日向山
散策:2010年06月中旬
【低山ハイク】 日向山
概 要 日向山は丹沢山塊の南側にある標高400mほどの低山です。 山頂の東側が開けていて、横浜や都心のビル群までも見渡せる眺めが広がります。 今回は浄発願寺奥の院から梅の木尾根へ登って日向山へ向かいます。 日向山からは七曲峠を経て眺めの良い見城山頂へ登り、東北へ続く尾根から七沢温泉へと降っていきます。
起 点 伊勢原市 日向薬師バス停
終 点 厚木市 七沢病院入口バス停
ルート 日向薬師バス停…白髭神社…浄発願寺…大友皇子の墓…石雲寺…一の沢橋…浄発願寺奥の院…奥の院岩屋…梅の木尾根…537m峰…キャンプ場分岐…天神平分岐…十字路…日向山…七曲峠…見城山頂…展望地…石祠…愛宕社分岐…石祠…七沢温泉…七沢病院入口バス停
所要時間 4時間10分
歩いて... 一の沢橋から七沢温泉へ至る今回の山道には下草は生えておらず、広くてしっかりとした道が続いていました。 山ビル禍を心配していましたが、道も乾いていて、被害に遭うことはありませんでした。 梅の木尾根や見城山頂の東側に急傾斜の所が一部ありましたが、それ以外は歩きやすい道になっていました。
関連メモ 順礼峠のみち, 大山参り蓑毛のみち, 鐘ヶ岳, 梅の木尾根, 大山西尾根, 見城山, 七沢弁天の森, 梅の木尾根
コース紹介
日向薬師(ひなたやくし)バス停
伊勢原駅(小田急小田原線)の北口から、[伊20][伊22]日向薬師行きバスにて22分〜23分、 1時間に2本から3本程度の便があります。
この日向薬師バス停は、関東ふれあいの道の 「太田道灌・日向薬師のみち」,「巡礼峠のみち」,「大山参り蓑毛のみち」の起終点にもなっていて、 バス停の脇にその解説板が設置されています。 新しく作り直されたようで、以前に見かけたのと内容が若干変わっていました。 トイレの脇には「日向地区歴史遺跡・散策路等観光案内看板」も出来ていました。 商店の前には以前から「案内図」と題した手書き風の案内板があって、 この周辺から阿夫利神社にかけての道が紹介されています。
関東ふれあいの道
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 沿道の豊かな自然にふれ、名所や史跡をたずねながら、ふる里を見直してみませんか。 この地点は、県内17コースのうち「順礼峠のみち」・ 「大山参り蓑毛のみち」・「太田道灌・日向薬師のみち」の分岐点です。 みどころは、白山・順礼峠・日向薬師・日向渓谷・二重の滝・ 阿夫利神社・太田道灌の墓・三之宮比々多神社など見所が沢山あります。
大山参り蓑毛のみち 全長=8.7km
蓑毛バス停…蓑毛越え…阿夫利神社下社…見晴台…日向ふれあい学習センター…浄発願寺…日向薬師バス停
太田道灌・日向薬師のみち 全長=8.5km
坪ノ内バス停…三之宮比々多神社…上粕屋神社…太田道灌の墓…鎧塚…日向薬師バス停
巡礼峠のみち 全長=8.8km
日向薬師バス停…日向薬師…七沢神社…巡礼峠…物見峠…むじな坂…御門橋バス停
 (環境省・神奈川県)
日向地区歴史遺跡・散策路等観光案内看板
(伝)大友皇子の陵  大友皇子は、大化改新で知られる天智天皇の皇子。 壬申の乱で敗れ近江山前(現在の滋賀県大津市山崎)で自害した。 伝承によると、滋賀から逃れてこの地の山中に隠れ住み、その生涯を送ったとされ、 没後この古廟塚に奉葬されたと言う。
日陰道  高橋から山裾を通り、神明橋に至る道。 鎌倉時代に源頼朝が、日向薬師を参詣する際、家臣達が通った道といわれています。 日向に対して、来た向きの所は日陰になることから、この名が付けられているそうです。 (かながわの古道50選)
太田道灌公の墓(洞昌院)  江戸城を創建し、文武両道の鑑と言われた太田道灌公は、文明18年(1486)7月26日、上杉館で暗殺されました。 墓は上粕屋の洞昌院と下糟屋の大慈寺の2ヶ所にあります。
浄発願寺奥ノ院  慶長13年(1608)、木食弾誓上人が開山した天台宗弾誓派の総本山。 別名「駆けこみ寺として有名で、 江戸時代は殺人と放火以外の罪人が、この寺に逃げ込めば罪から逃れられました。
日向薬師(宝城坊)  かつては日向山霊山寺と言われ、霊亀2年(716)に僧行基によって開創されました。 鉈彫の本尊薬師如来三尊像を始め9件の国の重要文化財があり、 4月15日の大祭には「神木のぼり」が行われます。 また、日向薬師周辺は、梅や桜の名所として有名です。
彼岸花の群生地  里の稲穂が黄金色に色づく頃、日向路一帯に真紅の彼岸花が咲き始めます。 (かながわの花の名所100選)
 (伊勢原市、伊勢原市観光協会)
案内図
当所より梅ヶ尾橋を渡り九十九曲り、さくら道を登り見晴台を経て大山頂上及び 阿夫利神社下社、或は二重橋から八段滝を経て大山に至るハイキングに絶好のコースである。 大山頂上まで所要時間2時間半〜3時間、 九十九曲り見晴台を経て阿夫利神社下社又は八段滝より大山バス終点2時間20分、2時間50分。 キャンプ場、7・8月開場。
 (伊勢原市観光協会)
白髭神社
「大山山頂へ2時間40分・阿夫利神社下社へ1時間50分」の道標に従って、舗装路を左手へと進んでいきます。 商店を過ぎていくと、庚申塔の佇むT字路の手前に白髭神社があります。 石垣の間の石段を登って、「白髭神社」の扁額の架かる鳥居を過ぎていくと境内になります。 普通の神社の屋根は瓦葺きやトタン葺きのものが多いのですが、 ここのは茅葺きになっていて珍しく思ったりします。 萱葺き職人が減少していく時代にあって、このような屋根を維持していくのは大変なのでしょうが、 とても趣きのある佇まいでした。 これからの散策の安全をお祈りしていきました。
私が物心ついた時の実家も茅葺き屋根でした。 小学生の頃に屋根の葺き替えをしたのですが、 多くの村人に手伝ってもらって、大変な作業だったことを朧気ながら覚えています。
白髭神社を後にして、関東ふれあいの道「大山参り蓑毛のみち」にもなっている道をその先へ進んでいきます。 左手に田んぼが広がるようになると、畦道の脇に新たな案内板が設置されていました。 畦道には黄色い花や白い綿毛を膨らませたタンポポが咲き、白い蝶がヒラヒラと舞っていました。 秋になるとこの辺り一帯には彼岸花が咲いて綺麗な眺めになります。
この河川は水源環境保全税で整備されました
水源環境保全・再生の取組  神奈川県では、豊かな水資源を損なうことなく次世代に引継、 将来にわたり良質な水を安定的に県民の皆様が利用できるようにするため、 平成19年度から水源環境の保全・再生に取り組んでいます。 また、その財源として、個人県民税の超過課税(水源環境保全税)のご負担をお願いしています。
良好な河川環境の創出  従来の河川整備では、コンクリートブロックなどが用いられ、洪水から人々を守るという点で成果を上げてきましたが、 一方で、水辺の生態系や自然の水循環に影響を与えてきました。 今後は、生態系に配慮した整備を行うなど、豊かな水辺空間の創出を図り、 河川の自然浄化機能を保全・再生していくことが重要となっています。
 (神奈川県)
神明橋
両側に続く田畑などを眺めながら登り気味に進んでいくと、薬師林道が右手へ分かれていきます。 周囲には道標類が幾つか設置されています。 それらによると、正面の道は「関東ふれあいの道 下社5.3km・蓑毛8.4km」,「見晴台1時間25分・大山山頂2時間35分」、 右手の道は「七沢50分・日向薬師15分」となっています。 薬師林道を見送って、正面から左手へ曲がっていく道を進んでいくと、 左下には日向川が流れるようになります。 川沿いに登り気味に進んでいくと、日向川に神明橋が架かっています。 脇には道標「日陰道1km20分」が立っていて神明橋を指していますが、 「直進500m にじます釣り・バーベキュー日向山荘」の看板に従って、 このまま正面に続く舗装路を進んでいきます。
林道 薬師線(終点)
この林道は林業経営のためにつくられたものです。 一般道路とは異なり、急カーブや落石の危険がありますので、 林業関係者及び地元関係者以外の通行を禁止致します。 なお、利用に際しては承認等が必要となりますので、ご注意願います。
標準幅員W=4.0m 全体延長L=3,061m
 (湘南地域県政総合センター森林課)
登り坂になった舗装路を進んでいくと、左手に田んぼが広がるようになります。 水を張った田んぼには若々しい苗が植えられていました。 野猿やクマに関する注意書きを見かけて、多少不安になりながらも、出遭わないことを願いつつ進んでいきました。
伊勢原市谷戸田保全整備事業【谷戸田オーナー制度】
伊勢原市は、農業従事者の高齢化、後継者不足等により、遊休・荒廃化する谷戸田が増加していることから、 遊休化した谷戸田の復元整備を行うとともに、市民の農業体験の場(谷戸田オーナー制度)として活用することで、 谷戸田の原風景の復元と維持を図っています。 谷戸田オーナー制度は、地区農業者の指導のもとに、田植えから収穫までの一貫した農作業を 体験することができる制度です。
 (伊勢原市)
注意 野猿の出没区域
・決してエサを与えない
・お弁当等の残りは持ち帰る
一人一人のマナーがサルからの農作物被害を減らします。
 (JAいせはら農政対策委員会)
ツキノワグマによる被害を受けないために!!
