平塚宿
散策:2009年07月上旬
【街角散策】 平塚宿
概 要 平塚宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋から7番目の宿場になります。 問屋場が二つあって賑わう宿場だったようですが、 先の大戦や区画整理などによって、往時を偲ぶ面影は殆ど残っていません。 今回は辻堂駅から歩き始め、街道沿いの寺社などを訪ねながら、 間の宿でもあった茅ヶ崎を経て平塚宿へと向かっていきます。
起 点 藤沢市 辻堂駅
終 点 大磯町 花水バス停
ルート 辻堂駅…二ツ家稲荷神社…上正寺…千手院…海前寺…八王子神社…茅ヶ崎一里塚…第六天神社…南湖の左富士…鶴嶺八幡宮…神明神社…旧相模川橋脚…信隆寺…馬入橋…馬入一里塚…江戸見附…脇本陣跡…高札場…東組問屋場跡…本陣旧跡…西組問屋場跡…要法寺…平塚の塚…京方見附…花水橋…善福寺…花水バス停
所要時間 5時間50分
歩いて... ほとんどが車道を歩くコースなので、あまり風情はありませんでした。 現存する史跡は殆ど無いものの、途切れ途切れに松並木があったり、 解説板が設置されていたりもして、往時を偲ぶことが出来ました。 街道からかなり離れた寺社に立寄ったりもしたので、予想以上に長い時間がかかりました。
関連メモ 藤沢宿, 大磯宿
コース紹介
辻堂(つじどう)駅
辻堂駅(JR東海道線)から歩いていきます。
改札を出て北口へ進んでいくと、新たな交通広場の建設中になっています。 まだ完成していないようでしたが、陸橋の部分は歩いていくことができました。 突き当たりを道なりに右へ進み、その先にあるエスカレータで地上へ降りていきます。
辻堂神台一丁目交差点を直進して、その先の自動車販売店の角を左折していきます。 携帯電話販売店を過ぎた所のT字路を右折して、遊水池の先にある本立寺墓園の前まで来ると、 道の脇に大きな松の木が何本か生えています。 かなり太い幹をしているので、100年以上は経っていそうな感じでした。 江戸時代から街道の脇に生えていたのでしょうか。 墓園の前を左手へ進んでいきます。
遊水池
この施設は遊水池です。 大雨のとき、雨水を一時貯めて、河川へ少しずつ流し、 河川の氾濫や洪水を防ぐ、大切な役目をしています。
面積37.4平方m、 貯留量3.74立方m、 水深0.1m
注意:大雨の時は、危険ですから中に入らないでください。
 (大京アステージ湘南支店)
神台公園
十字路を直進して、メモリアルホールの右脇を過ぎて塀沿いに進んでいくとY字路があります。 広めの道は左へ曲がっていきますが、正面に続く細めの道を進んでいきます。 民家を過ぎて細い路地になってくると、左側に神台まちかど公園があります。 その少し先には神台公園があります。 街中にある静かな公園で、真ん中が運動場になっていて、 周囲には草地や花壇や藤棚などが取り巻いていました。 この時にはクローバーが沢山咲いていて、良い匂いを漂わせていました。
二ツ家稲荷神社
カーブミラーの設置された十字路を直進していくと、 駐車場の先の十字路を過ぎた左手に小さな公園があります。 更に直進して白い塀沿いに進んでいくと、辻堂駅から21分ほどで国道1号に出ます。 平塚宿へは左手へ進んでいくのですが、 右手すぐの所にある二ツ谷公民館前交差点を渡った先に二ツ家稲荷神社が見えているので立寄っていきました。 「二ツ家稲荷」の扁額が架かる鳥居の先の石段を登ると、 「稲荷大明神」の扁額が掛かる鳥居の先に社殿があります。
「谷」と「家」が混じった標記になっていましたが同じ意味のようです。
二ツ家稲荷神社歴表
当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七 年六月并ニ天明六年九月再築享 和三年二月新築天保九年二月再 建是マデ修繕致シ束リ今回大破 ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ 度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼 テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築 費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也 明治三十九年氏子一同協議之上新 築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格 社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠 右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大 正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ 神台四二六番地ニ新築セリ 昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時 ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地 (参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城 南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年 屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外 装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志 ニ依リ玉垣ヲ奉献ス
 (二ツ家稲荷神社氏子中)
神社の境内には二ツ家公民館や庚申供養塔があり、「二ツ谷」の由来を記した看板もありました。
二ツ谷
江戸時代、大山詣で帰りの道者や信者たちが宝泉寺へ詣り、 さらに江ノ島・鎌倉方面へ向う途中の休憩所(立場茶屋)として二軒茶店があったことからといわれています。 又、「二ツ家」が本来の地名であったとも伝えられています。
 (藤沢市)
藤沢市指定重要文化財 庚申供養塔
庚申信仰は、十干・十二支の組合せにおって六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、 その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。 その源流は、「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする中国の道教の教えに由来している。 江戸時代、万治・寛文頃(1658〜1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、 「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、 徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。 二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高105cm、蓮辧型で、 造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。
 (藤沢市教育委員会)
二ツ家稲荷神社を後にして、旧東海道でもある国道1号を平塚宿へと向かっていきます。 二ツ谷バス停前交差点を直進していくと、大山街道入口交差点があります。 右側に松の木が生えていて、その袂に「奉巡礼西国坂東秩父」と刻まれた石碑がありました。 側面には「あふり山わけ入る道にしおり置くつゆの言の葉しるべともなれ」と刻まれていました。 交差点の名前や石碑などからすると、ここから右手へ分れていく道は大山街道だったのでしょうか。
大山街道入口交差点を直進して「茅ヶ崎」の道路標識を過ぎて茅ヶ崎市へ入っていくと、 道の両側には松並木がしばらく続くようになります。 いつ頃から生えている松なのかは分かりませんが、かなり大きな木もありました。 赤松町交差点や赤松歩道橋を過ぎていくと、「日本橋から55km」の標識が立っていました。 その辺りで、松並木は一旦途切れます。
上正寺
東小和田交差点を過ぎて上正寺前交差点までくると、右側に上正寺がありました。 山門の脇には「親鸞聖人御像」と題した像が立っています。 「浄土真宗本願寺派 上正寺」の表札が掛かる山門から境内へ入っていくと、 石畳の参道の奥に本堂がありました。 右側には真新しい庫裡か会館のような大きな建物がありました。
