吾妻山公園
散策:2011年08月中旬
【街角散策】 吾妻山公園
概 要 吾妻山公園は二宮町にある低い山を利用した公園です。 山頂の広場には菜の花やコスモスが咲き、 展望台からは丹沢・箱根・伊豆・相模湾などを一望できる眺めが広がっていて、 条件がいいと富士山を望むこともできます。 今回は川匂神社などを訪ねてから、釜野隧道の脇から尾根道を登って山頂へ向かっていきます。
起 点 二宮町 押切坂上バス停
終 点 二宮町 二宮駅
ルート 押切坂上バス停…茶屋薬師…密厳院…西光寺…川匂神社…二宮町民運動場…倉上横穴群…尾根道入口…浅間大神…小動物園…吾妻山…吾妻神社…管理棟…浅間神社…展望所…藤棚…二宮駅
所要時間 2時間40分
歩いて... 吾妻山の山頂にはコスモスが一面に咲いていました。 展望台からは眺めが広がりますが、この時は遠くが霞んでいて、残念ながら富士山は見えませんでした。 今回は熱中症になりそうなほど暑い日だったので、 何度も日陰に入って休憩して水分補給をしながらゆっくりと歩いていきました。
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コース紹介
押切坂上(おしきりさかうえ)バス停
二宮駅(JR東海道線)の南口のバスターミナルから、[平41][平43]国府津駅行きバス、[平44]小田原駅行きバス、 [二30]比奈窪行きバス,または,[二31]高尾行きバスにて5分、 朝には1時間に5本程度、日中には1時間に4本程度の便があります。
バス停のすぐ先で道が二俣に分かれていますが、正面にある押切坂上交差点の横断歩道を渡って、 国道1号の北側の歩道を進んでいきます。
茶屋薬師
川匂歩道橋の架かる川匂神社入口交差点を右折していくと、すぐの所に茶屋薬師があります。 お堂の中を覗ってみると、奥に薬師像が安置されていて、天井からは吊し雛が幾つも下がっていました。 境内には「三界萬霊塔」や石仏などが並んでいて、「茶屋子どもの広場」の標識も立っていました。
薬師如来坐像 薬師堂
像高 261.5cm
面長 48.5cm
頭頂〜顎 85.0cm
面巾 54.5cm
肩張 95.0cm
胸厚 71.0cm
膝張 251.0cm
膝高 右49.0cm、左48.0cm
寄木造り彫眼漆箔の坐像で、江戸時代の作と推定されます。 顔は扁平で顎を突出し、眼が大きく特徴があります。 胸は比較的薄く、衣紋は形式化して彫りが浅くなっています。 左手掌の上に薬壺をのせ、右手を曲げて前向き開き、衆生済度の表現に満ちた仏像です。
 (二宮町教育委員会)
密厳院
茶屋町会館を過ぎていきます。 傍には二宮町コミュニティバスの山西防災コミュニティーセンター前バス停がありますが、 1日に僅かの便しかありません。 軽い登り坂の道を進んでいくと、JR東海道線の上に川匂橋が架かっています。 橋を渡ったすぐの所に山門があって、脇には「真言宗東寺派 川匂山 密厳院」と刻まれた石柱が立っています。 山門をくぐっていくと、右手に本堂があり、その左側には庫裡と思われる建物がありました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
密厳院の左側に続く車道を進んでいきます。 かわわの家入口バス停を過ぎていくと、車道は右手へ曲がっていきます。 正面へ道が分かれていく角には石仏が佇んでいます。 その脇には道標が立っていて、右手へ曲がっていく車道は「釜野・百合ヶ丘方面」「川匂神社方面6分」となっています。 道標に従って右へ曲がって数10m進んでいくと、左手へ道が分かれていきます。 角には「相模国二宮 川匂神社入口」の大きな看板が立っていて左手の道を指しています。 傍に立つ電柱の袂に道標があって、左手の道は「中井方面・二宮西中学」となっています。 車道の右側にも道標があって、正面の道は「吾妻山公園 梅沢登り口・釜野登り口、二宮駅」、 今来た道は「茶屋薬師堂・東海道一里塚の跡」となっています。 吾妻山へは正面の道を進んでいくのですが、その前に左手の先にある川匂神社を訪ねていくことにしました。
畑地が広がる中に続く道を進んでいきます。左右に建つ民家を過ぎていくと登り坂になってきます。 切通のような所の手前まで来ると、右手へ分かれていく路地があります。 入口には「真言宗 無量山 西光寺」と刻まれた石柱が立っています。 その後ろの石段の上には大日堂が建っていて、中には三重寶塔が収められていました。 その右側に続く道を奥へと入っていきます。
一心
限りある命だから 蝉もこおろぎも一心に鳴いているのだ。 花たちも あんなに一心に咲いているのだ。 わたしも一心に生きねばならぬ。
 (坂村真民詩)
壁と石垣の間の路地を進んでいくと石門があります。 その手前には子育延命地蔵尊がありました。 境内へ入っていくと、右手には六地蔵が並び、左手の山際には「弘法大師御修行像」が立っていました。
子育延命地蔵尊
今から200年ほど前、寛政9年、大津波と疫病蔓延のため、多くの子供がその命をなくした。 病児を船に乗せて隔離するしかすべが無く、命絶えていく子らを涙ながら浜辺で見送る親の悲しみは、 言葉で言い尽くせるものではなかった。 これを悼んで押切の人々は、子供の慰霊と子育て延命、厄除けを願い、この地蔵尊を建立された。
 (山主)
西光寺
