江の島
散策:2009年11月下旬
【海辺散策】 江の島
概 要 江の島は、湘南海岸に浮かぶ島で、多くの文化財が遺されています。 また、島先端の浸食海礁や自然美を加えて、全島が史跡・名勝に指定され、 四季を通じ参詣や行楽の人々が来遊している所です。 今回は、片瀬山公園や龍口寺などを訪ねてから、江の島弁天橋を渡って江の島へと向かっていきます。
起 点 藤沢市 目白山下駅
終 点 藤沢市 江ノ島駅
ルート 目白山下駅…片瀬山公園…法源寺…龍の口刑場跡…龍口寺…龍の口明神社…片瀬東浜海水浴場…江の島弁天橋…下道…御岩屋道…奥津宮…龍宮…稚児が淵〜(江の島乗合船)〜境川河口…湘南すばな通り…江ノ島駅
所要時間 3時間30分
歩いて... 朝方には富士山も見えていましたが、江の島に着く頃には見えなくなっていました。 今回は辺津宮や中津宮には立ち寄らずに、下道から直接奥津宮へ向かいましたが、 週末とあって多くの人出で賑わっていました。 この時は丁度満潮の時間帯で、稚児ヶ淵の岩場は波が洗っていました。
関連メモ 江の島道, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島, 江の島
コース紹介
目白山下(めじろやました)駅
目白山下駅(湘南モノレール)から歩いていきます。
改札口の階段を降りて道路に出て、左側に戻るようにして続く坂道を登っていきます。 モノレールの北側に広がるこんもりとした森が、これから向かう片瀬山公園になります。
公園の管理についてのお知らせ
この公園の管理については、藤沢市より「指定管理者」に指定されましたのでお知らせします。 今後、公園の管理についてお気づきの点がございましたら、次の連絡先までご連絡ください。
指定の期間 2009年4月1日〜2014年3月31日
指定管理者 (財)藤沢市まちづくり協会、藤沢市緑化事業協同組合グループ
片瀬山公園
青緑色の金網柵沿いに続く坂道を登っていきます。 少し広い所にある手洗所を過ぎていくと、円いテーブルやベンチのある広場に着きます。 この辺りの高みの森一帯が片瀬山公園になるようです。 脇にある解説板によると、以前には遊園地になっていて、展望台や動物園もあったようです。 周囲は樹木に囲まれていて眺めは良くありませんが、 春には桜が咲いて、花見をする人達で賑わう所のようです。 テーブルを過ぎていくと、道が分かれていて十字路のようになっています。 左右にはこんもりとした高みがありますが、先ずは左手に進んでみました。
片瀬山公園の由来
片瀬丘陵の南部にあるこの山は、もともと竜口山といい、そのいわれは「天女と五頭竜」という伝説の中にでてきます。 千四百年もの遠い昔に、このあたりを荒らしていた五つの頭をもった竜がいましたが、 江ノ島の弁天様のおかげで改心し、村を守るために山となったのがこの竜口山だと言われています。 また、ここには昭和初期に「竜口園」という遊園地があり、六階建ての展望台や、動物園などがありました。 その後、遊園地はなくなり、昭和48年に風致公園として開設され、片瀬山公園として現在に至っています。 緑豊かなこの公園は自然を生かしながら整備され、市内では残り少ない、 まとまった面積の樹林地として貴重な存在となっており、 園内には、海岸丘陵地帯独自の植物を主体として、 斜面地にイノデやタブノキ、尾根部ではヤブコウジやスダジイの群集を見ることができ、 春にはサクラの名所としても親しまれています。 また、高台からは美しい片瀬の街並みや、西浜の砂浜、 そして晴れた日には遠くに富士山を望むことができます。
 (藤沢市役所公園課)
公園を花見で利用される方へ
ごみは持ち帰りましょう。
*開花の日より毎日のようにゴミを持ち帰らない心ない方々がおります。 あたなは良心がある方でありますように!
 (藤沢市)
左手へ進んでいくと、平らな広場の左手からも登っていく坂道がありましたが、 先ずは正面の平らな広場の奥へ進んでみました。 右手に続く青緑色の金網柵のすぐ下の所は住宅地になっていました。 樹木の間からは、街並みの向こうには、江の島の海が少し見えていて、 左手の奥には鎌倉から葉山方面にかけての三浦半島も見えていました。 広場の突き当たりまで行くと、行き止まりのようになっていましたが、 金網柵沿いに左手の高みへ続く小径があったので、登っていきました。
石が階段のように敷かれた小径を登っていくと、高みにある広場に出ました。 今では何もない所で周囲は樹木に囲まれているばかりですが、 往時には動物園などがあったのでしょうか。 広場に生えている樹木は桜なのでしょうか。 樹木の下にシートを広げて花見をするには良さそうな所でした。
お願い
公園をきれいにするため、ごみ箱は撤去しました。 ごみはお持ち帰りください。
 (藤沢市役所公園課)
高みの広場からは広い道が左前方へ降っていました。 先ほど見かけた坂道のようですが、正面の奥へと小径が続いていたので、その道を降ってみました。 金網柵沿いに降っていくと、左下の平らな所が梅林になっていました。 春には観梅を楽しむ人々で一杯になるのでしょうか。 梅林を横切って左手へ進んでいくと、高みの広場から降ってくる広い坂道に出ました。 そこから右手へ降っていくと、先ほどの十字路に戻ってきました。
十字路の右手には緩やかで広い道が続いていますが、正面にある横木の階段を登っていきました。 民家の裏手に続く道を分けて階段を登っていくと、高みにある広場に着きました。 広場にはブランコが設置されていました。 四方に枝を広げた大きなイチョウの木が綺麗に黄葉していました。 合歓木でしょうか、ブランコの近くには樹皮がツルっとした感じで特徴的な葉をした木も生えていました。 専門的なことは知りませんが、2回羽状複葉というのでしょうか。
