曽我丘陵
散策:2011年02月下旬
【低山ハイク】 曽我丘陵
概 要 曽我丘陵は国府津駅から北西に伸びる御殿場線の東側に続く低い丘陵です。 丘の上からは、相模湾・伊豆半島・箱根連山・富士山・丹沢山塊などが広がる素晴らしい展望が得られます。 今回は曽我梅林から見晴台を経て尾根まで登り、六本松跡から忍石を経て沼代地区へ降るルートを歩きます
起 点 小田原市 下曽我駅
終 点 小田原市 坂呂橋バス停
ルート 下曽我駅…梅の里センター…原梅林…別所梅林…法蓮寺…見晴台…曽我丘陵…一本松…六本松跡…忍石…2番鉄塔…沼代地区…明澤児童館…久成寺…秋葉神社…坂呂橋バス停
所要時間 3時間20分
歩いて... 梅まつりの最後が近づいた頃でしたが、曽我梅林ではまだ沢山の花が咲いていました。 梅林から見晴台へ登っていく道からは、箱根や伊豆の山々の奥に、冠雪した綺麗な富士山を望むことができました。 小田原市と中井町との境界の尾根から沼代地区へ降る道には分岐が多くありましたが、 どうにか明沢川沿いの道に降りられました。
関連メモ 曽我梅林, 曽我丘陵, 曽我丘陵
コース紹介
下曽我(しもそが)駅
下曽我駅(JR御殿場線)から歩いていきます。
改札口を出ると、右手の先に周辺案内図があります。 これから向かう見晴台までのルートが載っているので参考にしましょう。 今回は原梅林・別所梅林から法蓮寺を経て見晴台へ登っていきます。 長谷川豊吉翁之像の脇から続く道を進み始めたすぐの所から、梅の里センターへの道が右手に分れていきます。 梅林へは真っ直ぐ進んだ方が少し近いのですが、今回は右手の道へ入っていきました。
見どころ案内
曽我梅林  別所梅林・原梅林・中河原梅林の総称で、本数約3万5千本。 毎年2月初旬から約1ヶ月の梅まつり期間は一般開放される。
流鏑馬  2月中旬。梅まつりの一環として原梅林で行われる。
宗我神社  曽我地区の総鎮守。毎年9月下旬に祭礼が行われる。
城前寺(傘焼まつり)  仇討ちで有名な曽我兄弟の墓がある。 毎年5月28日に仇討ちの故事にちなんで「傘焼まつり」が行われる。
瑞雲寺  曽我兄弟ゆかりの「力不動尊」、市天然記念物「モッコク」がある。 梅の時期も美しい。
上府中公園/小田原球場  野球場を中心に、スポーツ広場・多目的広場・親水広場など、 レクレーション、散策などができる公園。
かながわ・おだわらまつり50選 奇祭『曽我の傘焼まつり』
ここ曽我の里は、歴史的遺構や遺物が何気なく、日々の暮らしの中に、溶け込んでいる里であり、 日本三大仇討ちの一つ、曽我兄弟の仇討ちゆかりの地です。 建久4年(1193)5月28日、源頼朝が催した富士の裾野の巻狩りで、兄弟は父の仇討ちを成就しました。 その時傘を燃やして松明にしたという故事にちなんで毎年5月28日、 曽我氏の菩提寺『城前寺』で兄弟の供養の為、『曽我の傘焼まつり』が行われています。 その時、兄十郎祐成22才、弟五郎時致20才でした。 この仇討ちは民衆に広く知れ渡り、『曽我物語』が生まれ、江戸時代に歌舞伎や謡曲、 浄瑠璃等で曽我物として演じられ、人々の心をとらえ、今もその人気は変わっていません。
曽我の傘焼まつりの主な行事
場所 曽我兄弟の菩提寺・城前寺(300m先)
一、 5月27日 前夜祭
奉納謡曲大会・花火打ち上げ・松明行列
一、 5月28日
曽我兄弟慰霊大法要・傘焼法要(昼夜2回)・武者行列・稚児行列・相撲パレード・ 子供相撲・播銭播餅・演芸大会・歌舞伎俳優・大相撲関取衆来寺
主催 曽我兄弟遺跡保存会
梅の里センター
数10m進んでいくと小田原市梅の里センターの下曽我支所があります。 小田原の梅に関する歴史と解説や、多くの梅干しが展示されている所ですが、 今回は立ち寄るのは止めておきました。 梅の里センターの手前には「長谷川文右衛門氏架橋の石桁」がありました。
(小田原の梅に関する解説は「曽我梅林」を参照)
長谷川文右衛門氏架橋の石桁
この辺りは、昔から「曽我の郷」あるいは「曽我の里」と呼ばれ、 「曽我物語」の舞台として歴史上有名です。しかし、この丘陵は傾斜が急なため、 谷あいを流れる菊川、砂留川、鍛冶沢川、芳野川、殿沢川、剱沢川、観音沢などの渓流は、 沢山の雨が降ると水が溢れ、砂礫を流して橋を壊すことが非常に多く、 人々を悩ませていました。 そこで、明治の初期、曽我谷津村の名主であった長谷川文右衛門という人が、 堅固な石橋を築造して永くこの憂を救おうと決意し、自らの私財を投げ打ってこれらの川の上に、 二十数ヶ所に及ぶ石橋を架けました。 これ以降、大雨による被害は減りましたが、大正12年(1923)の大震災によって石橋の 大半が壊れてしまいました。また、その後の相次ぐ道路の改修工事によって橋は架け直され、 橋桁は道路の工事石垣などに利用され、現在では確認できなくなりました。 そこで、昭和39年(1964)1月、神戸天王社裏の殿沢川にかけられていたこの二枚橋桁を移設し、 保存することにしました。
