志田尾根
散策:2011年12月下旬
【低山ハイク】 志田尾根
概 要 志田尾根は愛川町の中津川沿いにあって、富士居山・向山・大峰などが連なる低い山並です。 尾根道には道標などが設置されていて、ハイキングコースとして整備されています。 今回は志田尾根を縦走した後、境沢沿いの小尾根から国道に出て、 志田峠を越えて三増合戦場跡へと降っていきます。
起 点 愛川町 田代坂上バス停
終 点 愛川町 三増バス停
ルート 田代坂上バス停…登り口…富士居山…老人センター分岐…隠川分岐…展望地…志田峠分岐…向山…石碑群…大峰…横根地区…秋葉稲荷神社…小ピーク…ル・ポン…清正光…志田峠…旗立松分岐…三増合戦場跡…諏訪神社…三増バス停
所要時間 4時間40分
歩いて... 志田尾根に続く道は分かり易くなっていましたが、 かなり傾斜が急な所もあって、脹脛が痛くなってきたり汗が滲んできたりもしました。 秋葉稲荷神社から小ピークを経て国道に降るルートは明瞭な道ではありませんでした。 志田峠を越えていく道は拡幅工事中で、往時の面影は薄れ気味になっていました。
関連メモ 北条武田合戦場のみち, 南山遊歩道
コース紹介
田代坂上(たしろさかうえ)バス停
本厚木駅(小田急小田原線)の北口から、[厚02]半原行きバスにて36分、1時間に1本程度の便があります。 淵野辺駅(JR横浜線)の南口から、[淵59]半原行きバスにて43分、1時間に1本程度の便があります。
バス停のすぐ先に、中津川に架かる馬渡橋があります。 その手前から右手に戻るようにして続く坂道を登っていきます。
本厚木駅からは[厚01]半原行きバスもありますが、このバス停のある道は通りません。 そのバスに乗った場合は清雲寺入口バス停で下車し、少し引き返して馬渡橋を渡ってくることになります。
鉄柵が設置された崖沿いの坂道を1分ほど登っていくと、右手から登ってくる二車線道路に出ます。 道路向かいには道祖神や庚申塔などが並んでいて、その脇には「しべ山坂」の石標が立っていました。 道路を左折して道なりに登っていきます。 緩やかになってきた道を進んでいくと、高い網が張り巡らされた愛川中学校のグラウンドが左側にあります。 その袂に中学校前バス停がありますが、朝方に厚木駅行き、夕方に半原行きの便が僅かにある程度です。 脇には「田代城址」の解説板が立っていて、 少し先には「健康づくり田代散策コース案内板」もありました。 この図に載っている「環境改善センター」の先が、富士居山への登り口になります。
しべ山坂
しべ山(昔、水防の応急材料にした雑木の細枝を採ったところ)に至る坂をいう。
田代城址
田代城は室町時代の山城で、自然の地形をそのまま要害とした武士の居館であった。 築城の年月は不詳。 城域は23,300平方メートルほどの広さをもち、南の方を表口としていた。 城主は小田原北条氏の幕下にあった内藤氏で、下野守秀勝とその子三郎兵衛秀行の二代が在城し、 田代・半原・小曽郷(海底)・隅田(角田)・箕輪下村・坂本・五坊(北原)・磯辺を領地としていた。 永禄十二年(1569)十月、武田信玄小田原攻めのおりに、この城は落城したと伝えられる。 城址には石塁跡と守護の八幡社があり、位置場、うまやなどの地名を残している。
 (愛川町教育委員会)
コンクリート補強された崖沿いを登り始める所に「西坂」の標柱が立っていました。 その先から右手へ降っていく道を分けて崖沿いに登っていくと、 左手へ曲がっていく所に上野原バス停がありますが、先ほどと同様の便数になっています。 曲がり角には「田代・上原 道標」の解説板が設置されていて、脇には丸まった石標もありました。 そこを過ぎてこんもりとした竹の森の傍まで来ると、道端に馬頭観世音や庚申塔が並んでいて、 脇には「上原の庚申塔」の解説板もありました。 「百萬遍供養」と刻まれた石碑や「念仏供養」と刻まれた石仏もありました。 石段の上には小祠がありました。 名前は記されていませんでしたが、先ほど見かけた案内板によると山王社というようでした。
田代・上原 道標
この道は、かつての甲州みちであった。 厚木市上荻野の打越から、当町の海底を経て、中津川をわたり、関場坂からここに至り、 それから志田峠を越え、津久井の鼠坂の関所を過ぎて吉野宿へと通じる、小田原から甲州への通路であった。 道標には「甲州道中」「右よしのねんさか道」とあり、江戸中期ごろの建立とされている。 また、近世には、領主の使臣が村むらを巡視する道すじであったことから「巡見道」とも呼ばれ、 ほかに「津久井道」「志田道」の名もあった。
 (愛川町教育委員会)
上原の庚申塔
田代上原の庚申塔は、数ある町内の庚申塔の中で最も古く、寛文八年(1668)の造立である。 碑面には、神像とも仏像ともとれる珍しい異形像が浮彫されており、初期庚申塔の一形態を示している。 下部には三猿が刻され「相州愛光郡上川入田代村」とある。 庚申とは、干支のうち、庚と申の組み合わさった日で、この日を特別な日として信仰行事が行われていた。 これを庚申待といい、塔を建てる習慣があった。
