石垣山
散策:2011年08月下旬
【低山ハイク】 石垣山
概 要 石垣山は、小田原の南西3kmほどの所にある小高い山で、 相模湾沿いの街並みや箱根の山々などを見渡せる眺めが広がります。 戦国時代に豊臣秀吉が一夜城を築いた所として歴史公園になっています。 今回は真福寺の脇に続く農道から石垣山へ登っていきます。 公園をひと巡りして、「自然を楽しむみち」を入生田駅へ降っていきます。
起 点 小田原市 早川駅
終 点 小田原市 入生田駅
ルート 早川駅…真福寺…早川観音…澤道橋…農道分岐…トンネル…峠…石垣山一夜城歴史公園…ウォーキングトレイル分岐…姫ノ水橋…太閤橋…生命の星・地球博物館…入生田駅
所要時間 2時間50分
歩いて... 石垣山へ登っていく農道は結構傾斜がありますが、すべて舗装路になっていて歩き易くなっていました。 途中からは「早川・片浦ウォーキングトレイル」の暫定ルートにもなっていて、道標が整備されていました。 入生田駅へ降る道は、以前には車一台が何とか通れるほどの幅の静かな道でしたが、 この時は二車線道路に変わっていました。
関連メモ 石垣山, 早川・片浦ウォーキングトレイル
コース紹介
早川(はやかわ)駅
早川駅(JR東海道線)から歩いていきます。
駅舎を出た左手に「がいどまっぷ早川」と題した案内板があって、 「太閤一夜城と長興山史跡巡り」のコースが紹介されています。 小田原漁港を訪ねてから石垣山一夜城歴史公園へ登り、入生田駅へ降って紹太寺へ向かうルートになっていますが、 今回はこの図に載っているルートとは違って、真福寺の脇から続く農道を登っていきます。 駅前広場の右手に続く路地を進んでいきます。
駅前には「(1)早川・片浦ウォーキングトレイル」と題した案内板もあって、 早川駅から根府川駅へ至る延長11,476mのルートが載っています。 コースに沿って採番された道標が75箇所に設置されていて、分かり易くなっているようです。 ここにある道標(1)は「石橋山古戦場・米神漁港コース」,「太閤一夜城と長興山史跡巡りコース」,「早川・片浦ウォーキングトレイル」の起点になっていて、 左手の道を指して「海藏寺230m・石垣山一夜城歴史公園1,830m・早川観音580m」となっています。
ハイキングコース 太閤一夜城と長興山史跡巡り
早川駅→1分→小田原漁港→13分→早川観音→6分→久翁寺→10分→海藏寺→35分→石垣山一夜城公園歴史公園→60分→太閤橋→10分→生命の星・地球博物館→12分→紹太寺→20分→入生田駅
石垣山一夜城歴史公園
当駅より徒歩40分。 1590年、豊臣秀吉が小田原合戦のときに築いた城。 現在は本丸、天守台、二の丸、西曲輪などが残る。 山林のなかで約80日かけて築城ののち、周囲の樹木を一夜のうちに伐採して、北条軍を慌てさせたところから由来する。
(1)早川・片浦ウォーキングトレイル
早川・片浦ウォーキングトレイルは、JR早川駅から根府川駅の丘陵地を巡る健康の道です。 トレイルには、勾配がきついところがありますので、自分のペースで楽しんで下さい。 ルールを守って楽しく歩きましょう。
メモリアルホールを過ぎていくと、ホルモン焼の店の先に小さな十字路があります。 そこを右折して駐車場の脇の狭い路地を進んでいきます。 空地と民家の間を左へ曲がりながら進むようになると、道が二手に分かれています。 右手の道に入って民家の間を抜けていくと広めの道に出ます。 住宅地に続く道を左手へと進んでいきます。 突き当りをクランク形に右・左と折れ曲がっていくと、JR東海道線の高架の脇を進むようになります。 石垣沿いに進んでいくと十字路があります。 その右側に、線路の下をくぐっていくガード「中沢開きょ橋梁」があります。 そこを抜けて線路の向こう側へ出て、正面に続く道を進んでいきます。 右へ曲がっていく所まで来ると、正面へ分かれていく道があります。 脇の金網柵に道標が取り付けられていて、右手の道は「早川観音300m」、 今来た道は「紀伊神社500m・石橋山古戦場2.3km・佐奈田霊社」となっています。 正面へ分かれていく道は何も書かれていませんが、 角には「この先行き止まり」の看板が出ています。 今回はここから正面に続く道を進んでいくのですが、 その前に、右手すぐの所にある真福寺と早川観音を訪ねていくことにしました。
真福寺
生垣が続くようになった道を進んでいくと、すぐの所に真新しい山門があります。 手前には「真言宗東寺派 真福寺」と刻まれた石柱があります。 山門から境内へ入っていくと、左側には石仏は7つ並んでいました。 正面の奥に真福寺の本堂があります。 コンクリート製の今風の建物になっていました。 本堂の左側には庫裡と思われる建物が並んでいます。 その前には立派なイトヒバの老大木が聳えていました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
小田原市指定天然記念物 真福寺のイトヒバ
所在 早川892
樹相 目通り幹囲 約2.9メートル
株本周囲 約4.0メートル
樹高 約16メートル
枝張り状況 東西約6メートル、南北約4メートル
イトヒバはサワラの一変種で、庭園でよく植栽されます。 この木は本堂の東側にあり、主幹は地上4メートルのところで分岐し、 5本の支幹となって約10メートル近くまでまっすぐ伸び、一種独特な樹形を整えています。 イトヒバは市内の寺院に多く植えられている木ですが、この木はそれらの中でも最大の古木です。
 (小田原市教育委員会)
早川観音
真福寺の境内を右手へ進んでいくと、お地蔵さんが沢山並んでいる所がありました。 脇には「西院河原地蔵和讃」と題した案内板がありました。 そこを過ぎていくと早川観音がありました。 解説板に「真福寺の秘仏」という表現が見受けられるし、境内も続いているので、真福寺の一部なのでしょうか。 道路向かいには舞楽殿がありました。 その横には簾が下がった売店風の建物もありましたが、解説文に載っている「茶店」でしょうか。
西院河原地蔵和讃 抜粋
