称名寺市民の森
散策:2011年06月中旬
【横浜市民の森】 称名寺市民の森
概 要 称名寺市民の森は東京湾に近い所にあり、称名寺を取り囲む日向山・稲荷山・金沢山に広がる森です。 山頂にある八角堂広場からは、八景島や野島などを見渡せる眺めが広がります。 金沢文庫とも隣接していて見どころの多い森です。 今回は称名寺市民の森を訪ねてから、赤門通りや金沢歴史の道を経て金沢八景駅へ向かっていきます。
起 点 横浜市 金沢文庫駅
終 点 横浜市 金沢八景駅
ルート 金沢文庫駅…称名寺市民の森…台の広場…八角堂広場…稲荷山休憩所…北條實時公御廟…草地…登り口…北條實時公御廟…八角堂広場…観音広場…百観音…称名寺庭園…金沢文庫…光明院…大宝院…薬王院…八幡神社…町屋神社…安立寺…龍華寺…洲崎神社…洲崎広場…瀬戸神社…金沢八景駅
所要時間 3時間30分
歩いて... 雲が広がってはいたものの、八角堂広場からは対岸の房総半島までも見える眺めが広がっていました。 以前に来た時には通行止めだった八角堂広場から北條實時公御廟へ続く尾根道は歩けるようになっていました。
関連メモ 金沢八景, 称名寺市民の森, 野島公園
コース紹介
金沢文庫(かなざわぶんこ)駅
金沢文庫駅(京浜急行本線)から歩いていきます。
改札口を出て東口へ向かっていくと、階段の手前に「金沢文庫駅メディアマップ」があります。 これから向かう称名寺市民の森への道が載っているので参考にしましょう。 (今回歩いた道を赤い点線で示しておきました) 東口の階段を降りて真っ直ぐ進んでいくと、 突き当たりに「潮香る金沢 海のまち 金沢区総合案内サイン」があって、 今回歩く称名寺市民の森から金沢八景駅にかけての地図が載っているので、併せて参考にしましょう。 その中に「名所・旧跡案内」として簡単な解説文が載っていました。 今回歩くコースに関連のある所を抜粋しておきます。
潮香る金沢 海のまち 金沢区総合案内サイン 名所・旧跡案内
称名寺(Shomyoji Temple)   称名寺は鎌倉時代に北条実時が六浦荘金沢に創建した、金沢北条氏一門の菩提寺です。 金堂には実時の発願によって造られた弥勒菩薩像を安置しています。 朱塗りの反橋と平橋が美しい、阿字ヶ池を中心とした浄土庭園「称名寺境内」は国指定の史跡であり、 春は桜、秋は紅葉と景観が美しく区民の憩いの場です。 歌川広重が描いた金沢八景の一つ「称名晩鐘」はここ称名寺の鐘楼のことです。 裏手の山は「称名寺市民の森」として1時間程度で回れるハイキングコースで、 山頂には眺めのいい八角堂や、実時の墓などがあります。
神奈川県立金沢文庫(Kanazawa Bunko Museum)   鎌倉時代の中頃、北条実時が金沢の邸宅内に作った金沢文庫は、現存する日本最古の武家文庫です。 蔵書は政治・文学・歴史など多岐にわたります。 鎌倉幕府の滅亡後、金沢北条氏の菩提寺である称名寺が金沢文庫を引き継ぎました。 現在、金沢文庫ばかりではなく称名寺に伝わる多数の古書、古文書、美術工芸品を保管し、 企画展示する中世歴史博物館として活躍しています。
金沢歴史の道(Kanazawa Historic Road)   称名寺の参道である旧金沢美智沿いには、史跡・仏閣など歴史的資産が残されています。 これらを結びつける街路整備が「金沢歴史の道」で、昭和60年(1985)に完成しました。 行灯をモチーフとした街路照明などが配置されています。 街道始点の洲崎広場にある「憲法早創の碑」は、明治20年、 伊藤博文、伊藤己代治、金子堅太郎らが料亭東屋において明治憲法制定のため草案を起草したものです。 東屋の廃業により、一時野島に移設されましたが、歴史の道整備に併せて、再び洲崎の地に設置されました。
右へ曲がりながら進んでいくと、国道16号の金沢文庫駅前交差点に出ます。 そこを左折して右手から来る道を併せていくと金沢文庫交番前交差点があります。 そこを右折して、登り坂になってきた道を進んでいきます。 右へ曲がりながら続く坂道を登っていくと、逆K字路があります。 角には城山自治会の掲示板があります。 真っ直ぐに進んでいくと少し遠回りになりそうだったので、左前方に続く坂道へ入っていきました。 十字路を過ぎて緩やかになった住宅地の道を進んでいくと、突き当たりにT字路があります。 そこを右折した少し先にあるT字路を左折して坂道を更に登っていくと、正面に森が見えていきます。 ここから称名寺市民の森へ登っていきます。
称名寺市民の森
幅の広い石段を登っていきます。 右手には薬王寺の墓地が続いていました。 石段を登り終えると、山道が左右に分れていますが、左手へ曲がっていきます。 すぐにガードレール沿いに降っていく細い道と、登っていく横木の階段とに分れていますが、 右側の横木の階段を登っていきます。 登り始めると、すぐに標柱が立っています。 文字は殆ど消えかかっていましたが「称名寺市民の森入口」と書かれているようでした。 標柱のすぐ先には道標が立っていて、この先の道は「金沢山(八角堂広場)・実時御廟方面」、 今来た道は「金沢文庫駅方面」となっています。
台の広場
1分もかからずに横木の階段を登り終えると台の広場に着きます。 その手前から右側を巻くようにして散策路「台の通り」が分れていますが、そのまま広場へ入っていきました。 入口には「称名寺市民の森案内図」があります。 この先にかけても何箇所かに同じような案内板が設置されていて、分かり易くなっています。 草地になった広場にはベンチが幾つか設置されています。 周囲は樹木に囲まれていて展望は得られませんが、静かなひとときを過ごせそうな所です。
案内図を眺めながら『どの順序で巡ろうか』と考えてみても、一筆書きのようにはいきません。 以前に来た時とは出来る限り歩く方向を逆にしようと思いながら順序を考えてみますが、 どうしても同じ道を二度は歩かないといけません。 今回は、八角堂広場から北条実時公御廟まで尾根を歩いて谷筋へ降り、 そこから日向山通りを登り、再び北条実時公御廟を経て八角堂広場まで戻って来て、 称名寺へ降るルートに決めて歩き始めました。
称名寺市民の森案内図
利用上のお願い
1.利用時間を守って下さい。
   1).市民の森内 日の出から日没まで
   2).称名寺境内  午前7時から午後5時まで
2.火気に注意して下さい。
   称名寺は国の重要文化財に指定されていますので火気に十分注意して下さい。
3.ゴミは持ち帰って下さい。
 (横浜市、称名寺市民の森愛護会)
台の広場の先へ進んでいくと、雑木林に入っていきます。 途切れながら続く横木の階段を降っていくと、手前で分かれてきた「台の通り」に出ます。 脇には標柱が立っていて、進行方向・左方向・逆方向の面に「右」「左」「直」と添えられた道標になっていました。 進行方向の面には「直 八角堂広場」、左手の面には「左 台の広場」「右 八角堂広場」、 逆方向の面には「左 出口・京急金沢文庫駅方面」「右 台の広場」となっています。 すなわち、正面の道は「八角堂広場」、右手から合流していくる道は「出口、京急金沢文庫駅方面」、 今来た道は「台の広場」ということのようですが、 方向別に板を取り付けた普通の道標にした方が分かり易いと思いました。 ここは「直 八角堂広場」に従って、正面の道を進んでいきます。
(写真は振り返って写したものです)
広くて緩やかな道を1分ほど進んでいくと分岐があります。 角には道標が立っていて、右手の道は「金沢町・金沢文庫駅方面」、正面の道は「八角堂広場」、 今来た道は「台の広場・金沢文庫駅方面」となっています。 先ほどと同様の標柱も立っていて、進行方向の面には「直 八角堂広場」「右 寺前町」、 左手の面には「左 台の広場」「右 八角堂広場」、逆方向の面には「直 台の広場」「左 寺前町」となっています。 右手の道は金沢町へ降りて行けますが、ここは正面の道を進んでいきます。
