港の見える丘公園
散策:2011年08月下旬
【街角散策】 港の見える丘公園
概 要 港の見える丘公園は横浜市中区にある細長い公園で、 小高い展望広場からは横浜港やベイブリッジを見渡すことができます。 開国時代のイギリスやフランスなどの館の跡もあったりして、異国情緒を味わうこともできます。 今回は港の見える丘公園を訪ねてから山下公園を経て開港広場へと向かっていきます。
起 点 横浜市 元町中華街駅
終 点 横浜市 日本大通り駅
ルート 元町中華街駅…港の見える丘公園…パビリオン・バルタール…フランス領事官邸跡…レンガ造り井戸遺構…展望広場…沈床花壇…大佛次郎記念館…霧笛橋…神奈川近代文学館…山手111番館…噴水広場…イギリス館…ローズガーデン…フランス橋…横浜人形の家…ポーリン橋…山下公園…世界の広場…水の階段…石のステージ…おまつり広場…沈床花壇…中央広場…芝生広場…開港広場…横浜開港資料館…日本大通…日本大通り駅
所要時間 1時間30分
歩いて... 横浜人形の家では、開港時代のペリー上陸の様子を再現したジオラマが展示されていました。 幕が八の字に張られた陸地には人が沢山並び、海には小舟が沢山浮かんでいました。 視線を低くしていくと、海側から本当の浜を眺めているような気持ちがしてくるほど良く出来ていました。
関連メモ 横浜中区, 港の見える丘公園, 横浜みなとみらい21, 港の見える丘公園, 横浜中区, 横浜中区, 横浜中区,
港の見える丘公園, 横浜みなとみらい21
コース紹介
パビリオン・バルタール
元町中華街駅(みなとみらい線)の一番南側にある改札口から出て出口6へ向かいます。 地上に出て右折していくと、すぐの所に「機械製氷発祥の地」の解説板があります。 その先の元町入口バス停を過ぎていくと、信号機のある交差点を渡った所が港の見える丘公園になります。 フランス橋の下を過ぎて幅の広い石段を登っていくと、 パリの中央市場の地下にあったという青く塗られた純鋳鉄製鉄骨のパビリオン・バルタールがあります。 ここにはかつてフランス領事館が建っていたのだそうです。
バビリオン・バルタール
この純鋳鉄製骨組は、 1860年代フランスのパリに建てられ1973年まで100年余り存続したパリ中央市場(レ・アール)の地下の一部です。 設計者の名をとってバビリオン・バルタールと称されました。 この中央市場は、再開発のためすべて取り壊されました。 その際、横浜市が19世紀末の純鋳鉄製構造物としての貴重な学術的・文化的遺産であるため パリ市にその一部の移設を申し入れパリ市当局の好意により寄贈をうけ、 かつてフランス領事館のあったこの地に復元設置しました。
 (横浜市)
フランス領事館時代
明治27年(1894)、フランス人建築家サルダの設計により建築に着手、 明治29年(1896)3月に完成しました。 煉瓦造2階建て、建坪およそ36m×18mの規模でしたが、官邸とともに関東大震災で倒壊しました。 跡地からはジェラール瓦、煉瓦などが出土しています。 フランス橋の橋台壁面には、'RF'(フランス共和国Republique francaiseの略)と 彫られたメダイヨン(円形飾り)が保存展示されています。 領事館正面外壁に嵌め込まれていたもののうちの一つです。 また、展示していある遺構は工事の際、出土したものです。
 (横浜市緑政局)
フランス領事官邸跡
バビリオン・バルタールの右側には、二手から回り込むようにして続く手摺の付いた階段があります。 左右からの階段を合わせてその先の石段を登っていくと高みに着きます。 この辺りはフランス山と呼ばれていて、緩やかになった道の先にはフランス領事官邸跡があります。 今残っているのは昭和22年に焼失した1階部分とのことですが、 写真や図面が載っている解説板がいくつも設置されていて、往時を偲ぶことができます。 脇には井戸に使われていたという風車が再現されています。
仏軍駐屯時代のフランス山
