野島公園
散策:2010年09月中旬
【海辺散策】 野島公園
概 要 野島公園は横浜市金沢区の海辺にある公園で、室ノ木地区と野島の二箇所から成っています。 松林が広がる公園にはキャンプ場やバーベキュー場があり、 中ほどの高みにある展望台からは360度の眺めが広がります。 今回は野島公園を訪ねてから海の公園へ向かい、寺社などを訪ねながら金沢八景駅へと戻っていきます。
起 点 横浜市 金沢八景駅
終 点 横浜市 金沢八景駅
ルート 金沢八景駅…琵琶島神社…金沢八景公園…野島公園(室ノ木地区)…夕照橋…野島公園…野島稲荷神社…野島公園展望休憩所…旧伊藤博文金沢別邸…乙舳公園…金沢漁港…海の公園…八幡神社…町屋神社…安立寺…龍華寺…洲崎神社…洲崎広場…瀬戸神社…金沢八景駅
所要時間 3時間50分
歩いて... 野島公園の展望台からは、八景島方面や鷹取山・二子山・大楠山方面を望むことが出来ました。 条件が良いと富士山も見えるようですが、この時には霞んでいて見えませんでした。 海の公園の砂浜には海藻(アオサ)がびっしりと打ち上げられていて、仄かに異臭を漂わせていました。
関連メモ 金沢八景, 称名寺市民の森
コース紹介
金沢八景(かなざわはっけい)駅
金沢八景駅(京浜急行本線)から歩いていきます。
駅を出た所に「潮香る金沢 海のまち 金沢区総合案内サイン」と題した案内板があって、 今回歩く範囲の地図が載っているので参考にしましょう。 「名所・旧跡案内」として簡単な解説文も載っていたので、今回のルートに関連する所を載せておきます。 正面の道を真っ直ぐ進んで国道16号の金沢八景駅前交差点に出ると、 左手に金沢シーサイドラインの金沢八景駅が見えています。 横断歩道を渡って、シーサイドラインの高架の下に続く道を進んでいくのですが、 その前に、左手すぐの所に琵琶島神社があるので立ち寄っていきました。
名所・旧跡案内
野島公園 野島公園は、横浜市最南部干潟湾入口に浮かぶ小さな島の公園で、 歌川広重に描かれた「野島夕照」で知られています。 海抜57mの野島山を中心としてバーベキュー場、キャンプ場、野球場などの施設を整え、 展望台からは横浜の海はもちろん、房総半島や富士山まで360度の景色を見ることができます。
シーサイドライン「野島公園駅」より徒歩5分
海の公園 海の公園は、金沢地先埋め立て事業の一環として整備された、横浜市内唯一の海水浴場がある海浜公園です。 延長約1kmに及ぶ白砂青松の海岸では、海水浴の他、ウィンドサーフィンなども楽しめ、 バーベキュー場も整備されています。 毎年潮干狩りのシーズンには、多くの人で賑わいます。
シーサイドライン「海の公園南口駅」「海の公園柴口駅」「八景島駅」徒歩2分
旧伊藤博文
 金沢別邸
明治憲法草創と深く関わる金沢の地に愛着を抱いた伊藤博文により、明治31年(1898)に建築されました。 当時、金沢の地が別荘地であったことを物語る遺構であり、 その歴史的価値から平成18年に横浜市指定有形文化財(建造物)に指定されました。 邸内では、伊藤博文に関する資料や調度品など貴重な資料を展示・公開しています。 また、庭園からは海が一望でき、金沢区の花「ボタン」をはじめ四季折々の花を楽しむことができます。
開園時間:9:30〜16:30(7・8月は17:30まで)
休園日:毎月第1・第3月曜日(休日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日〜1月3日)
入場料:無料
シーサイドライン「野島公園駅」より徒歩5分
金沢歴史の道 称名寺の参道である旧金沢道沿いには、史跡・仏閣など歴史的遺産が残されています。 これらを結びつける街道整備が「金沢歴史の道」で、昭和60年(1985)に完成しました。 行灯をモチーフとした街路照明などが配備されています。 街道始点の洲崎広場にある「憲法草創の碑」は、明治20年、伊藤博文、伊藤己代治、金子堅太郎らが 料亭東屋において明治憲法制定のために草庵を起草したものです。 東屋の廃業により、一時野島に移設されましたが、歴史の道整備に併せて、再び洲崎の地に設置されました。
(他で見かけた碑文では、「伊藤己代治」は「伊東巳代治」と表記されていました)
金沢八景駅前交差点の横断歩道を渡って左手の方へ進んでいきます。 木柵が設置された所まで来ると、入口には「福石」がありました。 その先には「琵琶島神社」の扁額が掛かる鳥居が立っていて、解説板もありました。 右側の大きな樹木には注連縄が張られ、絵馬も掛けられていました。 左側には「横浜金澤七福神 弁財天」と刻まれた台に乗った小振りの石像もありました。 脇には解説板だったと思われるものもありましたが、枠だけになっていました。
横浜金澤七福神
平成17年に制定された新しい七福神霊場ですが、各寺社には長い歴史があるようです。
布袋尊(長昌寺)、 蛭子尊(富岡八幡宮)、 寿老人(宝蔵院)、 毘沙門天(伝心寺)、 大黒天(龍華寺)、 弁財天(瀬戸神社・琵琶島神社)、 福禄寿(正法院)
福石
源頼朝公、当社参拝の折、この石に服を掛け、海水で禊祓したので服石とも呼ぶ。 古来この石の前で物を拾ふ時は福を授かる故に福石と称す。 金沢四名石の一である。
 (昭和五十四年五月 瀬戸神社御鎮座八百年記念建之)
金沢八景名称の由来
その昔、金沢六浦の地は海路の要所となる重要な港湾であっただけでなく、 浦波島山のさまが千変万化に見えて、鎌倉幕府以来の武将たちはもとより、 江戸の町人や明治の貴紳・文化人たちの安らぎの場所であったことは史実に明らかであります。 八景の名称は、水戸の徳川光圀に招聘された中国の僧 東皐心越禅師が元禄七年(1694)この地に来遊し、 谷津の能見堂からの眺めを故郷の杭州西湖の風景になぞらえて八景を吟じたのにはじまるといわれています。
武州 金沢八景
洲崎の晴嵐(すさきのせいらん)、 野島の夕照(のじまのせきしょう)、 瀬戸の秋月(せとのしゅうげつ)、 平潟の落雁(ひらかたのらくがん)、 小泉の夜雨(こずみのやう)、 内川の暮雪(うちかわのぼせつ)、 乙舳の帰帆(おっとものきはん)、 称名の晩鐘(しょうみょうのばんしょう)
野島山の沖には夏島・烏帽子岩・猿島が点在しており、 今日の六浦・泥亀・釜利谷にまで入り込む内海と緑の山なみが作り出す風景に加え、 四石・七井・八名木のほか、神社・寺院が適切に配置されていて、 今から数十年前までは真に景勝の地でありました。
金沢四石:美女石・姥石・福石・飛石
金沢七井:御井戸・亀井・白井・赤井・御中井・染井・荒井
金沢八名木:青葉の楓・西湖の梅・黒梅・桜梅・文殊梅・普賢象桜・蛇混柏・雀浦の一つ松
 (横浜金沢ロータリークラブ)
琵琶島神社
