不動山
散策:2010年07月中旬
【低山ハイク】 不動山
概 要 不動山は曽我丘陵にある低山で、曽我山とも呼ばれています。 今回は小田原市の下曽我から曽我丘陵へ登り、 不動山まで往復してから、丘陵の東側の中井町へと降るルートを歩きます。 途中からは、西には箱根連山や富士山などの山々が見わたせ、 南の相模湾には真鶴半島や伊豆大島や初島などを望む眺めが広がります。
起 点 小田原市 下曽我駅
終 点 中井町 五所ノ宮バス停
ルート 下曽我駅…城前寺…宗我神社…法輪寺…大光院…曽我丘陵…不動山…古怒田地区…菅原神社…観音堂…やまゆりライン…半分形沖庭道祖神…半分形地区…五所ノ宮バス停…(五所八幡宮)
所要時間 3時間40分(五所八幡宮への立ち寄り13分も含む)
歩いて... 曽我丘陵を越えていく道は小型車なら通っていけるだけの幅がある簡易舗装路になっています。 丘陵に出た所から不動山までの僅かな区間だけは山道ですが草木で覆われている訳でもなくて、 全体としてはとても歩きやすいルートになっています。 丘陵へ登る途中からは、相模湾や箱根連山を始め富士山を望むことが出来ました。
関連メモ 曽我丘陵, 曽我丘陵
コース紹介
下曽我(しもそが)駅
下曽我駅(JR御殿場線)から歩いていきます。
駅舎を出て右手にある広場に案内板などが幾つか設置されていて、 駅周辺の地図が載っているので参考にしましょう。 先ずは、曽我兄弟の菩提寺である城前寺へ向かっていきます。
見どころ案内
曽我梅林  別所梅林・原梅林・中河原梅林の総称で、本数約3万5千本。 毎年2月初旬から約1ヶ月の梅まつり期間は一般開放される。
流鏑馬  2月中旬。梅まつりの一環として原梅林で行われる。
宗我神社  曽我地区の総鎮守。毎年9月下旬に祭礼が行われる。
城前寺(傘焼まつり)  仇討ちで有名な曽我兄弟の墓がある。 毎年5月28日に仇討ちの故事にちなんで「傘焼まつり」が行われる。
瑞雲寺  曽我兄弟ゆかりの「力不動尊」、市天然記念物「モッコク」がある。 梅の時期も美しい。
上府中公園/小田原球場  野球場を中心に、スポーツ広場・多目的広場・親水広場など、 レクレーション、散策などができる公園。
かながわ・おだわらまつり50選 奇祭『曽我の傘焼まつり』
ここ曽我の里は、歴史的遺構や遺物が何気なく、日々の暮らしの中に、溶け込んでいる里であり、 日本三大仇討ちの一つ、曽我兄弟の仇討ちゆかりの地です。 建久4年(1193)5月28日、源頼朝が催した富士の裾野の巻狩りで、兄弟は父の仇討ちを成就しました。 その時傘を燃やして松明にしたという故事にちなんで毎年5月28日、 曽我氏の菩提寺『城前寺』で兄弟の供養の為、『曽我の傘焼まつり』が行われています。 その時、兄十郎祐成22才、弟五郎時致20才でした。 この仇討ちは民衆に広く知れ渡り、『曽我物語』が生まれ、江戸時代に歌舞伎や謡曲、 浄瑠璃等で曽我物として演じられ、人々の心をとらえ、今もその人気は変わっていません。
曽我の傘焼まつりの主な行事
場所 曽我兄弟の菩提寺・城前寺(300m先)
一、 5月27日 前夜祭
奉納謡曲大会・花火打ち上げ・松明行列
一、 5月28日
曽我兄弟慰霊大法要・傘焼法要(昼夜2回)・武者行列・稚児行列・相撲パレード・ 子供相撲・播銭播餅・演芸大会・歌舞伎俳優・大相撲関取衆来寺
主催 曽我兄弟遺跡保存会
銅像の左側に続く道を進んでいきます。 すぐに「梅の里センター」への道が右手に分かれていますが見送っていきます。 下曽我郵便局を過ぎて街中の道を真っ直ぐに進み、県道716号のT字路を左折していきます。 鮮魚店を過ぎて森戸川の支流に沿って進んでいくと、県道72号の下曽我駐在所前交差点に出ます。 横断歩道を渡ってすぐの所に小田原警察署下曽我駐在所があります。 その先の大きな鳥居が立っている所で、道が二手に分かれています。 鳥居の前には大きな石柱が立っていて、右手の道は「曽我兄弟遺跡城前寺」、 左手の道は「郷社宗我神社」となっています。 宗我神社へは鳥居をくぐった先に続く坂道を進んでいくのですが、 その前に城前寺に立ち寄っていきます。
森戸川の支流に架かる短い橋を渡り、川に沿って続く道を進んでいきます。 広場の前を過ぎて正面にこんもりとした森が現われると、右手へ道が分かれていきます。 角の右手の上には六十六部の供養塔などが並んでいます。 左側の畑の縁に道標が立っていて、正面の道は「五郎沓石・祐信の墓1,100m・六本松跡1,800m」、 右手の道は「城前寺」、今来た道は「下曽我駅・宗我神社」となっています。 道標に従って右折して石垣沿いの坂道を登っていきます。 左手に戻るようにして分かれていく道を見送っていくと、左手に城前寺の境内に続く石段があります。 石段の右側には城前寺保育園があって、かなり目立っています。
左側に並ぶ地蔵や石仏などを眺めながら石段を登っていくと門柱が立っています。 門柱を過ぎて境内に入ると、すぐ正面に阿弥陀如来の像があります。
ここに安置された阿弥陀如来座像は、忠臣蔵で知られた赤穂義士の一人(命日) 「元禄十六年二月四日」(1703)吉田忠左衛門兼亮の遺児で、当時十四世の到誉達玄和尚が、 元文元年(1736)亡父の三十三回忌に当って造像したものであります。 昔から、「孝行阿弥陀」ともよばれ、一心に念ずれば諸願成就せずということなしと、 伝えてきた有難い御仏でもあります。
