品川宿
散策:2009年10月上旬
【街角散策】 品川宿
概 要 品川宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋を発って最初にある宿場になります。 以前からあった北品川宿と南品川宿に新たに歩行新宿が加わって、 これらの三宿を合せて品川宿と呼ばれていました。 今回は品川宿から三原通りを経て、2番目の宿場であった川崎宿の手前までを歩きます。
起 点 港区 品川駅
終 点 大田区 六郷土手駅
ルート 品川駅…八ツ山橋…品川宿…連…問答河岸跡…鯨塚…利田神社…善福寺…品海公園…一心寺…聖蹟公園…朝日楼跡…品川宿交流館…品川橋…街道松の広場…南品川二丁目児童遊園…常行寺…長徳寺…天妙国寺…諏訪神社…品川寺…海雲寺…鮫洲八幡神社…嶺雲寺…勝島運河…浜川橋…天祖諏訪神社…しながわ区民公園…浜川神社…鈴ヶ森刑場跡…三原通り…内川橋…夫婦橋…六郷神社…宮元台緑地…六郷土手駅
所要時間 5時間30分
歩いて... 往時の遺跡などはほどんどありませんでしたが、 各所には解説板が設置されていたり、店先のシャッターに浮世絵が描かれていたりもして、 往時を偲ぶことが出来ました。 商店街にはお休み処が何箇所かにあって、街ぐるみで品川宿を盛り上げようとする気持ちが伝わってきました。 三原通りは地区の祭りのような感じで賑わっていました。
関連メモ 川崎宿, 日本橋
コース紹介
品川(しながわ)駅
品川駅(JR東海道線)から歩いていきます。
西口(高輪口)から国道15号(第一京浜)に出て、左手(南方向)へ進んでいきます。
西口の正面に「品川駅創業記念碑」があります。 裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されています。 上りと下りの列車本数は、朝方と夕方に各々1本ずつしかない状況で、 品川−横浜間を35分で走っていたようです。 片道運賃は、上等が1円50銭、中等が1円、下等が50銭だったようです。
品川駅創業記念碑
品川駅では、明治5年5月7日(新暦6月12日)を駅の開業日にしています。 何故かというと、新橋・品川間の工事が遅れたため、この日に品川・横浜間で仮開業したからです。 新橋・横浜間で本営業を開始したのは仮開業から4箇月後の明治5年9月12日(新暦10月14日)でした。 それを記念して、今日では10月14日を「鉄道の日」としています。 品川駅は日本で一番古い鉄道の駅といえます。 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年4月に建之されたもので、 揮毫者は参議院議長をつとめた大野伴睦氏です。 記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 (JR東日本 品川駅)
八ツ山橋
品川駅前バス停を過ぎていくとイチョウ並木が続くようになります。 車道沿いの歩道を7分ほど進んだ所にある八ツ山橋交差点の左側に架かる八ツ山橋を渡っていきます。 下にはJRの線路が通っていて、傍には京浜急行の鉄橋も架かっています。 八ツ山橋を渡っていくと、右側の橋詰に古い親柱が保存されています。 その前に「品川宿場散歩」と題した案内板があって、「歴史と文化の散歩道」が紹介されていました。 東京に設定されている23コース中の「品川池上コース」で、 ここから浜川橋までは、今回歩く旧東海道と同じルートになります。
歴史と文化の散歩道
この散歩道は、長い歴史が育んだ伝統と新しい東京の文化を訪ねる道です。 私たちの、ふるさと東京を知る道しるべとしてください。
品川宿場散歩
品川宿場散歩は、品川駅より浜川橋までの旧東海道を通る約3.9kmのみちのりです。 品川宿場の面影が残る街並みを通り、周辺には新東京百景の品川神社、南品川宿の鎮守である荏原神社など、 多くの神社仏閣が点在します。
旧東海道と品川宿
江戸と上方を結ぶ重要な交通路である東海道に宿場が始めて設置されたのは慶長6年(1601)のことです。 全国的な交通網を整備しようとする徳川家康の計画によるものでした。 すでに戦国時代から北品川と南品川の両宿があったのを江戸幕府が新しく設定しました。 のちに北品川宿の北、高輪寄りに茶屋や旅籠屋が延びていき、 享保7年(1722)には歩行新宿の成立をみるにいたり、この三宿を品川宿といいました。 日本橋から京に至る東海道五十三次の第一番目の宿場として大変賑わったといいます。
品川橋の架かる目黒川を境にして、北側を北品川宿、南側を南品川宿と呼んだようです。
品川宿
八ツ山橋を渡っていくと、正面の踏切の先へ八ツ山通りが続いていますが、 右手へ分かれていく道を進んでいきます。 すぐの所で道が二手に分かれています。 左側の横断歩道を渡った所に、小さな休憩所と「東海道品川宿まち歩きマップ」と題した案内板があります。 鈴ヶ森刑場跡までのルートや沿道の見所などが載っているので参考にしましょう。 今回は、この図に載っているほぼ真っ直ぐな旧東海道を鈴ヶ森刑場跡へと向かっていきます。 案内板の右側には白壁の「八ツ山の東司」があって、 そのすぐ先に京浜急行の品川第2踏切があります。 踏切の左側には背の高い標柱が立っていて、 「従是南 品川宿 地内」 「従是南 御代官築山茂左衛門支配所」 「弘化二年化乙巳 月」と書かれています。 ここからが品川宿になるようです。
品川第2踏切を渡っていくと石標があって、 「一番 東海道八ツ山口」「右 品川宿」「左 品川駅」と刻まれています。 同様の石標は、旧東海道の各所に点々と設置されています。 踏切の先に続く北品川本通り商店街を進んでいくと、 すぐの所の右側に、「しながわ観光協会 観光案内所」の「」があります。 屏風のような折り畳み式になった「東海道品川宿まち歩きマップ」を一部50円で売っていて、 ここから鈴ヶ森刑場跡までのルートや、沿線の見所などが載っています。 先ほどの案内板に載っていたルート図と同じような内容になっています。 一般の地図よりも分かり易くて、とても参考になります。 沿道には寺社などもかなりあるようですが、すべてを訪ねていると一日では回れそうにもないので、 今回は旧東海道から離れている所は省略することにしました。
問答河岸跡
連を後にしてその先へ歩き始めると、 すぐの所の左側の角に「問答河岸跡」と刻まれた石標が立っています。 脇には木の板に文字を刻んだ解説板もありました。 かなりヒビが入っていて判読できない文字もありましたが一応載せておきます。 三代将軍家光が帰依した沢庵禅師と問答を交わした所で、 家光が『海近くして如何が是れ東海寺』と問うと、 沢庵が『大軍を指揮して将軍と言が如し』と返したという故事が書かれているようでした。 「東」と「遠」、「将」と「小」をかけた問答のようです。 角にある商店のシャッターには品川宿の浮世絵が描かれていました。 ここ以外にもかなり見かけたので、街ぐるみで「品川宿」を盛り上げているようでした。
問答河岸由来記
寛永の昔、徳川三代家光将軍、勇壮活達の明君也。 宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ。 寺域五萬坪寺領五百石。殿閣僧坊相連つて輪・美を極む。 将軍_駕___数度法を聴き、政治を問う。厚遇思う可し。 将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し、 喫茶法話薄暮に至って江戸城に還らんとす。 禅師河畔に立って是を送る。 将軍乗船に臨んで禅師に_問して曰ク海近くして如何が是れ東海寺と。 禅師答而曰ク大軍を指揮して将軍と言が如しと。 将軍一笑。_を解いて而て還る。 時移りて三百年地勢・変し河海遠し。 然れ共市人傳えて問答河岸と称す。 一世の英主一代の名僧諧譫談笑の蹟。 菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永に芳を傳えんとす。 亦可しからすや。
昭和四十三年中秋 衆議院議員 宇都宮徳馬書
北品川郵便局を過ぎていくと、右手に清水横丁が分かれていきます。 その角に「清水横町」の解説板がありました。 道路の左側のコンビニの隣りには「土蔵相模跡」の解説板がありました。 商店街の街灯には「きたしなカード葵 東海道品川宿 マイバッグ運動推進中」と書かれた垂れ幕が点々と取り付けられていました。 北品川本通り商店会・北品川商店街協同組合・京急新馬場商店街振興組合が作ったもので、 紅葉に囲まれながら満月を眺めている白兎の絵が描かれていました。
清水横町
東海道から御殿山に至る道で、古くは鳥屋文七というものが住んでいたので「鳥屋横町」と呼ばれていましたが、 江戸時代後期には御殿山の麓にあたる横町の奥に清水が湧き出す井戸があったので 「清水横町」と呼ばれるようになりました。
土蔵相模跡
旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていました。 1862年(文久2)品川御殿山への英国公使館建設に際して、 攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、 同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。 幕末の歴史の舞台となったところです。
右手に大横丁が分かれていく所まで来ると、角に「大横町」の解説板がありました。 大横丁を見送った少し先から左手に分かれていく道があります。 その角に「台場横町」の解説板がありました。 旧東海道は正面の商店街に続いていますが、左手に鯨塚があるようなので立ち寄っていきました。
大横町
東海道から御殿山への横町に付けられた名称で、他の横町に比べて広かったことからつけられたといわれているが、 正確なところは判っていません。 かっての御殿山通りの起点がこの横丁です。