クマは、するどいツメと大きな歯を持っていて、時速40kmで走ることもできます。 突然の出会いで、引っかかれたり押し倒されたりすると大けがをすることがあります。 クマによる人身被害を防ぐには、「クマとあわない」「クマを引き寄せない」ことが第一ですが、 それでも出会ってしまったら、「興奮しない、させない」ことが基本になります。
クマとの出会いをさけるために
 ◇クマの出没情報に気をつける。
 ◇出没情報のあったところには近づかない。
 ◇朝・夕・霧が出ている時などはクマに出会う可能性が高いので特に注意する。
 ◇一人では行動しない。
 ◇鈴・笛・ラジオなど、音の出るもので存在を知らせる。
 ◇子グマを見かけたら、そっと立ち去る。(近くに母グマがいます)
もしクマにであったら
 ◇落ち着いてその場を離れる。
 ◇大声を出したり、走って逃げてクマを刺激しない。
 ◇近くにクマがいるときは、持ち物を置いて、そっと離れる。
 ◇クマの動きを見ながらそっと後退する方がよい。
クマをおびきよせないために
 ◇餌付けをしない。
 ◇生ゴミを放置しない。
 ◇収穫した農作物、果実などを放置しない。
 (神奈川県湘南地域県政総合センター環境部)
浄発願寺
坂道を真っ直ぐに登っていくと、右へ曲がっていく角に朱塗りの橋が架かっています。 その橋を渡って右手へ進んでいくと、墓地の中に立派な三重の塔が建っています。 墓地を過ぎた所に浄発願寺の本堂があります。 元々はこの先にある奥の院の場所にあったのが、 昭和13年の山津波で崩壊したため、ここに移ってきたとのことです。 正面に架かる朱塗りを橋の渡って元の舗装路に出ると、 右手の袂に「一の沢浄発願寺」と刻まれた石碑や解説板などがあります。
浄発願寺の文化財
無常山浄発願寺は、上野寛永寺の凌雲院の末寺となる天台宗弾誓派の寺です。 創建は慶長13年(1608)、ひたすらに修行に勤しみ、口にするのは木の実や草だけという木喰の僧、弾誓上人によります。 江戸に幕府を開いた徳川家康が上人に深く帰依したことから、寺は代々幕府の手厚い庇護を受け、 山岳修行者や各地を行脚する修行僧の行場として栄えました。 また、殺人や放火を犯した者以外であればどんあ犯罪人も許される駆け込み寺としても有名となりました。 明治維新におこった廃仏殷釈運動では厳しい弾圧を受け、 徳川本家をはじめ、尾張徳川家、藤堂氏、佐竹氏などの大名、公家の広幡家など、 後ろ盾となる信徒をも失い、寺領も減少して吸いたいの一途をたどりました。 しかし、民間の信仰は根強く、陰暦10月に行われる御十夜法要は相模の三大十夜と称され、 昭和初期まで盛大に続きました。 また、寺が日向川の水源地に鎮座していることから、伊勢原をはじめ平塚や大磯など下流域に住む人々からは 雨乞い進行の寺としても崇められました。 昭和13年(1938)の秋、浄発願寺は台風による山津波に見舞われて壊滅状態となり、現在の場所に移転しました。 かつての寺跡はここより約1km上流の一ノ沢に「奥ノ院」として残り、 そそり立つ崖と生い茂る草々に囲まれて、静かに往時の面影を偲ばせています。
 (伊勢原市教育委員会)
元伊勢原警察署長田中勝五郎氏ガ其ノ職を勇退サレ第二ノ故郷伊勢原町ニ居住サレ 世界プロレス界ノ王者故入来銅山ノ供養ニト此ノ橋桁ヲ寄贈サレタモノデアル
昭和四十年七月吉日建之
舗装路を左手へ進んでいくと、道端に丹沢山塊の主な登山道を記した大きな標識があります。 日向薬師バス停から見晴台へ向かうこの道も記されていますが、 奥の院から梅の木尾根へ登る今回のルートは載っていません。 袂には「関東ふれあいの道」と刻まれた路傍サインもありました。 そこを過ぎて日向山荘の建物の所まで来ると、左手へ道が分かれていきます。 角には道標が立っていて、左手の道は「大友皇子の墓5分」「御所の入・森のコテージ5分」、 今来た道は「日向バス停15分」、正面の道は「日向ふれあい学習センター1.1km先」となっています。 今回歩いて来た道は以前にも何度か通っていて、左へ分かれていく道があることは知っていましたが、 まだ歩いたことはなかったので、ちょいと寄り道をして大友皇子の墓まで往復してくることにしました。 「車両通行禁止」の看板もあったので、左手の道は林道のようでした。 すぐに日向川に架かる「御所の入橋」を渡っていきます。
車両通行禁止
但し次の車両を除く
1.林道関係者 2.地元関係者 3.林道沿線施設利用者
 (伊勢原市)
遊漁上の注意
1.此の釣場で遊漁される方は必ず相模川漁業協同組合連合会の発行する遊漁券をお求め下さい。
2.放流料金及び漁具漁法については事業所の指定を守ること。
3.本漁場は特別漁区につき相模川漁連傘下組合員でも指定された料金を納入して下さい。
4.遊漁者は道徳を重んじ他人の迷惑になるような行為をしてはなりません。
 (相模川漁業行動組合連合会)
大友皇子の墓
御所の入橋を渡っていくと、左へ曲がっていく所から右へ道が分かれていきます。 入口には「大友皇子の墓3分」の道標が立っていて、右手の道を指しています。 また「(伝)大友皇子の陵墓」の看板も立っていました。 そこから右手の未舗装路に入っていきます。 小型車なら通っていけるほどの道幅があります。 山際を進んでいくと、浅い谷筋を登るようになります。 左手には植林帯が続き、右手の上にはキャンプ場のコテージなどが沢山並んでいました。 キャンプ場への道もありましたが、柵で閉ざされていました。 坂道を登っていくと、左手に「(伝)大友皇子之陵」と刻まれた石柱が立っています。 右手のキャンプ場への入口の柵は開かれていました。 石柱の脇の石段を登っていくと、すぐの所に竹柵で囲まれた一角があって、 その中に五重の塔のような形をした大友皇子の墓がありました。 周囲には五輪塔のようなものが幾つかありましたが、 脇にあった碑文によると従者の墓のようでした。
(伝)大友皇子陵
この塔は後の弘文天皇である大友皇子の陵と伝えられる。 皇国地誌日向村には「相伝往古兵乱ノ際親王此地ニ行幸シ行宮ヲ建築シテ御座シマス、 終ニ行宮ニ崩シ賜フ、ヨッテ此地ニ埋葬シ奉ル」とある。 大友皇子は天智天皇を父とし、歳若くして太政大臣となるが、 天智帝崩御の天智11年(672)後の皇位継承を巡って叔父大海人皇子と争い、敗水自害したという。 これが壬申の乱である。 しかし当地の伝説によると、百済の若者を身代わりに自害したと偽り、 僅かの従者を率いて近江国山崎を逃れ、この地に隠れ住み、墓所には遺言にしたがって 皇子が生前に愛された松が植えられたのみであったという。 後に諸国行脚の僧、華巌法師が紫雲に導かれるまま日向の地に分け入り、 皇子を開基とした養老2年(718)一寺を建立した。 この寺が医王山雨降院石雲寺である。 その後、鎌倉時代に里人が五層の石塔を皇子の墓として、 その他の五輪塔を従者の墓として建立したと伝えられる。 現在も雨降山石雲寺の貴い寺領として諸人の参詣が絶えない。
