小田原宿
散策:2009年12月中旬
【街角散策】 小田原宿
概 要 小田原宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋から9番目の宿場になります。 天下の嶮の箱根越えを控えて泊っていく旅人で大変に賑わった宿場で、 本陣が4軒、脇本陣が4軒あって、東海道随一の規模を誇っていました。 今回は国府津から小田原宿を経て、箱根の山へ登っていく手前の三枚橋までを歩きます。
起 点 小田原市 国府津駅
終 点 箱根町 三枚橋バス停
ルート 国府津駅…親木橋…小八幡一里塚…大見寺…酒匂不動尊…酒匂橋…新田義貞公首塚…山王神社…宗福寺…江戸口見附…江戸口見附一里塚…清水本陣…松原神社…小田原宿なりわい交流館…居神神社…板橋見附…地蔵堂…小田原用水…日蓮聖人霊跡…風祭一里塚…紹太寺…三枚橋バス停
所要時間 4時間20分
歩いて... 史跡などは残っていませんでしたが、各所に解説板などが設置されていて往時を偲ぶことが出来ました。 概ねは国道1号を歩きますが、国道から外れた旧道を歩く所もあって、昔の風情を感じたりもしました。 街道沿いには寺社などが数多くありますが、今回は訪ねるのをかなり省略しました。
関連メモ 塔ノ峰, 大磯宿, 箱根宿
コース紹介
国府津(こうづ)駅
国府津駅(JR東海道線)から歩いていきます。
改札口を出て、正面にあるバスやタクシー乗り場を右手から回り込むようにして進んでいきます。 駅前には「周辺案内図」があって、簡単な解説文も載っていました。 パンフレットを入れる箱もあって「ご自由にお持ちください」と書かれていましたが、 中には何も入っていませんでした。 また「国府津駅開業100周年記念」と題した記念碑もありました。
旧東海道沿いには寺社などが数多くあって、つぶさに訪ねていくと一日で終わりそうにもないので、 今回は街道歩きを中心とし、周辺にある寺社などを訪ねるのはかなり省略しました。
国府津駅開業100周年記念
明治20年7月11日開業
東海道本線の花形として活躍した蒸気機関車
国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とをからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より
−鉄道唱歌より−
みどころ案内
菅原神社 「国府津の天神さん」とよばれ、古くから地域の鎮守として長い歴史を見守ってきています。 また、学問の神様、菅原道真公をまつっており、初天神は、合格祈願の絵馬を奉納する参拝客や露店で賑わいます。 境内には、市の天然記念物のムクノキの神木があります。
真楽寺 浄土真宗(古くは聖徳太子の開基による天台宗の寺だった)の寺で親鸞聖人の霊場ともいわれ、 「真楽寺」という寺号も聖人に命名してもらったといわれています。 境内には市の天然記念物のボダイジュがあります。
宝金剛寺 この地方では最も古い寺院(平安時代初期)で、数多くの優れた仏像・仏画や古文書類が所蔵されています。 また、隠れた観梅の名所でもあります。 裏山には、死者の往生と仏果を本願とし、根府川石を利用した地方色豊かな表現の石塔婆があります。
田島横穴古墳 道路改修工事などによって発見された古墳で、32基が確認されています。 須恵器(古墳時代の陶質土器)など多くの遺物が出土しています。
国府津海岸 国府津駅の目の前に広がる国府津海岸は、市内でもっとも駅に近い海岸です。 晴れた日には江ノ島や伊豆半島まで見渡すことができます。 夏には無料の海水プールが開放され、市民の憩いの場所となっています。
みかん山からのながめ 国府津・田島地域には小田原の農産物で一番の生産高を誇るみかん畑が広がっています。 国府津から田島・下曽我方面へ抜ける山道からは、 富士山や伊豆半島、小田原市街地が一望できるビュースポットがいたるところにあります。
親木橋
緩やかな坂を降っていくと国府津駅前交差点があります。 そこを右折して旧東海道である国道1号を進んでいきます。 角には「国府津・曽我の里散策コース」の標柱が立っていて、 右手の道は「眞楽寺300m・菅原神社790m」となっています。 正面に箱根外輪山を眺めながら進んでいきます。 国府津保育園前交差点や岡入口交差点を過ぎていくと、森戸川に架かる親木橋を渡っていきます。 左手の先には西湘バイパスが通っていて、その先には相模湾が広がっています。 川沿いには松の木も生えていて、風情が感じられました。 親木橋を渡った所に親木橋交差点があります。 左手に架かる親木橋横断歩道橋を渡ってその先へと進んでいきます。
みかんの木オーナー募集
晩秋の国府津山でみかんの収穫を楽しんでみませんか!!
みかんの木のオーナーになると1本の木になるみかんが丸ごとあなたのものになります。 栽培管理は農家が行います。 相模湾からの潮風と太陽の恵みを十分に含んだ甘くて美味しいフレッシュなみかんが皆さんをお待ちしております。 晩秋の青空のもと富士山、相模湾、足柄平野を眺めながら、 この国府津山の自然の中でご家族、ご友人でみかん狩りを楽しんでみてはいかがですか。
収穫時期 11月下旬〜12月中旬、 料金 1本(40kg)8000円より
 (JAおだわら国府津支店、国府津フレッシュみかんオーナー会)
小八幡一里塚
「日本橋から79km」の標識の立つ親木橋西交差点を過ぎていくと、国道沿いに松並木が続くようになります。 老朽化対策なのか、幹の上の方が切断されていて背が低くなっていました。 直径が1mを越えそうな巨木もありました。 そんな並木道を進んでいくと、松がまばらになってきた所にある 小八幡三丁目交差点を過ぎた先に「東海道小八幡の一里塚」と題した解説板が立っていました。 この辺りに一里塚があったようですが、今ではその面影はありません。
東海道小八幡の一里塚
このあたりは、旧東海道に設置された江戸から19番目の一里塚があった場所である。 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、 東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。 塚は男塚、女塚と、街道に左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。 塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。 小八幡の一里塚について、天保年中の相模国風土記稿に 「東海道中の東にあり、左右相対せり、高二間、舗六七間、塚上に松樹あり。 上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」とある。
宮の前交差点や小八幡二丁目交差点を過ぎていくと、 漁場前バス停の先に「日本橋から80km」の標柱が立っています。 その先から再び松並木が続くようになります。 道の両側に生えている松を眺めつつ、往時の東海道を偲びながら歩いていきました。 酒匂歩道橋の下を過ぎていきます。
印刷局入口交差点を過ぎていくと、正面には箱根の二子山・駒ヶ岳・神山などが見えるようになってきます。 大市場バス停を過ぎた所に「道祖神」と刻まれた石碑がありました。 五輪塔や丸い石なども幾つか置かれていました。 その100mほど先にある酒匂県営住宅入口交差点を過ぎた所にも道祖神や五輪塔が並んでいました。 往時の東海道を行き交う旅人たちを見守ってきたのでしょうか。
大見寺
道祖神を過ぎていくと、道路の右側に「浄土宗光明山大見寺」の石柱が立っていました。 脇には「小田原市指定重要文化財」の標柱も立っていたので、ちょいと立ち寄っていきました。 両側が駐車場になった道を進んでいくと山門があります。 門から入っていくと正面に大見寺の本堂がありました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。 右手には庫裡と思われる建物があり、左手に墓がありました。 その中の一角に「小嶋家の宝篋印塔・五輪塔」がありました。
小田原市指定需要文化財 小嶋家の宝篋印塔・五輪塔
小嶋家は、鎌倉時代から家名が現れた酒匂の旧家で、北条時代には酒匂郷の小代官を務め、 江戸時代に入っても名主・組頭役を務めました。 小嶋家の墓地は、二箇所に区画されていますが、こちらの墓地にある二基の宝篋印塔のうち、 右側にあるやや小振りのものが徳治3年(1308)銘の墓石で、 同年6月に没した小嶋家の祖先の左衛門入道の墓です。 左側にある宝篋印塔が天文21年(1552)銘の墓石で、小嶋家の中興の祖、小嶋行西の墓です。 また、向かって右の墓地にある大きな五輪塔が天正2年(1574)銘の墓石で、 小嶋行西の子、左衛門太郎正吉の墓と考えられます。 以上の三つの墓石は、小田原市内にある個人墓のうち、年代を明記した最も古いもので、 構造も各時代の特色を良く示した貴重なものです。
