江の島
散策:2011年09月中旬
【海辺散策】 江の島
概 要 江の島は、湘南海岸に浮かぶ島で、多くの文化財が遺されています。 また、島先端の浸食海礁や自然美を加えて、全島が史跡・名勝に指定され、 四季を通じ参詣や行楽の人々が来遊している所です。 今回は辺津宮や中津宮を経てサムエル・コッキング苑や展望灯台を訪ね、下道を通って戻ってきます。
起 点 藤沢市 江の島バス停
終 点 藤沢市 江の島バス停
ルート 江の島バス停…北緑地…聖天島公園…延命寺…弁財天仲見世通り…辺津宮…中津宮広場…中津宮…サムエルコッキング苑…江の島展望灯台…江の島大師…山ふたつ…下道…江の島市民の家…西浦霊園…江の島弁天橋…江の島バス停
所要時間 2時間30分
歩いて... 来る時には山頂部が見えていた富士山ですが、展望灯台に着いた時にはすっぽりと雲に隠れて見えませんでした。 周囲の山並や伊豆大島にも雲がかかっていて、よく晴れている割りには心残りのする展望でした。
関連メモ 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島
コース紹介
江の島(えのしま)バス停
藤沢駅(JR東海道線)の南口から、江ノ島行きバスにて15分、 1時間に2本程度の便があります。
大船駅からも1時間に2本程度、鎌倉駅からも1時間に1本程度の便があります。
バス停の傍に江の島観光案内所があって、 「江の島イラストマップ」などのパンフレット類が置いてあるので、貰っていくと参考になります。
江の島名勝図
江の島は、またの名を「絵の島」ともいわれ、昔から風光明媚な自然環境に恵まれた周囲約4km、面積0.37kuの島です。 島の頂上部にある展望灯台からは、東南に三浦半島、南に伊豆大島、西に富士山・箱根の山々、と 湘南海岸を中心に360度の大パノラマを楽しむことが出来ます。 また江の島は、地質上、第三紀凝灰質砂岩からなる島で、このため海侵洞窟や岩嘴が多く、 奇異な形をなして、古くからその名勝をうたわれています。 島の中央には江島神社があり、弁財天が祀られています。 安芸(広島県)の宮島、近江(滋賀県)の竹生島にある弁財天とならんで、日本三大弁才天の一つにあげられています。 江戸時代には平和の神・福の神・音楽技芸の神として、多くの人々から信仰され、大変ににぎわいました。 このため、島内には神奈川県および藤沢市指定の多くの文化財が遺され、 自然美と併せて、全島が史跡・名勝に指定されています。 来島いただきました皆様に、四季を通じた江の島の魅力をご満喫いただきたいと思います。  (ぷちネットふじさわ)
北緑地
バス停の道路向かいの海沿いに北緑地があります。 芝地の周囲を円形に巡るレンガ敷きの散策路が設けられています。 目の前には江の島大橋が陸まで続き、片P東浜海水浴場には波が打ち寄せていました。 脇には「弁財天と世界女性群像噴水池」と名付けられた円い噴水池があって、 池の真ん中には弁財天、池の周囲には東洋と西洋の女性像が並んでいます。
湘南港竣工とオリンピック東京大会ヨット競技開催記念 弁財天と世界女性群像噴水池
弁天の江の島といわれる江の島弁財天は、近江の竹生島、安芸の厳島とともに日本三弁天の一つであり、 江の島の象徴であって、この弁財天にちなみ、冥想の弁財天を池の中央に配し、江の島の歴史と文化を表現し、 これをかこんで東洋と西洋、古典と弦大の四つの像、つまり東洋の古典像は法隆寺の百済観音のイメージをとりいれ、 西洋古典像は、オリンピック発祥の地ギリシャの古代女性像、これに対し西洋現代像は優雅な女性裸像と、 東洋の現代女性像として東南アジアの踊り子像をくみあわせ、 この五体はオリンピックの五輪をあらわし、世界とその平和親善を表現し、ヨット競技開催を永久に記念するもので、 これらはいずれも格調高く気品にみち、全体的に美的統一がはかられています。 噴水は弁財天を水のベールにつつみ、昼間は太陽のひかりをあびて七色の虹をいろどり、 夜間は水中照明によりさまざまに変化しつつ、一層の美観をくわえます。
 (昭和39年10月1日 藤沢市長 金子小一郎)
弁財天と世界女性群像噴水池を後世に
この弁財天と世界女性群像噴水池は平成10年第53回国民体育大会かながわ・ゆめ国体を機に、 江の島北緑地の再整備事業として現在の姿となりました。 当初の位置は現在地より約20m程南側に位置し、その景観は左の写真のとおりであります。 弁財天は発祥地インドではサラスバティーすなわち水の神・音楽の神と云われ、 それにふさわしく弁財天を中心として、世界女性群像はこの水面の上にたたずみ、 幾年の歳月を潮騒の調べにだかれて、流れる雲とともにその女性美を水面に映してまいりました。 ここに訪れ散策する多くの人々の心に安らぎと美しき感銘をあたえ、静かにいならぶ弁財天と世界女性群像。 この五体の彫像の制作者こそ、昭和9年に日本彫刻家協会を創立し造形と精神の両面にわたる人間性の追求に専念した 日本彫刻界重鎮、加藤顕清氏であります。 氏は晩年を藤沢市ですごし昭和44年市内大庭で没した。享年72才。 ここに氏の生涯にわたる彫刻美術の偉業に敬意を表し、 弁財天と世界女性群像噴水池を後世に残すものであります。
 (平成12年3月 藤沢市長 山本捷雄)
聖天島公園
交通安全祈願所になっている江島大神を過ぎていくと、聖天島公園があります。 もとは海に浮かぶ岩だったようですが、関東大震災の時に江の島と陸続きになったとのことです。 いつ頃のものかは分かりませんが、古い絵はがきの写真が載っていました。 左手に写っている岩が聖天島とのことです。 橋が架かる以前には、砂州を渡って江の島まで行ったようです。 公園には良真上人を祀る祠があって、脇にはその解説板も立っています。
聖天島
もとは海に浮かぶ二つの岩からなる島でしたが、 大正12年(1923)の関東大震災の時に隆起して、江の島と陸続きになりました。 その後、昭和39年東京オリンピックのヨット競技場の整備のため海が埋め立てられ、 現在のように上部だけが丘となって残されました。 この丘は、海底火山噴出物と砂岩と凝灰岩から出来ています。 聖天島の名称は、二つの岩の形が仏教守護神の一つである「歓喜天(かんきてん)」の姿に似ていることから名付けられました。 建仁2年(1203)、僧良真が千日間の修行満願の夜、天女が現れ「お告げ」があったと伝えられています。 また、昔は八坂神社祭典の日に神輿を担ぐ者全員が、この場所で禊ぎをし、 新しい下帯をして神社に向かったという神聖な場所でした。 今も残る社の中には、良真上人像が安置されています。
