弘法山公園
散策:2012年02月上旬
【低山ハイク】 弘法山公園
概 要 弘法山公園は丹沢の南側の低い丘陵にある公園で、弘法山・権現山・浅間山などがあります。 権現山からは秦野の街並や、丹沢から箱根にかけての山並を見渡せる眺めが広がり、条件が良いと富士山を望むことも出来ます。 今回は矢倉沢往還の途中から尾根に出て弘法山へ登り、馬場道を経て権現山から浅間山へ向かっていきます。
起 点 伊勢原市 坪ノ内バス停
終 点 秦野市 河原町バス停
ルート 坪ノ内バス停…矢倉沢往還…導水トンネル…神代杉…夜泣石…登り口…3番鉄塔…199m峰…おおね台分岐…善波峠分岐…御夜燈分岐…乗馬クラブ分岐…弘法山登り口…めんようの里…弘法山…馬場道…龍法寺分岐…女坂分岐…男坂分岐…権現山…浅間山駐車場…浅間山…弘法山公園入口…河原町バス停
所要時間 3時間10分
歩いて... 今回は寒いながらも天候に恵まれて、多くのハイカーを見かけました。 めんようの里や権現山などからは、冠雪した綺麗な富士山の姿を望むことが出来ました。 丹沢の峰々もよく見えましたが、稜線付近だけではなく中腹辺りまで白くなっていたので、 かなり雪が積もっているようでした。
関連メモ 弘法大師と桜のみち, 弘法大師と丹沢へのみち, 弘法山公園, 高取山, 弘法山公園, 高取山, 弘法山公園,
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コース紹介
坪ノ内(つぼのうち)バス停
鶴巻温泉駅(小田急小田原線)の北口から、[伊59]伊勢原駅北口行きバスにて4分、 朝方には1時間に2本程度の便があります。 伊勢原駅(小田急小田原線)の北口から、[伊58]善波行きバス,または, [伊59]鶴巻温泉駅行きバスにて13分から14分、朝方には1時間に2本程度の便があります。
バス停から少し戻った所の十字路を右折して、住宅地を進んでいきます。
矢倉沢往還
坂道を緩やかに降っていくと、善波川に架かる善波橋を渡っていきます。 僅かに登り坂になった道を進んでいくとT字路があります。 脇のブロック塀を刳り貫いた所に、赤い頭巾と前掛けをしたお地蔵さんが二体佇んでいました。 傍には「愛鶏供養塔」と刻まれた石碑があり、上の桟には鹿やアヒルの置物もありました。 「クマ出没注意」の看板を見かけてドキッとしたりもしました。 関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手の道は「吾妻山」、 正面の道は「矢倉沢道」、今来た道は「坪ノ内バス停」となっています。 関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」は左手へ曲がっていきますが、 真っ直ぐ進んでいくと、すぐの所に分岐があります。 脇には「太郎の郷さんぽ」の道標が立っていて、右手の道は「太郎のちから石」、 正面の道は「矢倉沢往還」となっています。 今回は正面に続く矢倉沢往還を進んでいきます。
(右手の道は「高取山」, 「弘法山公園」を参照)
太郎の郷さんぽ
金目川水系流域ネットワーク世話人会の発行する「せせらぎ通信Vol.4」(2002年12月10日発行)に、 「太郎の郷さんぽ道中記」が特集されています。 その記事の中で、「金目川水系流域ウォーキング」として「太郎の郷」さんぽマップが載っています。
善波太郎にまつわる伝説
時は平安時代末期、この地善波に善波太郎という人がおりました。 太郎の家はこの辺きっての豪族でしたが、使用人の「ちこめ」と恋仲になり、 そのことが父の怒りにふれ、故郷をすてなければならなくなりました。 太郎は身重な「ちこめ」を連れて旅立ちましたが、その途中にわかに産気づきかわいい男の子が生まれました。 その子に松若という名前を付けましたが母子共に相次いで亡くなってしまいました。 太郎は坂東(関東のこと)諸寺を巡礼し、再び帰ってきましたが、 父母は太郎を捜しに旅に出た途中で相次いで病に倒れ亡くなり、家はすでに家臣の仲光・俊光兄弟に奪われており、 太郎は身売りをされてしまいました。 めぐりめぐって紀州熊野新宮の六太兵衛の家に売られていきましたが、 六太兵衛は太郎の人品卑しからざるを見、その力を試そうとして、 「この裏山に入って猪と雉を捕ってきなさい」と命じました。 その山中に相模国阿夫利山の石尊権現と天狗が現れ、 太郎への助刀を付け猿と雉となって六太兵衛のもとに行きました。 六太兵衛はえらく驚き、太郎のふしぎな力に感じいり、その娘竹美姫と結婚させました。 その後、太郎は石尊権現より授かった雷電落・至端の二太刀と共に、 諸神の庇護のもと、七百余騎をもって逆臣仲光・俊光兄弟を討ち取りました。
 (出典:金目川水系せせらぎ通信Vol.4,「善波八幡社縁起」より要約)
クマ出没注意
クマに会わないために ●音を鳴らして、人の存在を知らせながら行動する。
クマに遭遇したら ●刺激しないように慌てないで、静かにその場を立ち去りましょう。
 (伊勢原市)
山際に緩やかに続く矢倉沢往還を進んでいきます。 1分半ほど進んで、「明治十七年五月五日」と刻まれた馬頭観世音の石碑が佇んでいました。 広い空地のような所を過ぎて緩やかな坂道を登っていきます。 丸まった石垣が続く民間を過ぎて植林地へ入っていくと、右下の谷へ降っていく小径が分かれています。 バス停から7分ほどの所になります。 入口には「太郎の郷さんぽ」の道標が立っていて、右下へ降る小径は「うもれ木(神代杉」となっていました。 脇にはその解説板もありました。 どんなものなのか確かめるために寄っていくことにしました。
伊勢原市指定天然記念物 神代杉(うもれ木)
所在地 善波川三ッ沢河床
昭和三十九年五月二日指定
洪積世の後半頃に善波峠一帯に広がる火山灰土の地域に茂っていた大森林が大洪水のために倒伏埋没し、 赤土(関東ローム層)の中で腐朽をまぬがれ長い年月の間に炭化が進んだもので、 その後渓流によって赤土層が洗われ、露出したものである。 年代は不明であるが、考古学でいう旧石器時代に相当するといわれている。
 (伊勢原市教育委員会)
導水トンネル
トラロープが張られた横木の階段を降っていくと、右へ曲がる角に大きな穴が開いていました。 底には横穴が二つ開いていて、入口は鉄格子で閉ざされていました。 脇に立つ解説板によると、田んぼに水を引くための導水トンネルなのだそうです。 横穴の周壁は固められているように見えましたが、コンクリートでも打ってあるのでしょうか。 ロウソクと鏡を頼りにして掘ったとのことですが、 人ひとりがやっと入れる程度の幅しかない穴をどうやって200mも掘ったのでしょうか。 大変な苦労だったことが想像されます。
導水トンネル
この横穴は、昭和初期善波川より大住台方面の水田へ水を導くために、地元の農夫飯塚亀蔵さんが、 ロウソクと鏡を頼りとした独特の工法で掘った農業用導水トンネルです。 全長約200メートル。
 (太郎の郷づくり協議会)
神代杉
植林地に続く横木の階段を降っていきます。 杉の葉が積もる階段をトラロープに導かれながら降っていくと善波川の畔に降り立ちました。 脇には解説板が立っていました。 大きな石がゴロゴロするばかりの川を眺めながら、どれがその神代杉なのか探していると、 向こう岸に「天然記念物 うもれ木」と刻まれた石標がありました。 その傍に円筒形をした大きな岩がありました。 多分これがそうだろうとは思いながらも、石にしか見えない神代杉をしばらく眺めていきました。
うもれ木(神代杉) 伊勢原市指定天然記念物
古代、この一帯の大森林が洪水により大崩壊した時(推定1万年以上前)に薙倒された杉の大木がこの周辺に埋没炭化し、 長い年月を経て再び善波川の流れの中にその姿を現しています。
 (太郎の郷づくり協議会)
併せて8分ほどで神代杉から戻って来て、矢倉沢往還をその先へ進んでいきます。 民家を過ぎていくと左手が開けてきます。 振り返ると、街並みなどを見渡せる眺めが広がっていて、 送電線の鉄塔が密集して立っている一画も見えていました。 民家の前の生垣を過ぎていくと分岐があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手の道は「吾妻山0.35km」、 今歩いている道は「矢倉沢道」となっています。 関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」は正面から来て左手の道から尾根へ登り、 吾妻山を経て先ほどの分岐へと続いています。 脇に設置された看板などを確認してから、正面に続く矢倉沢往還を更に進んでいきます。
矢倉沢往還
この道は奈良時代に開かれ、箱根越えの東海道が出来るまで官道の役割をしていました。 江戸時代には裏街道として賑わい、伊豆・沼津から足柄・秦野・伊勢原・厚木・荏田を経て、 日常生活に必要な炭・わさび・干し魚・茶、それに秦野のたばこなどが馬の背で江戸へ運ばれ、 人々に矢倉沢往還(矢倉沢街道)と親しまれていました。 また、大山・阿夫利神社に詣る道ということから大山街道の名でも親しまれていました。
 (環境庁、神奈川県)
自生山ゆりに出会う郷、うれしいね!