台場横町
1853年(嘉永6)ペリー率いる四隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航した後、 幕府は江戸防備のために、江川太郎左衛門の指揮で、品川沖に品川台場の築造に着手しました。 当初計画は十一基でしたが、完成したのは五基で、 他に陸続きの御殿山下台場(現在の品川区台場小学校)を完成させました。 この御殿山下台場へ下っていく横町を台場横まちと呼んでいます。
鯨塚
住宅の間に続く台場横丁を緩やかに降って八ツ山通りに出ると、道路の向い側に鯨塚があります。 手前の広場には鯨の形をしたモニュメントや椅子などがありました。 広場の先に東品川会館があって、その前に石碑などが並んでいました。 小さな池もあって、綺麗な鯉が沢山泳いでいました。
品川史跡 鯨塚
 (東品川一、三町会)
品川区指定有形文化財 鯨碑
この鯨碑(鯨塚)は、寛政10年(1798)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを 品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。 鯨の体長は九間一尺(約16.5m)高さ六尺八寸(約2m)の大鯨で、江戸中の評判となった。 つには十一代将軍家斉が浜御殿(現、浜離宮賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。 全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。 また、本碑にかかわる調査から品川浦のゆに捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、 鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。
 (品川区教育委員会)
鯨塚乃由来
此ノ鯨塚ハ寛政拾年(西暦一七九八年)五月壱日折柄ノ暴風雨ニ モマレ乍ラ大鯨ガ品川ノ沖ニ這入り込ミ是ヲ見ツケタ漁師達ハ 船ヲ出シテ遠巻ニシテ天王州ニ追イ込ミ遂ニ捕エタ 此ノ事ガ 忽チ江戸ニ広ガリヶ仏却デ大賑イニ成リ五月三十日ニ芝ノ浜御殿 (今ノ浜離宮公園)の沖ニ船デ引張リテ行キ第十一代将軍家斉公 ニ御覧ニ入レタ 此ノ鯨ノ背通リ長サ九間一尺高サ六尺八寸有ッタ ト言ウ 鯨塚ニハ左ノ句ガ刻ンデアル
江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨 当時の俳人 谷素外
利田新地(かがたしんち)
南品川猟師町の地先を安永3年(1774)から埋め立て、 天保5年(1834)に完成した面積一町(3000坪、約9900u)の土地です。 はじめは新しく開かれた土地ということで南品川新開地と名付けられましたが、 開墾に着手した南品川宿名主利田吉左衛門の姓をとって利田新地と呼ばれました。
利田神社
鯨塚の対面に、横を向く形で利田神社がありました。 鳥居の先の石灯籠と石柱を過ぎていくと社殿がありました。 注連縄や五色の垂れ布などが取り付けられていました。 両脇には子供を背負った姿の狛犬が控えていて、境内には銀杏の大木もありました。 由緒などを記したものは見かけませんでしたが、 南品川宿の名主だったという利田吉左衛門と関連があるのでしょうか。
保存樹 イチョウ 第52号
この樹木は都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律に基づいて指定された保存樹であります。
 (品川区長)
善福寺
往復15分ほどで旧東海道に戻ってきてその先へ進んでいくと、 すぐの所から右手へ黒門横丁が分かれていきます。 角には「歩行新宿字裏町」の解説板がありました。 その横丁へ入った先に山門が見えていたので、立ち寄っていきました。 「時宗 音響山」「善福寺」の表札が掛けられた山門から境内へ入っていくと、 正面に善福寺の本堂がありました。 瓦屋根で土蔵のような感じの壁になっていて、独特な雰囲気がありました。 古くからあるお寺のようでしたが、謂われなどを記したものは見かけませんでした。 山門の横には老大木があって、倒れないように棒で支えられていました。
歩行新宿字裏町(かちしんじゅくあざうらまち) 善福寺裏付近
歩行新宿字裏町は元善福寺門前と同寺境内をいいました。 裏町という名称は、明治8年(1875)に地租改正の時から用いられていました。 北品川宿字裏町の地域とは異なります。 その由来は、東海道に面した歩行新宿の裏側にある町ということで名付けられました。
品海公園
善福寺から引き返して旧東海道を進んでいくと、すぐの所の左側に「品川宿の松」がありました。 品川駅から1時間ほどで着きました。 脇には「品川宿 日本橋より二里・川崎宿へ二里半」の石標や解説板などが立っていました。 その先は細長い品海公園になっていて、八ツ山通りまで続いていました。 右側には「東海道品川宿 お休み処」があって、町内の方が休憩していました。
品川宿の松
この松は品海公園の改修工事竣工を記念し品川宿で五本目の「街道松」として 品川宿の方々から寄付していただいたものです。
 (平成12年4月 品川区)
東海道品川宿
「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。 旅人は、品川宿を経由して西を目指し、また家路についたことから「東海道の玄関口」として栄え、 宿内の家屋は1600軒、人口7000人規模で賑わっていた。 今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かつての宿場町として、活気が息づいている。
海岸石垣の名残
江戸時代の東海道は、品川宿に入ると海にちかくなり、宿場通りから海岸の方へ行く横町は全て坂になっていました。 昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていました。 江戸時代には、ときどき波浪によってこの石垣が壊され、宿場にとって修理は大変な負担となりました。
一心寺
品海公園を過ぎていくと、左手へ溜や横丁が分かれていきます。 その横丁の入口に「溜屋横町」の解説板がありました。 そこを過ぎていくと、右手へ虚空蔵横丁が分かれていきます。 その左手には一心寺がありました。 「成田山品川一心寺講事務所」の表札が掛かる山門から境内へ入っていくと、すぐに本堂がありました。 江戸三十三観音礼所の三十番礼所で、聖観世音、十一面観世音、西方聖観音が祀られているようです。 また、東海七福神の寿老人を祀るお寺でもあるようです。
溜屋横町
方善寺の前から海岸へ出る横町で、利田新地へ渡る鳥海橋(後の品海橋)に肝がん線で通じる横町です。
虚空蔵横町
東海道から養願寺へ入る横町をいいます。 養願寺の本尊はかつては阿弥陀如来でしたが、現在は虚空蔵菩薩で、 品川の虚空蔵さまとして親しまれています。 江戸時代には、毎月13日にお参りをしていました。 今は毎年4月7日と11月7日の大祭に開帳され、七の付く日が縁日で、 新馬場北口の通りには露店が出店しています。
一心寺之由来
安政2年(1854)二本開国之気運高まり国運の境目に接面し時、 大老師にある井伊直弼公が縁起に依り、江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて、 鎮護日本、開国条約、宿場町民の反映安泰の願へとの霊験を悟り開山され、 時の町民代表一同に依って建立されたと伝えられております。 当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、 豊盛山延命院一心寺と云う寺格を拝受し成田山分身の不動明王を本尊とし、 延命、商売の護りとして今日に続いております。 昭和61年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く、 亦、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称せられており、 内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光霊作観音像、寿老人等が祀られおります。
 (一心寺 僧正 照幸代)
聖蹟公園
一心寺からその先へ進んでいくと、左手に竹や横丁がわかれていきます。 その角に「竹屋横町」の解説板がありました。 名前の由来についてはよく分らないようです。 横丁を見送って旧東海道を進んでいくと、左手に聖蹟公園があります。 その入口には大きな柱が立っていて「品川区立 聖蹟公園」と書かれていて、 袂には松の木や「八番 品川宿本陣跡」の石碑や解説板がありました。
竹屋横町
東海道から目黒川本流(現在のなぎさ通り)に至る横町で、 1800年頃品川宿を描いた「東海道分間延絵図」に記載があります。 「地記御調書上」に「相分り不申候」とあり、地名の由来については不明です。
品川宿本陣跡(聖蹟公園)
江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、 品川宿には、初め南北品川宿に一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。 大名などが宿泊すると、本陣には大名の名を記した関札を立て、紋の入った幕をめぐらしました。 明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。
土山宿の松
