座禅川
散策:2010年11月中旬
【街角散策】 座禅川
概 要 座禅川は平塚市土屋の七国峠付近に源を発し、三笠川を合せて金目川へと流れ込む延長3.2kmの二級河川です。 流域には田園風景が広がり、丹沢の山並を一望することも出来ます。 今回は金目川から座禅川へ入り、川沿いの道を通って、源流の近くにある愛宕山公園へと向かっていきます。
起 点 平塚市 金目駅バス停
終 点 平塚市 矢沢バス停
ルート 金目駅バス停…光明寺…観音橋…宗信寺…疱瘡大明神…南金目神社…座禅川…寺分ちびっ子広場…芳盛寺…愛宕山公園…愛宕神社…矢沢バス停
所要時間 2時間40分
歩いて... 座禅川の周囲には田んぼや畑などが広がる里山風景が続いていました。 北側には丹沢の稜線が続いていて、丹沢大山もよく見えていました。 「富士景観」と題した標柱も立っていて、条件がいいと富士山が見えるようですが、 生憎とこの時には曇っていて見えませんでした。
関連メモ 遠藤原
コース紹介
金目駅(かなめえき)バス停
平塚駅(JR東海道線)の北口のバスターミナルから、[平71][平74]秦野駅北口行きバス、 [平75]秦野駅南口行きバス,または,[平73][平77]東海大学行きバスにて21分〜24分、 1時間に6本から8本程度の便があります。
バス停の少し先にある観音橋入口交差点を左折していきます。
「金目駅」と云っても鉄道の駅ではなく、かつて鉄道が通っていた訳でもありません。 元々「駅」とは、街道などに設けられて、宿泊施設・馬・舟などを供給するための場所を意味していたようです。 この金目駅もそのような所で、かつては馬車の駅があったようです。 その後も国鉄との連携輸送が行われ、連絡切符の販売や小荷物配送の取扱が行われていたようです。
「坂東七番金目観音駐車場」を過ぎていくと、金目川に観音橋が架かっています。 橋の手前を左折した先に光明寺があるので立ち寄っていきました。 塀沿いに進んでいくと、「金目山光明寺」「坂東第七番」と刻まれた石柱が立っています。 脇には「平塚八景 金目川と観音堂」の石柱と解説板もありました。 入口から中に入ったすぐの所に朱色に塗られた仁王門があります。 その名の通り、両脇には仁王像が立っていますが、金網や桟などがあって、よく見えませんでした。 それよりも、真ん中にある「金目観世音」と書かれた大きな丸い提灯と、 両脇に掛けられた特大のワラジが目立っていました。 「おねがいわらじ」と云うのだそうで、願い事を書いた小さなワラジも沢山掛けられていました。
平塚八景 金目川と観音堂
金目川は、丹沢蓑毛渓谷の川に水無川が注ぎ、秦野市内を横切り平塚市の西部を流れて、 虹ヶ浜・唐ヶ原の河口まで約35キロメートルの流程をもつ川である。 川名の金目地区南金目に坂東第七番の札所である金目観音堂がある。 観音堂は縁起によると、奈良時代以前にさかのぼる古刹で、 現在、国・県・市の重要文化財に指定されている。 この観音堂は春になると金目川堤の桜にとけこみ、一幅の絵をかもし出す。
二王門
三間一戸。八脚門。入母屋造。柿葺形銅板葺。 面積33.291u。桁行7.844m。梁間4.242m。軒高3.954m。棟高7.363m。
昭和62年に行った解体修理の際、斗_部分から元禄11年(1698)修理の墨書が多数発見され、 元禄年間に観音堂にひき続き修理が施されたことが判明しました。 その際、解体部材の一部に元禄期より古い物があることがわかり、 その形態から室町末期(16世紀中頃)のものと推定されました。 金目観音の一大修改築が行われた明応年間、 この二王門は観音堂の作事方法から一時仮上家となっていたものと考えられ、 40年程経て現在残る古材によるニ王門が建立されたものと思われます。
 (平塚市教育委員会)
神奈川県指定重要文化財 木造 金剛力士立像 二躯
阿形 像高284cm、胸囲164cm。 吽形 像高292cm、胸囲167cm。
両像の基本構造は、頭頂から立脚の足臍までを欅の一本で彫出し、背面を丸木舟の様に素朴に内刳りし、 そこの後頭部・背部・腰部の各材で蓋をした形で、遊脚等が別材となっています。 吽形像左脚内刳面に、写真の墨書銘があり、昭和61年の解体修理の結果、 この銘文が記されている部分のみ木肌を削り直してあり、「再興」は「修理」をさしていることが判明し、 14世紀頃の像立と推定されました。 逞しい肉身部の創出や腰部衣皺の表現はかなり巧みで、運慶風の余炎を感じさせ、 関東における有数の中世金剛力士像(二王像)の佳作です。
