横浜中区
散策:2010年02月中旬
【街角散策】 横浜中区
概 要 横浜は日本のほぼ中央に位置する神奈川県の県庁所在地で、東京23区に次いで日本で2番目の大都市です。 開国時代の面影も随所に残っていて雰囲気のある街です。 今回は、大桟橋から象の鼻パークを経て赤レンガ倉庫へと続く開港時代の横浜港の中心部であった海岸沿いを歩いていきます。
起 点 横浜市 日本大通り駅
終 点 横浜市 馬車道駅
ルート 日本大通り駅…横浜海岸教会…開港広場…横浜開港記念館…象の鼻防波堤…大桟橋…山下臨港線プロムナード…開港波止場…開港の丘…新港橋梁…赤レンガ倉庫…万国橋…馬車道駅
所要時間 2時間40分
歩いて... 最初のうちは曇天でしたが、昼を過ぎて小雨が降り出し風も出てきて、寒い中での散策になりました。 条件が良いと富士山も望めるようですが、生憎の天候のため見えませんでした。 大桟橋や象の鼻などを訪ねてから赤レンガ倉庫へ向かっていくと、 中には各種ショップやレストランなどが入店していて、多くの人で賑わっていました。
関連メモ 横浜みなとみらい21, 横浜中区, 横浜中区, 港の見える丘公園, 横浜みなとみらい21
コース紹介
日本大通り(にほんおおどおり)駅
日本大通り駅(みなとみらい線)から歩いていきます。
ホームからエスカレータで登って改札口を出ると、 正面に「駅周辺案内」があって、 大桟橋までの道が図示されているので参考にしましょう。 通路の壁面には、横浜港を描いた大きな絵が三点取り付けられていて、 「近代下水道発祥の地」の解説板もありました。 大桟橋へは「出口2」か「出口3」が良いようですが、今回は「出口3」から地上に出ていきました。
近代下水道発祥の地 横浜「大下水」
貴重な土木遺構「大下水」
大下水(おおげすい)とは、明治10年代に館内外国人居住地(現在の山下町一帯)で築造されたレンガ製の下水管のことです。 近代下水発祥の地・横浜の歴史を物語る貴重な土木遺構といえます。 当時は、この大下水などで居住地の下水を集めて海に放流していました。 卵形を逆さまにした断面は、下水の流量が少ない時でも流速を確保して、 汚濁物が管底に堆積しないよう流れていく工夫がされています。 この写真は、平成8年12月に、ここ日本大通り駅の建設現場から掘り出された大下水の一部です。 現在実物は、中区本牧十二天の中部水再生センターに保存しています。
ほかにもあります「昔の下水道」
レンガ造り下水道マンホール
大下水と同時期に建設されたレンガ造り下水道マンホールの原寸大模型が、 横浜都市発展記念館(この先の3出口情交センター口を出た建物)4階常設展示室でご覧になれます。 このマンホールは平成13年10月に日本大通り神奈川県庁前で発見されたもので、 炭箱を用いた臭気対策を施しています。 現在では発見場所で埋め戻されています。 また開港広場ではこのマンホールの実物がご覧になれます。
 (横浜市環境創造局事業調整課)
エスカレータを乗り継いで地上に出て、右手へ進んでいきます。 すぐの所にある大さん橋入口交差点を左折していくと、 ビルの前に「電話交換創始之地」と題した記念碑がありました。
電話交換創始之地
横濱電話交換局跡
明治廿三年十二月十六日開始
紀元二千六百年記念
 (逓信省)
電話交換創始の地
明治23年(1890)12月16日、この場所にあった横浜電話交換局において、 横浜と東京間及び市内にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。
 (日本電信電話株式会社)
横浜海岸教会
電話交換創始之地の記念碑を過ぎていくと、左手に横浜海岸教会がありました。
横浜海岸教会
我が国最古のプロテスタント教会につながる由緒ある教会堂。 明治8年(1875)鋳造の鐘を今も開港広場に鳴り響かせている。 鐘塔の屋根の庇と塔の庇が重畳するなど、個性的な造形がこの建物の魅力。
開港広場
横浜海岸教会の隣りが開港広場になっています。 歴史的な日米和親条約締結の地だったようで、 池・時計塔・大砲・マンホール・下水管などもありました。
(画像を左クリックすると、写真が順次表示されます)
日米和親条約締結の地
安政元年(1854)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。 これは、神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。 歴史的舞台となった応接所のあとは、現在の神奈川県庁の付近である。
 (横浜市、神奈川県、横浜市観光協会)
時計塔について
この時計塔は、右図のポールをデザインしたものです。 明治24年(1891)頃、このポールは大桟橋付近に設置されており、 暴風雨の際に旗を掲げて港近くの船に信号を送っていたものです。
 (住みよい中区をつくる会)
旧居留地90番地の大砲
口径11.5cm 全長282.5cm 重量1480kg