 (藤沢市観光課)
聖天島と聖天上人
僧良真は元久元年三月宋に渡り、慶仁禅師に参じて受法開かずして日本に霊地江の島ありと知る禅師より、 そこに社壇を開くべしと教えられ帰朝する。 後に江の島東岸の巌窟に籠り一千余日の間修行を重ねた良真が、建仁元年(1202)7月、 窟内に紫雲香気満ちて天女が壇上に現れ給うを見る。 以来此処を聖天島と謂う。 更に時の将軍源実朝の帰依僧となる良真は、実朝の懇志を受け「下の宮」(現在の江島神社辺津宮)を創建す。 (建永元年(1206)「江の島縁起」に依る)
聖天島 島の東岸にあり。 天女影向の古跡と言う。 窟内に良真の像を安す(天保12(1804)新編相模国風土記稿)。 爾来慈悲上人良真に依り、ここ江の島東岸一帯の地霊は守護されるとして、 島人は「聖天上人」と仰ぎ、崇敬を集めて現在に至ります。
延命寺
聖天島公園の奥に続く路地を戻るようにして右手へ進んでいきます。 狭い路地ですが、鮮魚店などが並んでいます。 数10m進んだ所から左手に入っていく路地があります。 角に立つ電柱には「頂上(江島神社・植物園・岩屋)方面へ」の看板が出ています。 その路地を見送っていくと、左手に入っていく路地があります。 その先の石段を登っていくと延命寺があります。 山際にはお地蔵さんや仏像などがずらりと並んでいました。 岩壁を刳り貫いた洞へ入ってみると、内部は墓苑になっているようでした。 中ほどに祭壇があり、周囲の岩壁沿いに墓石が幾つも並んでいました。 各々の前には真新しい綺麗な花束が手向けられていました。
弁財天仲見世通り
延命寺を後にしてその先へ進んでいくと十字路に出ます。 出た所には青銅製の大きな鳥居が立っています。 「江の島大明神」の扁額が掛る鳥居をくぐって、登り坂になった弁財天仲見世通りを進んでいきます。 道の両側には物産店やお食事処などが建ち並んでいます。 道幅は昔も今も変わっていないのだそうです。 江ノ島郵便局の前には明治時代に使われていたものを復元したポストがあります。 その先には江の島全体の総別当であった岩本院があります。
明治時代の郵便差出箱(ポスト)
明治4年3月に郵便事業が創業し、明治5年、東京府下に郵便取扱所を開設するにあたり書状箱を設置したのが始まりdす。 この郵便差出箱は、明治20年頃に使用していたものを復元したものです。 皆さまから愛され、ご利用していただくことにより、 「あなたの街の郵便局」のポストとして、江ノ島のふるさとづくりに役立ちたいと思います。
 (江ノ島郵便局長)
旧岩本院(岩本楼)
江の島の歴史の中で、貴重な役割を担ってきたのが、この岩本院です。 中世、江の島には弁財天を本尊とした、「岩屋本宮」・「上之宮」(現中津宮)・「下之宮」(現辺津宮)の三宮があり、 それぞれ岩本坊・上之坊・下之坊の各別当寺が管理にあたっていました。 この三坊の中で「岩本坊」は、「岩屋本宮」及び、弁財天の御旅所であった「奥津宮」の別当寺で、 江戸時代に、院号の使用を許され「岩本院」と称し、江の島全体の総別当でした。 この岩本院の先祖は源氏一族の中の「宇多源氏」の流れをくむ、近江源氏として有名な「佐々木氏」です。 江戸時代には、文字や芸能にもとりあげあれ、中でも株木の「青砥稿花紅彩画(通称「白浪五人男」)」に出てくる 「弁天小僧菊之助」は、「岩本院の稚児」がモデルといわれています。
 (鎌倉市観光課)
やがて、石段の先に朱塗りの大きな鳥居が見えてきます。 鳥居をくぐった先には瑞心門があって、その上にある辺津宮へ続いていますが、 今回は左手にあるエスカーで頂上まで行くことにしました。 サムエルコッキング苑の入苑料や展望灯台の昇塔料も併せたセット利用券が割安のようだったので、 今回はそれを買っていきました。
エスカー
エスカーとは特別な乗り物ではなくて普通のエスカレータです。 1区・2区・3区の三つのエスカー乗り場に分かれています。 1区のエスカーを出ると辺津宮、2区のエスカーを出ると中津宮、3区のエスカーを出ると頂上になります。 1区だけは二つのエスカレータを乗り継ぐ形になっています。 エスカーは登り専用で、頂上から戻ってくる時は、階段混じりの道を歩いて降ることになります。
江島神社全景絵地図
御祭神は、三人姉妹の女神様
社伝によると、欽明天皇13年(552)に、 「欽明天皇の御宇、神宣により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」 とあります。 これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されています。 欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、 日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。
一、車馬を乗入れること
一、竹木を伐採すること
一、魚鳥を捕獲すること
一、参詣人に迷惑を及ぼすこと
右境内に於て禁止する。
 (江島神社)
二つのエスカレータを乗り継いで1区のエスカーから出ると小振りの池があって、 脇には「龍神と銭洗い」や「弁財天黄金浄水」の解説板がありました。
弁財天黄金浄水
弁財天の神使 白龍王は、高さ3m、相模彫 鏡碩吉氏の苦心の作で、 水源には徳力製の純金の小判が秘められております。 むかしから黄金の水は、
 一、健康によい
 一、運が開ける
 一、声がよくなる
 一、美しくなる
と称せられています。 日本三大弁財天の一つであり、関東における最も信仰の篤い江島弁財天の神使である白龍王です。 御玉よりほとばしる霊水を頂戴し、ご利益をうけられるようお祈りしましょう。
龍神と銭洗い
往昔より龍は雲、雨、嵐などをひき起す威大なものの象徴とされ、 我国では龍神の信仰が、山と湖、海や河川、沼を背景に発生し、 水の神と尊崇されてきました。 また、インド神話で河川(水)の神と崇められている弁財天は白龍(白蛇)との関係が深く、 頭にかぶる天冠にも蛇を頂いております。 只今も巳の年、巳の日にはご利益を願うたくさんの参拝者が当神社を訪れます。 当江の島弁財天は日本三大弁財天(厳島、竹生島)の一つで、近年まで岩屋洞窟に祀られ、 その御霊水で金銭を洗うと、金運向上・財宝福徳の御利益があると伝えられてきました。 現在は、ここの白龍池にお移し致しました。銭洗いは本来我身我心の不浄の念を洗い清めるもので、 それにより神の御守護をいただき、福徳がもたらされると言われております。