茅ヶ崎市指定重要文化財 上正寺の聖徳太子像
寄木造り、玉眼嵌入。 上半身は肌部は素木に古色仕上げし、袴は朱彩が施されています。 この姿は、聖徳太子が二歳のとき、東方に向かって「南無仏」ととなえ合掌すると、 手の中から舎利が出たという伝えを表し、「南無仏太子」とよばれます。 太子が自ら彫刻したという言い伝えを有していますが、室町時代の作と考えられています。
茅ヶ崎市指定重要文化財 上正寺の旧寛永寺石灯籠
東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた灯籠が本市にもたらされたものです。 寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、竿石にある銘から、 延宝9年(1681)、前年に亡くなった四代将軍徳川家綱の墓前に、 対馬守安藤重治(重博)が奉納したものであることが分かります。
 (茅ヶ崎市教育委員会)
此処を名付けて「浄土庭園」という(回遊式)。 日頃の雑踏から逃れて、先祖のおわす此の境内に佇み乍ら、 阿弥陀如来の慈光の下、宗祖親鸞聖人の温容に抱かれて、 心のやすらぎを覚えることは、永生への一途に通ずると信ずるが故である。 _造園に際し、設計施工はもちろん、終始綿密な計画を以て自己の利益を度外視して尽力された大八木信昭氏に対し 壇信徒一同と共に心からの敬意を表するものである。 _晴にして清水工務店殿(代表清水五郎氏)の四阿の寄進、加えて壇信徒有志の物心両面の賛同を頂き、 ここに念願は成就した。 唯々感謝の中に合掌念佛し、後世に此の芳志の継がれん事を祈るのみである。 合掌
上正寺から引き返して旧東海道の国道1号を進んでいきます。 ラーメン店や消費者金融店などが入居する集合住宅まで来ると、 その先から左へ入っていく路地の奥に祠が見えたので、ちょいと立寄っていきました。 突き当たりの曲がり角に建つ祠に、 お地蔵さんや「南無地蔵大菩薩」,「百万遍供養塔」,「念佛講中供養塔」と刻まれた石碑が安置されていました。 中にあった板によると「地蔵堂」というようです。 その横にも小祠があって石仏が安置されていました。 振り返った所の道の曲がり角にも石仏が佇んでいて、石仏などが集まった所になっていました。 綺麗な花がお供えされていて、今でも手篤く祀られているようでした。
千手院
元の道まで引き返してその先へ進んでいくと、左側に「高野山真言宗 千手院」と刻まれた石碑が立っていました。 そこから左手に続く道へ入っていくと、正面に千手院の本堂がありましたが、 右手には庫裡と思われる建物や、閻魔十王堂や稲荷堂や石仏などが並んでいました。 左手から奥にかけては墓地になっていました。 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
小和田交差点・小桜町交差点と過ぎていくと、右側に松の木がひとつ生えていました。 「日本橋から56km」の標識を過ぎて、小和田池袋交差点・松林小学校入口交差点を過ぎていきます。 菱沼歩道橋の下を過ぎていくと、道の両側に再び松並木が続くようになります。 松並木が途切れてしばらく進んでいくと松林中学校入口交差点があります。 左手には送電線の鉄塔「東陶線20」や「東陶線19」が立っています。 交差点を直進して茅ヶ崎市本村二丁目歩道橋を過ぎていくと、また松並木が続くようになります。 かなり太い木もあるので、かなり昔から生えているようでした。
「日本橋から57km」の標識を過ぎて茅ヶ崎高校前歩道橋の手前まで来ると、 右側に「東海道の松並木」と題した解説板が設置されていました。 二ツ家稲荷神社から1時間ほどの所になります。 解説板によると、この辺りの松並木は樹齢400年ほどもあるようで、 江戸時代よりも前の安土桃山時代から生えている古木のようです。 安藤広重の浮世絵「南湖の左富士」も載っていましたが、 「左富士」が見えたのは、ここから2.5kmほど西寄りの所で、 千ノ川に架かる鳥井戸橋の辺りになるようです。
東海道の松並木
茅ヶ崎市内の国道1号線沿いの黒松は 幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定)2.2メートル(推定樹齢400年)の大きな松が育っております。 遠い昔より、地域の人達に親しまれ、江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、 この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれております。 長い間風雪に耐え、今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。 みんなで大切にしましょう。
 (茅ヶ崎市教育委員会、茅ヶ崎の文化財を守る会、建設省)
市立病院入口交差点を過ぎていくと、右側に「曹洞宗 海前寺」と刻まれた門柱が立っていたので、 そこから右手へ続く路地へ入っていきました。 豆腐料理店や生け垣などを過ぎていくと、正面に立派な山門がありました。 「曹洞宗 海前禅寺」と刻まれた石柱が立っていて、門の両脇には仁王像が控えていました。 覆いなどはされておらず野晒し状態になっていて、珍しく思いました。 左側には六地蔵や大きな石灯籠もありました。
この石灯籠は台徳院殿徳川第二代将軍秀忠菩提の為め、慶安4年(1651)辛卯7月、 筑後久留米城主二十一万石従四位下有馬中務少補源朝臣忠頼の奉献したものである。
海前寺
山門から境内へ入っていくと、正面に海前寺の本堂がありました。 左手には立派な鐘楼があり、本堂の前にも大きな石灯籠がありましたが、 お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
平和
今も世界のあちらことらで国々の対立、民族間の争いが絶えません。 特に戦争は人間の利己的な考え方や利害関係によって引き起こされています。 同じ人間同士が何故どうしてお互いに憎し合い争わなければならないのでしょうか。 お釈迦さま「アサンヒー」といって不害(害せず)即ち他を害せずことなかれと教えられています。 人のおもいはいずこへいくこともできる。 されどいずこへおもむくこと、人はおのれより愛しいものを見いだすことはできぬ。 そのとおなじく他の人々にも自己はこの上なく愛しい。 さればおのれの愛したことを知るものは他のものを害してはならぬ。 私たちはともに喜びを分ちあいる平和は社会の実現に目指したいものです。
 (海前寺)
(誤記と思われる文字も見受けられましたが、そのまま掲載しておきます)
松無心 鐘もしきりか 寺の四季
 (為有縁無縁諸精霊、奉納黒松追善供養也)
この石灯籠は淳信院殿徳川第九代将軍家重菩提の為め、宝暦11年(1761)辛巳6月12日、 従五位下堀長門守藤原直寛の奉献したものである。
八王子神社
本村交差点を直進して、左側にある洋館のような建物を過ぎていくと八王子神社入口交差点があります。 平塚宿へは交差点の先にある茅ヶ崎市本村一丁目歩道橋を過ぎていくのですが、 その前に、右手の先にある八王子神社へ立寄っていきました。 集合住宅の脇に続く坂道を降っていくと、緩やかになった先に八王子神社がありました。 「八王子神社」の扁額が掛かる注連縄が渡された鳥居の両脇には、 立派な狛犬が控えていて、これらにも注連縄が掛けられていました。
八王子神社由緒沿革
祭神 天照大神と須佐之男命の誓約の基に生まれた五柱の男神と三柱の女神
天之忍穂耳命 天之菩卑能命 活津日子根命 天津日子根命 熊野久須毘命
田心姫命 市杵島姫命 _津姫命
神徳 家内安全、身體壮健、交通安全、武運長久等の郷土開拓の守護神で、 往古は郷民の崇拝の外、旅人の道中安全祈願のため賑わったと伝えられている。
沿革 創立年代は不詳なれど、社領地内に郷民が祖先の墳墓を築き、その霊を社に記して、 八王子権現として敬神崇祖の誠を表したものと思われます。 当神社を中心とする一帯を本村と称するは、茅ヶ崎発祥の本源を立証するものであります。 鎌倉幕府開府後は、将士の武運長久を祈る者多く、元弘参年(1333)五月拾八日、 新田義貞鎌倉討入の際、当神社に祈請し、神火を拝げて兵勢を挙げ、北条氏を滅し、 依って建武貳年(1335)上洛の途次社参し、社殿を改修し奉齋の誠を捧げております。 慶安貳年(1649)徳川将軍家より社領の寄進も有り、 延享参年(1746)拾壱月には社殿を大きく再興されております。 天保拾壱年(1840)子歳秋八月、拝殿幣殿が再興されております。 明治維新の際は、八王子権現を八王子神社と改称し、 圓蔵寺の別当を停め、明治四拾年(1907)四月指定村社に列格されました。 現在の社殿は関東大震災後、氏子の方々の浄財奉納に依って、 昭和貳年(1927)四月、再建されたものであります。
