日本橋
散策:2009年08月上旬
【街角散策】 日本橋
概 要 日本橋は、江戸から各地方へ延びる五街道の起点で、大江戸の中心地として大変賑わった所でした。 今回は五街道の中のひとつである東海道を歩いていきます。 日本橋を出立して、京橋・銀座・新橋を過ぎ、 江戸の区切りだった高輪大木戸を経て、最初の宿場の品川宿へと向かっていきます。
起 点 中央区 三越前駅
終 点 港区 品川駅
ルート 三越前駅…日本橋…歌川広重住居跡…京橋…銀座…新橋…芝大神宮…金杉橋…高輪大木戸跡…泉岳寺…赤穂義士墓所…高輪神社…東禅寺…品川駅
所要時間 3時間20分
歩いて... 日本橋から品川までの旧東海道はビルが建ち並ぶ車道になっています。 史跡などもほとんど残っておらず、旧街道を歩く趣きはあまり感じられませんでしたが、 所々に解説板が設置されていて往時を偲ぶことができました。 週末の朝ということもあってか、銀座界隈を歩く人もそれほど多くはなくて、 スムーズに散策することが出来ました。
関連メモ 品川宿
コース紹介
三越前(みつこしまえ)駅
三越前駅(東京メトロ半蔵門線、東京メトロ銀座線)から歩いていきます。
B5出口あるいはB6出口から地上へ出ます。 今回は江戸日本橋から京三条大橋へと至る旧東海道のうち、最初の宿場であった品川宿の手前までを歩きます。
日本橋
三越前駅から地上へ出ると、目の前に日本橋があります。 現在の日本橋は明治44年(1911)に架けられた石造二連アーチ橋になっています。 左右の欄干には青銅製の色々な像が設置されています。 橋の四隅(手前の左右及び橋を渡った左右)は、ちょっとした広場になっています。 江戸時代にはこの日本橋界隈は大江戸の中心地で、大変に賑わった所だったようです。 今では首都高速道路が橋の上を覆ってしまったこともあって、風情は感じられません。 下を流れているのは日本橋川というようですが、お世辞にも綺麗な川とは言えません。
画像を左クリックすると、橋の北側(2)・中央(1)・西側(14)・東側(14)・南側(2)の順で、 合計33枚の日本橋の写真が表示されます。
日本橋橋詰の愛称
日本橋の歴史は、慶長8年(1603)に家康の江戸幕府開府の際、 南北の交通路として木橋が架設されて以来、幾度の変遷を経て、 現在の石橋が明治4年4月に完成し平成3年4月には80才を迎えました。 これを記念し、平成2年7月から平成3年5月にかけて広場の整備を行い、 平成3年5月には完成式典が行われました。 整備にあたっては地域の方々の意見をもとに、日本橋橋詰を都心のオアシスとして、 人々の待ち合わせや地域の活性化になればと考え実施しました。 この整備工事に合わせ、愛称を一般募集するとともに、 その愛称を末長く親しんでいただくため、記念碑として保存することとなりました。
 (建設省東京国道工事事務所)
B5出口の脇には元標の広場があります。 「東京市道路元標」と刻まれた塔や、「日本国道路元標」と刻まれた碑がありました。 この広場にある日本国道路元標は複製で、本物は道路の中央にあります。 この日本橋は江戸時代には各地方へ延びる五街道の起点でしたが、 今でも国道の起点になっていて、各市までの距離が刻まれた里程標もありました。 現在の車道における距離だと思われますが、東海道の終点の京都までは503kmで、遙かなる道程を感じます。
東海道五十三次は江戸日本橋から京三条大橋へ至る東海道に設けられた宿場で、 最初の品川宿から最後の大津宿まで、合わせて53の宿場がありました。 距離の詳細には諸説があるようですが、500km弱というのが多いようです。 その道程を平均で12泊から13泊で旅をしたようです。 13日かかったとすると、1日平均で38kmほどの距離になります。 時速4kmだと9時間半ほど、時速5kmだと7時間半ほどかけて歩いたことになります。 1日だけならまだしも、13日間も続けて歩くというのは並大抵のことではなかったように思います。
日本国道路元標
日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。 現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、 四隅の親柱に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫によるものです。 1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。 その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による 「日本国道路元標」が埋標されました。 この複製も同時に制作・設置されたものです。 東京市道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。
里程標
横浜市二九粁、甲府市一三一粁、名古屋市三七〇粁、京都市五〇三粁、大阪市五五〇粁、下関市一〇七六粁、鹿児島市一四六九粁、 千葉市三七粁、宇都宮市一〇七粁、水戸市一一八粁、新潟市三四四粁、仙台市三五〇粁、青森市七三六粁、札幌市一一五六粁
B6出口の脇には乙姫広場があります。 「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた石碑と、椅子に座った女性像がありました。 石像の解説板は見かけませんでしたが、「乙姫広場」という名前と関連のある女性なのでしょうか。 石段の上はちょっとした休憩所のようになっていて、花ボールが幾つも吊り下げられていました。 藤でしょうか、屋根の部分には蔓性植物が枝を伸ばしていました。
日本橋魚河岸跡
日本橋から江戸湾にかけての日本橋川沿いには、 幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。 ここで開かれた魚市場は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが 将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。 この魚位置は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目)の 広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、 江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、 一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所に一つでした。 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、 河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、 表納屋の店先に板(船板)を並べた売場を開いて売買を行なってきました。 この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京中央卸売市場へと発展しました。 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、 碑文には右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、 往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