これは此の世の事ならず 死出の山路の裾野なる  西院の河原の物語 聞くにつけても哀れなり  二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬみどり子が  西院の河原に集まりて 父上恋し母恋し  悲し悲しと泣く声は 此の世の声とは事変わる  河原の石を取り集め 此れにて回向の塔を組む  一重組んでは父のため 二重組んでは母のため  三重組んでは故里の 兄弟我身と回向する  やがて地獄の鬼が来て 積みたる塔を押し崩す  折しも能化の地蔵尊 ゆるぎ出でさせ給いつつ  我を冥途の父母と 思うて明け暗れ頼めよと  御衣裳にかき入れて 哀れみ給うぞ有り難き  抱きかかえて撫でさすり 哀れみ給うぞ有り難き  南無や地蔵大菩薩
(「西院河原」で「さいのかわら」と読むようです)
早川観音
ここは、俗に早川観音と呼ばれている。 御本尊は聖観世音菩薩立像、一本造り、当初の状況は不明だが、現在は彩色も箔もない。 お顔は平滑、伏目(彫眼)で、全体に穏やかな彫法である。 衣丈の襞は摩耗しているが、左右の腕と手は近時修理されている。 藤原時代の様式をもつかなりすぐれた像で、南都佛師の作とも言われている。 誠に端正なお姿である。 古義真言宗、真福寺の秘仏である。 この観音さまには、檀家のお婆さん達が交替で堂守りと、お茶の接待をする茶店がある。 最近までここで売られた黒砂糖を使った素朴な昔ながらの駄菓子が名物で、 味もよく好評だったが、今は絶えているのが惜しまれる。 復活を望む声も多い。 毎月の縁日、17・18日には串団子などもあって、善男善女が頬張る風景は、 この観音さまならでは見られない風情がある。 ここは1年中香煙が絶えず、特に、正、五、九の各月の17日は例大祭であり、 大護摩供もあり、かなりの賑わいである。 真福寺境内には、幕末の箱根山崎の戦いで活躍した小田原藩士、鏡信一刀流の青年剣士高橋藤太郎恒知の墓所もある。
澤道橋
先ほどの分岐まで引き返してきて、真福寺の左側に続く道を進んでいきます。 「この先行き止まり」となってはいますが、手元の地図では石垣山まで続いているように描かれているので、 それを信じて進んでいきました。 民家の脇を過ぎていくと、東海道新幹線の高架の下をくぐっていきます。 ガード「早川Cb」を抜けて、正面に続く舗装路を進んでいきます。 左側の山は植林地になっていました。 民家が終わって畑地などが続く小さな谷筋を進んでいくと、やがて植林帯の中へ入っていきます。 日当りがあまり良くないのか、登り坂になってきた道には苔が生えていて、かなり滑り易くなっていました。 真福寺から6分ほど進んでいくと、沢に架かる澤道橋を渡っていきます。 コンクリート製のしっかりとした橋で、「昭和31年10月竣工」と刻まれていました。
(この道は農道になっているようで、石垣山まで舗装路が続いていました)
緑は友だち 山火事注意
自然を守りましょう。
 (神奈川県)
農道分岐
澤道橋を渡っていくと登り傾斜が増してきます。 右手へ曲がり始める所まで来ると「道路復舊之碑」がありました。 少し右へ曲がりながら傾斜の増してきた坂道を登っていきます。 両側に石垣が続くようになると、道が二手に分かれていました。 真福寺から9分ほどの所になります。 道標類は見かけなくて、どちらへ進んだものか迷う所です。 手元の地図によると、どちらの道でも石垣山まで続いているようですが、 今回は左手の緩やかな道の方を進んでいきました。 一段と高くなった石垣に挟まれた道を進んでいきます。
石垣が低くなってくると、斜面には一面にミカン畑が広がるようになります。 左右の畑への小径が幾つも分かれていますが、道なりに真っ直ぐ進んでいきます。 所々には荷物運搬用の小型モノレールが設置されていたりもします。 道の上を跨いでいくモノレールの下を過ぎていきます。
トンネル
一段と傾斜が増してくる道を登っていくと、茶色いトタン屋根の小屋の所で道が右手へ分かれていきますが、 小屋の左側に続く道を進んでいきます。 傾斜が緩やかになってくるとトンネルがあります。 真福寺から17分ほどの所になります。 上には道路が通っているようでした。 内部は波形トタンで綺麗に覆われていて、短いながらも大きなトンネルになっていました。
後日にこの上を通る道を歩きました。 「早川・片浦ウォーキングトレイル」の「Bルート」になっています。 (「早川・片浦ウォーキングトレイル」を参照)
トンネルを過ぎたすぐの所から、上の道路へ登っていく道が右手に分かれていきますが、見送っていきます。 両側に石垣が続くようになった坂道を登っていくと、トンネルから2分ほどの所に作業小屋が建っています。 少し道幅が狭まってきて心配になってきますが、すぐに元の広さになります。 益々傾斜が増してくる道を登っていくと、道端にはキウイ畑がありました。 手を伸ばせば届く所に、美味しそうな実が幾つも生っていました。
注意
みかん畑では1月・2月も作業中です。 狩猟に注意しましょう。
 (神奈川県)
坂道を更に登っていくと、青いトタン張りの作業小屋を過ぎた先でに着きます。 曲がりながら続く道がΨ字形に交わっている所になります。 真福寺から24分ほどの所になります。 脇には道標(17)が立っていて、右手に戻るようにして続く道は「石垣山一夜城歴史公園400m」、 左手に戻るようにして続く道は「休憩所490m・早川駅3,000m」となっています。 正面の道や今来た道には何も示されてはいません。 道標に「(17)」の番号が振られているところをみると、 左右に横切っている道は、「早川・片浦ウォーキングトレイル」の図に載っていた緑色の道になるようです。 暫定ルートとのことですが、道標はきちんと設置されているようです。 ここは道標に従って、右手の道を進んでいきます。
後日に左手の道を歩きました。(「早川・片浦ウォーキングトレイル」を参照)
この道は農道であり、道幅が狭く農耕車も通ります。 気をつけて歩行してください。
坂道を登っていくと、作業小屋の前で道が二手に分かれています。 角には道標(19)と(18)が立っていて、左手の道は「石垣山一夜城歴史公園350m」、 今来た道は「休憩所540m・早川駅3,050m」となっています。 道標に従って、左手の道を登っていきます。 小屋の間を過ぎて石垣沿いに進んでいくと、次にある作業小屋を過ぎた所から左手に道が分かれていきます。 左手の道もしっかりしていて、どちらへ進んだものかと思っていると、 右側の小屋の壁に道標(20)が取り付けられていて、正面の道は「石垣山一夜城歴史公園210m」、 今来た道は「休憩所680m・早川駅3,190m」となっていました。 ここは正面に続く坂道を更に登っていきます。