{ 長さ:2メートル18センチ、幅:45センチ、高さ:27センチ }
{ 長さ:2メートル10センチ、幅:45センチ、高さ:19センチ }
 (小田原市教育委員会)
梅の里センターを過ぎていくと、自転車や自動車の駐車場があります。 この時には梅まつりの期間中とあって、テントや野外ステージなどが設営されていました。 「しもそが五郎十郎市」と書かれた紅白の幟も沢山はためいていましたが、 まだ朝早めの時刻とあって販売は行なわれていませんでした。 そんな中を進んでいくとT字路に出ます。 正面には小川が流れていて、右手すぐの所には御殿場線の殿沢踏切があります。 そこを左折した先の十字路を右折して、小川に架かる小橋を渡っていきます。 角にある「瀬戸設備」が目印です。 「ふれあいの郷」の表札が出る建物を過ぎ、 その先のJAかながわ西湘下曽我支店の前のT字路を右へ進んでいくと、 程なくして横断歩道が設けられた十字路があります。 角には道標が立っていて、右手の道は「原梅林300m5分・別所梅林400m6分」、 今来た道は「下曽我駅300m6分・城前寺400m6分・宗我神社400m6分」となっています。 ここを右折して、坂道を軽く降っていきます。
ようこそ 曽我の梅林へ
原会場・別所会場→
石垣の間を降っていくと、すぐに田畑が広がる所に出ます。 周囲には沢山の梅が咲いていました。 程なくして道が二手に分れていますが、 今回は右手の先にある紅色の花を咲かせた枝垂れ梅に引かれて、右手の道を進んでいきました。 突き当たりのT字路を左折して、田んぼが広がる中に続く用水路沿いの道を真っ直ぐ進んでいきます。 田んぼには刈られた稲藁が円筒形に積み上げられていて、郷愁を感じたりもしました。 以前にはこの辺りは水田地帯だったようですが、昭和30年代から次第に梅林が増えていったようです。 左手にはこれから向かう曽我丘陵が横たわっていました。
原梅林
左右の景色を眺めながら真っ直ぐな道を進んでいきます。 梅の木が増えてくるとT字路があります。 そこを左折して一段と梅の木が増えてくると、「梅まつり」の幟が幾つも立てられていました。 この辺り一帯が原梅林になるようです。 仮設トイレを過ぎていくと、テーブルなどが設置された原会場がありました。
別所梅林
舗装路に出て右手へ進んでいくと十字路があります。 脇には道標が立っていて、左手の道は「別所梅林」、今来た道は「下曽我駅・城前寺・宗我神社」となっています。 左折した先の民家の手前から右手へ分れていく道に入っていきます。 梅が咲く畑沿いの坂道を降っていくと、次第に梅の木が多くなってきます。 左右に分れていく道を見送って真っ直ぐ進んでいきます。 辻々には「別所梅林案内図」が貼り出されていたので、参考にしながら進んでいきました。 青いネットが掛けられた畑と民家の間を過ぎた所の十字路を左折していきます。 角の畑には「玉英」の札が掲げられていました。 十字路を直進していくと、剣沢川八幡橋が架かっています。 この辺り一帯が別所梅林になるようです。
八幡橋を渡った所に看板が出ていて、左手の先に「写真撮影おすすめエリア」があって、 富士山や枝垂れ梅を写せるというので立ち寄っていきました。 川沿いに進んだすぐの所に石碑が二つ並んでいました。 右側は「かながわの景勝50選 曽我梅林」、 左側は「記念碑」と刻まれていました。 記念碑には区画整理事業の由来を記した碑文が刻まれていました。
記念碑
由来  此の事業は農業の生産性工場を目標として昭和丗九年曽我別所字坊田清水前田地区関係者四十七名の同意を得て 下曽我土地改良区に地区編入し第二区として発足し神奈川県及小田原市の援助によって 総工費壱阡五百萬圓を投じて三ヵ年にわたり区画整理事業を完成させたものである
曽我別所区画整理組合
土手に上がっていくと、梅林の向こうに横たわる箱根の山々の奥に、冠雪した富士山が聳えていました。 特徴的な姿をした矢倉岳や金時山も見えていました。 手前に梅の木を入れた良い構図はないかと探してみましたが、 良さそうな所にはカメラを三脚に乗せた人が既に陣取っていました。