 (中央区教育委員会)
日本橋を渡った左側には滝の広場があります。 石垣の上から水が流れ落ちるようになっていました。 晒し場のあった所なのだそうですが、それに関する解説板などは見かけませんでした。 広場の脇の円形の植え込みには「流れ」と題した球形のタイムカプセルがありました。 あと2年したら開けられるのだそうですが、さて何が入っているのでしょう。
タイムカプセル
このタイムカプセルは、日本橋架橋100周年を記念して平成23年(2011)に開封されます。
寄贈(創立100周年記念) 社団法人 日本橋倶楽部 理事長
日本橋を渡った右側には花の広場があります。 赤い花が咲く花壇の脇には立派な「日本橋由来記」が設置されています。 高札場があった所で、屋根が取り付けられた高札場を模した形になっています。 左右には欄干の擬宝珠を模したものがあって、 本物と同じく「日本橋」,「にほんはし」と刻まれていました。
日本橋由来記
 日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ 其名四方ニ高シ慶長八変幕府諸大 名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街 ヲ営ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス 人呼ンテ日本橋ト称シ遂ニ橋名ト 為る翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ 實ニ本橋ヲ以テ起点ト為ス当時既 ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知 ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所 以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元 和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘 幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九 回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケ ル本橋附近ハ富賈豪商甍ヲ連ネ魚 市アリ酒庫アリ雑閙沸クカ如ク橋 上貴賤ノ来往晝夜絶エス富嶽遙ニ 秀麗ヲ天際ニ誇リ白帆近ク碧波ト 映帯ス真ニ上国ノ如シ  明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々 新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年 三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔 ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ 傳フ
 昭和十一年四月 日本橋區
国指定重要文化財 日本橋
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。 幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、 重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。 橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。 幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。 現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。 橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、 青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。 橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、 同47年に柱からプレートに変更されました。 プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。 平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。 装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
 (中央区教育委員会)
日本国重要文化財 日本橋
構造・形式 石造二連アーチ橋、高欄付(青銅製照明灯を含む)、附く 東京市道路元標一基
所有者 国(建設省)
指定年月日 平成11年5月13日指定
指定の意義 明治期を代表する石造アーチ道路橋であり、石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として基調である。 また土木家・建築家・彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり、 ルネサンス式による橋梁本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており、意匠的完成度も高い。 建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定。
日本の道100選 中央通り
 (建設省・「道の日」実行委員会)
道の起点としての日本橋
中央区日本橋1丁目〜港区新橋1丁目
日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られている。 慶長8年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、 明治44年3月石橋の名橋として現在の橋に生れ変わった。 また日本橋から銀座にかけての中央通り一帯は近代的な街並で 日本経済の中心地として今なお活況を呈しています。
歌川広重住居跡
日本橋を渡った先にある交差点を直進して中央通りを真っ直ぐに進んでいきます。 日本橋交差点から右へ続く国道1号を見送って、国道15号である中央通りを進んでいきます。 日本橋二丁目交差点を過ぎて、その先の八重洲通りを横切っていくと、 20mほど先から左手へ分れていく道があります。 旧東海道は真っ直ぐ進んでいくのですが、 左手の先に、東海道五十三次を描いた安藤広重の住居跡があるというので、立ち寄っていくことにしました。 左折して150mほど進んだ所の十字路を右折すると、 すぐの所に「歌川広重住居跡」の解説板が立っています。 今では「中央区京橋一丁目9」の住所表記のあるこの場所にはビルが建っていて、 往時を偲ばせるものは何も残っていません。 解説板には往時の町割を記した「八丁堀霊岸嶋日本橋南之絵図」が載っていて、 広重が住んでいたという大鋸町も描かれていました。
歌川広重住居跡