この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、 四十九番目の宿場があった滋賀県甲賀郡土山町より品川区に寄贈されたものです。 今後、品川宿の松として三十年、五十年と地域の方々と共に育てていきたいと考えています。 また、旧東海道の南「街道松の広場」には浜松市から、 「南品川二丁目児童遊園」には三島市より、同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。
山手通りの東海道北品川交差点を渡っていくと、左手に陣や横丁が分かれていきます。 どんな所なのかと思って、ちょいと歩いてみました。 今風の建物が続く横丁の途中に、円形のベンチが設置された「お休み処」がありました。 八ツ山通りに出ると、脇に「陣屋横町」の解説板がありました。
陣屋横町
本来は東海道から目黒川に架かっていた大正橋に抜ける横町を呼んでいましたが、 現在は山手通りから入る横町に変わっています。 宝永から正徳年間(1704〜1715)の頃、この横町の北側に本陣があったことによる名称です。
朝日楼跡
旧東海道へ戻ってその先へ進んでいくと、右側に格子塀や暖簾の掛かる門がありました。 中は駐車場になっていて、史跡のようなものはありませんでしたが、 脇にある解説板によると「朝日楼」という旅籠があった跡なのだそうです。 横にある大衆食堂の入口には竹で編んだ笠とヘチマのようなものが吊るされていました。 後から来る仲間に「ここに泊まっている」と知らせる目印として、 往時の旅籠にはよく吊るされていたようですが、それを模しているのでしょうか。
旅籠「朝日楼」跡と冠木門
ここはかつて、旅籠「朝日楼」があった場所です。 現在は所有者である大塚製作所のご厚意で、 地域のおまつりなどにはイベントスペースとして開放していただいています。 この度は「江戸東京・まちなみ情緒の回生」事業に伴い、 品川宿のまち並み景観整備にご協力をいただきました。
品川宿交流館
朝日楼跡の道路向いには「品川宿交流館本宿お休み処」がありました。 最初にあった「連」と同様な感じの休憩所で、中にはベンチが幾つも設置されていて、 ひと休みしていけるようになっていました。 「東海道品川宿まち歩きマップ」を始めとするパンフレットなども置かれていて、係員の方も見かけました。 正面に掲げられている真新しい看板には「開館 平成21年1月」となっていたので、 最近になって出来た所のようでした。
品川宿交流館
この建物は品川区が所有し、旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会が管理運営する施設です。 一階は本宿お休み処、二階は展示室、三階と四階は、まちづくり活動の拠点として活用しています。 品川宿に初めてお見えの民様、地域の皆様、どうぞこの場でひとときの交流をお楽しみください。
品川橋
品川宿交流館を後にしてその先へ進んでいくと、目黒川品川橋が架かっています。 品海公園から25分ほどで着きました。 品川宿はここを境として、北品川宿南品川宿に分かれていたようです。 橋は昔風に整備されていて、中程には東屋やベンチも設置されています。
品川橋の今昔
この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。 また、海が近く漁業もさかんなところでした。 今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。 「品川橋」は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、 江戸時代には「境橋」と呼ばれていました。 また別に「行合橋」「中の橋」とも呼ばれていたようです。 最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、 時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。 「品川橋」がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである「天王祭」のにぎわいとともに、 北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、民様に親しまれることを願っています。
 (品川区)
橋の右側には、八ツ山橋で見かけたのと同様の「品川宿場散歩」と題した案内板があって、 「歴史と文化の散歩道」が紹介されていました。 目黒川の上流側には赤く塗られた鎮守橋が見えていて、 その辺りに荏原神社があるようでしたが、訪ねるのは省略しました。
北の天王様と南の天王様
品川神社は、北品川地区の鎮守で「北の天王様」といわれます。 それに対して南品川地区の鎮守である荏原神社を「南の天王様」とよんでいます。 江戸時代には、品川神社は北品川稲荷社とよばれ、 文治3年(1187)源頼朝が安房国州崎明神の来臨を請うたものと伝えられています。 一方、荏原神社は和銅2年(709)に藤原伊勢人が 丹生川上神社(奈良県吉野)の分霊を迎えたのが始まりと伝えられています。 この地域は昔から祭礼が盛んに行なわれ、 北・南の天王祭は品川神社、荏原神社ともに六月初旬の日曜日を中心に盛大に行なわれています。
目黒川は、現在では荏原神社の南側を流れていて「南品川地区の鎮守」というのは違和感がありますが、 往時は荏原神社の北側を流れていたようです。
(橋を渡って振り返って撮影)
品川橋を渡っていくと南品川宿になります。 橋を渡った左手の川沿いに「百足河岸」や「浦高札場」の解説板がありました。 北品川宿では街灯に「きたしなカード葵」の垂れ幕が取り付けられていましたが、 南品川宿では一変して、サッカーボールの絵が描かれた「FC東京」の簡素な垂れ幕になりました。 商店街へ入っていくと、すぐの所に「是より南 南品川宿」の解説板がありました。
南品川宿河岸(俗に百足河岸) 品川橋際の目黒川沿岸
江戸時代、品川領の村々では、年貢米を目黒川や陸路をつかってこの河岸まで運び、 瀑布の浅草御殿に送っていました。 この南品川宿河原のことを俗に百足河岸と呼んでいました。 百足河岸と呼んだのは、南品川宿河岸のそばに百足屋という大きな旅籠屋があったからだといいます。
浦高札場 新品川橋南岸付近
江戸時代、全国津々浦々に建てた高札を浦高札といい、品川浦の浦高札は南品川猟師町の入口、 今の新品川橋南岸附近に設けられていました。 もとは四枚掲げられていましたが、御城米船が難破したときの処置や心得を発したものと、 抜荷買いを禁止する旨を記した浦高札の二枚が現在残っています。
東海道 品川宿 是より南 南品川宿
日本橋から東海道を上り、目黒川を渡ると南品川宿に入ります。 この高札の場所は、脇本陣跡(現、城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)浜兵衛が営んでいました。 品川宿を南北にわけていた目黒川は、大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていました。 東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時が推定できます。 東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行なう宿場の役所問屋場跡(現、製菓実験社)で、 その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられました。
 (品川宿場通り商会、城南信用金庫品川支店)
街道松の広場
商店街を進んでいくと、右側に街道松の広場がありました。 脇には浜松市から寄贈された「街道松」がありました。 松は成長が遅いのでしょうか、樹齢約80年とのことですが、それほどの大木ではありませんでした。 周囲には竹柵が施されていて、丁寧に保護されていました。 広場にはテーブル状のベンチが沢山並んでいて、腰掛けてひと休みするのに良さそうな所でした。
東海道品川宿 街道松の広場
ここは、旧東海道品川宿周辺地区まちづくり事業により 「歴史と文化を活かした憩いの広場」として整備したまちづくりのための広場です。 この広場の草花の手入れや清掃などは、まちの老人クラブ「南桜真会」の方々にご協力をいただいています。 広場がいつでも気持ち良く使えるように、利用される皆さんのご協力をお願いいたします。
 (旧東海道品川宿周辺地区まちづくり協議会、品川区役所都市開発課)
この広場は、東京都「歴史の文化の散歩道整備事業」および、 品川区「旧東海道散歩道整備事業」として整備しました。
 (平成5年3月完成)
品川宿の松
この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、 東海道が取り持つ縁で、二十九番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された樹齢約80年の黒松です。 斜めに傾いた幹は、風雨に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を忍ばせる見事な枝ぶりです。 松の名称は、寄贈された有賀氏より「品川宿の松」と命名されました。 また、約150メートル南の「南品川二丁目児童遊園」には、三島市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。
 (平成5年3月吉日 寄贈)
南品川二丁目児童遊園
南品川一郵便局を過ぎて南馬場通りの信号を渡っていくと、右側に「三岳」の解説板がありました。 そこを過ぎていくと、すぐ右側に南品川二丁目児童遊園があります。 入口には小振りの「街道松」がありました。 土蔵のようなトレイや昔風の灯籠などがあり、奥には藤棚や火の見櫓風の遊具もありました。
