大磯宿
散策:2009年10月下旬
【街角散策】 大磯宿
概 要 大磯宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋から8番目の宿場になります。 遺跡などはほとんど残っていませんが、往時の様子を描いた絵が載っている解説板が各所に設置されていて、 往時を偲びながら歩くことが出来ます。 今回は高来神社から大磯宿を経て、間の宿でもあった二宮を過ぎて国府津まで歩いていきます。
起 点 大磯町 花水バス停
終 点 小田原市 国府津駅
ルート 花水バス停…慶覚院…高来神社…化粧井戸…化粧坂一里塚…松並木通り…江戸見附…日枝神社…神明神社…秋葉神社…延台寺…北組問屋場…小島本陣…地福寺…鴫立庵…上方見附…東海道松並木…八坂神社…国府本郷一里塚…宝積寺…六所神社…二宮一里塚…松屋本陣…押切坂…浅間神社…車坂…国府津海岸…国府津駅
所要時間 5時間20分
歩いて... 車道を歩く部分がかなりあって、あまり風情はありませんでしたが、 所々には立派な松並木が残っていたり、 解説板が設置されていたりもして、往時を偲ぶことが出来ました。 旧東海道沿いには、寺社や近代の名士の旧邸なども数多くありますが、それらを訪ねるのはかなり省略しました。
関連メモ 大磯・高麗山のみち, 湘南平, 高麗山, 平塚宿, 小田原宿, 湘南平
コース紹介
花水(はなみず)バス停
平塚駅(JR東海道線)の北口バスターミナルから、[平41][平43]国府津駅行きバス、[平44]小田原駅行きバス、 [平46][平47]二宮駅南口行きバス,または, [平48]大磯駅行きバスにて6分、1時間に3本程度の便があります。
花水バス停の先へ続く国道1号を150mほど進んでいくと、高来神社入口交差点があります。 角には関東ふれあいの道の道標が立っていて、左手の道は「西海岸バス停1.0km」、 右手の道は「高来神社200m・高麗山900m」となっています。 右手の道の先には「高来神社」の扁額が掛る鳥居や、「高来神社」と刻まれた石柱が立っています。 旧東海道は国道1号を進んでいくのですが、 右手の先に高来神社があるので、ちょいと往復していくることにしました。
慶覚院
右手の鳥居を過ぎていくと、二つ目の鳥居が立っています。 その袂には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の道は「高来神社0.1km・高麗山0.7km」、 今来た道は「西海岸バス停1.2km」となっています。 また、「大磯町観光案内図」も設置されていて、高麗山や湘南平を巡るコースなどが紹介されています。 正面に続く石畳の参道を進んでいくと高来神社がありますが、 鳥居の右手のすぐ先に慶覚院があるので立ち寄っていきました。 鐘楼の先に本堂があり、右側には庫裡と思われる建物がありました。 本堂は建てられてから間もないのか、まだ新しい雰囲気でした。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、 高来神社の由緒書きによれば、神仏分離によって寺物が移された地蔵堂が、 今の慶覚院なのだそうです。
木造地蔵菩薩坐像(県重文)
寄木造、玉眼嵌入。肉身部漆箔。 像高145.0cm。右手に錫杖、左手に宝珠を持った通例の像容で、 面部内に建治4年(1278)の墨書名が残されています。 像容、着衣形式、彫技などに宗風の影響が認められ、鎌倉仏師とのつながりがうかがえます。 鎌倉時代後期の在銘彫刻として、また関東の彫刻として一つの基準的な作例といえます。
木造千手観音立像(町重文)
慶覚院本尊。一木造。 像高159.5cm。この像は破損、腐食及びその後の補修が著しく見られ、 作りも他に比較対照すべき類例がないほど、きわめて地方色の強い荒っぽいものです。 ただ、彫り直しの手の入っていることが比較的少ないと思われる天冠台に、 平安時代に多く見られる起伏のある線をつくり出している点が注目されます。
大磯町指定有形文化財 慶覚院蔵 木造仁王像
慶覚院に安置されていた2躯の仁王像は、廃絶した高麗寺の遺産として歴史的価値の高い資料です。 また、木像は中世の作例に学んだ江戸初期の作品であり、 類例の少ない資料であることから、平成11年(1999)に大磯町有形文化財に指定されました。 この仁王像は慶覚院に長く安置されていましたが、傷みが著しいことから、 平成12年度から修復を行いました。 現在大磯町郷土資料館において保管・展示を行っています。
 (大磯町教育委員会)
高麗山賛歌
若葉よく 紅葉またよく 廣重の 名所絵にある 大磯高麗山
湘南大磯八景
鴫立澤秋月、 化粧坂夜雨、 照崎之帰帆、 唐土原落雁、 花水川夕照、 小淘綾晴嵐、 富士之暮雪、 高麗寺晩鐘
高来神社
元の道に戻って、両側に桜が並木を作る参道を進んでいきます。 短い石段を二つ過ぎていくと、正面に高来神社があります。 由緒書きによれば、この建物は以前の「観音堂」で、 右側にある大きな建物は「神輿殿」とのことです。 神仏習合と神仏分離の歴史の中で、高麗権現社・高麗神社・高来神社と改称されてきたようです。 往時の「境内見取図」によれば、規模の大きな所だったようです。
高来神社(高麗寺)の由来
当山の縁起は古く明らかではないが、神武天皇の御代の開闢と伝えられています。 垂仁天皇の御代に神皇産霊尊と瓊々杵尊を祭神とし、 安閑天皇の御代に応神天皇と神功皇后が合祀されたとあります。 神功皇后が三韓を征伐した時に神霊が御出現して勝利に導きました。 因って武内宿禰は奏して東夷静謐の為に、神皇産霊尊(高麗大神和光)を当山の韓館の御宮に遷し奉りました。 これが高麗権現社の起源であります。 高来神社奉納木遣に、応神天皇の御代に邪険な母国を逃れた権現様が唐船(権現、明神丸)で大磯に渡来されて、 この地を開発されました (これは続日本紀の霊亀2年に武蔵国高麗郡の開発に郡令として向かわれた若光がモチーフと考えられます)。 又、大磯の浦(照ヶ崎)で漁をしていた蛸井之丞の小舟に小蛸が上って来たかとみると、 舳先に千手観音が御立ちになりました。 舟の者共伏し拝み、高麗山にお遷し致しました。 夏の大祭には蛸井之丞の子孫が宮神輿の先供をして。 権現、明神丸の船屋台が前後に従い照ヶ崎の祭場に渡御されます(近年舟屋台は隔年の出御です)。 養老岩塩に行基僧正が巡国の折に山頂にお祀りしてある千手観音を高麗権現の本地佛とお定めになりました。 これより神仏習合の地として山頂の高麗権現と下宮の千手観音とを併せ祀り、 高麗寺別当の司る所となりました。 斎衡年間に円仁により本社の左峰に毘沙門塔を、右峰に白山社を建立されました。 鎌倉時代には幕府の尊崇厚く、後白河法皇の仏事に興り、政子の平産祈に神馬を奉りました。 建長7年に定禅坊が牛王刻印を献上し、弘安11年に鐘が鋳造されました。 僧坊は24を数え、高麗寺の最盛期で神像群もこの頃に造られました。 室町時代には足利氏の内乱で高麗山が攻防の場となり、 戦国には北条小田原城を上杉、武田勢が攻め果たさず、引き上げの途中に高麗寺も戦火に遭い、 白山社と毘沙門塔を焼失しています。 天正19年に徳川の時代となり、家康より寺領百石と山林を賜わり、 後、東照権現が併せ祀られ地頭の治める所となりました。 春の大祭は家康の命日、4月17日に因み行われ、山神輿の登御、町内の植木市で賑わいます。 明治になり神仏分離され、寺物は地蔵堂に移され、高麗神社と改称され、 明治30年に高来神社に改称されました。