辺津宮
池の先に辺津宮があります。 右手には社務所があります。 「人形・車形のお祓い所」もあって、社殿の前にある「茅の輪くぐり」と連携しているようでした。 左手には奉安殿があって、日本三大弁財天の一つに数えられる八臂弁財天と妙音弁財天の尊像が奉安されています。
辺津宮(へつみや)
御祭神 田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
江島神社は欽明天皇の御代(6世紀)島の南端のお岩屋にお祀りされたのが起源で、 文徳天皇の御代(835)に中津宮が、土御門天皇の御代(1206)にこの辺津宮が源実朝公により創建された。 現在の社殿は昭和51年の再建である。 後宇多天皇の蒙古撃退御礼の勅願、源頼朝公の為居寄進、徳川家康公の参詣等、朝廷幕府の信仰が隆盛を極め、 江の島弁才天とも称えられ、江の島詣が盛んとなった。 更には江戸人の要望に応えて度々の出開帳も行われた。 すぐれた風光は浮世絵の画題となり、多くの名作を今に残し、和歌・俳諧・川柳・紀行文等にも大いにうたわれている。 現在、四季を通じて多数の参詣者があり、佐藤栄作元総理大臣も大衛立を奉納される等、信仰は全国に及んでいる。
茅の輪くぐり
御彩牌の前にこの茅の輪をくぐり、自らの罪穢を祓い清め、清々しい心で静かにお参りしましょう。
輪くぐりの前に一礼、その後「祓へ給え清め給へ」と念じ、輪をくぐって下さい。 終えたらテント内の人形・車形にお書き下さい。
人形・車形のお祓い
一、 人形には氏名・年令を記入し、人形にて身体を撫で、息を三回吹きかけ、御自身の身代りとします。
一、 車形には氏名・車のナンバーを記入し、交通安全を御祈念下さい。
お書きいただきました人形・車形にはお初穂料を添えてお納め頂き、茅の輪をくぐり、 無病息災・光津安全を御祈念下さい。 毎月一日、十五日にお焚き上げを行ないます。
奉安殿を過ぎていくと八坂神社がありました。 「神奈川の祭り50選」にも選ばれている祭りで有名なのだそうです。 隣りには、稲荷社・秋葉社・宋国伝来の古碑・沼田頼輔の歌碑などがありました。 道路向かいには御神木の「むすびの樹」がありました。 根本が続いたイチョウの大木で、ハートマークの絵馬が沢山掛けられていました。 脇からは江の島大橋や境川の河口の辺りを見下ろす眺めが広がっています。
八坂神社
御祭神 健早須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
御祭礼 江の島天王祭と言われ、毎年7月中旬に斎行される。 当日は島人列をなして天王囃子を始め、 能神・通り・松・神・龍神・唐人・新通り獅子が古風な囃子を奏でるなか、 故事により神輿は江の島大橋際より真裸体の若人達にかつがれ海に入り、 浮きつ沈みつし、陸・船上では夫々の囃子を奏でしあと、 夫婦神である対岸に鎮座される腰越・小動神社へと神幸し、 一年一度会いに行く湘南地方の夏の風物詩として華麗を極める勇壮な祭で、 「神奈川の祭り50選」にも選ばれている。
現在の社殿は江島神社御鎮座1450年記念事業の一環として、平成14年に御改築された。
沼田頼輔の歌碑
沼田頼輔の歌碑は基台石上50cm余りの屏風型の山石の半面を磨いて、短歌一首
さながらに 生けるが如く 見まつりぬ 御神ながらも 肌ゆたかなり
と彫りつけてあります。 昭和36年11月22日、頼輔の28回忌辰を記念して建てられた、江の島唯一の歌碑であります。 この歌は、与謝野晶子の鎌倉大仏の美男讃歌と好一対とたたえられています。 沼田頼輔は神奈川県愛甲郡宮ヶ瀬の農、山本喜三郎の次男で本名は頼助。 のちに沼田家の養子となりました。 「日本紋章学」の著者として知られ神奈川県史にも研究深く、 県内に多くの知人と門生をもっていました。
 (藤沢市観光課)
引用されている与謝野晶子の鎌倉大仏の美男讃歌は次のとおりです。
鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな
御神木 むすびの樹
この銀杏のように、ひとつ心(根)に結ばれると親しまれる。
中津宮広場
階段を降りて、「猿田彦大神」の石碑を過ぎていくと、右手には中津宮広場があります。 「花の名所」ということで、この時にも花が植えられていました。 その先には展望デッキがあって、江の島ヨットハーバーなどを見渡す眺めが広がります。 展望デッキの手前に2区のエスカー乗り場があります。
猿田彦大神
この碑は庚申塔の一つで、天保3年(1832)に建てられたものです。 碑の執筆者である阿部石年は、藤沢宿の儒者として、また書家として知られ、 天保6年(1835)に没し、その墓碑は鵠沼の万福寺にあります。 この碑に書かれている「猿田彦大神」とは、古事記・日本書紀の神話に登場する神で、 天孫「ににぎのみこと」降臨の際、高千穂までの道案内を務めた神といわれ、 中世以降、「庚申信仰」や「道祖神信仰」と習合しました。
※庚申信仰とは人間の体内には、三尸という三匹の虫がいて、常に人間が犯す罪過を監視し、 庚申の晩に体内から抜け天にのぼり天帝に罪過を報告し、人間を早死にさせるという。 だから庚申の晩は、常に徹夜をしていれば体内から抜け出し報告できないので、早死にを免れ長生きできるという。 中国道教の教えからはじまっています。 猿田彦の名前から庚申の「申」と結びついたといわれています。
 (藤沢市観光課)
中津宮
2区のエスカーから出ると中津宮があります。 境内には、平成11年に催された「江の島大歌舞伎」に因んで植樹された 「梅幸のしだれ桜」,「菊之助のしだれ桜」,「菊五郎のしだれ桜」や、役者の手形などがあります。
中津宮(なかつみや)
御祭神 市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)(天照大神の御子神)
仁壽3年(853)島の東山の頂きに宮居を建つとあり、これが上之宮(現中津宮)の起りで、 天文18年(1549)には北条氏綱の寄進により修復が加えられ、元禄2年(1675)に再建されました。 昭和55年、御屋根の葺替が成され、300年余りの歳月から、御社殿の土台腐朽、彫刻の破損等甚しき為、 平成8年から御改修が進められ、基礎補修、彫刻の復元をはじめとして、幣殿拝殿の格天井には 四季折々の花鳥画を施こし、一層典雅な趣をもって極彩色の御社殿が甦えりました。 境内には江戸時代に寄進された中村座、市村座の石灯籠、狛犬、手水鉢等、当時の江の島信仰の 深さを眼前に見ることが出来ます。
