早川・片浦ウォーキングトレイル
散策:2011年10月下旬
【低山ハイク】 早川・片浦ウォーキングトレイル
概 要 早川・片浦ウォーキングトレイルは、小田原市の早川駅から根府川駅までの丘陵に続くコースです。 丘陵にはミカン畑が広がっていて、相模湾や丹沢の山並みなどを見渡せる眺めが広がります。 途中には佐奈田霊社や石垣山一夜城歴史公園などもあります。 今回は根府川駅から早川駅へ向かって歩いていきます。
起 点 小田原市 根府川駅
終 点 小田原市 早川駅
ルート 根府川駅…迂回路分岐…根府川低区配水池…オレンジ橋…散策路…牧谷川…牧谷川橋(迂回路合流)…清水川…清水橋…文三堂…ねじり畑…石橋山古戦場碑…佐奈田霊社…入の沢橋…暫定ルート…A・Bルート分岐…石垣山農道…石垣山一夜城歴史公園…暫定ルート分岐…峠…休憩所…A・Bルート合流…海蔵寺…東善院…早川駅
所要時間 4時間50分
歩いて... 要所には採番された道標が設置されていて、分かり易くなっています。 コースはすべて舗装路で歩き易くなっていますが、傾斜が急な所も結構あって、 秋も中ばの季節でしたが、汗が噴き出してきました。 本ルート予定路線区間の工事は2/3ほどが完成しているようだったので、 そのうちに通れるようになりそうに思えました。
関連メモ 石垣山, 白銀林道, 石垣山
コース紹介
根府川(ねぶかわ)駅
根府川駅(JR東海道線)から歩いていきます。
駅を出た正面に「早川・片浦ウォーキングトレイル」と題した案内板が設置されていて、 コースの全体図が載っています。 小田原市のホームページにもコース図が掲載されているので、印刷して持参すると参考になります。 石垣山一夜城歴史公園の辺りでAルートとBルートに分かれていて、 Aルートでは3時間30分、Bルートでは4時間とのことです。 コースの要所には採番された道標が設置されていて分かり易くなっています。 ここにある道標(75)は「ヒルトン小田原リゾート&スパ 歩道橋を渡って右へ」となっています。 また案内図には「ウォーキングトレイル片P支所方面へ歩道橋渡る」と書かれていて、右手の道を指しています。 「潮騒の駅根府川・江之浦漁港コース」の道標もあって左手の道を指していますが、 右手すぐの所に見えている歩道橋へ向かっていきます。
(ここの案内図は光線条件が悪かったので、石垣山で見かけた図を載せています)
早川・片浦ウォーキングトレイル
早川・片浦ウォーキングトレイルは、JR早川駅から根府川駅間の丘陵地を巡る健康の道です。 トレイルには、勾配がきついところがありますので、自分のペースで楽しんで下さい。 ルールを守って楽しく歩きましょう。
○ウォーキングトレイルは皆さんのものです。快適な空間維持にご協力下さい。
 ※ゴミの持ち帰り ※タバコのポイ捨て禁止 ※火気の使用禁止
 ※他のウォーキングトレイル利用者への迷惑行為の禁止
迂回路分岐
国道135号を右手へ進んだすぐの所に歩道橋が架かっています。 歩道橋を渡って右手へ数10m進んでいくと、左手へ登っていく階段があります。 脇には「上る←片浦診療所・片浦支所・片浦小学校・片浦中学校・園芸試験場」の看板が出ていて、 左手の階段を指しています。 階段の脇には道標(74)があって、左手の階段は「ヒルトン小田原リゾート&スパ1820m」、 今来た道は「根府川駅80m」となっています。 左手の階段を登って少し右へ曲がっていくと、片浦支所と思われる白い建物の所に出ます。 手前には道標(73)が立っています。 建物の前を過ぎてその先の坂道を登っていくとX字路に出ます。 角には道標(72)が立っていて、左手の道は「ヒルトン小田原リゾート&スパ1710m」、 今来た道は「根府川駅190m」となっています。 「ヒルトン小田原リゾート&スパ」の板は正面の坂道を指しているようにしか見えませんが、 載っている地図に従って、左手へ戻るようにして続く道を進んでいきます。
ヒルトン小田原リゾート&スパの利用時間外は、右前方へ続く道に迂回するようになっています。
根府川低区配水池
片浦小学校への道を分けていくと、左手に相模湾が広がってきて、 海に突き出た真鶴半島がよく見えていました。 先端にある三ッ石も見えていました。 伊豆大島は見えるかと目を凝らしてみましたが、遠くは霞んでいて見えませんでした。 降り坂になってきた石垣沿いの道を進んでいくと、右手から降ってくる道があります。 その入口には道標(71)があって、右手の道は「ヒルトン小田原リゾート&スパ1400m」、 今来た道は「根府川駅500m」となっています。 道標に従って、右手に戻るようにして続く坂道を登っていきます。 突き当りを道なりに左へ曲がって森の中を進んでいきます。 森を抜けていくと、右手へ曲がっていく角から正面へ細い道が分かれていて、 入口には「歓迎 みかん狩り会場」の看板が立っていました。 その道は見送って右へ曲がり、「山神」の石碑を過ぎて登っていくと、左手へ分かれていく道があります。 角には道標(70)が立っていて、左手の道は「ヒルトン小田原リゾート&スパ1140m」、 今来た道は「根府川駅760m」となっています。 正面の先にはオレンジ色の橋が見えています。 左手の角には根府川低区配水池があります。
根府川C地区急傾斜地崩壊危険区域
この地区内で、のり切・掘削・伐採等を行う場合は、県知事の許可が必要ですから 神奈川県小田原土木事務所へ問い合せ下さい。
 (神奈川県)
水道施設につき立入禁止
 (小田原市水道局、小田原保健所)
オレンジ橋
配水池の左側に続く道を進んでいきます。 森を抜けて坂道を登っていくと、左右に通る車道に出ます。 脇には道標(69)が設置されていて、右手の道は「ヒルトン小田原リゾート&スパ970m」、 今来た道は「根府川駅930m」となっています。 右折して僅かな登り坂になった道を進んでいきます。 緩やかになってくると、みかん狩りと花の店「オーランジェガルテン」を過ぎた所に オレンジ橋が架かっています。 先ほどの根府川低区配水池の所から見えていた橋になります。 手前には「ウォーキングトレイルのご案内」と題した案内板が設置されていて、コース図も載っています。
ウォーキングトレイルのご案内
お知らせ
この先のルートは、施設管理上ご利用時間を制限させていただきます。 時間外のご利用はご遠慮ください。
【ご利用時間】
4月〜9月 10時〜18時、 10月〜3月 10時〜16時
【ウォーキングトレイルご利用時の注意事項】
 ※ゴミを持ち帰る ※タバコのポイ捨て禁止 ※火気の使用禁止
 ※他のウォーキングトレイル利用者への迷惑行為の禁止
橋を渡っていくと、「Hilton Odawara Resort & Spa」と書かれた門があります。 そこを過ぎて左へ曲がりながら登っていくと、 程なくして「総合案内」と題した案内板があって、 ヒルトン小田原リゾート&スパの案内図が載っていました。 竹林の所まで来て大きく右手へ曲がっていくと、右手に膨らんだ所があります。 そこに「入口C 散策路ご案内」の案内板があって、先ほどの「総合案内」と同様の図が載っていました。 その隣には「施設内樹木のご案内」と題して、樹木の名前と位置が図示されていました。 各都道府県の木47種と実のなる木15種が植えられているようでした。 このまま車道を進んでも味気ないので、今回はこの入口Cから散策路へ入っていくことにしました。 散策路は幾つかあるようですが、 この図に載っている「展望台」を目指して、左・左と進んでいくことにして歩き出しました。
散策路
