曽我丘陵
散策:2009年12月上旬
【低山ハイク】 曽我丘陵
概 要 曽我丘陵は国府津駅から北西に伸びる御殿場線の東側に続く低い丘陵です。 丘の上からは、相模湾・伊豆半島・箱根連山・富士山・丹沢山塊などが広がる素晴らしい展望が得られます。 今回は、国府津駅からミカン畑や梅林の続く丘を通って不動山や浅間山へ登り、 農道を経て岸太郎橋へ降るルートを歩きます。
起 点 小田原市 国府津駅
終 点 大井町 上大井駅
ルート 国府津駅…国上農道…富士見農道…農道分岐…尾根道…風外岩窟分岐…別所梅林分岐…一本松…六本松跡…登り口…不動山…展望地…323m峰…古怒田分岐…浅間山…仙元塔…農道入口…農道分岐…T字路…岸太郎橋…千体堂…上大井駅
所要時間 4時間30分
歩いて... 丘陵までの登りや丘陵からの降りは少し傾斜のある坂道になりますが、 不動山の前後を除けば、丘陵は簡易舗装された緩やかで歩きやすい広めの農道が続いています。 この時は前夜に雨が降って空気が澄んでいたため、 雪を頂いた富士山を始めとして、綺麗な姿の山々を望むことが出来ました。
関連メモ 曽我丘陵, 不動山, 曽我丘陵, 曽我丘陵, 曽我丘陵
コース紹介
国府津(こうづ)駅
国府津駅(JR東海道線)から歩いていきます。 これから向う曽我丘陵は国府津駅の北側にありますが、改札口は南側にしかありません。 改札口の少し平塚寄りにトンネルがあるので、そこを通って北側へ抜けていきます。 改札口を出るとバスやタクシー乗り場がありますが、左手へ曲がって線路沿いに進んでいきます。
国府津駅は明治20年7月11日開業とのことで、駅前には「国府津駅開業100周年記念」の石碑が建っています。 東海道線の花形として活躍した蒸気機関車が富士山を背景にして描かれていました。
国府津駅開業100周年記念
国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とをからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より
 (鉄道唱歌より)
国府津・曽我丘陵ウォーキングコースマップ<国府津編>
国府津はみかん山と相模湾に囲まれた風光明媚な土地です。 かつて大隈重信をはじめとする多くの政治家・実業家・学者たちが別荘を建て、 文人たちは旅館に投宿して執筆するなど、住み良い場所として愛されてきました。 農業・漁業が中心のまちでしたが、明治20年の東海道線開通以来、神奈川県西部地域の玄関口として、 商業面でも明治・大正・昭和と長く発展の途を歩んできました。 こうした歴史と、海・山・川の素晴しい自然に育まれて、 国府津は市内でも由緒ある独特の街並みをかたちづくっています。
 (国府津・曽我ウォーキングコース「みかんの丘」運営委員会)
国府津・曽我丘陵ウォーキングコースマップ<曽我編>
曽我の里は、曽我物語で有名な曾我兄弟のふるさととして、また、梅やみかんの産地として知られています。 ゆたかな緑が緩やかに起伏する曽我丘陵は、静かなたたずまいを残す村里に、 早春には3万5千本もの白梅が咲き誇り、初夏には爽やかな日差しの中にみかんの花の香りが漂います。 秋を迎えると、みかん色鮮やかに空気もひときわ澄んで、 曾我兄弟ゆかりの史跡を辿りながら山道を上がれば、 箱根の山並、霊峰富士、相模湾から伊豆半島を一望する、素晴しい眺望を楽しめます。
 (曽我丘陵梅の里散策コース運営委員会)
小さな駐車場の脇を過ぎて突き当たりを少し左手へ曲がり、 集合住宅と駅ホームの間を緩やかに降っていくとT字路があります。 左手には駅ホームの下に続く「国府津架道橋(国府津ガード)」があります。 このトンネルをくぐって国府津駅の北側へと抜け、 突き当たりを左折して坂道を登り、線路沿いの道を進んでいきます。
ガードをくぐって右折していく道からも曽我丘陵へ登っていけます。 (「曽我丘陵」を参照)
ガードをくぐって左折して坂道を登っていくと、1分もしない所から右手へ道が分かれていきます。 右手へ続く沢は唐沢川というようです。 沢沿いに続く右手の道は、地形図に載っている破線の道のようですが、このまま真っ直ぐに進んでいきます。
唐沢川沿いの道
地形図によると、右手の道は尾根の上まで続いているようだったので、試しに歩いてみました。 坂道を登り切った辺りで民家は終わりになります。 その先へ降っていくと唐沢川に架かる橋を渡って右岸を進むようになります。 沢が合流している所に架かる橋を渡って左岸を進んでいきます。 ミカン畑を巻くようにして過ぎて深い谷になってくると、沢が二手に分かれています。 そこに架かる橋の所までは軽自動車なら通っていけるほどの幅がありますが、 橋を渡って再び右岸を進んでいくと、急に道幅が狭くなって山道に変ってきます。 傾斜も増してくる道を登っていくとミカン畑に出ます。 その右手の尾根に踏み跡が続いていたので、更に登っていきました。 次第に心細くなってくる踏み跡を進んでいくと、ミカンの木が生えていました。 地形図にある破線の道を辿っているようでしたが、その先には明瞭な道がなくなりました。 それでも更に登っていくと荷物運搬用のモノレールが設置されていましたが、 今では使われていないようで、細い木などが生い茂っていました。 もう少しで尾根へ出られそうな雰囲気もありましたが、そこで引き返してきました。 (この時間は所要時間に含めず)
