箱根宿
散策:2010年04月中旬
【街角散策】 箱根宿
概 要 箱根宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋から10番目の宿場になります。 他の宿場から17年遅れて設置され、本陣が6軒ある大きな宿場で、 天下の嶮と云われた箱根八里を越えていく街道の中ほどの芦ノ湖畔にあります。 今回は東側四里の、三枚橋から間の宿である畑宿を経て箱根宿へ至る石畳が残る道を登っていきます。
起 点 箱根町 三枚橋バス停
終 点 箱根町 関所跡バス停
ルート 三枚橋バス停…白山神社…早雲寺…正眼寺…旧箱根街道一里塚…旧道石畳…福寿院…観音坂…葛原坂…鎮雲寺…女転し坂…割石坂…大沢川…大澤坂…畑宿本陣跡…駒形神社…畑宿御休処…畑宿一里塚…西海子坂…橿木坂…見晴橋…山根橋…甘酒橋…猿滑坂…追込坂…甘酒園地…箱根旧街道資料館…甘酒茶屋…於玉坂…白水坂…天ヶ石坂…権現坂…杉並木…箱根旧街道一里塚…杉並木…箱根関所…関所跡バス停
所要時間 5時間10分
歩いて... 旧街道には、途切れ途切れながらも、往時の面影を残す石畳の道が続いていました。 石畳は足首や膝にかなり負荷がかかり、芦ノ湖を目の前にして権現坂を降る頃になるとガクガクになってきました。 箱根宿の中も訪ねる予定でしたが、その入口にあたる箱根関所を過ぎた所で散策を終えることにしました。
関連メモ 鷹巣山, 白銀林道, 屏風山, 小田原宿
コース紹介
三枚橋(さんまいばし)バス停
小田原駅(JR東海道線、小田急小田原線)から、 箱根町行きバス、元箱根行きバス、桃源台行きバス、湖尻行きバス、仙石案内所行きバス、 上畑宿行きバス、関所跡行きバス,または,箱根園行きバスにて13分、便は頻繁にあります。
バス停のすぐ脇を流れる早川に架かる三枚橋を渡っていきます。
バス停から数100mの所に箱根登山鉄道の箱根湯本駅があるので、 箱根湯本駅まで電車で来て、ここまで歩いてきても、程なくして着きます。
白山神社
少し左へS字形に曲がっていく旧街道(県道732号)を進んでいきます。 下宿バス停を過ぎていくと登り坂になってきます。 箱根湯本郵便局や湯本幼児学園や湯本小学校を過ぎていくと、左手にこんもりとした森が見えてきます。 早雲公園前バス停の所まで来ると、玉垣の間から参道があります。 石段の先に立つ鳥居をくぐって更に石段を登っていくと、白山神社がありました。 正面には本殿と拝殿になった社殿がありました。 本殿の屋根には3本の鰹木が乗り内削ぎの千木が聳えていました。 神社の由緒書きは見かけませんでしたが、社殿の前に三柱の祭神の名前が掲げられていました。
白山神社の御祭神は左記三柱の神様です。
菊理媛命 くくりひめのみこと
伊弉諾尊 いざなぎのみこと
伊弉冉尊 いざなみのみこと
記念碑
白山神社御神殿と玉垣建設の由来
当神社の御神体はほこらが早雲寺境内にあったものを、 嘉永年間今から凡そ百十余年前、村の氏子一同の発起となりこの地に建立奉祀したものであります。 昭和21年11月2日本殿の竣工に伴って御神霊は本社である石川軒鶴木町の白山比盗_社より、 当時氏子会の代表である副会長対木徳太郎、理事下田貞蔵、菊川常次郎、関係区長三井惣太郎、 会員田中治兵衛、小林智恵治の以上六名が奉載して、氏子崇敬者により御遷宮の神儀を執り行いたるものなり。 たまたま箱根新道の建設に当って神殿の境内を一部使用するにあたり、 これを基金として更に氏子有志の寄進とにより玉垣を建設し、昭和38年2月竣工するに至った次第であります。
 (白山神社氏子会)
社殿の左横には竹柵で囲まれた一角があり、水が湧き出していました。 アヤメや苔生した石もあって、しっとりとした雰囲気になっていました。 脇には「昔より境内に湧き出る白山ご神水お社」と刻まれた石柱と小祠がありました。 社殿の右手には社務所があり、手前の左手には白山稲荷社や鳥居もありました。
白山神社のすぐ先の右手に「金湯山」の扁額が掛る立派な山門がありますが、 手前には木柵が設置されていて通行出来ません。 「早雲寺入口」の小さな立て札に従って、横の駐車場への道を通って境内に入っていきます。 山門の向こう側は広くなっていて、その先には道路が横切っています。
町指定天然記念物 ヒメハルゼミとその棲息地
このヒメハルゼミは東洋系の昆虫で、その分布の中心は台湾である。 雄は第四腹節の両側に突起があり、雌は長い産卵管があるので、他のセミと容易に区別ができる。 その分布の北限として新潟県能生、茨城県片庭、千葉県八幡山の三ヶ所が国指定の天然記念物になっている。 神奈川県では、この附近に発見さえたのみである。 このセミは7月中に出現し、椎の梢に群集し、特異の合奏をするので有名である。 即ち一匹が「ジリジリ」と鳴くとたちまち他のセミがこれに合わせて、あたかもモーターの唸るがごとき音になり、 数分にして合奏がピタリと止み、もとの静けさにもどる。 そして再び十数分後に音頭取りが鳴き合奏がはじまる。 当地においては、このセミのことを勤行ゼミとも呼んでいる。 この付近一帯は名刹早雲寺境内であって、古来「不入」の地として自然景観が保護されてきたのであり、 貴重な天然記念物と共に永く保護しなければならない。
 (箱根町教育委員会)
早雲寺
「臨済宗大徳寺派別格地」の表札が掛る門から入っていくと、正面に本堂があります。 本堂の右手には庫裡と思われる建物がありました。 境内には趣きのある茅葺き屋根の梵鐘や、見事に根を張った大木などもありました。
本堂概要
本尊 釈迦三尊仏(室町時代)
開山 以天宗清(大徳寺83世)
開基 北條氏綱
創建 大永元年(1521)
寛永4年(1627)再建。現本堂は寛政年間建立。昭和30年代の改修まで茅葺き寄棟造。
内部拝観謝絶。
県指定重要文化財 梵鐘
元徳2年(1330)鋳造、豊太閤、天正18年小田原攻めの時、石垣山一夜城で使用したものです。
早雲寺
早雲寺は、大永元年(1521)北條早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、 以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。l この寺には、北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており、 北條文化を語るのに欠く事のできない寺です。
 (箱根町)
本堂の左から裏手にかけては墓地になっていて、 北條五代の墓や室町時代の連歌師の宗祇法師の墓や、茅葺き屋根の開山堂などがありました。
史跡 北條五代の墓
天正18年(1590)4月5日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。 6月下旬石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、 塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。 7月5日北條氏が降伏し、同11日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正19年11月4日逝去した。 なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内狭山に約一万石を許され(狭山北條氏)、 鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、 その家系は江戸時代の通じて存続している。 早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、 その復興に北條両家の外護は欠かせないものであった。 こうして、北條五代の墓は寛文12年(1672)8月15日狭山北條家五代当主氏治によって、 早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したのである。 小田原北條氏滅亡から82年後のことである。
北條早雲(1432〜1519)、 北條氏綱(1486〜1541)、 北條氏康(1515〜1571)、
北條氏政(1538〜1590)、 北條氏直(1562〜1591)
正眼寺
早雲寺から戻って箱根旧街道を進んでいきます。 すぐに両脇に立派な櫓のある湯宿があります。 豊臣秀吉が小田原城攻めの前夜に開いた茶の湯に一ひらの花びらが舞い落ちたのを詠んだ句に 因んだ名前が付けられています。
 風の舞 我懐に 花の紋 (風も花も自分の味方になってくれている)
湯宿を過ぎて4分ほど進んでいくと、左手に登っていく石段があります。 石段の先には「曾我兄弟遺跡」「臨済宗大徳寺派正眼禅寺」と刻まれた門柱があります。 そこから境内に入っていくと、庫裡と思われる建物の先に正眼寺の本堂があります。 手前には赤い前掛けをした大きな仏像もありました。
正眼寺の史跡・文化財案内
正眼寺は、鎌倉時代、箱根山に広まっていった地蔵信仰の中で生まれた寺です。 創建年代は定かではありませんが、この寺の前身である湯本地蔵堂の別当寺として鎌倉前期には存在し、 その頃は勝源寺と呼ばれていました。 戦国時代には一時衰微しましたが、江戸時代になりますと、江戸屈指の材木問屋冬木やの援助により諸堂が再建され、 また、小田原城主大久保氏より境内地・地蔵田が安堵され、復興されました。 再興開基には早雲寺17世菊径宗存を招請し、この時より当寺は臨済宗大徳寺派に属す禅寺となり、今日に至っています。
曽我堂 曽我仇討で有名な曽我五郎・十郎兄弟の菩薩供養のため建立された堂宇、堂内には、 俗称曽我五郎地蔵菩薩立像(県重文)、同十郎地蔵菩薩立像(町重文)が安置されています。
曽我五郎の槍突石 曽我五郎が病回復の証に、槍で突いたと言い伝えの残る石で、 江戸時代までは、箱根旧街道筋の槍突沢にありました。
