虎女が遊んだみち
散策:2010年05月下旬
【街角散策】 虎女が遊んだみち
概 要 虎女が遊んだみちは、高麗山から湘南平へと続く山稜の北側の地区にあるウォーキングコースです。 仇討ちで有名な曽我兄弟の兄十郎と恋仲になった虎女(三虎御前)が幼少期を過ごし、 晩年にも尼として閑居した所です。 今回はそんな地区にある寺社や史跡など、虎女の足跡を訪ねて巡ります。
起 点 平塚市 山下バス停
終 点 平塚市 高村団地バス停
ルート 山下バス停…双体道祖神…岩戸分神社…虎女の文塚跡…海音寺…荘厳寺…山下長者屋敷蹟…虎女住庵の蹟…上山下八幡宮…万田貝殻坂貝塚…高村団地バス停
所要時間 1時間50分
歩いて... 街中を歩くばかりのコースですが、岩戸分神社へ向かう坂道には樹木が生い茂っていて、良い雰囲気になっていました。 荘厳寺の鐘楼のある高台からは、平塚の街や丹沢などを見渡せる眺めが広がります。
関連メモ 湘南平
コース紹介
山下(やました)バス停
平塚駅(JR東海道線)の北口から、[平33]松岩寺行きバス、[平35]湘南平行きバス, または,[平36]二宮駅南口行きバスにて10分、1時間に2本から3本程度の便があります。
今回は「湘南ひらつかハイキングコース」として設定されている「虎女が遊んだみち」を歩いていきます。 バスを降りて、車道をその先へと進んでいきます。
130mほど進んで下山下公民館入口交差点まで来ると、右手へ道が二つ分かれています。 信号を右折した先に「虎女の文塚跡」がありますが、 交差点のすぐ先から左手に登っていく坂道の先に「岩戸分神社」があるので、先ずはそちらを訪ねます。 坂道を登り始めると、「ハイキングコースガイド」と題した案内板が山際に設置されていて、 「湘南平霧降り渓流のみち」と「虎女が遊んだみち」が紹介されているので参考にしましょう。 案内板にはコース図だけしかありませんでしたが、 平塚市の広報紙に「虎女」に関する記事があったので、参考までに載せておきます。
平塚に残る虎女伝説
敵討ち事件  曽我物語は、「忠臣蔵」や「伊賀越鍵屋の辻」とともに日本三大敵討ちの一つとして知られています。 曽我兄弟の敵討ち事件は1193年5月28日、富士の裾野で起きました。 源頼朝が狩りのため訪れていたこの地にその有力御家人であり、 曽我兄弟の父の敵である工藤祐経がいました。 そこで兄弟は工藤祐経を討ち、思いを果たします。 しかし、兄・十郎はその場で新田忠常に討たれ、弟・五郎は捕らえられ、翌日、首を斬られました。 そもそもこの事件は曽我兄弟の祖父・伊東祐親が一族の工藤祐経の領地を奪ったことに始まります。 工藤祐経は、家来に伊東祐親とその子・河津三郎(曽我兄弟の父)の暗殺を命じます。 伊豆での狩りの帰り道、二人の命がねらわれます。 しかし、伊東祐親は大事に至らず、河津三郎だけが命を落としました。 父を亡くした兄弟は母が再婚した曽我祐信の元で育てられ、 工藤祐経への敵討ちの心を抱いて生きていきました。 そして、兄・十郎は工藤祐経の情報を集める目的で街道沿いの宿を尋ね歩いたといいます。
寅の年寅の日寅の時  平塚宿の遊女・夜叉王を母に、宮内判官家長を父に持つ虎女は、 「寅の年、寅の日、寅の時」に生まれたので、「三虎御前」と呼ばれ、育てられました。 父の死後、容貌の良さから大磯宿の長者(遊女の長)菊鶴にもらい受けられます。 そして、17歳のとき、工藤祐経の情報を得るため旅を続ける曽我十郎と大磯宿で出会い、恋人同士となりました。
諸国を周り伝わる物語  虎女は、曽我十郎から敵討ちのことを打ち明けられた唯一の女性で、死後の弔いを託されていたといいます。 曽我兄弟の死後、出家し、尼となった虎女は善光寺(現在の長野市)に彼らの骨を納め、諸国を歩きます。 曽我兄弟の敵討ち事件は、虎女や女性宗教者、遊女たちにより語られ、広がっていったとされます。 そして、語るごとに哀れさが深まり、民衆に受け入れられていきます。 やがて、「語り」は文学的な脚色をつけられながら醸成され、「物語」となり、現代へと伝わってきました。 曽我兄弟と虎女の墓は箱根をはじめ、大分や鹿児島にまで分布しています。 また、虎女にまつわる史跡は東北から九州にまで残っています。 これだけの広がりを見せたところから、曽我兄弟の敵討ち事件が記憶に残るほど衝撃的であったこと、 多くの人々に共感をもたれた語りであったことをうかがい知ることができます。