小屋の間を過ぎて、坂道を登っていきます。 背の低い石垣沿いに登っていくと、正面に高い石垣が現れます。 そこで左手から道が合流してきます。 石垣には道標(21)が取り付けられていて、右手の道は「石垣山一夜城歴史公園110m」、 今来た道は「休憩所780m・早川駅3,290m」となっています。 道標に従って右手の坂道を登っていきます。 コンクリートブロックの四角い構造物を過ぎて石垣沿いに登っていくと、左右に通る広い道に出ました。 角には道標(22)が立っていて、左手の道は「石垣山一夜城歴史公園50m」、 右手の道は「海藏寺1,650m・早川駅2,300m」、今来た道は「休憩所840m・早川駅3,350m」となっています。 左右に通る道は、早川駅を出た所にあった「がいどまっぷ早川」に載っていた 「太閤一夜城と長興山史跡巡り」のハイキングコースになります。 Ψ字形に道が交わっていた峠から6分ほど、真福寺から31分ほどで登って来られました。
石垣山一夜城歴史公園
左手へ曲がっていくと、すぐの所に「石垣山に参陣した武将たち」と題した解説板が設置されていました。 ここにあるのは「豊臣秀吉」で、早川駅までのハイキングコースに沿って8人の武将が紹介されているようです。 解説板を過ぎた先から右手へ分かれていく道がありますが、 入口には門があって、「これより先 密教修法道場につき一切の立入りを断ります」の看板が出ています。 その道を見送った先に「国指定史跡 石垣山 石垣山一夜城歴史公園」と刻まれた大きな石碑があります。 このすぐ先の高みが石垣山一夜城歴史公園になります。 早川駅から48分ほどで登って来られました。
石垣山に参陣した武将たち
これより早川駅までの道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将など8人を紹介する看板を建てました。 散策をしながら、今は昔の物語をお楽しみください。
豊臣秀吉(とよとみひでよし) 天文6年(1537)〜慶長3年(1598)
織田信長に仕えて活躍。 信長の後継者となり天下統一を進めた。 四国・九州を平定した後、東国の攻略に乗り出した。 容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。 石垣山(国指定史跡)に城を築いて本陣とし、小田原城を攻め、北条氏を滅ぼして関東を平定した。 この城を「太閤の一夜城」といい、秀吉が一夜にして築いたと言われているが、実際には約80日を費やしている。 小田原合戦によって、東北の諸勢力も従い、全国平定を成し遂げた。
美しい日本の歩きたくなるみち500選
太閤・一夜城と長興山史跡のみち 12キロコース
 (日本ウォーキング協会公認)
石碑の右側に続く道を進んでいくと、右へ登っていく石段があります。 脇には「国指定史跡 石垣山(一夜城)入口」の標柱が立っていて、 傍には「旧城道 東登口」の標識もあります。 道の左側には「石垣山一夜城歴史公園案内図」もありました。 今回はここから石垣山へ登っていきます。 石段を登っていくと、すぐに幅の広い横木の階段に変わります。 傾斜が緩やかになってくると、左手から登ってくる坂道と交わる十字路があります。 左右の道は、東登口を過ぎた先にある簡易トイレの所から登ってきて、二の丸跡へ続く道になります。 角には「国指定史跡 石垣山一夜城」と題した大きな案内板があります。 公園の案内図が載っていて「城道」というのが描かれていますが、 二の丸跡から北口への道は今はなくなっているようでした。 二の丸跡へ続く右手の道は後で歩くとして、先ずは正面に続く大きな石がゴロゴロした道を登っていきます。
「国指定史跡」石垣山一夜城
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2.5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。 また小田原城まで僅か3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が 一望できます。 石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が 小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として 総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。 この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか 太閤一夜城などとも言われています。 秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、 猿楽師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう 勧めたと言われています。この城は単に小田原城攻めの本営であるというだけでなく、 太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。 この城は関東で最初につくられた石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による 野面積(のづらづみ)といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、 度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。 この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者の御厚意により、昭和62年度に 公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。
 (平成2年3月 小田原市)
