弘法山公園
散策:2011年08月上旬
【低山ハイク】 弘法山公園
概 要 弘法山公園は丹沢の南側の低い丘陵にある公園で、弘法山・権現山・浅間山などがあります。 権現山からは秦野の街並や、丹沢から箱根にかけての山並を見渡せる眺めが広がり、条件が良いと富士山を望むことも出来ます。 今回は女坂から馬場道を経て弘法山へ登り、善波隧道を抜けて善波川沿いの浅い谷筋を歩いていきます。
起 点 秦野市 秦野駅
終 点 伊勢原市 坪ノ内バス停
ルート 秦野駅…龍門寺…八坂神社…天王下橋…十代橋…展望地…登り口…女坂…馬場道…弘法山…展望地…めんようの里分岐…秦野国際乗馬クラブ…善波隧道…国道246号…矢倉沢往還分岐…善波児童館…太郎のちから石…矢倉沢往還…坪ノ内バス停
所要時間 2時間50分
歩いて... 善波川沿いの浅い谷筋には畑地や田んぼが続いていました。 谷筋の南側の山際には矢倉沢往還が通っていて、そこへ通じる道が何度か分かれていました。 「太郎の郷さんぽ」と題した道標もあって、 かつてこの辺りを治めた善波氏に因んだ散策路も設定されているようでした。
関連メモ 弘法大師と桜のみち, 弘法大師と丹沢へのみち, 弘法山公園, 高取山, 弘法山公園, 高取山, 弘法山公園,
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コース紹介
秦野(はだの)駅
秦野駅(小田急小田原線)から歩いていきます。
北口のバスターミナルの上から道路に降りて、 正面を流れる水無川に架かるまほろば大橋を渡っていきます。 橋名の由来が書かれた青銅板によると、 以前にあった「昭和橋」を平成になって架け替えた時に「まほろば大橋」と命名されたようです。
橋名の由来
「まほろば」とは、人々が暮らす場として優れた場所を意味する大和言葉です。 古事記の倭建命の歌に 「倭は 国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭しうるはし」とあります。 これは、住み心地の良い盆地を指していると言われ、 四方を山々に囲まれた秦野が今後目指す「まちづくり」に理想像です。 水無川のこの位置に、初めて橋が架設されたのは、昭和6年でした。 以来、昭和橋と呼ばれ、秦野の発展と共に歩んで来ました。 市民は、平成の新たな年に架け替えられたこの橋に、 潤いと憩いを求め、大いな親しみを込め「まほろば大橋」と命名しました。
 (平成元年10月吉日 秦野市長 柏木幹雄)
市民憲章
わたくしたち秦野市民は丹沢の美しい自然のもとで、 このまちの限りない発展に願いをこめ、ここに市民憲章を定めます。
1.平和を愛する市民のまち、それは私たちの誇りです。
1.きれいな水とすがすがしい空気、それは私たちのいのちです。
1.健康ではたらき若さあふれるまち、それは私たちのねがいです。
1.市民のための豊かな文化、それは私たちののぞみです。
1.みんなの発言で住みよいまちを、それは私たちのちかいです。
まほろば大橋を渡って右折し、水無川沿いの車道を進んでいきます。 平成橋を見送って100mほど進んでいくと、駐車場の先から左手に入っていく路地があります。 角に立つ電柱には病院の看板が取り付けられていて「ここは本町2-8」と書かれています。 そこを左折して路地を進んでいきます。 少し登り坂になってきた道を石垣や生垣のある民家沿いに進んでいくと、県道62号の本町交差点に出ます。 車道がY字形に分岐している所で、角には「ひがしみち」と刻まれた石柱が立っていました。 横断歩道を渡って右手へ進んだすぐの所から左手へ分れて行く路地に入っていきます。 角に立つ電柱には団地の看板が取り付けられていて「ここは本町3-8」と書かれています。
僅かな登り坂になった路地を進んでいくと、少し降り始める辺りに祠が建っていました。 中には数珠を手に持ったお地蔵さんが安置されていて、小銭がお供えされていました。 脇には「馬頭観世音」と刻まれた石碑などが並んでいました。
幸福のしっぽ
子猫がくるくると自分のしっぽを追いかけている。 みかねた年とった猫が「坊や、どうしたの」とたずねた。 子猫は答えた。 「猫にとって一番大事なのは幸せで、その幸せは僕のしっぽだと気づいたんだ。 だから、しっぽをつかまえたいんだ。そうしたら僕はきっと幸せになれるから」 大きな猫は言った。 「私も若い頃は同じことを考えたわ。でも悟ったの。 しっぽは追いかけると決まって逃げていく。 でも、自分のやるべきことをやっていると、しっぽは私がどこへ行っても、 必ずついてくるものなんだよ」
龍門寺
