猿島
散策:2009年06月中旬
【海辺散策】 猿島
概 要 猿島は、横須賀沖1.7kmほどに浮かぶ東京湾唯一の自然島です。 周囲1.6kmほどの小さな無人島で、先の大戦までは砲台も設置された要塞になっていましたが、 今では一般公開されてフェリーも通う行楽地になりました。 海水浴・磯遊び・要塞跡の探検・尾根道の散策などで賑わう所になっています。
起 点 横須賀市 汐入駅
終 点 横須賀市 横須賀中央駅
ルート 汐入駅…諏訪大神社…諏訪公園…三笠公園…三笠桟橋〜猿島港…管理棟…発電所…露天掘り幹道…トンネル…三叉路…十字路…砲台跡…日蓮洞…台場跡…オイモノ鼻…いろは坂…展望広場…カラスサンショウの林…広場…猿島港〜三笠桟橋…市役所前公園…横須賀中央駅
所要時間 4時間10分
歩いて... この時は大勢の人出だったので、2隻のフェリーが猿島と三笠桟橋の間をピストン運航していました。 砂浜はバーベキューなどをする人達で一杯になっていました。 展望広場にある展望台は立入禁止になっていて、残念ながら階上からの眺めを満喫することは出来ませんでした。
関連メモ 猿島
コース紹介
汐入(しおいり)駅
汐入駅(京浜急行本線)から歩いていきます。
改札口を出て左手へ進んでいきます。 車道に出てすぐ先にある信号を左折していきます。 「汐留町内会」や「老人生いきがいの家」の看板が掛かる家を過ぎた先に十字路があります。 角には青果店があって、「学校法人緑ヶ丘学院 緑ヶ丘女子中学校・高等学校 徒歩5分」の看板が右手の道を指しています。 看板に従って十字路を右折して汐留通りを進んでいきます。
(写真は改札口から右手に出た所から写したものです)
少し曲がった十字路に出て、その左前方へ続く坂道を登っていきます。 汐入小学校の脇を過ぎて石段を登っていくと、 緑ヶ丘女子中学校・高等学校への道が左手に戻るようにして分れていきます。 その道は見送って石段を更に登っていくと、なだらかになった先でT字路に突き当たります。 これまでの石段から右手へ曲がっていく道は「うらが道」というようで、 その旨の標柱が立っていました。 今回はT字路を左折して坂道を降っていきます。
うらが道
この道は、江戸から金沢・田浦・逸見・汐入・深田・大津を経て浦賀へ至る昔の要路でした。
山際に続く坂道を降っていくと、神社の鳥居や石灯籠が見えてきます。 右へ曲がっていく所から境内へ入っていけるようになっています。 境内は小広くなっていて、脇にはベンチも設置されていました。 左側には幅の広い石段がありました。 この諏訪大神社は横須賀風物百選にも選ばれているようで、石段の脇には解説板がありました。
市制施行70周年記念横須賀風物百選 諏訪大神社
神社の伝承によるおt、康暦2年(1380)にこの地の領主であった三浦貞宗(横須賀貞宗とも言う)が、 信濃国(現在の長野県)諏訪から上下諏訪明神の霊を迎えて建てたとあります。 また、徳川家康、江戸に幕府を開いた3年後の慶長11年(1606)2月27日、 代官長谷川三郎兵衛の発起で、社殿と境内地の大改修が行われたことも伝えられています。 祭神は、健御名方命と事代主命の二柱です。 健御名方命は、武勇に優れた神で、東国の守り神と言われています。 事代主命は、えびすさまとも言われ、開運の神として広く信仰されています。 神社前の坂道は、横須賀村と言われた頃まで、浦賀に通じる主要道路でした。 八幡山の名で親しまれている裏山は、古谷山がもとの名称です。 明治初期、大津にあった佐倉藩の陣屋を解体して横須賀製鉄所(後の海軍工場)に移したとき、 陣屋にあった八幡宮を横須賀製鉄所の鎮守として古谷山に祭ったところから八幡山と呼ばれるようになりました。 頂上近くから神社の裏手に接する区域は、諏訪公園になっています。 明治33年、当時皇太子であった大正天皇の御成婚を祝って公園化事業が進められ、 明治45年に完成しました。 かつては、熊や猪などの小動物が飼われていたほか、 小栗上野介忠順とレオンス・ヴェルニーの胸像や海軍工廠殉職工の招魂塔が建っていました。 明治40年の市制施行直後には、山頂に八幡小学校が、聖ヨセフ病院のところに諏訪小学校と市役所があり、 まさに文教地区の観がありました。
諏訪大神社
石段を登っていくと、正面に諏訪大神社の社殿があります。 本殿と拝殿からなる社殿でした。 本殿の屋根には5本の鰹木が乗り、内削ぎの千木が聳えていました。 社殿の手前には狐や何かわからない動物の像が控えていました。 右側には御幣の下がる建物がありましたが、 由緒書きに「相殿」として記されている神様が祀られているのでしょうか。 それ以外にも、小さな石祠が左右にありました。 境内の右手には社務所と思われる建物もありました。 また旬の季節とあって、青紫色や赤色のアジサイや白いガクアジサイが咲いていました。 祭神である健御名方命と事代主命の話が掲載されていましたが、 記紀には見られないことも書かれていて興味深いものがあります。 体制側の記紀が成立する前にも歴史は連綿と続いていて、 それを記した古史古伝があったことが伺われます。
社名 諏訪大神社(すわおおかみのやしろ)
鎮座地 横須賀市緑ヶ丘34番地
祭神 健御名方命、事代主命
相殿 倉稲魂命、誉田別命、白日命、大己貴命、賀夜奈留美命
由緒 康暦2年3月23日(1308年足利義満の頃)、横須賀城主三浦貞宗が横須賀の総鎮守として、 城の入口であったこの古谷山に長野県から上下両諏訪明神を勧請した。 その頃は城主と城下の村人によって祭られていたが、 三浦氏が滅んだ後は、園祭祀権は地頭郡代を指導者とする村人達の手に移った。 慶長8年、徳川家康が将軍になり平和な世になったので、早速慶長11年2月27日、 代官の長谷川三郎兵衛の発起で社殿や境内の大改修をし(棟札による)、 以来永く代官の三浦郡中鎮守の遙拝祈願所となり(寛永8年、享和2年の版文による)、 村人も協力して神社を立派に維持し崇敬を続けた(歴代の棟札文による)。 明治6年12月、村社に列格、明治40年4月30日、幣帛供進指定社となり、 昭和3年5月21日、郷社に昇格、 昭和17年10月2日、神祇院17神総第2号通牒を以て県社昇格の内許を受け、指定工事中終戦となった。
御祭神の話
健御名方命、事代主命は共に大国主命(大黒様ともいう)の御子で、 日本の先住民族エゾを征服して出雲という部族連合国家を建設し、日本古代国家の基礎を作った。