 (愛川町教育委員会)
庚申塔を過ぎて行くと、正面から左手にかけて開けてきて、山並を見渡せる眺めが広がってきます。 左手に横たわる山並は、高取山から仏果山にかけての山々のようでした。 正面に見えている山が、これから向かう富士居山だろうと思いながら進んでいきました。 サイロが並んだ酪農場への道を分けていくと、少し登り坂になってきます。 坂の上まで来ると、道端に「胴塚」の解説板が立っていました。 坂を越えて僅かに降り始めると、道路は右手へ曲がっていきますが、 曲がり角から正面に分かれていく道を進んでいきます。 進み始めたすぐの所の石垣の上に「首塚」がありました。 石段を登っていくと、脇には「不動」と刻まれた石碑や馬頭観音があり、正面に小祠がありました。
胴塚
永禄十二年(1569)十月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、 小田原の方丈両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。 そのおり、討ち取られた首級は、ここから150メートルほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、 首級を除いた遺骸は、すぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され、塚を築いてそのしるしとした。 この地では、それを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている。
 (愛川町教育委員会)
首塚
不動明王を祀る小高い所を首塚という。 宝永三年(1706)建立の供養塔がある。 このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が、 北条軍の虚をつき背後から討って出て、 それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。 この戦いのあと、戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、 道をへだてた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。 なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる。
 (愛川町教育委員会)
登り口
愛川町農村環境改善センターの白い建物の脇まで来ると、森の手前から左手に道が分かれていきます。 その角からは森へ続く階段もありますが、そのまま正面の道を進んでいきます。 右手に広がるグラウンドを眺めながら進んでいくと、左側の石垣の途中に石段があります。 ここが志田尾根にある富士居山への登り口になります。 田代坂上バス停から30分ほどで着きました。 階段の袂には分厚い板が落ちていました。 裏面には留め具が取り付けられていて、以前には道標だったように思えます。 文字らしきものも見うけられましたが、ほどんど消えていて判読出来ませんでした。
石段を登っていくと、左手の墓地への石段が分かれていきます。 石段を見送ってその先へ登っていくと茶畑の脇に出ます。 右手に続く金網柵沿いに登っていくと、 森の手前にある墓地からは、茶畑や仏果山などの山並を見渡せる眺めが広がっていました。 笹竹などが茂る広い道を進んでいくと、程なくして植林帯に入っていきます。 落ち葉が積もる植林帯を登っていくと、道は高みを巻くようにして左手へ曲がりながら続いています。 斜面を横切るように登っていくと、愛川山岳会が設置する道標が立っていて、 右手の道は「富士居山」、今来た道は「環境改善センター」となっていました。 左手からも踏み跡が登ってきていましたが、張られたロープで柵がされていました。 ここは道標に従って、右手の尾根を登っていきます。
富士居山 (標高252.9m)
かなり傾斜がある尾根を登っていきます。 脹脛が痛くなってくるような坂を、落ち葉に足を滑らせたりしなよう注意しながら真っ直ぐ登っていくと、 三等三角点のある富士居山の山頂に着きました。 登り口から10分ほどで登って来られました。 山頂には「富士居山(ふじいやま) 標高252.9m」の標識が立っていました。 道標も立っていて、正面に降っていく道は「大峰2.9km・向山2.0km」、 今来た道は「環境改善センター0.4km」となっています。 また、金属製の小さな祠もありました。 田代城の狼煙台が置かれた所とのことですが、それらしい遺構は見かけませんでした。 周囲は樹木に被われていて展望はあまり良くありませんが、西側が少し開けていて山並を見渡すことが出来ました。 急登で疲れた脚を癒しながら、しばらく眺めを楽しんでいきました。
老人センター分岐