鳥居をくぐっていくと、正面に社殿がありました。 社殿の左手には立派な鐘楼がありました。 また合祀されている神社なのでしょう、本村八坂神社・本村天満宮・本村稲荷大明神などの立派な社もありました。 また注連縄の張られた「公孫樹」や、丸長の形をした「力石」もありました。 右手は広場のようになっていて、この時には大勢の少女たちがバトンの練習をしていました。
鎮守 八王子神社 鋳師 京都岩澤徹誠
当八王子神社には、元禄拾五年(1702)壬午八月、伊藤興左エ門外七拾一名奉献の名鐘が在し、 その名音は日々の生活に活気を興え勇気を鼓舞し、朝夕氏子に親しまれしも、 大東亜戦争中供出の犠牲となり、貴き姿を消す。 爾来、名鐘の音を慕う声絶えず、遂に神社役員及び志を同じくする氏子等相謀り、 浄財の奉賽を得て之を再興す。 鐘音永久に氏子の幸福と平和を護るものなり。
 (八王子神社 宮司 桜井正明) 鐘を撞く際は一礼をして撞いて下さい。回数一回
 (八王子神社)
本村八坂神社
御祭神 須左之男命、御神徳 五穀豊穣・招福・疫病除く、創立年月不詳
須左之男命、人間の罪穢れや悲しみ喜び生死といった自然界・人間界の避け難い運命を一身に負いながら、 それを良い方向に導くため苦労をなさった弟神様で、 祇園さま・氷川さま・熊野さま・天王さまとも呼ばれました。
 (宮司 桜井明彦、神社役員一同、氏子一同)
本村天満宮
御祭神 菅原大神(菅原道真公)、 御神徳 学業向上・受験工学への導きの神
創立年代不詳なれど、古老の記憶する限り、古きより当神社境内に末社として祀られていました。 近年に至り、社殿老朽化しつつある状態であり、 此の度、氏子岸芳雄氏・伊藤岩治氏の赤誠な御芳志により再建されたものです。
本村稲荷大明神
稲荷信仰は和銅4年(711)2月壬午の日に京都の伏見の稲荷山に祀られたのにはじまり、 その年は五穀が大いに実り、蚕織なって天下万民は豊かな福を得たと伝えられております。 御祭神の宇迦之御魂神(倉稲魂神)は須佐之男命と大市比売命との間に生まれ、 五穀豊穣・招福・財福の神として人々の間に広まりました。 当本村稲荷大明神は、平成2年に御社殿修復の際に、殿内より講中18名が記され、 弘化五申年二月二十六日と記された木板が発見されております。 代々里人の信仰篤く受け継がれ、稲荷講中は9名となりましたが、 講中では毎年2月初午日には、昔ながら幟を立て広く里人の除災招福をも祈念しご祭儀をご奉仕しております。
 (大仲間稲荷講中)
茅ヶ崎一里塚
八王子神社入口交差点まで引き返して、その先の茅ヶ崎市本村一丁目歩道橋を過ぎていきます。 松並木が続くようになった国道1号を進んでいくと、JR相模線の上を過ぎていきます。 「日本橋から58km」の標識を過ぎていくと一里塚交差点があります。 その左側の角に茅ヶ崎一里塚があります。 「東海道の松並木」の解説板から34分ほどの所になります。 こんもりとした盛土の上には「史跡 一里塚」と刻まれた石碑が立っていました。
茅ヶ崎一里塚
昭和36年8月15日 茅ヶ崎市史跡指定
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し、 以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。 慶長9年(1604)、徳川幕府は東海道などの一里(約4キロ)ごとに塚を築き、旅人の目安にしました。 東海道は江戸の日本橋を起点にしています。 茅ヶ崎の塚は日本橋から14番目にあたります。 かつては道の両側にありました。
 (茅ヶ崎市教育委員会)
茅ヶ崎駅前交差点まで来て、地下通路を通ってA2出口から地上へ出ると、 右手の木立の中に大きな石燈籠が三つ並んでいました。 木立の脇には「湘南ふるさとハイキングコース総合案内」と題した案内板があって、 湘南ふるさとめぐりモデルコースが三つ紹介されていました。
ファミリーコース 香川駅〜浄見寺〜市民の森〜湘南大庭市民センター〜二番構公園
健脚コース 秋葉台スポーツセンター〜宇都母知神社〜慶應義塾大学〜芹沢スポーツ広場〜文教大学〜浄見寺〜西方遺跡〜寒川神社
周遊コース 寒川駅〜安楽寺〜十三塚〜小動神社〜寒川神社〜寒川スポーツ公園〜八角広場〜一之宮公園〜寒川駅
旧寛永寺石燈籠 三基
昭和49年1月23日 茅ヶ崎市指定重要文化財
東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた燈籠の一部が本市にもたらされたものです。 寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、各地の大名たちは、代々の将軍の供養のために、 競ってこのような大きな石燈籠を寄進しました。 本市では、この歴史的な建造物を重要文化財に指定し、保護しています。 並んだ三基の燈籠の竿には、向かって右から、後に記した文字が刻まれています。 これらの銘文から、中央の燈籠は「巌有院」というおくりなを付された四代将軍徳川家綱の供養のために、 西暦1681年に寄進されたもので、右と左の燈籠は「浚明院」のおくりなを付された十代将軍徳川家治の供養のために、 西暦1786年に寄進されたものであることがわかります。
奉献 石燈籠 兩基  武州 東叡山 浚明院殿 尊前
 天明六丙午年九月八日 従五位下甲斐守大江朝臣毛利氏匡芳
奉献 石燈籠 一基  東叡山 巌有院殿 尊前
 延寶九年五月八日 従五位下信濃守丹治姓大関氏増榮
奉献 石燈籠 兩基  武州 東叡山 浚明院殿 尊前
 天明六丙午年九月八日 稲葉能登守越智弘通
 (茅ヶ崎市教育委員会)
第六天神社
新栄町交差点を過ぎていくと、大きな松が数本生えていました。 中には伐採されて切り株だけが残った木もありました。 茅ヶ崎警察署前交差点や十間坂交差点を過ぎていくと、「日本橋から59km」の標識があります。 十間坂2丁目交差点を過ぎていくと、十間坂歩道橋の手前の右側に第六天神社があります。 茅ヶ崎一里塚から20分ほどの所になります。 短い石段の先には太い注連縄が張られた大きな鳥居が立っていました。
由緒
御祭神 淤母陀琉神、妹阿夜訶志古泥神
御祭神は天地世界の創造の神、即ち天神七代の神々の内、第六番目の神で、 国土生成の大神様であります。 神仏混淆の時代には第六天社と呼ばれ、 身体壮健、不老長寿、あらゆる喜びを与えてくれる法力を持つ神として崇められていました。 近年は生産製造建設に関する守護神として尊崇されております。
創立 年月日は不詳なれども、新田義貞、鎌倉攻め(元弘3年)の際、その兵火の祝融にあったと伝承されております。
社宝 古刀 一振、山岡鉄舟寄進掛軸一幅
 (第六天神社)
石畳の参道を進んだ先の石段を登っていくと社殿があります。 左手には、以前には鐘楼だったという手水舎があり、右手には八坂神社が合祀されていました。 境内には石碑や石仏などが沢山並んでいました。 石仏は何故か頭が無くなっていて、その代りに丸い石が置かれていました。 石には簡単な顔の絵が描かれていましたが、みんな微笑んでいるように見えました。
参拝の作法
心を込めてお参りしましょう
二拝(深い礼を二度します)
二拍手(拍手を二度します)
一拝(深い礼を一度します)
 (神奈川県神道青年会創立50周年記念)
八坂神社(祇園さま・本宮・京都八坂神社)ご由緒
御祭神 須佐之男命(スサノオノミコト)
御神徳 悪疫退散・病気平癒・災害防止・庶民安堵
口碑によれば、第六天神社社殿西前に祀られていたという八坂神社は、 平成4年、第六天神社本殿幣殿のご造営に際して、相殿として祀られていることが明らかになりました。 明治中期の茅ヶ崎大火により羅災後の再建難しく、止むなく相殿としてお祀りしたことと思われます。 この度のご造営を機会に、御神霊の蘇りとご神威の発揚を願い、この地に奉還されました。 欅造りの社殿は、第六天様の神殿でしたが、修復し覆殿を掛け八坂神社社殿としたものです。