波阿弥陀仏 九拝敬白
地蔵和讃
これはこの世のことならず  死出の山路の裾野なる  賽の河原のものがたり  聞くにつけても憐れなり  二つ三つや四つ五つ  十にも足らぬみどり児が  賽の河原に集まりて  父上こいし母こいし  河原の石をとり集め  これにて回向の塔をつむ  一重くんでは父のため  二重くんでは母のため  日も入りあいのその頃は  地獄の鬼が現われて  くろがね棒をとりのべて  積みたる塔をおしくずす  その時能化の地蔵尊  われを冥途の父母と  思うてあけくれ頼めよと  幼き者をみ衣の  裳裾のうちにかき入れて  憐み給うぞありがたき  未だ歩めぬみどり児を  いだきかかえてなでさすり  憐み給うぞありがたき  南無阿弥陀佛あみだぶつ
城前寺
阿弥陀如来の像を過ぎていくと、正面に本堂があります。 右手には庫裡や寺務所と思われる建物があって、 城前寺本「曽我兄弟物語」も販売されているようでした。 写真入り234頁の本とのことです。 城前寺保育園は城前寺が設立した保育園で、境内には遊具などもあって、一体化しているようでした。 本堂の前には、アンパンマンとバイキンマンの像や園歌の碑がありました。 参考までに、園歌のメロディ部を取り出したMIDIファイルを載せておきます。
城前寺(浄土宗稲荷山祐信院)
曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。 建久4年(1193)富士の裾野で兄弟が父の仇、工藤裕経を討った後、 叔父の宇佐美禅師は、その遺骨を携え此の地に来て庵を結び、 兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられる。 なを、この討入りの時、兄弟は暗夜であったため、傘を燃やして松明としたので、 敵討ちの日に当る5月28日には、この古事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりが行われるが、 類例の少ない祭であるので有名である。 境内には、十郎・五郎・父祐信・母満江御前の供養塔や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛け、 笛を鳴らした忍石。坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄附の兄弟の記念碑等のほか各種ゆかりの品がある。 なを、4人の墓の建つ憤丘は、曽我城の土塁跡である。
50周年記念城前寺保育園々歌
「ともだち」 詩曲 浜 圭介  【♪演奏
あおいそらを みつめてたら  なみだボロボロ おちてきたよ  からださむくて ふるえちゃう  いつもひとりなの  そうじゃない そうじゃない  ノラネコも ノライヌも  みんなげんきで いきている  きみも ぼくも だれもみんな  ひとりじゃないんだよ  てとてをつなぎ ゆらしてみよう  めとめをみつめ わらってみよう  せすじをのばし おおきなこえで  さけんでみよう ありがとう  ありがとう  みんな ともだちさ  なみだはいらない
本堂の左手から裏側に回っていくと、玉垣で囲まれたこんもりとした所があります。 両脇には石灯籠が立っていました。 玉垣の中には、右手に「祐信満江之墓」、左手に「曽我兄弟之墓」と刻まれた石柱が立っていて、 その奥の高みに五輪塔が二基ずつ、合計四基が並んでいました。 「曽我兄弟発願之像」と刻まれた像もありましたが、幼い姿をしていました。 「願文」も刻まれていましたが、その頃に仇討ちの志を立てたようでした。 境内には、それ以外にも見送稲荷や石碑などが沢山ありました。
城前寺から引き返して石段を降っていくと、目の前には箱根連山が横たわり、 矢倉岳や金時山の奥には富士山も頭を覗かせていました。 雪はほとんど消えていましたが、裾野に僅かに雲が棚引いているだけで、綺麗な姿を望むことが出来ました。
城前寺から駐在所の前にある大きな鳥居の所まで引き返してきて、 鳥居の先に続く坂道を登っていきます。 すぐの所の左側には幟を立てる支柱があって、右側に文学碑がありました。 「曽我の郷文学散歩」と題した案内板もあって、この付近にある文学碑などが図示されていました。
文学碑建立の趣旨
尾崎一雄先生は、曽我谷津に在住し、作家として日本独特の文学である私小説において幾多の優れた作品を発表し、 第5回芥川賞を始め数々の文学賞を受賞されるとともに、昭和53年に文化勲章を受章されました。 これは、先生の栄誉であると同時に、本市にとっても大きな誇りでもあります。 また、小田原文話会の顧問として後進の指導に当たり地域に根ざした本市文化の向上に寄与されました。 昭和55年11月20日の市制40周年記念式典において、先生を特別表彰するとともに、 文学碑を建立しその功績を永く顕彰するものです。
宗我神社