木製の門を抜けて、沢山の樹木が植えられた散策路を進んでいきます。 左へ曲がりながら進んでいくと、右手へ折り返すように曲がっていく所から階段が分かれています。 角に立つ道標「休憩所」が指すその階段へ入っていきます。 階段の先の緩やかな道を進んで右手へ曲がって階段を降っていくと、トイレと休憩所がある広場に出ました。 角に立つ道標「出入口B」に従って、花のアーチをくぐって左手へ進んでいきます。
アーチを抜けていくと、正面の道は「通行止め」になっていました。 その手前から左手へ続く階段を登り、右手へ続く緩やかな道を進んでいきます。 右手への道を見送っていくと、左手に鋭角に折れ曲がるヘアピンカーブがあります。 道なりに曲がりながら進んでいきます。 その先を大きく右手へ曲がって少し登り坂になってきた道を進んでいくと、 先ほどの「入口C」にあったのと同様の木製の門があります。 門の脇には道標が立っていて、右手の道は「出入口A」、今来た道は「出入口C」となっています。 案内図によると、左手の道は「入口B」へ続いているようです。 正面にはコンクリート壁で囲まれた大きな池がありますが、雨水調整池でしょうか。
お願い
喫煙は、所定の場所でお願いいたします。 火災の原因ともなりますので、歩きながらの喫煙とたばこのポイ捨てはおやめください。 当施設では館外での飲食は禁止しております。 ご協力をお願いいたします。
道標「出入口A」に従って右手へ進んでいくと、右へ曲がり始める角に木製デッキがあります。 ここが先ほどの案内図に載っていた展望台になるようです。 デッキに登ってみると、小田原の街並みの向こうに丹沢山塊が横たわっていました。 脇では穂を出したススキの群落が陽光を浴びて綺麗な眺めでした。
展望台を過ぎて左へ曲がっていくと、降り傾斜が増してきます。 梅林の中に続く急傾斜の坂道を曲がりながら降っていきます。 緩やかになって植林帯へ入っていくと、休憩舎が建っています。 そこから横木の階段が右手へ分かれています。 手前にはオレンジ橋の所にあったのと同様の「ウォーキングトレイルのご案内」の案内板が立っています。 道標(67)も取り付けられていて、正面の道は「駐車場方面」、 今来た道は「散策路からヒルトン出口」となっています。 また階段の手摺に取り付けられた標識によると、右手の階段は「佐奈田霊社・牧谷川方面」、 正面の道は「ヒルトン駐車場方面」となっています。 今回歩いた散策路へ入らずにそのまま車道を進んでいくと、ここまで来られるようでした。
牧谷川
右手に続く急な横木の階段を降っていきます。 階段自体はしっかりとしていますが、間の土が抉れ気味になっていて、何とも歩き難くなっていました。 縦杭の上に足を乗せたりしながら鬱蒼とした森を降っていくと、 1分半ほどで牧谷川が流れる谷筋に降り立ちました。 川沿いには擬竹の手摺が設置されていました。 降り立った傍に道標(66)が立っていて、川沿いに右手へ続く広い舗装路は「文三堂2470m・佐奈田霊社2870m」、 今降って来た階段は「ヒルトン小田原リゾート&スパ」となっています。 道標に従って、右手に続く川沿いの道を降っていきます。 川には砂防ダムのような段差が何箇所もありましたが、流れる水は少なめでした。
砂防指定地 牧谷川
この土地の区域内において、宅地造成・家屋の新築・土採取等の行為をする場合は 神奈川県知事の許可が必要ですから、小田原土木事務所にご相談下さい。
 (小田原土木事務所)
牧谷川橋(迂回路合流)
川沿いに続く広い舗装路を6分ほど降っていくと、牧谷川をU字形に横切る道に出ました。 牧谷川には牧谷川橋が架かっています。 根府川駅から57分ほどで歩いて来られました。 手前にはこれまでに見かけたのと同様の「ウォーキングトレイルのご案内」の案内板が立っています。 道標(65)も取り付けられていて、左手の道は「文三堂・佐奈田霊社」、 今来た道は「ヒルトン小田原リゾート&スパ」となっています。 最初の迂回路分岐を右前方へ進んで来ると、ここへ続いているようです。
牧谷川橋を渡って、その先の坂道を登っていきます。 小屋の脇を過ぎて、竹林が続く山際を登っていきます。 竹林を抜けると道が二手に分かれています。 角には道標(64)が立っていて、左手の道は「文三堂2010m・佐奈田霊社2410m」、 今来た道は「牧谷川110m」となっています。 道標に従って左手の坂道を登っていくと、次第に相模湾を見渡せるようになってきます。 海ではクレーンを積んだ小型船が何やら作業をしていました。 ミカン畑が広がる斜面を登っていくと十字路があります。 角には道標(63)が立っていて、左手の道は「文三堂1810m・佐奈田霊社2210m」、 今来た道は「牧谷川310m」となっています。 振り返ると、穂を一杯に膨らませたパンパスグラスの奥に相模湾を見渡せる眺めが広がっていました。 傍には黄色・白色・桃色などの花も沢山咲いていて、綺麗な眺めでした。
道標に従って左折して、緩やかになった道を進んでいきます。 1分ほど進んでいくと、コンクリート製の水溜めのような設備の所から右手へ道が分かれていきます。 角には道標(62)が立っていて、右手の道は「文三堂1750m・佐奈田霊社2150m」、 今来た道は「牧谷川370m」となっています。 降り坂になった右手の道を進んでいくと、湘南海岸や丹沢山塊を見渡せるようになってきます。 丹沢大山も良く見えていました。 下には東海道新幹線と東海道線が見えていて、短時間の内に何本も列車が通っていきました。
清水川
植林帯や竹林を過ぎて降っていくと、道なりに右へ曲がった先で清水川に架かる小橋を渡っていきます。 橋の名前を記していたと思われる部分は剥がれていて読めませんでした。 民家が点在するようになった道をその先へ進んでいくと、左右に通る道に出ます。 脇には道標(61)が立っていて、右手の道は「文三堂1370m・佐奈田霊社1770m」、 今来た道は「牧谷川750m」となっています。 右折した角には米神水源地がありました。 住宅を過ぎていくと、墓地の前には大きな「忠霊塔」があって、 この地区の戦没者の方々の名前が沢山刻まれていました。
小田原市のホームページに載っているコース図では、この辺りは「道幅が狭い」と注記されていますが、 これまでに歩いてきた道と大差なく、歩くのに何の支障もありませんでした。
水道施設につき立入禁止
 (小田原市水道局、小田原保健所)
忠霊塔
終戦五十周年に当たり、戦没者諸精霊慰霊の為に、米神地区の皆様の御理解と御協力を得て此の碑を建立す。 日露戦争戦没者…、満州事変戦没者…、支那事変戦没者…、大東亜戦争戦没者
清水橋
東海道新幹線の下米神Bガードをくぐっていきます。 住宅が建ち並ぶようになった道を緩やかに降っていくと、 東海道線の入の窪ガードの手前から道が左手に分かれていきます。 角には道標(59)が立っていて、左手の道は「文三堂990m・佐奈田霊社1390m」、 今来た道は「牧谷川1130m」となっています。 道標に従って左折していくと清水橋が架かっています。 橋を渡って坂道を登って緩やかになってくると、東海道線の線路脇を進むようになります。 米神踏切を過ぎていくと、道は左手へ曲がっていきます。 角には道標(58)が立っていて、左手の道は「文三堂720m・佐奈田霊社1120m」、 今来た道は「牧谷川1400m」となっています。