右手の道
試しに右手の道も歩いてみました。 擬木の柵が設置された広くて緩やかな道を1分ほど進んでいくと、左手に分れていく道があります。 正面に続く道は、岩盤が露出した所を過ぎてコンクリート打ちされた縦杭の階段を降っていくと、 1分半ほどで住宅地に降り立ちます。 左手の道は、幅の広い横木の階段を曲がりながら降り、アジサイの咲く道を進んでいくと、 2分ほどで金沢町公園に降り立ちます。 その道路向かいには金沢文庫があります。 (これに要した時間は所要時間に含めず)
正面の尾根へ登り始めると、すぐに踏み跡が左手に分れていました。 行く末を確かめたくもありましたが今回は省略して、正面の尾根へ続く細くなった山道を登っていきました。 1分もせずに横木の階段を登るようになります。 横木には天板が添えられていて、抉れて歩き難くなることもなく快適に登っていけました。 案内図によると、この辺りは「行田の通り」というようです。
八角堂広場
右・左と曲がりながら階段を3分ほど登っていくと高みに着きました。 「台の広場」から7分ほどで着きました。 出た所には四角いコンクリートの基礎の上に背の低い石祠がありました。 脇には道標があって、右手の道は「称名寺庭園」、今来た道は「台の広場・金沢文庫駅方面」となっています。 石祠のある一角を右手から回り込んでいくと、基礎の上に八角形のお堂がありました。 ここが八角堂広場になるようです。 称名寺で見かけた解説板の地図によると、この高みは「金沢山」というようです。 周囲には水路が巡らされていました。 中には緑色に塗られた壁と白い天井があるばかりで、他に何もありませんでした。
八角堂の前は、ベンチが幾つか設置された広場になっています。 ここにも「称名寺市民の森案内図」がありますが、 「現在地」が異なる他は、「台の広場」にあったのと同じ内容になっています。 眼下には称名寺を、その奥には金沢の街や海を見渡せる素晴しい眺めが広がっていました。 八景島や野島も良く見えていました。 曇り空ながら、対岸の房総半島もくっきりと見えていました。 写真を撮ったりしながら、暫く眺めを楽しんでいきました。
八角堂広場からは道が二手に分れています。 称名寺へ降っていく道は後程歩くとして、 先ずは道標「稲荷山休憩所」に従って、正面に続く尾根を進んでいきます。 擬木の手摺が設置された横木の階段混じりの道を降っていきます。 少し進んでいくと、右・左と曲がりながら降るようになります。 谷側には引き続き手摺が設置されていて安全になっていました。 八角堂広場から4分ほど降っていくと、鉄板が渡された所があります。 谷側には斜めになった柵が設置されていました。 道が崩落したための工事だと思われます。 歩くとボコボコと音がして、何だか心配になったりもしました。 鉄板を渡り終えて大木を掠めていくと道標が立っていて、 正面の道は「稲荷山休憩所」、今来た道は「八角堂広場」となっていました。 案内図によると、この辺りは「稲荷山通り」というようです。
稲荷山休憩所
再び擬木の手摺が設置されるようになった横木の階段混じりの道を登り気味に進んでいきます。 少し尾根が広がって来ると、岩盤が剥き出した所を過ぎた所で高みに着きます。 ベンチが幾つか設置されて小広くなった稲荷山休憩所になります。 称名寺で見かけた解説板の地図によると、この高みは「稲荷山」というようです。 八角堂広場から7分ほどで着きました。 北側が開けていて街並みなどを見渡せますが、手前の樹木が邪魔をしているのが難点ではあります。
北條實時公御廟
幅の広い横木の階段混じりの道を右・左と曲がりながら降ってきます。 谷筋の斜面を降って大木の脇を過ぎて緩やかになった道を進んでいくと、玉垣で囲まれた所に出ます。 稲荷山休憩所から2分ほどで着きました。 中ほどにある石段の先の鉄柵の横に立つ石柱には「北條實時公御廟」と刻まれていて、 脇には「北条実時の墓」と題した解説板がありました。 玉垣の中には、鉄柵の正面にある4段の礎石に乗った石祠が実時公の墓だと思われます。 左側に3基、右側に2基と、五輪塔のような墓石が並んでいましたが、一門の墓になるようです。 称名寺で見かけた解説板の地図によると、この辺りは日向山というようです。
金沢北条一門の墓 北条実時の墓
北条実時(1224〜1276)は、鎌倉幕府の第二代執権であった義時の孫で、 貞応3年に実泰の子として生れました。 実時は、引付衆や評定衆など幕府の要職を歴任し、文永3年(1275)には越訴奉行をつとめています。 政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力をつくし、文武ともにすぐれた知識人で、 現在の称名寺がある地に別業を開き、金沢文庫の礎を築きました。 墓地中央の宝篋印塔は、実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔は一門の墓といわれています。 また、江戸時代この墓地を修理したときは、素焼きの壺の額が出土したといいます。
 (横浜市教育委員会)
ここで道が二手に分れています。 石段の袂に道標が立っていて、右手に降っていく縦杭の階段は「称名寺庭園」、 今来た道は「稲荷山休憩所」となっています。 正面にも緩やかな道が続いていますが、道標には何も示されていません。 正面の道は尾根を経ていく「日向山通り」になりますが、先ずは右手の階段を降っていきました。
草地
コンクリート打ちされた縦杭の階段を降っていくと、程なくして緩やかな道になります。 広めでしっかりとした道が谷筋に続いていて、御廟の参道としてよく整備されています。 再び現れる縦杭の階段を降ってその先へ進んでいくと、次第に山際を進むようになります。 擬木の手摺が設置されるようになると道幅が狭まって来て、普通の山道のようになってきます。 これまでの広い道はどうしたのだろうと思いますが、往時には谷筋を真っ直ぐに降るようになっていたのでしょうか。 右手に浅い谷筋を眺めながら山際を降っていくと、御廟から3分ほどで広い草地に降り立ちました。 ここから再び道幅が広がってきます。 左側には草地が広がり、右側には池のような水溜まりがありました。 街中にあるとは思えないほどの自然が残された所です。 水溜まりではカモが一羽泳いでいました。
登り口
道なりに進んでいくと、細い水路が直角に曲がっている所に出ます。 右手にも谷筋が続いていて、奥には称名寺の歴代住職の墓があるようですが、 道はそこで行き止まりになっているようです。 今回は正面に続く生垣沿いの道を進んでいきました。 称名寺の境内へ入って行ける所を見送っていくと、車止めの先が住宅地になります。 そこから左手に分れていく路地へ入っていきます。 コンクリート塀と民家の間に続く路地を山際まで進んでいくと、 横木の階段が始まる所に「称名寺市民の森案内図」があります。 「現在地」以外はこれまでに見かけたのと同じ内容でした。 ここから日向山通りの尾根を通って、先ほどの北条実時御廟へ向かっていきます。
天板が設置されて歩きやすい横木の階段を右・左と曲がりながら登っていきます。 2分ほど登っていくと小広くなった高みに着きます。 高みには特に何もなく見晴しも得られません。 擬木の手摺が設置された道が、その左手を掠めるようにして降っていきます。 暫くは尾根の左斜面に沿って、僅かな登り降りを繰り返すようにして道が続いています。 高みから1分半ほど進んで手摺が途切れると、 右へ曲がっていく角から高みへ登っていく踏み跡が分れていますが、その先で不明瞭になっていました。 元の道に戻って青葉が茂る雑木林の尾根道を進んでいくと、 今来た道を指す「金沢文庫駅方面」の道標が立っていましたが、この先の道を指す板はありませんでした。