浮世絵師歌川広重(1797〜1858)が、嘉永2年(1849)から死去までのおよそ10年間を過ごした住居跡です。 広重は、幕府の定火消組同心安藤源右衛門の長男として、 八代洲河岸(現在の千代田区丸の内二丁目)の火消屋敷で生まれました。 13歳のとき父母を失い、父同様定火消組同心になりましたが、 文化8年(1811)15歳のとき歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、 歌川を称することを許されました。 天保3年(1832)霊岸島の保永堂から出した「東海道五拾三次」以来、風景画家として著名になり、 江戸についても「東都名所」、「江戸近郊八景之内」等を遺しています。 特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、当時大鋸町と呼ばれていたこの地での代表作です。 住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家屋敷の隣にあり、 二階建ての独立家屋であったといいます。
 (中央区教育委員会)
京橋
中央通りに戻ってその先へ進んでいくと、「銀座京橋」の文字がある高速道路の高架橋が架かっています。 「銀座京橋」というのは、銀座と京橋の境界という意味なのでしょうか。 日本橋川と京橋川に挟まれた地区の日本橋川寄りが「日本橋」、 京橋川寄りが「京橋」と呼ばれ、この京橋を渡った先が「銀座」になります。 高架橋の前後の右側と左側には、往時の解説板などが設置されています。
高架橋の手前の左側には「京橋」と刻まれた擬宝珠の形をした親柱があります。 脇には解説文も載っていましたが、無学の私には読めない文字もかなりありました。 この親柱は明治8年の頃に実際に使われていた柱のようです。
京橋は古来よ・其の名著・・創 架乃年ハ慶長年間な・・如し明 暦以降屡々架換へら・大正十一 年末現橋に改築せらる此の橋柱 は明治八年石造り架換へられた る時乃擬宝珠欄干の親柱・・・ 橋名の書ハ明治代詩人佐々木支 陰乃揮毫・係る・・のなり
昭和十三年五月
高架橋の手前の右側には「江戸歌舞伎発祥之地」の石碑がありました。 歌舞伎座を模した石碑の両側には、踊る姿が浮き彫りにされていました。
史蹟 江戸歌舞伎発祥之地
寛永元年二月十五日元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す
 (昭和33年7月 江戸歌舞伎旧史保存会)
江戸歌舞伎発祥之地の石碑の傍には「京橋大根河岸 青物市場蹟」と題した石碑もありました。 無学の私には読めない文字もありました。 誤読している文字もあるかも知れませんが載せておきます。 以前にはここに青物市場があって賑わっていたようですが、 昭和10年になって築地に中央卸売市場が出来て、そちらへ移転していったようです。
京橋大根河岸 青物市場蹟
遠く寛文の初め江戸数寄屋橋辺に・の人数名打倚りささやかなる青物の市 を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の廛はゆききの人或いは附近の人人 に之を鬻ぐ数年ならずして廛の数増加し漸く市場の形整い江戸府民のため無く てはかなわぬ機関とはなりぬその後火災に羅りしにより東海道の要路にあった且つ 衰運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移転す偶この市場への大根の入荷殊更多しきに より世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸市場と称うるに至るかくて二百余年を 経たる明治十年京橋川南岸の太刀売と称する甘藷問屋数名を加入せしめ問屋三十 七軒仲買十七名を数うるに至りしかば府尹のの認可を得て組合を設立しここに始めて 大市場としての規模完成す 大正十二年九月大震災の厄難に遇いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を 呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸売市場法実施の一環とし て東京市中央卸売市場の開設さるに際し国家の要請否みがたく父祖三百年愛着 の絆を断ちて・・の地を去り築地木場に入り問屋は一体となりて會社を起し仲 買は旧態のまま開業すその後第二次世界大戦のため幾多の変革ありしも戦後再び 旧状に復し業況益好調を極む斯る折ネ・京橋青物市場蹟記念碑建設の 議起り期成會を組織しして之が実現に努め暫くその工を竣えたり依てここにそ の由来を記し開設以来二百八十余年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす
昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰 江川碧潭書
江戸歌舞伎発祥之地の碑の脇の植え込みに「京橋と京橋川」と題した解説板がありました。 今では京橋川は埋め立てられ京橋もなくなっていますが、 橋の親柱などが往時の名残を伝えています。
京橋と京橋川
京橋  名称の由来について「新撰東京名所図会」では 「京橋川に架する橋にして。日本橋、江戸橋に対して名けたるものなり」とあり、 また、日本橋から東海道を通って京へと向かう最初の橋にあたることから名付けられたともされる。 橋の創架については様々な説があり明らかではないが、 「京橋区史」によると、 「京橋は古来より其の名著はる。創架の年は慶長年間なるが如し」とある。 また「新撰東京名所図会」には、 「創建は詳かならざれとも。其の年月は日本橋と大差なかるべし」とあるので、 この橋は慶長年間(1596〜1615)に初めて架けられたと考えられる。 京橋は、幾度か架け替えが行われ、 明治8年(1875)には橋長11間(約19.8m)幅員8間(約14.4m)の石造アーチ橋に架け替えられた。 その後、市区改正事業に伴い明治34年(1901)に橋長、幅員共に10間(約18m)の鉄橋となった。 この橋は大正11年(1923)の拡幅工事により架け替えられ、 昭和4年(1929)にも架け替えが行われたが、昭和34年(1959)京橋川埋め立てに伴い撤去された。 なお、京橋の親柱は明治8年のものが橋北詰め東側と橋南詰め西側に、 大正11年のものが橋南詰め東側に保存されている。
京橋川  外堀から北紺屋町(現在の八重洲二丁目)と南紺屋町(現在の銀座一丁目)との間に分れて東に流れ、 白魚橋先で楓川、桜川(八丁堀)・三十間堀と合流した。延長0.6km。 江戸時代には、比丘尼橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。 その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596〜1615)に行われた最初の天下普請で 外堀とともに開削された水路であるとされる。 比丘尼橋と中之橋間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋間の左岸には大根河岸、 京橋と白魚橋間の左岸には竹河岸、右岸には白魚河岸があった。 京橋川は昭和34年(1959)、東京高速道路株式会社の自動車道路建設のため埋め立てられて 屋上が自動車道路の細長いビルに変わった。 現在、自動車道路の下は飲食店や駐車場になっている。 中央通りの交差する京橋跡には「京橋大根河岸青物市場跡」と 「江戸歌舞伎発祥の地」の碑(京橋三丁目4番先)、 京橋の親柱(京橋三丁目5番先・銀座一丁目2番先・11番先)と 「煉瓦銀座の碑」(銀座一丁目11番地先)が建っている。