 (平塚市教育委員会)
平塚八景
市制50周年を記念して制定された平塚市の代表的な景色や景観などで、 市民の推薦をもとにして昭和57年に選定されました。
森の前鳥神社、八幡山公園、湘南潮来、平塚砂丘夕映え、湘南平、霧降りの滝・松岩寺、七国峠・遠藤原、金目川と観音堂
光明寺
仁王門から境内へ入っていくと、正面に光明寺の観世音本堂があります。 「境内のご案内」と題した案内図もあるので参考にしましょう。 本堂以外にも、歓喜堂(聖天尊)・憩堂・文殊普賢堂・鐘楼・水屋などがあり、 右手の通用門の先には阿弥陀堂・本坊などがありました。 また、平塚市の保全樹木に指定されているイチョウやカヤの巨木もありました。
神奈川県指定重要文化財 光明寺観音堂 一棟
桁行五間、梁間六間、宝形造、柿葺銅板葺。明応7年(1498)の建立。
光明寺は、かつては金目観音堂の別当坊であったが、現在は宗教法人光明寺として観音堂受持となっています。 この観音堂は、昭和58年から3年間に渡って行われた半解体修理の結果、 元禄大修理の実態と、明応建立時の原形がほぼ判明しました。 この観音堂は、本格的密教本堂形式で、一般の中世密教本堂に比べて異例なほど外陣の閉鎖性が著しく、 内陣は当初後面が三間とも板壁で、低く幅の広い和様仏壇を設けていることなどが特色で、 15世紀末相模の各方面の情勢が反映している建物と思われます。
 (神奈川県教育委員会、平塚市教育委員会)
平塚市指定重要文化財 木像 観音三十三応現身立像 三十三躯
一木造。彫眼。彩色。像高63.5〜60.8cm。台座高15.7〜17.7cm。
観音経(法華経普門品)によれば、観世音菩薩は教えを説く相手や場所に応じ、 三十三身の姿に変化するといい、それを三十三応現身と呼びます。 本寺の像は、簡潔かつ素朴な作風が認められ、衣や甲冑の彫りは浅めです。 相好は全体に穏和で、やや不均衡な尊体ながら、抑えた動きが特徴的です。 造立は室町時代初期と推測されます。 童女身像の底部に明応7年(1498)の彩色銘がありますが、 造立時の銘ではなく、修理時のものと考えられます。
 (平塚市教育委員会)
観音堂本堂の左手には歓喜堂(聖天尊)や文殊・普賢堂などがありました。 歓喜堂には金目七福神も祀られているようですが、 すべての七福神が祀られているのかどうかは分かりませんでした。
歓喜堂本尊について
当山歓喜堂本尊は詳しくは、大聖歓喜大自在天、略して聖天あるいは歓喜天といいます。 インド神話では魔群である毘那夜迦天の王として現れ、のちに仏の教えに帰依して魔障を除く守護神となりました。 密教の諸天の中でも最も霊験あらたかであるといわれます。 当山の天尊は足利尊氏公をはじめ各将軍の深く帰依されたことが、現存の古文書に示されています。 秘仏で、尊像は非公開ですが、心をこめて祈ることによって、あらゆる願望がかなえられます。 ことに病気、盗難を免れ、夫婦和合、求子必得、寿命長遠、福録自在を願って熱心に祈願する信者が多く、 毎年4月8日が大祭日となっています。 なお堂内には弁財天、毘沙門天、大黒天等の福神が祀られています。
七福神
恵比寿 農業・漁業・商業の守護神。
大黒天 仏教の守護神。家庭の台所を守る。
毘沙門天 仏教の守護神。富財の神(多聞天)。
弁財天 インドの水神。智慧・音楽・学芸・福財の神。
福禄寿 南極星の化身。短身長頭で福をつかさどる仙人。
寿老人 中国の仙人。長寿をつかさどる。
布袋 中国の禅僧。福々しい人相とお腹で円満な福徳を表す。
七福神にお参りすることで、その徳によって七難消滅・七福即生のご利益が得られます。 江戸時代の高僧天海僧正はその神格を、寿命・有徳・人望・清廉・愛敬・威光・大量の七徳にしたと言われます。 また昔から宝船に乗り、波に乗って来る絵が画かれ、 「長き夜のとおの眠りの皆目覚め波乗り舟の音のよきかな」 という回文(上から読んでも下から読んでも同じに読める)の歌が添えられています。 この歌を紙に書いて枕の下に入れて寝ると良い初夢が見られると伝えられています。
文殊・普賢菩薩について
