浦賀鴨居
散策:2009年11月上旬
【海辺散策】 浦賀鴨居
概 要 三浦半島にある浦賀湾を舟で渡り、鴨居地区を経て観音崎までを歩きます。 浦賀や鴨居地区には開国時代の解説板が設置されていて、往時を偲ぶことも出来ます。 観音崎は古来から東京湾を守る要塞地帯として軍関係の施設が設けられてきた所です。 天気のいいと、東京湾や対岸の房総半島が一面に広がる素晴らしい景色を望めます。
起 点 横須賀市 京急浦賀駅
終 点 横須賀市 観音崎バス停
ルート 京急浦賀駅…浦賀ドック…西叶神社…東福寺…浦賀の渡し(西浦賀側)…浦賀の渡し(東浦賀側)…三浦稲荷社…東林寺…東叶神社…明神山…鴨居大室漁港…鴨居港…八幡神社…観音寺跡…村雨の碑…たたら浜…ビジターセンター…観音寺跡…海岸園地…権現洞…寂光土…観音崎園地…観音崎バス停
所要時間 4時間20分
歩いて... 浦賀湾を横断する「浦賀の渡し」には時刻表がなく、客の有無に応じてピストン運航していますが、 12時〜13時は昼休みのため運行していません。 今回は観音崎園地の内部はあまり散策せずに、海辺の散策路を歩きました。 遠くは霞んでいましたが、東京湾には大型船や小型船などが沢山行き交っていました。
関連メモ 浦賀湾, 観音崎, 観音崎
コース紹介
京急浦賀(けいきゅううらが)駅
京急浦賀駅(京浜急行本線)から歩いていきます。
改札口を出て階段を降った所にある浦賀駅前交差点の横断歩道を渡って、 正面の斜め左手へ続く浦賀通りを進んでいきます。
三崎口方面へ続く路線が「本線」だと思っていると、堀の内から浦賀へ延びる路線が本線で、 三崎口方面の路線は「久里浜線」というようです。 現状では、久里浜線の方が幹線として位置付けられているような状況なので、 浦賀駅への路線は短いことも手伝って、支線「浦賀線」という印象です。
浦賀通りを歩き始めると、左側に続く浦賀ドックの壁に、浦賀に関連する絵が8枚ほど掲げられていました。 絵に記されたサインによると、地元の中学生が描いたようです。 それぞれには浦賀国際文化村協議会の簡単な説明文も載っていました。
(左の絵だけは他と画風が異なるので、中学生が描いたのではないかも知れません)
黒船来港の地 ようこそ浦賀へ
 (明日の浦賀をつくる会)
ペリーとサスケハナ号  嘉永6年(1853)6月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下四隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。 このペリー来港により鎖国政策はピリオドをうち、日本の近代はここに始まった。
中島三郎助と鳳凰丸  ペリー来港により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行の与力・中島三郎助らに軍艦建造を命じた。 安政元年(1854)5月、日本で最初の洋式軍艦鳳凰丸は浦賀の地で誕生した。
勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸  日米通商修好条約の批准交換の使節のお供として、安政7年(1860)1月、勝海舟を艦長にした咸臨丸は浦賀を出航した。 福沢諭吉は軍艦奉行木村正毅の従者として乗り込んだ。 日本人の手による最初の太平洋横断の航海であった。
榎本武揚げ・渋沢栄一と浦賀ドック  日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、 この中心人物が榎本武揚であった。 時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を造ったのは明治期の大事業家渋沢栄一であった。
ヴェルニーと観音埼塔大  明治2年(1869)1月1日、日本で最初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯した。 開国後の条約で定められた船舶の航行安全を図るためのものであった。 灯台建設には、横須賀製鉄所(後の造船所)の所長であり、技術者のヴェルニーの力によるところが大きい。
虎踊り  享保5年(1720)伊豆下田から奉行所が浦賀へ移転してきた。 この時下田奉行所で足軽役として廻船の船改めをしていた下田の問屋も浦賀へ移転してきた。 この下田の問屋が伝えたのが「虎踊り」であった。 これに当時江戸で流行していた近松門左衛門の「国姓爺合戦」のストーリーを取り入れ、 和藤内を登場させ、唐子の踊りを入れて浦賀風の「虎踊り」が完成した。 現在は6月中旬の西浦賀四丁目(浜町)にある為朝神社の祭礼の折に演じられる県の無形文化財である。
干鰯問屋  干鰯(ほしか)とは、鰯を天日でカラカラになるまで干した物で、 畑、特に綿作りの肥料としては最適なものであった。 浦賀の干鰯問屋は東浦賀のみにあり、江戸時代の初期には15軒であったが、 寛永19年(1642)に30軒の問屋株が成立し、大変な繁栄ぶりであった。 元禄5年(1692)からは灯明堂の維持管理と年間200両の運上金を納めるようになった。 町の浮き沈みはすべてこの干鰯と関係があるほど東浦賀は干鰯一色であった。
浦賀港とスペイン商館  徳川家康は江戸に入ると、対外貿易積極策を展開し、江戸に近い浦賀を貿易港とした。 貿易の相手にはイスパニアを希望しており、フィリピンに使いを出している。 この要望を受けて慶長11年(1606)と13年(1608)にイスパニア船が入港した。 これらを契機にして浦賀には修道院や商館が建てられ、 金銀島探険の任務をもったビスカイノらも浦賀に滞在した。 しかし、浦賀の貿易港構想はこれ以上に発展することなく、家康の死去とともに消滅した。
 (浦賀国際文化村推進協議会)
一連の絵が続く所を過ぎていくと、左側の塀の前に解説板がありました。 解説板の「屯営跡の碑」は塀の向こう側にあるのか、この近くには見かけませんでした。
屯営跡の碑
築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、明治8年(1875)「浦賀水平屯集所」が設置されました。 その後「東海水平分営」、同15年には「水平練習所」、同18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。 その事蹟を残すため、昭和10年に「屯営跡の碑」が建てられました。
 (浦賀行政センター市民協働事業、浦賀探訪くらぶ)
浦賀ドック
浦賀警察署前交差点や浦賀丘入口交差点を直進していくと、左側に塔が見えてきました。 駅前から続く浦賀ドックの設備ようでした。 左へ曲がっていく所まで来ると、右へ道が分かれていきます。 角に立つ道標によると、左手へ曲がっていく道は「浦賀の渡し530m」、右手の道は「浦賀文化センター」、 今来た道は「京急浦賀駅710m」となっていて、 脇には「開国のまち地区案内」と題した地図もありました。 堀の内駅からYRP野比駅にかけての範囲が載っていて、 ペリー記念コース、久比里吉井コース、八幡・久村コース、東浦賀コース、西浦賀コース、観音崎コース、吉井・久里浜コースが紹介されていました。 今回歩くのは、西浦賀コース、東浦賀コース、観音崎コースの各々の一部分を繋げたコースになります。 今回歩く範囲を切り出した地図を載せておきます。
ドック前バス停を過ぎた所で細めの道が右前方へ分かれていきます。 車道は正面へと続いていますが、昔からある右手の道を進んでいきました。 横須賀浦賀郵便局を過ぎていくと、自販機の横に「浦賀道」の解説板が立っていました。
(解説板に記されている浦賀奉行所は、この南の方にある為朝神社の方面にあったようです)
浦賀道
浦賀道は、江戸時代に幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要な連絡道でした。 江戸幕府は寛政12年(1800)に五街道の測量図を作成し、その中に「浦賀道見取絵図」が含まれています。 絵図では東海道戸塚宿から鎌倉・葉山・池上を通り、大津矢の津坂を越えて浦賀に至ります。 東岸のルートは、保土ヶ谷宿から金沢町屋を経て武蔵と相模の国境(追浜)を過ぎると峠越えや尾根道が続き、 十三峠など相当な難路でした。 金沢からは陸路より早くて楽な船便がよく利用されたといいます。 幕末期、ペリーの黒船来航の際は大勢の武士や見物人がこの浦賀道を通ったといわれています。
 (浦賀行政センター市民協働事業、浦賀探訪くらぶ)
西叶神社
コンクリート補強工事が施された山を過ぎていくと、右手に西叶神社がありました。 「叶神社」の扁額の掛る鳥居から石段を登っていくと、正面に社殿がありました。 この時には七五三祝いの季節とあって、着飾った家族連れがお参りにきていて、 社殿の前や境内で記念写真を撮ったりしていました。