大根河岸  大根河岸は、数寄屋橋辺りに形成されていた青物市場が火災に遭った後、 衰運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したことに始まるとされる。 この河岸地では、大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれて大変なにぎわいを見せていた。 しかし、大正12年(1923)の関東大震災の後に中央卸売市場が築地に完成したことにより、 大根河岸も昭和10年(1935)に移転した。 なお、この地にある「京橋大根河岸青物市場跡」の碑は 京橋大根河岸会会員により昭和34年(1959)に建立されたものである。
白魚河岸  京橋川の西沿岸に設けられた河岸で、 享保年間(1716〜1736)南方に設けられた白魚屋敷にちなんで白魚河岸と呼ばれていた。
薪河岸  京橋川の北西沿岸の比丘尼橋と中之橋との間にある河岸地で、 薪炭を扱う問屋が建ち並んでいたことから呼ばれていた。
竹河岸  竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、 竹商人が多くいたことから里俗で呼ばれていた。 竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、 群馬県から筏に組んで送ったものであったという。 青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川廣重の「名所江戸百景」にも描かれており、 その光景は目にさわやかな風物詩であった。
 (中央区土木部公園緑地課)
高架橋の下をくぐっていくと、警視庁築地警察署銀座一丁目交番の横に「京橋の親柱」があります。 高架橋の手前の左側にあった親柱と共に、明治8年の頃に実際に使われていた柱のようです。 柱には「きやうはし」と刻まれていました。
京橋の親柱
京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。 橋は、昭和34年(1959)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、 その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。 橋北詰東側と南詰西側に残る二本の親柱は、明治8年(1875)当時の石造の橋のものです。 江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、 詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。 一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正11年(1922)にかけられた橋のものです。 石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。 京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、 近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
 (中央区教育委員会)
高架橋の下をくぐった左側には「煉瓦銀座之碑」があります。 右側の塔はガス燈で、「京橋」の銘板も嵌め込まれています。 明治5年の全焼を機に、銀座の建物は煉瓦造りになり、ガス燈も設置されたようです。 往時のままなのか建て直されたのかは分りませんが、 銀座には今でも煉瓦造りの立派な建物が残っています。 先ほどの「京橋の親柱」の解説板には「橋南詰東側に残る親柱」の記載がありますが、 「照明設備を備えたもの」というこのなので、このガス燈がその親柱なのでしょうか。
煉瓦銀座之碑
明治5年2月26日(1872)銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる。 東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し、 政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す。 煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。
煉瓦とガス燈
明治初期我が国文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明はガス燈が用いられた。 床の煉瓦は、最近発掘されたものを当時のままの「フランス積み」で再現。 ガス燈の燈柱は、明治7年の実物を使用、燈具は忠実に復元。
銀座
京橋を過ぎて銀座へ入っていくと、沿道には円錐形に剪定された街路樹と花壇が点々と設置されています。 またガス燈を模した照明設備も続いています。 ビル群が建ち並ぶそんな道を進んでいくと、道端に「銀座発祥の地」の碑がありました。 この地区で銀貨を鋳造したことから、明治になって、当時の新両替町から銀座町に改称されたとのことです。 碑を過ぎていくと、銀座二丁目交差点の先に「日本の道100選 銀座通」の碑がありました。
銀座発祥の地 銀座役所址
慶長十七年(1612)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。 当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ、 明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる。
 (銀座通聯合会)
日本の道100選 銀座通
 (建設省・「道の日」実行委員会)
明治近代化のシンボル・銀座
中央区日本橋1丁目〜港区新橋1丁目
沿道の銀座商店街は明治始めの日本初のレンガ街を出発点として、 西欧風の新しいタイプの繁華街として発展してきた。 しゃれたデザインの街並みは、近代日本の象徴としてモダンなストリートライフを生み出してきた。
銀座三丁目交差点・四丁目交差点を過ぎて銀座五丁目交差点まで来ると、 「みゆき通り」の標識が出ていて、左右に交差する通りを指していました。 「みゆき通り」と云えば、「♪ふ〜たりのぎんざぁ」という あの「二人の銀座」がすぐに浮かんできました。 若かりし頃、恥じらいながら歌ったことを思い出したりしました。 旧東海道はこの先へと真っ直ぐに続いていますが、どんな所かと思って、 歌に出てくる「みゆき通り」と「すずらん通り」を歩いてみることにしました。 交差点を右折して「みゆき通り」を50mほど進んだ所にある一つ目の路地が「すずらん通り」になります。 入口には「SUZURAN ST」の文字が取り付けられたゲートがあって、 「銀座鈴らん通り」の銘板も出ていました。 そこから「すずらん通り」を南を指して歩いていきます。 すずらん通りは晴海通りと交詢社通りの間に続いていて、 銀座四丁目と銀座五丁目にかけての商店街になるようです。 若い二人も歩いたという往時を想いながら、今では静かな雰囲気になっている通りを歩いていきました。
すずらん通りが終わって、金春通りを進んでいきます。 左右に通る花椿通りと交わる所まで来て左折していくと、中央通りの銀座七丁目交差点に出ます。 その出口の両側にはヤブツバキが植えられていました。 出雲市から寄贈された木なのだそうですが、どのような謂われがあるのでしょうか。
ヤブツバキ
このヤブツバキは、平成4年6月、出雲市より寄贈されたものです。 「イズモツバキ」と命名され親しまれています。
 (東京銀座ライオンズクラブ)
新橋