文殊菩薩は正しくは文殊師利菩薩といい、大乗仏教の諸菩薩の中で最も智慧の勝れた菩薩とされています。 「三人寄れば文殊の智慧」というのはこのためです。 非常に端麗な容顔をしておられるのは、童子のように清純で執着のない叡智をあらわしたもので、 多くの場合普賢菩薩と共に釈迦如来の左側の脇侍となっています。 そして右手に獅子に智剣を持ち、左手に経巻をとり、蓮華上に座して、獅子に乗っておられます。 これは獅子奮迅の徳をあらわしたものです。 頭には五智の宝冠を戴き、さまざまな願いを聞き、特に智慧を願う者には智慧を授け、 受験合格の願いをかなえて頂くことができます。 普賢菩薩は、文殊菩薩と共に釈迦如来の右脇侍となり、理・定・行の徳をつかさどるといわれています。 また普賢菩薩は衆生の命を延ばす徳を持っているので延命菩薩ともいわれます。 白象に乗り合掌して蓮華上に座し、女性のように優しく美しい顔立ちをしておいでになります。 普賢は「仏の慈悲の極み」という意味で、観音様のようにさまざまな神通力を持っておられます。 この菩薩の延命の徳を願って、長命を願うものにはその願いがかなえられます。 なお特に文殊菩薩は卯年生まれの人、普賢菩薩は辰年、巳年生まれの人の守り本尊として信仰されます。
水屋の脇には水琴窟がありました。 窟から竹筒が伸ばされていて「竹筒に耳を当てればよく聞こえます」と書かれた札が下げられていました。 試しに耳を当ててみると、確かにキーン・キーンという甲高い音が聞こえてきました。
水琴窟
(耳を澄ますと、足元の小石の間から琴やピアノのような音が聞こえます)
この度当山境内の一郭に庭園をしつらえ、水琴窟をもうけました。 水琴窟は蹲踞からこぼれる僅かな水滴を地下に埋められた甕に反響させて、 その地上に洩れる澄んだ音を聞いて余情を静かに楽しむ仕掛けです。 すでに江戸時代から作られていたといいます。 ご参詣の合間に是非一瞬の水のかなでる琴のしらべをお楽しみ下さい。
 (坂東七番 金目山山主 敬白)
観音橋
光明寺から引き返してきて観音橋を渡っていきます。 橋を渡り切って右折し、金目川沿いに進んでいきます。 右手には丹沢の山並が広がっていました。 この時には曇っていましたが、丹沢大山を始めとして、稜線は比較的良く見えていました。
ルールを守って川を利用しましょう
川は公共の財産で皆さんが自由に利用できるものです。 お互いにルールを守って利用しましょう。
<魚を捕る時などのルール>
次の期間は、あゆを捕ることができません。 稚魚(子供の魚)を守り、あゆがまた川に戻ってくるようにするために禁漁期間を決めています。
捕ってはいけない期間 1月1日から5月31日まで、10月15日から11月30日まで
夜間の投網は禁止されています。 また、びんづけ漁法などは禁止されています。
投網ができない期間 日没1時間後から日の出1時間前まで
魚などを捕るルールは、神奈川県内水面漁業調整規則で決まっています。 上記以外にもルールがあります。 詳しいことは湘南地区農政事務所までお問い合わせください。
 (神奈川県湘南地区農政事務所、神奈川県平塚土木事務所)
宗信寺
安養寺を過ぎていくと、左手へ分かれていく道の手前に「蓮性山宗信寺」の掲示板がありました。 脇から境内へ入っていくと、正面に宗信寺の本堂がありました。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、 本堂の前には日蓮上人の銅像があったので日蓮宗のお寺のようでした。 左手には「発祥の地 神奈川県立平塚農業高等学校 神奈川県立秦野高等学校」と刻まれた石碑もありました。 「ふるさと歴史かるた」には、"め"札として 「名門の ほまれを今に 三郡共立学校」と詠まれているようです。
三郡共立学校発祥の地
明治19年(1886)宗信寺本堂を仮校舎に大住・淘綾・足柄上郡の三郡共立学校は誕生しました。 学科は英、漢、数の三教科で、特に英語教育に力が注がれた三年制の学校でした。 明治26年、生徒が増えたため金目小学校の旧校舎に移り、29年には大住郡、淘綾郡の合併により二郡共立学校と改称。 31年には足柄上郡の脱退により校名を中郡学校と変更し、法伝寺東側に移転しました。 35年には農業科を新設し、中郡農業学校となりました。 明治42年には現在の達上ヶ丘の地に県立移管して平塚農業高等学校となりました。 廃校となった中郡農業学校の校舎は明治42年4月、私立育英学校として開校し、 その後奈珂中学校を経て現在の秦野高等学校となりました。 宗信寺には相模俳壇で活躍した花昌亭百亀(六代目森文右衛門)や森謗O郎(鶴汀)が眠っています。
四五日の 今は大事と 菊の花 (百亀)
散るはなを かるふせおふて 春のたび (鶴汀)
 (平塚市)
碑文にある「法伝寺」は金目駅バス停のすぐ傍にありますが、 門の脇に「寺用・墓参以外の方の出入りは堅くお断わりします」の看板が出ていたので、お寺の様子は載せていません。