砂防指定地(唐沢川)
この土地の区域ないにおいて宅地造成、家屋の新築、土地採取等の行為をする場合は、 神奈川県知事の許可が必要ですから、小田原土木事務所にご相談下さい。
 (神奈川県小田原土木事務所許認可指導課)
唐沢川沿いの道を見送ってその先に続く坂道を登っていきます。 坂を登り切って道幅が広がった所の山際に赤い鳥居の立つ祠がありました。 「東原稲荷講社」の表札が掲げられていたので稲荷社のようでした。 そこを過ぎて降っていきます。 左側に通るJR東海道線の線路と同じ高さまで降ってその先の坂を進んでいくと、 右手に戻るようにして登っていく坂道が分かれていきます。 脇に立つ標識の柱に「散策コース」と書かれた板が取り付けられていましたが、 どの道を指しているのかは分かりませんでした。 ここから右手へ登っていく坂道が地形図にある二重線の道になります。 今回はここから曽我丘陵へと登っていきます。
駐車禁止
ここは農道です。 通行の生涯になりますので駐車ご遠慮下さい。
 (国上農道組合)
国上農道
かなり傾斜のある坂道を登っていきます。 右下にある墓地を過ぎていくと、道は鋭角に左へ曲がっていきます。 正面には「散策コース」の手製の道標が立っていて左へ曲がっていく道を指しています。 曲がり切った所の道路脇に石碑が立っていました。 この道は「国上農道」という名前のようで、 建設までの経緯と、事業に協力した方々の氏名が刻まれていました。 碑文には「こゆるぎ丘陵」の文字も見えますが、これから向かう曽我丘陵の又の名なのでしょうか。
国上農道之碑
噴煙たなびく御神火を眺望出来るこの農道は、こゆるぎ丘陵の先端に位置し、 温暖な気候に恵まれ長年に亘り蜜柑栽培を続けてきた。 明治以来之だけの交通の要所の近くで有りながら今日まで眠れる地域であった。 ここへ道が出来たらと我々農家の長い間の願望であった。 過去に於いても再三先覚者に依り企画されたが、機が熟さないまま昭和50年代を迎えた。 社会の進歩に伴い急速に農道整備の気運が高まり、農協理事会に於いて慎重に検討され、 新道建設に対し農協事業として取組を決定し、隣接の上町地区の有志と話合いを重ね大半の賛同を得て、 此の事業早期実現え向け関係官庁に地元の熱意を訴え続け、 その結果農林水産省より農免事業として認可を得た。 昭和54年度新農道建設に着手、継続事業として数年の歳月と総延長2450米幅員5米、 国県市補助金15億8100万円と地元受益者負担金1700万円余を投じ、 幾多の困難を乗り越え主体事業が完成した。 之に依り国府津上町を結ぶ幹線道路となり、長い間の念願が実り、両地区の農家の喜びとなりました。 この画期的な事業の幕を閉じるに当たり、改めて国県市の御指導と用地提供の地権者の皆様の御協力に対し、 深く感謝の意を捧げると共にその沿革を誌し、両地区の農業の繁栄と地域開発の礎にならん事を願うものである。
相模の海は 波静か 事を興せば 波が立つ 完成出来る その日まで 頑張り通した 役員の 心は晴れて 今朝の富士
 (昭和61年6月吉日 国府津上町農免道路建設推進協議会、神奈川県西湘行政センター)
坂道を登っていくと、脇に小振りの鉄塔が立っています。 そこを過ぎていくと降り坂になってきます。 坂を降って傾斜が緩やかになった道を進んでいくと右側が開けてきます。 眼下にはJR東海道線が通っていて、その奥に広がる相模湾が陽の光で輝いていました。 右手に広がる景色を眺めながら緩やかな道を進んでいくと切通があります。 尾根を切り開いた形になっていて、上にはしっかりとした橋が架かっていました。 上の橋を通っている道は、 国府津駅から上ノ山農道を経てくる「国府津・曽我丘陵ウォーキングコース」のようで、 歩いている人達も見かけました。
後日に上の道を歩きました。(「曽我丘陵」を参照)
農林水産省補助事業 農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業
地区名国上二期地区
面積142ha
事業主体神奈川県(西湘地区行政センター)
概要農道新設及び改良、全長2,454m
切通を過ぎて3分ほど進んでいくと、左側が開けてきます。 手前の山が少し邪魔をしていますが、小田原の街並みの向こうに箱根の山々が広がっていました。 左手には駒ヶ岳や神山や二子山などが良く見えていました。 右手には特徴的な姿の矢倉岳があり、その奥には雪を頂いた富士山が聳えていました。 前夜に雨が降ったこともあるのか、この時には空気が澄んでいて綺麗に見えました。 何枚も写真を撮りながら、急に広がった素晴しい景色を楽しんでいきました。 時間の経過と共に、箱根の山々には少し雲がかかり始めましたが、 富士山には最後まで雲がかかりませんでした。
富士見農道
左側に広がる富士山や箱根の山々を眺めながら緩やかな道を進んでいくと、右手から道が合流してきます。 その角に「富士見農道之碑」がありました。 建設までの経緯と、記念碑建立へ寄付した方々の氏名が刻まれていました。 右手から来て国上農道と合流し、この先で分かれていく道は「富士見農道」というようでした。 振り返ると、小田原の海や伊豆半島の海岸線がよく見えていました。