外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社、 シーベル・ブレンワルト商会(慶応元年(1865)創立)があり、 明治維新の際の戊辰戦争中は武器の輸入も行っていました。 昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され、展示されておりましたが、 平成15年(2003)、横浜市に寄贈されました。 この大砲は、鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲です。 使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、 大正12年(1923)の関東大震災の時に、地中に埋まってしまったのではないかと推察されます。 明治43年に出版された書籍に、同社の「倉庫の入り口に、明治初年に武器を扱っていた記念として大砲が備え付けられていた」という記載があります。 明治初年の外国人居留地の外国商館と、取扱商品並びに輸入先がわかる遺品として、貴重な資料です。
 (横浜市教育委員会)
明治10年代に築造されたレンガ造りマンホールと下水管
明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地(現在の山下町と日本大通りの一部)一帯で下水道改造工事が実施され、 卵形レンガ管と陶管の下水道が整備されました。 その下水幹線7本とマンホール37ヶ所はレンガ造りで、 材料のレンガは、東京府小菅の東京集治監のレンガ工場に注文して築造されたものです。 設計者は東京大学理学部第1回卒業生、当時神奈川県土木課御用掛の三田善太郎氏で、 これは日本人が設計したわが国最初の近代下水道と言えるでしょう。 このマンホールは明治15年頃築造されたもので、昭和57年4月にこの公園の整備中に発見され、 当時のままの状態で保存されています。 平成10年9月に下水道設備ではわが国初めての国登録有形文化財に登録されました。
 (横浜市下水道局)
横浜開港記念館
開港広場の隣りには横浜開港資料館がありますが、立ち寄るのは省略しました。
横浜開港の歴史
横浜は、安政6年(1859)の開港をもって歴史の第一歩を踏みだしました。 戸数150戸に満たない寒村に、修好通商条約により、幕府は急きょ開港場を建設し、 日本人商人の移住を勧めました。 その後外国人の居留、生糸・茶などの交易によって横浜はにぎわい、 明治後期には世界につながる国際港都へと変ぼうしていきました。 また、横浜は文明開化の中心であり、日本の近代化の先駆をなした都市でもあります。 開港場になった関内地区のまちづくりにより、ほぼ中央(現在の日本大通り)から西に日本人町、 東に外国人居留地が設けられ、運上所(現・神奈川県庁付近)前の海岸には波止場が築かれました。 彼我公園(現・横浜公園、明治9年開設)をはじめ、日本大通り(明治12年開通)などの街路、 近代下水道、上水道、ガス灯などは、横浜から全国に広がり、 近代的都市計画の先駆となった場所でもあります。 明治27年(1894)には、波止場に鉄製の大さん橋が完成し、 この開港広場付近は、名実ともに日本の表玄関となりました。 横浜は、大正期以後、震災、戦災、接収、さらに人口急増などの相つぐ苦難の時代がありましたが、 今日、人口330万人を越す大都市となり、 その中心部である関内地区では歴史を生かした魅力あるまちづくりが進められています。
横浜開港広場
大さん橋付近は日本の開港の地であり、横浜の都心地区として発展した現在も、 外国船の入港など横浜の玄関として市民に親しまれております。 ここに「港町・ヨコハマ」の歴史や国際性のシンボルとして広場をつくり、 横浜開港(1859年)にちなんで「開港広場」と名づけました。 開港広場は、山下公園や大さん橋とともに訪れる人々の憩いの場となり、 将来はみなとみらい21地区など新しい都心地区との接点となるものです。
1 開港の泉(円形池と噴水)  この広場の中心に海を表現した池と噴水が設置されています。 このような池と噴水は、ヨーロッパの都市広場にも見られる浅床式の池と樹氷形の噴水です。 水面は、潮の干満を表わし、最大直径6メートルまで広がり、また噴水の高さは約2.0メートルまで噴き上がります。 池の底には、ペリー来航当時のアメリカの軍艦に多く使用されていた羅針盤を型どった鋳鉄板が敷かれています。
2 石の舗装  噴水囲りの路面は金峰石と白大理石の小鋪石を使い、波模様をデザインしたもので、 海と横浜との関係を表現しています。
3 サークルミラー  噴水の周囲に12基設置してあるステンレス柱で、表面が鏡面状にみがかれています。 このため、周辺の風景や空が映り、独特の空間を形成しています。 また夜間サークルミラーの足もとから放たれる光は、噴水を照らします。