疱瘡大明神
宗信寺の本堂の左脇から境内を出て、路地を左手に進んでいきます。 ブロック塀や生垣のある民家を過ぎていくと、石垣塀の前で分岐があります。 角には平塚市消防署の赤い色をした消化器入れが設置されていました。 そこを右折して生垣沿いに進んでいきます。 屋敷稲荷のある民家を過ぎていくと十字路があります。 生垣に埋もれるようにして石碑がありましたが、少し傾いていて今にも倒れそうな様子でした。 十字路を直進していくと、赤茶色のトタン張りの坪之内公民館があります。 その一部が突き出ていて、「疱瘡大明神」の板が取付けられた神社になっていまいた。 由緒を記したものは見かけませんでした。 中を覗ってみると白木の祠が安置されていました。
南金目神社
生垣を過ぎて僅かに登り坂になってくると、右手の畑地の奥に丹沢大山が聳えていました。 正面に見える森の手前まで来ると、左手に分かれていく道があります。 手元の地図によるとその道の先に神社があるようなので、立ち寄っていくことにしました。 坂道を登って道なりに右手へ曲がっていくと、 幟を立てる支柱を過ぎた所に「南金目神社」の扁額の掛る鳥居がありました。 鳥居の先の小広い境内の奥に社殿がありました。 本殿の屋根には3本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。
南金目神社
鎮座地 平塚市南金目2416番地
祭神 別雷神・伊邪那美命・予母津事解命・弥都波能売命・少名彦ノ命・誉田別命・須佐男命
由緒 元、雷電社号とし、明治9年10月3日、村内鎮座の熊野神社、潮神社、疱瘡社、春日神社、八幡神社、八坂神社を、 大正年間に若宮社を合祀し南金目神社と改名せらる。
御祭事 歳旦祭1月1日、 祈年祭2月、 大祓式7月・12月、 例大祭10月10日、 新穀勤労感謝祭11月
氏神様・御先祖様に感謝し、手をあわせましょう。
この神社は傍にある取水堰の守り神と言われ、雨乞いの神社でもあるようです。 旧称の「雷電」は、祭神の別雷神(わけいかづちのかみ)に由来するように思えます。
社殿の右脇には社務所があり、境内の右手には舞殿のような建物や、 平塚市の保全樹林に指定されているスギ・ヒノキ・クスノキの大木が並んでいました。 社殿の左手には「天照皇大神」と刻まれた石碑と小祠がありました。 祠には御幣が下がり、榊がお供えされていました。 手前には五輪塔が幾つかありました。 その脇から裏手へ広めの道が続いていましたが、 左へ曲がった先の方には草が生い茂っていて不明瞭になっていました。 「富士景観6 雷電脇」の標柱も立っていましたが、 この時には曇っている上に手前の樹木が少し邪魔をしていて、富士山は見えませんでした。
「雷電脇」の「雷電」とは、南金目神社の旧称である雷電神社のことのようです。
ふるさとの森 みんなの森
この森をみんなで守り、育てましょう。
 (平塚市、南金目雷電脇緑地保全会)
富士景観6 雷電脇
 (エコ・ミュージアム、金目まるごと博物館)
境内の右手に生える大木の脇から続く踏み跡を降っていくと舗装路に降り立ちます。 手前の分岐を直進してきた道になります。 そこから樹木が茂る山沿いの道を左手へと進んでいきます。 右手の金目川の畔から登ってくる道を合せていくと、 青色に塗られた金目水道橋が正面に見えてきます。
左手へ分かれて登っていく道を見送り、水道橋の下をくぐっていくと、 金目川沿いの土手道を進むようになります。 右手すぐの所には金目川が流れ、左手には畑地などが続いていて、広々とした眺めになってきます。 左手に降りて行く道を見送って、土手道を真っ直ぐ進んでいくと、 南金目神社の裏手で見かけたのと同様の 「富士景観9 狸久保」の標柱が立っていました。 ここから富士山が見えるということのようですが、この時には生憎と曇っていて見えませんでした。 何故だか川原にはカラスが沢山いましたが、餌場になっているのか巣でもあるのでしょうか。 金目川の向こう側には丹沢大山などを見渡せる眺めが続いていました。
富士景観9 狸久保
 (エコ・ミュージアム、金目まるごと博物館)
座禅川