観音堂(現高来神社)、 神輿殿(現存)、 地蔵堂(現慶覚院)、 平嘉久社(現存)、 龍神(現存)、 稲荷社(現存)、 道祖神(現存)、 青木宮(現存)、 一の鳥居(現存)、 墓地(現存)、 二の鳥居(旧跡)、 高麗権現社(旧跡)、 錦宮(旧跡)
社殿の右側には「竜神宮」や「神明宮」の小祠があり、 その脇から少し降った先には「高麗山霊水 御供水」が湧出す所もありました。 石段の手前には池があって、綺麗な鯉が泳いでいました。 右手には杉本稲荷大明神や道祖神の祠などがあり、 左手の「忠魂碑」や「靖国之塔」の脇にはシイの巨木もあります。 スダジイにヤブニッケイが密着生育した珍しいものだそうです。
高来神社のシイニッケイ(町指定)
この木は、樹幹の心材が枯死腐朽し空洞化しているスダジイの古樹の凹部に、 ヤブニッケイが密着生育しているものです。 樹齢はスダジイが推定400年、ヤブニッケイは100〜150年です。 このような例は各種各様のものがありますが、 外観が完全に一本の樹に見え、しかも違和感なく一本化した樹はたいへん珍しいものです。
合せて20分ほどいた慶覚院と高来神社から国道1号に戻って、その先へと進んでいきます。 右手の山の上に頭を出している湘南平のテレビ塔を眺めながら2分ほど進んでいくと、 右側に「虚空蔵尊」と刻まれた石柱の立つ小祠がありました。 傍には解説板「此辺大磯宿の史跡」も立っていました。 同様の解説板は、この先の大磯宿にかけて幾つか見かけました。 往時を描いた絵も載っていて、その頃の様子を偲ぶことができます。 この辺りが、高麗寺村と大磯宿の境だったようです。
此辺大磯宿の史跡
虚空蔵堂 虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂があり(現存)、ここに下馬標が立っていた。 大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通った。
寺領傍示杭 高麗寺村と大磯宿との境界を示す。高さは三米程であった。
 (大磯町)
化粧井戸
化粧坂バス停の辺りまで来ると、松の木が少し生えるようになります。 バス停の先で道が二手に分かれています。 道標類は見かけませんでしたが、国道1号から分かれていく右側の道を進んでいきます。 この辺りからが化粧坂なのだろと思われますが、坂道ではなくて平坦な道が続いていました。 以前には坂が続いていたのでしょうか。 大きな水車が回るそば処を過ぎていきます。 街道松を植え直されているようで、幼木もかなり見かけました。 国道1号から分かれて2分ほど進んでいくと、左側の民家の庭先に化粧井戸がありました。 井戸には格子が被せられていて、中は土などでほとんど埋まっていました。 解説板によると、鎌倉時代にはこの化粧坂の辺りが大磯の中心だったようです。
化粧井戸
「化粧」については、高来神社との関係も考えられるが、 伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。 当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み、 朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれている。
化粧坂一里塚
化粧井戸を過ぎて2分ほど進んでいくと、道が右手へ分かれていきます。 角には大磯町が設定する「大磯歴史と味の散歩路 明治のまちコース」の道標が立っていて、 右手の道は「釜口古墳0.3km・王城山0.9km」、正面の道は「大磯駅1.2km」、 今来た道は「高麗山1.1km・化粧井戸0.1km」となっています。 手前には解説板「此辺大磯宿の史跡」も立っていました。 この辺りに化粧坂の一里塚があったようです。 釜口古墳や王城山も気になりますが、今回は旧東海道から余り外れないように歩くことにして、 訪ねるのは省略しました。
此辺大磯宿の史跡
化粧坂の一里塚 旅人の旅程の目安となり、江戸日本橋より十六里の所に、 日陰で風よけなどで小休息の場となる。 高さ約三米程の上に、海側に榎を、山側にせんだんを植えた。
 (大磯町)
松並木通り
右手の道を見送ってその先へと進んでいきます。 両側には松が並木を作っていました。 訪ねた翌日には祭りが予定されていたようで、 「山王町 松並木通り」や「ふれあい・にぎわい 宿場まつり」と書かれた幟が沢山旗めいていました。 この道は松並木通りという名前のようです。 1分半ほど進んでいくと、右側の植え込みの中に、 「東海道五十三次 大磯 虎ヶ雨」の浮世絵を描いた看板がありました。 今回見かけた唯一の浮世絵になります。 街道沿いだけではなくて、すぐ傍にある海沿いにも松並木が描かれていますが、防砂林なのでしょうか。 この少し先には「大磯八景の一 化粧坂之夜雨」の石碑もありました。 和歌のようなものも刻まれていましたが、達筆過ぎて読めませんでした。
東海道五十三次 大磯 虎ヶ雨
大磯。 右手は高麗山の麓。 虎御前と曾我兄弟との悲恋伝説も。 雨にぬれそぼってわびしい。
石碑を過ぎていくと、JR東海道線の脇に出ます。 線路沿いにも道は続いていますが、線路の下をくぐっていく竹縄架道橋を進んでいきます。 車止めを過ぎて坂を降り、左へ折れ曲がっていきます。 トンネルの中には照明灯が設置されていて歩きやすくなっていました
自転車・バイクはおりて通りましょう。
 (大磯町)
江戸見附
竹縄架道橋を抜けて地上に出ると、道の両側には大きな松が並木を作っていました。 松並木の続く道を進んでいくと、右側に解説板「此辺大磯宿の史跡」が立っていました。 それによると、この辺りに江戸見附があったのだそうで、 ここからが大磯宿になるようです。
此辺大磯宿の史跡
江戸見附 宿場の出入り口につくられた構造物で、本来は簡易な防御施設として設置されたと考えられている。 また、宿場の範囲を示しており、宿場の京側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいた。 なお、宿境には傍示杭と呼ばれる木製の標柱が建てられていた。
 (大磯町)
日枝神社
「東海道」「大磯宿」と書かれた町灯籠のようなものを出す日本料理店を過ぎていくと、 化粧坂バス停の先で分かれてきた国道1号の三沢橋東側交差点に出ます。 旧東海道は右手へ進んでいくのですが、左手の横断歩道を渡ったすぐ先に日枝神社があるので、立ち寄っていきました。 横断歩道を渡って路地を進んでいくと、すぐに日枝神社がありました。 「日枝神社」の扁額が掛る鳥居をくぐって境内に入っていくと、正面に社殿がありました。 神社の由緒書きなどは見かけませんでした。 境内の右側には石碑が並んでいました。 青面金剛というのだそうで、どれにも三猿が彫られていました。