市制施行70周年記念 横須賀風物百選 西叶神社
「アリャアリャ、ありがたや叶明神の威徳をもって、虎もやすやす従えたり、皆々いさんでカッピキュー」 これは、享保5年(1720)から当地に伝えられているといわれ、 毎年9月の祭礼に奉納される県指定無形民俗文化財「虎踊り」に登場する和藤内のせりふの一節です。 叶明神は、平家の横暴ぶりを憤った文覚上人が、上総国(現在の千葉県)鹿野山にこもり、 はるかに山城国(現在の京都府)岩清水八幡宮に源氏の再興を願って叶えられたことから、 養和元年(1181)にそのみ霊をこの地に迎えて祭ったことに始まると伝えられています。 したがって、この神社の祭神は、石清水八幡宮と同じ応神天皇(第15代の天皇)です。 現在の社殿は、天保8年(1837)に焼失した社殿を天保13年に再建したものです。 再建に要した費用は、約三千両と記録されています。 とくに注目に値するのは、内部を飾る精巧な彫刻です。 作者は、のちに名工とうたわれた安房国千倉(現在の千葉県)の彫刻師後藤利兵衛橘義光です。 当時、二十代の若さであったといわれています。 彫刻に要した費用は、総建築費の約七分の一にものぼる四百十一両余でした。 奉行所が置かれ、廻船問屋が軒を連ねていた隆盛期の浦賀であったからこそできたことと思われます。 社殿の裏山には、文覚畑と呼ばれている所があり、文覚上人の庵室の跡と伝えられています。 また、社殿の右手下に「明治天皇駐輦跡」があります。 これは、明治14年5月18日に明治天皇が観音崎砲台建設の様子を御覧になられた際、 当時この場所にあった浦賀西岸学校の二階の一室に御休息されたのを記念して建てられた碑です。
横須賀市指定市民文化資産 西叶神社社殿彫刻
現在の社殿が天保13年(1842)に再建された時に施された彫刻で、 虹梁、欄間、拝殿天井など総数230を超す。 作者は安房国の彫工、後藤利兵衛である。
(石清水八幡宮と岩清水八幡宮と二通りの表記が見られますが、そのまま載せておきます)
社殿の右手には、老山福寿稲荷社・福寿弁財天・秋葉大権現・淡島神社・大鷲神社・三峰神社などの祠がありました。 「金昆羅大権現遙拝所」と刻まれた石柱の袂から石段が続いていたので、ちょいと登ってみました。 手摺と金網柵で囲まれた石段を登っていくと、左へ曲がった先で苔生して傾いた石段になってきます。 緩やかになった所まで登っていくと、右手の先に「金刀比羅神社」の扁額の掛る小祠がありました。 右手の樹間からは浦賀湾を見渡すことが出来ました。
相州浦賀町鎮守叶神社は安徳天皇養和元年僧文覚の岩清水八幡宮を勧請して建て奉りたる神社 なり尋いで文覚虚空山感應院を開き真言宗古義派の僧を住職として代代御社の別当たらしめた り尓来綿綿相傳はりて明治維新に及べり明治の初神佛混淆の禁令出でぬ別当玉應其命を奉り復 飾して氏を感見と称し名を信明と改めぬ創祀以来代を替ふること七十代年を経ること六百八十 八年なり是に於て感應院の号は自ら廃れたり信明は通称を直次郎と云ひ足柄下郡下中村字小舟 の人志澤兵右衛門の次子なり年七歳にして真言密宗の教に入り法号を玉應と称し苦学勤行年を 累ねて学徳並び称せらるるに至れり資性温厚志操清廉にして信念いと厚く徳望日に加はり初め 推されて平塚駅八幡宮の別当鶴峰山等覚院の住職となれり後老を幽静の境に養ふこと数年をり から感應院住職の缺くるに際し里人景慕の心を致して止まずよりて遂に請に應じて文久元年其 第七十代の別当となりぬかくて幾干もなく彼の復飾改名等の事ありて神職に補せられければ悠 悠世を送りて命を楽み明治二年十月二十一日溘焉として永眠せり享年六十有三感應院の宝域に 葬りむ終身娶らず浦賀町字川間長島市郎右衛門の長子宗之助を養ひて嗣とせり宗之助其後を承 けて御社に仕へ明治八年十月初めて祠掌に捕せられて今に至れり客歳勅令を以て幣饌供進の制 定まるや御社も亦其栄典に興り神徳愈高く我が感見家の基礎も亦漸く定まりぬ思ふに彼の神佛 混淆の禁令は創祀以来未曾有の変革にして其間に処せし信明の労は大方の事にはあらざりけん かし己れ宗之助不肖の身ながらも其後を受けて職を過たず幸ひ今日に至れるものは元より大神 の御恩頼にはあれど一には信明の余光にぞあるべきここに其事どもを永く忘れじ後の世にも朽 ちせじと以碑を立ててかくはしるしぬ
明治四拾壱年拾月弐拾壱日 鎮守叶神社第七十一代社掌 感見宗之助謹誌
社殿の左側から社務所へ降りて道路に出ると、脇に「ええじゃないか」の解説板が立っていました。
ええじゃないか
慶応3年(1867)秋、西叶神社前の砂糖問屋湖幡屋の樽の中から大神宮のお札が出てきたことから大騒ぎとなりました。 この騒ぎが「ええじゃないか」といわれる民衆運動の三浦半島での始まりとなりました。 浦賀の家に次々とお札が降り、人々は吉兆として誰にでも酒食を振る舞い多くの人が浦賀になだれ込み、 奉行所も収拾がつかないほど町は狂乱状態になりました。 「ええじゃないか」は東海地方で起こり伊勢神宮などのお札が降って人々が狂喜乱舞しました。 東海道を江戸まで東上していく途中、浦賀に伝わったと思われます。
 (浦賀行政センター市民協働事業、浦賀探訪くらぶ)
心に旅を
自分の心に、少しだけ旅をさせてあげましょう。 手を合わせ、目を閉じるだけで毎日の忙しさから心を解き放してあげることができるはずです。 自分へ、自然へ、祖先へ、伊勢神宮へ、日本へ向きあう心の旅。 静かな気持ちで、無垢な心と向きあえば、その奥底から、きっと答えが返ってきます。 毎日、心に旅を。
 (神社本庁)
東福寺
西叶神社からその先へ進んで行くと、道が二又に分かれています。 浦賀の渡しへは左手の道を進んでいくのですが、 右手すぐの所に東福寺があるようなので立ち寄っていくことにしました。 書店を過ぎていくと、駐車場の角に立つ電柱に「東福寺→」の標識が取り付けられていました。 そこを右折していくと、 「曹洞宗延命山東福寺」「三浦観世音第拾三番三浦地蔵尊第三十三番霊場」の表札が掛る石柱があります。 そこから続く石段を登っていくと山門があります。 「山門禁葷酒」と刻まれた石柱もありました。 山門をくぐってその先に続く石段を更に登っていきます。 左右にある観音堂や地蔵堂などを過ぎて石段を登っていくと、「東福禅寺」の扁額の掛る本堂がありました。 この浦賀でも格式のあるお寺のようです。 右手には庫裡と思われる建物があり、左手には墓地が広がっていました。
東福寺
江戸幕府から御朱印地二石をたまわり、歴代の浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたという格式ある曹洞宗のお寺です。 本堂には江戸中期を代表する画家酒井抱く一の描く大きな亀の絵馬があります。 境内の中断にある観音堂には「海難除けの観音様」が安置されています。 この観音様には江戸時代初めに西浦賀の淡路屋治兵衛の廻船が大しけに遭い難破しそうになった時、 船頭らが観音様に無事を祈ると海は穏やかになり助かったという伝説があります。 本寺は三浦三十三観音の十三番札所になっています。
 (浦賀行政センター市民協働事業、浦賀探訪くらぶ)
手前の分岐まで戻ってその先へ進んでいくと、信号機のある交差点に出ます。 その脇に「廻船問屋跡」の解説板が立っていました。
廻船問屋跡
浦賀で廻船問屋とは、船を持たずに御番所に詰めては、奉行所の役人達の指示で、 荷改めをしていた下田と東西浦賀の105軒の問屋のことをいいます。 また、米穀・酒類・塩等の問屋を営みながら、自己の海鮮を所有して瀬戸内海より東北地方までの広範囲にわたって、 商いをしていた商人達のことも廻船問屋といいます。 そしてその主な者は一番組水揚商人となり、蛇畠町、紺屋町、宮下町等に店舗を構え、 多くの蔵が海岸に立ち並び、一大問屋街をなしていました。 幕末の頃、彼等の所持する廻船は東西浦賀で約60艘を数え、宮井家もそうした問屋の最も古い一軒でありました。
 (浦賀行政センター市民協働事業、浦賀探訪くらぶ)
浦賀の渡し(西浦賀側)
信号を左折していくと浦賀港交番前交差点があります。 その右側すぐの所に「浦賀の渡し」の看板が出る白塗り壁の小屋があります。 ここが「浦賀の渡し」の西浦賀側の乗り場になります。 横須賀市営の渡し舟で、市道2073号にもなっていて「浦賀海道」という愛称が付けられているようです。
「浦賀海道」の「海」の字は上から貼られていましたが、ほとんど剥がれていて、 誤記と思われる元の「街」の字が見えていました。
昭和52年市制施行70周年記念 横須賀風物百選 浦賀港と渡船