畑地が終わると樹木が生い茂る森へ入っていきます。 そこを抜けていくと、再び畑地などが広がるようになります。 左手の浅い谷筋に向かう道を分けて、金目川沿いの土手道を更に進んでいきます。 畑地を過ぎて再び樹木が生い茂るようになった山際を進んでいくと、 山側には金網柵が、川側には鉄パイプ柵が続くようになります。 坂道を緩やかに登っていくと、金目川に座禅川が流れ込む所に出ました。 川沿いに進んでいくと、青く塗られた橋が座禅川に架かっています。 名前は見かけませんでしたが、手元の地図によると佐の橋というようです。 寺社などを訪ねた時間も含めて、金目駅バス停から1時間ほどで着きました。 道は座禅川の右岸にも続いていますが、橋を渡って左岸の道を進んでいくことにしました。 橋を渡った所に「これより上流 座禅川」の標柱が立っていました。 道は金目川沿いと座禅川沿いの二手に分かれていますが、左手の座禅川沿いの土手道を進んでいきます。
(座禅川は七国峠付近に源を発し金目川へ流れ込む延長3.2kmの二級河川です)
刈り取りが終わった田んぼには蘖が伸び始めていました。 そんな光景を眺めながら土手道を進んでいくと、左手から川が流れ込んできます。 脇に立つ看板によると「準用河川 三笠川」とのことです。 座禅川の支流になるようです。
土手道を真っ直ぐ進んでいくと、青く塗られた滝沢橋が架かっています。 橋を見送って川沿いに進んでいきます。 右手の田んぼには刈り取った稲を脱穀して残った藁が立てられていました。 緑色の蘖が広がる田んぼの背後には丹沢大山が聳えていて、綺麗な眺めでした。
寺分ちびっ子広場
寺分大橋を見送って更に土手道を進んでいきます。 民家の脇を過ぎていくと観音橋(*)が架かっています。 橋を渡った所には寺分ちびっ子広場がありました。 雲梯や鉄棒やブランコなどがある静かな公園でした。 座禅川の右岸にも道が続いていますが、橋を引き返してきて、左岸に続く道を進んでいきました。
*光明寺の近くにも観音橋がありましたが、ここに架かる橋も同名になっていました。
寺分ちびっ子広場
1.広場は大切に使いましょう。
2.広場はきれいにしましょう。
3.近所にめいわくをかけないようにしましょう。
4.あぶない遊びはやめましょう。
 (平塚市市民部青少年課)
座禅川の左岸に続く土手道を更に進んでいきます。 土屋窪橋を見送っていくと、対岸には稲藁が立てられた田んぼが広がっていました。 枯れ枝なども燃やしていたのでしょうか、土手では白い煙が立ち昇っていました。 都会では制限されて焚き火も自由にできませんが、昔懐かしい光景でした。 そんな光景を眺めながら進んでいくと、小綺麗な樹木や生垣が並木を作る所を過ぎていきます。
碁打橋を見送って門前橋まで来ると、座禅川の左岸に続く道は途切れていたので、 橋を渡り、右岸に続く土手道を進んでいきました。 茶色い柵が続く道を進んでいくと、笹竹が密生している所がありました。 直径2cmほどの太さのも沢山ありました。 畑地が広がる所の先の民家の脇を進んでいくと、少し登り坂になってきます。 白いガードレールが設置されるようになった道を進んでいくと、左右に通る車道に出ました。 右手には座禅川橋が架かっていて、左手すぐの所には土屋小学校入口交差点があります。 車道を横切っていくと、座禅川の左右に土手道が続いていましたが、 そのまま右岸に続く道を緩やかに降っていきました。
私が子供の頃にも近所に笹竹が沢山生えている所があって、 1mほどに切ってチャンバラをして遊んだり、 一節を切って杉玉鉄砲や紙玉鉄砲を作ったことなどを思い出しました。 細めの竹は、ペンチを金槌で叩いて切断した自転車の車輪のスポークを柄に差し込んで杉玉鉄砲にしました。 太めの竹は、更に細い竹を柄に差し込んで紙玉鉄砲にしました。 当時は遊び道具は自分達で作るものと相場が決まっていて、私も色々な物をよく作っていました。
土手道を進んでいくと行き止まりになります。 その手前に白いガードレール付きの人道橋が架かっています。 橋を渡って座禅川の左岸に続く道を進んでいきます。 脇の民家の庭では、小屋に繋がれた二匹の犬がこちらをジッと見つめて吼えてやろうかと構えている様子でしたが、 傍に家の人が居たこともあってか、この時には吼えるまでには至りませんでした。 吼えたてられないうちにと足早に通り過ぎていくと、畑が広がってきました。 その先の民家の脇には朝顔のような蔓性植物のアーチ門があり、 その奥の庭には色とりどりの綺麗な花が沢山咲いていました。
花を愛でていくと墓地の先で県道77号に出ます。 左手へ進んで行くと土屋幼稚園前バス停があり、その右上に土屋幼稚園がありました。 バス停を過ぎていくと、座禅川に掘切橋が架かっています。 橋を渡った右岸にも土手道が続いているようでしたが、 橋を見送った少し先から川沿いに分かれていく道が見えたので、その道を進んでいきました。