八幡橋を渡った所が別所会場になります。 テント張りの露店などが沢山出ていて、梅をはじめとして諸々の品物が商われていました。 梅の木の盆栽も並べられていました。 ここにも周辺案内図があります。 これから向かう法蓮寺から見晴台へのルートが載っているので参考にしましょう。
かながわの景勝50選地 曽我の梅林(曽我別所梅林)
曽我の梅林は、曽我別所梅林、中河原梅林、曽我原梅林からなり、 その規模は、およそ90ヘクタール、三万本の白梅が植えられており、小田原梅の産地であります。 主な栽培品種としては、白加賀(梅酒用)、杉田(梅酒梅干兼用)、十郎(梅干用)であり、 毎年6月から7月初旬にかけて約600〜650トンの生梅が収穫されます。 また、この地から見る富士山、箱根連山、丹沢山塊、相模湾等の眺めもすばらしく、 景勝の点でも優れています。 このように、曽我の梅林は、その規模、景勝の点で関東屈指の梅林として知られております。
生産者直売 盆栽花木売場
梅盆栽の手入れ
剪定 ・花が終って3月彼岸頃までに切りこみをする。
・切りこみ(剪定)は枝の元の方にある葉芽を2-3芽残して切りつめる。
・或る程度短い枝(2〜3cm)はそのままでも良いがこみ合わないよう整理する。
・4月に出た新しい枝に花がつきます。
・10月頃まで途中で枝をきりつめないで下さい。
鉢の植えかえ ・表面の土が根で固くなったら植えかえる。
・時期は春の剪定のとき出来るだけ早く行う。
・古根を切って新しい土を補充する。
水かけ ・冬期は2-3日に1回、夏期は毎日充分に。
肥料 ・油粕玉肥を年2回 ・油虫にはスミチオン
梅まつり協会の直営売店です。
食堂の前には小さな八幡社がありました。 この辺りには枝垂れた紅梅も沢山植えられていて良い眺めでしたが、 今回は観梅が目的ではないので、通り過ぎるだけにしておきました。
下久保、防田の氏神・八幡社
旧曽我別所村の内、下久保、防田地区の氏神で、藩政時代は日蓮宗法蓮寺持ちの社であった。 祭神は誉田別尊、すなわち応神天皇。例祭は8月1日。創建、由来については史料、伝承に乏しく、 明らかではない。「皇国地誌残稿」によれば、明治9年頃の社地は東西7間(12.6b)、 南北5間(9b)あまり、面積約40坪(132平方b)であった。 かつて、周辺は水田地帯で、鎮守はおのずから農民たちの集合所にもなった。 昭和30年代から水田は梅林となり、こんにちその広さは20ヘクタール、曽我を代表する 「別所梅林」になっている。八幡社脇の多目的センターは"曽我梅まつり"の本拠となっている。
 (小田原市教育委員会)
少し曲がった十字路を左折していきます。 綺麗な紅梅を眺めながら進んでいくと十字路があります。 角には道標が立っていて、右手の道は「下別所バス停留所」、 今来た道は「かながわ景勝50選記念碑・梅林センター・下曽我駅」となっています。 道標に従って右折して、民家が建ち並ぶようになった坂道を軽く登っていくと県道72号に出ました。 すぐ右手には曽我別所梅林交差点があり、傍には下別所バス停があります。 横断歩道を渡った先から左手へ入っていく道があります。 角には道標「法蓮寺入口100m」が立っていて、その道を指しています。 「日蓮宗法蓮寺入口」の看板も出ていました。 入口には「下久保の道祖神ほか石造物群」が並んでいました。 傍には「曽我梅林展望 曽我丘陵ハイキングコース案内図」というのもありました。 文字などが掠れていて明瞭ではありませんでしたが、 今回の法蓮寺から見晴台へのルートも載っていました。
下久保の道祖神ほか石造物群
ここには次の石造物が見られます。
○道祖神 小田原市内で最も多く見られる浮き彫り双立像です。 この像は僧形となっています。
○地神講碑 この碑は弘化3年(1846)造立で、中央に天社神と彫られています。 この地の地神講の人々が建てたものです。
○題目塔 中央に南無妙法蓮華経と彫られています。 安政5年(1858)この地にコレラが流行した時、法華経一千部を奉唱して、病気退散を祈りました。 老人や子供までもが、昼も夜も、題目を唱えたことが碑文に読まれています。
 (小田原市教育委員会)
曽我梅林展望 曽我丘陵ハイキングコース案内図
《所要時間》
●現在地…六本松跡まで 2km約45分
●六本松跡…曽我祐信の墓 0.7km約10分
●曽我祐信の墓…城前寺 1.5km約20分
●城前寺…中河原梅林 0.7km約12分
法蓮寺
石垣と生垣に挟まれた路地を進んでいくと、道が二手に分れています。 右手の道のすぐ先が法蓮寺になります。 両側に丸まった石碑があって、左側には紅白の枝垂れ梅が綺麗な花を咲かせてきました。 数段の石段を登って「日蓮宗」「法蓮寺」と刻まれた石門を過ぎていくと、法蓮寺の境内になります。 正面に本堂があり、境内の左側に「毘沙門天」の扁額が掛るお堂がありました。 右手の奥には庫裡と思われる建物がありました。 本堂の左手から裏手にかけては墓地が広がっていました。