国上農道を過ぎた所にあった「農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業」の看板と同じ題の看板がこの石碑の傍にもありました。 前の看板では「全長2,454m」となっていましたが、ここのは「全長2,408m」となっていました。 事業名・地区名・面積は同じでしたが、全長だけが異なっていました。
富士見農道之碑
霊峰富士を西に見て、箱根連山を前に足柄平野、相模湾を眼下に治める 風光明媚なこの地区は、百数拾年みかん栽培を行っていたが、地形が悪く 農道整備が非常に遅れ幾多の困難を経て来た。しかし関係農民の要望が高まり、 昭和47年農道建設運動を展開し、かかる状況を諸官庁に訴え、 その結果団体當整備事業として国の採択を得、翌48年農道建設に着手、 5年の歳月と1億5千数百万円の補助金と1千5百数十万円の関係組合の拠出金を投じ、 昭和52年度に完成した。長年の辛苦が報われたことは、ひとり関係農民のみならず、 国府津地域農民の喜びとなった。 この事業を偲びご尽力を頂いた関係者各位の深いご理解ご協力を感謝すると共に、 末長くこの農道が当地域の農業経営に寄与するよう、 ここに完成を記念して碑を建立し、永く後世に伝えるものである。
 (昭和53年7月吉日 富士見農道組合、小田原市)
農道分岐
左手に富士山を眺めながら緩やかな道を進んでいくと、記念碑から3分ほどで道が二又に分かれていきます。 先ほどの農道整備事業の看板に載っていた国上農道と富士見農道が分かれる所のようです。 尾根筋へ登っていく右手の国上農道を進んでいってもいいのですが、 尾根筋の道は数年前にも歩いているので、 今回は左手へ分かれていく富士見農道の方を歩いてみることにしました。 角には手製の道標「散策コース」が立っていて、左手の道を指していました。
左手に広がるミカン畑や小田原の海などを眺めながら、斜面沿いに続く道を進んでいきます。 畑作業用のモノレールの下を過ぎていくと、左側に青色のトタン塀が続くようになります。 その袂にも手製の道標「散策コース」があって、その先へ続く道を指しています。 トタン塀が途切れると、左前方には再び富士山が見えるようになりました。 先ほどとは少し位置が違うので、箱根外輪山の奥に、金時山の尖った山頂も見えるようになりました。 眼下には、東海道新幹線や小田原厚木道路もよく見えていました。
ミカン畑が続く丘陵を進んでいきます。 「国府津フレッシュみかんオーナー園」の看板も出ていました。 やがて大きく右へ曲がって、谷筋を回り込むように進んでいきます。 蔓性植物のゲートを過ぎて左手へ曲がっていくと、畑地が終わって森の中へ入っていきます。 その入口にも「散策コース」の道標が立っていました。 雑木が生える斜面に沿って進んでいくと、降り坂になってきます。 坂を降って緩やかになってきた道を更に進んでいきます。 ヒノキの若木の林を過ぎて浅い谷筋に広がる畑地の間を進んでいくと、左右に通る坂道に出ます。 手元の地形図によると、実線の道がT字形になっている所のようです。 袂にはこれまで見かけたのと同様の道標「散策コース(浅間大神)」が設置されています。 ほぼ正面を向いていて左右のどちらの道を指しているのかよく分かりませんでしたが、 左手から来ると見える向きに設置されていたし、僅かながら右を向いているようにも思えたので、 ここは右手へ続く坂道を登っていきました。 振り返ると、海に突き出した伊豆半島が見えていました。
緑は友だち 山火事注意
 (森林国営保険、神奈川県)
尾根道
畑の中に建つ小屋の脇を過ぎていくと、次第に登り傾斜が増してきます。 右・左と曲がりながら登っていきます。 再びある小屋の左手を更に登っていくと、左右に通る尾根道に登り着きました。 この尾根道は国府津ガードをくぐって右手へ進んだ所から続く道になります。 農道分岐から25分ほど、国府津駅から1時間5分ほどで来られました。 角には「国府津・曽我丘陵ウォーキングコース」の道標が立っていて、 左手の道は「六本松跡」、右手の道は「国府津駅・菅原神社」となっています。
(右手から来る尾根道は「曽我丘陵」を参照)
尾根道を左折して、すぐの所に立っている送電線の鉄塔「西湘線42」の袂を過ぎていきます。 森を抜けてミカン畑の間を進んでいくと右手が開けてきて、 丹沢から相模湾へと続く丘陵を見渡すことができました。 朝方は雲ひとつない快晴でしたが、この頃には丹沢大山の山頂付近に雲がかかり始めていました。
ミカン畑とヒノキ並木の間を進んでいくと、今度は左手に富士山が見えるようになってきます。 手前にある矢倉岳の位置が次第に左へ寄ってきて、金時山が次第に姿を大きく現すようになってきます。
風外岩窟分岐