ひと息入れたら、富士居山の先へ降っていきます。 登ってきた急坂と比べて傾斜が緩やかで歩き易くなっていました。 僅かに登る所もありますが、降り基調の道が続きます。 5分ほど降って鞍部に着いて登り返していくと、僅かな高みに着きます。 富士居山の北西300m辺りにある標高240mほどの高みになるようです。 尾根には樹木が生い茂っていて、展望は総じて良くありません。 僅かな鞍部に着いて登り返していくと、左右に伸びる開けた尾根に出ました。 富士居山から12分ほどの所になります。 中ほどには道標が立っていて、右手の道は「向山1.5km・大峰2.3km」、 左手の道は「愛川橋バス停0.7km・老人センター0.4km」、今来た道は「改善センター0.9km・富士居山0.5km」となっています。 ここは右手に続く尾根を登っていきます。
隠川分岐
広い尾根の背を登っていきます。 傾斜はそれほど急ではなくて、歩き易くなっていました。 4分ほど登っていくと緩やかな尾根が続くようになります。 地形図に載っている256m峰の標識は見つけられませんでしたが、緩やかな高みの何処かにあるのでしょう。 少し降り坂になってきた尾根を進んでいくと、道幅が広がって明るくなった所に出ました。 富士居山から21分ほどの所になります。 中ほどには道標が立っていて、右前方の道は「大峰1..8km・向山1.0km」、 左前方の道は「愛川橋バス停0.5km・隠川0.4km」、 右手の道は「志田0.8km・三増合戦場碑1.8km」、 今来た道は「富士居山1.0km・改善センター1.4km」となっていますが、 左前方と右手を指す板の先を覗っても、樹木が雑然としているばかりで、それらしい踏み跡は分かりませんでした。 道標によると、ここは富士居山と向山との中間地点になるようなので、 あと20分ほどで向山に着くだろうと思いながら、右前方へ続く道を登っていきました。
展望地
植林帯から雑木林へ変わってくる尾根を6分ほど登っていくと高みに着きました。 地形図によると、富士居山の北西900m辺りにある標高270mほどの高みになるようです。 そこを過ぎて植林帯を降っていきます。 鞍部に着いて登り返していくと、左手の樹木が少なくなって展望が広がる所がありました。 隠川分岐から8分ほどの所になります。 今回の志田尾根には展望が広がる所が少ないので、貴重な眺めになります。 手前の樹木に邪魔されながらも、眼下には半原の街並みが広がり、 その奥の方には南山や永峰や宮ヶ瀬ダムなどが見えていました。
展望を確認したらその先へ登っていきます。 次第に傾斜が増してきて脹脛が痛くなってきました。 寒い季節ながら額には汗も滲んでくるので、呼吸を整えながらゆっくりと登っていきました。 そんな登り坂も5分ほどで緩やかになってきます。 ひと心地つきながら歩いていくと、僅かに降ってから再び急な登り坂になってきます。 また脹脛が痛くなり汗も噴き出てきました。 やがて傾斜が緩やかになってきた植林帯を進んでいくと、道の脇に鉄パイプで組んだがありました。 隠川分岐から27分ほどの所になります。 上にはアンテナが取り付けられていて、袂には分配器のような装置もあったので、 共同視聴用のアンテナでしょうか。
志田峠分岐
櫓の右脇に続く尾根道を進んでいくと、すぐの所に分岐があります。 7年ほど前に来た時には何も見かけませんでしたが、 この時には角に道標が立っていて、右手の道は「志田峠0.3km」、 正面の道は「大峰0.9km・向山0.1km」、今来た道は「富士居山2.0km」となっています。 右手の道は志田峠へ降っていけますが、正面の先に見えている鉄塔へ向かっていきます。
(右手の道は「南山遊歩道」を参照)
向山 (標高375.2m)
緩やかな尾根道を数10m進んでいくと、志田尾根の最高峰の向山に着きました。 隠川分岐から30分ほど、富士居山から51分ほどで到着しました。 急な登り坂があったので、中間地点の隠川分岐までよりも5割ほど余計に時間がかかりました。 中ほどには「向山(むこうやま) 標高375.2m」の標識が立っていました。 周囲は樹木に被われていて展望は良くありません。 左右に立つ電波塔は、NHKとTVKの愛川テレビ中継放送所のようです。 袂にある案内板はすっかり文字が消えて読めなくなっていましたが、 以前に来た時には読めたので、その時の内容を参考までに載せておきます。
(案内板に記された標高は100mほど違っているようでした)
NHK・TVK 愛川テレビ中継放送所
この放送所はNHK及びTVKテレビの放送を送り出しています。 ここの設備は自動化されていて機械の状況を定期的に点検することになっています。 受信できる範囲は愛川町及び津久井町の一部約2,500世帯です。 どうかここの施設を大切にして下さるようお願いします。
施設のあらまし
位置:東経139度16分43秒,北緯35度32分39秒 海抜高:275m 建物:延3.3u
総合テレビ教育テレビテレビ神奈川
空中線形式2ヶ双ループ2面2段総合と共用NHKと共用
空中線地上高16m16m16m
送信チャンネル373533
送信出力10W10W10W
石碑群
