弘法山公園
散策:2010年03月下旬
【低山ハイク】 弘法山公園
概 要 弘法山公園は丹沢の南側の低い丘陵にある公園で、弘法山・権現山・浅間山などがあります。 権現山からは秦野の街並や、丹沢から箱根にかけての山並を見渡せる眺めが広がり、 条件が良いと富士山を望むことも出来ます。 今回は浅間山を訪ねてから権現山を経て弘法山へ登り、南麓にある龍法寺へ降るルートを歩きます。
起 点 秦野市 秦野駅
終 点 秦野市 町内会館前バス停
ルート 秦野駅…弘法の清水…命徳寺…弘法山公園入口…浅間山…浅間山駐車場…権現山…馬場道…弘法山…めんようの里…龍法寺…町内会館前バス停
所要時間 3時間10分
歩いて... この時は条件に恵まれて、冠雪した綺麗な富士山を望むことが出来ました。 浅間山や馬場道などでは、桜が間もなく開花しそうな様子で、 雪洞などが吊るされて花見の準備が進められていました。 龍法寺へ降る道は初めて歩きましたが、しっかりとして分かり易い道になっていました。
関連メモ 弘法大師と桜のみち, 弘法大師と丹沢へのみち, 弘法山公園, 高取山, 弘法山公園, 弘法山公園, 弘法山公園,
弘法山公園, 弘法山公園
コース紹介
秦野(はだの)駅
秦野駅(小田急小田原線)から歩いていきます。
北口から駅舎を出てバスターミナルを右手へ進み、 角に建つ秦野警察署秦野駅前交番の所を右折して、水無川沿いの車道を進んでいきます。
平成橋を左に見て交差点を直進していくと、レンタカー店を過ぎた所から右手に入っていく路地があります。 入口には「弘法の清水」と書かれた標柱が立っていて右手の道を指しています。 以前にも訪ねていますが、今回も立寄っていくことにしました。
弘法の清水
民家が建ち並ぶ路地を道なりに真っ直ぐ100mほど進んでいくと、Y字路の角に弘法の清水があります。 「全国名水百選 秦野盆地湧水群復活宣言」と書かれた柱が脇に立っていました。 屋根をされた出口からは水が勢いよく流れ出ていました。 柄杓も置かれていて飲めるようでした。 傍にあった解説板によると、一時期に於いて水が汚染されたこともあったようですが、 公民協働で浄化事業に取り組まれた結果、 平成16年に「秦野盆地湧水群復活宣言」をする運びとなったようです。
弘法の清水(臼井戸)の由来
地元では臼井戸と呼び、湧水地主の代々の言い伝えは次のとおりです。
夏の暑い日盛りに、一人の法師が立ち寄られ水を所望された。 妻女は水がめを見たが一滴の水もありません。 「ただいま汲んでまいりますのでしばらくお待ちください」と、寺の地まで水を汲みにいって立ち返った。 法師は恐縮し、その親切と労に感謝をし、錫杖を地面に突きさし穴をあけ、 「三日たったら、底をくり抜いた臼をここに据え置きなさい。必ず水が出るであろう」と立ち去られた。 法師の言ったとおりにしたところ臼の中から清水が湧き出してきた。 臼の中から湧き出る水、臼井戸と呼ばれ、古来この地の地名となり、後に、 子々孫々へ語り継がれる中で弘法大師の伝説と結びつき、立派な民話となった。 この天然の清水は、深い地層の洪積層から湧き出ており、 どんな日照りの年でも水が枯れることはなく、水量が日量130トンと安定している。
 (地元管理者臼井戸水神講、秦野市観光協会)
全国名水百選 秦野盆地湧水群
秦野市前身の曽屋村は、横浜市・函館市水道に次ぎ全国で三番目の歴史を有する近代水道を、 明治23年3月に湧水を水源として始めた。 秦野盆地の地下構造は、地下水を貯留する天然の水がめとなっており、 3億トン(芦ノ湖の1.5倍)と推計される豊富な地下水の恩恵を享受してきた。 しかし、昭和40年代に入り水需要の増大と広域水道の導水路築造工事により、 地下水の水位低下と一部井戸の枯渇を経験し、 これを契機に昭和45年から秦野盆地の地質や地下水の水収支調査に着手した。 昭和50年からは、地下水の人工かん養事業と地下水利用協力金制度を始めるなど、 水とのかかわりや水に対する意識が大変高い土地柄です。 昭和60年には、こうした地下水利用の歴史や地下水保全活動が評価され、 「秦野盆地湧水群」が環境庁(現環境省)の選定した全国名水百選に選ばれ、自他ともの認める名水の里となった。 「弘法の清水」は、長年にわたり地元水神講の皆様が管理・保全し、秦野盆地湧水群を代表する湧水です。 秦野駅周辺には、多くの湧水や自噴井戸が点在しており、おいしい水の里を散策してみてはいかがでしょう。
名水復活への道のり
名水選定の喜びも束の間、平成元年1月にこの「弘法の清水」が、 発がん性の疑いのある化学物質「テトラクロロエチレン」に汚染されていると判明、 市民に大きな衝撃と不安を与えた。 当時、地中の汚染物質を取り除く技術は未確立、地下水の入れ替えも困難、不治の病といわれた。 暗中模索の中で、地下水汚染機構の解明調査に着手し、幸いにも表層土壌の汚染状況や 地層・地下水流動を明らかにすることができた。 平成6年1月、全国に先駆けて「秦野市地下水汚染の防止及び浄化に関する条例」を施行、 市が対象物質を使用した131社を調査、うち基準値を超過した45社を関係事業者に指定し、 汚染原因者の負担で詳細調査を行った。 汚染状況から浄化費用が200億円と積算され、関係事業者の費用負担が新たな課題となった。 市では中小時御者の支援策として、土壌ガスを吸引する掃除機のような小型の浄化システムを開発し、 無償で貸与する制度を新設。 大手企業は自ら浄化装置を設置するなd、公民協働で本格的に浄化事業に取り組んだ。 地中からの回収汚染物質総量は1万7千kg(飲料水に換算すると約60年分の汚染量)を超え、 汚染地直下の地下水は急速に改善をみた。 この効果を早急に波及させるため、市は独自に地下水の人工透析的浄化装置を考案し 平成8年から浄化事業の更なる推進に努めた。 こうした市民全体の懸命な努力が結実し、浄化費用を当初積算額の40分の1(5億円)に軽減し、 2年間の測定結果、市条例の基準に全て適合したので、 兵営16年1月1日、地元水神講の皆様と共に「秦野盆地湧水群」の「弘法の清水名水復活」を宣言した。
 (秦野市)