鳥居の先には、松並木の参道が平潟湾に突き出すようにして続いています。 赤い欄干の小橋を渡って琵琶島に着くと、柵で囲まれた一角に琵琶島神社の社殿がありました。 由緒書きによると、神社のあるこの場所は人工島のようでした。 正面に広がる平潟湾にはヨットなどが沢山停泊していて、その奥には野島が見えていました。
琵琶島神社
御祭神  市杵島姫命
由緒  源頼朝公の御台所北條政子が深く信仰した近江国の竹生島弁財天を勧請し、 瀬戸神社々頭の海中に島を築いて祀ったと伝える。 島の形が琵琶に似ていたので琵琶島弁財天と呼ばれた。 室町時代には船寄弁財天とも称し、又、御神体が立像であるところから、 政子の出世に因んで江戸時代には立身弁財天の信仰を集めた。
例祭  五月十五日 神幸式。 瀬戸神社例大祭に引続き、本社の神輿が琵琶島に渡御し社前で神楽が奏される。
柏槇(びゃくしん)  参道両側の枯木は柏槇の名木で、延宝年間の高潮に冠水して立ち枯れたまゝ腐蝕せず、 三百年前の古趣を今に遺している。
横浜市地域史跡 琵琶島
琵琶島は島の形が琵琶に似ていることから呼ばれたと言われます。 島には北条政子が近江(滋賀県)の竹生島から勧請した弁天を祭ってあります。 もとは瀬戸神社前面の海中にあり、二つの島を橋で結んでいましたが、現在は陸つづきとなっています。 金沢活計の一つである「瀬戸の秋月」の夜景を今に伝えるところです。
よるなみの 瀬戸の秋風 小夜更けて 千里のおきに すめる月かけ 京極高門
 (横浜市教育委員会)
琵琶島神社から引き返してきて、金沢シーサイドラインの高架の下に続く道を進んでいくと、 すぐの所に「金沢八景」の浮世絵と簡単な解説文が書かれた四角い石が点々と設置されていました。
金沢八景
乙舳帰帆 沖津舟ほのかにみしもとる梶の おとものうらにかへる夕波
「おとものうら」は、現在の乙舳町というより、平潟町から柴町方面に連なる海岸を指しています。 大正から昭和の初期には、東京湾内でも有数の介す浴場としてにぎわい、 海の家がぎっしりと立ち並んでいたほど。 今は、海の公園に生まれかわっています。
平潟落雁 跡とむる真砂にもじの数そへて しほの干潟に落ちるかりがね
現在の乙舳町、平潟町あたりの風景ですが、潮干狩りは江戸時代から盛んだったようです。 ここには足利時代からの塩田もあり、明治43年に専売制度ができるまで金沢の大切な産業でした。
称名晩鐘 はるけしな山の名におふかね沢の 霧よりもるゝ入あひのこえ
称名の鐘は、寺の開基、北条実時が文永6年(1269)父実泰の7年忌を記念して鋳造したもの。 正応年間(1288〜1293)に破損してしまい、正安3年(1301)に実時の子顕時が再鋳造しました。 銘文によると、作者は当時関東で腕をふるった大和権守物語国光とその子山城権守同依光です。 作者は入宋の沙弥円種、書は宋僧慈洪の筆による日宋合作の梵鐘です。 総高128.5cmの美しい形で中世名鐘のひとつとして知られ、重要文化財にも指定されています。
野島夕照 夕日さす野島の浦にほすあみの めならぶ里のあまの家々
野島は漁村としてばかりでなく、舟の発着場としてにぎわっていました。 三浦半島の交通が不便であった時代には、横須賀方面への舟の乗継場としてよく利用されていたのです。 画には、横須賀市追浜町天神の鼻にあった烏帽子岩や沖には夏島が描かれていますが、 今は追浜から地続きとなり、姿を消してしまいました。
内川暮雪 木陰なく松わむもれてくるゝとも いざしら雪のみなと江のそら
関東学院のある内川橋、瀬ヶ崎一帯の雪景色。 現在は柳町の町並みが続いているあたり。 深く入り込んだ六浦湾(平潟湾)はねずみ色に沈み、陸地は全て白一色の様子。 湾の近く雪に埋もれた塩田の中に点在しているのは塩焼小屋。 六浦町塩場付近でしょうか。
小泉夜雨 かぢまくらとまもる雨も袖かけて なみだふる江の昔をぞおもふ
金沢文庫駅わきを流れる宮川の上流あたり、昔は平潟湾の入江が入り込んでいて舟を着ける場所もあったのでしょう。 手子神社の付近には、今も河岸(かし)という家や中洲という地名が残っています。
瀬戸秋月 よるなみの瀬戸の秋風小夜更て 千里のおきにすめる月かげ
瀬戸と洲崎の間はひょうたんのくびれのような海峡になっていて、 その奥の泥亀、大川、釜利谷町小泉あたりまで内海でした。 潮の干満によって内海の水が一時に出入りするため、容易に渡れない難所であったというこの場所に、 瀬戸橋が架けられたのは嘉元3年(1305)ころ、 画はこの付近から中秋の名月を眺めた夜景で、手前は旅亭東屋です。
洲崎晴嵐 にぎはえるすさきの里の朝けぶり はるゝあらしにたてる市人
少しくらい風のある日でも朝市が立っていたのでしょうか。 洲崎から瀬戸神社の前に通ずる道は鎌倉街道で、この街道沿いに江戸時代中ごろまで、松並木がありました。
金沢八景公園
高架の下の道には植込みが続きベンチなども設置されていて、雰囲気のいい道になっていました。 岸辺では釣糸を垂らしている人達も見かけました。 六浦川に架かる八景橋まで来ると、金沢シーサイドラインの高架は曲がりながら平潟湾を横切っていきます。 八景橋を渡った所に金沢八景公園がありました。 簡単な遊具などがあるだけの静かな公園でした。
おねがい
公園では、他の利用者や近隣住民の迷惑になることはやめましょう。
1.木や草花を大切にしましょう。
2.ゴルフ等危険な球技はやめましょう。
3.犬を散歩させるときは、綱につないで放さないでください。
4.フンは飼い主が始末しましょう。
5.ロケット等の危険な花火はやめましょう。
 (横浜市金沢土木事務所)
投げ釣り禁止のお願い
この付近で投げ釣りを行いますと、シーサイドラインの電車および線路に釣り道具(錘り等)が当たり、 事故になる恐れがあります。 危険ですから投げ釣りは行わないようお願いします。 尚、電車に危険を生じさせた場合は法令により処罰されることがあります。
 (金沢警察署、横浜新都市交通(株))
街路樹も見かけるようになった道を進んでいきます。 柳町交差点を過ぎていくと、侍従川に平潟橋が架かっています。 その手前に「侍従川と照手姫の伝説」と題した解説板がありました。
侍従川と照手姫の伝説
六浦方面から平潟湾に流れ込む侍従川。 この川には照手姫(照天姫ともいう)にまつわる不思議な伝説が残されています。 昔、常陸国での戦いに敗れた小栗判官には、照手姫という侍女がいました。 照手姫は藤沢から朝比奈峠を越え、六浦湊に出ようとする所で追手に捕らえられ、 侍従川に投げこまれるなど、何度か危機を迎えますが、 その度に日頃信仰している観音の功徳によって奇蹟的に助かり、 その後無事に小栗判官と再会できたという話です。 また、川の名前も、「侍従」という名の照手姫の乳母にちなんで付けられたといわれています。
野島公園(室ノ木地区)