 (出典:広報ひらつか第777号)
「JAグループ神奈川 教育センター」を指す看板の所まで来ると、車道から離れて森の中へ入っていきます。 竹林があったり、青葉が繁る道を曲がりながら登っていきます。 この坂道は、高麗山・浅間山を経て湘南平へと続く山稜の北側に位置していて、 しっとりとした雰囲気で、街中にあるとは思えない感じの良い道になっていました。 道端にあった看板によると、この坂道は「大坂」というようでした。
みんなの大坂 きれいにしよう
切通のような所を過ぎた先を道なりに左へ曲がっていくと、正面が明るくなってきます。 あそこまで行けば森を抜けるようだと思いながら坂道を真っ直ぐ登っていくと、 登り口から6分ほどで、高台にある畑地に出ました。 カーン・カーンとよく響く音が聞こえてきたので何だろうと思っていると、 高台に出たすぐ左手の上にある広場に人が大勢集まって、ゲートボールのようなスポーツをしていました。 ゲートボールは整地されたグラウンドで行うものと思っていましたが、 ここは短い草が植えられて、ゴルフ場に近い雰囲気になっていました。 ゲートボールと似てはいても別のスポーツなのかも知れません。
双体道祖神
緩やかになった道を進んでいくと、正面に「JAグループ神奈川 教育センター」がありました。 その前を左折して、畑地と民家の間に続く道を緩やかに降っていきます。 右へ曲がっていく所まで来ると、細めの道が左手に分かれていきます。 その角には双体道祖神や石祠や三猿を刻んだ石碑などが立っていました。 双体道祖神は二体とも合掌した僧の姿をしていて、江戸時代前期のもののようです。 道標類は見かけませんでしたが、先ほどの案内板によると、この左手の先に岩戸分神社があるようなので、 左折して坂道を登っていきました。
双体道祖神のある分岐の右手の先にあるT字路を曲がっていくと、浅間山ハイキングコースを経て、 高麗山から浅間山へ続く尾根に登ることが出来ます。 (「湘南平」を参照)
双体道祖神
平塚市には約220基の道祖神石塔がありますが、そのなかでもっとも古いもので、 元禄8年(1695)の年号が彫られています。 双体というのは二体の像が並んでいることで、 この道祖神のような僧形合掌(そうぎょうがっしょう)像は江戸時代前期の特徴といえます。 江戸時代中期・後期になると像に男女の区別が生まれるとともに、 文字で道祖神と彫ったものが次第に増えていきます。 双体道祖神像は、関東地方から新潟県・長野県・山梨県・静岡県東部に見られるだけで、 しかも平塚市から秦野市・中井町にかけて江戸時代前期のものが集中しています。 道祖神はエセノカミとかサイノカミとも呼ばれ、集落の境や辻にまつられ、 疫病や悪神が進入するのを防ぐと考えられています。
 (平塚市観光協会)
岩戸分神社
坂道を登って民家を過ぎていくと、正面にこんもりとした森が現われます。 道はその森の右側に続いていますが、正面の短い石段の先に鳥居が立っていて、 袂には「岩戸分神社」と刻まれた石柱もありました。 鳥居をくぐってその先の短い石段を登っていくと、正面に岩戸分神社の社殿がありました。 この高根地区の鎮守で、戦国時代に小田原城主になった北条早雲が高麗山に砦を築いた跡とのことです。 右手には鐘楼があって、小振りの釣鐘が下がっていました。 社殿の周囲には石祠や「地神社」や「大日如来」と刻まれた石碑などが幾つかありました。
岩戸分神社の由緒その他について
何年頃社殿を建立して手力男命を祭神としたかは明でありませんが、 神佛混合時代に別當霊挌山龍福院の支配に属し、祭神を不動明王に祭り替えたることは、 鐘の記事に依って推測できる。 其の後、神佛分離に依り元の祭神に復したと言われている。
名 称 岩戸分神社
祭 神 手力男命
社 殿 建立年月日
寛永9年6月社殿改造、嘉永4年修繕、明治6年7月30日村社に列せられる