西光寺の境内の中ほどには天然記念物に指定されているされているカヤの巨木があり、 その奥には「悠響の鐘」の鐘楼がありました。 左手に本堂がありますが、お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
かやの木 天然記念物 真言宗 西光寺
樹高実測18.25m 胸高周囲実測3.27m(直径1.04m)
樹齢は推定500年であり、高さ15.5mで分枝し、直径15〜30cmの太さの幹40数本を四方に張り出し、 見事な樹冠を形成している。 室町期文明年間(1470)年代に当る古樹で、しかも郷土固有の樹種である。
 (二宮町教育委員会)
悠響の鐘
この鐘楼堂、梵鐘は、篤信の母親が愛娘恵子様の菩提を祈る慈悲の証として発願され、 浄財を寄せられ、縁者の協力の中で完成せり。 更に梵鐘は、四国板村真民先生より贈られし詩が鋳込まれ、20世紀より21世紀に響き続け、 世界の平和と万民豊楽の願いをこめて、「悠響の鐘」と命名せり。
梵鐘に寄せられし真民先生のことば。
千年の鐘になり、二千年代を響き続けて大和の国日本の平和と幸福とを響かせてくれることでしょう。 まさに新時代の発展を告げる鐘の思いが伝わって参ります。 仏縁詩縁を感謝いたします。
この鐘楼堂完成にむけ布施の手をさしのべられし、多くの方々に感謝の誠を捧げこれを記す。合掌
 (西光寺二十世光洋)
本堂の左手には慈母観音があり、その奥には太鼓橋の形をした不動橋が架かっています。 橋の左手には池があって大きな鯉が沢山泳いでいて、山際から滝のように水が流れ落ちていました。 橋の先には「三寶洞」という名前のトンネルがあります。 中には「慈光殿」という空間があり、赤い前掛けをしたお地蔵さんがずらりと並んでいました。 トンネルを抜けると墓地になっています。 そこから左手に戻るようにして進んで竹林を抜けていくと、大日堂のすぐ先の切通を越えてきた道路へ出ます。
川匂神社
道路を右手へ進んでいくと、二宮西中学校の校門を過ぎていきます。 トーテムポールが立つ老人憩いの家を過ぎた先に、少し曲がった十字路があります。 角には「郷社 川匂神社」と刻まれた石柱や 「延喜式内社 相模国二宮 川匂神社」と書かれた看板などが立っていました。 左手へ進んでいくと「川匂の湯場」などがありますが、正面に続く道を進んでいきます。 左手には川匂神社の参拝者専用駐車場があり、脇の二宮町公衆トイレの隣りには 「二宮町と吾妻山の展望」と題した大きな案内図があって、 各所の簡単な解説文も載っていました。 駐車場を過ぎていくと登り坂になってきます。 右手へ曲がって登っていく坂道の角に「川匂神社」の扁額が掛る鳥居が立っています。 押切坂上バス停から25分ほどで到着しました。 鳥居をくぐって、その先に続く石段を登っていきます。
二宮町と吾妻山の展望
青い空の下、海岸、葛川、吾妻山をはじめとする里山、その間に閑静な住宅地が広がる小さな町。 星にまつわる伝承や懐かしい風景、季節の花々に出会えます。
浄源寺  本尊阿弥陀如来立像は町の分解財。
川匂神社  元は師長国の一宮。 相武国との合弁で相模国となる時、旧相武国一宮の寒川神社が相模国の一宮、川匂神社は相模の二宮となった。 この序列争いは今なお毎年大磯の神揃山の神事で行われる。 「星祭神事式伝書」保存。
西光寺  身代延命子育地蔵や、樹齢五百年以上で町指定天然記念物のカヤの大木がある。 星祭時に発行した版木保存。
二見利節の墓  二宮出身の洋画家故二見利節は「在らす」を造ることが画なのですと言い、それが墓碑銘に刻まれる。
茶屋の薬師堂  川匂神社の本地仏が明治維新で分離。 町の文化財の坐像は高さ261.5センチ。大正まで密巌院にあった。
吾妻神社  日本武尊が三浦半島の走水から上総に渡る時海が荒れ、妻の弟橘媛命が海神の犠牲となって入水。 彼女の櫛と小袖が二宮の浜に漂着し、それを山頂に祀る。 日本武尊が東征の帰路海を眺めて「吾妻はや」と亡妻を偲び、この社の名となった。
等覚院  白藤の古木で、藤巻寺とも言う。梵鐘は町指定分解財。
大応寺  元禄年間に新田開墾した萬年佐左衛門寄進の釈迦三尊がある。 彼の墓はここにあり、近くの橋は萬年橋と言う。
ガラスのうさぎ像  戦争末期二宮駅の空襲で父親が死んだ少女の話が高木敏子氏の作品「ガラスのうさぎ」で書かれ、 後にこの像が建った。
果樹公園  ここは県園芸試験場の跡地。当時品種改良したナシ・モモの原木が育つ。
蘇峰堂の梅林  徳富蘇峰の秘書故塩崎彦市氏の屋敷が蘇峰の遺品を展示する。 庭に樹齢三百年以上の梅の老木がある。
旧湘南軽便鉄道線  今から100年以上も前の明治時代に二宮と秦野を結ぶ馬車鉄道が開通し、 大正時代には馬車から蒸気機関車に代わり、軽便鉄道ができた。 主に秦野を産地とする煙草葉の輸送が目的で、人員輸送も。
 (二宮ロータリークラブ)
両側に玉垣が設置された石段を登っていくと、趣のある茅葺き屋根の随神門があります。 両側には椅子に腰掛けた姿勢をした1mほどの神像がありました。 添えられた木札によると、向かって右側は「豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)」、 左側は「櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)」というようです。 脇には解説文が掲示されていました。 古い仮名遣いになっていましたが、そのまま載せておきます。 門には「随神門」と書かれた札が取り付けられていましたが、解説文では「随身門」となっていました。 門を入っていくと川匂神社の境内になります。
