吾妻山公園
散策:2011年02月上旬
【街角散策】 吾妻山公園
概 要 吾妻山公園は二宮町にある低い山を利用した公園です。 広場には菜の花が咲き、展望台からは丹沢・箱根・伊豆・相模湾などを一望できる眺めが広がっていて、 条件がいいと富士山を望むこともできます。 今回は東寄りの尾根道から吾妻山へ登り、梅沢に降って相模国の二之宮である川匂神社へ向かっていきます。
起 点 二宮町 二宮駅
終 点 二宮町 団地中央バス停
ルート 二宮駅…尾根道入口…展望所…浅間神社…吾妻山…吾妻神社…神明神社…梅沢登り口…西光寺…川匂神社…農道…52番鉄塔…百合ヶ丘地区…団地中央バス停
所要時間 2時間50分
歩いて... 吾妻山の山頂には満開の菜の花が綺麗に咲いていて、辺り一帯にいい匂いが漂っていました。 スイセンも沢山咲いていましたが、残念ながら山頂からの眺めは霞んでいて、 富士山も微かに見える程度でした。 川匂神社では「雛の吊し飾り展」が催されていて、綺麗な雛に目の保養をさせて頂きました。
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コース紹介
二宮(にのみや)駅
二宮駅(JR東海道線)から歩いていきます。
北口の階段を降ていくとバスターミナルがあります。 「吾妻山公園のご案内」と題した看板があって、入口までの道が図示されていますが、 今回はこの図に載っていない東寄りの尾根道から登っていきます。 正面には二宮町公民館があって、その角に立つ道標によると、 正面に続く道は「吾妻山公園・二宮町役場方面」、左手の道は「吾妻山公園梅沢登り口・川匂神社方面」となっています。 基礎の壁には「この道のさきへ…」という題名の壁画が描かれていました。 左手へ進んでいくと、梅沢登り口がありますが、正面の道を進んでいきます。
この壁画は、活気ある明るいまちづくりをめざし二宮町商工会青年部創立40周年記念事業として 「吾妻山」の素晴らしさを描いたものです。 吾妻山山頂へはゆっくり歩いて30分程です。 四季それぞれの自然体験と眼下に広がる相模湾や雄大な山々が一望できます。
 (二宮町商工会青年部)
尾根道入口
僅かな坂道を登っていくと、すぐに十字路に出ます。 そこを左折していくと、駐車場の先の歯科医院の脇から右手へ分かれていく路地があります。 そのまま正面の坂道を登っていくと吾妻山公園の入口ゲートがありますが、 今回はその歯科医院の脇に続く路地へ入っていきます。 高いコンクリート壁沿いに進んでいきます。 壁が低くなってきて山際を進むようになると、未舗装の坂道が左へ分かれていきます。 幅は広いものの段差が少し付いていてあまり利用されていない様子の道ですが、 今回はここから尾根道へ登っていきます。
民家の裏手を過ぎていくと、左側には金網柵で囲まれた空地がありました。 右側の下には民家が見えていて、そこから登ってくる道もありました。 その道を併せて金網柵沿いに更に進んでいくと、森の中へ入っていきます。 登り坂になってきた山道を進んでいくと、程なくして道が右手へ分かれていきますが、入口は柵で封鎖されています。 竹林の脇に続く山道を柵沿いに登って尾根に着くと、正面からも道が登ってきます。 知足寺方面から吾妻社を経て登ってくる道ですが、吾妻山へは左手の竹林に続く尾根道を登っていきます。
(正面の道は「吾妻山公園」を参照)
山道にしては広めの道を登っていきます。 道には竹の葉が沢山落ちていて、気持ちの良い道が続いています。 2分ほどで竹林を抜けると少し開けた感じの所に出ます。 そこからU字形に抉れて傾斜の増してきた道を登っていきます。 かなり傾斜があって脹脛が痛くなってきたりします。 その上、落ち葉が厚く積もって滑りやすくもなっていますが、 コンクリート製の囲いのようなものを過ぎていくと、傾斜が緩んで歩きやすい尾根道になってきます。
樹木の間から相模湾や三浦半島を眺めたりしながら登っていくと、縦板の階段が現れます。 土が流れ出して抉れている訳でもなくて、歩きやすい階段になってきました。 階段の両側には柱が点々と設置されていますが、ロープなどは張られていません。 まだ工事の途中のようにも思えますが、2年ほど前に来た時も同じ状態だったので、これで完成形なのでしょうか。
展望所
階段を30秒ほど登っていくと、吾妻山公園ツツジの丘の端に出ました。 二宮駅から15分ほどで登って来られました。 出た所にはロープ柵が設置されていたので、まだ工事は終わっていないようでした。 斜面にはツツジの木が一面に植えられていますが、花の季節ではないので咲いてはいませんでした。 横木の階段混じりの散策路を右上の方へ折れ曲がりながら2分ほど登っていくと、 テーブル・ベンチが幾つか設置された所があります。 双眼鏡も設置されていて展望所になっています。 空気が澄んでいると、湘南の街並みの向こうには、 相模湾に浮かぶ江ノ島や烏帽子岩や三浦半島などを望むことが出来るのですが、 この時には残念ながら霞んでぼんやりとした眺めでした。 それでも湘南平にあるテレビ塔は何とか見えていました。