山ゆりをみんなで守りましょう。
 (太郎の郷づくり協議会)
熊出没注意
この付近にクマの出没情報がありました。 クマに遭遇したら、刺激しないようにし、あわてずに静かに立ち去りましょう。
 (神奈川県湘南地区県政総合センター環境調整課)
 (伊勢原警察署生活安全課、伊勢原市役所環境保全課)
注意
ここは野猿の出没区域です。
・決してエサを与えない。
・お弁当等の残りは必ず持ち帰る。
みんなでマナーを守ってサルからの農作物被害を減らしましょう!
 (JAいせはら農政対策委員会)
夜泣石
左手に植林地が続くようになった緩やかな道を進んでいくと、 荷物運搬用のモノレールが尾根の方へと続いていました。 そこを過ぎていくと道端に夜泣石があって、解説板も立っていました。 その先へ進んでいくと、「馬頭観世音」と刻まれた石碑が横一列に10個並んでいました。 その奥にも離れてひとつありました。 往時からこのようにここに整列していたのでしょうか。 それとも、矢倉沢往還の各所にあったのを近年になってここに集めたのでしょうか。
夜泣石
旅人が、この石のあたりで、誰助けるともなく、倒れておりました。 それ以来、夜中にここを通ると、この石のあたりから、 助けを求めるような声が聞こえたと言い伝えられています。
 (太郎の郷づくり協議会)
馬頭観世音群を過ぎて数10m進んでいくと分岐があります。 脇には「太郎の郷さんぽ」の道標が立っていて、右手の道は「三嶋神社」となっていました。 「熊出没注意」の看板も立っていました。 矢倉沢往還は正面へ続いていますが、右手へ降っていく道の先には浅い谷戸が見えていたので、 行く末を確かめようと歩いてみました。 しっかりとした山道を緩やかに降っていくと、善波川に鉄製の細い橋が架かっていました。 下流側すぐの所には砂防ダムもありました。 橋を渡っていくと浅い谷戸には田んぼが広がっていました。 正面には「太郎の郷さんぽ」の道標が立っていて、右手の道は「三嶋神社」、 今来た道は「矢倉沢往還」となっていました。 袂には石祠や馬頭観世音の石碑もありました。
(谷戸に続く道は「弘法山公園」を参照)
往復5分ほどで引き返してきて、矢倉沢往還を進んでいきます。 広くて緩やかな往還道を進んで開けた感じになってくると、梅林が続くようになります。 右手の谷戸に広がる畑などを眺めながら進んでいきます。 梅林が終わった先へ進んでいくと、立派な竹林の脇を過ぎていきます。
矢倉沢往還
奈良時代のころ開かれた古東海道で、 江戸赤坂から多摩川、厚木をへて伊勢原の高森、白根、神戸、串橋、坪ノ内、善波を通り 秦野、足柄峠、駿河国に達する街道。 江戸時代は大名の参勤交代、物資の輸送、大山参詣の旅人でにぎわった。 この先の善波峠は足柄峠とならぶ難所で、茶屋がおかれ夜は常夜灯がともされた。 時には"追いはぎ"もでたといいます。 関所が矢倉沢(南足柄市)にあったのでこの名でよばれています。
 (出典:金目川水系せせらぎ通信Vol.4,「金目川水系流域ウォーキング」より抜粋)
畑の脇を過ぎてその先へ進んでいくと、左手へ戻るように分かれて行く小径の先に分岐があります。 脇には「太郎の郷さんぽ」の道標が立っていて、矢倉沢往還は正面の道であることを示していますが、 右手の道が気になったのでちょいと歩いてみました。 降り始めたすぐ右手には、石段の下に石祠が二つ並ぶ一画がありました。 そこを過ぎて降っていくと、道祖神や石仏や馬頭観世音などが数体並んでいました。 その先で道が二手に分かれていて、右手は谷戸へ降り、左手は矢倉沢往還へ登っていくようでした。 谷戸へ降っていく道の先には舗装路が通っていて、 その道への出口には道標も見えていたので、以前に歩いた道のようでした。
往復4分ほどで引き返してきて、矢倉沢往還を進んでいきます。 関東ふれあいの道の道標「矢倉沢道」を過ぎていきます。 「太郎の郷さんぽ」の「矢倉沢往還この先20m左へ」の道標を過ぎていくと、 道は左から右へと円弧を描くようにして曲がっていきます。 脇に建つ小屋の中には犬がいるのか、吼える声が仕切りに聞こえてきました。 生垣のある民家を過ぎた所に分岐があります。 先ほどの道標では「この先20m」となっていましたが、それ以上の距離があるようでした。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、今来た道から左手へ続く道は「矢倉沢道」となっています。 右手の道の下には柵で囲まれた設備が見えていましたが、道標に従って左手の道を進んでいきます。
登り口
坂道を登っていくと空地のような所の脇に出ます。 左手に登っていく小径が分かれていますが、上にある畑地への道になります。 その道は見送って、緩やかになった道を進んでいきます。 空地が終わって雑木林へ入って少し進んでいくと分岐があります。 寄り道も含めて、坪ノ内バス停から55分ほどの所になります。 入口には「太郎の郷さんぽ」の道標が立っていて、 左手に戻るようにして登っていく道は「弘法山ハイキングコースへ」となっています。 また電力会社の黄色い標柱「鶴巻線3号に至る」も立っていて、左手の道を指しています。 「熊出没注意」の看板もありました。 矢倉沢往還は正面へと続いていますが、今回はここから弘法山ハイキングコースへ登っていきます。
(正面の道は「弘法大師と桜のみち」, 「弘法山公園」を参照)
植林帯の縁に沿って続く道を登っていきます。 傾斜もそれほど急ではなくて歩き易くなっていました。 3分ほど進んで植林帯の端まで来ると、右手へ曲がっていきます。 植林帯と雑木林を分ける斜面を直登していくと、次第に傾斜が増してきます。 かなり傾斜があって脹脛が痛くなってくるので、何度も立ち止まって脹脛を休めながら登っていきました。
3番鉄塔
急斜面に続く道を休み休み4分ほど登っていくと傾斜が緩やかになってきます。 正面にある高みの手前で、道は左手へ曲がっていきます。 その角から正面の高みへ続く僅かな踏み跡が分かれていますが、見送っていきました。 緩やかになった道を進んでいくと、すぐに送電線の鉄塔「鶴巻線3」の袂に出ました。 矢倉沢往還から8分ほどで登って来られました。 北側には樹木に邪魔されながらも丹沢の山並みが広がっていました。 鉄塔の手前には電力会社の黄色い標柱「鶴巻線2号に至る」が立っていて、今登ってきた道を指しています。
とって良いのは写真だけ
残して良いのは思い出だけ
ビン、カンの投げ捨て禁止!!