山道の雰囲気がする大石がゴロゴロしている道を登っていきます。 周囲にはスイセンのような植物が沢山植えられていましたが、花の季節ではないようで咲いてはいませんでした。 少し左へ曲がっていくと「南曲輪跡」の石碑のある広場がありました。 そこを過ぎて右へ曲がりながら登っていくと、こんもりとした高みの手前で、左右に通る道に出ました。 正面には石柱の道標が立っていて、右手の道は「本丸跡」、 左手の道は「西曲輪跡」、今来た道は「南曲輪跡」となっています。 豊臣秀吉に因んでいるのか、石柱の上には瓢箪の像が取付けられています。 本丸跡へは右手の先から登っていくのですが、先ずは左手にある西曲輪跡を訪ねていくことにしました。
緩やかになった道を進んでいくと、大きな石がゴロゴロした所の先に、 背の高い松が何本も生えた広場がありました。 中ほどには「西曲輪跡」の石碑がありました。 周囲を樹木に囲まれた静かな草地になっていて、奥の方にはベンチも設置されていました。
西曲輪跡から引き返してきて、先ほどの分岐を直進していくと、 すぐの所から左手の高みへ登っていく石段があります。 角には瓢箪付きの石柱が立っていて、正面の道は「二の丸跡」、左手の石段は「本丸跡」、 今来た道は「西曲輪跡」となっています。 正面へ進んでいくと二の丸跡に出ますが、先ずは左手の上にある本丸跡へ向かっていきました。
石段が終わって緩やかな道になってくると、道が二俣に分かれています。 右手の先には物見台がありますが、左手に見えている小祠へ向かっていきました。 神社の名前などは書かれていないかと探してみましたが見当たりませんでした。 この辺りの緩やかな高み一帯が本丸跡になるようで、その旨の石碑もありました。 スイセンのような植物が一面に植えられていて、良い雰囲気の広場になっていました。 ベンチも幾つか設置されているので、ひと休みしていくのに良い所です。 「石垣山一夜城の構造」と題した案内板があって、先ほどと同様の案内図が載っていました。
石垣山一夜城の構造
石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5mあります。 小田原城の本丸より227m高く、また小田原城までの距離はわずか3kmと近く、 眼下に小田原城やその城下はもとより、足柄平野や相模灘、遠くには三浦半島や 房総半島をも望むことができます。小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所といえます。 この城が、石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に 塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと 言われています。しかし、実際には約4万人が動員され、天正18年の4月初めから6月下旬までの80日間が 費やされました。 城の縄張りは南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、 南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されています。 このほか本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群があります。こうした曲輪の配置については、 享保5年(1720)に小田原藩によって作られた絵図等でも知ることができます。 城道は、井戸曲輪の北方から二の丸を通って本丸へ至るルートと、南曲輪から本丸へ至る東口ルートの 二筋があり、いずれの城道も関白道へ通じていました。城内に入ると通路には枡形と呼ばれる屈曲した 構造を持ついくつかの門がありました。門には瓦が用いられており、豪壮なその構えは 秀吉の威信を示していました。 現在、石垣や曲輪などの遺構が確認できる範囲は出城から北曲輪までで、 南北の延長は約550m、東西の最大幅は275mあります。
 (平成2年3月 小田原市)
小祠の左手へ進んでいくと、僅かな高みがあります。 ここが天守台跡になるようで、その旨の標柱が立っていました。 往時はここに天守閣が聳えていて城下を見渡せたのでしょうが、 今では周りに樹木が生い茂っていて展望は得られません。
天守台跡から引き返して広場を進んでいくと、木製デッキになった物見台があります。 物見台には、この石垣山の一夜城が出来た頃の合戦の様子を記した「小田原合戦攻防図」がありました。 脇には「史跡 石垣山」と刻まれた石碑もあります。
小田原合戦攻防図
天正18年(1590)4月、関東最大の勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の 本拠地小田原城は、全国統一を推し進める関白豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲された。
中世最大規模の城、小田原城出現
北条氏の当主氏直は、臣従を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、 総動員態勢を整える。特に、小田原城に城下の街ごと囲む全長9kmに及ぶ長大な大外郭を構築し、 決戦に備えていた。結果的には交渉は決裂。氏直は、国境線を固めるとともに小田原城に主力を投入、 さらに領内100ヶ所に及ぶ支城の防備を固めて防衛体勢を整えた。
小田原城を包囲する戦国の英雄たち
豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、 前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条氏の領国に侵入。 長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。 大外郭の出現により中世最大の規模を誇った小田原城には、6万とも伝える人々が籠り、 豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜田秀家・池田輝政・ 堀秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3ヶ月余りに及ぶ攻防戦を展開する。
秀吉、石垣城築城
小田原城の攻防に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで望む秀吉は、 壮大な石垣山城を築き、本営を湯本早雲寺(箱根町)から移動。淀殿や参陣諸将の女房衆を 召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。