浅間神社
展望地から折れ曲がりながらツツジの丘を更に2分ほど登って高みに着くと、浅間神社が建っています。 正面には「浅間神社」の扁額が掲げられていて、社殿の中には注連縄を渡された白木の祠がありました。 解説文にある「内宮」になるようです。
浅間神社
祭神は木花咲耶媛、二宮町上町地区の祭神で、 土地の人には浅間さんとして親しまれ、本社は富士浅間神社です。 木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、 良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。 今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、 曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。 この時、二宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。 後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて、自分の住いの前のこの山上に、 浅間神社をまつったと言われています。
この度社殿老朽にともない新築、内宮は大修理を施し装いも新たになりました。 尚、修復した内宮(一部の彫り物も含む)は1700年後期寛政の頃の作といわれています。
付記 修理されし内宮の各部
1.柱 2.像鼻 3.側面蛙股 4.左海老虹染 以上
 (平成19年3月吉日 二宮町二宮 上町町内会)
浅間神社の奥へ続く広い道を緩やかに降っていきます。 道端にはスイセンの白い花が沢山咲いていました。 遊具や管理事務所などがある広場を左下に見ながら降っていくと、左右に通る舗装路に出ます。 そこから右手へ僅かに登ってに着くと、道が二手に分かれています。 周囲には道標や看板などが幾つも設置されています。 それらによると、正面へ降っていく道は「釜野口・中里口・小動物園」、 左手の道は「芝生広場・展望台」、今来た道は「吾妻神社・二宮駅」となっていて、簡単な地図もありました。 今回は左折して吾妻山の頂上へ向かいます。
吾妻山 (標高136.2m)
道の左右にはツツジの木が並木を作っていて、その両側にはアスレチック器具が点々と設置されています。 ロープ製の吊橋の下を過ぎていくと左右に道が分かれる所に出ます。 その右手の道を進んでいくと吾妻山の頂上に着きます。 ツツジの丘に出た所から17分ほどで登って来られました。 吾妻山の山頂には「展望台」と呼ばれる円形状の石積みがあります。 中ほどには円筒形の案内標識があって、房総半島から伊豆半島にかけての地図や、 ここから見える山や島などの名前が記されていました。 北側には丹沢山系、西側には箱根連山、南西側には小田原から伊豆にかけての海、 南東側には相模湾から三浦半島などを見渡せる素晴らしい景色が広がる所ですが、 この時には遠くが霞んでいて、富士山を始めとして周囲の眺めは残念ながらぼんやりとしていました。
吾妻山公園
昭和62年(1987)7月18日開園、 面積113,664u、 海抜136.2m
大山1251.7m、三ノ塔1205m、塔ヶ岳1491m、桧洞丸1601m、御正体山1682m、矢倉岳870m、金時山1213m、 明神岳1169m、大涌谷、神山1438m、駒ヶ岳1327m、上二子山1090m、下二子山1064m、伊東市、 初島0.44ku、式根島3.9ku、新島23.8ku、利島4.1ku、大島19.8ku、三浦半島、房総半島
お願い
・公園内は禁煙です。火を使ってはいけません。
・犬のフンは飼主が後しまつして下さい。犬の放し飼いは禁止します。。
・ゴミは持ち帰って下さい。
・他人に迷惑のかかる行為及び管理に支障のある行為は禁止します。
山頂は広い芝生広場になっていて日当たりがよく、ピクニックには最適な所です。 広場には「吾妻山公園の由来」と題した大きな石碑や「山頂136.2m」の標識もあります。 この時には、山頂の西側に植えられた菜の花が満開になっていて、辺りには良い匂いが漂っていました。
吾妻山公園の由来
相模路の淘綾の濱の真砂なす 児らは憂しく思はるるかも 萬葉集第十四 東歌
(さがむじの よろぎのはまの まなごなす こらはかなしく おもはるるかも)
万葉の昔から淘綾の里二宮の美しい海浜と、それを眼下に一望できる吾妻山は、人々のふるさとでありました。 しかし、第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で、山は顧みられることもなく、 次第に荒廃が進んでいきました。 町はこれを深く憂え、子孫に誇れる山として残したいと思い、 地権者65名の協力と5年の歳月をかけて整備し、昭和62年7月18日に吾妻山公園として開園しました。 現在では健康づくりと自然とふれあうやすらぎの場として人々に喜ばれています。 この公園は名誉町民第17代柳川賢二町長の尽力により完成しました。
