川崎宿
散策:2009年03月下旬
【街角散策】 川崎宿
概 要 川崎宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋から2番目の宿場になります。 多摩川と鶴見川に挟まれた所にあった宿場で、他の宿場よりも22年遅れた元和9年に設置されました。 今回は多摩川に架かる六郷橋を渡って川崎宿へ入り、鶴見川に架かる鶴見川橋を渡って、 間の宿であった鶴見を経て、神奈川宿の入口までを歩きます。
起 点 大田区 六郷土手駅
終 点 横浜市 神奈川新町駅
ルート 六郷土手駅…宮本台緑地…北野天神…六郷橋…川崎稲荷社…田中本陣…一行寺…宗三寺…砂子の里資料館…佐藤本陣…小土呂橋…芭蕉の句碑…熊野神社…市場一里塚…金剛寺…鶴見川橋…鶴見橋関門旧跡…鶴見神社…鶴見駅…慶岸寺…道念稲荷神社…明神社…生麦事件の碑…遍照院…神奈川通東公園…神奈川新町駅
所要時間 4時間40分
歩いて... 災害や先の大戦のために川崎宿の景観は失われ、史跡などはほとんど残っておらず、 浮世絵や沿道の古寺の石造物などから僅かに往時の姿を偲ぶばかりですが、 各所には解説板が設置されていて分かり易くなっていました。
関連メモ 神奈川宿, 品川宿
コース紹介
六郷土手(ろくごうどて)駅
六郷土手駅(京浜急行本線)から歩いていきます。
改札口を出て正面にある六郷土手商店街を右へ進んでいきます。 小さな石祠の稲荷社を過ぎていくと、正面に国道15号の高架があります。 その手前から右手へ分かれていく路地があります。 角には「大田区立宮本台緑地」と刻まれた石碑があります。 その横にある解説板によると、 右にある六郷橋の袂から多摩川の河口にかけて「川と干潟のみち」が設定されているようですが、 今回は六郷橋を渡って川崎宿へと続く旧東海道を歩いていきます。
大田区自然観察路「川と干潟のみち」
川と干潟のみちは、六郷橋から大師橋まで多摩川にそって、 川・干潟・あし原・グランドなどの代表的な自然をかんさつする3.6kmのコースです。 コースのとちゅうには、5つの解説板があります。 解説板にそって歩いてみましょう。
 (大田区環境部環境保全課)
宮本台緑地
右にある道路の下を過ぎていくと宮本台緑地があります。 今ではこの左側に新しい六郷橋が架かっていますが、 以前の六郷橋はここに架かっていたのだそうです。 六郷橋の入口にあった橋門と親柱が当時の姿のまま保存されています。 脇には解説板も設置されていました。
六郷橋のおいたち
貞享5年(1688)の大洪水で橋が流失してから、江戸の玄関口である東海道を横ぎる多摩川は、 もっぱら渡船によって交通していた。 八幡塚村名主鈴木左内は、幕末から明治初年にかけての交通量の増加を目前に見て、 明治7年、左内橋(木造橋)を架橋した。 しかし、木造橋では、破損のたびごとに幹線道路が、渡船に頼るという時代逆行をまねき、 その上、自動車の発達もともなって、強度上からもその近代化が急がれた。 木造橋の鉄橋への架け換え計画は大正3年にはじまったが、 大正9年、東京府と神奈川県で工費を相互に負担することで、着工のはこびとなった。 大正14年に開通した橋は、タイドアーチ式の近代的なもので、 その長さ446メートル、幅16.4メートルにおよぶ長大橋であった。 しかし、交通量の激増、車輌の重量化に対応できなくなり、昭和60年、新六郷橋が架橋された。 この緑地には、旧橋の橋門と親柱を当時の姿のまま保存している。
この六郷橋から多摩川の上流にかけて「渡し場をめぐる歴史の散歩道」が設定されていて、 その解説板もありました。 六郷の渡し・矢口の渡し・平間の渡し・丸子の渡しや、近くにある寺社や緑地や史跡などが紹介されていました。
(写真は道路の向こう側にある北野天神の前から写したものです)
六郷から丸子へ、渡し場をめぐる歴史の散歩道
《主な見所》
渡し場跡 … 丸子の渡し、平間の渡し、矢口の渡し、六郷の渡し、(羽田の渡し、大師の渡し)
下丸子公園 … 「矢口の渡し」の渡し舟の模型
六郷の渡し  徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる前の慶長5年(1600)に、東海道の多摩川に橋が架けられた。 その後何回かの補修や、洪水により流失すると、以後は架橋することなく渡船場が設けられ、 船で川を往来するようになった。 最初は江戸町人が請負っていたものが、元禄4年(1691)からは今の大田区の八幡塚村の請負いとなり、 人が六文、本馬が十五文、軽尻が十文と渡船料を徴収した。
矢口の渡し  新田義興の憤死した矢口の渡しは、「太平記」によって人々の知るところであるが、 平賀源内(1729-79)作の浄瑠璃「神霊矢口渡」が歌舞伎で上演されて、いっそう一般に知られるようになった。 その当時の矢口の渡しはどのあたりであったろうか。 中性の頃の渡し場は現在の新田神社のあたりではないかと考えられ、 その後川筋の変化に従って現在の矢口の渡し跡の場所に移動したものと推定される。 戦前の渡しは、大人二銭、自転車五銭位で利用されていたが、 昭和24年多摩川大橋の完成をみて、渡しはその使命を終えた。