ごみは持ち帰りましょう!!
 (秦野あづまライオンズクラブ)
199m峰
鉄塔の下を過ぎていくと、吾妻山から弘法山へと続く尾根道に出ます。 弘法山ハイキングコースになっていて、広くて良く踏まれた歩き易い道になっています。 右手へ僅かに登っていくと、丸太のベンチが幾つか設置された高みに着きます。 手元の地形図に載っている199m峰になるようです。 道の中ほどに石杭がありましたが、測量のための標識なのかどうかは分かりませんでした。 周りは樹木に囲まれていて展望は得られません。
おおね台分岐
199m峰の先へと軽く降っていきます。 緩やかになった広い尾根道を進んで僅かな高みに着くと、尾根道は少し右へ曲がっていきます。 そこから「おおね台団地」へ降っていく細い道が左手へ分かれています。 地形図に載っている破線の道になるようです。 その道は見送って、広い尾根道をそのまま降っていきます。 坂を降り切る手前まで来ると、左へ戻るようにして広めの道が分れていきます。 傍には真新しい道標が立っていて、今来た道は「鶴巻温泉駅方面」なっています。 左手の道は手前で分かれた細い道と合流して「おおね台団地」へ降りて行かれますが、 正面に続く広い尾根道をこのまま進んでいきます。
(左手の道は「弘法山公園」を参照)
僅かな登り降りはあるものの、広くて歩き易い尾根道が続きます。 この時は寒い冬の日で、汗を掻くこともなく快適に歩いていけました。 冬枯れの樹木の間から山並などを眺めながら進んでいきます。 僅かな高みを越えて降っていくと、正面には冠雪した富士山の頭も見えてきました。 空気も澄んでいるようだし、この先からの眺めを期待しながら進んでいきました。 左前方にはこれから向かう弘法山も見えていました。 やがて、右手の樹間から建物群が見えてきます。 その先へ進んでいくと、右下には善波峠の近くにあるホテル群が建ち並ぶようになります。
善波峠分岐
道の左側に植林帯が現れて登り坂になってくると、道が二手に分れています。 199m峰から11分ほどの所になります。 角には道標が立っていて、右手の道は「大山9.5km・蓑毛 首都圏自然歩道枝線 野菊と信仰のみち」、 正面の道は「弘法山1km 首都圏自然歩道枝線 弘法大師と桜のみち」、 今来た道は「鶴巻温泉駅」となっています。 脇には「首都圏自然歩道枝線 野菊と信仰のみちコース案内図」があって、 ここから蓑毛まで続く「野菊と信仰のみち」のイラスト図が載っていました。 その支柱には「弘法山地図 どうぞお持ち下さい」と書かれたペットボトル製の入れ物が取り付けられていましたが、 中には何も入っていませんでした。 右手の道は善波峠や念仏山を経て高取山へ、更にその先の蓑毛越を経て丹沢大山へと続いていますが、 今回は正面に続く横木の階段を登っていきます。
首都圏自然歩道枝線 野菊と信仰のみちコース案内図(コース全長6.3km)
コース付近の観光名所  大日堂・城址・源実朝公首塚・金剛寺・自然観察の森
鷹取山(556m)  相模平野と相模湾のながめがすばらしい。 山頂とベンチ。野外卓あり。
念仏山  山頂からの展望がすばらしい。 ベンチ、野外卓等あり。 富士山のながめがすばらしい。 野菊が群生している。
 (秦野市役所商工観光課)
(案内図では「鷹取山」となっていますが、一般的には「高取山」と表記されているようです)
御夜燈分岐
植林帯と雑木林を分ける尾根に続く幅の広い横木の階段を登っていきます。 段差はそれほど高くなくて歩くやすくなっていました。 2分ほど登って傾斜が緩やかになってきた道を進んでいくと、 善波峠分岐から3分ほどで、道が分岐している僅かな高みに着きます。 手元の地形図によると、新善波隧道の南250m辺りにある標高200mほどの高みで、 破線の道が分かれている地点になります。 丸太を組んだベンチが二つ設置されていました。 脇には真新しい道標「ハイキングコース右 鶴巻温泉方面」が立っていて、今登ってきた階段を指していました。 それ以外に道標類は見かけませんでしたが、 右手の道は善波御夜燈を経て善波峠へ降りていく道で、弘法山へは左へ続く道になります。
幅の広い尾根道を緩やかに降っていきます。 鞍部から登り返していくと僅かな高みに着きます。 手元の地形図にある204m峰のようですが、周囲には樹木が生い茂っていて展望は得られません。 高みを過ぎて降っていきます。 オリエンテーリングのポスト「C」を過ぎていくと、 左手の樹木が途切れて果樹園の脇に出られる所があります。 御夜燈分岐から5分ほどの所になります。 簡単なベンチも設置されていて、ちょっとした展望地になっています。 ベンチの先へ出てみると、果樹園の奥には、これから向かう弘法山が見えていました。
乗馬クラブ分岐
果樹園沿いの道を降っていきます。 1分ほど降っていくと簡易舗装された道になってきます。 その道を1分半ほど降っていくと、分岐のある広めの道に出ます。 角には道標が立っていて、右手へ降っていく急坂は「関東ふれあいの道 国道246号」、 今来た道は「鶴巻3.4km・聖峰4.1km・高取山3.5km」となっています。 また小さな標識もあって、正面の道は「秦野駅」となっていました。 右手の道は秦野国際乗馬クラブを経て国道246号へ降りて行かれますが、正面の道を進んでいきます。
(右手の道は「弘法大師と桜のみち」, 「弘法山公園」を参照)
弘法山登り口
正面へ10mほど進んでいくと、右へ曲がっていく道の角から左手へ分かれて降っていく山道があります。 入口には道標が取り付けられていて「長坂を経て自興院に至る」となっています。 右手へ曲がっていく道の先にも道標が立っていて「めんようの里」となっています。 また正面の高みへ登っていく道もあります。 その道へ少し入った所に関東ふれあいの道の道標が立っていて、 正面の高みへ登っていく道は「弘法山0.5km」、今来た道は「吾妻山へ」となっています。 ここが弘法山への登り口になりますが、 今回は右手に続く舗装路から「めんようの里」へ向かって行くことにしました。
(左手の道は「弘法山公園」を参照)
「弘法山無線中継所」の標識が取り付けられた柵がある所を過ぎていくと、 正面から右手にかけて眺めが広がってきます。 眼下には秦野の街が広がり、箱根から丹沢にかけての山々が連なっていました。 正面には冠雪した綺麗な富士山の姿が見えていました。 左手には特徴的な姿をした矢倉岳や金時山から明神ヶ岳にかけての峰が続き、 右側には主脈から大山にかけての山々が続いていました。 丹沢は稜線だけではなくて中腹辺りまで白くなっていたので、かなり雪が積もっているようでした。 何枚も写真を撮りながら、しばらく眺めを楽しんでいきました。
(画像を左クリックすると、8枚の写真が順次表示されます)
右手に広がる景色を眺めながら舗装路を進んで行きます。 少し降り気味になってくるとT字路があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、右手の道は「蓑毛」、 正面の道は「弘法山・権現山」となっています。 右手の角にはログハウスの木里館があります。 手作りアイス・しゃぶしゃぶ・ジンギスカン・生ラムなどが商われているようですが、 この時は開店までにはまだ時間がありました。 正面から来て右手へ降っていく道は 関東ふれあいの道「弘法大師と丹沢へのみち」になります。 正面の道は飼育舎を回り込むようにして尾根へ登っていきますが、 今回はT字路の左手の斜面に続く横木の階段を登っていくことにしました。