ブランコの横から続く横木の階段をひと登りすると、東屋風の設備がある高台に着きました。 ここがこの片瀬山公園で一番高い所になるようです。 往時には展望台などが設置されていたのでしょうか。 ベンチも設置されていて小広くなった所です。 周囲は樹木に囲まれていて展望は良くありませんが、 先ほどの解説板によると富士山も見えるとのことなので、ちょいと探してみました。 見えると思われる方角を覗っていると、繁る枝の間からそれらしい姿を僅かに望むことが出来ました。
高台の先へと広い道が続いていたので進んでいきました。 程なくして右下にある広場へ降っていく道が分かれていきますが、 そのまま正面へ進んでいくと、広い道は行き止まりになっていました。 左側のすぐ下の所には、龍口寺の七面堂の屋根に光る擬宝珠が見えていましたが、 金網柵が設置されていて降りて行くことは出来ませんでした。 右手へ曲がって降っていくと、高台の一段低い所にある広場に出ました。 周囲にはベンチが幾つも設置されていました。 この片瀬山公園は三段の高さになっているようです。 左手にもちょっとした広場がありましたが、その先は行き止まりになっていました。 植え込みの先の金網柵には「いぬしで」の手製の解説板が取付けられていて、 実・おばな・めばなの絵も載っていましたが、どの木がそれなのかは分かりませんでした。
いぬしで(かばのき科)
材は薪炭・農具の柄・床柱として用いられる。
 (藤沢青年会議所)
蓋をされた溝が続く広い道を進んでいくと、最初の十字路の所に戻ってきました。 そこから元来た道を引き返して目白山下駅の脇まで来ると、列車がやってくる音が聞こえてきました。 少し待って列車が丁度ホームに並んだところを写してみました。 赤色と黄緑色の帯が対照的でした。 湘南モノレールは単線になっているので、列車は駅ですれ違います。 ホームがひとつしかなくてすれ違うことが出来ない駅もあるようでしたが、 この目白山下駅はすれ違える構造になっていました。
住宅地や寺院などとの区切りのために、片瀬山公園の周囲には金網柵が設置されていて、 公園の出入口は、登ってきた目白山下駅の脇の一箇所にしかありませんでした。
目白山下駅の出入口まで戻って来て、駅に向かって左側に続く道を進んでいきます。 車止めの先の短い階段を降って、その先へと進んでいきます。 腰越小学校プールや腰越子ども会館の前を過ぎて坂道を道なりに真っ直ぐ降っていくと、 カーブミラーの設置された十字路があります。 脇の電柱には「腰越五丁目5」の住所表記が取り付けられています。 上の方には「モノレール目白山下駅ちかみち」の看板も取り付けられて、今来た道を指しています。 路面には自転車に乗って手を上げている人と靴跡が描かれた「とまれ」の標示もありました。 ここを右手へ進んでいきます。
法源寺
石垣の上に板塀が続く路地を進んでいくと、右手に分かれていく道があります。 角には大きな石碑が立っていて、 「南無妙法蓮華経 天下太平 日月清明 龍口山 法源寺 ぼたもち寺」と刻まれていました。 この先に法源寺があるようなので、立ち寄っていくことにしました。 坂道を登り始めると道が二手に分かれていました。 左手の道には厳つい鉄製の扉があって、「SGI教学会館」の表札が出ていました。 その道は見送って右手の坂道を登っていくと、竹林を過ぎた先に法源寺がありました。 正面にも大きめのお堂がありましたが、右手にあるのが本堂のようでした。 その間の奥まった所に庫裡と思われる建物がありました。 9月12日には、故事に因んで「ぼたもち」が振る舞われるようでした。
法源寺略縁起
鎌倉市に源氏山とゆう丘があり、 その源氏山から和歌江浦(只今の鎌倉材木座海岸沖合いにある日本最初の築港で史蹟になっております)の 出船・入船を見物する人々を相手に茶店を出していた日蓮大聖人の帰依者であった老婆がありました。 たまたま当小動岬の近くにある自宅に帰宅していた文永8年9月12日、御法難にあい、 竜ノ口の刑場におもむく大聖人が自宅の前を通り遊ばされたので、急ぎ差し出すにぎり飯が、 つまづきころんで砂にまみれ、ごまをまぶした如くになりましたが、 日蓮大聖人は老婆の心からの御供養を喜び遊ばされ、警護の武士の許しをえて、 この世の最後の供養にと喜んで召し上がられました。 後世に至り、当山の金子家の墓所に葬られている老婆の供養にと、毎年9月12日に、 日蓮大聖人が御難を除かれ命ながらえ給いしにちなんで、「延命のぼたもち」又は「ご難よけのぼたもち」とよばれて、 いつしかにぎり飯がぼたもちとして皆様に差し上げる様になりました。
法源寺から元の道まで引き返してその先へ進んでいきます。 小さな腰越くじら公園の前を過ぎて僅かに降っていくと国道467号に出ます。 江ノ電が路面電車のように一般道を走っている所です。 この右側に龍口寺の立派な仁王門があります。 江の島へは線路を横切った先へ続く道を進んでいくのですが、その前に龍口寺を訪ねていくことにしました。
龍の口刑場跡
仁王門の手前の左手には龍の口刑場跡があります。 大きなイチョウの生える玉垣で囲まれた一角には、石碑が幾つか並んでいましたが、 達筆過ぎて読めないものもありました。
龍の口刑場跡