フランス軍のキャンプは山手186番にあり、3,042坪の敷地に、3棟の建物が日本側の費用で造営されました。 1棟は建坪90坪、もう1棟は建坪15坪、煮炊所が12.5坪で、ほかに当初からの土蔵1棟1.555坪がありました。 初期の駐屯兵は、陸軍部隊20名にはじまり、その後、208名陸・海軍追加部隊などが加わり、 併せて300名以上が横浜に駐屯していました。
フランス領事館時代
明治27年(1894)、フランス人建築家サルダの設計により建築に着手、明治29年(1896)12月に完成しました。 計画図によると、煉瓦造2階建で、建坪およそ24m×18mの規模でしたが、関東大震災で倒壊しました。 跡地からは建物に使用されていたと思われるジェラール瓦、煉瓦などのほか、 同時に建設された揚水用風車の基礎が掘り出されました。 官邸建設当時はまだ山手に上水道が敷設されていなかったため、井戸を掘り風車で水を汲み揚げていました。
展望広場
広場のようになった所に建つ「愛の母子像」を過ぎていくと、レンガ造り井戸遺構があります。 上部は鉄格子で覆われていますが、中を覗いてみると、地の底まで落ちていくように感じたりします。 井戸の先でボードウォークと階段に分かれていますが、いずれを進んでいっても、程なくして展望広場に出ます。 海側には「展望台」がありますが、低い階段の上にあるテラスのような所になっています。 左手にはマリンタワーやみなとみらい21地区のビル群を、 正面にはベイブリッジなどを見渡せる眺めが広がっています。 展望広場の一角には「港が見える丘」の歌碑があります。 展望広場は正に港が見える丘になっていて、ぴったりの歌に思えました。
港がみえる丘  作詞:東辰三 作曲:東辰三 【♪演奏
 あなたと二人で来た丘は 港が見える丘
 色褪せた桜唯一つ 淋しく咲いていた
 船の汽笛咽び泣けば チラリホラリと花片
 あなと私に降りかかる 春の午後でした
この歌は昭和22年当時、戦後の荒廃した世相の中で、 港をテーマにした曲として広く人々の口ずさまれ、なにかしらほっとする安堵感を覚えたものです。 この港の見える丘公園が歌の舞台であったかについては、様々な説がありますが、 この歌が広く横浜市民に親しまれていたこともあって、多くの市民の共感を得て、 横浜市が「港の見える丘公園」と命名したものです。
沈床花壇
展望広場の先には沈床花壇があります。 中ほどには噴水があって、樹木が植えられた周囲にはベンチが幾つも設置されています。 この花壇の先に赤レンガ造りの大佛次郎記念館があります。 大佛次郎記念館の左手にはTEA&COFFEEの「霧笛」があります。 大佛次郎の作品の題名から名付けられたようです。 愛猫家であった大佛次郎に因んで置かれているのか、入口の脇にはネクタイをした猫の像が立っています。 左の前脚を少し持ち上げていて、お客を手招いているのでしょうか。 大佛次郎記念館の左へ降っていくと霧笛橋があります。 赤レンガで出来た趣きのある橋で、往時を偲ばせるような街灯も設置されています。 橋からは横浜の海を一望でき、ベイブリッジもよく見えていました。 橋を渡った先には神奈川近代文学館があって、 「アンデルセンと旅して」と出した安野光雅展が催されていました。
噴水広場
畔に枝垂れ柳が植えられた池を過ぎて坂道を登っていくと山手111番館があります。 裏側は野外席もあるレストランになっています。 この時には「地の果てと海の始まりを知った国」と題して、 "Tiki and Puffy”「ポルトガル旅」展が催されていました。 山手111番館の傍には噴水広場があります。 その隣りにはイギリス館があります。 周囲はバラが沢山植えられたローズガーデンになっていますが、 この時には花は僅かしか咲いていませんでした。
横浜水道創設記念噴水塔
わが国初の近代水道が横浜に完成したことを記念して、 明治20年横浜停車場(現JR桜木町駅)前広場に設置された噴水塔を再現したものです。 高さは約4メートルで、設置時にイギリスから輸入されました。 台座には、水道創設の功労者であった神奈川県令(現在の知事)の沖守固と、 設計者のイギリス人パーマ-の銘板が見られます。 「近代水道百選」にも選定されており、実物は保土ヶ谷区にある横浜水道記念館中庭に保存され、展示中です。