○健御名方命は山神で、狩猟と採取経済とによって山を生活の場とした部族の祖神であったが、 後にこの部族の経済の発展に伴って農耕の神ともされた。 元来山での狩猟に射撃の上手な部族の神だったので、後に武士からも崇敬された。 もとの出雲の国から周防(すわ)に行き、後に伊勢から美濃を経て信濃に入り、 エゾを征服して諏訪の神となった。 御神体、矢に神霊を祭ってある。
○事代主命はもと北九州から丹波、丹後地方を勢力範囲とした漁猟部族蜑族の祖神である。 航海漁猟を得意とした部族なので、自然と貿易によって富強となった。 その祖神事代主命がエビス様といって、漁業商業の守護神として祭られるのはその為である。 蜑族(たんぞく)は富山湾からヒメ川を遡って上高地の下の旧湖水で生活していたが、 後ここを干潟して農地とし、諏訪湖に移り水上生活をした。 事代主命は下諏訪から勧請、御神体玉に神霊を祭ってある。
諏訪公園
手水舎の裏手から続く石段の入口に「諏訪公園」と書かれて板が取り付けられていたので、 ちょいと登ってみると、社殿の裏手にある山へと続いていました。 以前は「古谷山」と呼ばれていて、明治の末頃には小学校も建っていたのだそうです。 今では記念植樹碑や動物愛護の碑がある他は、広場などがある緩やかな尾根が続くばかりです。 道なりに左手へ進んでいくと、石段の上に小高い所がありました。 周囲には樹木が生い茂り、すぐ脇には学校施設も建っていて、展望は得られません。 ここでは公園に関する解説板は見かけませんでしたが、 諏訪大神社の下にあった横須賀風物百選の解説板に少し記載されています。
諏訪公園から引き返してきて、広い石段を下の境内へと降りていきます。 鳥居をくぐって諏訪大神社から道路に出て、左手へ降っていきます。 社務所や本町会館への石段を左手に分けて、坂道を真っ直ぐ降っていきます。 「よこすか海軍カレー」の店を過ぎて十字路に出ると、 小屋根の付いた門のようなものが建っていて、向こう側に「諏訪大神社」と書かれていました。 そこを右折してホテルの前を進んでいくと大滝町交差点があります。 信号を直進していくと国道16号に出ます。 小川町歩道橋を渡ってその先へ進んでいくと、左右に通る道に出ます。 ここから右手へ続くレンガ敷きの道を進んでいきます。
中程に水路が続く道を進んでいきます。 道端には花壇や噴水や池風の所などもあって雰囲気の良い道になっています。 水路の中には日本丸のメインマストを模したモニュメントがありました。 左手には船の絵などが何点か掲示されていました。
日本丸
昭和59年9月、大型帆船"日本丸"が横須賀市で誕生しました。 このモニュメントは、メインマストを中心に実船の一部を約1/3の縮尺で再現したものです。 "日本丸"の主要要目は次の通りです。
船種 練習帆船
帆装形式 4本マストバーク型
主要寸法 全長110.09m、垂線間長86.00m、型幅13.80m、型深10.70m、満載吃水6.29m
総トン数 2,570トン
航海速力 (機走時)13.2ノット
主機関 1,500馬力ディーゼル機関2基
帆面積 合計2,760u
帆枚数 横帆・縦帆各18枚
マスト高さ (船底から)最大55.52m
搭乗人員数 乗組員70名、学生120名、合計190名
 (横須賀市)
三笠公園の手前まで来ると「めだかの学校」の歌碑があります。 小田原の小川での情景を歌った曲ですが、横須賀はその作詞者の茶木滋が生まれた街なのだそうです。 よく知られた曲ですが、楽譜も載っていたのでMIDIファイルにしてみました。 【♪演奏
めだかの学校
昭和21年の春、茶木滋親子は小田原市郊外の小川のほとりを歩いていました。 幼い義夫くんが突然声をあげました。「お父さん、めだかがいるよ」。 滋はすぐ川をのぞきこみましたが、めだかは一匹もいませんでした。 「おまえが大声をあげたからびっくりして逃げたんだよ」。 すると義夫くんは、「待ってればくるよ。ここ、めだかの学校だもの」。 昭和25年の秋、NHKから"春らしい明るい歌"の作詞を頼まれた時、 ふとこの時の会話が浮かび、童謡「めだかの学校」は生まれたのです。
♪めだかの学校は 川のなか そっとのぞいて みてごらん
   そっとのぞいて みてごらん みんなでおゆうぎ しているよ
♪めだかの学校は めだかたち だれが生徒か 先生か
   だれが生徒か 先生か みんなでげんきに あそんでる
♪めだがの学校は うれしそう 水にながれて つーいつい
   水にながれて つーいつい みんながそろって つーいつい
作詞者の茶木滋は、明治43年1月5日、横須賀市汐入町6番地に生まれました。 汐入小・横須賀中・鎌倉中を経て明治薬学専門学校に学び、薬剤師となりましたが、 中学時代から童話や童謡に興味を持ち、児童雑誌「赤い鳥」などに投稿していました。 他に童謡「とても大きな月だから」、童話「くろねこミラック」などの作品があります。 作曲者の中田喜直は、大正12年8月1日、東京に生まれました。有名な「早春賦」の 作曲家中田章を父に、幼時から音楽的に恵まれた環境の中で育ち、やがて東京音楽学校ピアノ科を 卒業しました。「夏の思い出」、「かわいいかくれんぼ」、「雪のふるまちを」、 「ちいさい秋みつけた」などの作品があります。
 (横須賀市)
三笠公園
歌碑を過ぎていくと三笠公園になります。 噴水の中程に立つ東郷元帥の銅像の脇には、立派な記念碑が建っています。
三笠公園
本公園は昭和36年5月27日完成を見たもので、公園の名称はこの一角に 保存されている記念艦三笠に由来するものである。 三笠艦は日本海海戦(1905年)の際、わが連合艦隊旗艦として参戦し、 時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り云々」と共に、 世界海戦史上不滅の名をとどめた。
三笠公園の岸壁には往時の戦艦「三笠」が係留されていて、 傍には有名な行進曲「軍艦」の記念碑も建っています。 私の子供の頃には、君が代行進曲と共に、運動会の入場行進などでよく流れていた曲です。 楽譜も載っていたのでMIDIファイルにしてみました。 【♪演奏
記念戦艦三笠の由来