 (小田原市教育委員会)
小嶋家由来
小嶋家開祖は、二階堂出羽守道蘊貞藤、源流を藤原氏とする。 争乱の南北朝時代の二階堂道蘊の武将としてのその盛名は「太平記」「新編相模国風土記稿」などに詳らかであるが、 さらに時代を遡って鎌倉初期の道蘊の父祖の事跡も明らかにされている。 二階堂道蘊の祖先、藤原行政について水戸徳川光圀卿編纂の「大日本史」は、 「父ヲ白尾三郎行遠トイフ 源頼朝ノ兵ヲ起スヤ 行政 往キテ之ニ従ウ」と述べ、 「出雲権守 山城守ヲ歴シ従五位下ニ叙シ 鎌倉政所ノ執事トナリ 二階堂ト称ス」と、 二階堂姓の由来に触れている。 南北朝後の政変により、二階堂姓を小嶋姓に改め、後北条時代には代官として過ごし、 江戸期においては小田原藩郡代として酒匂郷の民事にも意を尽くしている。 連綿として七百年に亘る家系を想いつつ、ここに新たに墓誌を建て、祖先の霊を慰めるものである。
 (十八代 当主)
酒匂不動尊
大見寺を出てすぐの所にある酒匂三丁目交差点を過ぎた左側に酒匂不動尊がありました。 正面の本堂には「ヤル気不動の滝」,「真言宗成田山不動明王小社」と書かれた表札が掲げられていました。 右手の手水舎には「酒匂不動延命水」の説明板もありました。 左手にあるお堂には、可愛らしお地蔵さんが描かれ 「念ずれば花が咲く」と書き添えられた絵馬が掛けてありました。
酒匂不動延命水
ここは明治21年行者海老原師により酒匂水行堂水修行道場として開かれました。 この延命水は地下より湧き純粋清冽にして霊験有。 どなた様も自由にお使い下さいませ。 合掌
のうまくさんまんだばーざらだんせんだ まーかろしゃーだそわたやうんたらたかんまん
酒匂橋
保健センター入口交差点を過ぎていくと、連歌橋交差点の先を流れる川に橋が架かっています。 名前は確認出来ませんでしたが、交差点の名前からすると「連歌橋」というのでしょうか。 その少し先にも川が流れていて、名もない橋を渡っていきます。 次第に前方が開けてくると、酒匂川東側交差点があります。 その先を流れる酒匂川に架かる大きな酒匂橋を渡っていきます。 正面には箱根の山々が連なり、左手には相模湾へと流れ込む河口部が広がっていました。 右手の方には矢倉岳も見えていました。 この時は生憎の曇天でしたが、条件が良いと富士山も見えるのでしょうか。 川面には水鳥が沢山いました。 白い色や黒めの色をしていたので、サギやウの仲間でしょうか。
往時の酒匂川は、10月から3月の間は橋が架けられていましたが、4月から9月の間は徒歩渡りだったようです。 季節によって橋を架けたり外したりしていたようです。
新田義貞公首塚
酒匂橋を渡ってその先へ進んでいくと城東高校前交差点があります。 旧東海道はそのまま国道1号を進んでいくのですが、左手の先に新田義貞の首塚があるので立ち寄っていきました。 交差点を左折して小さな橋を渡っていくと、少しずれた十字路があります。 その正面の建物の角の電柱に「新田義貞首塚」と書かれた看板が立てられていて、 首塚までの道が示されています。 案内に従って正面の道を進んだ所にある少しずれた十字路を右折していきます。 突き当たりまで行った所に解説板が立っていました。 そこを右折して細い道を進んでいくと、滑り台やベンチなどがある小さな公園があって、その横に首塚がありました。 正面に墓石のようなものがあり、左右には五輪塔が10基ずつ並んでいました。 左手には「新田義貞公首塚」と刻まれた石碑もありました。
新田義貞の首塚
建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。 義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、 妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。 しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。 その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。 しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。 なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。
山王神社
元来た道を戻って国道1号を進んでいきます。 常剱寺入口交差点・山王小学校入口交差点・東町交番前交差点・心光寺入口交差点と過ぎていきます。 沿道には白壁の土蔵もあったりして、古くからある街並みのようでした。 東町二丁目交差点を過ぎていくと、山王川に架かる山王橋を渡っていきます。 橋を渡ってすぐ右側に山王神社があるので立ち寄っていきました。 門柱から境内に入って鳥居を過ぎていくと、正面に山王神社の社殿がありました。 屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 境内には神輿庫などの建物などが幾つか建っていました。 境内には大きな松の木が沢山生えていて、小田原市の保存樹林にも指定されているようでした。
星月夜の社 山王神社
祭神 大山祇命、少彦名命、大山咋命
由緒  明応4年(1495)2月、北條早雲は小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模の国を平定した。 その頃の山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称え、海辺なる袖の池ノ南袖ヶ藪にありしが、 暴浪のためその地崩潰せしかば、慶長18年(1613)9月18日現地に移せりと。 旧社地に星月夜ノ井戸ありしより、一に星月夜ノ社とも称ふ。 其の井戸も移して現地にあり。 天正18年小田原陣のとき、徳川家康は日々参詣ありし由、 又旧領主大久保氏の祈願所にして、元禄中再建の用材は領主永世寄進の証状ありしと。 寛永元年(1624)4月4日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内にて由月夜の詩を詠む。 その詩にもある如く、当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所なりしと、 井戸も再現いたし、地底より湧き出る水面に浮かぶ大空の星影映る往昔の姿こそ誰が神秘といわんや。 この歴史ある社と共に、星月夜ノ緯度を史跡として長く後世に伝えん。
一、明治6年7月30日 旧足柄県に於て村社に定められる。
一、大正4年11月12日 新撰幣帛料供進神社に指定せらる。
一、5月5日 例祭
小田原市指定保存樹林
この樹林は、小田原市緑を豊かにする条例に基づき、 小田原市と市民が一体となって緑豊かな住みよい都市づくりをするために指定されたものです。
一、指定番号第一号
一、指定年月日昭和49年4月1日
一、所在地浜町4丁目30番15号山王神社
一、主要な樹種マツ
一、面積1,200u
 (小田原市ふるさとみどり基金)
山王神社の境内には「旧山王原村の図(及び網一色村)」と題した解説板もあって、 この辺りの歴史が記されていました。
旧山王原村の図(及び網一色村)
古くは原方村と称し、戸数は百一ヶ、東西六丁十九間、南北七丁。 早川庄より原方村が山王原村になったのは、天保年間には既に山王原村とあり、実に三百五十年の昔である。
明治6年学制発布、国民皆学により公立山王小学校創立、本村弘経寺を假用す
明治26年新校舎を今の所に建て、酒匂小学山王原分教場となる。
明治15年酒匂橋が初めて木橋で完成した。(従来は冬季のみ土橋)
明治20年新橋=国府津間に鉄道が開通した。
明治21年国府津=小田原=湯本間に馬車鉄道が開通する。
明治22年町村制施行、小田原は五ヶ町を統一して小田原町となる。村には字名がつく。
明治30年横浜=熱海間に気船が開通する。(小田原海岸経由)
明治33年国府津=小田原=湯本間に電車開通。日本で四番目、神奈川県で二番目。運行距離では日本一を誇る。(この年初めて小田原に電灯がつく)
明治35年9月28日午前10時、小田原大海噴起る。酒匂村(当時)死者33名、家屋流失187戸。
大正9年熱海線が小田原まで開通して国府津=幸町間の電車は廃止となる。
大正12年9月1日午前11時58分、関東大震災。マグニチュード7.9。相模湾北部を震源とす。酒匂村(当時)死者37名、家屋全半壊881戸。(参考、当時の全戸数1,081戸)
宗福寺