川沿いの車道まで引き返してその先へ進んでいくと、突き当たりに大秦町交差点があります。 左側を流れる水無川には常磐橋が架かっています。 橋の袂には道標「弘法山公園」が立っていて、その橋を指しています。 綺麗に護岸された水無川を眺めながら、常磐橋を渡っていきます。
命徳寺
常磐橋を渡って右折して川沿いの車道を進んでいくと、左手に命徳寺があります。 赤い頭巾や前掛けをして編み笠を背負った六地蔵に出迎えられて参道を進んでいくと、 秦野市の重要文化財にも指定されている茅葺き屋根の山門があります。 山門をくぐっていくと本堂があります。 大きな樹木に囲まれて静寂な佇まいでした。 右手には庫裡と思われる建物があり、左手は墓地になっていました。
天台宗
総本山 比叡山 延暦寺
高祖 天台大師 智
宗祖 伝教大師 最澄
立教開宗 桓武天皇 延暦25年(平安時代の初期)
本尊 法華経に説かれている久遠実成の釈迦如来と、すべての諸佛・諸菩薩等は同類一体である。 よって、それぞれの縁に随って奉安敬信する。
教義 法華経に述べられている一乗真実の教説を根本として、密教・禅法・念佛等をその実践門とする。
経典 法華経に示されている諸法実相の立場を基本として、ひろく大乗経典を讃仰・読誦。
当山本尊 不動明王
本堂のご本尊さまに先ず合掌
秦野市指定重要文化財 命徳寺山門
この山門は「薬医門」といわれる形式で、二本の本柱とその背後の二本の控え柱の、計四本の柱でできています。 正面2.4m、側面約1.5mで、寺院の門としては比較的小規模です。 屋根は茅葺きの切妻造です。 茅葺がそのまま残された門は珍しく、たいへん貴重です。 また小規模ではあっても細部の構造はなかなか複雑で、大きくそりあがった太い垂木とともに 繊細でありながら力強い表現がこの門の特徴です。 主要な部材は欅で、当初の部材が多く残されています。 建立年時を確定する資料は残されていませんが、細部の様式などから17世紀初期ごろの建築と推定され、 市内では最古の山門です。
 (秦野市教育委員会)
命徳寺を後にして水無川沿いに進んでいくと、県道71号の新常盤橋交差点があります。 交差点を左折して、その先の河原町交差点を直進していくと、金目川弘法橋が架かっています。 正面に聳えている山が、これから登る浅間山になります。 橋の袂には道標が立っていて、正面の道は「弘法山公園入口0.2km」、今来た道は「秦野駅1.2km」となっています。
弘法山公園入口
弘法橋を渡っていくと、神奈川県内広域水道企業団の水道設備の先の信号機のある交差点の脇に、 「弘法山公園入口」と書かれた大きな案内標識があります。 傍には道標も立っていて、右手に戻るようにして川沿いに続く道は「権現山(展望台)0.9km・浅間山0.5km」、 「鶴巻温泉駅5.6km・吾妻山4.7km」、「弘法山公園 弘法山1.7km」、 向こう側から見える向きに設置された板には、今来た道は「秦野駅1.4km」となっています。 右手へ戻るようして進み、すぐの所に架かるコンクリート橋を渡り、 突き当たりの「下口接合井」の表札の掛る設備の前を左折して、川沿いに進んでいきます。
川向こうに立つ赤い屋根の食事処を正面に見ながら川沿いを進んでいくと、 少し右へ曲がった所から山へと横木の階段が始まります。 ここが浅間山を経て権現山から弘法山へと続くハイキングコースの登り口になります。 登り口に立つ道標「弘法山公園 弘法山・権現山・浅間山」がその横木の階段を指しています。 その脇には「クマ出没」の注意書きもありました。 2008年10月2日に、弘法山南側の大岩神社・内久根配水場・曽屋の付近で目撃されたようです。
「弘法山公園」は弘法山とその周辺だけを指すのではなくて、 浅間山や権現山も含めた、この辺りの高み全体を指しているようです。
ハイカー・登山者は、ご注意ください
遭遇してしまったら、すみやかに遠ざかりましょう。 刺激しないようにし、あわてないで静かに立ち去りましょう。 けして走って逃げたりしてはいけません(逃げるものを追いかける習性があります)。 もし近づいてきたら、大声を出さず、リュックサックなどの持ち物を一つずつ置いて、 クマの気をそらしながら、ゆっくりと立ち去りましょう。 子グマを見かけたら、近くに親グマがいます。 危険ですので、速やかに安全なところへ立ち去りましょう。
 (秦野市役所環境保全課、秦野警察署)
雑木林の斜面に続く横木の階段をジグザグに折れ曲がりながら登っていきます。 土嚢で補修されていたりもして、歩きやすくなっています。 途切れ途切れに続く階段を2分ほ登っていくと、折れ曲がっていく角にテーブル・ベンチがひと組ありました。 その脇から細い道が分かれていましたが、そのまま広くてしっかりとした道を登っていきます。 振り返ると、冬枯れの樹間からは秦野の街や丹沢から箱根にかけての峰が見えていますが、 景色を楽しむのは上に着いてからにしましょう。
植林帯を掠めて更に雑木林を登っていくと、登り口から6分ほどで植林帯に入っていきます。 植林帯を抜けて傾斜が緩んできた雑木林を進んでいくと、道端に丸い岩が頭を出していました。 その岩を過ぎていくと尾根の背に乗ります。 山頂への道は右手へ続いていますが、 左手に戻るようにして分かれていく道のすぐ先に石祠が見えたので、ちょっと立寄っていきました。 こんもりとした高みに建つ石祠の前には階段のようにして石が置かれていました。 参道ということなのでしょうか。 祠の中を覗ってみると「木花咲耶比売大神」(*)と書かれた木簡が納められていました。
*「比」の文字は、「田」扁に「比」と書きます。
石祠から引き返して、幅が広がった横木の階段を登っていきます。 間隔も広くて、1歩では長いし2歩では面倒だしと思いながら登っていくと、 石祠から1分ほどで、緩やかになった山頂に着きました。 ここは浅間山の山頂部の西の端になります。 登り着いた所には「浅間山」と書かれた道標が立っていて、 「権現山まで0.3km・弘法山まで1.1km」となっていました。 桜の開花が近い季節とあって、雪洞が沢山吊るされていました。 この辺りから、樹木には小さな解説板が取り付けられていました。 見落としたのも多々あろうかと思いますが、この先にかけて見かけたものも合わせて載せておきます。