三笠は明治37年2月に始まった日露戦争において、 東郷大将が率いる連合艦隊の旗艦として、終始敵の集中砲火の中で奮戦し、 同年8月10日の黄海海戦では露国東洋艦隊に大打撃を与え、 終に明治38年5月27日の日本海海戦では、遠来のバルチック艦隊を全滅させる偉功を たてた日本海軍の代表的な軍艦であります。 日本海海戦の大勝利は、世界史の流れを大きく変えたと言われますが、 この偉業を成し遂げた日本民族の誇りと自信を新たにするとともに、その栄光を永く後世に 伝えるために、その「シンボル」として、三笠は大正15年以来収蔵する多数の記念品とともに、 ここ白浜海岸に保存され、多くの人に親しまれてきました。
碑文
行進曲「軍艦」は、明治30年海軍軍楽長 瀬戸口藤吉氏によって作曲された。 日本の勃興期における行進曲として親しまれ、未来への明るい希望と自信を 与え勇気づけるものである。世界3大行進曲の一つとして、音楽史を彩る稀有の 名曲で、作曲されてから一世紀を迎える年にあたり、瀬戸口軍楽長がこよなく愛し、 青春の日々を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の 顕彰碑を建立いたしたものである。  (行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会)
排水量15,140トン
全長132m
23m
軸馬力15,000H.P
速力18ノット
30cm×4、15cm×14、8cm×20
発射管45cm×4
1. 守るも攻むるも黒鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の 皇国の四方を守るべし
真鉄のその艦日の本に 仇なす国を攻めよかし
2. 石炭の煙は太洋の 龍かとばかり靡くなり
弾丸撃つ響は雷の 声かとばかりどよむなり
万里の波濤を乗り越えて 皇国の光輝やかせ
期間限定で、猿島を経て観音崎へ行く便もあるようです。
[三笠発]10:00 12:00 14:00
三笠桟橋
この時にはフェリーの出航時刻が迫っていたので三笠公園の散策は止めて、 すぐ先にある猿島へのフェリー乗り場に向かいました。 汐入駅から55分ほどで到着しました。 シーフレンド1号・しーふれんど2号・シーフレンド3号が就航していて、 1時間に1本程度の便があります。 この時には2隻のフェリーで運航されていました。
運航時刻
3月1日〜11月30日(毎日運航)
 [三笠発] 8:30 9:30 10:30 11:30 12:30 13:30 14:30 15:30 16:30
 [猿島発] 8:45 9:45 10:45 11:45 12:45 13:45 14:45 15:45 17:00
12月1日〜2月末日(土・日・祝日のみ運航)
 [三笠発] 9:00 10:00 11:00 12:00 13:00 14:00 15:00 16:00
 [猿島発] 9:15 10:15 11:15 12:15 13:15 14:15 15:15 16:30
往復料金 : 大人\1,200、子供\600
定員 : 85名(1号)、90名(2号)
お客様へお願い
猿島は東京湾に残された唯一の自然島です。島内の貴重な自然や景観を守り、 好感の持てる憩いの島となるよう心がけましょう。
 1.乗下船は、陸上係員の指示に従って下さい。
 2.乗船時には、乗船券を係員にご提示下さい。
 3.ペット(補助犬を除く)の乗船はできません。
 4.手回り品の摘要をお守り下さい。
 5.船内においては船長または船員の指示に従って下さい。
 6.船内においては船内掲示の禁止事項をお守り下さい。
 7.船長は各種指示に従わない旅客に対し下船を命ずる事があります。
 ★最終便に乗り遅れないように必ず帰りの船の時間を確認して下さい。
 ★運航便以外の特別便については別途料金を申し受けます。
この日はバーベキューや磯釣りなどをしようという人達でごった返していましたが、 窓口で乗船券を買って、何とか出航時刻に間に合いました。
横須賀港(新港)の紹介
横須賀市内の北は追浜から南は野比に至る港湾施設のある区域をまとめて横須賀港といいます。 向こうに見える島は東京湾唯一の自然島「猿島」です。伝説によると日蓮上人が上総の国から 鎌倉へ行く途中、嵐に遭い漂着した所といわれています。この島は四季を通して市民が海と親しめる 所でもあり、島内には弥生時代の洞穴住居あとや、かつての要塞、特に明治時代の赤レンガなどが 残されています。 さらに沖合には、第1海堡、第2海堡、水没している第3海堡の人工島要塞あとや千葉の新日鉄(株) 君津製鉄所が眺められます。
左に見える記念艦「三笠」は日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破り大勝を収めた時の 旗艦であります。大正15(1926)年、三笠公園に保存されることになりました。 ペリー提督の率いる黒船が浦賀沖に来航して以来、わが国の立遅れを痛感した徳川幕府は勘定奉行 小栗上野介忠順に製鉄所(後の造船所から海軍工廠と改称された)の建設を命じ、それを受けた フランス人技師レオン・ウェルニーは横須賀湾に着目し、建設しました。これがきっかけとなって 一寒村であった横須賀が大きく発展することとなり、やがて海軍がその施設を拡張するにつれて 貨物船等の横須賀湾内の航行が制約されました。そこで貨物船等は現在の稲岡町あたり、 白浜海岸を使うようになりました。
白浜は漁民の集落でしたが、明治11(1878)年、三浦郡長小川茂周によりこの辺一帯が埋立てられ、 郡長の名をとって小川町と名づけられました。そのころ鴨居「若松屋」の高橋勝七により若松町、 明治22(1889)年、その北側に後の工機学校敷地、大正4(1915)年、肥後富一郎、葦名金之助等により 大滝町地先に埋立地がそれぞれ造成されました。埋立地ができあがると緑ヶ丘にあった市役所や 諏訪小学校、平坂付近にあった警察署をはじめ、銀行や商店なども進出、活気のある下町が形づくられてきました。
昭和5年、今の京浜急行が浦賀まで開通されると、埋立地は横須賀の都心として賑わいのある町となっていき、 人々は「中央へ行こう」、「下町へ行こう」と言って新しい町に来ることを楽しみにしていました。
造船所開設以来、次第に都市として発達した本市にとって、交通機関の整備は第一の要件であり、 特に谷間の多い地形などによる道路網の不備もあって、海上輸送路は物資輸送幹線の上で中心的な 役割を果たしてきました。海軍の施設拡大のため、横須賀湾、長浦湾の一般利用が閉ざされてからは、 小川港は近くの安浦港とともに整備され、京浜急行からの生活必需物資や石炭、建築用材等の港湾物資の 取扱いに需要な役割を果たしてきました。なお戦後わが国の食料危機救済のため、長浦に外国貿易港が、 また久里浜に遠洋漁業基地及び国内貿易港が、それぞれ整備されてきました。