社殿坪数 奥宮 間口二間・奥行一間半、 拝殿 間口三間・奥行二間
境内坪数 110坪
神社内鐘楼にかけたる鐘は正徳3年9月鋳造、昭和18年戦争の為供出(現在のは代替品)
北條早雲がこの殿上に砦を築き、その守護神として永正8年(1511)建立される。 現在の社殿は大正12年の関東大震災で全壊し翌々年再建・現在に至るが、 屋根は平成14年に銅板に葺き替える。
虎女の文塚跡
下山下公民館入口交差点まで引き返してきて、車道から分かれて緩やかに降っていくと、 1分もしない所の右手に「虎女の文塚跡」の解説板が立っていました。 虎女が亡き曽我十郎への思いを断ち切ろうと、送られた文(手紙)を焼いた場所とのことです。 右手の民家の脇に植込みされた一角があって、 その奥に「白藤明神」の扁額が掲げられた小祠がありました。 「虎女」との関連を記したものは見かけませんでしたが、文塚の跡に建てられた祠のようです。
虎女の文塚跡
建久4年(1193)5月28日、富士の裾野で父の敵、工藤祐経を討った曽我兄弟の兄、十郎祐成は討たれ、 弟五郎時致は捕らわれてのち、鎌倉で殺されてしまった。 十郎の愛人虎女は兄弟の追善のため諸国を巡歴し、故郷のここ山下に帰って来て、 亡き十郎の追慕の念を断ち切ろうと生前送られて来た文の数々をこの場所で焼いたと伝えられている。 そのため、「灰塚」・「文塚」とも呼ばれている。
 (平塚市観光協会)
海音寺
フードセンターや墓地などを過ぎていくと、カーブミラーの設置された十字路があります。 そこを左折して2分ほど進んでいくと、僅かに右へ曲がっていく所に海音寺がありました。 本堂の正面には自然木を削った扁額「西光山海音寺」が掲げられていました。 本堂の右側には庫裡と思われる建物があり、裏手は空地のようになっていいました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでしたが、 この次に訪ねる荘厳寺の33世・慶珍が開山した天台宗のお寺とのことです。 「虎女」との関連については分かりませんでした。
海音寺を後にしてその先へ2分ほど進んでいくと、カーブミラーの設置された分岐があります。 手前には「NTT山下支右6/左4/10」の電柱が立っていて、 先の民家のブロック塀に袂には「平塚市消防署消化器」と書かれた赤い消化器入れが設置されています。 ここを左折していくと、すぐに畑地の右側に細い道が分かれていきますが、 畑地の左側に続く広めの方の道を進んでいきます。
登り坂になってくる道を進んでいくと、先ほどの車道に出ます。 右折した所にある平塚駅方面の上山下バス停を過ぎていくと、 進行方向への上山下バス停の脇に「劔光山寶蔵院荘厳寺」「仁寿三年七月慈覚大師開山」と刻まれた石柱が立っています。 その脇から続く砂利道に入っていきます。 右へ曲がっていく角まで行くと、赤い帽子と前掛けをした六地蔵が出迎えてくれます。
墓地を過ぎていくと、竹塀が続く趣のある道になってきます。 真新しい納骨堂のようなものや太鼓橋のようなものを左手に見ながら真っ直ぐ進んでいくと、 正面に立派な山門が見えてきます。
荘厳寺
山門を過ぎていくと、正面に荘厳寺の本堂がありました。 右側には庫裡と思われる建物、左側には客殿がありました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでしたが、 天台宗のお寺で、本尊の地蔵は虎女の持念仏と伝えられているようです。 本堂の手前の左側には小さな池があって、脇には「先祖代々之霊位」と刻まれた石碑がありました。 その横には小振りの五重の塔があって、中央に手摺が設置された坂道が続いていました。 上には何があるのだろうと思って登ってみました。
天台の教えの庭にシャガの花 正彦 合掌
程なくして階段へ変わる道を登っていくと鐘楼があって、大きな釣鐘が下がっていました。 左側が開けていて、平塚の街並みや丹沢山塊を見渡せる眺めが広がっていました。 条件が良いと素晴しい眺めなのでしょうが、この時には雲に隠れていて、 丹沢はボンヤリとしか見えませんでした。
山下長者屋敷蹟