室町時代に、聖護院准后道興が著した紀行文・廻国雑記(1486年)に 「・・・浦川の湊といへる所に到る。ここは昔頼朝郷の鎌倉にすませ給ふ時、 金沢、榎戸、浦河とて、三つの湊なりけるとかや・・・」とあります。 そこが現在の浦賀港を指すものであるかどうかについては、歴史家の間に 疑問があるようです。しかし、「浦賀みなと」の名称そのものが、書物に中に みられる最初のものです。いずれにしても、浦賀港が三浦一族や後北条氏によって 使われていたことは確かなようです。 この良港に注目した徳川家康は、ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。 英人ウィリアム・アダムスを逸見に住まわせ、しきりにイギリスやオランダなどの 商船をこの港に引き入れるよう努めさせました。 享保5年(1720)、浦賀奉行が置かれると、江戸湾に出入りする船は、すべて浦賀で 船改めをすることが義務づけられました。そのために、浦賀の町は大いに栄えました。 以後、浦賀港は、黒船の来航、咸臨丸の出港、日本最初の洋式船鳳凰丸の建造の地として、 更には浦賀船渠株式会社の設立と、ことあるごとに歴史の舞台に登場してきました。 この港は、湾が約1.5kmも入り込み、東西両岸の住民が往来するのには、渡船を 利用することが最も便利でした。したがって、渡船は早くから開かれていたようです。 明治9年編纂の皇国地誌には「浦賀渡ト呼ブ町往来ニ属ス・・・船二隻ヲ用ヘテ往復二便ナラシム 私渡ニシテ修繕民費」とあるところから、最初は民営の渡船であったようです。 大正6年には、その重要性を評価されて、浦賀町営となりました。更に昭和18年4月1日、 浦賀町が本市に合併されると、渡船事業も市営になりました。 昭和24年以後、渡船の運航業務を民間に委託し、現在に至っています。 また、平成10年に就航120周年を記念して新船「愛宕丸」を建造し、これとあわせ、 全国でも珍しい水上の市道の愛称を募集し「浦賀海道」に決定されました。 唯一の市営交通事業である渡船で、昔をしのびながら、浦賀港横断をお楽しみください。
浦賀海道を運航する12人乗りの小さな船は愛宕丸という名前のようです。 時刻表などは特になく、客の有無に応じてピストン運航しているようです。 対岸にいても「乗船ボタン」を押せば来てくれます。 この時も客を乗せて出航したばかりだったので、ボタンを押して待っていると、 ほどなくして、母子連れ(二人)を乗せてやってきました。 舳先を浮き桟橋に接岸して乗り降りします。 鞆にある運転室の船長が、前に置かれた料金箱を指さして、 そこに料金を入れるようにジェスチャーで指示していました。 こちらから乗った客は私一人だけで、貸切状態でした。 後ずさりしながらスイッチバックして向きを反転させて対岸へと向かっていきます。 左右に広がる浦賀湾を眺めながら、ほとんど揺れることのない船旅です。 ほんの2・3分乗っただけで、あっという間に対岸へ着きます。
(画像を左クリックすると、一連の写真24枚が順次表示されます)
乗船料金 大人(高校生以上)・・・150円
小・中学生・・・50円
自転車・ベビーカー・ペット・・・50円
大人に同伴される未就学児は1人まで無料)
障害者の方は無料です。(手帖を提示してください)
障害者の介護者・・・50円(1名につき1人迄)
就航 朝7時〜夕方6時(昼休み 12時〜13時まで)
船が着いていない時は階段下の乗船ボタンを押してください。
注! この橋は定員3名です。
浦賀の渡し(東浦賀側)
上陸して小屋を出ると、大勢のグループが待っていました。 定員12名なので一度には乗り切れないように思えました。 脇に「渡船場」の案内板が立っていて、昭和30年頃の写真が載っていましたが、 当時は艪で漕いでいく小舟だったようです。 また、居合わせた人の話によると、現在の御座船になる前はポンポン船だったようです。
渡船場
渡船の歴史は古く、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」には、 渡船を修復する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、操業が確認されています。 当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米六合で支えられていました。 平成10年8月に就航した現在の「愛宕丸」は御座船風のデザインとなっています。 この航路は「浦賀海道」と名づけられ、横須賀市道2073号となっており、 東西浦賀を結ぶ渡船は、浦賀のシンボルの一つです。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
三浦稲荷社
浦賀の渡しから正面に続く道を進んでいきます。 十字路を直進していくと、 二つ目の十字路の角に立つ電柱に「←東林寺(中島三郎助の墓)」の看板が取付けられていて左手の道を指していました。 看板に従って左折していくと、石段の左右に「浦賀山立像院東林寺」「南無阿弥陀佛」と刻まれた石柱が立っています。 そのすぐ先に鳥居があって、その先に「三浦稲荷社」の扁額の掛る社殿がありました。 稲荷社と仏教とはどういう関係なのかと思ったりもしましたが、 お寺はこの左側に続く石段を登った先にありました。
深本、雷電、三浦稲荷社
南無阿弥陀佛と刻まれた六字念仏塔は祐天寺六世祐全上人による名号石塔で、 江戸屋半五郎によって建立されました。 名号の彫りも深く、半五郎の信仰の深さがうかがえます。 半五郎は浦賀で遊郭を営み繁盛していましたが、 後にすべての財産を処分して遊女たちに分け与えて解放してやりました。 自らは京都青龍寺で得度し、生き仏といわれた徳本上人の弟子深本(深心)となり仏門に帰依しました。 「浦賀事跡考」によれば東林寺境内の稲荷前では、文化6年(1809)、 当時の花形力士の雷電為右衛門の相撲興行が行われたと記されています。 三浦稲荷社の稲荷神は倉稲魂で五穀豊穣、開運出世、商売繁盛の神です。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
東林寺
「三浦札所第三十五番 御前立 延命地蔵願王尊」の石碑がある仏像の脇に続く石段を登っていくと、 東林寺の境内に着きます。 正面には本堂があり、右手には庫裡と思われる建物、左手には墓地がありました。 先ほどの看板によると中島三郎助の墓もあるようなのですが、探すのは省略しました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでしたが、安置されている仏像や絵図の紹介文はありました。
横須賀市指定重要文化財
銅造阿弥陀如来及び両脇持菩薩立像三躯  中尊阿弥陀如来立像は、右手を胸前で屈し、左手は垂下、第二指と第三指とをのばし、 他の指を折って、刀印とよばれる印を結ぶ。 観音・勢至の両菩薩立像は高い宝冠をいただき、両手を胸の前で重ね、 中尊とともに一枚の大きな舟形(蓮弁形)の光背を背負う。 一光三尊形式で、その形姿はいわゆる善光寺式阿弥陀三尊像である。 即ち信濃善光寺本尊の姿を模したもので、この種の像は中世、全国的に造られ遺例も多い。 当三尊像は整理されていくぶん形式化された衣丈や面部の表現からみて、室町時代の鋳造と思われる。 像には鍍金がほどこされ、蓮台・反花座は造立期のものであるが、方形の台座は後補である。 横須賀市内の善光寺式阿弥陀三尊像の中では、制作年代の早い、仕上げの丁寧な遺例として貴重である。
阿弥陀二十五菩薩来迎図 一幅  末法思想の拡まる平安時代中頃から極楽浄土への憧れが盛んになり、 浄土の様相を描いた仏画が制作され、人々は心に安らぎを覚えるようになった。 鎌倉時代になると、さらに阿弥陀如来は信者の臨終に際し極楽から迎えに来られるという阿弥陀信仰に進み、 阿弥陀如来の彫刻や仏画が多く作られるようになった。 この図は、阿弥陀如来が楽曲を奏でる二十五菩薩を従えて雲に乗り、 天上よりゆっくりと降りてくる聖衆来迎の図をもつ仏画である。 たて117.3cm、横50.2cmの寸法に来迎の厳かな様子が繊細に美しく描かれ、 筆技はきわめて格調高く、著彩また重厚な優品である。 裏面には、補修や由来を書いた宝徳元年(1449)、寛永12年(1635)、明治3年の銘があり、 鎌倉時代後期のものと考えられる。
 (横須賀市教育委員会)
徳川家康遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。 いそぐべからず。 不自由を常とおもへば不足なし。 こころに欲おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。 堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思へ。 勝つことばかり知ってまける事をしらざれば害その身にいたる。 おのれを責めて人をせむるな。 及ばざるは過ぎたるよりまされり。  慶長八年正月十五日 家康 花押
五つの心
ありがとう感謝の心
すみません反省の心
はい素直な心
おかげさま謙虚な心