当地は鎌倉幕府時代の刑場跡で、文永8年(1271)9月13日子丑の刻(午前2時)、 日蓮聖人は立正安国論の諌言により、この刑場敷皮石(首座)にすえられ、 時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来たりて、 役人共や眼がくらみ、この奇瑞の為、ついに聖人の首を斬ることが出来なかった。 即ち日蓮聖人龍の口法難の霊場であります。
 (寂光山 龍口寺)
由来碑
此の題目は伊豆玉沢妙法華寺に現存する六老僧日昭阿闍梨に授与したまえる日蓮大聖人真筆の大曼荼羅より 虔しんで抜写せるものなり
 (昭和五十八年四月二十八日 施主)
「龍乃口」の扁額の掛る仁王門の左右には、その名の通り、阿形と吽形の仁王像が立っています。 天上を見上げると、龍の絵が二枚飾ってあります。 ほぼ同じような絵でしたが、金の玉を持っている絵と持っていない絵になっていました。
仁王門の先にある石段を登っていくと、「寂光山」の扁額の掛る山門があります。 前後左右の柱の壁には浮き彫りの絵が掲げられていました。
龍口寺
山門から入っていくと、左手には「寂光殿」や「妙見大菩薩」の扁額が掲げられたお堂があります。 右手の一段高い所には総受付の建物や延寿の鐘や日蓮聖人の銅像があります。 正面の石段を登った所に龍口寺の本堂があります。 手前には「霊跡本山龍口寺縁起」と題した立て札もありましたが、文字が掠れていて読めませんでした。 石段の左脇には境内の手書きの案内図があるので参考にしましょう。 少し傾いたりもしていますが、堂宇などはかなり写実的な絵になっていました。
龍口寺本堂
当山は正式には日蓮宗霊跡本山寂光山龍口寺と称し、1271年の日蓮上人「龍の口の法難」の龍の口処刑場跡に 建立されました。壮大な本堂、豪壮な大書院、山門の彫刻、県内唯一の本式五重塔など、主要な建物は 全てけやき造りです。仏舎利塔からは江の島、相模湾が一望できます。
 (霊跡本山 龍口寺)
本堂の左側には、赤い鳥居や「奉納 正一位経八稲荷大明神」と書かれた幟の奥に 「経八稲荷大明神」の扁額の掛る鳥居があって、その先に小祠がありました。 案内図に載っている稲荷堂になるようです。 脇には「茶筅塚」と刻まれた石碑もあって、綺麗な花が手向けられていました。
稲荷堂の左側に続く石段を登っていくと、途中に「萬人歯骨塚」と刻まれた石碑があり、 その脇には解説板も設置されていました。
萬人歯骨塚整備の辞
歯は人の生命を支えるかけがえのない存在である。健康で幸福な人生を送る人々のために、歯科医 師は日夜努力を惜しまないが、病気や事故、あるいは宿命の老化により、生きながらにして大切な歯 を失うことが多い。永久歯は失えば再び戻らないのである。 日蓮聖人は、存命中に数本の歯を失われた。この歯を自らの生命を支えてくれた分身として、感謝 を込めて仏前に供え、毎月礼拝された。生命こそ、何にもかえ難い財宝であるとする日蓮聖人ならで はの歯骨供養である。のちに直弟たちは、これを「御肉牙」と称し、立派な容器に収めて後代に伝え 生前の日蓮聖人と接しうるよすがとして供養会を開き、信仰のよろ所とした。いま、この「御肉牙」 は大本山池上本門寺に伝存している。 爾来、日蓮宗では、壇信徒の歯骨を小壺に容れて各本山寺院に収める信仰的習慣がうまれ、今日に 至る。当山でも、古来歯骨塚が存在したと伝えられる。のち、明治十四年九月十三日、横浜の入歯師 水野房吉氏が、自らの歯科修業(行学)の結願を記念して、現存の「萬人歯骨塚」を再建、毎年一回 藤沢市歯科医師会が施主となり、いまも供養会が営まれている。 再建から百有余年を経て、近年に至り、塚医師の風化も著しく、周辺の荒廃も目立つようになった。 茲に、藤沢市歯科医師会の協力を得て、その保存策を協議した結果、再整備の浄業を実施することに 決定をみる。藤沢市歯科医師会の善業の功徳甚多なり。その資助の法功をここに誌し、永く顕彰する ものである。 併せて、歯骨供養の信仰を通して、広く衆庶に歯の大切なることを喧伝し、歯科衛生・治療の知識・ 関心を高揚せんと欲すると爾か言う。
 (平成十二年十月八日 霊跡本山龍口寺第十四世 慈悲院日立 和南)
石段を更に登っていくと、「七面天」の扁額の掛るお堂がありました。 案内図に載っている七面堂になるようです。 左手には寺務所のような建物もありました。 手前の右側には蓮の花を模したものがあり、左側には龍が丸まった像がありました。 屋根には金色に光る擬宝珠がありました。 先ほど訪ねた片瀬山公園から見えていたもので、すぐ裏山が公園になっているようでした。 立て看板によると、右手は「五重の塔」、左手は「仏舎利塔」となっていますが、 先ずは右手へ進んでいきました。
七面天女
法華経を守護するとされる女神である。 伝承によると、身延山の高座石にて日蓮聖人の読経と説法を 拝聴するために度々現れた若い娘が、実は七面山に棲む竜の 変化した姿であり、日蓮聖人の教化により久遠寺の守護神と して祀られるようになったとという。 こうして七面天女は、当初日蓮宗の総本山である身延山久遠寺 の守護神として信仰され、やがては日蓮宗が広まるにつれ、 法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるよう になった。 当山での勧請は古く、寛政九年(1797)の東海道名所図絵に も記載されている。安藤広重の錦絵には龍口寺七面山からの江 ノ島の眺め図がある。
毎月十九日午後一時 七面天 例祭(五月十九日は年に一度の大祭)
読経祈願終わって茶話会。 どうぞ御参詣下さい。