南湖入口交差点や南湖1丁目交差点を過ぎていくと、旧東海道である国道1号は少し右へ曲がっていきます。 登り気味になってくると、左側の自転車店の脇に稲荷社がありました。 赤い鳥居が二つ立つ奥に小祠があり、その中に檜皮葺きの社が安置されていました。 小規模ながら、屋根には3本の鰹木が乗り内削ぎの千木が聳える風格のある社でした。 短いながら注連縄も張られていて榊もお供えされていました。 手水場には柄杓が二つも置かれていて、今でも篤く信仰されているようでした。 何やら由緒正しい神社のように思えましたが、名前などは分かりませんでした。 茅ヶ崎の南湖地区は藤沢宿と平塚宿の間にあって、間の宿としても賑わった所のようです。
間の宿
東海道の宿場の間には馬を継ぎ立てる立場のある村があり、 荷物を運ぶ人足や駕龍かきなどが休息する所でもあったようです。 眺望が利く場所、街道の分岐点、橋のない大きな川の傍などでは、 旅人の休憩のために茶屋などが設けられるようになり、 本陣や旅龍や商店なども次第に軒を連ねるようになって、 旅人の宿泊にも応じる茶屋町へと発展していったようです。 このような村を「間の宿」と呼び、この茅ケ崎の南湖もそのような所だったようです。
南湖の左富士
稲荷社を後にして国道1号を進んでいくと、すぐに千の川鳥井戸橋が架かっています。 橋を渡った左側に「南湖の左富士之碑」が立っていて、脇にはその解説板もありました。 この辺りは東海道の中でも左側に富士山が見える数少ない所なのだそうです。 この時は生憎と曇っていて見えませんでしたが、 現在でも天気のいい日には、ここから富士山が見えるようです。
南湖の左富士の由来
浮世絵師安藤広重は天保3年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。 その中の一枚に南湖の松原左富士がある。 東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、 絵の左には富士山を描いている。 東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。 向いから茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。
鳥井戸橋を渡ったすぐ先には鳥井戸橋交差点があります。 その右側に朱塗りの大きな鳥居が立っていて、袂には「鶴嶺八幡宮」と刻まれた石柱もあります。 第六天神社から8分ほどの所になります。 平塚宿へはこのまま国道1号を進んでいくのですが、 鳥居をくぐった900mほど先に鶴嶺八幡宮があるので、往復してくることにしました。
朱塗りの大きな鳥居をくぐって、その先に続く道を真っ直ぐに進んでいきます。 一部に途切れている所はありますが、道の両側には松並木が続いています。 この道は鶴嶺八幡宮の参道にもなっているようで、途中には解説板が設置されていました。 やがて正面の奥の方には、注連縄が張られた鳥居が見えてきます。
鶴嶺八幡宮参道および参道松並木
昭和44年8月15日 茅ヶ崎市史跡・天然記念物指定
天正18年(1590)に小田原の後北条氏が滅ぼされたあと、鶴嶺神社は荒廃してしまった。 神社の別当寺の常光院の僧朝恵がこのことを残念に思い、神社を復興することを決心し、 浜之郷村の領主である山岡氏の援助を得て、社殿や拝殿を再興した。 また、慶安2年(1649)に鶴嶺神社は、徳川幕府から社領を認める御朱印を得た。 神社の復興を記念してか、朝恵は南大門馬場四百二十間(約764メートル)に松を植えたと、神社の縁起に記されている。 それから、三百数十年間、松並木は人々に親しまれ、神社の風光をきわだたせてきた。
 (茅ヶ崎市教育委員会)
松並木が続く真っ直ぐな道を10分ほど進んでいくと、鶴嶺八幡宮前交差点に出ます。 左右に通る車道を横切っていくと、石製の太鼓橋があります。 太鼓橋は通行禁止になっていますが、脇に設けられた小橋を渡っていくと、 両脇には立派な狛犬が控えていて、遠くからも見えていた注連縄の張られた鳥居があります。 鳥居をくぐっていくと、両側には松並木が続き、大きな石灯籠が点々と設置されていました。 参道を真っ直ぐに進んでいくと、道の左右には池が幾つかあります。 2分ほど進んで左右に通る道まで来ると、その手前には石碑・歌碑・凹んだ石などが並んでいて、 脇には解説板も設置されていました。 左手の空き地の先には浜之郷自治会館がありました。
神社の管理運営について
当神社は、宗教法人並びに神社規則の規定により「神社の尊厳維持・境内地の護持保全・事故防止のため」 左の事項を禁止しています。
一、神池での釣り、遊び場としての使用
一、境内地(横参道等)の一般車輌の駐車
一、太鼓橋周辺の自転車等の駐輪
一、その他、神社施設並びに境内地の目的外使用
 (宗教法人 鶴嶺八幡宮)
記念碑
東海道(国道1号線)より御社頭まで「八丁松並木」と古来より呼ばれ、四季を通じて色変えぬ松のみどり。 浜降祭には先駆神社として先頭(露払い)に立ち、他の神輿を導く名誉ある役目を果し、 宮立ちには文化3年建立の「八幡さま」神輿の雄姿が提灯の灯に映し出され、 幽玄の世界が広げられるのもこの参道である。 「八幡さま」固有の基本形態をなす表参道、馬場道(流鏑馬)とも呼ばれる横参道、源平池の神域。 これらの遺産を守り伝えられた先人への畏敬の念あれば、 この遺産を更なる次の世代へと引き継ぐことが現世を生きる私たちの責務と思う。 ここに平成の大事業として敬神尊祖の思い篤き有志の浄財をもって灯籠を建立する。
 (鶴嶺八幡宮)
朝恵上人と参道松並木
八幡宮別当常光院住職、朝恵上人は、慶安2年(1649)三代将軍家光より、 御料として七石の御朱印を拝領した記念に、地頭山岡景信と相計り、 まず社殿を再建し、更に八幡宮参道と社前の馬場に松の木を植えて、神域の保全整備をした先人である。 その偉業を賛え後世に語りつぐために、ここに上人の碑を祀る。
ながながと 参道に列並む 松のみどり 朝恵上人を 語りつぐべし 三郎
今もなほ 朝恵の松の 若みどり 十八世鴫立庵芳女
女護ヶ石
女性の守護神として、信仰されていた石神です。 からだの悪いところ、願いごとのあるからだの部分に「祓え給え、清め給え」と三回心に念じながら石をなでて、 からだの部分もなでる。
鶴嶺八幡宮
車道を渡って玉垣から境内に入っていきます。 左右には社務所などが建っていました。 右手には鐘楼があって、その手前には円筒形に剪定された「なぎ」の木が並んでいました。 境内を真っ直ぐに進んでいき、短い石段を登って一段高い所にある玉垣で囲まれた所まで行くと、 鶴嶺八幡宮の社殿がありました。 本殿の屋根には9本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていて、威風堂々とした社殿になっていました。
鶴嶺八幡宮
御祭神 應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神・菅原道真(鶴嶺天満宮合祀)
鎮座地 神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462番地
例大祭 9月15日
御由緒 相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。 康平年間(1058〜1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい本郡懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、 後に源家が現地に奉還したと云う。 更に治承年間(1177〜1181)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、 その旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている。 源氏代々が篤く崇敬し、源頼朝は治承年間に懐島の地若干を寄進し、 また建久年間(1190〜1199)に肥後国有為の庄七百貫を寄せ、 懐島権守平景能をして社殿の修復を命じた。 弘安4年(1281)には蒙古郡退散を祈り、 その後、永禄・元亀年間(1558〜1573)に兵火に羅り堂宇・古記録等を焼失した。 古くは、本社の別当に十二坊があったが、各々村々に離散し廃坊となった。 正保年間(1644〜1648)別当常光院の住僧朝恵は山岡氏と相計り社殿を再建した。 また参道を整備し松を植えた。 慶安2年(1649)8月には徳川家光が本村の地七石の朱印地を寄進した。 明治維新の神仏分離に際し、別当常光院が復飾して祠掌となる。 明治6年村社に、昭和9年9月6日に郷社に列格。