道なりに左折して小川沿いに進んでいくと、金属製の倉庫の所から右手へ道が分かれていきます。 角には道標(57)が立っていて、右手の道は「文三堂670m・佐奈田霊社1070m」、 今来た道は「牧谷川1450m」となっています。 右折してその先の民家を過ぎて道なりに右へ曲がり、山際に続く坂道を登っていきます。 米神漁港でしょうか、右下には海に突き出した突堤や消波ブロックなどが見えていました。 ミカン畑が広がる斜面を道なりに左へ曲がりながら登っていくと、 左手に分かれていく道の角には簡易トイレが設置されていました。 その道を見送った正面の道の石垣に道標(55)が取り付けられていて、 正面の道は「文三堂500m・佐奈田霊社900m」、今来た道は「牧谷川1620m」となっています。 降り坂を過ぎて登り返していくと、左手に分かれていく道がありますが、 その道を見送った正面の道の石垣に取り付けられた道標(54)があって、 正面の道は「文三堂310m・佐奈田霊社710m」、今来た道は「牧谷川1810m」となっています。
文三堂
右手に広がる相模湾を眺めながら坂を登っていきます。 登り切って降り坂になってくると左右に通る道に出ます。 角には道標(53)が立っていて、 右手の道は「文三堂190m・佐奈田霊社590m」、今来た道は「牧谷川1930m」となっています。 右折して傾斜が増してきた坂道を降っていくと、左右に通る道に出ます。 正面には道標(52)が立っていて、 左手の道は「文三堂800m・佐奈田霊社480m」、今来た道は「牧谷川2040m」となっています。 緩やかになってきた道を降っていくと、正面にこんもりとした森が見えてきます。 森へ入って道なりに左へ曲がり始めると、右手に戻るようにして登っていく石段があります。 角には標柱が立っていて、「神奈川県指定史跡 石橋山古戦場のうち文三堂」となっています。 両脇に石仏などが並ぶ石段を登っていくと、高みには「文三堂」の扁額の掛る祠がありました。 牧谷川橋から37分ほどで到着しました。 謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、 祠の中を覗ってみると、中ほどに石碑がひとつ立っていて、 背後の壁には甲冑を纏った武将の絵画が3枚掛けられ、「陶山文三公」の名が記されていました。
ねじり畑
元の道に戻ってその先へ進んでいくと、すぐの所に道標(51)が立っていて、 今来た道は「文三堂10m・牧谷川2130m」となっています。 その先にあるT字路の石垣には道標(50)が取り付けられていて、 右手の道は「佐奈田霊社390m」となっています。 道標に従って右手へ進んでいくと、こんもりとした森の手前に標柱が立っていて、 「佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)」となっています。 その先には道標(49)が立っていて、この先の道は「石橋山古戦場50m・佐奈田霊社330m」、 今来た道は「文三堂70m」となっています。 森の所から左手へ登っていく石段があります。 脇には道標が立っていて、その石段は「石橋山古戦場(佐奈田霊社・与一塚へ)」、 今来た道は「石橋山古戦場 文三堂へ」となっています。 佐奈田霊社へは石段を登った方が近道なのですが、正面の道の先にある石橋山古戦場碑を経ていくことにしました。
佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)
治承4年(1180)8月23日、佐奈田与一義忠は、敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せたが、 駆けつけた敵方長尾新六に首を切られ、この地で討死したと伝えられる。
石橋山古戦場碑
右手に広がる相模湾を眺めながら緩やかな道を進んでいくと、右下に東海道線のトンネルが見えてきます。 トンネルの上まで来ると、道が左右に分かれています。 角には道標(48)が立っていて、左手の道は「佐奈田霊社180m」、 今来た道は「石橋山古戦場200m・文三堂220m」となっています。 道標の傍には「源頼朝挙兵之地 石橋山古戦場」と刻まれた石碑があります。 右手の道は国道135号へ降りて行かれますが、佐奈田霊社へ向かって左手の坂道を登っていきます。
(右手の道は「白銀林道」を参照)
佐奈田霊社
周囲に菊が植えられた佐奈田霊社駐車場を過ぎていくと、右へ曲がった所に 「史蹟 源頼朝 石橋山古戦場 佐奈田霊社」と刻まれた大きな石柱が立っています。 また「佐奈田霊社碑」と題した大きな石碑もありました。 裏参道になっている石段を登っていくと佐奈田霊社があります。 文三堂から9分ほど、根府川駅から1時間48分ほどで到着しました。 社殿の右手には潮音閣がありました。 左前方には観音堂があって、明星観世音菩薩を中心にして、 千手観音菩薩・虚空蔵菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・勢至菩薩・大日如来・不動明王・阿弥陀如来が、 それぞれ十二支を担当しているようでした。 境内にはのぞみ観音や各種の石碑などが沢山ありました。 この佐奈田霊社は、「ぜんそく・せき・のど」などの、日本唯一の祈願所にもなっているようです。
石橋山古戦場と佐奈田霊社
この附近は源頼朝が治承4年(1180)以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。 このとき、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子真田(佐奈田)余一義忠も参陣した。 しかし、急の挙兵のため、頼朝軍は僅か三百であり、攻撃の平家軍は大庭景親以下三千であったため、 頼朝軍は忽ち苦戦となった。このとき真田余一は、十五騎で豪勇俣野五郎の七十五騎と戦い、 両将組打ちとなったが、余一が勝ったか俣野は組み敷かれ、余一はこれを討とうとしたが、 刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに、駆けつけた敵のため二十五才の命を花と散らした。 余一の郎党文三家安は、主人の討死を聞き群がる敵中に飛入り主人の跡を追い討死した。 この後、討死の地には与一塚が建てられ、与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。 またその100メートルの処には、文三を祭る文三堂があるが、共に今日県指定史跡となっている。 霊社下の畑は組打ちした処と伝えられねじり畑と呼ぶが、 このためかこの畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる。 頼朝は、建久元年(1190)伊豆山権現参詣の帰途両墓を訪れ、 無き両人の忠節をしのび涙を流したと伝えられる。
観音堂の脇には御神木があって、その石碑もありました。 その傍に与一塚があって、「神奈川県指定史跡 石橋山古戦場のうち与一塚」の標柱が立っていました。 この時には真新しい「小田原ふるさとの原風景百選」や 「石橋山古戦場のうち与一塚および文三堂」の解説板がありました。 以前に来た時に見かけた古くなった解説板もまだありました。
御神木
治承四年八月、義忠公戦死の時、臣家安其遺骸を埋めて傍らに植える所と傳ふ。
大正七年正月吉祥日 小田原町 佐奈田飴本舗 劔持真作
小田原ふるさとの原風景百選 5石橋山古戦場と佐奈田霊社