ケヤキ ニレ科、ケヤキ属。 分布=本州〜九州、東アジア。 秋の紅葉は木ごとに微妙な違いがある。
イヌシデ 一名 シロシデ、ソネ。 カバノキ科、クマシデ属。 分布=日本、朝鮮、中国。 落葉高木、枝や葉に白毛。
クヌギ ブナ科、コナラ属。 分布=本州〜沖縄、アジア。 落葉高木、樹液に昆虫が集まる。 堅果(ドングリ)は大きい。
イロハモミジ 一名 イロハカエデ。 カエデ科:属。 分布=日本、朝鮮、中国。 秋に紅葉、園芸品種が多い。
ヒムロ ヒノキ科:属。 サワラの園芸品種。 葉は線形でやわらかい。青灰色。 サワラの幼苗時に似ている。
クスノキ クスノキ科:属。 分布=本州〜九州、中国。 春に淡黄色の小花。新芽は紅色。 樟脳の原料や建築材として利用。
ヒマラヤスギ マツ科、ヒマラヤスギ属。 分布=ヒマラヤ〜アフガニスタン。 世界三大公園樹のひとつ。 大きな松かさをつける。
アラカシ ブナ科、コナラ属。 分布=本州〜九州、東アジア。 全体に荒っぽい感じがするのでこの名がついた。
ネムノキ マメ科、ネムノキ属。 分布=本州〜沖縄、東〜東南アジア。 花は夕方に開花する。 葉は夜に閉じて眠ったようになる。
イチョウ イチョウ科:属。 分布=中国。 生きた化石と呼ばれる。 成長が早く端正な樹形。
アオキ ミズキ科、アオキ属。 分布=本州〜九州。 雌木には冬に実が赤く熟す。 斑入りの園芸品種もある。
広くなった山頂部を進んでいくと、左手へ曲がっていく角の右側の樹木が少なくなっていて、 いい眺めが広がっていました。 丹沢から箱根へと続く山並の奥には、冠雪した富士山が聳えていました。 左手の方には、特徴的な姿をした矢倉岳や金時山も見えていました。 前日の強風のために空気が澄んでいたようで、綺麗な姿を望めました。 何枚も写真を撮りながら、眺めを楽しんでいきました。
浅間山
左へ曲がっていく広くて緩やかな山頂部を進んでいくと、東屋が建っています。 脇には「浅間山」と書かれた大きな標識もありました。 山頂部の中でもここが一番高い所のようで、手元の地形図によると、標高190mほどの細長くなった高みになるようです。 登り口から18分ほどで登って来られました。 道の左側には道標が立っていて、正面の道は「公衆トイレ0.2km」「弘法山公園・浅間山駐車場」、 今来た道は「秦野駅1.9km」となっていました。 道の外側から見る人はいないと思われますが、外側にも板が取り付けられていて、 「弘法山公園 弘法山1.2km・権現山0.4km」が今来た道を指していました。 これはどうやら逆向きに取り付けられた板のようでした。
木片チップが敷かれて雰囲気のいい広い道を進んでいきます。 道端には白色や黄色のスイセンが花を咲かせていました。 桜は蕾を一杯に膨らませていて、間もなく開花するようでした。 これから向う権現山が間近に見えるようになると、 テーブル・ベンチが幾つか設置された広場風の所があります。 左手には丹沢の山並が横たわっていました。 ここを過ぎて緩やかに降っていきます。
浅間山駐車場
公衆トイレの前を過ぎて、坂付きの横木の階段を降っていくと舗装路に降り立ちます。 地形図によると、権現山の西側を巻いて、瓜生野地区と曽屋地区を結んでいる道のようです。 降り立った所には道標が立っていて、今来た道は「弘法山公園 浅間山0.2km」「秦野駅2.1km」、 この先の道は「弘法山公園 弘法山1.0km・権現山(展望台)0.2km」「鶴巻温泉駅4.9km・吾妻山4.0km」となっています。 降り立った所の左にある浅間山駐車場の前から、道路向いの雑木林へ登っていく山道があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の山道は「権現山・弘法山」、 右手へ続く舗装路は「下大槻・南平橋」となっています。 舗装路に降り立った所にあったのと同じ内容の、正面の山道を指す道標も立っています。 ここにも「熊出没注意」の看板が出ていました。
右手の舗装路から来て正面の権現山へと続く道は、関東ふれあいの道の 「弘法大師と桜のみち」と「弘法大師と丹沢へのみち」の一部にもなっています。
熊出没注意
この付近にクマの出没情報がありました。 クマに遭遇したら、刺激しないようにし、あわてずに静かに立ち去りましょう。
 (神奈川県湘南地区県政総合センター環境調整課)
 (秦野警察署生活安全課、秦野市役所環境保全課)
短い横木の階段を登って、右手に続くしっかりとした山道を登っていきます。 少し左へ曲がって木製の手摺が設置せれている坂道を登っていくと、横木の階段が始まります。 息を切らせながら登っていくと、正面に権現山の展望台が見えてきます。 その手前で階段が二手に分かれています。 以前からの階段は展望台へ直登するのですが、新たな道が左手へと続いています。 正面の階段はロープが張られていて通行止めになっていました。 何らかの理由で、道が付け替えられたようです。
権現山 (標高243.5m)
左手の新しい道を登っていくと、途中で横木の階段が右手へと分かれて登っていきます。 正面の緩やかな道は山頂にあるトイレの脇へと続いていますが、右手の階段を登っていきます。 途中で新旧の階段が合流して、更にその先へ登っていくと、広くなった権現山の山頂に着きました。 浅間山駐車場から5分ほど、浅間山から13分ほどで登って来られました。 登り着いた所には道標が立っていて、今登ってきた階段は、 「秦野駅2.3km」「弘法山公園 浅間山0.4km」「弘法山公園 浅間山駐車場」となっていました。 正面には、これから向う弘法山もよく見えていました。
権現山の歴史