坂道を降って緩やかになってくると、左右に通る道に出ます。 その正面には石門があって、右側には「天台宗」、左側には「龍門寺」と刻まれていました。 弘法山へは右手へ曲がっていくのですが、正面に山門が見えているので立ち寄っていきました。 出来て間もない山門のようで真新しい様子でした。 左右の親柱の前後にぞれぞれ2本の控え柱がある四脚門のような姿をしています。 また、龍の透かし彫りもありました。 山門から境内へ入っていくと、正面に本堂がありました。 右手には庫裡と思われる建物や小振りのお堂がありました。 お堂の前には「厄除 不動明王 元三大師 如意輪観世音菩薩 安置」と刻まれた石柱が立っていました。 左手は墓地になっていて、簡単な解説文を刻んだ台座の上に立つ観音像や不動明王像などが幾つもありました。 大きな延命地蔵菩薩像もあって脇には石碑もありましたが、 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
慈悲のあみ たれて救へよ 地蔵尊 生死の海に しずむ我等を 南無延命地蔵大菩薩
無欲の仕事は世を救い 欲の仕事は人を泣かせる
八坂神社
龍門寺から出て左手(来た向きには右手)へ進んでいきます。 生垣のあるブロック塀沿いに緩やかに降っていくと十字路があります。 正面に続く坂道を更に降っていくと「八坂神社」の扁額の掛る鳥居があります。 境内へ入っていくと、正面に本殿と拝殿から成る社殿があり、右側には神輿庫や舞殿のような建物がありました。 社殿は平成12年3月に建替えられたようで、関係者の氏名を刻んだ石碑がありましたが、 神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。 道はここで二手に分かれていますが、神社の左側に続く坂道を降っていきます。
天王下橋
坂道を降っていくと、すぐの所に流れる金目川天王下橋が架かっています。 車道と歩道に分かれたその橋を渡っていくと、左手には田んぼが広がっていました。 道は住宅地に近い所と川沿いとに続いていましたが、川沿いの土手に続く細い道を進んでいきました。 正面には丹沢の山並が見えていますが、この時にはかなり雲が湧き出ていました。
十代橋
金目川に架かる十代橋の所まで来て、右手に続く道路を進んでいきます。 すぐに右手へ分かれていく道路は見送って、正面に続く登り坂になった道路を進んでいくと分岐があります。 角には道標が立っていて、右手へ曲がりながら登っていく道路は「弘法山」となっています。 その脇には道路改修の記念碑が建っていました。
記念碑
町道第三十六号線改修記念碑
本地区ハ当町蔵ノ前及ビ御門地先ヨリ金目川ヲ経テ東 方耕地ニ通する耕作交通上重要ナル道路ナルモ迂廻曲 折シ加フルニ急坂ニシテ路面狭隘ナルガ故ニ車馬ノ通 行全ク不能ニシテ肥料並ニ農作物ノ運搬等不便甚大ナ レバ地元農家ハ之ガ改修ヲ農村振興農村匡救土木事業 ニ依リ企劃シ昭和七年度ヨリ昭和九年度ニ至ル三ヶ年 ニ渉リ神奈川県及ビ秦野町ヨリ相当ナル補助ヲ仰グト 共ニ耕地関係地主地元農家ノ寄付を得テ勾配ヲ緩和シ 同時ニ幅員六尺ヲ九尺ニ拡張シ鉄筋コンクリート橋ヲ 架設シ車馬ノ利用ヲ充分ナラシメタルヲ持テ従来ノ宿 望此ニ達セラレ昔日ノ不便ヲ一掃スルヲ得タルハ地元 民ハ更ナリ秦野町将来ノ発展ニ資スル事大ナリト云フ ベシ其ノ大要ヲ録シテ記念トス
昭和九年五月 半月撰
分岐の右手に続く道路を道なりに登っていきます。 ブロック塀の民家を過ぎていくと県道71号の衛生センター入口交差点に出ます。 左側には自動社販売店があります。 横断歩道を渡って、コンビニの左側に続く坂道を降っていきます。 坂を降り切ると、右下には田んぼがあり、左手には竹林がありました。 下の方には金目川の支流と思われる小川が流れていました。 左手に分かれていく道は見送って、正面に続く登り坂になってきた道路を進んでいきます。
右側には秦野市伊勢原市環境衛生組合の建物がありますが、この時には工事中の柵で囲まれていました。 左側には畑地が続いています。 振り返ると丹沢の山並を見渡せる眺めが広がっていました。 程なくして山際に着くと、樹木が頭上まで被った道になってきます。 すぐの所から右手に広い未舗装路が分かれていますが見送って、舗装路を道なりに登っていきます。
山際を進む様になって3分ほどすると、「亀の子石」と題した解説板が設置されていました。 何処にその石があるのかと周囲を見回していると、どうやら解説板の後ろの崖の左側にある石になるようでした。 甲羅の筋のようなものあるので何とかそれらしいものの、それほど亀の甲羅に似ているようにも思えませんでした。
亀の子石
この亀の形をした石には次のような伝説があります。
その昔、弘法大師の一番弟子といわれる高僧が弘法山の麓に住んでいました。 この高僧は、大そう亀好きで沢山の亀をかっていました。 ところがふとしたことで病いにかかり、手厚い看病にもかかわらず亡くなってしまいました。 この主人の死をいたく悲しんだ亀達は、何を思ったのか主人の師である弘法大師が修業したという 弘法山の山頂を必死に目指しましたがやがて力つき、石になってしまいました。 その石があまりにも亀に似ているのでいつしか「亀の子石」と呼ぶようになりました。
弘法山にはここの他にもいくつか亀の子石があるといわれています。
 (秦野市)
展望地