「石橋山の合戦」(米神、石橋)は、治承4年(1180)、以仁王の命令を受けて挙兵した源頼朝が、 平家方の大庭景親、伊東祐親らと戦ったところ。 佐奈田霊社は、頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠の遺骸を葬ってある与一塚の傍らに建っていて、 与一の戦死の故事に、せき・ぜんそくなどに霊験があると言われている。
 (小田原市)
神奈川県指定史跡 石橋山古戦場のうち与一塚および文三堂
石橋山古戦場は、治承4年(1180)8月23日に源頼朝が以仁王の命令(令旨)を受けて挙兵したところです。 ここで、頼朝の軍は平家方の大庭景親、伊東(伊藤)祐親らと戦い敗れましたが、 箱根外輪山の複雑な地形と土肥一族や源氏方の人々によって助けられ、落ちのびました。 その後勢力を盛り返し平家を倒し、鎌倉幕府を開くにいたりました。 与一塚と文三堂は、この合戦の際、頼朝方の先陣を命じられて戦死した佐奈田(真田)与一義忠と その家臣文三(豊三)家康(安)を祀ってあるところです。 佐奈田与一はこの戦いで、大庭景親の弟俣野五郎景久と一騎打ちになり、 景久を組み伏せましたが、刀が抜けず(この前に敵将を討ち取った際、刀を拭わずに鞘に差したため)、 敵方の加勢により討ち取られてしまいました。 その討ち取られた場所が「ねじり畑」と呼ばれています。 また家臣の文三家康は主人の討死後、敵陣に斬りこみ、八人を討ち取って壮烈な戦死を遂げました。 「吾妻鏡」には、石橋山合戦後の建久元年(1190)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰り、 佐奈田与一と文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなく墓が築かれたようです。 その後、佐奈田与一は神霊として佐奈田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています。
 (小田原市教育委員会)
史跡 石橋山古戦場のうち与一塚及び文三堂
治承4年(1180)伊豆で兵を挙げた源頼朝は石橋山に陣をかまえ、 平家とこの地で合戦したが戦い利なく、先陣を承った源氏の部将真田与一義忠郎党豊三家康も討死した。 この場所を今でも「ねじり畑」と云い、その丘の上の義忠、豊三主従の墓を、与一塚、文三堂とよんでいる。 この戦いからしばらくして、頼朝は鎌倉に幕府を開き、武家政治の時代が始まった。
 (神奈川県教育委員会)
佐奈田霊社を後にして、ミカン畑などが続く坂道を登っていきます。 登り詰めた所に分岐があります。 石垣には道標(46)が取り付けられていて、右手の道は「石垣山一夜城歴史公園3830m」となっています。 道標に従って右手の道を緩やかに登って、道なりに左へ曲がっていくと、 正面から右手にかけてが開けてきて、小田原の街並みや丹沢山塊・相模湾などを見渡せる眺めが広がります。 更に左手に曲がりながら降り坂になってきた道を進んでいくと、 眼下に東海道新幹線・東海道線・国道135号などを見下ろせるようになってきます。
入の沢橋
坂道を降って民家などが建ち並ぶようになると、左右に通る道に出ます。 脇には道標(43)が立っていて、今来た道は「佐奈田霊社680m」となっています。 正面のガードレールにも道標(42)が取り付けられていて、左手の道は「石垣山一夜城歴史公園3220m」となっています。 道標に従って左折して、石橋水源地を過ぎて玉川沿いの道を登っていきます。 川幅はかなり広いのですが、何故だか水は流れていませんでした。 川床はコンクリート舗装されていて道路のようにも思えますが、各所に段差があって歩くのは無理のようでした。 川辺には桜の並木が続いていました。 川沿いに続く坂道を登っていくと、入の沢橋が架かっています。 手前の石垣には道標(41)が取り付けられていて、今来た道は「佐奈田霊社1060m」となっています。 橋にも道標(40)が取り付けられていて、橋を渡っていく道は「石垣山一夜城歴史公園2840m」となっています。 正面に続く道は早川・石橋林道で、白銀林道へ続いていますが、右手に架かる入の沢橋を渡っていきます。
(正面の道は「白銀林道」を参照)
早川・石橋林道(起点)
幅員2.0〜4.0m 全延長4,954m
この林道は、林業経営用のもので、カーブがきつく、防護施設等が十分でありませんので、 通行する場合には、次のことを遵守してください。
スピードを落とし、安全運転に努めてください。
崩壊を防ぐため、路肩の近くを通行しないでください。
ゴミや土砂を捨てないでください。(法律で罰せられます)
林道経営以外の目的(工事資材、廃棄物又は土砂の運搬等)で反復継続して通行する方は、市長に申請してください。
 (小田原市経済部農政課)
暫定ルート
山際に続く坂道を登っていきます。 大きく左へ曲がっていくと、谷の向かい側には先ほど降ってきた道が見えてきます。 右手に広がる相模湾を眺めながら更に坂道を登っていくと、左手に道が分かれていきます。 脇には道標(39)が立っていて、正面の道は「石垣山一夜城歴史公園2300m」、 今来た道は「佐奈田霊社1600m」となっています。 道標に従って正面の道を進んでいきます。 道なりに左へ曲がって左右に通る道に出ると、正面には工事柵が設置されていました。 手前には道標(38)が立っていて、今来た道は「佐奈田霊社1790m」となっています。 正面にも道標(37)が立っていて、右手の道は「石垣山一夜城歴史公園2110m」となっています。 工事柵の向こう側には、砂利が敷かれた状態の工事中の道が見えていました。 小田原市のホームページにあるコース図によると、正面の工事中の道が本ルート予定路線になるようです。 道標に従って右折して暫定ルートを進んでいきます。 開けた感じの所まで来ると、左手に戻るようにして降っていく階段があります。 その入口の鉄柵には道標(36)が取り付けられていて、 左手の階段は「石垣山一夜城歴史公園2050m」、今来た道は「佐奈田霊社1850m」となっています。
畑の中には立ち入らないでください。
A・Bルート分岐
横木の階段から浅い谷筋へ降りて、水路を渡って畑地の中を進んでいきます。 向かい側の道に出て坂道を登っていくと、左手に戻るようにして道が分かれています。 脇には道標(35)が立っていて、今来た道は「佐奈田霊社1920m」となっています。 左手の石垣にも道標(34)が取り付けられていて、左手の道は「石垣山一夜城歴史公園1980m」となっています。 道標に従って左折して坂道を登っていくと、左右に通る広い道に出ました。 佐奈田神社から34分ほどの所になります。 右手は舗装が終わっていましたが、左手はまだ砂利道のままでした。 左手の道は先ほどの工事柵から続いてきた道で、本ルート予定路線になります。 この道が完成すると、正面に続くAルートと、右手へ続くBルートの分岐点になるように思えました。 この時には道標類は見かけませんでしたが、ここはAルートになっている正面の道を進んでいきます。
小屋の脇を過ぎていきます。 高い石垣沿いに登っていくと左右に通る道に出ます。 脇には道標(33)が立っていて、左手の道は「石垣山一夜城歴史公園1790m」、 今来た道は佐奈田霊社2110m」となっています。 道標に従って緩やかになってきた左手の道を進んでいきます。 左手の畑地へ降りて行く道を分けて進んでいくと十字路があります。 角には道標(32)が立っていて、正面の道は「石垣山一夜城歴史公園1460m」、 今来た道は「佐奈田霊社2440m」となっています。 森の脇まで進んで山際に続く道を進んでいくと、右へ曲がっていく角に道標(31)が立っていて、 正面の道は「石垣山一夜城歴史公園1300m」、今来た道は「佐奈田霊社2600m」となっています。 そこを過ぎた先で道が左右に分かれていますが、ここには道標が設置されていません。 どうせならここに設置しておくべきだろうと思いながら、どちらへ進んだものかと思案するのでした。 ルート図によると、入の沢橋の北にある鋭角に曲がっている地点のように思えたので、 意を決して右手の道を進んでいきました。