平潟橋を渡っていくと、左右に通る車道に出ます。 室ノ木歩道橋を渡って道路向かいに降りて左手へ進んでいくと、野島公園の入口があります。 野島公園は、野島にある部分と、この室ノ木地区にある部分の二箇所から成っているようでした。 樹木が植えられて雰囲気のいい公園へ入っていくと、左手に岩山がありました。 向こう側に回ると階段が設置されていたので上まで登ってみると、 周囲を柵で囲まれた小広い所になっていました。 眼下にはグラウンドがあって、夕照橋の先にはこれから向かう野島が見えていました。 振り返ると平潟湾もよく見えました。
広域避難場所 野島公園(室ノ木地区)
地震に伴う大火災が多発し延焼拡大した場合、火災の熱や煙から市民の生命・身体を守る場所、 それが広域避難場所です。 「野島公園(室ノ木地区)」は広域避難場所として土地所有者の御協力を得て指定したものです。 避難者は次のことを守って下さい。
1. この場所は一時的な避難場所であり、延焼の危険がなくなりましたら自宅、事業所にお戻りください。
2. 家が壊れて自宅に戻れない場合は、あらかじめ指定された下記の震災時避難場所(地域防災拠点)へ行ってください。 (1)瀬ヶ先小学校
 (横浜市)
夕照橋
車道に出て左手へ進んでいくと夕照橋交差点があります。 夕照橋の手前にはこの付近の地図が載った「地域案内サイン」があるので参考にしましょう。 この夕照橋は「かながわの橋100選」にも選ばれているようです。 しっかりとした歩道が設置されている夕照橋を渡っていくと、途中にデッキのようなものが突き出ていて、 人の往来を妨げることなく景色を眺められるようになっていました。 ヨットなどが浮かぶ平潟湾を一望することが出来ました。 橋を渡った先には、十字路になった野島町交差点があります。 道標が立っていて、正面の道は「旧伊藤博文金沢別邸500m」「野島公園250m」、 今来た道は「京浜急行金沢八景駅1.3km」となっています。 左右の道には何も示されていませんが、今回は右手の道から野島公園へ向かっていきました。 交差点の右側の橋詰に、趣のある木製の燈籠のようなものが立っていて、 「手づくり郷土賞」と題した板が取り付けられていました。
手づくり郷土賞
ふるさとが誇りとする橋
橋名の由来  金沢は金沢八景と言われるように古くから風光明媚な所であります。 夕照橋は八景のうち野島夕照にちなんで命名されたものである。
金沢八景 洲崎晴嵐・瀬戸秋月・小泉夜雨・乙舳帰帆・平潟落雁・野島夕照・内川暮雪・称名晩鐘
「野島夕照(のじまのせきしょう)」が橋名の由来とのことで、 夕照橋は「せきしょうはし」と読むものとばかり思っていると、 橋の欄干に書かれた文字によると「ゆうしょうはし」と読むのだそうです。
野島公園
野島町交差点を右折していくと、すぐに道が二股に分かれていますが、 右手の野島自動車駐車場がある道を進んでいきます。 道路の半分ほどの幅が駐車場として利用されています。 船宿などを眺めながら進んでいくと、少し左へ曲がった所に「この先70m行き止まり」の標識が立っています。 そのすぐ先に建つ第二野島町内会館から左に分かれていく路地へ入っていくと、 車止めの先が野島公園になります。 正面の海沿いには松林が続いていて、その中はキャンプ場になっているようでした。 この時もテントなどが幾つも張られていて、調理などをしている人達を見かけました。 海辺に出てみると、カヤックの練習をしている人達を見かけました。 小さな子供も一生懸命に練習していました。
松林の向こう側に白い建物が見えてきたので近寄っていくと横浜市野島青少年研修センターがありました。 中に入っていくと広いホールの奥に入口がもう一つあって、靴を脱いで入るようでしたが、 「関係者以外これより先立入禁止」となっていました。 脇には売店もありました。 玄関の脇には大きな卵形のモニュメント「未来へのタマゴ」がありました。
野島青少年研修センター利用案内
当研修センターは、青少年の集団宿泊生活を体験する研修活動と青少年指導者、育成者の研修活動の場とすることにyり、 青少年の健全育成を図ることを目的としています。
□利用時間
 ・宿泊研修 午後2時〜最終日の午前11時
 ・日帰り研修 午前9時〜午後5時(ただし、研修室、和室のみ利用可)
 ・休館日 原則として月1回施設点検日、年末・年始(12月29日〜1月3日)
□利用の範囲
 ・青少年の研修活動
 ・青少年指導者等の研修活動
 ・その他青少年に関する研修活動
 ただし、次の場合は利用できません。
 ・営利事業を行うとき。
 ・公安または風紀を害するおそれがあると認められたとき。
 ・管理上支障があると認められたとき。
□利用するにあたってのお願い
 ・個人では利用できません。
 ・全館原則として禁煙です。
 ・館内における事故(けが・盗難等)については責任を負いません。
 ・駐車場はありませんので、車での来館はしないでください。
□利用申し込み
 ・宿泊研修については、使用する日の属する月の3か月前の第2日曜日から受付ます。
 ・日帰り研修については、使用する日の4週間前から受付ます。
のじまのうた
のじまについたよ やっとついた  空は青(雨)空 わくわくしちゃう
おいしいごはんも みんなでつくろう  あしたの朝まで 楽しもう
未来へのタマゴ
これは、宇宙・生命・自然など、あらゆる意味を秘めている。 さあ、何が生まれてくるのかな? 次代を担うタマゴ達へ贈ります。
 (作者 日本造形、 寄贈 日本宝くじ協会)
野島稲荷神社
研修センターの先の山際に、「稲荷社」の扁額か掛かる鳥居が立っています。 脇には「鎮守 稲荷神社」と刻まれた石柱もありました。 鳥居をくぐって、石灯籠や狐像が並ぶ石段を登っていきます。 石段を登り切って平らな所に着くと、山際に野島稲荷神社がありました。 本殿と拝殿から成る立派な社殿で、本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 拝殿の前には欅の枝に生育していたというヤドリギが置かれていて、往時の写真も載っていました。 社殿の周りの岩壁には多くの祠がありましたが、由緒書きにある境内社なのでしょう。 中にはエジプトのスフィンクスのように腹ばいになった狐像もあって、珍しく思いました。
野島稲荷神社 由来
鎮座地  横浜市金沢区野島町23-1
祭神  倉稲魂命  (合祀神)天照皇大神、菅原道真公、市杵島姫命、誉田別命、天児屋根命、須佐之男命
境内社  神明社・船玉社・秋葉神社・金比羅神社・天満宮・皇大神宮
神事と芸能  元旦祭1月1日、賽の神1月14日、稲荷祭2月初午日、夏大祭7月吉日、汐祭9月1日、霜月祭11月23日
社殿  相之間造、本殿流造、幣殿両下造、拝殿入母屋銅板葺