北条氏の降伏
北条方は、各地の諸城に籠って防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、 主力の籠る小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立していった。 同年7月に至り北条氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに、篭城した一族・ 家臣や領民らの助命を願い出る。しかし、秀吉はこれを認めず、宇直の父氏政とその弟氏照らに 切腹、氏直に高野山追放を命じ、ここに戦国大名小田原北条氏は滅亡した。
そして、戦国時代は終わる
この合戦の過程で、関東ばかりでなく伊達政宗ら東北の諸将も秀吉に臣従する。 この結果、天下統一の事業が達成され、北条氏の滅亡とともに戦国時代も終わりを告げた。
物見台からは相模湾や小田原の街並みが見渡せます。 条件が良いと、三浦半島や房総半島も見えるようですが、この時には霞んでいてよく見えませんでした。 それでも手前の丹沢山系はぼんやりと見えていました。 「本丸跡」の石碑がある所からは眼下に二の丸跡を見下ろせる眺めが広がっています。 お昼にはまだ早い時刻でしたが、幾つか設置されたベンチに腰掛けて、景色を眺めながら昼食タイムにしました。
石碑の近くには石柱の道標が立っていて、北側へ降っていく道は「二の丸跡」となっています。 それに従って、僅かな谷筋のようになった所を降っていきます。 城に使われていたと思われる大きな石がゴロゴロする所を降っていくと、正面が開けてきます。 ここが二の丸跡で、降り立った先にはその旨の石碑もありました。 散策路は広場を取り巻くようにして左右に続いていますが、右手へ進んでいくと元の所へ戻ってしまうので、 ここは左手へと進んでいきました。
二の丸の周囲を回り込むようにして左手へ進んでいきます。 生垣が植えられた角を曲がっていくと、トイレが併設された休憩所があります。 そのすぐ先で、右手からの散策路と合流します。 角に立つ石柱の道標「展望台」に従って左手へ進んでいきます。 すぐの所から右手へ分かれていく井戸曲輪跡への道を見送っていくと、 崖にせり出すように設置された木製デッキの展望台があります。 その手前には、ほとんど土に埋まった三等三角点があります。 ここが地形図に載っている240.7m峰になるようです。 デッキには、ここから眺められる景色を描いた案内図も設置されていました。 それによると、明神ヶ岳・明星ヶ岳・塔ノ峰・早雲山・神山・駒ヶ岳・二子山などの山々を見渡せるようです。 眼下には入生田駅周辺、右手の奥には小田原の街並みが見渡せます。 正面の山には紹大寺のしだれ桜も見えるようで、簡単な解説文が載っていました。
長興山紹大寺としだれ桜
長興山紹大寺は、しだれ桜の巨木(市指定天然記念物)や稲葉氏一族や春日局の墓所(市指定史跡)によって知られており、 広大な伽藍跡として、多くの文化的建造物があり、 ここ石垣山一夜城と長興山史跡を巡るハイキングコースも整備されています。 長興山紹大寺のしだれ桜は、エドヒガンの変種で、滝にようにしだれた姿はまことに華麗です。 花の見頃は3月下旬〜4月上旬頃で、稲葉氏が紹大寺を入生田の地に移した寛文9年(1669)に このしだれ桜が植えられたといわれ、樹齢は330年以上、高さ13メートル、株元周囲約4.7メートルの大木です。 なお、昭和59年には「かながわの名木100選」にも選ばれ、市民に親しまれています。
展望台から引き返してきて、二の丸跡の手前から左手へ分れていく石段を降っていきます。 入口には道標が立っていて、「国指定史跡 石垣山 井戸曲輪跡」となっています。 石段から横木の階段に変わって左側に木製の手摺が設置されるようになると、 その一部が開いていて、「北口の城道 関白道へ通じていた」と書かれた小さな標識が立っていました。 その先を覗ってみても笹などが生い茂るばかりで、今では廃道になったようでした。 そこを過ぎて左へ曲がりながら谷へ降っていきます。 右側に手摺が設置された道を進んで右へ曲がっていくと、 竹矢来の脇に「井戸曲輪跡」の石碑がありました。 その先へ続く石段を降りていくと、石垣で囲まれた底に、今でも僅かながら水が溜まっていました。 すり鉢状の谷の底部にあって、周囲から水が染み出してくる構造のように思えました。
国指定史跡 石垣山 井戸曲輪跡
井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあり、 もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。 井戸は二の丸から25メートルも下がったところにあり、今でも湧き出る水を見ることができます。 この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。 石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。 石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積みで、 築城に際して西国から穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されています。 井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、 その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましょう。
 (小田原市教育委員会)
井戸曲輪跡から引き返してきて、二の丸跡の左側に沿って進んでいきます。 すぐの所の左側に僅かな高みがあって、その上には「櫓台跡」の石標が立っていました。 そこを過ぎていくと道が二手に分かれています。 脇には標識が立っていて、右手の道は「本丸」、今来た道は「井戸曲輪・便所」となっています。 角柱とコンクリートが交互に敷かれた正面の坂道には何も示されてはいませんが、 大きな案内板があった最初の十字路へ続いています。
石垣山一夜城 二の丸(馬屋曲輪)