(元禄2年の「1675年」は1689年の誤記かと思われますが、そのまま載せておきます)
中津宮(なかつみや)
市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)をお祀りしています。 創建は文徳天皇仁壽3年(853)。 その後、元禄2年(1689)に改築され、朱色が鮮明な現在の社殿は、平成8年の全面的な改修により、 元禄2年改宗当時の中津宮(権現造り)を再現したものです。 幣殿・拝殿の天井には花鳥画や彫刻が施され、境内に奉納された石燈籠寺は、 江戸時代における商人・芸人・庶民の信仰の深さを物語っています。
美しい恋したい。 「美しい弁財天さまにあやかり、綺麗になりたい!」と願う女の子たちの象徴として、 弁財天様の羽衣をイメージした中津宮独自のマークです。 三姉妹の女神様の中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)が 「もっと綺麗に、もっと美しく恋をしたい」女神である女性達に贈る願いが込められております。
謡曲「江島」と弁財天
謡曲「江島」は、弁財天影向の縁起を説いた曲である。 欽明天皇の13年、相模国江野の海上に島が湧き出て、福徳円満の願いをかなえる弁財天が 影向せられたというので勅使が下向する。 折から現われた老漁夫は勅使の尋ねに応じて詳しく島の成立を語り、 その功徳を讃歎した後、自分はこの島の鎮守である弁財天の夫神の五頭龍王、即ち龍口明神である といって消え失せる。 やがて弁財天が15童子を伴って出現、勅使に如意宝珠を捧げると、五頭龍王も現われ出で、 国土の守護を誓いつつ上天したのであった。 弁財天は白蛇を飾る宝冠の戴き、一蓮葉に乗って、右手に剣、左手に宝珠を捧げて、 延命長寿、怨敵退散、財宝満足の利益を施すという。
 (謡曲史跡保存会)
サムエルコッキング苑
社殿の左手の方へ進んでいくと3区のエスカー乗り場があります。 3区のエスカーから出ると、緩やかで広い頂上になります。 大きな松が生える所を過ぎていくと、右側にサムエルコッキング苑の入口があります。
江の島サムエル・コッキング苑 江の島展望灯台
江の島サムエル・コッキング苑という施設名は、 この地に最初に庭園を造ったイギリスの貿易商サムエル・コッキングに由来します。 コッキングは1842年にアイルランドに生まれ、1869年(明治2)日本にやってきました。 横浜で貿易商として成功し、1883年(明治15)から数年をかけて江の島の頂上に和洋折衷の大庭園を築造しました。 庭園の総面積は1万平方メートルを超え、園路、石垣、築山、池、花壇のほか、広さ660平方メートルもの温室が 造られました。この温室は、当時日本一の広さで、温室の中はもちろん庭園内には熱帯・亜熱帯の植物が生い茂り、 さながら南国のたたずまいを現出していたと言われます。いまでも苑内には当時を偲ばせるシマナンヨウスギ、 クックアロウカリア、タイミンチクなどが残っています。 コッキングの造った庭園は、時代の変遷、とりわけ関東大震災の災禍などによって荒廃し、温室も昭和24年の 整備時に地中に埋められてしまいましたが、このたびの再整備にあたって掘り起こし、歴史上貴重な温室遺構を 観覧いただけるようになりました。 苑内にはさまざまな南洋植物や四季おりおりの草花が植えられていて、訪れる人の目を楽しませます。 そして12月から4月にかけては数多くの椿が見事に花開きます。 また、藤沢市と姉妹友好都市を結ぶ広場には、四阿(中国・昆明市)、 海鼠壁の松本館(松本市)などがしつらえられています。
入口から入っていくと、左手に昆明広場があり、 中には六角形の中国風の騁碧亭(ていへきてい)や昆明碑文があります。
昆明市 中華人民共和国
友好都市提携年月日 1981年11月5日(友好都市提携調印の日)
提携の動機と経過
この都市提携の仲立ちとなったのは、中国国歌となった「義勇軍行進曲」の作曲者で、 中国現代音楽の先駆者といわれている聶耳(ニエ・アル)です。 聶耳は1912年昆明市に生まれ、来日した1935年、市内鵠沼海岸で遊泳中帰らぬ人となりました。 異国の地で短い生涯を終えた青年の死をいたんだ多くの市民により、1954年11月に記念碑が 建てられ(後に台風により流出)、その後1965年に現在の記念碑が建てられました。 こうした市民の好意は中国人民を大変感動させたといわれています。 それ以降、両市の友好訪問時の相互訪問により親善が深められ、1981年8月、昆明市長から 友好都市提携をしたい旨の文書が寄せられ、9月の定例市議会において都市提携の議決がなされ、 11月5日、友好都市提携の調印式が行われました。
昆明碑文
彩雲の南端、てん池(昆明池)の畔、聳え立つ城、名は昆明。 2000年にわたる歴史、優れた人や物が集まり、光り輝く。 てん国王の金印、東寺塔と西寺塔、拓東の古典建築、金馬碧鶏、講武学堂、 数多くの古跡、我が都市の輝かしき足跡を刻む。この景色、天下一品とも言える。 洋々たるてん池、雄大な石林、九郷の鍾乳洞、すべて天の贈り物。 四季は寒暑なく、通年花咲き乱れ、人はここに身を置くと、まるで仙界にいる様である。 この地に26の民族が集まり、純朴な民風、習俗多様、情調が色濃く満ち溢れる。 ここ百年の間、英才を雲の如く排出、日本国藤沢に寄寓した中国人民音楽家−聶耳も、 昆明にて生まれ育つ。古く「西南シルクロード」に遡り、昆明の対外交流は絶え間なく続く。 1981年、昆明、藤沢友好都市提携、昆明・藤沢友諠館を昆明に建設する。 壬午の年(2002年)、昆明市政府は藤沢江の島にて吉祥孔雀を鋳る。 騁碧亭を建て、中日友好が代々にわたる証として、この石碑を立ち、文を刻み、これを記とする。  (昆明市人民府建立)
騁碧亭の右手にはウィンザー広場があって、多くのバラが植えられています。
「ウィンザー広場のバラ」について
ウィンザー広場に植栽されている「バラ」は、ウィンザー市より寄贈されたものです。 寄贈のきっかけは、2002年7月に藤沢市公式代表団がウィンザー市長に表敬訪問した際、 藤沢市長よりの申し出をウィンザー市長が快諾した時に始まり、 同年9月にはウィンザー市公園部長ロイド・バリッジ氏が来藤され、 建設中の現地を確認し、具体化へ移行いたしました。