シリーズ神々と出逢ふ 川匂神社随身門について
当神社は相模国ニ之宮であり、古くから二宮大明神とも称し、『延喜式』所載の相模十三座のひとつであります。 創建は、第十一代垂仁天皇の朝、当時余綾郡・足柄郡両郡の東西海浜周辺を磯長國と称してゐた頃 国造阿屋葉造によって創建されました。 一般には随身門とは、神社に兵仗を帯した随身の像を安置してある門であります。 随身とは貴人の身に随ふ事で供人の門といふ意味で、その中に安置してある随身は袍を着、巻纓の冠をつけ、 剣を帯び弓箭を負ひてゐる為、矢大臣とも又門の神である豊磐間戸命・櫛磐間戸命を表したものであるとも云はれてをります。 当神社の随身像は豊磐間戸命・櫛磐間戸命をお祀りし、 茅葺きの古き門の左右に安置されてゐる一対の倚像形の随身(守門神)であります。 当神社の記録によると、応永年間、兵火に罹り社殿宝物等悉く焼失の折、神像共々災を免れたとあります。 二躯ともに歳月を経、風雪に耐へ、その造形は著しく摩滅し、また虫損も進み、 像容の細部を明らかにしない程に変化してゐます。 しかしながら、巾子冠を被り袍を着け、沓をはいて倚座する威風堂々たる全体形はよく保たれてゐます。 頬骨の張った厳つい面貌や、ゆったりとした袍の袖に刻まれた衣丈、先のとがった沓など、 しっかりとした造形がみてとれます。 構図は巾子冠から脚部まで全てを含む全くの一本造で、複数の節をともなった広葉樹を用ゐて作製されてゐます。 専門の学者によれば、太く厳つい造形は、地方の作ではありますが、平安期の制作を頷かせるものであり、 それは随身の古像として知られてゐます岡山・高野神社の立像(応保2年=1262)などとも一脈通ずる雰囲気をもってゐるさうです。 制作期間は十二世紀と考察されてをります。 中世期に入ると随身は半蹴像が多くなり、本像の倚像である展はまた古式を示すものと考へられるさうです。 傷みの著しい点がおしまれますが、県下における現存最古の随身像として、非常に重要な存在であります。
 (川匂神社宮司 二見直樹)
境内の左側には神輿殿があります。 この時には扉は閉じられていましたが、 以前に来た時には開かれていて、中に収められた大神輿を見ることが出来ました。 毎年5月に催される相模国府祭にも出る神輿で、 ふたつの国が合併する前には一之宮であった神社の神輿は流石に立派だと思ったものでした。 神輿殿の横には大神輿修復奉賛者の多くの名前を記した特大の掲示板がありました。
古文書・田舟 川匂神社所蔵 二宮町指定重要文化財
一、古文書 小田原北条氏の臣山角刊部左衛門の書状
北条氏鬼門除守護神として信仰あつく元亀3年(1572)正月三嶋麻役銭など寄進のもの
徳川家康公五十石の寄進状の写し 天正19年(1591)
徳川家康公の書状
文禄の役家康九州名護屋財人のときの礼状など十一点
これら多くの古文書により、当川匂神社が古くから幕府および有力な武家の深き信仰を受けていたことがわかる。
二、田舟 長141.0cm 厚さ4.8cm 巾31.0cm
全容の左半形のみで、原木をくりぬいて作られ、 わが国古代奈良朝の頃まで田植えの苗運びに使用されたものと推定される。 大正4年5月当神社浦旧神領地より発掘されたものである。
 (二宮町教育委員会)
平成元年度選定 かながわの建築物100選 川匂神社
社殿では、垂仁天皇の頃、師長国造(しながのくにのみやつこ)が創建したとされている。 平安時代末から行われている国府祭(こうのまち)では、一の宮寒川神社と二の宮川匂神社が上座を争い、 座問答をすることは有名。 現在の社殿は、江戸時代のものと推定されている。
 (神奈川県)
(相模国府祭は「相模国府祭」を参照)
神輿殿の右手の手水舎の隣りには杉の大木「夫婦杉」が2本寄り添うように生えています。 注連縄を渡されていて御神木なのでしょうか。 その後ろ側には舞殿があって、紅白の垂れ幕が張られていました。 舞殿の左横には、正月に使われた茅の輪くぐりが置かれていました。 右横には以前に使われていた石の鳥居が置かれていて、解説板も設置されていました。 その前には川匂神社例大祭奉納句に選ばれた俳句を記した木板が沢山掲げられていましたが、 2011年2月に来た時とは違う句でした。 「例大祭奉納句」となっていますが、それ以外の祭りの時に作り替えられたのでしょうか。
夫婦杉 縁結び・安産
川匂神社の御祭神の一柱である衣通姫命は允恭天皇と結ばれました。 名前のとおり美しさが衣を通して光り輝くといわれ、皇子の誕生には当社に安産を祈願したといわれています。 衣通姫命を縁結び・安産の神様と敬い、良縁・安産を願う方は夫婦杉の間を祈願しながらお通り下さい。
この石鳥居は文久元年第三十三代神官二見景賢代に大門参道入口に建立されたものです。 昭和四十五年道路改良工事による大鳥居新設に伴い撤去されたものです。 社号額字は明治ん叉十念大磯別邸に住まわれた侯爵伊藤博文公の揮毫によるものです。
境内の一番奥に川匂神社の社殿があります。 参拝の作法は「二拝・二拍手・一拝」とのことです。 拝殿と社殿から成る長い歴史が感じさせる社殿に思えました。 拝殿の奥には本殿があって、屋根には4本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 拝殿の両側には小祠がありました。 小振りな社ながらも注連縄が張られ御幣が下がっていました。