通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を千畳敷きとも呼ぶ。 権現山は元々その名の由来とする権現堂があったために名付けられたものである。 龍法寺の伝えに依れば権現山には白山妙理権現が祭られ、 その本地仏として現在龍法寺に安置されている十一面観音菩薩が字観音山に祭られていたという。 また、明治の末頃までは堂の位置を示す土壇も認められたという。 最近の城郭調査によると山頂の北西端には二段の腰郭、東端近くの西南側にも細長い腰郭が 取り巻き大小14箇所もの平場がある。いずれも西北を向いていることから権現山からみて 西(秦野方面)に対する備えを目的としているようである。 築造の時代は室町期の城郭址との報告もだされているが、権現堂との関わりは不明である。 この山頂では毎年8月14、15両日の弘法山の百八松明として親しまれている民俗行事の採火が行われる。 当日の夕方になると東麓の瓜生野部落の人々が2メートル前後の麦藁を束ねた松明を担ぎ登ってくる。 午後7時過ぎ、辺りが暗くなるのを見計らって大きく積み上げた麦藁に点火する。 そして銘々がその火から自分の松明に点火し、年少者から順次麓に向かって下山する。 麓では、女性を中心に今や遅しと待ち受け、一年の無病息災を祈って火の粉をかぶる慣わしがある。
 (秦野市)
関東ふれあいの道
関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)は、一都六県を巡る自然歩道です。 自沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里を見なおしてみませんか。
弘法大師と桜のみち  全長9.4km 南平橋バス停〜坪ノ内バス停。 このコースは、県内17コースのうちの9番目です。 ここから南平橋バス停へは展望台横の階段を降り集落内の道を進みます。 ここから坪ノ内バス停へは、右手の坂を下り馬場道を進んでさらに弘法山へ登ります。 一度国道246号線へ出て新善波隧道をくぐり旧矢倉沢往還道を通って吾妻山に登ります。 下り坂を進んで鶴巻温泉駅方面との分岐を左に曲がり、集落を経て終点坪ノ内バス停に至ります。
弘法大師と丹沢へのみち  全長9.9km 南平橋バス停〜蓑毛バス停。 このコースは、県内17コースのうちの15番目です。 ここから蓑毛バス停へは、右手の坂を下り馬場道を進み、駐車場にでたら市道を下ります。 途中消防団車庫を左折して国道246号線名古木交差点に出ます。 県道秦野清川線に入って少し先を左に入り、さらに集落や田園の中を歩いて再び県道秦野清川線に戻ると小蓑毛バス停です。 小蓑毛バス停から県道を1.4km上ると終点蓑毛バス停に至ります。
 (神奈川県自然環境保全センター)
三等三角点のある山頂には公園展望台が建っていて、 その脇には「関東の富士見百景」の碑や、「愛の光」と題した像も立っています。 また正確に東西南北を指し示す十字形に割れた石もあります。 展望台の螺旋階段を登っていくと、壁には展望台の竣工を記念した俳句が掲げられています。 以前には佳作もありましたが、今回は三席までしか見かけませんでした。
公園展望台
弘法山公園には、市内外から多くの観光客が訪れています。 また、元旦の「歩け歩け運動推進大会」や「弘法山桜まつり」「瓜生野百八松明」等 伝統行事の舞台にもなっています。 眼下に秦野の街を、そして、相模湾、霊峰富士、丹沢大山連峰を望む権現山のこの場所には、 昭和25年に神奈川県及び神奈川新聞社の主催による「神奈川県新八景」に当選したことを 記念して建てられた見晴台がありました。 建築後50年を経て老朽化していたこともあり、21世紀を迎える記念事業として、 このまちの限りない発展と世界の恒久平和を祈念し、この展望台に建て替えたものであります。
  (秦野市長)
「関東の富士見百景」選定地
弘法山公園展望台は、2001年に建て替え、雄大な霊峰「富士山」を背景に 「水とみどりのゆたかな里」秦野盆地を望む展望ポイントとして、市民や来秦のハイカーの皆さんに親しまれています。 そして、良好な景観の維持・保全のため多くの市民が行う清掃やゴミ拾い等の活動が高く評価され、 2005年11月「関東の富士見百景」に選定されました。 また、市政施行50周年記念事業で公募した「ふるさと秦野景観100選」でも、 ここからの富士山の眺望が最も多くの市民の支持をあつめました。
 (秦野市)
愛の光
目は心の窓であり、目は生きる力です。 美しいものも愛の心も光も風もすべて感受してこそ人は生きる喜びをもてるのです。 本市で惜しくも視力を失った人のために、自分の角膜を献眼された方々へ深い感謝をこめて、 その尊い愛と奉仕の心を偲び、ここに眺望絶佳の権現山に「愛の光」と題し、記念碑を建立します。
 (秦野ライオンズクラブ)
弘法山公園「公園展望台」竣工記念 「短歌・俳句で祝う新世紀」入選作品
 一席 若き日を 戦時での農に 耐え抜きて いま新世紀の 初日拝む
 一席 赤富士に 託す初日よ 新世紀
 二席 あらたまの 光を浴びる 八角の 展望台は 富士と真向ふ
 二席 雲の間に 初日出でたり 展望台
 三席 新しき 展望台に 雪富士を 仰ぎあらたな 世紀を踏み出す
 三席 初富士の 桃いろの染む 世紀かな
公園展望台の上階に登ると、素晴しい眺めが広がっています。 眼下に広がる秦野の街の向こうには、丹沢から箱根にかけての山並が連なり、 その奥には雪を頂いた富士山もよく見えていました。 空気が澄んでいると伊豆大島なども見えるようですが、この時はぼんやりと霞んでいました。
山頂の先へ進んでいくと、関東ふれあいの道の道標が立っていて、 正面の道は「蓑毛7.0km」、今来た道は「南平橋2.95km」となっています。 そのすぐ先から、舗装された道が左手へ降っていきます。 角には道標が立っていて、「公衆トイレ すぐそこ」「弘法山公園 弘法山 まわりみち」となっています。 少し先からは石畳の広い道が右手へと降っていきます。 その角にも道標がたっていて、 「弘法山公園 弘法山0.8km」「鶴巻温泉駅4.7km・吾妻山3.8km」「弘法の里湯・宮永岳彦記念美術館4.6km」となっています。 それらを見送った正面に前田夕暮の碑が富士山に向って立っています。 この辺りの南矢名地区に生まれ、明治から大正・昭和にかけて活躍した詩人だったようです。
前田夕暮 解説