4 友好・姉妹都市の市章と姉妹港のシンボルマークのプレート  横浜市との姉妹都市・友好都市・横浜港との姉妹港の市章とシンボルマークを真鍮製の鋳物板に型どり、 噴水の周囲に配置してあります。 各プレートの位置は、噴水の中心を横浜として横浜からの方位と距離を表わしています。
5 街路灯  ガス灯は、明治5年、横浜で点灯され、日本で最初といわれていますが、 開港広場周辺の街路灯は、米国型のガス灯をモチーフにして製作したものです。 灯具の笠は銅製、柱上部にはアームが取り付けられていて、 催し物や祭典の際には、旗(バンナー)を取り付け、華やかさを演出するデザインとなっています。
6 レンガ造マンホール(人孔)と卵形管  明治14年〜20年(1881〜1887)ごろ館内居留地(現在の中央山下町と日本大通の一部)の一帯に 整備されたレンガ造の下水道マンホール(人孔)と卵形の断面をした下水管です。 この広場公園の工事中に発掘されたもので、わが国の近代的下水道施設として歴史的価値が高く評価されており、 現形のまま保存したものです。
7 「日米和親条約締結の地」碑  日本の開国を告げる「日米和親条約」が調印されたのは安政元年(1854)3月3日のことです。 その調印の地は、この開港広場から神奈川県庁にかけての一帯で、 横浜開港資料館中庭の「玉楠の木」附近ともいわれています。 昭和29年(1954)6月2日の開国百年際に、これを記念し横浜市と神奈川県と横浜諸侯会議所の三者によって 「日米和親条約締結の地」碑が建てられました。
歴史的資産と広場  広場周辺には横浜開港資料館(旧英国領事館)や海岸教会、税関、県庁旧館があり、 広場のデザインは、こうした歴史的建設物との調和をはかり、 照明やストリートファニチャーには、大さん橋からの軸線を配慮しています。 また開港広場前交差点の改修と大さん橋入口プロムナード道路の整備を合わせて行なっています。
 (横浜市中土木事務所)
開港広場の先には開港広場前交差点があります。 手前に立つ案内標識「大さん橋300m」に従って、横断歩道を渡って正面に続く道を進んでいきます。 「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」と書かれた山下臨港線プロムナードの下をくぐっていきます。 両側には往時の横浜港を描いた絵が掲示されています。 (写真は右側に掲示されている絵です)
明治43年(1910)頃の横浜港
中央に伸びているのが明治27年(1894)創建の大桟橋。 1923年の関東大震災で壊れるが、昭和初期の復旧工事などを経て、現在にいたっている。 大桟橋の中ほど左手に、現存する「象の鼻」突堤が見える。
 (横浜開港資料館所蔵)
象の鼻防波堤
山下臨港線プロムナードの下をくぐっていくと、左側に象の鼻パークがあります。 象の鼻防波堤・ピア象の鼻・開港波止場・象の鼻テラス・開港の丘などから成っているようです。 ここでは象の鼻防波堤の先まで行ってみました。 正面にはみなとみらい21地区のビル群が間近に見えていました。
象の鼻パーク
象の鼻パークは横浜港発祥の地であり、横浜の歴史と未来を結ぶ象徴的な空間として、 開港150周年を記念し整備されました。
開港波止場  開港波止場は港をかじることができる開放的な広場です。 明治時代に港の荷役作業で使用された軌道と転車台の遺構が展示されています。
象の鼻防波堤  象の鼻防波堤は明治中期の姿に復元しています。 当時のガス灯を模した照明灯が設置されているほか、 工事中に発見された関東大震災で沈んだと考えられる防波堤の一部を、そのままの形で保存・展示しています。
開港の丘  開港の丘はゆるやかな斜面の草地広場です。 ゆっくり腰をおろして港の雰囲気を楽しむことができます。
象の鼻テラス  休憩施設である象の鼻テラスは、文化観光交流の拠点としても活用しています。
クリーンパネル  象の鼻防波堤から象の鼻パーク全体を包み込むようにスクリーンパネル(照明)が整備されており、 港の夜景を彩ります。
 (横浜市港湾局、大さん橋ふ頭事務所)
象の鼻防波堤
安政6年(1859)の横浜開港に伴い、幕府は開港場の中央部に波止場を建設し、 その中心地点に運上所(税関)を設置しました。 この波止場は、2本の突堤が岸からまっすぐに海に向かって突き出た簡素なもので、 東側の突堤は外国貨物の、西側の突堤は国内貨物の積卸しに使用されました。 突堤には外国の大きな船舶が直接横付けできないため、 沖に停泊している船舶から小船に貨物を移し替えて運んできましたが、 強風による高波の影響で小船の荷役作業はしばしば妨げられました。 慶応2年(1866)の横浜大火により被害を受けた税関施設などの復興と共に、 慶応3年(1867)、幕府は東側の突堤を延長して象の鼻のように弓なりになった防波堤を築造しました。 これが「象の鼻」のはじまりで、この防波堤によって囲まれた水域で行う荷役作業は一気に効率が上がりました。 象の鼻パークの整備工事においては、残されている写真や工事記録などを参考にして、 全体の姿が明治中期頃のものになるように復元工事を行いました。 工事中に、大正12年(1923)の関東大震災で沈下したと思われる象の鼻防波堤の石積みと舗装の石材が発見されたため、 一部をそのままの形で保存・展示するとともに、復元した石積みにも使用しています。