山王神社の隣りには薄茶色の壁が続いていて、その中に宗福寺があります。 門から入って正面の本堂があり、その右隣に庫裡と思われる建物もありました。 左手には墓地があって、水子地蔵もありました。 境内の右手には鳥居が立っていてその奥に山王大権現の社があって簡単な解説板もありましたが、 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
山王大権現は宗福寺の鎮守にて永録年間に草創勧請す。 往昔は隣地の山王川側に在しが、政府の神佛分離令により明治4年御身躰のみ奉持し 仮本堂内に安置して壱百五年慈今堂宇を建立し奉祠す。 別社白山妙理大権現稲荷大明神も合祀す。 天正18年四百年前小田原城征討の徳川家康公日参して戦勝祈願なされしと云う 以って如何に霊験あらたかであるかを知るべし。 この堂宇は一間社流造と謂うなり。
 (宗福寺十七世 銀岳誌)
「小田原城2km」の道路標識を過ぎていくと、 山王橋バス停の先の道の両側に、灯籠のようなものが乗った石柱が立っていて、 「東海道 小田原宿」と書かれていました。 石柱に書かれた解説文によると、ここからが小田原宿になるようです。
おだわら まちしるべ 【山王口(さんのうぐち)】
山王口は「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口であるとされています。 また、ここは東海道小田原宿の入口でもあり、江戸日本橋から山王口までは、約83キロの距離となっています。
江戸口見附
浜町歩道橋の所まで来ると、道の右側に「小田原城址江戸口見附跡」の標柱と解説板が立っていました。 江戸時代末期の小田原城下の文久図や 大正時代初期の江戸口見附の写真も載っていました。 また周辺案内図もあるので参考にしましょう。 ここには赤い屋根をした小祠と新宿公民館があるばかりで、見附跡を偲ぶ史跡などは見かけませんでした。 江戸口見附の写真には軌道のようなものも写っていますが、 国府津〜幸町間を走っていたという電車の線路なのでしょうか。
江戸口見附跡
小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。 この付近は、その総構の最も南部に当たり、小田原合戦のときには徳川家康が山王川の対岸に陣取っていました。 江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、 城下を警護する重要な門としての役割を担っていました。 江戸方面から来た場合、上図のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。 また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに当っていました。 なお、ここは江戸日本橋から20里((80km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。
江戸口見附一里塚
周辺案内図によると、道路の左側に一里塚があるようなので、歩道橋を渡っていくと、 階段を降りた脇の鉄柵で囲まれた一角に一里塚がありました。 手前に解説板があり、中ほどに「江戸口見附並一里塚址」と刻まれた石柱がありました。
江戸口見附並びに一里塚
見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、 武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、 本城より外濠城門を示す場合が多い。 小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、 江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。 小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。 また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川英安は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、 江戸日本倍を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。 塚は男塚、女塚と、街道の左右で対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。 塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。 天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、 塚上榎樹ありしが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双候なりしに、今隻候となれり。 けだし海道の革まりし頃、一候は海中に入りならん。 これより東は小八幡村、西は風祭村の里候に続けり」とされている。
(「双候」,「隻候」,「一候」,「里候」の「候」の字は、"土"扁に"候"と書きます)
一里塚を後にして国道1号を進んでいくと、風情のある屋根が設置された浜町バス停があります。 その手前に「新宿町」と刻まれた石柱がありました。 小田原市が設置する「旧町名保存碑」というようで、この先にかけても幾つか見かけました。
新宿町(しんしくちょう)
江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。 町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど−藩役所などへ出向く村人が泊る宿屋)や茶店があり、 小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。
 (小田原市)
白壁の土蔵を見ながら200mほど進んでいくと新宿交差点があります。 国道1号は正面へと続いていますが、旧東海道は交差点を左折してクランク形に曲がっていきます。 旧町名保存碑「鍋町」の先から左手へ分かれていく道を見送っていくと、 すぐに広めの道が右手へ分かれていくので、その道を進んでいきます。 沿道には蒲鉾店などが並んでいました。 この辺りから本町交差点にかけての通りが、小田原宿の中心地であったようです。 歩き始めて程なくすると、旧町名保存碑「万町」がありました。 青物町交差点の手前まで来ると、旧町名保存碑「高梨町」がありました。 交差点の角には若い松の木も植えられていました。
鍋町(なべちょう)
この町の規模ははっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。 小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師(いもじ)が多く住んでいたので、この名がついたといわれている。
万町(よろっちょう)
町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。 町内には、七里役所という紀州(和歌山県)藩の飛脚継立所(ひきゃくつぎたてじょ)があった。 江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒ほどあり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。
高梨町(たかなしちょう)
東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家・旅籠(はたご)が並んでいた。 町の中央南よりには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、 中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代で勤めていた。
 (小田原市)
清水本陣
青物町交差点を過ぎていくと、旧町名保存碑「宮前町」がありました。 その左手に「明治天皇聖蹟」と刻まれた石柱が立っていました。 石門から奥へ入っていくと、右手に「明治天皇小田原行在所址」と刻まれた石碑がありました。 清水本陣があった場所でもあるようです。 由来を記した石碑もふたつありましたが、旧字体で書かれていて読めない文字も多々あったので、 現代文の解説板だけを載せておきます。
宮前町(みやのまえちょう)
小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。 町の中央に城主専用の入口、浜手門口と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、 江戸時代末期、町内には本陣1、脇本陣2。旅籠(はたご)が23軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。