コンクリート敷きの階段状の道を登っていくと墓地がありました。 「第2墓地」というようです。 そこを過ぎて右へ戻るようにして曲がりながら降っていくと、左側に五重の塔がありました。 周囲には柵が設置されていて中には入っていけませんが、かなり大きな建物になっています。 山の斜面を削って僅かな場所を平らにして建てられています。 引きがなくて、全体を上手く写すことが出来ませんでした。 更に階段を降っていくと本堂の脇へ続いていて、 途中から分かれる道を登っていくと「第1墓地」のある高みに続いていますが、 今回はここで引き返して仏舎利塔へ向かっていきました。
七面堂まで引き返してきて、その先に続くコンクリート敷きの階段状の道を登っていきます。 途中で前後に分かれていますが、そのまま正面へ続く階段を登っていくと、なだらかになった高みに着きます。 その右側の奥に仏舎利塔が聳えています。 白く塗られた塔の上には金色に輝く擬宝珠が立っていました。 中ほどの壁面には金色の仏像が安置されていました。 インドや東南アジアなどの仏教の故郷を偲ばせる風情を感じました。 近年になって改修されたようで、6年ほど前に来た時と比べて、少し小綺麗になっていました。
仏舎利塔の南側からは、街並みの向こうに江の島も見えますが、 無粋な建物が邪魔をしていて趣も今ひとつです。 高層ビルなどが建っていない時代には良い眺めだったのだろうと思われます。 箱根から伊豆にかけての山々でしょうか、右手の奥の方には稜線が続いていました。
龍の口明神社
仏舎利塔から引き返して仁王門から出ていくと、右手の龍の口刑場跡の先に鳥居が立っています。 参道の先にある石段を登っていくと、木戸で閉ざされていましたが、中に建物がありました。 これが龍の口明神社というようです。 左手にも建物があったので社務所でしょうか。 木戸の前には木製の由緒書きが設置されていて、 「関係者以外立入禁止 氏子総代」と書き添えられていました。
龍の口明神社
御祭神 玉依姫命  海神族の乙姫様で、初代天皇の神武帝の母君
五頭龍大神  欽明天皇の御代、江の島が湧出した折、弁天様が天降り、 かつてから悪行を働いていた五頭龍は弁天様との結婚により悔い改め山となり、 国家安豊の神になったという御由緒があります。
御創建 欽明天皇十三年(西暦552年)
御例祭 十月第一土日曜日
片瀬東浜海水浴場
江ノ電の線路を跨いでその先へ続く道路を進んでいくと、国道134号の片瀬東浜交差点に出ます。 手前の角には「夢告の井戸」と題した石碑があって、 数珠を持った僧侶の絵も刻まれていましたが、謂れなどは記されていませんでした。 横断歩道を渡っていくと、正面には腰越海水浴場から片瀬東浜海水浴場にかけての砂浜が広がっています。 晩秋だというのに、海ではウインドサーフィンを楽しむ若者が沢山いました。 左手の方には小動岬が海に突き出ていて、沖の方には三浦半島と思われる陸地も横たわっていました。 右手には江の島が間近に見えています。
トビに注意!
手に持った食べ物をトビが襲う被害が出ています。 ご注意下さい。 また、エサをもらったトビ等は、人の食べ物をねらうようになりますので、 野生生物にエサをあたえるのはやめましょう。
 (神奈川県湘南地区行政センター、藤沢市)
片瀬東浜海水浴場沿いの歩道を右手へと進んでいきます。 注意書きにもあるように、頭上にはトビが沢山舞っていました。 街灯の上に留まって「ピーヒョロロー」と鳴いているのも見かけました。 左前方に江の島を眺めながら進んでくと、江の島入口交差点があります。 その地下道に入っていくと、壁面には江の島を描いた浮世絵が掲げられていました。
本朝名所相州江ノ嶋岩屋之図
相州江ノ嶋之図
富嶽三十六景相州江乃嶌
諸国名所百景相州七里ガ濱
トビに注意!!
食べ物をねらって、後ろから飛びかかってきます。 するどいツメで、けがをすることがあります。 ご注意下さい。 被害を出さないために。
・野生鳥獣にはエサを与えない。(食べ物を持った手を上にあげない)
・帽子や日傘等で頭をまもる。
 (神奈川県湘南地域県政総合センター、藤沢市)
地下道から江の島へ続く車道の右側の歩道に出てると、龍が刻まれた大きな灯籠が両側に立っています。 その先へ進んでいくと、右手の境川の河口には 江の島一周遊覧モーターボート(\1,000)や江の島乗合船(\400)の乗り場もありますが、 今回は歩いて江の島までいくことにします。
龍燈建立之碑
「江島縁起」によれば欣明天皇13年(552)4月に海底より塊砂を噴き出し天地が鳴動すること21日、 忽ちに海上に一つの島が成せりとあり、これが島の起りとされる。 この島上に天女が降居し湖水の五頭龍は天女の麗質を見て善行を施すに至り、 以降天女は江島明神として祀られることとなった。 役行者を始め弘法、慈覚等高僧が岩窟にて参籠修行をいたし、各々が神感を受け御神威を仰いだとされる。 鎌倉時代には源頼朝を始め鎌倉将軍家、北条氏歴代、更に秀吉、家康等、その時代の名立たる武将の信仰は極めて篤く、 殊に江戸時代には江の島詣が盛んとなり、天下衆人の敬仰を集めるに至った。 又景勝の地江の島は紀行文、人情本、謡曲、長唄、常磐津、歌舞伎等に表現され、 北斎、広重等の浮世絵師により秀れた錦絵が数多く残され、 島内には社殿をはじめ多くの石碑が往時の信仰の深さを物語っている。 然るに豊かな自然環境と歴史的文化遺産を持つ江の島が折しも江島神社御鎮座1450年を迎えるに際し、 当地永々の繁栄を祈念いたし、奉祝記念事業として関係各位の御高配と多くの御奉賛者の御浄財を以て、 史蹟名勝地に相応しき石燈籠一対を建立いたす所以である。  (江の島振興連絡協議会、江島神社)