点々と設置されている幟を立てる支柱を見ながら真っ直ぐに坂道を登っていくと、 正面にこんもりとした森に包まれた宗我神社があります。 角や入口にある玉垣には「上曽我」「曽我谷津」「曽我原」「曽我別所」などと刻まれていましたが、 この辺りの地区の名前のようでした。 鳥居をくぐって境内に入ると、脇には注連縄が巻かれた巨大なケヤキが生えていました。 盆踊りの準備なのか、境内の中ほどには櫓が組まれていました。 その奥には本殿と拝殿から成る社殿がありました。 拝殿の屋根には7本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 拝殿の前には立派な狛犬が控え、その脇には「旧曽我郷の総鎮守」と書かれた標柱も立っていました。 社殿の右側には赤い鳥居と祠をした稲荷神社もありました。 小さな池もあって鯉などが泳いでいました。 社殿の裏手には石祠が6基並んでいましたが、由緒書きにある「六ヶ村」を現わしているのでしょうか。
宗我神社
祭神 宗我都比古命(そがつひこのみこと)、宗我都比女命(そがつひめのみこと)
宗我神社は明治28年の神社上書に依れば、 「長元々年(1028)に奈良県橿原市曽我町の武内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が 祖先の宗我都比古命の墓を訪い、同時に武内宿弥及び宗我都比古命を鎮祭して…」が当社の創建と決めています。 足柄上郡旧上曽我村及び曽我大沢と、下郡の下曽我に属する旧四村を併せて、古くは曽我郷六ヶ村と呼ばれました。 その総鎮守が宗我神社でした。 小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていました。 江戸時代には小沢明神の名で総崇され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に会示し、 新たに宗我神社となりました。 現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。
郷社 宗我神社
小田原市曽我谷津鎮座
祭神 宗我都比古命、宗我都比女命
配祀 應神天皇、桓武天皇、小澤大明神
例祭日 九月二十九日
小田原市指定保存樹林
この樹林は、小田原市緑と生き物を守り育てる条例に基づき、 小田原市と市民が一体となって、緑豊かな住み良い環境づくりをするために指定されたものです。
指定番号第9号
指定年月日昭和53年4月1日
所在地小田原市曽我谷津384番地ほか
主要な樹種ケヤキ
面 積2,000u
 (小田原市環境部)
法輪寺
境内の右手から出て、正面に続く道を真っ直ぐに進んでいきます。 小田原市広報掲示板や赤い消化器入れが設置された十字路を直進していくと、 左手に分かれていく道があります。 角には石碑などが幾つか並んでいました。 そこを左折して石垣沿いに進んでいくと、左側には駐在所の脇から続く森戸川の支流が流れるようになります。 流れに沿って進んでいくと、正面の石段と右前方への坂道が分かれる所に出ます。 いずれも法輪寺へ続いていますが、今回は石段を登っていきました。 石段の上には白木の山門が建っていて、「曽我氏ゆかりの寺 法輪寺」と書かれた標柱もありました。 山門をくぐって境内に入ると、正面に法輪寺の本堂がありました。 左手には薬師堂(瑠璃光殿)が、右手には庫裡と思われる建物がありました。
法輪寺
法輪寺は、盤谷山と号する臨済宗建長寺派の寺院です。 創建は延文3年(1358)、開山は建長寺三十五世の了道素安(本覚禅師)、開基は浄智温中と伝えられています。 かつては天台宗寺院で廬尊寺と称したといいます。 天保2年(1831)の火災により、本尊の運慶作と伝えられる地蔵菩薩坐像は焼失し、 その後、現在の本尊である室町時代造立の釈迦如来坐像が、隠居寺より移されています。 境内にある薬師堂(瑠璃光殿)は、法輪寺の大門跡(現:曽我谷津公民館)から、 大正13年(1915)に移転したものです。 平安時代造立の薬師三尊像、脇には十二神将像がまつられています。 寺の東に、祐信山崇泉寺という曽我太郎祐信の菩提寺があり、崇泉寺殿智嶽祐信大居士という位牌がありましたが、 廃寺後にこの位牌は法輪寺に安置されています。 また、元禄の頃にこの地で修行した、木食僧の澄禅上人が遺した、 一針毎に念仏を唱えて縫い上げた「一針一拝の二十五条袈裟」と、 夢の中で感得したとされる「拘留孫仏の舎利」が安置されています。 薬師堂前には上人ゆかりの宝筐印塔があります。 現在は、月例坐禅会が行われております。
法輪寺の木像薬師三尊
薬師堂瑠璃光殿には、藤原時代の薬師如来と日光、月光の両菩薩の三体の古仏が、 ほぼ完好な姿で祀られていて貴重である。 この薬師三尊は、古くから小沢明神(現在の宗我神社)の本地仏(神体仏)とされ、 その堂は宗我神社の東隣、現在曽我谷津公民館の位置に存在した。 堂の名を「小沢山神宮寺」と称して、これを法輪寺が護持していた。 つまり、この薬師三尊は小沢明神の本尊で、法輪寺がこの明神の別当寺であったことが、 これらの伝承から知られるであろう。
 (小田原市教育委員会)