由緒沿革  金沢八景の一つ野島の夕照で知られる野島山南側山麓に鎮座する稲荷神社(正一位稲荷大明神)は、 豊川稲荷、笠間稲荷、伏見稲荷の日本三大稲荷の中の京都伏見稲荷の系統です。 この神社は野島町の総鎮守で倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)をおまつりしています。 野島神社は安貞元年(1227)今から約770年の昔、鎌倉時代に阿波守長島維忠の発願により、 その子修理佐頼勝が造立したものと伝えられています。 また、土地の古老によれば、万治年間(1658〜1660)野島浦の南端に紀州大納言徳川頼宣公の 別邸があり、これを塩風呂御殿と称したをいうことです。 稲荷神社はちょうど塩風呂御殿の東北の方向にあり、そのため鬼門の守り神として 頼宣公の厚い尊信を受け、社殿造営にも力を尽くしたということです。
 (氏子総代)
寄生木(ヤドリギ)
これは当神社境内に有ります欅の一枝に生育しました寄生木です。 鳥類の餌等により媒介された種により自生した常緑樹により、五年乃至十年を経たものが枝を蝕み、 此の様になり枯れたものと推定されます。
 (氏子総代)
鳥居まで引き返してきて西側に続く道を進んでいくと、 草地の先の広場から右手の山へと続く幅の広い石段があります。 手摺も設置されたその石段を登っていきます。 一旦緩やかになってから再び始まる石段を登っていくと、 下の広場から4分ほどで左右に通る坂道に出ました。 正面にはこんもりとした高みが見えています。 左右に通る舗装路は、その高みの周囲を巡る周回路になっています。 坂道を右手へ登って緩やかな山頂部に着くと、右手には草地が広がっていました。 端には「野島貝塚」の解説板が立っていました。 草地の先の方には「野島公園案内図」もありましたが、かなり掠れていて分かり難くなっていました。
横浜市指定史跡 野島貝塚
横浜市金沢区野島町に所在する野島貝塚は、昭和20年代前半に小発掘が繰り返され、 その存在が明らかにされた縄文時代早期後葉の遺蹟で、市域において現存する最古の貝塚です。 貝塚は、標高約53メートルを測る独立丘の頂部北側緑辺部及びそれに続く標高50〜37メートルの 斜面中腹部に点在しています。貝層は、厚さ10センチメートル〜30センチメートルで、 マガキ、オオヘビガイを主体とする純かん性の貝で構成されています。 貝層内からは、鹿角製の釣針、貝輪未製品、シカ、イルカなどの獣魚骨が、 更に隣接する包含層からは磨製石器が出土しています。 貝層内出土の土器は、縄文時代早期後葉の野島式土器として形式が設定されており、 また貝層下の土層からは大丸式、夏島式など早期初頭の土器が出土しているなど、 本貝塚は学術上極めて貴重な位置を占めています。
 (横浜市教育委員会)
野島公園展望休憩所 (海抜64.2m)
緩やかな山頂部の左手にあるこんもりとした高みに野島公園展望休憩所(展望台)があります。 大きな8本の柱の上に円盤状の上階が乗った形になっています。 内側に設置された螺旋階段を登って上階に着くと、360度の展望が広がります。 眼下には八景島が見え、振り返ると鷹取山・二子山・大楠山などの山並が続いていました。 富士山も見えるとのことですが、この時には遠くは霞んでいて見えませんでした。 周囲には柵が設置されていて、各方向に見える景色の写真が名前付きで掲示されていました。 登り着いた所は北側で、そこから反時計回りに、次のようになっていました。
横浜ベイブリッジ、柴漁港、横浜国際平和会議場、金沢新漁港、海の公園、下水道局金沢ポンプ場、称名寺、 旧伊藤博文別荘、金沢シーサイドライン、野島公園駅、円海山、野島橋、金沢自然公園、 横浜市立大学、金沢八景駅、丹沢山系、金沢シーサイドライン、平潟湾、富士山、平潟橋、鎌倉・江ノ島方向、 侍従川、鎌倉・江ノ島方向、夕照橋、関東学院、野島公園室ノ木地区、逗子方向、鷹取山、 葉山方向、追浜運動公園、野島水路、三崎・城ヶ崎方向、大楠山、 野島水路、三崎・城ヶ崎方向、大楠山、衣笠方向、劔崎方向、三浦海岸方向、久里浜方向、 久里浜方向、浦賀・横須賀方向、鋸山、猿島、観音崎、浦賀水道、夏島、 夏島、富津、君津方向、 千葉港・ポートタワー方向、横浜ヘリポート、八景島、横浜市立大学医学部附属病院、東京ディズニーランド方向、八景大橋
展望台の上階には「周辺の公園と歴史探訪」と題した解説文が掲示されていました。 野島歴史年表もあって、縄文時代の夏島貝塚・野島貝塚・称名寺貝塚から、 鎌倉時代の金沢文庫・称名寺、江戸時代の安藤広重「金沢八景」、 明治時代の明治憲法草創、昭和時代の海の公園・野島公園、 平成時代の野島公園展望休憩所・金沢動物園などが一覧になっていました。
周辺の公園と歴史探訪
夏島貝塚 現在の横須賀市夏島町にあり、東西14メートル、南北13メートル程の広がりをもち、 3枚の貝層が整然と堆積しています。この貝塚から、夏島式土器をはじめ、縄文時代早期の 各型式の土器が出土しました。
野島貝塚 野島公園の山頂付近に貝塚があることが分かったのは、昭和20年代です。 貝塚の広さは、東西15メートル、南北10メートル、貝層の厚さは約30センチメートル程です。 発見された土器は縄文時代早期後半のものです。 野島貝塚は、平成2年11月横浜市の文化財に指定されました。
称名寺貝塚 称名寺周辺の標高8〜10メートルの砂丘上に、6ヶ所の貝塚がほぼU字形に点在しています。 称名寺山門脇にある貝塚は、古くから知られたものです。 魚骨やイルカの骨や、骨角製漁具が多いのがこの貝塚の特徴です。
野島公園 野島はかつて独立した孤島であったものが、乙舳(おっとも)海岸の砂州が伸びだして、 州崎村と陸続きになったものです。海抜55メートルの山頂付近には、縄文時代早期の野島式土器が 発見された野島貝塚があります。貝塚からは石器や骨角器も出土していますから、 約8000年以上も前から漁民の生活があったことになります。約18万平方メートルの総合公園で、 海に面した立地を生かしたバーベキュー、キャンプ場のほか、野球場、旧伊藤博文別荘や、 青少年研修センターなどがあります。
野島公園
展望休憩所
みなさんが立っている展望台の高さは、海抜64.2メートルあり、天気の良い日には、 富士山、丹沢山系、房総半島の山々や、ベイブリッジなど、360度のパノラマが楽しめます。
旧伊藤博文別荘と
憲法草創の碑
展望台への登り口近くに、伊藤博文の旧別荘が残されています。 野島公園にある別荘は、憲法制定後、伊藤公が建てたといわれています。 かつて、伊藤公が憲法草案を練った東屋旅館の跡にほど近い金沢歴史の道に、 「憲法草創の碑」が建っています。 また、夏島の別荘跡には「夏島憲法記念碑」があります。
乙舳帰帆 ここに描かれてる風景は、野島から柴まちまで一望のもとに広がっていた海岸です。 昭和40年代まで海水浴場として利用されていました。 現在では海の公園の人工海浜になっています。