向山を過ぎて植林帯を降っていきます。 かなり傾斜のある坂道を3分ほど降っていくと鞍部に着きます。 そこから登り返していくと道標が立っていて、 正面の道は「真名倉1.2km・大峰0.6km」、今来た道は「向山0.2km・富士居山2.2km」となっています。 向山から6分ほどの所になります。 道は尾根の背の少し下に続いています。 尾根道をそのまま進んでいってもいいのですが、道標の右脇から右手に分かれていく踏み跡に入っていきました。 尾根の背に出ると、「清正光」「大日天王・摩利小天・大月天王」「七面大天女」などと刻まれた石碑が沢山並んでいました。 緑色の絨毯のようなものも敷かれて綺麗に整備された所です。 先の方へ進んでいくと、右手に降っていく石段があります。 その下には清正光のお堂が見えていますが、左下の尾根道に降りて、その先へ進んでいきました。
緩やかな登り坂になった尾根道を進んでいきます。 僅かな高みを越えて降っていきます。 大きなモミの木を過ぎて鞍部に着き、植林帯を登り返していくと、細い道が左手へ分かれていきます。 角には道標が立っていて、左手の道は「真名倉0.6km・半原市街地1.1km」、 正面の道は「大峰」、今来た道は「富士居山2.8km・向山0.8km」となっています。 今回はここから左手へ降っていくのですが、その前に、すぐ先にある大峰に立ち寄っていきました。
大峰 (標高334.5m)
分岐を見送っていくと、すぐに大峰に着きます。 石碑群の確認の6分も含めて、向山から23分ほどで到着しました。 中ほどには「大峰(おおみね) 標高334.5m」の標識が立っていました。 周囲には樹木が生えていて、展望は得られません。 この先にも踏み跡が続いているようでしたが、あまり明瞭ではありませんでした。
手前の分岐まで引き返してきて、道標「真名倉・半原市街地」の指す踏み跡を降っていきます。 雑木林の斜面に続く細い道の上には落ち葉が積もっていて、滑り易くなっていました。 右・左と何度も折れ曲がりながら、かなり傾斜のある斜面を降っていきます。 樹木の幹には赤・黄・白などのテープが巻かれていて、道を示しているようでした。 7分ほど降っていくと、緩やかな尾根になります。 花を咲かせたツバキの木を過ぎて再び降り坂になった道を進んでいくと、左手に曲がっていく角に道標が立っていました。 尾根から10分ほど降った所になります。 左手の道は「半原バスターミナル0.7km」、今降って来た道は「大峰0.4km・向山1.2km」となっています。
横根地区
道標に従って左折して3分ほど降っていくと竹林が現れます。 曲がりながら竹林へ入って降っていくと、下の方に民家が見えてきます。 植林も混じる竹林を降っていくと、境沢に金属製の小橋が架かっている所に降り立ちました。 大峰から18分ほどで降りて来られました。 志田尾根の登り口から1時間50分ほどの縦走でした。 手元の地図によると、この辺りは横根地区というようです。 小橋を渡って、民家の庭のような所を過ぎていくと、住宅地のT字路に出ました。 脇に立つカーブミラーには木製の案内標識が取り付けられていて、 「大峰・向山・富士居山登山口」「登山道」「半原バスターミナル・宮ヶ瀬ダム方面」となっていました。 半原バス停へは左手に降っていけば良いのですが、今回はここから右手へと進んでいきました。
住宅地の坂道を登っていきます。 道祖神や馬頭観世音が集まっている所を過ぎていくと、道は左手にある民家の玄関へと曲がっていきます。 その角から正面へ分かれていく道に入っていきます。 青緑色の金網柵に沿って進んでいくと、右側を流れる境沢に砂防ダムがありました。 金網柵が途切れた先へ進んでいくと、沢が二手から合流している所に出ました。 その左側の沢には、大峰から降りてきた所にあったのと同様の金属製の小橋が架かっています。
急傾斜地崩壊危険区域 半原川北地区
この地域において土地の掘さく等の行為をする場合は知事の許可が必要ですから 厚木土木事務所にご相談下さい。
 (神奈川県)
秋葉稲荷神社
小橋を渡っていくと、左右の沢の間の尾根に石段が続いています。 登り口には「稲荷 秋葉 神社」と刻まれた石碑がありました。 石段の途中に立つ鳥居を過ぎて登っていくと、石灯籠を過ぎた先に小振りの社が建っていました。 社の中には石祠が二つ納められていました。 由緒などを記したものは見かけませんでしたが、 秋葉神社稲荷神社を合祀した社ということでしょうか。
社の左側から裏手に出て、その上に続く尾根を登っていきます。 参道になっているのか、人手で石などを置いた階段が設けられていました。 そんな尾根を登って肩に着くと石碑がありました。 「…上人」「南無阿弥陀佛」「蓮…上人」などと刻まれているようでしたが、達筆過ぎてよく読めませんでした。 裏側にも建立した日付を刻んだ文字が見うけられましたが、これもよく読めませんでした。 参道らしき道はここで終わっていますが、石碑の右手の奥へ続く細い小尾根を進んでいきました。
小ピーク