 (顕彰会)
淘綾の濱とは、ゆるぎ・こゆるぎの浜ともいい、二宮を中心に国府津から大磯あたりまでの白砂青松の海浜をいいます。
吾妻神社
芝生広場の南側にある東屋の先から続く横木の階段を降っていくと、 程なくして吾妻神社の境内に降り立ちます。 本殿と拝殿から成る立派な社殿でした。 本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 境内には「吾妻神社 由来記」と題した解説板がありますが、 1年ほど前に来た時から作り直されていて、書かれている内容も変っていました。 拝殿の前には「自由にお持ち下さい」として、神社の由来の書かれたビラが置いてありますが、 神社の前にある解説板と同じような内容でした。 境内には「吾妻山純情」と題した歌碑もありました。
吾妻神社 由来記
吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まると云う。 弟橘媛命を祭神とし日本武尊を配祀する。 日本武尊は景行天皇の第三皇子であり、天皇にそむく部族を征伐するため東北におもむく途中、 三浦半島走水から海路上総に渡るとき暴風突如に起こり、 命は夫にかわり海神の怒りを静めるため夫の武運を祈り、別れに望んで往時を回想され、 「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と海中に身を投じた。 するとたちまち海は穏やかになったと云う。 その七日後に命の御櫛が海辺に流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。 この海岸に命の小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。 また日本武尊は東北戦が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海を眺め、 「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。 弟橘媛命の御神像は木彫りの千手観音で、既に千数百年星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に安置されている。 吾妻神社は「縁結びの神」として知られ例祭日は 例大祭1月第3日曜日、例祭8月15日
吾妻山純情
二宮町・梅沢・袖ヶ浦に伝わる日本武尊・弟橘姫の神話より
白峰紅葉清秋を飾る  敵兵野原火謀を図る  建命静かに草薙剣振るい  救軍迎え火平定仇せり  暴風遮断す走水の浜  愛妃鎮座す水神の前  さねこし相武の小野に燃ゆる火の  火中に立ちて問いし君はも  風凪ぎ全軍雄途に発す  静謐夕陽関津に映ゆ  建命人を恋う吾妻山  探訪漂着山関に到る  愛姫静立主君を迎う  相い約す両人永遠の綸
平成二十年四月四日
作詞 神奈川県立二宮高等学校 元校長 伊藤健先生
社殿の正面にある鳥居の先に続く石段を降っていきます。 石段を降り切ると左へ曲がって、斜面に続く幅の広い横木の階段を降るようになります。 段差はそれほど高くはなくて歩き難くはありません。 何度か折れ曲がりながら、横木の階段を降っていきます。 所々にはビールケースを裏返したベンチが設置されていたりもします。 神社から5分ほど降っていくと、竹林の脇にある舗装された所に降り立ちます。 ここから右へ曲がって、横木の階段混じりの道を更に降っていきます。
ご案内
縁結びの神様、吾妻神社
ご参拝下さい
 (吾妻神社 宮係)
緑は友だち 山火事注意
自然を守りましょう
 (森林国営保険、神奈川県)
神明神社
土砂崩れ等の恐れあり!!通行注意」の看板を過ぎていくと、 右手にこじんまりとした広場があります。 その手前から分かれていく石段を登っていくと、林の中に小振りの神明神社が佇んでいます。 脇には道祖神・馬頭観世音・地神などの石碑が並んでいました。 広場の脇には立派な鳥居が立っていますが、祠の大きさとは何となくアンバランスな気がしました。 以前にこの広場に相応の社が建っていたのか、あるいは、先ほどの吾妻神社の鳥居ということなのでしょうか。
梅沢登り口
神明神社から元の道に戻ってその先へ降っていきます。 鳥居から降ってくる石段を併せてその先へ降っていくと、左右に通る車道に降り立ちます。 吾妻神社から11分ほどで降りて来られました。 出た所の脇には「吾妻山公園梅沢登り口」の標識が取り付けられていて、 「吾妻山公園案内図」も設置されていので、こちらから登る時には参考になります。 正面にはJR東海道線が通っていて、線路を跨いでいく歩道橋も架かっています。 歩道橋の袂には梅沢バス停がありますが、便は僅かしかありません。 ここは「にのみや健康ウォーキングコース山西コース」のルートにもなっているようで、 その案内板もありました。 ここから左手へ800mほど進んでいくと二宮駅へ戻っていけますが、 まだまだ時間に余裕があったので、右手の先にある川匂神社を訪ねていくことにしました。