三岳
現在、南品川二丁目の通称「三岳」と呼ばれているところは、江戸時代には二日五日市村の集落のあった処で、 三岳神社の近くであったことから、そのように呼ばれるようになったとされています。
品川宿の松
この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、 十一番目の宿場があった静岡県三島市教育委員会より品川区に寄贈されたものです。 今後、品川宿の松として三十年、五十年と地域の方々と共に育てていきたいと考えています。 また、約150メートル北の「街道松の広場」には、浜松市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。
 (平成5年三月吉日 寄贈)
常行寺
児童遊園を過ぎていくと、コンビニの所から右手に分かれていく道があります。 その先に山門が見えていたので立ち寄っていきました。 「天台宗常行寺」の表札の掛かる山門の脇には 「城南小学校創立之地」「開校 明治七年十二月五日」と刻まれた石碑もありました。 境内に入っていくと、赤レンガで出来た祠の中に赤い前掛けをしたお地蔵さんが安置されていました。 その横のお堂を過ぎていくと、正面に常行寺の本堂がありました。 新しそうな感じにしては趣きの感じられる建物になっていましたが、 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでした。 本堂の右手には墓地や庫裡と思われる建物がありました。
長徳寺
常行寺から旧東海道に戻って進んでいくと、すぐの所から右手へ分かれていく路地があります。 その先にも山門が見えていたので立ち寄っていきました。 「時宗 長徳寺」の表札が掛かる山門から境内に入っていくと、正面に長徳寺の本堂がありました。 左脇には閻魔堂がありました。 「品川のお閻魔様」として有名なのだそうですが、解説板などは見かけませんでした。 この時には本堂・閻魔堂共に開帳されていませんでした。
長徳寺から旧東海道に戻って進んでいくと、城南小学校の校門があります。 常行寺のある所からこちらへ移ってきたということでしょうか。 この時は運動会の日だったようで、多くの親御さん達がやってきていました。 校門の道路向いには松が植えられていて、「袋井の松」の解説板がありました。
袋井の松
この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取りもつ縁で、 二十七番目の宿場があった静岡県袋井宿高尾の村岡利夫様より私たちのまちに寄贈されたものです。 また、この松の植樹にあたっては「サンクタス品川管理組合」の皆様のご理解とご尽力をいただきました。 今後、品川宿の松として三十年、五十年と地域の方々と共に大切に育てていきたいと考えております。 なお私たちのまちには、この他にも五つの宿場から同じ趣旨で寄贈された街道松が植えられています。
 (平成13年7月吉日 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会)
天妙国寺
旧東海道をその先へ進んでいくと、すぐ右側に「鳳凰山」「天妙国寺」の表札が掛かる門柱があります。 その両脇には氏名が書かれた提灯が幾つも掲げられていました。 門の先へ続く参道を進んでいくと赤い色をした山門があり、その先に天妙国寺の本堂がありました。 品川橋を渡ってから25分ほどで着きました。 本堂の周りの廊下の手摺も赤く塗られていました。 左側には白壁と門があって、その先は庭園風になっていました。 右側の門の先は墓地になっていて「桃中軒雲右衛門の墓」もあるようで、その解説板もありました。 右手には寺務所などがありました。
南品川宿の範囲
今回見かけた案内板などでは、南品川宿の南限が何処なのかはよく分りませんでした。 後日に調べてみると、この天妙国寺の辺りまでが南品川宿の範囲であるとの情報もありましたが、 この先にある「保土ヶ谷の松」の解説板には「品川宿」の文字が見られるので、 品川寺の辺りまでが南品川宿の範囲になるのでしょうか。
品川区指定有形文化財
日什筆曼荼羅  縦38cm、横15.4cm、紙本墨書、軸仕立である。 中央に南無妙法蓮華経の七字を大書し、その左右および下に、多宝・釈迦・四菩薩・日蓮など 多数の諸尊名が梵字の種子で書かれている。 中央下には日什(花押)の署名と年記及び受者名が記してある。 この曼荼羅は至徳2年(1384)顕本法華宗の開祖日什が玄恵坊に授けたもので、 軸裏に慶長14年(1609)日経が日什の真筆であると証明している。
日蓮消息分(上野女房御返事)  縦30.3cm、横39.2cm、紙本墨書、軸仕立である。 この文書は、日蓮が上野(山梨県中巨摩郡櫛形町)に住んでいた南条時光の夫人(〜1323)に宛てた書翰で、 その内容は仏の道を説いたものである。 年記はないが、署名花押は晩年の賢治・弘安(1277〜80)頃の他の真筆に類似している。 墨色はかなり薄れているが、真筆を疑う余地はないようである。
日什諷誦文及び置文写  天地35.9cm、長さ260cm、紙本墨書、巻子仕立である。 諷誦文は死者追善の法会に、その意趣を記して読み上げる文、 置文は自己の意思を後の人に伝えるために書いた文である。 この諷誦文は、嘉慶2年(1388)8月、顕本法華宗の祖日什が弟子日妙の一周忌法要に読み上げたもので、 著作の残っていない日什の教説を知り得る唯一の資料として貴重である。 また、置文は、日什が弟子たちに示した心得二カ条から成る。 奥書によれば、寛永14年(1637)日葉が京都の寂光寺所蔵の日什の自筆本を写したものとなっている。 天妙国寺は顕本法華宗に属する大寺で、弘安8年(1285)日蓮の直弟子天目上人が開いた寺である。
 (品川区教育委員会)
品川区指定史跡 桃中軒雲右衛門の墓
桃中軒雲右衛門は、明治・大正時代の浪花節(浪曲)の名手。 前幕で覆った立ち机を前にしての口演、陰三味線という型を考案し、 琵琶や清元の節調を加味した荘重豪快な節を創始した。 また、はじめて台本を作成して内容を高めた。 得意の演題は赤穂浪士の事跡「義士銘々伝」でレコードの普及とも相まって絶大な人気を博した。 雲右衛門は寄席から劇場へと進出するなど浪曲界の黄金時代を築き、浪花節中興の祖といわれている。 浪曲史上に偉大な足跡を残した人物である。 雲右衛門は、明治6年(1873)10月25日に生まれ、大正5年(1916)11月7日に43歳で亡くなり、この地に葬られた。
 (品川区教育委員会)
天妙国寺から旧東海道へ戻って歩き出すと、白バイ隊に先導された児童たちが大挙してやってきました。 先ほどの城南小学校の運動会のマラソン競技のようで、仲間とワイワイ喋ったりしながら走っていきました。 「先導」として大人の人も混じっているようでした。 コースを示すのと安全を見守るのが役目なのでしょうか。 それにしても、白バイ隊が先導する小学校のマラソン競技と云うのは、 大都会の中の運動会ならではのことのように思えました。
右側の住宅の前には小振りの松が三本並んでいました。 「大磯宿の街道松」というようで、その解説板が脇にありました。 これまでに何本かの「街道松」がありましたが、植樹された時期はそれぞれ異なるようで、 解説板に書かれている総本数などの内容も微妙に異なっていました。 まだ若い木のようでみんな小振りでしたが、解説板にもある通り、 これから数十年経つと、立派な景観になることが期待されます。 往時の東海道には松並木が続いていたとのことですが、この品川宿の中にも植えられていたのでしょうか。
大磯宿の街道松
この松は東海道がご縁で交流のある神奈川県大磯町の皆様のご厚意により、私たちのまちに寄贈されたものです。 また、この街道松の植樹にあたっては敷地の一部使用をご快諾くださった栗原健次様のご協力をいただきました。 今後、東海道品川宿のシンボルとなる街道松として三十年、五十年と地域の方々と大切に育てていただきたいと考えております。 なお私たちのまちには、この他にも六つの宿場から同じ趣旨で寄贈された街道松が植えられています。
 (平成17年11月吉日 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会)
諏訪神社
街道松を過ぎていくと、右手へ入っていく路地があります。 その入口には「諏訪神社」と刻まれた石柱が立っていて奥に鳥居が見えていたので、 ここでも寄り道をしていくことにしました。 鳥居をくぐって、両脇に控える狛犬や石灯籠を過ぎていくと、諏訪神社の社殿がありました。 神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。 右側には御神紋「梶の木」というのがあり、 赤い鳥居の奥には狐像が控える小振りの稲荷社もありました。
ジュネーヴ平和通りの東海道南品川交差点まで来ると、角には「十三番 青物横丁」の石標が立っていて、 「青物横丁」の解説板もありました。 かなり掠れていて読みにくい箇所もあったので判読誤りもありかも知れませんが載せておきます。
青物横丁
江戸時代、品川寺の門前町屋・東海道に面したところで、観音前といい、 池上道に面したところに青物市場があったので「青物横丁」と地元では呼んでいました。 明治10年に市場として認可され、敷地520坪余で営業されていました。
交差点を渡って、旧東海道を更にその先へ進んでいきます。 和菓子店の軒先には解説板がありましたが、消えてしまったのか、文字は確認できませんでした。 その先へ進んでいくと、左側のビルの角に「保土ヶ谷の松」の解説板がありました。 また脇には「釜屋跡」の解説板もありました。