本堂の左手は墓地になっていました。 赤色・紫色・桃色などの綺麗な花が植えられた花壇のような所もありました。 墓地の中に、金色をした法輪観音や、泰心地蔵菩薩をいただき五輪塔で囲まれた泰心之塔などもありました。 また、境内には高さ1mほどの七福神の像が各所に置かれていました。 七福神のすべてを確認しようと探してみましたが、一体だけは見つけられませんでした。 振り返ると、箱根の山々を見わたすことも出来ました。
大光院
手前の分岐まで引き返して左折(来た向きには正面)していくと、すぐに大光院があります。 山門から入っていくと、正面に庫裡と続きになった本堂がありました。 左手には「神保稲荷大明神」の扁額が架かる赤い鳥居と祠があり、 その右側に「神変大菩薩」と刻まれた石碑がありました。 小振りの池もあって、赤い魚が沢山泳いでいました。
本山修験宗諸法山実相寺 大光院
由緒沿革  当院は本山修験宗(山伏)の総本山京都の聖護院の末寺なり。 本尊不動明王は曽我兄弟を幼少の時から育てた養父曽我太郎祐信(鎌倉時代当地の城主、桓武天皇の後胤 平祐家の子)の守本尊にして、 曽我兄弟は特に不動明王を信仰していたので、 養父の守本尊であるこの不動明王にも当然本願成就(仇討が出来るよう)の祈願をこめたことであろう。 祐信より十一代目祐高の末子氏重出家いたし、廃寺状態になっていた当院を再建し、 文明18年秋、先祖の守本尊不動明王を奉じて中興開山となり、現在に至る。(当院宝蔵の過去帳より転記)
主なる行事  今から千三百年前、役行者即ち神変大菩薩(光挌天皇より賜った證号)が 神儒佛三道を融合して開かれた本山修行宗(山伏)の法燈を継ぎ、左記の事を行なう。
本尊不動明王縁日法会 毎月28日、 元旦祈祷 元旦、 節分会 2月節分の日、 うら盆会 8月13日、 火防の祈祷 12月16日
本山修験 大光院
諸法山実相寺と称し、文明18年(1486)の起立と伝えられている。 本尊は木彫不動尊。はじめ本山修験で、小田原上階の玉滝坊に属していたが、 明治初頭に天台宗園城寺派に変わった。 堂前に「神変大菩薩」の石塔が建ち、明治32年の記録がある。 神変大菩薩は役行者のことで、山岳修験の系譜につらなる寺であることが知られる。 しかし大光院は久しく里修験として続いてきて、地鎮祭・建前・病気平癒などの祈願が行われている。
 (小田原市教育委員会)
大光院の右手から境内を出ていくと左右に通る道に出ます。 そこを左折して、緩やかな坂道を登っていきます。 道なりに右へ曲がった先にあるT字路を左折してきます。 突き当たりを右折して、石垣や塀沿いに進んでいくとT字路に出ます。 そこを左折して坂道を登っていきます。 左へ曲がっていく角から分かれていく道を見送って、土手沿いに登っていきます。 青いトタン塀の小屋の手前を右折していくと、山沿いの少し窪んだ道を登るようになります。 右側にはキウイ畑が続き、美味しそうな実が沢山なっていました。 そこを過ぎていくと右手が開けてきて、小田原の街並みや相模湾を見渡せる眺めが広がります。 海に突き出た真鶴半島の奥には伊豆半島が横たわり、沖には初島も見えていました。 少し東の方には伊豆大島の大きな島影も見えていました。
眺めが広がる所を過ぎていくと山を登るようになりますが、 小型車なら通っていけるだけの幅のある簡易舗装された農道が続いていて、とても歩きやすくなっています。 高い石垣の脇を過ぎていくと、白いガードレールが左手の方へ延びていく所に出ます。 手前からは、右手に戻るようにして広めの坂道が分かれていく分岐になっています。 手元の地形図によると、実線の道が分かれている所になるようです。 右手の道も不動山へ続いていて少し近道のようにも思えましたが、 今回は左手に曲がっていくガードレールが設置された道を進んでいきました。
緑は友だち 山火事注意
 (森林国営保険、神奈川県)
程なくしてガードレールが途切れると、ミカン畑が続くようになります。 茶色い屋根の小屋の辺りまでくると、左手には箱根連山を望む眺めが広がっていました。 二子山や駒ヶ岳や神山などの中央火口丘もよく見えていました。 高い石垣に囲まれた道を登っていくと次第に眺めが良くなってきます。 何度も左手を振り返って景色を愛でながら登っていきました。
やがて正面に竹林が見えてくると分岐があります。 正面には「ゴミは捨てるな」の看板が立っています。 手元の地形図によると、実線の道と破線の道が分かれている所になるようです。 正面の道は浅間山の南東の丘陵へ続いているようですが、 今回は不動山へ向かうべく、右に曲がっていく道を進んでいきました。
ゴミは捨てるな
みんなで 山や畑を守り 大切に
 (梅の郷環境保全会)
山際に続く道を登っていくと、右手が開けてきて、 小田原の街並みや箱根から伊豆にかけてを一望出来るようになります。 富士山も見えていましたが、湧き上がる入道雲に隠れてしまっていました。 高い石垣の間を進んでいくと分岐があります。 右手の道の入口には車止めが設置されていますが、 手元の地形図によると、ガードレールが現われた所の分岐を右手に進んで来た道のようでした。 ここは左手へと曲がっていきます。
地形図では北西に進み出した途中に分岐があるように描かれていますが、 実際にはもう少し南側にあって、東から北西へと曲がっていく角の辺りになるようです。