馬の背のような痩せ尾根を進んでいくと、すぐに登り坂になってきます。 明瞭な道はないものの樹木は煩わしくなくて、何とか登っていくことが出来ました。 しかし、かなり傾斜があるし、両側は深い谷になっているので、木などに掴まりながら慎重に登っていきました。 石碑から3分半ほど登っていくと、境界標識のある小ピークに着きました。 高みの先に続く緩やかな降り坂になった尾根へ入っていくと、枝を伸ばした樹木が覆っていて進めなくなりました。 左下すぐの所には車道が通っていて、柵のようなものは見えなかったので、 左手の急斜面を降っていくことにしました。
木などに掴まりながら急斜面を10mほど降っていくと国道412号に降り立ちました。 横根地区に降り立った所から14分ほどで出られました。 脇には「ここより津久井土木事務所管内」「ここより厚木土木事務所管内」の標柱が立っていました。 左側の沢を渡った所には、向こう側を向いて「相模原市」の道路標識が掲げられています。 右手の少し先には逆を向いて「愛川町」の道路標識が掲げられています。 ここは相模原市津久井町と愛川町の境界になっているようでした。 道路向かいには服部牧場の看板が設置されていて、正面に分かれていく道を指しています。 美味しそうなジェラートの絵も描かれていて興味を引かれますが、右手に続く国道を進んでいきました。
登り坂になった国道を進んでいきます。 切通のような所を過ぎて緩やかになってくると、信号機の設置された分岐があります。 右手の石垣の上には、「清正光大菩薩」と刻まれた石碑が並んでいました。 角には「フォレスト津久井」や「東京農工大学FM津久井入口」の看板が立っていて、右手の道を指しています。 今回はここを右折していくのですが、信号を過ぎた先の方に「丹沢あんぱん」の看板が見えたので、 お昼を少し過ぎた時刻になったことだし、ちょいと立ち寄っていくことにしました。
ル・ポン
ひとつ先の信号を直進して清正光入口バス停を過ぎていくと、 道路の左側に「丹沢 あんぱん 謹製 工場直売」と書かれた看板が立っています。 オギノパンが経営する「ル・ポン」という工場直売所のようでした。 特大の招き猫に導かれるようにして店の中へ入ってみると、何種類ものパンが販売されていました。 手頃なのを見繕って幾つか買い、入口の傍に設置されているベンチに腰掛けて、暫しの昼食タイムにしました。
「ル・ポン」とはフランス語で「橋」という意味のようです。 1970年の相模湖大橋の完成に因んで名付けられたようで、 パン職人と顧客との架け橋になりたいという気持ちが込められているようです。
お腹も満ちたところで、手前の分岐まで引き返して左折していきます。 製材工場「フォレスト津久井」を過ぎていくと、左手には畑地が広がってきます。 その奥には雨乞山が聳えています。 右手からの道を併せて進んでいくと、石垣のある所から左手へ道が分かれていきます。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の道は「志田峠1.0km」、 左手の道は「韮尾根バス停0.9km」となっています。 ここからは関東ふれあいの道「北条武田合戦場のみち」にもなっているルートになります。 分岐を直進していくと、すぐに坂道が左手へ分かれています。 角には「東京農工大農学部附属広域都市圏フィールドサイエンス教育研究センター フィールドミュージアム津久井」の 看板が出ていますが、そのまま正面の道を進んでいきます。
左手にある民家への道を分けて真っ直ぐ進んでいきます。 以前は未舗装路で幅も狭かったように記憶していますが、この時には拡幅された舗装路になっていました。 まだ工事は終わっていないようで、山側を削って拡幅した跡にはシートが被せられていました。 緩やかな登り坂になった道を進んでいくと分岐があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の道は「志田峠」、 右手の道は「朝日寺」、今来た道は「韮尾根」となっています。 今回も朝日寺へ立ち寄って行くべく右手の道を進んでいきました。 駐車スペースになっている広場に出ると、右手の山の上へと幅の広い石段が続いています。 「喜見梯」と呼ばれる石段で、213段あるのだそうですが、 右側にある祠へ続く横木の階段が分かれていたので、そちらを登っていきました。
清正光
寺号:志田山朝日寺  正安元年(1299)鎌倉に実成庵として中老日実が開基、昭和9年鎌倉より移転し 旧号実成庵を志田山朝日寺と改める。昭和27年「清正光」として単独の宗教法人となる。
本尊:清正光大菩薩  明治10年(1877)志田山に勧請する。その神体は天の三光(太陽・月・星)で、 清正光の名は、三光天子(日天子、月天子、明星天子)の教えを象徴して 神格としたもので、「清」は清らかな汚れない光で、すべての物を平等に 照らしてくれる太陽の教えを、「正」は不正を破り正しい道を明らかにする 明星の教えを、「光」は優しく愛する月の光の教えを顕しています。
 (環境庁・神奈川県)
山歩く 心にいつも 火の用心
山火事注意
 (神奈川県)
発砲注意!