中央通りに出てその先へ進んでいくと、 銀座八丁目交差点のすぐ先に、「銀座新橋」の文字がある高速道路の高架橋が架かっています。 「銀座新橋」というのは、銀座と新橋の境界という意味なのでしょうか。 銀座はここまでで終わって、この高架橋の先からは新橋になります。 交差点の左右に通る御門通りには枝垂れ柳が並木を作っていました。 まだ若い木だったので、植えられてからそれほど年数は経っていないようでした。
高架橋をくぐっていくと、左側に塔がありました。 解説板はありませんでしたが、京橋にあったのと同じくガス燈でしょうか。 形は少し違っていて、台座もフランス積みではありませんが、 「新橋」の銘板も嵌め込まれていたので、往時の新橋の親柱として使われていたものなのでしょう。 新橋が架かっていた川も、京橋川と同じく、高速道路の建設のために埋め立てられたのか、 川らしいものは見かけませんでした。
ガス燈のすぐ先には大きな枝垂れ柳が植えられていて、袂には「銀座の柳二世」の立て札もありました。 周りの植え込みには「銀座柳の碑」があります。 先ほどの高架橋をくぐったこちら側は、正確には銀座ではなくて新橋なのですが、 何故だかここに設置されています。 銀座に柳の並木が復活したことを祝った歌で、その前に流行った東京行進曲と同じ作詞者・作曲者のようです。 石碑には楽譜も載っていたのでMIDIファイルにしてみました。 【♪演奏
当初の銀座には柳が並木を作っていたようですが、 昭和4年に流行った東京行進曲の歌詞の最初に 「♪むかし恋しい銀座の柳」とあるように、 その頃の銀座には柳の並木はなく、別の樹種が植えられていたようです。 その歌が流行って柳を植えようという気運が高まり、柳並木が復活したようです。 それを祝った歌が銀座の柳で、ここにあるのはその「銀座の柳」の歌碑になります。
銀座柳の碑
西条八十 作、中山晋平 曲
植えてうれしい 銀座の柳 江戸の名残りの うすみどり
吹けよ春風 紅傘日傘 けふもくるくる 人通り
新橋交差点を直進していくと、ゆりかもめの新橋駅の高架があります。 その下をくぐって新橋駅前交差点を過ぎていくと、JRの線路の高架橋の下のトンネルをくぐっていきます。 トンネルから出ると、これまで歩いてきた国道15号は第一京浜国道とも呼ばれる道になります。 この道と交わるようにして続く、平面及び地下道になった環状2号線の建設が進められています。 左側にある浜離宮との間は高層ビル群などが建ち並ぶ街になるようで、完成イメージ図も載っていました。 看板では平成19年に工事終了予定となっていますが、遅れているのか、まだ終わっていないようでした。
江戸から現在そして未来へつなぐ汐留の街
新しいまちづくりが進んでいます。 業務ビル、高層マンション、ホテルなどが平成14年秋から順次、完成します。 これらの建物を結ぶ歩行者デッキの整備や日本最初の鉄道駅でもある新橋ステーションも復元されるなど、 住み・働き・そして訪れて楽しいまちをめざしています。 まちには地下鉄大江戸線、新交通ゆりかもめの駅が平成14年秋に開業予定しています。 基盤整備は、東京都による土地区画整理事業で、環状2号線、地下通路のある補助313号線、 浜松町駅近くの交通広場や公園などを整備し、建物は地権者や民間企業などが建築します。 事業施行面積約31haで、平成19年3月に終了予定、全体事業費は約1,500億円となっています。 この事業費の大部分は、地権者が出し合った土地の売却代金を充てていますが、 ガソリン税・自動車重量税の財源をもとにした国土交通省からの補助金も導入しています。
 (東京都第二区画整理事務所)
赤い鳥居の立つ日比谷神社を過ぎていきます。 東新橋歩道橋を過ぎていくと浜松町一丁目交差点があります。 その先へ進んで交差点まで来ると、「東京タワー」と書かれた標識が立っていて右側を指しています。 道路の右側へ渡って国道15号を150mほど進んでいくと、右手に「芝大神宮」と刻まれた石柱が立っていたので、 ちょいと立ち寄っていくことにしました。
芝大神宮の参道のようになった並木道を真っ直ぐ進んでいくと、正面に大きな鳥居があります。 左右には「御神燈」と浮き彫りされた立派な灯籠が立っています。 その外側には「貯金塚」や「生姜塚」もありました。 左側には芝大神宮祈祷殿もありましたが、鳥居の先に続く石段を登っていきます。
貯金塚
根氣根氣何事も根氣 實篤
貯金と厄災
厄災は忘れた頃来るという。 関東の大震災も亦然り。 當時の惨状は言語に絶し東京は焼野原と化し、政府は直ちに支拂猶豫令を布いた。 然るに其中にあってひとり貯金の金額拂戻しを断行し、大東京の復興に多大の貢献をした銀行がある。 其名を不動貯金銀行という。 即ち牧野元次郎翁が頭取であった。 其不動貯金銀行本店の當時の焼跡から出た欄桿片二個は(関東大震災記念石天沼雄吉寄贈)之である。 倉は焼けても貯金は焼けぬ
 (昭和廿二年正月不動会建之)
芝大神宮
幅の広い石段を登っていくと、正面に芝大神宮の社殿があります。 社殿の屋根には6本の鰹木が乗り内削ぎの千木が聳えていました。 手前の両脇には「め組」と刻まれた台座に乗る狛犬が控えていました。 由緒書きは見かけませんでしたが、「芝大神宮の文化財」の解説文や神社の名前などからすると、 祭神は天照大御神と豊受大御神になるのでしょうか。
芝大神宮の文化財
社伝によれば平安時代の中頃(1005年)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる区内有数の古社である。 毎年九月中旬には「だらだら祭」とよばれる祭礼がおこなわれ、 江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られていることで地元とのつながりが深い。 所蔵する文化財として、絵画では江戸末期の建部巣兆の箱根詣図(紙本墨画淡彩)などがある。 古文書では建武四年(1337)正月七日の足利直義御教書(勝利の祈祷を依頼したもの)、 天正十六年七月二十四日の吉良氏朱印状がある。
 (東京都港区教育委員会)
社殿の右手には社務所があり、左手には手水舎や力石や歌碑などがありました。
御手水舎について
此の御手水舎は崇敬の念篤い氏子皆様の御芳志により、今年の例大祭を期し九月十一日に落成致しました。 茲に謹で御礼申し上げます。 様式は四本柱の外側に二本の柱が棟を支えている(之を棟持ち柱と云う)神明造りを形どったもので、 全国でも稀に見る珍しいものです。
用材 木曽桧、 水鉢 浮金黒御影本磨、 屋根 銅板葺
 (昭和41年9月吉日 芝大神宮)
有形民俗文化財 芝大神宮の力石
力石は重い石を持ち上げて「力餅べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石である。 特に、江戸時代後期の文化・文政期には、職業的な力持ち力士による興行が行われるようになった。 芝大神宮の力石は、「五十貫余」の切付とともに、「川口街 金杉藤吉」の名前がある。 これは、明治時代に活躍した有名な力持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶応三年生)、 通称「金杉の藤吉」のことである。 芝大神宮で力持ちの興行が行われた時、金杉の籐吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている。 港区内には、全部で十四点の力石が確認されているが、 こうした力持ち力士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮の力石のみであり、 都市の力石の民俗を知る資料として貴重なものである。
 (東京都港区教育委員会)