県道から分かれて川に沿って進んでいきます。 対岸には竹林が続いていました。 少し右へ曲がりながら進んでいくと再び県道77号に出ます。 座禅川には脇橋が架かっていますが、横断歩道を渡って川沿いの道を更に進んでいきます。 右手に分かれていく道は見送り、左手へ曲がっていく川に沿って続く道を進んでいきます。
ガードレールが続く川沿いの道を進んでいくと、正面にこんもりとした森が見えてきます。 坂元橋を見送っていくと、民家の手前で道が二手に分かれています。 右手から流れ込んでくる細い流れに架かる名もない橋を渡り、座禅川沿いに進んでいくと、 すぐに登り坂になってきます。 坂を登り切ると、右手に戻るようにして道が分かれています。 正面の道を降っていっても芳盛寺へ行けますが、今回は右手の坂道を登っていきました。
芳盛寺
左手に曲がりながら坂道を登っていくと芳盛寺に着きました。 座禅川の入口の佐の橋から50分ほどで着きました。 この時には本堂は改修工事が行われていて、周囲には足場が組まれていました。 銅葺きの立派なお堂に改修されるようでした。 工期は2010年7月1日から11月30日までとなっていました。 本堂の右横にあるのは庫裡だと思われます。
平塚市指定重要文化財 僧空海画像 一幅
絹本着色。総縦188cm。同横73cm。画面縦100.5cm。同横50.5cm。 表装一文字廻し、風帯、紺地菊模様金襴。
当画像の箱書きには「真如親王御筆」となっているが、真如法親王は平安時代(西暦800年代)の人である。 画法・絵絹・画像右上方に書かれた賛文の書風など絵全体の歴史的作風から類推すると、 室町時代(14世紀後半ないし15世紀前半)の作と思われる。 平塚市内に存在する仏画としては最古の作品であり、また画としての品格も備え、 芳盛寺に伝承秘蔵された由緒等も明確であり、市にとっても貴重な文化財である。
 (平塚市教育委員会)
境内には六観音像や「仏足石」というのがありました。 以前に来た時には解説文を記した立て看板があったのですが、この時には見かけませんでした。 参考までにその時の内容を載せておきます。 左手から幅の広い石段が裏山へと続いていて、その上は墓地になっていました。
仏足石(ぶっそくせき)
仏足石(跡)は、お釈迦さまの足の裏の相です。 その昔、お釈迦さまが人々の前で説法をされた時、 多くの人々に自分の姿が見えるように、岩や石の上に立ってお話しをされました。 説法が終わり、お釈迦さまがお帰りになった後も石の上に足の相が残っており、 人々はその足跡をそのまま石に刻み、有り難く拝んできました。 その後数百年を経てはじめてお釈迦さまの像がつくられるようになったと言われています。 私達が日々礼拝する仏さまの「基」が仏足石です。 その文様の一つひとつに、お釈迦さまの慈悲の心を、尊い教えがこめられています。 合掌。
本堂から左下へ降っていく階段もありましたが、本堂の正面に続く石段を降っていきました。 石段を降り切ると、正面を流れる座禅川には芳盛寺橋が架かっています。 橋を渡っていくと県道77号に出ますが、橋の手前から川沿いに右手へ続く道を進んでいきました。
高野山真言宗土屋山 芳盛寺
創建は建仁4年(1024)。開山時は土屋山無量寿院阿弥陀寺と号す。 本尊、阿弥陀如来。源頼朝重臣・土屋弥三郎宗遠の菩提寺。 開山、普応国師退耕行勇上人。 その後、小田原城主・大森芳盛の菩提寺となり、現号に改む(応永23年ごろ=1416年)。 中興開山、後の高野山無量寿院(現大本山宝寿院)門首・長覚阿闍梨。 往昔は相模・武蔵・伊豆3州の壇林所。 室町時代初期(1400年代前期)の作と思われる「僧・空海画像」は平塚市重要文化財(市博物館にて保管)。
生まれて来た 裸のほかは 世の恵み -風流-
「世の恵み」というところがポイントです。
竹林になってくる道を軽く登っていくと、本堂の左手から降ってきた階段が合流してきます。 その先へ坂道を降っていくと、右手の山肌の岩壁には穴が空いていて、 その内のひとつには「道祖神」と刻まれた石碑がありました。 そこを過ぎていくと座禅川の脇を進むようになります。 川を渡って行く橋を見送っていくと、竹林が現れる所で川が二手に分かれています。 手元の地図によると、座禅川の本流は左手の方になるようでした。 右手の流れに沿って進んでいくと、「馬頭観世音」と刻まれた小振りの石碑が道端に二つ並んでいました。