象の鼻パークを過ぎていくと、大さん橋ふ頭ビルの脇に、 大桟橋を支えるために101年間使われていたという「螺旋杭」が野外展示されていました。
101年間旧大さん橋を支えた螺旋杭
明治27年〜平成7年
螺旋杭は桟橋を支えるため下端に螺旋状の円盤が付いた杭で、 その形状を利用し人力で海底にねじ込まれたものです。 展示してある杭は関東大震災の復旧工事(大正13年〜14年)で施工されたものです。 長さ21m、円盤直径1.8m、重量約6t
大桟橋
大さん橋ふ頭ビルを過ぎたすぐ先に大桟橋があります。 1階は駐車場、2階は出入国ロビーや税関などになっていて、 屋上は一般公開されていて板敷きの広場になっています。 出入国ロビーに入ってみると、大きな模型帆船や横浜港に寄港した大型客船の写真が展示されていました。 また、ねぶたの模型も展示されていましたが、外国人向けのようで、英文の解説だけしか見かけませんでした。 無学のため誤訳している箇所もあろうかと思いますが、拙訳も載せておきます。
(画像を左クリックすると、写真が順次表示されます)
模型帆船「北光丸」
この模型帆船は、旧函館商船学校(明治12年開校)で生徒の騎乗操帆訓練用教材として大正2年(1913)に製作され、 展帆、畳帆や索具の取扱等を訓練し、幾多の商船士官育成のため貢献した由緒ある船です。 昭和10年同校廃校に伴い、現在の函館水産高校に引き継がれ日の目を見ないまま埋もれていたものを、 昭和56年社団法人・全日本船舶職員協会(全船協)の創立50周年記念事業の一環として、 海事思想の普及に役立たせようと譲り受け、運輸省航海訓練練習船「大成丸」で横浜港に運ばれました。 その後、全船協内に「北光丸」修復委員会が組織され船体補修の後、 横浜帆船模型同好会が艤装をおこない、復元の後、社団法人・横浜港振興協会に寄贈されたものです。
 (全日本船舶職員協会、横浜港振興協会、横浜市港湾局)
What is Nebuta ?
Origin and development of Nebuta
  There are many theories about the origin of the Nebuta Festival. One is that it originated with the subjugation of rebels in the Aomori district by "General TAMURAMARO" in the early 800's. He had his army create large creatures, called "Nebuta", to frighten the enemy.
  Another theory is that the Nebuta Festival was a development of the "TANABATA" festival in China. One of the customs during this festival was "TORO" floating. A "TORO" is a wooden frame box wrapped with Japanese paper. The Japanese light a candle inside the "TORO" and put it out to float on the river or the sea. The purpose for doing this is to purify themselves and send the evil spirits out to sea. "TORO" floating is still one of the most impressive and beautiful sights during the summer nights of the Japanese festivals. On the final night, "TORO" floating is accompanied by a large display of colorful fireworks. This is said to be the origin of the Nebuta Festival. Gradually these floats grew in size, as did the festivities, until they are the large size they are now.