一方、戦後の目覚しい経済成長を背景に、三浦半島及び湘南地域を主とした海上輸送貨物の門戸として、 新港建設に昭和41年着手し49年完成に至りました。
現在新港では主に北米、欧州向けなどの輸送機械の輸出、遠洋航海する船舶への生活必需品、 また都心からの生活消費物資を取り扱っております。 これらの港湾活動を円滑に機能させるため、税関、検疫所、入国管理事務所、海上保安部、 運輸局、新港ふ頭(株)等の各港湾機関が設けられ活動しております。
爽やかな潮風に乗って、しーふれんど2号で猿島へ向かいます。 猿島は東京湾唯一の自然島で、幕末から砲台などが築かれた軍事施設として一般公開されていませんでしたが、 1995年に横須賀市に管理委託されて一般公開されるようになりました。 沖に小さく見えていた猿島が、進むにつれて次第に大きくなってきます。 この時は曇りがちの天候で、島は少し霞んでいました。 船の後ろ側には、スクリューが巻き上げた白い航跡が長い尾を引いています。 猿島が近づくにつれて、横須賀の街は次第に遠退いていきます。
猿島の概要
三笠公園の東南東沖合1.75km
東西約200m、南北約450m、周囲約1.6km、標高約40m、面積約5.6ha
猿島の由来  猿島は、もともと九つの岩礁を含めて「十島(としま)」とよばれていました。 その昔、日蓮上人が房州から鎌倉へ行く途中、暴風雨に襲われ、 海上で立ち往生していたところ、乗っていた船の底に穴が開き、沈没寸前になったが、 日蓮上人が舳先に立ち念じると、嵐は静まり、猿島に無事上陸できたとのこと。 すると白いサルが現れ、日蓮上人の袖を引き、三浦半島の方向を指し示したので、無事に上陸できた。 この信仰伝承から猿島と呼ばれるようになった。
猿島要塞  東京湾ののど元に位置する猿島は、幕末、明治初期、昭和と、ほぼ3回にわたり砲台が築かれ、 軍事施設として一般の人の立ち入りを禁止していた。 要塞に使用されているレンガは、愛知県の旧武士によって作られたもので、 その積み方は、歴史上価値の高いフランス積みが採用されている。
海を楽しむ  猿島や、湾の入り口に位置するので、海の生物は内湾型と外洋型の両方を見ることができる。 砂浜んは、様々な種類の貝殻が打ち上げられており、その色や形を見ているだけでも飽きることがない。 磯釣りスポットとしても知られており、クロダイ、アイナメ、スズキなど種類も豊富。
野鳥  冬になると、たくさんのウミウが猿島に集まり、崖地あ樹木に留まっている様子を見ることができる。 また、砂浜の前に見える「三ツ磯」は、カモメやウミネコの絶好の休憩場所になっている。
島の内部では、キジバトやメジロを見ることができる。
植物  猿島の大部分は、人が立ち入ることができない急斜面であり、人の手の加わらない自然が残されている。 タブやヤブツバキ、シロダモなどの常緑樹が茂り、日中でも薄暗い。 要塞跡や園路は、コケやシダ類に覆われて来島者を幻想的な空間に誘っている。
 (出典:パフレットより抜粋)
猿島港
内海ということもあって波も静かで、双胴になった船はそれほど揺れません。 10分ほどで猿島港に着きます。 2009年5月に新たな浮桟橋が砂浜の左側に出来て、船はそちらに接岸します。 固定式だったこれまでの桟橋もまだ残っていて、 レスキュー艇の船着き場として使われているようでした。 浮桟橋ということで揺れるのかと思っていましたが、波静かということもあってか、 ほとんど揺れることもなくてしっかりとしていました。
魚介類の採取禁止
1. この付近の海は、協同漁業権が設定されており、漁業者は生活の糧として、魚・貝・海藻類を 大切に守り育てていますので、タコ・ナマコ・アサリ・ウチムラサキ・アカニシなどや 海藻類をとると、漁業権の侵害となることがあります。
2. 次の行為は、法令により禁止されており、違反者は処罰されますので、厳重に注意してください。
(1)水中眼鏡をかけてイソガネ又はヤス使用したり、水中銃、アクアラング、モリを使用して 魚・貝・海藻類をとること。
(2)魚・貝・海藻類に有害なものを海や川に捨てたり、流したりすること。
(3)薬品を使用して餌虫をとること。
3. 猿島航路及び漁船等の航路周辺での潜水行為は、船の航行の妨げとなるばかりでなく、大変危険です。 絶対にしないようにしましょう。
 (神奈川県・横須賀市、横須賀市東部漁業協同組合、横須賀市海上保安部、横須賀警察署)
桟橋を渡って猿島に上陸します。 右手にかけては砂浜になっていて、海水浴場にもなっています。 午前中の早めの時刻だったにもかかわらず、この時には既に多くの人達がバーベキューなどの準備をしていました。 砂浜にはOCEAN'S KITCHEN(季節飲食店)や猿島売店もあります。 また手荷物預かり所やレンタルショップもあって、便利になっています。
猿島海水浴場案内図
海水浴場利用者の遵守事項
海水浴場の開場時間は、午前9時から午後4時までとなっていますので、定められた時間外は遊泳しないで下さい。
遊泳区域外では泳がないで下さい。
遊泳区域内および連絡船の離発着航路内には、ボード・サーフボード・ヨット、 その他これらに類するものを乗り入れないで下さい。
遊泳区域を表示する標旗、浮き等を移動したり、又は破損しないで下さい。
危険な濃いや風紀をみだすようなことはしないで下さい。
酒に酔っている人や伝染病の人は海に入らないで下さい。
けがや体調が悪いときは、管理事務所に救護室がありますのでご利用下さい。
迷子は、監視所または管理事務所に連絡して下さい。
遊泳区域内では貝とりはしないで下さい。 尚、もり・水中銃等他人の身体に危害を及ぼす恐れのある道具は施設内に持ち込まないで下さい。
シャワールームの利用者は午後4時までに入室して下さい。
ゴミ類は、所定の集積室で3分別(燃えるゴミ・燃えないゴミ・缶/ビン/ペットボトル)して投棄して下さい。
緊急事態発生時には、至急監視員に通報して下さい。
◎遊泳区分表示旗
青旗:遊泳可
黄旗:遊泳注意(沖合には行かず波打ち際のみとし、特に子供さんからは目を離さないで下さい)