石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、 天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を 水陸合わせて約二十二万の大軍を率いて包囲した小田原合戦のとき、 その本営として総石垣の城を築いて石垣山と呼ばれるようになりまいた。 この城を一夜にして築いたように見せかけたという伝承から石垣山一夜城ともいわれています。 ここ二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、 中心部分、北へ長方形に張出した部分及び東の腰曲環部分、これらの三つの部分からなっています。 「新編相模国風土記稿」では二の丸として紹介されているが、伝承によれば馬屋が置かれ、 本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。 井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が確認されています。 小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本営の置かれた箱根湯本の早雲寺には、 一夜城で使用した神奈川県指定重要文化財の「梵鐘」が残っており、 どこかの櫓で使用されたと思われますが、現時点では、詳細は不明です。
正面に続く坂道を降り切ると、左下には広めの道があります。 東登口の手前にあった密教修法道場へ続く道のようです。 右側には電気管理棟がありました。 左右にスイセンのような植物が植えられた坂道を登っていきます。 傾斜が緩やかになってくると、植物が一面に植えられた広い所があります。 高みを過ぎて坂道を降っていくと、大きな案内板のある最初の十字路に戻ってきました。
左手に続く間隔の広い横木の階段を降っていきます。 最後に石段を降っていくと、元の東登口に戻ってきました。 左右に通る道を渡っていくと、 早川駅を出た所で見かけたのと同様の「(23)早川・片浦ウォーキングトレイル」の案内板がありました。 傍には「早川・片浦ウォーキングトレイル 太閤一夜城と長興寺史跡巡りコース」の道標(23)も立っていて、 右手の道は「ウォーキングトレイル分岐310m・入生田駅3,000m」、 左手の道は「海藏寺1,700m・早川駅2,350m」となっています。 また、脇には「生命の星・地球博物館までのハイキング」と題した「自然を楽しむ みち」の解説板がありました。 ここから入生田駅まで続くコースのようです。 道標も兼ねていて、右手の道は「石垣山一夜城歴史公園から神奈川県立 生命の星・地球博物館へ約3200m」となっています。 今回はこのコースに沿って入生田駅まで降っていくことにしました。 併せて1時間10分ほど居た石垣山を後にして、右手に続く広い道路を入生田駅へと向かっていきます。
生命の星・地球博物館までのハイキング 「自然を楽しむ みち」のご案内
石垣山一夜城の一帯は、自然に恵まれています。 ここから生命の星・地球博物館までは約3.2キロの道のりですが、 その途中の道沿いで見ることができる動物や植物などについて、その説明や道案内を9ヶ所に設けました。 どうぞ自然を楽しみながら、ゆっくりと歩いてみてください。 はじめに少し坂道を登りますが、あとは下り坂です。 50分ほどで博物館につきます。 博物館から入生田駅までは3分です。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
ウォーキングトレイル分岐
僅かに曲がりながら続く広い道路を登っていきます。 石垣山農道というようですが、車がすれ違えるだけの幅があるしっかりとした道になっています。 坂をほぼ登り切った所の道端に「自然を楽しむ みち(1) タカの仲間」と題した解説板兼道標があって、 この先の道は「生命の星・地球博物館へ2950m」、今来た道は「石垣山一夜城へ250m」となっています。 解説板を過ぎて緩やかになった道を進んでいくと、道が左右に分かれる十字路があります。 右手の道は関白林道というようです。 左側には「早川・片浦ウォーキングトレイル」と「太閤一夜城と長興山史跡巡りコース」の道標(24)が立っていて、 正面の道は「入生田駅2,690m」、左手の道は「佐奈田霊社3,590m」、 今来た道は「石垣山一夜城歴史公園310m・海藏寺1,960m・早川駅2,610m」となっています。 ここが先ほどの道標(23)にあった「ウォーキングトレイル分岐」になるようですが、このまま正面の道を進んでいきます。
自然を楽しむ みち(1) タカの仲間
上をながめてみましょう。 気持ちよさそうに風に乗っている大型の鳥を見つけたら、それはトビかノスリ(秋と冬に多い)です。 海辺のトビは急降下してお弁当をさらっていくことがあります。 この周辺では、里山で見かける代表的な鳥、オオタカもすんでいますので注意して見てみましょう。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
関白林道(終点)
幅員4.0m 全延長400m
この林道は、林業経営用のもので、カーブがきつく、防護施設等が十分でありませんので、 通行する場合には、次のことを遵守してください。
スピードを落とし、安全運転に努めてください。
崩壊を防ぐため、路肩の近くを通行しないでください。
ゴミや土砂を捨てないでください。(法律で罰せられます)
林道経営以外の目的(工事資材、廃棄物又は土砂の運搬等)で反復継続して通行する方は、市長に申請してください。
 (小田原市経済部農政課)
中央線のある二車線道路になった道を1分ほど進んでいくと、道端に巨大なシイの木がありました。 その前に「自然を楽しむ みち(2) スダジイの古木」と題した解説板兼道標があって、 この先の道は「生命の星・地球博物館へ2750m」、今来た道は「石垣山一夜城へ450m」となっています。 すぐ先には横断歩道があって、その袂に「南無阿弥陀佛」と刻まれた石碑がありました。
自然を楽しむ みち(2) スダジイの古木
