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【街角散策】 名越切通
| 概 要 |
名越切通は鎌倉七切通のひとつで、鎌倉市と逗子市の間にあります。
朝比奈切通ができて交通の中心がそちらへ移ったこともあり、
七切通の中では最もよく旧状を留めています。
国指定史跡にもなっている切通には石段や岩畳が続いています。
今回は、鎌倉逗子ハイランドから巡礼古道を通って尾根に出て、名越切通へと向かっていきます。
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| 起 点 |
逗子市 ハイランドバス停
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| 終 点 |
鎌倉市 鎌倉駅
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ルート |
ハイランドバス停…巡礼古道…名越溜池分岐…小ピーク…展望地…パノラマ台…大町分岐…展望地…大切岸…石廟…法性寺分岐…無縁諸霊之碑…名越切通…名越坂踏切…三枚橋…大寶寺…トンネル…東勝寺橋…横小路…妙骼宦c日蓮上人辻説法跡…蛭子神社…鎌倉駅
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| 所要時間 |
2時間50分
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| 歩いて... |
尾根へと続く巡礼古道では時折蜘蛛の巣が顔にかかったりもしましたが、道はしっかりと続いていました。
この時は手前に湧き出した雲のために、富士山は山頂部が僅かに見えただけでした。
名越切通から鎌倉の街に降りてからは、まだ通ったことのないトンネルを小町三丁目へと抜けていきました。
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| 関連メモ |
名越切通,
祇園山,
鎌倉大町,
衣張山,
鎌倉回峰,
巡礼古道,
巡礼古道,
名越切通,
衣張山,
巡礼古道,
名越切通,
鎌倉七福神,
衣張山
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コース紹介
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ハイランド(はいらんど)バス停
逗子駅(JR横須賀線)から、[逗22]ハイランド循環バスにて8分、1時間に2本程度の便があります。
バス停から引き返して、車道を進んでいきます。
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車道沿いの歩道を緩やかに登っていきます。
坂を登り切る辺りまで来ると、右手から道が二つ合流してきます。
それらを合せて降り始めると、右手の住宅の間に石段があります。
道標類は見かけませんでしたが、ここが逗子市と鎌倉市の境界尾根への登り口になります。
(写真は振り返って撮影したものです)
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石段を登っていくと、緩やかな道になってきます。
右手すぐの所には住宅が建っていて、裏庭を歩いているような雰囲気もします。
夏草が生い茂る所を過ぎていくと、岩盤が剥き出した所から山道が始まります。
住宅から離れて少し左へ曲がっていくと、倒木が道を塞いでいましたが、難なく越えていきます。
その先からは尾根に続く広めでしっかりとした山道になってきます。
緩やかな尾根道を進んでいきます。
笹竹が生い茂る所を抜けて崖の上に出ると、
右側が開けて鎌倉逗子ハイランドの住宅地を一望できる眺めが広がっていました。
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巡礼古道
道端には笹などが生える山道を進んでいくと、
崖を過ぎた1分ほど先にも、住宅地を見渡せる所がありました。
この尾根道は、鎌倉時代の初期に開設された「坂東三十三観音霊場」の
第1番の杉本寺から第2番の岩殿寺へ向う道になっていて、巡礼古道と呼ばれていますが、
今では開発のために、尾根道は岩殿寺までは続いていません。
参考までに、以前に岩殿寺の奥にある長寿観音の脇で見かけた解説板の内容を載せておきます。
長寿観音由来
かつて、この山頂より北(鎌倉二階堂)にかけて巡礼の古道があった。
征夷大将軍源頼朝は當山の観音様を守り本尊とされ、鎌倉で政権を執ってたい時代は
毎月十八日の観音様の縁日には必ず月詣りを、この古道よりされたと「吾妻鏡」は伝えている。
しかし、この由緒深き古道も時代の波というより、逗子市の圃地開発という政策により、
あえなく消え去ってしまった。
古道には多くの路傍の石仏が祀られていた。わずか一里の道とはいえ、
大樹の林立する尾根の景色は四季を通して素晴しく巡礼者の心を慰めた。
まことに多くの消滅した石仏をはじめ諸霊を供養する心を尊んで、
心を同じくする善男善女の方々と正教観音塔を造立した。