 (平成8年10月吉日 石雲寺二十八世清水義仙代建之)
往復12分ほどで元の舗装路まで引き返してきて、 道標「日向ふれあい学習センター」に従って、日向山荘の右手に続く道を登っていきます。 左手の植林地にキャンプ場が見えてくると、 右手に「日向薬師の森周辺案内図」と題した案内板が立っています。 山道も図示されていましたが、かなり汚れていて見えにくくなっていました。 その脇から続く道を登っていくと、天神尾根や天神平を経て梅の木尾根へ登っていけますが、 今回は見送っていきました。
有料キャンプ場
ここでキャンプ又はバーベキューや休憩等をする方は、 必ず日向山荘へお申し込みの上、ご使用ください。 無断で使用の場合は規定料金の五倍以上をいただきます。
お申し込みは…日向山荘へ
石雲寺への車道を右手に分けていくと、左側には日向川マス釣場があります。 右側には石柱の門があって、脇には「石雲寺」と刻まれた石碑もありました。 石門から入っていくと、先ほどの大友皇子の墓に関する解説板がありました。
特別漁区 日向川マス釣場
区域 梅尾橋 橋脚下流端から同下流200m
石雲寺(曹洞宗)
山号は雨降山、寺伝では壬申の乱に敗れた大友皇子 が日向の地に隠れ住まわれ没後皇子の菩提を弔うために養老 2年(718)華厳法師がこの地に開創した雨降院が石雲寺の前身とされる 雨乞い信仰に関係して雨降石が御神体の石尊社が境内の一角に有 る。江戸時代の初め大山寺との雨降石の争奪戦で石雲寺本堂が大山 寺の衆徒に焼かれてしまったと言う。 末寺には二宮尊徳の菩提寺である柏山の善栄寺を始め五ヶ寺 があり、小田原の北条氏の信仰も厚かった。
 (文化財協会、石雲寺28世義仙代)
伊勢原市指定重要文化財 有形文化財 日向渕ノ上石造五層塔
所在地 日向字渕ノ上1800番地のロ
塔高 149cm(相輪除く)
石雲寺から東へ400mほど下り、御所の入橋を渡った日向川の右岸に、石造りの五層塔があります。 この石塔は壬申の乱(672)で敗れた大友皇子の墓との伝承があり、通称「大友皇子の墓」と呼ばれていますが、 石塔そのものは鎌倉時代末から南北朝時代の初め(14世紀前半)に造られたものと考えられます。 五層塔は基礎・塔身・笠・相輪からなります。 基礎と塔身は方形で、側面に方形の区画を彫り出しています。 笠は初層から第四層までは同形で、上にいくほど少しずつ小さくなっています。 最上層は高さが他の層より高く、上端には露盤を作り出しています。 この上には本来相輪がのりますが、今は失われ、五輪塔の空風輪で補われています。 五層塔は五重の塔などと同様に、本来は釈迦の舎利を納める仏塔ですが、 中世には墓石や供養塔として祀られました。 神奈川県下では、全体像が知られるものは六基を数えるのみで、相輪以外が全て揃うという意味でも、 この五層塔は大変貴重な作例といえます。 周囲に五基ある五輪塔は、いずれも空風輪、または水輪に梵字が刻まれ、 その形状から五層塔よりはやや新しい南北朝時代から室町時代のものと考えられます。 これらの石塔は、伝承の大友皇子とは時代的に隔たりがあり、直接的な関係を論じることはできませんが、 当地域の中世にこうした貴重な層塔を建立できた有力な人物や集団の存在を示す証しとして重要な資料です。
 (伊勢原市教育委員会)
石雲寺
「雨降山石雲寺」と題した掲示板には山ビルに関する注意書きがありました。 そう云えばこの辺りの山域でも山ビル被害に遭ったという話も聞くし、 櫟山へ登ろうとした時などに遭った山ビル禍のことを思い出して、 この先の山道が心配になりながら石段を登っていくと、 正面に「雨降山」の扁額が掛かる石雲寺の本堂がありました。 両側に並んだ三体ずつの庶民的な姿をした石像が出迎えてくれました。 これから法事でもあるのか、本堂には人が集まってきていました。
石雲寺縁起
寺伝によれば、八世紀初めの養老2年、諸国を行脚していた華厳妙瑞という法師が日向へやってきた。 法師が山中の石上に座し瞑想すると、渓谷に紫雲を認め、不思議に思った法師が河原に降りると、 周囲三丈(10メートル程)の石の上方に紫雲がたなびいていて、 法師は一心に仏・菩薩の名号を唱えたところ、仏・菩薩の御姿が現れたという。 里人に尋ねたところ、その昔、壬申の乱に敗れた大友皇子が近江国から逃れ住まわれ、 この地で亡くなられ、従者も殉死したという。 哀れに思った法師は精舎を建て、皇子の菩提を弔うこととした。 これが石雲寺の草創である。 皇子の墓所は当所、遺言により松を植えただけであったが、 鎌倉時代になって従者の子孫が石で五重の塔を建てたという。 長禄年間、天渓宗思和尚が曹洞宗として中興開山され、天文12年に北條幻庵から朱印状を拝領した頃、 寺院としての基盤が確立したようだ。 当初の寺院名は「雨降院」で、後に開創の縁起に因んで「石雲寺」と改められている。
わたしたちの宗旨は
宗名 曹洞宗(禅宗)です。
伝統 曹洞宗はお釈迦さまより歴代の祖師がたによって相続されてきた正伝の仏法です。
日本開宗 曹洞宗は今から800年ほど前、鎌倉時代に高祖道元禅師さまが我が国に伝えて、ゆるぎなき基礎をきずかれ、 四代目の太祖瑩山禅師さまが一層盛んになさいました。 このお二方を両祖大師と申し上げます。
大本山 福井県の永平寺(高祖道元禅師さま御開山)、横浜市の総持寺(太祖瑩山禅師さま御開山)
本尊 曹洞宗はお釈迦さまをご本尊として仰ぎます。
本尊唱名 南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)
教義 わたしたちはみな仏の子であり、生まれながらに仏心を具えています。 しかし、それに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのもとをつくっています。 ひとたび仏さまに懺悔し帰依するならば、心が落ち着いておのずから生活が調えられて明るくなり、 社会のお役に立つことを慶び、又、どんな苦難にも耐えて生き抜こうとする信念が生まれます。 そこに生きがいと降伏とを発見するのが曹洞宗の教えであります。
お経 修証義、般若心経、観音経、寿量品の諸教典を読誦します。
左手にある六地蔵の脇から続く坂道を降っていくと、先ほどの舗装路に出ます。 左手には日向渓流鱒釣り場にある喫茶食事「山小屋」があります。 右折して舗装路を更に進んでいきます。
山ビルを怖がらないで
ヤマビルを初めて見る方はびっくりなさるでしょう。 でも、よく考えてみると、現在ヤマビル被害が出ている場所は、豊かな自然に恵まれた場所ばかりなのです。 正しい知識で適切な対処をすれば、決して怖がることは有りません。 日向の自然の中でこんな動物に会えるかもしれませんよ。
山ビルにご注意を!!