江の島弁天橋
船の乗り場を過ぎていくと江の島弁天橋が架かっています。 その手前には「名勝及史蹟江ノ島」と刻まれた大きな石碑が立っています。 「江の島名勝図」と題した案内図も設置されているので参考にしましょう。 また、左側には「天の北極」を指す日時計のモニュメント「潮音」もあります。
説明
江の島は七里ヶ濱腰越及び鵠沼一帯の海岸に近く聳立し、 相模海岸における景勝の中枢として著名である。 第三紀の凝灰岩及び凝灰質砂岩から成り、洞窟嘴の竒を以て知られ、 島上からの富士の眺望は特に絶景である。 島の中央に祀られている弁財天は本邦三弁天の一として古来ひろく信仰され、今江島神社となっている。 昭和九年十二月史蹟名勝天然記念物保存法によって江の島全島及び其の周囲百メートル以内の海面が 名勝及び史蹟として指定された。
注意 一、岩石を破壊及び採取しない事
一、濫に樹木を伐採しないこと
一、濫に眺望を妨げる施設をしないこと
一、其の他現状を破壊し又は変更しないこと
 (昭和二十三年五月一日 文部省)
江の島名勝図
江の島は、またの名を「絵の島」ともいわれ、昔から風光明媚な自然環境に恵まれた周囲約4km、面積0.37kuの島です。 島の頂上部にある展望灯台からは、東南に三浦半島、南に伊豆大島、西に富士山・箱根の山々、と 湘南海岸を中心に360度の大パノラマを楽しむことが出来ます。 また江の島は、地質上、第三紀凝灰質砂岩からなる島で、このため海侵洞窟や岩嘴が多く、 奇異な形をなして、古くからその名勝をうたわれています。 島の中央には江島神社があり、弁財天が祀られています。 安芸(広島県)の宮島、近江(滋賀県)の竹生島にある弁財天とならんで、日本三大弁才天の一つにあげられています。 江戸時代には平和の神・福の神・音楽技芸の神として、多くの人々から信仰され、大変ににぎわいました。 このため、島内には神奈川県および藤沢市指定の多くの文化財が遺され、 自然美と併せて、全島が史跡・名勝に指定されています。 来島いただきました皆様に、四季を通じた江の島の魅力をご満喫いただきたいと思います。  (ぷちネットふじさわ)
円弧型・日時計
"時"には形がなく見えません。しかし私達には確かに時が過ぎていくのが感じられます。 人々は大昔太陽の動きをつかまえて、とりとめもなく流れる"時"に区切りをつけました。 それが日時計と時刻です。 三角形の石の指針(ノモン)の影を円弧形の石の時刻目盛で読んでください。 影は止まることなく刻々と動いています。 それが宇宙における地球の雄大な回転なのです。 午前は西側の影、午後は東側の影で真太陽時(ここの太陽による時刻)がわかります。 日本標準時と真太陽時はちがいます。 標準時が兵庫県明石市・東経135度できめてあるからです。 いつも真太陽時が進んでいてその差は毎日ちがっています。 左の時差表グラフを見て計算すると標準時がわかります。 湘南海岸にたつ日時計に明るい風が吹きぬけていきます。 太陽と地球と私達、すべてを大切にしたいと思います。
東経139度29分11秒、北緯35度18分09秒
左右に広がる海や山並みを眺めながら江の島弁天橋を渡っていきます。 来る時の湘南モノレールの車窓からは富士山が見えていたのですが、 公園や寺院などを訪ねてここまで来くると、湧き出した雲などのために見えなくなっていました。 橋を渡り切った先にも、手前にあったのと同様の「江の島名勝図」があります。 すぐ先に立つ青銅の大きな鳥居をくぐって、その先に続く弁財天仲見世通りを進んでいます。 物産店などが建ち並ぶ通りを緩やかに登っていくと、大きな鳥居の先に瑞心門が見えてきます。 左手にはエスカー乗り場もありますが、今回はここから右手に続く下道を進んでいきます。
江島神社 三宮の御紹介
辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す。
辺津宮(下之宮) 御祭神…田寸津比賣命
土御門天皇 建永元年(1206)源實朝が創建。 弁天堂には日本三大弁財天の妙音・八臂弁財天御尊像を始め、 十五童子像・後宇多天皇の勅額・弘法大師の護摩修法による弁財天像他が奉安されている。 宗国伝来の古碑・福石・白龍銭洗池・御神木の結びの樹等があり、 八坂神社・秋葉稲荷社が境内社として鎮座する。
中津宮(上之宮) 御祭神…市寸島比賣命
文徳天皇 仁寿三年(853)慈覚大師が創建。 現在の社殿は元禄二年(1689)の御造営で、平成八年の御改修により、 境内には歌舞伎界より奉納された石灯籠等がある。
奥津宮(御旅所・本宮) 御祭神…田紀理比賣命
天保十三年(1842)再建。 源頼朝奉納石鳥居・酒井抱一画の八方睨みの亀・八十貫の力石・鎌倉四名石の一つ亀甲石・ 御神木・山田流箏曲開祖山田検校像等がある。
龍宮…龍神をまつる(例祭九月九日)
岩屋 波の浸食で出来たもので、第一・第二霊窟からなり、約150メートル深奥が当神社発祥の地である。 欽明天皇十三年(552)にこの地に鎮座された。
春季大祭 初巳例大祭 四月初の巳の日
秋季大祭 古式初亥祭 拾月初の亥の日
一歳両度の祭祀として欽明天皇の御代より連綿と継承されている。
下道
御札授与所を過ぎて、切通になった坂を登っていきます。 朱色の太鼓橋の下をくぐって行くと、右側に江ノ島市民乃家があります。 また、階段の下には杉山検校の墓があるので、ちょいと立ち寄っていきました。 石段を降っていくと、右側に墓がありました。 正面には境川の河口付近から西浜にかけての海が広がっていました。