横木の階段混じりの尾根道を登ったり降ったりしながら進んでいくと、 先ほどの道標から4分半ほど行った所に「稲荷山休憩所」の道標が立っていて、この先の道を指していました。 離れた所にありますが、先ほどの道標と対ということでしょうか。 どうせなら同じ所に設置しておいた方が分かり易いのにと思ったりしました。 擬木の手摺が設置された横木の階段を登り始めると、木板が敷かれた所がありました。 道が崩落したための処置なのでしょうか。 案内板のあった登り口から12分ほどの所になります。 前後関係からすると、ここが案内図に載っている「日向山デッキ」になるようです。 案内図ではこの辺りに「日向山」と書かれているし、この先は降り坂になっているので、 日向山とはこの高みを指すのでしょうか。
北條實時公御廟
少し降って登り返していくと、右手に続く生垣のような樹木の先には住宅地がすぐそこまで迫ってきていました。 広くて緩やかになった尾根道を進んでいきます。 1分ほどして少し降り始めると左手へ曲がっていきます。 浅い谷筋を横切って横木の階段をひと登りしてその先へ進んでいくと、 先ほどの北條實時公御廟に戻ってきました。 案内板のあった登り口から16分ほどで登って来られました。 ここから八角堂広場まで、元来た道を引き返していきます。
八角堂広場
谷筋の斜面を登って稲荷山休憩所に着き、そこから降っていきます。 鉄板が渡された所を過ぎて横木の階段を右・左と曲がりながら登っていくと、 北條實時公御廟から9分ほどで、八角堂広場に戻って来られました。 ここから八角堂の南側に続く道を降っていきます。 入口には道標「称名寺庭園」が立っていて、樹木の間に続く道を指しています。
樹木の間を抜けていくと、すぐに幅の広い横木の階段を降るようになります。 これまでと同様に天板が取り付けられていて歩き易くなっていました。 右・左と曲がりながら2分半ほど降っていくと緩やかな尾根道になります。 案内図によると、この辺りは「観音通り」というようです。 その先へ進んでいくと、右手へ分れて降っていく道があります。 手前には道標だったと思われる柱が立っていますが、板は無くなっていました。 「通行禁止」を意味するのか、右手の道の入口には擬木の柵が設置されていました。 称名寺庭園の西側にある北条顕時・貞顕公御廟の脇へ降りて行かれる道ですが、 このまま正面の尾根道を進んでいきます。
観音広場
緩やかな尾根道の先の横木の階段をひと登りして小高い所に着くと、石仏などが幾つか並んでいました。 ここが案内図に載っている観音広場になるようです。 中ほどには高い台座に乗った観音像がありました。 布で包んだ赤ちゃんを膝に抱いて優しい表情をしていました。 奥には「西国第廿一番」と刻まれた石仏や座禅姿の石仏がありました。 左手には五輪塔や墓石があり、綺麗な花束が手向けられていました。 広場の先の石段を降っていくと、右側には「経塚」、左側には「海中出現観世音」と刻まれた石柱がありましたが、 この高みにある観音像のことなのでしょうか。
百観音
石段を更に降っていくと、道端に石仏が並んでいます。 案内図によると百観音というようです。 最初にあるのは西国三十三霊場の観音群で、 台座の上に角柱を立てたような形をしていて、角柱には浮き彫りの像がありました。 側面にはお寺の名前や御詠歌なども刻まれているようでしたが、達筆過ぎて、無学の私には読めませんでした。 「西国第一番」から「西国第三十三番」までが整然と並んでいましが、 第十四番・第十五番・第十七番・第廿一番は見かけませんでした。 所定の位置は空いていたし、第廿一番は先ほどの観音広場にあったことを考えると、 以前にはここにあったものを何かの理由で他の場所へ移したように思われます。 その代わりという訳でもないのでしょうが、「坂東第十二番」というのがひとつだけ混じっていました。 何か意味があるのか、第一番・第五番・第七番・第廿二番は他のものより大きくなっていました。
西国三十三霊場
西国第一番青岸渡寺如意輪観世音菩薩和歌山県東弁婁郡那智勝浦町
西国第二番紀三井寺十一面観世音菩薩和歌山市
西国第三番粉河寺千手千眼観世音菩薩和歌山県那賀郡粉河町
西国第四番槙尾寺千手千眼観世音菩薩大阪府和泉市
西国第五番葛井寺十一面千手千眼観世音菩薩大阪府藤井寺市
西国第六番壷坂寺千手千眼観世音菩薩奈良県高市郡高取町
西国第七番岡寺如意輪観世音菩薩奈良県高市郡明日香村
西国第八番長谷寺十一面観世音菩薩奈良県桜井市
西国第九番南円堂不空羂索観世音菩薩奈良県奈良市
西国第十番三室戸寺千手観世音菩薩京都府宇治市
西国第十一番上醍醐寺准胝観世音菩薩京都府京都市伏見区
西国第十二番岩間寺千手観世音菩薩滋賀県大津市
西国第十三番石山寺二臂如意輪観世音菩薩滋賀県大津市
西国第十四番三井寺如意輪観世音菩薩滋賀県大津市
西国第十五番観音寺十一面観世音菩薩京都府京都市山科区
西国第十六番清水寺十一面千手千眼観世音菩薩京都府京都市東山区
西国第十七番六波羅蜜寺十一面観世音菩薩京都府京都市東山区
西国第十八番六角堂如意輪観世音菩薩京都府京都市中京区
西国第十九番革堂千手観世音菩薩京都府京都市中京区
西国第二十番善峰寺千手観世音菩薩京都府京都市西京区
西国第二十一番穴太寺聖観世音菩薩京都府亀岡市
西国第二十二番総持寺千手観世音菩薩大阪府茨木市
西国第二十三番勝尾寺十一面千手千眼観世音菩薩大阪府箕面市
西国第二十四番中山寺十一面観世音菩薩兵庫県宝塚市
西国第二十五番清水寺十一面千手観世音菩薩兵庫県加東郡社町
西国第二十六番一乗寺聖観世音菩薩兵庫県加西市
西国第二十七番円教寺二臂如意輪観世音菩薩兵庫県姫路市
西国第二十八番成相寺聖観世音菩薩京都府宮津市
西国第二十九番松尾寺馬頭観世音菩薩京都府舞鶴市
西国第三十番宝厳寺千手千眼観世音菩薩滋賀県東浅井郡びわ町
西国第三十一番長命寺千手十一面聖観世音菩薩三尊一体滋賀県近江八幡市
西国第三十二番観音正寺千手千眼観世音菩薩滋賀県蒲生郡安土町
西国第三十三番華厳寺十一面観世音菩薩岐阜県揖斐郡谷汲村
石段を更に降って踊り場に着くと、左側に石仏が並んでいました。 ここのは坂東三十三霊場の観音群になるようで、 先ほどと同様の形をした「坂東第一番」から「坂東第三十三番」までが整然と並んでいました。 第十二番はここにはなくて、先ほどの西国三十三霊場の観音群に混じっていました。 ここでは、第一番・第十八番が他のものより大きくなっていました。
坂東三十三霊場
坂東第一番杉本寺十一面観世音菩薩神奈川県鎌倉市
坂東第二番岩殿寺十一面観世音菩薩神奈川県逗子市
坂東第三番安養院千手観世音菩薩神奈川県鎌倉市
坂東第四番長谷寺十一面観世音菩薩神奈川県鎌倉市
坂東第五番勝福寺十一面観世音菩薩神奈川県小田原市
坂東第六番長谷寺十一面観世音菩薩神奈川県厚木市
坂東第七番光明寺聖観世音菩薩神奈川県平塚市
坂東第八番星谷寺聖観世音菩薩神奈川県平塚市
坂東第九番慈光寺千手千眼観世音菩薩埼玉県比企郡都川村
坂東第十番正法寺千手観世音菩薩埼玉県東松山市
坂東第十一番安楽寺聖観世音菩薩埼玉県比企郡吉見町
坂東第十二番慈恩寺千手観世音菩薩埼玉県岩槻市
坂東第十三番浅草寺聖観世音菩薩東京都台東区浅草
坂東第十四番弘明寺十一面観世音菩薩神奈川県横浜市南区
坂東第十五番長谷寺十一面観世音菩薩群馬県群馬郡榛名町
坂東第十六番水澤寺千手観世音菩薩群馬県北群馬郡伊香保町
坂東第十七番満願寺千手観世音菩薩栃木県栃木市
坂東第十八番中禅寺千手観世音菩薩栃木県日光市
坂東第十九番大谷寺千手観世音菩薩栃木県宇都宮市
坂東第二十番西明寺十一面観世音菩薩栃木県芳賀郡益子町