 (小田原市)
小田原氏指定史跡 明治天皇宮ノ前行在所跡
明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。 正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面には「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。 副碑には由来が刻まれています。 清水金左衛門本陣は、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、 清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行っていました。 本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられました。 明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)10月8日の御東行の際を初めとして五回を数えます。 明治天応聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和15年2月に整備工事を着手し、 昭和15年10月に落成しました。
 (小田原氏教育委員会)
松原神社
元の道に戻ってその先へ進み始めると、 すぐに「歴史と文化の香るまち散策コース 松原神社」の標柱が立っています。 そこから右手の路地へ入っていくと、松の木が沢山生えている松原神社がありました。 石門の先の池に架かる石橋を渡って鳥居を過ぎていくと、左手に社務所がありました。 その先の短い石段を登った所にある鳥居を過ぎていくと、正面に社殿がありました。 小田原の総鎮守と云うだけあって、本殿と拝殿から成る立派な社殿で、 本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。
松原神社誌
祭神 日本武命、 相殿 素盞嗚命、宇迦魂命
由緒 縁由及び創祀の記録は灰燼に帰して詳かではないが、 古老の口碑に寄れば近衛天皇久安年間の勧請なりと云はれている。 後醍醐天皇の頃、当所に真名鶴が棲み、故に鶴来明神と称したと云う。 後奈良天皇天文年間に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、 その託宣に依り当社の本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。 明応四年北条氏の小田原を治めるに当り当社への尊崇頗る厚く、鎮守として社領一万石を寄せ、 氏綱、氏康等大事毎に必ず祈願した。 天正十八年北条氏廃滅後、後水尾天皇寛永九年稲葉氏の領となっても亦鎮守として崇祀し、 社費は悉く藩財を以て之に当てた。 霊元天皇貞享三年領主大久保氏が封を再び此の地に受けた事に依り、 猶先規に従い鎮守とし崇敬前代に劣らず代々小田原の宿十九町の総鎮守とした。 明治二年松原神社と改称し、明治六年一月旧足柄県に於いて県社と定められ、 明治四十年四月二日神饌弊帛料供進神社に指定された。
例祭 五月三日、四日、五日
境内には小祠などが幾つかありました。 白壁の蔵もありました。 金属柵で囲まれた一角には「佐々木八幡神社」と刻まれた石碑もありましたが、 松原神社との関連は分かりませんでした。 また社殿の前には「吉兆の大亀」という石製の亀が置いてありましたが、頭の部分が欠けていました。
吉兆の大亀
天文14年(1545)3月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、 小田原北条三代当主氏康はこれを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。 果たして翌天文15年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】 念願の関八州の平定に成功した。 この石像亀はその話に由来して作られた(制作年不明・頭部欠損)ものと思われ、 現在でも大亀の甲羅を撫でると、社運隆昌・心願成就・開運・勝利(転じて試験合格)にご利益があるとされております。 また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を十円納めると十日、 百円納めると百日、千円納めると千日寿命が延びると言われております。
 (小田原総鎮守 松原神社)
小田原宿なりわい交流館
松原神社から元の道に戻ってその先へ歩き始めると、 すぐの所の本町交差点の手前に小田原宿なりわい交流館があります。 国府津駅から2時間10分ほどで到着しました。 建物の前には枝垂れ柳が植えられ小さなせせらぎも流れていて、風情を醸し出しています。 「小田原宿」と題した解説板も設置されていて、 江戸時代後期の小田原の様子を表わした「五海道其外延絵図 東海道分間延絵図」の小田原宿部分や、 小田原宿中心部の「町割」も載っていて、往時の様子を伺い知ることが出来ます。 それによると、往時のこの宮前町から本町にかけてが小田原宿の中心地で、 米や脇本陣・清水本陣・福住や脇本陣・島や脇本陣・片岡本陣・久保田本陣・虎や脇本陣・清水本陣を始めとして、 多くの旅籠や物産店などが建ち並んでいたようです。 また裏面には昭和10年頃のこの付近の写真も載っていました。 道路には軌道が敷かれ、上には架線が張り巡らされているので、その頃には路面電車が走っていたようです。
小田原宿
江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。 小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80kmの距離にあり、 第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊してここに到着します。 東は歩行渡り(10月から3月の間は橋が架けられました)の酒匂川、 西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原宿で宿泊する人が多く、 常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。 また、参勤交代で往来する大名行列も同様で、 彼らが休泊に利用した本陣4・脇本陣4の計8軒という数は東海道随一を誇ります。 小田原城下は、藩士が居住する武家地と寺社地及び商職人の住む町人地からなっていました。 中でも小田原宿の中心であったのがこの辺りの宮前町と西隣の本町でした。 ここには、本陣、脇本陣だけでなく旅籠の多くが集中していました。 小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、 蒲鉾・梅干・ういろう・小田原提灯などが小田原の名物として広く知れ渡るようになりました。 市内には江戸時代から続く古い店が残っており、今でも伝統を引き継いでこれらの名物を製造・販売しています。
小田原宿なりわい交流館
この施設は、昭和7年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の皆様の「憩いの場」として、 平成13年9月に開館しました。 誰でも立ち寄れる「お休み処」や市民活動の発表の場として、気軽にご利用いただけます。
○開館時間 4月〜10月 10時〜19時、11月〜3月 10時〜18時(二階は22時まで利用可能)
○休館日 年中無休(臨時休館あり)
○入場料 無料
建物について
この建物は、関東大震災(大正12年)により被害を受けた建物を、昭和7年に再建したもので、 小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられています。 また、二階正面は出格子窓になっていて、昔の旅籠の雰囲気を醸し出しています。 内部の意匠も特徴的で、特に二階は、震災後に耐震工法として採用された洋小屋の構造を取り入れているなど、 当時の小田原の時代背景を感じさせる貴重な建物です。
[出桁造り] 柱の上に載せた太い桁を店の前面に何本も突き出し、 そこに軒や屋根を載せた江戸時代から続く伝統的な商家の建築方法
 (小田原市)