第九番所
山王町 日枝神社境内 青面金剛(庚申) 銘文年代なし
 (大磯ガイドボランティア協会)
神明神社
国道1号に戻ってその先へ進んでいきます。 150mほど進んでいくと、三沢橋交差点の前に三沢橋が架かっています。 下を流れるのは三沢川というようです。 三沢橋を過ぎていくと、左側に神明神社がありました。 鳥居の手前には神明町集会所があって、地区の人たちが集っていました。 鳥居の先の玉垣で囲まれた一段高い所に社殿がありました。 屋根には5本の鰹木が乗り内削ぎの千木が聳えていました。 入口には由緒書きもありましたが、掠れていて読めない部分もありました。
神明神社 御由緒
神明神社は法光院(廃寺)持ちで、古来紅葉山の明神台(現在の北の方)に祀られていたが、 江戸時代中期享保年間(1716〜35)に明神台から明神森(ふれあい会館付近)に一時遷座され、 更に現在地に遷座された。 神明町の地名発祥となり、神明町の氏神として信仰が厚い。
御祭神 天照大神
例祭は正月、五月、九月の二十一日で、元は神楽も奉納していた。 現在の社殿は神明造で、昭和5年(1930)5月総工費2161円(現在の約1億円)で再建。 境内には明治元年(1868)9月20日、明治天皇は初めて京都を出発、東京に行幸途中、 10月9日小田原宿をたち、昼には大磯宿の小島本陣へお着きになりました。 昼食後、時間もあり、江戸も近くなりましたので、天皇の長い旅路をお慰めしようと、 北浜海岸(海水浴場)で…からすに向かって一斉に射撃をさせましたが、 一瞬呼吸があわず、全部逃げ去られてしまいました。 始めての庫となのでとても…れました。 その後、角打(大砲)がはじめられ轟音を…せました。そのころ漁師が地引網を入れ、 角打が終った時、地引網を引き揚げはじめましたが、…引っかかったので、 漁師がわれもわれもと飛びこんで引き揚げました。 この網に入った魚をたらいに泳がせ、掛け声勇ましく裸のまま天皇の御前に抱えて来ました。 前代未聞のことなので、一同びっくりしましたが、 天皇は人々の有のまま…御覧になりたいと思っていたので非常にお喜びになられました。 この日、天皇は小島本陣に御宿泊になり、 内侍所御羽車(賢所天照大神の御霊台のヤタノカガミを祭ってある腰輿)は神明神社に奉安された。 昭和3年大磯研究会(会長鈴木梅四郎)が建立した記念碑がある。朝倉 敬之書。 大磯を発ち13日には江戸城に入り、その日東京城と改められた。 ちなみに東幸の費用は77萬両(現在の約50億円)に上がったという。 神明町在住で大磯八景の石碑を建てられた大磯小学校二代目校長朝倉敬之先生は 小島本陣に明治天皇がご宿泊時、19歳であった。 小野懐之(初代大磯小学校校長)、中川良知(初代大磯町長)に推挙し「明治天皇行在所」と墨書し、 天皇の御誉めに預かった。 その朝倉先生の…屏風が社宝としてある。
秋葉神社
大磯駅前歩道橋が架かる大磯駅入口交差点を過ぎていきます。 大磯郵便局を過ぎていくと、左側に解説板「此辺大磯宿の史跡」が立っていました。 ここに虎御石があったようです。 解説板によると「色好み」の石だったようです。 解説板の傍には「穐葉社」の扁額の掛る秋葉神社がありました。 小振りの社殿ながらも、鳥居や灯籠などが設置されて玉垣で囲まれていました。
此辺大磯宿の史跡
虎御石 蘇我十郎の剣難を救った身代石。 また虎御前の成長につれて大きくなったと言われる生石である。 江戸時代の東海道名所記に「虎が石とて丸き石あり、よき男のあぐればあがり、あしき男の持つにあがらずという色好みの石なり…」とある。 この場所におかれていた。
 (大磯町)
秋葉神社略縁起
宝暦12年(1761)1月19日、大磯宿に大火があり、宿場の殆どを焼失したため、 當時の町役が願主となり、遠州秋葉山より秋葉大権現を勧請し、 同13年大運寺境内に秋葉社を建立、宿場の安全を祈願した。 明治5年(1872)神仏分離令により社を大磯駅前の梅浦家別荘(現アクサ生命)敷地内に遷し秋葉神社と改称した。 更に大正7年(1918)現在地に遷された。 御祭神は火之迦具土大神と申し上げ、火防の神である。
例祭日 1月19日、5月18日
延台寺
秋葉神社の手前から左手へ続く坂道を降っていくと、「宮経山」の扁額の掛る山門があります。 山門から境内へ入っていくと、正面に法虎庵蘇我堂があり、左手に延台寺の本堂がありました。 大火で焼失して再建されたとのことで、まだ新しそうな様子でした。 境内には、虎御前供養塔や大磯宿遊女の墓などもありました。
宮経山 延台寺
当山は日本三大仇討の一、曾我兄弟の仇討にゆかりの深い、鎌倉時代の舞の名手、 伝説の美女虎御前(虎女)が兄弟を偲んで庵を結んだ跡とも伝えられ、 慶長4年(1599)身延山代19代法主法雲院日道上人によって開かれ、 以来日蓮宗の寺院として今日に及んでいます。 しかしながら、江戸から明治にかけて三度におよぶ大火にみまわれ、堂宇をことごとく焼失しました。 明治35年以来の仮堂を、80数軒の檀家信徒、多数の有志が住職を支え、 秀れた宮大工、職人、業者が結集して復興事業を推進しました。 昭和57年(1982)5月には本堂、書院、庫裡が完成、続いて山門、水屋が、 平成16年(2004)7月には曾我兄弟身代りの御雲石「虎御石」、虎池弁財天座像、 虎御前および曾我兄弟像等をご奉安する法虎庵蘇我堂が完成しました。 境内には当山の初祖法虎庵妙恵尼(虎御前)供養塔、開基川崎次郎右衛門の墓、 虎池弁財天御神石、子授け祈願の石佛、大磯宿遊女の墓等があり、 虎女が十郎との恋の成就を祈願したと伝えられる竜神様をおまつりしてあります。
虎御石
安元元年(1175)、大磯の山下長者に一人の娘が生れた。 長者は40才を過ぎても子宝に恵れず、虎池弁財天に願をかけて授かったので、虎と名づけた。 この時弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、 長者は邸内にお堂を建て虎御石と名づけて大切におまつりしていた。 不思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていった。 虎女も舞の名手として広く天下に知られる程に成長し、 いつしか曾我兄弟の兄の十郎と恋仲になった。 十郎が虎女の家で敵方の刺客におそわれた時、この石のおかげで命が助かったので、一名身替りの石ともいう。 兄弟は富士の裾野で父の仇、工藤祐経を打ち本懐をとげて死んだ。 虎女は兄弟の最後の地をたずね、 「露とのみ消えにしあとを来て見れば尾花がすえに秋風ぞ吹く」とよんで 庵をむすんで兄弟の菩提をとむらったのが当山である。
北組問屋場