少し降るようになると分岐があります。 角には道標が立っていて、左手の道は「風外窟」、正面の道は「六本松跡2800m45分」、 今来た道は「国府津駅・菅原神社」となっています。 右手に戻るようにして広めの道が分かれていましたが、道標には何も示されてはいませんでした。 袂には標識もあって、左手の道は「風外岩窟500m」となっていました。 風外岩窟は以前にも訪ねているので、今回訪ねるのは省略することにして、 正面へ続く尾根道を進んでいきました。
(左手の道は「曽我丘陵」を参照)
右手が開けて相模湾までの眺めが広がる所を過ぎていきます。 八木アンテナの立つ所を過ぎていくと、 再び「中世鎌倉道 風外岩窟へ近道250m」の標識がありました。 そこから左手のミカン畑の中の道を進んでいくと風外岩窟があるようですが、 「急坂アリ」の注意書きもありました。 ここは正面に続く尾根道を進んでいきます。
試しに左手の道を歩いてみましたが、前夜の降雨のために道は大変に滑りやすくなっていて、 とても歩いて行ける状態ではなかったので、諦めて引き返してきました。 (所要時間には含めず)
再び右手の景色が開けてくると、左手へ坂道が分かれて降っていきます。 下には車道が通っていて、上町隧道の脇へ降りていく道になります。 自動車の通る音もしきりに聞こえてきて交通量の多い道です。 左手の道を見送って正面へ進んでいくと、少し登った所に分岐があります。 上町隧道の真上に位置するようです。 ガードレールに「六本松跡1700m30分」の道標が括りつけられていましたが、 山があるばかりの正面を指していて、左右どちらが六本松跡だかよく分かりません。 しかし、右手の道は車道に降ってしまうので、ここは左手の道を登っていきます。
相模湾や伊豆半島などを眺めながら進んでいくと分岐があります。 角には道標が立っていて、右手に戻るようにして続く坂道は「六本松跡」、 今来た道は「国府津駅」となっています。 正面にも道が続いていましたが、道標に従って、右手に続くかなりの傾斜のある坂道を登っていきます。 ミカン畑に続く坂道を5分ほど登っていくと、登り切った辺りで、道は左手へと曲がっていきます。 その辺りが地形図にある標高246.1mの高山のようです。 三角点もあってその上を送電線が通っているように書かれています。 右手の上の方に鉄塔が見えていたので、三角点もその辺りにあるものと思われますが、 今回は探るのは省略して、道なりに左手へと曲がっていきました。
左折して少し進んでいくと道は降るようになります。 赤い屋根と青いトタン壁の小屋の先で道が二手に分かれています。 正面には小田原の街や相模湾から伊豆半島や箱根の山々が広がっていました。 右手の方には富士山も頭を覗かせていました。 角に立つ道標「六本松跡」に従って右手へと曲がっていきます。
正面に富士山や丹沢の山並みを眺めながら進んでいくと、少し降るようになってきます。 富士山の麓の方には薄らと雲が棚引いているようでしたが、山頂部には雲はかかっていませんでした。 道なりに降っていくと、小屋を過ぎた所のT字路に出ます。 角に立つ道標「六本松跡」に従って右折していくと、赤い屋根の小屋へと登っていく道が分かれていきますが、 角に立つ道標「六本松跡」に従って左折して、坂道を降っていきます。
別所梅林分岐
正面に富士山を眺めながらミカン畑に続く道を降っていきます。 この辺りまで来ると、富士山の手前の矢倉岳がかなり中ほどに寄ってきて、 金時山の姿も次第に全容が見えるようになってきます。 そんな変化を確認しながら降っていくと分岐があります。 角に立つ道標によると、正面の道は「一本松・六本松」、左手の道は「見晴台を経て別所梅林へ」、 今来た道は「国府津駅4700m80分」となっていて、右手の道は何も示されていません。 「見晴台」というのにも興味を引かれますが、今回はこのまま真っ直ぐに進んでいきます。
(後日に左手の道を歩きました。「曽我丘陵」を参照)
一本松 (標高185m)
左手に箱根や富士山を眺めながら進んでいくと分岐があります。 角には松の幼い木が植えられていて「一本松」の標識が添えられていました。 袂に立つ道標によると、左手の道は「別所梅林(近道)」、右手の道は「六本松400m6分」、 今来た道は「見晴台を経て別所梅林へ」となっています。 左脇には富士山もよく見えていました。
道標「六本松」に従って右手へ進んでいくと、すぐに右手の畑へ登っていく道が分かれていきますが、 そのまま緩やかな道を進んでいきます。 左手の樹木が次第に低くなってきて、手前の街並みや矢倉岳の奥に富士山が綺麗に見えていました。 金時山の急峻な北斜面も見えていて、大変な思いをして登ったことを思い出したりしながら、 眺めを楽しんでいきました。
六本松跡
T字路に立つ道標「六本松跡」に従って右手へ進んでいくと、程なくして六本松跡に着きます。 尾根道に登り着いた所から50分ほどで到着しました。 ここは5本の道が交わる峠になっています。 角々にある道標によると、右に戻るようにして続く道は「桜の馬場・広済寺」、正面の道は「忍石300m5分」、 左の六本松架橋をくぐって降っていく道は「祐信宝筺印塔700m15分・城前寺2000m35分・宗我神社2000m35分」、 今来た道は「一本松・国府津駅」となっています。 六本松架橋を渡っていく道には何も示されていません。 大正7年に建立された「六本松趾」の石碑もありましたが、 旧字体で刻まれていて、私にはよく読めませんでした。 また芭蕉の句碑や「六本松(曽我と中村を結ぶ古道の峠)」の標柱も立っていました。 傍には「ウォーキングコース案内図」があって、 国府津・曽我丘陵ウォーキングコース、国府津・曽我の里散策コース、 曽我の里散策コースの見晴らしコースや里コースなどが紹介されています。 今回は左手に架かる六本松架橋を渡ってその先へ進んでいくのですが、 お昼を少し過ぎた時刻になったので、脇に腰を降ろして昼食タイムにしました。