ウィンザー市 カナダ
姉妹都市提携年月日 1987年12月2日(姉妹都市提携調印の日)
提携の動機と経過
カナダ国オンタリオ州ウィンザー市在住の親日家が、気候・文化・産業などにおいて、 多くの共通性を持っていることを尻、積極的に両市間の橋渡しをしてきました。 1984年にウィンザー市長が藤沢市を訪問し、公的な交流が始まり、 以降市レベル・市民レベルでの交流が続けられました。 また両市の小学生による絵の交換等の交流のもとに、 1986年ウィンザー市からの姉妹都市提携に対する正式な意思表示を受け、 翌年12月2日(昭和62年)藤沢市において都市提携の協定に調印しました。
ウィンザー広場の隣りにはコッキング温室遺構があります。
サムエル・コッキング庭園の温室遺構
コッキング庭園の温室は、明治中期、英国人貿易商サムエル・コッキングが、 江の島に造った庭園の一画に巨額の私財を投じて造られました。 大正12年の震災等で温室の上屋はすべて倒壊してしまいましたが、 煉瓦を主体とした基礎部や地下に作られた施設が残っていました。 遺構は3棟の南北に長い温室の基礎と東西に長い温室基礎、西洋風のシンメトリーな形の池、 それに、温室の北側に設けられた付属施設であるボイラー室、燃料を入れた貯炭庫、 植物や暖房のために水を蓄えた貯水層、温室と付属施設とを結ぶ地下通路、 冷たい風を遮るための防風壁や集水陶管などです。 池は最近までその機能を有し、使われていました。 コッキングはこの池にも暖房用のパイプを通し、熱帯の水棲植物を育てていたようです。 この温室は、明治中期に造られたものとしては国内では最大の規模を有し、 スチームによる暖房設備も当時としては水準の高いものであったと思われます。 煉瓦造の温室遺構としては現存する唯一のもので、近代の文化遺構として非常に貴重なものです。
ボイラー室・貯炭庫
この下にはボイラー室がありました。 東側に接している貯炭庫とは地下でアーチ型の入り口によって繋がっており、 ボイラー室と温室は地下通路で連絡しています。 外壁には煙突と思われる煉瓦の構造も見られます。 ボイラー室で暖められた温水や蒸気は鉄管や鉛管を通じて各温室や池を巡っていました。 その鉄管や鉛管がところどころ地面に顔を出しています。 貯炭庫には二つのアーチ型天井に、燃料を投入するための穴が設けられています。 明治30年の「植物学雑誌」の記述から、コッキングの温室には、蒸気の暖房施設があって、 温室内は24度内外に暖められており、ランやサボテンなどの植物を栽培していたことがわかりました。
貯水槽・陶管
この下には、幅約4m・長さ約12m・高さ3m〜3.2mの巨大な貯水槽があります。 天井は鉄骨で補強されたアーチ型で、アーチは9個連なっています。 庭園や温室にとって水は欠くことのできない重要なものですが、 江の島に水道が引かれたのは大正15年になってからのことでした。 そのため、コッキングは温室の屋根に降った雨水を全て利用できるように温室を設計しました。 それぞれの温室には集水用の枡が設けられ、 これに接続された陶管を通って雨水は貯水槽へと導かれるように造られています。 貯水槽には、空気抜けの穴や貯水量を測るための設備もあったようです。 現在でも貯水槽として充分機能します。 陶管には大・中・小の3種類が使用されており、「肥田製」という刻印があるものが見られ、 愛知県の常滑で焼かれたものです。 貯水槽の北側、防風壁との間からアーチ型をした煉瓦構造物が出てきましたが、 これらがどこにどのように使われていたものかは判っていません。
温室と地下通路
温室とボイラー室、貯炭庫はT字形に設置された地下通路によって繋がっていて、 行き来できるようになっています。 地下通路の途中にはアクアリュウム(水槽)が二箇所設けられていて、水棲の動植物を飼育していたと思われます。 地下通路は幅約1m・高さ1.9mで、天井はアーチ型をしており、明かり取りのための天窓も造られています。 左手に見える温室は他の3棟の温室と構造が異なっていて、中央部分に地山を残した造りになっています。 当時の温室のカタログから内のつくりを想像することができます。
コッキング温室遺構の奥にはマイアミビーチ広場<があります。 脇にはウッドテラスが付いたカフェもあります。 目の前には江の島大橋から江の島ヨットハーバーにかけての眺めが広がっています。
マイアミ・ビーチ市 アメリカ合衆国
姉妹都市提携年月日 1959年3月5日(藤沢市議会議決の日)
提携の動機と経過
当時藤沢市ではアメリカの都市との親善・交流を目的に、都市提携を行うことを念願していましたが、 アメリカ合衆国国務省広報文化局を通じてこのことを知ったマイアミ・ビーチ市市長より、 「藤沢市は東洋のマイアミ海岸と呼ばれているとこので都市の形態や特色が似ている観光都市なので、 都市提携したい」との申し入れがあり、1959年3月の市議会の議決を得て都市提携しました。
LONCAFE French Toast
LONCAFEは日本で初めてのフレンチトーストを専門としたお店です。 本場フランスのパンペリュデュを当店のオリジナルソースにつけ込み、 外はカリカリ、中はトローリ、そんなフレンチトーストを作り上げました。 ロンカゲの店内から見る紺碧の海はまるでインテリアの一部であるかのようです。 日頃の慌しさを忘れられる癒しの空間と大人気のスイーツを味わいながらお過ごし下さい。
ウィンザー広場の隣りにはタイミンチク群があります。 そこを過ぎて奥へ進んでいくと、背の高い椰子の木が林立するようになります。 幹に取り付けられた札によると「オキナヤシ」というのだそうです。 南国情緒を感じながら林の中を進んでいきます。
タイミンチク群(市指定 天然記念物)
大明竹という意味で、古く中国大陸の竹かと思われていましたが、原産国は沖縄、九州南方諸島であります。 イネ科に属し、葉は細長く尖り、茎は密に叢生し、先端は深く垂れ下がって、タイミンチクのトンネルを作ります。 うっそうと茂る姿は、ヤシ科、ユリ科などとは違った独特の景観があります。
高さ 7〜8m
 (藤沢市観光課、藤沢市教育委員会)
椰子の林を抜けていくと、右手に風情のある建物があって、 「そば道場 松本館」の看板が出ていました。 その前には松本市との姉妹都市提携の記念碑「海と山の絆」が立っています。
松本市 日本:長野県
姉妹都市提携年月日 1961年7月29日(松本市から来藤した日を提携日とする)
提携の動機と経過