穐葉神社入口交差点を過ぎたすぐ右側に 解説板「此辺大磯宿北組問屋場の史跡」が立っていました。 ここに北組問屋場跡があって、人足や馬を継いでいったのだそうです。 この大磯宿から次の小田原宿まで、5貫(約18.75kg)までの荷物を持って馬に乗っていくと、 124文かかったのだそうです。 今のお金にするとどの位になるのでしょうか。
此辺大磯宿北組問屋場の史跡
全国各地からの書状や荷物の継ぎ立てを行う場所で、新しい人足や馬が準備されていた。 大名行列などの際には大磯周辺の助郷村々から人足や馬を動員する差配を取り仕切っていた。 そして宿場の運営にたずさわっていた重要な場所である。
大磯、小田原間お定賃金 正徳元年
一、番掛荷人共(人と荷貳拾貫迄) 壱百八拾五文
一、軽尻馬壱匹(人と荷五貫迄) 壱百貳拾四文
一、人足壱人(荷五貫迄) 九拾文
 (大磯町)
小島本陣
北組問屋場跡を過ぎていくと、そば処の前に解説板「本陣」が立っていて、 大磯宿小島本陣絵図などが載っていました。 この辺りに小島本陣があったのだそうですが、 大磯宿にはこの他にも尾上本陣と石井本陣があったようです。 解説板によると、各本陣はかなり近い所に建っていたようです。
大磯宿小島本陣絵図
本陣 宿場で参勤交代の大小名や公用の幕府役人、勅使、公家、宮門跡などが旅の宿泊に用いる大旅館を本陣という。 本来本陣とは、軍陣における総大将のいる本営であるが、大名旅行も軍陣に見立てて此の名称が用いられた。 享和3年(1803)大磯宿には小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣があり、 その建坪は夫々246、238、235坪であった。 本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、 奥には大名の寝所となる床の間と違い棚のある書院造りの御上段の間があり、その前に庭園がある。 大名と側近は本陣に泊まるが、その他の者は宿内の旅籠に泊まる。 大行列の場合は隣の宿まで使用しなければならなかった。 尾上本陣は、小嶋本陣の西隣に置かれていた。 石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向かいの現在の大内館(旅館)の場所にあった。 これ等の本陣は天保7年(1836)の大磯の大火で焼失した。 再建されたが建坪は縮小している。 後慶応元年(1865)の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、 本陣の経営の並々ならぬ努力が偲ばれる。
 (大磯町経済観光課)
地福寺
大磯消防署前交差点まで来ると、角に「明治のまちコース」の標柱が立っていて、 右手の道は「地福寺0.1km」となっていました。 その先には山門が見えていたので立ち寄っていきました。 民家などの間に続く路地を進んでいくと、白壁の山門がありました。 脇には「真言宗 地福寺」と刻まれた石柱も立っていました。 山門から境内へ入っていくと、綺麗に掃き清められた奥に地福寺の本堂がありました。 右手には庫裡と思われる建物もありました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでしたが、島崎藤村の墓があるのだそうです。
地福寺を後にして国道1号を進んでいくと、大磯町消防本部の道路向い(右側)の信用金庫の前に 「大磯小学校発祥之地・尾上本陣跡」と刻まれた石標が立っていました。 照ヶ崎海岸入口交差点までくると、道が分かれていく間に樹木の生える一角がありました。 傍まで行ってみると「新島襄終焉の地」の解説板が立っていて、 植込の中には「新嶋襄先生終焉之地」と刻まれた石碑がありました。
新島襄終焉の地
明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、 藩士新島氏治の長男として生まれました。 その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて 1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、 苦学10年キリスト教守義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、 多くの困難を克服して、1875年(明治8年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。 その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、 1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。
鴫立庵
さざれ石交差点を過ぎていくと、左側に鴫立庵があります。 岩盤になった鴫立沢に架かる石橋を渡って門から入っていくと、数多くの歌碑が並んでいて、 鴫立庵室、俳諧道場、法虎堂、円位堂、茶室、観音堂などの建物もあります。 200坪ほどの庭園になっていて、毎年3月末の日曜日にここで西行祭が行われるのだそうです。
鴫立庵
寛文4年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、 元禄8年(1695)俳人の大淀三千鳳が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。 現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。 崇雪が草庵を結んだ時に鴫立庵の標石を建てたが、 その標石に"著盡湘南清絶地"と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びています。
こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ (西行法師)
上方見附
鴫立沢交差点を直進して国道1号を更に進んでいきます。 統監道バス停まで来ると、左側に解説板「上方見附」が立っていました。 大磯宿はここで終って、この先は小田原宿までの間に続く街道になります。
上方見附
見附とは本来城下に入る見張りの門のことであるが、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き、 宿場を守る防御施設として造られた。 街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1.6米程で、その上に竹矢来が組まれていた。 この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。 そこには宿場の出入り口である標示の御料傍示杭が立っていた。 この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、 旅人に宿場の出入口を示す役目をはたすようになった。