川匂神社
御祭神
大名貴命 日本の国土を御開拓なされた神様です
大物忌命 殖産興業に御功績のあった神様です
級津彦命 相模国が昔相武と磯長に分かれていた頃、
級津姫命 磯長の国を御開拓なされた神様です
衣通姫命 安産守護の神様です
御由緒
当社は相模国二宮で古くから二宮大明神と称し、延喜式所載の名社である。 十一代垂仁天皇の朝、当国を磯長国と称せし頃、その国造阿屋葉造が勅命を奉じて、当国鎮護のため崇招せり。 日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願ありしを始め、武将の崇敬深し。 人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫命、皇子御誕生安穏のため奉幣祈願あらせらる。 一條天皇の御宇、永延元年栗田中納言次男次郎藤原景兵当社の初代神官となり、爾来今日に及ぶ。 建久三年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。 建長四年、宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納めらる。 北條相模守小田原北条、小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず。 徳川の朝に至り、家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上、殊の外喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。 爾来徳川累代将軍に及ぶ正月には必ず江戸城に登城して、親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり、 幕末まで続行せり。 明治六年郷社に列せられ昭和七年県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。
御祭儀
例大祭十月十日
祈年祭二月十七日
新嘗祭十一月二十三日
大祓式六月三十日、十二月二十九日
月次祭一日、十五日
筒粥祭一月十五日
国府祭五月五日
参集殿の入口には「相模国府祭六社めぐり」と題したパンフレットが置かれていました。 神奈川県の無形民俗文化財に指定されている相模国府祭(さがみこうのまち)の由緒と 参加する各神社の紹介などが載っていました。 一度観に出かけたことがありますが、なかなか趣のある祭でした。 神輿を担ぐ「どっこい、そぉれ!、どっこい、そぉれ!、どっこい、どっこい」という掛け声が いつまでも耳に付いて離れませんでした。
相模国府祭とは
毎年5月5日、相模国一之宮寒川神社・二之宮川匂神社・三之宮比々多神社・四之宮前鳥神社・平塚八幡宮・総社六所神社が大磯の斎場に集まり、 国家安泰・五穀豊穣・諸産業の繁栄を祈念する相模国最大の祭典が国府祭です。
【ご由緒】
大化改新(645)以後、地方には国々が再編成され、新たに赴任した国司は、 任国に着くと先ず最初に巡拝と称してその国の有力大社を参拝して回る制度がありました。 しかし時代がたつにつれて、国司の巡拝は大変な日数と費用、人員を要するため、 やがて巡拝する神社の御分霊を国府近くの神社に合わせ祀るならわしが起こり、これが総社の起源となります。 そして国司は巡拝をやめて総社に神拝し、国内安泰の祈願所としました。 そこで国司は総社に御分霊を納めていただくために、各神社に神輿を以て国府に集まるようお願いしました。 これが国府祭のはじまりともされています。
祭典当日《5月5日》
□午前9時30分総社御大祭
□午前11時神揃山祭
□正午古式座問答
□午後大矢場祭典
□午後3時40分神対面の儀
□午後3時50分国司奉幣の儀・裁許の儀
 (相模国府祭類社会)
二宮町民運動場
川匂神社から「相模国二宮 川匂神社入口」の大きな看板の立つ分岐まで引き返してきます。 西光寺と併せて30分ほどで戻って来られました。 道標「吾妻山公園 梅沢登り口・釜野登り口、二宮駅」に従って左手へ進んでいきます。 川匂神社入口バス停を過ぎていくと、在宅総合センター「はなの杜」があります。 そこを過ぎて登り坂になってくると切通があります。 切通を過ぎて降るようになると、左手から道が合流してきます。 角には「二宮町民運動場」の看板が出ていて左手の道を指しています。 吾妻山へは正面の道を進んでいくのですが、ちょいと立ち寄っていくことにしました。 登り坂になった道を右へ曲がりながら進んでいくと二宮町民運動場がありました。 事前に教育委員会へ申し込んで利用する有料施設のようでした。
倉上横穴群
グラウンドへ続く階段の右手前にある駐車場の奥に倉上横穴群がありました。 岩壁に穴が開いていましたが、入口は網で閉ざされていました。
倉上横穴群
古墳時代の横穴墓群で、昭和六十二年の調査では 十八基の横穴と人骨及び副葬品として金銅環や土器などが多数発見された。
 (平成十七年三月 二宮町教育委員会)
危険ですので横穴の中に入らないでください