めんようの里
上面にコンクリートが張られていて抉れることのない階段を登っていくと、左右には牧草地が広がっています。 先ほどの木里館も含めて、この辺りの斜面一帯がめんようの里になるようです。 この時には「めんよう」が沢山放牧されていました。 「綿羊」と書くことからも推測されるように、時折「メエ〜」という声で鳴いていました。 顔が黒いのと白いのがいましたが、種が違うのか雌雄の差なのかは分かりませんでした。 しばらく眺めていると、目のあった1頭がこちらへやってきました。 すぐ傍まで来て何か貰えないかと鳴いていました。 間には柵があって安心ではありますが、近くで鳴くと意外と大きな声に驚いたりもしました。
牧草地の間に続く階段を登り切ると、右手から登ってきた舗装路に出ます。 舗装路は右へ曲がって尾根へ続いています。 また左手へも細めの舗装路が続いていますが、今回は正面に続く細い踏み跡を登っていきました。 雑木林の斜面に続く少し抉れた道を登っていきます。 オリエンテーリングのポスト「E」を過ぎて登っていくと、右手から左手へ登っていく坂道付きの階段に出ました。 右側にはベンチが設置されていました。 左側には「公衆便所」の標識が立っていて左手の道を指しています。 権現山へは右手へ降っていくのですが、この左手の上に弘法山があるので往復することにしました。
坂道を数10m登っていくと、左手の林に「弘法山ニュース」と題した掲示板がありました。 何が貼り出されているのか確認してみると、 「秋のお花見コース」や「里山ふれあい森づくり事業報告」などでした。 「ヒガンバナのネックレス」「カラスウリのちょうちん」「クズのかんむり」「シュロのかたつむり」の作り方も載っていました。 「弘法山の自然情報が入っています。ご自由にお取り下さい」と書かれた赤いポストも設置されていましたが、 この時には中に何も入っていませんでした。
弘法山ニュース
今回のテーマは、秋のお花見、食の秋、遊びの秋をお知らせします。 秋に咲く花は目立つものばかりではありませんが、じっくり見てみると様々な花が咲いていることに気付きます。 今年の秋は、弘法山の花の移り変わりを感じながら、食べられる植物や草花遊びを覚え、楽しんで下さい。
☆弘法山秋のお花見☆
ノコンギク 野に咲く紺色の菊ということで名前がつきました。 淡い色が素敵です。
アキノタムラソウ 花が付いている部分は、長いものや短いものなど個体によって様々です。
イヌタデ 草花遊びの赤まんまで有名なように赤色が鮮やかです。 密集して咲いています。
ツユクサ 弘法山の至るところで見かけます。 青くてかわいらしいお花です。
ヒガンバナ 弘法山でごくふつうに見られます。 赤い花は遠くからでも目にとまります。
キバナアキギリ シソ科植物の特徴である四角の茎をもちます。 頂上付近の木陰に咲いています。
ノダケ 濃い紫色が林の中で一際目立っています。 葉鞘が膨らんでいるのも特徴的です。
イノコヅチ イノシシの子の膝頭に似ていることから名付けられました。
ツリガネニンジン 根が太く人参に似ています。 弘法山ではたくさんの花が咲いています。
タイアザミ 棘が太く長いです。 とても痛いので、むやみに触らないことをお勧めします。
クズ 成長が早く有害扱いされますが、花は甘く良い香りがします。 葛切りの原料です。
カラスウリ 日没後に開花する花の縁は、白いレースのようです。 夜にしか見られないのが残念ですね。
☆食利用☆
ツユクサの
おひたし
材料:ツユクサの若葉
(1)採ってきたツユクサの若葉をよく水で洗います。
(2)洗い終わったら、若葉をお湯で茹でます。
(3)さっと茹でたら水をよく切り、おかかと醤油をかけて完成!
イノコヅチの
酢味噌和え
材料:イノコヅチの新芽
(1)葉と葉の間から出る新芽を搾取し水洗いします。
(2)5分ほど茹でたら、適当な大きさに切ります。
(3)味噌とお酢、砂糖を小さじ少々加えてタレを作ります。
(4)葉とタレをよく混ぜ合せれば完成。
クズもち 材料:クズの根 根は大きく太く、多くのでんぷんを含んでいるのでくず粉が取れます。
(1)水(500ml)で、くず粉(100g)と砂糖(適量)をとく。
(2)中火で粘りが出るまでかき混ぜる。
(3)型にはめ氷水で固めたら、適当な大さに切って出来上り。
弘法山 (標高235m)
途中のトイレで用を足してから階段を登っていくと、弘法山の山頂に着きました。 199m峰から38分ほどで到着しました。 登り着いた所には、時を知らせるために撞かれたという大きな鐘楼があって、 脇には真新しい「弘法山」の標識もありました。 また、秦野市出身の歌人・原久胤の歌碑や、関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」の解説板も設置されています。 「野鳥の水飲場」という小さな池もありました。
弘法山の歴史
弘法山の名前は弘法大師(774〜835)がこの山頂で修業したことから名付けられたとの伝承があり、 権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある。 弘法山は麓の龍法寺と深い関わりを持ち、戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。 鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。 弘法山の鐘は、享保頃(1716〜35)に龍法寺5世無外梅師と行者の直心全国が発願し、 弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。 明和3年(1766)に山火事でひび割れ、 再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の松操智貞尼の尽力により 徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て享和元年(1801)5月に完成した。 鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。 現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである。
 (秦野市)
鐘楼
ハイカーの皆様へ。 この鐘は、時を知らせる鐘として、正午、3時、夕刻等につかれ、長い間地域の人達に親しまれておりました。 大切に扱うとともに、むやみに鐘をつくことは御遠慮下さい。
 (秦野市観光協会)
関東ふれあいの道
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里を見直してみませんか。