亀の子石を過ぎて1分ほど進んでいくと、左下に広がる畑地への道が分かれていきます。 その先には丹沢の山並が広がっていましたが、生憎と山頂付近には雲が掛っていました。 畑への道は見送って、引き続き舗装路を進んでいきます。 次第に左手が開けてきて見通しが良くなってきます。 少し左へ曲がりながら登っていくと、左右に通る道路に出ました。 権現山の南側から西側を巻いてくる車道になります。 脇には道標が立っていて、今登ってきた道は「秦野駅2.6km」となっています。 右側にはベンチが二つ設置されていて、丹沢の山並などを見渡せる展望地になっています。 矢倉岳でしょうか、左手の方にはお碗を伏せたような姿をした山も見えていました。 眺めを楽しみながらひと休みしていくのには良い所ですが、日差しを遮る木陰はないので、 蒸暑い夏場には休んでいくのは遠慮したい気持ちにもなります。
登り口
道路の向かい側から山へ登っていく横木の階段が続いています。 車止めの脇には「弘法山公園」の道標が立っていて、その階段を指しています。 ここが弘法山への登り口になります。 秦野駅から45分ほどで到着しました。 車止めの先に続く30段ほどの横木の階段を登っていくと分岐があります。 角には道標が立っていて、正面の道は「弘法山公園 弘法山0.6km」「鶴巻温泉4.2km・吾妻山3.3km」、 右手に戻るようにして登っていく横木の階段は「弘法山公園 権現山(展望台)0.4km」となっています。 正面の道には「女坂(おんなざか)」、右手の階段には「男坂(おとこざか)」の標柱も立っています。 どちらの道でも尾根の上に出られますが、今回は正面の女坂を進んでいきました。
ヤマユリ採取厳禁!
ヤマユリは神奈川県自然公園条例により許可なく採取してはならない植物です。
 (秦野市商工観光課)
女坂
斜面に沿って続く広めでしっかりとした道を緩やかに登っていきます。 木片チップが敷き詰められていて、フワフワとして気持ちの良い道になっていました。 道端にはヤマユリやアジサイが咲いていたりもしました。 分岐から3分半ほど進んでいくと、道端に丸太のベンチがひとつ設置されていました。 この付近には桜の幼木が沢山植えられています。 (財)日本宝くじ協会や(財)日本さくらの会や秦野市が2001年に植えたようで、「宝くじ桜植栽地」の石碑もありました。
馬場道
登り口から6分ほど登ってくると、左右に通る広い道で出ます。 山の上にあるとは思えないほど広い道になっています。 両側には桜が並木を作っていて、春には綺麗に彩られる所でもあります。 この道は「馬場道」と言って、戦前には近在の農民が草競馬を楽しんだ所のようです。 関東ふれあいの道の「弘法大師と桜のみち」と「弘法大師と丹沢へのみち」の一部にもなっています。 道標類は見かけませんでしたが、右手へ進んでいくと権現山、左手へ進んでいくと弘法山になります。 今回はここから弘法山に向かって左手へ進んでいきます。
左手へ数10m進んでいくと、右手へ降っていく横木の階段があります。 降り口には道標が立っていて、右手の道は「東海大学前駅」、 正面の道は「関東ふれあいの道 弘法山」、今来た道は「関東ふれあいの道 権現山」となっています。 右手の道は、龍法寺・長福寺・八幡神社・自興院などを経て東海大学前駅へと続いている道になります。 また「百八松明」と題した解説板も設置されていました。
(右手の道は「弘法山公園」, 「弘法山公園」を参照)
百八松明(ひゃくはったい)
秦野市南矢名瓜生野地区に室町時代から伝わる旧盆の行事として続いている厄除、豊作を祈る火の祭りです。 旧盆の8月14日と15日の夕刻、麦わらで作った直径30〜40cm、長さ1.0〜2.5mのたいまつ約70本を権現山に運び、 午後7時過ぎに点火、参加者がかついで麓の龍法寺の山門付近までおろします。 暗い山の斜面をえんえんと動くたいまつは火の帯となってたいへん壮観です。
 (秦野市観光協会)
馬場道を正面へ進んでいくと、車止めを過ぎた先で道が二手に分かれています。 角には「かながわの景勝50選 弘法山」の石碑があります。 「弘法山公園」と題した案内図もありました。 以前には「弘法山公園案内図」もあったのですが、少し前からなくなっています。 「熊出没注意」の看板を見かけてドキッとしたりもしました。 周囲には関東ふれあいの道などの道標類が幾つか立っていて、 左手の道は「蓑毛」,「めんようの里・木里館」、 右手の道は「弘法山0.25km」,「弘法山公園0.3km」、 今来た道は「権現山0.6km」,「権現山・南平橋」,「弘法山公園 権現山0.5km」などとなっています。 今回は右手の道から弘法山へ登っていきます。
熊出没注意
この付近にクマの出没情報がありました。 クマに遭遇したら、刺激しないようにし、あわてずに静かに立ち去りましょう。 クマを目撃しましたら、下記に連絡をしてください。
 (神奈川県湘南地域県政総合センター環境調整課)
 (秦野警察署生活安全課、秦野市役所環境保全課)
弘法山公園鳥獣保護区区域図
この区域は鳥獣の捕獲が禁止されております。 鳥獣の保護にご協力をお願いします。
 (神奈川県)
マナーを守って楽しいハイキング!
