20穴からなる横穴群 楊谷寺谷戸横穴群 0.4km
相模湾を望むサクラ・ツツジの名所 湘南平 0.2km
正面へ登り返していくと、すぐにベンチがひとつ設置されています。 手前の樹木が邪魔をしていて眺めは良くありませんが、樹間から丹沢の山々が見えていました。 そこから左手へ曲がって岩が剥き出した所を登っていくと、 右手へ曲がって緩やかな道が続くようになります。 そのすぐの所から右側の尾根に登っていく横木の階段があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、右手の階段は「湘南平0.2km・大磯駅2.4km」、 今来た道は「浅間山0.2km・高麗山1.0km」となっています。 正面の道は何も示されていません。 脇には「高麗山公園(湘南平)見取図」と題した案内図がありますが、 掠れていてほとんど読めなくなっています。 正面の道を進んでいくと、湘南平の中ほどに出られますが、今回は右手の階段を登っていきました。
(正面の道は「湘南平」を参照)
横木の階段を登っていくと、すぐに左手へ曲がって、尾根を真っ直ぐ登っていきます。 階段の両側にはツツジの木が植えられていて、花の季節には綺麗に彩られる所ですが、 この辺りはまだ花が咲いておらず、見頃はもう少し先のようでした。 階段はしっかりとした造りになっていて、段差もそれほど高くはないので、 苦労することもなく登っていけます。
次第に階段の傾斜が緩やかになってくると、正面に大きなテレビ塔が見えてきます。 壁に取り付けられた銘板によると「平塚テレビ中継放送局」というようです。 NHK・日本テレビ・TBSテレビ・フジテレビ・テレビ朝日・テレビ東京・テレビ神奈川などの放送局名が載っていました。 以前には簡単な解説板もあったのですが、この時には見かけませんでした。 その時に見かけたものを参考までに載せておきます。
NHK平塚テレビ中継放送所
位置 平塚市万田字泡垂山970の66
空中線形式 双ループ2段2面(総合テレビ)、共用(教育テレビ)
送信チャンネル 33(総合テレビ)、29(教育テレビ)
送信出力 映像300W、音声75W
開局年月日 昭和53年3月3日
TVK平塚テレビ中継放送局
平塚テレビ中継放送局はテレビ神奈川放送局(鶴見送信所42ch)の電波を受信して 31chになおして再放送している中継放送局です。 ここから放送される電波は、三浦半島の相模湾沿岸藤沢市・茅ヶ崎市・平塚市・大磯町・二宮町等の周南地方 および相模原市・厚木市・伊勢原市・秦野市等の相模川沿岸をカバーしています。 ここの設備は完全自動化され無人で運用しています…のTVK…どうかこの施設を大事にし…下さい。 …(以下判読不可)
 (株式会社 テレビ神奈川)
湘南平 (標高181m)
テレビ塔の脇を過ぎていくと、「千畳敷」とも云われる広い湘南平に着きます。 浅間山から10分ほどで到着しました。 湘南平は山の上とは思えないほどの広い場所になっています。 登り着いた所には関東ふれあいの道の道標が立っていて、 正面の道は「大磯駅2.2km・こゆるぎの浜2.5km」、今来た道は「浅間山0.3km・高麗山1.2km」となっています。 湘南平は「かながわの景勝50選」にも選ばれていて、少し先には五つの石柱で造られた碑も立っています。
湘南平
湘南平は海抜181m。 古くは阿波多羅山(アワタラヤマ)と呼ばれ、江戸時代の末ごろから 千畳敷山と呼ばれ、桜の名所として著名であったが、 昭和16年以後高射砲陣地となり戦後はいたく荒廃した。 昭和32年、平塚市はこの地を自然公園とする計画をたて、 逐次施設を整備して今日に至った。 湘南平の名は、当時の市長戸川貞雄氏の選によるものである。
 (昭和44年秋 平塚市長)
お願い
皆さんの公園です! お互いにルールを守って、楽しい、きれいな公園にしましょう。
次のことは許可が必要です。
1.露店商、行商、又は、募金等をすること。
2.利益を目的として写真、又は映画撮影をすること。
3.興業、展示会、又は集会等で独占して使用すること。
4.火気を使用すること。
次のことは禁止されています。
1.公園内の物をこわしたり、よごしたりすること。
2.木や、草花等を折ったり、取ったりすること。
3.鳥や動物等を捕まえたり、いじめたりすること。
4.はり紙、はり札、又は広告を掲示すること。
5.ゴミ、その他の汚物をすてること。
6.決まった場所以外に、車等を乗り入れること。