この道は農道であり、道幅が狭く農耕車も通ります。 気をつけて歩行してください。
小屋を過ぎて、山際に続く坂道を登っていきます。 森を抜けて小屋を過ぎて開けた感じになってくると道が二手に分かれています。 正面の道の所に道標(30)が立っていて、正面の道は「石垣山一夜城歴史公園1190m」、 今来た道は佐奈田霊社2710m」となっています。 左手の道は見送って正面の道を進んでいくと、 左手が開けてきて、ミカン畑越しに箱根方面を見渡せる眺めが広がってきました。 石垣沿いに登っていくと、上空に送電線が通っています。 その下から右手へ続く脇道を少し登った所に鉄塔「二-湯83号」が立っていました。 元の道に戻ってその先へ進んでいくと、右手に分かれていく道があります。 脇には道標(29)が立っていて、正面の道は「石垣山一夜城歴史公園880m」、 今来た道は「佐奈田霊社3020m」となっています。
二-湯83号 お願い JR東日本
この送電線は、6万6千墓富斗の高電圧です。 下記の事柄について御連絡下さい。
1.送電線の附近に建造物を建てられるとき。
2.送電線に接近して作業をされるとき。
3.送電線の附近で火災がおきたとき。
 (新鶴見給電メンテナンスセンター、中央給電指令)
高い石垣沿いに進んでいくと、茶色い小屋の先で左右に通る坂道に出ました。 脇の石垣には道標(28)が取り付けられていて、今来た道は「佐奈田霊社3100m」となっています。 左右の道を示す道標は見かけませんでしたが、登り坂になっている右手の道を進んでいきました。 森を抜けて少し左へ曲がり、降り坂になった道を進んでいくと、左右に通る二車線道路に出ました。 手前には道標(27)が立っていて、今来た道は「佐奈田霊社3130m」となっています。 道路向かいの石垣にも道標(26)が取り付けられていて、右手の道は「石垣山一夜城歴史公園770m」となっています。 道標に従って右手へ進んでいくと、切通のようになった上には陸橋が架かっていました。
小田原市のホームページに載っているコース図では、この辺りは「道幅が狭い」と注記されていますが、 二車線の広い道路になっていました。
石垣山農道
陸橋の下を過ぎて二車線道路を進んでいくと、左側に続く坂道と接触する所がありますが、 道標類は見かけないので見送っていきました。 右手に相模湾や湘南海岸が見える所を過ぎていくと、山際の石垣に道標(25)が取り付けられていて、 正面の道は「石垣山一夜城歴史公園520m」、今来た道は「佐奈田霊社3380m」となっています。 そこを過ぎていくと、正面に森が見えてきます。 道路の片側半分を塞ぐように設置されたガードレールの向こう側には、 「通行止」「この先行き止まり」の看板が設置されていましたが、 車両向けの看板のようでした。 ガードレールを過ぎると左右に通る道路に出ます。 見覚えのある所だと思っていると、以前に歩いた石垣山一夜城歴史公園から入生田駅へ続く道で、 石垣山農道というようです。 A・Bルート分岐から25分ほどで着きました。 角には道標(24)が立っていて、右手の道は「石垣山一夜城歴史公園310m・海蔵山1960m・早川駅2610m」、 左手の道は「入生田駅2,690m」、今来た道は「佐奈田霊社3590m」となっています。 正面にも関白林道が続いていて、十字路になっています。 左手の道は入生田駅へ降って行けますが、石垣山を目指して右手へ進んでいきます。
(左手の道は「石垣山」, 「石垣山」を参照)
石垣山農道
農耕車優先、歩行者に注意
 (小田原市)
関白林道(終点)
幅員4.0m 全延長400m
この林道は、林業経営用のもので、カーブがきつく、防護施設等が十分でありませんので、 通行する場合には、次のことを遵守してください。
スピードを落とし、安全運転に努めてください。
崩壊を防ぐため、路肩の近くを通行しないでください。
ゴミや土砂を捨てないでください。(法律で罰せられます)
林道経営以外の目的(工事資材、廃棄物又は土砂の運搬等)で反復継続して通行する方は、市長に申請してください。
 (小田原市経済部農政課)
石垣山一夜城歴史公園
切通のような所を過ぎていくと、 降り始める所の道端に「自然を楽しむ みち(1) タカの仲間」と題した解説板兼道標があって、 この先の道は「石垣山一夜城へ250m」、今来た道は「生命の星・地球博物館へ2950m」となっています。 入生田駅から石垣山へ続くこの農道は「自然を楽しむ みち」にもなっていて、 道標を兼ねた解説板が点々と設置されています。 降り坂になってきた道を進んでいくと、左手にこんもりとした森があります。 これが石垣山一夜城歴史公園になります。 石垣山農道に出た所から5分ほど、佐奈田霊社から1時間5分ほどで到着しました。 手前には道標(23)が立っていて、この先の道は「海蔵山1700m・早川駅2350m」、 今来た道は「ウォーキングトレイル分岐310m・入生田駅3000m」となっています。 また「早川・片Pウォーキングトレイル」と題した案内板も設置されています。 ウォーキングトレイルはこの先へ続いていますが、お昼を過ぎた時刻になったので、 公園で昼食をしていくことにしました。
自然を楽しむ みち(1) タカの仲間
上をながめてみましょう。 気持ちよさそうに風に乗っている大型の鳥を見つけたら、それはトビかノスリ(秋と冬に多い)です。 海辺のトビは急降下してお弁当をさらっていくことがあります。 この周辺では、里山で見かける代表的な鳥、オオタカもすんでいますので注意して見てみましょう。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
生命の星・地球博物館までのハイキング 「自然を楽しむ みち」のご案内
石垣山一夜城の一帯は、自然に恵まれています。 ここから生命の星・地球博物館までは約3.2キロの道のりですが、 その途中の道沿いで見ることができる動物や植物などについて、その説明や道案内を9ヶ所に設けました。 どうぞ自然を楽しみながら、ゆっくりと歩いてみてください。 はじめに少し坂道を登りますが、あとは下り坂です。 50分ほどで博物館につきます。 博物館から入生田駅までは3分です。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
標柱「国指定史跡 石垣山(一夜城)入口」や 標識「旧城道 東登口」が立つ石段を登っていきます。 横木の階段に変わった道を進んでいくと、左手から登ってくる道と交差する十字路があります。 その道を横切って、正面に続く岩がごろごろした坂道を登っていくと、左右に通る散策路に出ます。 その右手の先から石段を登っていくと本丸跡に着きます。 物見台からの展望を確認してから、 眼下に広がる二の丸跡や丹沢山塊などを眺めながら、ベンチに腰掛けて昼食タイムにしました。
「国指定史跡」石垣山一夜城