芝大神宮から国道15号に戻ってその先へ進んでいきます。 大門交差点を過ぎていくと、道路の左側に「濱松町−町名の由来」と題した案内板がありました。
濱松町−町名の由来
武蔵野の東南端、広く海に面したこの辺りは、その天然資源も豊かなる為、古くより人間生活が営まれ、 古墳時代の遺跡として今も芝公園台上に残る、大古墳跡に見られる如く集落を形成。 漁業を中心とする活動が盛んであったと思われ、その関係が古く由緒ある社寺(芝大明神等)が近隣に現存する。 その後乱世を迎え太田道灌、平川城(江戸城の前身)を築く頃には、町らしい形態に成長したと考えられ、 天正18年(1590)徳川家康の江戸城入城を見、城下町計画に着手。 慶長3年(1598)その菩提寺増上寺を麹町より現在地に移転、更に武家を中心に町年寄、特権商人、 地元住民による東側海浜地帯の埋立工事完成。 慶長6年(1603)東海道を現国道15号線上に定め、 此の東西両側には日常生活用品から産業用資材まで各種商人が軒を連ね商業地域の中心となり、 その両後背に大名屋敷が並ぶ江戸の町が出現した。 当時此の町は増上寺代官と兼務であった、名主奥住久右衛門の支配下で「久右衛門町」と呼ばれ、 元禄年間には遠近(静岡県)浜松出身の権兵衛と言う名主と交替した事により、 これ以降「濱松町」に改名され、明治、大正、昭和、平成と受継がれ現在に続いている。 江戸では歴史ある数少ない「古町」のひとつである。 尚、当町内には多くの史跡、旧跡(慶応技術跡、新銭座跡、東京市電車庫第一号跡等)が点在している。
 (加藤辰太郎)
上記の解説文で、「慶長6年(1603)」とありますが、和暦と西暦の対応が違っているように思えます。 和暦が正しいとすると西暦は1601年、西暦が正しいとする和暦は慶長8年になるはずなのですが、 いずれが正しいのかはこの解説文だけではよく分りません。
金杉橋
浜松町二丁目交差点を過ぎていくと、金杉橋北交差点の先に高速道路の高架橋があります。 その下には古川が流れていて金杉橋が架かっています。 橋を渡っていくと、古川には船が沢山係留されていました。 屋形船もかなり見られました。 こんな船に乗って東京湾をのんびりと観光するのも風情がありそうに思えました。
金杉橋南交差点・芝歩道橋・芝一丁目交差点と過ぎていくと、 少し曲がった形の十字路になった芝四丁目交差点があります。 「旧海岸通り」の標識が立っていて左手の道を指していますが、右へ曲がっていく国道15号を進んでいきます。 芝五丁目交差点を過ぎた所のビルの前に、 「江戸開城 西郷南州勝海舟會見之地」と題した記念碑がありました。 会見の様子を描いた浮き彫りの絵や、 往時の地図「芝三田二本榎高輪邉繪図」もありました。 この絵図で「田町駅」の前にある「薩州」と書かれた区画が、薩摩藩屋敷があったというこの場所になるのでしょうか。
江戸開城 西郷南州勝海舟會見之地
田町薩摩屋敷(勝・西郷の会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、 西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。 この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で、 当時薩摩藩国元より船で送られて来る米などはここで陸揚げされました。 現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、 この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。 また人情噺で有名な「芝浜の革財布」はこの土地が舞台です。
高輪大木戸跡
田町駅西口交差点を過ぎていくと、X字路になった札の辻交差点があります。 「札の辻」という名前が示す通り、かつては高札場があった所のようです。 歩道橋を渡って、正面に続く国道15号を進んでいきます。 三田歩道橋の下を過ぎていくと、高輪大木戸跡交差点があります。 そのすぐ先に高輪大木戸跡があります。 石垣で円く囲まれた盛土の先には「史蹟 高輪大木戸址」と刻まれた石碑が立っていました。 この石垣は往時のもので、今回の旧東海道の散策で見かけた江戸時代の数少ない遺構になります。 日本橋から続いてきた「江戸」の範囲はこの高輪を区切りとし、ここで旅人の送迎が行われたようです。 往時の旅は早立ちが普通で、日本橋を七つ(朝4時)に発って、この高輪に着く頃になって夜が明け、 携えていた提灯の灯を消したということです。 その様子は「お江戸日本橋」という歌で、 「♪お江戸日本橋 七つ立ち…高輪 夜明けて ちょうちん消す…」と歌われています。 解説文を読んだりしながら、ここでひと休みしていきました。
石碑の題字は道路側に刻まれていて、歩道からは見えにくくなっています。 車道からも生け垣が邪魔をして見えないと思われ、立てる向きの再考が必要と思われます。 (写真は振り返って撮影)
史跡 高輪大木戸跡
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。 享保九年(1724)に現在地に移された。 現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792など諸説がある。 江戸の南の入口として、道幅約六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、 夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。 天保二年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。 この高札場は、日本橋南詰・常磐橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。 京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、 付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、 高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、 東京に残された数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。 震災後「史蹟名勝天然紀念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
 (東京都教育委員会)
高輪大木戸跡を後にして国道15号を進んでいくと泉岳寺交差点があります。 その手前には「泉岳寺」の標識が出ていて右手の道を指しています。 旧東海道は正面へ続いていますが、忠臣蔵で有名な泉岳寺に立ち寄っていくことにしました。 交差点を渡っていくと、角の二階の屋上に稲荷神社がひっそりと佇んでいました。 入口には「稲荷神社」と刻まれた石柱が立っていて、脇には石灯籠や石碑などが幾つか並んでいました。 往時に使われていたものなのでしょう。 以前には地上にあったのでしょうが、開発の波に押されて、 現状の窮屈な位置を余儀なくされたように思えました。
国道15号から分れて右手に続く道を進んでいきます。 右へ曲がっていく角まで来ると、道端に「播州故赤穂藩 四十七義士…」と刻まれた石碑が立っています。 その脇には「歴史と文化の散歩道」の解説板が設置されていて、「高輪潮の香散歩」が紹介されていました。 右へ曲がっていく車道から分れて、左正面へ続く道に入っていきます。