曽我兄弟の供養塔 江戸前期、冬木屋上田家が建立した供養塔。
石造大地蔵 小田原城主稲葉氏の菩提寺。長興山紹太寺にあったもの、 慶応4年(1868)消失した当寺の地蔵菩薩像の身代わりとして招聘されたものです。
勝源寺燈籠 室町時代応永4年(1397)の在銘があるこの地方最古の石燈籠。
芭蕉翁句碑 土地の俳人が建立した「山路来て なにやらゆかし 薫草」の追悼句碑。
冬木屋上田家の墓 江戸深川の材木問屋で、尾形光琳・乾山とも親交のあった上田家一族の墓。当寺の再興開基です。
金箔彩色襖絵 本堂を飾る襖絵、唐美人図(四面)、四季草花図(四面)。いずれも江戸時代狩野派の絵師の手になるものです。
正眼寺
この寺は曽我兄弟の伝説を伝える古刹です。 この寺の創建は明らかではありませんが、鎌倉時代、箱根地方に広がった地蔵信仰の中から 生まれた寺であることは確かなようです。 寺には地蔵信仰にゆかりのある寺宝がいくつか残されています。
 (箱根町)
旧街道に降りてその先へと坂道を登っていきます。 曽我堂上バス停を過ぎていくと、道端に小さな石祠があり、 その脇にこの付近の道などが載っている「湯本茶屋案内図」(*)があります。 この先にある旧道石畳の周辺だけを切り取って載せておきますので参考にしてください。 傾斜が増してきた坂道を登っていくと、左手に双体の道祖神が佇んでいました。
この先のルート
*この案内図では、旧道石畳は福寿院を掠めて再び箱根旧街道へ出るようになっていますが、 この先のホテル南風荘への分岐点にある看板では、 北側の須雲川へ降っていく道が「旧道入口」となっていました。 川に架かる片倉橋や鮎見橋には大名行列の切り絵のようなものも取り付けられていたので、 本来の旧街道は一旦須雲川へ降るルートだったように思われます。 そのルートを赤点で示しておきました。 福寿院から降っていく階段はかなり傾斜があるので旧街道ではないように思えましたが、 今回はそのルート(緑点で表示)を歩きました。
仲睦まじい道祖神
江戸時代、この辺りは「湯本茶屋村」といい、その村境の道祖神です。 男女の神が頬を寄せ手を取り合い、その睦まじきことを示すことによって、 悪霊が村に入ってこないよう念じ立てたものです。
 (湯本茶屋自治会)
旧箱根街道一里塚
道祖神を過ぎて坂道を更に登っていくと、右手に「旧箱根街道一里塚跡の碑」がありました。 脇には「白川洗石生家跡」の解説板も設置されていました。
一里塚
江戸幕府が慶長9年(1604)大久保長安に命じ、 江戸−京都間に一里ごとに旅人の目印として街道の両側に盛土をし、 その上に通常榎をうえたのである。 この塚は日本橋より22番目にある。
一里(六十間=一町・三十六町=一里・約三九五二米)
 (箱根町教育委員会)
白川洗石生家跡
江戸末期に湯本茶屋へ移り住んでいた、浜松市出身の指物師白川三代吉は、 同じ湯本茶屋の勝俣儀兵衛の姉アキと結婚しました。 そして、明治4年(1871)8月7日には長男の鶴之助(後に洗石と号する)が誕生しました。 鶴之助は、明治17年(1884)湯本小学校卒業と同時に父について、 指物の指導を受けながら寄木細工の技法を学びました。 作品の制作中、父が細かい線や曲線に苦労していたのを見て、 洗石は象嵌細工の技法にミシンを応用することを考え、 繊細な作品を作ることに成功し、新しい木像嵌技法の普及に務めました。
 (箱根町)
小田原湯本カントリークラブへの道を左手に見送っていくと降り坂になってきます。 台の茶屋バス停を過ぎて降っていくと、右手に分かれていく坂道があります。 角には道標が立っていて、右手の坂道は「箱根観音5分」、今来た道は「正眼寺10分」、 ここは「石だたみ入口」となっていました。 ここが先ほどの湯本茶屋案内図に載っていた旧道石畳への入口になるようです。 右手の坂道を降っていくと、すぐの所に「 箱根旧街道入口」の解説板が立っていました。 このまま県道を進んでいった方が歩きやすそうですが、右手の坂道を降っていきました。
国指定史跡 箱根旧街道入口
江戸幕府は、延宝8年(1680)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をした。 この先から約255mは、その面影を残しており、国の史跡に指定されている。 この道は県道に通じ、元箱根方面への近道となる。
 (箱根町教育委員会)
「元箱根方面への近道」となっています。手元の地図を見ると確かに距離は近いようですが、 石畳を登り降りすることを考えると、所要時間も短いのかどうかは分かりません。
旧道石畳
坂道を降っていくと、すぐに山際に続く石畳の道になってきます。 最初のうちは鉄製の手摺が設置されていますが、途中で途切れています。 2分ほど降っていくと、小さな沢に猿橋が架かっています。 上に架かっているのは、宿屋の建物をつなぐ渡り廊下のようでした。 橋を渡って、その先に続く石畳の道を登っていきます。
福寿院
石畳の坂道を2分ほど登って、先ほど分かれてきた県道が正面に見えてくると、 右手に分かれていく路地があります。 角には「曹洞宗 大慈悲山 箱根観音 福寿院」の立て看板が出ていました。 先ほどの道標にあった箱根観音のようなので、立寄っていくことにしました。 コンクリート塀と建物の間の狭い路地を進んでいくと、右手に福寿院がありました。 入口の脇には祠があって、中に大理白光地蔵尊が安置されていました。
大慈悲山 箱根観音 福寿院
◎観音澤地名の由来と観音霊泉
古老の口伝に「徳川の初期、観音霊泉を発見し、聖観世音を安置奉安して一生を終わる。 世に観音沢の上人と敬慕せらる」と。 以来今日まで多くの旅行者がこの観音霊泉にて病気を癒し、身魂を洗い清むる。 箱根唯一の名湯「町名美人の湯」と宣伝されている。
◎箱根観音秘佛の由来と福寿院
島倉禅師不可思議の霊感奇瑞を得て、此由緒ある観音沢上人の聖地こそ、 自分自らの五十年来悲願の観音聖堂御建立の地、護法終焉の地と決意し、 三国伝来の秘佛中国名僧葛曇成師が中国の武定2年9月(544)一刀禮三鏤刻せし、 箱根観音(開運出世慈母観世音菩薩)の御奉安を誓願致し、 昭和51年10月、茲に宗教法人大慈悲山福寿院を正式開山草創せり。 その本堂施無畏殿にて日夜報恩の勤行を修し、御開山(御師匠)、御開基(御両親)と、 そして天領関所箱根路に於ける観音澤に無幸に消えた、無縁の諸精霊を虔んで御供養申し上げ、 日々光明の円満生活成就を熱祈することが福寿院建立開創の本音である。
 (大慈悲山 箱根観音 福寿院)
大理白光地蔵尊
当山六道能化子育延命地蔵大菩薩の御分身であります。 御本体は台湾産無垢の白光大理石にて、台湾の名工が謹刻し当山山主が御開眼奉祠された尊像であります。 地蔵尊は六道の一切衆生救済の御誓願であります。
六道能化の地蔵尊
二つや三つや 四つ五つ  十にもたらぬ 嬰子が  父こひし 母こひしと  泣く悲しさの 哀れさよ  賽の河原に ゆるぎ出づ  忍辱お慈悲の 地蔵尊  手足を血汐に 染めながら  いまだ歩まぬ 稚子を  み衣の裳に かき入れて  御肌に抱え なでさすり  大悲の乳房を 興えつつ  吾をめいどの 父母と  思うて明暮 来れよと  憐み給ふぞ 有難き  袈裟み衣に 御涙  つけ給ふぞ 地蔵尊  南無や大悲の 地蔵尊
福寿院を見送って石段を登って県道に出た所にも、 入口にあったのと同様の「箱根旧街道入口」の解説板が立っていたので、 現状の「旧街道」は県道を進んでいくようですが、福寿院の先へ降っていく石段が気になったので、 今回は県道には戻らずに、石段を降っていきました。 清瀧浄行観世音菩薩や「また木なで観音」などを過ぎて石段を降っていきます。 右に曲がって塀沿いに進み突き当たりを道なりに左へ曲がっていくと、 「入信門」の扁額が掛る山門があります。 そこから道路に出て左手へ進んでいくと、須雲川鮎見橋が架かっています。 欄干には、大名行列を描いたと思われる切り絵のようなものが取り付けられていました。 ここが元々の東海道だったということなのでしょうか。
観音坂
鮎見橋を渡って川沿いに左手へ進んでいくと片倉橋が架かっています。 この橋にも先ほどと同様の大名行列の切り絵が取り付けられていました。 橋を渡って傾斜が増してきた坂道を登っていきます。 「観音坂」というのでしょうか、脹脛が痛くなるほどの傾斜がありました。 支沢に架かる槍突橋を渡って更に坂道を登っていくと、先ほど分かれてきた県道に出ました。 左手には「観音坂 登り二町許」と刻まれた石柱や解説板が立っていました。 右手には奥湯本入口バス停があり、趣のある待合所もありました。 来た道の途中にあったホテル南風荘への案内板には「旧道入口」と書かれていて、今登ってきた坂道を指していました。 県道は坂道になっておらず緩やかので、「観音坂」は今登って来た道を指しているように思われます。
観音坂
奥湯本にある坂で、幕末に編さんされた「新編相模国風土記稿」に 「海道(東海道)の西方にあり、登り二町(約二百八十米)ばかりこの辺りを字古堂と唱ふ」とあり、 坂の名がついたと記されています。
 (箱根町)
葛原坂
県道を進み始めると、道端に「箱根湯本 早雲通り温泉郷」の案内板が設置されていました。 それによると、畑宿寄木会館まで3.5km、甘茶茶屋まで6.7km、元箱根まで9.5kmとなっていました。 目的地の箱根宿まではまだかなりの距離があるようでした。 僅かな坂を越えていくと、正面には箱根の山が見えるようになってきました。 県道を緩やかに降っていくと、葛原沢に架かる葛原橋を過ぎていきます。 再び登り坂になってくると、道端に「葛原坂」の解説板が立っていました。 往時はどうだったのか分かりませんが、今では緩やかな坂になっていて、歩くのに苦労することはありません。
葛原坂
「新編相模国風土記稿」には、 「海道(東海道)中、須雲川村境にあり、登り一町ばかり」としか書かれていません。 地名が葛原で、この辺りは今もクズの葉が生い茂っています。
 (箱根町)