この公園で野球、ゴルフ等はできません。
 (平塚市)
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湘南平に出た所の右側には展望台がありますが、左側に立つテレビ塔に登っていきました。 階段を登っていくと中ほどに展望階があります。 周囲に眺めが広がる所ですが、更に階段を登っていくと上の展望階に着きます。 中階よりも良い眺めですが、周囲には金網が張り巡らされていて視界を遮っているのが残念です。 今回の高麗山から浅間山にかけての尾根はよく見えていましたが、丹沢山塊は霞んでぼんやりとしていました。
金網には男女の名前や簡単なメッセージを書いた鍵がびっしりと取り付けられていました。 撤去されたりもするのですが、また取り付けるというイタチごっこが繰り返されているようです。 この時にも取り付けられた鍵をかなり見かけました。
「注意!落下事故発生」
展望台以外には立ち入らないでください。 危険な行為は絶対にしないでください。
テレビ塔から降りて湘南平の先へ進んでいくと、右手に「関東ふれあいの道」と題した案内板があって、 神奈川県内の17コースが紹介されています。 この湘南平が含まれる「大磯・高麗山のみち」の拡大図も載っています。 また日本山岳会の先駆者の石碑と解説板もありました。 正面には展望台になっている高麗山公園レストハウスがあります。 1階はポーチ・エントランスホール・ショップ湘南平、 2階は湘南平展望レストラン・風除室、 屋上は三段に分かれていて展望デッキ1・展望デッキ2・展望デッキ3があります。 最上階の展望デッキ3の床面は標高194.2mあるのだそうです。 先ずは眺めを期待しながら最上階まで登っていきました。
山を愛し 山を楽しみ
晩年平塚に住み 平塚で終った
日本山岳界に於ける先駆者
岡野金次郎翁を偲ぶ
 (平塚市長)
日本山岳会の先駆者 岡野金次郎
岡野金次郎は明治7年(1874)、現在の横浜市保土ヶ谷区で生まれました。 後に日本山岳会初代会長となる小島烏水とは、明治27年の徴兵検査で出会いました。 明治35年(1902)、岡野と小島は日本人登山家として始めて槍ヶ岳への登頂を果たしました。 その翌年、岡野らは自分たちより前に槍ヶ岳に登ったウォルター・ウェストン(日本アルプスの名付け親)と出会い、 日本にも山岳会をつくることを勧められます。 これが日本山岳会の設立につながりました。 昭和15年(1940)、平塚に移り住んだ岡野は、昭和20年の戦災に遭い、平塚を離れますが、 昭和28年には再び平塚に戻ります。 そして、昭和33年に亡くなるまで、平塚に住み続けました。 富士山が好きだった岡野は、散歩に出かけては平塚海岸や八幡山から富士山を眺めていたといわれます。
 (平塚市)
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展望デッキからは正に360度の眺めが広がっています。 天候に恵まれると、北には丹沢山塊、西には箱根から伊豆半島にかけての山々や富士山、 南には小田原から大磯・平塚にかけての海岸、 東には江の島や三浦半島方面を見渡せる素晴しい眺めになります。 朝方は曇っていた天気もこの頃には日射しが出て来ましたが、 富士山は見えず、丹沢の山々でさえも霞んでいました。 それでも、近くにある大磯の松並木・大磯港・金目川河口付近などは見えていました。 海に突き出した茅ヶ崎港や平島辺りまでは何とか見えていましたが、 その先にあるはずの江の島や三浦半島は霞んでいて、ほとんど見えませんでした。 丁度昼時になったので、 「手打うどん・そば」や「そば処」などの幟旗に誘われて、湘南平展望レストランでそばを食べていきました。
お腹も満ちた所で、35分ほど居た湘南平から下山していきます。 今回は西側にある善兵衛池へ降っていくことにしました。 展望レストランから出たすぐ先に、関東ふれあいの道の道標が立っていて、 右手の階段は「大磯駅2.1km・こゆるぎの浜2.4km」となっています。 階段を降りて右手に続く幅の広い階段道を降っていきます。 斜面にはツツジの木が一面に植えられていますが、大部分の木にはまだ花が咲いていませんでした。 そんな中にあって、品種が違うのか、小振りの赤い花を咲かせている木も幾つかありました。 一段低い所に通る散策路には「森林の働き」と題した解説板がありました。
森林の働き
100万人が誇れるまち 湘南の緑を守ろう!