坂東第二十一番日輪寺十一面観世音菩薩茨城県常陸太田市
坂東第二十二番佐竹寺十一面観世音菩薩茨城県常陸太田市
坂東第二十三番観世音寺千手観世音菩薩茨城県笠間市
坂東第二十四番楽法寺延命観世音菩薩茨城県真壁郡大和村
坂東第二十五番筑波大御堂千手観世音菩薩茨城県つくば市
坂東第二十六番清滝寺聖観世音菩薩茨城県新治郡新治村
坂東第二十七番円福寺十一面観世音菩薩千葉県銚子市
坂東第二十八番龍正院十一面観世音菩薩千葉県香取郡下総町
坂東第二十九番千葉寺十一面観世音菩薩千葉県千葉市中央区
坂東第三十番高蔵寺聖観世音菩薩千葉県木更津市
坂東第三十一番笠森寺十一面観世音菩薩千葉県長南町
坂東第三十二番清水寺千手観世音菩薩千葉県夷隅郡岬町
坂東第三十三番那古寺千手観世音菩薩千葉県館山市
更に石段を降って次の踊り場に着くと、左側に石仏が並んでいました。 ここのは秩父三十四霊場の観音群になるようで、 先ほどと同様の形をした「秩父第一番」から「秩父第三十四番」までが概ね整然と並んでいましたが、 第六番だけは所定の位置ではなく、第十八番と第十九番の間にありました。 第十三番は見かけませんでしたが、 少し離れた所にポツンとひとつだけ観音像があったので、それが第十三番でしょうか。 台座がないのか土に埋まっていたのか分かりませんが、番号は確認出来ませんでした。 ここでは、第一番・第十八番・第三十四番が他のものより大きくなっていました。
秩父三十三霊場
秩父第一番四萬部寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二番真福寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第三番常泉寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第四番金昌寺十一面観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第五番語歌堂准胝観世音菩薩埼玉県秩父郡横瀬町
秩父第六番卜雲寺聖観世音菩薩埼玉県秩父郡横瀬町
秩父第七番法長寺十一面観世音菩薩埼玉県秩父郡横瀬町
秩父第八番西善寺十一面観世音菩薩埼玉県秩父郡横瀬町
秩父第九番明智寺如意観世音菩薩埼玉県秩父郡横瀬町
秩父第十番大慈寺聖観世音菩薩埼玉県秩父郡横瀬町
秩父第十一番常楽寺十一面観世音菩薩埼玉県秩父郡横瀬町
秩父第十二番野坂寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第十三番慈眼寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第十四番今宮坊聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第十五番少林寺十一面観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第十六番西光寺千手観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第十七番定林寺十一面観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第十八番神門寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第十九番龍石寺千手観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十番岩之上堂聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十一番観音寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十二番童子堂聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十三番音楽寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十四番久昌寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十五番法泉寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十六番円融寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十七番大淵寺聖観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十八番橋立堂馬頭観世音菩薩埼玉県秩父市
秩父第二十九番長泉院聖観世音菩薩埼玉県秩父郡荒川村
秩父第三十番法雲寺聖観世音菩薩埼玉県秩父郡荒川村
秩父第三十一番観音院聖観世音菩薩埼玉県秩父郡小鹿野町
秩父第三十二番法性寺聖観世音菩薩埼玉県秩父郡小鹿野町
秩父第三十三番菊水寺正観世音菩薩埼玉県秩父郡吉田町
秩父第三十四番水潜寺千手観世音菩薩埼玉県秩父郡皆野町
称名寺庭園
百観音を後にしてその先に続く石段を降っていきます。 縦方向の間隔が狭くて靴を置き難いし、進行方向に少し傾いていたりもするので、 滑り落ちないよう注意しながら降っていきました。 1分半ほど降っていくと、「称名寺市民の森入口」と書かれた標柱を過ぎた先で 称名寺庭園の一角に降り立ちました。 降りた所の脇に「称名寺市民の森案内図」がありましたが、 「現在地」以外はこれまでと同じ内容になっていました。 正面には道標が立っていて、右手の道は「金沢文庫駅方面」、 左手の道は「北条実時公御廟」、今来た道は「八角堂広場」となっていますが、 今回は庭園を左回りに巡っていくことにしました。
左手へ進み始めると「称名寺百観音」と刻まれた大きな石碑があり、 先ほどと同様の形をした観音像が傍に幾つかありました。 すぐ先には「百番観世音霊場登口」の石柱と解説文を刻んだ石碑もありましたが、 旧字体で書かれていて、無学の私には読めない字が沢山ありました。 「百番観世音」とは、これまでに見かけた西国三十三霊場・坂東三十三霊場・秩父三十四霊場の 併せて百寺の観音像のことを意味しているようです。 これだけのお寺を実際に巡るのは大変なので、 その代わりとしてここにある百観音を巡って御利益を預かろうということでしょうか。 右手には阿字ヶ池があって、朱色の平橋と反橋が架けられた綺麗な眺めが広がっています。
庫院を過ぎていくと、称名寺の本堂である金堂があります。 桁行5間、梁間5間の立派なお堂です。再建当初は茅葺だったとのことです。 さぞ赴きのあるお堂だったことでしょう。往時の姿が偲ばれます。 脇には「国指定史跡 称名寺境内」と題した解説板があって、境内の地図も載っていました。
国指定史跡 称名寺境内