堀木沢に架かる堀木橋を過ぎていきます。 僅かな坂を越えて降っていくと正面が開けてきます。 須雲川インター交差点を直進し、二之塔沢に架かる二の戸橋を過ぎていくと、 道端に「初花ノ瀑」と題した石碑がありました。 この付近に滝があるようですが、須雲川の水音は聞こえるものの、それらしい滝は見かけませんでした。 手元の案内書によると、川向こうの山の中にあるようです。 石碑を過ぎて2分ほど進んでいくと、金網で囲まれた一角があって、 「須雲川」の解説板が立っていました。
初花ノ瀑
夫勝五郎ノ仇討本懐祈願ノ為メ初花ガ垢離ヲ取ツタ滝トシテ傳ヘラル
 (箱根振興會)
須雲川
この周辺の集落を須雲川といいます。 むかしは、川端とも呼ばれていました。 この場所に集落ができたのは、江戸の初め寛永のころです。 天下の街道となった箱根道を往来する人々のため、また、道を維持管理するために、 一定の間隔をおいて集落をつくる必要があったのです。
 (箱根町)
鎮雲寺
鳥居の立つ石段を見送って県道を進んでいくと、左手の山際に滝がありました。 小さな滝ですが、水が勢いよく流れ落ちていました。 脇には「霊泉の瀧」と刻まれた石柱がありました。 「臨済宗大徳寺派 霊泉山 鎮雲禅寺」と刻まれた石碑の脇から続く石段を登っていくと、 民家風の建物の鎮雲寺があります。 庫裡と本堂が続き棟になったような形をしていました。
鎖雲寺
鎖雲寺は、江戸の初め、当時早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺です。 この寺には「箱根霊験記」で有名な勝五郎と初花の墓があります。
 (箱根町)
鎮雲寺の境内にある初花堂の左手の奥には「飯沼勝五郎・初花之墓」がありました。
此らあたりは 山家ゆえ 紅葉のあるのに 雪が降る」とは ご存じ歌舞伎狂言に名高い浄瑠璃の一句で、初花の夫勝五郎を恋うる名台詞であります。 父の仇敵を追って箱根山中に差しかかりましたが、不図したことから勝五郎の病は募るばかりに、 大望を抱く見の勝五郎の病状を案じた初花は夜毎に夫の眠るのを待って、 向山の滝で身を清め、箱根権現へ夫の病気平癒と仇討成就の願をかけ、 ひまさえあれば山中に深く分け入り、天来の薬餌で名高い自然薯を堀り集め、夫に薦めるのでした。 初花の一念天に通じ、慶長4年8月、遂に仇敵の佐藤兄弟にめぐり合い、見事に本懐を遂げさせたと言う。 貞女初花の伝説は400年後の今日でも、何か私達の心にひしひしと深い感銘を覚えさせるものがあります。 二人の眠る墓は、この寺の境内の墓地に誰か建てたか、哀惜の比翼塚として葬られております。 どうか皆様もご供養のつもりで香華を手向けて戴きたいと存じます。
 (はつ花そば店主 小宮吉晴)
鎖雲寺を過ぎて県道をその先へと進んでいきます。 真新しい須雲川公衆便所を過ぎて須雲川橋の手前までくると、左手へ道が分かれています。 入口には「須雲川自然探勝歩道」の吊看板と大きな案内図があります。 その脇には「女轉シ坂 登り一町餘」の石碑も立っています。 須雲川自然探勝歩道はここから県道を縫うようにして続いていますが、 今回は見送って、須雲川橋を渡っていきます。
須雲川自然探勝歩道は旧東海道と重なる部分がかなりあります。 (「屏風山」を参照)
須雲川自然探勝歩道
畑宿1,700米、元箱根6,200米、奥湯本3,300米
 (神奈川県)
須雲川増水時のご注意
この先約500メートルの須雲川を渡るところは、大雨のときや川の水が増えている間は通れませんので、 県道を利用してください。
 (神奈川県)
女転し坂
須雲川橋を渡って、その先へ続く県道を進んでいきます。 右手へ大きくS字形に曲がりながら登っていくと、杉並木が続くようになります。 その袂に「女転し坂」の解説板が立っていました。 「転し」と書いて「ころし」と読むようです。
女転し坂
箱根道の難所の一つであり急な坂道が長く、馬に乗った婦人がこの附近で落馬し死んでしまったことから 「女転し坂」と言われるようになったようです。
 (箱根町)
「正一位稲荷大権現」への坂道を見送った先に発電所バス停があります。 そのすぐ先から東京電力の畑宿発電所へ降っていく坂道が左手へ分かれています。 角には「須雲川自然探勝歩道 奥湯本」の道標が立っていて、左手の坂道を指しています。 先ほどの須雲川橋の手前から分かれてきた道を進んでくると、ここに出られます。 左手の坂道を見送った20mほど先から、右手へと石段が分かれていきます。 ここにも「須雲川自然探勝歩道」の吊看板が立っていて、「畑宿1,000米、奥湯本4,000米」となっていました。 「一部旧東海道」とも書かれていました。 また、この先に続く坂は割石坂と云うようで、「割石坂 登り一町餘」の石碑や解説版も立っていました。 道標「畑宿1km」に従って、幅の広い石段を登っていきます。
割石坂
曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、 路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えれています。
 (箱根町)
割石坂
植林帯に続く石段を登っていくと、すぐに石畳の道になってきます。 少し進んでいくと「これより江戸時代の石畳」の標識が立っていて、 正面を指していました。 角がとれて丸くなった石が敷き詰められた坂道を緩やかに登っていきます。 何人の人がどのような思いでこの道を通って箱根の山を越えていったのでしょうか。 何やら長い歴史を感じたりします。 1分ほどで再び「これより江戸時代の石畳」の標識が立っていて、来た方を指していました。 先ほどの標識との間が江戸時代のままの石畳の道のようですが、 これらの標識の前後にも同じような石畳が続いています。 少し降るようになって県道の傍へ近づいてくると、須雲川自然探勝歩道の解説板がありました。 解説板を過ぎて登り坂になると、再び「これより江戸時代の石畳」の標識が立っています。 江戸時代そのままの石畳は途切れ途切れに続いているようです。
須雲川自然探勝歩道について
この歩道は、須雲川のせせらぎを聞き、野鳥の声を聞きながら歴史を研究する 芦ノ湖の南岸元箱根〜奥湯本を結ぶ自然探勝歩道です。 この付近の石畳は、江戸時代のものを明治、大正時代に元の須雲川小学校の通学路として一部補修したものです。 前後の新しい石畳は、今回県が整備した歩道です。
 (神奈川県自然県境保全センター)
石畳の道を緩やかに登って少し明るくなってくると、舗装された道に出ます。 道は左手の県道から登ってきて右手へと続いています。 擬木の小橋を渡ってその道に出て、正面に続く石畳の道を更に進んでいきます。
箱根路のうつりかわり
箱根路は、古来より東西交通の難所であり、文化の流通に大きな障壁となってきました。 この壁を通過する交通路は、地形の制約をうけながら常に箱根山を対象に設けられてきました。 箱根路のうつりかわりは、日本の歴史にも深いつながりをもち、 各時代のうつり変りと共に箱根越えの路も変わってきました。
碓氷道 箱根でもっとも古い峠道。
足柄道 奈良、平安時代に利用された路。
湯坂道 鎌倉、室町時代に開かれた路。
旧東海道 江戸時代に開かれた路。
国道(1号線) 現在の東海道。
 (環境庁、神奈川県)
斜面を降る太い導水管を過ぎていくと、これまでにあったのと同じ自然探勝歩道案内図があります。 案内図を過ぎて緩やかに降っていくと、程なくして県道に降り立ちました。 道路に出た所に「畑宿0.7km」の道標が立っていて、県道を指しています。 また道路を渡った所にも道標「畑宿・元箱根」が立っていて、右手へ続く県道を指しています。 県道に出てすぐの所から右へ分かれていく山道もありますが、柵で閉ざされていました。 道標に従って、ここからしばらくは県道を歩いていきます。
接待茶屋
江戸時代後期、箱根権現の別当如実は、箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶や飼葉を施し大変喜ばれていましたが、 資金が続かず行き詰まってしまいました。 如実は、江戸呉服町の加勢屋与兵衛らの協力を得て施行の断続を幕府に願い出、 文政7年(1824)ようやく許可がおりました。 再開にあたって新しく設置する施行所を畑宿と須雲川に希望していましたが、2か所とも立場であるため許可されず、 東坂は割石坂のこの辺に、西坂は施行平に設置されました。
 (箱根町)
県道を3分ほど進んでいくと、左手に道が分かれていきます。 入口には「国指定史跡 箱根旧街道」の標柱が立っています。 ここで県道から分かれて石畳の坂道を降っていきます。
大沢川
植林帯に続くかなり急な坂道を2分ほど降っていくと堰提に出ます。 堰を越えて行くと、須雲川の支流である大沢川を木橋で渡っていきます。 角がとれて丸くなった石が河原にゴロゴロとしていました。
大澤坂
大沢川を渡って左手へと坂道を登っていくと、石畳の道になってきます。 この辺りは大澤坂と云うようで、「大澤坂 登り三町餘」の石碑や解説版も立っていました。 角がとれて丸くなった石畳が続いていて、 解説板にもある通り、この辺りは往時の様子が一番残されている区間のようです。 石には苔も付いていて長い歴史が感じられます。 往時の草鞋で歩くのには優れた舗装手段である石畳も、現代の洋風の靴では滑りやすいので、 降る時には足元に十分注意する必要がありそうです。
大澤坂
大沢川を渡ったところです。 幕末の下田奉行小笠原長保の「甲申旅日記」に、 「大沢坂又は坐頭転ばしともいうとぞこのあたり、つつじ盛んにて趣殊によし」 と書かれています。 当時の石畳の道が一番残っている坂で、苔むした石畳は往時をしのばせてくれます。
 (箱根町)
石畳特別保存地区 石畳の構造