ウォーキングコース案内図は小田原市のホームページにも掲載されているので、 印刷して持参するととても参考になります。 忍石への道は「曽我丘陵」を参照。
六本松跡
古代千代大地は師長国の府中で、この地方の文化の中心地であったので、 西からの旅人は皆ここに寄って、この道を、目指す坂東や奥州へと向ったと推定(弓削道鏡等)される。 その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩などにこの道を通り、 いまも鎌倉山、将軍山また豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。 また、この地の豪族が鎌倉に馳せ参じた鎌倉街道でもあり、坂東三十三番観音の五番勝福寺から 六番長谷寺に詣る巡礼道でもある。 戦国乱世のころ、京の聖護院准后道興は 「答えする 人ほそなけれ 足曳の 山彦山は嵐吹くなり」を詠み、 降って元禄のころ、松尾芭蕉は 「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」、 門人の白雄は 「人の知る 曽我中村や 青嵐」、 その後、蕪村も 「雨ほろほろ 曽我中村の 田植えかな」と詠んだ。 この、六本松の地名となった最後の松の大樹は、明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。
お腹も満ちたところで、六本松架橋を渡って、その先に続く坂道を登っていきます。 左手に分かれていく道を見送って緩やかなな道になると、 右手には相模平野や相模湾が望める景色が広がってきます。 江の島と思われる島も見えていました。 正面に電波塔を見ながら進んでいくと、やがてT字路があります。 道標は見当たりませんでしたが、 左手は先ほどから見えていた神奈川県防災行政無線の曽我中継所の脇を経て曽我の里へと降っていく道で、 これから向う不動山は右手の道になります。
ゴミを捨てるのはあなたですか!!
海・山・川 この自然を大切に!!
小田原市では「ごみの持ち帰り運動」を行っております。
 (小田原市環境部)
登り口
ごみ捨て禁止の看板がやけに目立つ緩やかな道を進んでいくと、 農道は尾根を横切って左手へと曲がっていきます。 その角から正面の植林地へと道が分かれていきます。 道標などは見当たりませんでしたが、ここが不動山への登り口になります。 六本松跡から12分ほどの所になります。 脇には山火事注意の看板が立っていました。 ここまでは丘陵の尾根に続く舗装された農道でしたが、 ここから不動山の先にある浅間山の手前までは土の山道になります。
山火事注意
ポイ捨てしないで!
火災・救急等発生時には119番して下さい。
ここは曽我谷津1172(六本松から北へ0.8km地点)です。
 (小田原市消防本部、消防署、消防団)
植林帯の中に続く広めの急な山道を登っていくと梅畑がありました。 右手が開けていて、その向こうには丹沢の峰々が続いていました。 緩やかになった山道をその先へ更に進んでいくと少し降るようになります。 少し明るくなった浅い鞍部に着いて登り返し始める所から、左手の高みへ登っていく道が分かれています。 登り口から7分ほどの所になります。 道標などは見当たりませんでしたが、細めながらもかなり明瞭な道になっています。 これが不動山の山頂へ続く道になります。 正面に続く道は不動山の巻き道になっていますが、今回はこの左手の道から不動山に登っていきました。
不動山 (標高328m)
植林地に続く道を登っていきます。 傾斜は緩やかで踏み跡もしっかりと確認出来る状態でした。 植林帯が途切れた所には大木が生えていて、綺麗に黄葉していました。 そこを過ぎて再び植林帯を進んでいきます。 僅かに傾斜が増してきた道を登っていくと、手前の分岐から5分ほどで不動山の山頂に着きました。 登り口から12分ほど、六本松跡から25分ほどで到着しました。 周囲は植林地になっていて展望は得られません。 中ほどの樹木が少し疎らになっていて、「不動山 標高327.7m」と書かれた標識が立っています。 以前に来た時には三等三角点もあったのですが、この時には見かけませんでした。 積もった落葉の中に埋もれていたのかも知れません。 手元の地形図によると、農道からこの不動山へと続く山は曽我山とも呼ぶようです。
後日の2010年7月に来てみると、頭部がなくなって礎石だけになった三角点がありました。 この時には上に落葉が積もっていて見えなかったようです。