左手に広がる箱根連山などを眺めながら、ミカン畑が続く高台の農道を進んでいくと、 手前の分岐から2分ほどで再び分岐があります。 ここも地形図に載っている実線の道が分かれている所になるようです。 地形図によると、右手の道は不動山の南辺りで行止りになっているようなので、 ここは左側の道を進んでいきます。
右手に広がる景色を眺めながら進んでいきます。 高い石垣を過ぎた所に分岐があります。 手前の分岐から4分ほどの所になりますが、地形図には載っていません。 右手の道を進んで小屋の脇を過ぎていくと、傾斜が緩やかになってきます。 振り返ると、初島から真鶴半島にかけての海がよく見えていました。 樹木が高くなった手前にも分岐がありますが、ここも地形図には載っていません。 手元の地図によると、左手の道は少し先で行止りのようなので、ここは右手の道を進んでいきます。
曽我丘陵
石垣沿いに登っていきます。 キウイ畑やミカン畑を過ぎていくと、森の中へ入っていきます。 振り返って最後の眺めを楽しんでから、その先へと進んでいきました。 これまでは陽を遮るものが殆どなくて、汗を拭き拭き登ってきましたが、 森にはいって幾分は凌ぎやすくなってきました。 傾斜も緩やかになって歩きやすい舗装路を進んでいくと、森に入ってから2分ほどで十字路に出ました。 左右に通る道は曽我丘陵を縦走する尾根道になります。 大光院から44分ほど、下曽我駅から1時間43分ほどで登って来られました。 不動山はこの右手の少し先にありますが、 左脇の林に腰掛けるのに良さそうな木の根を見つけたので、 それに腰を降ろして、噴き出す汗を拭きながらひと休みしていきました。
たき火・たばこに注意
 (神奈川県)
汗も引いて疲れも癒えたところで、不動山へと向かっていきます。 十字路の角には「梅の里 曽我丘陵日だまりハイキング 六本松跡へ」の看板があって、 右手の道を指しています。 それ以外には道標類は見かけませんが、右手に続く山道を進んでいきます。 これまでの簡易舗装された農道から一転して細い山道になりますが、 夏草が生い茂る季節にしては道は明瞭になっていました。 尾根の北斜面に続く緩やかな道を2分ほど進んでいくと、右手の尾根に登っていく踏み跡が分かれていきます。 角に生える樹木には看板が括り付けられていて、「不動山登山口」と書き込まれています。 大きな樹木の間から続く道の脇には「不動山山頂入口」の標柱も立っています。 ここが不動山への登り口になります。
不動山 (標高327.7m)
かなり傾斜のある山道を登っていくと、2分ほどで緩やかになってきます。 左手へ曲がって植林地へ入っていくと、草が刈られて小広くなった所に着きました。 ここが曽我丘陵の中では標高が一番高い不動山の山頂になります。 周囲は植林地になっていて展望は得られません。 中ほどには、下曽我地区青少年育成会の設置する「不動山 標高327.7m」と書かれた標識が立っています。 手元の地形図によると、この不動山から南東へ続く一連の山は曽我山とも呼ぶようです。 2006年2月に来た時には三等三角点もあったのですが、 今回はその礎石と思われる部分だけが残されて、上の部分はなくなっていました。 三角点が廃止になったということなのでしょうか。
2006年2月と比べると、標識が少し左向きに変更され、 脇に生えていた樹木も切られていて様子が変わっていましたが、 手前に生える樹木の根の切り口との位置関係から、 今回見かけた礎石は当時の三角点の位置と同じだったので、 別のものではなくて三角点の礎石だと思われます。
標識の裏面には「水の使い方をカエル」と題したステッカーが貼ってありました。 「コップ(COP)君」という名前の可愛らしい蛙の絵も描かれていましたが、 水源林としてこの不動山を大切にしようということなのでしょうか。
水の使い方をカエル
七都県市地球温暖化防止キャンペーン
水を節約して温暖化を防止しよう。 みんなのカエルが地球をカエル。 水道1立方m利用すると160gのCO2が発生します。
 (七都県市首脳会議、埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・横浜市・川崎市・千葉市)
往復12分ほどで十字路まで引き返してきて、 右手(登ってきた向きには正面)に続く簡易舗装路を進んでいきます。 植林帯に続く舗装路を緩やかに3分ほど降っていくと、左へ曲がって傾斜が増してくる所から、 広めの未舗装路が右手に分かれていきますが、その道は見送って左へ曲がりながら降っていきます。 十字路から5分ほど降っていくと左右に通る道に出ます。 右手の道は広めながら未舗装路で草も少し生えていました。 手元の地形図では、不動山の北350m辺りにある破線の道が分かれている所になるようです。 右手の道は池の西側の傾斜地へと続いているようですが、 古怒田地区へ向かって、左手に続く簡易舗装路を進んでいきます。
すぐに森を抜けて、眺めが広がるようになります。 小屋の前から左手に分かれていく道を見送って、右へ曲がりながら続く道を進んでいきます。 淡い紅色に咲いたネムノキの花を愛でながら舗装路を進んでいくと、程なくして雑木林へ入っていきます。 林を抜けると、正面の畑地の奥には丹沢の山並みが広がっていました。 畑地の先には民家が見えるようになります。