丸子の渡し  江戸と相模を結ぶ主要な街道の一つに中原街道があった。 この道は調布清掃事務所の近くで多摩川を渡船で川崎側と連絡していた。 明治13年((1880)下沼部村長の文書によると、その渡船賃は次のようであった。 男女供一人金五厘・牛馬一疋八厘但口取を除く・人力車一輪七厘但空車・大車一銭五厘挽夫を除く・ 小車八厘但挽夫を除く・馬車六銭・諸荷物二人持六銭・以上一個一銭、 但水嵩一尺毎に、歩行人力車共三厘宛増・馬五厘増・荷馬一疋七厘・荷車八厘、 水深三尺に満水は馬・荷車・荷馬の通行を禁ず。 五尺に満水は歩行人力車共通船を禁ず。
北野天神
螺旋階段を登って国道15号に出て右へ進んでいくと六郷橋が架かっています。 川崎宿へは六郷橋を渡っていくのですが、その前に、右下にある北野天神に立ち寄っていきました。 手前の右手にある階段から土手に降りて、更に右下へ進んでいくと、北野天神があります。 「北野天神」の扁額の架かる鳥居の前には、「止め天神」の石柱や「日本橋へ四里半」の標柱があります。 鳥居をくぐっていくと、「河原橋」と刻まれた石板や、「千年石」,「万年石」と刻まれた丸まった石がありました。 また、「平癒塚」,「止め塚」,「學成就塚」もあって、多くの絵馬が掛けられていました。 石畳の参道を真っ直ぐ進んでいくと、「落馬止め天神」の扁額の架かる社殿がありました。 境内の右手にある神札授与所の脇には「六郷の渡し跡」の解説板があって、 「東海道川崎宿六郷川渡之図」の絵も載っていました。
北野天神 由来
江戸時代、天神さんの祭りの時、氏子が力自慢のため、かついだりかかえた力石を村人が相談の上、 自分達の一生が達者で働けるようにと願い、千年石を鶴さん、万年石を亀さんと名づけ、 老若男女にそれは親しまれました。 ボケないですこやかな生涯を長寿でまっとうしたい人は、 鶴さん(千年石)亀さん(万年石)の力石にやさしく手をふれて下さい。 天神さんの縁日にはその鶴亀の力石をお互いになで合い、御利やくにすがりました。
大田区文化財 六郷の渡し跡
「六郷の渡し」は、旧東海道における八幡塚村と川崎宿間の渡しで、 江戸の玄関口の渡し場として、交通上極めて重要であった。 架橋の記録は永禄年間(1558〜69)慶長年間(1596〜1614)がある。 その後貞享5年(1688)洪水により流失してからは橋をかけず、渡船によって交通が行なわれた。 渡しのようすは広重の錦絵や地誌叢書類によって知ることができる。 明治7年(1874)以降、地元八幡塚村篤志家鈴木佐内によって木橋がかけられ、 有料で通行させていたが、数次の流失にあった。 現在の橋は昭和59年(1984)に架橋されたものである。
 (大田区教育委員会)
六郷橋
北野天神から国道15号に戻って、多摩川に架かる六郷橋を渡っていきます。 川を挟んだ橋の両側には、渡し船を模したモニュメントがありました。 河川敷にはゴルフ練習場があって、多くの人が練習をしていました。 河川敷は広くなっていて、水が流れている所まではかなりの距離があります。 近年の台風で増水し、河川敷が水浸しになったことがありましたが、今ではすっかり元通りになりました。 川縁では魚釣りをしている人も見かけました。
六郷橋を渡った所の左手の脇には、「明治天皇六郷渡御碑」や「六郷の渡し」」の解説板や、 「厄除川崎大師」の石灯籠などが並んでいました。 明治の初め頃の多摩川には橋が架けられていなかったので、対岸まで船を並べて板を敷き、 その上を明治天皇が渡られたのだそうで、その時の様子を描いた青銅の絵「武州六郷船渡図」もありました。
史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し
関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ、東海道の交通を遮る障害でもありました。 そこで慶長5年(1600)、徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。 以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)7月の大洪水で流されたあとは架橋をやめ、 明治に入るまで船渡しとなりました。 渡船は、当時江戸の町人らが請け負いましたが、宝永6年(1709)3月、川崎宿が請け負うことになり、 これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。
 (川崎市)
明治天皇六郷渡御碑
明治元年九月二十日、明治天皇は東京行幸のため京都御所を出発され、 十月十二日、川崎宿に御到着された。 その当時、多摩川には橋が架けられていなかったため、 地元では対岸まで二十三艘の船を並べて船上に板を敷き、渡御を仰いだ。 とき、まさに近代への夜明けであった。