 (横浜市)
横浜市イギリス館
日本の開国はペリーの来航に端を発しましたが、 最も中心的な役割を果したのは、オールコック駐日総領事を代表とするイギリスの外交官です。 このイギリス館の建つ山手115番は、文久3年に横浜の居留地防衛のため軍隊が駐屯するなど、 横浜開港直後からイギリスにゆかりの深い土地です。 横浜市イギリス館は、昭和12年に上海の大英工部総署の設計によって、 英国総領事公邸として建築された建物で、広い敷地にゆったりと建てられ、 条約開港都市横浜にふさわしい規模と風格を持っています。 建物は、主屋と付属屋とが連結した形で建てられています。 主屋は南面して主要な部屋を配し、廊下を北側に設ける配置で、一つの理想的な形態を示しています。 意匠的には、近代主義を基調とした合理性が見られますが、 単にモダニズムの踏襲ではなく、英国調とも言える伝統を加味した穏健重厚な意匠が伺えます。 この横浜市イギリス館は様式・意匠ともに優れた貴重な建物として、平成2年11月に横浜市指定文化財に指定されました。
横浜人形の家
展望広場に戻ってその下から分かれていく坂道を降っていくと、 バビリオン・バルタールのある広場の脇に降り立ちます。 階段を登ってフランス橋を渡っていくと、 横浜人形の家では「切手になった人形たち」と題した開館25周年記念展が催されていました。 入口の脇には横浜港の開港当時の様子を再現したジオラマがありました。 ヴィルヘルム・ハイネの描いた「ペリー提督・将兵の上陸図」を元にして制作されたようでした。
ジオラマに盛り込んだ当時の出来事
横浜が応接地に選ばれたのは、 黒船を停泊するのに十分な水深があり上陸地まで砲弾が届く距離に艦隊を整列することが可能で、 贈り物を展覧できる十分な広さがあったからでした。 応接諸は前回の浦賀来航時にあった建物を、10日ほどで横浜に移設したものです。 1854年太陽暦3月8日、ペリーは日米和親条約締結のため約500名の将兵と共に上陸します。 上陸地は横浜村のはずれ、近くには水神を祭った小さな社と農民(田辺嘉平治)の家があったそうです。 その際、小さな上陸用の埠頭を建設しました。 それが今の大桟橋のあたりです。 当時、幕府からは諸大名に警護命令が出ており、黒船を臨む横浜湾周辺の防備を割り当てられました。 横浜村近辺は、松代藩真田家や小倉藩小笠原家がその任にあたっていました。 応接地の敷地には調理場も設営され、幕府御用達の料理屋によって用意された酒や吸い物、 魚介類や山菜を中心とした、本膳、二之膳、三之膳と、100種以上の贅を尽くした料理でもてなしましたが、 肉がほとんど無く薄味で量も少なかったため、ペリーらの口には合わなかったようです。 ペリーは24隻のボートに満載した贈り物を陸揚げします。 その中には蒸気機関車の模型や電信機、海図、農具などがありました。 それに対し幕府側は米200俵と鶏300羽を送っています。 これらの運搬には力士が動員されました。 応接所の表では機関車の試運転が、裏手では相撲の試合が行われ、 モールス電信機の実験のために1マイルにわたって電柱が立てられ、電線が設置されました。 (以下略)
沈床花壇
青い目の人形の先にあるポーリン橋を渡った所が山下公園になります。 花のゲートを抜けていくと、太い柱が円形に並んだ世界の広場に出ます。 そこから水の階段を降っていくと石のステージがあります。 この時には何か催し物であるのか、楽器などが沢山並んでいて、観覧席も出来ていました。 その先のおまつり広場を過ぎていくと沈床花壇があります。 海には氷川丸が係留されています。 中央広場には、噴水の中に立つ水の守護神の像があります。
氷川丸
横浜-山下公園 総トン数:12000トン 全長:163メートル