海の公園 海の公園は、乙舳(おっとも)海岸を埋め立ててつくり、昭和55年7月にオープンしました。 延長約1キロメートルの人工海岸は千葉県の浅間山の山砂を八景島近くの海底に約5年間置いたあとに、 およそ1年間かけてつくられました。そして待望の海水浴場が、昭和63年7月に16年ぶりに復活しました。 面積は約25万平方メートルあり、レストラン休憩所、シャワーロッカー室等、充実した施設があります。 金沢シーサイドラインが公園と平行して走り、交通の便もよく、市民の憩いの場所になっています。
称名晩鐘 安藤広重の描いた金沢八景の一つで、金沢山称名寺を背景に、 今は陸となっている寺前あたりの、のどかな岸辺を描いています。
金沢文庫 金沢文庫とは、およそ700年前に北条実時が称名寺とともに建てた物で、 一種の図書館として、当時の武士や僧侶に利用されました。 昭和5年に県が、歴史博物館として復興し、平成2年現在の位置に建て直されました。
称名寺 金沢区で最も歴史が古く、格式が高いお寺です。 文応元年(1260)北条実時が、自邸内に建てた持仏がその起源です。 文永4年(1267)下野薬師寺の妙性坊審海を迎えて称名寺を開山しました。 境内中央の阿字ヶ池を囲んで、七堂伽藍が建ち並ぶ壮麗な大寺院でした。 その後、北条氏滅亡と鞆に衰退しています。 大正11年(1922)国の史跡に指定され、昭和54年(1879)から、境内復原工事が行われ、見事に改修されました。
金沢自然公園 金沢自然公園は、円海山にほど近い豊かな自然の中に立地し、 動物園と植物区からなり、全体で約59万平方メートルあります。 金沢動物園は1989年3月に完成し、世界的に数が少なくなっている草食動物を大陸別に展示しています。 植物区は、うきうき林、みずの谷、なんだろう坂、のんびり野原、にこにこプラザ、しだの谷の6ゾーンに分かれており、 四季折々の樹木や草花が咲き乱れ、市民の憩いの場、また自然科学の学習の場としてこころゆくまで楽しめる公園です。
展望台を後にして、山頂部の先に続く周回路を降っていくと、反対側から降ってきた周回路と合流します。 そこから右手へと降っていきます。 右・左と曲りながら坂道を降っていくと五叉路に降り立ちます。 脇には野島公園の案内図も設置されていました。 右手には松林が続いていてキャンプ場やバーベキュー場になっているようですが、 「旧伊藤博文金沢別邸」の道標に従って、正面の道を進んでいきました。
公園利用者の皆さんへ
1. 指定場所以外でのキャンプ及びバーベキュー等の火気使用は禁止します。
2. キャンプや火気の使用に際しては、許可及び使用料が必要です。 また、バーベキュー炉の利用には、予約が必要です。
※詳しくは、野島公園詰所にてお尋ね下さい。
 (横浜市南部公園緑地事務所・野島公園詰所、横浜緑の協会)
旧伊藤博文金沢別邸
すぐに竹塀に囲まれた一角が現われますが、これが旧伊藤博文金沢別邸になります。 玄関は塀に沿った先の方にあり、三棟の建物の手前の庭は牡丹園になっていますが、 この時には花は咲いていませんでした。 庭には歌碑もありました。 海側には松の木が植えられて、雰囲気の良い庭になっています。 門から入るとすぐに玄関があり、靴を脱いで座敷に上がるようになっていました。
旧伊藤博文金沢別邸牡丹園
開園時間 9:00〜17:00
休園日 毎月第一・第三月曜日
入園料 無料
火気厳禁、ペットを連れての入園は禁止
 (横浜市緑の協会・野島公園事業所)
金沢別邸
伊藤博文は明治憲法ゆかりの地である金沢に明治31年(1898)別邸を建築しました。 政治活動で多忙を極めていたこともあり、博文の別邸利用は年に数回程度でしたが、 皇太子(後の大正天皇)をはじめ、皇族や韓国皇太子などを度々別邸へ招いていたことが 建物管理をしていた松本家の資料より確認されます。 別邸建築11年後の明治42年(1909)10月26日、 中国黒竜江省のハルビン駅で凶弾に倒れた博文は、68歳でその生涯を閉じます。 博文の訃報を受け、翌明治43年(1910)別邸の所有は長男の博邦(養子)に、 大正9年(1920)には次男の文吉に移りました。 なお、建物管理は建築当初から久良岐郡町屋の旧家松本家が行っていました。
松本家と金沢
松本家は、町屋村で江戸時代中期から代々名主や戸長を務めた旧家です。 明治時代中期の当主源左衛門は金沢村長を、昭和初期の当主房治は金沢町長を務めました。 また、当家は商家としても知られ、米屋源左衛門という名で商業活動を行っていました。 この町屋を含む久良岐郡の沿岸部は物流の拠点で、東京湾での海上輸送、 鎌倉や浦賀へ通じる街道での陸上輸送など、物資輸送に便利な場所でした。 …(以下略)
尾山篤二郎 野島歌碑
碑面の歌 枯山も温とましげに靄籠り 安らやすらと暮れゆかんとす (晩年の作 自筆)
歌人国文学者評論家として盛名あり。 明治・大正・昭和の三代の歌壇に中枢たりし人。 号、秋人、刈萱、無柯亭、笠山人、石齋、石齋は主として書に用う。 「藝術院賞」受賞者、文学博士。
 (尾山篤二郎 野島歌碑 建設の会)
久良岐郡
久良岐郡とは、武蔵国・神奈川県にかつて存在した郡で、 多摩丘陵南部の東京湾に接近する地域、および三浦丘陵の北端を含むようです。 現在の行政区画では、横浜市の中区・南区・西区・磯子区・港南区・金沢区に相当します。
別邸から引き返して、傍にある駐車場の向かい側の道を進んでいきます。 十字路まで来ると、正面の道は「行止り」となっています。 国道16号へは左折するのですが、今回は右折していきました。 金沢八景教会を過ぎていくと、右手に野島公園の北端部があります。 突き当たりを左折して、船宿などが並ぶ野島運河沿いの道を進んでいきます。 十字路まで来ると、野島運河には野島橋が架かっています。 車道・自転車道・歩道と色分けされた新しい橋です。 橋を渡りながら運河を眺めていると、仕立船が漁から戻ってきました。 橋を渡った所に金沢シーサイドラインの野島公園駅がありますが、 金沢海岸道の野島公園駅交差点を右折して高架の下を進んでいきます。
乙舳公園
先ほど訪ねた野島を右手に眺めながら高架の下を進んでいくと、 左へ曲がり始める辺りの海側に松などが植えられた小さな緑地があります。 標識などは見かけませんでしたが、手元の地図によると乙舳公園というようです。 先の方までいくと、柵の向こう側には浮き桟橋などがありました。 散策路はその手前で左へ曲がって、金沢海岸通沿いに戻ってきます。
金沢漁港
金沢海岸通沿いに戻ったすぐ先から、先ほどの浮き桟橋のある一角への道がありますが、 入口には柵がされていて、「危険に付関係者以外立入禁止」となっていました。 「漁業操業に支障となるので漁港内への関係者以外の立入並びに釣り等は固く禁止する」との看板も出ていました。 その道は見送ってグラウンドを過ぎていくと、車道が横切っています。 その右手の先に漁港の門が見えたので、傍まで行ってみました。 「横浜市金沢漁港」と書かれた門には、同じく「漁業関係者以外立入禁止」の看板が出ていました。 自由に出入りできる漁港は他に沢山有るし、この漁港には一般者が入ると困ることでも有るのでしょうか。