★ゴミ捨て禁止 ★草花を大切に ★火気に注意
 (秦野市商工観光課)
車止めを過ぎて緩やかに登っていきます。 大きな石碑を過ぎて少し進んでいくと、坂道付きの階段と小尾根の上に続く道とに分かれています。 どちらの道を登っていっても良いのですが、今回は右側の小尾根に続く道を登っていきました。 所々にはベンチが設置されていたりもします。 階段とは付かず離れずに続いています。 下草が生い茂ることもなくて快適な道になっています。
弘法山 (標高235m)
階段のすぐ傍を登るになると、弘法山の山頂に着きました。 馬場道に出た所から8分ほどで到着しました。 登り着いた所には、時を知らせるために撞かれたという大きな鐘楼があって、 脇には真新しい「弘法山」の標識もありました。 また、関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」の解説板や里程標や、 秦野市出身の歌人・原久胤の歌碑も設置されています。 「野鳥の水飲場」という小さな池もありました。
弘法山の歴史
弘法山の名前は弘法大師(774〜835)がこの山頂で修業したことから名付けられたとの伝承があり、 権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある。 弘法山は麓の龍法寺と深い関わりを持ち、戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。 鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。 弘法山の鐘は、享保頃(1716〜35)に龍法寺5世無外梅師と行者の直心全国が発願し、 弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。 明和3年(1766)に山火事でひび割れ、 再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の松操智貞尼の尽力により 徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て享和元年(1801)5月に完成した。 鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。 現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである。
 (秦野市)
鐘楼
ハイカーの皆様へ。 この鐘は、時を知らせる鐘として、正午、3時、夕刻等につかれ、長い間地域の人達に親しまれておりました。 大切に扱うとともに、むやみに鐘をつくことは御遠慮下さい。
 (秦野市観光協会)
関東ふれあいの道
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里を見直してみませんか。
弘法大師と桜のみち  このみちは県内17コースのうち9番目のコースです。 秦野市南平橋から桜の名所権現山・弘法山へ、 旧矢倉沢街道を経て伊勢原市国道246号坪ノ内バス停までの全長9.4kmの道です。 なお、途中から鶴巻温泉や善波峠を経て高取山、浅間山へも行くことができます。
 (環境省、神奈川県)
鐘楼の前には「弘法の乳の水」という井戸もありました。 つるべがふたつ吊るされていますが、井戸は金網で塞がれていて使えません。 その替わりなのか、脇に手押し式のポンプが設置されています。 今でも使えるようになっていて、呼び水を差す必要もなく、 柄を2・3回ほど上下させるだけで簡単に水が出てきます。 頭がキーンとなるほど冷たくはありませんが、暑い夏場には嬉しい水です。
弘法の乳の水
この井戸は、昔から「弘法の乳の水」と呼ばれています。 この井戸から湧き出た水は、白くにごり、いつも乳の香りがしていたそうです。 いつの頃からか「真夜中に、誰にも知られずに山に登り、 乳の水を飲むと、乳がどくどくと出るようになる」と伝えられ、 この水をいただきに山に登る人が後を断たなかったと言われています。 いつの世も、子を持つ親の心は変わりません。 乳の出ない辛さにワラをもつかむ気持ちだったのでしょう。 その救いの神がこの白い井戸水でした。 なぜこんな山頂に不思議な白い水が・・・。 それは弘法さまのお力だと伝えられています。
 (秦野ラインズクラブ)
乳の井戸
山頂に白色の水の湧く古井戸がある。 これで粥を炊き食すれば乳が出るという信仰から「乳の水」と称して 昭和30年代初めまで授乳期の母親や妊婦が遠方からも水を求めてきた。 かつてはこの井戸の脇に二つの池があり、夏には太い柳の下で蛙が鳴き、 金魚の紅い色が水面に映じて美しく静かな時が流れていたが、 関東大震災の後に水涸れが起こり一つを埋めてそこに桜を植えた。
 (秦野市)
左手には釈迦堂があります。 この時には御開帳されていて、安置されている弘法大師像を見ることができました。 綺麗な花が飾られていて、丁寧に祀られているようでした。 大師堂とも呼ばれて、この南麓にある龍法寺の境外仏堂なのだそうです。
釈迦堂(しゃかんどう)
山頂には弘法大師の旧跡であることから、古くより福泉庵という堂があった。 江戸時代の中頃に龍法寺の僧馨岳永芳はこの荒廃を嘆き新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を祭って釈迦堂としたが、明和3年の火災で釈迦像が焼失し、石造であった弘法大師像はこの時から露座となった。堂の再建後は弘法大師の木造のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の台風で被害を被り長く仮堂であったが、昭和39年に現在の釈迦堂が完成した。
経塚  釈迦堂の後部には鎌倉時代後期の経塚があった。 経塚は経典を書写したものを埋納した仏教上の施設で、末法思想から生まれた。 日本では平安時代末期に出現し、藤原道長が金峰山に般若心経一巻他を埋納した事が知られている。 弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され当時は大甕の口縁部が露出した状態で、経石も散乱していた。
 口縁部が楕円形をし、長径68cm、深さ75cm、腹部から急に細くなっている。