相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ。 この原のあたりに見えたる神社あり、問えば八幡勧請の一とぞ。 「花の梢一木一木に神さびたり」
東国紀行(天文12年・1544年)室町時代より
この木、なんの木(名前)
「なぎ」の木と言います(椰・箱・椥)。 暖地にはえるマキ科の常緑高木。 庭木にも栽培。 大きいものは約20米。 葉は対生し、長楕円形。 雌雄異株。 初夏に開花。 果実は球状で径約1糎。 チカラシバの名もあり。 日本語大辞典より。 平成10年戊寅(ツチノエトラ)1月吉日記す。
社殿の左側には神輿殿や淡島神社や鉾宮神社が、右側には鶴嶺稲荷神社がありました。 また境内には巨大なイチョウの木もありました。 叢生した側枝がくっついてひとつの幹のようになったものだそうで、直径3mほどはある巨木です。 注連縄が張られて周囲には円く柵が設置されていました。 何だか圧倒されそうな存在感がありました。 袂には丸い「厄割石」というのもあって、割られたカワラケが散在していました。
淡島神社
御祭神 淡島神、少彦名命
例祭 3月3日
神事 針供養2月8日・12月8日、人形供養随時
由緒沿革 淡島神社は鶴嶺八幡宮の末社として鎮座し、 御祭神淡島神は伊弉諾命・伊弉那美命の御子神であられ、 淡島信仰として往古より女人の守護神として崇敬篤い。 又、少彦名命は太古草創の時に際し大国主神と共に国土を経営し、 民生を教導し、医薬禁厭の事を司り給う。 寛政元年11月、浜之郷宮ノ前に造営ありたるものを安政6年3月官令により当所に遷座す。 明治10年3月、大正元年10月、近くは昭和51年7月、それぞれ奉修再興の棟札がその沿革を伝えている。 (社前にて)厄除・縁結・子授・安産・学問・芸術・裁縫の上達をはじめ、 病気・事故など生命の安全・生活の平穏無事を祈願されたい。 又、針供養・人形供養の社としても名高い。
鶴嶺八幡宮の大イチョウ
昭和37年10月2日 神奈川県天然記念物指定
根廻り8.5メートル、目通り9メートル、樹高29メートル
このイチョウは実生かまたは移植の際に多くの側枝を叢生し、勢いよいものが4・5本くっついて生長を続け、 現在の幹を形づくったものとみられている。 きわめて珍しい大木である。 なお次のような伝承がある。 この神社は平安時代後期、源頼義が平忠常の乱を平定の折に、 このあたり懐島郷を通り、風光明媚の小丘に源氏の守り神、石清水八幡を勧請したに始まるといわれ、 その後、前九年の役で父頼義を応援に奥州へ向かう途中の義家(八幡太郎)がそこに詣で、 戦勝を祈願して現在地に遷座したという。 この大イチョウはその時、義家が手植えたものといわれている。
 (茅ヶ崎市教育委員会)
かながわの名木100選 鶴嶺八幡のイチョウ
多数の側枝が叢生し、その数本がゆ着して成長し幹を形づくっていると言われ、 ゆ着したと思われる部分が縦の線となって認められる珍しい巨木である。 県の天然記念物に指定されている。
樹高29メートル、 胸高周囲9.0メートル、 樹齢約950年(伝承)
イチョウは、中国原産の落葉高木で、その仲間は古生代から中生代にかけて栄え、日本にも化石が産出する。 1科1属1種の雌雄異株の裸子植物である。 樹高45メートル、胸高周囲14メートル、樹齢約2000年に達するものもあると言われている。
 (神奈川県)
神明神社
国道1号まで引き返してきて、その先へと進んでいきます。 鶴嶺神社への往復に35分ほどを要しました。 下町屋交差点を過ぎていくと、左側に鳥居が立っていて、「下町屋 神明神社」と刻まれた石柱もありました。 鳥居をくぐって、左手にある下町屋自治会館の前を過ぎていくと、正面に神明神社がありました。 本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていましたが、 由緒などを記したものは見かけませんでした。 境内には「厄神大権現」と刻まれた石碑や、小祠に安置された双体の地蔵などがありました。
神明神社を後にしてその先へ歩き始めると、「←200m 旧相模川橋脚」の看板が設置されていました。 少し登り坂になってきた道を進んでいくと、正面に新湘南バイパスが見えてきます。 その手前を流れる小出川には下町屋橋が架かっています。 横断歩道を渡って橋が始まる手前に「国指定史跡 旧相模川橋脚」と描かれたモニュメントが並んで立っています。 平塚宿へ進む前に、この手前から左へ僅かに降った所にある旧相模川橋脚を訪ねていきました。 坂道を降っていくと右手にベンチが設置された一角があり、 そこに「耕地整理記念碑」がありました。 その前にはこの付近一帯の解説模型があって、「史跡 旧相模川橋脚」と題した解説文も載っていました。 関東大震災の時に水田から出現した太い柱で、鎌倉時代に相模川に架けられた橋の遺構なのだそうです。 昔には相模川は大きく蛇行していて、この辺りを流れていたのだそうです。 発掘調査の様子や、橋脚や地震、周辺地形などが解説されていました。
耕地整理記念碑
小出川と千ノ川の流域一帯を美田化する目的で行われた耕地整理を記念する碑です。 事業は湘東耕地整理組合が組織され、1925(大正14)年から開始され1940(昭和15)年に竣工したと記されています。 現在の小出川は、この耕地整理により今の流れとなったものです。
旧相模川橋脚
解説模型のある隣りには四角いプール状に整備された旧相模川橋脚があります。 とても浅くなっていて以前は水田だったようですが、今では玉砂利が敷かれて綺麗になっています。 全部で10本あるようですが、手前の2本は水没していて、奥の方の1本はかなり短くなっていました。 池の奥には「長留天地間」と題した沼田頼輔の歌碑もありました。
史跡 旧相模川橋脚
1923(大正12)年の関東大震災と翌年に起きた余震で、当時水田だったこの場所から太い柱が出現しました。 出現後まもなく、歴史学者の沼田頼輔により、「吾妻鏡」(鎌倉幕府の記録書)などから 鎌倉時代に相模川に架けられた橋の遺構(橋脚)と考証されました。 1926(大正15)年10月20日に国の史跡に指定されました。 また、2001(平成13)年からの整備に伴い実施した発掘調査で、関連する土留め遺構が発見され、 2007(平成19)年2月6日に追加指定されいました。
調査によって確認された橋脚は全部で10本です。 平面位置から東西方向の3本が対となり、南北方向に4列規則的に配置されていました。 こうした配置から、橋はおおよそ南北方向に架けられていたと考えられます。 また、川の流れは東西方向に流れていてと推測できます。 調査によって確認された橋脚の断面は丸く、下部はだんだん細くなり、先端は尖っていました。 こうしたことから、橋杭として単独で設置されていたことがわかりました。 橋の規模は、橋脚の間隔などから、橋幅は約9m、長さは40m以上の立派なものであったと推測されます。 鎌倉時代の橋が残っている例はありませんので、残念ながら全体の形は明らかではありません。 しかしながら、当時の様子を示す絵画資料などから類推することは可能です。  (解説板より抜粋)
湘江古橋行の碑
本史跡の考証を行った沼田頼輔が橋の由来を詠んだもので、 この誌に感動した斉藤由蔵氏の篤志によって1970(昭和45)年に建立されたものです。 文字は書家の水越茅村が書いたもので、建立に際しては地元関係者も後援しています。 また、碑の裏面には小林小笛書の頼輔の短歌が彫られており、 さらに、額には当時の県知事津田文吾が書を寄せています。
信隆寺
下町屋橋を渡って新湘南バイパスの下まで来ると、茅ヶ崎西インター交差点があります。 横断歩道を渡って今宿交差点を過ぎていくと、右側に今風の建物になった上国寺があります。 下の川入口交差点を過ぎていくと、右側に信隆寺がありました。 山門から境内へ入っていくと、正面に立派な本堂がありました。 境内には日蓮大聖人の像や、朱塗りの鳥居の立つ小振りの稲荷社もありました。
宗旨
名称 日蓮宗
宗祖 日蓮大聖人
開祖 建長5年4月28日(鎌倉時代、西暦1253年)
本尊 久遠の本師 釈迦牟尼佛
題目 南無妙法蓮華経
教義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えである法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて、 私たちが信行に励み、この教えを弘めることによって、やがて世界の平和と人類の幸福、 ひいては個人のしあわせにつながる事を確信できる教えであります。
教典 妙法蓮華経(法華経)