草むらや落葉の裏に野生の鹿が運んできた山ビルがいます。 吸盤で人の肌について吸血します。 特に雨降りの日や地面が湿っているときは活発に活動します。 草むらや湿った落葉のそばには近寄らないで下さい。 対処法は:山ビルが嫌う、木酢液、食塩水、虫除けスプレーなどを、足元の衣服に予め塗布しておいてください。 専用忌避剤としてヤマビルファイター(イカリ消毒)もあります。 吸血されたときは:直ぐに引き離して下さい。 ダニのように肌がに口が残る心配は有りません。 かゆくなり血が固まらないヒルジンを注入されています。 なるべき早く血液と一緒にしぼり出して、バンソウコウなどで止血してください。 危険なウイルスなどは持たないと言われています。 後は傷口を清潔に保てば大丈夫です。
鳥獣保護区
ここから奥は鳥やシカなどの動物たちを保ごしている場所ですから狩猟はできません。 皆さんもかわいがってください。
 (神奈川県)
日向川沿いに続く舗装路を進んでいくと、程なくして梅ヶ尾橋を渡っていきます。 川には砂防ダムが幾つもあって、流れ落ちる水が心地よい音を響かせていました。 植林帯に続く舗装路を登っていくと、左手に戻るようにして山道が分かれていきます。 その道はすぐ先で二手に分かれています。 かなりしっかりした道で、どこへ続いているのか興味はありまたが、行く末を確かめるのは省略しました。 山道の入口には「名勝 日向渓谷」と刻まれた石柱がありました。
名勝 日向渓谷
一ノ沢・二ノ沢・三ノ沢・鍵沢・屏風沢・不動沢と六つの枝沢が梅ヶ尾橋上流付近に 集まっていて、この辺りを日向渓谷といいます。 不動滝(不動沢に入る)は、大山登山の禊の滝として知られ、 古くは浄発願寺に起居する僧侶修行の場とされていました。
山歩く 心にいつも 火の用心
山火事注意
 (神奈川県)
一の沢橋
道幅が広がって駐車場のようになった先に、クアハウス「Yamagoya」があります。 レストラン・喫茶になっていて日帰り入浴もできるようです。 そこを過ぎていくと、右手に降っていく道が分かれていきます。 脇には「史跡 浄発願寺奥院」と刻まれた石碑や案内標識などがあります。 舗装路から分かれて右手の坂道を降っていくと、日向川に一の沢橋が架かっています。 日向薬師バス停から50分ほどで到着しました。 橋の手前には「浄発願寺奥の院」と題した解説板があります。 ここから奥の院や岩屋までの「全体案内図」も掲載されていました。 解説板の横の方には「亮台(天阿)上人の念仏石」という岩があります。 この橋にも山ビルに対する注意書きがあって、 尾根までの道で被害に遭わなければいいがと、祈るような気持ちになってきました。 橋を渡った正面には宝篋印塔・閻魔堂跡などがあって、東屋もひとつ建っています。 ここが往時の浄発願寺の入口だったようです。 右手の「一之澤」と刻まれた立派な石燈籠の立つ「山門跡」から続く石段を登っていきます。
浄発願寺奥の院
無常山浄発願寺は、慶長13年(1608)弾誓上人開山の天台宗弾誓派本山である。 上野寛永寺の学頭寺凌雲院の末寺として、江戸時代に繁栄し、四世空誉上人の時代が全盛期だった。 「男の駆け込み寺」で知られ、放火・殺人以外の罪人は駆け込めば助かった。 また、木食行(穀物をさけ、木の実・草の実などを火を通さないで食べる)の戒律を 大正初期まで守り続けた。さらに、雨乞い・安産信仰等でも知られ、 10月の「お十夜法要」は鎌倉市の光明寺、平塚市の海宝寺とともに相模の三大十夜に数えられ、 昭和初期まで盛大であった。 信者には、公家の広幡家や、徳川家、尾張徳川家、藤堂、佐竹、大久保、黒田、有馬、 織田氏等があり、境内は165,600坪もあった。寺宝としては、市重要文化財の縁起絵巻三巻や、 雨乞軸、唐金の子安地蔵、出山の釈迦像など、数多くの像がある。 昭和13年(1938)の山津波で、この地にあった浄発願寺は、諸堂宇が潰滅し、当地に復旧困難なため、 昭和17年(1942)に約1km下の地に再建し、以後この地は浄発願寺奥の院と称し、市指定史跡にもなっている。 この地には、弾誓上人が修行した岩窟や、罪人53人に一段ずつ築かせた石段(平成3年3月再建)等があり、 参道には、浮世絵師歌川国経の供養塔(現在は浄発願寺に移してある)や 極楽浄土に往生できるよう祈願した「南無阿弥陀仏」の名号碑などがある。
 (伊勢原市)
亮台(天阿)上人の念仏石
12世亮台(天阿)上人が念仏修行された石。 そばに欅の大木があり、樹下石上の念仏といわれた。
閻魔堂跡
地獄の王閻魔を安置したお堂があったが、大正12年(1923)の関東大震災の山津波で流失した。
宝篋印塔
元禄5年(1692)に名古屋城主徳川綱誠の正室榮珠院殿を弔うため建立された。 大正12年(1923)の山津波で流失したが、昭和5年(1930)に再建された。
山門跡
南岳悦山筆の「無常山」の山号額がかけてあった浄発願寺の山門跡。
浄発願寺奥の院
小さな谷筋に続く石段を登っていきます。 石段が終わって緩やかな道になってホッとしていると、すぐ先から再び石段が始まります。 その先にも横木の階段混じりの登り坂が続きます。 途中の踊場のような所には石仏や石碑などが並んでいましたが、 何故だかどの石仏も頭の部分がなくなっていて、代わりに丸い石が乗せられていました。 右手の沢にはほとんど水が流れていませんでした。 駆け込んだ53人の罪人が一段ずつ築いたという「五十三段の石段」を登っていくと、 石灯籠と礎石だけが残された堂宇跡があります。 ここが浄発願寺奥の院になるようで、 脇に設置された解説板には、往時の配置図見取図なども載っていました。 一の沢橋から8分ほどで登って来られました。
五十三段の石段
四世空誉上人の代に駆け込んだ53人の罪人が一段ずつ築いた。
本堂跡
文化7年(1810)、22世速阿上人により再建された。 間口7間(約12.73m)・奥行12間(約21.81m)の本堂があった。
堂宇跡
昭和13年(1938)秋の山津波で倒壊するまで浄発願寺の本堂・庫裡などはここにあった。 本堂は、貞亨2年(1685)秋田城主佐竹氏出身の4世空誉上人の時代に完成したが、 寛政7年(1795)の火災で焼失した。 その後、文化元年(1804)22世速阿上人の時代に再建され、間口は7間(約12.73m)、奥行12間(約21.81m)で、 廊下・居間・庫裡等を合わせて約230坪あり、三方は自然の岩を掘り割って排水溝とし、 非常の時は貯水槽となった。 周囲の山は原生林だったが、明治末の官林払い下げで伐採された。 なお、山の境界には70余の塚があった。 三日三晩のお十夜法要には、本堂・庫裡等が信者であふれ、相模の三大十夜と称された。 本堂にあった浄発願寺の寺号額は、徳川家康の師寒松の筆によるもので、 現在は約1km下の本堂に掲げてある。
 (伊勢原市)
左手の小さな沢に架かる木橋を渡って、石碑などの前を過ぎて岩混じりの山道を登っていくと、 すぐに「三界萬霊」と刻まれた石碑などが幾つか並んでいました。 谷側にロープが張られた横木の階段に変わってくる道を右・左と折れ曲がりながら登っていきます。 最後に大岩を削った石段を登っていくと、左右に通るなだらかな道に出ました。 正面には上部が少し広がった円筒形の墓石が並んでいました。 その脇には道標が立っていて、左手の道は「日向薬師2.6km」、 今登ってきた道は「日向林道0.5km」となっています。 梅の木尾根へは左手に進んでいくのですが、右手のすぐ先に岩屋があるので立寄っていきました。
鐘楼跡
名古屋城主徳川綱誠とその夫人奉納の鐘があった場所
浄発願寺本堂前にある安産信仰の唐金地蔵跡
奥の院岩屋
緩やかな道を右手へ進んでいくと、すぐに奥の院岩屋があります。 堂宇跡から6分ほどで登って来られました。 岩壁には岩屋があり、周囲には墓石などが沢山並んでいました。 前には解説板とベンチが設置されていて小広くなっていました。
奥の院の岩屋