標識の裏面には「水の使い方をカエル」と題したステッカーが貼ってありました。 「コップ(COP)君」という名前の可愛らしい蛙の絵も描かれていましたが、 水源林としてこの不動山を大切にしようということなのでしょうか。
水の使い方をカエル
七都県市地球温暖化防止キャンペーン
水を節約して温暖化を防止しよう。 みんなのカエルが地球をカエル。 水道1立方m利用すると160gのCO2が発生します。
 (七都県市首脳会議、埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・横浜市・川崎市・千葉市)
不動山の山頂からその先へと降っていきます。 初めのうちは緩やかですが、次第に傾斜が増してきます。 滑り落ちないよう注意しながら降っていくと、山頂から2分半ほどで、先ほど分かれてきた巻き道に降り立ちます。 降り立った所の脇には「不動山山頂入口」の標柱が立っていました。 また正面の樹木に括り付けられた大きな看板には、マジックで「不動山登山口」と書き込まれていて、 赤い手袋も掛けられていました。 不動山へ登ってきた側には標識類を見かけませんでしたが、 傾斜は急ながらこちらがお勧めの登り道ということなのでしょうか。 巻き道に降りて左手へと進んでいきます。
緩やかな山道を1分半ほど進んで少し明るくなった所まで来ると十字路があります。 手元の地形図によると、不動山の西側にある実線と破線の道が尾根道と交わっている所になるようです。 「梅の里 曽我丘陵日だまりハイキング 六本松跡へ」の看板が今歩いてきた道を指していました。 それ以外には道標は見当たりませんでした。 左右の道は広めになっていて、小型車なら通って行けそうな幅がありましたが、 正面の植林帯へと続く道を登っていきます。 植林帯に続く広くなった道を2分ほど登っていくと、樹木が少なくてなだらかな所に着きます。 尾根道はこの先へと続いてますが、左手へ分かれていく道があるので、ちょっと確かめに行ってみました。
(十字路の左右に通る道は「不動山」を参照)
たき火・たばこに注意
 (神奈川県)
銃猟禁止区域
 (神奈川県)
展望地
左右に丸い石や建材などが置かれている植林帯の中をほんの少し進んでいくと開けた場所に出ました。 ミカン畑のようですが、手前には植えられていなくて広場のようになっていました。 枯れた夏草がまだ残っていましたが、 正面には小田原の街や相模湾などを見渡すことのできる景色が広がっていて、 ちょっとした展望地のようになった所です。 前回来た時にはここで昼食タイムにしたことを思い出したりしながら、しばらく眺めを楽しんでいきました。
323m峰
尾根道に戻ってその先へと進んでいきます。 この辺りから更に道幅が広がって、小型車なら通っていけそうな幅になります。 道の両側に車輪の跡もついていたので、車も通っているようでした。 広くて緩やかな道を6分ほど進んで坂道を少し登っていくと白い建物がありました。 上には小さなアンテナが沢山設置されていて、壁には「NHK Y-FM」と書かれていました。 何故だか「Y」の字だけが黄色になっていて、何処となく可愛らしい感じがしました。 裏手に回ってみると、「日本放送協会 小田原FM中継放送所」や、 「横浜エフエム放送 小田原FM中継送信所」という銘板が貼ってありました。 この辺りの高みが地形図にある323m峰になるようです。
古怒田分岐
中継所から更にその先へと進んでいくと、少し広くなった所に車が一台止まっていました。 やはり中継所の辺りまで車で入ってこられるようです。 広くて緩やかな道を7分ほど進んでいくと、少し降り気味になった所に十字路があります。 ちょっとした浅い鞍部になっていて、古怒田地区から曽我地区へと抜ける道が通っているようで、 右手の先には自動車が1台止まっていました。 角にある道標によると、右手の道は「菅原神社」とのことです。 左手の道は特に何も示されてはいませんでした。 右手の道はすぐ先で二手に分かれているようでしたが、正面の道を進んでいきます。 土の道はここで終って、ここからは再び舗装された道になります。
(後日に左手の道を歩きました。「曽我丘陵」を参照)
浅間山 (標高317m)
十字路から緩やかな道を2分ほど登っていくと浅間山に着きます。 不動山から25分ほどで到着しました。 山とはいってもなだらかな尾根道になっていて、 道に沿って3つ並んでいる電波塔などがないと、うっかり通り過ぎてしまいそうな感じがします。 最初は左手に移動無線センターの「浅間山無線中継所」、 その次に貯水槽と思われる円筒形の設備を挟んで神奈川県内広域水道企業団の「浅間山無線中継局」、 最後は右手に電波塔がありましたが設備名などは確認できませんでした。 2番目の中継局の右側には道標が立っていて、 正面に続く道は「赤田配水池35分」、今来た道は「梅の里1時間45分」となっていて、 この場所は「無線中継所」となっていました。
浅間山無線中継局
この設備は皆様の大切な水道を制御するコンピューターのデータ通信をマイクロ電波で中継しています。 昨日に影響しますので、柵内への立入を禁止します。 異状があったら下記へ御知らせ下さい。
 (神奈川県内広域水道企業団浄水部施設課電機係)
仙元塔