東洋のスイスといわれている長野県松本市と、東洋のマイアミ・ビーチと呼ばれている藤沢市は、 日本の海と山を代表する観光都市であり、この両市が全国に先がけて観光面で姉妹都市の縁を結びました。
「海と山の絆」(山辺石)
この記念碑は、藤沢市との姉妹都市提携40周年を記念して松本市から贈られたものです。 藤沢市の姉妹都市である松本市域には、江戸時代に建立された約280体の石造道祖神があります。 なかでも男女の神様を一つの石に刻んだ「双体道祖神」は、地域の特徴である道祖神として 観光に訪れる人々の人気を集めています。 道祖神は、古くは村を守る境の神として祀られました。村の繁栄を願って祭られた道祖神は、 後に疫病除けや縁結び、豊作などあらゆる願いを叶えてくれる身近な神様へと変わっていきました。 今の松本では2月8日の朝早く、誰にも見つからないように道祖神に餅を付けると良縁に恵まれるといわれ、 双対の像容と相まって縁結びの神様として信じられています。 「海と山の絆」は、「双対道祖神」をモデルの造られています。異なる環境、文化の中で育ってきた 海の民(藤沢市)と山の民(松本市)の出会いに感謝する気持ち、お互いの歴史と文化を尊重する気持ち、 そして、これからも「仲良く」「末永く」友好を深められますようにとの願いを込めて、 純真な「男の子」と「女の子」の像が刻まれています。 松本市と藤沢市の友好の象徴であるこの碑は、 松本城の石垣にも使われている特産の「山辺石(安山岩)」で造られています。
 (藤沢市長 山本捷雄)
松本館を過ぎていくと植物園があります。
コッキング植物園園路について
この園路は、英国人貿易商サムエル・コッキングが、明治十年代に造った植物園の一画で、 園路の一部をそのまま整備して使用しています。 和洋折衷の広大は植物園内には、江の島の立地とその地形的特徴から クックアロウカリアをはじめとした熱帯・亜熱帯植物が良く生育しており、 園の一画には煉瓦造りの温室も造られていました。(コッキング温室遺構)
クックアロウカリア(市指定 天然記念物)
世界周航家キャプテン・クックが安永3年(1774)南太平洋パイン群島で発見したもので、 明治15年(1882)頃、当時の蝕部園創設者サムエル・コッキングが植えたものです。 これは熱帯植物であるのに、江の島のような高緯度の地で成長しているのは非常にめずらしいものであります。 樹形は柱状で、輪生の水平の大枝を出し、葉のつきかたに特徴が見られ、樹皮は紙のようにはがれます。
原産地 南太平洋 ニューカレドニア島
高さ 約16m、 幹囲 約2.5m、 根回り 約3m
 (藤沢市観光課、藤沢市教育委員会)
シマナンヨウスギ(市指定 天然記念物)
ナンヨウスギ科に属し、世界周航家キャプテン・クックが安永3年(1774)南太平洋パイン群島で発見したもので、 明治15年(1882)頃、当時の蝕部園創設者サムエル・コッキングが植えました。 ナンヨウスギ科のうち、もっとも樹形が美しく、均整のとれた姿を持ち、大枝は輪生し、そこから出る小枝は 雌雄が別で、密生した葉は我が国の杉の葉を思わせます。
原産地 南太平洋 ノーフォーク島、ニューカレドニア島(原産地では乱伐のため絶滅しています)
高さ 約16m、 幹囲 約2m、 根回り 約3m
 (藤沢市観光課、藤沢市教育委員会)
ツカミヒイラギ(市指定 天然記念物)
サムエル・コッキングが自宅の庭に植えたもので、 昭和8年(1933)植物分類学者、牧野富太郎博士が命名した名前であります。 この種は、常緑低木で普通のヒイラギとくらべて葉はだ円形でとげがなく、 先が裏にまいており、つかんでも痛くないというので名付けられたといわれています。 国立科学博物館にも、かつては標本さえなかったといわれ、学術上貴重な存在であります。
高さ 約2.5m、 幹囲 約0.5m
 (藤沢市観光課、藤沢市教育委員会)
江の島展望灯台
植物園を過ぎていくと江の島展望灯台があります。 1階には郷土資料室があって、 明治・大正時代の江の島の様子や江の島灯台についての資料などが展示されていました。 「江の島全景 明治期」と題した彩色写真を載せておきます。 旧灯台の模型や灯光器も展示されていました。
旧江の島展望灯台
旧江の島展望灯台は、昭和26年に、世田谷の二子玉川に設置されていた戦時中の落下傘訓練塔を、 平和塔として、この江の島に移築されたものです。 高さは53.7m(海抜113.7m)、灯台の光達距離は46kmあり、 民間灯台(3等級)としては国内最大級の規模を誇っておりました。 その後、50余年にわたり、この展望灯台は、相模湾の海洋航行の安全維持に、 また地域の観光振興に大きな役割を果たし、江の島のシンボルとして、多くの人々に親しまれました。 そして、平成14年、老朽化によりこの展望灯台は、新展望灯台の誕生と共に、その姿を消すこととなり、 同年の大晦日から平成15年の元日にかけての、新旧灯台の灯火のリレーを最後に、その歴史に幕を下ろしました。 おの郷土資料室には、その灯具が展示されており、 また、この郷土資料室のあるスペースには、旧展望灯台の基壇部を再利用したものです。
旧江の島灯台データ
江の島灯台は、昭和26年に大小さまざまな岩礁の点在する相模湾において、 夜間の海洋航行の安全維持を目的に設置されました。 特に、その光達距離は46kmあり、3等級(民間灯台)の灯台としては日本最大のものです。 その後、50余年にわたり、その光を灯し続け、平成14年12月31日、新灯台の誕生と共にその役目を終えました。
名称 江の島灯台
設置期間 昭和26年3月25日〜平成14年12月31日
等級 3等級(民間灯台)
位置 北緯35-17-59 東経139-28-43
灯質 単閃白光 毎10秒に1閃光
光度 実行光度440,000カンデラ(3等級では日本最大)
光達距離 46km(3等級では日本最大)
高さ 平均水面上から灯火まで103.0メートル
※新灯台は107.2メートルで、3等級では日本最大となる。
 (江ノ島電鉄株式会社)