法蓮寺と毘沙門天像
山号は千葉山。この地方の古寺の通例として、もとは天台宗であったというが、 寺伝によると慶長19年(1614)に日蓮宗に改宗したという。 この寺の木彫毘沙門天立像は、現在独立した毘沙門堂に祀られ、古風な唐破風二重垂木の厨子に安置されている。 この像は別名「夢の毘沙門天」とも言われ、安永3年(1774)に住職の日迂上人と小八幡の漁師双方の夢枕に立った。 そしてその言葉どおり、小田原市小八幡の海で、漁網にかかって出現したという伝承がある。 毎年1月の寅の日が毘沙門天の縁日であったが、現在では、毎月17日が縁日で、近郷から信者が集まってくる。 また、山門前に二基の題目塔がある。
 (小田原市教育委員会)
法蓮寺から戻って左手の道を進んでいくと、程なくして分岐があります。 角には道標が立っていて、右手の道は「満江御前の墓・六本松」、左手の道は「二宮尊徳遺髪塚」、 今来た道は「別所梅林・下別所バス停」となっています。 これまでに見かけた「周辺案内図」に描かれているルートは、 左手の道の先にある分岐を右折するようになっていますが、 今回は少し近道にもなると思われる右手の道を進んでいきました。 法蓮寺の墓地のブロック塀沿いに進んでいきます。 登り坂になってきた道を進んでいくと、左手へ分れていく道があります。 角に立つ道標によると、正面の道は「見晴台を経て六本松」、左手の道は「別所梅林」、 今来た道は「下別所バス停留所」となっています。 分岐の右手には「曽我兄弟の母 満江御前の墓」と題した標柱が立っていて、 脇には「満江(万却)御前の墓」と題した解説板もありましたが、どれがその墓なのかは分りませんでした。
満江(万却)御前の墓
満江御前は、日本三大仇討の一つとして名高い曽我兄弟十郎祐成と五郎時致の母である。 伊豆の狩野親光の三女で、最初の夫は伊豆の国司代の源左衛門尉仲成で、一男一女を産んだが四年にして離別した。 その後、伊東裕親の嫡男河津の庄の地頭河津三郎祐泰と再婚し、三人の男子を出生した。 兄は幼名一万、後の十郎祐成で、弟は箱王、後の五郎時致で、末弟は祐泰の死後誕生の律師坊実永である。 一族の領地争いが起因で夫の祐泰は非業の死を遂げ、 舅伊東裕親のすすめにより曽我の庄の地頭の曽我太郎祐信の夫人となる。 安元2年(1176)満江三十歳位。 十郎・五郎の兄弟が富士の裾野で父の敵の工藤裕経を仇討した後、 建久6年(1195)に夫の祐信と共に出家し、当地の曽我別所に大御堂を建て、兄弟の霊を供養してきたが、 正治元年(1199)兄弟の七回忌の5月28日奇しくも没した。 戒名は、崇清院岩高恩大姉。この年満江は五十歳位だったと言う。
左手の道は見送って、正面に続く坂道を真っ直ぐ登っていきます。 突き当たりまで進んでいくと、石垣の上に「山王社」と刻まれた石碑があって、 四隅に立てられた竹に縄が張られていました。 そこから右へ曲がっていくと視界が開けてきます。 突き当たりを道なりに左へ曲がって崖沿いに登っていくと、ガードレールが設置された道路に出ます。 振り返ると、眼下には曽我梅林が広がり、 その先に連なる箱根から伊豆にかけての山々の奥には富士山もよく見えていました。 左手には相模湾が広がり、海に突き出た真鶴半島の先には、初島と思われる島影も見えていました。
道路に出た所には道標が立っていて、右手の道は「見晴台を経て六本松」、 今来た道は「満江御前の墓・別所梅林」となっています。 登り坂になった道路を右手へ進んでいきます。 右手に広がる景色を眺めながら坂道を登っていきます。 途中にある右手に分れていく道を二つ見送っていきます。 坂道を登り切って降り始める所まで来ると、左手へ分れていく道があります。 入口には道標が立っていて、左前方へ登っていく道は「見晴台を経て六本松」、 今来た道は「満江御前の墓・別所梅林」となっています。 左後方へ戻るようにして続く坂道もありましたが、道標には何も示されていません。 今回は左前方へ続く道から見晴台へ登っていきます。
見晴台
次第に標高が高くなってきて、眺めが一段と良くなってきます。 道なりに左へ曲がって更に登っていきます。 右へ曲がっていく所まで来ると、別所梅林への道が左手へ分れていきます。 その道は見送って右へ曲がっていくと、すぐの所に分岐があります。 左手の上を見ると金網柵で囲まれた一角がありました。 分岐を左折していくと、すぐの所に入口がありました。 ここが見晴台になります。 法蓮寺から27分ほどで登って来られました。 「曽我の里散策コース 見晴台」の標識が出ていて、 中には大きめのテーブル・ベンチや解説板や周辺案内図などが設置されていました。