弘法大師と桜のみち  このみちは県内17コースのうち9番目のコースです。 秦野市南平橋から桜の名所権現山・弘法山へ、 旧矢倉沢街道を経て伊勢原市国道246号坪ノ内バス停までの全長9.4kmの道です。 なお、途中から鶴巻温泉や善波峠を経て高取山、浅間山へも行くことができます。
 (環境省、神奈川県)
我庵は盛も人の とはぬかな をしまれて ちる花もあるよに 平 久胤
平久胤は国学者・歌人。 相模の国下大槻村(現・秦野市下大槻)の人。 本姓 原。通称 新左衛門。号を契月。つきの屋と称した。 寛政4年(1792)に生まれ、弘化元年(1844)9月19日に没した。享年53歳。 初め奥村梁・山平伴鹿らに学び、さらに本居春庭に入門し学究につとめた。 久胤は万葉調の歌にすぐれ、江戸・相模・駿河で活躍し、羽黒・出石の諸侯などにも歌道を指導した。 また、歌集には門人日善の編集した「五十槻掻葉集」三巻等がある。 この歌碑は、辞世の和歌で、東京都目黒区の長応寺の庭にあったが、 没後150年にして初めて故郷を望むこの地に再建した。
 (原久胤歌碑再建懇話会、秦野郷土文化会)
鐘楼の前には「弘法の乳の水」という井戸もあります。 つるべがふたつ吊るされていますが、井戸は金網で塞がれていて使えません。 その替わりなのか、脇に手押し式のポンプが設置されています。 今でも使えるようになっていて、呼び水を差す必要もなく、 柄を2・3回ほど上下させるだけで簡単に水が出てきます。 頭がキーンとなるほど冷たくはありませんが、暑い夏場には嬉しい水です。
弘法の乳の水
この井戸は、昔から「弘法の乳の水」と呼ばれています。 この井戸から湧き出た水は、白くにごり、いつも乳の香りがしていたそうです。 いつの頃からか「真夜中に、誰にも知られずに山に登り、 乳の水を飲むと、乳がどくどくと出るようになる」と伝えられ、 この水をいただきに山に登る人が後を断たなかったと言われています。 いつの世も、子を持つ親の心は変わりません。 乳の出ない辛さにワラをもつかむ気持ちだったのでしょう。 その救いの神がこの白い井戸水でした。 なぜこんな山頂に不思議な白い水が・・・。 それは弘法さまのお力だと伝えられています。
 (秦野ラインズクラブ)
乳の井戸
山頂に白色の水の湧く古井戸がある。 これで粥を炊き食すれば乳が出るという信仰から「乳の水」と称して 昭和30年代初めまで授乳期の母親や妊婦が遠方からも水を求めてきた。 かつてはこの井戸の脇に二つの池があり、夏には太い柳の下で蛙が鳴き、 金魚の紅い色が水面に映じて美しく静かな時が流れていたが、 関東大震災の後に水涸れが起こり一つを埋めてそこに桜を植えた。
 (秦野市)
左手には釈迦堂があります。 この時には御開帳されていて、安置されている弘法大師像を見ることができました。 綺麗な花が飾られていて、丁寧に祀られているようでした。 大師堂とも呼ばれて、この南麓にある龍法寺の境外仏堂なのだそうです。
釈迦堂(しゃかんどう)
山頂には弘法大師の旧跡であることから、古くより福泉庵という堂があった。 江戸時代の中頃に龍法寺の僧馨岳永芳はこの荒廃を嘆き新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を祭って釈迦堂としたが、明和3年の火災で釈迦像が焼失し、石造であった弘法大師像はこの時から露座となった。堂の再建後は弘法大師の木造のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の台風で被害を被り長く仮堂であったが、昭和39年に現在の釈迦堂が完成した。
経塚  釈迦堂の後部には鎌倉時代後期の経塚があった。 経塚は経典を書写したものを埋納した仏教上の施設で、末法思想から生まれた。 日本では平安時代末期に出現し、藤原道長が金峰山に般若心経一巻他を埋納した事が知られている。 弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され当時は大甕の口縁部が露出した状態で、経石も散乱していた。
 口縁部が楕円形をし、長径68cm、深さ75cm、腹部から急に細くなっている。
経石 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石経、経題のみ大型石に記載されていた。
経筒 鋳銅製経筒の一部と見られる破片が出土、推定直径12cm。その他陶製の灯明皿が出土している。
 (秦野市)
弘法山の山頂は樹木に囲まれていて展望はあまり良くありませんが、東側が開けています。 遠くは少し霞んでいましたが、横浜ランドマークタワーも見えていました。 お昼には少し早い時刻でしたが、幾つか設置されているベンチに腰を掛けて昼食タイムにしました。
美化ボランティア推進運動 弘法山をきれいにする会
この公園は、わたしたちボランティアが美化・清掃等の活動を行っています。 美化ボランティア活動への協力と参加をお願いします。
 (秦野市)
かながわの探鳥地50選 弘法山公園
この付近で見られる主な野鳥
メジロ、シジュウカラ、ホオジロ、コジュケイ、エナガ、エゾビタキ、アオジ、コゲラ、イカル、キジバト
 (鳥もすめる環境都市 秦野市)
疲れも癒えてお腹も満ちたところで、弘法山から下山していきます。 山頂から東海大学前駅方面へ降っていく道もありますが、来た道を引き返して権現山へ向かっていきます。 降り口には道標が立っていて、「弘法山公園権現山0.8km」「弘法山公園浅間山1.2km」「秦野駅3.1km」となっています。 また関東ふれあいの道の里程標もあって、来た道は「下大槻3.75km」、 釈迦堂の裏手へ降っていく道は「坪ノ内5.65km」となっています。 階段を降っていってもいいのですが、今回は左手のマウンドの上に続く土の道を降ってきました。
(東海大学前駅方面へ降っていく道は、 「弘法山公園」, 「高取山」, 「弘法山公園」を参照)
冬枯れの樹木の間から富士山や箱根の山々を眺めながら散策路を降っていきます。 綺麗に整備された道が少し曲がりながら続いていました。 所々にはテーブル・ベンチも設置されていて、花の季節には休憩するのに良さそうな所でした。 そんな道も3分ほどで終わって、右側に沿って降ってきた階段から続く道に降り立ちます。 広くて緩やかになった道を進んでいくと、車止めを過ぎた先で、 右手に戻るようにして舗装路が分かれていきます。 角には「かながわの景勝50選 弘法山」の石碑があります。 「弘法山公園」と題した案内図もあるので参考になります。 以前には「弘法山公園案内図」もあったのですが、少し前からなくなっています。 周囲には関東ふれあいの道などの道標類が幾つか立っています。 それらによると、正面の道は「権現山0.6km」「権現山・南平橋」「弘法山公園 権現山0.5km」、 右手に戻るようにして降っていく道は「蓑毛」「めんようの里・木里館」、 今来た道は「弘法山0.25km」「弘法山公園 弘法山0.3km」となっています。 右手へ降っていくと、先ほどの「めんようの里」に戻ってしまうので、正面に続く広い道を進んでいきます。
弘法山公園鳥獣保護区区域図
この区域は鳥獣の捕獲が禁止されております。 鳥獣の保護にご協力をお願いします。
 (神奈川県)
マナーを守って楽しいハイキング!