赤旗:遊泳不可(海には入らないで下さい)
津波注意
地震を感じたら海浜から離れ安全な場所に避難しましょう。
この地点の海抜は3.2mです。
 (横須賀市消防局)
管理棟
「海軍港」の大きな標柱を過ぎていくと、左手に半円形をした二階建ての大きな管理棟があります。 一階にはトイレ・更衣室・シャワー室・足洗場などがあり、 二階には多目的室・救護室・管理事務室などがあります。 島内を案内するパンフレット類も置いてあるので、貰っていくと散策の参考になります。 一階にはテーブル・ベンチが幾つも設置された広いデッキがあり、 海や対岸の横須賀の街などを眺めながらひと休みしていくのには良い場所になっています。 この時には二階の多目的室では「猿島の基礎知識」と題して、 猿島の自然や歴史に関するパネル展示が行われていました。 古墳時代以降幕末の台場建設までの猿島は、春日神社が鎮座する以外、 時折、漁民が洞穴を利用するだけで、自然豊かな島だったようです。
管理棟利用案内
管理棟の多目的室は休憩スペースとしてどなたでも利用できます。 会議や研修などに利用希望の方は事前に受付までお申し込み下さい。 トイレは島内に管理棟1カ所のみです。ご注意下さい。 更衣室・シャワー室のご利用は7〜8月のみです。
 (横須賀市)
猿島公園 エコミュージアム猿島
猿島の概要
猿島は、横須賀沖1.7kmに位置する「東京湾唯一の自然島」です。 人の住んでいない約5.1ha(横浜スタジアムの約4倍)の島には、貴重な生態系や動植物が残されています。 また、縄文、弥生の遺跡から江戸、明治、昭和の要塞島としての歴史的建造物が残る、 自然と歴史が折り重なったふしぎに満ちた宝島です。 猿島ではこれらの資源を利用して、 島全体がまるごと博物館となる「エコミュージアム猿島」としての運用を目的としています。
利用上の注意
猿島の自然や歴史は、私たちに残された貴重な宝物です。 これらを保全し、未来へと受けついでいくために次のようなルールを守って下さい。 みなさんのご協力をお願いします。
・貴重な歴史的建造物を傷つけないで下さい。
・自然を守るためゴミは持ち帰りましょう。
・立入禁止区域や危険な場所には入らないで下さい。
・島内は夜間の立ち入り・宿泊はできません。
・バーベキューは砂浜の指定場所で行って下さい。直火・たき火は禁止です。
・自家用モーターボート等での入島はできません。
・最終便に乗りおくれないよう必ず帰りの船の時刻を確認して下さい。
 (横須賀市)
発電所
管理棟の隣りには煙突の聳える建物があります。 明治時代に使われていた発電所なのだそうです。
発電所(明治時代中期)
この建物は蒸気機関による発電所として、明治28年(1895)に完成しました。 建物の構造は、レンガ積みだけで自立した壁と、木造キングポストトラスという小屋組の屋根で構成されています。 建物内部には汽罐室と発電機室、石炭庫があり、 汽罐室の下には蒸気機関で使う水を貯めていた地下水槽の存在が明らかになりました。 ここで作られた電気は、建物の裏から切り通しを伝って島の中央部高台にある照明所に送られていました。
発電所を後にして、島内に続く道を進んでいきます。 舗装された坂道を登り始めると、右手に階段が分れていきます。 角には道標が立っていて、右手の道は「広場10m」、 正面の道は「日蓮洞460m・トンネル230m」、今来た道は「桟橋100m」となっています。 右手の階段の上には広場があり、その先の尾根には散策路が続いていますが、 それらは戻り道で訪ねることにして、先ずは正面に続く坂道を進んでいきました。 島内の各所には解説付きの案内図が設置されていて、分かり易くなっています。
これより先は禁煙です
島内を清掃していると、タバコの吸い殻を多くみかけます。 原則としてここより先は禁煙となっており、火事も心配です。 東京湾唯一の自然島「猿島」の自然保護にご協力ください。
 (猿島管理人)
露天掘り幹道
右手へ曲がっていくと、切り立った岩壁の間を進むようになります。 自然の崖ではなくて切り開いて造ったもののようです。 程なくしてボードウォークになってくると、左右にはレンガ積みの壁が続きます。 「フランス積み」という積み方でレンガが積まれています。 右側の壁には薄い色の小さなレンガで出来たが所があります。 脇にある解説板の「猿島要塞配置図」よると、 この回廊は露天掘り幹道というようで、 右側のレンガの中にあるのか兵舎とのことです。 扉から中を覗いてみると、往時のものはなくて、現代の建設資材のようなものが置いてありました。
猿島要塞
要塞とは、外敵を防ぐための防御施設です。 猿島の要塞は東京湾口の守りを固めることを目的として、明治時代中期に明治政府が建造しました。 すべての施設が岩壁を掘込んで造られているので、島の外からは、まったく見えない構造になっています。 さて、露天掘りの幹道を歩いてみましょう。 幹道に沿っていくつかの部屋が並んでいます。 小窓のあるのが兵舎で、窓のない部屋は弾薬庫です。 弾薬庫のすみには、真上の砲台に弾薬を運ぶためのものと思われる井戸のような穴が開いています。 さらに進むと幹道はトンネルに入ります。 トンネルの壁沿いにも、壁を掘込んで二階建ての部屋が造られています。 これらの部屋も兵舎や弾薬庫のほか、病室や司令室として設けられたと考えられます。 このように猿島の要塞は、数々の工夫がされた見事な要塞でした。 しかし、関東大震災で一部が崩壊したことや、飛行機や長距離砲が急速に発達したことにより、 実践で使われることはありませんでした。 その後、猿島は第二次世界大戦中に軍事施設として復活しましたが、 砲座や監視所などは新たに造られ、赤れんがの要塞は手を入れられることなく、現在まで残されていたのです。
右側の壁には、更に弾薬庫・兵舎・弾薬庫と続いていますが、 いずれも入口は柵や板で閉ざされていて、中へ入っていくことは出来ませんでした。 右手へ登っていく階段を見送って、岩壁に挟まれたボードウォークを更に進んでいくと、 右側の壁際に弾薬庫の解説板が立っていました。
弾薬庫(明治時代)
切り通しの東側には兵舎と弾薬庫が交互に並び、小窓の無いこの部屋は弾薬庫として使われました。 アーチ状の入口はこの先のトンネルと同じフランス積みのレンガ構造物です。 部屋の隅には井戸のようなたて穴があり、これを使って真上の第2砲台へと弾薬を運んでいたものと思われます。 また別の弾薬庫の地上には、地下の弾薬庫と連絡を取るための円形の土管を利用した伝声管も見つかっています。