曽我の梅林(かながわの景勝50選)
曽我梅林は、小田原市の中心街より北東約7キロに位置し、海抜200〜300メートルの丘陵を背にし、 曽我別所梅林、中河原梅林、曽我原梅林から成り、 その規模は、およそ45ヘクタール、3万本の白梅が植えられており、小田原梅の産地であります。 主な栽培品種としては、白加賀、杉田、十郎であり、 毎年6月から7月初旬にかけて約400〜450トンの生梅が収穫されます。 2月初めの梅の開花時期には、一面白いジュータンを敷きつめたように美しく、 また富士山・箱根連山・丹沢山塊・相模湾等の眺めもすばらしく景勝の点でも勝れています。 また、この付近の街道は、鎌倉時代には、この地の豪族と幕府を結ぶ重要な街道であり、 曽我兄弟の菩提寺・城前寺、曽我地方鎮守の宗我神社等、史跡も多く点在しています。
目の前には曽我梅林や小田原の街、箱根から伊豆にかけての山並などが広がっていました。 少し霞み気味でしたが、富士山も綺麗に見えていました。 ここから見える丹沢山塊から真鶴半島にかけての範囲を描いた「小田原市街地鳥瞰図」もありました。 少し凸凹したトタン板に描かれていて文字も掠れ始めていましたが、まだ読むことは出来ました。 下曽我駅から1時間25分ほど歩いて来たので、景色を眺めながらひと休みしていきました。
曽我丘陵
眺めを堪能したら、曽我丘陵の尾根へと登っていきます。 見晴台の金網柵には道標が取り付けられていて、この先の坂道は「六本松跡」、 今来た道は「下別所バス停留所・別所梅林」となっています。 左手に広がる景色を愛でながら坂道を登っていきます。 農道になっているようで、小型車なら通っていける幅のある舗装路が続いています。 1分ほど進んでいくと、荷物運搬用モノレールに使われていたと思われるレールで出来たゲートのようなものがありました。 そこを過ぎていくと、作業小屋の先から右手に分れていく道がありますが、正面に続く道を進んでいきます。 左へ降っていく細い道を見送っていくと、左手から登ってくる農道があります。 その道を併せて進んでいくと、曽我丘陵の尾根に続く農道に出ました。 小田原市観光課の設定する「国府津・曽我丘陵ウォーキングコース」にもなっています。 見晴台から8分ほどで登って来られました。 正面の石垣に道標が立っていて、右手の道は「国府津駅4700m80分」、 左手の道は「一本松・六本松」、今来た道は「見晴台を経て別所梅林へ」となっていますが、 ここは左手へと進んでいきます。
(右手の道は「曽我丘陵」, 「曽我丘陵」を参照)
一本松 (標高185m)
ミカン畑などが広がる尾根に続く道を緩やかに降っていきます。 左手の樹木越しに見える富士山や箱根の山々などを眺めながら進んでいくと、降り傾斜が少し増してきます。 坂を降り切って緩やかになってくると、道が左右に分れています。 尾根に出た所から4分ほどの所になります。 角には松の幼木が植えられていて、「一本松」の標識が添えられていました。 袂に立つ道標によると、左手の道は「別所梅林(近道)」、右手の道は「六本松400m6分」、 今来た道は「見晴台を経て別所梅林へ」となっています。 左手には富士山がよく見えていました。
道標「六本松」に従って右手へ進んでいくと、すぐに右手の畑へ登っていく道が分かれていきますが、 そのまま緩やかな道を進んでいきます。 左手の樹木が次第に低くなってきて、手前の街並みや矢倉岳の奥に富士山が綺麗に見えるようになります。 金時山の急峻な北斜面も見えていて、大変な思いをして梯子階段登ったことを思い出したりしながら、 眺めを楽しんでいきました。
六本松跡
作業小屋の前まで来るとT字路があります。 角に立つ道標によると、右手の道は「六本松跡」、今来た道は「一本松・国府津駅」となっています。 道標に従って右手へ1分ほど進んでいくと六本松跡に着きます。 一本松から7分ほど、見晴台から19分ほどで到着しました。 手前には大正7年に建立された「六本松趾」の石碑がありましたが、 10字×10行の碑文は旧字体で刻まれていてよく読めませんでした。 また芭蕉の句碑も立っていました。 正面には「六本松跡」と題した解説板があって、 その脇に「六本松(曽我と中村を結ぶ古道の峠)」の標柱も立っていました。 「ウォーキングコース案内図」もあって、 国府津・曽我丘陵ウォーキングコース、国府津・曽我の里散策コース、 曽我の里散策コースの見晴らしコースや里コースなどが紹介されています。