手前の分岐まで引き返してきて、降り坂になった道を進んでいきます。 町営山西プールや山西プール前バス停を過ぎていくと緩やかな道になってきます。 左右の路地は見送って道なりに真っ直ぐ進んでいくと運動場入口交差点があります。 左折して二車線道路を進んでいくと、左手からの道を併せた先で釜野橋交差点に出ます。 横断歩道を渡って正面に続く僅かに登り坂になった道路を進んでいきます。 山西小学校の校門を過ぎていくと、道路の脇にベンチが幾つか設置されている所がありました。 木陰にもなっていてひと休みしていくのには良い所ですが、このまま進んでいきました。
山西小学校前バス停を過ぎていくと、正面に釜野隧道の入口が見えてきます。 その手前から左手へ分かれていく坂道を登っていきます。 かなり傾斜のある坂道を左へ曲がりながら登っていくと、右手に分かれていく道があります。 角に立つ電柱には「釜野支R20/19」や「川匂33」の標識が取り付けられています。 そこを右折して、端に階段が設けられた急坂を登っていきます。
尾根道入口
坂道を登り切ると、切通のような所を降るようになります。 左手へ曲がり始める所まで来ると、横木の階段が右手へ分かれていきます。 ここが吾妻山へ続く尾根道の入口になります。 川匂神社から34分ほどで到着しました。 脇には「吾妻山公園」の道標が立っていて、右手の階段を指しています。 「鳥獣保護区」の赤い看板も立っていました。 このまま坂道を降っていくと吾妻山公園の釜野口になりますが、 今回はここから吾妻山へ登っていきます。 その前に、かなり暑い日で汗もかいたので、階段に腰を降ろして水分補給などをしながらひと休みしていきました。
(釜野口への道は「吾妻山公園」を参照)
ひと休みしたところで、道標「吾妻山公園」が指す横木の階段を登っていきます。 右へ曲がりながら登っていくと、1分もせずに緩やかな尾根道になってきます。 しっかりとして歩き易い道を1分半ほど進んでいくと、正面に送電線の鉄塔「西湘線55」が見えてきます。 その手前から右手に戻るようにして横木の階段が分かれています。 正面の道は鉄塔の所で行き止まりになっているので、右手の階段を登っていきます。
10段ほどの階段を登っていくと、広めでしっかりとした尾根道になってきます。 青葉が茂って木陰を作っていて、暑い夏場には助かります。 10段ほどの横木の階段を過ぎて更に進んでいくと、再び階段が現れます。 階段を登っていくと、その途中から左手に分かれていく道があります。 尾根道入口から6分ほどの所になります。 左手の道は、中里口への道の途中やその西側の谷筋へ降りて行かれますが、 吾妻山へ向かってこのまま真っ直ぐに進んでいきます。
(左手の道は「吾妻山公園」を参照)
横木の階段を登り終えると、開けた感じの果樹園を回り込むようにして進んでいきます。 条件が良いと、畑の樹木越しに丹沢大山なども見えるのですが、この時には霞んでいて見えませんでした。 果樹園が終わって横木の階段を登っていくと、右側には竹製の手摺が続くようになります。 坂を登り切る辺りまで来ると、左手に戻るようにして登っていく横木の階段があります。 吾妻山へは正面へ進んでいくのですが、この上に東屋があるので、立ち寄っていくことにしました。
細い階段を右へ折れ曲がって登っていくと、すぐに東屋のある高みに着きます。 展望台のようになっていますが、周りにある雑木が青葉を茂らせていて眺めは今ひとつです。 眼下には小動物園が見えています。 東屋にはテーブル状のベンチが設置されているので、ここでも腰を降ろして水分補給しながらひと休みしていきました。
浅間大神
東屋の脇には鎖で囲まれた一角があって、 その中に「浅間大神」と刻まれた石碑と「磐長姫大神」と刻まれた石柱が並んでいます。 「浅間大神」の石碑の裏面には「明治三十一年九月之吉日」と刻まれていましたが、 最後の「日」はほとんど読めなくなっていました。 この吾妻山公園にある浅間神社と関連がある石碑なのでしょうか。
小動物園
東屋から引き返して尾根道を進んでいきます。 降り坂になってくると、左側には金網柵が続くようになります。 その向こう側は小動物園があって、すぐ傍に飼育舎が並んでいます。 以前には多くの動物がいて賑やかでしたが、 今では何もいない飼育舎が往時の記憶を伝えるかのように静かに建っているのが、何だか淋しく感じました。
×あぶない! あみのなかに手をいれないでください。
車止めを過ぎて鞍部に着くと、すぐ左手に通る舗装路への道が分かれていきます。 正面には横木の階段が続いていますが、今回は舗装路に出て登っていくことにしました。 出口には看板などが幾つか設置されていて、左手へ降っていく舗装路は「中里口」、 今来た道は「釜野口」となっています。 また、吾妻山公園の小さな案内図も設置されていました。 ここは右手へ曲がりながら続く坂道を登っていきます。
植物を採らないで
公園内の植物採取は二宮町都市公園条例により禁じられております。 絶対におやめください。
 (二宮町)
左から右へと曲がりながら、かなり傾斜のある坂道を登っていきます。 この坂道は小型車なら通って行けるだけの幅があって、吾妻山から中里口まで続いています。 傾斜が急な所はコンクリート舗装されています。 坂が終わって緩やかになってくると、先ほど分かれてきた横木の階段が右手から登ってきます。 入口には「釜野トンネル約10分」の道標が立っていますが、 今回は途中で休憩していたこともあって、尾根道入口から23分もかかりました。