にのみや健康ウォーキングコース 山西コース スタート地点
距離4.70km、所要時間67分
消費カロリー(Kcal) 男性237.8、女性229.4
●吾妻神社入口●釜野老人憩いの家●梅沢橋跡●吾妻神社入口
二宮町ホームページでは「湘南にのみやの散策」の5コースと 「ウォーキング・ジョギングコース」の6コースが紹介されています。 ここの案配板にあるコースと同じ名前の「山西コース」というのもありますが、 ルートは少し違っているようでした。
車道沿いの歩道を進んでいきます。 沿道には梅の木などが並木を作っていました。 左側に梅沢川が流れるようになると、僅かに右へ曲がって降り気味に進んでいきます。 川に架かる小さな橋を見送っていくと、右側には畑地が続いていて、 その一角はふれあい農園になっているようでした。 そこを過ぎていくと、梅沢川を渡っていく道が左手へ分かれていきます。 角には道標が立っていて、正面へ続く道は「せせらぎ公園・吾妻山公園釜野登り口」、 左手の道は「川匂神社・町民運動場」となっています。 今回はここから橋を渡って川匂神社へ向かっていきます。
ふれあい農園
この農園は許可された者以外は使用できません。
 (二宮町役場経済課)
農園利用者へのお願い
1.近隣の住宅に迷惑をかけないこと。
2.農園内の通路の清掃、草むしりは徹底して行うこと。
3.野菜クズ、ゴミ等は農園には捨てず、必ず持ち帰り処分すること。
 (経済課農政係)
橋を渡って住宅の脇を過ぎて右側に畑が広がってくると、左手から来る二車線道路に出ます。 そこから右手の先へ車道を進んでいくと、運動場入口交差点があります。 角には先ほどと同様の道標が立っていて、正面の道は「せせらぎ公園・吾妻山公園釜野登り口」、 左手の道は「川匂神社・町民運動場」、今来た道は「二宮駅・吾妻山公園梅沢登り口」となっています。 道標に従って交差点を左折していきます。 山西プール前バス停を過ぎて少し登り坂になってくると、左側に町営山西プールがあります。 その先にある小山の手前から二宮町民運動場への道が右へ分かれていきますが見送っていきます。
切通になった所を過ぎて降り坂になってくると、在宅総合センター「はなの杜」があります。 その先の川匂神社入口バス停を過ぎていくと、右手に分かれていく道があります。 ここが川匂神社への入口になります。 脇には道標が立っていて、正面の道は「茶屋薬師堂・東海道一里塚の跡」、 今来た道は「吾妻山公園梅沢登り口・釜野登り口・二宮駅」となっています。 横断歩道を渡った所には「相模国二宮 川匂神社 入口」の看板が立っています。 正面の道は、JR東海道線を跨ぐ川匂橋を渡って、国道1号点へと続いていますが、 案内に従って、右手に分かれていく道へ入っていきます。
(正面の道は「吾妻山公園」を参照)
畑地の中に続く道を真っ直ぐに進んで民家が建ち並ぶようになると、登り坂になってきます。 坂をほぼ登り切って切通のようになった所まで来ると、右手に分かれていく道があります。 角には「真言宗無量山西光寺」と刻まれた石標と、「無量山西光寺」の掲示板があります。 石標の奥の石垣の上には大日堂があって、中には三重寶塔が安置されていました。 川匂神社へはこのまま切通を過ぎていくのですが、この右手に西光寺があるので立ち寄っていくことにしました。
白壁の民家と墓地の間に続く路地を進んでいくと、西光寺の石柱の門があります。 その手前には子育て延命地蔵尊が立っています。 門から境内へ入っていくと、右手の藤棚の下には六地蔵が並んでいました。 奥の方には「悠響の鐘」の鐘楼もありました。
子育て延命地蔵尊
今から二百年ほど前、寛政九年、大津波と疫病蔓延のため多くの子供がその命をなくした。 病児を船に乗せて隔離するしかすべが無く、命絶えていく子らを涙ながら浜辺で見送る親の悲しみは、 言葉で言い尽くせるものではなかった。 これを悼んで押す切の人々は子供の慰霊と子育て延命、厄除けを願い、この地蔵尊を建立された。
平成九年秋彼岸 記之、 平成十七年秋改めて建之 山王
悠響の鐘
念ずれば 花ひらく 真民
この鐘楼堂、梵鐘は、篤信の母親が愛娘恵子様の菩提を祈る慈悲の証として発願され、 浄財を寄せられ、縁者の協力の中で完成せり。 更に梵鐘は、四国板村真民先生より贈られし詩が鋳込まれ、20世紀より21世紀に響き続け、 世界の平和と万民豊楽の願いをこめて、「悠響の鐘」と命名せり。
梵鐘に寄せられし真民先生のことば。
千年の鐘になり、二千年代を響き続けて大和の国日本の平和と幸福とを響かせてくれることでしょう。 まさに新時代の発展を告げる鐘の思いが伝わって参ります。 仏縁詩縁を感謝いたします。
この鐘楼堂完成にむけ布施の手をさしのべられし、多くの方々に感謝の誠を捧げこれを記す。合掌
 (西光寺二十世光洋)
西光寺
中ほどには天然記念物に指定されているカヤの巨木があり、その奥に西光寺の本堂があります。 梅沢登り口から21分ほどで着きました。 本堂の右側には庫裡と思われる建物がありました。 お寺の謂われを記したものは見かけませんでした。