慶長13年(1608)尾張国(愛知県)生まれの弾誓上人によって開かれた岩屋で、この世の浄土と考えられていた。 岩屋内中央に弾誓上人の石像があり、右側には榮珠院殿(新君と称し、後奈良天皇の孫娘で尾張徳川第3代綱誠夫人)や 佐竹、藤堂等と大名の墓石、二世但唱等の墓石が並んでいる。 岩屋前には、四世空誉上人の卵塔(伊勢原市最大)をはじめ歴代上人の墓石等がある。 尚、右方には観音堂や観骨堂(六角堂で地蔵を置く)、 左方には五社権現(明神・八幡・春日・熊野・住吉)が祀られていた。 朝日が差し込む岩屋での行や、御神木の桜で諸仏像を彫刻する等、神聖な岩屋内は一般人の立ち入り禁止の聖域であった。 男の駆け込み寺で有名な浄発願寺は字の通り浄く発願する寺である。 但し放火、殺人等は入山禁止であった。 明治末年、大正12年(1923)、昭和13年(1938)等の山津波で埋没した歴代住職の墓石等は、 平成3年春発掘し復元された。
 (伊勢原市)
手前の道標まで引き返して、雑木林の斜面を横切るようにして続く山道を進んでいきます。 脇の樹木に「大山・日向薬師」と書かれた小さな標識が取り付けられていて、行く手を指していました。 岩屋から4分ほど進んでいくと、右肩上がりの尾根の背に出ました。 出た所には道標が立っていて、右手へ登っていく尾根道は「日向薬師2.4km」、 今来た道は「浄発願寺奥の院岩屋0.2km」となっています。 左手へも道が続いているようでしたが、右へ折れ曲がって、広い尾根の背に続く道を登っていきます。 「登山道」と書かれた小さな標識を過ぎていきます。 尾根道には木の根が張り出していたり、横木の階段があったり、 倒木などがあったりもしますが、道は広くてしっかりと続いていました。 尾根道には下草は生えておらず乾いていて、 これなら山ビル被害には遭いそうにもないと安心しながら登っていきました。 尾根の背に出てから7分ほど登った所に、壊れたベンチがひとつありました。 そこを過ぎていくと、枯れた松の木なども見受けられました。
息が切れてしまうほどの急坂ではありませんが、 この時は蒸し暑い日だったので、後から後から汗が噴き出てきました。 何度も立ち止まって汗を拭きながら、ゆっくりと登っていきました。 丹沢大山へ続く稜線でしょうか、左手の樹木越しに山並を見渡せる所もありました。 やがて傾斜が増してきて、朽ち果てそうになった横木の階段を登っていくと、正面に道標が立っていました。 尾根の背に出た所から15分ほど登ってきた所になります。 道標によると、右手の斜面に続く緩やかな道は日向薬師2.1km」、 今登ってきた道は「浄発願寺奥の院岩屋0.5km」となっています。 正面の尾根にも踏み跡が見受けられましたが、 先に生える樹木には「作業道・立入禁止」の標識が取り付けられていました。
梅の木尾根
道標に従って、斜面を横切るようにして続く右手の緩やかな道を進んでいきます。 土砂崩れ防止用なのか、道に沿って木杭で補強されていたりもします。 崩壊地のような所もあって、道が傾いていて滑りやすくなっていたりもするので、 足元をよく確認しながら慎重に進んでいきました。 土留めの木杭が途切れて雑木林の斜面を更に進んでいくと、 先ほどの道標から4分ほどで左右に通る尾根に出ました。 この尾根が日向山から大沢分岐へと続く梅の木尾根になります。 岩屋から25分ほど、一の沢橋から40分ほどで登って来られました。 中ほどに立つ道標によると、右手の道は「日向薬師1.7km」、今来た道は「浄発願寺奥の院0.9km」となっています。 別の小さな道標もあって、左手の道は「大山・唐沢峠」となっています。 「初心者不可」「尾根を登る・右は作業路」とも書き込まれていました。 正面から左へ伸びる細い道(「右は作業路」の意味する道)もありましたが、水源森林管理用経路で、 「行き止まり・危険箇所があるため関係者以外立入禁止」となっていました。 坂道を登ってきて疲れたので、テーブル・ベンチに腰掛けて、暫く休憩していきました。
(大沢分岐への道は「梅の木尾根」, 「大山西尾根」, 「梅の木尾根」を参照)
小ピーク
ひと息入れたら、右手に続く尾根道を降っていきます。 広くて下草も生えていなくて歩きやすい道が続いています。 樹木には青葉が茂る季節ですが、道には枯葉が積もっていて、 何だか季節感が分からなくなってきたりもしました。 先ほどと同様の作業路が左右に分かれていきますが、 それらの入口には「立入禁止」の標識が立っています。 梅の木尾根に出た所から4分ほど降っていくと鞍部に着きます。 そこから尾根道を3分ほど登り返していくと、小ピークに着きました。 赤頭白杭の「水源の森林No.28」があって、ベンチもひとつ設置されていました。 手元の地形図によると、537m峰の北西100m辺りにある標高530mほどの高みになるようです。 周囲は樹木に囲まれていて展望は得られません。 北側へも作業路が分かれていましたが、右手へ続く道を降っていきます。
537m峰
軽く降って鞍部から登り返していきます。 正面の高みを左から巻くようにして登って高みに着くと、道の右側が僅かな高みになっていました。 ここにも赤頭白杭の「水源の森林No.4」があって、ベンチもひとつ設置されていました。 奥の方の樹木には「P537m」と書かれたテープが巻かれていました。 ここが地形図に載っている537m峰になるようです。 先ほどの小ピークから2分ほど、梅の木尾根に登り着いた所から10分ほどで着きました。 周囲は樹木に囲まれていて展望は得られません。
神奈川県「水源の森林づくり」契約地(水源協定林)
所在地 伊勢原市日向字梅ヶ尾1780-4外1筆
契約面積 4.84ヘクタール
水資源を大切にしましょう。
 (神奈川県環境農政部水源の森林推進課、神奈川県湘南地区農政事務所林務課)
水源協定林の看板の手前を左手へ降っていきます。 尾根に乗って降って鞍部に着くと、左手が開けて山並を見渡せる眺めが広がっていました。 方角からすると、「二の足沢」の北に横たわる515m峰から674m峰を経て大沢分岐へと続く尾根になるようです。 これまで眺めが広がる所がなかったので、歩みを止めて暫く景色を眺めていきました。
小ピーク
鞍部から1分ほど登り返していくと小ピークに着きます。 高みには古びた道標が立っていて、正面の道は「日向薬師1.9km」、 今来た道は「浄発願寺奥の院1km」となっていて、「大山・唐沢峠」と書き込まれています。 またこの場所を示すようにして「537mピーク」とも書き込まれていました。 手元の地形図によると、ここは537m峰の東100m辺りにある等高線510mで囲まれた高みになるようで、 この書き込みは誤りだと思われます。 ここも周囲は樹木に囲まれていて展望は得られません。 脇にはベンチがふたつありましたが、片方は壊れていました。
近づいているはずなのに、梅の木尾根に出た所にあった道標よりも日向薬師までの距離が長くなっているのは、 ご愛嬌ということにしておきましょう。
朽ちて縦杭だけになった横木の階段を降っていきます。 階段が終わって植林帯へ入っていくと、大きな岩が幾つか露出している所を過ぎて降っていきます。 「水源の森林No.5」の標柱の所から尾根の左肩へ降りていきます。 再び尾根の背に乗って降っていくと、再び岩が露出していました。 その少し先で、左手の谷筋へと鋭角に折れ曲がって降るようになります。 かなり傾斜があるので滑り落ちないよう注意しながら降っていきました。 右へ曲がって更に降って傾斜が緩やかになってくると、道端に大きな岩がありました。 537m峰から16分ほど降ってきた所になります。
小ピーク
大岩を過ぎて傾斜が緩やかになった道を進んでいきます。 頭を出した岩を越えて登り坂になってきた尾根道を進んでいくと、 尾根道は高みを右から巻くようにして続いています。 正面の高みへも踏み跡が続いたのでその道を登っていくと、すぐに小ピークに着きました。 高みには「水源の森林No.14」の標柱があるだけで、他にこれといったものはありませんでした。 手元の地形図によると、537m峰の東350m辺りにある標高430mほどの僅かな高みになるようです。
キャンプ場分岐
高みの先へ降っていくと、すぐに右手から巻き道が合流してきます。 その道を併せて緩やかになった尾根道を進んでいきます。 少し登り坂になってきた道を進んでいくと、先ほどの小ピークから2分ほどで分岐があります。 角には道標が立っていて、左手の道は「弁天の森キャンプ場0.4km」、 正面の道は「日向薬師の森0.45km・日向薬師1.3km」、今来た道は「浄発願寺奥の院1.7km」となっています。 ここは正面の尾根道を進んでいきます。
豊かな緑 山火事注意
たばこ・たき火は完全に消そう!