保土ヶ谷の松
この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取りもつ縁で、 四番目の宿場があった神奈川県保土ヶ谷宿の「保土ヶ谷四8倶楽部」より私たちのまちに寄贈されたものです。 また、この松の植樹にあたっては「ガーデンホーム南品川管理組合」の皆様のご理解とご尽力をいただきました。 今後、品川宿の松として三十年、五十年と地域の方々と共に大切に育てていきたいと考えています。
 (平成11年4月吉日 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会)
幕府御用宿 釜屋跡
この地はもと「釜屋」のあったところです。 釜屋は南品川にあった建場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちま、ここで休息したり、 見送りや出迎えの人たちと宴会をひらいたりしました。 大へん繁盛したので、のちには本陣のような構えに改築しました。 それで俗に「本陣」とよばれたりしました。 幕末動乱の世情を反映して、慶応3年(1867)には連日のように幕府関係者が休んだり宿泊した記録が残っています。 長井尚志(若年寄格)をはじめ、奉行、代官、歩兵隊々長他、旗本達が多く利用しました。 有名な新撰組副長土方歳三も、隊志を連れて、慶応3年10月21日に休息しています。 また、慶応4年1月(1868)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新撰組隊志たちは、 同月15日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。 今から120余年前を偲びつつ、ここに記す次第です。
 (青物横丁商店会、まちのお宝保存委員会)
品川寺
「保土ヶ谷の松」を過ぎたすぐ先の右側に大きな石の門柱がありました。 入口の脇には「東海道品川宿お休み処」の表札も掛かっていました。 門から入っていくと、すぐ左側に大きな「銅造地蔵菩薩坐像」がありました。 「東海七福神」の案内板もありました。 石畳の参道を進んでいくと「品川寺」と書かれた提灯が下げられた山門があります。 「七観音霊場 聖観世音菩薩 海照山品川寺」や 「江戸三十三観音霊場 第三十一番札所 品川寺」の表札が掛かる山門から入っていくと、 右手に品川寺の本堂がありました。 コンクリート製になっていて、屋根にはしゃちほこがあったり、テラス状の手摺には四角い渦巻き模様のようなものもあって、 何処となく沖縄や中国風の雰囲気が感じられました。
東海七福神
品川神社(大黒天)…5分…法禅寺(布袋)…1分…一心寺(寿老人)…3分…荏原神社(恵比寿)…10分…品川寺(毘沙門天)…30分…天祖諏訪神社(福禄寿)…15分…磐井神社(弁財天) となっていましたが、何故だか天祖諏訪神社の所が塗りつぶされていました。
品川寺の本堂の右側には寺務所や庫裡と思われる建物があり、 その脇に生えるイチョウの大木は天然記念物に指定されているようです。 袂には大きな石碑があり、脇には庚申塔もありました。
品川区指定天然記念物 品川寺のイチョウ
本樹は幹周り5.35m、樹高25m、推定樹齢約600年という古木であるが、 整然とした樹姿を見せ、その樹勢も極めて旺盛であり、幹や大枝からは、多くの乳が垂れている。 本区内の数あるイチョウのなかでも、ひときわ目立つ存在であり、 かなり離れた地点からも眺めることができ、壮観である。 また約600年という樹齢は、本寺が歴史の古い寺であることを実証するもののひとつである。
 (品川区教育委員会)
(「品川寺」は「ほんせんじ」と読むようです)
左手には弘法大師の像があって、「修業大師開眼供養」の石碑の横には「花梨」の鉢植えがありました。 その左手には鐘楼があって、周りには「金生七福神」の石像が置かれていました。 各々の像の前には木製の小さな賽銭箱も設置されていました。
(画像を左クリックすると、金生七福神の写真が順次表示されます)
花梨(かりん)
弘法大師の名で知られる空海が、821年に満濃池の修築のために満濃町(香川県)を訪れ、 宿泊所を提供してくれた矢原邸の庭先に唐から持ち帰った花梨の苗木を植樹されました。 これが由縁となり、満濃町の町木に選ばれています。 花梨は梨の原種で、春に淡紅色の花が咲き、秋に実る黄色の実には薬効があります。 この木は、昭和63年5月、第39回全国植樹祭が香川県満濃町森林公園で開催された際、 当時の皇太子ご夫妻によってお手蒔きされた花梨の種が成長したものです。
海雲寺
品川寺を後にして旧東海道を進んでいくと、右側に「龍吟山海雲寺」と刻まれた石柱が立っていました。 そのすぐ先に山門があったので、立ち寄っていきました。 山門の前には「開運 千體荒神王霊場」と刻まれた石柱が立っていました。 「江戸三十三観音霊場番外札所 千體荒神 海雲山」の表札が掛かる山門から境内へ入っていくと、 右手に烏瑟沙摩明王のお堂や鐘楼があり、その奥に千躰荒神の社がありました。 海雲寺の本堂はその右隣りにありました。 千躰荒神の方が大きくて正面にもあって、目立っていました。 寺院と神社が同一の境内にある形になっていました。
品川区指定有形民俗文化財 千躰荒神堂奉納扁額
千躰荒神王は火と水の神として、また台所の神としても有名である。 堂内に懸けられている扁額は信徒の奉納によるものであり、全部で27面ある。 文字額及び雌雄二鶏図が多く、格天井の中央に龍の図が、その周りに纏図が描かれている。 文久元年(1861)作の雌雄二鶏図は、ガラスの上に彩色された貴重な資料であり、 また、昭和10年に奉納された浪曲家廣澤虎造夫妻による文字額もある。
 (品川区教育委員会)
お台所の守護神
[品川千躰三宝荒神の由来]  古くからお台所に荒神様をお祀りする習わしがございます。 荒神様はお台所で一番大切な火と水をお守り下さる神様であります。 そでれお台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされています。 品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてまいりました。 今を去る300余年前の島原の乱に鍋島甲斐守直澄公がお年十八才で出陣なさいましたが、 肥後天草の荒神が原にありました荒神様にお詣でなり、必勝祈願なさって出陣なさいました所、 甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れ、 その行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思われるすさまじさで、 流石の暴徒も敵し得ず鎮定しました。 以後鍋島家ではこの尊像を守護なさいまして、東京都高輪二本榎木の別荘に遷座し、 篤い信心のもとにお祀りしてありましたものを、 因縁あって、昭和7年寅3月に当山に勧請し奉ったものであります。 それからはあらゆる階層の人々の参詣も多くなり、ついに江戸年中行事の一つにもなり、 この尊像を信仰する人々の受けました霊験利生は数えきれないものがあります。
海雲寺の境内には「平蔵地蔵尊」がありました。 「鬼の平蔵」ならぬ「正直者の平蔵」を供養した地蔵尊のようでした。 その傍には若者達が力競べをしたという丸い形の「力石」もありました。
平蔵地蔵の由来
江戸の末1860年頃、鈴ヶ森刑場の万人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた三人連れの乞食がいた。 その一人平蔵は或る日、多額の金を拾ったが落とし主を探し、当然のこととして金を返し、お礼の小判を断った。 そのことを知らされた仲間の者は金を山分けすれば三人とも乞食を止めて暮らせたのにと腹をたてて、 正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し凍死させてしまった。 これを聞いた金の落とし主である仙台邸に住む若い侍は、平蔵の遺体を引きとり、 青物横丁の松並木の所に手厚く葬り、そこに石の地蔵尊をたて、ねんごろに供養しつづけた。 明治32年10月、京浜電車が開通することになったが、生憎その線路に地蔵尊の土地がかかり、 時の海雲寺住職横川得諄和尚が、菩薩のような功徳のある君子平蔵を長く社会の木鐸たらしめんと、 願望して当寺境内に移してもらい回向した。 いつの世も人は利害得失を先とし他人の迷惑を考えず、 金銭のために大切な人の命さえとる者がいて憂慮にたえない。 誠心で浄く正しい平蔵の心に感銘し、 その死後、報恩感謝供養の誠をつくした若い侍の敬虔な態度にも教え導かれるものがある。 物足りて心貧しい今日、得諄和尚の主旨に生きる法孫として、 かねてより多くの人々が平蔵地蔵尊にあやかり、浄く正しい心で和平な日々を送って、 明るい社会づくりに役立たんことを願っていた。 たまたま篤信者あり。 平蔵地蔵尊の信仰こそ荒れた人心を洗う甘露の法乳であると賛同と援助を得たので、 海雲寺並に荒神王を参詣する總ての人にお参りいただくため、本尊前庭に移し奉安することとなった。 ここに平蔵地蔵の由来を略記し讃仰の資とす。
南無地蔵願王尊伏して願わくは尊像を拝し奉るわれ等を憐愍せられ、誠實な心、健全な体もて 世のため人のためにつくせる力を与え給え
 (昭和61年10月吉日 龍吟山海雲寺二十三世 如雲裕生 謹誌)
力石
いつの頃からは、この力石は海雲寺の境内にあり、若者達の力競べに大正の中頃まで使われていた。 当時、門前には多勢の漁師や親船から積荷を小舟に移し取る瀬取(沖仲仕)がいて、 この石を何回持ち上げられる、門と本堂の間を何回持って歩けるかと競ったものである。 力つきて放り出し大地に落ちるときのドスンという鈍い音は、 騒音のなかった当時、静けさを破る心持よい響きであった。