称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、 本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。 本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時代は明らかにしていませんが、 正嘉2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時が、 六浦荘金沢の居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されています。 その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、 顕時の時代には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、 さらに、顕時の子、貞顕は伽藍の再造営を行い、元亨3年(1323)には、 苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、 講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗は浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。 しかし、元弘3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、 江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。 大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を含めた 範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行なわれました。
金堂
禅宗様。天和元年(1681)に再建。
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺(再建当初は茅葺)
 (史跡称名寺境内愛護会、横浜市教育委員会)
金堂の右側には釈迦堂があります。 茅葺きの屋根の趣のある建物です。
釈迦堂
禅宗様。文久二年(1862)に建立。 方三間、廻縁付、宝形造、茅葺。
 (史跡称名寺境内愛護会、横浜市教育委員会)
釈迦堂の前には鐘楼があります。 金沢八景のひとつ「称名の晩鐘」に描かれた鐘です。 金沢八景は平安時代の昔からすばらしい景勝地として知られていましたが、 現在では埋め立てなどにより入江の形が大きく変わってしまい、 ここ以外は当時の姿を見ることができなくなったようです。
−お知らせ−
本年より、除夜の鐘つきは中止いたします。 金沢八景「称名晩鐘」は、710年の経過と共に老朽化が進み、 今後は国の重要文化財保護の為、現状保存致します。 ご理解賜りますよう、お願い申し上げます。
 (平成23年1月 金澤山 称名寺)
称名寺の本堂の前には青葉楓がありました。 当初からの木は枯れてしまったようで、幼木が植えられていました。
謡曲「六浦」と青葉楓
謡曲「六浦」は、梅、松、藤、柳等を人格化し、草木の精として扱った曲の一つです。 京の僧が称名寺を訪れて、山々の楓は紅葉の盛りなのに本堂前の楓が一葉も紅葉していないのを 不審に思うと、楓の精が現れて、昔鎌倉の中納言為相卿が、山々の紅葉はまだなのに この楓だけが紅葉しているので「いかにしてこの一本に時雨けん山に先立つ庭のもみじ葉」と詠むと、 楓は非常に光栄に思い「功なり名とげて身退くは天の道」の古句に倣い、 その後は紅葉せず常盤樹となったこと、草木にはみな心があることを語り、 僧に仏法を説くよう頼み、木の間の月に紛れて消え去ります。 新植された青葉楓の幼木の長寿を祈ります。
 (謡曲史跡保存会)
阿字ヶ池に架かる平橋反橋を渡っていきます。 以前に来た時には復旧工事のための通行禁止になっていましたが、この時には通れるようになっていました。 塗装してから年月が経つようで、橋の欄干の朱色は少し色褪せてきているようでした。 池には大きな鯉が沢山泳いでいました。 畔の石の上には亀が沢山登ってきていて、首を空に伸ばしながら日向ぼっこしていました。 振り返ると、反橋の向こうには平橋と金堂が見えていました。
称名寺庭園
称名寺の庭園は、元亨3年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図並結界記」によって、 伽藍の配置と共に完成時の姿を知ることができます。 庭園は、金沢貞顕の時代の文保3年(1319)から、翌年の元応2年にかけて造られました。 作庭には性一法師が携わり、青嶋石を使用した90数個の景石を、中島や池の周囲に大量の 白砂と共に配置することなどを指示し、その満々と水が注がれた苑池には貞顕から 贈られた水鳥が放され、ここに伽藍の美観の要とされる浄土庭園の完成が見られました。 苑池は金堂の前池として、浄土思想の荘厳のために設けられたもので、 南の仁王門を入り、池を東西に二分するように中島に架かる反橋と平橋を渡って 金堂に達するようになっています。 このような配置は、平安時代中期以降盛んになった、浄土曼荼羅の構図に基づき造られた浄土庭園の 系列にあるもので、称名寺の庭園は、時代的に浄土庭園の基本的な形態を残す最後のものとして、 庭園史上高い評価を得ております。
 (横浜市教育委員会、史跡称名寺境内愛護会)
1.この池の魚を釣ってはいけません。
2.池の中に石などを投げ込んではいけません。
3.樹木などをおったりきずをつけてはいけません。
 (横浜市教育委員会)
反橋を渡った先には大きな仁王門があります。 その名の通り、左右には阿吽形の特大の仁王像が立っていました。 この門も、当初は茅葺き屋根だったようです。
仁王門
禅宗様。文政元年(1818)に再建。
三間一戸の楼門、入母屋造、軒唐破風付、銅板葺(再建当初は茅葺)
木造金剛力士立像(元亨3年、神奈川県指定重要文化財)
 (史跡称名寺境内愛護会、横浜市教育委員会)
史跡称名寺境内の整備について
横浜市教育委員会では、史跡称名寺境内の管理団体の立場で、 昭和53年度から昭和62年度までの10年に渡り、文化庁の国庫補助を受けて、 史跡の中心に位置する庭園苑池の保存整備事業を実施してきました。 整備の方針は、発掘調査の成果と重文「称名寺絵図」に基づき、鎌倉時代の苑池造営当初の 姿に復原するというものです。 この10年間で実施した内容は、発掘調査で出土した護岸は粘土で保護しながら 新しい石を張り、現況では発掘できなかった護岸部分は丸太杭で仮整備するとともに、 重文「称名寺絵図」に基づき、平橋・反橋の復原及び植栽・石組等の修景を施しました。
 (横浜市教育委員会)
仁王門を過ぎて更に阿字ヶ池沿いに進んでいくと、「新宮古址」と刻まれた石柱があります。 そこから奥へ続く道を進んでいくと、正面に社がありました。
新宮
称名寺の鎮守。寛政2年(1790)に再建。 三間社造、銅板葺(再建当初は茅葺)
 (史跡称名寺境内愛護会、横浜市教育委員会)
金沢文庫
新宮古址を過ぎていくと、「←神奈川県率金沢文庫」の標識が立っていて、左手に分れていく道を指しています。 標識に従って阿字ヶ池から離れていくと、北條實時公像を過ぎた先に、金沢文庫へ続くトンネルがあります。 金沢八景の浮世絵が貼り出されたトンネルを抜けていくと、正面に金沢文庫があります。 この時には「大横須賀と金沢」と題した企画展が催されていました。
金沢文庫と称名寺の文化財
右手のトンネルの先に神奈川県立金沢文庫が建つ。 この一帯は「文庫ヶ谷」と呼ばれていたので、中世の金沢文庫がこのあたりにあったものと推定されている。 金沢文庫は、北条実時・顕時・貞顕の金沢北条氏三代によって収集された和漢の貴重書を納めた書庫であったが、 元弘三年(1333)五月、鎌倉幕府滅亡によって主を失い、蔵書は称名寺が管理するところとなった。 しかし金沢文庫本の大半は、室町幕府・上杉氏・小田原北条氏・豊臣秀次・徳川家康・加賀前田家など、 歴代の権力者によって外へ持ち出されてしまった。 現在の金沢文庫は、称名寺に伝来した美術工芸品・古書・古文書などおよそ二万点を収蔵する博物館として運営されている。 大橋新太郎氏の寄付を受け、神奈川県によって昭和五年に史跡称名寺境内(後方阿弥陀院跡)に建設され、 平成二年に現在地の新館に移転した。 神奈川県立金沢文庫では、国宝「四将像」(金沢北条氏歴代肖像画)・「文選集注」をはじめ、 重要文化財「金沢文庫文書」(4,149通)・「宗版一切経」(3,486帖)・「称名寺聖教」(13,027点)および 絵画・彫刻・工芸品など、鎌倉文化の精華を伝える貴重な文化財を保管し、 調査を進めるとともに、展覧会を開催して研究成果を一般に公開している。