 (森林国営保険、神奈川県)
小ピーク
植林帯の尾根道を登っていきます。 防火用水の「ようすいくん」を過ぎて登っていくと、 弁天の森キャンプ場への分岐から3分ほどで小ピークに着きました。 高みには水源協定林の看板と「水源の森林No.27」の標柱が立っていて、 以前はテーブル・ベンチだったと思われる木材も散在していました。 手元の地形図によると、537m峰の東500m辺りにある標高440mほどの高みになるようです。 537m峰から24分ほどで着きました。 周囲は樹木に囲まれていて展望は得られません。 道端には古びた道標が立っていて、正面の道は「日向薬師1.1km」、 今来た道は「浄発願寺奥の院1.8km」となっています。 この場所の標高を示していると思われる「P.402」の文字も書き込まれていましたが、 地形図とは一致しないようでした。
神奈川県「水源の森林づくり」契約地(水源協定林)
所在地 伊勢原市日向字梅ヶ尾1779-2外6筆
契約面積 9.08ヘクタール
水資源を大切にしましょう。
 (神奈川県環境農政部水源の森林推進課、神奈川県湘南地区農政事務所林務課)
天神平分岐
高みを過ぎて、植林帯の尾根に続く広い尾根道を降っていきます。 「水源の森林No.33」の標柱の所を左へ曲がっていくと、右側には鹿避け柵が続くようになります。 樹木は大きく育っていて、今では不要になったのか、倒れている箇所もありました。 緩やかになった尾根道を進んで僅かに登り坂になってくると分岐があります。 先ほどの小ピークから8分ほどの所になります。 角には道標が立っていて、左手の道は「日向薬師・弁天の森分岐0.18km」、 右手の道は「天神平0.3km」、今来た道は「三ノ沢・鍵掛2km」となっていますが、 板の向きが少々怪しくなっています。 手元の地形図によると、先ほどの小ピークの東300m辺りにある標高400mほどの高みになるようです。 先ほど見かけた「P.402」の書き込みは、ここの標高と間違えているように思えました。 右手の道は、天神平・天神尾根・薬師沢などを経て、日向林道や薬師林道へ降りて行かれますが、 今回は左手の道を降っていきます。
(大沢分岐への道は「見城山」, 「七沢弁天の森」, 「梅の木尾根」を参照)
十字路
天神平への道を見送って、植林帯と雑木林を分ける尾根に続く幅の広い横木の階段を降っていきます。 一旦途切れて再び現れる横木の階段を降っていきます。 植林帯になった尾根を降っていくと、天神平分岐から5分ほど、 梅の木尾根に登り着いた所から50分ほどで、十字路になった鞍部に降り立ちました。 ここにも「ようすいくん」が設置されていました。 傍に立つ道標によると、正面の横木の階段は「日向山0.5km」、 右手の道は「薬師林道0.37km・日向薬師0.47km」、左手の道は「弁天の森キャンプ場1.03km」、 今降ってきた階段は「梅の木尾根0.18km」となっています。 脇の樹木には「クマ出没注意」の看板が立て掛けられていました。 「弁天の森・広沢寺」の小さな板も取り付けられていて左手の道を指していましたが、 今回は日向山を目指して正面の横木の階段を登り返していきます。
クマ出没注意
クマに会わないために  ●音を鳴らして、人の存在を知らせながら行動する。
クマに遭遇したら  ●刺激しないように慌てないで、静かにその場を立ち去りましょう。
 (伊勢原市)
十字路の正面に続く短い横木の階段を登っていくと、少し先から再び幅の広い横木の階段が始まります。 左側に金網柵が続く階段を1分半ほど登っていくと、階段は終わりになります。 植林帯になってきた丸い尾根を登っていくと、十字路から4分ほどで「水源の森林No.28」の標柱が立つ所に着きます。 傾斜が緩やかになってきた植林帯に続く尾根道を4分ほど登っていくと、 「水源の森林No.19」の標柱が立っていました。 脇にはベンチだったと思われる四角柱状の木が散在していました。 手元の地形図によると、日向山の西200m辺りにある標高400mほどの高みの西端になるようでした。
Abies firma Sieb. et Zucc. モミ(マツ科)
昔は平地にもふつうにみられましたが、この木は周囲が都市化するとなくなっていきます。 公園などでは公害の度あいを調べる木として利用しています。
日向山 (標高404.4m)
僅かな高みの先の浅い鞍部を過ぎて軽く登っていきます。 「水源の森林No.15」の標柱を過ぎていくと、正面が次第に明るくなってきます。 やがて傾斜が緩やかになってくると、「日向薬師の森案内図」が立っています。 天神平を経て、日向林道や薬師林道へ降りていく道が紹介されていました。 脇には道標が立っていて、今来た道は「弁天の森分岐0.5km・梅の木尾根0.7km」 「薬師林道0.87km・日向林道0.97km」となっていました。 案内板を過ぎたすぐ先が、四等三角点のある日向山の山頂になります。 十字路から12分ほどで登って来られました。 日向山の山頂には大きめの石祠があります。 側面には「辨才天宮」「天明八戌_三月 別當 開巌建之」と刻まれていました。 祠の右手に設置された「ナイスの森」の案内板によると、 この山頂にある祠には弁財天が祀られているのだそうです。
「ナイスの森」山頂−標高404m−
「水の神様」弁天様
日向山は昔から「弁天山」と呼ばれ、地域で大切にされていました。 それは、山頂に水の神様「弁天様」が祀られ、干ばつや水害から地域を守ってくれていたからです。 この「日向山弁財天」も過去には周囲を弁天池で囲まれ、常に定量の水が保たれていたとのことです。
健康で美しい森へ
ナイス株式会社は木材市場として設立された「木」をルーツとする企業として、 10周年期ごとに山林を取得し、「ナイスの森」と名付け保護・育成に当っています。
 (NICEナイス株式会社)
丸太のベンチが幾つか設置された日向山の東側が開けていて、 伊勢原市から厚木市の街並みを見渡すことができます。 この日は雲っていて遠方は霞んでいましたが、 天気のいい日には横浜のランドマークタワーや新宿の高層ビル群までも望むことができます。 お昼を過ぎた時刻になったので、ベンチに腰掛けて昼食タイムにしました。
日向山山頂
ここは日向山という標高404mの山の頂上で、伊勢原市と厚木市の境界になっています。 この山頂にある石祠は、天明8年(1788)と刻まれており、弁天さまが祀られていました。
お腹が満ちて疲れも癒えたところで、見城へと向かっていきます。 山頂の左手に立つ緊急時位置確認表示板「日向薬師コースNo.4」の先に続く広い尾根道を降っていきます。 植林帯を降っていくと、右手には鹿避け柵が続くようになりますが、 若木はかなり育っていて、今ではあまり必要な感じではありませんでした。