正教とは、お釈迦様の正しい仏道の教へよりいただいた。
観音様を信仰すると百二十七才余長寿すると伝えられる。
一縁の私達はこの尊い長寿の観音様に真心より私たちの子々孫々のために
世界の平和と人類の幸福を祈念しよう。
昭和五十二年五月吉十八日 海雲山岩殿寺十七世正教 合掌
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眺めを楽しんでから尾根道をその先へ進み始めると、
道端に逗子市消防本部の設置する緊急時通報番号を記した看板「ひさぎ14」が立っています。
鎌倉・逗子・葉山周辺のハイキングコースではよく見かける看板で、
この巡礼古道もハイキングコースとして認められているように思えて、安心しながら進んでいきました。
緩やかで歩きやすい尾根道を進んでいくとまた右手が開けてきて、住宅地を見渡すことが出来る崖の上に出ます。
そこを過ぎて森の中へ入っていくと、今度は左手の樹間から逗子の街や海を眺めることが出来ました。
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名越溜池分岐
今では歩く人が少ないようで、時折蜘蛛の巣が顔にかかったりします。
落ちていた枝を拾って前にかざして払いながら進んでいきました。
岩が剥き出した僅かな高みを越えていきます。
歩きやすい尾根道を進んでいくと、左手に戻るようにして降っていく道が分かれていきます。
登り口から10分ほどの所になります。
道の入口には「ひさぎ15」の看板が倒れていました。
以前には「名越ため池10分」の小さな道標があって左手の道を指していたのですが、
この時には見かけませんでした。
分岐のすぐ先に石碑がありました。
文字が読み難くなってはいましたが、「奉納百八十八番…道」安永七戌年六月吉祥日」などと刻まれていたので、
江戸時代の中期(1778)に建てられた石碑のようでした。
左手の道は名越溜池や名越谷戸の辺りに降りていく道になりますが、
このまま正面に続く尾根道を進んでいきます。
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引続き歩きやすい尾根道を進んでいきます。
まだ道端には夏草などが生い茂る季節でしたが、道はしっかりと確認できて、何の不安も抱きません。
少し登り坂になってくると、先ほどの分岐から3分ほどで小広くなった尾根に出ました。
尾根道はここから少し左へ曲がっていきます。
この辺りからも右手に住宅地が見える所がありました。
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小ピーク
次第に登り傾斜が増してきます。
所々には横木の階段も設置されています。
そんな道を登っていくと小ピークに着きました。
登り口から16分ほどの所になります。
手元の地形図によると、標高は110mほどあるようです。
正面には鉄柵が設置されていて、その先の下には水源地があります。
その先にある展望広場や、奥の方にある衣張山も見えています。
このピークの名前は通称「水道山」と呼ばれているようですが、
本来は「浅間山」というのだそうです。
現在ではこの北北西600mほどにある標高120.1mの衣張山を誤って「浅間山」と呼ぶことが多いようですが、
間違われるのは、「浅間山の位置取り違え事件」が根底にあるようです。
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展望地
鉄柵に沿って左手へ進んでいくと、自然石で出来た階段を降るようになります。
1分もしない所の右手が開けていて展望地になっています。
脇には「ひさぎ16」の看板が立っています。
以前はベンチが一つ設置されていたのですが、この時には見かけませんでした。
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手前には、これから向かうパノラマ台があって、その向こうには鎌倉の街や海が広がっていました。
江ノ島もよく見えていて、箱根の山々も薄らと稜線を現わしていました。
富士山は見えるかと探していると、手前に湧き出した雲に隠れながらも、その山頂部分を望むことができました。
山頂の辺りが白くなっていたので、既に雪が積もっているようでした。
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尾根道
「ひさぎ16」の看板の先に続く山道を降っていきます。
少し右へ曲がりながら岩盤が剥き出した所を過ぎていくと、僅かな踏み跡が左手に分かれていきます。
名越切通へ続く尾根道に降っていく道になりますが、パノラマ台へ向かうべく、その道は見送っていきました。
笹竹が刈り払われてすっきりとした道を降っていくと、
道端の樹木に「この先 巡礼の道 古道なり」の貼り紙があります。
「巡礼の道」とは今来た道を指しているようでした。
そのすぐ先で、左右に通る尾根道に降り立ちます。
正面には車止め用の支柱が数本立っています。
脇には道標も立っていて、左手の道は「名越切通・大切岸方面」、
右手の道は「ハイランド方面」となっています。
名越切通は左手に進んで行くのですが、