経石 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石経、経題のみ大型石に記載されていた。
経筒 鋳銅製経筒の一部と見られる破片が出土、推定直径12cm。その他陶製の灯明皿が出土している。
 (秦野市)
弘法山の山頂は樹木に囲まれていて展望はあまり良くありませんが、東側が少し開けています。 遠くは霞んでいましたが、秦野の街並みの奥には江ノ島が浮かび、 その奥には鎌倉から逗子や葉山にかけての三浦半島も見えていました。 お昼にはまだ早い時刻でしたが、幾つか設置されているベンチに腰を掛けて昼食タイムにしました。
美化ボランティア推進運動 弘法山をきれいにする会
この公園は、わたしたちボランティアが美化・清掃等の活動を行っています。 美化ボランティア活動への協力と参加をお願いします。
 (秦野市)
かながわの探鳥地50選 弘法山公園
この付近で見られる主な野鳥
メジロ、シジュウカラ、ホオジロ、コジュケイ、エナガ、エゾビタキ、アオジ、コゲラ、イカル、キジバト
 (鳥もすめる環境都市 秦野市)
お腹も満ちたところで、弘法山から下山していきます。 南東側へ降っていく道もありますが、 釈迦堂の右奥に生えるタブノキとウラジロガシの大木の間を過ぎていくと左右に通る道に出ます。 右手は山頂の下を横切っていく道のようですが、左手へ進んでいきます。 すぐに大きなイチョウの木の脇からも道が降ってきていて、 その道を併せて山頂の北側に続く横木の階段を降っていきます。 降り口には道標がふたつ立っていて、 「聖峰4.6km・高取山4.0km」,「鶴巻温泉駅3.9km」,「吾妻山3.0km」,「弘法の里湯・宮永岳彦記念美術館3.8km」 となっています。 植林帯から雑木林へ入っていくと、木の根が張り出していたりもしますが、 道は広くて歩きやすくなっています。
タブノキ
一名イヌグス。クスノキ科タブノキ属
分布=本州〜沖縄,朝鮮半島,台湾,中国。 春の花芽が目立つ。
ウラジロガシ
ブナ科コナラ属
分布=本州〜九州,朝鮮半島。 葉の裏側が白いのでこの名前がある。 アラカシより耐寒性がある。
明るい雑木林の中を降っていくと、左手に戻るようにして分かれていく道があります。 弘法山の山頂から3分ほど降って来た所になります。 脇には道標が立っていて、正面の道は「鶴巻温泉駅3.7km」、今来た道は「弘法山0.2km」となっています。 左手の道は何も示されてはいませんが、「めんようの里」の脇の梅林へ続いています。 今回はこのまま正面の尾根道を進んでいきました。
(左手の道は「弘法山公園」を参照)
雑木林の尾根に続く広くて緩やかな道を進んでいきます。 少し降り坂になってくると、先ほどの分岐から2分ほどで分岐があります。 角に立つ道標によると、左手から来る道は「めんようの里」、今来た道は「弘法山」となっています。 左手の道は「めんようの里」の脇の梅林から続く道になります。 正面の道には何も示されてはいませんが、このまま正面の道を進んでいきます。
(左手の道は「弘法山公園」を参照)
展望地
青葉が茂る雑木林に続く広い尾根道を緩やかに降っていきます。 2分ほど降っていくと、左側に分かれていく踏み跡があります。 その数m先は樹木が切り払われた行き止まりになっていて、 丹沢から箱根にかけての山々を見渡せる眺めが広がる展望地になっていました。 矢倉岳と思われるお碗を伏せたような形をした山や、切り立った特徴的な姿をした金時山などが見えていたので、 天候に恵まれると富士山も見えそうでしたが、この時は生憎と雲が広がっていて見えませんでした。
めんようの里分岐
展望地を後にして尾根道を進んでいきます。 傾斜が増してきた道を降り始めると、左側には金網柵が続くようになります。 柵の向こう側は弘法山無線中継所があった敷地のようですが、 今では廃止になったのか、それらしい鉄塔などは見かけませんでした。 金網柵が途切れた先へ降っていくと、舗装路に降り立ちます。 脇に立つ真新しい道標によると、左手の道は「めんようの里」となっています。 また関東ふれあいの道の道標も立っていて、正面の道は「吾妻山へ」、 今来た道は「弘法山0.5km」となっています。 降り立った所から右手へ降っていく山道もあって、 「長坂を経て自興院に至る→」と書かれた標識が入口に立っています。 右手の道はさわやか農園を経て北矢名地区へ降っていけますが、 今回はこのすぐ先にある分岐から秦野国際乗馬クラブへと降っていきます。
(右手の道は「弘法山公園」を参照)
左右の道を見送って正面へ10mほど進んでいくと分岐があります。 弘法山から11分ほど降ってきた所になります。 角に立つ道標によると、正面の尾根道は「鶴巻3.4km・聖峰4.1km・高取山3.5km」、 左手へ降っていく坂道は「関東ふれあいの道 国道246号」、今来た道は「弘法山0.5km・権現山1.25km」となっています。 正面の道は、吾妻山や善波峠・念仏山方面へ続いていますが、 今回は関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」にもなっている左手の坂道を降っていきます。 左手の樹木越しには丹沢から箱根にかけての山々を望む眺めが広がっています。
秦野国際乗馬クラブ
正面から左手に広がる山並を眺めながら坂道を降っていきます。 3分ほど降っていくと、「弘法514」の標識が取り付けられた電柱の先に十字路があります。 左右の道は畑地へ続いているようなので、そのまま正面に続く坂道を降っていきます。 尾根から5分ほど降っていくと、左側に「遊々ひろば」があります。 その下には馬場が広がっていて、乗馬の練習をしている人も見かけました。 広場を過ぎたすぐの所に「秦野国際乗馬クラブ」と書かれた白い建物があって、 「秦野市馬術協会」や「町田市馬術連盟」の表札も掛けられていました。 その建物の右側に馬場へ入っていく道がありました。 入口や奥の方には馬が何頭も繋がれていて、体などを洗ってもらっていました。
乗馬のお誘い
誰にも馬には乗れるものです。 当クラブでは初心者にも安心して乗れる様、馬の調教をしてあり、最初から丁寧に指導員が見てくれて、 尚格安に体験乗馬が出来ます。 この機会に乗馬されたら如何でしょう?