称名寺庭園から金沢文庫へ続く現用のトンネルの右手には、中世に使われていた隧道があります。 岩盤をくり抜いて作られたトンネルで、現在では通行禁止になっています。
中世の隧道(史跡・称名寺)
この隧道(トンネル)は、中世につくられたものです。 称名寺の伽藍が完成した元亨3年(1323)に描かれた「称名寺絵図」には、 阿彌陀堂のうしろの山麓に両開きの扉があり、その洞門の位置に一致します。 江戸時代には、隧道の向こう側には「文庫がやつ」という地名があったことが記録されており、 鎌倉時代の金沢文庫の遺跡の有力な候補地です。 県立金沢文庫の建設直前の発掘調査では、この隧道に続く中世の道路が検出されております。 なお、東側は風化が進んでいますが、西側は比較的旧状を残しており、扉の支柱の痕跡も見られます。 この隧道は、国指定の史跡称名寺と金沢文庫をつなぐ重要な遺跡で、永久に文化財として保存されます。
隧道を過ぎていくと、玉垣で囲まれた一角が山際にあります。 左右の二箇所に鉄柵の扉があって、 左側には「北條顕時公御廟」、右側には「金沢貞顕公御廟」と刻まれていましたが、 解説板によると実際とは逆になっていて、右側が顕時公御廟で、左側が貞顕公御廟になるようです。 玉垣で囲まれた中には左右に分れるようにして五輪塔などが沢山ありました。
(画像を左クリックすると、左側の御廟・右側の御廟の順で表示されます)
北条顕時・金沢貞顕の墓
顕時(1248〜1301)は北条実時の子で、鎌倉幕府の重職であった引付衆、評定衆などを歴任しました。 1285年の霜月騒動によりまして一時政界を退きましたが、その間、禅に傾倒し、 五山版のさきがけとなります「伝心法要」の開版をおこないました。 貞顕(1278〜1333)は顕時の子で、六波羅探題をつとめたのち、第十五代執権となりました。 和漢の書物を多数収集し、金沢文庫を国内屈指の武家の文庫に創りあげるとともに、 称名寺の伽藍や庭園の整備につくし、その最盛期を築きました。 1333年、新田義貞の鎌倉攻めにあい、北条高時および北条氏一族とともに鎌倉の東勝寺で滅びました。 墓地は、従来、向かって右の五輪塔が貞顕、左の五輪塔が顕時の墓とされていましたが、 1935年に右の五輪塔から青磁壺(重要文化財)が発見され、 さらに、その五輪塔の様式等から、右の五輪塔が顕時、左の五輪塔が貞顕で南北朝期の供養塔と確認されました。
 (横浜市教育委員会)
光明院
仁王門まで引き返して、併せて2時間ほど居た「称名寺市民の森」と称名寺庭園から出ていくと、 正面には桜並木の参道が続いています。 参道を歩き始めると、すぐ右側に茅葺き屋根の門があります。 脇には「横浜市指定有形文化財 称名寺塔頭光明院表門」の標柱と解説板が設置されていました。 光明院の門のようですが、その奥は民家のような感じになっていました。
塔頭(たっちゅう)
禅宗で、高僧の塔がある所。また、その塔を司る僧。 転じて、一山内にある小寺院。大寺に所属する別坊。寺中。子院。わきでら。
 (出典:広辞苑第五版)
横浜市指定有形文化財(建造物) 称名寺塔頭光明院表門
横浜市指定有形文化財(建造物)
構造及び形式 四脚門、切妻造茅葺、袖塀付
時代 寛門5年(1665)
光明院は、称名寺の塔頭のひとつで、「新編武蔵風土記稿」に、 「光明院、仁王門に向かって左にあり、五院の第一揩ネり、本尊地蔵春日の作なり」とあり、 江戸時代後期には、五つの塔頭の一位を占めていました。 この表門は、小規模な四脚門ですが、和様を基調に禅宗様を加味した意匠となっています。 また、市外から近年移築された三渓園の建造物などを別にすれば、造営年代が判明する市内の 建造物のなかで最も古く、極めて貴重です。
 (横浜市教育委員会)
大宝院
光明院を後にして進んでいくと、すぐに「塔頭 大宝院」の標柱が立っていて、 左手に分れていく道を指しているので、立ち寄っていくことにしました。 路地を数10m進んだ所の石段を登っていくと、左側にブロック塀で囲まれた敷地があります。 ここが大宝院になりますが、この時には扉は閉ざされていました。 中には観音堂がありますが、敷地内には夏草が生い茂っていたので、今では使われていない様子でした。 以前に来た時には入口に「大宝院略縁起」と題した解説板がありましたが、今回は見かけませんでした。 参考までにその時の解説文を載せておきます。
大宝院略縁起
当院は奈良西大寺の末寺で、金沢山弥勒院称名寺の一坊であった。 鎌倉時代、金沢文庫を経営した北条氏が、四代にわたって称名寺の伽藍を造立した頃、 僧坊として建立されたものと思われる。 文明16年(1484)に記された称名寺の僧鏡心の「鏡心日記」に当院の名がみえる。 本尊は聖観世音菩薩、江戸時代の中頃には金沢札所の第三番に数えられ、 所願成就の観音霊場として多くの参詣者で賑わった。 明治30年(1897)に明治憲法の草案作りのため金沢の地を訪れていた伊藤博文によって、 境内に金沢文庫と閲覧所が復興されたが、関東大震災により倒壊し、 現在は庫裏の一部として残存しているのみである。 本尊は観音堂正面の厨子内に祀られている。
 (大宝院住職)
大宝院から引き返して、お食事処などの店が何件か並ぶ桜並木の参道を進んでいきます。 突き当たりまで来ると朱色に塗られた惣門(赤門)があります。 「真言律宗 別格本山」や「称名寺」などの額が掲げられていました。 脇には「百番観世音霊場」「金澤山称名寺・金澤文庫入口」と刻まれた石柱もありました。 出た所に称名寺バス停があり、金沢文庫駅までの便が1時間に2本から3本程度ありますが、 金沢八景駅まで歩いて行くことにしました。 バス停の脇に「地区案内サイン」と題した案内板があって、 ここから金沢八景駅にかけての地図が載っているので参考にしましょう。 今回は赤門の正面に続く赤門通りを進んでいきました。
惣門(赤門)
称名寺の南辺を限る朱塗門。明和8年(1771)に再建。 四脚門、切妻造、本瓦葺(再建当初は茅葺)
 (史跡称名寺境内愛護会、横浜市教育委員会)
薬王寺
植込みのある白壁沿いに真っ直ぐ進んでいくと山門があります。 入口には「真言宗御室派三療山医王院 薬王寺」と刻まれた石柱が立っています。 山門から境内に入っていくと、正面に薬王院の本堂があって、脇には弘法大師御修行尊像もありました。 右手には鐘楼があり、左手には庫裡と思われる建物がありましたが、 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
横浜市指定有形文化財(絵画) 絹本著色 種子両界曼荼羅図
時代 鎌倉時代、 員数 二幅、 寸法 各縦76.7cm 横61.3cm
真言宗の開祖、弘法大師空海が九世紀の初めに中国より持ち帰った密教絵画の中に、両界曼荼羅があります。 両界曼荼羅は、大日如来を中心とした諸尊の配置により、真言密教の教えと宇宙の真理を図示したもので、 胎藏界と金剛界の二面によって構成されています。 本図は、いずれも仏像のかわりに、それを象徴する種子(諸尊を表わす梵字)で表わされており、 この時代のもは関東では珍しいものです。 細部をみると赤・白・青・黄色の彩色が残り、随所に細かい切金が施され、荘厳な趣があります。 本図は、画法や種子の形状からみて、十四世紀以前にさかのぼる優品と考えられています。