右へ曲がっていくと、岩壁の先にトンネルが現れます。 「フランス積み」されたトンネルで、全国でも珍しいものなのだそうです。
フランス積れんが建造物
日本でのレンガによる建築は、幕末の長崎に始まり、文明開化とともに全国に広がりました。 しかし、そのほとんどは地震や老朽化により失われてしまいました。 近年の日本建築学会の調査によると、明治20年以前のレンガ建築物は、現在、全国で22件が確認されているのみです。 猿島の要塞跡もそのひとつで、愛知県産の品質の高い赤レンガを用いて、明治時代中期に建造されました。 ところで、レンガの積み方は、大きくは「フランス積」と、明治20年ごろから主流になった「イギリス積」に分けられます。 この要塞はフランス積によるもので、 フランドル地方(ベルギー西部〜フランス北端にかけての北海沿岸)で発達したため、 正式にはフランドル積といいます。 フランス積のレンガ建造物は、もともと数が少なかったこともあり、 この要塞も含めて全国で4件が確認されているのみです。 このように猿島の要塞跡は、「エキゾチックな雰囲気」もさることながら、 建築史上とても貴重な建築物といえるものです。
トンネル
レンガ積みされたトンネルの中は薄暗くなっていますが、 中程には照明も取り付けられていて、歩いていく分には支障がないようになっています。 トンネルに入って少し進んでいくと、左側の壁に幾つか施設が並んでいました。 兵舎・弾薬庫・倉庫などとして使用されていた所のようです。 開口部から覗いてみると、階段が地上へと続いていました。
砲台地下施設(明治時代)
トンネルの中にも地下施設が存在します。 地下施設はフランス積みレンガ構造の2階建てで、トンネルの西側に並んでいます。 このアーチ状の開口部は2階と西側斜面へ登るための階段の出入口で、 山頂付近にあった司令所や照明所への重要な連絡通路でした。 これら地下室の個々の用途はまだ不明ですが、 猿島砲台全体の弾薬を貯蔵する大本の弾薬庫としての利用は確認されています。
三叉路
トンネルを出ると、切通しの岩壁が左右に分れた三叉路になっています。 右手と左手の両方にトンネルがあります。 両方のトンネルの先には尾根を通る散策路が続いていますが、 右手のトンネルの手前に解説板が見えたので、先ずは立寄ってみました。
右手のトンネルの手前には第1砲台の関連施設だったとされる所がありました。 最初にあった猿島要塞配置図によると、「兵舎4」とされている所になります。
第一砲台
この部屋は向い側の台地上にあった第1砲台の関連施設だったと考えられています。 台地上の両側には27cm加濃砲が1門ずつ設置され、 砲台下には弾薬庫や弾を上げるための緯度が陸軍によって建設されました。 その後、海軍が高角砲を設置し、その通路として弾薬庫を貫いてトンネルとし、現在に至っています。 左側に見えるトンネルは島の東側へ抜ける道で、出口が直角に曲がっており、 海上から見えないよう工夫されています。
「左側に見えるトンネル」とは解説板に向かって左側という意味であり、 この写真の正面に見えているトンネルのことです。
右手の関連施設から引き返してきて左手のトンネルを抜けていきます。 最初にあった猿島要塞配置図によると、このトンネル内にも弾薬庫があったようで、 その入口の跡が壁に残っていました。
トンネルの左側には岩壁を削った階段があって、上へ登っていけるようになっていましたが、 手前には柵が設置されていて、通行止めのようでした。
十字路
トンネルを抜けると尾根を通る散策路に出ます。 ここは十字路のようになっています。 角に立つ道標によると、左手の道は「日蓮洞100m」、右手の道は「展望台150m」、 正面の道は「広場80m」、今来た道は「トンネル40m」となっています。 先ずは左手の道から日蓮洞を訪ねることにしました。
(「トンネル」とは、照明が取り付けられていた長いトンネルを意味しているようです)
捨てるな!
ゴミは各自持ち帰りましょう。
ゴミを捨てると法律により処罰されます。
 (横須賀市)
お願い
島内で不発弾などの危険物を発見した場合は、手を触れずに猿島の管理事務所へご連絡ください。
 (横須賀市土木みどり部緑地管理課)
砲台跡
道の脇にある円い砲台跡を過ぎて緩やかな散策路を進んでいきます。 広くなった所に出ると円い形の砲台跡があって、解説板も設置されていました。 「5座の砲台跡地」の地図も載っていました。
砲台跡
日本が鎖国していた19世紀中ごろ、江戸幕府は異国船の江戸湾進入を防ぐために、 全国初の台場(大砲を据える台)を猿島に建設しました。 以来、猿島は"要塞の島"としての歴史を歩みはじめたのです。 やがて明治時代中期、明治政府は、東京湾口の守りを固めるために、猿島に砲台と要塞を設けました。 砲台には敵国の戦艦を迎え撃てるよう、フランスから輸入したカノン砲が配備されました。 しかし、海から空へと戦法の主流が急激に変化したことなどにより、実戦で使われることはありませんでした。 その後しばらくの間、猿島は軍事拠点としては忘れ去られていましたが、 第二次世界大戦の激化とともに戦雲が本土へと迫り、再び防衛施設として活躍されることになりました。 昭和16年ごろより鉄筋コンクリート製の円形の砲座が5座造られ、その上には高射砲が配備されました。 これが現存する高射砲の砲台跡です。 高射砲は終戦を迎えるまで空に向かって火を吹き続けましたが、 終戦と共に進駐軍に解体され、砲台だけが残されました。
猿島は東京湾に残された唯一の自然島です
島内の貴重な自然や景観を大切に守り、皆さんの憩いの場となるよう、次のことを守りましょう。
・島内の自然や施設を大切にしましょう。
・ゴミは持ち帰りましょう。
・立入禁止区域や危険な場所には入らないで下さい。
・キャンプはしないで下さい。
・自家用モーターボート等での入島はできません。
・最終便に乗り遅れないように、必ず帰りの船の時刻を確認して下さい。
・バーベキューの行える場所は、砂浜だけなので注意して下さい。
 (横須賀市)
砲台跡の右側の先に「日蓮洞30m」の道標が立っていて、その先から続く金属製の階段を指しています。 傾斜の急な階段を曲がりながら降っていきます。