この付近の石畳は、江戸時代初期、石畳施設当初の構造を今に伝えています。 石畳は、小石と土とを密に固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、 さらに石畳の横に縦の排水路を持っています。 また、並木が植っていた土手も人工的に造られたものです。
 (箱根町教育委員会)
石畳特別保存地区 斜めの排水路
ここには石畳の上を流れてきた雨水を石畳の外へ追い出すための斜めの排水路があります。 排水路は上流側に小さな石、下流側に大きな石を斜めに置き、段差を造り出すというかたちをしています。 水はこの大きな石の側面を伝わり、並木・敷土手の外にある沢へと流れ出るようになっています。
 (箱根町教育委員会)
畑宿本陣跡
植林帯に続く石畳の道を登っていくと、やがて正面が明るくなって民家が見えてきます。 民家の脇を過ぎて短い石段を登ると、ヘアピンカーブになった県道に出ます。 この辺りが畑宿地区になります。 三枚橋バス停から2時間10分ほどで到着しました。 ここにも「国指定史跡 箱根旧街道」の標柱が立っていました。 畑宿は小田原宿と箱根宿の間にあって、「間の宿」として賑わった所のようです。 標柱に書かれた「←箱根方面」に従って県道を左手へ1分ほど進んでいくと本陣跡バス停があります。 道路の右手には「畑宿本陣茗荷屋跡」の石柱と解説板が立っていました。 明治天皇が小休止された所で、開国時代のアメリカ外交官のハリスも感嘆したという日本庭園があったようです。
本陣跡
ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋と呼ばれた旧名主の本屋敷跡です。 家屋は約70年前大正元年、全村火災の折焼失しましたが、庭園は昔を忍ぶそのままの姿で残されました。 本庭園はご覧のように小規模ですが、街道に日本庭園として他に無かったようです。 畑宿は今から12、30年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落です。 この本陣をめぐり一般に余り知られていない事柄があります。 安政4年11月26日、米国初代総領事、伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリスタウンゼントが江戸入りの途中、 ここに休息鑑賞したことです。 ハリスの箱根越えはエピソードが多く、大変だったようです。 下田から籠で上京したハリスは箱根関所で検査を受けることになった。 その際、ハリスと関所側は、検査をめぐってトラブルが起き、下田の副奉行が中に入って、 ほとほと困り抜いたと云う。 ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否したことから、 副奉行がハリスを馬に乗せて籠だけ検査することで関所側と妥協した。 ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通った。 そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本庭園の良さに心なごみ、 機嫌はすこぶる良好になったといいます。
旧茗荷屋庭園
畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は、山間から流れる水を利用して滝を落とし、 池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭園で、当時街道の旅人たちの評判になりました。 ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆しています。
 (箱根町)
駒形神社
本陣跡を過ぎていくと、すぐに駒形神社への石段が右手に分かれているので、ちょっと立ち寄っていきました。 石段を登って両側に生える大きなイチョウの木を過ぎ、鳥居の先の石段を登っていくと、 駒形神社の社殿がありました。 本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 無学なのでよくは知らないのですが、 古事記に登場する第一位の神である「天之御中主大神」を祀る神社は珍しいように思いました。 境内には末社の照心明神・菅原神社や太子堂もありました。
駒形神社
御祭神 天之御中主大神、火産霊大神、大山祇命
御神徳 村内守護・心願成就
勧請の年月不詳ではあるが、口碑によれば、 当村創立の頃、早くも箱根泰禄山に奉斎する駒形大神を勧請して駒形大権現と崇めた。 宝暦7丁丑6月、高栄山神守源寺別当、社殿を再建し、明治維新の際、別当持を廃され、明治6年7月30日に村社に列した。 明治44年、無格社・愛宕神社・同山神々社を合祀した。 畑宿の歴史はかなり古く、小田原北条時代には木地細工が作られていた記録があります。
古事記上つ巻
天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は天の御中主の神。 次に高御産巣日の神。 次に神産巣日の神。 この三柱の神はみな独神に成りまして身を隠したまひき。 次に国稚く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へる時に、 葦芽のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅の神。 次に天の常立の神。 この二柱の神もみな独神に成りまして身を隠したまひき。 上の件、五柱の神は別天つ神。・・・
 (出展:角川書店 新訂古事記)
畑宿御休処
「あんの茶屋」を過ぎていくと、道路が右へ大きく曲がっていく角に畑宿バス停があります。 左手には畑宿御休処があるので、ひと休みしていきました。 傍には「箱根寄木の里 畑宿地区案内板」があります。 これから向かう甘酒茶屋から天ヶ石坂へ至る道も示されているので参考にしましょう。
畑宿
畑宿は、郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ育ったところです。 畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北條氏時代までさかのぼります。 江戸時代、畑宿は箱根旧街道の間ノ村として栄え、沢山の茶屋が並び、 名物のそば、鮎の塩焼、箱根細工が旅人の足をとめました。
 (箱根町)
併せて15分ほど居た畑宿からは、県道から分かれていく正面の石畳の道へと入っていきます。 入口には「箱根旧街道一里塚 江戸より二十三里」と書かれた標柱や、「箱根路 東海道の碑」が立っています。 また脇には箱根旧街道の解説板も設置されていました。 右の石段を登った所には守源寺がありますが、その左側に続く石畳の道を進んでいきます。
箱根旧街道
江戸幕府は元和4年(1618)、十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山−浅間山−鷹ノ巣山−芦ノ湯を経て、 元箱根に至る湯坂路(現ハイキングコース)を廃し、 湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ、 世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。 この街道は、寛永12年(1635)参勤交代の制度ができて、一層交通が盛んとなり、 そのありさまは詩歌、物語等にも多く歌われた。 延宝8年(1680)幕府の手によりはじめてこの街道に石が敷かれたが、 この石敷の道は現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。 現在、残っている石畳は、文久3年(1863)2月、孝明天皇の妹、和宮内親王が14代将軍、徳川家茂のもとに 降嫁されるにあたり、幕府が時の代官に命じ、文久2年(1862)に改修工事を完成させたものだといわれている。 平均、約3.6メートルの道幅の中央に約1.8メートル幅に石が敷きつめられていたという。
守源寺
守源寺は、寛文元年(1661)に乗善院日連上人によって建立された日連宗平賀本工寺末の寺です。 この寺は、たびたびの災害で本堂を失い、昭和5年豆相大地震の後、 ようやく再建され現在にいたっています。
 (箱根町)
畑宿一里塚
石畳を30mほど進んでいくと、道の両側に一つずつ一里塚があります。 東海道の一里塚の中でも、往時の形態を留めている唯一のものだということです。 朧気ながら想像していたよりもずっと大きなものでした。 脇には「箱根旧街道一里塚碑」と刻まれた石柱も立っていました。 ここで弁天山清流公園や畑宿ます釣場への道が左手へと分かれていきますが、 道標「旧街道石畳、元箱根」に従って、正面に続く石畳の道を進んでいきます。
箱根旧街道・畑宿一里塚
江戸時代、徳川幕府は旅人の目印として、街道の一里(約4km)ごとに「一里塚」をつくりました。 石畳の両側に残る畑宿の一里塚は、江戸日本橋から23里に当たり、 東海道中唯一その形態を留めるものです。 山の斜面にあるこの塚は、周囲を切土・盛土と石貼で平坦面をつくり、 直径が30尺(9m)の円形に石積を築き、礫を積み上げ、表層に土を盛って、 頂上に植樹したものであることが発掘調査から分かりました。 保存整備では、塚の構造を復元し、標識樹として畑宿から見て右側の塚には樅(もみ)を、 左側には欅(けやき)を植えました。
 (箱根町教育委員会)
西海子坂
一里塚を過ぎて、植林帯の中に続く石畳の道を緩やかに登っていきます。 1分半ほど登っていくと、国道1号(箱根新道)の上を越えていきます。 植林帯を更に進んでいくと、大澤坂にあったのと同じ内容の「斜めの排水路」と「石畳の構造」の 解説板が立っていました。 そこを過ぎて傾斜が少し増してきた石畳の道を登っていくと石段が現れます。 石段の袂には「西海子坂 登り二町歩許」と刻まれた石碑と解説板が立っていました。
箱根旧街道