右手のすぐ先にパノラマ台があるので、立ち寄っていくことにしました。
この先 巡礼の道 古道なり
(逗子ハイランド自治会文化部)
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尾根道を右手へ進んでいくと、幅が広がって浅い谷のようになってきます。
大きな樹木の先から左手へ分かれていく道があります。
角に立つ道標によると、左手に分かれていく道は「パノラマ台」、
正面の道は「子ども自然ふれあいの森」、今来た道は「名越切通」となっています。
正面の道は水道設備のある高台から降りて来た舗装路に出て衣張山へと続いていますが、
左手の先にあるパノラマ台まで往復してきます。
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道標の脇から続く道を進んでいくと、右側の方の地面が青く輝いています。
何だろうと思っていると、浅く水が溜って池のようになっていました。
これまでに何度か来ている所ですが、ここに池などあったかなと首を傾げながら、
水面に映る青空を眺めていきました。
この前日は良い天気でしたが数日前には雨が降ったので、大きな水溜まりだったのかも知れません。
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パノラマ台
池を見送っていくと、すぐに横木の階段が始まります。
右に曲がって小尾根に続く階段を登っていきます。
途中で階段が途切れて緩やかになりますが、すぐ先で再び横木の階段が現われます。
右・左と折れ曲がりながら階段を登っていくと、小高くなったパノラマ台に着きます。
周りは柵で囲まれていて、先の方にベンチがひとつ設置されています。
手元の地形図によると標高110mほどの低いピークですが、360度の眺めが広がっています。
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南西には逗子の街や海が、沖の方には伊豆大島の島影も見えていました。
西には鎌倉の街や海、北には衣張山、東には水源地やその脇の展望広場などが間近に見えます。
相模湾に浮ぶ江の島や、小田原へ続く湘南海岸、箱根連山、丹沢山塊なども見えましたが、
先ほどの展望地と同様に、手前に湧き出している雲に遮られて、富士山はほとんど隠れていました。
しばらく待ってみましたが、状況は好転しそうにもありませんでした。
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大町分岐
小ピークから降りて来た車止めの支柱のある所まで引き返して、
道標「名越切通・大切岸方面」の指す道を進んでいきます。
自然石で出来た階段を降って緩やかな尾根道になってくると、
大きな樹木の袂から右手の谷へ降っていく道が分かれていきます。
大町七丁目方面に降りていく道になりますが、今回は正面に続く尾根道を進んでいきます。
右手の道は地形図に載っている破線の道のようにも思えますが、
この道よりもう少し南西側の所に描かれているので、別に道があるのかも知れません。
(右手の道は「 名越切通」,
「 巡礼古道」,
「 名越切通」を参照)
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尾根道を進んでいくと、すぐに左から降ってくる道が合流してきます。
手前に立つ道標によると、正面の道は「名越切通・法性寺・大切岸・まんだら堂やぐら群」、
今来た道は「ハイランド住宅地・衣張山・報国寺方面」となっています。
左から来る道には何も示されてはいませんが、
先ほどの小ピークから降ってくる途中の分岐から分かれてきた道になります。
ここは名越切通へ向かって、正面の尾根道を進んでいきます。
ハイキングコースにもなっていて、しっかりとした緩やかな尾根道が続きます。
道標の支柱には「囲い柵工事」の貼り紙が取付けられていました。
付属する工事箇所案内図によると、大切岸の所にある迂回路などを意味しているようでした。
囲い柵の設置工事をしています
【平成23年1月31日まで】 工事期間中は、一部区間で迂回路を通行していただくことがございます。
ご迷惑をおかけいたしますが、ご協力をお願いいたします。
(発注者 逗子市教育委員会社会教育課)
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展望地
「ひさぎ17」の看板を過ぎていくと、
車止めの支柱がある所から3分ほどで、左手が開けた僅かな高みがあります。
尾根道は高みを右から巻くようにして続いていますが、
高みへ登ってみると、いい眺めが広がる展望地になっていました。
周囲にはロープ柵が設置されていました。
以前に来た時には見かけませんでしたが、2年ほど前に樹木が切り払われたようです。
二子山から森戸海岸へ続く尾根が一望できる眺めが広がっていました。
手前には逗子の街や逗子海岸も見えていました。
奥の方には大楠山と思われる電波塔の建つ山も見えました。
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展望地の先から尾根道に降りて、緩やかな道をその先へと進んでいきます。