★ゴミ捨て禁止 ★草花を大切に ★火気に注意
 (秦野市商工観光課)
馬場道
車止めを過ぎて、山頂にある道とは思えないほど広い尾根道を進んでいきます。 道の両側には桜が並木を作っていて、春には綺麗に彩られる所でもあります。 すぐの所に「馬場道(ばばみち)」の標注が立っています。 戦前には近在の農民が草競馬を楽しんだ所のようです。
龍法寺分岐
馬場道を歩き始めてすぐの所の左側から分かれて降っていく横木の階段があります。 降り口には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手の道は「東海大学前駅」、 正面の道は「権現山」、今来た道は「弘法山」となっています。 脇には「百八松明」と題した解説板も設置されていました。 左手の道は解説板にある龍法寺へ降りて行かれますが、見送っていきます。
(左手の道は「弘法山公園」, 「弘法山公園」を参照)
百八松明(ひゃくはったい)
秦野市南矢名瓜生野地区に室町時代から伝わる旧盆の行事として続いている厄除、豊作を祈る火の祭りです。 旧盆の8月14日と15日の夕刻、麦わらで作った直径30〜40cm、長さ1.0〜2.5mのたいまつ約70本を権現山に運び、 午後7時過ぎに点火、参加者がかついで麓の龍法寺の山門付近までおろします。 暗い山の斜面をえんえんと動くたいまつは火の帯となってたいへん壮観です。
 (秦野市観光協会)
女坂分岐
龍法寺への道を見送ったすぐ先から女坂が右手へ分かれて降っていきます。 入口には「女坂(おんなざか)」の標柱が立っています。 また手前には関東ふれあいの道の里程標があって、この先の道は「下大槻3.4km」、 今来た道は「蓑毛6.5km」となっています。 入口から脇へ少し入っていくと、手前の樹木に邪魔されながらも富士山を望むことが出来ました。 右手の道は十代橋の辺りへ降っていけますが、正面の馬場道を権現山へと向かっていきます。
(右手の道は「弘法山公園」, 「弘法山公園」を参照)
宝くじ桜植栽地
 (日本宝くじ協会、日本さくらの会、神奈川県秦野市)
男坂分岐
女坂を見送っていくと、「森に生きる」と題した彫像があります。 小さなフクロウを膝に抱えた女の子と、大きなフクロウの頭に座った男の子の像です。 その辺りから馬場道の左側の一段高い所に散策路が並行するようになります。 所々にはベンチも設置されています。 弘法山公衆トイレを過ぎた所から男坂が右手へ分かれていきます。 角には「男坂(おとこざか)」の標柱が立っています。 また関東ふれあいの道の道標も立っていて、右手の道は「秦野駅2.5km」、 正面の道は「権現山0.3km」、今来た道は「弘法山0.5km」となっています。 男坂は先ほどの女坂と合流して十代橋の辺りへ降っていけますが、このまま馬場道を進んでいきます。
男坂を見送っていくと、左手のマウンドにテーブル・ベンチが設置された所があります。 左手の樹木が低くなっていて、相模湾方面を眺めることが出来ます。 その先へ進んでいくと、「秦野たばこ」の解説板や記念碑が立っています。 傍には「馬場道(ばばみち)」の標柱も立っていました。 そのすぐ先で道が二手に分かれています。 角には道標が立っていて、右手の道は「弘法山公園 権現山(展望台)まわりみち」、 左手の道は「弘法山公園 権現山(展望台)0.2km」、今来た道は「弘法山公園 弘法山0.6km」となっています。 今回は左手の坂道を登っていきました。 弘法山からの降り道と同じく、中央に階段があって両側は坂になっていますが、道幅はこちらの方が広くなっています。
秦野とたばこの歴史
秦野は、江戸時代初期から、「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及ほし、 味の軽いことから吉原のおいらんに好まれるなど、高く評価されていました。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。
水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る。
と歌にも謳われたように、秦野たばこの特色は優れた耕作技術にありました。 特に苗床は、秦野式改良苗床として、全国の産地に普及したほど優秀なもので した。この苗床には弘法山をはじめ各地区の里山から落ち葉がかき集められ、 堆肥として使用されました。秦野盆地を囲む山林はたばこの栽培に欠かすことのできない場所でした。 明治時代には、秦野煙草試験場や葉煙草専売所が設置され、たばこの町秦野 が発展しました。秦野たばこは水車きざみ機の開発により、大いに生産が拡大 しました。また品質の高さから、御料用葉煙草も栽培されました。 昭和に入って両切りたばこの需要が増えると、次第に秦野葉の栽培は減少し ていきました。秦野市が誕生してからは都市化が進み、昭和59年にはた ばこ耕作そのものが終わりを告げました。 秦野のたばこ栽培は300年以上の長い歴史を持ち、多くの篤農家や技術者を 生み出し、その高い農業技術には今日に今なお継承され、秦野地方を埋め尽くし たたばこ畑はなくなっても、優秀な葉たばこを作った先人たちの心意気はこの 土地にしっかりと息づいています。
 (秦野市)
「秦野たばこ」の一生
たばこの里、秦野のたばこ作りは江戸時代初期からの歴史があり、その最盛期には、 ほとんどの農家がたばこを作りました。「秦野たばこは技術で作る」といわれ全国に名声を博すほどに なりましたが、時の移り変わりとともに衰退し、昭和59年には、ついにその幕を閉じることとなりました。 秦野の経済発展の源となった「たばこ耕作」が、時とともに人々の心から失われぬよう、 たばこ耕作終息10周年に当たり、秦野の「たばこ作り」をここに記します。 なお、たばこの廃作に当たっては、「秦野たばこ作りの火を消すな」と耕作の継続を希望する多数の 農家があったことを付記します。
 (昭和59年度廃作者一同)
1〜3月
(苗床期)
たばこ作りは、正月早々からの苗作りから始まります。 たばこの種子は、1グラムで1万2千粒あるといわれるほど小さいので、 苗床の管理には細心の注意を図り、たばこの芽が出ると、 自分の子供以上に大切に育てます。
4〜6月
(本畑期)
畑に肥料を施し、10アール当たり約4千本もの苗を移植します。 土寄、心止、芽かき、そして台風から苗木を守るための準備など、 休む間もなく仕事は続き、畑の品評会で入賞すると、畑に入賞旗が立てられます。
7〜8月
(収穫,乾燥期)
いよいよ収穫が始まります。この時期が一年で最も忙しい時期であり、 子供たちも学校が夏休みになるので、炎天下でまっ黒になって収穫を手伝います。 そして、収穫した「たばこの葉」は一枚一枚丁寧に縄に編み、竹につるして天火で乾燥します。
9〜10月
(葉のし,調理)
たばこの乾燥が終わると、互いに向き合って、葉のしわを一枚一枚手で伸ばす「たばこのし」が 始まります。この作業は「夜なべ仕事」といって、どの農家でも夜12時ごろまで裸電球の下で行います。 そして、伸ばした葉は、葉の質により等級に分別「調理」し、一束30枚ほどに束ねます。 たばこ葉は「お札」ともいわれ大切に取り扱われました。
11〜12月
(納付)
いよいよ牛車や荷車にたばこの葉を載せ、専売局に納入します。 専売局では、鑑定人が葉を鑑定し、値段を決めます。 この時が一番緊張しますが、この一瞬で農家の1年間の苦労が報われるかどうか決まり、 この瞬間悲喜こもごものドラマが展開されました。専売局の帰りには、夏休みに手伝いをした 子供たちへの土産や、正月の晴れ着などを買い込んで家路につきます。
 (秦野市観光協会)
権現山 (標高243.5m)
結構傾斜がある道を登っていきます。 階段の段差は高くなくて登りやすくなっていますが、坂道の方を歩く人が多いようでした。 左手の樹木が少なくなった所からは相模湾を見渡すことが出来ました。 江の島やその奥の三浦半島もよく見えていました。 4分ほどかけて登り切ると、広くなった権現山に着きます。 弘法山から17分ほどで着きました。 ここは関東ふれあいの道の「弘法大師と桜のみち」と「弘法大師と丹沢へのみち」のコースになっていて、 その案内板も設置されています。
権現山の歴史