六本松跡
古代千代大地は師長国の府中で、この地方の文化の中心地であったので、 西からの旅人は皆ここに寄って、この道を、目指す坂東や奥州へと向ったと推定(弓削道鏡等)される。 その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩などにこの道を通り、 いまも鎌倉山、将軍山また豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。 また、この地の豪族が鎌倉に馳せ参じた鎌倉街道でもあり、坂東三十三番観音の五番勝福寺から 六番長谷寺に詣る巡礼道でもある。 戦国乱世のころ、京の聖護院准后道興は 「答えする 人ほそなけれ 足曳の 山彦山は嵐吹くなり」を詠み、 降って元禄のころ、松尾芭蕉は 「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」、 門人の白雄は 「人の知る 曽我中村や 青嵐」、 その後、蕪村も 「雨ほろほろ 曽我中村の 田植えかな」と詠んだ。 この、六本松の地名となった最後の松の大樹は、明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。
六本松跡は5本の道が交わる峠になっています。 角々にある道標によると、右に戻るようにして続く道は「桜の馬場・広済寺」、正面の道は「忍石300m5分」、 左の六本松架橋をくぐって降っていく道は「祐信宝筺印塔700m15分・城前寺2000m35分・宗我神社2000m35分」、 今来た道は「一本松・国府津駅」となっています。 六本松架橋を渡っていく道には何も示されていませんが、不動山や浅間山方面へ続いています。 今回は正面に続く忍石への道を進んでいきます。
(六本松架橋を渡っていく道は「曽我丘陵」, 「曽我丘陵」を参照)
坂道を登っていくと右手が開けてきて、南東方面の山並みや相模湾などを見渡せるようになってきます。 奥の方には湘南平のテレビ塔も見えていました。 2分ほど登っていくと梅林がありました。 この先には手頃な所がなさそうに思えたので、まだまだ時刻は早かったのですが、 道端に腰を降ろして、梅の花や景色などを眺めながら昼食タイムにしました。
忍石
お腹も満ちたところで、その先へ進んでいきます。 植込みや高い樹木が植えられた梅林の入口まで来ると、その先は未舗装路になりますが、 引続き小型車なら通っていけるほどの幅がある道になっています。 森へ入って左手の梅林を巻くようにして進んでいくと、小さな祠に入った忍石がありました。 石の前には石仏が佇んでいて、脇には解説板も設置されていました。
伝曽我十郎・虎御前の「忍石」
「曽我物語」によれば、曽我十郎祐成は仇討ちに旅立つ前の日、 恋人の虎御前と曽我でひとときを過ごした後、虎を馬で大磯へ送り返した。 その時、人目を忍んで通った「山彦山の中村道」と伝承される道筋が二、三あり、この大山路もそのひとつ。 そして、この「忍石」の辺りで二人は涙ながらに別れを惜しんだとされているが、 「忍石」の意味は定かではない。 「曽我物語」は二人の嘆きを、万葉時代新羅に征く夫を山頂から見送り、 そのまま石になってしまったという松浦佐用姫になぞらえている。 この忍石にも、その様なイメージを重ねた後の村人の思いがこめられているようでもある。 また、石の中央には手形に似たくぼみがあり、十郎が力を試した力石だともいわれている。 歴史物語のスーパーアイドルであった曽我兄弟の伝承は、多様で興味はつきない。
2番鉄塔
忍石を過ぎて、山の斜面に沿って続く緩やかな道を進んでいきます。 次第に森の雰囲気がしてきて「これは良いぞ」と心の中で叫びながら進んでいきました。 この尾根は小田原市と中井町の境界になっているようです。 小型車一台が通れるだけの幅なので、対向車が来たらどうするのだろうと思っていると、 道幅が広がってすれ違うことが出来る所がありました。 忍石から4分ほど進んで作業小屋を過ぎていくと、左手には梅林が広がっていました。 その右脇に続く降り坂になった道を進んでいくと、左手の樹木越しに丹沢の山並が見えるようになってきます。 右手から来る道を併せてその先へ進んでいくと、送電線の鉄塔「二-湯2号」が立っています。 忍石から9分ほどの所になります。 ここで道が二手に分れています。 道標類は見かけませんでしたが、正面の道は地形図に載っている破線の道のようです。 左手の道の少し先には「通行注意」の標識が立っていましたが、 今回は眺めが広がりそうに思える左手の道を進んでいきました。