杉山検校の墓
杉山検校(和一)は慶長15年(1610)伊勢国に生まれました。 幼い頃に失明し、山瀬検校、入江豊明などの有名なはり医に学んでいました。 その後、江の島岩屋に21日の間、参籠し、ついに管鍼の術を創案したといわれています。 そして5代将軍徳川綱吉の信任をうけて、江戸本所に邸宅を賜り、 元禄5年(1692)には、下之宮(現辺津宮)境内に護摩堂を建て、翌年には三重塔を建てて寄進しました。 元禄7年(1694)に本所の私邸で亡くなり、近くの弥勒寺に葬られました。 この墓碑は一周忌の命日(5月18日)に、次の総検校、三島安一が造立したものです。 墓碑は笠塔婆型に造られています。 昭和38年(1963)藤沢市指定文化財「史跡」に指定されました。
 (藤沢市教育委員会、藤沢市観光課)
元の下道に戻って、等高線に沿うようにして続く道を緩やかに登っていきます。 所々で左側の山へ続く道や階段がわかれていますが、いずれも「立入禁止」となっています。 右手の樹間から見える海や山並みを眺めながら進んでいくとみどり橋が架かっています。 橋の右側が開けていて、湘南の海や丹沢・箱根・伊豆半島にかけての山々を望む眺めが広がっていました。 条件がいいと富士山も見えるのでしょうが、この時には雲に隠れて見えませんでした。
みどりの江の島をいつまでも
きれいな島をみんなの手で
 (藤沢市)
御岩屋道
住民駐輪場を過ぎて軽く降っていくと民家が現れます。 柵に囲まれた道の先の階段を降って路地を進んでいくと、江の島の中央部に通る道に出ます。 角には「御岩屋道」と刻まれた大きな石柱が立っていて、 今歩いてきた道は「下道」、右手の道は「奥津宮」となっています。 その脇には「木食上人行場窟」の案内板もあります。 左手の先には江の島を二分する境になっている「山ふたつ」と呼ばれる所がありますが、 ここを右折して奥津宮へと向かっていきます。
ここは住民駐輪場です
この場所は住民の生活の為に確保されたスペースです。 一般の方の駐輪はご遠慮ください。
 (江の島弁天会)
江ノ島2丁目地区急傾斜地崩壊危険区域
この区域内での、のり切り・掘さく・伐採等を行う場合は、知事の許可が必要ですから、 左記へお問い合わせ下さい。
 (神奈川県藤沢土木事務所)
木食上人行場窟
山ふたつの谷底に、木食上人行場窟と呼ばれる洞窟があります。 そのほぼ中央に高さ約1m、幅約80cmに扁平石を組み合わせて石廊を築き、 その上に石造阿弥陀如来の立像が安置されていました。 木食とは、五穀(米・麦・アワ・キビ・豆)を絶ち、木の実で生活することです。 この修業を木食行といい、木食行をする人たちを木食上人と言いました。
食事処などの店が建ち並ぶ御岩屋道を進んでいくと、 脇には猿が沢山彫られた「群猿奉賽像庚申塔」がありました。
群猿奉賽像庚申塔
多数の猿がその本尊である山王神をたたえ、祝っているという大変珍しい庚申供養塔です。 花崗岩で造られ、総高143cm、塔身高86cm、幅42cmです。 建立された年も寄進した人も刻まれていませんが、江戸時代後期のものと思われます。 基壇は岩座のように造られ、塔身の基座には蛇が巻き付いているように作り出されているのは、 弁財天信仰にちなんだものです。 塔身の四面には合計36匹の神猿がそれぞれ異なった姿態で山王神の神徳に奉賽しているという構図です。 猿は古くから日枝山王神社の使者として知られています。 「新編相模国風土記稿」には、下之宮(現辺津宮)の絵馬堂の近くに山王神社がまつられていたようですが、 それに奉納する意味でこの庚申供養塔は建てられたのでしょう。
 (藤沢市教育委員会、藤沢市観光課)
御岩屋道をその先へ進んでいくと、源頼朝が寄進したという鳥居があります。 その先には亀甲石や力石があります。 亀甲石の脇にある「大いちょう」は、半ば切られて短くなっていました。 また、山田流箏曲流祖 山田検校像もありました。 解説文を記した記念碑もありましたが、達筆な文字もあってよく読めませんでした。
頼朝寄進の鳥居
鎌倉幕府を開いた頼朝は、政治の方策としての信仰を大きく取り上げ、 各地に寺社伽藍を創建したが、その一つとして江の島神社にも数度にわたって参詣、参籠し、 その都度、信仰上の対象を寄進しています。 文覚上人に命じて弁財天を勤請し鳥居を奉納し、楽器を納めたなど文献に残されたものでありますが、 そのうち鳥居はこの奥津宮にある石鳥居がそれであります。 養和2年(1182)4月に建立されたもので、文政年間に破損を修復した記録も刻まれた貴重な史跡であります。
 (藤沢市観光課)
亀石(亀甲石)
古い標文に「鎌倉四名石の一つで、またの名を蔵六石という」とあります。 「武江年表」に文化3年(1806)弁秀堂という人が弁財天を信奉して金光明最勝王経を写経しここへ納め、 上に置く石を探したところ、亀の形をした石を発見したので江の島に奉納したと書かれています。 大いちょうの木の下に置かれています。
 (藤沢市観光課)
亀石(亀甲石)
鎌倉四名石の一つで別名を「蔵六石」という。 文化3年に弁秀堂なる人物が金光明最王経の写経を納めた時に亀甲石を奉納したものである。
力石
江戸時代に日本一の力持ちと言われた卯之助(岩槻藩)が当神社に奉納したもの。 重さ八十貫(320キロ)で、石には「奉納岩槻卯之助持之八拾貫」と刻まれている。 弁財天の祭礼に詣でた人々の前で力競技を行なった時のものである。
奥津宮