 (大磯町経済観光課)
東海道松並木
大磯中学校前交差点まで来ると、「明治のまちコース」の標柱が立っていて、 左手の道は「こゆるぎの浜0.2km」となっていますが、そのまま国道1号を進んでいきます。 「東海道松並木」と書かれた歩道橋まで来ると、道の両側には松の大木の並木が続くようになります。 一番太い松には銘板が取り付けられていました。 周囲4.3m(直径1m36cmほど)もある巨木で、近寄ると圧倒されそうな感じがしました。 松並木を歩き始めた所に関東ふれあいの道の道標が立っていて、 正面の道は「こゆるぎの浜0.5km・旧吉田屋敷2.0km」、 今来た道は「鴫立庵0.4km(国道1号を直進)」「湘南平1.9km(歩道橋を渡り)」となっています。 傍には解説板も設置されています。 その袂には里程標もあって、正面の道は「切通2.5km」、今来た道は「撫子原5.1km」となっています。
東海道松並木
東海道の松並木 江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、 参勤交代や行商お伊勢参りなどに広く利用されました。 松並木は、今から400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、 幕府や領主に保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、 立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものです。 この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です。
小淘綾ノ浜 「ゆるぎ」とは波の動揺をあらわし、かつては余呂伎、余綾と書かれ、 今の大磯町と二宮町は相模国余綾郡とよばれていました。 万葉集には、「相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるゝかも」とよまれています。 平安時代の古今和歌集には「こよろぎ」とよまれましたが、その後の歌集には「こゆるぎ」とよまれました。 歌枕の小余綾ノ磯は、今の大磯から国府津あたりまでの海浜一帯をさすといわれています。
 (環境省、神奈川県自然環境保全センター自然保護公園部自然公園課)
クロマツ(マツ科マツ属)
このクロマツは国道1号線に植樹していあるクロマツの中で一番太い木で太さ約4.3mあり、 樹齢は約300年の巨木です。
 (国土交通省横浜国道事務所小田原出張所)
道路より一段高い所に続く歩道を進んでいきます。 歩道は「水仙ロード」にもなっていて、スイセンが植えられているようでしたが、 この時には花の季節ではなくて咲いていませんでした。 里程標を過ぎて5分ほど進んでいくと、小径が左手へ分かれていきます。 角には関東ふれあいの道が立っていて、左手の道は「こゆるぎの浜0.2m・旧吉田茂邸1.7km」、 正面の道は「滄浪閣0.1km」、今来た道は「大磯駅0.9km・湘南平2.2km」となっています。 また「明治のまちコース」の標柱も立っていて、正面の道は「八坂神社0.6m」、 今来た道は「鴫立庵0.6km」となっていました。 大磯プレイスの入口を過ぎていくと、道端に竹柵で囲まれた大きな松の切り株がありました。
東海道の歴史を物語る松の年輪
松並木が整備されてから約400年。 松の年輪はその時代の生き証人として様々な出来事を語ってくれます。 この切り株は、平成6年11月に松の天敵であるマツクイムシの被害にあってしまった老松(樹齢270年)ですが、 「いつまでも東海道の歴史を語り続けてほしい」との気持ちから歴史年表として、ここに保存します。
 (建設省横浜国道工事事務所小田原出張所)
八坂神社
滄浪閣の入口の先の滄浪閣前交差点を直進していきます。 白岩大門バス停を過ぎていくと、左手へ分かれていく道があります。 その角に立つ「明治のまちコース」の標柱によると、左手の道は「こゆるぎの浜0.6km」となっています。 こゆるぎの浜への道は何箇所もあるようでした。 そのすぐ先の左側に「八阪」の扁額の掛る鳥居が立っていました。 広くなった敷地の奥に社殿が見えたので立ち寄っていきました。 短い草の生える所を登り気味に進んでいくと、石段の先に社殿がありました。 神社の名前や由緒などを記したものは見かけませんでしたが、これが八坂神社のようでした。 古くからある神社のようですが、草が生えるばかりの広めの敷地は何だか殺風景な様子でした。
西小磯交差点・西柳原交差点・小磯幼稚園入口交差点を過ぎていくと、 血洗川切通橋が架かっています。 橋を渡った先に、関東ふれあいの道「大磯高麗山のみち」の解説板がありました。 西海岸バス停からこのすぐ先にある城山公園前バス停までの約7.6kmのコースです。
関東ふれあいの道
大磯高麗山のみち 関東ふれあいの道は、一都六県を巡る長距離自然歩道です。 自分の足でゆっくり歩いて、豊かな自然にふれ、歴史などをたずねながら、ふる里を見なおしてみませんか。 このコースは、県内17コースの一つで、こゆるぎ浜、東海道の松並木、鴫立庵、湘南平、高麗山、高来神社がみどころです。
 (建設省、神奈川県)
切通橋交差点を直進して城山公園前バス停を過ぎていくと切通があります。 国道1号を通すために尾根を切り開いた所のようです。 切通を進んでいくと城山公園前交差点があって、道が二手に分かれています。 脇には関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の道は「こゆるぎの浜へ」、 右手の道は「城山公園」、今来た道は「城山公園前バス停へ」となっています。 旧東海道の道標類は見かけませんでしたが、国道1号から分かれていく右手の道を進んでいきます。 道が分かれていく角には「明治のまちコース」の標柱が立っていて、右手の道は「神揃山1.2km」となっています。
大磯城山公園の入口を過ぎていくと、車道は右へ曲がっていきます。 その角から正面へ分かれていく道があります。 角には「明治のまちコース」の標柱が立っていて、右手の道は「神揃山1.0km・鷹取山3.5km」、 正面の道は「六所神社1.7km」となっています。 右手の道を進んでいくと、相模国府祭の会場でもある馬場公園や神揃山などがありますが、 旧東海道は正面の道を進んでいきます。 すぐの所を流れる不動川に架かる本郷橋を渡っていきます。 欄干には松の透かし彫りが施してあって、往時には松並木が続いていたことを窺わせます。 川面を覗いてみると、カモが一羽、波紋を残しながら遠ざかっていきました。
国府本郷一里塚