江戸幕府は延宝8年(1680)、箱根道を石畳道に改修しました。 それ以前のこの道は雨や雪のあとは大変な悪路となり、 旅人はひざまで没する泥道を歩かねばならないため竹を敷いていましたが、 毎年竹を調達するのに大変な労力と費用がかかっていました。
 (箱根町)
橿木坂
石段を登っていくと県道に出て、左手へと進んでいきます。 この辺りは「七曲がり」と云われているようで、 県道732号と国道1号(箱根新道)が交錯するようにしてクネクネと折れ曲がりながら続いています。 「これより1.2kmの間七曲り 上り勾配10.1%」の看板も出ていました。 少し先の石段を登って近道をしながら県道を更に進んでいきます。 陸橋をくぐって少し行くと、朱色に塗られた大きな陸橋が架かっています。 その下を過ぎていくと橿の木坂バス停があります。 バス停を過ぎていくと再び石段があります。 脇には「橿木坂 登り五町歩許」と刻まれた石碑と解説板が立っていました。
橿木坂
「新編相模国風土記稿」に「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得」とあります。 「東海道名所日記」には、けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。 「橿の木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼる」と書かれています。
 (箱根町)
見晴橋
石段を登って県道に出て、その先へ少し進んでいくと再び石段が現れます。 結構傾斜があって、次第に足取りが重くなってきました。 両側に熊笹の生い茂る手摺付きの急な石段を、息を切らせながら一歩一歩ゆっくりと登っていきました。 2分ほど登っていくと道が二手に分かれています。 角に立つ道標によると、正面の道は「元箱根・車道」、 左手の道は「須雲川自然探勝歩道 元箱根3km」となっています。 ここは道標に従って、左手の見晴橋を渡っていきます。 短い見晴橋を渡っていくと「箱根旧街道(新設歩道)」の吊看板がありました。 「甘酒茶屋1,300米、元箱根3,000米」となっていました。
看板を過ぎていくと、これまでにあったのと同じ「自然探勝歩道案内図」があります。 そのすぐ先にベンチが幾つか設置された小広い場所があります。 右手の急な階段の上には、とろろそばや山菜そばで有名な見晴茶屋がありますが、 今回は立寄るのは省略しました。
雲助とよばれた人たち
「箱根の雲助」というと知らない人はいません。 ところが雲助とよばれた人たちは、実はこの小田原の問屋場で働く人足たちだったのです。 しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、 問屋場では人足を登録させ仕事を割当てていましたので、わるさをした人などはいなかったといいます。 日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。 その内容をみると、なかなかむずかしく、誰でもすぐなれるという職業ではなかったようです。
一、 力がひじょうに強いこと。(これは仕事の性質上ぜひ必要です)
二、 荷物の荷造りがすぐれていること。(荷物を見ると、だれがつくったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都まで決してこわれなかったそうです)
三、 歌をうたうのがじょうずでないと、一流の雲助とはいわれなかったそうです。こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、かごをかつぐ「かごかき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み、通行や温泉遊覧のたすけをしていました。
 (環境庁、神奈川県)
山根橋
見晴茶屋への階段を見送ってその先へ進んでいくと、すぐに小さな山根橋が架かっています。 脇には「旧街道 山根橋 元箱根まで3.0km」の標柱も立っていました。 橋を渡って、石畳の道をその先へと進んでいきます。
須雲川自然探勝歩道について
この歩道は、須雲川沿いに畑宿より元箱根に至る旧東海道(江戸時代、三百有余年前)に沿った 歴史的なたたずまいをもつ自然歩道です。 途中には旧東海道そのままの石畳が残され、当時の面影をしのばせております。 元箱根までは、甘酒茶屋を経て杉並木に至る約3キロメートルの道のりとなっております。
 (神奈川県)
甘酒橋
雑木や熊笹の生える尾根に、緩やかな石畳の道が続いています。 小さな橋を渡りその少し先の石段を登っていくと分岐があります。 角に立つ道標によると、右手の道は「車道」、正面の道は「元箱根2.7km」となっています。 道標「元箱根」の指す正面の石段を登っていくと、すぐに小さな甘酒橋があります。 脇には「旧街道 甘酒橋 元箱根まで2.7km」の標柱が立っていました。
山火事注意 火の用心!
たばこ・たきびは確実に消そう! みどりとのふれあいでリフレッシュ
 (森林共済セット保険、神奈川県)
猿滑坂
甘酒橋を渡っていくと次第に登り坂になってきます。 少し降って小さな橋を渡り、明るい雑木林の中に続く登り坂になった石畳の道を更に進んでいきます。 石畳の坂を登っていくと、正面に県道の石垣が見えてきます。 手前には「猿滑坂 登り一町餘」の石碑と解説板が立っていました。 その少し先にある石垣に沿って続く石段を登っていくと県道に出ます。 横断歩道を渡って左手にある今風の石段を登っていきます。
猿滑坂
「新編相模国風土記稿」には、「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と、 難所らしい坂の名の由来が書かれています。 県道の横断歩道橋がかかっている辺りが、当時の坂でした。
 (箱根町)
石畳歩道について
この石畳は旧東海道(江戸時代、1680)の歴史的な街道に沿った歩道です。 旧東海道は、関東大震災(1923)及び北伊豆地震(1930)等たびかさなる災害により、 大半が崩壊・埋没しましたが、残された一部の石畳を再現し、 自然歩道として神奈川県が整備したものです。
 (神奈川県)
追込坂
かなり傾斜のある今風の石段を登っていくと、県道の右側の上を並行するようになります。 やがて現れる石段を降っていくと県道に降り立ちます。 道端に残雪が続く県道を2分ほど進んでいくと、 右手に「追込坂 登り二町半餘」の石碑と解説板が立っていました。 また「自然探勝歩道案内図」もあるので参考にしましょう。 そのすぐ先には親鸞上人と弟子が別れた場所を示す記念碑が立っていました。 このまま県道を真っ直ぐ進んでいってもすぐに甘酒茶屋へ着きますが、 道標「元箱根」に従って、右手に続く横木の階段を登っていきます。
追込坂
「新編相模国風土記稿」のふりがな(万葉がな)とみると、フッコミ坂といったのかもしれません。 甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。
 (箱根町)
親鸞上人と笈ノ平
東国の教化を終えての帰路、四人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来たとき、 上人は弟子の性信房と蓮位房に向かい、 「師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい」と頼み、 師弟の悲しい別れをした場所と伝えられています。
 (箱根町)
甘酒園地
横木の階段を登って左手へと曲がり、山際に続く緩やかな土の道を進んでいきます。 六角形の東屋を左手に見ながら真っ直ぐに進んでいくと、 潅木を抜けた先に小広い芝生の広場の甘酒園地があります。 脇には桜の花がまだ咲いていました。 このすぐ先で道が二手に分かれています。 左手へ分かれていく道は県道へ出てしまうので、 右手にある送電線の鉄塔「元箱根線No.3」の脇を過ぎていく元箱根へと続く旧街道を進んでいきます。
神奈川県指定天然記念物 箱根二子山の風衝低木植物群落
二子山の山頂部は風当たりが強く、土壌堆積が薄く、岩が露出しています。 そのような場所に、ハコネコメツツジを主体にしたオノエラン・ハコネコメツツジ群集と呼ばれる植物群落が見られます。 これは風の影響で他の植物が成長し得ない岩場などにしがみついて発達する背丈の低い群落で、 ハコネコメツツジ、ハコネハナヒリノキなどの低木類と、 ウラハグサ、ハコネギク、オノエランなどの草本植物から構成されています。 オノエラン・ハコネコメツツジ群集と命名されているこの群落は、 フォッサマグナ地域特有の植物に富んでおり、土壌が悪く、乾湿差が大きく、 風当たりが強いなどのきびしい立地条件のもとに生育しています。 この植物群落は、県内の他の地域では、ほとんど見ることのできない貴重なもので、 群落の発達している二子山山頂部付近を天然記念物に指定しています。
※お願い この天然記念物を伐採したり荒らしたりしないで大切にしてください。
 (神奈川県教育委員会)
箱根旧街道資料館
公衆トイレの裏手までくると自然探勝路案内図があります。 その先から左手へ出ると、茅葺き屋根になった箱根旧街道資料館があります。 畑宿御休処から1時間ほどで到着しました。
旧街道資料館
箱根旧街道の面影を偲んで訪れる人々や広く一般の方のための休憩所です。 茅葺屋根の内部は、土間や囲炉裏が設けられています。 無料ですので、ご自由にお休みください。
 (箱根町)
旧街道について