(家に帰ってから考えてみると、正面の道の方が分かり易かったようです)
二-湯2号 お願い
この送電線は、6万6千ボルトの高電圧です。 下記の事柄について御連絡下さい。
1.送電線の附近に建造物を建てられるとき。
2.送電線に接近して作業をされるとき。
3.送電線の附近で火災がおきたとき
 (新鶴見給電メンテナンスセンター、中央給電指令)
降り坂になった広めの道を進んでいくと、 右手には湘南平方面へ続く山並が、左手には丹沢の山並を一望出来る眺めが広がってきました。 丹沢大山から主脈にかけての山々が良く見えていました。 予想した通り眺めが広がってきて、こちらの道で良かったと思いながら降っていきました。 住宅地を造ろうというのでしょうか、左側の山は造成中のようでした。
2番鉄塔から4分ほど降ってコンクリート舗装された道になると、道が左右に分れていました。 左手の道の先にはロープが張られていて「立入禁止」の看板も出ていたので、右手の坂道を降っていきました。 ミカン畑に続く傾斜の増した坂道を降っていきます。 まだ実が生っている木もありました。 道なりに右へ曲がっていくと作業小屋の脇に降り立ちました。 右手は登り坂になっているので、左手の作業小屋の前の軒下を過ぎていくと、 浅い谷筋をU字形に曲がっていく道に出ました。 手元の地図を見ても何処なのか分りませんでしたが、右側に続く青い網沿いに進んでいきました。
畑の中には「農林水産省補助事業」の看板がありました。 農業生産体制強化総合推進対策、ウルグアイ・ラウンド農業合意関連対策として、 「りんごわい化栽培等緊急推進対策事業(みかん等果樹園緊急整備事業)」の事業の対象地だったようですが、 内容はよく分りませんでした。 振り返ると、先ほどの2番鉄塔から降ってきた斜面を一望することが出来ました。
右手からの道を併せて進んでいくと、作業小屋が幾つか建っていました。 そこを過ぎて少し右へ曲がっていくと、左手の竹林から登ってくる道が合流してきます。 どちらへ進んだものかと考えても分らないので、少しでもしっかりとしている様子の正面の道を進んでいきました。 少し進んだ所から振り返ると、ミカン畑の先に広がる竹林が綺麗な眺めでした。
少し登り坂になってきた道を進んでいきます。 坂を登り切ると、右手から降ってくる道が合流してきます。 家に帰ってから調べてみると、右手の道は2番鉄塔の立つ分岐を直進してきた道のようでした。 その道を併せて降り始めると、すぐに右手からの道が合流してきました。 その道も併せて降っていくと、何故だか「有楽町線案内」と書かれた戸が取り付けられた小屋がありました。 描かれている路線図の駅名を見ると、東京の地下鉄の有楽町線のようでしたが、 わざわざ新たに造ることもないように思えるので、どこかの廃材を貰ってきて取り付けたのでしょうか。
降り坂になったコンクリート舗装路を進んでいきます。 山際を降っていくと、左手へ曲がっていく角から右手へと道が分れていきます。 角に立つ電柱には「明沢支R18/29」「吉祥359」の標識が取り付けられていました。 一応は地図を持参してきたものの、ここが何処だか調べる気力は残っていませんでした。 左手に曲がっていく道の方が自然な感じで続いていたので、右手の道は見送っていきました。
(家に帰って調べてみると、右手の道でも車道へ降りて行かれるようでした)
道なりに左手に続く坂道を降っていくと、右側には犬の飼育所のような所がありました。 私が通りかかったので多くの犬が一斉に吠え出しましたが、柵があるので安心でした。 この先にあった標識によると「イシダ犬舎」というようでした。 そこを左手から回り込むようにして降っていくと、 少し曲がった十字路とY字路が続いたような分岐がありましたが、 どの道を進んだものかと考えてみても分るはずもないので、 ここは意を決して、正面に続くビニールハウス沿いの道を降っていきました。
CENTRAL CANINE ENTERPRISE ASSOCIATION
CCC JAPAN
神奈川県畜犬協合組合
社団法人 ジャパンケンネルクラブ
公認 中央畜犬事業組合
推奨店
沼代地区