 (横浜市教育委員会)
忘恩
借りた傘 雨が止んだら 邪魔になる
八幡神社
薬王寺を後にして、道なりに真っ直ぐ進んでいきます。 右手から来る道を併せた所にある西寺前バス停を過ぎていくと、 横浜市金沢消防団の車庫の隣りに八幡神社があります。 玉垣で囲まれた所にある鳥居から境内へ入っていくと、すぐに本殿と拝殿から成る社殿がありました。 拝殿には「八幡神社」の扁額が掲げられていましたが、由緒などを記したものは見かけませんでした。 社殿の右側には神輿殿があり、左側には赤い鳥居と石祠がありました。 社殿の正面に続く石畳の参道を進んでいくと、「金澤八幡神社」の扁額が掲げられた鳥居が立っています。 八幡神社の境内から出ると三叉路になっています。 角には「金沢歴史の道」の標柱が立っていて、ここは「八幡神社広場」、 振り返って左手の道は「左 金沢文庫駅」、右手の道は「右 史蹟称名寺」となっています。 脇には道標も立っていて、振り返って左手の道は「金沢文庫駅900m」、 右手の道は「金沢文庫780m」「称名寺境内630m」となっています。 標柱や道標には何も書かれていませんが、正面に続く道路を進んでいきます。
参拝の作法
心を込めてお参りしましょう。
二拝 (深い礼を二度します)
二拍手 (柏手を二度します)
一拝 (深い礼を一度します)
町屋神社
少しずれた十字路になっている町屋交差点まで来ると、 右手のすぐ先に鳥居が見えたので、立ち寄っていきました。 鳥居の脇には「総鎮守 町屋神社」と刻まれた石標がありました。 鳥居をくぐって大木が並木を作る石畳の参道を進んでいくと、 正面に「町屋神社」の扁額が掛かる町屋神社がありました。 本殿と拝殿から成る社殿で、左手には神輿蔵がありました。 総鎮守とのことですが、由緒などを記したものは見かけませんでした。
安立寺
町屋交差点まで引き返してその先へ進んでいくと、左手に分かれていく路地がありました。 入口には「宗祖 船中問答御着岸霊場 日蓮宗安立寺」 「中山法華経寺開山 富木日常上人御親刻 感應之祖師安置」 「鎌倉時代創建福船山」と書かれた看板が出ていて、 その奥には山門が見えていたので、立ち寄っていきました。 看板の脇には石柱があって謂れ等が刻まれているように思えましたが、よく読めませんでした。 「福船山」の扁額が掲げられた立派な山門から境内へ入っていくと、 正面に続く石畳の参道の奥に安立寺の大きな本堂がありました。 左手には庫裡や寺務所と思われる建物があり、右手には鐘楼がありました。 また、赤い鳥居と小祠もありました。
合掌の功徳
本尊に合掌すれば信心となる
父母に合掌すれば孝養となる
お互に合掌すれば和合となる
長上に合掌すれば敬愛となる
事物に合掌すれば感謝となる
これは青森の日蓮宗弘法寺様の寺報の封筒よりコピーいたしました。
龍華寺
安立寺から道路まで引き返して洲崎町北側交差点を過ぎていくと、 左手に「真言宗御室派 龍華寺」と刻まれた石柱が立っていました。 その奥には立派な山門が見ていました。 山門の手前には「融辨和尚像」や「木造地蔵菩薩坐像」の解説板がありました。 右手には「横浜金澤七福神 大黒天」と刻まれた台の上に小槌を持った像が乗っていました。 山門から境内へ入っていくと、左手には「太子堂」がありました。 その脇には解説板もありましたが、表面の板が黒ずんでいて読めない部分がかなりありました。 右手には立派な梵鐘があり、その奥に龍華寺の本堂がありました。 左側には庫裡や寺務所と思われる建物がありました。 右手には不動明王や六地蔵などもありました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
横浜市指定有形文化財(絵画) 絹本著色 融辨和尚像
法量 絶て89.0cm、横52.5cm
法衣を着て、上畳上に坐り、右手に扇子、左手に五鈷杵をもっている。 これは、当時中興開山融辨和尚没(1524)後、間もなくの肖像と思われる。 描法は、大和絵様式の似絵風であるが、墨彩色を多用するなど、どこか禅林頂相の趣が感ぜられる。 近年改装されているが、中世末葉(室町時代)における当地域の文化水準を示す優作である。
*五鈷杵=密教で煩悩を破砕し菩提心を表す金属製の法具。
*頂相=禅僧の肖像のこと。
 (横浜市教育委員会)
横浜市指定有形文化財(彫刻)木造地蔵菩薩坐像 附 胎内納入品12点
構造 寄木造、玉眼、肉身部漆箔、着衣部黒漆塗
寸法 像高76.0cm
時代 室町時代 大永4年(1524)
本像は、境内の地蔵堂の本尊で、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、岩座上の蓮台に安坐しています。 光背は輪光で、持物・台座・光背などは後から補われたものです。 また、左手の第二・三・四・五指の各指先は欠失しています。 首ほぞ内側及び頭部内の墨書銘から、大永四年(1524)に仏師上総法眼が造立したことがわかります。 作者の上総法眼は鎌倉の仏師で、名は宋琢といい、永正十年(1513)の藤沢市江島神社八臂弁財天坐像彩色、 天文十八年(1549)の鎌倉市大長寺北条氏綱夫人坐像の造立などの事績が知られています。 本像は衣の皺の表現に宋元風の特色がよく示されています。 造立年代・作者ともに明確な室町彫刻として、資料的価値の高い作品です。 なお、胎内納入文書によれば、本像はもと須崎村の地福寺(廃絶)に祀られていた像で、 元禄八年(1695)と天保六年(1835)とに修理されています。
 (横浜市教育委員会)
神奈川県重要文化財 梵鐘
室町時代 天文10年(1541)
総高148.8cm、龍頭高32.5cm、身高109.5cm、口径76.3cm
文字は彫がやや細く、誤字があって読みにくいが、第四区に 「天文十年辛丑五月五日 當寺住法印権大僧都善融 旦那古尾谷中務少輔平重長道伝」とある。 第三区にある梵文は左行より読みだすように刻まれており、 最左が「光明眞言」、中が「大随求陀羅尼」、右が「三十七尊総陀羅尼」である。 作風は、口径の鐘身に対する比142.2%という丈高である。 一見極めて粗雑なできであるのは、鋳ばなしのままで仕上がしてないのである。 銘文に刻む天文ころのもとと思われない古様式の鐘であり、 鎌倉を中心とした地域特有の上下帯をもち、口径と鐘身との比、鐘身高と撞座高との比からみて、 鎌倉時代末の作鐘とみられる。 その後、当寺の鐘となった。
洲崎神社
龍華寺と隣接するようにして洲崎神社があります。 玉垣で囲まれた所にある「洲崎神社」の扁額が掛かる鳥居から境内に入っていくと、すぐ正面に社殿があります。 本殿と拝殿から成る社殿でした。 右手には天王社があり、左手には獅子殿がありました。 この時には獅子殿の扉が開かれていて、中の様子を覗うことが出来ました。 中には大きな獅子頭が二つ安置されていました。 右側が雄獅子で、左側が雌獅子とのことでした。
洲崎神社略誌
村社  洲崎神社
祭神  誉田別命  配祀 大山咋命、倉稲魂命、大田命、盤長比売命、第六天神
由緒  当社は元富岡村と柴村との間に長浜と字せる所あり、 現今は野口記念館のある所にして昔時は十八町も海に突出し、 今に長浜千軒と口碑に残れる程にて人家稠密し殷賑を極めしが、 応長元年(1311)激浪の為洗い滅ぼされし住民の一部本村に移住す。 依って産土神たる鎮守大六天社も同時に此処に移し造営す。 現今の社は天保九年六月十二日の再建にして、明治維新の際、神仏混交を廃せられ洲崎神社と改称す、 而して社の鎮座地は他の神社と異なり古き頃より、家津良町道路の真ん中にあり、誠に珍しかりしが、 明治三十七年二月九日横浜金沢間道路改修に付き現場に移転す。 明治四十年十二月県の訓令第四十九号により四十一年十一月境内の拡張をし四十二年五月拝殿を増築し社殿完成す。 明治四十三年八月十五日本村泥亀鎮座村社日枝神社(祭神大山咋命) 同社末社稲荷社二社(祭神一社、倉稲魂命、一社、大田命)合併許可八月三十日処分済み成る。 大正三年二月二十四日同泥亀姫小島無格社十二天社(祭神盤長比売命)を、合併許可三月十日処分済み成る。 大正十年十二月十六日神奈川県告示第三七三号を以て神饌弊帛料供進神社に列せられる。