長十郎梨のふるさと
多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。 明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。 発見者当麻辰二郎の屋号をとり、「長十郎」と命名されたこの梨は川崎からやがて全国へ。
京浜急行大師線に架かる旭側道橋を渡って降っていくと、十字路の手前に「旧東海道→」の標識が立っていて、 右手の国道15号のガードを指しています。 十字路には「万年横丁・大師道」と刻まれた石標があり、傍には解説板もありました。 ガードをくぐっていくと「六郷の渡しと旅籠街」の解説板があり、 左手には「旧東海道」と刻まれた短い石標もありました。 同様の石標はこの先にかけて点々と設置されていました。 多摩川を渡った所からが川崎宿になるようです。 この辺りにあった万年屋が有名だったようで、 「河崎万年屋奈良茶飯」と題した当時の様子を描いた絵も載っていました。
六郷の渡しと旅籠街
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に200年の間、渡し舟の時代が続く。 舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑かな旅籠街。 幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮…」。 なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名だった。
◎川崎宿の家並
旅籠62軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、 油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など、合計368軒。 −文久3年(1863)の宿図から−
万年横丁から大師へ
かつて万年横丁と呼ばれたこの辺り。 明治22年の新道完成まで、人々はここを抜け、医王寺、若宮八幡経由で大師に参詣した。 縁日には遠藤に果物を並べて売る農家も多かった。
コンビニの隣にあるディスカウントスーパーの前に「東海道川崎宿史跡めぐり」と題した案内板がありました。 多摩川を渡った所から京急八丁畷駅辺りまでが図示されていて、 史跡などの簡単な解説文も載っているので参考にしましょう。
東海道川崎宿史跡めぐり
東海道川崎宿  徳川幕府により、東海道に宿駅伝馬制度(街道沿いに宿場を設け、 公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿駅まで送り継ぐという制度)が敷かれたのが慶長6年(1601)のこと。 川崎宿はそれよりおくれること22年後、元和9年(1623)品川〜神奈川両宿の伝馬負担を軽減するため開設されました。 宿駅は小土呂・砂子・新宿・久根崎の4つの村で構成していました。
六郷の渡し  慶長5年(1600)、六郷川(多摩川)に六郷大橋がかけられましたが、 元禄元年(1688)大洪水で流されて以来、享保13年(1728)にベトナムから長崎に初めて象が来て、 東海道を通って江戸へ来た時も、象は舟で川を渡りました。 明治天皇が初めて江戸に入る際は、舟を沢山出し、その上に板を並べて臨時の橋を作り、 その上を通られたそうです。
万年と万年横丁  川崎で一番大きな茶屋だった「万年」は江戸側から川崎宿へ入ってすぐの所にありました。 万年前から川崎大師への参詣客が通った道には、新田屋、会津屋などの茶屋もあり大変賑わっていて、 「万年横丁」と呼ばれました。 万年の名物だった奈良茶飯は「東海道中膝栗毛」という当時のベストセラー本の中で、 弥次さん喜多さんも食べたほど有名でした。 やがて宿泊もまかなうようになった万年には、幕末には大名や駐日総領事のハリスなども宿泊しました。
川崎稲荷社
本町交差点の直前から右手の路地に入っていくと川崎稲荷社があります。 赤い鳥居の奥には金網に入れられた狐像が両脇に控えていて、その奥に小振りの社殿がありましたが、 入口には柵が設置されていて境内には入っていけませんでした。 祠の隣には本町二丁目町内会館がありました。
史跡東海道川崎宿 川崎稲荷社
戦災で社殿や古文書が焼失したため、創建など不明。 現在の社殿、鳥居は、昭和26年(1951)頃再建された。 東海道川崎宿、新宿にあった「馬の水飲み場」からここ稲荷社の前を通る道は「稲荷横丁」と呼ばれ、 この稲荷横丁の少し崎に大師用水に架かる石橋があり、これを渡ると府中道に合流し、 一方反対に東海道を横切ると真福寺の参道となり、大師道へとつづいていた。 八代将軍徳川吉宗が紀州から江戸城入りの際、この稲荷社地で休息したと伝えられている。
 (川崎市)
本町交差点の手前の角には、「旧東海道」や「稲荷横丁」の石標と、「新宿という町」の解説板がありました。 信号を渡って正面に続く道を更に進んでいきます。