海の公園
金沢海岸通沿いまで引き返してその先へ進んでいきます。 横浜市金沢ポンプ場を過ぎていくと、駐車場の先から海側に入っていける所があります。 中へ入って作業詰所を過ぎていくと松林が現われます。 ここが海の公園になります。 「海の公園案内図」も設置されているので参考にしましょう。
海の公園ご利用の皆様へ
この公園では、みんなが楽しく安心して遊べるように次のことを必ず守りましょう。
・釣り、野球、ゴルフなど、ほかの利用者に危険や迷惑を及ぼす行為をしてはいけません。
・幼児の水遊びは、必ず大人が付き添ってください。
・アサリ採りのルールを守りましょう。
  幅15cmを超える貝採り器は使用できません。
  2cm以下のアサリの稚貝は採取できません。
  1人が一度に2kgを超える貝は採取できません。
・バーベキュー場以外での火気の使用はできません。
・許可無く物品の販売をしてはいけません。
・犬は必ずクサリなどでつないで散歩させ、ふんは飼い主が持ち帰りましょう。
・木や草花を大切にしましょ。
・その他、ほかの利用者の迷惑になる事はやめましょう。
・公園内での分煙にご協力ください。
 (横浜市南部公園緑地事務所 海の公園管理センター)
ルールを守って楽しい潮干狩りをしましょう
−海の公園でのアサリの大量採取を禁止します−
海の公園の護岸から350mまでの水域は公園区域です。 利用者の皆さんが公平に潮干狩りを楽しむ機会を確保し、将来にわたり生物資源としてのアサリを保護していくため、 この区域でのアサリの採取の方法について、下記のとおり規制します。
1.幅15cmを超える貝採り器具の使用を禁止します。
2.殻の長さ2cm以下のアサリの稚貝の採取を禁止します。
3.一人が一度に採る貝の量あ2km以内とします。
 (横浜市環境創造局南部公園緑地事務所、横浜市臨海環境保全事業団)
海辺に出てみると、右側にはバーベキュー場があり、左側には砂浜が続いていました。 砂浜には海藻(アオサ)が一面に打ち上げられていて、仄かに異臭を漂わせていました。 海の中に入って遊んでいる人達もかなり見かけました。 1周2,200mのジョギングコースも設定されているようで、走っている人を見かけたりもしました。 砂浜ではビーチバレーをしている若者グループもいました。
海の公園の砂浜について
海の公園は、乙舳海岸とよばれていた海を埋めてつくったもので、 砂浜も、まえにあったものよりも大きく、広くつくりました。 新しい砂浜が、海となじんで安定するように、波・潮流・風などをくわしく調べたり、 潮干狩りも楽しめるように貝や魚がすむことができるかどうかを調べて、砂浜の形や傾きをきめました。 砂は、千葉県の浅間山からとりだした山砂です。 船ではこんできて、およそ5年間海底においたものをポンプ式しゅんせつ船で吸い上げパイプを通して 吹き出す工法でつくりました。 昭和53年(1978)10月からこの砂浜をつくり始め、昭和54年(1979)9月に完成しました。
 ・使った砂の量 : 110万立方メートル
 ・砂浜の長さ : 約1,000メートル
 ・砂浜の幅 : 引き潮の時約200メートル、満ち潮の時約60メートル
砂浜沿いの松林に続く道を進んでいくと、左手に大きな横浜市ウインドサーフィン艇庫があります。 海の公園はその先にも続いていますが、今回は左折していきました。 艇庫を過ぎていくと、金沢シーサイドラインの海の公園南口駅があります。 手前には最初にあったのと同様の案内板などが幾つか設置されていました。 高架の下を抜けていくと、金沢海岸通に出ます。 その右手のすぐ先にある海の公園南口駅交差点の信号を渡っていきます。 二股に分かれている道路をもう一つ渡って、正面にある集合住宅の左側に続く路地へ入っていきます。
八幡神社
左右に分かれていく路地は見送って、道なりに真っ直ぐ進んでいきます。 突き当たりのT字路まで来て左折していくと、すぐの所に八幡神社があります。 玉垣で囲まれた所にある鳥居から境内へ入っていくと、すぐに社殿がありました。 本殿と拝殿から成る社殿になっていて、その右側には神輿殿がありました。 社殿には「八幡神社」の扁額が掲げられていましたが、由緒などを記したものは見かけませんでした。 社殿の正面に続く石畳の参道を進んでいくと、「金澤八幡神社」の扁額が掲げられた鳥居が立っています。
神社や境内の写真を撮ったりしていると、姉と弟と思われる子供がやってきました。 男の子は昔懐かしい竹馬を持っていました。 プラスチック製ではなく、本物の竹の棒と木板で出来ているようでした。 今でも昔ながらの遊びが引き継がれているのを見て、何だか嬉しくなってきました。
八幡神社の境内から出ると三叉路になっています。 角には「金沢歴史の道」の標柱が立っていて、ここは「八幡神社広場」、 振り返って左手の道は「左 金沢文庫駅」、右手の道は「右 史蹟称名寺」となっています。 脇には道標も立っていて、振り返って左手の道は「金沢文庫駅900m」、 右手の道は「金沢文庫780m」「称名寺境内630m」となっています。 標柱や道標には何も書かれていませんが、正面に続く道路を進んでいきます。
町屋神社
少しずれた十字路になっている町屋交差点まで来ると、 右手のすぐ先に鳥居が見えたので、立ち寄っていきました。 鳥居の脇には「総鎮守 町屋神社」と刻まれた石標がありました。 鳥居をくぐって大木が並木を作る石畳の参道を進んでいくと、 正面に「町屋神社」の扁額が掛かる町屋神社がありました。 本殿と拝殿から成る社殿で、左手には神輿蔵がありました。 総鎮守とのことですが、由緒などを記したものは見かけませんでした。
安立寺
町屋交差点まで引き返してその先へ進んでいくと、左手に分かれていく路地がありました。 入口には「宗祖 船中問答御着岸霊場 日蓮宗安立寺」 「中山法華経寺開山 富木日常上人御親刻 感應之祖師安置」 「鎌倉時代創建福船山」と書かれた看板が出ていて、 その奥には山門が見えていたので、立ち寄っていきました。 看板の脇には石柱があって謂れ等が刻まれているように思えましたが、よく読めませんでした。 「福船山」の扁額が掲げられた立派な山門から境内へ入っていくと、 正面に続く石畳の参道の奥に安立寺の大きな本堂がありました。 昼のお勤めの最中だったのか、本堂からは読経と木魚の音が聞こえてきました。 左手には庫裡や寺務所と思われる建物があり、右手には鐘楼がありました。
合掌の功徳
本尊に合掌すれば信心となる
父母に合掌すれば孝養となる
お互に合掌すれば和合となる
長上に合掌すれば敬愛となる