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2.5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。 また小田原城まで僅か3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が 一望できます。 石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が 小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として 総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。 この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか 太閤一夜城などとも言われています。 秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、 猿楽師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう 勧めたと言われています。この城は単に小田原城攻めの本営であるというだけでなく、 太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。 この城は関東で最初につくられた石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による 野面積(のづらづみ)といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、 度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。 この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者の御厚意により、昭和62年度に 公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。
 (平成2年3月 小田原市)
お腹も満ちて疲れも癒えたところで、二の丸跡の北側にある展望台へ向かいました。 木製デッキになった展望台には、 ここから眺められる景色を描いた案内図が設置されています。 それによると、明神ヶ岳・明星ヶ岳・塔ノ峰・早雲山・神山・駒ヶ岳・二子山などの山々を見渡せるようです。 眼下には入生田駅周辺、右手の奥には小田原の街並みが見渡せます。 正面の山には紹大寺のしだれ桜も見えるようで、簡単な解説文が載っていました。 この時は比較的空気が澄んでいて、明神ヶ岳や二子山なども良く見えていました。 (パノラマ写真
(石垣山一夜城歴史公園の詳細については「石垣山」, 「石垣山」を参照)
長興山紹大寺としだれ桜
長興山紹大寺は、しだれ桜の巨木(市指定天然記念物)や稲葉氏一族や春日局の墓所(市指定史跡)によって知られており、 広大な伽藍跡として、多くの文化的建造物があり、 ここ石垣山一夜城と長興山史跡を巡るハイキングコースも整備されています。 長興山紹大寺のしだれ桜は、エドヒガンの変種で、滝にようにしだれた姿はまことに華麗です。 花の見頃は3月下旬〜4月上旬頃で、稲葉氏が紹大寺を入生田の地に移した寛文9年(1669)に このしだれ桜が植えられたといわれ、樹齢は330年以上、高さ13メートル、株元周囲約4.7メートルの大木です。 なお、昭和59年には「かながわの名木100選」にも選ばれ、市民に親しまれています。
暫定ルート分岐
併せて35分ほど居た石垣山を後にして、早川駅へと降っていきます。 元の石段を降りて左手へ進んでいくと、 「国指定史跡 石垣山 石垣山一夜城歴史公園」の石碑が立っています。 その先から農道へ出ると、すぐの所から右手へ道が分かれています。 入口には道標(22)が立っていて、正面の道は「海蔵寺1,650m・早川駅2,300m」、 右手の道は「休憩所840m・早川駅3,350m」、今来た道は「石垣山一夜城歴史公園50m」となっています。 正面の道には太閤の小田原攻めに従った武将など8人を紹介する解説板が点々と設置されています。 ここにあるのは豊臣秀吉で、淀殿・千利休・羽柴(豊臣秀次)・徳川家康・宇喜多秀家・伊達政宗・堀秀政と 続いているようです。 Aルートは正面の道を降っていくのですが、今回は右手のBルート(暫定ルート)を降っていきました。
(正面の道は「石垣山」を参照)
石垣山に参陣した武将たち
これより早川駅までの道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将など8人を紹介する看板を建てました。 散策をしながら、今は昔の物語をお楽しみください。
豊臣秀吉(とよとみひでよし) 天文6年(1537)〜慶長3年(1598)
織田信長に仕えて活躍。 信長の後継者となり天下統一を進めた。 四国・九州を平定した後、東国の攻略に乗り出した。 容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。 石垣山(国指定史跡)に城を築いて本陣とし、小田原城を攻め、北条氏を滅ぼして関東を平定した。 この城を「太閤の一夜城」といい、秀吉が一夜にして築いたと言われているが、実際には約80日を費やしている。 小田原合戦によって、東北の諸勢力も従い、全国平定を成し遂げた。
美しい日本の歩きたくなるみち500選
太閤・一夜城と長興山史跡のみち 12キロコース
 (日本ウォーキング協会公認)
石垣沿いに続く坂道を降っていくと、右手から道が合流してきます。 手前の石垣には道標(21)が取り付けられていて、正面の道は「休憩所780m・早川駅3290m」、 今来た道は「石垣山一夜城歴史公園110m」となっています。 竹林の脇を過ぎて傾斜が増してきた坂道を降っていくと、トタン張りの小屋の所から右手へ道が分かれていきます。 塀には道標(20)が取り付けられていて、正面の道は「休憩所680m・早川駅3190m」、 今来た道は「石垣山一夜城歴史公園210m」となっています。 正面の道を更に降っていくと、小屋を過ぎた所で左右に通る道に出ます。 脇には道標(18)が立っていて、今来た道は「石垣山一夜城歴史公園350m」となっています。 また道標(19)も立っていて、右手の道は「休憩所540m・早川駅3050m」となっています。
道標に従って右手へ続く坂道を降っていくと、すぐの所に鞍部になった分岐があります。 鞍部を横切っていく道と鞍部を越えていく道がΨ字形に交わるになっています。 暫定ルート分岐から8分ほど降って来た所になります。 角には道標(17)が立っていて、左前方へ続く道は「休憩所490m・早川駅3000m」、 今来た道は「石垣山一夜城歴史公園400m」となっています。 左右の道には何も示されてはいませんが、左手の道は真福寺の脇から登ってきた道になります。 今回はBルートになっている左前方の道を進んでいきます。
(左手の道は「石垣山」を参照)
山際に続く緩やかな道を進んでいくと、相模湾が見えるようになります。 ミカンが植えられた斜面を降っていくと、小田原の街並みや曽我丘陵などを見渡せるようになります。 石垣が続くようになった坂道を降っていくと、次第に眺めが広がってきます。 左手には丹沢大山も見えていました。 Ψ字形の峠から5分ほど降っていくと、右手から道が合流してきます。 角には道標(16)が立っていて、左手の道は「休憩所150m・早川駅2660m」、 今来た道は「石垣山一夜城歴史公園740m」となっています。