道端に設置された丸太のベンチを過ぎていくと、再び登り坂になってくる手前に分岐があります。 正面へ横木の階段が続いていますが、ここでも左手に曲がっていく舗装路を進んでいきました。 この辺りの森は「かながわの美林50選 吾妻山公園の森」に選定されていて、 その旨の標柱も立っています。
左から右へと曲がりながら、かなり傾斜のある坂道を登っていきます。 切通のような所を過ぎていくと、先ほどの横木の階段が右手から登ってきます。 緩やかになった道を進んでいくと登り坂になってきます。 アスレチック器具が設置された右側の尾根への道を分けて坂を登っていくと、 登り切った所から右手へ道が分かれていきます。 周囲には看板などが幾つか設置されていて、正面に降っていく道は「吾妻神社・浅間神社・二宮駅」、 右手の道は「芝生広場・展望台」、今来た道は「釜野口・中里口」「小動物園」となっています。 ここは右手に続くツツジの回廊になった道を進んでいきます。
以前には多くの種類の動物が飼育されていた小動物園ですが、 この時には「ウサギだけを飼育しています」と書かれていました。
吾妻山 (標高136.2m)
周囲には多くのアスレチック器具が設置されています。 全部で28個あるようです。 その中のひとつの「吊り橋」の下をくぐっていくと道が左右に分かれていますが、 いずれもこの先の芝生広場へ出られます。 右手の道を進んでいくと吾妻山の頂上に着きます。 尾根道入口から30分ほどで登って来られました。 吾妻山の山頂には「展望台」と呼ばれる円形状の石積みがあります。 中ほどには円筒形の案内標識があって、房総半島から伊豆半島にかけての地図や、 ここから見える山や島などの名前が記されていました。 北側には丹沢山系、西側には箱根連山、南西側には小田原から伊豆にかけての海、 南東側には相模湾から三浦半島などを見渡せる素晴らしい景色が広がる所ですが、 この時には遠くが霞んでいて、残念ながら富士山は見えませんでした。
(画像を左クリックすると、6枚の写真が順次表示されます)
吾妻山公園
昭和62年(1987)7月18日開園、 面積113,664u、 海抜136.2m
大山1251.7m、三ノ塔1205m、塔ヶ岳1491m、桧洞丸1601m、御正体山1682m、矢倉岳870m、金時山1213m、 明神岳1169m、大涌谷、神山1438m、駒ヶ岳1327m、上二子山1090m、下二子山1064m、伊東市、 初島0.44ku、式根島3.9ku、新島23.8ku、利島4.1ku、大島19.8ku、三浦半島、房総半島
山頂は広い芝生広場になっていて日当たりがよく、ピクニックには最適な所です。 広場には「吾妻山公園の由来」と題した大きな石碑や「山頂136.2m」の標識もあります。 この時には、山頂の西側に植えられたコスモスが綺麗な花を咲かせていました。
吾妻山公園の由来
相模路の淘綾の濱の真砂なす 児らは憂しく思はるるかも 萬葉集第十四 東歌
(さがむじの よろぎのはまの まなごなす こらはかなしく おもはるるかも)
万葉の昔から淘綾の里二宮の美しい海浜と、それを眼下に一望できる吾妻山は、人々のふるさとでありました。 しかし、第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で、山は顧みられることもなく、 次第に荒廃が進んでいきました。 町はこれを深く憂え、子孫に誇れる山として残したいと思い、 地権者65名の協力と5年の歳月をかけて整備し、昭和62年7月18日に吾妻山公園として開園しました。 現在では健康づくりと自然とふれあうやすらぎの場として人々に喜ばれています。 この公園は名誉町民第17代柳川賢二町長の尽力により完成しました。
 (顕彰会)
淘綾の濱とは、ゆるぎ・こゆるぎの浜ともいい、二宮を中心に国府津から大磯あたりまでの白砂青松の海浜をいいます。
芝生広場の南へ降っていくと東屋があるので、 ここでもベンチに腰掛けて、目の前に咲くコスモスなどを眺めながら休憩していきました。
お願い
・公園内は禁煙です。火を使ってはいけません。
・犬のフンは飼主が後しまつして下さい。犬の放し飼いは禁止します。。
・ゴミは持ち帰って下さい。
・他人に迷惑のかかる行為及び管理に支障のある行為は禁止します。
吾妻神社
東屋の先から続く横木の階段の入口に道標が立っていて、「梅沢海岸」「吾妻神社」となっています。 擬木の手摺が設置された階段を降っていくと、程なくして吾妻神社の境内に降り立ちます。 本殿と拝殿から成る立派な社殿でした。 本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 境内には「吾妻神社 由来記」と題した解説板がありますが、1年半ほど前に新しくなったようです。 拝殿の前には「自由にお持ち下さい」として、神社の由来の書かれたビラが置いてありますが、 解説板と同じような内容でした。 境内には「吾妻山純情」と題した歌碑もありました。
吾妻神社 由来記
吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まると云う。 弟橘媛命を祭神とし日本武尊を配祀する。 日本武尊は景行天皇の第三皇子であり、天皇にそむく部族を征伐するため東北におもむく途中、 三浦半島走水から海路上総に渡るとき暴風突如に起こり、 命は夫にかわり海神の怒りを静めるため夫の武運を祈り、別れに望んで往時を回想され、 「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と海中に身を投じた。 するとたちまち海は穏やかになったと云う。 その七日後に命の御櫛が海辺に流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。 この海岸に命の小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。 また日本武尊は東北戦が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海を眺め、 「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。 弟橘媛命の御神像は木彫りの千手観音で、既に千数百年星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に安置されている。 吾妻神社は「縁結びの神」として知られ例祭日は 例大祭1月第3日曜日、例祭8月15日
吾妻山純情
二宮町・梅沢・袖ヶ浦に伝わる日本武尊・弟橘姫の神話より
白峰紅葉清秋を飾る  敵兵野原火謀を図る  建命静かに草薙剣振るい  救軍迎え火平定仇せり  暴風遮断す走水の浜  愛妃鎮座す水神の前  さねこし相武の小野に燃ゆる火の  火中に立ちて問いし君はも  風凪ぎ全軍雄途に発す  静謐夕陽関津に映ゆ  建命人を恋う吾妻山  探訪漂着山関に到る  愛姫静立主君を迎う  相い約す両人永遠の綸
平成二十年四月四日
作詞 神奈川県立二宮高等学校 元校長 伊藤健先生
管理棟
「吾妻山純情」の歌碑の右奥に生える大きな木の間から左手に続く山道を進んでいきます。 斜面を横切るように緩やかに進んでいきます。 正面に登っていく横木の階段を見送って道なりに右へ曲がっていくと、左右に通る広めの道に出ます。 角には道標が立っていて、今来た道は「吾妻神社」となっています。 二宮駅へは右手へ進んでいくのですが、左手のすぐ先に管理棟があるので立ち寄っていくことにしました。 デッキにはテーブル・ベンチが設置されているので、ここでも水分補給をしながら休憩していきました。 左側の部屋には吾妻山の四季などが紹介されていました。 「吾妻山公園散策マップ」と題した大きな案内図もありました。 この吾妻山は「関東の富士見100景」にも選ばれているようです。 吾妻山から見える山や島などを記した横に長い図もあって、 丹沢大山から箱根にかけての山々、富士山、伊豆の山々、伊豆七島、三浦半島や房総半島の山々などが載っていました。
吾妻山公園 菜の花のルーツ
吾妻山公園の菜の花栽培の始まりは、昭和63年(1988)から平成20年(2008)3月までの20年間に渡って、 吾妻山公園の維持管理と情熱を傾けた美鈴産業社長・鈴木忠明氏が町おこしの一助となればと発案されたことによるものです。 「平成元年(1989)の初秋に、公園の片隅に何の気なく蒔いた、ひとつまみの花菜の種子が早くに育ち、 11月中旬からは、ぽつぽつと花を咲かせ始めた。 それが話題を探しに来園した新聞記者の目にとまり、翌日の朝刊に"日本一早い菜の花?"との見出しで報道された。 これに読者が反応して大挙して来園。 しかし、その規模の小ささに嘲笑・がっかりされたことが、きっかけ・発奮材料となって、 当時まだ荒涼として危険な斜面地であった展望台下を、5年の歳月を費やして開墾しながら植栽をはじめた。 以後、"日本一早い"を目指し菜の花とコスモスを交互に無農薬で栽培し色々と試行錯誤を重ねながら、 ようやく定着させ、遠来の方々にも間道されるようになりました」とのこと。 今では、どこよりも早い新年の明るい話題として各メディアが全国的に報道するようになり、 多方面より多くの来園者を迎え、長年、鈴木忠明氏が委託内容とは別問題としてボランティア"ふるさと愛"の 奉仕の精神で育て上げてきた吾妻山公園の菜の花が、二宮町のシンボルと言われるまでになりました。 今後は、氏の意志を受け継ぎ、来園される皆様に愛される公園でありますよう、努力してまいります。
 (平成20年4月 二宮町)
落ち着いたら来た道を引き返してきます。 吾妻神社への道を見送って、広めの道を登っていきます。 緩やかになって両側に植込みが続くようになると、降り始める所の左手から幅の広い横木の階段が分かれていきます。 入口には「浅間神社」と題した解説板があります。 階段の先には「浅間神社」の扁額が掛る鳥居があって、階段がその上へと続いています。 二宮駅へは正面へ降っていくのですが、左手の上に浅間神社があるので立ち寄っていくことにしました。
浅間神社
祭神は木花咲耶媛、二宮町上町地区の祭神で、 土地の人には浅間さんとして親しまれ、本社は富士浅間社です。 木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、 良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。 今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、 曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。 この時、二宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。 後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて、自分の住いの前のこの山上に、 浅間神社をまつったと言います。