昭和61年10月 福沢嘉吉 記す
この石はその当時からこの場所にあり、元気な若者の汗が染み込んだものです。 石にふれてお元気を出して下さい。 文字は寄せ文字家元・橘右近師匠の奉納揮毫です。
鮫洲八幡神社
海雲寺を後にして旧東海道を進んでいくと、信号機の設置された交差点があります。 車道を渡ってその先へ進んでいくと、道の上に「鮫洲商店街」と書かれたゲートがあります。 そこを過ぎていくと、道が右手へ分かれていく所に「十七番 八幡神社」と刻まれた石標がありました。 その先を覗ってみると鳥居や社が見えていたので、立ち寄っていきました。 「八幡神社」と刻まれた石柱やその先の鳥居をくぐっていくと、正面に鮫洲八幡神社の社殿がありました。 天妙国寺を後にしてから35分ほどで着きました。 神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。 柱が朱塗りになっていて、華やいだ社殿になっていました。
社殿の左側には木製の鳥居があって、そこから細い坂道が降っていました。 「富士浅間大神」と刻まれた石碑を過ぎていくと池がありました。 池には亀が沢山泳いでいました。 小さな橋を渡った所にある鳥居をくぐっていくと、小振りの祠が二つ並んでいました。 左側は「厳島神社」、右側は「水神社」となっていました。 池の中程へ続く小径の先にも石製の小祠がありました。 池の畔を歩いていくと、石垣の脇に「品川宿場散歩」と題した案内板があって、 「歴史と文化の散歩道」としてこの鮫洲八幡神社などが紹介されていました。 また鮫洲周辺案内図も載っていて、 来福寺・嶺雲寺・梶原稲荷神社・山内豊信墓・海晏寺・品川寺などが簡単に紹介されていました。
鮫洲の地名のおこり
鮫洲はサミズともいわれ、地名の起こりは、
(1) 「サミズ」は砂水と書き、開眼が干潟になった時、砂の中から清水が出てくることから、この名になったという。
(2) 海晏寺伝に「建長3年品川の海上に大鮫が死んで浮きでたのを漁師が腹を裂いたところ、腹中から木造の観音像が出現し、 人々に不思議な恩をさずけた」ということから門前を鮫洲と呼んだという。」
(3) この浜辺に鮫があがったことがあるので鮫洲となったという。
などの説があります。
鮫洲八幡神社
旧御林町(のち大井鮫洲町、現在は東大井一丁目、同二丁目の一部、同四丁目)の総鎮守です。 創立の年代はさだかではないが、寛文の頃(1661〜1672)には、すでにあったとされています。 境内には漁師町の鎮守らしく漁業関係者が寄進した灯籠や狛犬があります。 祭神には、誉田別尊、気長足姫尊、並びに昭和4年8月14日に合祀された白山神社の 伊弉諾尊、伊弉冉尊が祀られています。 また、境内には稲荷神社(通称 出世稲荷社 御祭神 宇迦之御魂命)、 厳島神社(通称 弁天社 御祭神 市杵島姫命 鮫祠)、 漁呉玉神社(通称 水神社 御祭神 綿津見神)の末社も鎮座しています。
御林浦(猟師町)
江戸時代、東京湾を臨む品川には、品川浦と御林浦の二つの漁村があり、 江戸城御用の鮮魚を納める御菜肴八ヵ浦の一つとして発展しました。 この御林浦は、南品川と北浜川の間(東大井一丁目、二丁目の一部)の漁村をいいました。 ここでの漁獲物の多くは、芝金杉や本芝(港区)の魚問屋で売りさばかれていました。 また、海苔の養殖採取も盛んでした。 海岸の埋め立てが進み、昭和37年(1962)の漁業補償協定の成立で、 江戸前漁業の終わりをむかえました。
奉納
東京湾拡張の実施に際し、沿岸漁民の漁場を離るゝ者少なからず。 乃ち多年神恩を蒙り奉れる漁業者一同、茲に水神社並びに弁天社の御鳥居を補修し、 併せて三方(5台)を奉納し聊奉賽の微哀を捧ぐるものなり。
 (昭和39年8月16日)
嶺雲寺
15分ほど居た鮫洲八幡神社から旧東海道に戻って、その先へと進んでいきます。 信号のある交差点を直進して東大井区民集会所への道を見送っていくと、 右側に「嶺雲禅寺」と刻まれた石碑があります。 その脇の駐車場のすぐ奥にお堂が見えていたので立ち寄っていきました。 「曹洞宗 嶺雲寺」や「嶺雲禅寺」の表札が掛かる石門から境内へ入っていくと、 正面に民家風の建物の嶺雲寺がありました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
勝島運河
嶺雲寺を後にして旧東海道を更に進んでいきます。 「二十番 花街道入口」の石標の立つ角まで来て左手へ曲がっていくと、突き当たりの右側に公園があります。 木のない藤棚のようなものや水のない池のようなものがありました。 また双胴船の形をした遊具やトイレなどもあって枝垂れ柳も植えられていました。 公園の名前を記したものは見かけませんでしたが新浜川公園という言うようです。 そこから左側の土手に出ると、屋形舟や釣り舟の船着き場や舟だまりになった勝島運河がありました。 運河には多くの船が係留されていました。 舗装された土手には綺麗な花が沢山咲いていたので、 これが「花街道」なのだろうかと思いながら、ひと休みしていきました。
この堤防は、台風のときの高潮や地震のときの津波によっておこる水害からあなたの街を守るためにつくられたものです。
・木を大切にしましょう。
・ゴミはクズカゴへ入れましょう。
・たき火はやめましょう。
・釣針、釣糸などは捨てないようにしましょ。
・自転車の乗り入れはやめましょう。
・ぬれているところはすべるので気をつけましょう。
・船が通ると波がくるので気をつけましょう。
・救命具(竿)は非常時以外さわらないようにしましょう。
 (品川区土木部大井土木出張所、東京都)
土手から戻って新浜川公園の先にある東京都下水道局の浜川ポンプ所に沿って進んでいきます。 突き当たりまで行くと、魚の絵が描かれた設備があります。 そこから堤防を越えて道が続いていたので、ちょいと歩いてみました。 何本も打ち込まれた鉄柱の上に築かれた建物の壁には、坂本龍馬と外輪帆船の絵が描かれていました。 左へ曲がっていった先で行き止まりになっていたので、引き返してきました。
快適な生活を支える下水道 浜川ポンプ場
(ポンプ場のはたらき)
家庭や工場から流された汚水は、当ポンプ場で砂やゴミをとりのぞき、 森ヶ先水処理センターに運ばれ、きれいになって海に流されます。 又、大雨のときは、街を浸水からまもります。
(当ポンプ所の概要)
・汚水ポンプ 2台(口径300mm、揚水量10立方m/分・台)
・雨水ポンプ 3台(口径1,1300mm、揚水量165立方m/分・台)
・非常用発電機 12台(能力750KVA)
みなさんの大切な施設です。危険ですから立入らないでください。
 (東京都下水道局森ヶ崎水再生センター)
浜川橋
先ほどの魚の絵が描かれた設備の前を過ぎて、立会川沿いに進んでいきます。 旧東海道まで戻った所に浜川橋が架かっています。 「涙橋」とも呼ばれていて、この先にある鈴ヶ森刑場へ護送されていく罪人と最後の別れをした橋なのだそうです。
浜川橋
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。 この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。 現在の橋は、昭和9年(1934)に架け替えられたものです。
涙橋の由来
慶安4年(1651)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。 ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。 この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、 「涙橋」と呼ばれるようになりました。
 (品川区教育委員会)
天祖諏訪神社
浜川橋を渡ったすぐ先から右手へ分かれていく道があります。 角には「鎮守 天祖神社」と刻まれた大きな石柱が立っていて、その先には鳥居や社殿が見えていたので、 立ち寄っていきました。 鳥居の先へ続く石畳の参道を進んでいくと、玉垣で囲まれた境内に天祖諏訪神社がありました。 由緒書きによると、天祖神社と諏訪神社を合祀した神社なのだそうで、 昭和40年に建立されたコンクリート製の社殿になっていました。
由緒
祭神 天照大神、豊受大神、建御名方神
天祖諏訪の両社は江戸時代から此の地の鎮守とし、神威昭々郷土の発展と共に今日にいたりました。 昭和36年1月、氏子各位の要望により、天祖神社諏訪神社御改築奉賛会が設立せられ、 新社殿を建立し、昭和40年11月1日、両社を合祀いたしました。
社殿の左側には社務所などがあり、右側には小さな池があって、 その中の島状になった所に小振りな厳島神社がありました。 手前には「厳島神社」の扁額の掛る立派な鳥居も立っていて、丁寧に祀られているようでした。 社の屋根には3本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 池には綺麗な錦鯉が沢山泳いでいました。
しながわ区民公園
元の道まで引き返して旧東海道を進んでいきます。 競馬場通りを過ぎていくと、「周辺案内」と題した案内板がありました。 この周辺にある、大森貝塚・大井水神公園・鈴ヶ森刑場跡・大径寺・大井競馬場・大井の水神・しながわ区民公園・立会川河口堤船だまりなどが 簡単に紹介されていました。 これから向かう鈴ヶ森刑場跡の場所を確認して先へ進んでいくと、 左側に「しながわ区民公園中央口」と刻まれた石標が立っています。 そこから南側一帯にしながわ区民公園が広がっているようです。 脇にある案内図によると、桜の広場・スポーツ広場・噴水広場・遊びの広場・潮の広場などがある広い公園のようです。 潮の広場には大きな池や水族館もあるようでしたが、 今回は訪ねるのを省略して、旧東海道のその先へと進んでいきました。