  Today the Nebuta floats are made of a wood base, carefully covered with this same Japanese paper, beautifully colord, and lighted from the inside with handredsof light bulbs. In early August the colorful floats are pulled through the streets accompanied by people dancing in native Nebuta costumes, playing tunes on flutes and drums.
 Many Aomori citizens are involved in the building of these beautiful floats. The Nebuta designers create their designs patterned after historical people or themes. They begin developing themes immediately after the previous year's festivities come to a close. Consequently, it takes the entire year, first in the developmet, then in the construction of the Nebuta float.
  One of the reasons for the popularity of the Nebuta festival is that onlookers are invited and encouraged to participate. The sounds of the Nebuta drums and bamboo flutes inspire people to prepare costumes and begin practicing the Nebuta dances. As the beginning of the parade is signaled, "HANETO"(dancers) join hand-in-hand, and start their journey through the streets of Aomori. These dancers, colorfully arranged in Nebuta garb, welcome audience participation. Feel free to join in a circle and enjoy the festivities!
  We, the citizens of Aomori, would like to pass on this wonderful festival to our sons and daughters, in hope that it becomes a symbol of peace and hope to the coming generations.
  We welcome you to the Nebuta Festival and hope that you will have a wonderful experience.
ねぶた祭の起源と発展(拙訳)
ねぶた祭の起源には諸説があり、 800年代初頭に坂上田村麻呂が青森地区の反抗勢力を制圧した時に、 敵軍を威嚇するために作ったねぶたという大きな架空の動物が起源であるとする説や、 中国の七夕祭が起源であるとする説がある。 祭では灯籠流しが行われる。 灯籠とは木枠の箱に和紙を貼って中に蝋燭を入れたもので、邪悪なものを浄化するために川や海に流した。 灯籠流しは日本の祭の中でも、夏の夜を彩る印象的で美しい祭になっている。 最終日の灯籠流しでは、色鮮やかな灯火の大きな作り物も一緒に流され、 それがねぶた祭の起源だとされている。 回を重ねる度に徐々に大きくなってきて、現在のような大きな姿になった。 現在ではねぶたは木製で、和紙で丁寧に被われて彩色が施され、中には数百個もの電球が灯される。 8月初旬には、色鮮やかなねぶたが通りに引き出され、 人々は伝統あるねぶたの衣装を着て笛や太鼓を奏でながら踊る。 これらの美しいねぶたの制作には多くの青森市民が携わる。 歴史上の人物や出来事などを元にしてねぶたのデザインが決められる。 祭が終わるとすぐに翌年のテーマ選定に取りかかり、最初の構想から制作まで丸一年がかけられる。 見物者に参加するよう誘うことがねぶた祭の特徴である。 ねぶたの太鼓や笛の音が聞こえてくると、人々は衣装を準備しねぶた踊りの練習を始める。 パレードが始まると、はねと(踊り手)が手に手を取って踊りに加わり、青森の街を練り歩く。 艶やかなねぶたの衣装を纏った踊り手たちは見物者に参加るよう誘う。 踊りの輪に入って自由を満喫し、祭を楽しもう! 私たち青森市民は、この素晴しい祭が平和の象徴や来る時代への希望になることを願い、 息子や娘へ受け継ぎでいきたい。 ねぶた祭に来られて素晴しい体験をされますように。