本名洋造。明治16年7月27日、神奈川県大住郡大根村大字南矢名字小南(現秦野市南矢名)に生まれる。 大根村小学校入学、同校高等科を卒業し、明治31年、隣村の金目村にあった「中郡共立学校」 (現神奈川県立秦野高等学校)に入学。病のため中退。 22歳(明治37年)若山牧水と相前後して、尾上紫舟の門を叩く。 明治39年(24歳)歌の結社「白日社」を創立、44年短歌雑誌「詩歌」を創刊。 与謝野晶子の「明星」派浪漫主義に対抗、自然主義的短歌(感覚的で印象・絵画的)を確立した。 明治43年3月(28歳)処女歌集「収穫」を出版、牧水の「別離」と共に「比翼詩人」(太田水穂)と称され、 明治末から大正初期の歌壇に「牧水・夕暮時代」(斎藤茂吉)を画す。 昭和初頭、定型から口語自由律短歌に転向し、新しい日本の詩として「新興短歌」に賭けた。 昭和期の短歌運動を考えるとき、その先駆的、時代的意義は高く評価される。晩年、定型に復す。 実に40余年、歌集十数集、散文・随筆九集、その他の著作を成し、常に文学としての短歌を追求し、 近代短歌史上自然主義主法による歌壇の革新とし清新・異質な足跡を残した。 昭和25年10月、県立秦野高校創立25周年(草創から80年)の記念事業の一つとして、 国語教諭で歌人である杉山茂夫(長風)が、郷土の一大歌人、夕暮を永く語り継ぐべく、 歌碑の建立を生徒集会で訴える。 秦野市観光協会の建設費支援と、延べ150余名に及ぶ在校生・教職員・有志による、台石・礎石とりや、 山頂への運搬などの労力奉仕によって、夕暮のふる里ゆかりの弘法山、菜の花畑と秦野市内を見降ろす、 権現山山頂の富士に真向かう、この地に建立された。 自由律短歌による三歌碑に続き、郷里母校の在校生の手によって建立された、 史上希有なる定型短歌を刻んだ第四歌碑である。 因みに、夕暮は歌碑の完成を待たず、昭和26年4月20日、69歳で永眠。 枕辺のノートには「ふるさとの高校生 夕暮の歌碑」と書き記して筆を絶つ。 同年7月29日除幕。 ここに夕暮及び歌碑建立の経緯をも記し、永く顕彰する。
生くることかなしとおもふ山峡ははだら雪ふり月照りにけり
 (神奈川県立秦野高等学校同窓会、秦野市観光協会)
前田夕暮の碑の先に立つ平和塔を過ぎていくと権現山バードサンクチュアリがあります。 木製の壁には小窓が幾つも開いていて、向こう側を観察することができます。 窓から覗いてみると、林に設置されている水飲み場の脇には小鳥がやって来ていました。
水場にくる野鳥たち
メジロ 全長11.5cm。うぐいす色で目のまわりが白い。チーチーと鳴く。
ヤマガラ 全長14cm。オレンジ色のおなかが目立つ。ツーツーピー、ツーツーピーとゆっくりさえずる。
シジュウカラ 全長14.5cm。ほほが白く、白いおなかに黒いネクタイもよう。ツツピーツツピーとさえずる。
エナガ 全長13.5cm。白いおなかに黒とピンク色の翼が目立つ。尾が全体の半分の長さ、群れで生活。チーチーチー、チャッチャッ、ジュリリと鳴く。
ホオジロ 全長16.5cm。白い顔で目の下と口元に黒い線。飛ぶと尾の外側の白が目立つ。チチッ、チチッと鳴き、「一筆啓上仕候」のききなしでさえずる。
ジョウビタキ 全長14cm。オスのオレンジ色のおなかと、オス・メスのつばさの白い斑が目立つ。ヒッヒッと鳴き尾をふる。
ルリビタキ 全長14cm。背のるり色があざやか。脇のオレンジ色もポイント。ヒッヒッ、ギュッギュッなどと鳴く。
キビタキ 全長13.5cm。黒い体に黄色の胸、腰、まゆが鮮やか。さえずりが美しい。ピッコロピッコロ、オーシイー、ツクツク、チンチロリン。
オオルリ 全長16.5cm。顔が黒く背がるり色。昆虫などをフライキャッチでとらえて食べる。ピーリーリー、ポイヒーピヒ、ピールリピールリ、ジェッジェッなどとさえずる。
エゾビタキ 全長14.5cm。オス・メス同色で胸の縦じま模様が特色。ハエなどをフライキャッチしたり木の実を食べたりする。渡り途中にチリリ・・・・と鳴く。
小鳥たちにエサを与えたり、まいたりしないで、自然の小鳥を観察しましょう。 みんなの協力で楽しい公園にして下さい。
皆さんのバードサンクチュアリです。 譲り合ってバードウォッチングしましょう。
 (秦野市商工観光課)
バードサンクチュアリから引き返してきて弘法山へと向っていきます。 東側に続く道は何度か歩いているので、今回は西側から北を回っていく道を通っていくことにしました。 道標「弘法山 まわりみち」の指すコンクリート舗装された坂道を降っていきます。 かなり傾斜のある坂道を右へ曲がりながら降っていきます。 電波設備を過ぎていくと、円筒形のトイレが設置されていました。 その先からは傾斜が緩やかになって土の道になりますが、 車一台が通っていけるだけの幅があって歩きやすい道が続いています。 道端には赤色・白色・桃色などのツバキが花を咲かせていました。 キブシも淡黄色の房を垂らしていて、間もなく咲き揃うようでした。 雑木林の木々も若葉を出し始めていて、春の訪れを感じたりしながら進んでいきます。
馬場道
冬枯れの樹間から見える丹沢の山並などを愛でながら緩やかな道を進んでいくと、 山頂から7分ほどで広い道に出ました。 山頂から東側へ広い階段を降ってきた道で、脇には「馬場道(ばばみち)」の標柱が立っています。 角には道標が立っていて、左手の道は「弘法山公園 弘法山0.6km」、 右手の道は「弘法山公園 権現山(展望台)0.2km」、 今来た道は「弘法山公園 権現山(展望台)まわりみち」となっています。 この馬場道は、戦前には近在の農民が草競馬を楽しんだ所のようで、 山頂にある道とは思えない広い道になっています。 両側には桜が並木を作っています。 開花が近い季節とあって、雪洞が吊るされていて、花見の準備が進められていました。
馬場道を左手へ進み始めると、すぐの所に「秦野たばこ」の解説板や記念碑が立っています。
秦野とたばこの歴史
秦野は、江戸時代初期から、「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及ほし、 味の軽いことから吉原のおいらんに好まれるなど、高く評価されていました。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。
水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る。