山頂から右手に降っていく道もあって、日向薬師奥の院を経て薬師林道へ降っていけましたが、 先ほど見かけた案内図には載っていません。 2004年6月に来た時にはその道を指す道標「日向薬師20分」が立っていて案内図にも載っていたのですが、 2006年4月に来た時には既に道標は撤去され案内図からも消されていました。 「通行止め」の標識などは見かけないものの、何らかの理由で道が廃止になったということなのでしょうか。
緊急時位置確認表示板 日向薬師コースNo.4
緊急時は、携帯電話でコース名、番号を119番又は110番に通報して下さい。
 (厚木市)
七曲峠
「日向薬師コースNo.3」の標識を過ぎて、丸い尾根の背に続く植林帯を降っていきます。 横木の階段や木の根が張り出していたりもしますが、傾斜はそれほど急ではなくて歩き難くありません。 日向山から9分ほど降っていくと、十字路になった鞍部に着きました。 中ほどには道標が立っていて、右手の道は「七沢温泉30分」、左手の道は「広沢寺温泉40分」、 正面の道は「見城山頂へ0.3km約10分」、今来た道は「日向薬師40分」となっています。 この鞍部の名前は記されていませんでしたが、手元の地図によると「七曲峠」というようです。 道標の支柱には「日向薬師コースNo.2」の標識も取り付けられていました。 右手には古びた鹿避け柵の扉がありましたが、既に用を為していないようでした。 鞍部の正面の樹木の袂には「山神」と刻まれた石碑と石祠があります。
見城」はどう読むのか分かり難いようで、 道標の「見城山頂へ」の板には「みじょう」と書き込まれていましたが、 訓読みと音読みが混じった不自然な読み方のように思えました。
おねがい
この柵は、稲・麦・お茶・野菜等農作物に対するシカの食害を防ぐ為に設置したものです。 扉は必ず閉めて下さい。
 (神奈川県)
山火事予防
どんな火もいやです 山はみどり好き
 (神奈川県)
正面に続く広い尾根道を進んでいくと、程なくして登り坂になってきます。 高みを左手から巻くようにして登っていくと、谷側にはトラロープが張られていたりもします。 傾斜が増してきて、その先の横木の階段を登っていくと、尾根の背に出ました。 植林帯に続く広い尾根を登っていくと、七曲峠から7分ほどで分岐があります。 中ほどに立つ道標によると、右手へ降っていく道は「広澤寺駐車場へ0.9km約35分」、 正面の道は「見城山頂へ0.1km約2分」、今来た道は「大釜弁財天へ0.5km約20分」となっています。 このすぐ先が見城山頂なので立寄っていきます。
見城山頂 (標高376m)
緩やかな尾根を1分ほど進んでいくと、「見城山頂」の標識が立つ所に着きます。 七曲峠から8分ほど、日向山から19分ほどで到着しました。 2007年12月に来た時にはなかったのですが、今回来て見ると、 「ここは見城(みじょう)」と題した解説板が設置されていて、 往時の七沢城跡の絵なども載っていました。 尾根の中ほどには鹿避け柵がありますが、倒れていて用を為していないようです。 標識と解説板はその鹿避け柵の向こう側にあります。
ここは見城(みじょう)
山頂には常に物見の兵がいて、津古久物見峠と連絡を取ったり、 さらに南の糟屋館(伊勢原市上杉館)へ合図を送ったりした場所と言われている。
七沢城址の概要  室町時代の中ごろ、宝徳2年(1450)のことです。 鎌倉公方・足利成氏の近臣たちと関東管領山内・上杉憲忠の重臣たちとの間に争いが起ります。 上杉方に攻められた成氏は、いったん江の島にのがれますが、 七里が浜での合戦で上杉方に敗退し、憲忠は七沢山に要害を構えました。 成氏は、この年5月に事態の成り行きなどを記した書状を室町幕府に差し出しました。 これが「鎌倉大草子」という書物の中に残っており、 初めて文献の中に、七沢城に関する記述が登場することになります。 長享2年(1488)、山内、扇谷両上杉氏の間の不和が高じ、山内上杉顕定が、 当時扇谷上杉氏の所有していた七沢城方面に襲来します。 扇谷上杉定正は川越から一昼夜で駆けつけ、七沢城付近の南実蒔原において、 少数の兵で顕定の大軍を破り、奇跡的な勝利をあげました。 これが実蒔原の合戦です。 しかしこの時、定正側にも大きな痛手が生じたらしく、一説には、 この時七沢城主であった七沢朝昌(定昌の兄弟)が戦死したとも伝えられています。 七沢城が最終的に放棄された時期について、はっきりしたことは分かっていません。 おそらく、小田原北条氏がこの地域を制圧する16世紀半ばではなかったかと思われます。 城の中心は、現在七沢リハビリテーション病院脳血管センターが建っている部分と思われますが、 病院の東側、市立七沢児童館の建設に先立って行われた発掘調査の結果、 ここにも15世紀の建物址などが残っていることが発見されました。 建物址には、火災を被ったような痕跡があり、16世紀まで下らずに放棄されたようです。 もしかすると実蒔原の合戦の際に炎上したものだと思われます。 丘陵の地形をうまく利用し、部分的に造成を行いながら、相当な面積にわたって、 大規模な砦のようなものを築いたのではないでしょうか。 この付近には、七沢城に関連すると思われる古い地名が残っています。
 (厚木市産業振興部観光資源課)
山頂の北側から東側にかけてが開けていて、山並みや街並みを見渡すことが出来ました。 手前に見えるのが鐘ヶ岳で、左手の奥に聳えている山は方角からすると大山三峰でしょうか。 鐘ヶ岳の右手の奥には華厳山も見えていました。 更に右手の方には厚木の街並みが広がっていて、眺めのいい所になっていました。
見城山頂からの眺めの楽しんだら、手前の分岐まで引き返してきて、 道標「広澤寺駐車場へ」が指す道を降っていきます。 程なくして横木の階段を降るようになると、 見城山頂から2分ほどの所の樹木が途切れて、街並みなどを眺められる景色が広がっていました。 ロープが張られた急な横木の階段もありますが、1分もせずに緩やか尾根に降りました。 浄発願寺奥の院からここまでの道には下草などは生えていませんでしたが、 道標から3分ほど降ってくると短い草が生えていました。 道を覆っている訳ではなくて、雰囲気の良い絨毯のような気がしました。 土色ばかりで味気ない思いをしてきましたが、緑色を見て、何だか心が和みました。
展望地
ロープが途切れ途切れに張られた坂を降っていきます。 樹木の幹に括り付けられた「足元にご注意!」の注意書きを過ぎて、 岩が剥き出した所を降っていくと、馬の背のような所があります。 見城山頂から8分ほど降ってきた所で、地形図では標高300m辺りの所になるようです。 左手の樹木が少なくなっていて、山並みを見渡せる展望地のようになっていました。 方角からすると、荻野地区から半原地区にかけて続く山稜(通称:相州アルプス)のようです。 左手の奥に見える切り崩された山は、荻野地区にある高取山でしょうか。 手前にも切り崩された山が見えるし、かなり無残な姿に思えました。
鳥を大切に
野鳥を捕るには許可が必要です。 あなたは?
 (神奈川県)
足元にご注意!