広い屋上には「くじらのせなか」という愛称が付けられていて、まるで滑走路のように思えたりもしました。 中ほどには屋上広場があり、その先には大さん橋ホールもあります。 屋上の先の方にはネット敷きの上に芝が植えられていて、雰囲気が良くなっていました。
くじらのせなか
この屋上広場を多くの方々により一層親しみを持っていただくために、 平成18年7月13日(木)から9月30日(土)まで愛称を公募しました。 約4,000件の応募があり、審査の結果、上記の愛称「くじらのせなか」(最多26件)に決定いたしました。
ウッドデッキと芝生におおわれた屋上広場に公募で選ばれた愛称がつけられました。 その名のとおり、海に浮かぶ雄大なくじらのせなかをイメージさせる大空間がひろがります。
 (大さん橋プロジェクト)
芝生を大切に
この芝生は、人工土壌を土留めアングルで留めています。 また、給水ホースが芝生のすぐ下を通っています。 芝生に立ち入ると土壌の流出、ホース破れの恐れがありますのでご遠慮ください。
 (大さん橋プロジェクト)
くじらのせなかには5箇所の「ビューポイント」が設定されていて、簡単な解説文と写真が取り付けられています。 それらを確認しながら巡っていると、 銅鑼が高らかに鳴らされて、横浜港を一周する大型クルーズ船「ロイヤルウイング」が丁度出航していきました。 ランチクルーズ・ティークルーズ・ディナークルーズと、1日に3回運行しているようです。
(画像を左クリックすると、写真が順次表示されます)
ビューポイント【1】  赤レンガ倉庫が並ぶ、わが国初の近代的埠頭として大正3年(1914)に完成した新港埠頭と、 バックのみなとみらい21地区の高層ビル群のコントラストが美しいビューポイントです。 夜はライトアップされた赤レンガ倉庫とみなとみらい21地区の夜景が楽しめます。
ビューポイント【2】  赤レンガ倉庫から、みなとみらい21地区までが一望できます。 早朝には朝日に輝く黄金色のビル群、夕方には美しい夕焼けが楽しめます。 天kの良い日には、二つの赤レンガ倉庫の間に、遠く富士山を望むこともできます。
ビューポイント【3】  左から、キング(神奈川県庁)、その右上に塔の部分が見えるのがジャック(開港記念館)、 中央の県庁新庁舎をはさんで右側がクイーン(横浜税関)、そして手前に象の鼻(昔の桟橋)と、 横浜の歴史的建造物が一堂に会するビューポイントです。
ビューポイント【4】  鶴見つばさ橋とベイブリッジが一望できます。 大型客船の入出港が見られる絶好のポイント。 ベイブリッジの向こうから入ってくる客船、向こうへ去りゆく客船…出会い、再会、そしてしばしの別れ。 入出港時には、人の数だけドラマがあります。
ビューポイント【5】  氷川丸、マリンタワー、山下公園を望めるビューポイントです。 早朝には太陽の光を受けた、美しい山下地区が浮かびあがります。 手前に停泊しているのは、横浜市の海事広報艇「はまどり」です。
日本唯一のエンターテイメントレストラン船 ロイヤルウイング
ロイヤルウイングは大さん橋より出航し「横浜ベイブリッジ」・「本牧シンボルタワー」・ 「みなとみらい21」などをめぐり再び大さん橋にもどる港内クルーズ船です。 船内では本格中華広東料理のバイキングやコース料理をはじめ、 ケーキ&フルーツバイキングや飲茶セットなどもお楽しみいただけます。 もちろん乗船だけでもご利用いただけます。
大桟橋から引き返してくると、小雨が降るようになってきました。 風も出て一段と寒さが増してきたので、丁度昼時になって小腹も空いてきたことだし、 大さん橋総合ビルにあるお食事処「KAIKYO」で食べていくことにしました。 大桟橋周辺で働く人達のための海員生協の店のようで、立食形式の小さな店です。 メニューは、そば・うどん・丼物・カレー他となっていました。 讃岐うどんも良さそうでしたが、信州の山菜そばにしてみました。 かなり具が入っていてボリュームのあるそばでした。
山下臨港線プロムナード
ガードの所まで戻って来て右手の階段を登っていくと、山下臨港線プロムナードが続いています。 「山下臨港線」という名前の引込線がこの辺りを通っていたようです。
横浜税関遺構 鉄軌道と転車台