1分ほど進んでいくと、左側の樹木が途切れて眺めが広がるようになります。
先ほどの展望地からと同じような眺めになります。
眼下の斜面に続く畑を眺めながら進んでいくと、右手に木製の階段が設置されています。
角には道標が立っていて、階段を降った先に続く道は「名越切通・法性寺・まんだら堂やぐら群」、
今来た道は「ハイランド住宅地・衣張山・報国寺方面」となっています。
先ほどの「囲い柵工事」の貼り紙にあった工事のための迂回路になるようです。
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大切岸
先ほどの道標にはあった「大切岸」の表記が無くなっているところをみると、
この辺りが大切岸になるようです。
正面の尾根道は封鎖されていなかったので、そのまま尾根道を進んでいくと、
すぐに岩盤が剥き出した尾根が現われます。
左側は切り立った岩壁になっていました。
法性寺の裏手から見ると、垂直に切り立った岩壁が続く所になります。
この断崖は人工的に山肌を削ったもので、
三浦半島を拠点とする三浦氏の侵入に備えて、北条泰時が造った防御施設ということです。
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岩場を過ぎていくと、すぐに右手から迂回路の横木の階段が合流してきます。
脇には、手前と同様の道標が設置されていました。
岩盤になった尾根に柵を作ろうとしているようにも思えますが、
尾根道には通行止めや注意を促す看板などは設置されておらず、存在理由のよく分らない迂回路でした。
迂回路を合せて、その先へ続くしっかりとして緩やかな尾根道を進んでいきます。
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石廟
程なくして軽い登り坂になってくると、大切岸から2分ほどで僅かな高みに着きます。
尾根道から右へ少し入った所に、大きめの石の祠が二つありました。
鎌倉市指定の石造建造物の石廟のようで、
その旨を記した標柱が立っていましたが、謂われなどは分りませんでした。
祠の中には大きめの丸まった石がひとつ納められていました。
(画像を左クリックすると、手前の石祠・奥の石祠の順で表示されます)
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法性寺分岐
石廟を過ぎて広めの尾根道を降り気味に進んでいくと、1分もしない所の浅い鞍部に分岐があります。
正面のブロック塀の先には民家が建っています。
角に立つ道標によると、左手に戻るようにして降っていく道は「法性寺・バス停「久木五丁目」」、
正面の道は「名越切通・まんだら堂やぐら群」、今来た道は「大切岸・ハイランド住宅地・衣張山」となっています。
脇には「ひさぎ18」の看板も立っています。
左手の道は墓地を経て法性寺へ降りて行けますが、今回は正面の道を名越切通へと向かっていきます。
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正面に続くブロック塀沿いの尾根道を進んでいきます。
「なごえ5」の看板を過ぎて、正面の高みを右手から巻くようにして登っていきます。
左手の高みには何があるのかは分かりませんが、周囲はしっかりとした金網柵で囲まれていました。
ここにも「囲い柵工事」の貼り紙がありました。
高みに着くと、右手へ踏み跡が分かれていきますが、柵沿いに続く尾根道を降っていきます。
高みを巻き終わって降り始める所から、右手へ踏み跡が分れていました。
試しにちょいと歩いてみましたが、ハイキング会でもあったのか、
樹木に赤テープが点々と取り付けられていました。
緩やかな尾根には比較的しっかりとした道が続いていました。
1分半ほど進んでいくと小広くなった所に出ました。
左手には無縁諸霊之碑のある広場の手前の辺りが見えていかした。
そこから右手へ続く踏み跡を降っていくと、
4分ほど進んだ所で夏草が生い茂って道が不明瞭になってきたので引き返してきました。
(所要時間には含めず)
後日にまた歩きました。(「 名越切通」を参照)
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無縁諸霊之碑
「なごえ4」の看板を過ぎていくと、小広くなった明るい草地に出ます。
囲い柵の工事用と思われる資材などが辺りに散在していました。
広くなった道をその先へ進んでいくと、無縁諸霊之碑が建つ小振りの広場に着きます。
車止めの支柱のあった所から25分ほどで到着ました。
左手にはコンクリートブロック製の「動物霊堂」もありました。
周囲の整備が進められているのか、以前に来た時よりも広々とした雰囲気になっていました。
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名越切通
広場の左前方へ続く坂道を少し降ると峠道に降り立ちます。
脇には「国指定史跡 名越切通し」と書かれた標柱が設置されています。
降り立った所にある道標によると、右手の道は「鎌倉市大町・長勝寺・安国論寺方面」、