新宿という町
東海道の他の宿場より遅れてつくられた川崎宿はいわば新宿。 後に中心部だけをこう呼んだのか。 あるいは、宿を設ける際、新たにできた町並みをこう呼んだものか。 このあたりが新宿だった。
田中本陣
「旧東海道」の石標を過ぎていきます。 本町1丁目交差点を直進していくと、右手に田中本陣があります。 往時の建物は残っていないようですが、前に設置された解説板には鳥瞰図や平面図などが載っていて、 往時の様子を伺い知ることが出来ました。
東海道川崎宿 田中本陣(下の本陣)と田中休愚
川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永5年(1628)に設置されている。 田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下(しも)の本陣」ともいわれた。 本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。 その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え、 上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、 信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。 建物の改造や再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。 本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、 江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。 安政4年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の後輩ぶりを見て、 宿を万年屋に変えたことは有名である。 明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。 明治3年(1870)、新政府は天然痘流行を機に各地で種痘を行ったが、 川崎では11月から12月にかけて6回、田中本陣で行う旨の布達が出されている。 宝永元年(1704)、42歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、 幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、 渡船賃の収益を宿の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。 さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、 幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」 (みんかんせいよう)を著した。 これによって、享保の改革を進める八代将軍吉宗に認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、 晩年には代官となったのである。
田中本陣と休愚
田中(兵庫)本陣は、寛永5年(1628)に設けられた宿内最古の本陣である。 ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた「民間省要」の著者としても知られる。
川崎本町郵便局や本町1丁目バス停を過ぎていくと、 十字路の手前の右手に「宝暦11年(1761)の大火」の解説板が、 十字路を直進した左手に「助郷会所」の解説板がありました。
宝暦11年(1761)の大火
川崎宿200年で最大の火災。 小土呂から六郷渡し場まで町並みはほぼ全焼。 宗三テラ、一行寺も焼けた。 再三の火災から立ち直った川崎宿だが、今、宝暦以前の歴史文献は見当たらない。
助郷会所
宿駅に常備する伝馬人足の不足を補う助郷制によって近在農村より徴用された人馬は、助郷会所に集められた。 助郷制は、川崎周辺の農村の労働負担となり、窮乏を招く要因となった。
一行寺
解説板を過ぎていくと、少し先に「一行寺100m先」の標識が出ていて右手の路地を指していました。 案内に従って路地へ入っていくと、一行寺がありました。 この時には入口の扉が閉ざされていて、境内へ入っていくことは出来ませんでした。 中の様子を窺ってみると、今風の建物になっているようでした。 その裏手すぐの処には京浜急行の線路が見えていました。
一行寺
浄土宗一行寺は、江戸時代の初め川崎宿の整備が進む頃に開創し、閻魔信仰で大いに賑わった。 また非常の際は、田中本陣の避難所にも当てられていた。
浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来の立像。 寛永8年(1631)矢向、良忠寺円超大和尚が創建したと言われている。 かつて山門左手に閻魔堂があったが、戦災で焼失、今は本堂内に大きな新閻魔座像が安置されている。 境内には旅籠紀伊国屋の隠居が名主の稲葉参右衛門を招き、庭園の感想を漢詩に詠んでもらい、 それを碑に刻んだという仮山碑・川崎宿最初の寺子屋「玉淵堂」を開いた浅井忠良の墓・ 富士浅間社(タテワカ講)の大先達西川満翁の墓がある。
宗三寺
一行寺から元の道に戻ってその先へ進んでいくと、十字路の角に「曹洞宗 宗三寺」の石柱が立っています。 白壁の先を曲がって駐車場を過ぎていくと、「曹洞宗瑞龍山 宗三寺」の表札の架かる門があります。 その門を入ってすぐの所に宗三寺の本堂がありました。 境内はブロック敷きになっていて、左手には墓地がありました。 綺麗な花束を手向けられた六地蔵も並んでいました。
宗三寺
宗三寺は、中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後見とみられる宿内一の古刹である。 寺内には、かつて宿の賑わいの中で働いた飯盛り女を供養する石造物が今に残る。
史跡東海道川崎宿 宗三寺
中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、 その時代荘内勝福寺という寺院があり、弘長3年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、 五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。 勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後進とみられ、 戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。 「江戸名所図絵」に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、 本尊はひくい肉鬢、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、 大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。 今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、 川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。
 (川崎市)
宗三寺から元の道に戻ってその先へ進んでいくと、 右手のコンクリート壁に「川崎宿の由来」と題した解説板が設置されていました。 初代歌川廣重の浮世絵「東海道五拾三次之内川崎」も載っていて、 舟に乗って多摩川を渡っていく様子が描かれていました。
川崎宿の由来
慶長6年(1601)徳川家康が東海道を新たに整備して、三十九宿を定めたが、 川崎は品川宿と神奈川宿の合の宿で、元和9年(1923)家光の時に宿駅に追加制定され、 いわゆる東海道五十三次となった。 慶長5年(1600)江戸三大橋の一つとして六郷大橋(109間)が架けられたが、度々の洪水で破損し、 元禄元年(1688)から船渡しとなった。 川崎宿は、久根崎・新宿・砂子・小土呂四町よりなり、 「六郷の渡しを渡れば万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」と唄われた。 徳川将軍の四代にわたるお大師様への厄除け参詣が、江戸庶民の大師詣を盛んにし、 大師には門前町ができて大いに賑わった。 明治5年(1872)新橋−横浜間に鉄道が開通したが、大師詣客のため、 その中間に唯一川崎駅が設置されたことは、驚きに値する。 しかしその後、東京−横浜間の通過町としてさびれたが、明治末頃から六郷川を利用して川岸に産業が興り、 大正・昭和には臨海部の埋立地に重化学工業が林立し、日本経済をリードする一大産業都市に発展した。 当川崎宿は宝暦や文久の大火、安政大地震、また、昭和20年4月(1945)の米軍B29の大空襲のため、 江戸を物語る面影は全て焼失し、今では浮世絵や沿道の古寺の石造物から、 わずかに往時の川崎を偲ぶのみである。
 (川崎・砂子の里資料館)
砂子の里資料館
解説板のすぐ先の右手には砂子の里資料館があります。 海鼠壁風の江戸町屋の外観をした建物になっていました。 東海道川崎宿をテーマにした私設の資料館で、浮世絵を中心にして毎月変わる企画展示が行われ、 川崎宿の模型も展示されいるようです。 開館は10時からということで、この時にはまだ開いていませんでした。
砂子の里
個人で開設した川崎で初めての歴史資料館館内には、東海道シリーズや、神奈川県内の浮世絵を中心に 川崎宿時代の資料(高札、大名関札、商家の看板、小文書など)が展示されている。