次世代を担う子どもたちが、「森に親しみ、森について学び、森を守り育てる」ことを体験し、 森林のしくみや働き、大切さなどを学んでいってほしいと願います。
森林はいろいろな働きをしていますが、それらはバラバラにあるのではなく、 森林のまとまり(森林生態系)の中でお互いに関連性をもって存在しています。
 (2009 湘南Jr.レンジャー隊、湘南4LOMまちづくり会議)
 (平塚青年会議所、藤沢青年会議所、茅ヶ崎青年会議所、寒川青年会議所)
幅の広い階段を道なりに真っ直ぐ降っていくと、駐車場の脇に降り立ちます。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手の道は「大磯駅・こゆるぎの浜へ」、 今来た道は「湘南平・浅間山へ」となっています。 また「テレビ塔付展望台・高麗山公園レストハウス(レストラン・売店・管理事務所)」の標識もあって、 今降って来た道を指しています。 道標に従って左手へ進んでいくと、左右に通る散策路に出ます。 角に立つ関東ふれあいの道の道標「大磯駅・こゆるぎの浜」に従って、右手へ進んでいきます。
階段混じりの幅の広い道を右・左と曲がりながら降っていきます。 8分ほど降って道端に土嚢が積まれるようになると、程なくしてコンクリート道になります。 左下の谷には民家が何軒か建っていました。 突き当りまで来て、右手に続く階段を降っていくと、道端に特大の樽があります。 上には円錐形の屋根も付いていて窓のようなものあるので、何かの貯蔵庫なのでしょうか。
民家の脇を過ぎて山際を降っていくと、道端に案内板のような道標が設置されていて、 この先の道は「至こゆるぎの浜1.7km・至大磯駅1.5km」、今来た道は「至湘南平0.7km」となっています。 そこを過ぎていくと谷筋の住宅地に降り立ちました。 湘南平から20分ほどで降りて来られました。 これで山道は終わりになります。 降り立った脇には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面へ降っていく道は「大磯駅1.5km・小淘綾ノ浜1.7km」、 今降ってきた道は「湘南平0.7km・浅間山1.1km」となっています。
善兵衛池
道標に従って降り始めると、すぐの所に善兵衛池があります。 傍には解説板が設置されていました。 畔へ続く道もありますが、民家の敷地なのか、玄関の格子戸のような門があって閉ざされています。 右手の山際の一段高い所には「善人三宅善兵衛碑記」と題した石碑が立っていますが、 旧字で書かれていて無学の私には読めませんでした。
善兵衛池
この辺りは水が乏しく荒れた山田であった。 土地の人望があった善人善兵衛はその困窮を聞いて農地の開発を志し、すべて自分で事業を行った。 1600人の労力をかけて東西24m−南北16m−深さ4.5mの用水池をつくり、 水利を整えて2年後に立派な良田とすることが出来た。 文政2年(1819)この功を賞して老中から白銀5枚がおくられ、苗字帯刀を許され三宅姓を名乗った。 池畔の石碑はその記念に建てられた後に二宮金次郎もこの事蹟を調査したことがある。 池のある宝山周辺は当時の景観がよく保存されている。 土手の両側にある善兵衛池横穴は大磯に多くある古墳墓のひとつである。
善兵衛池を後にして坂道を降っていくと、右側には畑地が広がってきます。 菜の花も咲いていて良い香りが漂ってきました。 左右に分かれていく道は見送って、道なりに真っ直ぐ降っていくと、 右手から来る舗装路に降り立ちます。 角に生える桜の大木の傍には関東ふれあいの道の道標が立っていて、 正面へ続く道は「小淘綾ノ浜へ」、今来た道は「湘南平へ」となっています。 また、大磯町が設定するハイキングコースの標柱も立っていて、 正面の道は「こゆるぎの浜」、今来た道は「湘南平へ」となっています。