左手の道は「名越切通・まんだら堂やぐら群」、今来た道は「法性寺・大切岸・ハイランド住宅地方面」となっています。
峠道を横切って右前方へ続く道もありますが、少し先で行き止まりになっています。
「名越切通し」の標柱が立っているのに、
道標では左手の道が「名越切通」となっているのはどういう訳なのかと思いながら、
今回は右手の道を進んでいきました。
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道の真ん中に転がっている大きな石を避けて坂道を降っていきます。
程なくして自然石で出来た階段を降るようになると、道端にはシダ類が生い茂るようになります。
日陰になった道を降っていくと、しっとりとした雰囲気になってきます。
大きな石の脇を過ぎていくと、小さな谷筋のような所に出ます。
脇には道標が立っていて、左手に曲がっていく道は「鎌倉市大町・長勝寺・安国論寺方面」、
今来た道は「名越切通・法性寺・大切岸・まんだら堂やぐら群」となっています。
この辺りから、岩盤が剥き出した道には僅かに水が流れるようになりました。
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滑らないよう注意しながら岩盤の上を降っていくと、
程なくしてコンクリートの塀の上に設置された金網柵の所に出ます。
下側にはJR横須賀線の線路が通っていました。
この下には名越トンネルがあるようでした。
柵に沿って続く細い道を進んでいくと、程なくして金網柵が途切れて見晴らしが良くなります。
かなり傾斜のある斜面を横切るようにして道が続いています。
横須賀線の建設に伴って、旧来の峠越えの道が付け替えられたように思えます。
右手の山際には石仏や五輪塔などがありました。
その昔に峠を越えていく人たちを見守っていたのでしょうか。
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名越坂踏切
コンクリート板のようなものが敷かれた崖沿いの道を進んでいくと、傾斜地にある住宅地に出ます。
そこから広くなった坂道を降っていきます。
緩やかな道路に降り立つと、角には「名越切通600m」の標識が取り付けられていて、
今降って来た道を指していました。
道路を進んで、左・右とクランク型に折れ曲がって線路沿いを進むようになると名越坂踏切があります。
右側にはふれあい広場があります。
角には道標が立っていて、踏切を渡っていく道は「鎌倉駅1.8km」、
今来た道は「名越切通700m」となっています。
ふれあい広場の使用について
広場の無断使用はお断りします。
この広場は大町五丁目自治会で管理しています。
広場使用時は必ず自治会長へ事前に許可を得た上で、使用して下さい。
使用に関して事故等の責任は負いかねます。
特に、隣接の建物等の破損については使用者各自で保償して下さい。
(大町五丁目自治会)
この広場は地域の調和と活力のあるまちづくりを目的とし、鎌倉市より自治会が借用し管理しているものです。
よって、無断駐車は堅くお断りします。
利用の場合必ず自治会長までご連絡下さい。
夜間の駐車は禁じます。
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踏切を渡っていくと道が二手に分かれていますが、線路に並行して続く右手の道を進んでいきます。
住宅が建ち並ぶようになってくると、道端に玉垣で囲われた一角があります。
中には「南無妙法蓮華経日蓮水」と刻まれた石碑がありました。
前には菊の花や水がお供えされていました。
脇には解説文を刻んだ石碑もあって、
「日蓮聖人曰法華経を…」と刻まれていたようでしたが、よく読めませんでした。
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三枚橋
程なくして現われる小川沿いに進んでいくと県道311号に出ます。
右手にある名越踏切を渡っていきます。
鎌倉警察署名越交番の前を過ぎていくと、安国論寺への道が分かれていきますが、そのまま車道を進んでいきます。
逆川に架かる三枚橋の所からも右手に道が分かれていきます。
橋のすぐ先には「入口 安国論寺」の看板が立っています。
安国論寺からの道を合せたすぐの先に信号機の設置された十字路があります。
角に立つ電柱には「大町三丁目3」の住所表記が取り付けられていました。
このまま車道を進んで若宮大路に出て鎌倉駅へ向かってもいいのですが、
この右手の先から小町三丁目へ抜けるトンネルがあるようなので、今回はそこを歩いてみることにしました。
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十字路を右折して、民家が建ち並ぶ路地を進んでいきます。
竹塀の民家の所まで来ると、妙法寺への道が右手に分かれていきます。
角には道標が立っていて、右手の道は「妙法寺200m」、
正面の道は「大宝寺150m」「釈迦堂口切通1km」となっています。
右手の道を見送っていくと、左手へ道が分かれていきます。
角には道標が立っていて、左手の道は「大宝寺100m」、
正面の道は「釈迦堂口切通900m」、今来た道は「妙法寺200m」「安国論寺300m」となっています。