灯台にはエレベータが設置されていて、サンセットテラス室内展望室まで登っていけます。 室内展望室は地上37.9m(海抜97.7m)、その上にある屋外展望フロアは地上41.7m(海抜101.5m)、 灯具室は地上46.8m(海抜106.6m)、その上に立つ塔の先端は地上59.8m(海抜119.6m)とのことです。 室内展望室からの眺めも素晴らしいのですが、周囲に風防ガラスがあって趣は今一つです。 エレベータの横から屋外展望フロアまで螺旋階段が続いているので登って行きました。 遮るものが何もない360度の大パノラマが広がります。 江の島大橋を渡ってくる時には山頂部が見えていた富士山は、この時には雲に隠れて見えませんでした。 北から西にかけては、丹沢から箱根・伊豆にかけての山々が連なっていますが、雲が掛っていました。 南の方には雲に隠れながらも伊豆大島の島影が見えていました。 東の方には、三浦半島から房総半島にかけての陸地がぼんやりと見えていました。 眼下には土産物屋や食事処などの家々が続き、江の島全体を一望できます。
(画像を左クリックすると、北から時計回りに8枚の写真が順次表示されます)
展望灯台から降りて出口へ向かっていくと保寧広場があって、 「萬世保寧」と刻まれた記念碑が並んで立っていました。 側面には「市の象徴 記念物 内容解説」と題した解説文が刻まれていますが、 旧字体で書かれていて無学の私には読めない字が多かったので、碑文の掲載は省略します。 大韓民国忠清南道の保寧市と藤沢市との姉妹都市提携を記念して、 2002年11月15日に造られたもので、 大韓民国の聖住寺跡にある塔碑(新羅第一の塔碑で国宝第8号)とのことです。
藤沢市・保寧市姉妹都市提携締結
これまで藤沢市と大韓民国との交流は、少年サッカーが1972年から、 また、小学生バスケットボールが1989年からの長きにわたり、 いろいろな地域の子どもたちとの交流を通じ、相互理解と友好を深めてきました。 その中で保寧市とは、2000年から交流が始まりました。 保寧市は大韓民国で最大の海水浴場を有する風光明媚な都市で、 「農漁業や商工業の盛んな産業都市」「市内に大学を持つ学園都市」など本市との類似点も多いまちです。 また、2002年は「日韓国民交流年」であると同時に、 サッカーワールドカップ日韓共同開催が歴史的大成功を納めた年でもありました。 この記念すべき2002年11月15日に、藤沢市と保寧市が姉妹都市提携を結ぶに至ったことは 大変意義のあることでした。 更に、2003年8月には保寧市から姉妹都市提携の記念として石塔(記念碑)2基が寄贈され、 「江の島サムエルコッキング苑保寧広場」に設置されました。 日韓両国は、もともと文化などで共通点の多い国ですから、両市がお互いに発展していけるよう、 これからもさまざまな分野で交流を進めてまいります。
サムエル・コッキング苑から出ると昼時になったので、 道路向かいのGARDEN PARLORで軽食を摂っていきました。 注文すると番号が書かれたポケベルのような物を渡され、 料理が出来ると鳴動してメッセージが表示されるようになっていました。 かなり暑い日だったので、あれもこれもと飲食していると、お腹が一杯になってしまいました。 テーブル席の並ぶ奥には双眼鏡が設置された展望所があり、南側の海を一望できる眺めが広がります。 一段高い所には「地球が丸く見える丘」もあります。 隣りにある亀ヶ岡広場との間には鉄柵が設置されていて、通り抜けは出来なくなっていました。
江の島大師
御岩屋道を進んでいくと江の島大師があります。 入り口の掲示板では可愛らしい小僧さんが出迎えてくれます。 「江の島大師」「高野山真言宗最福寺別院」と書かれた門柱から入っていくと、赤い仁王像が出迎えてくれます。 この時には「伝燈大阿闍梨大僧正密教行者恵観写真展」や「中国刺繍仏画展」が催されていました。
お不動様のお加護をお受け下さい。 江の島大師ではその日お参りされた方々皆さんの氏神さま(その方のご先祖さまが代々お祀りされてきた神様)・ ご先祖さまの供養をさせて頂いております。 どうぞ本堂にお入りになり手を合わせてあなたさまの氏神さま・ご先祖さまの日頃のご加護の感謝の祈りをお捧げ下さい。 お不動さまとあなたさまの氏神さま・ご先祖さまが喜ばれ、あなたとご家族を光の世界に導かれることでしょう。 またご希望の方には、随時般若心経をお唱えしあなたとご家族の健康と末永い繁栄をお祈りし、 お不動さまのご真言をお唱えしつつお加持をさせて頂きます。 受付へお気軽にお声をお掛け下さい。 どうぞお不動さまのお力を江の島参りのお土産にお持ち帰り下さい。
山ふたつ
江の島大師を出た所には「福島漁村の句碑」があります。 江の島のさくら貝を歌った句のようでした。 そこを過ぎて、物産店やお食事処が立ち並ぶ道を先へと進んでいくと、 山が二つに割れて眼下の海が見える山ふたつと呼ばれる所があります。 脇の玉垣には「山ふたつ 眺め舞台」と刻まれていました。 ここで江の島が二分されているのだそうです。
福島漁村の句碑
昔、この場所には江の島館という旅館があり、福島漁村はその旅館の主人でした。 漁村は、間宮霞軒(中津宮境内に句碑あり)と同じく、恵比寿楼の永野泉山の門下で俳諧・歌学を学び、 特に優れた弟子でした。 句碑は、漁村の三回忌である昭和31年(1956)につくられたものです。 旅館はその後、火災により焼失しました。
貝がらも 桜の名あり 島の春
 (藤沢市観光課)
山ふたつ
江の島をちょうど二分する境となっていることから、俗に「山ふたつ」といわわれています。 断層に沿って浸食された海食洞が崩落したことで「山ふたつ」が出来たともいわれています。 サムエル・コッキング苑から下りてくる階段横には、赤茶色の断層が見えます。 これは関東ローム層で、箱根・富士山の火山灰が堆積したものです。
 (藤沢市観光課)
下道
石段を降って物産店などの間を進んでいくと、右手に分かれていく小径があります。 角に立つ「御岩屋道」の石標には、右手の道は「下道」、正面の道は「奥津宮」と刻まれています。 脇には「木食上人 阿弥陀如来 古蹟」と刻まれた石碑があります。 このすぐ先にある奥津宮や下の岩屋も訪ねようと思ってきたのですが、 暑さでバテて力尽きたので、ここから下道を経て戻っていくことにしました。
木食上人行場窟
山ふたつの谷底に、木食上人行場窟と呼ばれる洞窟があります。 そのほぼ中央に高さ約1m、幅約80cmに扁平石を組み合わせて石廊を築き、 その上に石造阿弥陀如来の立像が安置されていました。 木食とは、五穀(米・麦・アワ・キビ・豆)を絶ち、木の実で生活することです。 この修行を木食行といい、木食行をする人たちを木食上人と言いました。
 (藤沢市観光課)