と歌にも謳われたように、秦野たばこの特色は優れた耕作技術にありました。 特に苗床は、秦野式改良苗床として、全国の産地に普及したほど優秀なもので した。この苗床には弘法山をはじめ各地区の里山から落ち葉がかき集められ、 堆肥として使用されました。秦野盆地を囲む山林はたばこの栽培に欠かすことのできない場所でした。 明治時代には、秦野煙草試験場や葉煙草専売所が設置され、たばこの町秦野 が発展しました。秦野たばこは水車きざみ機の開発により、大いに生産が拡大 しました。また品質の高さから、御料用葉煙草も栽培されました。 昭和に入って両切りたばこの需要が増えると、次第に秦野葉の栽培は減少し ていきました。秦野市が誕生してからは都市化が進み、昭和59年にはた ばこ耕作そのものが終わりを告げました。 秦野のたばこ栽培は300年以上の長い歴史を持ち、多くの篤農家や技術者を 生み出し、その高い農業技術には今日に今なお継承され、秦野地方を埋め尽くし たたばこ畑はなくなっても、優秀な葉たばこを作った先人たちの心意気はこの 土地にしっかりと息づいています。
 (秦野市)
「秦野たばこ」の一生
たばこの里、秦野のたばこ作りは江戸時代初期からの歴史があり、その最盛期には、 ほとんどの農家がたばこを作りました。「秦野たばこは技術で作る」といわれ全国に名声を博すほどに なりましたが、時の移り変わりとともに衰退し、昭和59年には、ついにその幕を閉じることとなりました。 秦野の経済発展の源となった「たばこ耕作」が、時とともに人々の心から失われぬよう、 たばこ耕作終息10周年に当たり、秦野の「たばこ作り」をここに記します。 なお、たばこの廃作に当たっては、「秦野たばこ作りの火を消すな」と耕作の継続を希望する多数の 農家があったことを付記します。
 (昭和59年度廃作者一同)
1〜3月
(苗床期)
たばこ作りは、正月早々からの苗作りから始まります。 たばこの種子は、1グラムで1万2千粒あるといわれるほど小さいので、 苗床の管理には細心の注意を図り、たばこの芽が出ると、 自分の子供以上に大切に育てます。
4〜6月
(本畑期)
畑に肥料を施し、10アール当たり約4千本もの苗を移植します。 土寄、心止、芽かき、そして台風から苗木を守るための準備など、 休む間もなく仕事は続き、畑の品評会で入賞すると、畑に入賞旗が立てられます。
7〜8月
(収穫,乾燥期)
いよいよ収穫が始まります。この時期が一年で最も忙しい時期であり、 子供たちも学校が夏休みになるので、炎天下でまっ黒になって収穫を手伝います。 そして、収穫した「たばこの葉」は一枚一枚丁寧に縄に編み、竹につるして天火で乾燥します。
9〜10月
(葉のし,調理)
たばこの乾燥が終わると、互いに向き合って、葉のしわを一枚一枚手で伸ばす「たばこのし」が 始まります。この作業は「夜なべ仕事」といって、どの農家でも夜12時ごろまで裸電球の下で行います。 そして、伸ばした葉は、葉の質により等級に分別「調理」し、一束30枚ほどに束ねます。 たばこ葉は「お札」ともいわれ大切に取り扱われました。
11〜12月
(納付)
いよいよ牛車や荷車にたばこの葉を載せ、専売局に納入します。 専売局では、鑑定人が葉を鑑定し、値段を決めます。 この時が一番緊張しますが、この一瞬で農家の1年間の苦労が報われるかどうか決まり、 この瞬間悲喜こもごものドラマが展開されました。専売局の帰りには、夏休みに手伝いをした 子供たちへの土産や、正月の晴れ着などを買い込んで家路につきます。
 (秦野市観光協会)
解説板を過ぎていくと、右側にテーブル・ベンチが幾つか設置された展望地があります。 正面の樹木が切り払われていて、相模湾方面を見渡せる眺めが広がっていました。 この時には少し霞んでいましたが、相模湾には江ノ島が浮かび、その奥には三浦半島も見えていました。
展望地を過ぎていくと、男坂が左手に分かれています。 角には「男坂(おとこざか)」の標柱や、関東ふれあいの道の道標が立っていて、 左手の道は「秦野駅2.5km」、正面の道は「弘法山0.5km」、 今来た道は「権現山0.3km」となっています。 男坂への分岐を見送った先には「弘法山公衆トイレ」があります。 50円のチップを払って利用するのだそうです。
とって良いのは写真だけ 残して良いのは思い出だけ
ビン、カンの投げ捨て禁止!! ごみは持ち帰りましょう!!
 (秦野あづまライオンズクラブ)
燃やすまい みんなが来る山 歩く山
 (神奈川県)
「森に生きる」と題した彫像を過ぎていくと、女坂が左手に分かれています。 角には「女坂(おんなざか)」の標柱や、関東ふれあいの道の里程標があって、 正面の道は「蓑毛6.5km」、今来た道は「下大槻3.4km」となっています。 女坂は先ほどの男坂と合流して県道71号へと降りていけます。 西側の奥には富士山が頭を覗かせていました。
(女坂は「弘法山公園」, 「弘法山公園」を参照)
宝くじ桜植栽地
財団法人 日本宝くじ境界、財団法人 日本さくらの会、寒川県秦野市
女坂への分岐を見送った先で、東海大学前駅への道が右手へ分かれていきます。 今回はそこから降っていくのですが、その前に弘法山まで往復してくることにします。 車止めを過ぎていくと道が二手に分かれています。 角には「かながわの景勝50選 弘法山」の石碑があります。 「弘法山公園」と題した案内図があるので参考にしましょう。 以前には「弘法山公園案内図」もあったのですが、この時にはなくなっていました。 ここにも「熊出没注意」の看板が出ていました。 周囲には道標類が幾つか立っていて、 今来た道は「関東ふれあいの道 権現山0.6km」「関東ふれあいの道 権現山・南平橋」「弘法山公園 権現山0.5km」、 左手の道は「関東ふれあいの道 蓑毛」「めんようの里・木里館」、 右手の道は「関東ふれあいの道 弘法山0.25km」「弘法山公園0.3km」などとなっています。 今回は右手の道から弘法山へと登っていき、めんようの里を経てここまで引き返してきます。
弘法山公園鳥獣保護区区域図
この区域は鳥獣の捕獲が禁止されております。 鳥獣の保護にご協力をお願いします。
 (神奈川県)
マナーを守って楽しいハイキング!