ビニールハウスの脇を降っていきます。 作業小屋を過ぎて浅い谷筋の山際に続く道を降っていくと、やがて民家が見えてきました。 その脇を過ぎていくと右手へ道が分れていましたが、正面へと進んでいきました。 石垣に沿って左手へ曲がっていくと、突き当たりに秋沢園がありました。 この先で見かけた看板によると、植木や果物などを扱う農園のようでした。 そこを道なりに右へ曲がっていくと車道に降り立ちました。 イシダ犬舎から7分ほど、2番鉄塔から29分ほどで降りて来られました。 入口には「秋沢園」を指す看板が出ていました。 手元の地図によると、ここは沼代地区で、左右に通る車道はやまゆりラインになります。 地図上で秋沢園も見つけて現在地が分り、ひと安心したのでした。
やまゆりラインは小田原市と中井町を繋ぐ延長11.3kmの広域農道です)
明澤児童館
やまゆりラインを左手へと進んでいきます。 100mほど進んでいくと斜めになった十字路があります。 そこを直進していくと、道路の脇に明澤児童館がありました。 前には屋根だけの祠に双体の地蔵が佇んでいました。 少し先の土手には「明治五申六月吉日」と刻まれた石仏が佇んでいました。
明澤児童館を過ぎて200mほど進んでいくと、車道が二手に分れています。 やまゆりラインは左手へ曲がっていきますが、今回は正面に続く道を進んでいきました。 分岐から200mほど進んでいくと、左手に入っていく路地がありました。 入口には「日蓮宗久成寺」と刻まれた石標が立っていて、 道の先には久成寺と思われる建物も見えていたので、立ち寄っていくことにしました。 生垣とブロック塀の間を進んでいくと、左手の高みへ登っていく石段がありました。 上には何があるのだろうと思って登ってみると、石仏などが幾つも並んでいました。 墓石のような物もありましたが、墓地なのでしょうか。
久成寺
石段を引き返して奥へ進んでいくと、右へ曲がった所に久成寺がありました。 坂を登って両側に立つ石門から入っていくと、正面に本堂がありました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでしたが、由緒がありそうな佇まいでした。 左手にはお堂があって、中にある白木の祠には小さな雛が沢山収められていました。 お堂の脇には休憩舎のようなものもありました。 本堂の右側には寺務所や庫裡と思われる建物がありました。 左手から裏手にかけては墓地になっていました。
今月の聖語
一滴の水 漸漸に流れて大海となり 一塵積りて須彌山となる
=小と大の相関= 日蓮聖人御遺文『唱法華題目鈔』 文応元年(1260年聖寿39歳)
大海の一滴となればごくごく微量。 あるかなきかすら知れぬほどである。 存在感もわからぬから、まして存在意義はないかのようである。 けれども、そのような存在も意義も乏しい巨海の一滴であっても、 その一しずくのより集まりが凝ってついて成したのが大海である。 つまるところ、微少の一滴なくては大海たり得ないのである。 かくして極微が極大をなりたたせているのであるから、 微量な一滴の存在の意義と価値は途方もなく巨大であるといわねばなるまい。 「衆流あつまりて大海とある」のだから「一塵積りて須彌山となる」のは当然である。 こうして我等、非力を嘆き無力をかこつこと全くなし。 巨木の幹を穿つ小鳥がいる。 雨垂れもいつした石に穴をあける。 要すれば精勤あるのみ。 なせが成り、なさねば成らぬのである。 云く。「為す者は常に成り、行う者は常に至る」。
秋葉神社
元の道まで引き返してその先へ150mほど進んでいくと、農産物の直売所がありました。 道路向かいの角には、五輪塔や双体地蔵などが幾つか並んでいました。 そこから左手に分れていく路地の先の小山に赤い鳥居が見えたので、ここでも立ち寄っていきました。 山の手前を右折した所から続く急な石段を登っていきます。 途中にある赤い鳥居をくぐって更に石段を登っていくと、植込みが続く先に社がありました。 正面には「秋葉神社」の扁額が掲げられていました。 社の中には白木の小祠があって、「秋葉神社神璽」と書かれた木札が収められていました。 内側の壁には文字がびっしりと書き込まれた大きな板が掛っていましたが、 暗くて何が書かれているのかは分りませんでした。
坂呂橋(さかろばし)バス停
元の道まで引き返してきてその先へ進んでいくと、県道709号の坂呂橋交差点に出ます。 正面に流れる中村川には坂呂橋が架かっていますが、横断歩道を渡って右手へ進んでいきます。 数10m進んでいくと、右手から明沢川が流れてきます。 中村川の支流になるようです。 そこを過ぎた先に坂呂橋バス停があります。 やまゆりラインに出た所から30分ほどで到着しました。
二宮駅(JR東海道線)まで、[二30][二31]二宮駅南口行きバスにて18分、1時間に2本程度の便があります。