本堂の前まで引き返してきて、庫裡の脇にある坂道を降っていくと、先ほどの車道に降り立ちました。 正面には理容店がありました。 車道を左手へ進んでいきます。 集合住宅を過ぎていくと、平塚市消防団第七分団の車庫の手前から右手に分かれていく道があります。 その道へ入って真っ直ぐ進んでいくと、正面にこんもりとした小さな森が現われます。 正面の垣根の中には「山下長者屋敷蹟」の解説板が立っていました。 このあたりは山下長者の屋敷跡のようで、「虎女」はここで生まれたようです。 道は森を右手から巻くようにして曲がっていきます。 左手には山門のようなものがありましたが、民家への入口のようでした。
山下長者屋敷蹟
このあたり一帯は、中世土豪の拠点である遺構のあるところである。 東西110m、南北110mの屋敷址と空壕・土塁を残している。 高麗山につづく小山から緩やかに花水川へのびた微高段丘上に位置するこの単郭方形の遺構は、 鎌倉時代の初めごろ造られた初期の館形式に属するものと考えられる。 この遺構は山下長者屋敷といわれ、多くの伝説を秘めている。 その一つとして富士裾野で父の仇工藤裕経を討った、曽我兄弟の兄十郎祐成を助けた虎御前は、 この館で誕生したといわれている。
 (平塚市観光協会)
虎女住庵の蹟
屋敷跡を右手から巻くようにして進んでいくと、左右に通る道に出ます。 その正面にはお地蔵さんが納められた小祠がありました。 その裏手には「虎女住庵の蹟」と刻まれた石碑と石仏などが並んでいました。 曽我十郎の悲報を受けた「虎女」は尼となってここに閑居したのだそうです。 右手にはお堂がありました。 前に立つ標柱によると「花水山東光寺」と云って、相模新西国第二十二番札所とのことですが、 謂われなどを記したものは見かけませんでした。 「十一面観世音菩薩開帳」と書かれた標柱もあったので、このお寺の本尊でしょうか。 東光寺の前には上山下自治会館もありました。
虎女住庵の跡
建久4年(1193)5月28日、富士の裾野において父の仇、工藤裕経を討ち本懐を遂げ討死した曽我十郎祐成と 捕えられ刑死した弟、五郎時致の悲報を受けた十郎の愛妾、虎女は出家の意志を固め、 黒髪を剃って尼となりここに閑居したと伝えられている。 曽我物語には高麗寺の奥に籠ると書かれている。 この地も高麗寺山下の地名となっているので、曽我物語にいうところもこの地ではないかと推定されている。 虎女は53歳で生涯を閉じたと伝えられている。
 (平塚市観光協会)
上山下八幡宮 (標高8.813m)
東光寺の先の道路向かいには上山下八幡宮があります。 右手には「八幡宮」の扁額が掛る石製の鳥居が立っています。 鳥居をくぐって境内へ入っていくと、左手には鐘楼が、右手には祠と山車庫が並んでいました。 祠の中を覗ってみると白木の小祠が納められていましたが、由緒書きにある住吉社でしょうか。 境内の奥の方に社殿がありました。 その前には「村社八幡神社」の扁額が掛り、太い注連縄が張られていました。 平塚市の設置する水準点もあって、標高は8.813mとのことです。 境内は「上山下なかよし広場」にもなっていて、裏手にはブランコ・滑り台・雲梯などがありました。
八幡宮由緒
応神天皇(誉田別命)を祭神とする上山下八幡宮は、弘安年間(1276〜87)に高麗神社より勧請されたと伝えられ、 爾来、700有余年、この地に鎮座している村社である。 はじめ武神として崇められた八幡神も、やがて村の鎮守として農業神的な性格と、 村人の除災招福を願う神として、その神威は高まっていた。 応永2年(1390)には、住吉社を摂社として祭り、村の鎮護とともに、 八幡神も家内安全から厄除、海運、また安産の神としてますます村人の篤い信仰を集めるようになった。 天正19年(1591)の社領一石の御朱印に続き、江戸期慶安2年(1648)にも一石八斗の加増があり、 由緒ある社として境内も整い、鋳造された鐘は世の平和と村人の幸せを願い、その音色を近隣に響かせていた。 しかし、その鐘も昭和16年、第二次大戦により国に供出し、その音が途絶えていたが、 平成5年、地域の繁栄を祈念し、大鳥居、鐘楼及び梵鐘が完成し、今日に至っている。