★ゴミ捨て禁止 ★草花を大切に ★火気に注意
 (秦野市商工観光課)
弘法山 (標高235m)
車止めを過ぎて緩やかに登っていきます。 大きな石碑などを過ぎて少し進んでいくと、坂道付きの階段と尾根の上に続く道とに分かれています。 どちらの道を登っていってもいいのですが、今回は左手の階段を登っていきました。 トイレを過ぎて階段を登っていくと、弘法山の山頂に着きました。 権現山から25分ほどで到着しました。 登り着いた所には、時を知らせるために撞かれたという大きな鐘楼があって、 脇には真新しい「弘法山」の標識もありました。 また、秦野市出身の歌人・原久胤の歌碑や、関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」の解説板も設置されています。 「野鳥の水飲場」という小さな池もありました。
弘法山の歴史
弘法山の名前は弘法大師(774〜835)がこの山頂で修業したことから名付けられたとの伝承があり、 権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある。 弘法山は麓の龍法寺と深い関わりを持ち、戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。 鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。 弘法山の鐘は、享保頃(1716〜35)に龍法寺5世無外梅師と行者の直心全国が発願し、 弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。 明和3年(1766)に山火事でひび割れ、 再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の松操智貞尼の尽力により 徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て享和元年(1801)5月に完成した。 鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。 現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである。
 (秦野市)
鐘楼
ハイカーの皆様へ。 この鐘は、時を知らせる鐘として、正午、3時、夕刻等につかれ、長い間地域の人達に親しまれておりました。 大切に扱うとともに、むやみに鐘をつくことは御遠慮下さい。
 (秦野市観光協会)
関東ふれあいの道
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里を見直してみませんか。
弘法大師と桜のみち  このみちは県内17コースのうち9番目のコースです。 秦野市南平橋から桜の名所権現山・弘法山へ、 旧矢倉沢街道を経て伊勢原市国道246号坪ノ内バス停までの全長9.4kmの道です。 なお、途中から鶴巻温泉や善波峠を経て高取山、浅間山へも行くことができます。
 (環境省、神奈川県)
鐘楼の前には「弘法の乳の水」という井戸もありました。 つるべがふたつ吊るされていますが、井戸は金網で塞がれていて使えません。 その替わりなのか、脇に手押し式のポンプが設置されています。 今でも使えるようになっているので、ちょいと飲んでみることにしました。 呼び水を差す必要もなくて、柄を2・3回ほど上下させるだけで簡単に水が出てきました。 頭がキーンとなるほど冷たくはありませんが、暑い夏場には嬉しい水です。
弘法の乳の水
この井戸は、昔から「弘法の乳の水」と呼ばれています。 この井戸から湧き出た水は、白くにごり、いつも乳の香りがしていたそうです。 いつの頃からか「真夜中に、誰にも知られずに山に登り、 乳の水を飲むと、乳がどくどくと出るようになる」と伝えられ、 この水をいただきに山に登る人が後を断たなかったと言われています。 いつの世も、子を持つ親の心は変わりません。 乳の出ない辛さにワラをもつかむ気持ちだったのでしょう。 その救いの神がこの白い井戸水でした。 なぜこんな山頂に不思議な白い水が・・・。 それは弘法さまのお力だと伝えられています。
 (秦野ラインズクラブ)
乳の井戸
山頂に白色の水の湧く古井戸がある。 これで粥を炊き食すれば乳が出るという信仰から「乳の水」と称して 昭和30年代初めまで授乳期の母親や妊婦が遠方からも水を求めてきた。 かつてはこの井戸の脇に二つの池があり、夏には太い柳の下で蛙が鳴き、 金魚の紅い色が水面に映じて美しく静かな時が流れていたが、 関東大震災の後に水涸れが起こり一つを埋めてそこに桜を植えた。
 (秦野市)
左手には釈迦堂があります。 この時には御開帳されていて、安置されている弘法大師像を見ることができました。 綺麗な花が飾られて、ミカンが乗った鏡餅もお供えされていて、丁寧に祀られているようでした。 大師堂とも呼ばれて、麓の南矢名地区にある龍法寺の境外仏堂なのだそうです。
釈迦堂(しゃかんどう)
山頂には弘法大師の旧跡であることから、古くより福泉庵という堂があった。 江戸時代の中頃に龍法寺の僧馨岳永芳はこの荒廃を嘆き新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を祭って釈迦堂としたが、明和3年の火災で釈迦像が焼失し、石造であった弘法大師像はこの時から露座となった。堂の再建後は弘法大師の木造のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の台風で被害を被り長く仮堂であったが、昭和39年に現在の釈迦堂が完成した。
経塚  釈迦堂の後部には鎌倉時代後期の経塚があった。 経塚は経典を書写したものを埋納した仏教上の施設で、末法思想から生まれた。 日本では平安時代末期に出現し、藤原道長が金峰山に般若心経一巻他を埋納した事が知られている。 弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され当時は大甕の口縁部が露出した状態で、経石も散乱していた。
 口縁部が楕円形をし、長径68cm、深さ75cm、腹部から急に細くなっている。
経石 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石経、経題のみ大型石に記載されていた。
経筒 鋳銅製経筒の一部と見られる破片が出土、推定直径12cm。その他陶製の灯明皿が出土している。
 (秦野市)
弘法山の山頂は樹木に覆われていて展望は余りよくありませんが、東側が開けています。 遠くは少し霞んでいましたが、秦野の街並みの奥には江ノ島が浮かび、 その奥には鎌倉から逗子や葉山にかけての三浦半島も見えていました。 お昼にはまだ少し早い時刻でしたが、幾つか設置されているベンチに腰を掛けて昼食タイムにしました。
美化ボランティア推進運動 弘法山をきれいにする会
この公園は、わたしたちボランティアが美化・清掃等の活動を行っています。 美化ボランティア活動への協力と参加をお願いします。
 (秦野市)
かながわの探鳥地50選 弘法山公園
この付近で見られる主な野鳥
メジロ、シジュウカラ、ホオジロ、コジュケイ、エナガ、エゾビタキ、アオジ、コゲラ、イカル、キジバト
 (鳥もすめる環境都市 秦野市)