石垣沿いに進んでいくと、右手に分かれていく道を見送ったすぐ先で車道に出ます。 角には道標が立っていて、右手の道は「土屋霊園・遠藤原」、今来た道は「芳盛寺」となっています。 右手の浅い谷筋に続く道を進んで丘の上に出ると遠藤原になりますが、以前にも訪ねているので、 今回は左手すぐの所を通る県道77号に出て、愛宕山公園へ向かっていくことにしました。
以前に来た時には、道標には左手の県道を指す板があって「七国峠・愛宕山公園」となっていましたが、 この時には無くなっていました。 今来た道を指す板と一枚になっていたので、その部分だけが朽ちて落ちたという訳ではないように思えました。 (右手の道は「遠藤原」を参照)
土屋霊園入口バス停を過ぎていくと、右手の斜面に「浅間大神」「家畜供養」「馬頭観世音」などと刻まれた石碑が並んでいました。 傍には赤い鳥居が立っていて、その奥の石段の上には石祠がありました。 そこを過ぎていくと、右手に戻るようにして登っていく坂道があります。 角には道標が立っていて、右手の道は「七国峠・愛宕山公園」、今来た道は「土屋霊園・芳盛寺」となっています。 今回はここから愛宕山公園へ登っていきます。
坂道を登って左に曲がっていく角までくると、正面に広めの土の道が分かれていましたが、見送っていきます。 背の高い竹が生える所を登っていくと、右手へ曲がっていく角から広い土の道が分かれていきます。 右手の道の先には民家が見えていて行き止まりのようなので、正面に分かれていく土の道へ入っていきました。 すぐの所から左手へ細い道が分かれていますが見送っていきます。
竹林の脇に続く坂道を登っていきます。 切通のような所を過ぎていくと畑地の脇に出ました。 右手を見ると、先ほどの民家が見えていました。 山際に続く道を更に登っていきます。 農道になっているようで、道の両側には深い轍が出来ていました。 坂道を登り詰めて高台に出ると、右手には丹沢大山などが頭を覗かせていました。 振り返ると街並も見えていました。 畑地の中の道を進んでいくとT字路があります。 正面には道標が立っていて、左手の道は「七国峠・愛宕山公園」となっています。 今来た道を指す板もあったようですが、この時には無くなっていました。 落ちていないかと周囲を探そうとしましたが、草が生い茂っていたので止めておきました。 右手の道もしっかりとしていましたが、それを指す板はありませんでした。 ここは左手へと進んでいきます。
愛宕山公園
畑が終わると、笹竹などが生い茂る道を登るようになりますが、引続き広めの道になっていました。 坂道を1分ちょっと登っていくと開けた高台に出ました。 広場風の所になっていて、脇にはテーブル・ベンチも設置されていました。 この辺りの高台一帯が愛宕山公園になるようです。 芳盛寺から20分ほどで到着しました。 自然がそのまま残された静かな公園です。 広くて歩きやすくなった道を進んでいくと、 右手に分かれていく道を見送った先に「愛宕神社」の扁額が掛る赤い鳥居が立っていました。 脇には「愛宕神社」と刻まれた石柱もありました。 この上に愛宕神社があるようなので、立ち寄っていくことにしました。
マナーを守ってきれいな環境
ゴミを捨てると法律により処罰されます。
 (平塚警察署、平塚市)
愛宕神社
両脇に植込みが続く石段を登っていきます。 石段が終わった所には手水舎がありました。 そこを過ぎて再び石段を登って境内に着くと、両側には阿形・吽形の狛犬が控えていて、 正面に愛宕神社の社殿がありました。 合祀されている神社なのか、両側には小さな石祠がありました。 社殿の中を覗ってみると、畳が敷かれていて小綺麗になっていました。 奥の方に祭壇があるようでした。 本殿と拝殿から成る社殿でしたが、神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。 左手には小屋があって、中には資材や神輿などが納められていました。
敬神生活の綱領
一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと。
一、世のため人のために奉仕し神のみこともちとして世をつくり固め成すこと。
一、大御心をいただきてむつび和ぎ国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること。
 (神社本廳統理 徳川宗敬)