この付近は人家などあり注意!
 (神奈川県)
幅の広い横木の階段を登っていくと、すぐに祠があります。 中には白木の社が納められていました。 名前は分かりませんでしたが、小さな狐像が置かれていたので稲荷社でしょうか。 祠を過ぎて、植林地を曲がりながら登っていくと、石段の途中に出ました。 大きな石柱が両側に立っていて、「喜見梯」「記念柱」と刻まれていました。 右手に続く石段を登っていくと、庫裡と思われる建物があります。
(庫裡の脇には犬が二匹いて吼え立ててきましたが、鎖で繋がれていたので難を逃れました)
画像を左クリックすると、5枚の写真が順次表示されます。
清正光
庫裡の右脇を過ぎていくと、再び石段が現れます。 石段を登り詰めると広い境内に出ます。 樹間を流れる風のしらべと荘厳なたたずまいは心を洗われるようですが、 正月が近いというのに何の飾り付けもなくて、ひっそりとしていました。 この時には、境内に霜柱が出来ていました。 お堂には「朝日寺」の提灯が掲げられていますが、 下にあった解説板によると、今では清正光という名前になっているようです。 石段を登った所には清正光別院というお堂もありました。 他にもお堂や鐘付き堂などが幾つかありました。 境内の奥に続く石段は、志田尾根にあった石碑群へ登って行かれます。
注意
境内の山草及び樹木等を取ることを禁ず。
 (志田山朝日寺)
志田峠 (標高310m)
清正光から引き返して「喜見梯」を降っていきます。 合せて17分ほどで元の道に戻ってきました。 道標「志田峠」に従って舗装路を4分ほど登っていくと、正面が開けた志田峠に着きました。 ル・ポンを出てから39分ほどで着きました。 広い道は正面の谷へ降っていきますが、まだ工事中で歩ける状況ではありませんでした。 工事柵の内側に関東ふれあいの道の道標が立っていて、 左手へ曲がりながら降っていく道は「三増2.5km・田代5.5km」、 今来た道は「朝日寺0.4km・韮尾根1.9km」となっています。 右手の尾根から狭い横木の階段が降ってきていますが、志田尾根にあった分岐から降ってくる道になるようです。 広めで緩やかな道も手前から右手へ分かれていますが、行き止まりのように思えました。 左手へ曲がっていくと「志田峠 標高310m」の標識が立っていて、 脇にはテーブル・ベンチが設置されています。 「馬頭観世音」と刻まれた石碑も幾つか並んでいました。
志田峠
志田峠は、志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、 愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、津久井町韮尾根にぬける 道である。かつては、切通し越え、志田峠越えの名があった。 ここは永禄12年(1569)北条・武田両軍の古戦場で、武田方の山県三郎兵衛の 率いる遊軍が、この道を韮尾根から下志田へひそかにかけ下り、 北条方の背後にでて武田方勝利の因をつくった由緒の地と伝えられる。 江戸中期以降は、厚木・津久井を結ぶ道として、志田山塊東端の 三増峠越をしのぐ大街道となった。なお志田山の地名の起こりは、 この山が芝山であったことによるという。
 (愛川町教育委員会)
正面に降っていく工事中の広い道は見送って、左手の山際に続く旧来の未舗装の道を降っていきます。 登ってきた道も以前に歩いた時はこんな感じだったと思い出したりしました。 小石がゴロゴロしていたり、路面が凸凹していたりして、歩き難い思いをしながら降っていきます。 道路工事で切り開かれた谷筋が右手に続いていますが、何だか無残な光景に思えました。 3分ほど降っていくと、道は左から右へと大きく曲がっていきます。 植林地に入って、広めの道を更に降っていきます。 植林地を抜けて左手にある砂防ダムの所まで降ってくると、その前には水が溜まっていました。 志田峠から13分ほど降って来た所になります。 そのすぐ先の左側が膨らんで小さな駐車スペースのようになった所を過ぎると舗装路になります。
歩き易くなった舗装路を快適に降っていきます。 関東ふれあいの道の道標「←志田峠・三増→」を過ぎていくと、民家が点在するようになります。 志田峠から19分ほど降ってくると、特別養護老人ホーム「志田山ホーム」があります。 そこを過ぎていくと、円筒形の大きな建物が見えてきます。 コンクリート壁に取り付けられた銘板によると愛川町上水道志田第2配水場というようです。
山火事注意
火の始末 山に来るたび 歩くたび
タバコの投げ捨てはやめましょう
 (愛川町)
水道施設につき立入禁止
 (愛川町水道事業所、保健所
旗立松分岐
配水場を過ぎていくと分岐があります。 志田峠から22分ほど降ってきた所になります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の道は「三増1.0km・田代4.0km」、 左手の道は「武田信玄旗立松0.7km先」、今来た道は「志田峠1.5km・韮尾根3.5km」となっています。 「三増合戦 武田信玄 旗立松」と題した看板もあって左手の道を指しています。 また「志田峠」と題した解説板もありましたが、内容は志田峠の所に載せておきました。 左手の道は東名厚木カントリー倶楽部への道で、 その途中から分かれていく山道を登っていくと旗立松があります。 展望が開ける所ですが、今回は訪ねるのを省略しました。 参考までに、以前にそこで見かけた解説板の内容を載せておきます。