3つ目の電波塔の右側の金網柵沿いに登って建物の裏手に出ると「仙元塔」がありました。 刻まれた文字や解説板によると、江戸時代末期に建立された富士講の塔のようです。 誤読しているかも知れませんが、 側面には「不動大明王」,「仙元大菩薩」,「小御嶽石尊」,「元治元甲子祀仲秋吉辰建之」と読める文字が刻まれていました。 仙元塔の脇には石仏もありました。 「羽黒山・湯殿山・月山」と刻まれた台座の上に胡座を組んで一心に念じる姿をしていました。
仙元塔
ここは、小田原市と大井町に接する標高316mの浅間山で、ここに立てられている仙元塔は、 元治元年(1864)に建立されたものである。 塔は、高さ151cm、巾45cmで、四面それぞれ異なった書体で刻まれており、 これは当時、玉山という書家が数ヶ月を費やして書いたものを根府川の石工の手によって彫られたものである。 当時は、幕末の動乱期に当たり仙元信仰、すなわち富士講がこの地方一帯に、 いかに盛んであったかを伺い知ることができる。
 (中井町教育委員会)
仙元塔の解説板の左手から広い道が緩やかに続いていたので、その道を降っていくと、 左右に通る舗装路に降り立ちました。 脇には「仙元塔」と刻まれた石柱が立っていました。 また道標も立っていて、左手の道は「菅原神社」、降って来た道は「古怒田仙元塔」となっていました。 どうやら登ってきた道は枝道で、こちらの方が正規の登り口のようでした。 右手の道には何も示されてはいませんでしたが、手元の地図によると古怒田地区へ降っていく道のようでした。 ここは左手へと進んでいきます。
農道入口
舗装路を進んでいくと、程なくして電波塔の前を直進してきた道が左手から合流してきます。 角に立つ道標によると、左手の道は「至 小田原市 梅の里」、今来た道は「至 中井町 古怒田」となっています。 脇には「菅原神社」の道標も立っていて左手の道を指していました。 右手のすぐ先に立つ道標によると、右手の道は「至 いこいの村」となっていました。 梅畑の脇へ降っていく道も分かれていましたが、右手に続く舗装路を進んでいきます。 「赤田支R34 49」や「下曽我571 826 12」の標識が取付けられた電柱を過ぎていくと、 左手へ分かれていく道があります。 いこいの村へは正面の道を進んでいくのですが、 この左手の道が地形図に載っている実線の道のように思えたので、今回は左手の道に入っていきました。 この道は丘陵地帯にある農道のようで、小型車なら通っていけるだけの幅があります。 未舗装の所も少しありますが、概ねは簡易舗装されたしっかりとした道になっています。
地形図の実線の道を辿るつもりで歩き出しましたが、 車道へ降るまでの間には道標類がなくて感だけを頼りにして進んだため、 結果的には途中で道から外れて予定外の所に降りてしまいました。
(正面の道は「曽我丘陵」, 「曽我丘陵」を参照)
梅林への道を右手に見送って、雑木混じりの植林帯を緩やかに降っていきます。 「銃猟禁止区域」の赤い標識を過ぎていくと、張られた針金に円い葉を付けた枝を伸ばす果樹園があります。 その脇を進んでいくと、尾根道から2分半ほどの所にT字路があります。 右手の道は僅かに登り気味になっていたので、左手に続く道を進んでいきました。 3分ほど進んでいった所にもT字路があります。 左手の道は登り坂になっていたので右手に続く道を降っていくと、すぐに開けた感じの畑地に出ました。 畑の中に続く道を進んでいくと、小屋の先にT字路があります。 尾根道から6分半ほどの所になります。 角にはコンクリート製の水溜があります。 取水栓も取り付けられていて簡単な注意書きも立っていました。 右手へ登っていく道は畑へ続いているようなので、左手へ曲がって降っていきます。
注意
ハンターのみなさん! この附近に人家、農耕地があります。 狩猟に注意しましょう。
 (神奈川県)
竹林の脇を過ぎていくとミカン畑がありました。 その先へ更に降っていくと、左手が開けた所に出ました。 逆光のためボンヤリとした写真になってしまったのが残念ですが、 眼下には小田原の街並みが広がり、 その奥には神山・駒ヶ岳・二子山などの箱根の山々や外輪山がよく見えていました。 右手には金時山も頭を覗かせていました。 眺めが広がる所を過ぎていくと、すぐに森から抜け出て、畑地の中を降るようになります。 丹沢方面の山々でしょうか、右手には山並みが見えていました。
農道分岐
畑地よりも少し低くなった所に農道が続いていて、ちょっとした切通のようになっていたりもします。 丘陵の畑地に続くそんな道を降っていくと、農道が分岐している所があります。 尾根道から14分ほど降ってきた所で、地形図にある実線の道が分岐している所になります。 角には「農道完成記念」と刻まれた三角形の石碑が向こう向きに立っていて、 「右 古怒田」,「左 赤田」と刻まれていました。 「右」とは今降って来た道になります。 右手に戻り気味の登っていく道は見送って、正面左手へ続く道を進んでいきました。
分岐を過ぎてその先へ降っていくと、正面の畑越しに富士山が見えるようになります。 手前にある矢倉岳の位置がかなり左へ寄ってきていました。 富士山には雲はかかっていませんでしたが、陽の当る向きによるのか、少し霞んていました。