狭い路地の先の短い石段を登っていくと、斜面の周囲を巻くようにして緩やかな道が続いています。 最初は狭い道ですが、進むにつれて幅が次第に広がってきます。 所々で右手の山へ登っていく階段や坂道が分かれていきますが、入り口には「立入禁止」の札が出ています。 御岩屋道から2分半ほど進んでいくと、左手が開けて展望が得られる所があります。 景色を眺めながら写真を撮っていると、客を乗せた「第十五べんてん丸」が岩屋へと向かっていきました。
江の島2丁目地区急傾斜地崩壊危険区域
この区域内での、のり切り・掘さく・伐採等を行う場合は、知事の許可が必要ですから、左記へお問い合せ下さい。
 (神奈川県藤沢土木事務所)
その先へ1分ほど降っていくとみどりばしが架かっています。 ここからも左手に展望が開けます。 橋を渡っていくと、広い石段が右手へ分かれて登っていきますが、見送っていきます。 突き当たりを道なりに右へ曲がりながら降って、右手から降ってくる坂道が合流する所まで来ると、 また左手が開けて展望が得られます。
江の島市民の家
「下道」と刻まれた石標を過ぎて降っていくと、 朱塗りの御幸橋の手前に江の島市民の家があります。 御幸橋の下を過ぎていくと、最初のエスカー乗り場の所に出ますが、 左手の下にある杉山検校の墓を訪ねていくことにしました。
西浦霊園
西浦霊園」の札が架かる鉄柵を抜けて、その先に続く石段を降っていくと、 右手に杉山検校の墓があります。
杉山検校の墓
杉山検校(和一)は慶長15年(1610)伊勢国に生まれました。 幼い時に失明し、山瀬検校、入江豊明などの有名なはり医に学んでいました。 その後、江の島岩屋に21日の間参籠し、ついに管鍼の術を創案したといわれています。 そして5代将軍綱吉の信任をうけて、江戸本所に邸宅を賜り、 元禄5年(1692)には下之宮(現辺津宮)境内に護摩堂を建て、翌年には三重塔を建てて寄進しました。 元禄7年(1694)に本所の私邸で亡くなり、近くの弥勒寺に葬られました。 この墓碑は一周忌の命日(5月18日)に、次の総検校、三島安一が造立したものです。 墓碑は笠塔婆型に造られています。 昭和38年(1963)藤沢市指定文化財(史跡)に指定されました。
 (藤沢市教育委員会、藤沢市観光課)
杉山検校の墓の先に続く石段を更に降っていくと、正面が開けて海岸を見下ろせるようになってきます。 西浦霊園を降っていくと、再び鉄柵があります。 そこを過ぎて降っていくと海岸に降り立ちました。 小さな砂浜と磯浜が続いたような所でした。 浜の先には湘南の海が広がり、その奥には丹沢や箱根の山々が横たわっていますが、 雲が掛っていて明瞭ではありませんでした。
江ノ島D地区急傾斜地崩壊危険区域
この区域内で土地の形状変更等をする場合は、神奈川県知事の許可が必要ですから 藤沢土木事務所に御相談下さい。
江の島弁天橋
正面の小山の手前から右手に続く石段を登っていきます。 その先に続く狭い路地を抜けていくと、弁財天仲見世通りに出ます。 右手には岩本院がありました。 左折して降っていくと、青銅の鳥居の先に江の島弁天橋が架かっています。 陸地と江の島を結ぶ橋は、自動車用の「江の島大橋」と、歩行者・自転車用の「江の島弁天橋」の二つがあります。 橋詰にはベンチなどが置かれているので、ひと休みしていくのに良い所です。
沿革
この橋は、明治24年満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として作られ、江の島桟橋と呼ばれていました。 明治30年に至って橋を片P州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。 しかし橋が長いので一度暴風に遭へば流失するような状態で、 昭和24年には更に橋脚を鉄筋コンクリートパイル、上部は木橋として作り直され、 その後江の島弁天橋として親しまれてきました。 昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担ひ、この近代的な橋梁に生れ変わったものであります。
 (昭和33年7月 神奈川県)
江の島(えのしま)バス停
来る時はバスに乗ってきたので、帰りは江ノ島弁天橋を歩いていこうかとも思いましたが、 暑さが厳しいのでバスに乗っていくことにしました。
右手すぐの所に最初の江の島バス停があって、 藤沢駅(JR東海道線)までの便が1時間に2本程度あります。 大船駅への便も1時間に2本程度、鎌倉駅までの便も1時間に1本程度あります。
E.S.モースと江の島
エドワード・シルヴェスタ・モース(Edward Sylvester Morse 1838年〜1925年 アメリカ合衆国メイン州ポーランド生)は、 大森貝塚(東京都)の発見・調査者、日本考古学の父としても知られていますが、 チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)の進化論を日本に初めて本格的に紹介した動物学者です。 モース博士は、進化論との関わりの中で興味をもった腕足類が、日本には豊富に生息していることを聞き、 1877年(明治10年)6月17日に、その採集と研究を第一の目的として来日しました。 来日後、思いがけず、東京大学の教授を引き受けることとなり、 大学用の標本や自らの研究資料の採集場所として推薦されたのが江の島です。 1877年(明治10年)7月21日から8月28日までの間、江の島で改装した小屋を動物学研究所とし、 腕足類の一種であるシャミセンガイをはじめ、数多くの海産動物などを採集しています。 この動物学研究所は、一時的なものでしたが、日本最初の臨海実験所です。 現在、三浦市にある東京大学の三崎臨海実験所につながるもので、 「江の島」は、いわば日本近代動物学発祥の地でもあるということもできます。
「日本その日その日」(Japan Day by Day)
モース博士は、日本の自然と文化に深い関心を寄せ、 1877年(明治10年)、1878年(明治11年)、1882年(明治15年)の三度にわたって来日しました。 博士は、各地での日本の生活文化などに関する見聞を日記に記すとともに、数多くのスケッチを描きました。 これらの日記とスケッチを基にし、1917年(大正6年)に出版された「日本その日その日」は、 現在では失われた当時の日本人の生活や考え方などを知る上で貴重な資料です。 この本の中には、江の島での研究活動の様子や見聞の記録もスケッチとともに収録されています。 また、表紙を飾っているスケッチは、動物研究所から見た江の島の岸辺風景で、 モース博士の江の島へ寄せた深い想いが感じられます。