(旗立松は「北条武田合戦場のみち」を参照)
史跡 三増合戦場 旗立ての松
愛川町指定文化財 史跡 三増合戦場 旗立ての松の由来
永禄12年(1569)10月6日、三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の 北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を 立てた跡である。 北から西へ連なる三増の山並みを越えて、甲州に通ずる道には、 三増・中・志田の三峠があるが、そのうちで最も高く嶮しいのが中峠であった。 信玄は、相模の原を一望するこの高台を中心にして鶴翼の陣を張り、 追撃する北条軍に備えた。 中峠近く、高く聳える松に旗を翻し、自らは麓の桶尻に本陣を置き、 合戦の指揮をとったのである。 往時を知らす緑の松は、小学生が5,6人でとり囲むほどの太さであった。 惜しいかな、対象12年の失火により枯れて今はなく、ただ記念碑と旗立て松 二世に、戦の跡をしのぶのみである。
 (愛川町教育委員会)
旗立松への分岐を見送って4分半ほど進んでいくと、愛川町上水道志田配水場があります。 先ほどの第2配水場と同じような円筒形の建物になっていました。 そこを過ぎて志田沢の支沢に架かる橋を渡っていきます。 右手に分かれていく道を見送った先にY字路があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、右手の道は「三増」、今来た道は「志田峠」となっています。 道標に従って右手の道を進んでいきます。 道なりに降っていくと左手から道が合流してきます。 角には「東名厚木カントリー倶楽部 あと800m」や「三増合戦 武田信玄 旗立松」などの看板が立っていて、 今来た道を指しています。 正面の防風林のような所に関東ふれあいの道の道標が立っていて、 右前方へ続く道は「三増合戦場跡の碑」、今来た道は「志田峠」となっています。
左手からの道を併せて進んでいくと、左側には草地が広がってきます。 その奥に見えている石碑などがある所が三増合戦場跡になるようです。 左右に通る道に出ると、「武田信玄旗立松史跡入口」と書かれた大きな標柱が立っています。 その脇には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左前方の道は「田代(半僧坊)」、 今来た道は「志田峠」となっています。 また「関東ふれあいの道」と刻まれれた路傍サインもありました。 左折していくとすぐの所に分岐があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、右手に分かれていく道は「田代3.0km・経ヶ岳6.2km」、 左手の道路向かいは「三増合戦場跡の碑」、今来た道は「志田峠2.5km・韮尾根4.5km」となっています。
三増合戦場跡
分岐の道路向かいには「史跡 三増合戦場」と刻まれた大きな石碑があり、 その脇には解説板が設置されています。 志田峠から36分ほどで着きました。 左側には「鎮魂」と刻まれた石碑などがあり、「三増合戦陣立図」もありました。 また「愛川町イラストマップ」や 「健康づくり 三増散策コース案内板」もありました。 右側に建つ東屋に入って、水分補給などをしながらしばらく休憩していきました。
(分岐の右手へ続く関東ふれあいの道は、田代半僧坊を経て経ヶ岳へ登っていきます)
愛川町指定 史跡 三増合戦場跡
−しせき みませかっせんじょうあと−
永禄十二年(1569)、甲斐の武田信玄率いる軍と小田原の北条氏康軍とが戦った古戦場です。
三増合戦のあらまし
永禄12年(1569)10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、 2万の将兵を従えて小田原城の北条氏康らを攻め、 その帰り道に三増峠をえらんだ。 これを察した氏康は、息子の氏照、氏那、盗めの夫綱成らを 初めとする2万の将兵で三増峠で迎え討つことにした。ところが、 武田軍の近づくのをみた北条軍は、半原の台地上に移り態勢をととのえようとした。 信玄は、その間に三増峠のふもと桶尻の高地に自分から進み出て、 その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ 行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また、山県昌景の 一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに 方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は 志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は 総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、 北条軍の鉄砲にうたれて戦死した。 北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて萩野まで駆けつけてきたが、 すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐ兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで 引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を とりおこない、甲府へ引きあげたという。