本堂のご本尊さまに先ず合掌
お墓参り
お墓参りをする時は先ず、本堂のご本尊に手を合わせましょう。 お墓を綺麗に掃除しましょう。 自分の所さえ良ければ…ではなく周囲も綺麗にするような気持ちでいて下さい。 お墓は素手で洗うのが最もよろしいのです。 綺麗なお水をかけて素手で洗い、最後に新しいタオルで拭きましょう。 お墓は先祖や両親や私たちの身体です。 雑巾などで洗うのはいけません。 自分の顔や身体を雑巾で拭かれたらどうですか? 綺麗になりましたら、供物を供え、お線香を焚いて合掌。 今、自分が生かされていることを感謝しましょう。 お参りが済みましたら供物は持ち帰りましょう。
馬入橋
産業道路入口交差点や中島交差点を過ぎていくと、次第に登り坂になってきます。 新田入口交差点まで来ると、「平塚市」の道路標識が出ています。 ここからが平塚市になります。 その先へ進んでいくと、相模川に架かる馬入橋を渡っていきます。 鶴嶺八幡宮から国道1号まで戻ってから34分ほどの所になります。 立派なかなり長い橋で、南側にはJR東海道線の鉄橋も架かっています。 馬入橋を渡り始めると、「日本橋から62km」の標識が立っています。 左側の歩道を進んで橋を渡り終え、車道から分れて降っていくと、 橋の袂に「陸軍架橋記念碑」と刻まれた石碑と解説板がありました。
陸軍架橋記念碑
大正12年(1923)9月1日、関東大震災によって馬入橋が倒壊し、交通が途絶しました。 地元の消防組・在郷軍人会・青年団によって即日渡舟が運行されましたが、 数日後の豪雨で流失し、しばしば中断してしまいました。 9月17日、陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と第十六師団(京都)所属工兵大隊が急きょ派遣され、 架橋工事が開始されました。 橋の全長450メートルのうち、馬入側の300メートルを第十六師団、 茅ヶ崎側を第十五師団が担当して、同年10月3日に完成しました。 この記念碑は馬入側を担当した第十六大隊の事績を称えたものです。
碑文
陸軍架橋記念碑  大正十二年九月大震 ノ際京都工兵第十六 大隊ハ馬入橋架設ノ 為メ同月十七日起工 汗血ノ労ヲ費ヤスコト 一旬餘十月三日竣工 橋ノ長サ四百五十米 突中三百米突 大正十二年十月 工兵第十六大隊長
 (平塚市)
馬入一里塚
少し登っていくと国道1号と合流します。 工業団地入口交差点を過ぎていくと、馬入交差点の所で、国道1号は少し右へ曲がっていきます。 旧東海道は国道1号と分れて直進し、平塚市内へ入っていきます。 右へ曲がっていく道は平塚の街のバイパスになっていて、 直進していく旧東海道は「東海道本通り」というようです。 こちらが本来の東海道であるという意味なのでしょう。 道が分れていく手前に「東海道 馬入の一里塚」の解説板が設置されていますが、 今では一里塚の面影はありません。
東海道 馬入の一里塚
慶長9年(1604)、徳川家康は東海道など五街道を整備し、 江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。 一里塚は街道に一里(約4キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、 五間(約9メートル)四方の塚でした。 塚の上には、目印として主に榎が植えられました。 旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。 馬入の一里塚は、この付近にありました。 江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、 旧東海道をはさんで南北に一つづづの塚がありました。 元禄3年(1690)に出版された「東海道分間延絵図」には、 北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。
 (平塚市)
この時には馬入交差点の改良工事が行われていました。 平塚駅方面に向かう車がスピードを落とさずに進入して事故が多発しているので、 少し曲げるように改良して、スピードを落として左折していくようにするとのことでした。
少し進んで交差点の手前まで来ると、 道路の右側には、蔵屋敷バス停の傍に「馬入と大銀杏と神明さん」と題した解説板が立っていました。 記載されている神明社は、この北側500m辺りにある馬入緑道の傍へ移転しているようですが、 訪ねてみるのは省略しました。
馬入と大銀杏と神明さん
馬入村の鎮守であった神明社は、以前東海道に面したこの地にありました。 この境内から道路に面して、幹周り五抱え(直径3m)もの大銀杏がありました。 江戸時代からこの地域を見守ってきたこの巨樹は、沖から須賀の浜に帰る船の目印ともなっていました。 昭和20年7月16日の平塚空襲で、黒焦げになりながらも、幹周りから枝を伸ばし生き残っていましたが、 戦災復興に伴う国道1号線の拡幅工事のために、切り倒されてしまいました。 この写真右手の狛犬と御影石の鳥居は当時の神明社のもので、 現在は中堂の緑道外に移され、神明神社となっています。 大樹の下には消防小屋があり、今その跡に消防団第五分団の庁舎が建っています。
 (平塚市)
老松八千代歩道橋を過ぎていくと、街路には七夕飾りがチラホラと見られるようになりました。 この時は丁度「湘南ひらつか七夕まつり」が行われている日なのでした。 松原バス停を過ぎた先にある交差点まで来ると、 「七夕まつり期間中 車両通行止め」のバリケードが設置されていました。 警備員も立っていて、車両は入っていけないようになっていました。 バスも手前の馬入交差点から北側の国道1号へ迂回して、宮の前交差点から南下するルートに変更されていました。 車両通行止めになった道を進んでいくと、次第に七夕飾りが増えてきます。 人出も多くなってきて、歩いていくのにも苦労するようになりました。 平塚駅前交差点を直進していくと、道路は人で埋まっていて、歩けたものではありません。 沿道には露店がびっしりと並び、街角や道路では太鼓や踊りなども披露されていました。 大きな飾り付けが道路の上から幾つも垂れ下がっていました。 この辺りに「お菊塚」があるようなのですが、とても探せるような状況ではありませんでした。
願う・出会う・結ぶ 七夕祈願西行飾り
暮れぬめり 今日待ちつけて 七夕は うれしきにもや 露こぼるらん 西行
趣旨  七夕まつりは7月7日の夜、牽牛星と織姫星が出会うという中国の伝説と、 古来わが国に行われていたお盆の行事などが融合したものといわれています。 平塚の七夕まつりは戦災の焼野原から街が立ち直り、その復活を祝ったことにより誕生しました。 いずれにしても七夕さまには恋愛の成就、技能や習いごとの向上、収穫の喜びと感謝が込められております。 人々の願いを五色の短冊に託し竹に飾りました。 古代の歌人は恋愛をモチーフとした七夕の和歌を数多く残しております。 その和歌を披露するとともに、皆様の祈願を短冊にし、竹に飾っていただくものです。 なお飾っていただいた短冊は七夕まつり終了後、平塚八幡宮において、奉納祈願を行います。
 (平塚市中心街イベント実行委員会、平塚商工会議所湘南ひらつかTMO)
江戸見附
市民プラザ前交差点を過ぎていくと、人混みが少なくなってきてホッとしました。 市民センターの手前の交差点まで来ると、 道路の右側に「東海道五十三次 平塚宿の江戸見附」の標柱が立っていて、 脇には「平塚宿の江戸見附」と題した解説板もありました。 今ここにある見附は復元されたものとのことです。 ここからが平塚宿になるようです。 馬入橋を渡ってから32分ほどの所になります。 横にはこの付近を表した「平塚宿(旧東海道)史跡絵地図」もあるので参考にしましょう。
平塚宿の江戸見附