再び林に入っていきます。 小さな墓地への石段を見送っていくと、左手の石段の上に鳥居と社があったので、 ちょいと立ち寄っていきました。 社の中には白木の小祠が安置されていて、榊が供えられていて、小さな狐像も沢山ありました。 社には「正一位早野稲荷大明神」と書かれていましたが、民家の屋敷稲荷なのでしょうか。
古怒田地区
稲荷社からその先へ進んでいくと、すぐに十字路があります。 そこを直進して突き当たりのT字路を右折していくと、左手に石碑などが幾つか並んでいました。 脇には「古怒田道祖神」と刻まれた石柱がありました。 この辺りが古怒田地区になるようです。 不動山から20分ほどで降りて来られました。 道祖神のすぐ先には石段があって、登り口に「菅原神社と石仏」の道標や石標がありました。 道標「観音堂」が正面の道を指していますが、先ずは菅原神社を訪ねていきました。
菅原神社
左手に続く間隔の狭い石段を登っていきます。 神社ではよくある前後の狭い石段で、足を斜めに置かないと踏み外してしまいそうになります。 そんな石段を真っ直ぐ登っていくと、小広くなった境内の奥に菅原神社がありました。 境内には滑り台などがあって、子供の遊び場にもなっているようでした。 神社の由緒などを記したものは見かけませんでしたが、古怒田地区の鎮守なのでしょうか。
観音堂
菅原神社から引き返して、道標「観音堂」の指す正面の道を進んでいきます。 民家が建ち並ぶ古怒田の集落を進んでいくと、左右に通る道路に出ます。 右折して竹塀やブロック塀に沿って進んでいくと、 川が現われる所から左手へ少し入った所に観音堂がありました。 「聖観音堂」と刻まれた石標もありましたが、謂われなどを記したものは見かけませんでした。
観音堂から引き返して川沿いに進んでいくと、古怒田自治会館がありました。 手前には「古怒田案内図」と題した看板が設置されていて、この地区の道路や民家などが図示されていました。 自治会館の先を道なりに左へ曲がりながら登っていきます。 次第に眺めが開けてくると、左右に通る広めの道路に出ます。 正面には丹沢の山並が横たわっていました。 十字路を右折していくと、すぐの所から左手に細めの道が分かれていきます。 角には「災害時避難場所」と書かれた大きな看板が立っています。 裏面には「←古怒田」と書かれた板が取り付けられていて、今来た道を指していました。 今回は看板の所から左へ分かれていく道を進んでいきました。
広めの道路をそのまま降っていっても「やまゆりライン」に降りて行かれますが、 大きく蛇行していて遠回りになるので、今回は近道をしていきました。
すぐに道が左手へ分かれていきますが、見送っていきます。 土手の間の窪んだ道を降っていくと、左手には丹沢から相模湾にかけての眺めが広がるようになります。 しばらく足を止めて景色を眺めていきました。
道の上を樹木が覆って緑のトンネルになった道を降っていくと、ガードレールが設置された坂道に出ます。 そこを左折して更に降っていくと、広めの道路に降り立ちました。 手元の地図によると、先ほど分かれてきた道路のようです。 道路を横切って、カーブミラーの脇から続く道を降っていきます。
坂道を降っていくと、やがて林の中に入っていきます。 林を抜けると右手へと道が分かれていきますが、正面に続く坂道を降っていきます。 右下には二車線道路(やまゆりライン)が見えてきます。 そこへ向かって坂道を降っていきます。 道端には「古怒田仙元塔」の道標が立っていて、今降って来た道を指していました。 左手に分かれていく道を見送って降っていくと、二車線道路の脇に降り立ちます。
やまゆりライン
車道に沿って200mほど進んでいくと、細めの道が右手へ分かれていきます。 その角に藤棚が設置された休憩所がありました。 菅原神社から22分ほどで着きました。 円卓やベンチなどもありましたが、 藤棚の下にはベンチが設置されているので、日陰になったその下に腰を降ろしてホッとひと息つくのでした。 脇には「広域農道」と刻まれた石碑や、やまゆりラインの解説板がありました。 地図も載っていて、周辺に点在する史跡などが紹介されていました。 解説板を読んだりしながら、ひと休みしていきました。
広域農道
広域農道の建設にあたり、長い間ご苦労された大規模農道促進連絡協議会委員をはじめとする多くの関係者の方々に感謝するとともに、 将来にわたって広域農道の有効な利用と地域農業の発展を祈念するシンボルとして、 ここに記念碑を設置しました。
揮毫は、岩本中井町長によるものです。 記念碑は、広域農道小田原−南足柄線子ノ神地区で発生した自然石(安山岩系)を利用しました。
小田原−中井 やまゆりライン