氷川間rは、日本郵船のシアトル航路の新鋭船として1930年4月三菱重工業横浜造船所で建造されました。 太平洋戦争中は病院船、戦後は引き上げ船等として従事の後、 1953年7月我国唯一の外航客船としてシアトル航路に再びデビューしました。 本船は戦前戦後を通じて248回太平洋を横断しています。 1961年5月、横浜開港100年記念事業のひとつとしてこの地に係留されて以来、 マリンタワーと共に、山下公園のそして横浜港のシンボルとして市民に親しまれています。
横浜サンディエゴ姉妹都市提携二十五周年記念碑
アメリカ合衆国カリフォルニア州の南の端にあるサンディエゴ市と横浜市は、 昭和32年10月29日に姉妹都市として有効の契りを結びました。 その後、横浜からは「友好の鐘」と「茶室」が贈られ、サイディエゴからは「ミッションベル」と 「水の守護神」の像が寄贈されたほか、 学校交換や児童画展の開催など多くの交流が幅広い市民の参加によって続けられ、今日に至っております。 このたび、友好親善の発展に寄与された市民の皆さんに対し、深い感謝の念をこめるとともに、 今後ますます両市間の友好関係が増進しますよう祈念し、 ここに「美しのサンディエゴ」の歌を刻みます。 また英訳した歌碑をサンディエゴへ贈ります。
 (横浜サンディエゴ姉妹都市提携25周年記念歌碑をつくる会一同)
開港広場
「かもめの水兵さん」や「赤い靴はいてた女の子像」の像を眺めながら芝生広場の海沿いを進んでいきます。 大桟橋が間近になってきた突き当りを左折して山下公園から出ていきます。 車道を右手へ進んでいくと開港広場前交差点があります。 歩道を渡った所に開港広場があります。 「日米和親条約締結の地」と刻まれた丸いモニュメントがあり、その先には浅い池があります。 脇には、明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水管が展示されています。 広場の隣りには横浜開港資料館があり、「横浜ノスタルジア特別編昭和30年頃の街角」と題した 広瀬始親写真展が催されていました。 資料館を過ぎて開港資料館前交差点を左折していくと、銀杏並木になった日本大通があります。 県庁を過ぎた先の港郵便局前交差点を渡った所に日本大通り駅(みなとみらい線)の2番入口があります。
日米和親条約締結の地
安政元年(1854)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。 これは、神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。 歴史的舞台となった応接所のあとは、現在の神奈川県庁の付近である。
 (横浜市、神奈川県、横浜市観光協会)
日本大通
慶応2年10月20日(1866.11.26)に運上所・改所・官舎など日本人街の3分の2、 英一番館など居留地の4分の1を焼失した豚屋火事が契機となり、 「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」(第3回地所規則)が、同年11月23日締結されました。 約書には、居留地と日本人街に区画整理を行い、そのまん中に延焼を防ぐため、 広さ120フィート(36m)の街路を海岸より公園(後の横浜公園)まで通すように規定しましたが、 約束どおりにはできずに明治政府に引継がれました。 明治4年(1872)英国人プラントンの設計により工事が進められ、 中央車道60フィート、歩道・植樹地帯左右各30フィートの近代的な道路として誕生し、 明治12年、町名にもなりました。
 (横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)
横浜開港資料館旧館 旧英国総領事館
この建物は昭和6年(1931)に英国総領事館として建てられ、 昭和56年(1981)から横浜開港資料館として使われている。 英国工務局によって設計され、18世紀のジョージアン・スタイルの都市邸宅を思わせるデザインである。 その特徴は玄関周りによく現れている。 敷地はかつて日米和親条約が結ばれた由緒ある土地である。