階段に沿ってガクアジサイが旬の花を咲かせていて、正面には東京湾が広がっていました。 この辺りは猿島の北端に当たるようです。 東京湾を行き交う船は見えていましたが、 この日は生憎と曇っていて、対岸の房総半島までは見えませんでした。
日蓮洞
階段を降っていく途中の左側の崖に日蓮洞があります。 手前にはロープが張られていて中へ入っていくことは出来ませんでした。 間から手を伸ばしてズームアップして写してみると、 中は結構広くて、夜露を凌ぐのには十分な広さがある所のようでした。 パンフレットによると、海面から約6mの所にあって、入口幅8m、奥行約16mあるのだそうです。 中からは弥生式土器、骨製品、貝類、獣骨及び鳥骨等が発見されていて、 昔には住居として利用されていた所のようです。 入口辺りには赤い頭巾と前掛けをした小さなお地蔵さんのようなものも見えていました。
日蓮洞から海岸まで降りてみると、突き出た岩礁で磯釣りをしている人達を見かけました。 そこまで行けそうな道は見当たりませんでしたが、海の中を歩いていったのでしょうか。 パンフレットによると、クロダイ、アイナメ、カレイ、スズキなどが釣れるようですが、 釣果はどうだったのでしょう。 春と秋には恒例のフィッシング大会が行われるようで、 魚種別チャンピオンを懸けて挑戦するのだそうです。 この少し左側にも磯が続いていて、ヨネノ根と呼ばれているようですが、 この時は干潮の前で潮が満ちていたこともあってか、歩いて行けそうな所は見当たりませんでした。
利用上の注意
・危険ですので海に入って泳がないで下さい。
・風の強い時や波の高い時は近よらないで下さい。
・子どもは必ず大人と一緒に遊びましょう。
・潮の満ち引きに注意して下さい。
 (横須賀市)
台場跡
日蓮洞から先ほどの十字路まで引き返してきて、道標「広場」に従って進んでいきます。 すぐにある砲台跡を見送っていくと階段を降るようになります。 緑のトンネルになった階段を降っていくと草地になった広場に出ました。 江戸時代末期の台場跡とのことです。 この時には若者二人がキャッチボールをしていました。
台場跡(江戸時代末期)
この附近の斜面一帯には幕末に建設された砲台である卯の崎台場がありました。 江戸幕府が異国船の江戸湾侵入を抑えるため島の3カ所に建設した台場のうちの一つで、 弘化4年(1847)に完成しました。 ここ卯の崎台場には3門の大砲が据えられ、普段は雨覆いが掛けられていました。 その後嘉永6年(1853)にはペリー提督が黒船を率いて猿島の脇を通過し、 その際に猿島を「ペリー・アイランド」と命名したと伝えられています。
オイモノ鼻
台場跡の周囲は柵で囲まれていますが、その一部が開いていて、金属製の階段が海岸へと続いています。 階段を真っ直ぐに降っていくと岩場に降り立ちます。 この辺りはオイモノ鼻と呼ばれているようです。 左側の岩場では釣をしている人を見かけました。 パンフレットでは広めの岩場になっているようですが、 この時にはまだ干潮までには時間があって潮が満ちていたようで、 それほど広い所ではありませんでした。 潮が引くと広い岩場が現れるのかも知れません。 ここにも先ほどと同じ「利用上の注意」が立っていました。
いろは坂
先ほどの十字路まで引き返して、道標「展望台」に従って、尾根に続く散策路を進んでいきます。 石板が敷かれた道を進んでいくと砲台跡があります。 その先に続くボードウォークの階段を降っていくと、「兵舎4」の先のトンネルへ続く道が右手へ分れていきますが、 正面に続く散策路を進んでいきます。 階段混じりの散策路を登っていくと、次第に傾斜が増してきます。 パンフレットによると、この辺りはいろは坂というようです。 右・左と折れ曲がりながら、かなり傾斜のある階段を登っていきます。
展望広場
いろは坂を登り切ると、山頂にある展望広場に着きます。 右手には展望台がありますが、この時には階段にロープが張られていて、 「危険立入禁止」の貼り紙が出ていました。 以前登った時には、横須賀の街をはじめ東京湾の向こうまでも見渡せる素晴しい眺めが広がっていたのですが、 残念ながら今回はお預けです。 いつか修理されて、また公開されることを願うばかりです。 左手はクローバが生い茂る草地になっていて、良い香りが辺り一面に漂っていました。 海辺なのに草原の香りが満ちていて、何とも清々しいひと時ではあります。 テーブル・ベンチも設置されていてひと休みするのには良さそうな所ですが、 周囲には樹木が生い茂っていて、展望は良くありません。
カラスサンショウの林
展望広場の先に続くコンクリート舗装された散策路を進んでいきます。 道の両側には柵が設けられています。 辺りには樹皮がつるっとした感じの大きな樹木が沢山生えていて、深山を歩いている雰囲気もしてきます。 パンフレットによると「カラスサンショウの林」というようです。 木の根が張り出したりもしていますが、散策路は舗装されていて緩やかに続いています。
舗装された散策路を進んでいくと、程なくしてT字路に出ます。 右手には階段が降っていて、最初に通ってきた「露天掘り幹道」に降りて行かれますが、 今回は左手へと進んでいきます。 すぐに道幅が広がって明るい感じの所に出ます。 ちょっとした広場のようになっていますが、ここも周囲は樹木に囲まれていて展望は得られません。
広場を過ぎていくと、道の両側には鎖が設置された柵が続くようになります。 程なくして階段を降るようになりますが、段差はそれほど高くはないので、歩き難くはありません。 右下には最初に登ってきた広い舗装路が見えています。
広場
階段を2分半ほど降っていくと、階段が右手へ分れて降っていきます。 最初に発電所を過ぎて歩き始めた所から分れていた階段ですが、 正面すぐの所に広場があるので立寄っていきます。 広場の中程には円いテーブル・ベンチがあり、その四方には柱の跡のようなものが立っています。 これで完成形のようにも思えませんが、かなり前からこのままになっているようです。 以前には屋根のようなものが上に乗っていたのでしょうか。
広場の周囲には草や木などが生い茂っていて展望は今ひとつですが、 左手の方が少し開けていて海を見渡すことが出来ました。 右側には馬堀海岸から観音崎へと続く海岸線が広がり、 左側には先ほど訪ねたオイモノ鼻がよく見えていて、台場跡にいる人影も確認出来ました。 円テーブルの脇には四角いコンクリートで固められた「運輸省横須賀港 湾口1 四等三角点」がありました。