浜川神社
鈴ヶ森中学校の裏門の辺りまで来ると、右側の集合住宅の二階の脇に浜川神社がありました。 階段の登り口には「厄神 濱川神社」と刻まれた石柱が立っていました。 最初からこんな場所にあった訳ではないのでしょうが、 諸般の事情で現状の窮屈な環境を余儀なくされたのでしょう。 社殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。
品川区指定有形文化財 浜川神社文書
浜川神社は、江戸時代・天明の頃に、修験者・教光院了善が厄神大権現として祀ったことに始まる。 明治維新後、神社となり浜川神社と称した。 厄神の信徒は上総・安房にも及び、現在に至っている。 浜川神社文書は、前身である厄神社(厄神大権現)および浜川神社に関する文書と証文類で構成されている。 保存状態もよく、大井地区の歴史だけでなく、江戸時代から近代に至る神社史を知る上でも貴重な資料である。
 (品川区教育委員会)
鈴ヶ森刑場跡
鈴ヶ森中学校の校庭の端まで進んでいくと、その先に国道15号(第一京浜)が見えてきます。 その手前に鈴ヶ森刑場跡がありました。 鮫洲八幡神社を後にしてから50分ほどで着きました。 樹木が生える狭い場所に、「都旧跡 鈴ヶ森遺跡」や「六十六部供養塔」や地蔵などが幾つも並んでいますが、 刑場があった往時にはもっと広い所だったようです。 南側から見える向きには「東京都史蹟 鈴ヶ森刑場遺跡」と書かれた屋根付の標柱も立っていました。
都旧跡 鈴ヶ森遺跡
寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、 東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、 間口40間(74m)、奥行9間(16.2m)であったという。 歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693)池上本門寺日の記した題目供養碑で、 処刑者の供養のために建てられたものである。 大径寺改題には、火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。 ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは 演劇などによってよく知られている。 江戸刑制史上、小塚原とともに重要な遺跡である。
 (東京都教育委員会)
東京都史蹟 鈴ヶ森刑場遺跡
当地は、東海道に面し、慶安4年(1651)江戸幕府により設けられた。 「鈴ヶ森刑場」遺跡で、歌舞伎や講談に登場する、丸橋忠弥・平井権八・八百屋お七等の処刑地として有名である。 境内には、処刑に使用された台石や井戸、供養塔が点在し、東京都史跡として、 品川百景にも指定される江戸刑制史上重要な文化遺跡となっている。
 (鈴ヶ森史跡保存会)
三原通り
鈴ヶ森刑場跡を後にしてその先へ進んでいきます。 首都高速道路から降りてくる高架の下を過ぎて国道15号(第一京浜)を進んでいきます。 大森北交差点・平和島口交差点と過ぎていくと、ガソリンスタンドの先から細めの道が左手へ分かれていきます。 鈴ヶ森刑場跡から17分ほどの所になります。 旧東海道はここから左手の三原通りへ入っていきます。 街灯には「旧東海道」「大森本町ミハラ通り北商店会」と書かれていました。 大森スポーツセンターの前まで来ると、「旧東海道」「三原通り」と刻まれた石標が立っていて、 この先の道は「至 六郷」、今来た道は「至 品川」となっていました。 台座には簡単な解説文も載っていました。 通りには上部を平らに磨かれた40cm〜50cm角ほどの石が点々と設置されていて、 上面には往時の様子を描いた浮世絵のタイルが嵌め込まれていました。 ちょいと腰掛けていくのに具合が良く、ベンチ替わりにもなっているようでした。
三原通り
旧東海道の景観は著しく変ぼうしたが、往時の幅員を比較的残しているのは、 本区ではこの付近900mと六郷地区の一部だけになった。 字名の南、中、北原をまとめ三原通りと呼ぶ。
赤レンガ敷きになった三原通りを進んでいくと、 道の真ん中を囲って子供のサッカーが行なわれていました。 ベニヤ板で囲ってゴールネットも設置されたコートになっていて、2面ほどありました。 試合が行なわれていたようで、脇には対戦結果を記入する板や優勝賞品なども並べられていました。 そこを過ぎていくと、道端では太鼓や笛を吹いている一団がいました。 道端にゴザを広げて日用品などを売っていたりもしました。 信号機のある広い地方道318号(環七通り)を渡っていくと、ミハラ南商店街になります。 三原通りはこの環七通りを境にして、北商店街と南商店街に分かれているようでした。 通りには綺麗に着飾った一団が踊りを踊っていたりもしました。 「大田区役所くすのき連」と書かれた提灯も掲げられていました。 桃色の衣装の女性陣と白色の衣装の男性陣が入れ替わりながら踊っていました。 沿道には露店なども沢山並んでいて、商店街の祭りだったのでしょうか。
(画像を左クリックすると、三原通りで見かけた光景が順次表示されます)
内川橋
三原通りを更に進んでいくと、内川内川橋が架かっています。 橋の右側には「歴史の流れる音がする内川掲示板」があって、 「内川のあらまし」,「内川の歴史」,「地域の思い」,「内川や内川河口で見られる生き物たち」が紹介されていました。 すべてを載せると量が多くなるので、「内川のあらまし」だけを載せておきます。 左側には「旧東海道」の解説板もありました。
内川のあらまし
かつて内川は山王や駒込・池上の沼の水や湧水を集めて流れる全長5kmほどの川で、 六郷用水と合わせて低地の農業用水として使われていました。 また、水道が引かれるまでは飲み水としても貴重な水源となっていました。 自然も豊かで、コイ・フナ・ナマズといった魚や、トンボやコガネムシなどの昆虫、 川岸にはイチジクなどもあり、子どもの遊び場としても人気の高い場所でした。 大正6年以降、新田橋から内川橋まで現在のように直線に改修されてからは、 川幅が広げられ川底も深くなり海苔舟が行き来できる川となりました。 現在内川は大田区の北部大森着くから西から東にまっすぐ流れ、 平和島運河に注ぐ流域面積3.25ku、延長1.55kmの二級河川です。 東海道線より下流が法定河川区間となっており、その上流は下水道幹線として整備されています。 また、河口部には高潮対策として防潮水門と排水機場が設置されています。 近年下水道の普及や水質浄化に伴い、ボラやサッバといった魚や、カニなども見られるようになり、 また、河口には水鳥の集る干潟が残るなど、 今でも人や水辺の生物にとっての身近な自然空間として重要な役割を担っています。
 (「わたしたちの内川」より)
大田区文化財 旧東海道(美原通り)
東海道は、江戸時代初期に幕府が整備した、江戸日本橋を出発点とする五街道の一つで、 江戸と京都を結ぶ、最も重要な交通路であった。 参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用された。 昭和2年(1927)、東海道は拡幅改修され、第一京浜国道が完成した。 そのため往時の幅員を比較的よく残しているのは、この美原通りと六郷地区の一部だけとなった。 旧東海道は、かつて三原通りと言われた。 三原とは、字名の南原、中原、北原の三原のことで、美称して美原となった。 歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(鶴屋南北作)で有名な旅籠「駿河屋」のあった「するがや通り」は内川橋の際から分かれる。
 (大田区教育委員会)
内川橋を渡っていくと、国道15号(第一京浜)と国道131号(産業道路)が分かれていく大森警察署前交差点に出ます。 三原通りはここで終わりになります。 三原通りに入ってからここまで、20分ほどかかりました。 三原通りは900mほどの長さとのことなので、かなりゆっくりとしたペースになります。 すぐ左側にある横断歩道を渡って、右手に続く国道15号を進んでいきます。
旧東海道
旧東海道の景観は著しく変ぼうしたが、往時の幅員を比較的残しているのは、 本区ではこの付近900m(第一京浜から産業道路まで)と、六郷地区の一部だけになった。
夫婦橋
大森警察署の裏側を過ぎて、国道15号を進んでいきます。 大森町駅入口交差点や梅屋敷駅入口交差点を過ぎていきます。 車道沿いに歩道が続いていますが、旧東海道の風情が感じられないのは残念ではあります。 大田区体育館前交差点や東蒲田二丁目交差点を過ぎていくと、呑川夫婦橋が架かっています。 国道15号に出た所から18分ほどで着きました。 先ほどの内川よりも、この呑川の方が大きい川のようでした。 なぜ「夫婦橋」という名前が付いているのかは分りませんでした。
夫婦橋を渡った先にある夫婦橋交差点を過ぎていくと、高架の下に京浜急行空港線が通っています。 その「蒲(空)第1踏切」を渡って京急蒲田駅前交差点を過ぎていくと、 地方道311号(環八通り)の南蒲田交差点に出ます。 横断歩道を渡って国道15号を更に進んでいきます。 蒲田消防署前交差点・東六郷一丁目交差点・東六郷二丁目北交差点を過ぎていきます。 雑色駅入口交差点を過ぎていくと街路樹が続くようになります。 その下には背の低い植え込みも続いていて、雰囲気が良くなってきます。 蒲田警察署雑色交番や六郷工科高等学校を過ぎていきます。