地域の事業の概要  この地域は、小田原東部曽我丘陵地と中井町と秦野市南部丘陵地にまたがり、 果樹・酪農・畑作を中心とした農業が営まれています(農業振興地域)。 主な生産物は、みかん・牛乳・野菜類等の生鮮食料で、地域市場や京浜市場に出荷されています。 この広域農道は、農業振興地域の基幹農道です。 農作業・集出荷作業の省力化や流通の合理化、さらに生活環境の整備を図り、 地域の活性化を目的として、農林水産省の補助事業により、地域関係者の協力を得て建設されました。 事業延長 L=11.13km、 総事業費 78億6,600万円、 事業工期 昭和46年度〜平成8年度、 受益面積 1,548ha、 関係農家 1,592戸、 事業主体 神奈川県
この農道からのメッセージ  農業振興地域内では、毎日私たちの食卓にのる多くの種類の新鮮でおいしい農産物が、 農家の方々によって生産されています。 さらに、自然環境の保全や美しい景観の形成など、私たちに「こころの安らぎ」を与えてくれます。 そして、都市住民との交流の場や自然とのふれあいの場にもなります。 このような役割の一環を担う広域農道(やまゆりライン)が、 ゆったりとやさしく、笑顔でふれあいのある農道として安全に使用されるよう願います。
自然・ヒト・道 地域の史跡等の案内
仙元塔(古怒田)  小田原市と大井町に接する標高316mの浅間山に建てられ、建立は元治元年(1864)です。 塔は四面異なった書体で刻まれています。
中井のエンジュ(雑色)  子ノ神社の境内にあり、高さ約16m、周囲約8mで、推定樹齢800年。 神奈川の名木100選、神奈川県指定天然記念物。
大日如来座像(半分形)  釈迦如来・観世音菩薩・地蔵菩薩と共に安置されています。 像は江戸中期の作です。
落ち着いたところで、やまゆりラインから分かれていく道を降っていきます。 3分ほど降っていくと、右手に山並が見渡せました。 削り取られたような傾斜地もあるし、方角からすると、 先ほど登ってきた不動山のある曽我丘陵でしょうか。
半分形沖庭道祖神
右手から来る未舗装路を併せてその先へ降っていきます。 小尾根の右側に沿って進んでいくと、切通のような所があります。 左から右にヘアピン状に曲りながら小尾根の左側に出て降っていくと、 右側の石垣に階段があります。 やまゆりラインから8分ほど降って来た所になります。 その登り口に道標が立っていて、「半分形沖庭道祖神」の道標と石標が立っています。 道路の反対側にも道標が立っていて、今来た道は「古怒田仙元塔」となっています。 階段を登っていくと道は不明瞭になりますが、 前の小尾根に出て、右手に戻るようにして尾根を20mほど進んでいくと、半分形沖庭道祖神がありました。 双体の道祖神と小さな五輪塔などが幾つか並んでいました。 謂われなどを記したものは見かけませんでしたが、石標によると中井町指定重要文化財とのことです。
半分形地区
道路に戻って、その先へと降っていきます。 周囲には雑木などが生い茂っていて木陰を作っていました。 左へ曲がり、左手からの道を併せて右手へ降っていくと、道祖神から3分ほどで民家が建ち並ぶようになります。 地形図によると半分形地区になるようです。 少しずれた十字路を直進し、左手から来る道を併せて進んでいきます。 休耕地が広がる道路を進んでいきます。 少し右へ曲がっていくと広場がありました。 端にブランコや滑り台が僅かに設置された空地のようになっていました。 そこを過ぎた所に半分形自治会館がありました。
(「半分形」は「はぶがた」と読むようです)
五所ノ宮(ごしょのみや)バス停
自治会館を過ぎて道なりに進んでいくと、県道709号の旭橋交差点に出ました。 その右手の20mほど先の所に五所ノ宮バス停があります。 やまゆりラインから21分ほどで降りて来られました。 車道沿いには植込みがあって歩道が狭いので、 中村川寄りに敷かれたゴム製マットの上を歩くように案内板が出ていました。
二宮駅(JR東海道線)まで、二宮駅南口行きバスにて23分、1時間に2本程度の便があります。 国府津駅までの便もありますが、夕方に僅かの便しかありません。
この近くでは、バスは二宮駅方向と比奈窪方向とでは別の道を運行していて、 比奈窪方面へのバス乗り場は、旭橋を渡った先にあります。
一人でも 待ちますきちんと 赤信号
しかるより あなたが手本の よい横断
あなたから 見えない死角に 小さな子
 (足柄交通安全協会、松田警察署、中井町)
バスが来るまで時間があるようなら、すぐ先にある五所八幡宮を訪ねて行きましょう。 中村川に架かる旭橋を渡った100mほど先に、朱塗りの大きな鳥居が立っています。 ここが五所八幡宮の入口になります。 「かながわの美林50選」にも指定されているこんもりとした森になっていて、 毎年春に行われる神輿や山車が町内を練り歩く勇壮な祭でも知られています。 鳥居をくぐった所にも大きな鳥居が立っています。 右手の奥には社務所と思われる建物があります。
五所八幡宮
御祭神  誉田別尊(第15代 応神天皇)、仲哀天皇、神功皇后、高良玉垂命、 猿田彦命、大山咋命、菅原道真、日本武尊、宇迦御魂命、 木花開耶姫命、大山祇命、大日留貴命、伊佐冊命、竹内宿禰、 素戔鳴命、高おかみ神、健御名方命、大国主命、豊城入彦命、 崇徳天皇、仁徳天皇