かつて神奈川県の低地では、常緑広葉樹を主体とした林が広がっていたと考えられます。 しかし、人間が薪や炭を得るために木を切るようになってからは、ほとんど落葉広葉樹の林となりました。 スダジイ(ブナ科)はかつて繁茂した常緑広葉樹の代表的な樹種です。 秋に実る小さなドングリは昔の人々にとって重要な食料資源でした。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
姫ノ水橋
石碑を過ぎていくと、道は少し右へ曲がりながら降るようになります。 その手前から左手へ幅2mほどの舗装路が分かれていましたが見送っていきます。 オートバイの爆音がしきりに聞こえるようになってくると、姫ノ水橋を渡っていきます。 橋の下にはかなり傾斜のある自動車専用道路が通っています。 正面に見える箱根の山々を眺めながら橋を渡って、道なりに左へ曲がっていきます。 すぐに左手から登ってくる道が合流してきますが、入口は柵で閉ざされています。
下を通る道路は、以前は「箱根ターンパイク」と言いましたが、 東洋ゴム工業が2007年3月に命名権を取得して、「TOYO TIRES ターンパイク」という名前に変更されたようです。
山並みを眺めながら二車線道路を降っていくと、姫ノ水橋を渡った所から1分ほどで、 歩道が左手へ分かれて登っていきます。 周囲に道標類は見かけないし、どちらへ進んだものかとしばらく考えてみても分からないので、 今回はこのまま二車線道路を降っていきました。
この先の状況からすると、「自然を楽しむ みち」は左手へ登っていく坂道になるようでした。
道路と一体化したような箕ヶ窪橋を過ぎて更に降っていくと、右側に高いコンクリート崖が現れます。 道はそこで大きく右へと曲がっていきます。 道なりに曲がりながら進んでいくと、左手の高みから幅の広い横木の階段が降ってきていました。 『はて、何の道だろう』と思いながらも、柵を越えてその道に入っていきました。 緩やかに降っていくと、少し先に鉄製の階段がありました。 その階段を降った先で二車線道路に合流しました。 出口には「歩行者通路」の看板が出ていました。 どうやら、先ほど左手に分かれていた坂道から続く道のようでした。
二車線道路に合流するまでの途中の道路向かいには幅2mほどの道が見えていましたが、 入口には通行止めを示すような柵が設置されていました。 2003年8月に歩いた記憶によると、その頃にあった道の跡のように思えました。 当時は横木の階段などはなく、車一台が何とか通っていけるほどの幅の道で、 曲がりながら植林地を登っていったように記憶していますが、 この二車線道路を通すために、かなりのルート変更が行われたように思えました。 前後関係からすると、先ほどの坂道から歩いてくる途中には、「自然を楽しむ みち(3) ハナミョウガ」と 「自然を楽しむ みち(4) ヒメボタル」と題した解説板兼道標があるようです。 今回は見逃しましたが、以前に歩いた時に見かけたものを参考までに載せておきます。 (写真はいずれも振り返って撮影したものです)
自然を楽しむ みち(3) ハナミョウガ
この付近は一帯がヒノキの植林地となっていますが、林床にはハナミョウガ(ショウガ科)が生育しています。 暖地性で関東以南に分布し、神奈川県では箱根三六の一部だけに自生しています。 群落を形成し、5月から6月に白い花を開いたあと、よくめだつ赤い実をつけます。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
自然を楽しむ みち(4) ヒメボタル
このあたりは、6月下旬から7月上旬ころになると、陸にすむヒメボタルの小型タイプ(ホタル科)が発生します。 月明かりがなく、蒸し暑い夜の9時以降に活発に活動します。 体長が5mmととても小さいのですが、かなり強く発光します。 このホタルは石垣山周辺が分布の東限で、学術的にもたいへんに貴重なものです。 メスは飛ぶことができません。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
二車線道路の脇に続く歩道を降っていくと、1分もしない所に 「自然を楽しむ みち(5) アサギマダラ」と題した解説板兼道標があって、 この先の道は「生命の星・地球博物館へ1750m」、今来た道は「石垣山一夜城へ1450m」となっています。 解説板を過ぎていくと、庇のように張り出した坂道が道路向かいにありました。 そこを過ぎて更に降っていくと、右手の石垣から大きな岩が突き出しています。 その手前には「自然を楽しむ みち(6) 石垣の大岩」と題した解説板兼道標があって、 この先の道は「生命の星・地球博物館へ1400m」、今来た道は「石垣山一夜城へ1800m」となっています。
自然を楽しむ みち(5) アサギマダラ
舞うようにゆっくりとはばたく、水色がかったチョウに出会うことがあります。 とくに秋に多く見かけます。 それが長距離移動するチョウとして有名なアサギマダラ(マダラチョウ科)です。 春には北へ、秋には南へ2000kmも移動した例が知られています。 とても美しいチョウですが、体には毒をもっていて、鳥に襲われることがないと考えられています。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
自然を楽しむ みち(6) 石垣の大岩
道路のガケ面から大きな岩が出ているところがあります。 これは安山岩という火山岩ですが、どうして土の中にあるのでしょうか。 じつは10万年以上も前のこと、なんらかの作用によって上から転がり落ちてきた岩が、 火山灰や土で長い年月をかけて埋まっていったと考えられます。 このような岩を使って一夜城の石垣を築きました。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
更に降って左手の谷筋から登ってくる道を併せた所に 「自然を楽しむ みち(7) クヌギ林」と題した解説板兼道標があって、 この先の道は「生命の星・地球博物館へ1100m」、今来た道は「石垣山一夜城へ2100m」となっています。 道端のススキが穂を出しているようだと思って良く見ると、昨年の穂が枯れ切らずに残っているようでした。 更に降っていくと、道が少し広がって待避線のようになった所がありました。 傍には竹林がありました。 そこに「自然を楽しむ みち(8) 黒いアゲハチョウたち」と題した解説板兼道標があって、 この先の道は「生命の星・地球博物館へ850m」、今来た道は「石垣山一夜城へ2350m」となっています。