この先、すべりやすくなっています。
 (厚木市)
石祠
ロープが張られた馬の背のような所を進んでいくと、 再び「足元にご注意!」の注意書きが括り付けられていました。 その先に続く横木の階段を降っていきます。 ロープが途切れて鞍部に着いて、広くて歩きやすくなった尾根道を1分半ほど登り返していくと、 僅かな高みの手前に石祠がありました。 先ほどの展望地から7分ほど、見城山頂から16分ほどの所になります。 側面には「奉造立山之神 谷戸 世話人」、「文政十四天卯正月十七日 施主 林蔵」と刻まれていて、 前面には小銭がお供えされていました。 文政14年という年はないように思いますが、天保2年(1831)のことなのでしょうか。 いずれにしても江戸時代の末期に建立された石祠のようです。
文政14年…
文政年間は1818年4月22日〜1830年12月10日、 天保年間は1830年12月10日〜1844年12月2日となっているので、 文政14年というのは実在しない年号のようです。 文政13年の内に翌年の正月の日付を付して造ったところ年末に改元されたので、 実在しない年号になってしまったということなのでしょうか。 それとも改元告知が国土の隅々にまで伝わるのに時間がかかったということなのでしょうか。
愛宕社分岐
石祠の先にある僅かな高みを越えていきます。 馬の背のような浅い鞍部を過ぎて軽く登り返していくと、石祠から2分ほどの所に道標が立っていて、 右手へ降っていく横木の階段は「七沢温泉へ0.5km約20分」、 今来た道は「見城山頂へ0.5km約20分」となっています。 正面の尾根にも広い道が続いていましたが、道標には何も示されてはいませんでした。 この尾根道は2007年12月に愛宕社の脇から見城山頂へ登った時に歩いているはずで、 その時にはこの道標は見かけなかったように思います。 このまま正面の尾根道を進んでくと愛宕社の脇に降りていけるように思いましたが、 愛宕社への道は廃止されて七沢温泉へのルートに付け替えられたのか、 今でも愛宕社まで歩いていけるのかは分かりませんでした。 当初は愛宕社へ降っていく予定でしたが、道標には何も示されていないので、 右手の横木の階段を七沢温泉へと降っていきました。
横木の階段は3分ほどで終わって、歩きやすくなった尾根道を降っていきます。 愛宕社分岐から5分ほど降った所に、「七沢温泉へ」「見城山頂へ」の道標が立っていました。 そこを過ぎて2分ほど進んでいくと、背丈の極低い笹が生えていましたが、かなり疎らになっていました。 笹はすぐに終わって、植林帯と雑木林を分ける広い尾根道を緩やかに降っていきます。 やがて右下に建物の屋根が幾つか見えるようになってくると、植林帯を降るようになります。 少し左へ曲がっていくと、浅い谷筋の手前で右へと曲がっていきます。
石祠
谷筋に沿って右手へ降っていくと、すぐに左右に通る道に降り立ちました。 愛宕社分岐から12分ほど降ってきた所になります。 正面には道標が立っていて、右手へ降っていく道は「七沢温泉へ」、 今降ってきた道は「見城山頂へ1.0km約40分」となっています。 左手に登っていく道には何も示されてはいませんでした。 斜面を横切るようにして続く道を右手へ進んでいくと、30秒もしない所の右側に石段がありました。 その上には石祠が見えていたので立寄っていきました。 20段ほどの石段を登っていくと、ブロックで囲まれた所に石祠がありました。 側面には「天正九年一月吉日」「谷戸講中」と刻まれていました。 脇にある修理記念碑によると、「観音谷戸」地区にある「天納山」という名前でしょうか。 読み難い部分もあって誤読しているかも知れませんが、参考までに載せておきます。
天納山修理記念
私たちが住んでゐる土地これから永住し続ける土地 人の住む所必ず歴史があるように此の観音谷戸に天納山が存在し 江戸時代天明天皇1776__私達先祖の人達から信奉し今日にいたって居ります 上講中の守神として七月十五日を祈願の日と定め天納講の行事を行って居ります 此の度外部破損甚だしいため講中一同で修理し清浄致したく こゝに施工者の氏名を記し此の地に幸多きこと念願しながら長く後世に伝るものなり   昭和五十六年十二月吉日
天納講修理記念
七沢観音谷戸の地は江戸時代の初期より存在すると云われる天納講其の昔から講中の守神として 七月十五日を祈願の日と定め先祖より今日にいたって居ります 此の度講中一同で修繕致し此に施行者一同の氏名を知るし長く後世に伝えるものなり   昭和五十六年十二月吉日
七沢温泉
石祠から引き返してその先へ進んでいくと、道の両側には背丈の高い草木が生い茂るようになります。 この先もずっと続くのかと思っていると、草木はすぐに終わって、民家の脇に出ました。 向こう側を向いた稲荷社のようなものが建っていて、 「福元稲荷」と書かれた額が架かる朱塗りの鳥居もありました。 横には民家があって、その敷地内にある屋敷稲荷のようでしたが、屋敷稲荷にしては立派な社でした。 コンクリート壁に囲まれた正面の石段を降っていくと、七沢温泉にある舗装路に降り立ちました。 愛宕社分岐から15分ほどで降りて来られました。 これで山道は終わりになります。 正面には道標が立っていて、今降ってきた道は「見城山頂へ1.0km約40分」となっていました。
高旗観音バス停
左手へ降っていくと、すぐの所に高旗観音バス停があります。 厚木バスセンター行きの便がありますが、一日に僅かの本数しかありません。 時間が合えば乗っていけば良いのですが、 この時はバスが来るまでかなり時間があったので、県道64号まで歩いていくことにしました。
  土日曜 9:04 13:04 15:19 19:14
バス停の手前には「丹沢大山国定公園」と題した標識があって、丹沢山系の主な登山道が載っていました。 バス停のすぐ先で、斜めに通る道路に出ます。 脇に「東丹沢七沢温泉郷観光マップ」と題した案内図があって、 ここから県道64号に至るまでの道が載っているので参考にしましょう。
観光マップには、見城山頂からのハイキングコースも載っていました。 愛宕社分岐から愛宕社までのルートも載っているので、歩ける状況のようでした。 なぜ道標にその道を指す板がなかったのかと不思議に思います。 もし廃道になっていないのなら、 愛宕社(または広沢寺温泉)を指す板を道標に追加しておいて欲しいものです。
温泉宿が点在する道路を進んでいきます。 降り坂になってきた道を真っ直ぐ進んでいくと、左手には田んぼが広がっていました。 植付けられた苗が元気に育っているようでした。 白壁の塀の温泉宿まで来ると七沢城跡バス停がありますが、 先ほどのバス停と同様に便は僅かしかありません。 そこで道が二手に分かれていますが、白壁に沿って右手へ進んでいくと、 温泉宿の入口を過ぎた所から左手へ道が分かれていきます。 分岐の少し先には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手の道は「巡礼峠1.2km」、 正面の道は「日向薬師3.9km」、今来た道は「七沢温泉・日向薬師2.9km」となっています。 前方から来て左手へ曲がっていく道は、関東ふれあいの道「巡礼峠のみち」になりますが、 今回はこのまま正面の道を進んでいきます。
右手に田んぼを見ながら進んでいくと、水路を渡った所から右手へ道が分かれていきますが、 そのまま真っ直ぐに進んでいきます。 広い歩道が付けられた道を進んでいくと「東丹沢七沢温泉郷観光マップ」と題した案内板がありますが、 先ほどのとは違って、イラスト風の地図になっていました。 その先の七沢病院前バス停を過ぎていくと、左手に分かれていく路地があります。 角には白い建物の理容店があります。 入口には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の道は「日向薬師」、 今来た道は「七沢温泉・巡礼峠」となっています。 支柱には付近の案内図が取り付けられていて、 目指す七沢病院入口バス停までの道が図示されています。 関東ふれあいの道は正面へ続いていて、このすぐ先に七沢神社があるようですが、 ここを左折してバス停へと向かっていきます。
民家などが建つ道を少し進んでいくと、左右に通る県道64号に出ます。 手前の石垣には「庚申塔」と刻まれた石碑などが幾つかありました。 その脇には「七沢周辺案内図」があって、日向山・鐘ヶ岳・三峰山・大山などへのハイキングコースなどが図示されていました。 モデルコースとして、ここを起点とした「鐘ヶ岳ハイキングコース」と「日向薬師ハイキングコース」も載っていましたが、 図も文字も消えかかっていて、ほとんど読めなくなっていました。
七沢病院入口(ななさわびょういんいりぐち)バス停
県道64号に出ると、左手のすぐ先に七沢病院入口バス停があります。 七沢温泉に降り立った所から18分ほどで到着しました。
本厚木駅(小田急小田原線)まで、[厚33][厚34][厚38]厚木バスセンター行きバスにて21分〜32分、 1時間に1本から2本程度の便があります。
  土日曜 ...12:07 12:27 12:59 13:27 13:52 14:22 15:14 15:47 16:17 16:42 17:02...
伊勢原駅(小田急小田原線)まで、[伊31][伊34]伊勢原駅北口行きバスにて19分〜22分、便は僅かしかありません。
  土日曜 ...13:02 14:22 15:42 17:02...