小町三丁目へ抜けるトンネルへは正面の道を進んでいくのですが、大宝寺へ立ち寄っていくことにしました。
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白壁沿いに路地を真っ直ぐ進んでいくと、正面に大寶寺があります。
入口には「佐竹屋敷跡」の石碑が立っていました。
門から境内に入っていくと、玉垣で囲まれた一段高い所に「大多福稲荷大明神」がありました。
脇にある解説板によると、新羅三郎義光の守護神とのことです。
佐竹氏は新羅三郎の子孫に当たる方のようです。
(「寶」は「宝」の旧字体で、いずれも「ほう」と読みます)
佐竹屋敷跡
此所ハ佐竹四郎秀義以降代々ノ屋
鋪蹟ト云フ昔當所ニ佐竹氏ノ霊社
アリシガ後年村内天王社ニ合祀ス
後ノ山ヲ佐竹山ト呼ブ其ノ形扇ノ
地紙ニ似テ中ニ三本ノ疇アリ左右
ヲ合テ五本骨ノ如シ
昭和七年三月建 鎌倉町青年團
新羅三郎義光守護神 大多福稲荷大明神
人皇第七十三代堀河天皇のご御代奥州地方は清原の家衡・眞衡・一族の隔執の為非常に乱れた。
當時陸奥守である八幡太郎義家は之を平定しようとする家衡・武衡等金沢柵に立ちこもりて降参せず官軍苦戦に陥った(後三年の役)
京都に居た弟の新羅三郎義光は兄義家の苦境を援けんと官を辞して従軍し善戦善勝三年にして之を鎮圧する。(後三年の役)
この間日頃信仰していた御守護神の霊顕あらたかで或る時は雁の伏兵を知らせ時には御神火となって奇瑞を顕す。
三浦平次郎為次鎌倉権五郎景政など當時の勇士である。
後義光は甲斐守となり長男義業は常陸に住する義光は鎌倉館(現大宝寺域)に居住し御守護神を勧請する。
其の後八雲神社に合祀したので毎年七月七日には門前に神輿を据えて古式に則る祭式を行い
神霊を慰めてから町内の御渡を行うを例とする。(相模国風土記)
1499年(明應八年)松葉谷日證上人の霊夢におり本地なる現地に再勧請し大多福稲荷大明神と称する。
毎年二月には大祭を厳修して神霊を法楽し世界平和國運隆昌を祈願する所以なり。
奉納 六浦 駒形泰亮 平成12年2月初午
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大寶寺
大多福稲荷大明神の左手の奥に大寶寺の本堂があります。
脇には石仏や十二重の塔もありました。
裏山の墓地には新羅三郎義光義盛霊廟がありました。
大寶寺の入口から左手に続く道を進んでいき、左へ曲がっていく角から右へ分かれていく道に入り、
左側の石段を登った上になります。
大寶寺
宗派:日蓮宗、山号寺号:多福山大寶寺、建立:応永6年(1399)、開基:佐竹義盛
このあたり一帯は、御家人・佐竹氏の祖先である新羅三郎義光が、
兄の源義家とともに奥羽の戦乱「後三年の役」を鎮めた後、この地に館をかまえて以来、
佐竹氏の屋敷となったと伝えられています。
応永6年(1399)、佐竹氏の一族である佐竹義盛が出家し多福寺を建立した後、
文安元年(1444)日蓮宗の高僧一乗院日出上人が再興し、旧寺名を山号に改め多福山大寶寺となりました。
境内には、義光が信仰した多福明神社があります。
また、本堂には子どもたちの無事成長を護る「子育鬼子母神」が奉られています。
(鎌倉市)
心のポケット 探してごらん あなたも あるはず 仏種
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大寶寺から引き返して、民家が建ち並ぶ路地を進んでいきます。
レンガ塀の生垣のある民家を過ぎていくと、正面にこんもりとした森が見えてきます。
「大町三丁目15」の住所表記が取付けられた電柱の所まで来ると、道が二俣に分かれています。
道標類は見かけませんでしたが、トンネルは左手の道を進んでいきます。
山際沿いに続く道を進んでいくと、カーブミラーの設置された分岐があります。
角に立つ電柱には「大町三丁目8」の住所表記が取付けらています。
ここを左折していきます。
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トンネル
生垣沿いに真っ直ぐ進んでいくと、次第に登り坂になってきます。
二俣になった分岐の左手の道を進んでいきます。
一段と傾斜が増してきた坂道を道なりに真っ直ぐ登っていくと、正面に尾根が近づいてきます。
尾根に向かって坂道を更に登っていくとトンネルが現れます。
名前を書いたものはないかと探してみましたが見かけませんでした。
トンネルは真っ直ぐで出口が見えていますが、照明も設置されていて歩きやすくなっていました。
車一台が何とか通っていけるだけの幅しかなくて、車道と歩道の区別もありません。
入口付近はコンクリート張りですが、中に入っていくと波形鉄板で補強されていました。
何だか近未来のドラマに出てきそうな不思議な感じのするトンネルでした。
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2分半ほどでトンネルを抜けると、住宅が建ち並ぶ小町三丁目になります。
かなり傾斜のある坂道を降っていきます。
墓地の前を過ぎて道なりに右へ曲がって更に降っていきます。
傾斜が緩やかになってくると十字路に出ます。