なりわい交流館へ入ってみると畳部屋があって、小田原ちょうちんの製作が行われていました。 この時にも指導を受けながら懸命に造っている人達がいました。 脇には完成形の提灯がぶら下げられていました。 小田原提灯と云えば 「えっさえっさえっさほいさっさ…」 という歌を思い出したりしました。 館内には各種のパンフレットなども置かれているので参考にしましょう。 二階もあるようでしたが靴を脱ぐのが面倒だったので、上がるのは止めておきましたが、 階段の所には「小田原大漁木遣り唄」と題した大きな紙が貼り出してありました。
小田原大漁木遣り唄
小田原の松原神社・漁師の崇敬する龍宮神社の祭礼の神輿渡御の際に 「小田原大漁木遣り唄」をうたって神輿を担いでいます。 この神輿の担ぎ方は松原神社・龍宮神社の氏子の地域の独特のもので、 全国でもこのような担ぎ方をしているところは少ないと思います。 何故「木遣り唄」をうたって神輿を担いでいるのかというと、 昔から昭和30年代前半の頃までは両神社の神輿は漁業従事者のみが担いでいたことに依ります。 それが更に神社の氏子の各地域の神輿を担ぐ時にも「木遣り唄」をうたって担ぐようになったと思われます。 この「小田原大漁木遣り唄」の原点は富山県新湊市伏木にある「帆柱起し音頭」という祝唄によるものといわれています。 それは西暦1800年(江戸時代後期)に小田原に初めて大敷網(現在の定置網)が張立てられた時、 富山県より何人かの漁師が漁業指導にこられ、郷土の祝い唄「帆柱起し音頭」をうたい、 小田原の漁師への置土産として残していったものといわれています。 この「帆柱起し音頭」は宮内仁著「日本の木遣り唄2」によりますと、 「伊勢音頭」の影響を受ける木遣り唄で、数え唄の形式になっているとのことです。 日本全国の津々浦々の神社仏閣に大漁と安全を祈願する歌詞になっています。 尚小田原には「小田原大漁木遣り唄」のほかに今ではほとんどうたわれてはいませんが、 その昔海が金波銀波で活気に満ちていた頃「小田原大漁節」という郷土民謡があり、 毎日浜を賑わしておりました。
以上、川崎又司氏によります。
なりわい交流館を後にして、本町交差点を直進していきます。 街灯には「旧東海道小田原宿本町」と書かれていて、往時の中心地だったことを想わせます。 本町バス停までくると、待合所の袂に旧町名保存碑「本町」がありました。 御幸の浜交差点を過ぎていくと、街灯には「旧東海道小田原宿中宿町」と書かれていました。 御幸の浜バス停を過ぎていくと、旧町名保存碑「中宿町」がありました。 その少し先には、お城の姿をした建物がありました。 「ういろう」を商う店のようですが、これが小田原城かと見紛うばかりの出来映えなのでした。
本町(ほんちょう)
小田原北条氏時代、この町は通小路(とおりこうじ)といわれていたが、 江戸時代前期にこの町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたとき本町と改められた。 隣りの宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣2、脇本陣2に旅籠(はたご)が26軒ほどあった。
中宿町(なかじゅくちょう)
この町には上(かみ)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、 高梨町の下(しも)の問屋場と十日交代で勤めていた。 町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣1、旅籠(はたご)が11軒ほどあった。
 (小田原市)
国道1号を更に進んでいきます。 箱根口バス停を過ぎていくと、旧町名保存碑「欄干橋町」がありました。 箱根口交差点を過ぎていくと、旧町名保存碑「筋違橋町」がありました。 諸白小路交差点の手前まで来ると、「日本橋から85km」の標識が立っていました。 早川口バス停を過ぎて歩道橋が架かる所までくると、 橋の袂に「人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡」の石柱が立っていました。 右側にある特徴的な姿の建物は、小田原市消防所の南分署になります。 JR東海道線と箱根登山鉄道の小田原架道橋の手前まで来ると、、旧町名保存碑「山角町」がありました。
欄干橋町(らんかんばしちょう)
町名は、この町から城内にかけられていた橋の名前によりついたといわれている。 町内には小田原北条氏時代からの旧家外郎(ういろう)家があり、 江戸時代末期には本陣1、旅籠(はたご)が10軒ほどあった。
筋違橋町(すじかいばしちょう)
橋の名が町名になっているが、橋についての資料は見当たらない。 町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ延びている。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣1、旅籠(はたご)が11軒ほどあった。
人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡
明治29年3月、熱海方面への陸上輸送路として豆相人車鉄道が開設され、早川口が小田原駅となった。 明治41年に軽便鉄道とし、小田原電鉄からの乗換駅として、この地方の交通に恩恵を与えた。 大正11年12月、国鉄熱海線が真鶴まで開通したことによって、その任務を全うした。
山角町(やまかくちょう)
小田原北条氏の家臣山角定吉の屋敷があったので、この町名がついたといわれている。 町内には小田原北条氏時代から畳職人、屋根職人の頭(かしら)などが住んでいた。 東海道筋の西から御厩(おうまや)小路、天神小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ延びている。
 (小田原市)
居神神社
小田原架道橋をくぐっていくと、右側に特大のイチョウの木が生えていました。 丁度黄葉していて見事な眺めでした。 その手前に居神神社があるので立ち寄っていきました。 鳥居の手前には「居神神社」と刻まれた大きな石柱が立っていました。 鳥居をくぐってその先にある石段を登っていくと、鳥居の立つ広めの所に出ました。 左手には祠があって、中には「子安地蔵尊」と書かれた赤い提灯が下がる社が安置されていました。 右手には社務所がありました。 鳥居の左手から坂道が分かれていましたが、鳥居の先に続く石段を更に登っていくと居神神社の社殿がありました。 本殿と拝殿から成る社殿になっていました。 脇には幾つか建物があって聖徳太子堂もありました。 祭神の一柱である三浦荒次郎義意に関しては、壮絶な伝説が伝わっているようでした。 社殿の左側には重要文化財に指定されている石碑などが幾つか並んでいました。
居神神社と小田原市指定重要文化財「古碑群」
居神神社、または井神神社。 祭神は木花咲耶姫命、火之加具土神と三浦荒次郎義意公の霊とされている。 祭神三浦荒次郎については、壮絶なる創建伝説が伝わっている。 三浦半島の新井城主であった三浦荒次郎義意は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)に攻城され、 永正13年(1516)7月11日、父陸奥守義同とともに自刃した。 戦後義意の首を当神社の松の梢に晒し首したところ、3年間眼目せず通行人をにらみ、 人々に恐れられたという。 また一説には、義意自刃の際、その首は三浦半島から海を越えて小田原まで飛来し、 井神の森の古松にかぶりつき、そのまま3年間通行人をにらみつけたという。 そこで、城下の僧が代わる代わる供養したが成仏しなかった。 これを聞いた久野総世寺の四世忠室存孝和尚が駆けつけ、松の下に立ってしばらく読経の後、 「うつつとも夢とも知らぬひとねむり 浮世の隙を曙の空」と詠むと、さしもの怨霊も成仏し、 たちまち白骨となって地に落ちた。 その時空より「われ今より当所の守り神にならん」との声があったという。 そこで社を建て居神神社として祭ったといわれている。 本殿左手に鎌倉時代末期の古碑群があり、そのうち板碑2基、線刻五輪塔2基、陽刻五輪塔1基は、 市街地に残る最も古いもので、小田原市の重要文化財に指定されている。
小田原市指定重要文化財 居神神社境内の古碑群
この古碑群は市街地に残るものとして最も古いもので、鎌倉時代末期のものです。 文保・元享の両板碑には刻文があり、その中のいずれにも念仏衆の字句があって、 これらの板碑が念仏供養のために建てられたものであることが分かります。 なお、向って右手の五輪塔線刻碑二基と、左手の念仏塔、庚申塔など四基は、未指定で、 近隣から移転してきたものです。
形状等
古碑の種類碑の高さ
五輪塔線刻碑39.5cm
文保元年銘板碑135.0cm(文保元年(1317)2月24日と刻まれている)
五輪塔線刻碑53.3cm
元享二年銘板碑123.0cm(元享2年(1322)12月14日と刻まれている)
五輪塔陽刻碑48.0cm
 (小田原市教育委員会)
板橋見附