平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。 本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、 城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。 したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防衛施設として設置されたことがうかがえます。 また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、 見附から正式に宿内であることを示す施設でした。 さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。 平塚宿の見附は二箇所。 一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。 この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1.5キロメートル)、 東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、 その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅篭などがあり、 江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。 一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、 土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。 平塚宿江戸見附は、長さ約3.6メートル、幅約1.5メートル、高さ約1.6メートルの石垣を台形状に積み、 頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、 両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。
 (平塚市)
市民センター前歩道橋の下を過ぎていくと、 「平塚の里歌碑 この裏にあります」の看板が出ていて、標識も立っていました。 右側の建物の中を抜けていくと、ビルの真ん中の空間に歌碑がありました。 脇には藻が沢山入れられた石製の水槽があって、大小の金魚が沢山泳いでいました。
平塚の里歌碑
文明12年(1480)6月、「平安紀行」の作者は、東海道を京都に上る道すがら、 平塚の地で、この地に隠遁していて没した三浦遠江入道定可を思い起し、 里人にその遺跡、墓所などを尋ねたところ、誰ひとり知る者がなかったので、 「哀れてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里」と詠じた。 昭和32年、市制施行25周年にあたり、江戸城の石垣と井戸枠を東京都からもらい受け、 見附台体育館入口の東側に据えたが、昭和37年、平塚市民センターが建設された際、現在地に移設された。
 (平塚市観光協会)
歌碑を過ぎていくと、交差点の右側に大きな樟の木がありました。
平塚小学校蹟の樟樹
平塚小学校では明治28年3月、校庭の一隅へ樟の種子を蒔いたところ、 6月15日大地をわって双葉が萌えいでいた。 種子は明治27・8年戦役講和記念として神奈川県知事中野健明が県下各学校へ配布したもののひとつである。 この地は明治13年11月、崇善館を移築して平塚小学校と称してから 昭和20年7月の戦争羅災まで日本一を誇った平塚小学校(現在崇善小学校)の旧地で、 ここに学んだ自動たちはひとしくこの樟樹の傍で遊びたわむれた記憶をもっている。 樹齢八十余年、記念すべき名木と言うべきだろう。
 (平塚市観光協会)
脇本陣跡
交差点を直進していくと、道路の右側に「平塚宿脇本陣跡」の石標と解説板が立っていました。
平塚宿脇本陣
江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。 この本陣の補助的な役目をしたのが脇本陣です。 脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、 屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。 また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。 平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801〜03)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、 西組問屋場より西に描かれてますが、 天保年間(1830〜44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
 (平塚市)
高札場跡
平塚本宿郵便局を過ぎていくと、「東海道 平塚宿高札場の蹟」の石標と解説板が立っていました。
平塚宿高札場
高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。 その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。 通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。 平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約5メートル)、 横一間(約1.8メートル)、高さ一丈一尺(約3メートル)でした。 平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。
 (平塚市)
東組問屋場跡
平塚宿高札場跡の石標の道路向いには「東海道 平塚宿東組問屋場の蹟」の石標と解説板が立っていました。 この辺りからが往時の平塚宿の中心地だったのでしょうか。
平塚宿東組問屋場
平塚宿は、東海道五十三次の一つの宿場として慶長6年(1601)に成立しました。 宿場は、旅人が休憩するための茶屋や宿泊するための旅籠といった施設が整っているばかりではなく、 諸荷物の継立(人夫や馬を取替える)といったことも重要な役割でした。 こうした人馬の継立や御用旅館の手配をはじめとする宿駅の業務を取り扱う場所を問屋場といいます。 平塚宿では、問屋場が二か所あり、西仲町にあったのを西組問屋場、 二十四軒町にあったのを東組問屋場といいました。
 (平塚市)
本陣旧跡
平塚宿高札場跡からその先へ1分ほど進んでいくと、 道路の右側に「平塚宿本陣旧跡」の標柱が立っていて、 道路脇の銀行の前には「平塚宿本陣旧蹟碑」と題した解説板も設置されていました。
平塚宿本陣旧跡
平塚宿は東海道五十三次の一つの宿場として慶長6年(1601)に成立しました。 幕府公用人や諸大名が宿泊する宿を本陣といい、平塚宿の本陣は、東仲町北側のこの地にありました。
 (平塚市)
平塚宿本陣旧蹟碑
海道宿駅の高級旅館で、徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい、 これに次ぐものを脇本陣と呼んだ。 東海道平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、 現在の平塚2104番地神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた。 総_造、間口約30米、奥行約68米、東に寄って門と玄関があり、 天皇や将軍・大名などの御座所は上段の間であったという。 記録によると、徳川十四代将軍家茂は文久3年2月、元治2年5月の二回ここに休憩している。 また明治元年10月と同2年3月の両度、明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された。 このたび、平塚支店改築にあたり、旧跡碑を建てて永く記念とする。
 (神奈川相互銀行取締役社長)
西組問屋場跡
交差点を直進していくと、右側に「火の用心」の看板が掛かる塔が立つ町屋風の平塚市消防団第一分団の建物があります。 その角に「東海道 平塚宿西組問屋場の蹟」の石標と解説板が立っていました。 また脇には道標が立っていて、右手に分れていく道は「史跡 平塚の塚」となっていました。 ここは右手にある平塚の塚へ立寄っていくことにしました。
平塚宿問屋場跡
慶長6年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。 この伝馬の継立する所を問屋場といい、問屋場には、 問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が10余人以上勤務していた。 平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永12年(1635)参勤交代が行われるようになってから、 東海道の交通量は激増した。 伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出で、 慶安4年(1651)その目的を達した。 八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。 これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。 この両問屋場は十日目交替で執務したという。