かやの木 天然記念物 真言宗 西光寺
樹高実測18.25m 胸高周囲実測3.27m(直径1.04m)
樹齢は推定500年であり、高さ15.5mで分枝し、直径15〜30cmの太さの幹40数本を四方に張り出し、 見事な樹冠を形成している。 室町期文明年間(1470)年代に当る古樹で、しかも郷土固有の樹種である。
 (二宮町教育委員会)
本堂の左側には慈母観音があり、その奥には太鼓橋の形をした不動橋が架かっています。 橋の左手には池があって大きな錦鯉が沢山泳いでいて、脇の岩の上からは滝のように水が流れ落ちていました。 橋の先には「三寶洞」という名前のトンネルがあって、その向こうの墓地へ続いています。 トンネルの中には「慈光殿」という空間があり、赤い前掛けをしたお地蔵さんがずらりと並んでいました。
川匂神社
西光寺から元の道まで引き返して切通を過ぎていきます。 降り坂になってくると、二宮西中学校の校門を過ぎていきます。 トーテムポールが立つ老人憩いの家を過ぎていくと、少し曲がった十字路があります。 角には「郷社 川匂神社」と刻まれた石柱や 「延喜式内社 相模国二宮 川匂神社」と書かれた看板などが立っていました。 左手へ進んでいくと「川匂の湯場」などがありますが、正面に続く道を進んでいきます。 左手には川匂神社の参拝者専用駐車場があり、脇の二宮町公衆トイレの隣りには 「二宮町と吾妻山の展望」と題した大きな案内図があって、 各所の簡単な解説文も載っていました。 駐車場を過ぎて登り坂になってくると、 右手へ曲がって登っていく坂道の角に「川匂神社」の扁額が掛る鳥居が立っています。 鳥居をくぐって、その先に続く石段を登っていきます。
二宮町と吾妻山の展望
青い空の下、海岸、葛川、吾妻山をはじめとする里山、その間に閑静な住宅地が広がる小さな町。 星にまつわる伝承や懐かしい風景、季節の花々に出会えます。
浄源寺  本尊阿弥陀如来立像は町の分解財。
川匂神社  元は師長国の一宮。 相武国との合弁で相模国となる時、旧相武国一宮の寒川神社が相模国の一宮、川匂神社は相模の二宮となった。 この序列争いは今なお毎年大磯の神揃山の神事で行われる。 「星祭神事式伝書」保存。
西光寺  身代延命子育地蔵や、樹齢五百年以上で町指定天然記念物のカヤの大木がある。 星祭時に発行した版木保存。
二見利節の墓  二宮出身の洋画家故二見利節は「在らす」を造ることが画なのですと言い、それが墓碑銘に刻まれる。
茶屋の薬師堂  川匂神社の本地仏が明治維新で分離。 町の文化財の坐像は高さ261.5センチ。大正まで密巌院にあった。
吾妻神社  日本武尊が三浦半島の走水から上総に渡る時海が荒れ、妻の弟橘媛命が海神の犠牲となって入水。 彼女の櫛と小袖が二宮の浜に漂着し、それを山頂に祀る。 日本武尊が東征の帰路海を眺めて「吾妻はや」と亡妻を偲び、この社の名となった。
等覚院  白藤の古木で、藤巻寺とも言う。梵鐘は町指定分解財。
大応寺  元禄年間に新田開墾した萬年佐左衛門寄進の釈迦三尊がある。 彼の墓はここにあり、近くの橋は萬年橋と言う。
ガラスのうさぎ像  戦争末期二宮駅の空襲で父親が死んだ少女の話が高木敏子氏の作品「ガラスのうさぎ」で書かれ、 後にこの像が建った。
果樹公園  ここは県園芸試験場の跡地。当時品種改良したナシ・モモの原木が育つ。
蘇峰堂の梅林  徳富蘇峰の秘書故塩崎彦市氏の屋敷が蘇峰の遺品を展示する。 庭に樹齢三百年以上の梅の老木がある。
旧湘南軽便鉄道線  今から100年以上も前の明治時代に二宮と秦野を結ぶ馬車鉄道が開通し、 大正時代には馬車から蒸気機関車に代わり、軽便鉄道ができた。 主に秦野を産地とする煙草葉の輸送が目的で、人員輸送も。
 (二宮ロータリークラブ)
両側に玉垣が設置された石段を登っていくと、趣のある茅葺き屋根の随神門があります。 両側には椅子に腰掛けた姿勢をした1mほどの神像がありました。 添えられた木札によると、向かって右側は「豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)」、 左側は「櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)」というようです。 脇には解説文が掲示されていました。 古い仮名遣いになっていましたが、そのまま載せておきます。 門には「随神門」と書かれた札が取り付けられていましたが、解説文では「随身門」となっていました。 門を入っていくと川匂神社の境内になります。
シリーズ神々と出逢ふ 川匂神社随身門について