古来、箱根山はそのけわしさから容易に人を寄せつけませんでした。 しかし、政治や経済・文化を伝える路は、やがてこの箱根山を越えていくようになりました。 今日箱根の各地に残る路には、各時代の変遷を見ることができます。 江戸時代、徳川幕府はそれまでの官道だった湯坂道(湯本から鷹ノ巣山を経て元箱根にいたる路)を廃し、 湯本三枚橋から須雲川に沿って、畑宿、二子山南麓を廻り元箱根に出て、 新設の関所・箱根宿を通って三島へ達する路を開き、官道と定めました。 この路は、東海道中屈指の難所で 「箱根八里(小田原宿から箱根宿までの登り四里と、三島宿までの下り四里)」 と呼ばれ、現在では当時のおもかげは薄れてしまいましたが、 この路に残る石畳を歩めば、上り下りの旅人の苦悩が今もしのばれます。 この石畳道は、明治維新後も街道として利用され、明治37年新道(現在の国道1号線)が完成したため、 廃道堂善となりました。 しかし、わが国の交通史上貴重な価値があり、昭和35年9月22日、国の史跡に指定されました。
箱根宿
箱根宿は、東海道の他宿から17年遅れた元和4年(1618)、芦ノ湖畔の原野を開墾して設置したと伝えられています。 宿の設置にあたっては、小田原宿・三島宿から人々を集めて住まわせたようで、 現在でも旧宿場の地域には、小田原町・三島町という字名が残っています。 この宿場は箱根八里のちょうど中間地点にあたり、旅人や馬の休憩場所ともなりました。 また、江戸から京方面に向う旅人は、江戸を出発して三日目の昼頃この宿場に到着、 昼食を食べて三島・沼津宿へ向うという昼休みの場所であったようです。 東海道五十三次の内、浜松宿とならんで最多の本陣軒数(6軒)を持つことも、 この宿場の特徴ということができます。
箱根関所の歴史
箱根関所は、芦ノ湖に屏風山が迫り、最も平地が狭い場所にあります。 箱根関所が開かれたのは、江戸時代、元和5年(1619)のことといわれています。 徳川幕府によって全国に設置された53か所の関所の内、 新居(静岡県)、碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)とともの四大関所の一つとして重要視され、 明治2年(1869)、関所制度が廃止されるまで、人質として江戸に置いた大名の妻子の帰国を取り締まるため、 「出女」に対し厳しい監視の目を光らせました。 箱根関所の周辺の山々は、地元の人たちも立ち入りを禁止されており、 また、木柵が設けられるなど、厳重な警備がなされていました。 さらに、箱根は東海道で江戸に最も近い要害の地として、箱根のほか、根府川(小田原市)、 矢倉沢(南足柄市)、仙石原(箱根町)、川村(山北町)、谷ヶ村(山北町)にも関所を置くなど、 箱根山全体で江戸の防衛にあたりました。
箱根旧街道資料館では、大高源吾が馬方国蔵に書いた詫び証文を始め、 東海道五十三次や箱根八里・箱根宿・箱根七湯や、五街道・脇街道などが紹介されていました。 芦ノ湖を背景にして富士山を望む箱根路を大名行列が通っていく様子を描いた大きな絵もありました。
箱根道のうつりかわり
碓氷道− 御殿場から乙女峠を越え、仙石原と宮城野の境の碓氷峠を経て、 明神岳の頂上から今の大雄山最乗寺に下って関本に出る古道。 この道は、日本武尊が東征の帰り碓氷峠で愛妻の弟橘姫命をしのんで 「わが妻よ」と嘆き悲しんだ地点と推定されている古道です。
足柄道− 碓氷峠は、外輪山を2回越えていかなければならない嶮し道だったことから、 これに代わるべきものとして開かれたのが足柄道で、 御殿場から竹ノ下を通り、足柄峠を越えて関本に下るものである。 北方外輪山の主峰金時山の外側と、矢倉嶽との間に生じた鞍部を通過するので比較的歩き易く、 鎌倉時代以降、東海道のメインストリートが箱根越えになっても、 永く東西をつなぐ道として使われていた。
湯坂道− 湯本から湯坂山に登り、尾根伝いに浅間山、鷹ノ巣山を経て芦之湯温泉に出、元箱根に至り、三島へ下る道。 鎌倉時代、将軍 源頼朝はこの道を通って箱根権現へ詣で、 その足で伊豆山権現へ向うという二所詣をさかんに行った。 またこの道は同時代の官道として多くの人々が往き交った道であり、 阿仏尼も鎌倉へ下る途上この道を通ったことが「十六夜日記」に詳しく記されている。
旧街道− 江戸時代、徳川幕府が新設した東海道の官道で、湯本三枚橋から須雲川に沿って畑宿に至り、 元箱根・箱根関所・箱根宿を経て三島宿へと向う道である。 参勤交代の大名の華やかな行列が往復したのはこの道で、 小田原〜三島間が丁度8里(32km)の道程で、健脚一日の行程であり、これが世に言う「箱根八里」である。
新道− 現在の国道1号線(東海道)で、湯本・塔之沢・宮ノ下・底倉・小涌谷・芦之湯など主要な温泉地帯を連結し、 箱根峠から三島へ下る道。 今は全長舗装され、立派なドライブウェイとなっている。
大高源吾が馬方国蔵に書いた詫び証文
一、我等此度下向候処、其方に対し不束之筋有之、馬附之荷物損所出来申候二付、 逸々論事之旨尤之次第大きに及迷惑申候、依て御本陣衆を以詫入、酒代差出申候、仍而一札如件、
元禄十四年巳九月  大高源吾
国蔵どの
元禄14年(1701)、赤穂浪士の一人大高源吾は、大石内蔵介の命を受け、仇討急進派を押えるため江戸へ急いでいました。 ところが、その途中の三島宿へさしかかった時、馬子の国蔵から馬の荷をくずされたと因縁をつけられました。 大高源吾は、仇討という大事を控え、争い事は避けなければならず、 屈辱に耐えて馬子の国蔵に酒代を払いあやまりました。 この証文は、その時に馬子の国蔵あてに書いたものだと伝えられています。 いつしか時が流れ、この話の主人公は大高源吾から同志の神崎与五郎へ、 舞台も三島宿からここ箱根山甘茶茶屋へと変化して今に伝えられています。
甘酒茶屋
箱根旧街道資料館の隣には、同じような形をした茅葺き屋根の甘酒茶屋があります。 茶屋の前には甘酒茶屋バス停もあります。 中に入ってみると、昔風の土間に囲炉裏やテーブルなどがある雰囲気のいい店でした。 甘酒・力餅・みそおでん・ところてん・しそジュース・抹茶ジュースなどを商っているようで、 多くの人が飲食などしながら休憩していました。 私は、茶屋の脇に幾つか設置されているベンチに腰を降ろし、 持参したオニギリなどを頬張りながら、ここでひと休みしていきました。
甘酒茶屋
赤穂浪士の一人、神崎与五郎の詫状文伝説を伝えるこの茶屋は、畑宿と箱根宿のちょうど中ほどにあり、 旅人がひと休みするには適当な場所でした。 当時この茶屋は箱根八里間で十三軒あり、甘酒を求める旅人でにぎわいました。
 (箱根町)
甘酒茶屋について
この甘酒茶屋の付近は江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎与五郎が吉良邸討入りに向う途中、 ここで馬子にいいがかりをつけられ、大事の前であったため、馬子に詫証文を書いたと 忠臣蔵「甘酒茶屋」のくだりとして講談、戯曲で有名なところです。 しかし、この話は残っている証文から、神崎与五郎でなく同じ浪士の一人、大高源吾で、 その場所は三島宿だったといわれています。 又、当時の諸大名は小田原城下入りをする際、この付近でひと休みし、小田原に下りました。 江戸時代にはこの付近に茶屋があり、急坂な箱根路への休憩地点として賑わっていました。
 (神奈川県)
甘酒茶屋
往古ヨリ甘茶ヲ以テ東海道ノ一名所タリ 神崎興五郎東下リノ砌此地ニ於テ馬子 丑五郎ノ悪罵ヲ受ケシモ大望ヲ懐ケ ル身切歯忍耐セリト云フ丑五郎馬繋ノ 古木神崎ノ茶呑茶碗等アリ
 (箱根振興會)
於玉坂
箱根旧街道資料館や甘酒茶屋などで30分ほど過ごした後、甘酒茶屋の裏手に続く旧街道を進んでいきます。 送電線の鉄塔「元箱根線No.4」や竹林の脇を過ぎていくと植林帯になってきます。 木の根が剥き出していたり大きな石が頭を出していたりする道を登り気味に進んでいきます。 送電線の鉄塔「元箱根線No.5」の脇を過ぎていくと、間隔の広い横木の階段になりますが、 段差は低くて歩き難くはありません。 送電線の鉄塔「元箱根線No.6」を過ぎていくと、道端に「於玉坂 登り二町半」の石碑がありました。 綺麗な花が手向けられ、小銭もお供えされていました。 何か謂れがありそうでしたが、解説板などは見かけませんでした。 県道の少し先にある「お玉ヶ池」と関係があるのでしょうか。
白水坂
大きな石がゴロゴロする所を過ぎていくと県道に出ました。 出た所には「箱根旧街道(新設歩道)」の標識が立っていました。 道標も立っていて、県道を横切った先に続く道は「元箱根1.2km」、今来た道は「甘酒茶屋0.4km」となっています。 県道を横切っていくと、すぐの所に「箱根旧街道」の標識が立っていて、 裏面には「湯本まで1時間半」と書かれていました。 また「史跡箱根旧街道」と刻まれた石柱も立っていて、その袂には小さな五輪塔も佇んでいました。 畑宿にあった案内板によると、この辺りは「白水坂」というようですが、 その旨を刻んだ石碑などには気が付きませんでした。
箱根旧街道(新設歩道)
元箱根 1,200米
元箱根まで40分
 (神奈川県)
件名 箱根旧街道
推定者 国
指定名称 史跡
指定年月日 昭和35年9月22日
所在地 箱根町湯本茶屋〜箱根
…(畑宿にあったのと同じ内容)… この地点から元箱根に至る約1キロに石畳が現存している。
 (文化庁、箱根町教育委員会)
天ヶ石坂
石畳が続く緩やかな坂道を登っていきます。 以前にも見かけた「石畳の構造」の解説板を過ぎていくと、雑木林と植林帯の間を登るようになります。 右手の雑木林には土留め柵が点々と設置されていました。 道の脇に大きな岩がある所までくると、その袂に「天ヶ石坂 登り七間餘」と刻まれた石碑がありました。 「七間=約12.6m」とはやけに短い坂ですが、「七町」の誤記なのでしょうか。 石畳は途切れることなく、引続き登り坂に続いています。 大岩を過ぎていくと、広めの道が右手に分かれていきます。 角には道標が立っていて、右手の道は「箱根の森 展望広場」、 正面の道は「箱根の森 休憩広場」となっていました。 旧街道はどちらの道なのかよく分からない道標ですが、右手は緩やかながら横木の階段になっているので、 正面に続く石畳の道を進んでいきました。