祭事 春の小祭:2月吉日、 例大祭:4月第2日曜日、 秋の小祭:11月吉日
(「海運」は「開運」の誤記かとも思われますが、そのまま載せておきます)
平塚都市計画下水道水準点 公共No73
この測量標を移転き損すると測量法により罰せられます。
 (平塚市)
上山下八幡宮の左側に続く道を進んでいきます。 ヘアサロンの前のT字路を直進していくと、少しズレた十字路があります。 そこを左折して畑地の脇の生け垣沿いに進んでいきます。 生け垣が終わって畑地と住宅の間に続く道を進んでいくと、 水路のような感じの高根川に短い橋が架かっています。 川の周りには金網柵が設置されていて、降りていけないようになっています。 橋を渡って向こう側の道に降りて左手へと進んでいきます。
あぶないからはいってはいけません
 (平塚市)
きけん
自転車はおりて
川沿いに進んで道なりに右へ曲がっていくとT字路があります。 右の道のすぐ先は更に三方向に分かれていますが、左手へと曲がっていきます。 民家が建ち並ぶ道を進んで僅かに登り坂になってくると左右に通る道に出ます。 そこを右折していくと万田交差点があります。
万田貝殻坂貝塚
万田交差点を直進していきます。 左右に分かれていく路地を見送っていくと、少し右へ曲がって登り坂になってきます。 左手に登っていく細い坂道を分けていくと、左側に広い歩道が続く二車線道路になってきます。 左手には市営万田貝塚住宅の大きな建物が並んでいます。 緑地に沿って少し進んでいくと、左手の土留め塀には「貝殻坂遺跡」と刻まれていて、 脇の花壇の中に「万田貝殻坂貝塚」の解説板が立っていました。
万田貝殻坂貝塚
この周辺は、明治期には崖面に貝殻が露出することから「貝殻坂」と呼ばれていました。 大正14年(1925)の道路工事中に貝塚が発見され、この時に行われた調査で、 層を異にして出土する土器にみられる特徴の差が、年代差を示すものであることが認識されました。 この成果によって「万田貝殻坂貝塚」は今では考古学的手法の常識となっている 層位学(地層の積み重なりや年代などを調べる学問)による土器の編年研究を、 全国で最も早く実証した遺跡として知られるようになりました。 その後、再び貝層の範囲が不明確になり「幻の貝塚」といわれるようになりましたが、 平成12年(2000)に道路下1.5〜2mの場所から貝層が見つかりました。 さらに平成17年(2005)の調査で、 ダンベイキサゴやチョウセンハマグリを主体とする六か所の貝層が確認されました。 貝層の周辺では縄文時代前期の黒浜式土器とともに、東海地方や中部地方の土器が発見されており、 当時これらの地方と関わりがあったことを知ることができます。
 (平塚市教育委員会)
貝塚を過ぎていくと、歩道が二手に分かれていて、 道路脇には万田貝殻坂公園と万田貝塚の里公園が続くようになります。 信号機のある交差点まで来ると、右手へ道がふたつ分かれていきます。 角にはクリーニング店や理容店が建っています。 左手には集合住宅への道が分かれていきますが、ここを右手へと進んでいきます。 (ふたつある道の手前の方へ入っていきます)
最初にあった「ハイキングコースガイド」の案内板では、 この先の十字路の左手の方に「木塚」があるようなので探してみました。 ふたつある道の左側の方も歩いてみましたが、結局見つけることは出来ませんでした。
十字路を直進して、左右に集合住宅が建ち並ぶ道を進んでいくと、信号機のある交差点に出ます。 左前方には勝原小学校が見えていますが、交差点を右折していきます。 サツキが綺麗な花を咲かせている歩道を進んでいくと、信号機のある交差点があります。
高村団地(たかむらだんち)バス停
横断歩道を渡って前方へ進んでいくと、道路から入った所に高村団地バス停があります。
平塚駅(JR東海道線)まで、[平25][平26][平29]平塚駅北口行きバスにて15分〜20分、1時間に3本から5本程度の便があります。 伊勢原駅(小田急小田原線)まで、[伊18]伊勢原駅南口行きバスにて34分、1時間に1本から2本程度の便があります。