明治33年(1900)に発行された「横浜税関一覧」の付図には、横浜税関の上屋や倉庫の背後に、 縦横に走る鉄軌道(線路)やその交差部に設置された転車台(ターンテーブル)が描かれています。 右図に示されているのが象の鼻パークの整備工事中に発見された4連の転車台です。 これらの鉄軌道や転車台は概ね明治20年代後半に整備されました。 明治40年代の写真(右下)には、鉄桟橋(現在の大さん橋)方面に向かって敷かれた鉄軌道、 転車台、鉄軌道の上を走る台車状の車両が写っています。 鉄軌道の幅員は1.06mあり、わが国の一般的な鉄道の車軸幅と同じです。 また、転車台は、鉄部の直径が約2.5mありました。 この大きさでは回転できる車両の規模も限られることから、 発見された鉄軌道の敷地内で荷役作業を行うために設けられたものであると考えられます。 当時の工事記録によれば、当初は、鉄桟橋からの鉄軌道は税関敷地内を通って海岸沿いに大岡川河口部に至り、 横浜停車場(初代の横浜駅、現在の桜木町駅)に連絡する計画であったようです。
 (横浜市港湾局)
開港波止場
右手には、象の鼻防波堤で囲まれた開港波止場がありました。 港には浮き桟橋が幾つか設置されていて、各々には船が係留されていました。
象の鼻地区の波止場
象の鼻地区の波止場は、時代とともにさまざまな愛称で親しまれてきました。 開港当初の波止場は東西2本の直線状の突堤で、 東側の突堤は「東波止場」と呼ばれ、主に外国からの輸出入貨物の積卸しに使用されました。 西側の突堤は「西波止場」と呼ばれ、国内貨物の積卸しに使用されました。 元治元年(1864)、貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに「東波止場」が造られると、 象の鼻地区の2つの突堤を総称して「西波止場」と呼ぶようになりました。 フランス人建築家クリペによる「横浜絵図面」には、慶応元年(1865)当時の西波止場の姿が描かれています。 当時の水際線は、現在の横浜開港資料館の海岸通りの位置にあり、 2本の突堤はそこから海に突き出ていたと考えられます。 東波止場はフランス人居住区の前面にあったんで「フランス波止場」とも呼ばれました。 明治2年(1869)、象の鼻地区の前面にイギリス領事館(現在の横浜開港資料館の所在地)が建てられると、 西波止場は「イギリス波止場」とも呼ばれました。 西波止場の西側の突堤は、国内貨物用だったので「日本波止場」、 税関の建物に近いので「税関波止場」とも呼ばれました。 象の鼻パークでは、西波止場の西側の突堤の位置を、広場内の舗装パターンを変えることで表現しています。
開港の丘
プロムナードを進んで象の鼻テラスが見えてくると、芝地になった開港の丘があります。 広場の入口には「横浜市歌」の解説板がありました。 苫屋が並ぶばかりの寒村だった横浜が、今のような立派な国際港になったことを歌った曲のようです。 楽譜も載っていましたがよく見えなかったので、 横浜市のホームページに掲載されている楽譜を見ながらMIDIファイルにしてみました。
横浜市歌
横浜市歌は、開港50周年を祝して明治42年(1909)に制定されました。 作詞は明治・大正期の文豪である森林太郎(森鴎外)、 作曲は東京音楽学校(現東京芸術大学)の教師であった南能衛で、 南がつくった旋律の上に森が歌詞をつけたといわれています。 この横浜市歌は、明治42年(1909)7月1日(旧暦の6月2日)に横浜港の新港ふ頭で行われた「開港五十周年記念大祝賀会式典」の席で 初めて披露されました。 当時は7月1日を開港記念日としていましたが、昭和3年(1928)からは旧暦の6月2日を開港記念日としています。 現在も市立の小学校では、校歌とともに歌唱指導されているほか、 開港記念式典や入学・卒業式などの行事で演奏・斉唱され、市民に広く歌い継がれています。
横浜市歌 【♪演奏
作詞 森林太郎(森鴎外) 作曲 南能衛
わが日の本は島国よ  朝日かがよう海に
連りそばだつ島々なれば  あらゆる国より舟こそ通え
されば港の数多かれど  この横浜にまさるあらめや
むかし思えばとま屋の煙  ちらりほらりと立てりしところ
今はもも舟もも千舟  泊るところぞ見よや
果なく栄えて行くらんみ代を  飾る宝も入りくる港
新港橋梁
象の鼻パークを過ぎていくと、鉄橋が架かっています。 脇にある案内板によると新港橋梁というようです。 橋には線路が敷かれていたので、以前に走っていた山下臨港線の名残のようでした。
横浜市認定歴史的建造物 新港橋梁
建造年 大正元年(1912)
設計者 大蔵省臨時建築部
 (横浜市)
橋を渡っていくと赤レンガ倉庫があります。 1号倉庫の脇には冬季限定のスケートリンク「ArtRink」が設けられていました。 小雨が降る中でも、防寒服に身を包んた人達が元気に滑っていました。
赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫は1号倉庫と2号倉庫が並んで建っています。 当初はふたつの倉庫とも同規模だったものが、1号倉庫は震災で壊れ、 現在は2号倉庫の半分ほどの長さになったとのことです。 倉庫の中には各種ショップやレストランなどが入店しているので、 雨宿りも兼ねてちょいと入って、店をひと巡りしてみました。 1号倉庫では写真展や「横浜ダンスコレクションR2010」なども開催されていました。
赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫は、東洋で初めて築造された近代ふ頭である「新港ふ頭」に、 輸出入される貨物を税関が管理する倉庫として、国(大蔵省)によって建設されたもので、 耐震・耐火構造を採用した当時最新鋭の倉庫でした。 創建時から戦前までは横浜税関が管理し、葉煙草、羊毛、光学機器などの輸入品を取扱っていましたが、 戦時中は陸海軍の輸送司令部が管理し、戦後は米軍の港湾司令部として使用されていました。 米軍の接収解除後は、1号倉庫を横浜税関が、2号倉庫を横浜市が、それぞれ管理していました。 しかし、海上貨物のコンテナ化とともに次第に取扱量が減少し、 平成元年に倉庫としての用途が廃止されました。 横浜市では、この赤レンガ倉庫を、貴重な歴史的建造物として保存し、 「港の賑わいと文化を創造する空間」として活用するため、平成4年に国から取得し、 保存・活用工事を進め、平成14年4月に商業・文化施設としてオープンしました。
2号倉庫の2階と3階からは、外側のバルコニーへ出られるようになっていました。 重い扉を開けて出てみると、レンガで造られた建物であることを間近に感じることができました。 正面にはみなとみらい21地区のビル群を一望できる眺めが広がっていました。 壁際に置かれた椅子に座って、ひとり静かに読書に耽っている人も見かけました。
赤煉瓦倉庫の記憶
赤煉瓦倉庫は明治44年(1911)、318万個もの煉瓦を丹念に積み上げ、 当時国内初の荷役用エレベータの設置など最新の備えが施された模範倉庫として建設されました。 関東大震災や第2次世界大戦の大きな試練を乗りこえ、 戦前は保税倉庫として葉タバコ・羊毛・光学機器・洋酒・食料品、 戦中は軍隊の物資、戦後は米軍が接収しGHQの港湾司令部として利用されるなど、 広く海外とも繋がる常に時代の最先端のスピリットを持った建物なのです。
姉妹都市 横浜と上海
横浜の上海は共に19世紀中ごろの開港によって近代の幕開けを迎えました。 上海ではイギリス、フランス、イタリアなどのいわゆる租界、 横浜では外国人居留地を共に形成した独自の文化を生み発展を遂げた姉妹都市の関係にあります。 特にバンド(外難)と呼ばれる西洋商館や領事館の並ぶ上海の風景と 横浜館内居留地(現官庁街)の風景は、 共に西洋と東洋が交差するエキゾチックな雰囲気に共通点があります。
万国橋
赤レンガ倉庫からは汽車道を経て桜木町駅まで歩いていこうかと思っていたのですが、 雨が降り止まないので、少しでも近くにある馬車道駅へ向かうことにしました。 正面にある赤レンガ倉庫交差点の横断歩道を渡って西北西へ延びる道を進んでいくと万国橋交差点があります。 角に立つ案内標識「関内駅」「馬車道駅」に従って左折して万国橋通りを進んでいくと万国橋が架かっています。 運河には屋形船がずらりと係留されていました。 夏になると、横浜港内の遊覧に活躍するのでしょう。
万国橋を渡ってその先の海岸通四丁目交差点を直進していくと、 往時を偲ばせる姿をした横浜第二合同庁舎があります。 生糸検査所があった所のようです。 手前のレンガ造りの建物(4階建)が往時の生糸検査所を復元した部分で、 その背後に新たなビル(23階建)が建てられています。
横浜第2合同庁舎 旧生糸検査所
「キーケン」の名で親しまれていた建物。 耐震耐久性の問題から解体されたが、極力創建当時の状態に復元し、新築、再生を図った。 震災復興期の建築としては最大規模を誇り、横浜ゆかりの建築家遠藤於菟の晩年の大作である。
所在地 中区北仲通5-57
構造・規模 RC造4階、地下1階/現建物 RC・SRC・S造23階、地下3階
建築年代 大正15年(1926)/現建物 平成5年(1993)
指定・認定 横浜市認定歴史的建造物 平成2年(1997)7月
設計 遠藤於菟/現建物 建設省、関東地方建設局営繕部
施工 大林組/現建物 大林・前田・三井JV
馬車道(ばしゃみち)駅
本町四丁目交差点の手前までくると、馬車道駅地下道があります。 入り口の上部には「馬車道・関内駅方面」「馬車道駅連絡口6」と書かれています。 階段を降りていくと、馬車道駅へ降っていくエスカレータと階段があります。 降りてきた所は、出口6の「赤レンガ倉庫口」というようです。 赤レンガ倉庫に因んで、壁面は赤レンガ造りになっていました。 エスカレータを乗り継いで更に降っていくと、馬車道駅(みなとみらい線)の改札口があります。