当神社は相模国ニ之宮であり、古くから二宮大明神とも称し、『延喜式』所載の相模十三座のひとつであります。 創建は、第十一代垂仁天皇の朝、当時余綾郡・足柄郡両郡の東西海浜周辺を磯長國と称してゐた頃 国造阿屋葉造によって創建されました。 一般には随身門とは、神社に兵仗を帯した随身の像を安置してある門であります。 随身とは貴人の身に随ふ事で供人の門といふ意味で、その中に安置してある随身は袍を着、巻纓の冠をつけ、 剣を帯び弓箭を負ひてゐる為、矢大臣とも又門の神である豊磐間戸命・櫛磐間戸命を表したものであるとも云はれてをります。 当神社の随身像は豊磐間戸命・櫛磐間戸命をお祀りし、 茅葺きの古き門の左右に安置されてゐる一対の倚像形の随身(守門神)であります。 当神社の記録によると、応永年間、兵火に罹り社殿宝物等悉く焼失の折、神像共々災を免れたとあります。 二躯ともに歳月を経、風雪に耐へ、その造形は著しく摩滅し、また虫損も進み、 像容の細部を明らかにしない程に変化してゐます。 しかしながら、巾子冠を被り袍を着け、沓をはいて倚座する威風堂々たる全体形はよく保たれてゐます。 頬骨の張った厳つい面貌や、ゆったりとした袍の袖に刻まれた衣丈、先のとがった沓など、 しっかりとした造形がみてとれます。 構図は巾子冠から脚部まで全てを含む全くの一本造で、複数の節をともなった広葉樹を用ゐて作製されてゐます。 専門の学者によれば、太く厳つい造形は、地方の作ではありますが、平安期の制作を頷かせるものであり、 それは随身の古像として知られてゐます岡山・高野神社の立像(応保2年=1262)などとも一脈通ずる雰囲気をもってゐるさうです。 制作期間は十二世紀と考察されてをります。 中世期に入ると随身は半蹴像が多くなり、本像の倚像である展はまた古式を示すものと考へられるさうです。 傷みの著しい点がおしまれますが、県下における現存最古の随身像として、非常に重要な存在であります。
 (川匂神社宮司 二見直樹)
境内の左側には神輿殿があります。 この時には扉が開かれていて、中に収められた特大の神輿を間近に見ることが出来ました。 これを担ぐのには相当の人数が必要だろうと、その大きさに圧倒されるのでした。 毎年5月に催される相模国府祭に出るこの神輿を見たことがありますが、 ふたつの国が合併する前には一之宮であった神社の神輿は流石に立派だと思ったものでした。 神輿殿の前には「修復前」「修復後」の大神輿を一基ずつ写した写真が掲示されていましたが、 一緒に写っている写真も見かけたので、 「修復」とは云っても修理したのではなくて、新たに造ったように思えました。 神輿殿の横には大神輿修復奉賛者の多くの名前を記した特大の掲示板がありました。
修復前
延喜式内社 相模国 二之宮 川匂神社 大神輿
天正十九年(1591)幸卯年建造、明治五年(1872)六月再興、大正七年(1918)九月修理
修復後
延喜式内社 相模国 二之宮 川匂神社 大神輿修復竣成
平成十七年九月二十五日(2005)
古文書・田舟 川匂神社所蔵 二宮町指定重要文化財
一、古文書 小田原北条氏の臣山角刊部左衛門の書状
北条氏鬼門除守護神として信仰あつく元亀3年(1572)正月三嶋麻役銭など寄進のもの
徳川家康公五十石の寄進状の写し 天正19年(1591)
徳川家康公の書状
文禄の役家康九州名護屋財人のときの礼状など十一点
これら多くの古文書により、当川匂神社が古くから幕府および有力な武家の深き信仰を受けていたことがわかる。
二、田舟 長141.0cm 厚さ4.8cm 巾31.0cm
全容の左半形のみで、原木をくりぬいて作られ、 わが国古代奈良朝の頃まで田植えの苗運びに使用されたものと推定される。 大正4年5月当神社浦旧神領地より発掘されたものである。
 (二宮町教育委員会)
平成元年度選定 かながわの建築物100選 川匂神社
社殿では、垂仁天皇の頃、師長国造(しながのくにのみやつこ)が創建したとされている。 平安時代末から行われている国府祭(こうのまち)では、一の宮寒川神社と二の宮川匂神社が上座を争い、 座問答をすることは有名。 現在の社殿は、江戸時代のものと推定されている。
 (神奈川県)
(相模国府祭は「相模国府祭」を参照)
神輿殿の右手の手水舎の隣りには杉の大木「夫婦杉」が2本寄り添うように生えています。 注連縄を渡されていて御神木なのでしょうか。 その後ろ側には舞殿があって、紅白の垂れ幕が張られていました。 舞殿の左横には、正月で使われた茅の輪くぐりが置かれていました。 右横には以前に使われていた石の鳥居が置かれていて、解説板も設置されていました。 その前には川匂神社例大祭奉納句に選ばれた俳句を記した木板が沢山掲げられていましたが、 以前に来た時とは違う句だったので、毎年作り替えられているようでした。
夫婦杉 縁結び・安産
川匂神社の御祭神の一柱である衣通姫命は允恭天皇と結ばれました。 名前のとおり美しさが衣を通して光り輝くといわれ、皇子の誕生には当社に安産を祈願したといわれています。 衣通姫命を縁結び・安産の神様と敬い、良縁・安産を願う方は夫婦杉の間を祈願しながらお通り下さい。
この石鳥居は文久元年第三十三代神官二見景賢代に大門参道入口に建立されたものです。 昭和四十五年道路改良工事による大鳥居新設に伴い撤去されたものです。 社号額字は明治ん叉十念大磯別邸に住まわれた侯爵伊藤博文公の揮毫によるものです。