 (平成16年4月吉日 二宮町二宮・上町町内会)
浅間神社
鳥居の先に続く幅の広い横木の階段を登っていきます。 1分ほど登っていくと、大きなクヌギの木の所で道が左右に分かれていますが、 そのまま真っ直ぐに登っていくと、浅間神社が建つ高みに着きます。 正面には「浅間神社」の扁額が掲げられていて、社殿の中には注連縄を渡された白木の祠がありました。 解説文にある「内宮」になるようです。
浅間神社
祭神は木花咲耶媛、二宮町上町地区の祭神で、 土地の人には浅間さんとして親しまれ、本社は富士浅間神社です。 木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、 良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。 今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、 曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。 この時、二宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。 後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて、自分の住いの前のこの山上に、 浅間神社をまつったと言われています。
この度社殿老朽にともない新築、内宮は大修理を施し装いも新たになりました。 尚、修復した内宮(一部の彫り物も含む)は1700年後期寛政の頃の作といわれています。
付記 修理されし内宮の各部
1.柱 2.像鼻 3.側面蛙股 4.左海老虹染 以上
 (平成19年3月吉日 二宮町二宮 上町町内会)
展望所
浅間神社の右手前に続く横木の階段を降っていきます。 階段を降りて右手へ進んでいくと十字路がありますが直進していきます。 この斜面はツツジの丘と言って一面にツツジが植えられていますが、 花の季節ではないので咲いていませんでした。 幅の広い横木の階段を左へ曲がりながら降っていくと、双眼鏡が設置された展望所があります。 以前にはテーブル・ベンチも設置されていたのですが、この時には見かけませんでした。 空気が澄んでいると、湘南の街並みの向こうには、 相模湾に浮かぶ江ノ島や烏帽子岩や三浦半島などを望むことが出来るのですが、 この時には残念ながら霞んでぼんやりとした眺めでした。 それでも湘南平にあるテレビ塔は何とか見えていました。
藤棚
展望所の先の分岐を右手へ降っていきます。 突き当りを右折してツツジが植えられた斜面を更に進んでいくと、 浅間神社へ登っていった分岐を直進してきた広い道に出ます。 道なりに降っていくと、横木の階段が始まる手前に十字路があります。 角には「吾妻山公園」と題した案内板が設置されています。 左手の道の先には藤棚があって、二宮の街や湘南の海を見渡せる眺めが広がるので、ちょいと立ち寄っていきました。 藤棚の下にはベンチが設置されていて、ひと休みしていくのには良い所です。 この季節は青葉が茂っていて、眺めを少し邪魔しているのが難点ですが、 眼下には二宮駅が間近に見えていました。
藤棚の右手の道を降っていくと、横木の階段と交わる十字路に出ます。 正面へ進んでいくとあじさい桧林がありますが、階段を左手へと降っていきました。 横木の階段から石段に変わると、真ん中に鉄の手摺が設置されていて、登りと降りで左右に分かれています。 かなり傾斜のある石段を降っていきます。 一旦緩やかになって再び始まる石段を降っていくと車道に降り立ちます。 浅間神社から15分ほどで降りて来られました。 出口には「吾妻山公園」と書かれた木製の門が立っていて、脇には案内図なども設置されています。
吾妻山公園利用のご案内
開園時間
午前8時30分から午後5時まで、小動物園は午前9時から午後4時30分まで
利用者へのお願い
・自然を愛し、草や木を大切にしましょう。
・ゴミは各自持ち帰りましょう。
・犬の散歩をする時には、必ず鎖でつなぎましょう。
・芝生広場でのボール遊び、芝そり等はやめましょう。
・アスレチックや遊具は定員を守り大切に使いましょう。
・炭火、コンロ等の使用を禁止します。
・許可車両、緊急車両以外の車輌(自転車、オートバイ含む)は進入できません。
・園内での営業行為は禁止します。
※園内には売店はありません。
 (二宮町都市整備課)
吾妻山公園鳥獣保護区区域図
この区域は鳥獣の捕獲を禁止しております。 鳥獣の保護に、ご協力をお願いします。
 (神奈川県)
二宮(にのみや)駅
道路を真っ直ぐ降っていくと、横断歩道があります。 左手からは細めの道が合流してきます。 そこから右手へ分かれていく狭い路地に入っていきます。 二宮町公民館と二宮小学校の建物の間を抜けていくと二車線道路に出ます。 正面にある横断歩道を渡ってバスターミナルに沿って左手へ曲がっていくと二宮駅(JR東海道線)に着きます。