右手の先には東勝寺跡や北条高時腹切やぐらなどがありますが、今回はここを左折していきます。
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東勝寺橋
左手に降り始めると、すぐの所を流れる滑川に架かる東勝寺橋があります。
手前の脇には小振りの東勝寺橋ひぐらし公園があります。
東勝寺橋を渡った所に、橋の解説板と「藤綱舊蹟」の石碑がありました。
藤綱が滑川に10文を落とし、50文で松明を買ってそれを探したというような内容でした。
東勝寺橋
東勝寺橋は、鉄筋コンクリートが積極的に導入された震災復興期の大正13年(1924)に
建造されたアーチ構造の橋です。太く安定感のあるアーチング、V字形の谷間との微妙なバランスなど、
その美しい姿は多くの人に愛され、平成11年(1999)には「かまくら景観百選」に選定されました。
(鎌倉市)
_藤綱舊蹟
太平記ニ據レバ藤綱ハ北條時宗貞時ノ二代ニ
仕ヘテ引付衆ニ列リシ人ナルガ_テ夜ニ入リ
出仕ノ際誤ツテ錢十文ヲ滑川ニ堕シ五十文ノ
續松ヲ購ヒ水中ヲ照ラシテ錢ヲ探シ竟ニ之ヲ
得タリ時ニ人々小利大損哉ト之ヲ嘲ル藤綱ハ
「十文ハ小ナリト雖之ヲ失ヘバ天下ノ貨ヲ損ゼ
ン五十文ハ我ニ損ナリト雖亦人ニ益ス」旨ヲ訓
セシトイフ即チ其ノ物語ハ此ノ邊ニ於テ演ゼ
ラレシモノナラント傳ヘラル
昭和十三年三月建 鎌倉町青年團
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東勝寺橋ひぐらし公園の先から東勝寺橋を眺めると、アーチ構造になっているのがよく分かります。
滑川は平らな岩盤になった川床を舐めるように水が流れているところから、
「なめりがわ」の名が付けられたとのことです。
せせらぎ「滑川」
せせらぎ「滑川」は、朝比奈峠を源流とし、全長5.6km。
その由来は、川床をなめるように流れている…というのが原名です。
なめり川は、なぜか多くの文人墨客が好んで暮したまちを、ゆったりと流れ、由比ヶ浜にたどりつく…。
かまくらならではの古都のたたずまいと、由緒ある文化の薫りが、ここからもうかがわれます。
神奈川県は、建設省・鎌倉市・財団法人砂防フロンティア整備推進機構の支援のもとに、
平成7年(1995)「滑川渓流再生事業検討委員会」(地域内の自治・町内会長を中心に、各界各層の
学識経験者で構成)を設置。7年間にわたり、上流の華の橋から宝戒寺橋までの1.5kmの渓流環境を再生。
「かまくら景観百選」に選定されている当地域は、滑川再生事業の重点地域として、
全国"せせらぎ"のモデルにもなっています。また、歴史的風土特別保存地区だけに、
宝戒寺橋から眺める滑川の四季おりおりの景観、若宮大路や鶴岡八幡宮のにぎわいとは無縁の静寂、
それに、鎌倉唯一のライトアップに浮かぶ史跡「紅葉山やぐら」の幻想的夜景は、まことにみごとなものです。
この地域は、鎌倉幕府の実力者・旧跡「北條執権邸」内にあり、
平成13年(2001)のHNK大河ドラマ「北條時宗」(第8代執権・1251-1284)生誕の地ともいわれ、
文永・弘安の役の二度にわたる蒙古襲来を撃退。
"神風"とともに、日本の歴史に名跡を残しました。
せせらぎの 川面にゆれる 木もれ月 萩村
(神奈川県、鎌倉紅葉山自治会)
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横小路
東勝寺橋を渡ってその先へ真っ直ぐ進んでいきます。
「紅葉山やぐら」への道を右手に分けて真っ直ぐ進んでいくと、左右に通る道に出ます。
正面には道標が立っていて、右手の道は「宝戒寺100m」、左手の道は「妙骼150m」、
今来た道は「北条高時切腹やぐら350m・東勝寺跡300m」「祇園山ハイキングコース300m」となっています。
左右に通る道は横小路というようです。
若宮大路の横にある道という意味でしょうか。
今回はここを左折していきます。
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妙骼
竹塀や生垣が続く横小路を進んでいくと、右手に妙骼があります。
石畳みの参道を進んでいくと山門があります。
そこから境内に入っていくと、正面に本堂がありました。
前には鎌倉・江の島七福神のひとつ「寿老人」が祀られています。
また、小振りの池もあって、その奥に「なべかむり日親大上人」が安置された小祠がありました。
妙隆寺
宗派:日蓮宗、山号寺号:叡昌山妙隆寺、建立:至徳2年(1385)、開山:日英上人、開基:千葉胤貞
この辺り一帯は、鎌倉幕府の有力御家人・千葉氏の屋敷跡と言われ、
この寺は一族の千葉胤貞が日英上人を迎えて建立しました。
第二祖の日親上人は、宗祖・日蓮上人にならい「立正治国論」で室町幕府六代将軍・足利義教の悪政を戒めましたが、
弾圧され、数々の拷問を受けました。
ついには焼けた鍋を被せられたので「鍋かむり日親」とよばれました。
本堂前右手の池は、日親上人が寒中、百日間水行をした池とされ、厳しい修行の跡と言われています。
(鎌倉市)
鎌倉・江の島七福神 寿老人 妙隆寺
当山は、源頼朝の御家人・千葉常胤の子孫 千葉大隅守平胤貞の旧地で、
至徳2年(1385)七堂伽藍を建立し、妙親院日英上人を迎えて開山しました。