乗馬料金 平日5,000円、土日祝6,000円
体験乗馬教室 平日コース18,000円、四回騎乗コース・土日祝コース20,000円 指導料込み
詳しくはご相談下さい。
乗馬クラブのサイロの先で、道が二手に分かれています。 角には石仏が佇んでいました。 正面には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左側の道は「国道246号」、 今来た道は「弘法山へ」となっています。 また、白地の案内標識もあって、左手の道は「国道246号へ」、 今来た道は「秦野駅へ」となっています。 右手の道を指す部分もあったようですが、この時には切り落とされるようにして無くなっていました。 僅かに残った文字「…経て…へ」からすると、書かれていたのは「善波隧道を経て矢倉沢往還へ」でしょうか、 それとも「善波峠を経て吾妻山へ」でしょうか。 関東ふれあいの道は左手の道になりますが、今回はここから右手に続く坂道を登っていきます。
かなり傾斜のある坂道を2分ほど登っていくと十字路があります。 角にはホテルが建っています。 脇には白地の案内標識があって、今来た道は「秦野駅へ」「国道246号へ」となっていました。 正面の坂道を指す道標もあって「高取山・善波峠」となっています。 左右の道を示す板はありませんでした。 正面の道は善波峠へ続いていて、そこから念仏山や高取山方面あるいは吾妻山へ行けますが、 今回はここから右手の道を善波隧道へと向かっていきます。
(正面の道は「弘法山公園」を参照)
善波隧道
民家風の教会を過ぎて、山を切り開いて造ったと思われる道を緩やかに登っていくと、善波隧道があります。 その上部は鞍部になっていて、善波峠の真下に位置しているようでした。 トンネルの入口には「善波隧道昭和三年三月成」と刻まれた銘板が掲げられています。 長さ150mほどのトンネルの内部はブロック積みになっていて真っ直ぐに続いています。 薄暗い内部には照明が点々と付けられているので、懐中電灯などがなくても歩いていけます。 少し離れた所に新たに新善波隧道が造られたこともあって、 今ではこの善波隧道を通っていく自動車は僅かしかありません。
この善波隧道が出来る昭和3年よりも前は、 秦野市名古木地区と伊勢原市善波地区の境に続くこの尾根を越えていくのには、 直上にある善波峠を通っていく矢倉沢往還が利用されていたようです。 現在では善波峠へ続く道は秦野市側だけにあって、伊勢原市側には残っていません。 往時の矢倉沢往還のルートはよく分かりませんが、 この善波隧道へ通じる道を造るための掘削作業のために、 ルート変更を余儀なくされたり消えていったりしたのかも知れません。
国道246号
善波隧道を抜けて、両側にホテルが建ち並ぶ道を降っていくと国道246号に出ます。 旧道は国道を横切って斜め前へ続いていますが、右折して国道沿いの歩道を進んでいきます。 伊勢原方面の街並みを正面に眺めながら自動車用品店の前まで来ると、 右手に戻るようにして分れていく道があります。 秦野国際乗馬クラブから15分ほどの所になります。 こちら側からだと柵などに隠れて分かり難くなっていますが、角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、 右手の道は「矢倉沢道」、今来た道は「弘法山」となっています。 以前には見かけませんでしたが、 今回はこの付近の地図を描いた板が取り付けられていました。 それによると「110m先分岐注意」となっています。 ここは道標に従って、右手へ戻るように続く土の道を降っていきます。
矢倉沢往還分岐
小型車なら通っていける幅のある道を降っていくと、すぐに背丈の低い夏草が生い茂る鞍部に着きます。 小さな畑の脇を過ぎていくと細い竹の林に入っていきます。 軽く登って左手へ曲がっていくと道が二手に分かれています。 広めの道は左へ曲がっていきますが、細めの道が右手へ登っていきます。 辺りには道標類が見当たらず、どちらへ行けば良いのか迷う所ですが、ここが先ほどの地図にあった分岐になります。 右手の道の先には送電線の鉄塔「鶴巻線2」が見えていて、矢倉沢往還へ続いています。 先ほどの地図では「×」印が描かれていましたが、今回は自動車の轍がある左手の道を進んでいきます。
(右手の道は(「弘法大師と桜のみち」, 「弘法山公園」を参照)
両側に細い竹が生い茂る道を進んでいきます。 引き続き小型車なら通っていけるだけの幅があります。 小さく右・左と曲がりながら坂道を降っていくと、 先ほどの分岐から2分半ほどの所に僅かな沢があります。 手元の地図によると、善波川の源流のひとつになるようです。 沢に架かるコンクリート橋を渡っていくと、右側には草地が広がっていました。 ここにも「熊出没注意」の看板が出ていました。 蔓性の草が生い茂る所を過ぎていった先にも草地がありました。 以前には畑だったのか田んぼだったのかは分かりませんが、今ではあまり使われていない空間のようでした。