鳥居の先の正面に奥津宮があります。 手前にあるのが拝殿で、本殿は拝殿とは別の建物になっています。 少し距離を置いた奥にある本殿の中には円い鏡が光っていました。 奥津宮の拝殿の両側には大きな杓文字があって、 「神明霊瑞」と書かれた竜の絵と、「天壌無窮」と書かれた弁財天の絵が描かれています。
奥津宮
御祭神 多紀理毘売命
辺津宮の田寸津比売命、中津宮の市寸島比売命、当宮の多紀理毘売命の三女神は、 世に江島大神と称えられる。江島神社の草創は、島の南端のお岩屋であったが、 度々の大波を避ける為、この地にお社が創建され、当神社の本宮御旅所とも称された。 役小角(奈良時代)、弘法(平安時代)、日蓮(鎌倉時代)の高僧が参籠・祈願をこめて 御神威を戴き、源頼朝公は、奥州の藤原氏征伐祈願の為、鳥居(拝殿前)を寄進された。 現社殿は、天保13年(1842)の御造営で、拝殿天井の八方睨みの亀(酒井抱一画)は名高い。 当境内には、岩屋洞窟を模した龍宮がお祀りされている。
拝殿の天井を見上げると、「八方睨みの亀」と云う大きな亀の絵が描いてあります。 どこから見ても睨まれているように見えるということなのでしょうか。
八方睨みの亀
亀は古来めでたく、蓬莱山を背負い不老長寿の象徴とされています。 奥津宮御祭神のお使いとして、皆様の祈願成就を見守ります。
原画 享和3年 酒井抱一筆
模写画 大正15年 野澤提翠筆
復元画 平成6年 片岡華陽筆
 (江島神社)
八方睨みの亀の絵
江戸時代、享和3年(1803)画家・酒井抱一が描いた「正面向亀図」です。 正面向きの亀を桐材に金箔を押し、力強い線で描かれ、もとは胡粉緑青、丹色で彩色されていたのですが、 現在は亀の甲に三カ所に緑青が残り、また唇及び目の周辺に丹色がわずかに残っているだけです。 原絵は海風の浸害からまもるために、江島神社の宝殿に納められています。 いま奥津宮にかかげられているのは大正15年4月、東大史料編纂室長の浦永峯光氏が、 酒井抱一の末流野沢提翠画家に模写されたものです。 酒井抱一(1772〜1840)は江戸時代の加賀でもあります。 その画技は特にすぐれ、尾形光淋派の総師としても広く知られていました。 酒井抱一がなぜここに亀絵を奉納したのかはわかりませんが、 この絵が因縁となって、いま奥津宮の広場は亀寿の祝意が充満しています。
 (藤沢市教育委員会、藤沢市観光課)
龍宮(わだつみのみや)
奥津宮の左側に龍宮があります。 龍が上に乗っていて岩屋風になっています。 以前に来た時には解説板は風化してかなり読み辛い状態でしたが、 作り直されたようで、綺麗になっていました。
龍宮 御祭神 龍宮大神
江の島は、湧出以来、龍の棲む所と言われ、古来より龍神は弁財天信仰と習合し、 密接な結びつきから、江の島縁起を始め多くの伝説が残っている。 「太平記」には、時の執権北条時政が江の島に参籠して子孫の繁栄を祈った時に龍(大蛇)が現れ、 大蛇が現われ三つの鱗を落せり。 時政祈願成就と喜び、その三鱗を授かり家紋となす。 或いは「足利治乱記」には、海に夜毎光ありて白龍長さ廿丈許(約60m)なるが海中より出で、 絵島石穴に飛入るを諸人多見之と。 謡曲「江ノ島」には天女が龍神と姿を現じて、七難即滅・七福即生・悪事災難を払ひて、 所願成就を宣う御声もあらたに聞こえとある。 伝記は多く残されており、この神秘なる趣意を鑑み、 平成6年9月吉日に当社発祥地たる岩屋洞窟の真上に御鎮座となった。
龍神詠歌
天地の開けし御代は平成の天の戸明けゆく東天紅蒼海漫々と立ち渡り 舞う老の波今ぞ時なる重陽に龍神の吟ずる声ありて波浪を蹴たてて 逆巻く潮の迫るとともに龍神海上翔け昇り五色の彩雲普々にその雲上に顕ずなり 願事叶ふ如意宝珠三光を発し島上の龍宮に天降り給いぬ衆生済度の方便 生死の相助けんと… 御神慮幽くにありて噫かたじけなきかな
龍宮の左手を進んでいくと降りの急階段が始まりますが、 丁度昼時になったので、何軒か並んでいる食事処のひとつに入って、 名物という「生しらす丼」を食べてみました。 海などを見渡せるテラスもあって、気持ち良く食事が出来ました。
稚児が淵
お腹も満ちたところで、急な石段を降っていきます。 眼前に広がる海を眺めながら降っていくと、途中には石碑が並んでいます。 そこから更に降っていくと、「かながわの景勝50選 江の島稚児ヶ淵」の石碑のある岩場の上に出ます。 眼下に広がる岩畳には波が打ち寄せていました。
芭蕉の句碑・佐羽淡斉の詩碑・服部南郭の詩碑
芭蕉の句碑(右から2番目)は、握り飯の半面を押しつぶしたような素朴な碑型の河原石で、 「潮噴」の碑と称されて観光客に親しまれています。 青緑の色濃い自然石を程よく活用して 「疑ふな 潮の花も 浦の春 はせを」と彫りこまれたこの句は二見ヶ浦(三重県)での作ですが、 ここの自然環境に溶けあっています。
佐羽淡斉の詩碑(右から3番目)は、野火で碑面が剥落していたのを、4代目の子孫が再建したものです。 淡斉は、上州桐生の人で、大窪詩佛門下の詩人です。 全国の名所旧跡を遍歴して百詩碑建立を図り、江の島の碑はその第1号として建てられました。
服部南郭(右から4番目)の詩碑は、島内で一番古い詩碑で、 高さ95cm、幅35cm、表に七言詩、背面に文化2年(1805)これを建立したと識語されてあります。 南郭は、京都に生まれ、江戸に出て、儒学者荻生きるそ祖徠の門に学び、 後に柳沢吉保に仕え、詩文をもって知られた人です。 江の島には幾度も来遊し、そのたびことに、江の島にちなんだ詩をのこしましたが、 この詩は南郭の快心の作といわれています。
 (藤沢市観光課)
稚児ヶ淵・永P覇天朗の句碑