居神神社の社殿から急坂を降って鳥居の横へ降りて国道1号へ戻っていきます。 神社に隣接するのは光圓寺というようで、境内には先ほどから目立っている特大のイチョウの木がありました。 お寺の塀沿いに進んでいくと板橋見附交差点があります。 正面には東海道新幹線の高架が見えています。 道が分かれていく角には「板橋(上方)口」と題した解説板や周辺案内図があるので参考にしましょう。 ここが上方見附に当る板橋口になります。
板橋(上方)口
戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、 城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築きました。 この辺りは、東海道に対応する小田原城外郭の西側の出入り口が設けられていた場所です。 江戸時代においても、この口から内側は城下府内の山角町、外側は板橋村で、 遠くは京都に通じていたので、板橋口または上方口と呼ばれ、 東に設けられた山王(江戸)口と並ぶ最も主要な出入り口として、厳重な構造をもっていました。 現在の国道1号線はそのまま直進していますが、 かつての東海道は板橋口を出ると一度北に折れて、再び西に曲がっており、 その地形は旧道としてよく残されています。
■小田原の城下町と宿場町  小田原は戦国大名小田原北条氏の居城小田原城の城下町で、 北条氏が勢力をのばした関東一円の中心都市として発展します。 江戸時代には、幕府を開いた徳川家康の譜代大名大久保氏・阿部氏・稲葉氏歴代の城下町であるとともに、 江戸と京を結ぶ東海道の宿場町として機能しました。 小田原の市街は、小田原藩士が居住する武家地と商職人の住む町人地及び寺社地からなり、 小田原城を中心にひろがる武家地に対し、町人地は城の南方を東西に貫く東海道と 城の東方で東海道から北へ分岐する甲州道の両道に沿って連なりました。 町人地(小田原宿)は東海道に面する通り町9町とそれ以外の脇町10町の合わせて19町で構成されていました。
■板橋(上方)見附  見附(みつけ)とは、近世城郭の城門のことを言います。 「見附」には【発見する】【見張る】の意味があり、城門に面する所に番所を設け、 人々の通行を監視したことから、このように呼ばれました。 また、主要街道の宿場の出入り口も見附と呼ばれるようになります。 板橋(上方)見附は城下の西端にあり、南北に横たわる小田原城総構(大外郭)の城壁に、 東海道が東西に交差して開かれた地点に位置します。 ここには板橋(上方)口矢来門がたてられ、出入り口周辺の土塁は特に石垣で厳重に補強されていました。 また、東海道もこの土塁などの地形に沿ってクランクし、外からは中の様子をうかがうことができなくなっています。 矢来門の内側には小田原藩の御番所が設けられ、突棒・指又・袖搦などの逮捕道具や鎚を並べ、 藩士が常番で詰めて通行を監視し、 また門の外側(この案内板のたつ現在地付近)にも「尻番所」と呼ばれる番所がありました。
小田原宿はこの板橋口で終わって、次の箱根宿へと続く街道を進んでいきます。 案内図などによると、旧東海道は板橋見附交差点で国道1号と分かれて北に折れて再び西に曲がっていきます。 交差点を右折して、東海道新幹線の高架をくぐっていく旧道を進んでいきます。
■板橋(上方)口周辺の寺社  板橋(上方)口から城下に入ると、東海道の両側に御先筒(鉄砲)組の足軽長屋が並び、 いざという時には、すばやく警護を固めることができるようになっていました。 また、この付近に多くの寺社が集められているのは、非常時に境内に防御の兵を配置することができるなど、 軍事的な理由も考慮されていたようです。 この付近には居神神社や大久寺をはじめ、春日局の開基と伝える光円寺、 14世紀の創建と伝え、北原白秋ゆかりの寺としても知られる伝肇寺、 外郎(ういろう)家を開基とする玉伝寺など数多くの寺社が集まっています。
□居神神社(いがみじんじゃ)と古碑群  居神神社は城下山角町と板橋村の鎮守です。 もとは水神を祀る「井の神」であったと考えられますが、 永正13年(1516)伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて自害した相模の名族三浦義意の首が当地に飛来し、 やがて守護神に転じたとの由来から、三浦荒次郎義意の霊を祭神とし、 明治時代末期に木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・火之加具土神(ほのかくつちのかみ)が合祀されています。 境内にある鎌倉時代末期の古墳群は、城下に残る古碑としては最古のもので、 根府川石で作られた文保1年(1317)銘の大日、元享2年(1322)銘の阿弥陀の両種子板碑や 線刻五輪塔など5基が小田原市の文化財に指定されています。
□大久寺(だいきゅうじ)と大久保一族の墓所  大久寺は近世初頭の小田原藩主大久保家の菩提寺です。 天正18年(1590)の小田原北条氏滅亡の後に小田原城主に任じられた大久保忠世が、 遠江国二俣(静岡県浜松市)から招いた僧日英を開山、自らを開基として建立した寺院で、 堂宇の完成は翌19年と伝えています。 大久保一族は三河時代以来の徳川氏の譜代家臣で、初代藩主忠世・2代忠隣父子は、徳川家康・秀忠に仕え、 その天下統一と幕府の確立に大きく貢献した功臣として知られています。 境内には、忠世、忠隣、忠常の三代と一族の忠俊、忠勝ら合わせて7基の墓碑や供養塔が並ぶ大久保一族の墓所があり、 小田原市の史跡に指定されています。
地蔵堂
周辺案内図が設置された分岐を直進していきます。 「松永記念館入口」の標識が立つ分岐も直進していくと、右側に地蔵堂があります。 手前にある広い敷地は遊び場になっているようで、ちょっとした遊具などが設置されていました。 その奥の一段高い所に、門のようにして大きなイチョウの木が生えていて、その奥にお堂がありました。 前には特大の大黒様の木像もありました。
板橋の地蔵尊
この地蔵尊は「板橋のお地蔵さま」と呼ばれ、古くからこの地方に名高く知られわたっている。 永禄12年(1569)、香林寺九世の文察和尚は、身丈一丈(約330cm)の大坐像を造り、 箱根湯本の宿古堂に祭られていた弘法大師彫造の御真体の胎内に安置したといわれている。 毎年1月と8月の23日・24日の両日が縁日で、当日は境内及び参道に市が立ち参拝者で賑わう。 この地方では、新ホトケが出た時、その家族及び縁者が3年間つづけてこの地蔵尊へ参詣する習俗があり、 この日に参詣すると故人に似たひとに必ず合えるといわれている。 この境内には、寛政7年(1795)に建てた一刀流6代目の横田常右衛門豊房と7代名坂四郎治政宣の供養碑が立っている。 また明治戊辰の役の後に、合戦の犠牲者となった官軍の軍監中井範五郎らあわせて13名の姓名を刻んだ慰霊碑もある。
地蔵堂略誌
當地蔵堂は金龍山宗福院と称し、本寺板橋香林寺が主管す。 本尊は弘法大師御作の延命子育地蔵菩薩にして、往古箱根湯本に祀りしを永禄十二年(1569)現在地に遷座し、 八尺の大坐像の胎中に奉安す。 別伝に「板橋矢倉沢竹の下の地蔵堂には一木三躰の地蔵を祀る」と伝う。
境内奉祀の尊像・石碑
鎮守福興大黒尊天 小田原駅裏鎮座の生木大国神像を遷座し鎮守とす。
十王 亡者の罪業を裁判する十人の王、中央が閻魔大王。
賓頭廬尊者 十六羅漢の第一、世に「なでぼとけ」という。
忠魂碑 小田原市大窪地区出身戦没者慰霊碑。
明治維新官軍慰霊碑 伊藤一刀斎後裔墓等。
大祭 毎歳正月八日の二十三・二十四日
小田原用水
地蔵堂を後にしてその先へ進んでいくと、箱根登山鉄道の高架の下を過ぎた所で、 先ほど分かれてきた国道1号の上板橋交差点に出ます。 角には五輪塔や石灯籠などが幾つか置かれていました。 国道を歩き始めると、左手を流れる早川の畔に小田原用水の取入口がありました。 小田原城下まで引かれていて、小田原宿を利用する旅人にも利用されたようです。
小田原用水(早川上水)取入口
小田原用水(早川上水)はこの地で早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、 板橋見付から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、江戸口見付門外蓮池に流れ出たもので、 途中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。 この古水道は小田原北條氏時代に施設されたものと思考され、我が国の水道施設の中では初期の頃の水道と思われる。 江戸時代になっても利用され、城下17町の飲料水として利用されていた。 その後上水道から下水道へと姿をかえ、昭和31年市内電車の軌道撤去による国道の大改修によって面目を新たにした。 なお、近年道路工事中に、江戸時代のものと想われる分水木管が発見され、その一部が市立郷土文化館に保管されている。