お腹も満ちたところで、弘法山から下山していきます。 南東側へ降っていく道もありますが、 今回は釈迦堂の裏手の大きなイチョウの木の脇から北側に続く横木の階段を降っていきます。 降り口には道標がふたつ立っていて、「聖峰4.6km・高取山4.0km」、 「鶴巻温泉駅3.9km」「吾妻山3.0km」「弘法の里湯・宮永岳彦記念美術館3.8km」となっています。 植林帯から雑木林へ入っていくと、木の根が張り出していたりもしますが、 道は広くて歩きやすくなっています。 明るい雑木林の中を降っていくと、左手に戻るようにして分かれていく道があります。 弘法山の山頂から3分ほど降って来た所になります。 脇には道標が立っていて、正面の道は「鶴巻温泉駅3.7km」、今来た道は「弘法山0.2km」となっていて、 左手の道は何も示されてはいません。 広い道になっていて以前から気になっていたので、今回はこの左手の道を歩いてみることにしました。
めんようの里
歩き始めは広いのですが、進むにつれて次第に狭まってきます。 1分ほど進んで植林帯の手前までくると緩やな道は終わって、右手に降っていく細い急坂が現われます。 その坂をひと降りすると梅林に降り立ちました。 正面へ進んで舗装路に降り立つと、正面にはめんようの里が広がっていました。 左手へ進んでいくと、「かながわの景勝50選」の石碑のあった分岐から降ってきた道路に出ます。 道のすぐ傍まで牧草地が広がっていて、「めんよう」が何頭か放牧されていました。 柵の間近まで来て、子供達からみずみずしい草の葉を貰って食べていました。 「綿羊」と書くことからも推測されるように、「メエ〜」という声で鳴いていました。
めんようは顔が黒いのと白いのがいましたが、種が違うのか雌雄の差なのかは分かりませんでした。 時々走ったりもしていましたが、おっとりとしているように見えて、意外と速く走ります。 自分の方に向って走ってくると、結構迫力がありました。 牧草地の先の方には牧舎があります。 その奥には丹沢の山並が広がっていました。 善波峠から丹沢大山へと続く尾根や、表丹沢の稜線がよく見えていました。 めんよう達や山並などを眺めながら、しばらく時を過ごしていきました。
左手へと続く舗装された広い坂道を登っていきます。 弘法山へ登っていった「かながわの景勝50選」の石碑の立つ分岐まで来て、 馬場道をその先へ引き返していくと、左手へ横木の階段が分かれて降っていきます。 角には道標が立っていて、左手の道は「東海大学前駅」、正面の道は「関東ふれあいの道 権現山」、 今来た道は「関東ふれあいの道 弘法山」となっています。 脇には「百八松明」の解説板も立っています。 今回はここから龍法寺へと降っていきます。
百八松明(ひゃくはったい)
秦野市南矢名瓜生野地区に室町時代から伝わる旧盆の行事として続いている厄除、豊作を祈る火の祭りです。 旧盆の8月14日と15日の夕刻、麦わらで作った直径30〜40cm、長さ1.0〜2.5mのたいまつ約70本を権現山に運び、 午後7時過ぎに点火、参加者がかついで麓の龍法寺の山門付近までおろします。 暗い山の斜面をえんえんと動くたいまつは火の帯となってたいへん壮観です。
 (秦野市観光協会)
雑木林の斜面に、幅の広い横木の階段が続いています。 クネクネと折れ曲がりながら3分ほど降っていくと、開けた斜面に出ました。 右手にはミカン畑が広がっていて、奥の方には低い山並が横たわっていました。 渋沢丘陵でしょうか、それとも大磯鷹取山の周辺でしょうか。 道端にはタンポポが綺麗な花を咲かせていました。 貯水槽の設置された所まで降っていくと幅も広がって、舗装された道になってきます。 斜面に広がる畑地で使う農道のようでした。
道端に咲く薄紫色の花を愛でながら、畑が広がる斜面を道なりに降っていくと、道が左右に分かれています。 降ってきた道を指す道標「弘法山公園」が左手から見える向きに立っていたので、左手へと降っていきました。 水溜めを過ぎて更に降っていきます。 畑に咲く菜の花を愛でながら、少し傾斜が増してきた坂道を降っていくと、 左右に通る車道に降り立ちました。 馬場道から11分ほどで降りて来られました。 手元の地形図によると、この車道は、権現山の西側を巻いて、瓜生野地区と曽屋地区を結んでいる道で、 権現山へ登っていく所にあった浅間山駐車場へ続いているようです。 角には道標が立っていて、左手の道は「東海大学前駅」、今降って来た道は「弘法山公園」となっています。 ここにも「熊出没注意」の看板が出ていました。
道標に従って、車道を左手へ降っていきます。 土手には春の草などが芽を出していました。 スカンポも茎を伸ばしていて、酸っぱい香りを辺りに漂わせていました。 手頃なのを見つけて1本食べてみましたが、昔懐かしい味がしました。 墓地への道を左手に分けていくと、道の脇には竹林が続くようになります。 右手に沢が流れるようになった道路を降っていきます。 赤い屋根の建物を過ぎて沢に架かる橋の所まで来ると、左手に大きな門柱が立っています。 車道に降り立った所から7分ほどの所になります。 右手の柱には「亀谷山」、左手の柱には「龍法寺」と刻まれていました。 ここが百八松明の解説板にも載っていた龍法寺への入口になります。
龍法寺
坂道を登っていくと、道が左右に分かれていきますが、 正面にある短い階段を登っていくと龍法寺の境内になります。 右手に並んだ石仏を過ぎていくと、短い石段の先に本堂がありました。 先ほど見えていた赤い屋根の建物は、この龍法寺の本堂のようでした。 右手には寺務所や庫裡と思われる建物がありました。 本堂の前には背の低い五輪塔が幾つも並んでいました。 この時は法事が行われる前だったようで、喪服を着た人達が大勢集まってきていました。
龍法寺
山号を亀谷山と号す。 古くは真言宗であったが、大永・享禄のころに陽始ァ甫大和尚によって現在の曹洞宗に改められたという。 周辺には境外仏堂の釈迦堂のある弘法山を始め、真言沢など真言宗時代の面影を残す。 境内にある数基の五輪塔の他、本堂裏の道路沿いから出土した多量の瓦片は共に鎌倉時代のものであり、 弘法山山頂の鎌倉期の経塚と共に歴史の古さを物語っている。 当寺には平安末期の薬師如来立像・十一面観音菩薩像立像の他、 天文三年鎌倉の仏師長盛が造立したことを示す不動明王立像と毘沙門天立像などを安置する。
 (秦野市観光協会)
秦野市指定重要文化財 木像毘沙門天立像・木像不動明王立像
毘沙門天像は、寄木造、彫眼で、高さは113.3cmの像である。 やや大きめの兜をかぶり、宝塔を持つ左手を肩の位置まで上げ、右足を一歩出して踏ん張っている。 不動明王像は、左手を大きく外にはずして高い位置で羂索をとる、寄木造、高さ115.7cmの像である。 憤怒像にしては動きが少なく、顔の表情も穏やかな像である。 両体とも頭部内の墨書から、天文3年(1534)に鎌倉仏師の大蔵長盛によって造立されたことがわかる。 製作者及び造立年代がはっきりしていることは、資料的にも貴重なものといえる。
 (秦野市教育委員会)
町内会館前(ちょうないかいかんまえ)バス停
龍法寺から引き返して正面に続く道路を1分ちょっと進んでいくと、左右に通る車道に出ます。 正面には南矢名上部町内会館があります。 その左手の数10m先に町内会館前バス停があります。
東海大学前駅(小田急小田原線)まで、東海大学前駅行きバスにて8分、 1時間に3本程度の便があります。
ここを通るバスは東海大学前駅からの循環バスになっていて、 南矢名地区を反時計方向に回って引き返していく、一方通行の運行になっています。