通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を千畳敷きとも呼ぶ。 権現山は元々その名の由来とする権現堂があったために名付けられたものである。 龍法寺の伝えに依れば権現山には白山妙理権現が祭られ、 その本地仏として現在龍法寺に安置されている十一面観音菩薩が字観音山に祭られていたという。 また、明治の末頃までは堂の位置を示す土壇も認められたという。 最近の城郭調査によると山頂の北西端には二段の腰郭、東端近くの西南側にも細長い腰郭が 取り巻き大小14箇所もの平場がある。いずれも西北を向いていることから権現山からみて 西(秦野方面)に対する備えを目的としているようである。 築造の時代は室町期の城郭址との報告もだされているが、権現堂との関わりは不明である。 この山頂では毎年8月14、15両日の弘法山の百八松明として親しまれている民俗行事の採火が行われる。 当日の夕方になると東麓の瓜生野部落の人々が2メートル前後の麦藁を束ねた松明を担ぎ登ってくる。 午後7時過ぎ、辺りが暗くなるのを見計らって大きく積み上げた麦藁に点火する。 そして銘々がその火から自分の松明に点火し、年少者から順次麓に向かって下山する。 麓では、女性を中心に今や遅しと待ち受け、一年の無病息災を祈って火の粉をかぶる慣わしがある。
 (秦野市)
関東ふれあいの道
関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)は、一都六県を巡る自然歩道です。 自沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里を見なおしてみませんか。
弘法大師と桜のみち  全長9.4km 南平橋バス停〜坪ノ内バス停。 このコースは、県内17コースのうちの9番目です。 ここから南平橋バス停へは展望台横の階段を降り集落内の道を進みます。 ここから坪ノ内バス停へは、右手の坂を下り馬場道を進んでさらに弘法山へ登ります。 一度国道246号線へ出て新善波隧道をくぐり旧矢倉沢往還道を通って吾妻山に登ります。 下り坂を進んで鶴巻温泉駅方面との分岐を左に曲がり、集落を経て終点坪ノ内バス停に至ります。
弘法大師と丹沢へのみち  全長9.9km 南平橋バス停〜蓑毛バス停。 このコースは、県内17コースのうちの15番目です。 ここから蓑毛バス停へは、右手の坂を下り馬場道を進み、駐車場にでたら市道を下ります。 途中消防団車庫を左折して国道246号線名古木交差点に出ます。 県道秦野清川線に入って少し先を左に入り、さらに集落や田園の中を歩いて再び県道秦野清川線に戻ると小蓑毛バス停です。 小蓑毛バス停から県道を1.4km上ると終点蓑毛バス停に至ります。
 (神奈川県自然環境保全センター)
フィールドの約束
)野外活動は無理なく楽しく
)採取はしないで自然はそのままに
)静かにそーっと
)一本道、道から外れないで
)着るものにも一工夫
)持って帰ろう、思い出とゴミ
)近づかないで、野鳥の巣
シジュウカラ 胸に黒いネクタイの模様があり、平地から山地の林に棲む。ツピーツピーと歌う。
メジロ 黄緑色の体で、目の周りに白いリング。林で昆虫や花の蜜を食す。都市にも増加中。
コゲラ 黒褐色と白のまだら模様の小形のキツツキで、木の幹を叩いたりギィーッと鳴く。
 (神奈川県環境部自然保護課)
正面からは、手前で分かれてきた「まわりみち」が登ってきています。 右手には前田夕暮の碑が富士山に向って立っています。 脇に設置された解説板によると、 この辺りの南矢名地区に生まれ、明治から大正・昭和にかけて活躍した詩人だったようです。
前田夕暮 解説
本名洋造。明治16年7月27日、神奈川県大住郡大根村大字南矢名字小南(現秦野市南矢名)に生まれる。 大根村小学校入学、同校高等科を卒業し、明治31年、隣村の金目村にあった「中郡共立学校」 (現神奈川県立秦野高等学校)に入学。病のため中退。 22歳(明治37年)若山牧水と相前後して、尾上紫舟の門を叩く。 明治39年(24歳)歌の結社「白日社」を創立、44年短歌雑誌「詩歌」を創刊。 与謝野晶子の「明星」派浪漫主義に対抗、自然主義的短歌(感覚的で印象・絵画的)を確立した。 明治43年3月(28歳)処女歌集「収穫」を出版、牧水の「別離」と共に「比翼詩人」(太田水穂)と称され、 明治末から大正初期の歌壇に「牧水・夕暮時代」(斎藤茂吉)を画す。 昭和初頭、定型から口語自由律短歌に転向し、新しい日本の詩として「新興短歌」に賭けた。 昭和期の短歌運動を考えるとき、その先駆的、時代的意義は高く評価される。晩年、定型に復す。 実に40余年、歌集十数集、散文・随筆九集、その他の著作を成し、常に文学としての短歌を追求し、 近代短歌史上自然主義主法による歌壇の革新とし清新・異質な足跡を残した。 昭和25年10月、県立秦野高校創立25周年(草創から80年)の記念事業の一つとして、 国語教諭で歌人である杉山茂夫(長風)が、郷土の一大歌人、夕暮を永く語り継ぐべく、 歌碑の建立を生徒集会で訴える。 秦野市観光協会の建設費支援と、延べ150余名に及ぶ在校生・教職員・有志による、台石・礎石とりや、 山頂への運搬などの労力奉仕によって、夕暮のふる里ゆかりの弘法山、菜の花畑と秦野市内を見降ろす、 権現山山頂の富士に真向かう、この地に建立された。 自由律短歌による三歌碑に続き、郷里母校の在校生の手によって建立された、 史上希有なる定型短歌を刻んだ第四歌碑である。 因みに、夕暮は歌碑の完成を待たず、昭和26年4月20日、69歳で永眠。 枕辺のノートには「ふるさとの高校生 夕暮の歌碑」と書き記して筆を絶つ。 同年7月29日除幕。 ここに夕暮及び歌碑建立の経緯をも記し、永く顕彰する。
生くることかなしとおもふ山峡ははだら雪ふり月照りにけり
 (神奈川県立秦野高等学校同窓会、秦野市観光協会)
前田夕暮の碑の先に立つ平和塔を過ぎていくと権現山バードサンクチュアリがあります。 木製の壁には小窓が幾つも開いていて、向こう側を観察することができます。 窓から覗いてみましたが、この時には小鳥は見かけませんでした。 寒い日とあって、林に設置されている水飲み場の袂には氷が出来ていました。
水場にくる野鳥たち
メジロ 全長11.5cm。うぐいす色で目のまわりが白い。チーチーと鳴く。
ヤマガラ 全長14cm。オレンジ色のおなかが目立つ。ツーツーピー、ツーツーピーとゆっくりさえずる。
シジュウカラ 全長14.5cm。ほほが白く、白いおなかに黒いネクタイもよう。ツツピーツツピーとさえずる。
エナガ 全長13.5cm。白いおなかに黒とピンク色の翼が目立つ。尾が全体の半分の長さ、群れで生活。チーチーチー、チャッチャッ、ジュリリと鳴く。
ホオジロ 全長16.5cm。白い顔で目の下と口元に黒い線。飛ぶと尾の外側の白が目立つ。チチッ、チチッと鳴き、「一筆啓上仕候」のききなしでさえずる。
ジョウビタキ 全長14cm。オスのオレンジ色のおなかと、オス・メスのつばさの白い斑が目立つ。ヒッヒッと鳴き尾をふる。
ルリビタキ 全長14cm。背のるり色があざやか。脇のオレンジ色もポイント。ヒッヒッ、ギュッギュッなどと鳴く。
キビタキ 全長13.5cm。黒い体に黄色の胸、腰、まゆが鮮やか。さえずりが美しい。ピッコロピッコロ、オーシイー、ツクツク、チンチロリン。
オオルリ 全長16.5cm。顔が黒く背がるり色。昆虫などをフライキャッチでとらえて食べる。ピーリーリー、ポイヒーピヒ、ピールリピールリ、ジェッジェッなどとさえずる。
エゾビタキ 全長14.5cm。オス・メス同色で胸の縦じま模様が特色。ハエなどをフライキャッチしたり木の実を食べたりする。渡り途中にチリリ・・・・と鳴く。
小鳥たちにエサを与えたり、まいたりしないで、自然の小鳥を観察しましょう。 みんなの協力で楽しい公園にして下さい。
皆さんのバードサンクチュアリです。 譲り合ってバードウォッチングしましょう。
 (秦野市商工観光課)
権現山の山頂広場を南の方へ進んでいくと、公園展望台が建っています。 その脇には「関東の富士見百景」の碑や、「愛の光」と題した像も立っています。 三等三角点や、正確に東西南北を指し示している十字形に割れた石もあります。
公園展望台