石畳の道を更に登っていくと、途中に「二子山について」と題した解説板がありました。 そこを過ぎて傾斜が緩やかになってきた所からも右手に広めの道が分かれています。 その角には道標が立っていて、右手の道は「箱根の森 休憩広場」、 今来た道は「箱根の森 展望広場」となっていました。 箱根の森の散策路が旧街道を通っているようでした。 その道を見送って、正面に続く緩やかな石畳の道を進んでいきます。 少し降り坂になってくると、道の右側が膨らんだ所があり、 箱根馬子唄の歌碑やベンチが設置されていました。 ここにも先ほどと同じ「二子山について」と題した解説板がありました。 「前方にみえる」とありますが、周囲には樹木が生い茂っていて、二子山は見えませんでした。
箱根馬子唄
箱根八里は 馬でも越すが こすに越されぬ 大井川
馬子唄は文字とおり馬子の歌であり、 商売道具の馬にお客をのせて八里の道を歩く馬子達が得意のノドで旅人の旅情をなぐさめたものといわれている。
 (箱根町教育研究会編「はこね」から校する)
二子山について
前方に見えるコブのような山は二子山と呼ばれ、向かって左が上二子(1,090m)、右が下二子(1,064m)です。 この二子山は、駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで、 箱根の火山活動のうち一番最後に出来たものです。 頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始め、 サンショウイバラやキワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態が良く残されています。 現在は保護のため入山を禁止しております。
 (神奈川県)
傾斜が増してきた石畳の道を降っていきます。 緩やかな道になってくると、道端に「旧東海道」の解説板が立っていました。 そのすぐ先で、左右に通る舗装路に出ました。 出口にはこれまでに見かけたのと同じ形の標識が立っていて「箱根旧街道 元箱根まで15分」となっていました。 裏面には「湯本まで2時間」となっていました。 角には道標も立っていて、右手の道は「お玉ヶ池・精進池」、 正面の道は「元箱根0.5km」、今来た道は「畑宿4.1km・湯本9.0km」となっていました。 「六道地蔵菩薩江之道」と刻まれた石碑もありました。
旧東海道
この地点は江戸時代の東海道で、鎌倉時代の東海道と交わるところです。 鎌倉時代の東海道は別名湯坂道と呼ばれて、 平安時代、富士山の爆発によりそれまで利用されていた足柄道の代わりに利用されるようになったもので、 ここから箱根峠、三島方面と畑宿、湯本、小田原方面へと続いています。 江戸時代の東海道は有名な東海道五十三次の一部で、当時の人々は皆この道を通って箱根を越えていました。
 (神奈川県)
権現坂
舗装路を横切って、車止めの先へ続く石畳の道を降っていきます。 これまでよりも傾斜があって歩き難くなってきますが、 両側には新たな砂利道も付けられていて歩き易くなっていました。 そんな坂道を降っていくと、再び左右に通る舗装路に出ました。 U字形に曲がっていく角になっていました。 正面の樹木越しには芦ノ湖が見えていました。 ここには道標類はありませんでしたが、道路を横切ってその先に続く石畳の道を降っていきます。 降り始めてすぐの所の右側に赤い鳥居が立っていて、その先へ石段が分かれていましたが、 寄り道は止めておきました。 そのすぐ先に「権現坂」の石碑と解説板が設置されていました。 石畳の道は足首や膝にかなり負荷がかかり、途切れ途切れながらかなり歩いてきたので、 この辺りまで来るとガクガクになってきました。
権現坂
小田原から箱根路をのぼる旅人が、いくつかの急所難所をあえいでたどりつき、一息つくのがこの場所です。 目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです。
 (箱根町)
傾斜が増してきた権現坂を降っていきます。 引続き石畳の両側には砂利道が付けられていて歩き易くなっています。 石畳が終わると、左手へと曲がっていきます。 角には「史跡 箱根旧街道」の石柱が立っていました。 傍には道標も立っていて、左手の道は「元箱根」、今降って来た道は「畑宿」となっていました。 これで石畳の道は終りになります。 甘酒茶屋から40分ほどで歩いて来られました。
杉並木
大きな杉の木の間を抜けて、狭くなった緩やかな土の道を進んでいくと、 すぐに杉並木歩道橋が架かっています。 橋を渡って車道の向こう側へ降りていくと、巨大な杉が並木を作っていました。 並木道を歩き始めた所に「箱根旧街道案内図」があって、湯本からここまで続く道が図示されていました。 案内図を過ぎていくと、道の両脇に設置されたベンチの手前から芦ノ湖商店街への道が右手へ分かれていきますが、 そのまま真っ直ぐに進んでいくと、「箱根旧街道」の標識や「杉並木について」の解説板が設置されています。 そのすぐ先で車道に出ますが、手前から右手へ雰囲気の良い道が分かれています。 角には道標が立っていて、右手の道は「芦ノ湖畔」、今来た道は「箱根旧街道」となっています。 旧街道はどちらだろうと迷ったりしますが、右手の道は見送って車道を進んでいきます。
箱根旧街道案内図
江戸幕府は、元和4年(1618)に旧来の湯坂道を廃しして、小田原・三島両宿の間、 箱根山中の芦ノ湖畔に箱根宿を置き、関所を新たに設けて、湯本の三枚橋から須雲川に沿い、 畑宿から急坂を、二子山南ろくに登り元箱根に至る古い山路をひろげて街道をつくった。 この道は、江戸時代を通して世に箱根の八里ごえといわれ、東海道中屈指の難路であり、 その有様は詩歌、物語等で多く歌われている。
箱根旧街道
元箱根・箱根峠を経て三島に至る
畑宿・湯本を経て小田原に至る
杉並木について
この杉並木は江戸時代、徳川幕府が整備のため植えたもので、樹令約370年くらいたっています。 この杉並木の間が旧東海道で、江戸時代の人々は、この道を通って箱根山を越えました。 湯本から畑宿〜元箱根〜箱根町〜箱根峠〜三島に続いた旧東海道沿で、 今なお生育しているのは、この付近の元箱根地区と箱根町に一部残されているだけです。
 (神奈川県)
杉並木が続く車道を緩やかに降っていきます。 御殿公園や日輪寺の入口を過ぎて国道1号(旧道)に出ると、朱色に塗られた巨大な一の鳥居が立っています。 手前の左手には成川美術館の入口があり、道路向かいには「箱根海賊船のりば」の元箱根港があります。 乗り場の脇から湖畔に出てみると、海賊船が丁度接岸するところでした。 国道を左手へ進んでいくと、すぐの所に身替わり地蔵がありました。 赤い帽子と前掛けをした上半身しかないような姿をしていました。 周囲には石碑や五輪塔などが幾つも並んでいました。
身替わり地蔵
宇治川の先人争いで名高い梶原景季は、ある年箱根を通りかかった時、何者かに襲われました。 当時弁舌巧みで、たびたび人をおとしいれた平景時と間違えられたらしいのです。 幸いにも、かたわらにあった地蔵が身替わりになってようやく命が助かりました。 それ以来この地蔵を景季の身替わり地蔵と呼んだとのことです。
 (箱根町)
箱根旧街道一里塚
身替わり地蔵を過ぎて国道を進んでいくと、 元箱根歩道橋の手前に「箱根旧街道一里塚」と刻まれた石碑が立っていました。 その右脇から分かれていく坂道は見送って、 歩道橋の下から国道と並行するようにして分かれていく杉並木へ入っていきます。 入口には「旧東海道 箱根杉並木」と刻まれた石碑がありました。
一里塚
葭原久保の一里塚
江戸幕府は、慶長9年(1604)大久保長安に命じ、江戸−京都間に一里ごとに旅人の目印として、 街道の両側に盛土をしました。 そして、ここではその上に壇を植えました。 この塚は、日本橋より24番目にあたります。 (一里=約3952米)
 (箱根町教育委員会)
杉並木
解説板を読んだりしながら、国道と並行する杉並木を進んでいきます。 直径1mを優に超える杉の巨木には圧倒されそうになります。 『昼なお暗き…』と唄う「箱根八里」を小声で口ずさみつつ、 往時の杉並木を歩いた旅人たちに想いを馳せながら歩いていきました。
箱根旧街道杉並木
江戸と京都を結ぶ「東海道五十三次」は、江戸時代の元和4年(1619)頃に、それまでの湯坂道を廃し、 湯本、畑宿、箱根を廻る街道に改められました。 この杉並木は、徳川幕府が、旅人に木陰を与えようと道の両側に植えたもので、東海道では唯一のものです。 第二次世界大戦中、伐採されそうになったこともありましたが、現在では国指定史跡として保護され、 芦ノ湖畔周辺の四地区に、約420本の杉が残されています。 残された杉には、人々の愛護の心が込められています。 杉並木を大切にしてください。
 (文化庁、神奈川県教育委員会、箱根町教育委員会)
箱根旧街道杉並木の保護
「箱根八里」で♪昼なお暗き杉の並木♪と唄われた箱根旧街道杉並木は、 江戸時代、旅人に木陰を与えたり、風雪から守ったりといった大切な役目を果たしてきました。 しかし、近年、枝や葉が少なくなり、樹勢の衰えが目立ってきました。 昭和59年に、活力調査を行い、その原因を調べた結果、さまざまな杉の生育上の致命的な問題が発見されました。 そこで、まず、昭和61年から平成3年まで湖側の並木敷地を対象に、 土を柔らかくする、 酸素を土の中に送り込む、 杉の栄養根の発育を促す、 杉の根元に人が入り込み栄養根を踏まないようにアジサイを植える、 といったような保護対策を行いました。 さらに、平成5年からは、遊歩道を対象に、同様の保護対策を行っています。 遊歩道の表面の砂利は、酸素を土の中に送り込んだり、 遊歩道の排水を良くするために、大事な役目を果たすものです。 江戸時代から、代々受け継がれてきた大切な文化遺産を後世に残し、伝えるために、 この保護対策にご理解、ご協力をお願いします。
 (箱根町教育委員会)
緑は友だち国有林