本郷橋を渡って僅かに登り坂になった道を進んでいきます。 少し降って中丸会館を過ぎていきます。 僅かな登り降りのある道を進んでいくと、本郷橋を渡ってから7分ほどで、国道1号が左側から近づいていきます。 国道へ出て行く道もありますが、並行する道をそのまま進んでいきます。 国道を見ると松並木が続いていました。 もしかして旧東海道は城山公園前交差点を直進してくる方の道だったのだろかと思いながらも進んでいくと、 国道1号との間にある緑地に「江戸から十七里」の標柱が立っていて、 脇には「国府本郷の一里塚」の解説板もありました。 それらは国道ではなくてこちら側を向いて設置されていたので、 どうやら歩いてきた道が旧東海道だったと思えてきました。 一里塚があったのはここから200mほど東よりだったのだそうで、 解説板に載っている東海道分間延絵図にはそれらの場所が記入されていました。
国府本郷の一里塚
慶長9年(1604)、徳川家康は秀忠に一里塚の築造を命じました。 一里塚は日本橋を基点として、各街道に一里(約3.9km)ごとに設けられた塚です。 土の塚を築いて里程の目印とし、塚の上には大木が植えられ、その木陰は旅人の休憩所となりました。 大磯宿付近には日本橋から16里目の一里塚が大磯宿内に、17番目の一里塚が国府本郷村地内にありました。 国府本郷の一里塚は実際にはここより約200mほど江戸よりに位置していました。 塚の規模は不明ですが、東海道をはさんで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようです。 この国府本郷村の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、 平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造したものです。
宝積寺
国道1号と並行する道を進んでいきます。 大磯警察署前交差点を過ぎていくと、国府新宿交差点の所で国道1号に出ます。 粕谷地下道入口交差点を直進していくと六所神社入口交差点があります。 右手には「相模国総社 六所神社」の扁額が掛る赤い鳥居が立っていて、 脇には「六所神社」と刻まれた石柱も立っていました。 旧東海道は国道1号を真っ直ぐに進んでいくのですが、六所神社へ立ち寄っていくことにしました。 JR東海道線の手前まで来ると、道は線路の下をくぐっていきます。 その手前の右側に宝積寺がありました。 鐘楼の先には石仏が幾つも並んでいました。 「寶積院」の表札がある門から境内へ入っていくと、すぐに本堂や庫裡がありました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。 本堂の脇には天然記念物にも指定されているカヤの大木がありました。
大磯町指定史跡名勝天然記念物 宝積院のカヤ
大磯町で最大級のカヤ。樹齢は300年以上と考えられます。 一部本堂付近を除いては周囲に障害物がなく、樹冠形成に適した環境下にあります。 樹高は15m、胸高周囲は3.2mで、樹勢はきわめて旺盛です。 地上4mから梢にかけて長さ10mに達する枝を69数本放射状に出し、直径20mの大樹冠を形成しています。 このように整った樹形を形づくるのは稀で、非常に貴重なものといえます。
 (大磯町教育委員会)
六所神社
宝積寺を後にして六所架道橋をくぐっていきます。 老大木が生える道を進んでいくと、正面に玉垣が見えてきます。 左右の池を過ぎて境内を進んでいくと、 正面に特大の注連縄が張られた六所神社の社殿がありました。 本殿と拝殿から成る立派な社殿で、本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 左手には神輿庫があって、真新しくて大きな神輿が安置されていました。 また小振りの六所稲荷もありました。 右手には社務所がありました。 手前の池には綺麗な鯉が沢山泳いでいて、六所ひぐるま弁天社もありました。 本殿の裏側は六所公園になっています。 神社の由緒などを記したものは見かけませんでしたが、 「総社」として相模国府祭に参加する神社になります。
総社と国府祭
国司が任国に着くと、先ず最初に神拝又は巡拝と言って、その国の有力大社を参拝して回る制度があった。 この回る順番によって、後に一宮・二宮…と呼ばれるようになる。 しかし、時代が経つにつれて、国司の巡拝は、大変な日数と費用と人員を用するため、 巡拝する神社の分霊を国府近くの神社に合わせ祀る慣いが起り、これが総社の起源となった。 そして、国司は巡拝をやめて総社に神拝し、巡拝にかえ、また、日常の国内安泰祈願所とした。 そこで国司は総社に分霊を納めて戴くために、各社に神輿を以って国府に集まるようお願いし、 これが国府祭の起源とされている。
相模国府祭(さがみこうのまち)
国府祭は、現大磯町国府に、昔相模国の国府庁(今の県庁)が置かれた国府本郷の神揃山のお祭りと、 小字高天原、別名、逢親場・大矢場で行う国司祭の二つをいう。 相模国の 一之宮寒川神社(寒川町鎮座)、 二之宮川匂神社(二宮町鎮座)、 三之宮比々多神社(伊勢原市鎮座)、 四之宮前鳥神社(平塚市鎮座)、 平塚八幡宮(平塚市鎮座)、 総社六所神社(大磯町国府鎮座) の有力六社が参加し、相模国を網羅する関東一の最大の祭典として、 又、全国的にもめずらしく貴重なお祭として知られ、神奈川県の無形文化財に指定されている。 (「相模国府祭」を参照)
大磯町指定史跡名勝天然記念物 六所神社の樹林
参道から本殿・社務所周辺、六所公園が指定の範囲です。 表参道のケヤキ、本殿脇に連立するケヤキ、イチョウ、社務所脇のタブノキは樹齢が300年を超える巨木で、 樹齢・太さ・樹形ともに単木としても高く評価されます。 また、針葉樹のクロマツ、カヤや広葉樹のスダジイ、エノキの大木も見られ、 数少ない平地の巨木群として貴重な樹林が残されています。
 (大磯町教育委員会)
大磯町指定有形文化財 男神立像(天部形)女神立像(天部形)
男神像は天部に似た甲冑に身を固めた武人の姿、女神像は唐衣を来た婦人の姿です。 両像とのに形姿は仏像的ですが、その面貌には苦悩や瞑想ともとれる不思議な表情があり、 神像特有の異相表現が見出されます。 両像ともに一木造で彫眼、彩色仕上げで、背面には見事な背刳りがみられます。 造形は男神像のスマートな身のこなしや、女神像の優美な衣の扱いなどまとまりよく、 作風もきわめて洗練されており、11世紀終りから12世紀初め頃の作と思われます。 男神立像の像高は75.1cm。女神立像の像高は68.1cmを量ります。
 (大磯町教育委員会)
湯津爪櫛御守の御神徳
この御守りは、当六所神社の御祭神櫛稲田姫命様の霊力が籠る奇魂の璽で、 高い神秘力を持つ御守りです。
一、 この御守りを女性が身に付けると、奇霊の霊力が湧き、 不慮の災難、事故いやがらせ等から身代りとなって守って下されます。
二、 こお御守りを未婚の女性が身に付けると、御神縁の良縁の道が開かれます。
三、 この御守りを女性から困っている男性に、真心籠めて念じ贈ると、 男性に霊力が湧き、困難打開の道が開かれます。
四、 この御守りを男性から女性に贈る戸、「かけがえのない大切な女性」の証となります。
 (相模国総社 六所神社社務所)