仲六郷三丁目交差点・蒲田警察署東六郷交番・東六郷三丁目交差点を過ぎていくと、 六郷神社バス停の先から細めの道が左側に並行するように分かれていきます。 少し降り坂になった左側の道を進んでいくと、左手に大きな鳥居が立っています。 その脇には「郷社 六郷神社」と刻まれた石柱が立っていました。 ここが六郷神社への西側の入口になります。 夫婦橋から25分ほどで到着しました。
東海道跡
東海道は、古くから江戸と関西方面を結ぶ重要な交通路でした。 六郷は東海道における江戸の出入口で、多摩川をわたる「六郷の渡し」として活気があり、有名でした。
鳥居をくぐっていくとすぐ右手に解説板がありました。 そこを過ぎて樹木が壁のように続く広い参道を進んでいくと、 左側にある社務所前庭に、以前の狛犬が置かれていました。 大田区の文化財に指定されているようで、その解説板も設置されていました。
『江戸名所図会』に画かれた六郷八幡宮
社殿正面の道が、慶長6年(1601)に幕府の制定した古い東海道で、松並木が続いていました。 これが西方に付け替えられたのは元和9年(1623)といわれます。 このとき、神域を囲っていた構堀の一部を埋めて、脇参道ができました。 往還の両側に並んでいるのは八幡塚村の人家で、脇参道の鳥居からやや南寄りに、 日本橋から四里(15.6km)の一里塚と、その前に高札場が描かれています。 東方はるかに連なるのは房総の山々で、右手には川崎大師の屋根も見え、辺り一面は水田です。 社殿の上の方にひときわ大きくめだっているのは、今も境内にある塚で、 八幡塚あるいは神輿塚と呼ばれ、竹林に囲まれていた様子がうかがえます。 かつて六郷六か村の中心をなし、当社の宮本でもあった八幡塚村という村名は、この聖なる塚に由来します。 近代に及んで東海道は第一京浜国道となりますが、 脇参道付近から六郷橋へ向かう道筋の一部は、旧東海道の幅員を比較的よく残しています。 ちなみに、『江戸名所図会』は、天保7年(1836)に刊行された地誌です。
 (奉納 六郷神社崇敬会)
大田区文化財 狛犬(一対)
この狛犬は、貞享2年(1685)六郷中町の有志が願主となり、二世安楽を祈って奉納したものである。 区内に現存する最も古い狛犬で、石工は三右衛門。 昔は社殿前にあったが、現在は社務所前庭に置かれている。 作風は、一般の狛犬と異なり、きわめて素朴かつユーモラスで、芸術性にとんだ形態を示し、面白い。 たとえば、へこみが深い大きな目、へん平な鼻、大きな口、髪の刻みは浅く、先端を巻き、 胴はずんぐりとして、尾は小さく上向きに立つなど、興味深い作品と言えよう。
 (大田区教育委員会)
六郷神社
正面にある大きな社務所の前まで来ると、 その左側に本殿と拝殿から成る立派な六郷神社がありました。 本殿の屋根には7本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 右側には神輿庫と思われる建物があり、左側にも大きめの建物がありました。
六郷神社由緒
鎮座地 東京都大田区東六郷3-10-18
祭神 誉田別尊(応神天皇)
本殿 享保4年(1719)建立の三間社流れ造り
拝殿・本殿 昭和62年(1987)鎮座930年祭記念造営の総檜権現造り
境内末社 天祖神社(天照大神)、 氷川神社(素盞鳴尊)、 三柱社(日本武尊・大物主命・布津主命<合祀>天太玉命・天児屋根命)、 稲荷社(宇迦御魂命)
当社は、多摩川の清流に南面する古い八幡宮であり、六郷一円の総鎮守として、ひろく崇敬されています。 社紀によれば、源頼義・義家の父子が、天喜5年(1057)この地の大杉に源氏の白旗をかかげて軍勢をつのり、 岩清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい、 前九年の役に勝利をおさめたので、その分霊を勧請したのが、当社の創建とされています。 文治5年(1189)梶原景時に命じて社殿を造営しました。 今なお境内に残る大きな手水石は、この時よりともが奉献したものであり、 神門前の太鼓橋は景時の寄進と伝えられます。 天正19年(1591)11月、徳川家康は十八石の朱印地を寄進して、 慶長5年(1600)六郷大橋の竣工に際しては、神威をたたえて祝文をたてまつり、当社の神輿をもって渡初式を挙げました。 また、鷹狩りの途次にもしばしば参詣したと史書にみえます。 当社が巴紋とともに葵紋を用いている所以です。 江戸時代には六郷八幡宮とも呼ばれていましたが、明治5年(1872)に東京府郷社に列し、 同9年より六郷神社と改称して今日に至っています。 なお当社には、毎年1月7日に行われる流鏑馬(東京都無形民俗文化財)と、 6月の祭礼時に少年少女が奉仕する獅子舞が伝承されています。
 (奉納 六郷神社崇敬会)
社殿の前に続く参道を進んでいきます。 手水舎や立派な門をくぐっていくと、大きな鳥居の先に太鼓橋があります。 「六郷神社」と刻まれた大きな石柱も立っていて、 こちらが六郷神社の正面入口になるようでした。 松の木も植えられていて風情がありました。 正面の道を進んでいくと多摩川六郷緑地へ続いているようでしたが、 国道15号へ戻るべく、右手の道を進んでいきました。
(写真は振り返って写したものです)
2分ほど進んでいくと、左右に通る道に出ます。 国道15号から分かれてきた先ほどの道になります。 そこを左折していくと国道15号と接するようになります。 手前には、これまでに見かけたのと似たような「旧東海道跡」と刻まれた石標が立っていて、 その先の道は「六郷の渡し跡へ」となっていました。 六郷橋バス停を過ぎていくと六郷土手交差点があります。 ここを右折して、多摩川に架かる六郷橋へと続く高架の下をくぐっていきます。
宮元台緑地
高架をくぐったすぐの所の左側の植え込みに「大田区立宮本台緑地」と刻まれた石標が設置されています。 そのまま正面の道を進んでいくと六郷土手駅がありますが、ちょいと緑地に立ち寄っていきました。 金網柵沿いに高架の下を過ぎていくと、すぐに宮元台緑地があります。 今ではこの左側に新しい六郷橋が架かっていますが、以前の六郷橋はここに架かっていたのだそうです。 六郷橋の入口にあった橋門と親柱が当時の姿のまま保存されています。 脇には解説板も設置されていました。 この六郷橋から多摩川の上流にかけて「渡し場をめぐる歴史の散歩道」が設定されていて、その解説板もありました。 六郷の渡し・矢口の渡し・平間の渡し・丸子の渡しや、近くにある寺社や緑地や史跡などが紹介されていました。
六郷橋のおいたち
貞享5年(1688)の大洪水で橋が流失してから、江戸の玄関口である東海道を横ぎる多摩川は、 もっぱら渡船によって交通していた。 八幡塚村名主鈴木左内は、幕末から明治初年にかけての交通量の増加を目前に見て、 明治7年、左内橋(木造橋)を架橋した。 しかし、木造橋では、破損のたびごとに幹線道路が、渡船に頼るという時代逆行をまねき、 その上、自動車の発達もともなって、強度上からもその近代化が急がれた。 木造橋の鉄橋への架け換え計画は大正3年にはじまったが、 大正9年、東京府と神奈川県で工費を相互に負担することで、着工のはこびとなった。 大正14年に開通した橋は、タイドアーチ式の近代的なもので、 その長さ446メートル、幅16.4メートルにおよぶ長大橋であった。 しかし、交通量の激増、車輌の重量化に対応できなくなり、昭和60年、新六郷橋が架橋された。 この緑地には、旧橋の橋門と親柱を当時の姿のまま保存している。
六郷から丸子へ、渡し場をめぐる歴史の散歩道
《主な見所》
渡し場跡 … 丸子の渡し、平間の渡し、矢口の渡し、六郷の渡し、(羽田の渡し、大師の渡し)
下丸子公園 … 「矢口の渡し」の渡し舟の模型
六郷の渡し  徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる前の慶長5年(1600)に、東海道の多摩川に橋が架けられた。 その後何回かの補修や、洪水により流失すると、以後は架橋することなく渡船場が設けられ、 船で川を往来するようになった。 最初は江戸町人が請負っていたものが、元禄4年(1691)からは今の大田区の八幡塚村の請負いとなり、 人が六文、本馬が十五文、軽尻が十文と渡船料を徴収した。
矢口の渡し  新田義興の憤死した矢口の渡しは、「太平記」によって人々の知るところであるが、 平賀源内(1729-79)作の浄瑠璃「神霊矢口渡」が歌舞伎で上演されて、いっそう一般に知られるようになった。 その当時の矢口の渡しはどのあたりであったろうか。 中性の頃の渡し場は現在の新田神社のあたりではないかと考えられ、 その後川筋の変化に従って現在の矢口の渡し跡の場所に移動したものと推定される。 戦前の渡しは、大人二銭、自転車五銭位で利用されていたが、 昭和24年多摩川大橋の完成をみて、渡しはその使命を終えた。
丸子の渡し  江戸と相模を結ぶ主要な街道の一つに中原街道があった。 この道は調布清掃事務所の近くで多摩川を渡船で川崎側と連絡していた。 明治13年((1880)下沼部村長の文書によると、その渡船賃は次のようであった。 男女供一人金五厘・牛馬一疋八厘但口取を除く・人力車一輪七厘但空車・大車一銭五厘挽夫を除く・ 小車八厘但挽夫を除く・馬車六銭・諸荷物二人持六銭・以上一個一銭、 但水嵩一尺毎に、歩行人力車共三厘宛増・馬五厘増・荷馬一疋七厘・荷車八厘、 水深三尺に満水は馬・荷車・荷馬の通行を禁ず。 五尺に満水は歩行人力車共通船を禁ず。
六郷土手(ろくごうどて)駅
旧東海道は宮元台緑地のすぐ先を流れる多摩川に架かる六郷橋を渡って、次の川崎宿へと続いていますが、 今回の散策はここで終えることにしました。 元の道に戻って商店街を1分ちょっと進んでいくと、京浜急行の高架があります。 その下に六郷土手駅(京浜急行本線)があります。 六郷神社から15分ほどで着きました。