早川に沿って国道1号をその先へと進んでいきます。 心地よい川の流れの音を聞きながら進んでいくと、 小田原厚木道路と西湘バイパスが接続する小田原西インターチェンジが見えてきます。 その奥の方には箱根の山々も頭を覗かせていました。 山頂に電波塔のようなものが見えている山は二子山でしょうか。
小田原厚木道路の下まで来ると、右手を通る箱根登山鉄道の君田島踏切があります。 旧東海道はここで再び国道1号と分かれて、踏切を渡っていきます。 踏切を渡った先で道が二手に分かれていますが、 正面に登っていく道の左側に続く緩やかな道が旧東海道になります。 踏切を渡ったすぐ右手に「日蓮聖人霊跡」の解説板がありました。 脇には「相州思親閣 御塔妙福寺旧址」の看板、「ふた親さん象の鼻(日蓮思親の地)」の標柱や、 馬頭観世音の石碑もありました。 この右手の先に霊跡があるようなので、ちょいと寄り道をしていくことにしました。
日蓮聖人霊跡
戻るようにして続く坂道を登っていくと、すぐに「日蓮聖人思親の地」の表札が掛る木の門があります。 左右には獅子のような姿をした青銅の像もありました。 門を過ぎて坂道を登っていくと程なくして石段に変わってきます。 途中で右手へ道が分かれていますが、すぐ先の石碑などがある所で行き止まりになっています。 急斜面に沿うようにして続く石段を登って小屋を過ぎていくと、 右側に鉄製の階段も設置されていました。 石段はしっかりとしていて幅もあるので何故設置されているのだろうかと思いながら登っていくと、 鉄製の階段は二畳ほどの広さの踊場へと続いていました。 道はそこで行き止まりになっていて、左の山際に小屋が建っていました。 中を覗ってみると、合掌した姿の三体の石像が安置されていました。
日蓮聖人霊跡
文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中、5月13日当所を通り、 巨石象ヶ鼻(石の形が象の鼻に似ている処からそうよんでいた)の上に登られ、 遠く房総の諸岳を望んで故郷忘れ難く遙かに亡なられた両親を偲ばれ、回向して冥福を祈られた。 曼荼羅本尊を書かれ石の宝塔を建て首題釈迦牟尼佛多宝如来菩薩を刻し衆生済度の病即消滅を祈願された。 その後この地をお塔のふた親さんと呼ばれ里人信仰をあつめた。 永仁元年(1293)僧朗慶日蓮の弟子がこの地に来て師の旧跡であるこの地に寺を建て、象鼻山妙福寺と命名。 下総国葛飾郡中山村大本山法華経寺(末寺)同宗の人々はもとより一般里人から礼拝されていた。 おしくも大正年廃寺となり同村蓮正寺に合併され、現在は同市板橋に移り御塔山生福寺となっております。
神奈川県皇国地誌残稿より 日蓮聖人讃仰の有志一同
君田島踏切まで引き返してきて、坂道の左側に続く緩やかな道へ入っていきます。 入口には「この先1600m国道1号線の出口」の道路標識が立っています。 矢印の曲がり具合からすると、今回歩く道を指しているようでした。 歩き始めると、道端に「郷の詩」と題した歌碑がありました。 箱根を越えてこの風祭地区まで来た旅人の心境を詠んだ詩なのでしょうか。 詩にある「涙橋」とは、この辺りに架かっていた橋の名前なのでしょうか。
郷の詩
舟出して 港も近き 里の名は げに白浪の 風祭かな 行こうか板橋 もどろか箱根 ここが思案の涙橋
風祭一里塚
勢いよく流れる沢を渡って、風祭地区を進んでいきます。 妙覚寺への分岐を見送って少し登り坂になった道を進んでいきます。 箱根登山鉄道の風祭駅への分岐まで来ると、右手には箱根病院があります。 その前を過ぎていくと、風祭公民館の先で道が二手に分かれています。 角の塀には「荻窪用水散策コース(萬松院・丸塚隧道へ)」の標識が取り付けられていて、 右手に分かれていく道を指していました。 旧東海道は左手の道になりますが、右手の道へ入った所に石仏や石祠があって、 「小田原の道祖神」の石柱や「東海道風祭の一里塚」の解説板もありました。 一里塚があった所のようですが、今ではその面影は残っていませんでした。 解説文などを確認してから、左手に続く旧東海道を進んでいきます。
(右手の道は「塔ノ峰」を参照)
東海道風祭の一里塚
ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所である。 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、 東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。 塚は男塚、女塚と、街道に左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。 塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。 風祭の一里塚については、天保年中の相模国風土記稿に 「東海道側に二候あり、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里候に続けり」とある。
(「二候」「里候」の「候」の字は、"土"扁に"候"と書きます)
宝泉寺への道を見送って道なりに進んでいきます。 箱根登山鉄道の鳥家踏切への道を見送って坂道を軽く登っていきます。 緩やかになった道を進んでいくと、右側に丸い石を固めた塔が二つ立っていて、 その間から広い道が右手へ分かれていきます。 角には「太閤一夜城と長興山史跡巡りコース」の道標が立っていて、 右手の道は「稲葉一族の墓所670m・鉄牛和尚の寿塔750m・長興山しだれ桜820m」、 正面の道は「入生田駅280m・石垣山一夜城歴史公園3680m」となっています。 石塔の裏手には赤い前掛けをした六地蔵が並んでいました。 「春日局ゆかりの長興山紹太寺」と題した案内図もありました。 本堂から稲葉一族の墓所まで15分、しだれ桜までは更に3分となっていましたが、 今回は手前にある紹太寺の本堂まで往復してくることにしました。
長興山紹太寺
紹太寺は、江戸時代の初期(寛永9年(1632)〜貞享2年(1685))小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で、 黄檗宗大本山萬福寺の末寺である。 はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、 寛文9年(1669)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹太寺と号して、 父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。 往時は寺域方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。 元禄4年(1691)この地を通過したオランダ商館医師ドイツ人ケンペルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。 しかし、幕末と明治初年の火災で焼失してしまった。 現在の紹太寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。 現在の市指定文化財
○稲葉一族の墓所と鉄牛和尚の寿塔 ○長興山開発供養塔 ○長興山紹太寺の境内絵図 ○開山鉄牛和尚の画像 ○鉄牛和尚の血書 ○長興山のしだれ桜 ○長興山鉄牛和尚寿塔付近の樹叢
六地蔵
この六地蔵には、寛永・慶安・寛文などの年銘があり、一時に造立されたものでないことがわかります。 江戸時代初期の石仏がこのようにそろっているのは、小田原地方では貴重な存在です。
広い道を登っていくと、すぐの所の右側に「長興山紹太寺 総門(大門)跡」の標柱と解説板が立っていました。 そこを過ぎていくと、左側に「長興山紹太寺」と刻まれた石碑があって、その奥の山門へと道が続いていました。 入口には七福神や石仏などが並んでいました。
長興山紹太寺 総門(大門)跡
紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。 元禄4年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向う途中、この総門をみて 彼の著書「江戸参府紀行」に次のように記しています。
入生田村は小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めた所に紹太寺という立派な寺がある。 この寺の一方側には見事な噴水があり、もう一方の側には金の文字で書かれた額があり、 しかも前方には金張りの文字のついた石造りの門がたっている。