合せて20分ほど居た宝積寺と六所神社から国道1号に戻って、その先へ進んでいきます。 こゆるぎハイツ入口交差点・槇ノ木交差点を過ぎていきます。 変電所入口交差点まで来ると、道路の右側に松並木が続くようになりますが、 下浜町交差点を過ぎた先で途切れます。 二宮郵便局前交差点を過ぎていくと、塩海橋交差点があります。 その先を流れる葛川に架かる塩海橋を渡っていくと、 「日本橋から73km」の標柱が立つ二宮交差点があります。 右側には浜端歩道橋が架かっています。 交差点を直進していくと、中央通り入口交差点があります。 角には道標が立っていて、右手の道は「二宮駅約200m」、 左手の道は「袖が浦海岸・プール約300m」となっています。 花水バス停から3時間40分ほど歩いてきて、お昼を少し過ぎて小腹も空いたので、 商店街へ入って昼食をしていくことにしました。 交差点を左折して「中央通り」を進んでいきます。 JR東海道線の線路が近づいてきた所を左折して「栄通り」へ入っていくと中華食堂があるので、 ここで食べていくことにしました。 老夫婦だけで経営していて、カウンターとテーブル二組だけの小さな店です。 どこか昔懐かしい雰囲気がして、以前にも利用したことのある店です。
お腹も満ちたところで、店を出て「栄通り」を進んでいくと、二宮駅(JR東海道線)の南口があります。 そこで散策を終えてもいいのですが、今回はもう少し足を延して、国府津駅まで歩くことにしました。 バスターミナルにもなっている南口広場を左手へ進んでいくと、 二宮駅前歩道橋が架かる国道1号の二宮駅入口交差点に出ます。 交差点を右折して国道1号を進んでいきます。 心泉学園入口交差点を過ぎていくと、左側に松並木が続くようになりますが、 内原交差点の先の藤田電機前バス停を過ぎていくと途切れます。 梅沢交差点を過ぎていくと吾妻山入口交差点があります。 吾妻神社入口交差点まで来ると、細めの道が右前方へ分かれていきます。 このすぐ先から右手の鳥居をくぐって線路を渡っていくと、吾妻山への登り口がありますが、 このまま国道1号を進んでいきます。
二宮一里塚
右手の道を見送って1分ほど進んでいくと吾妻橋を渡っていきます。 下には梅沢川が流れているようなのですが、 覗いてみても民家が建って道路が通っているばかりで、川はありませんでした。 どうやら暗渠になっているようでした。 「梅沢海岸入口」の標識が立つ路地を左手に見送っていくと、山西交差点があります。 右からは先ほど分かれてきた道が合流していて五叉路になっています。 角には「道祖神」・「天社神」と刻まれた石碑や五輪塔などが並んでいます。 交差点を直進していきます。 山西駐在所交差点を過ぎて川匂神社入口交差点まで来ると、道が左前方へ分かれていきます。 角には「旧東海道の名残り」と書かれた標柱が立っています。 どちらの道を指しているのか分かりませんが、左手の道へ入っていくと、 消防隊の倉庫と電話ボックスの間に、 「史蹟 東海道一里塚の跡」「江戸より十八里」と刻まれた石柱が立っていて、 解説板もありました。 この辺りに二宮の一里塚があったようで、「梅沢の立場」と呼ばれて賑わった所なのだそうです。
東海道一里塚の跡
慶長9年(1604)江戸幕府徳川家康は、息子秀忠に命じ、 東海道、東山道、北陸道の三街道に、江戸日本橋を起点として一里(約4km)ごとに塚を築かせ、 交通の円滑化を図りました。 一里塚は、大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠などの運賃の目安であると同時に、 塚の上にある大木は、夏は木陰をつくり、冬は寒風を防いで、格好の休憩所にもなりました。 ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から18番目の一里塚で、 大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。 塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ1丈2尺(約3.6m)、上には欅(けやき)が植えられ、 南側の塚は、高さ1丈(約3.3m)、上には榎(えのき)が植えられていました。 周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変に賑わっていました。
 (二宮町教育委員会)
松屋本陣
一里塚を過ぎて2分ほど進んでいくと、民家の庭先に「松屋本陣の跡」の標柱と解説板がありました。 先ほどの一里塚からこの辺りにかけては、かなり離れている大磯宿と小田原宿の間にあって、 本陣なども置かれた「間の宿」「梅沢の立場」として賑わった所のようです。
松屋本陣の跡
江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、 江戸〜上方間を往復する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。 このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿〜小田原宿の距離が16kmと長い上、 押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、 大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、 「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。 その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、 特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。 「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、 二宮町指定重要文化財になっています。
 (二宮町教育委員会)
押切坂
松屋本陣を過ぎていくと降り坂になってきます。 かなり傾斜のある坂になっていて押切坂と言うようです。 今では尾根を切り開いて国道1号が通っていますが、当時はかなりの急坂が続いていたのでしょう。 道端に佇む双体のお地蔵さんを過ぎて降っていくと、手前で分かれてきた国道1号に降り立ちます。 振り返ると、尾根を切り開いた切通になっているのがよく分かります。
国道1号に降りてその先へ進んでいくと、中村川に架かる押切橋を渡っていきます。 左手には海沿いを通る西湘バイパスが見えています。 押切橋交差点を直進していくと、「小田原市」の道路標識が立っています。 やっと小田原市に入ったのかと思っていると、 塔台川に架かる塔台橋を渡った所に「二宮町」の道路標識が立っていました。 あれ、と思いながらその先の塔台橋交差点を過ぎていくと、 2分ほど先に再び「小田原市」の道路標識が立っています。 どうやら、この辺りは二宮町と小田原市の飛び地が入り組んでいるようでした。 その先からはもう小田原市のままになりました。