T字路
富士山や右手に見える丹沢の山並みなどを眺めながら、丘陵の畑地に続く道を降っていきます。 かなり傾斜もあったりして、登り道には選びたくないなと思いながら降っていきました。 正面に箱根の山々を眺めながら降っていくとT字路があります。 先ほどの農道分岐から8分ほどの所になります。 正面にはカーブミラーが設置されているばかりで、左右の行き先を示すものは見かけませんでした。 どちらへ進んだものかと愚考した後、今回は左手へ曲がって降っていきました。
実線の道から外れる
地形図に載っている尾根道から続く実線の道を辿ろうと思って歩いてきました。 ここまでは何とかその道を歩いて来られたようですが、ここで実線の道から外れる結果になりました。 右手の道が実線の道になるようで、今回歩いたルートでは、最後の上大井駅までは少し遠回りになります。
岸太郎橋
小屋の脇を過ぎて、次第に傾斜の増してくる坂道を降っていきます。 ドンドン降っていくと少し開けた畑地に出ます。 二つ並んだ小屋の間を過ぎていくと、次第に小さな谷筋になってきます。 沢を流れる水音が大きく聞こえるようになってくると、沢を右下に見ながら進むようになります。 傾斜が緩やかになった道を進んでいくと、沢に架かる橋を渡って右岸に続く道を進んでいきます。 程なくして右手へ道が分かれていきます。 角には一本の注連縄が張られた石碑がありました。 右手の道を見送って沢沿いに真っ直ぐ降っていくとT字路に出ます。 沢が道と同じほどの高さの所を勢いよく流れていました。 右折して道なりに進んでいくと、民家が建ち並ぶようになってきます。 石垣沿いに進んでいくと、左右に通る県道72号(松田国府津線)に出ました。 これまで歩いてきた道と県道とが立体交差している所で、岸太郎橋が架かっています。 実線の道から外れたT字路から12分ほど、尾根道の農道入口から35分ほどで降りて来られました。 県道に出ると、正面には富士山が見えていました。
千体堂
当初に予定していた所とは違う所に出てしまったので、上大井駅と下曽我駅のどちらへ進んだものかと考えた末、 同じような距離ですが、上大井駅に向かって県道を右手へと進んでいきました。 歩き出すと程なくして右手に上曽我集会所がありました。 集会所の右手には小田原市消防団第21分団器具置場の建物があり、 左手には「千体堂」の扁額が掛る小振りの仏堂がありました。 仏堂の横には五輪塔などが、器具置場の前には「鬼鹿毛馬頭観音」と刻まれた石碑などが並んでいました。
千体仏と鬼鹿毛馬頭観音石碑
仏堂は中央に木彫阿弥陀如来坐像が祀られ、その横に多数の如来形立像がびっしりと並ぶ。 中央阿弥陀如来は江戸時代の造立で、千体仏も室町から江戸時代へかけての製作と認められる。 堂前の鬼鹿毛馬頭観世音の碑は、静岡県小山町新柴の円通寺の馬頭観世音のことである。 この観音を「新柴のお観音さん」と呼び以前足柄平野の農家ではこの縁日に、 馬を曳いて足柄峠をこえ、人馬ともども参拝にった。 碑の昭和12年の年号は、すでに参拝しなくなった時代に、 遙拝(はるかにはなれたところから拝む)の対象として建てられたものかと思われる。 鬼鹿毛観音の碑は、久野諏訪の原にも一基がある。
 (小田原市教育委員会)
(誤記と思われる箇所も見受けられますが、そのまま載せておきます)
千体堂を後にして県道を進んでいくと、すぐの所に公民館バス停があります。 小田原駅や国府津駅までの便がありますが、本数は1時間に1本もありません。 信号機のある交差点を直進していきます。 大きなラーメン店を過ぎていくと窪田バス停があります。 左手には田んぼが広がっていて、脱穀済の稲藁が並べて立てられていたりもします。 田んぼの向こうには富士山や矢倉岳や金時山が見えていました。
上大井(かみおおい)駅 (標高35.34m)
大沢公民館前交差点を直進して菊川橋を渡っていくと、小田原市から大井町へと入っていきます。 上大井駅入口バス停を過ぎていくと、自転車店の先に上大井駅前交差点があります。 そこを左折していくと上大井駅(JR御殿場線)があります。 岸太郎橋から22分ほどで到着しました。
午後には、国府津駅(JR東海道線)までの便が1時間に2本程度あります。
ひょうたん
昭和45年にJR東海(当時は国鉄)御殿場線上大井駅の構内へ駅員が西日除けにとひょうたんを植えたのがきっかけで、 以後上大井駅は『ひょうたん駅』として有名になり、昭和56年の時刻表の表紙も飾りました。 その後、駅構内のひょうたんの管理は地元商店街や町商工振興会に引き継がれ、 ひょうたんまつりの開催など盛り上がりを見せました。
 (出典:大井町ホームページ)
上大井駅開設50周年記念碑
明治22年2月東海道線、上大井を走る
昭和9年12月丹那トンネル開通に伴い御殿場線と改称される
昭和21年8月曽我・金田村長・上中村山田村組合長、上大井駅設置請願を運輸大臣に提出
昭和23年2月運輸政務次官より曽我村長に上大井駅設置の許可が下りる
昭和23年3月上大井駅建設に着手
昭和23年5月上大井駅完成、工事費約百萬円
昭和23年6月上大井駅、開設される
昭和56年8月愛称「ひょうたん駅」と呼ばれる
 (大井町、上大井自治会)