させて頂きます奉仕の心
東叶神社
東林寺から十字路まで戻ってその先へ進んでいくと、突き当たりに東叶神社があります。 境内の右手には「叶神社」と刻まれた石柱と、注連縄が張られた鳥居がありました。 正面には社務所があり、左手の石段を登った所に社殿がありました。 本殿の屋根には7本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 また神社の手前には「横須賀古道散歩」と題した案内板があって、 燈明堂からこの東叶神社までの浦賀湾沿いの道が紹介されていました。 ここでも着飾った家族連れが七五三祝いのお参りに来ていました。
浦賀湾の西側にあった西叶神社の祭神もこの東叶神社と同じですが、 東西に叶神社がある理由や関係などに関する記載は見かけませんでした。
横須賀古道散歩
「横須賀古道散歩」は横須賀市内を通っていたと伝えられる古代の東海道や中世の鎌倉道、 近世の浦賀道を、古刹や古い地名をたよりにたずねる散歩道です。 コースはしょうぶ園から衣笠駅付近を経て京急大津駅までの「古東海道ゆかり散歩」と 京急大津駅前から浦賀駅前を経て一方は東叶神社へ、一方は灯明堂へいたる「浦賀道ゆかり散歩」の2コースです。
昭和52年市制施行70周年記念 横須賀風物百選 東叶神社
祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第15代の天皇)です。 この神社は、養和元年(1181)8月15日、高雄山神護寺の僧文覚が、 源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、 その後、源頼朝によって、その願いが叶ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。 また、このほか新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などには、この神社に関する記事が載っています。 神社の裏山を明神山と呼び、標高は約50mです。 後北条氏の頃、しばしば房総半島の里見水軍が、三浦半島に攻撃をかけてきましたので、 それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。 山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。 明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。 特にウバメガシの自生は、県内でもこの明神山と城ヶ島だけで、ここが分布の北限とされています。 この学術的に貴重な明神山一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林」となっています。
叶神社
祭神 應神天皇(誉田別命)
由緒 養和元年(1181)辛丑年八月十五日京都高雄山神護寺僧文覚祈願奉勅命石清水八幡宮ヲ勧請ス。 夫ヨリ文治二丙午年源頼朝公一事創業ノ際願意成就ノ意ニ基キ叶大明神ト尊称シ奉ル。
 (東叶神社々務所)
社殿の左側には小祠があり、その脇から幅の広い石段が続いていました。 「恵仁志坂」と刻まれた石碑があったので、その石段の名前なのでしょう。 解説板によるとこの上に奥宮があるようなので、登ってみることにしました。 小祠が納められた赤く塗られ建物を過ぎて石段を登っていきます。 周囲にはツバキが沢山生えていました。 また、解説板に載っているシイ類の大木もありました。
社叢林
この林は長い間保護されてきたため、大昔の横須賀の林の姿を知る手がかりとなります。 海に近いこのあたりはタブノキやシロダモなどの多いイノデ-タブ群集と呼ばれる常緑広葉樹の林となっており、 県指定の天然記念物です。
神奈川県指定天然記念物 叶神社の社叢林
浦賀湾の東岸丘陵の突端斜面に位置する叶神社の社叢林は、 標高53mの山頂まで見事な常緑広葉樹林で被われている。 山頂部付近はスダジイ・マテバシイ林で占められ、一方斜面部はタブノキ林で被われている。 高木層は、樹高20〜22mのタブノキが優先しており、 亜高木層はモチノキ、シロダモ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、イヌビワが生育している。 低木層には、トベラ、アオキ、ヤツデ、オオバグミ、ムラサキシキブなどが見られる。 林床に出現する植物の種数も多く、キヅタ、テイカカズラ、ビナンカズラ、ヤブラン、キチジョウソウ、 ツワブキ、イノデ、ベニシダ、オオバノイノモトソウなどが生育している。 神奈川県はもとより、関東地方でも珍しく自然度が高い安定した郷土林を形成している。 三浦半島沿岸部に遺された数少ない自然林として学術的な価値も高く、 天然記念物として指定されたものである。 また、叶神社の裏山一帯は浦賀城跡といわれており歴史的にも貴重なところである。
 (横須賀市教育委員会)
明神山 (標高53m)
突き当たりまで行くと「勝海舟断食の碑」の解説板が立っていましたが、標柱は山頂にあります。 脇にはこの坂は「産霊坂」と言う旨の石碑もありました。 右に曲がって更に石段を登っていきます。 なだらかになった所を更に右へ曲がっていくと、石段が左側に続きます。 その石段を登っていくと、小広くなった明神山の山頂に着きました。 山頂の正面には囲いがされた中に祠がありました。 これが叶神社の「奥の院」なのでしょうか。 左手にも祠が二つあって、その手前に「勝海舟断食の跡」と書かれた標柱や解説板が立っていました。
此の坂を産霊坂と言ふ七百有余年前 の築造にして遠き昔を偲ばしむるも のありしが豪雨のため崩壊して遂に 参詣の道を失ふに至れり 依りて氏子相議り浦賀船渠株式会社 を初め敬神諸家の賛同を得て大正拾 年七月三日修築の工を起し同年拾月 二日工全く成れり
勝海舟断食の碑
万延元年(1860)、日本で初めて太平洋横断を成しとげた咸臨丸の船長挌・勝海舟は、 航海前に、東叶神社の井戸で水垢離をした後、裏山の山頂で断食をしたと伝えられています。 過酷な太平洋を初めて航海するにあたり、 船玉明神を祀る叶神社に、航海の安全を切実な思いで祈願したと思われます。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
勝海舟断食の跡
万延元年(1860)、時の幕府は日米修好通商条約批准交換のため米国へ施設を派遣した。 米国軍艦ポーハタン号の随行船としての咸臨丸の船将に任命された勝海舟は、 壮挙に先立ち当社を訪れ太平洋横断航海の一路平安について叶神社の加護を祈念し、 合せて自己の精神的肉体的荷重等の克服を謀るため車内にある井戸水で潔斎水垢離を済ませ、 修業用の洗衣に心身を整え千古鬱蒼とした樹林に囲まれた奥の院の社前のこの場所を選んで座禅を組み 断食修行を行なったのである。
 (叶神社)
祠の右手にもなだらかな所が続いていたので歩いていくと、 「為浦賀船渠株式会社殉職員」と刻まれた立派な石碑が立っていました。 その先にはベンチが一つ設置されていて、海を見渡せるようになっていました。 燈明崎の辺りでしょうか、右手には岬が見えていました。 条件がいいと対岸の房総半島も見えるのでしょうが、この時は霞んでいて見えませんでした。 脇に立つ案内板によると、戦国時代にはここに浦賀城があったのだそうです。
浦賀城址
戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に、 房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。 水軍の根城として山頂には空堀など城の遺構が残り、下田山・城山とも呼ばれていました。 昔から眺望の素晴しい所で、対岸に房総半島、正面には浦賀八勝の一つ燈明堂がみられます。 この明神山は自然の社叢林で県の天然記念物に指定され、ウバメガシ分布の北限とされています。 嘉永6年(1853)ペリーの黒船四隻が浦賀沖に来航した時、眼下の左辺りに停泊しました。 下の絵は安藤広重の武州名所の旅絵日記の五六景の一枚です。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
鴨居大室漁港
明神山から降りてきて、その先へと進んでいきます。 駐車場やレストランを過ぎていくと、金網柵の海側にはヨットハーバー「マリンポート・コーチャ」があって、 陸揚げされたヨットが沢山並んでいました。 ヨットハーバーを過ぎていくと道が二手に分かれています。 角には小さな東浦賀公園がありますが、右手の道を進んでいきます。 金網柵が続く道を進んでいくと、四角く囲まれたような形の漁港が右手にありました。 港の名前は分かりませんでしたが、後で調べてみると鴨居大室漁港というようです。 港の中へ入っていくと、岸壁沿いには海釣りの乗合船や仕立船の船宿が並んでいました。