事物に合掌すれば感謝となる
これは青森の日蓮宗弘法寺様の寺報の封筒よりコピーいたしました。
安立寺から道路まで引き返して洲崎町北側交差点を過ぎていくと、 左手に「真言宗御室派 龍華寺」と刻まれた石柱が立っていました。 その奥には立派な山門が見ていました。 山門の手前には「融辨和尚像」や「木造地蔵菩薩坐像」の解説板がありました。 右手には「横浜金澤七福神 大黒天」と刻まれた台の上に小槌を持った像が乗っていました。
横浜市指定有形文化財(絵画) 絹本著色 融辨和尚像
法量 絶て89.0cm、横52.5cm
法衣を着て、上畳上に坐り、右手に扇子、左手に五鈷杵をもっている。 これは、当時中興開山融辨和尚没(1524)後、間もなくの肖像と思われる。 描法は、大和絵様式の似絵風であるが、墨彩色を多用するなど、どこか禅林頂相の趣が感ぜられる。 近年改装されているが、中世末葉(室町時代)における当地域の文化水準を示す優作である。
*五鈷杵=密教で煩悩を破砕し菩提心を表す金属製の法具。
*頂相=禅僧の肖像のこと。
 (横浜市教育委員会)
横浜市指定有形文化財(彫刻)木造地蔵菩薩坐像 附 胎内納入品12点
構造 寄木造、玉眼、肉身部漆箔、着衣部黒漆塗
寸法 像高76.0cm
時代 室町時代 大永4年(1524)
本像は、境内の地蔵堂の本尊で、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、岩座上の蓮台に安坐しています。 光背は輪光で、持物・台座・光背などは後から補われたものです。 また、左手の第二・三・四・五指の各指先は欠失しています。 首ほぞ内側及び頭部内の墨書銘から、大永四年(1524)に仏師上総法眼が造立したことがわかります。 作者の上総法眼は鎌倉の仏師で、名は宋琢といい、永正十年(1513)の藤沢市江島神社八臂弁財天坐像彩色、 天文十八年(1549)の鎌倉市大長寺北条氏綱夫人坐像の造立などの事績が知られています。 本像は衣の皺の表現に宋元風の特色がよく示されています。 造立年代・作者ともに明確な室町彫刻として、資料的価値の高い作品です。 なお、胎内納入文書によれば、本像はもと須崎村の地福寺(廃絶)に祀られていた像で、 元禄八年(1695)と天保六年(1835)とに修理されています。
 (横浜市教育委員会)
龍華寺
山門から境内へ入っていくと、左手には「太子堂」がありました。 その脇には解説板もありましたが、表面の板が黒ずんでいて読めない部分がかなりありました。 右手には立派な梵鐘があり、その奥に龍華寺の本堂がありました。 左側には庫裡や寺務所と思われる建物がありました。 右手には不動明王や六地蔵などもありました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
神奈川県重要文化財 梵鐘
室町時代 天文10年(1541)
総高148.8cm、龍頭高32.5cm、身高109.5cm、口径76.3cm
文字は彫がやや細く、誤字があって読みにくいが、第四区に 「天文十年辛丑五月五日 當寺住法印権大僧都善融 旦那古尾谷中務少輔平重長道伝」とある。 第三区にある梵文は左行より読みだすように刻まれており、 最左が「光明眞言」、中が「大随求陀羅尼」、右が「三十七尊総陀羅尼」である。 作風は、口径の鐘身に対する比142.2%という丈高である。 一見極めて粗雑なできであるのは、鋳ばなしのままで仕上がしてないのである。 銘文に刻む天文ころのもとと思われない古様式の鐘であり、 鎌倉を中心とした地域特有の上下帯をもち、口径と鐘身との比、鐘身高と撞座高との比からみて、 鎌倉時代末の作鐘とみられる。 その後、当寺の鐘となった。
洲崎神社
龍華寺と隣接するようにして洲崎神社があります。 玉垣で囲まれた所にある「洲崎神社」の扁額が掛かる鳥居から境内に入っていくと、すぐ正面に社殿があります。 本殿と拝殿から成る社殿でした。 右手には天王社があり、左手には獅子庫がありました。
洲崎神社略誌
村社  洲崎神社
祭神  誉田別命  配祀 大山咋命、倉稲魂命、大田命、盤長比売命、第六天神
由緒  当社は元富岡村と柴村との間に長浜と字せる所あり、 現今は野口記念館のある所にして昔時は十八町も海に突出し、 今に長浜千軒と口碑に残れる程にて人家稠密し殷賑を極めしが、 応長元年(1311)激浪の為洗い滅ぼされし住民の一部本村に移住す。 依って産土神たる鎮守大六天社も同時に此処に移し造営す。 現今の社は天保九年六月十二日の再建にして、明治維新の際、神仏混交を廃せられ洲崎神社と改称す、 而して社の鎮座地は他の神社と異なり古き頃より、家津良町道路の真ん中にあり、誠に珍しかりしが、 明治三十七年二月九日横浜金沢間道路改修に付き現場に移転す。 明治四十年十二月県の訓令第四十九号により四十一年十一月境内の拡張をし四十二年五月拝殿を増築し社殿完成す。 明治四十三年八月十五日本村泥亀鎮座村社日枝神社(祭神大山咋命) 同社末社稲荷社二社(祭神一社、倉稲魂命、一社、大田命)合併許可八月三十日処分済み成る。 大正三年二月二十四日同泥亀姫小島無格社十二天社(祭神盤長比売命)を、合併許可三月十日処分済み成る。 大正十年十二月十六日神奈川県告示第三七三号を以て神饌弊帛料供進神社に列せられる。
天王社 祭神 建速須佐之男命  由緒 元は町屋村と共同祭事を行い来たりしが為、洲崎龍華寺前天王河岸に地を卜して旅所となし小社をおけり。 文化六年四月両村協議の上牛頭天王を二社に分かつ、 文化十四年正月旧引摂院の境内の一部を天王地と定めて此処に移転造営す。 現今の社なり。 氏子地区 金沢村洲崎(現今の洲崎、乙舳地区である)
獅子の由来
この雄獅子、雌獅子は今から百六十年前の嘉永二年(1849)六月に、 時の彫刻師後藤利平衛によって製作されたもので、洲崎部落の秘蔵品として大切に保管されました。 製作方法は下地を布で固め、その上にウルシを三べん塗って、唇、耳、鼻、舌は朱色で、 その他は金箔を張り、目玉は真鍮メッキで仕上げました。 大きさは(縦、横、高さ)三尺(90cm)でした。 費用は当時の金で二十両三分かかったそうですが、此の経費は部落の人達から調達したのでしょう。 当時の戸数は96軒で人口は356名でした。 此の獅子は太平洋戦以前には、年に一度の祭礼に、若衆四人によって担がれ、 雄獅子、雌獅子一対になって、町内を厄除けのため廻りました。 はやり病(ハシカ)等の子供さんは、お獅子の口を開け、二、三回噛まれる形にしていただきますと、 不思議にも早く良くなり、町内の守り神様としても多くの方々から尊信されておりました。 平成四年に再修理がなされ、現在に至っております。
洲崎広場