稚児が淵は島の両端に位置し、大正12年(1923)の関東大震災で1mほど隆起した波食台地です。 この名称の由来は、建長寺の修行僧自休が、江の島へ百ヶ日参詣の帰り、相承院の稚児白菊と 出会ったのが縁で恋におちいりました。しかしその恋も実らず、ついに白菊はこの断崖から 身を投げ、自休もそのあとを追ったという悲恋物語からおこっています。 ここから眺める富士山夕焼けの相模灘の美しさは、 まさしく「かながわ景勝50選」のひとつに数えられるものです。 永P覇天朗の句碑は、たて148cm、横97cmの仙台石の中にきざまれています。 この句碑は、もとは岩屋への桟橋近くに建立されましたが、 大波で破壊され、再建の際に、現在地に移されました。 覇天朗は大正時代に藤沢が生んだ新鋭俳人です。
 (藤沢市観光課)
レストハウスの前を過ぎて降っていくと岩屋洞窟へ続く橋がありますが、 今回は岩屋へは立ち寄らずに、乗合船に乗って帰ることにしました。 「乗合船 この先のりば→」の看板に従って、 階段の先に続く岩畳の上を進んでいきます。 この時は丁度満潮の時間帯で、岩畳には波がかぶり始めていましたが、まだ海釣りをしている人達が沢山いました。 乗り場へ向かう道は幅1mほどはあって周囲よりも少し高くなっていますが、 低くなった所では波が道の上まで来ることもありました。 波が引いた頃合いを見計らって、急ぎ足で過ぎていきました。
江の島乗合船
岩畳の上に続くコンクリート打ちされた道を進んでいくと、江の島乗合船の船着き場があります。 既に船は接岸していて、乗ってきた乗客の下船は終わって乗船が始まっていたので、 急いで乗船券を買って乗り込みました。 この時には乗客はそれほど多くなくて、ゆったりと座っていけました。 特段の合図もなく船は静かに岩壁を離れて、境川の河口へと向かっていきました。
江の島乗合船には決まった時刻表はなくて、客の状況をみながら随時運行しているようです。
境川河口
波は静かで、それほど揺れることはありませんでした。 左右に広がる海や次第に遠ざかる江の島などを眺めながら乗っていくと、 やがて境川河口の船着き場に着きました。 江の島から6分ほどの短い船旅なのでした。 境川の河口に着くまでには、二隻の同じような乗合船がすれ違うように江の島へ向かっていったので、 この時には合わせて三隻で運行しているようでした。
湘南すばな通り
江の島入口交差点にある地下道をくぐって国道134号の向い側に出ます。 左手に架かる弁天橋を渡った先に小田急の片瀬江ノ島駅がありますが、今回は江ノ電で帰ることにしました。 食事処や物産店などが建ち並ぶ湘南すばな通りを進んでいきます。 江ノ島駅が近づいていくると、左側に江の島弁財天道標があります。 江の島に墓のある杉山検校が寄進した道標とのことです。 それによると、「すばな」は「州鼻」と書くようです。 江の島へ続く砂州が鼻先にある所という意味でしょうか。
市指定重要文化財(建造物) 江の島弁財天道標
この道標は、管を用いた鍼治療をする管鍼術の考案者で江の島弁財天を厚く信仰したと言われる 杉山検校(1610?〜1694)が、江島神社に参詣する人々の道しるべに寄進したものと伝えられ、 現在市内にある十余基が市指定重要文化財に指定されている。 いずれも尖成岩製。ほぼ同じ大きさの尖頭角柱型であり、 多くが前面に「ゑのしま道」(上部の梵字は弁財天の種子「ソ」を表わす)、横面に「一切衆生」と 「二世安楽」と刻んであり、道中する一切衆生(いっさいしゅじょう=世の中に生きている全てのもの)の 現世及び来世の安楽を祈念した造立者の温情が偲ばれる。 この道標は平成十年一月、ここより170m南の州鼻通りの地下から、道路工事中発見されたものである。
 (藤沢市教育委員会)
江ノ島(えのしま)駅
道標を過ぎていくと、江ノ電の湘南海岸公園6号踏切があります。 その右手に江ノ島駅(江ノ島電鉄)があります。 藤沢駅(JR東海道線)まで10分、鎌倉駅(JR横須賀線)まで23分、 1時間に5本程度の便があります。
入口にある車止めには、毛糸の服を着せて貰った小鳥(スズメ?)が留まっています。 『わぁ可愛い』と言いながら、顔を傍に寄せて記念写真に収まっている女性陣も見かけました。 江の島に来た時にはいつも見かける小鳥ですが、季節毎に違う色の服を着せてもらっているようです。
湘南海岸公園6号踏切道
非常の際はこのボタンをブザーが鳴るまで押して下さい。 使用後はただちに下記へ連絡願います。 非常の場合以外に使用すると処罰されます。
 (江ノ島電鉄株式会社)
改札口からホームへ向かっていくと、畳一枚ほどの大きさのジオラマがありました。 昭和40年頃のこの付近の情景を模したジオラマとのことです。 緑色のランプが点灯している時にボタンを押すと電車が動き出すようになっていました。 中ほどには「内山バス」の駅前営業所があって、ボンネットバスが走っていました。 右側にはサーカスと思われるテント、左側にはボクシングの興行と思われるリングもありました。 龍口寺の五重の塔も聳えていて、細部まで良く出来ていました。 ジオラマは2008年の暮れにここに設置されたようですが、設置するに至った経緯も掲示されていました。
私が子供の頃にもボンネットバスが沢山走っていました。 家から10kmほど離れた街へサーカスを観に連れて行ってもらった淡い記憶もあります。 その時は大きな川辺にテントを張って興行していたように思います。 テレビのプロレス中継に熱くなったりもしました。 生まれ育った地方は違っていても、このジオラマの作者と私とはほぼ同じ年代のようでした。