漁港を過ぎていくと、右手には県営浦賀かもめ団地が広がっていました。 36号棟まである大きな団地で、中には公園・診療所・店舗・郵便局などもあるようでした。 団地の左に沿って続く道を進んでいきます。 かもめ団地バス停やかもめ団地入口バス停を過ぎていくと、少し左へ曲がっていく登り坂になってきます。 僅かな坂を登ってその先へ降っていくと、海際に鉄塔が立っていました。 海上保安庁の航路標識のようでした。 海にはカモメが群れを成して浮かんでいました。 手前は小さな砂浜になっていて、水はかなり綺麗でした。 前方にはこれから向かう観音崎の先端部も見えていました。 海沿いの道を進んでいくと、次第に磯浜になってきます。 左手の崖がコンクリート補強された所まで来ると、消波ブロックが積まれた突堤が海に延びていて、 先の方には小さな灯台もありました。
鴨居港
突堤を過ぎていくと、次第に民家などが建ち並ぶようになります。 左手に分かれていく細い道を見送って、右へ曲がっていく広い道を進んでいきます。 脇方町内会館や脇方バス停を過ぎていくと、右側には鴨居港が広がっていました。 港へ出てみると漁船などが沢山停泊していたので、ここも漁港のようでした。 昼時ということもあってか、港には人影はありませんでした。
港沿いに進んでいくと、鴨居バス停を過ぎた所に鴨居港交差点があります。 右手へ曲がっていくと、すぐの所に食堂がありました。 丁度昼時になったし、京急浦賀駅から2時間20分ほど歩いて疲れてもきたので、 休憩も兼ねて食事をしていくことにしました。 テーブルが8個ほど設置されたこじんまりした店で、昔懐かしい「大衆食堂」の雰囲気が漂っていました。 昼時なので客が多かったものの座る席はありました。 メニューは中華ソバの部・御飯の部・料理の部などがあり、他にそば・うどん・カレーなどもありました。 「中華そば」という表現が何とも郷愁を誘いましたが、今回は丼物を頂きました。
八幡神社
お腹も満ちて疲れも癒えたところで、その先へと進んでいきます。 食堂を出るとすぐの所に、「八幡神社」の扁額の掛る大きな鳥居があります。 そこから駐車場のような所を過ぎていくと、左右に通る路地の向いに八幡神社がありました。 注連縄が張られた鳥居をくぐって境内に入っていくと、正面に社殿がありました。 本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 ここでも七五三祝いの親子連れがお参りに来ていました。
八幡神社由緒
祭神は誉田別尊(第15代應神天皇)治承4年(1180)源頼朝鎌倉に入り幕府の礎石を築くに当り、 三浦氏は軍功あった当三浦郡を領し一族門葉最も栄てた時である。 其頃三浦大介義明の第四子多々良四郎義春が、鴨居の領主として他の三浦党と共に三浦一円に威勢を張っていた。 当社は義春が源家の命を受け養和元年(1181)鶴岡八幡宮を勧請したと伝えられる。 新編相模国風土記には、「 八幡社村の鎮守なり祭礼八月十五日縁起は養和元年六月源頼朝卿当県遊覧の折勧請ありし由記せり 」とある。 明治6年村社に列せられ42年10月22日新饌幣帛料供進神社に指定せらる。
鴨居(地名の由来)
応安6年(1373)の室町幕府の記録に「相模国 鴨江」とあります。 地名の由来については、 (1)アイヌ語のカムリ(神)からという説、 (2)鴨の群集する所、家居、村落とする説、 (3)カモを神とする説、 (4)浦のある水辺とする説など、 諸説があります。 上の台中学校の敷地からは弥生時台中期から古墳時代初期にかけての大規模な住居跡がある 上の台遺跡が発見されました。 江戸時代には「鴨居のタイ」は逸品として知られ、江戸城の料理に用いられたといわれます。 幕末期に江戸湾海防の任にあった会津藩士の墓は、腰越、西徳寺、能満寺などにあります。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
社殿の右手には社務所がありました。 左手には天満社があり、その横には神輿庫や稲荷社がありました。 ガラス戸になった神輿庫の中を覗いてみると、大きな神輿が二基納められていました。 右側の神輿には「八幡神社」、左側の神輿には「須賀神社」と書かれた木札が置かれていました。 なぜ須賀神社なのかと思っていると、この八幡神社に合祀されているのだそうです。
右の神輿庫に納められている二基の神社神輿は、 向かって左側の赤い神輿は七月の祭礼に使用される須賀神社の御神輿です。 右側の黒い神輿が九月の八幡神社祭礼用の御神輿です。 両方とも年代は定かではありませんが、江戸時代中期以降の作と思われます。 須賀神社の御神輿については、40年ほど前に総修理を行ないましたが、 八幡神社神輿については、戦後大きな修理はされていませんでした。 今回は鴨居地区の多くの方々のご協力を賜り、二基の御神輿を同時に修復する事が出来ました。 今後は、より盛大な祭礼の斎行により、地域の活性化、又より良い街づくりの一助になればと考えております。 何卒今後ともご協力の程宜しくお願い申し上げます。
 (鴨居 八幡神社々務所)
横須賀市指定民俗文化財 仮面里神楽とっぴきぴーおどり
今からおよそ150年の昔、文化・文政の頃から半農半漁の鴨居村の「脇方」に伝わっている郷土芸能である。 このおどりは、すべて里神楽のお面を用い、囃子のリズムに合わせておどり、 セリフでなく全くの無言で、身振り手振りでその情景をこまかに表現するもので、 磯の香り土の匂いの高い簡素でしかも素朴さがみじみ出てくる。 昔から、里人たち須賀神社(現在は八幡神社に合祀)に、大漁満足・五穀豊穣・海上安全等を 祈念するために奉納したもので、二十五座神楽の俗脱したものと思われる。 「獅子退治」「狐とり」「餅つき」「鯛つり」が伝承されているが、 どれも「ひょっとこ」「ばか」が主役を演じ、「えびす」「おかめ」「狩人」「狐」「鬼」が助演して、 祭囃子のとっぴきぴーのリズムに合わせて踊られる。
 (横須賀市教育委員会)
観音寺跡
八幡神社を出て左折して、民家が建ち並ぶ路地を進んでいくと、先ほどの車道に出ます。 左手へ進み始めると、尾根を切り開いた所があります。 道路向いには「駆逐艦村雨」と刻まれた石柱が立っていました。 その袂にある案内板によると、左側の路地へ入った先に慰霊碑があるようなので、立ち寄っていきました。 道路を渡って路地へ入っていくと、 海際まで来た所に「佛崎山観音寺」「三浦第十四番札所」と刻まれた石柱の奥に小祠がありました。 ここに移された観音寺は、後年になって火災で焼失したのだそうです。 「観音崎」の名前の由来になっているようです。
観音寺跡
明治13年(1880)観音崎に陸軍砲台がつくられることになり、 翌年、観音崎灯台の下にあった観音寺や海蝕洞穴に祀られていた鵜羽山権現はこの亀崎に写されました。 本尊は奈良時代の僧行基の作と伝えられる十一面観音で、船守観音とも呼ばれていました。 村人や安全な航海を祈る人達の海上守護仏として信仰が厚く、観音崎の地名の由来といわれています。 この寺は、三浦三十三観音第十四番札所でしたが、 昭和61年(1986)の火災で本尊を含めて焼失しました。 現在、吉井の真福寺で札所の代行をしています。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
村雨の碑
観音寺跡の右隣に「村雨の碑」と刻まれた慰霊碑がありました。 右の石碑「駆逐艦村雨戦歴」には昭和12年に竣工してから昭和18年に沈没するまでの戦歴が刻まれ、 左の石碑「村雨戦歿者名簿碑」には氏名がずらりと刻まれていました。
「村雨の碑」案内板
駆逐艦「村雨」は、太平洋戦争中の昭和18年3月5日の深夜、敵艦の集中砲火をうけ、 ソロモン群島にて艦と共に乗組員119名の方々が南の海に散華されました。 その英霊を慰霊する碑が、この奥、浦賀水道に面して建てられています。
 (村雨会 建立)
駆逐艦 村雨
太平洋戦争に於て純粋に日本のために青春を捧げて戦没した戦友を偲び、 祖国愛と平和への願いをこめて、この慰霊碑を建立する。
 (村雨会々長 鹿山誉)
慰霊碑の先には海が広がっていました。 砂浜の先の海岸沿いには観音崎大橋が架かっていて、 その先にはこれから向かう観音崎の先端部が見えていました。
元の車道まで引き返してその先へ進んでいくと観音崎大橋入口交差点があります。 そこを右折して観音崎通りを進んでいくと、砂浜沿いに観音崎大橋が架かっています。 水が綺麗な海を眺めながら橋を渡っていくと、砂浜から磯浜に変ってきます。 海に頭を出している岩礁には多くのカモメが羽を休めていました。 沖には大型船も通っていて、綺麗な眺めが続きます。 景色を愛でながらゆっくりと歩いていきました。
こんながけにご用心!