御由緒  五所八幡宮略縁起によると、後白河天皇 保元2年(1157)、比叡山延暦寺の高僧 慈慧大師の門人なる僧義円東国行脚の折、当町雑色村子の神の祠(当時の元宮と云われる)に 一夜の宿を借り、霊夢により、白鳩に導かれて現在の地「龍頭丘の杜」に至り、ここに現れた 童子、御主祭神誉田別尊の霊言に従って勧請したと伝えられる。雑色にはこの時義円の 挿した杖が発芽成長したとされる樹齢八百数十年の槐の大木 (神奈川県指定天然記念物、神奈川の銘木100選)があり、 又例祭時の楽人は雑色の青年数名が奉仕するという慣わしがある。 五所宮の由来は、欽明天皇の御代、豊前国(大分県)宇佐に初めて八幡宮の勧請有りしより、 次第を経て第五に当る故と云る。一に宇佐(宇佐神宮)、二に男山(京都石清水八幡宮)、 三に鎌倉(鶴岡八幡宮)、四に河内(大阪壺井八幡宮)、五に当社と、創建当時は 源頼朝祈願所の一社に数えられ、頼朝に仕えたこの地方の豪族中村荘司宗平が当社を 守護神として深く尊崇し、以後その三男土屋三郎宗遠、娘婿曽我太郎祐信両家より 祭典の供物を納めるを常とした。 文明元年正月、火災にかかり、雑色村在住の神官引地氏辛うじて御神体のみを御動座したという。 故に是以前の諸記録、神宝等皆焼失し詳細を伝えずとされる。同13年、新殿御遷宮、その後も 小田原北条氏を初め武家方の崇敬を広く集めたといわれ、神宝として曽我五郎時致寄進の弓、 脇指一腰、春日局の子で江戸幕府年寄(老中)を務めた稲葉丹後守正勝寄進の太刀一振、 甲冑1領他多数有りしと伝わるも、弓一張以外は昭和の敗戦後盗難により焼失した。 享保17年、本殿再建御遷宮、明治6年、郷社八幡神社となる。 又、この頃、神仏分離令に伴うある誤解から、参道階段の中程にあった荘厳なる隋神門を 破棄したと伝わる。明治10年及び41、42年、村内17社の祭神を合祀、「所願成就の宮」と呼ばれる。 当社の秋祭(9月23日)は、是を記念する祭礼である。又同41年、神撰幣帛料供進神社に 指定される。 昭和43年、献幣使参向指定神社となる。 平成元年より4年にかけ、社殿、神輿大修復、二の鳥居・玉垣再建。 平成11年11月、「五所八幡宮」と再改称し社号標を再建した。
五所八幡宮
石段を登っていくと、途中の左側に祠と鐘楼があります。 そこを見送って石段を更に登っていくと、広くなった五所八幡宮の境内に着きます。 正面には本殿と拝殿から成る社殿があって、左手には大きな神楽殿と、茅葺き屋根の建物がありました。 社殿の左手の奥には、以前の鳥居に使われた石材などが置かれていました。 手前が旧一の鳥居(昭和8年建立・平成19年撤去)、奥下が旧二の鳥居(文久元年建立・平成2年撤去)、 奥上が旧社号標(昭和3年建立・平成11年撤去)とのことでした。 その左側には「招霊の木」というのもありました。
例大祭  往古の例祭は6月晦日「禊祭り」として、江戸初期の頃まで近隣4社(赤田八幡、堀八幡、 小八幡八幡、北村八幡)の神輿が当町比奈窪大町の地(御旅所)に集まり、農市が立つ中で 盛大に行われていたという。堀、小八幡、北村八幡の3社は慶長17年まで、赤田八幡は 延宝8年まで来たとされ、当社2基の神輿の内、1基は赤田の物との伝えも有る。 例祭日は明治15年4月20日となり、昭和46年より4月29日に変更、現在の例祭は 「神奈川の祭り50選」に撰ばれ、神輿2基、山車4台が巡行して境外社有地馬場を 御旅所として神幸祭を行い、東日本では当社並びに大磯六所神社、又、福島県勿来関熊野神社に しか見られないという「鷺の舞」の奉納が行われ、 山車では祭典当日の進行に忠実に従って6種の「五所宮囃子」が奏でられる。 (共に「神奈川の民族芸能50選」選定) 例年御旅所から西参道周囲に100件近くの露店が立ち、多くの参詣者で賑わう。 殊に宮入り直前、祭場近くの中村川沿道で松明を燃やしながら行われる「神輿の川入り」、 その後の「山車の曳き別れ」の勇壮かつ幻想的な美しさが内外の好評をはくしている。
招霊の木(モクレン科)
天岩戸神社(宮崎県高千穂)にて分けられた樹天照皇大神が岩戸隠れをされた際、 天鈿女命が手に持って踊ったのが「おがたま」の木の枝といわれ、 神霊を招くことから「招霊樹」とされている。 神楽で使われる鈴はおがたまの実が起源という。
神楽殿の左脇に立つ道標「郷土資料館」に従って坂道を降っていくと、途中に鐘楼があります。
五所八幡宮・梵鐘
この神社は、保元2年(1157)、比叡山の僧義円によって創建されたものであり、 のちに源頼朝の全国六十一ヵ所祈願所の一つに数えられている。 源頼朝の再興に尽くした中村荘司平宗平は、この神社を源氏の守護神とあがめ、 中村、上中村の総鎮守としたといわれる。 この神社の例大祭(4月29日)は、「かながわのまつり50選」に選定され、 例大祭の神事として今も残る「鷺の舞」は、「かながわの民俗芸能50選」に選ばれている。 境内西側の坂の途中にある梵鐘は、寛永6年(1629)の鋳造で、高さ95cm、口径65cm、 中井町最古の梵鐘であり、井ノ口米倉寺の梵鐘とともに、第二次世界大戦の時、 供出(武器、弾薬の材料にするため国中の金属類が軍に徴収されること)をまぬがれた由緒あるものである。
 (平成2年3月 中井町教育委員会)
参拝者の皆様へ
最近いたずらや故意の破損行為が増えています。 又、鐘にひび割れも生じていますので、大晦日以外の使用は出来ませんのでご了承下さい。
 (五所八幡宮)