天王社 祭神 建速須佐之男命  由緒 元は町屋村と共同祭事を行い来たりしが為、洲崎龍華寺前天王河岸に地を卜して旅所となし小社をおけり。 文化六年四月両村協議の上牛頭天王を二社に分かつ、 文化十四年正月旧引摂院の境内の一部を天王地と定めて此処に移転造営す。 現今の社なり。 氏子地区 金沢村洲崎(現今の洲崎、乙舳地区である)
獅子の由来
この雄獅子、雌獅子は今から百六十年前の嘉永二年(1849)六月に、 時の彫刻師後藤利平衛によって製作されたもので、洲崎部落の秘蔵品として大切に保管されました。 製作方法は下地を布で固め、その上にウルシを三べん塗って、唇、耳、鼻、舌は朱色で、 その他は金箔を張り、目玉は真鍮メッキで仕上げました。 大きさは(縦、横、高さ)三尺(90cm)でした。 費用は当時の金で二十両三分かかったそうですが、此の経費は部落の人達から調達したのでしょう。 当時の戸数は96軒で人口は356名でした。 此の獅子は太平洋戦以前には、年に一度の祭礼に、若衆四人によって担がれ、 雄獅子、雌獅子一対になって、町内を厄除けのため廻りました。 はやり病(ハシカ)等の子供さんは、お獅子の口を開け、二、三回噛まれる形にしていただきますと、 不思議にも早く良くなり、町内の守り神様としても多くの方々から尊信されておりました。 平成四年に再修理がなされ、現在に至っております。
洲崎広場
洲崎神社を後にして車道をその先へ進んでいくと洲崎町交差点があります。 その右側に洲崎広場があります。 街角に作られたブロック敷きの広場の中ほどには、四角い石の台がありました。 その上面には金沢歴史の道の地図が載っていて、 周囲には金沢八景の銅板と簡単な解説文が載っていました。 傍には「憲法草創之処」と刻まれた石碑もありました。 洲崎町交差点を右折していきます。 金沢八景の浮世絵を壁に貼り出している不動産屋を過ぎていくと、 生命保険会社の事務所の前に「明治憲法起草の地」の記念碑がありました。
明治憲法起草の碑
この碑は明治20年(1887)伊藤博文・伊東巳代治・金子堅太郎らが料亭東屋において 明治憲法制定のため草庵を起草したのを記念し、昭和10年(1935)金子堅太郎書で建立されたものである。
料亭東屋跡は金沢八景駅寄り約100米
明治憲法起草の地
この地は、料亭東屋の跡で、明治20年(1887)伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅らが 明治憲法制定のため草案を起草したところです。 明治20年6月から、東屋に集まり草案の構想を練っていました。 金子・伊東は東屋に泊り、伊藤は夏島の別荘から、井上は野島旅館から通いました。 8月6日夜、東屋の伊東の室に盗賊が入り機密書類の入っていた行李が盗まれましたが、 翌日書類は無事発見されました。 その後、伊東・金子両名は夏島の伊藤の別荘に移り、草案が完成されましたが、 東屋が起草の地であるとして、 昭和10年(1935)「憲法草創之処」という記念碑が金子堅太郎書で東屋裏庭内に建てられましたが、 東屋廃業後、現在ここより40m東に移され設置されています。
 (社団法人横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)
瀬戸神社
記念碑を過ぎていくと、宮川に瀬戸橋が架かっています。 左手の船泊を眺めたり潮の香りを嗅いだりしながら橋を渡っていくと、国道16号の瀬戸神社前交差点に出ます。 歩道橋で道路の向こう側に渡って左手へ進んでいくと、程なくして大きな鳥居が立っています。 そこから境内に入っていくと、右手には「放下僧の遺跡」、左手には「蛇混柏」がありました。 正面の短い石段を登った所に瀬戸神社の社殿がありました。 本殿と拝殿から成る立派な社で、本殿の屋根には3本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 社殿の左右や岩壁を刳り貫いた所には、小祠が幾つもありました。
瀬戸神社
中世都市鎌倉の外港として栄えていた武蔵国六浦庄(現金沢区全域)における中心的な神社。 平潟湾と瀬戸入海をつなぐ潮流の速い海峡を望む地点に、古代から海の神としてまつられたと推定されますが、 社伝では治承四年(1180)に源頼朝が伊豆三島明神(三島市三嶋大社)を勧請したのが起源とされています。 祭神は大山祇命。 鎌倉幕府以来、執権北条氏・鎌倉公方足利氏・小田原北条氏などといった歴代の権力者によって保護され、 江戸時代に入っても百石の朱印地を徳川将軍より与えられています。 現在の社殿は、寛政十二年(1800)に建造され、屋根は昭和四年(1929)に銅板に葺き替えられています。 また、境内正面より平潟湾へのびる突堤の先端部にまつられている弁天社(琵琶島神社)は、 頼朝の夫人北条政子が琵琶湖の竹生島から勧請したものと伝えられています。
横浜市指定無形民俗文化財 瀬戸神社の湯立神楽
湯立神楽は、境内の斎庭に大釜を据え、浄火を焚いて熱湯をたぎらせ、 竹の幣串をもってその湯をかき回す時に立ち止る湯花により神占とし、 また笹の葉を浸して湯を参詣者等の頭上に振りそそいて祓いとする行事。 湯花神楽とも鎌倉神楽とも称して、東京湾から相模湾沿岸の漁村に広く伝わり、 大正年間までは県の内陸部でも盛んに行われました。 現在、市内などに伝わる湯立神楽は、鶴岡八幡宮の旧職掌が司宰するものが多く、格調が高いものです。 瀬戸神社で奉奏される湯立神楽は、 (1)打囃(2)初能(3)御祓(4)祝詞(5)御幣招(6)掻湯(7)射祓(8)御湯(9)湯坐(10)剣舞の十座で、 その様子は、境内の斎庭に湯立のための山を設け、四本の青竹を四方に立て、 中央に高い青竹一本を立て、その頭上に五色の幣を垂らした天蓋をつくるなどして、 山の中央に釜を据えて湯をたぎらせて行われます。
「放下僧」の遺跡
謡曲「放下僧」は、室町時代、相模国の刀根信俊に、父の下野国牧野左衛門を討たれた遺児の兄弟が、 そのころ流行していた僧形の旅芸人(これを放下僧といった)に扮し、 ここ武蔵国瀬戸の三島神社で、見事父の仇をうったという世話巷談をもとに脚色されているが、 このときに仇討ちの場所が、境内にある手水舎の東側だったと伝えられている。 神社は往時、鎌倉と房総を結ぶ交通の要衝だった六浦港(今の平潟湾)の中心にあり、 諸国去来の人々でにぎわい、牧野兄弟が敵とめぐりあったのも、うなずける。 なお樹齢千年といわれる境内の名木「榧の木」は当時既にあったもの。
 (謡曲史跡保存会)
蛇混柏(じゃびゃくしん)
文明十八年(1486)萬里和尚の詩の自註に「六浦廟前有古柏屈繁」とあり、 延宝八年(1680)八月六日の大風に転倒して後も朽損せず、 新編鎌倉志・江戸名所図絵などにも「蛇混柏」と称した名木で、金沢八木の一つである。 一部は本殿内陣の御扉材に使用されてゐる。
金沢八景(かなざわはっけい)駅
瀬戸神社を後して、玉垣に沿って右手へ進んでいきます。 道路を横切って、バス乗り場の脇を過ぎていきます。 突き当たりを道なりに左折していくと金沢八景駅(京浜急行本線)があります。 称名寺の赤門を出てから1時間ほどで到着しました。
正午を過ぎて小腹も空いてきたので、駅前の中華店に入って食事をしていきました。