応永34年(1427)の冬、第二祖久遠成院日親上人は21才の時、当山に来られ堂前の池で寒百日間、
水行などの修行を積み、永享11年(1439)京都へ上り「立正治国論」の一書を足利六代将軍義教に献じて、
政道を諌めようとしましたが、これを怒った義教は日親を投獄し、
陰惨な拷問でも屈しない日親の頭に灼熱の鍋をかぶ舌端を切らせ日親の言葉を奪ってしまいました。
後年、「なべかむり日親」と呼ばれるように成りました。
世の為、人の為ならば、いなかる苦難にも屈しない日親上人ゆかりの妙骼宸ノは、
欅の一本造りの寿老人の尊像が安置されています。
人々の安全と健康を守り長寿を司る福神です。
お供の鹿はそのお使いで、三千年の長寿を象徴しているのです。
鎌倉・江の島 七福神
鶴岡八幡宮(弁財天)、
浄智寺(布袋尊)、
宝戒寺(毘沙門天)、
妙隆寺(寿老人)、
本覚寺(夷寿神)、
長谷寺(大黒天)、
御霊神社(福禄寿)、
江島神社(弁財天)
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日蓮上人辻説法跡
妙骼宸後にして横小路を進んでいくと、左手に生垣や竹垣で囲まれた一角があります。
ここが日蓮上人辻説法跡になるようで、解説板や石碑などがありました。
日蓮上人辻説法跡
日蓮上人は建長5年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、
松葉ヶ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。
鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、
毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。
文応元年(1260)、五代執権・北条時頼に提出した「立正安国論」が原因で、松葉ヶ谷の草庵は焼討ちされました。
(鎌倉市)
日蓮上人辻説法址
此邊ハ往時ニ於ケル屋敷町ト商家町トノ境ヲナス地点ニ位シ
幕府ニ近キコトトテ殷賑ヲ極メシ所ナリ
建長五年五月日蓮聖人房州ヨリ鎌倉ニ来リ松葉ヶ谷ニ草庵ヲ結ビ
日ニ日ニ此邊リノ路傍ニ立チ弘通ノ為民衆ニ封シ獅子吼ヲ続ケシ址
ナリトテ世ニ辻説法ノ舊蹟ト傳ヘラル
昭和十一年三月建 鎌倉町青年團
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蛭子神社
日蓮上人辻説法跡からその先へ進んでいくと、赤い円柱ポストがある所から右手へ道が分かれていきます。
鎌倉駅へは右手の道を進んでいくのですが、
左側に「蛭子神社」の扁額が掛る鳥居が立っているので立ち寄っていきました。
鳥居の袂には「村社蛭子神社」と刻まれた石柱がありました。
鳥居の先に続く石畳みの参道を進んでいくと蛭子神社の社殿がありました。
前には御神木と思われる大きな木があって、脇には神輿庫がありました。
その中には大小二基の神輿が並んで安置されていました。
社殿の奥には滑川が流れていました。
掲示板にある「蛭子神社御縁起」と題した貼り紙によると、
出雲大社の大国主神(えびす様)を祭神とする神社のようでした。
蛭子神社御縁起(鎌倉市小町)
鎮守蛭子神社は出雲大社に鎮ります大国主神を御祭神として(里俗恵比寿尊神)と称され、
往古永享年間(凡五百年前)日蓮宗本覚寺門前夷堂橋の傍に夷堂あり夷三郎社とも称され、
同寺の守護神として、又付近住民の氏神様として崇敬されたが、
明治維新に神仏分離によりこの地に鎮座し、同時に宝戒寺門前地区の氏神として、
同寺境内に祀られし北條一門の守護神山王権現をも之に合祀し、蛭子神社と称するに至った。
爾来百余年えびす様の愛称で、福の神・むすびの神として信仰され、
遠近より善男善女の参詣多く神賑を極め今日に至った。
えびす様は、皆様おなじみの釣棹を手にし鯛を抱かれた福徳円満の神影をえがいて敬い親しみ、
産業福祉の道をお拓きになった。
御神業の神として一般に福の神・縁結びの神・商売繁盛の神として信仰する者多く、
殊に近年は学びの神・交通安全の神として、氏子を始め崇敬し参詣するもの日毎に増し、
えびす様と私共の生活が「むすび」の御霊力即ち愛情によって人間は活かされており、
そのことに感謝し、その愛情にふれさせて頂く努力をすることによって、明るい生活が出来るのであります。
私等の氏神として、永い歴史があって変わらない信仰と崇敬をおうけになっている尊い鎮守様であります。
蛭子神社例大祭 八月土曜日・日曜日
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鎌倉(かまくら)駅
蛭子神社の前にある通りを真っ直ぐに進んでいきます。
鎌倉雪之下教会を過ぎていくと若宮大路に出ます。
右手の先には赤い大きな二の鳥居が立っていて、
その先には鶴岡八幡宮まで段葛が続いていますが、左折していきます。
鎌倉警察署の前を過ぎていくと鎌倉駅入口交差点があります。
信号を渡って真っ直ぐ進んでいくと、正面に鎌倉駅(JR横須賀線)があります。
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