あなたの家の近くのがけが下のことがらにあてはまる場合は注意が必要です。
(1)傾斜が30度以上。
(2)高さが5m以上。
(3)厚さ1〜2m程度の表土に覆われている。
(4)岩が露出していて(浮き石がある)亀裂があったり湧き水が見られる。
(5)がけ上の雨水が1箇所に集中して流れ込む。
(6)がけが張り出している。がけ下に以前崩れた土砂が多量に溜まっている。
(7)過去に崩れたことのあるがけに隣接している。
 (神奈川県横須賀土木事務所、横須賀市傾斜地保全課)
たたら浜
観音崎大橋を渡り終えてその先へ進んでいくと、磯を過ぎた先から砂浜になってきます。 たたら浜というようで、打ち寄せる波が心地よい音を立てていました。 この辺りから観音崎公園になってきます。 砂浜を眺めながら進んでいくと、所々に階段が設置されていて浜へ降りて行けるようになっていました。 夏には海水浴場になれそうな雰囲気の砂浜でした。 海辺に続く道路を進んでいくと、左手の山際にたたら浜園地があって、 脇には「観音崎公園」の案内図も設置されています。 同様の案内図はこの先にかけても各所に設置されていました。
たたら浜
たたら浜は自然の砂浜と磯が残り、東京湾の中でも外洋と内湾の両方の要素を持つたいへん貴重な場所です。 豊かな照葉樹の森から流れた栄養分を含んだ湧き水が海藻を育て、アマモ場が形成されています。 この周辺は豊富な魚介類の生息地で、クサフグの産卵地としても知られる自然の宝庫です。 山側には7〜8世紀につくられた二十基の横穴墳墓があります。 観音崎一帯は東京湾要塞地帯の最前線として、明治14年から太平洋戦争終了(1945)まで、 一般人の立入りが禁止されていました。 この海岸では陸海軍の演習も行なわれていました。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
「たたら浜」の由来
"たたら"という地名が製鉄と関係の深い所に多くあります。 この浜からは砂鉄が取れますが、製鉄をしていたかどうかははっきりしません。 また、三浦一族の多々羅家がこの地に住んでいたからだという説もあります。
たたら浜横穴群
たたら浜園地の奥にあるたたら浜横穴群は7世紀から8世紀にかけて作られた古代人のお墓です。 彼らは、死者には死後の生活があると考えていたので、 お墓は住居と同じような形で、土師器や須恵器の食器も収められていました。
津波 注意
地震を感じたら海浜から離れ安全な場所に避難しましょう。
▼この地点の海抜は5.2mです。
 (横須賀市消防局)
赤レンガ敷きの歩道へ入っていくと、黄色い花が沢山咲いていました。 「イソギク」というのだそうで、簡単な解説板もありました。 展望デッキを過ぎて海沿いに進んでいくと、「ゴジラのすべり台」の解説板がありました。 以前にはこのたたら浜にあったそうですが、今では取り壊されて、くりはま花の国に再建されているようです。 脇にはゴジラの手型と足型の1/10縮尺の模型がありました。
海辺の植物−イソギク−
イソギクは海岸の岩石地や崖などに群生する多年草です。 秋から冬にかけて、黄色の花が群れて咲きます。 以前は観音崎周辺にも多くありましたが現在は少なくなり、 栽培をして増殖させています。
分布:千葉県、神奈川県、静岡県、伊豆諸島
花期:10〜12月
皆さんはご存知ですか?覚えていますか?
昭和33年から昭和48年まで、ここ、たたら浜に「ゴジラのすべり台」があったことを。 当時、ゴジラ映画の第一作で、この地にゴジラが初出現したことを記念して、 地元有志と協賛企業が協力してゴジラの滑り台を造りました。 当時は、幼稚園や小学校の遠足など東京・横浜からも沢山の人達が訪れ、 皆に愛され親しまれ人気の観光スポットでしたが、潮風などの影響から風化が進み危険防止のため、 惜しまれながらも取り壊されました。 平成8年地元の横須賀商工会議所青年部が中心となり、すべり台復活の活動を展開しました。 この度、横須賀市の「くりはま花の国」内冒険ランドに再建することが出来ました。
どうぞ皆さん、ぜひとも「くりはま花の国」に行って見てください。 そして、思い出の「ゴジラのすべり台」をすべって見ませんか? 足元のゴジラの足跡は、第一作ゴジラの約1/10縮尺です。
ビジターセンター
幅の広い石段を登っていくと、観音崎自然博物館ビジターセンターレストランが並んでいます。 観音崎自然博物館の前にはインドネシアの丸木舟が展示されていました。 ビジターセンターへ入っていくと、観音崎公園の写真コンテストの入選作品以上が展示されていたので、 しばらく鑑賞していきました。 パフレットも置かれているので、公園内を散策する場合には参考になります。
森と海と人と
森と海とは別々の自然に見えますが、実は互いに密接に関係しあった一つの自然なのです。 当館では東京湾に流入する河川の源流部から黒潮の流入する東京湾口までの森と川と海の自然をすべて、 一まとまりの自然"東京湾集水域"と呼んでいます。 観音崎は東京湾集水域の中で"唯一"照葉樹の森や岩礁海岸など多様性に富んだ森と海の自然を有しています。 当館はこれらの豊かな森と海の自然を野外展示として位置づけエコミュージアムとして活動しています。 観音崎の本物の自然を体験した人は博物館の展示をとおして体験が体系化され、 博物館の展示を先に体験した人は、 観音崎の本物の自然と触れることで新たな発見があることを期待して展示が構成されています。 このように東京湾集水域で見られる、自然環境や多様な動植物と人間との関係について、 その移り変わりを歴史的に考察し、東京湾集水域を中心とした地球規模での人類と自然との関係について 皆様と共に考え実践していくことを目的として観音崎自然博物館は1958年に設立されました。
花の名所づくり
寒川県では「第9回都市緑化かながわフェア」の精神を継承するため、 県立の都市公園において「花の名所づくり」事業を展開しています。 ここ観音崎公園では、海や丘陵などの変化に富んだ風景や豊かな自然との調和を図りながら "観音崎フラワーストーリー"をテーマに四季折々の花が楽しめるよう整備を行なっています。
シーサイドフラワーゾーン・フラワーロードゾーン・海辺の花拠点ゾーン・スポットの花ゾーン・自然生態の保全ゾーン・フラワーゲートゾーン・丘の花拠点ゾーン・蝶の花園ゾーン
観音崎公園のコース
海辺の花コース 船を見ながら海辺の花と生き物を観察できるコースです(約2.8km)
丘の花コース 丘の散歩路を巡って野の花や生き物に親しむコースです(約3.0km)
歴史探険コース 観音崎のいろいろな歴史を探険するコースです(約4.0km)
わんぱくコース 遊び場とおもしろクイズを巡るコースです(約2.4km)
車道に戻ってその先へ進んでいくと、左手の山際に噴水広場があります。 その手前から、ふれあいの森や戦没船員の碑への道が分かれていきますが、 今回は公園内の散策は省略して、観音崎バス停へ向かっていくことにしました。 展望園地を過ぎて少し登り坂になってくると、右側にトンネルがあります。 バス停へは車道をそのまま進んでいく方が近そうですが、トンネルをくぐって海辺の道を歩いていきます。 入口はコンクリート打ちされていますが、中ほどは手彫りのままの表面が残されていて、 知られざる地下遺跡を探検しているような神秘的な感じがしたりもします。
観音崎の地形
観音崎と対岸の房総半島富津の間は東京湾で最も幅がせまく6kmしかなく浦賀水道と呼ばれています。 明治以後さらに海堡が3ッ設けられ、いっそうせまくしています。 ここは内湾と外洋を連結する通路になっています。 このため潮流は大きく、干満の時期には141ノット=26kmにも達しています。