浅間神社
西湘バイパスへ通じる橘インター入口交差点を直進していくと、 「日本橋から76km」の標柱を過ぎた先に浅間神社入口交差点があります。 右手を見ると、すぐ先に鳥居が見えていたので、ここでもちょいと立ち寄っていくことにしました。 「浅間神社」と刻まれた石標を過ぎていくと、「浅間神社」の扁額が掛る鳥居があります。 左右には道が分かれていて不自然な様子ですが、鳥居をくぐって正面へ進んでいくと、 玉垣で囲まれた一段高い所に浅間神社がありました。 神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。 社殿の右側から裏側にかけては、ブランコなどが設置された小さな公園になっていました。 境内には「地神社」「金比羅大権現」「道祖神」と刻まれた石碑や双体の地蔵などが並んでいました。 道路を挟んだ左手の高みに小祠がありましたが、名前は分かりませんでした。
車坂
国道1号に戻ってその先へ進んでいきます。 少し登り坂になってくると、左側には相模湾が間近に見えるようになります。 少し右へ曲がっていくと、右側に「史跡 車坂」「前川の里」「詠歌」と書かれた標柱が立っていて、 脇にはこの辺りを詠んだ詩歌の解説板がありました。
鳴る神の声もしきりに車坂 とどろかしふるゆふ立の空 太田道灌
戦国兵乱の世の和歌集に「平安紀行」があります。 「平安紀行」の作者は、太田道灌とする説と異説とする説がありますが、 その前文に「車坂という里にてゆう立しきりに降りそえば」とあり、 この時に詠んだものです。
浜辺なる前川瀬を逝く水の 早くも今日の暮れにけるかも 源実朝
「吾妻鏡」建保元年の冬に記録があり、源実朝が鎌倉を出て、箱根、伊豆の二権現に参拝する際、 前川まで来た時、正月でも洪水があったとみえ河を渡ることができず、 日暮れまで待つ間に詠んだものです。
浦路行くこころぼそさと浪間より 出でて知らする有明の月 北林禅尼(阿仏尼)
「十六夜日記」は、阿仏尼が夫の逝後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため、 京を発ち鎌倉に下る紀行文です。 その前文に酒匂に泊り、あす鎌倉へ入るとあり、この時に詠んだものです。
車坂を過ぎて1分強進んでいくと、右手へ分かれていく路地があります。 その角には「従是大山道」「大やまみち」と刻まれた石柱や石灯籠や石祠が並んでいました。 右手の道は大山道のようでした。 関東各地から相模国の大山にある大山阿夫利神社への参詣者が通った古道で、大山街道とも呼ばれたようです。 閻魔大王でしょうか、厳つい表情をした像が杓を持って石柱の上に座っていました。 前羽小学校前交差点を過ぎていくと、小さな川の手前の道端に、 「坂下道祖神」と刻まれた石碑と双体の像が並んでいました。 その少し先の前羽農協前交差点までくると、角に「近戸神社」の書かれた立派な石標がありましたが、 右手の道の先を覗いてみても神社らしいものは見えなかったので、訪ねるのは省略して、 国道1号をその先へと進んでいきました。
国府津海岸
中宿公民館や常念寺入口交差点を過ぎて西前川交差点まで来ると、 右手の路地に双体の石仏や丸い石などが幾つも並んでいました。 そこを過ぎて西湘バイパスが間近になってくると、左手へ分かれていく道がありました。 国府津駅へは国道1号をそのまま進んでいけばいいのですが、 左手の道の先から海辺へ降りていけるようなので、立ち寄っていくことにしました。 西湘バイパスの脇を進んでいくと、堤防が階段状になっていて、海辺へ降りていけるようになっていました。 階段を降って西湘バイパスの高架をくぐっていくと、目の前の砂浜の先には相模湾が広がっていました。 打ち寄せる波はかなり高くなっていましたが、海釣りをする人達を何人も見かけました。 波打ち際まで行って何枚も写真を写していると、危うく波がかかりそうになったりもしました。
海岸から道路に戻ってその先へ進み始めると、右手の石垣の間に坂道があります。 この坂道を登っていくと、左手に駐車場がありました。 そこを過ぎて石段を登っていくと、途中に舟が置かれていました。 様子からするとかなり長い間置かれているようで、植物などが纏わり付いていました。
国府津(こうづ)駅
石段を登っていくと、手前で分かれてきた国道1号に出ます。 その左手のすぐ先に国府津駅前交差点があります。 横断歩道を渡って、右手に続く僅かな坂道を進んでいくと、国府津駅(JR東海道線)があります。 二宮駅前の食堂を発ってから1時間20分ほどで着きました。
駅前には「周辺案内図」があって、簡単な解説文も載っていました。 パンフレットを入れる箱もあって「ご自由にお持ちください」と書かれていましたが、 中には何も入っていませんでした。 また「国府津駅開業100周年記念」と題した記念碑もあり、 富士山を背景にして元気よく走る「蒸気機関車D52」の浮き彫りもありました。
国府津駅開業100周年記念
明治20年7月11日開業
東海道本線の花形として活躍した蒸気機関車
国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とをからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より
−鉄道唱歌より−
みどころ案内
菅原神社 「国府津の天神さん」とよばれ、古くから地域の鎮守として長い歴史を見守ってきています。 また、学問の神様、菅原道真公をまつっており、初天神は、合格祈願の絵馬を奉納する参拝客や露店で賑わいます。 境内には、市の天然記念物のムクノキの神木があります。
真楽寺 浄土真宗(古くは聖徳太子の開基による天台宗の寺だった)の寺で親鸞聖人の霊場ともいわれ、 「真楽寺」という寺号も聖人に命名してもらったといわれています。 境内には市の天然記念物のボダイジュがあります。
宝金剛寺 この地方では最も古い寺院(平安時代初期)で、数多くの優れた仏像・仏画や古文書類が所蔵されています。 また、隠れた観梅の名所でもあります。 裏山には、死者の往生と仏果を本願とし、根府川石を利用した地方色豊かな表現の石塔婆があります。
田島横穴古墳 道路改修工事などによって発見された古墳で、32基が確認されています。 須恵器(古墳時代の陶質土器)など多くの遺物が出土しています。
国府津海岸 国府津駅の目の前に広がる国府津海岸は、市内でもっとも駅に近い海岸です。 晴れた日には江ノ島や伊豆半島まで見渡すことができます。 夏には無料の海水プールが開放され、市民の憩いの場所となっています。
みかん山からのながめ 国府津・田島地域には小田原の農産物で一番の生産高を誇るみかん畑が広がっています。 国府津から田島・下曽我方面へ抜ける山道からは、 富士山や伊豆半島、小田原市街地が一望できるビュースポットがいたるところにあります。