善波川は、善波峠に水源をもつ約3.6kmの河川です。 伊勢原西部の田畑をうるおして、平塚市真田境で大根川に合流し、金目川水系流域の一部を形成しています。
 (出典:金目川水系せせらぎ通信Vol.4)
少し登り坂になってくると、左側の土手から降ってくる道が合流してきます。 その道を併せて先へ進んでいくと、右側には畑地が続くようになります。 道もしっかりとしてきて快適になってきます。
程なくして左側にブロック塀が続くようになると民家が見られるようになります。 民家から降ってくる道を併せて舗装路になってくると、右手に分かれていく道があります。 角には道標が立っていて、右手の道は「太郎の郷さんぽ 矢倉沢往還」となっています。 ここは浅い谷筋になっていて、矢倉沢往還は谷の南側の山際に続いています。 ここはこのまま正面の道を進んでいきます。 登りになってきた坂の上まで来ると左手から道が合流してきます。 その道を併せて坂を降っていくと、再び右手へ道が分かれています。 そこにも「太郎の郷さんぽ 矢倉沢往還」の道標が立っていますが、そのまま真っ直ぐに進んでいきます。
太郎の郷さんぽ
金目川水系流域ネットワーク世話人会の発行する「せせらぎ通信Vol.4」(2002年12月10日発行)に、 「太郎の郷さんぽ道中記」が特集されています。 その記事の中で、「金目川水系流域ウォーキング」として「太郎の郷」さんぽマップが載っています。
善波太郎にまつわる伝説
時は平安時代末期、この地善波に善波太郎という人がおりました。 太郎の家はこの辺きっての豪族でしたが、使用人の「ちこめ」と恋仲になり、 そのことが父の怒りにふれ、故郷をすてなければならなくなりました。 太郎は身重な「ちこめ」を連れて旅立ちましたが、その途中にわかに産気づきかわいい男の子が生まれました。 その子に松若という名前を付けましたが母子共に相次いで亡くなってしまいました。 太郎は坂東(関東のこと)諸寺を巡礼し、再び帰ってきましたが、 父母は太郎を捜しに旅に出た途中で相次いで病に倒れ亡くなり、家はすでに家臣の仲光・俊光兄弟に奪われており、 太郎は身売りをされてしまいました。 めぐりめぐって紀州熊野新宮の六太兵衛の家に売られていきましたが、 六太兵衛は太郎の人品卑しからざるを見、その力を試そうとして、 「この裏山に入って猪と雉を捕ってきなさい」と命じました。 その山中に相模国阿夫利山の石尊権現と天狗が現れ、 太郎への助刀を付け猿と雉となって六太兵衛のもとに行きました。 六太兵衛はえらく驚き、太郎のふしぎな力に感じいり、その娘竹美姫と結婚させました。 その後、太郎は石尊権現より授かった雷電落・至端の二太刀と共に、 諸神の庇護のもと、七百余騎をもって逆臣仲光・俊光兄弟を討ち取りました。
 (出典:金目川水系せせらぎ通信Vol.4,「善波八幡社縁起」より要約)
国道246号の北側にある三嶋神社は善波氏の館跡で、善波氏に関する石碑や略史を記した解説板などがあります。 (「高取山」を参照)
道なりに右へ曲がっていくと、小川の上を通過していきます。 小川を渡ったり渡り返したりしながら進んでいきます。 左へ曲がりながら登るようになると、その角から右へ降っていく道が分かれていきます。 そのまま左へ曲がりながら続く道を登っていくと国道に出てしまうので、今回は右手の道を降っていきました。 傾斜が緩やかになってくると、道が二手に分かれていました。 角には「地神墓」と刻まれた石碑などが並んでいました。 右手の道の先には青々とした田んぼが広がっていたので、ここでも右手の道を進んでいきました。
右手には小川が流れ、左手には田んぼが続く道を進んでいくと、 程なくして右手の川を渡っていく道が分かれていきます。 道標類は見かけませんでしたが、木板の橋の先に続く山道は矢倉沢往還に出られるのでしょうか。 所々に砂防ダムがある小川沿いに進んでいくと、右手の小川に鉄製の細い橋が架かっています。 道端には道標が立っていて、右手の橋は「太郎の郷さんぽ 矢倉沢往還」、 左手に曲がっていく道は「太郎の郷さんぽ 三嶋神社」となっています。 袂には石祠や馬頭観世音の石碑もありました。 右手の橋の先には山道が見えていましたが、 ここでも矢倉沢往還への道は見送って左手へ曲がっていく道を進んでいきました。