相模湾のシロキス釣りのメッカ こゆるぎの浜 1.1km
下流の水田を潤したかんがい用溜池 善兵衛池0.2km
相模湾を望むサクラ・ツツジの名所 湘南平 1.0km
民家が建ち並ぶようになった道を緩やかに降っていきます。 遊水地にある中尾公園を過ぎていくと、左手から道が合流してくるY字路があります。 脇には小祠に安置されたお地蔵さんが佇んでいました。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面に続く道は「大磯駅1.0km・小淘綾ノ浜1.2km」、 今来た道は「湘南平1.2km・高麗山2.5km」となっています。 左手の道は茶亭「大磯園こいずみ」を経て尾根にあった高田公園分岐へ続いていますが、正面へ進んでいきます。
(左手の道は「湘南平」を参照)
中尾公園
ご利用についてのお願い
みなさんの公園です。 おたがいにマナーを守って楽しいきれいな公園にしましょう。
・自転車やオートバイの乗り入れ、花火や火遊びは禁止します。
・野球やサッカーなどは、他の人や周りの家に迷惑がかかるので、やめましょう。
・犬やペットの放し飼いはやめましょう。フンは飼い主が責任をもってかたづけましょう。
・フェンスや樹木などに登らないでください。
・ゴミはもちかえりましょう。
・草木や花を大切にしましょう。
 (大磯町都市計画課)
宮ノ上公園
1分ほど進んでいくと、左手へ道が分かれていく角に宮ノ上公園があります。 小さな公園内には、大磯町立東小磯防災館があります。 また大磯町の設置する「水準点No.8」もありました。
(左手の道は「湘南平」を参照)
宮ノ上公園
ご利用についてのお願い
みなさんの公園です。 おたがいにマナーを守って楽しいきれいな公園にしましょう。
・自転車やオートバイの乗り入れ、花火や火遊びは禁止します。
・野球やサッカーなどは、他の人や周りの家に迷惑がかかるので、やめましょう。
・犬やペットの放し飼いはやめましょう。フンは飼い主が責任をもってかたづけましょう。
・フェンスや樹木などに登らないでください。
・ゴミはもちかえりましょう。
・草木や花を大切にしましょう。
 (大磯町都市計画課)
水準点No.8 標高二三米0一三
宮ノ上公園を後にしてその先へ降っていくと、道は左手へ曲がっていきます。 その角から小川沿いに道が右手へ分かれています。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手へ曲がっていく道は「大磯駅・小淘綾ノ浜」、 今来た道は「湘南平・浅間山」となっています。 また、大磯町が設定するハイキングコースの標柱も立っていて、 右手の道(*)は「白岩神社0.6km」、今来た道は「善兵衛池0.5km」となっています。 左手へ曲がっていくと、すぐの所にT字路があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、右手の道は「大磯駅0.8km・城山公園前バス停2.9km」となっています。 また、大磯町が設定するハイキングコースの標柱も立っていて、 右手の道は「こゆるぎの浜0.6km」、今来た道は「湘南平1.5km」となっています。 正面の道は何も示されてはいませんが、今回は正面の道を進んでいきます。
(*右手の道は「湘南平」を参照)
途中に明治時代の別荘が数多くある 白岩神社 0.6km
二宮金次郎も事蹟を調査した用水池 善兵衛池 0.5km
美しいクロマツ林がつづく海岸 こゆるぎの浜 0.6km
かながわの景勝50選に選ばれた景勝地 湘南平 1.5km
御嶽神社