崖地の植物
この上の崖地は植物が生育するためには大変厳しい場所です。 植物は地下部では岩のすき間に広く深く根を張り、 地上部では葉肉を厚くしたり堅くしたりして潮風などの厳しい環境に耐えています。
ラセイタソウ、オオジシバリ、ツワブキ、マルバグミ
トンネルを抜けていくと、右手には芝地が広がっていますが、 防衛省の設備のため金網柵が設置されていて入っていけません。 山際に続く石畳になった散策路を金網柵に沿って緩やかに降ってくと、右手には東京湾が広がってきます。 崖の上には観音崎灯台が見えていました。 海には網などを吊るしていると思われる浮き具が並んでいましたが、貝や海藻などを養殖しているのでしょうか。 ススキが穂を出している所もあって、雰囲気のいい散策路が続いています。
観音崎のめずらしい現象
観音崎沖は流出する湾内の水と、流入する黒潮とが接する所です。 湾内の水と黒潮の接する所には美しいしま模様ができます。 その形は山城状にオワン状に線状に刻々と変ります。 青い海面一ぱいにえがかれる美しいしま模様は灯台や展望台などから眺めることができます。
海藻について
この付近の海岸には海藻の種類が多く、70種以上に及んでいます。 灯台を中心にして南海岸と北海岸とに分けると、 南海岸では黒潮の影響を強く受けているためにフサイワズタ・タバコグサ・石灰藻類などの外洋性のものが目立ち、 北海岸では内湾のためにアオノリ類・アサクサノリ類などが見られます。
少し進んでいくと、海辺が岩畳になった所がありました。 打ち寄せる波が岩に当って、白く砕け散っていました。 海には大型船や小型船などが沢山行き来していました。 レジャー用の船も見かけました。
海上交通について
浦賀水道はS字型に湾曲しているうえ、三つの海堡があるため狭水道となっていますが、 海上交通が極めて多く、43年には1日平均700〜800隻であったが年々著しく増加しており、 60年には2.3倍の1500〜2200隻になると予測されています。 船種もタンカー、コンテナ、カーフェリー、ラッシュ船などいろいろです。
岩場を過ぎていくと、小さな砂浜と岩場が見えてきます。 その手前から左手に登っていく階段混じりの道が分かれていきます。 角には道標が立っていて、左手の道は「観音崎灯台150m・東京湾海上交通センター450m」、 正面の道は「観音崎園地510m」となっています。 左手の道を登っていくと観音崎灯台がありますが、今回はこのまま海沿いの散策路を進んでいきます。
横須賀市指定市民文化資産 「観音埼灯台」「観音埼點台点燈の碑」
「観音埼灯台」は、日本発の洋式灯台として、明治元年11月1日に起工され、この日が日本の灯台記念日になっている。 「観音埼灯台點燈の碑」は灯台敷地の北側にあり、灯台が点灯された日を示す当時の碑である。
のぼれる観音埼灯台
灯台及び資料館には機械類があり危険ですので、水着での参観はお断りしています。
参観時間 5月〜9月 9:0〜16:30、10月〜4月 9:0〜16:00
参観寄付金 大人(中学生以上)300円、子供無料(保護者同伴)
観音崎灯台 初代灯台
海難防止のため慶応2年(1856)5月、米・英・仏・蘭の4ヵ国との間に結ばれた江戸条約に基づいて、 明治2年1月1日に我国最初の洋式灯台がこの地に点燈されました。 現在の灯台は3代目のものです。 (横須賀製鉄所首長フランス人ウェルニーの設計で明治元年9月18日起工式、明治2年1月1日完成点灯、 レンガ造り、光源1750燭光、光達距離14カイリ)
灯台への道を見送っていくと、詩人西脇順三郎の「燈台へ行く道」と題したの詩碑がありました。
燈台へ行く道
まだ夏が終わらない燈台へ行く道
岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や
いろいろの人間や小鳥の国を考えたり
「海の老人」が人の肩車にのって木の実の酒を飲んでいる話や
キリストの伝記を書いたルナンという学者が少年の時みた「麻たたき」の話など
いろいろな人間がいったことを考えながら歩いた
解説
詩人西脇順三郎は、明治27年(1894)、新潟県小千谷市に生まれた。 少年時代から絵が好きで、将来は画家になることを志し、17歳で中学を卒業するとともに上京して、 藤島武二や黒田清輝らを訪ねている。しかし、父の急死などの事情により画家への道を断念し、 慶応義塾大学理財科へ進み、さらにオックスフォード大学へ留学した。 留学中に再び絵筆を握る傍ら、大正14年(1925)、英文詩集「Spectrum」を刊行する。 同年、帰国し、翌年には慶応義塾大学文学部教授に就任したあ。新しいヨーロッパ文学の豊富な知識を背景に、 「三田文学」や「詩と持論」を通じて目覚しい批評活動を展開した。 一方、萩原朔太郎の詩を通して日本語の可能性を見出したという彼は、昭和8年(1933)、39歳の時に 詩集「Ambarvalia」を発表し、モタニズムによる画期的な詩風を確立した。この作品のみならず、 終生にわたり「眼の詩人」、「視覚の詩人」と呼ばれたのは、根底に少年時代の画家志望の夢があったからである。 その後、昭和22年(1947)に自己の内面に潜むもう一人の人間を「幻影の人」と名付け、作品「旅人かへらず」と これに続く詩集「近代の寓話」、「第三の神話」の中で追求し、西洋的教養と日本的感性を融合させた 独自の詩風を築き上げた。 さらに1960年代に入って、ブルーストやジョイスの手法を駆使した長編詩集「失われた時」を始め、 「豊饒の女神」、「えてるにたす」などの一連の詩集により、西脇地震の詩風は頂点に達し、 ノーベル賞の候補者にも名を連ねた。 70年代に入っても創作力の衰えを見せず、旺盛な想像力は、「礼記」、「壌歌」、「鹿門」といった詩集を 生み出したのみならず、さらに80歳代には詩集「人類」と「定本西脇順三郎全詩集」の刊行を見た。 昭和57年(1982)没。享年88歳。文化功労者、芸術院会員。
【西脇順三郎と観音崎】
昭和24年(1949)ご子息順一氏の遠足に同行して以来、当地を幾度か訪れており、 ここ観音崎をモチーフにした「燈台へ行く道」は、詩集「近代の寓話」に収められている。
観音寺跡
詩碑の山側にはコンクリート製の東屋があります。 脇にある解説板によると、「観音寺」があった所なのだそうです。 砲台築造のために先ほどの観音崎大橋の手前に移転して、ここにはその面影は残っていませんが、 移転先でも焼失してしまって、今ではその跡に小祠が建っているばかりです。 解説板には往時の様子を描いた「浦賀道見取絵図」があったので載せておきます。
観音寺跡
観音崎の地名は、奈良時代の僧行基が船の安全のため 十一面観音(船守観音)を海蝕洞穴に納めたことに由来すると伝えられています。 このあたりに観音堂が創建され、江戸時代には本殿・般若堂などが建ち並び、 村民や漁民・船乗りたあちの信仰は大変厚いものでした。 天正19年(1591)仏崎山観音堂料三石の御朱印をいただいております。 明治13年(1880)陸軍砲台が築造され、翌年、観音寺は鴨居の亀崎に移されました。 鴨居観音寺は昭和61年(1986)の火災により焼失したため、 三浦三十三観音としての札所は吉井の真福寺が代行しています。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
海岸園地
東屋の前は少し道幅が広がって、ちょっとしたベンチなどもある海岸園地になっています。 正面から左手にかけては岩場が広がり、右手にはちょっとした砂浜があります。 打ち寄せる波の向こうに広がる東京湾には船が沢山浮かんでいました。 岩場ではのんびりと海釣りをしている人も見かけました。 そんな景色を眺めながら、ちょいと休憩していきまいた。