 (愛川町教育委員会)
志田南遺跡出土遺物について
平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の 桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び 六道銭が発見されました。この周辺は、武田・北条の 二大戦国大名が戦った三増合戦主戦場ということもあり、 戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、 骨の主は、筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが 分りました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。 地元では、相模国風土記稿に見える北条氏の家臣間宮善十郎の 墓であるとの説のあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。
 (愛川町教育委員会)
落ち着いたところで、三増バス停へと向かっていきます。 車道を歩き始めると、道路の右側に石碑が幾つか並んでいました。 三増合戦における戦死者を供養する石碑のようでした。 この辺りは観光農園になっている所が多いようで、 道路向かいに設置された「JA県央愛川観光農園案内図」と題した大きな看板には、10箇所の農園が載っていました。
三増合戦 永禄戦死供養塔
この畑(三増下志田原1133の1)には昔から塚のような土堆が三か所あり、 これらを整地して一か所に集め、懇ろに弔うことにしました。 今から430年前(永禄12年10月6日)戦国の世、 甲斐の武田勢二万が小田原遠征から帰るのを待ち受けた北条勢二万、 合せて四万もの大軍が激しく戦った三増合戦の古戦場であります。 この日、夜明けから薄暗くなるまでに四千人の死者が出て終わったという。
 (平成11年8月吉日 三増合戦を偲ぶ会一同建立)
平成11年8月
この畑(三増上志田原1133-1)の耕作者の懇請を、十数人の有志が賛同、 畑の中にあった三か所の塚の主たちの霊魂を弔うと共に、この山野で鮮血に塗れ、 屍を晒して散った四千有余人の武者たちの無念さを思い、「三増合戦を偲ぶ会」として、 ささやかな供養塔を建て、御霊安かれとひたすらに念じ続けて参りました。 その後「三増合戦まつり実行委員会」の設立に伴い、これと合流して現在に至っております。 以上
諏訪神社
中原バス停を過ぎていくと茶畑が広がってきました。 中央養鶏前バス停を過ぎていくと十字路があります。 近くに養鶏場があるようで、独特の臭いが立ち込めていました。 十字路を直進した所にタマゴ直売所がありました。 そこを過ぎて左へ曲がりながら降っていきます。 登り坂になってくると、道端に「栗沢」と書かれた標柱が立っていました。 坂道を登り切って緩やかになると「村社 諏訪神社」と刻まれた石柱が立っていました。 脇にある鳥居をくぐって境内へ入っていくと、正面に諏訪神社の社殿がありました。 由緒などを記したものは見かけませんでした。 社殿の左側には八坂神社、右側には吾妻神社・日枝神社・八幡宮を合祀した社がありました。 境内には愛川町の「ふるさとの木」に指定されているケヤキの大木が生えていました。 この三増には無形民俗文化財にも指定されている獅子舞が伝わっているようで、その解説板もありました。
ふるさとの木 三増 諏訪神社のケヤキ
樹種 ケヤキ(ニレ科)
樹高 31.00メートル、 胸高周囲 4.03メートル
推定樹齢 350年以上
 (愛川町教育委員会)
神奈川県指定無形民俗文化財 三増の獅子舞
三増は甲州街道の宿場として中世から知られているところで、 伝統の獅子舞はこの宿場の諏訪神社(伝1235年創建)の摂社である八坂神社のお祭に行われます。 これは一人立ち三頭獅子舞で、関東一円に分布するものと同じ系統に属し、 約三百年の星霜を舞い継いできています。 また、この獅子舞は、古くから諏訪神社を中心に一町(約110メートル)以外の土地に踏み出さない掟がありました。 獅子がしらは父・母・子の三頭で、父を老獅子、母を玉獅子、子を剣獅子といい、 祭り当番の家から「道行きの渡り拍子」で神社まで行進し、忌竹をめぐらせた舞場の中で舞います。 この他、天狗、教導役としてバンバ、ささら摺り役などがつき、 その舞ぶりは大きく優雅で他に類のないものといわれています。
 (愛川町教育委員会)
三増(みませ)バス停
諏訪神社を後にして車道を進んでいきます。 坂道を降っていくと、左右に通る県道65号の三増交差点に出ます。 そこを右折した数10m先に三増バス停があります。 諏訪神社から1分半ほど、三増合戦場跡から20分ほどで到着しました。
本厚木駅(小田急小田原線)まで、厚木バスセンター行きの便が1時間に2本程度あります。