この長興山の扁額は、黄蘖宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので、 現在子院清雲院(現・長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられています。 なお、現在道路の左側に積み上げてある加工された石は、この総門に使われていたと考えられます。
 (小田原市教育委員会)
長興山「母の里石段公苑」
三代将軍徳川家光の乳母春日局と小田原藩主(城主)稲葉一族が眠る幽邃の地、母の里石段公苑です。 これより三百六十段の石段を登ると、そこには奥津城が静かに佇み、 遙か相模灘を望み古の歴史が彷彿として蘇ってまいります。 神奈川県名木百選、小田原市指定天然記念物「しだれ桜」、 そして県下でも数少ない樹叢の中に黄檗宗の高僧「鉄牛禅師」の寿塔があります。 この由緒ある石段公苑にご先祖さまの化身として、 釈迦如来・観音菩薩・地蔵菩薩・七福神等の石仏を石段左右に建立し、 崇拝する人、知人友人の霊を追善供養、商売繁盛祈願、家内安全祈願等を念じれば、 心の安らぎが得られるものと存じます。 宗旨宗派等は一切問いません。 ご希望の方は紹太寺までご照会下さい。
 (長興山紹太寺)
紹太寺
山門をくぐって境内に入っていくと、正面に紹太寺の本堂がありました。 茅葺き屋根になった歴史を感じさせる佇まいのお堂でした。 左側には庫裡と思われる建物がありました。 その脇に「黄蘖宗長興山紹太寺(禅宗)」と題した案内板があって、 由緒や境内の絵図も載っていました。 歴代の住職の名前も載っていて、開山が鐵牛道機、開基が稲葉正則から始まって、現在で30代目のようです。
黄蘖宗長興山紹太寺(禅宗)
由緒(開創からの歴史)
本寺は、江戸時代初期の小田原藩主だった稲葉一族の菩提寺です。 当所は、小田原城下山角町にありましたが、第2代稲葉美濃守正則が寛文9年(1669)、 幽邃境として知られた現在地に移建し、山寺号も「長興山紹太寺」と称し、 父母と祖母春日局の霊をとむらいました。 開山は、京都宇治の黄檗山万福寺で隠元禅師のもとに修業に励んでいた名僧鐵牛和尚で、 当時は東西十四町七十間、南北十町十六間という広大な寺域に七堂伽藍が配置され、黄檗宗では関東一の寺院でした。 しかし、これらの堂塔が幕末安政年間の火災で焼失してしまったのは、まことに惜しまれます。 境内裏には「稲葉氏一族と春日局の墓」があります。 天然記念物「長興山のしだれ桜」は寿塔のすぐ近くです。 「春を忘れぬ形見に」と稲葉正則が植えたもので、樹齢ざっと320年。樹高約13メートル。 四月初旬は巨大な花笠を広げたように開花し、多数の見物客で賑わいます。
黄檗普茶
黄檗「普茶」の名は、「普く衆に茶を供する」という意から生じたものです。 歳月の流れと共に内容も変化してきましたが、 四季折々の山野の蔬菜の持ち味を生かすという調理の神髄は変わっていません。 一卓四人、和気藹々のうちに残さず食するのが作法となっています。 皆様のご要望に応え、より多彩に美しく品揃えしたのが長興山流「普茶会席」。 大変ご好評頂いております。
紹太寺から旧東海道まで戻ってその先へ進んでいきます。 石段の上にある入生田公民館を過ぎていくと、箱根登山鉄道の入生田駅への道が左手に分かれていきます。 その道を見送っていくと坂道が右手に分かれていきますが、 少し左手に曲がっていく緩やかな道を進んでいきます。 そのすぐ先からも右手に道が分かれていきますが、 そのまま真っすぐ進んでいくと、箱根登山鉄道の線路に出ます。 すぐ手前で道が二又に分かれています。 左手に分かれていく細めの道には松葉踏切、 正面から右手の線路沿いに続く広めの道には入生田踏切があります。 左手の道の先には国道1号が見えていますが、 右手の入生田踏切を渡って、線路沿いに続く道を進んでいきます。 踏切を渡った所にこの付近の地図があるので参考にしましょう。 この先で国道1号に出て少し先で再び国道から分かれていく道が、今回歩く旧東海道になります。 (赤い点線で示しておきました)
道は小田原市から箱根町へと入っていきます。 小さな沢を過ぎて僅かに登り坂になってくると、道端に「駒ノ爪橋跡」の解説板がありました。 その少し先には「日本初の有料道路」の解説板もありました。 そこを過ぎていくと国道1号に出ます。 国道を2分ほど進んでいくと、右手に分かれていく道があります。 角には「交通安全 箱根町」と書かれた白いモニュメントが立っています。 旧東海道はここから右手の道へと入っていきます。
駒ノ爪橋跡
天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の入生田村(小田原市)の項には、 「駒留橋、東海道中湯元村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90cm)幅2間(3.6m)、両村の持。 橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。 これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、 その際に橋の上に馬のひづめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。 そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑健な脚にあやかりたい」と、 道中足が痛まないように祈願したということです。 後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです。
 (箱根町)
日本初の有料道路
明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯本まで全長4.1km幅員平均5mの我が国初の有料道路が開通しました。 江戸時代の東海道を広げ、2ヶ所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えました。 碑が建っている道は、その時に付け替えた道です。 開通した日から5年間、道銭(通行料)を取りました。 人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘でした。 この道路の開通で、人力車はもちろん、間もなく乗り合い馬車も入ってきました。 かの福沢諭吉から「箱根山に人力車の通れる道を造れ」と提言され、 二宮尊徳の高弟として知られる福住正兄が建設の先頭に立ちました。
 (箱根町)
古い街並みが続く道を進んでいきます。 道沿いにある駐車場を過ぎて登り坂になってくると、先ほど分かれてきた国道1号に出ます。 切通のようになった所で、その手前から右手へと坂道が分かれていました。 国道に出た所に看板が立っていて、その道は迂回路になっているようでした。 この先には歩道がない旨が書かれていましたが、そのまま国道を進んでみました。 しっかりとしたガードレールが続いていて、歩いて行けるようになっていました。 湯本歩道橋を過ぎていくと、道端の柵には大名行列を描いた貼り絵が取り付けられていました。 往時の東海道をこのようにして参勤交代していたのでしょうか。 向きからすると、箱根を越えてきた行列が小田原宿へと向っていくところのようでした。
ご案内
この先歩道がありませんので、箱根湯本方面へ行かれる方は 国道1号線歩道迂回路を通行してください。
 (国土交通省横浜国道事務所小田原出張所)
三枚橋(さんまいばし)バス停
何組かある大名行列の貼り絵を眺めながら国道1号を進んでいくと三枚橋交差点があります。 旧東海道は左手を流れる早川に架かる三枚橋を渡って、 天下の嶮と云われた箱根へ続いていますが、 今回の散策はここで終えることにしました。 交差点を過ぎたすぐの所に三枚橋バス停があります。 小田原宿なりわい交流館を出てから1時間55分ほどで到着しました。
小田原駅(JR東海道線、小田急小田原線)まで、 小田原駅行きバスにて13分、便は頻繁に出ています。
バス停の数100m先には箱根登山鉄道の箱根湯本駅が見えているので、 新宿方面のロマンスカーを利用する場合には駅まで歩いていきましょう。
三枚橋バス停の脇には「矢立杉蹟」と刻まれた石碑がありました。 一部に読めない文字もありましたが、碑文を載せておきます。 承平天慶ノ乱の時に、源経基が出征していく途中に杉に矢を射て勝敗を占った故事や、 曽我兄弟もこれに倣って矢立をした旨が記してあるようでした。
矢立杉蹟
承平天慶ノ乱__孫王(源経基) 召サレタル関東兵ハ出征ノ途次山杉 表矢ヲ射立テ軍ノ勝敗ヲ卜シタリ 曾我兄弟亦之ニ倣フ爾来此名アリ