弘法山公園には、市内外から多くの観光客が訪れています。 また、元旦の「歩け歩け運動推進大会」や「弘法山桜まつり」「瓜生野百八松明」等 伝統行事の舞台にもなっています。 眼下に秦野の街を、そして、相模湾、霊峰富士、丹沢大山連峰を望む権現山のこの場所には、 昭和25年に神奈川県及び神奈川新聞社の主催による「神奈川県新八景」に当選したことを 記念して建てられた見晴台がありました。 建築後50年を経て老朽化していたこともあり、21世紀を迎える記念事業として、 このまちの限りない発展と世界の恒久平和を祈念し、この展望台に建て替えたものであります。
  (秦野市長)
「関東の富士見百景」選定地
弘法山公園展望台は、2001年に建て替え、雄大な霊峰「富士山」を背景に 「水とみどりのゆたかな里」秦野盆地を望む展望ポイントとして、市民や来秦のハイカーの皆さんに親しまれています。 そして、良好な景観の維持・保全のため多くの市民が行う清掃やゴミ拾い等の活動が高く評価され、 2005年11月「関東の富士見百景」に選定されました。 また、市政施行50周年記念事業で公募した「ふるさと秦野景観100選」でも、 ここからの富士山の眺望が最も多くの市民の支持をあつめました。
 (秦野市)
愛の光
目は心の窓であり、目は生きる力です。 美しいものも愛の心も光も風もすべて感受してこそ人は生きる喜びをもてるのです。 本市で惜しくも視力を失った人のために、自分の角膜を献眼された方々へ深い感謝をこめて、 その尊い愛と奉仕の心を偲び、ここに眺望絶佳の権現山に「愛の光」と題し、記念碑を建立します。
 (秦野ライオンズクラブ)
公園展望台の上階に登ると、360度の素晴しい眺めが広がっています。 眼下に広がる秦野の街の向こうには、丹沢から箱根にかけての山並が連なり、 その奥には雪を頂いた富士山もよく見えていました。 相模湾の沖には伊豆大島の島影も見えていました。 何枚も写真を撮りながら、しばらく眺めを楽しんでいきました。
(画像を左クリックすると、12枚の写真が順次表示されます)
眺めを堪能したら、権現山から下山していきます。 展望台の右に続く横木の階段を降っていきます。 脇には道標が立っていて、「秦野駅2.3km」「弘法山公園 浅間山0.4km」となっています。 冠雪した富士山を正面に眺めながら広い階段を降り始めると、 以前に使われていた階段が左手へ分かれていきます。 付け替えられた理由はよく分かりませんが、新しい階段は右手から回り込むようにして続いています。 いずれの階段もすぐ下で合流しています。 合流した新旧の階段を先へ降っていくと、右側にはロープ柵が続くようになります。 山頂から3分ほど降っていくと右手から山道が合流してきます。 かなりしっかりとした道ですが、引き続き設置されているロープ柵で入口は閉ざされています。
浅間山駐車場
横木の階段が終わると左側にガードレールが設置されています。 そこを過ぎて少し右へ曲がって降っていくと舗装路に降り立ちます。 山頂から6分ほどで降りて来られました。 脇には道標が立っていて、今降ってきた道は「弘法山公園 権現山(展望台)0.2km」 「弘法山公園 弘法山1.0km」「鶴巻温泉駅4.9km・吾妻山4.0km」となっています。 また関東ふれあいの道の道標も立っていて、左手の道は「下大槻・南平橋」となっています。 道路向かいには浅間山駐車場があります。 舗装路を左手へ進んでいくと、ちょっとした切通しのような所から右手へ分かれていく尾根道があります。 入口には道標が立っていて、右手の道は「弘法山公園 浅間山0.2km」「秦野駅2.1km」、 今来た道は「弘法山公園 弘法山1.0km・権現山(展望台)0.2km」「鶴巻温泉駅4.9km・吾妻山4.0km」となっています。 関東ふれあいの道は左側の舗装路に続いていますが、今回は右側の尾根道から浅間山へ向っていきます。
鳥を大切に
野鳥を捕るには許可が必要です。あなたは?
 (神奈川県)
左右に四角柱の杭が打ち込まれた横木の階段を登っていきます。 左側に三つ並んだ木を模した円筒形のトイレを見送って、道なりに右へ曲がっていきます。 周囲に咲いているツバキやレンギョウが仄かな香りを漂わせていました。 少し古くなっていましたが、道には木片チップが敷かれてフワフワとしていました。 右下にテーブル・ベンチが幾つか設置された広場風の所があって、丹沢方面を見渡すことが出来ました。
浅間山
緩やかな尾根道を登っていくと、駐車場から3分半ほどで浅間山に着きました。 山頂には東屋が建っていて、脇には「浅間山」と書かれた標識もあります。 緩やかな山頂部の中でもここが一番高い所のようで、地形図によると、標高190mほどの細長くなった高みになるようです。 道の脇には道標が立っていて、正面の道は「秦野駅1.9km」、 今来た道は「弘法山公園 弘法山1.2km・権現山0.4km」「弘法山公園 浅間山駐車場」「公衆トイレ0.2km」となっています。 周囲に樹木が生い茂っていて展望はあまり良くありませんが、 冬枯れの木立の間からは、秦野の街並みや山並みなどが見えていました。
四角柱の杭が打ち込まれた広い尾根道を緩やかに降っていきます。 周囲には桜の木が並木を作っていて、花の季節には綺麗に彩られる所でもあります。 少し右へ曲がっていくと、左側の樹木が途切れた所があって、 丹沢から箱根へと続く山並の奥には、冠雪した綺麗な富士山を望むことが出来ました。 左手の方には、特徴的な姿をした矢倉岳や金時山も見えていました。 その先へ進んでいくと、テーブル・ベンチの脇から少し左へ曲がって降り坂が始まります。 脇には道標が立っていて、ここは「浅間山」、 今来た道は「権現山まで0.3km・弘法山まで1.1km」となっていました。
横木の階段を1分ほど降っていくと、尾根の背から外れて左傾斜の斜面を降るようになります。 その降り始めの右手に小広い所があって、そこに石祠がありました。 祠の前には階段のようにして石が置かれていました。 参道ということなのでしょうか。 祠の中を覗ってみると「木花咲耶比売大神」(*)と書かれた木簡が納められていました。
*「比」の文字は、「田」扁に「比」と書きます。
雑木林に続く横木の階段を降っていきます。 石祠から2分ほど降っていくと植林地へ入っていきます。 右・左とジグザグに折れ曲がりながら、かなり傾斜のある階段を降っていきます。 石祠から6分ほど降っていくと植林帯を抜けて、冬枯れの明るい雑木林を降るようになります。 樹間から秦野の街並みや箱根や富士山の山並みを眺めながら、引き続きジグザグに折れ曲がりながら降っていきます。 石祠から6分ほど降った所の曲がり角には、テーブル・ベンチが一組設置されていました。
テーブル・ベンチを過ぎて、ジグザグに折れ曲がりながら雑木林の斜面を更に降っていくと、 金目川に流れ込む加茂川の畔に降り立ちました。 これで山道は終わりになります。 浅間山から16分ほどで降りて来られました。 降り立った所には道標が立っていて、今降ってきた階段は「弘法山公園 弘法山・権現山・浅間山」となっています。
弘法山公園入口
川沿いに左手へ進んでいくとコンクリート橋が架かっています。 左側には「下口接合井」の表札の掛る設備があります。 橋を渡っていくと、柵で囲まれた神奈川県内広域水道企業団の水道設備があります。 柵沿いに右手へ進んでいくと県道71号に出ます。 出た所には「弘法山公園入口」と書かれた切り株を模した大きな案内標識があります。 傍には道標も立っていて、左手の道は「秦野駅1.4km」、 今来た道は「権現山(展望台)0.9km・浅間山0.5km」、「弘法山公園 弘法山1.7km」、 「鶴巻温泉駅5.6km・吾妻山4.7km」となっています。 正面にある横断歩道を渡って左手へ進んでいきます。
河原町(かわらまち)バス停
金目川に架かる弘法橋を渡り、すぐ先にある河原町交差点を右折して県道62号を進んでいきます。 命徳寺のこんもりとした森の所まで来ると河原町バス停があります。 このまま進んでいくと、あと10分ほどで秦野駅(小田急小田原線)に着きますが、 すぐにバスが来るようだったし、平塚駅まではまだ乗ったことがないので、 今回はここで散策を終えて、平塚駅へ向かうことにしました。
平塚駅(JR東海道線)まで、[平71][平74]平塚駅北口行きバスにて31分から36分、 1時間に4本程度の便があります。