境内の一番奥に川匂神社の社殿があります。 参拝の作法は「二拝・二拍手・一拝」とのことです。 拝殿と社殿から成る長い歴史が感じさせる社殿に思えました。 拝殿の奥には本殿があって、屋根には4本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 拝殿の両側には小祠がありました。 小振りな社ながらも注連縄が張られ御幣が下がっていました。
川匂神社
御祭神
大名貴命 日本の国土を御開拓なされた神様です
大物忌命 殖産興業に御功績のあった神様です
級津彦命 相模国が昔相武と磯長に分かれていた頃、
級津姫命 磯長の国を御開拓なされた神様です
衣通姫命 安産守護の神様です
御由緒
当社は相模国二宮で古くから二宮大明神と称し、延喜式所載の名社である。 十一代垂仁天皇の朝、当国を磯長国と称せし頃、その国造阿屋葉造が勅命を奉じて、当国鎮護のため崇招せり。 日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願ありしを始め、武将の崇敬深し。 人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫命、皇子御誕生安穏のため奉幣祈願あらせらる。 一條天皇の御宇、永延元年栗田中納言次男次郎藤原景兵当社の初代神官となり、爾来今日に及ぶ。 建久三年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。 建長四年、宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納めらる。 北條相模守小田原北条、小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず。 徳川の朝に至り、家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上、殊の外喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。 爾来徳川累代将軍に及ぶ正月には必ず江戸城に登城して、親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり、 幕末まで続行せり。 明治六年郷社に列せられ昭和七年県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。
この時には、境内の右側にある御祈祷受付所になっている参集殿では「雛の吊し飾り展」が催されていました。 靴を脱いで中に入っていくと、天上から沢山の雛が吊るされていました。 太い竹を半分ほど割った物に並べられているのもありました。 奥には立派な雛壇がありました。 明治時代のお内裏様というのもありました。 綺麗な雛達に目の保養をさせて頂きました。
母から娘に伝えたいもの
日本の伝統文化を子から孫へと伝えたい。 母の気持ち・親の心が脈々と続くと信じたく、この企画をしました。 この吊るし雛展は、二宮町や近在の方々それぞれの思いで参加をして頂きました。 この心の集の結集の成果です。 どうぞごゆっくりご覧下さい。
 (グリーンにのみやプロジェクト)
参集殿の入口には「相模国府祭六社めぐり」と題したパンフレットが置かれていました。 神奈川県の無形民俗文化財に指定されている相模国府祭(さがみこうのまち)の由緒と 参加する各神社の紹介などが載っていました。 一度観に出かけたことがありますが、なかなか趣のある祭でした。 神輿を担ぐ「どっこい、そぉれ!、どっこい、そぉれ!、どっこい、どっこい」という掛け声が いつまでも耳に付いて離れませんでした。 参集殿の前に張られたテントでは甘酒やつぼ焼芋を販売していたり、 野点の席などで見かける赤い大きな傘の脇ではお茶のサービスもしていました。 焼芋を食べようかと思いましたが、なかなか焼き上がらないので、心を引かれながらも諦めたのでした。
相模国府祭とは
毎年5月5日、相模国一之宮寒川神社・二之宮川匂神社・三之宮比々多神社・四之宮前鳥神社・平塚八幡宮・総社六所神社が大磯の斎場に集まり、 国家安泰・五穀豊穣・諸産業の繁栄を祈念する相模国最大の祭典が国府祭です。
【ご由緒】
大化改新(645)以後、地方には国々が再編成され、新たに赴任した国司は、 任国に着くと先ず最初に巡拝と称してその国の有力大社を参拝して回る制度がありました。 しかし時代がたつにつれて、国司の巡拝は大変な日数と費用、人員を要するため、 やがて巡拝する神社の御分霊を国府近くの神社に合わせ祀るならわしが起こり、これが総社の起源となります。 そして国司は巡拝をやめて総社に神拝し、国内安泰の祈願所としました。 そこで国司は総社に御分霊を納めていただくために、各神社に神輿を以て国府に集まるようお願いしました。 これが国府祭のはじまりともされています。
祭典当日《5月5日》
□午前9時30分総社御大祭
□午前11時神揃山祭
□正午古式座問答
□午後大矢場祭典
□午後3時40分神対面の儀
□午後3時50分国司奉幣の儀・裁許の儀
 (相模国府祭類社会)
農道