休憩所
道標に従って左手へ2分ほど降っていくと、左右に通る広い道に出ます。 正面にはテーブル・ベンチが設置された休憩所があり、簡易トイレも設置されていました。 暫定ルート分岐から17分ほどで着きました。 角には道標(14)が立っていて、左手の道は「海蔵寺1860m・早川駅2510m」、 今来た道は「石垣山一夜城歴史公園890m」となっています。 脇にはこれまでにも何度か見かけた「早川・片浦ウォーキングトレイル」の案内板が設置されています。 右手に続く道は石垣山へ登っていく途中にあったA・Bルート分岐から続いている道になります。 こちら側も舗装が終わっていたので、工事中の区間の2/3ほどは出来上がっているようでした。 正面にも道が続く十字路になっていますが、道標に従って左手の道を進んでいきます。
左手を差すべき道標の板が正面の道を指していました。 ルート図と見比べても海蔵寺へは左手の道であるはずですが、間違っているのだろうと思います。 試しに板を持って引いてみると簡単に回りました。 どうやら誰かが向きを変えたようだったので、正しい向きである左向きに直しておきました。
緑は友だち 山火事注意
自然を守りましょう。
 (神奈川県)
降り気味に続く広い道を進んでいきます。 1分半ほど進んで緩やかになってくると、道路の下を通っていく道があります。 下には波形の大きなトンネルがあって、先ほどのΨ字形の峠へと道が続いています。 トンネルを過ぎた所から分かれてこの道に登ってくる道を併せて、右手へ曲がりながら緩やかに登っていきます。
(下を通っている道は「石垣山」を参照)
すぐに左手から道が合流してきます。 そのすぐ先でも左側に沿って坂道が分かれていきますが、そのまま広い道を進んでいきます。 坂を登り切って切通のような所を過ぎていくと、右側には相模湾から丹沢山塊を見渡せる眺めが広がってきます。 少し降ったり登ったりしながら広い道を進んでいきます。 正面に大きな送電線の鉄塔を眺めながら進んでいくと十字路があります。 石垣に道標(13)が取り付けられていて、正面の道は「海蔵寺1030m・早川駅1680m」、 今来た道は「休憩所830m・石垣山一夜城歴史公園1720m」となっています。
A・Bルート合流
少し降り坂になってきた道を進んでいくと再び十字路があります。 脇の石垣に道標(12)が取り付けられていて、正面の道は「海蔵寺920m・早川駅1570m」、 今来た道は「休憩所940m・石垣山一夜城歴史公園1830m」となっています。 そこを過ぎて登り坂になってくると、左右に通る広い道に出ました。 脇の石垣に道標(9)が取り付けられていて、今来た道は「休憩所1080m」となっています。 正面の石垣には道標(10)が取り付けられていて、右手の道は「海蔵寺780m・早川駅1430m」、 左手の道は「石垣山一夜城歴史公園870m」となっています。 左右に通る道は石垣山から降ってきたAルートになります。 休憩所から15分ほどで着きました。 脇には「石垣山に参陣した武将たち」の解説板がありました。
石垣山に参陣した武将たち
徳川家康(とくがわいえやす) 天文11年(1542)〜元和2年(1616)
三河岡崎城主松平広忠の子。 長い人質生活の後、岡崎城に戻る。 織田信長と同盟して東海・中部一帯に勢力を伸ばした。 娘の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏とともに豊臣秀吉に対抗したが、 その後秀吉と和睦し、氏直にも秀吉へ従うことを勧めた。 小田原攻めが決まると、大軍を率い先鋒として出陣し、小田原城の北東、酒匂川の西岸に陣をしいた。 秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝ち、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。 家康の陣場跡には今日も土塁の一部が残り、 江戸時代に建てられた石碑(市指定文化財)や東照宮の建物がある。
道標に従って右手へ降っていきます。 大きな鉄塔の下を過ぎていくと、左手へ曲がっていく角から道が分かれています。 脇の石垣には道標(8)が取り付けられていて、左手へ曲がっていく道は「海蔵寺660m・早川駅1310m」、 今来た道は「石垣山一夜城歴史公園1130m」となっています。 道なりに左手からS字形に曲がりながら降っていくと正面が開けて、 小田原の街並みや曽我丘陵や丹沢山塊などを見渡せる眺めが広がってきます。 道端に設置された「石垣山に参陣した武将たち」の解説板を眺めたりしながら降っていきます。
石垣山に参陣した武将たち
宇喜多秀家(うきたひでいえ) 元亀3年(1572)〜明暦元年(1655)
備前岡山城主宇喜多直家の子。 秀吉の養女となった前田利家の娘を妻とし両家と婚姻関係となり、 備前・美作両国と備中東半分の約50万石を治めた。 小田原包囲陣では、小田原城の西方、水之尾付近に陣場を構えたと言われている。 合戦の最中、氏直の弟氏房に酒や肴を贈って籠城の苦労を慰め、 伊豆の江川酒を返礼として贈られ、氏房に講和を勧めたとする物語が伝えられている。
石垣山に参陣した武将たち
伊達政宗(だてまさむね) 永禄10年(1567)〜寛永13年(1636)
米沢城主伊達輝宗の子、幼名は梵天丸。 天正13年以降、佐竹・盧名らの連合軍と戦い、仙道七郡を手に入れ、勢力を広げていった。 秀吉に従い小田原合戦に加わるべきか迷い、なかなか参陣しなかったため、 その遅れを攻められ領地の一部を没収された。 正宗が小田原攻めに加わったことは、その援軍を期待した北条氏にとって大きな痛手となった。 秀吉の死後まもなく家康に近づき、伊達62万石を確定させ、仙台城を築いた。 幼少のころ、右眼を失明し、「独眼竜」と恐れられたが、自身は独眼にふれることを嫌い、 死後に残る肖像には両眼を備えるよう遺言したという。
茶色いトタン張りの小屋を過ぎていくと、右手から降ってくる道が合流してきます。 手前の石垣には道標道標(7)が取り付けられていて、この先の道は「海蔵寺2660m・早川駅910m」、 今来た道は「石垣山一夜城歴史公園1530m」となっています。 次第に近づいてくる街並みを眺めながら降っていくと、道端に大きな石が幾つもありました。 石垣山の城に使おうとした石なのでしょうか。 そこを過ぎて降っていくと、右手に分かれていく道の手前に「石垣山に参陣した武将たち」の解説板が立っていました。
石垣山に参陣した武将たち
堀秀政(ほりひでまさ) 天文22年(1553)〜天正18年(1590)
美濃の豪族堀秀重の子。 織田信長に仕え、側近として活躍。 信長の伊賀攻めの年、近江長浜城主となる。 秀吉に従い羽柴姓を与えられ、小牧・長久手の戦いや紀州攻めで活躍した。 その功績により、越前・加賀に18万石の領土を与えられて北庄城に入り、北国支配の中心となった。 小田原合戦では先鋒として出陣し、小田原城の西南、石垣山城の前衛として陣をしいた。 ところが、5月27日、小田原包囲陣中で病死し、福井の長慶寺に葬られた。 早川の海蔵寺にも墓がある。
右手に分かれていく道を見送って更に降っていくと、 少し右へ曲がった所の道端に、この広い農道の完成を記念する石碑がありました。 そこを過ぎていくと、左へ曲がっていく角から右へ道が分かれていきます。 早川駅へは道なりに左へ曲がっていけば良いのですが、 この右手のすぐ先に海蔵寺があるので立ち寄っていきました。