僅かに登り坂になった道を進んでいくと分岐があります。 角には「この先 幅員が狭いため車の通行注意」の看板があります。 広めの道は左手へ曲がっていきますが、正面の狭くなった道へ入っていきます。 民家が建ち並ぶようになった道を進んでいくと、左手に「御嶽神社」の扁額が掛る鳥居があったので、 ちょいと立ち寄っていきました。 鳥居をくぐって石畳の参道を進んでいくと再び鳥居があります。 右側の坂道は見送って、鳥居の先に続く石段を登っていくと御嶽神社の境内に着きました。 正面には社殿がありました。 前面には「報国」や「孝心」と書かれた額が掲げられていましたが、 由緒などを記したものは見かけませんでした。 社殿の左側には、朱塗りの鳥居や狐像が控える小祠もありました。 祠の前には動物の上に立っている人物の浮き彫りのような絵もありました。 その祠専用の手水鉢も設置されていて、何やら由緒がありそうな様子でした。 稲荷社のようでしたが、名前などは分かりませんでした。
みどりの協定区域
この区域はみどりを育て守る区域です。 皆んなでみどりを大切にしましょう。
 (神奈川県)
御嶽神社を後してその先へ1分ほど進んでいくと、左手へ道が分かれていきます。 角には大磯町が設定するハイキングコースの標柱が立っていて、 左手の道は「湘南平2.0km」となっています。 左手の道は高田公園を経て、尾根にあった高田公園分岐へ続いていますが、 このまま正面の道を進んでいきます。
(左手の道は「湘南平」を参照)
相模湾を望むサクラ・ツツジの名所 湘南平 2.0km
妙大寺
高田公園への道を見送って数10m進んでいくと、左手に妙大寺があります。 「慈意妙大雲」の扁額が掛る山門から境内へ入っていくと、正面に本堂がありました。 お寺の謂われを記したものは見かけませんでしたが、日蓮宗のお寺のようです。 本堂の右手には庫裡と思われる建物があり、左手に墓地がありました。 その中に「松本順先生の墓」があります。
日蓮宗 妙大寺
草木は雨ふればさかう 人は善根をなせば必ずさかう
 (日蓮聖人御遺文 上野殿御返事)
松本順先生の墓誌
松本順先生は天保3年(1832)東京は芝の生れ。 もと徳川将軍家の御殿医。後、明治新政府に請われて初代陸軍軍医総監となる程の医学界の第一人者であった。 明治18年(1885)一切の公職を退いて閑地に就かれ、縁ありて大磯にきたり。 「この地の湖水は病を治し空気は保生の効あり」と唱え、照ヶ崎海岸こそ海水浴の好適地と認定、 町の有識者と相はかり、ここに日本最古の海水浴場が誕生した。 折しも交通革命とも申すべき鉄道の開通により、東海道五十三次の宿場であった大磯の町が衰微を免れた上に、 日本国中の各界の名士が競って当地に別荘を設け、その殷盛は旧に倍するものとなった。 これ偏に先生の先見の明によるものである。 その繁栄を町民と共に楽しみながら明治40年(1907)3月、先生は当地にてご他界。御年76才。 この大恩に報ゆるため、時の有志者挙って先生遺愛の当山の墓碑を建立したものである。
 (往見 駅前ロータリー内記念碑及照ヶ崎海水浴場謝恩碑)
大磯(おおいそ)駅
妙大寺を後にして坂道を降っていくと「大磯ガード」があります。 ガードをくぐっていくと、正面に大磯小学校があります。 角には大磯町が設定するハイキングコースの標柱が立っていて、 右手の道は「島崎藤村邸0.3km」、今来た道は「高田公園0.6km・湘南平2.2km」となっています。 そこを左折して線路沿いの道を進んでいくと、大磯駅(JR東海道線)があります。 善兵衛池から30分ほどで到着しました。
駅前のタクシー乗り場の傍には「大磯町全図」があって今回歩いた道が載っているので、 こちらから歩く場合には参考になります。
東海道本線(87)大磯ガード
自動車等が衝突したのを見た方は、至急御連絡下さい。
 (JR東日本 東京施設指令)
明治の文豪島崎藤村の住んだ家 島崎藤村邸 0.3km
「海のいろは日ざしで変る」高田保 高田公園 0.6km
かながわの景勝50選に選ばれた景勝地 湘南平 2.2km