観音崎の歴史
観音崎は千葉県の富津岬と相対して東京湾の入口をしめているため、東京湾守備の重要地点として 利用されていました。古くは文化9年(1812)、江戸湾(東京湾)警備のための船見番所や 台場などが設けられました。明治となってからも砲台が各所に設けられ、終戦まで東京湾の 関門として重要な使命を果たしていました。
権現洞
海岸園地を過ぎていくと、左手の岩壁にポッカリと開いた洞窟がありました。 名前は記されていませんでしたが、手元の地図によると権現洞観音崎洞窟と呼ばれているようです。 手前には柵が設置されていて「落石の危険あり 立入を禁ず」の立て札がありました。 脇にある解説板によると、鵜羽山権現や十一面観音として祀られてきた洞窟なのだそうです。 洞窟の入口付近には小振りの石祠が二つほどあり、奥にも祠があるようでした。
洞窟の由緒
聖武天皇の御代、天平13年(741)の春、行基善薩は諸国修行の途中ここに来られ、 この洞窟に住んでいる大蛇が、漁民や運漕の人々を苦しめているのを聞かれ、 大蛇を退治してその霊を、鵜羽山権現として祀られました。 この近くの走水神社に日本武尊とその妃弟橘媛命がお祀りしてありますが、 この洞窟の沖で入水ぢて海を鎮められた弟橘媛命を、十一面観音として刻まれ、 側に安置されまして以来、海上安全、人命守護の霊地として信仰されてまいりました。 時代の変転により荒廃に帰しましたが、時来って今日は観光の地として復興されて、 再び海上安穏、人命守護、世界平和の祈りがなされています。
崖地の植物
植物が生育できそうにない崖地のような場所でも、わずかな岩のすきま・割れ目・くぼみに 深く根を張り、潮風や波しぶきに強い抵抗力のあるものが生育しています。
高木 タブノキ・ヤブツバキ
低木 トベラ、マサキ、ガクアジサイ
草木 オニヤブソテツ、ツワブキ、アシタバ
寂光土
権現洞を過ぎていくと、散策路の海側に墓石などが沢山集まった所がありました。 脇に立つ手製の解説板によると「寂光土」というようです。 江戸から明治の時代を生きた人達の墓のようでした。 綺麗な花束や水が手向けられていて、脇には箒も置かれていました。 いまでも掃除したりして丁寧に守られているようでした。
寂光土
観音崎灯台を目前の東京湾に面する此の静かな地にひっそりと佇む数々の墓石に刻まれている仏様の生きた時代は、 現在の私たちには想像もつかない過酷な時代であったようです。 近代日本の夜明けを告げるペリ提督来航から既に150年、動乱の幕末に国を守る為に馳せ参じた諸藩の武士達や、 飢饉で亡くなった方々かも知れません。 訪れる人もない無縁仏の生きた時代があったればこそ、今、私達が生きてゐる世があります。 どうか暫しの間足を休めて、私達と決して無縁と思われない仏さまからの静かな語らひに耳を澄ませて下さい。 いま生かさせていただいてゐる貴方の尊い「いのち」の由来を知る為に。
【時代背景】 富士山大噴火(宝永4年1707)、天明の大飢饉(天明3年1783〜8に至る)、 全国の人口2720万人(文政11年1825)、全国的大飢饉(天保3年1832)、 異国船打払令(文政8年1825)、ペリー浦賀に来航(嘉永6年1853)
 (吉川弘文館刊日本央年表よ利)
寂光土を過ぎていくと、右手に短い石段があります。 石段を降りていくと、その先には侵食された岩が層を成した岩畳が広がっていました。 波打ち際では釣糸を垂らしている人もいました。
磯の生物
海辺は1日2回の潮のみちひきがあり、まず潮がひいている岩場の潮だまりタイトプールには いろいろな生物がいます。そっと観察しましょう。
カニ・エビ類 ヒライソガニ、イシガニ、イソガニ、ヒズメガニ、イソスジエビ、モエビ、ホンヤドカリ、カニダマシ
貝の類 クボガイ、ナガニシ、レイシ、アサリ、ハティラ、ムラサキガイ、ヨメガカサ、スガイ、ウチムラサキ
ヒトデ・ウニ類 ヤツデヒトデ、クモヒトデ、キヒトデ、バフンウニ、イトマキヒトデ、ムラサキウニ、アカウニ
小魚の類 アゴハゼ、ナカベ、イソギンポ、シマハゼ、メジナ、ドロメ、ヤガタイサキ、アミメハギ、アサヒアナハゼ
その他 アメフラシ、タラジャイソギンチャク、ケヤリムシ、ウメボイシソギンチャク、スゴカイ、フジツボ
海の鳥
海上を飛びまわっている海鳥は、泳いだり潜ったりして小魚や貝やカニなどを食べ、 磯に住む鳥はカニや磯虫などを食べています。
セグロカモメ、ウミネコ、ユリカモメ、うみう、アカシシギ、イソヒヨドリ
(神奈川県の鳥はカモメです)
観音崎園地
散策路に戻って石畳の道を進んでいくと砂浜が見えてきます。 案内図によると観音崎海水浴場というようです。 浜辺では子供連れが遊んでいました。 みんな赤い帽子を被っていたので、保育園などの団体だったのでしょうか。 しばらく眺めていると、沖の方からゴムボートが1隻戻ってきました。 磯独特の香りを感じながら、目の前に広がる最後の海をしばらく眺めていきました。 山側に芝地が広がったこの辺りは観音崎園地というようでした。
タイドプール
海は普通1日に2回動き、引き潮と上げ潮を繰り返します。 引き潮の時は、水中にかくれていた岩場が露出して、潮だまり(タイドプール)ができ、 岩場の生物が観察できます。
【岩場の生物】ヤツデヒトデ、ホンヤドカリ、ムラサキウニ、フジツボ、イソガニ
観音崎の地形
観音崎周辺は、海抜40〜50mの丘陵が海に迫って崖地をつくり、 その崖下には堆積岩が露出し波にあらわれ岩礁となっています。 砂浜は岩礁性の海岸線が発達しているため、小規模な砂浜が2箇所(三軒家、たたら浜)みられるだけです。 この砂浜(三軒家)は海水浴場として利用されています。
海浜の植物
海岸は土壌の発達が悪く、強い潮風や紫外線のような特殊な環境をもっているので、 植物が生育するには大変きびしい場所です。 植物は地下部では砂の中や岩のすきまに広く深く根ざし、 地上部では葉肉も厚くしたりかたくしたりして水分の蒸発を防ぎ、 海岸の環境に適した形態をしています。
東京湾海上交通センターや観音崎灯台への道を左手に分けて石畳の散策路をその先へ進んでいくと、 少し降った所の脇に「かながわの景勝50選 観音崎」と刻まれた石碑が立っていました。 右手には観音崎海水浴場が間近に広がっていました。
観音崎の位置
観音崎は三浦半島のほぼ中央東南側の東京湾に突出した岬で、 東京都心部から約45km、対岸の房総半島の富津岬との距離は約6kmで、東京湾で最も幅が狭いところです。
かながわの景勝50選 観音崎
フィールドの約束(や・さ・し・い・き・も・ち)
)野外活動は無理なく楽しく
)採集はしないで自然はそのままに
)静かにそーっと
)一本道、道はら外れないで
)着るものにも一工夫
)持って帰ろう、思い出とゴミ
)近づかないで、野鳥の巣
 (神奈川県環境部自然保護課)
利用ルール
バーベキューやキャンプ、たき火はしないでください。
公園内の植物や動物を大切にしましょう。
公園内の美化にご協力ください。
この公園は大蔵省(関東財務局横須賀出張所)所管の国有地を借り受け整備したみなさんのための施設です。
園内ではモラルを守って大切に利用して下さい。
 (神奈川県横須賀土木事務所)
観音崎(かんのんざき)バス停
石碑の先は車道になっています。 左手の横断歩道を渡った先に観音崎バス停があります。 鴨居港の食堂を出てから1時間30分ほどで到着しました。
浦賀駅(京浜急行本線)まで、[須3]浦賀駅行きバス、[堀25]堀内行きバス,または, [須25]横須賀駅行きバスにて13分、1時間に3本程度の便があります。 横須賀駅(JR横須賀線)まで、[須24]横須賀駅行きバスにて40分、1時間に3本程度の便があります。