田んぼが終わって畑地の中を横切るようにして続く道を進んでいくと、程なくして登り坂になってきます。 左右に建つ民家を過ぎて坂を越えて降るようになると国道246号に出ました。 その出口にも道標が立っていて、今来た道は「太郎の郷さんぽ 矢倉沢往還」となっていました。 道路向かいに道が二俣に分かれている所があって、 そこにも「太郎の郷さんぽ 勝興寺」の道標が立っていましたが、 今回は国道沿いの歩道を右手へと進んでいきました。
善波児童館
1分も行かない所に、国道から右手へ分かれていく道があるので、その道に入っていきます。 伊勢原市消防団第4分団第4部の車庫の所まで来ると、その隣りに善波児童館がありました。 その横には滑り台・ブランコ・鉄棒などが設置された広場がありますが、 この時には「善波納涼盆踊り」の準備が進められていました。 道路の脇には「神代杉」の解説板がありましたが、 解説板の傍にはそれらしいものはなく、善波川の河床にあるようでした。
後日に神代杉を訪ねました。(「弘法山公園」を参照)
伊勢原市指定天然記念物 神代杉(うもれ木)
神代杉は、今から10万〜1万年ほど前の洪積世(氷河時代)の後半頃に、 この周辺に自生していた杉が洪水や崩落などの自然災害により倒伏し、 赤土(関東ローム層)に埋没したものと考えられます。 有機質が少なく、帯水性のある土に覆われていたことにより、永い年月を経ても腐朽せずに、 その後の渓流によって赤土層が洗われて露出したものです。 詳細な年代は不明ですが、考古学でいう旧石器時代に相当するといわれています。 この付近の善波川河床に見ることができます。
 (伊勢原市教育委員会)
太郎のちから石
善波児童館を過ぎて坂道を緩やかに登っていくと、国道246号の善波交差点に出ました。 国道沿いの歩道を右手へ進んでいくと、畑の脇に巨大な柿の木がありました。 傍には「この柿の木は並木436番」の標識が立っていました。 そこを過ぎていくと、国道から分かれて右手へ降っていく道があります。 入口には道標「太郎の郷さんぽ 矢倉沢往還」が立っていて、その道を指しています。 道標に従って右手の道を降っていきます。 道端に佇む石仏を過ぎて、右手の民家からの道を併せていきます。 右手に曲がり始める所まで来ると、善波川に小さな陸間橋が架かっています。 その手前の際に「太郎のちから石」があります。
太郎のちから石
この石の上部にある二本の筋状の部分は、善波太郎が下駄で力踏した時の跡と言い伝えられています。
 (太郎の郷づくり協議会)
矢倉沢往還
橋を渡って坂道を登っていくと左右に通る道に出ます。 角には道標が立っていて、右手の道は「太郎の郷さんぽ 矢倉沢往還」、 今来た道は「太郎の郷さんぽ 太郎のちから石」となっています。 往時の雰囲気が残る矢倉沢往還は、 先ほどの送電線の鉄塔「鶴巻線2」が立つ分岐の先からここまで続いています。 以前に矢倉沢往還を歩いた時に見かけた解説文を参考までに載せておきます。 左折して少し進んだ所にT字路があって、 脇のブロック塀を刳り貫いた所に、赤い頭巾と前掛けをしたお地蔵さんが二体佇んでいました。 脇には「愛鶏供養塔」と刻まれた石碑があり、上の桟には鹿やアヒルの置物もありました。
矢倉沢往還
この道は奈良時代に開かれ、箱根越えの東海道が出来るまで官道の役割をしていました。 江戸時代には裏街道として賑わい、伊豆・沼津から足柄・秦野・伊勢原・厚木・荏田を経て、 日常生活に必要な炭・わさび・干し魚・茶、それに秦野のたばこなどが馬の背で江戸へ運ばれ、 人々に矢倉沢往還(矢倉沢街道)と親しまれていました。 また、大山・阿夫利神社に詣る道ということから大山街道の名でも親しまれていました。
 (環境省、神奈川県)
坪ノ内(つぼのうち)バス停
右手の道を見送って正面へ進んでいくと、善波川に架かる善波橋を渡っていきます。 登り坂になってきた道を進んでいくと十字路に出ます。 そこを左折した先に坪ノ内バス停があります。 善波隧道を抜けて国道246号と分かれて谷筋の道に入ってから37分ほどで到着しました。
手前の乗り場からは伊勢原駅(小田急小田原線)までの便が、 道路向かいの乗り場からは鶴巻温泉駅(小田急小田原線)までの便があります。 両方の乗り場とも、朝方と夕方には1時間に2本程度、日中には1時間に1本程度の便があります。 各乗り場の時刻は30分ほどずらして設定されているので、どちらの駅でも良ければ、 日中でも1時間に2本程度の便が利用できます。
【伊勢原駅北口行き】
 土日曜 ...12:47 13:47 14:47 15:47 16:47 17:40 18:10 18:40...
【鶴巻温泉駅行き】
 土日曜 ...12:18 13:18 14:18 15:18 16:18 17:18 17:48 18:18 18:40...