砂子1丁目バス停を過ぎていくと、 砂子1丁目交差点の角に「旧東海道・川崎宿」と題した解説板が設置されていました。 六郷土手駅から1時間10分ほどで来られました。 多摩川から小川町本通にかけての地図も載っていました。 解説板の設置場所も図示されているので参考にしましょう。
旧東海道・川崎宿
旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、 近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、 旅籠や商家など350軒程の建物が約1400メートルの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていた。 古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、旅籠は約70軒を数え、 油屋・煙草屋・小間物屋・酒屋などが店を広げる一方、 大工・鍛冶屋・桶屋おか多くの職人や農民も居住しており、活気にみちた都市的景観を認めることができる。 もともと、川崎宿のあたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。 そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るように配慮がなされ、 さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛土が施されたという。 現在でも砂子から小土呂あたりを歩いて見ると、旧街道筋が周囲よりも幾分高いことが良くわかる。 川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦11年(1761)の大火など度重なる災害に見舞われ、 明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。 しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、 川崎宿のおもかげを見ることができる。
解説板の左脇には「中の本陣」、道路向かいには「問屋場」の解説板も立っていました。 砂子1丁目交差点を直進していくと、 JR川崎駅から東南東に延びる広い市役所通り砂子交差点に出ます。 その左手の角に「川崎宿と明治維新」の解説板が立っていました。
中の本陣
この付近にあった惣兵衛本陣は、佐藤・田中両本陣の間に位置することから、 通称「中の本陣」とも呼ばれたが、江戸後期に至り、廃業した。
問屋場
伝馬人足、飛脚、本陣の休泊などの宿場業務を監督する問屋場。 川崎宿では、約30名の問屋役人が昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙をきわめた。
川崎宿と明治維新
東海道の宿場となって200年余り後、最盛期の川崎宿が迎えた明治維新。 伝馬、飛脚から電信、郵便へ。 明治5年には鉄道も開通。 宿場時代は終わり、川崎は近代都市へと歩き始めた。
横断歩道を渡って、正面に続くいさご通りへ入っていくと、 「旧東海道 いさご通り 川崎宿」と書かれた大きな標柱が立っていました。 そのすぐ先の左手に「東海道と大師道案内図」と題した案内板がありました。 先ほどの砂子1丁目交差点にあった解説板によると、この辺りに「総合解説板」があるようでした。 ここにある「東海道と大師道案内図」は、ここから川崎大師へ続く「大師道」を説明したもので、 川崎宿の総合案内板ではないように思えました。 他にも解説板がないかと周辺を探してみましたが、それらしいものは見かけませんでした。
東海道と大師道
東海道。 江戸から京都まで、道のりは125里20町、およそ502キロ。 徳川家康にも特に重視され、整備が急がれた街道である。 大名行列の多くがここを通り、物資が行き交い、東西の文化交流が進んだ。 東海道川崎宿は元和9年(1623)、他の宿より遅れて宿駅となり、 今の小川町あたりから六郷橋まで、小土呂、砂子、新宿、久根崎の四町で構成された。 江戸後期から幕末にかけて、旅籠や茶店などが一段と多くなる宿場の最盛期には、 渡し舟を乗り降りする旅人、川崎大師へ向かう参詣客などで大いに賑った。 川崎大師は、当時から日帰り参詣のできる関東屈指の霊場として、広く江戸庶民の人気を集めていたのである。 江戸と京都を結ぶ東海道。 その宿駅として、また同時に、それに続く大師道の拠点として栄えた川崎宿であった。
 (財団法人 川崎市文化財団)
いさご通りには「旧東海道 いさご通り 川崎宿」の小振りの看板が点々と設置されていて、 「いさご通り周辺案内図」と、江戸時代の商人などを描いた浮世絵風の絵が載っています。 店舗のシャッターには歌川廣重の東海道五十三次の浮世絵が描かれていて、 町内会ぐるみで「旧東海道・川崎宿」を盛り上げているようでした。
佐藤本陣