自然を楽しむ みち(7) クヌギ林
山の斜面にまだ若いクヌギ林があることにお気づきでしょうか? クヌギ(ブナ科)はかつては重要な燃料資源でしたが、現在は燃料として使われることはなく、 このため姿を消しつつあります。 しかし、シイタケ栽培のための「ほだ木」としても有用です。 ここのクヌギ林はその目的のために育てられているのです。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
自然を楽しむ みち(8) 黒いアゲハチョウたち
4月末から10月下旬にかけて、黒いアゲハチョウのなかまを見ることができます。 ゆっくりした飛びかたのジャコウアゲハがもっとも多く、 胸・腹部に赤い部分があって、メスは淡い茶色のはねをもつのが特徴です。 かなりの速さで飛び回るのは、クロアゲハかカラスアゲハです。 最近では、ナガサキアゲハも見かけるようになりました。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
道路の左側の斜面にある石積みの段々畑を見ながら降っていくと、 これまで続いてきた中央線はなくなって、一車線道路に変わります。 左右には民家などが点在するようになります。 左手にあるガードレール付の橋の手前まで来ると、 道路脇の柵に「太閤一夜城と長興山史跡巡りコース」の道標が取り付けられていて、 この先の道は「入生田駅600m・生命の星・地球博物館500m・温泉地学研究所700m」、 今来た道は「石垣山一夜城歴史公園2,600m」となっています。 左右に分かれていく道を見送って、正面に続く道路を進んでいきます。
太閤橋
頭上まで樹木が枝を伸ばしてトンネルのようになった所を抜けていくと、 早川太閤橋が架かっています。 石垣山から38分ほどで降りて来られました。 その手前には「自然を楽しむ みち(9) 早川の鳥たち」と題した解説板兼道標があって、 この先の道は「生命の星・地球博物館へ500m」、今来た道は「石垣山一夜城へ2700m」となっています。 橋を渡っていくと、川辺では、長い竿を伸ばしている人達を見かけましたが、何が釣れるのでしょうか。
自然を楽しむ みち(9) 早川の鳥たち
早川は、流れを好む野鳥の観察に適しています。 キセキレイは岩上をせわしなく移動しながら、尾を上下に振る習性があります。 運がいいと、小魚をねらうヤマセミや、宝石のように美しいカワセミに出会うこともできるでしょう。 真っ白なコサギや、それよりさらに大きくて青味がかったアオサギを見ることもあります。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
川の急な増水に注意しましょう!!
川の上流や近くで大雨などによる注意報や警報が発表された場合に、 回転灯が光ったり、放送が流れたりします。 その際には、川からすぐに離れましょう。
 (神奈川県小田原土木事務所河川砂防第一課)
河川を利用する皆様へ!
この川は、上流での雨により急激に川の水位が上昇する場合があります。 ここで雨が降っていなくても、突然、川の水が濁ったり、ゴミが大量に流れてきた場合などは、 上流での雨が降っている場合があります。 釣りなどで川を利用される場合には、事前に気象情報などを確認して、十分注意してください。
 (神奈川県小田原土木事務所)
生命の星・地球博物館
太閤橋を渡っていくと、広い道は左手へと曲がって早川沿いに続いています。 右手の先には入生田歩道橋が架かっていて、箱根小田原道路の先へ降りていかれます。 以前には正面に降っていく道があったように記憶していますが、この時にはなくなっていました。 今回は左手に続く広い道を進んでいきました。 突き当たりまで来て道なりに右手へ曲がっていくと、角に生命の星・地球博物館がありますが、 中に入るのは省略しました。 ここにも、石垣山にあったのと同様の「石垣山一夜城歴史公園までのハイキング」と題した 「自然を楽しむ みち」の案内板がありました。 これまで歩いて来た道は「神奈川県立 生命の星・地球博物館から石垣山一夜城歴史公園へ約3200m」となっています。 支柱には「ハイキングのお供にどうぞ」と書かれた木箱がありました。 パンフレットでも入っているのかと思って開けてみましたが、中は空っぽでした。
石垣山一夜城歴史公園までのハイキング 「自然をたのしむ みち」のご案内
石垣山一夜城の一帯は、自然に恵まれています。 ここから一夜城までは約3.2キロの道のりですが、 その途中に道沿いで見ることのできる動物や植物などについての説明や道案内を9ヶ所に設けました。 どうぞ自然を楽しみながらゆっくりと歩いてみてください。 ここから一夜城までは50分ほどです。
 (小田原ロータリークラブ、神奈川県立 生命の星・地球博物館)
入生田(いりうだ)駅 (標高66m)
箱根小田原道路へ降っていく広い道の左側に架かる太陽橋を渡っていきます。 橋を渡り終えた先にある階段を降っていくと、箱根登山鉄道の高架の脇に降り立ちます。 入生田開渠を抜けて向こう側に出ると十字路があります。 角にある「入生田駅」の案内板に従って左折し、 線路脇に続く小径を進んでいくと入生田駅(箱根登山鉄道)があります。 太閤橋を渡ってから9分ほど、石垣山から50分ほどで到着しました。
駅前には「小田原の文化財 入生田・風祭周辺」や「春日局ゆかりの長興山紹太寺」などの案内板がありました。 今回の散策に関連のある説明文を抜粋して載せておきます。
国指定史跡 石垣山 一夜城歴史公園 徒歩約50分
この城は、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原合戦の際に築いた城で、 城が完成した後に樹木を伐採したため、小田原城中の城兵が一夜にして城が出現したと思い、 大変驚いたという伝承がその名の由来です。 しかし、実際は、東国で最初の本格的な石垣づくりの城で、特に井戸曲輪の石垣は見事なものです。 在陣中、秀吉は淀殿や千利休なども呼び寄せています。
 (小田原市教育委員会文化財保護課)
「春日局」ゆかりの長興山紹太寺
小田原稲葉氏一族と春日局の墓所や、稲葉正則の忘れ形見天然記念物「長興山しだれ桜」などが見どころです。
 (箱根登山鉄道)