広場の手前にあった階段を降っていくと舗装路に降り立ちます。 そこから左手へと元来た道を引き返していきます。 猿島に上陸してから一周して戻ってくるまで、1時間15分ほどかかりました。 帰りのフェリーの出航時刻までにはまだかなり時間があったので、 多目的室のパネル展示を見たり、海辺を散歩したり、売店で買ったかき氷を食べたりしながら、 船が来るまでの時間を過ごしました。
干潮になると砂浜から北側まで磯辺を歩いていくことが出来ますが、 この時は3時間ほど前だったので、まだ潮が満ちていて歩けませんでした。 (「猿島」を参照)
砂浜の沖合200mほどの所の波間に、平らな洗岩がのぞいています。 普段は一つしか見られないようですが三つあって、「三ツ磯」と呼ばれています。 来る時には一つだけが僅かに見えていましたが、 島を一周して戻ってくると、三つとも何とか見えるようになっていました。 各岩礁を眺めていると、その内の一つに人影がありました。 傍に船などはなかったようだし、どうやって渡ったのでしょうか。
(画像を左クリックすると岩礁が順に表示されます)
猿島港
そろそろフェリーが来る頃になったので、桟橋へ向かっていくと、 満員の客を乗せたフェリーが接岸しました。 この時にやって来たフェリーは、猿島に乗って来たのと同じしーふれんど2号でした。 何でも臨時便とのことでした。 この日は乗客が多くて、2隻でピストン運航しているようでした。 すぐに出航するとのことだったので、早速乗り込んで空いた船内にゆったりと座り、 上陸してから2時間ほどを過ごした猿島を後にして、横須賀の街へ戻っていくことにしました。
白い航跡を後ろに伸ばしながら、猿島港を出航していきます。 次第に遠ざかる猿島を眺めていると、ほんの2時間ほどしか居なかったのに、 何だか寂しい気持ちになってきたりします。 入れ替わるようにして、シーフレンド3号が猿島へ向かっていきました。
三笠桟橋
島から帰ってくるのにはまだ早い時刻ということもあってか、猿島に行く時とは違って船内はガラガラ状態でした。 約10分ほどで三笠桟橋に到着しました。 接岸して渡されたデッキを通って上陸すると、揺れなくてしっかりとした大地にホッと安堵するのでした。
市役所前公園
乗船券売り場の右側から駐車場を回り込むようにして左手へ曲がっていきます。 突き当たりを右折してよこすか海岸通を進んでいくと、 国道16号小川町交差点に出ます。 信号を渡って左手へ進んでいくと市役所前公園があります。 綺麗な花壇のある噴水や、周囲を取り囲むようにして立派な藤棚もあったりして、 街中にある静かな公園です。
市役所前公園を斜めに横切った所の十字路を直進していきます。 真っ直ぐ進んでいくと、県道26号若松町交差点に出ます。 横断歩道を渡って左へ進んでいくと横須賀中央駅に着きますが、お昼を過ぎて小腹が空いたので、 諏訪大神社から来る途中にカレー店があったのを思い出して、そこでカレーを食べていくことにしました。 右側にある三笠ショッピングプラザの中を通り抜け、 大滝町交差点を曲がってその店へ向かっていきました。
店内に入っていくと、船室の中のような雰囲気になっていました。 係の人に案内されてテーブルに着き、「元祖よこすか海軍カレー」を注文してみました。 薄暗い雰囲気の中で待つことしばし、浅い皿に入れられたカレーライスが出てきました。 サラダと牛乳もセットになっていました。 他店と比べて味がどうなのかはよく分かりませんが、私的には食べ易くて美味しいカレーでした。
カレーライス誕生秘話
明治期の日本海軍は、イギリス海軍を範として成長してきましたので、 栄養バランスが良く、調理が簡単なカレーに目をつけ、艦艇での食事に取入れました。 最初は、イギリス水兵と同様にカレーをパンにつけて食べていました。 しかし、これではどうも力がでないということで、小麦粉を加えてとろみをつけてご飯にかけて食べたところ、 これはイケルということになり、以後日本海軍の軍隊食として定着しました。 これが現在のカレーライスのルーツともいえるもので、 今では毎週金曜日の昼食に、北海道から沖縄まで、4万5千人の海上自衛隊員が一斉に「カレーライス」を食べています。
今、日本人が一般に食べている「カレーライス」は、「インドのカレー」ではなく、「イギリスのカレー」です。 イギリス人の食事は一般に質素ですが、 その長い経験から栄養のバランスのとれた「シチュー」はイギリス人の好んだ食事でした。 イギリス人の船乗りも航海の時「シチュー」を食べたいと思っていましたが、 味付けに使う牛乳が長持ちしないために、長い航海の時には諦めざると得なかったそうです。 そこで、イギリス人は、シチューと同じ食材(肉、人参、ジャガイモ、玉ねぎなど)に、 日持ちする香辛料(カレーパウダー)を使った料理「カレー」を考案しました。 これが、イギリス海軍の「軍隊食」として定着していきました。
こうして日本海軍の「軍隊食」となったカレーライスは、 故郷に帰った兵士が家庭に持ち込むことによって全国に広がっていきました。 横須賀は海軍の発祥以来、海軍とともに歩んで来た街であり、 カレーは横須賀から全国に広がったと言っても過言ではありません。
横須賀中央(よこすかちゅうおう)駅
お腹も満ちたところで、駅へと向かっていきます。 元来た道を若松町交差点まで引き返してその先へ進んでいきます。 横須賀中央駅バス停を過ぎていくと、駅前にある「Yデッキ」の下に出ます。 エスカレータで上へ登っていくと、正面に横須賀中央駅(京浜急行本線)があります。 三笠桟橋に上陸してから1時間ほどで到着しました。
駅前には「カレーの街よこすか」と題したカモメの水兵さんの可愛らしい像も立っていました。 お皿に入れたカレーライスを差し出すように持っていて、何とも美味しそうなのでした。
カレーの街よこすか
日本のカレーライスは、開国を機にインド風ではなくて英国風カレーとして伝えられたとされています。 栄養バランスのよいカレーは明治期の海軍の食事に取り入れられ人気メニューとなり現在に引き継がれて来ました。 家庭料理としてのカレーライスは、兵隊さん達によって、全国に広められたと言われています。 海軍と共に歩んだ街横須賀は、全国にカレーを発信した街であると考えています。 そして、明治時代に食べられていたカレーライスを現代に蘇らせ、ここ横須賀から全国に向け発信しています。