出世道
緑と花の夢の道
風と雲の通い道
出会いがつくる心道
農を育てる命道
歴史が誘う学び道
経済の国際化が進み、作目の転換と土地利用携帯の改革が必要になり、 大型農道なくして実現は不可能になりました。 幅員2.5メートルを5.5メートルの農道に改良するよう、 関係地権者が合意し、国県市の理解ある援助により 団体営農道整備事業が採択されました。 新しい道により、早川を訪れる方々に美しい四季の変化と、 眺望を見ていただくとともに、生産者の心のこもった農産物を手渡し、 農業の必要性と緑の大切さを理解していただきたいと思います。 この道が早川の農地に希望の光を運び、県西地域の文化的経済的活性化の 出世頭になるよう祈願し、完成記念として石垣山農道組合にて 建立いたしました。
竣工記念
事業名 県営早川東部農地保全事業
総事業量 11,584m
内訳 幹線排水路3,046m、支線排水路1,322m、承水路6,182m、単独農道1,084m
起工 昭和32年4月
竣工 昭和37年3月
 (早川東部土地改良区)
海蔵寺
右折してすぐの所から左手へ分かれていく道があります。 入口の建物の脇には小田原市の赤い消化器入れ「NO58-514」が設置されています。 その道に入っていくと、すぐに海蔵寺の境内になります。 A・Bルート合流から16分ほどで降りて来られました。 正面には「ビラン樹」の老木があって、周りには五輪塔のようなものが幾つか置かれていました。 その脇には赤い帽子と前掛けをした六地蔵が並んでいました。 右手には「寶珠山」の扁額が掛る立派な本堂がありました。 左手には石段混じりの参道が続いていました。 参道を進んでいくと「山神」と刻まれた石碑がありました。 緩やかになった参道をその先へ進んで入口まで行くと、「寶珠山 海蔵山」と刻まれた石碑や、 「不許葷酒入山門」と刻まれた石柱が立っていました。
海蔵寺
この寺は宝珠山と号し、曹洞宗下総国通幻派総寧寺の末で、嘉吉元年(1441)小田原城主大森氏によって建立された。 開山は大森氏の一族安叟宗楞(あんそうそうりょう)禅師で、曹洞宗小田原三山の一つに数えられる名刹である。 本堂前の赤肌の常緑樹は「ビラン樹」である。 この木は、成長すると樹皮がはがれて紅黄色となるので、異名を「バクチの木」又は「ハダカの木」と呼ばれている。 四国、九州、琉球列島に分布していて、この地が生育の最北限とされている。 [別にこの近くに国指定天然杵物「早川のビランジュ」がある] 寺内山の手の墓地に、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに参戦した豊臣方の大名、 堀左衛門督秀政(越前北ノ庄18万石)の墓がある。 堀秀政は、秀吉の小田原攻めに参戦して、北条氏の本拠である小田原本城攻囲中の5月、 病に冒されて同月27日、早川の陣中で38歳の若さで病没し、当寺に埋葬された。 なお堀秀政は、当寺の中興開基となっている。
東善院
海蔵寺から出てその先へ進んでいくと、東海道新幹線のガード「第一早川BL」をくぐっていきます。 すぐの所には小祠がふたつ並んだ所があって、「北神宮」と刻まれた石碑もありました。 そこを過ぎていくと左右に通る道に出ます。 角に建つ祠の脇には道標(5)があって、右手の道は「早川駅450m」、 今来た道は「海蔵寺230m・石垣山一夜城歴史公園1850m」となっています。 道標に従って右折して道なりに1分半ほど進んでいくと、 右手に「厄よけ魚藍観音 薬王山東善院」の看板が出ていて、右手の路地を指してました。 早川駅へは正面の道を進んでいくのですが、どんな所かと思って立ち寄っていきました。 狭い路地を進んでいくと、赤い前掛けをした六地蔵が並んでいて、 そこから続く石段を登った所に東善院がありました。 左手の上には大きな観音像が立っていて、魚を入れた篭を手に持つ姿をしていました。
魚藍大観音建立の由来
当山は應永二十二年(五六四年前)の開創で、薬王山東善院と号して、 昔から小田原市早川地区の鎮守紀の宮神社の副別当寺として今日に至りました。 本尊は薬師如来、魚藍観音を脇仏として御祀りしております。 縁あって愚僧東善院住職を拝命して以来四十余年、 此の景勝の台地に海上から拝せるような魚藍大観音を建立して、 海上安全、大漁満足、別しては我々に栄養源として生命を捧げている魚貝類への報思感謝の供養、 また平和日本建設と殉国の英霊並びに大戦による犠牲者と世界無名戦士の冥福を祈念したいと念願し、 檀家一同に相図りその賛意を得て建立計画が立案されました。 尊像の建立を望月秀晃先生に依頼、施工はマルセ建設(株)で着工、 有縁の方々の尊い御寄進と、更に建立委員の献身的な作業奉仕を得て、 鉄筋コンクリート造、総高十三米の慈悲あふるる麗しい代表的藝術として、 後世に偉跡を残す尊像が三ヶ年の工期を経て大業の成就となりました。 願はくば、本尊のご加護、十方有縁の観音の妙智力を念ずる皆様方が厄除開運、 家内安全、所願成就のご利益を授からんことを祈念する次第であります。
例祭日 毎月十七日
昭和五十七年十一月吉祥日 薬王山東善院住職 権大僧正 大野大雅
早川(はやかわ)駅
東善院から元の道に戻ってその先へ進んでいくと、左手に分かれていく道があります。 右側の塀には道標(4)が取り付けられていて、正面の道は「久翁寺100m・早川観音300m」、 今来た道は「海蔵寺390m・石垣山一夜城歴史公園1990m」となっています。 左手の道には何も示されてはいませんでしたが、道標に載っている地図によると早川駅へ続いているようでした。 左手の道を1分ほど進んでいくと、脇に道標(3)が取り付けられていて、 正面にある東海道線の仲道ガードは「早川駅210m」、 今来た道は「海蔵寺470m・石垣山一夜城歴史公園2070m・久翁寺180m・早川観音370m」となっています。 道は合っていると安心しながらガードをくぐっていくと国道135号に出ます。 その出口にも道標(2)が取り付けられていて、 今来た道は「海蔵寺500m・石垣山一夜城歴史公園2100m・早川観音400m」となっています。 右折して国道を進んでいくと、早川港バス停や小田原市役所早川支所を過ぎた所に早川駅前交差点があります。 その右手すぐの所に早川駅(JR東海道線)があります。 海蔵寺から16分ほど、石垣山から1時間17分ほどで到着しました。
駅前にはこれまでに見かけたのと同様の「早川・片浦ウォーキングトレイル」と題した案内板があります。 また、「がいどまっぷ早川」と題した大きな案内板もあって、 今回も一部を歩いた「太閤一夜城と長興山史跡巡り」のコースが紹介されていました。
ハイキングコース 太閤一夜城と長興山史跡巡り
早川駅→1分→小田原漁港→13分→早川観音→6分→久翁寺→10分→海藏寺→35分→石垣山一夜城公園歴史公園→60分→太閤橋→10分→生命の星・地球博物館→12分→紹太寺→20分→入生田駅
石垣山一夜城歴史公園 当駅より徒歩40分
1590年、豊臣秀吉が小田原合戦のときに築いた城。 現在は本丸、天守台、二の丸、西曲輪などが残る。 山林のなかで約80日かけて築城ののち、周囲の樹木を一夜のうちに伐採して、北条軍を慌てさせたところから由来する。
海蔵寺 当駅より徒歩10分
嘉吉元年(1441)の創建と伝えられる。 墓地には武将堀秀政の墓がある。 美濃で生まれ織田信長に仕えたのち秀吉の旗下になり、越前の大名にのし上がる。 小田原の役に参戦するも疫病で陣没した。