歴史と文化の散歩道
この散歩道は、長い歴史が育んだ伝統と新しい東京の文化を訪ねる道です。 私たちのふるさと東京を知る道しるべとしてください。
高輪潮の香散歩
高輪潮の香散歩道は、伊皿子坂から品川駅までの約1.5kmのみちのりです。 赤穂浪士で有名な泉岳寺を後にして、かつては海沿いの道であった東海道を歩きます。 品川駅あたりでは潮干狩りが行われ、江戸庶民の行楽地として賑わっていました。
東海道と泉岳寺
江戸時代、このあたりの東海道は後ろに小高い台地、前に江戸湾を臨む海沿いの道だった。 背後の高輪台地には、四十七士で知られる泉岳寺をはじめ由緒ある寺院が多い。 また付近には、幕末の頃最初のイギリス公使宿館となった東禅寺がある。 台地の上からは眺望絶佳。東海道第一の宿場"品川"も間近に望めた。 昭和の文人永井荷風は、この界隈からの眺めを次のように記している。
品川の御台場依然として昔の名所絵に見る通り道行く人の鼻先に浮かべる有様…
車道と分れた道を真っ直ぐに進んでいくと、正面に泉岳寺の中門があります。 木柵が施されていて、重々しい雰囲気のする門でした。 「萬松山」の扁額の掛かる中門を過ぎていくと、門前町のような感じで物産店などが軒を並べていました。
港区の文化財 泉岳寺中門
切妻造、本瓦葺、一間一戸四脚門で、天保七年(1836)に再建されたものです。 左右に袖塀を持ち、正面右手には通用門を持っています。 また、番小屋を配し、禅宗寺院の中門の様式の中でも格式の高い様式を残した門です。
 (港区教育委員会)
小さな石製の太鼓橋を過ぎていくと、「泉岳寺」の扁額の掛かる特大の山門がありました。 右側には参拝総合案内所や「大石内蔵助良雄」と題した石像が建っていました。 山門は木柵で閉ざされていますが、天井を覗いてみると、銅製の大きな龍が嵌め込まれていました。 「参拝順路」の立て札に従って、右手の渡り廊下の間から境内へ入っていきます。
港区の文化財 泉岳寺山門
入母屋造、本瓦葺、三間一戸八脚門で、天保年間にに再建されたものです。 楼上に極彩色の十六羅漢像が安置され、階下の天井には銅彫大蟠龍がはめ込まれています。 区内に残された楼門建築は、他に増上寺三解脱門があるだけで、貴重な遺構です。
 (港区教育委員会)
開門時間・閉門時間
四月から九月まで 七時〜六時
十月から三月まで 七時〜五時
 (当山 執事)
一、当山や慶長十七年(1612)徳川家康公の創立(曹洞宗江戸三ヶ寺の一つ)
   開山は門庵宗席禅師(今川義元の孫)
一、山門建立は三十四世 大道貞釣る和尚(天保三年)
天井の龍 関義則作(日本彫金の元祖)
 (禅曹洞宗 泉岳寺)
泉岳寺
広い境内の正面に泉岳寺の本堂がありました。 本堂の正面には「獅子吼」の扁額が掛けられていました。 右側には寺務所と思われる立派な建物もありました。 山門の先の両側には大きな松の木が生えていて、周囲は竹柵で囲まれていました。 古くからあるお寺であることを感じさせます。
泉岳寺の義士祭について
浄瑠璃本「仮名手本忠臣蔵」やこれを踏まえる芝居・小説・映画等によって広く知られる「赤穂事件」は、 単なる復讐の物語としてではなく、義を重んじて行動した人々の美挙として受け止められてきました。 元禄十四年三月十四日(1701年4月21日)、浅野内匠頭公は江戸城中において刃傷に及び即日切腹を仰付けられました。 翌十五年十二月十四日、吉良邸へ討ち入った浅野家遺臣四十七名は、同十六年二月四日に切腹して果てられました (但し寺坂吉衛門一名は大石氏の指示により落ちのび、後世まで彼らの美挙を伝えたといいます)。 浅野公の御命日である三月十四日(4月21日)、討ち入りの日である十二月十四日、 そして遺臣方の御命日となった二月四日には、当寺において法要を修し回向しております。 またこれらの日には、墓所へ手向けられる香華もひときわ多くなります。 現在、泉岳寺では年に二度の義士まつりを修しております。 ひとつは四月一日から七日までの春の義士祭で、浅野公の御命日に因むものです。 戦前までは、四月二十一日を含む四月のひと月間、赤穂君臣への回向をしております。 またこの期間の午後には当寺が収蔵する書画の軸を本堂において公開しております。 いまひとつは十二月十四日の義士祭で、申すまでもなく吉良邸への討ち入りの日に因むものです。 墓前での読経回向と、本堂に当寺の壇信徒等を集めての法要等が営まれております。 露店等も出る境内での賑わいは、報道等によって皆さまご存じの通りです。
境内の左手に「史蹟 赤穂義士墓所」と刻まれた石柱が立っています。 脇には水琴窟がありました。 瑶池梅・血染の石・血染の梅・首洗井戸・筆塚を過ぎていくと、石段の上に門があります。
港区の文化財 浅野長矩及び赤穂義士墓所門
切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、 もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。 大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、 明治初年に取り払われる際にこの場所に移築されました。 大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として重要です。
 (港区教育委員会)
義士への鎮魂
大石内蔵助による元禄十四年(1701)の赤穂城明渡しは実に手際よく、見事なものであったと言う。 歴史によればその六年前に備中高梁の松山城がお世継ぎ不在のために改易となり、 明渡しの労をとったのが大石であった。 備中高梁には水琴窟を考案した小堀遠州が国奉行として慶長九年(1604)から滞在し、 遠州の手になる頼久寺庭園が今も残されている。 内蔵助も執務のかたわら水琴窟の妙なる音色に耳を傾け、疲れを癒していたのではないだろうか。 主君に忠誠を尽くして散った史十七士の崇高な精神に心から敬慕の念をこめて、水琴の音を捧げたい。
 (赤穂市長棟造園)
赤穂義士墓所
門をくぐっていくと、赤穂義士四十七名の墓石が並んでいました。 手前には各々の義士の墓石の場所を記した案内図がありました。
義士墓解説
赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。 家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため、 元禄十五年(1702)十二月十四日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、 その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。 義士一同は、十二月十五日夕刻細川家(十七名)、松平家(十名)、毛利家(十名)、水野家(九名)の四家に預けられた。 翌元禄十六年二月四日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。 直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。
高輪神社
泉岳寺から国道15号に戻って、その先へ進んでいきます。 3分ほど進んで集合住宅の角まで来ると、右手に「高輪神社」と刻まれた石柱が立っていて、 その先には鳥居や社殿が見えていたので、立ち寄っていきました。 鳥居の先の石段を登っていくと、正面に高輪神社の社殿がありました。 真新しい感じの建物ですが、本殿と拝殿になった立派な社殿でした。 本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 神社の由緒を記したものは見かけませんでした。