合わせて40分ほど居た川匂神社を後して、神社の北へ続く道に向かっていきます。 随神門の手前から左手へ進んでいくと、鳥居の手前で分かれてきた坂道に出ます。 そこから舗装されたかなり傾斜のある坂道を2分半ほど登って切通のような所まで来ると、 道は左手へと曲がっていきます。 その手前には「宮ノ前横穴墓群」と書かれた標柱が立っていますが、 辺りに横穴墓は見かけませんでした。 曲がり角のカーブミラーに取り付けられた看板によると、この道は農道のようです。 左手へ曲がった所から、右手へと細い道が分かれて降っていきます。 「八重久保横穴墓群」などがある山西地区へ降りて行かれますが、 少し傾斜が緩んできた農道をこのまま進んでいきます。
(右手の道は「吾妻山公園」を参照)
注意
ハンターのみなさん! この附近に人家・農耕地等があります。 狩猟に注意しましょう。
 (神奈川県)
自然環境保全地域
自然を大切にしましょう。 建築物の新増改築、土地の形質変更等は届出が必要です。
 (神奈川県)
農道につき、農作業車以外の車輌はご遠慮下さい。
 (大磯警察署、二宮町役場)
52番鉄塔
程なくして右側に植林地が現れると、林の中には1mほどに切られた木が積み上げられていました。 シイタケ栽培をしているのでしょうか。 坂を登り切って高台に出ると、左右には畑が広がるようになります。 ミカン畑の中には荷物運搬用のモノレールが設置されていました。 西側に続く曽我丘陵も見えるようになってきます。 送電線の鉄塔「西湘線52」の脇を過ぎていくと、次第に降るようになります。
坂を降り切って柵沿いに進んでいくと登り坂になってきます。 右手から来る道を併せて坂道を登っていくと、黄緑色のトタン壁の小屋を過ぎた所で、左側が開けてきます。 金網柵の下には東海道新幹線が通っていて、その先の方には曽我丘陵が横たわっていました。 ここを過ぎてS字形に小さく右手に曲がりながら進んでいくと住宅地に出ます。
百合ヶ丘地区
生垣などが続く住宅地を進んでいくと、右側が開けてきます。 ガードレールの下に広がる公園を眺めながら進んでいくと、右へ曲がった所で、二車線道路の曲がり角に出ます。 今まで歩いて来た道は農道である旨の看板がここにもありました。 脇の塀にある住所表記によると、ここは百合ヶ丘1丁目になるようです。 今回はここを左折して、住宅地に続く二車線道路を登っていきます。
銃猟禁止区域
 (神奈川県)
南1号前バス停を過ぎて坂道を登っていきます。 坂を登り切って緩やかになった道を進んでいくと、 小田原厚木道路の上に架かる陸橋が見えてきます。 その数10m手前から左手に分かれていく道があります。 山西地区へ降っていく道になりますが、今回は見送っていきます。 陸橋を渡っていくと、左右の金網柵の外側には、街並みや曽我丘陵などを見渡せる眺めが広がっていました。
(左手の道は「吾妻山公園」を参照)
橋を渡っていくと、右手から車道が合流してきます。 その道を併せて住宅地の縁に続く車道を進んでいくと、中2号前バス停を過ぎていきます。 集合住宅を過ぎて少し右へ曲がって降るようになると、左手から車道が合流してきます。 その道を併せて坂道を更に降っていきます。 中2号前バス停を過ぎていくと、一色小学校前バス停を過ぎた先に一色小学校前交差点があります。 左手からは道や階段が降ってきています。 二宮高区配水池から丘に続く道を通って南の上橋方面へ降りて行かれますが、 今回は見送っていきます。
(左手の石段は「吾妻山公園」を参照)
団地中央(だんちちゅうおう)バス停
大磯警察署一色駐在所を過ぎていくと、右側に駐車場があります。 右手から回り込むようにして進んでいくと団地中央バス停があります。 川匂神社から38分ほどで到着しました。
二宮駅(JR東海道線)まで、二宮駅北口行きバスや二宮駅南口行きバスが1時間に8本程度あります。 また、秦野駅(小田急小田原線)まで、秦野駅南口行きバスが1時間に2本程度あります。
バス停の傍にはわくわく広場があります。 ちょいと入ってみると、「広場」とは云ってもスーパーマーケットのような所で、 野菜や果物以外にも、加工食品・飲み物・乾き物など多くの品物がありました。 どれも木棚に置かれていて、手作り感が漂う店内になっていました。 一般のスーパーマーケットよりも値段が安いようだったので、幾つか見繕って買って帰りました。
わくわく広場で「地山地消」しましょっ!!
わくわく広場のモットーは「地山地消」。 「その地でとれたものをその地で食べよう!」という意味です。 やっぱり食材は身近でとれる新鮮で旬なものが一番!! わくわく広場に並んでいる農産物や、地元の生産者さん達が「皆さんに季節ごとの地場野菜を食べて頂きたい」と 心を込めて作った新鮮なものばかりです。 朝、畑から収穫してきたばかりの野菜や、もぎとってきたばかりの果物を是非一度ご賞味下さい。 その味はもちろんのこと農作物にぎっしりと詰まった栄養分、 そして生産者一人ひとりの愛情がご家庭の食卓をより一層賑わせてくれることでしょう。 地元の食材を見つめ直し皆さんで「地山地消」を実践してみませんか!?