洲崎神社を後にして車道をその先へ進んでいくと洲崎町交差点があります。 その右側に洲崎広場があります。 街角に作られたブロック敷きの広場の中ほどには、四角い石の台がありました。 その上面には金沢歴史の道の地図が載っていて、 周囲には金沢八景の銅板と簡単な解説文が載っていました。 傍には「憲法草創之処」と刻まれた石碑もありました。 洲崎町交差点を右折していきます。 金沢八景の浮世絵を壁に貼り出している不動産屋を過ぎていくと、 生命保険会社の事務所の前に「明治憲法起草の地」の記念碑がありました。
明治憲法起草の碑
この碑は明治20年(1887)伊藤博文・伊東巳代治・金子堅太郎らが料亭東屋において 明治憲法制定のため草庵を起草したのを記念し、昭和10年(1935)金子堅太郎書で建立されたものである。
料亭東屋跡は金沢八景駅寄り約100米
明治憲法起草の地
この地は、料亭東屋の跡で、明治20年(1887)伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅らが 明治憲法制定のため草案を起草したところです。 明治20年6月から、東屋に集まり草案の構想を練っていました。 金子・伊東は東屋に泊り、伊藤は夏島の別荘から、井上は野島旅館から通いました。 8月6日夜、東屋の伊東の室に盗賊が入り機密書類の入っていた行李が盗まれましたが、 翌日書類は無事発見されました。 その後、伊東・金子両名は夏島の伊藤の別荘に移り、草案が完成されましたが、 東屋が起草の地であるとして、 昭和10年(1935)「憲法草創之処」という記念碑が金子堅太郎書で東屋裏庭内に建てられましたが、 東屋廃業後、現在ここより40m東に移され設置されています。
 (社団法人横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)
記念碑を過ぎていくと、宮川に瀬戸橋が架かっています。 左手の船泊を眺めたり潮の香りを嗅いだりしながら橋を渡っていくと、国道16号の瀬戸神社前交差点に出ます。 歩道橋で道路の向こう側に渡って左手へ進んでいくと、程なくして大きな鳥居が立っています。 そこから境内に入っていくと、右手には「放下僧の遺跡」、左手には「蛇混柏」がありました。
「放下僧」の遺跡
謡曲「放下僧」は、室町時代、相模国の刀根信俊に、父の下野国牧野左衛門を討たれた遺児の兄弟が、 そのころ流行していた僧形の旅芸人(これを放下僧といった)に扮し、 ここ武蔵国瀬戸の三島神社で、見事父の仇をうったという世話巷談をもとに脚色されているが、 このときに仇討ちの場所が、境内にある手水舎の東側だったと伝えられている。 神社は往時、鎌倉と房総を結ぶ交通の要衝だった六浦港(今の平潟湾)の中心にあり、 諸国去来の人々でにぎわい、牧野兄弟が敵とめぐりあったのも、うなずける。 なお樹齢千年といわれる境内の名木「榧の木」は当時既にあったもの。
 (謡曲史跡保存会)
蛇混柏(じゃびゃくしん)
文明十八年(1486)萬里和尚の詩の自註に「六浦廟前有古柏屈繁」とあり、 延宝八年(1680)八月六日の大風に転倒して後も朽損せず、 新編鎌倉志・江戸名所図絵などにも「蛇混柏」と称した名木で、金沢八木の一つである。 一部は本殿内陣の御扉材に使用されてゐる。
瀬戸神社
正面の短い石段を登った所に瀬戸神社の社殿がありました。 本殿と拝殿から成る立派な社で、本殿の屋根には3本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 社殿の左右や岩壁を刳り貫いた所には、小祠が幾つもありました。
瀬戸神社
中世都市鎌倉の外港として栄えていた武蔵国六浦庄(現金沢区全域)における中心的な神社。 平潟湾と瀬戸入海をつなぐ潮流の速い海峡を望む地点に、古代から海の神としてまつられたと推定されますが、 社伝では治承四年(1180)に源頼朝が伊豆三島明神(三島市三嶋大社)を勧請したのが起源とされています。 祭神は大山祇命。 鎌倉幕府以来、執権北条氏・鎌倉公方足利氏・小田原北条氏などといった歴代の権力者によって保護され、 江戸時代に入っても百石の朱印地を徳川将軍より与えられています。 現在の社殿は、寛政十二年(1800)に建造され、屋根は昭和四年(1929)に銅板に葺き替えられています。 また、境内正面より平潟湾へのびる突堤の先端部にまつられている弁天社(琵琶島神社)は、 頼朝の夫人北条政子が琵琶湖の竹生島から勧請したものと伝えられています。
横浜市指定無形民俗文化財 瀬戸神社の湯立神楽
湯立神楽は、境内の斎庭に大釜を据え、浄火を焚いて熱湯をたぎらせ、 竹の幣串をもってその湯をかき回す時に立ち止る湯花により神占とし、 また笹の葉を浸して湯を参詣者等の頭上に振りそそいて祓いとする行事。 湯花神楽とも鎌倉神楽とも称して、東京湾から相模湾沿岸の漁村に広く伝わり、 大正年間までは県の内陸部でも盛んに行われました。 現在、市内などに伝わる湯立神楽は、鶴岡八幡宮の旧職掌が司宰するものが多く、格調が高いものです。 瀬戸神社で奉奏される湯立神楽は、 (1)打囃(2)初能(3)御祓(4)祝詞(5)御幣招(6)掻湯(7)射祓(8)御湯(9)湯坐(10)剣舞の十座で、 その様子は、境内の斎庭に湯立のための山を設け、四本の青竹を四方に立て、 中央に高い青竹一本を立て、その頭上に五色の幣を垂らした天蓋をつくるなどして、 山の中央に釜を据えて湯をたぎらせて行われます。
横浜市指定天然記念物 瀬戸神社の大カヤ
樹高等 26.1m、胸高周囲172cm
カヤはカヤノキまたはホンガヤとも言い、宮城県以南から四国・九州さらに朝鮮半島にまで分布する、 山地に自生する常緑針葉高木です。 関東地方でも、山地はもとより屋敷林、社寺林などでも伐採、剪定などによりあまり大きな個体は見当りません。 瀬戸神社のカヤノキはその大きさ、樹形、生育状況から見ても、 横浜市内はもとより関東地方でも珍しいほど生育したカヤで、 人間の文化生活に長い間利用されてきた中で、数少ない老大木として貴重です。
横浜市指定天然記念物 瀬戸神社社叢林
瀬戸神社の後背地に、スダジイ、クスノキなどが優占した照葉樹林が、住宅地域、都市域の中の、 典型的な社叢林として残されています。 特に急斜面に囲まれている社殿の裏は、タブノキ、クスノキ、シロダモなどの常緑広葉樹が下部に密生しています。 また、尾根状地にはスダジイが優占し、谷部にはケヤキの高木が散生しています。 樹高は十から十五メートルで、樹齢は古いものは百年以上と推定されます。 この社叢林は、かつての横浜市の海岸沿いの自然林の面影を残しており、貴重な存在になっています。
 (横浜市教育委員会)
金沢八景(かなざわはっけい)駅
瀬戸神社を後して、玉垣に沿って右手へ進んでいきます。 道路を横切って、バス乗り場の脇を過ぎていきます。 突き当たりを道なりに左折していくと、最初の金沢八景駅(京浜急行本線)の前の通りに戻ってきました。