森林は、木材を供給し、国土を守り、水を供給し、緑豊かな環境づくりをしてくれます。 営林署はみんさんからおあずかりした国有林を立派な森林に育てるようつとめています。
○貴重な森林資源を山火事から守りましょう。
○草木を愛しみどりの国土を守りましょう。
 (東京神奈川森林管理署)
箱根八里 【♪演奏
箱根の山は 天下の嶮 函谷関も 物ならず  万丈の山 千仞の谷 前に聳え 後に支う  雲は山をめぐり 霧は谷をとざす 昼なお暗き 杉の並木  羊腸の小径は 苔滑らか  一夫関に当るや 万夫も開くなし  天下に旅する 剛毅の武士 大刀腰に 足駄がけ  八里の岩ね 踏み鳴す 斯くこそありしか 往時の武士
箱根の山は 天下の阻 蜀の桟道 数ならず  万丈の山 千仞の谷 前に聳え 後に支う  雲は山をめぐり 霧は谷をとざす 昼なお暗き 杉の並木  羊腸の小径は 苔滑らか  一夫関に当るや 万夫も開くなし  山野に狩する 剛毅の壮士 猟銃肩に 草鞋がけ  八里の岩ね 踏み破る 斯くこそありけれ 近時の壮士
杉並木が終わって国道に出て、恩賜箱根公園の前を過ぎていくと、 「箱根関所→」の看板が出ていて、道路向かいに分かれていく道を指しています。 行き交う車に注意しながら道路を横断してその道へ入っていきます。 突き当たりを左折した所に「箱根関所周辺散策図」と題した大きな案内板があるので参考にしましょう。
箱根関所と江戸時代の町割り
箱根関所は大番所・上番休息所、足軽番所、遠見番所からなり、その江戸口側と京口側にはそれぞれ門が構えられていました。 関所の京口側には新町・小田原町・三島町・芦川町と街並みが続き、 江戸口側にある新谷町と合わせて、宿場を構成していました。 箱根宿は、江戸から10番目の宿場で、江戸時代には本陣6軒、脇本陣1軒をはじめ、200軒ほどの家がありました。
箱根関所・箱根関所資料館  箱根関所がこの地に設置されたのは、江戸幕府が開かれて間もない元和5年(1619)といわれています。 江戸時代を通して「出女」をはじめとする旅人の通行を厳しく取り締まるなど、その役目を果たしましたが、 明治2年(1869)に廃止されました。 完全復元されたのは2007年春。140年の時を経て往時の姿によみがえりました。 また箱根関所資料館では通行手形や高札などの資料を展示し、箱根関所の解説をしています。
恩賜箱根公園  芦ノ湖に突き出した半島に広がる公園。 明治19年(1886)の皇族の避暑と外国からの賓客のために、ここに箱根離宮が造営されました。 現在は、中央の湖畔展望館や弁天の鼻展望台を中心に園内に散策路が巡らされており、 芦ノ湖と箱根外輪山の山なみ、そして富士山を眺めることができ、秀逸な景観を楽しむことができます
箱根旧街道杉並木  芦ノ湖畔には樹齢350年以上の杉が400本以上も残り、江戸時代の東海道の面影を今に伝えています。 この地区付近には、箱根峠に近く石畳も体験できる向坂地区、箱根関所に隣接する新谷町地区、 遊歩道を散策できる吾妻嶽地区にそれぞれ杉並木が残り、江戸時代の旅体験が楽しめます。 最も高い杉が約30m、幹周りは4m以上にもなります。
箱根駅伝の碑  新年の国民的行事となった箱根駅伝。 その往路・復路のゴール・スタート地点であるこの地区には、駅伝にちなんだ3つの記念碑があります。 「東京箱根間駅伝協商記念碑」(1961年)、 「駅伝を讃えて」(1984年・第60回大会記念)、 「箱根駅伝栄光の碑」(1994年・第70回大会記念)です。 また、すぐ近くには駅伝ミュージアムもあります。
駒形神社  地元では「こまがたさん」と親しみを込めて呼ばれ、古くから箱根地区の総鎮守として祭られてきました。 参道入り口には「庚申塔」と箱根七福神の赤い幟が立ち、ゆるやかな階段の奥に本殿が静かにたたずんでいます。 境内には箱根七福神のひとつ、毘沙門堂のほか、古の箱根宿の記憶を伝える犬塚神社や、 地元の人々が芦ノ湖の豊漁を祈る蓑笠明神が祀られています。
森のふれあい館  芦ノ湖南岸に位置し、緑が広がる箱根やすらぎの森。その入り口に建つ動植物の資料館です。 館内では「箱根の自然」「森へ行こう」などのテーマで箱根の自然についてパネルやジオラマで紹介しています。 映像とロボットの動物たちによるミュージカル「妖精パックと森の仲間たち」は、 楽しみながら森の大切さを理解することができます。 また木の実クラフトなどの体験コーナーも楽しめます。
芦ノ湖  標高約720mに位置する神奈川県最大の湖で、周囲約19km、面積や約7kuにも及びます。 周囲を取り巻く外輪山の山並みとその彼方に聳える富士山の姿は、箱根の中でもっとも魅力的な風景で、 条件がそろえば湖面には美しい「さかさ富士」が映し出されます。 北岸の湖尻と南岸の箱根間には遊覧船も就航し、湖上遊覧を楽しむことができます。 湖に棲むという九つの頭をもつ九頭龍伝説も語り継がれ、 7月31日に箱根神社湖水祭では、湖上から赤飯が捧げられます。
箱根関所
杉並木が続く道を真っ直ぐ進んで目の前が開けて来ると箱根関所に着きました。 解説板にもある通り、往時の姿に復元されていて、こちら側には江戸口御門、向こう側には京口御門があります。 その中に大番所・上番休息所や足軽番所などがあります。 足軽番所の裏手の高台には展望広場や遠見番所もありますが、今回は訪ねるのを省略しました。
国指定史跡 箱根旧街道 杉並木(新谷町地区)
江戸時代、幕府は街道整備の一環として、道に沿って両側に松を植えました。 しかし、ここ芦ノ湖畔周辺の東海道には杉が植えられ、現在でも四地区にわたり、約400本の杉が残されています。 いずれも樹齢が350年をこえており、当時の街道の面影を今に伝えています。 箱根関所に通ずる、ここ新谷町地区もそのひとつで、道の両側に、合計20本以上の杉が残されており、 昭和35年に国史跡に指定されました。 しかし、この地区は明治時代になって車両が通行するようになると、次第に道路が拡幅され、 杉の根付近まで斜面を削って擁壁を設けるなど、杉の生育にとってたいへん悪い状態となってしまいました。 そこで、箱根町教育委員会では、平成10年度から開始した箱根関所跡保存事業において、 この貴重な杉並木を保護するために、切り広げられた道路の両側に盛土し、 杉の根回りを保護するとともに、江戸時代当時の道幅(約4m)に戻し、歴史的な環境の復元を行いました。
 (箱根町教育委員会)
箱根関所(国指定史跡 箱根関跡)
箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、 元和5年(1619)のことと伝えられています。 箱根関所は、江戸幕府が江戸防衛のために全国に設置した53ヶ所の関所のうち、 東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、 特に重要な関所と考えられていたようです。 この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、 山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、 大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。 一般的に関所では「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われていますが、 この箱根関所では江戸方面からの「出女」に対する厳しい取調べを行っていました。 江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、 新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。 箱根関所の跡地は、大正11年(1922)、「箱根関跡」として国の史跡に指定されました。 昭和40年(1965)には番所の建物が建設され、その後、昭和58年(1983)、江川文庫(静岡県伊豆の国市)から、 慶応元年(1865)に完成した箱根関所の大規模修理についての克明な資料「相州箱根御関所御修復出来形帳」が発見され、 資料の解析や跡地の発掘調査を経て、平成19年(2007)春、国土交通省、文化庁、神奈川県の補助を受けた復元整備を終え、 箱根の関所は往時の姿によみがえりました。
 (箱根町教育委員会)
関所跡(せきしょあと)バス停
京口御門から箱根関所を出ていくと、先ほど分かれてきた国道に出ます。 その右手にある関所跡入口バス停を過ぎた先の広くなった所に関所跡バス停があります。 石畳の道が終わった所から30分ほどで到着しました。 今回の目的地である箱根宿はこの先に続いているようですが、 石畳の道をかなり歩いてきて疲れてもいたので、ここで散策を終えることにしました。
小田原駅(JR東海道線)や箱根湯本駅(箱根登山鉄道)まで、 小田原駅行きバスが1時間に2本程度あります。 バイパス(箱根新道)経由の小田原駅行きの便も1時間に1本程度あります。
利用バスについて
関所跡バス停関所跡入口バス停とは運行するバス会社が異なっています。 関所跡入口バス停からは、小田原駅や箱根湯本駅行きバスが1時間に4本程度あるので、 都合の良い方を利用しましょう。 国道(旧道)経由の便は道路が渋滞してかなり時間がかかることもあるので、 小田原駅へ向かうのなら、時間が合えばバイパス(箱根新道)経由の便の利用も考えましょう。 なお、箱根フリーパスが使えないバスもあるので、利用する場合には確認が必要です。
箱根関所旅物語館
関所跡バス停の傍には箱根関所旅物語館があって、土産物などが売られています。 「富士見橋」という名前の小橋も設けられていて、芦ノ湖の奥に富士山を望む景色を写した写真が掲載されていました。 富士見スポットのようですが、残念ながらこの時には曇っていて見えませんでした。 階下へ続く階段を降りていくと遊覧船乗場があります。