要法寺
西組問屋場跡の右折して真っ直ぐ進んでいくと、正面に山門がありました。 脇には「日蓮大聖人御一泊霊場 要法寺」と刻まれた石柱と縁起が刻まれた石板がありました。 山門をくぐっていくと、水が張られた大きな鉢に植えられた睡蓮が並ぶ参道の奥に要法寺の本堂がありました。 大きな石灯籠や石碑もあって堂々とした造りのお堂になっていました。 右手には浄行菩薩像があって、千羽鶴がお供えされていました。
日蓮大聖人御一泊御説法霊場 松雲山要法寺縁起
当山は鎌倉時代、幕府の執権北条泰時の次男、北条泰知の屋敷でありました。 泰知は日蓮大聖人に帰依し、平塚左衛門尉泰知と呼ばれ、人々に尊敬され、 この地において地頭をしていました。 弘安5年9月8日未明、泰知は夢枕に「日蓮聖人が16日平塚にご来臨される」という七面天女のお告げを受け、 平塚の主だった人々160余名と共に日蓮聖人を出迎え、この地にご宿泊をいただきました。 その夜日蓮聖人が法華経神力品「四句要法」の一節を御説法したところ、 邸内になった平真砂子の塚(平塚の塚)にそびえ立つ老松に紫雲がたなびくという瑞相があらわれました。 それを見た一座の面々は、お題目を唱和し法華経の信者になったのでした。 わけても泰知は深く感動し、自らの館を献上して寺とし、 日蓮大聖人より「紫雲の瑞相」にちなみ「松雲山」、 一夜説法「四句要法」にちなみ「要法寺」との山号と寺号をいただき、当山は開山されました。 時に弘安5年(1282)9月16日。 日蓮大聖人御入滅20数日前の事でした。
開祖 日蓮大聖人
二祖 九老僧 形善院日澄上人
三世 開基 松雲院日慈上人(平塚左衛門泰知)
浄行菩薩
浄行菩薩は法華経の教えを末法の人々に伝える役目をもった菩薩様です。 この仏様の身体を洗い清めることにより、自分の身体の病いや痛みを取り除く事が出来ると言い伝えられています。 御自身の身体の悪い所を洗ってください。
 (当山第十世日慶上人代建立)
境内にある各々の鉢には、蓮の名前を書いた札が付けられていました。 どう違うのかはよく分かりませんでしたが、それぞれ別の名前になっていました。 桃色の花を咲かせた蓮もあって、三脚や一脚に乗せた一眼レフカメラで写真を撮っている人達も見かけました。
平塚の塚
要法寺を出て右手(来た向きからは左手)へ進んでいくと、「平塚の塚緑地」があります。 「東海道五十三次平塚宿」の青い幟がはためく檜皮葺きの門から中へ入っていくと、 正面に「平塚碑」と題した大きな石碑があり、文字がびっしりと刻まれていました。 文字自体は明瞭でしたが旧字体になっていて、 無学の私には読めない文字もかなりあったので、載せるのは省略しておきます。 右手の玉垣で囲まれた所には「平塚の碑」と刻まれた小振りの石碑がありました。 東屋もあって、ひと休みしていくのには良い場所になっていました。
平塚の塚由来
江戸時代の天保11年に幕府によって編さんされた「新編相模国風土記稿」の中に、 里人の言い伝えとして、「 昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、 天安元年(857)2月この地で逝去した。 柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。 その塚の上が平らになったので、里人はそれを「ひらつか」と呼んできた 」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。 この事から平塚の歴史の古さが伝わります。
 (平塚市)
京方見附
旧東海道へ引き返してその先へ進んでいきます。 本宿歩道橋の手前で道が二手に分れています。 角には平塚警察署西仲町交番が建っています。 どちらの道を進んでも良さそうでしたが、今回は交通量が少ないと思われる右手の道を進んでいきました。 こんもりとした高麗山を正面に眺めながら真っ直ぐに4分ほど進んでいくと、 馬入交差点から分れてきた国道1号に出ます。 左折して国道を進んでいきます。 手前の交番の所から分れてきた道が合流する古花水橋交差点まで来ると、 横断歩道を渡った角に「平塚宿京方見附」がありました。 江戸見附から47分ほどで到着しました。 向こう側には「従是東 東海道平塚宿」の石碑や、 「東海道五十三次 平塚宿京方見附之跡」と書かれた標柱もありました。 江戸見附から続いてきた平塚宿とはここで別れて、次の大磯宿へと向かっていきます。
平塚宿京方見附
東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、 往時を偲ぶ面影が残っていません。 宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、 先人たちの言い伝えや歴史資料等により、この辺りにあったものと思われます。 初代広重によって描かれた東海道五十三次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、 変わらぬ高麗山の姿に往時の風情が偲ばれます。 建設省等による東海道ルネッサンス事業の一環として、既設の碑石周辺を再整備しました。
 (平塚市)
昔はこの辺りに花水川が流れていたようで、「古花水」という名前の由来になっているようです。 安藤広重が描いた「東海道五十三次平塚」はこの辺りから眺めた景色だと云われています。 松の木が植えられた縄手道の先に丸橋が架かり、正面には高麗山が聳えている絵になっています。
花水橋
「大磯町」の道路標識を過ぎて行くと相模貨物駅前交差点があります。 交差点を直進して僅かに登り坂になった国道1号を進んでいきます。 花水橋東交差点を過ぎて、金目川に架かる花水橋を渡っていきます。 橋の手前には「大磯八景の一 花水橋の夕照」の石碑がありました。 右前方には、浮世絵にも描かれている高麗山が間近に見えてきます。 奥の方には丹沢山塊も薄っすらと見えていましたが、遠くは曇っていて富士山は見えませんでした。
金目川は花水川とも云うようですが、橋の欄干には「金目川」と書かれていました。
善福寺
花水橋を渡り終えて花水橋交差点を直進していくと、 左側に「浄土真宗本願寺派 善福寺」と刻まれた石柱が立っていました。 門柱を過ぎて境内へ入っていくと、木立の中に善福寺がありました。 手前には親鸞聖人像が立っていました。 本尊の解説板はありましたが、お寺の謂われなどを記したものは見かけませんでした。
木造伝了源坐像(国重文)
寄木造。玉眼嵌入。像高75.2cm。 色彩は剥落して黒漆の硬地が露出していますが、保存状態はきわめて良好です。 量感は豊かで彫りは深く、衣文の表現はすっきりとして無駄がありません。 迫真的な頭部、写実的な体躯や着衣の表現など、 個性をたくみにとらえた鎌倉時代の優れた肖像彫刻です。
木造阿弥陀如来立像(県重文)
善福寺本尊。寄木造。玉眼嵌入。像高98.4cm。 上品下生の来迎印をむすぶ。 体躯の均整はすこぶる良好で、彫技も的確で、面部や体部に厚みと張りが感じられ、 衣文も深く整然と刻まれています。 安阿弥様(大仏師快慶の様式)を忠実に踏襲した作風で、 その中期の作品に類似点が多く見られます。 神経のこまかくゆき届いた鎌倉時代の貴重な仏像です。
花水(はなみず)バス停
高麗交差点を直進して「日本橋から66km」の標識を過ぎていくと花水バス停があります。 京方見附から15分ほどで到着しました。 旧東海道はこの先の化粧坂を過ぎて大磯宿へと続いていきますが、 今回はここで散策を終えることにしました。
大磯駅(JR東海道線)まで、[平43]国府津駅行きバス、[平47]二宮駅南口行きバス,または, [平48]大磯駅行きバスにて6分、週末の昼過ぎには1時間に1本程度、夕方には1時間に2本から4本程度の便があります。 [平41]国府津駅行きバスや[平43]二宮駅南口行きバスもありますが、これらは大磯駅へは入らないので、 利用する場合は大磯局前バス停で下車して駅まで250mほど歩くことになります。 また道路向いのバス停からは、平塚駅北口行きバスが1時間に2本から4本程度あります。