社殿の右側には社務所のような建物があり、左側には神輿殿がありました。 神輿殿の屋根にも7本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 中を覗ってみると、大柄の神輿が二つ並んでいて、 それらの前には「宮神輿」と「太子宮」と書かれた立て札がありました。 「高輪神社の力石」や石碑などもあり、 神輿殿の前の塀には浮き彫りの絵が描かれていました。
港区の文化財 高輪神社の力石
社殿前の左右に一個ずつ置かれた力石です。 力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、 あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、 江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。 ひとつは「奉納」「五拾八貫目」「芝伊皿子町仁右衛門」「麻布□□町喜三郎」の文字が刻まれた 長径八〇センチメートル、短径四六センチメートル、厚さ二十八センチメートルの安山岩製で、 区内にある重量が刻まれた力石の中では最も重いものです。
 (港区教育委員会)
高輪神社から国道15号に戻って、その先へ進んでいきます。 高輪二丁目交差点まで来ると、右側の角に「高輪海岸の石垣石」と題した解説板があり、 高輪海岸沿いに造られた石垣に使われていたという石が幾つか並べられていました。 この交差点から右手に続く坂道は「桂坂」で、少し先の横には「洞坂」もあります。 ここは交差点を直進していきます。
高輪海岸の石垣石
ここに展示されている石は、江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。 平成7年(1995)、高輪二丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。 石垣には、主に相模湾から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。 発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。 正面の小ぶりの石が積み直されたものです。 3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。
 (港区教育委員会)
桂坂  かつらざか むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこって、 かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。
洞坂  ほらざか 法螺坂・鯔坂とも書く。 このへんの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。 異称も多く、文献は位置を東禅寺南方とする。
 (港区)
高輪二丁目交差点から国道15号を200mほど進んでいくと高輪歩道橋があります。 その手前から右手へ分れていく道の先に東禅寺があるので、立ち寄っていきました。 桜並木が続く道を進んでいくと、左側に高輪公園があります。 何段かになった上から水が流れ落ちていて、涼を得るのに良さそうな所でした。 そこを過ぎて少し登り坂になった道を真っ直ぐに進んでいくと、正面に東禅寺の山門があります。 その前には「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡」と刻まれた石柱が立っています。 山門の左右には仁王像が立っていました。 「東禅寺」の扁額が掛かる山門を抜けて、その先に続く雰囲気のいい参道を進んでいきます。
都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡
安政五年(1858)七月に締結された日英通商条約により、翌六年六月六日、 イギリス初代公使オールコックらがここに駐在し、わが国最初のイギリス公使宿館となった。 文久元年(1861)五月二十八日夜、水戸浪士の襲撃事件、同二年五月二十九日夜、 警固士のイギリス人殺傷事件があったが、明治六年(1873)ころまで使用された。 当時、公使館に使用されたのは大玄関および書院と奥書院であったが、 現在その一部である奥書院(5.4×9.0メートル)と玄関が旧時のままよく保存されており、 その他は昭和初年に改築された。
 (東京都教育委員会)
東禅寺
外界と隔絶された森の中のような感じのする参道が続いています。 季節柄、セミが賑やかに鳴いていました。 両側にはスダジイやケヤキなどの樹木がびっしりと植えられていて、 港区の保護樹林にも指定されているようでした。 少し右へ曲がっていくと、正面に鐘楼があり、その左奥に宝物庫のような建物がありました。 左手に東禅寺の本堂がありました。 手前には柵が設置されていて、近づくことは出来ませんでしたが、 「海上禅林」と書かれた扁額が掲げられている大きなお堂でした。 本堂の左側には立派な佇まいの三重の塔が建っていました。 本堂と棟続きになった右側の建物は庫裡でしょうか。 お寺の謂われを記すようなものは見かけませんでした。
人生の目的を明確にして精一杯大事に生きる人は どんな苦しい試練にも確かな生き甲斐がある。
挫けないで、あきらめないで、負けないで、みほとけは堪えられない試練はあたえない。
大丈夫 ぶれない生き方 ゆずれない正義
品川(しながわ)駅
東禅寺から国道15号に戻って、高輪歩道橋を過ぎてその先へ進んでいきます。 右へ分れていく道を二つ見送って直進していくと、高輪歩道橋から300mほどの所に品川駅前歩道橋があります。 歩道橋を渡って道路の左側へいくと、品川駅(JR東海道線)があります。
品川駅を過ぎた先で、国道15号から分れて八ッ山橋を渡っていくと、 東海道五十三次の最初の宿場であった品川宿になりますが、 今回はここで散策を終えることにしました。 日本橋を出立した往時の旅人は、品川宿・川崎宿・神奈川宿・保土ヶ谷宿と過ぎて、 日本橋から約43kmの所にある戸塚宿で最初の宿泊をすることが多かったようです。
品川駅の前には「品川駅創業記念碑」があります。 裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されていました。 それによると、上りと下りの列車本数は、朝方と夕方に各々1本ずつしかない状況で、 品川−横浜間を35分で走っていたようです。 片道運賃は、上等が1円50銭、中等が1円、下等が50銭だったようです。
品川駅創業記念碑
品川駅では、明治5年5月7日(新暦6月12日)を駅の開業日にしています。 何故かというと、新橋・品川間の工事が遅れたため、この日に品川・横浜間で仮開業したからです。 新橋・横浜間で本営業を開始したのは仮開業から4箇月後の明治5年9月12日(新暦10月14日)でした。 それを記念して、今日では10月14日を「鉄道の日」としています。 品川駅は日本で一番古い鉄道の駅といえます。 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年4月に建之されたもので、 揮毫者は参議院議長をつとめた大野伴睦氏です。 記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 (JR東日本 品川駅)