社殿の裏手に出てみると、大きな木が幾つも生える明るい丘になっていました。 テーブル・ベンチも設置されて小綺麗な所でした。 一番高い所には水色の鉄塔が立っていました。 「広報無線装置」のようで、八方に向けてスピーカーが取付けられていました。
鳥居まで引き返してきてその先へ進んでいきます。 舗装されて広い道を進んでいくと、道の左手に広場がありました。 滑り台やブランコなどが設置された静かな公園で、脇にはトイレもありました。
お願い
皆さんの公園です!! お互いにルールを魔持て、楽しい、きれいな公園にしましょう。
次のことは許可が必要です。
一. 露店商、行商、又は募金等をすること
二. 利益を目的として、写真、又は映画撮影をすること
三. 興業、展示会、又は集会等で独占して使用すること
四. 火気を使用すること
この公園で、野球、ゴルフ等はできません。
 (平塚市)
次のことは禁止されています。
一. 公園内の物をこわしたり、よごしたりすること
二. 木や、草花等を折ったり、取ったりすること
三. 鳥や動物等を捕まえたり、いじめたりすること
四. はり紙、はり札、又は皇国を掲示すること
五. ゴミ、その他の汚物をすてること
六. 決まった場所以外に、車等を乗り入れること
広場を過ぎていくと、右手の樹木が伐採されて尾根を見渡せる所がありました。 ショベルカーも来ていて作業をしていました。 道らしいものも見えていましたが、新たに造ろうというのでしょうか。 脇には「伐採及び伐採後の造林」の貼り紙が掲示されていて、 主間伐採(皆伐)の方法で樹齢30年ほどの「くむ木」をすべて伐採して「ぼう芽更新」をするのだそうです。
自然を大切に
 (平塚市)
萌芽更新(ほうがこうしん、ぼうがこうしん)
樹木の伐採後、残された根株の休眠芽の生育を期待して森林の再生を図る方法。 萌芽が活発な広葉樹を伐採した翌年には、根株からびっしりと休眠していた芽が萌芽し、生育を始める。 これが成長して新たな森林を作るのを期待するのが萌芽更新である。 また、伐採されたことにより地表に太陽光が届くようになるため、周囲に落下していた種子からの天然更新も進む。
 (出典:WikiPedia)
樹木が生い茂る雰囲気のいい道路を降っていきます。 左手に戻るようにして降っていく道を見送ったすぐ先に四叉路があります。 脇の植込みの中に隠れるようにして道標が立っていて、左手に降っていく坂道は「七国峠」、 今来た道は「愛宕山公園」となっています。 手元の地図によると、左前方の道の少し先に七国荘バス停があるようですが、 今回は道標に従って、左手の赤茶色のトタン屋根の建物の脇に続く坂道を降っていきました。
坂道を降っていくと、浅い谷筋には畑が続いていました。 山際では白い煙が立ち昇っていました。 枯れ枝などを畑で燃やしているようでした。 左手の山際に建つ民家への道を見送っていくと、道が二俣に分かれています。 手元の地図によると、右手に登っていく道は七国荘バス停の傍に出られるようですが、 今回は左手の道を降っていきました。
剪定された竹の脇を降っていきます。 道なりに右へ曲がっていくと道が二俣になっています。 右手に戻るようにして民家へ続く道もあって四叉路になっていました。 左手の道を進んで生垣沿いに降っていくと、脇には牛舎がありました。 中には乳牛が沢山飼育されていました。
矢沢(やさわ)バス停
登り坂になってきた道を進んでいくと県道77号に出ます。脇には双体の地蔵が佇んでいました。 左手の少し先に平塚駅方面の矢沢バス停があり、右手に秦野駅方面のバス停があります。 愛宕神社から13分ほどで着きました。
平塚駅(JR東海道線)まで、[平75][平76]平塚駅北口行きバスにて32分〜34分、 お昼前後は僅かの便しかなので、事前に確認しておくと安心です。
 土曜 ...10:39 11:47 12:33 14:51 16:51 17:58 19:00...
 日曜 ...10:39 11:47 12:37 14:51 16:51 17:58 19:00...
秦野駅(小田急小田原線)まで、[平75][平76]秦野駅南口行きバスにて18分、 お昼前後は僅かの便しかなので、事前に確認しておくと安心です。
 土曜 ...10:29 12:13 13:20 14:23 16:25 18:09 18:36 18:59...
 日曜 ...10:27 12:11 13:18 14:23 16:23 18:07 18:36 18:57...