十字路の手前まで来ると、右手の角にコンビニが入っているビルがあります。 その窓ガラスの内側に佐藤本陣の解説板があります。 往時の川崎宿の絵図や歌川廣重の「東海道五拾三次之内 関 本陣早立」の浮世絵も載っていましたが、 今では往時の本陣の面影は残っていません。
東海道川崎宿 佐藤本陣(上の本陣)跡地
本陣は江戸時代、大名や幕府の役人、勅使などが街道を旅する際に宿泊するために、 各宿場町に設置された公認の武士階級専用の宿舎である。 川崎宿が最も栄えた頃には、京都に近い方から、上(佐藤本陣)、中(惣兵衛本陣)、下(田中本陣)の 三つの本陣があった。 佐藤本陣は、十四代将軍徳川家茂も京都に上がる旅中に宿泊したと言われている。 本陣は、宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家が幕府に選ばれて、その主人が運営に当った。 本陣には、当時武器階級の建築様式であった門や玄関構え、上段のある書院が設置され、 主人にはしばしば名字帯刀が許された。 門を入ると、敷台と玄関からなる「玄関構え」があり、そこで本陣の主と来客の武士とが正式に挨拶を交わした。 門の外にはその日宿泊する大名の紋所の入った提灯が下げられ、 大名の権威を象徴する関札が宿入口と本陣前に掲げられた。
十字路の左手の角には「佐藤惣之助生誕の地」の銅像があります。 佐藤本陣で生まれた詩人で、明治から昭和にかけて活躍された方のようでした。
佐藤惣之助生誕の地
詩人佐藤惣之助は明治23年12月3日に生れ、昭和17年5月15日に52才で世を去った。 生家は川崎宿の上本陣佐藤家で、現在の位置の北隣の砂子2丁目4番地がその旧地である。 惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出し、不滅の地歩を築き、 また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった。 さらに俳句・歌謡・小説・随筆にもすぐれた業績を残し、 釣・義太夫・演劇・民謡研究・郷土研究・沖縄風物の紹介など、 趣味の世界における多方面の活躍も驚くべきものがある。 歌謡作詞では「赤城の子守唄」「人生劇場」「新妻鏡」「男の純情」「青い背広で」「湖畔の宿」 「人生の並木路」「すみだ川」など、人びとの胸をうち、心に通う歌詞の故に 今もなお愛唱されている不朽の作品が多い。 ここにその事績を慕う郷党ら相集い佐藤惣之助生誕地記念碑建設委員会を組織し、 市内在住の彫刻家の巨匠円鰐勝三氏に嘱し、惣之助の肖像と、 嗣子佐藤沙羅夫氏の揮毫になる「青い背広で」の一部を銅碑に彫出して掲げ、記念とする。
青い背広で
青い背広で こころも軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか
紅い椿で ひとみも濡れる 若い僕らの いのちの春よ
佐藤本陣のある十字路を直進して30秒ほど進んでいくと、 左手にある川崎消防団第二分団の車庫の隣に「旧橘郡役所跡記念碑」がありました。
「旧橘郡役所跡記念碑」設立の記
明治11年(1878)の郡区町村編制法により、神奈川町成仏寺に橘樹郡役所が設置され、 橘樹郡内10町101村の行政を司った。 明治21年(1888)同町内に郡役所が新設され、その後郡制が施行されると、 郡長のもと各地代表の郡会議員により、道路・治水・教育・産業などが議せられた。 明治34年(1901)神奈川町の横浜市編入により、橘樹郡の中心は、産業開発著しい川崎町に移り、 大正2年(1913)現在地の川崎町砂子に威風堂々とした郡役所が建てられ、 川崎・保土ヶ谷2町と17村の行政に当った。 郡南部の臨海埋立地には京浜工業地帯が形成され、人口増加による都市化が進む一方、 北部農村地帯も私鉄の沿線開発や近郊農業の発達などにより大きく変貌した。 大正13年(1924)7月、川崎に市制が施行され、大正15年(1926)郡役所は廃止された。 その後川崎・横浜の市域拡張により、 昭和13年(1938)には半世紀にわたり親しまれた「橘樹郡」の名も消えることになった。 郡役所の川崎移転から90年。 ここに有志相集い、川崎市制80周年を記念して、 往年の地に「旧橘郡役所跡記念碑」を建立し、万葉集にも歌われた橘樹の名を永久に留めることにした。
 (旧橘郡役所跡記念碑設立委員会)
小土呂橋
いさご通りをその先へ進んでいくと、 JR川崎駅から南東に延びる広い新川通り小土呂交差点に出ます。 その手前の両側には「旧東海道」の大きな標柱が立っていました。 横断歩道を渡った所の右手に「小土呂橋」と題した解説板が設置されていて、 その脇には往時の小土呂橋の欄干の親柱が保存されていました。
小土呂橋
この通りに幅5メートルほどの流れがあった。 新川堀と呼ばれ、ここからさらに渡田大島を経て海へ注ぐ用水であった。 この堀が東海道と交わるこの地点に架けられていたのが「小土呂橋」である。 小土呂は、砂子、新宿、久根崎とともに昔、東海道川崎宿と呼ばれた四町の一つで、古くからの地名である。 橋の名残は今、バス停や信号の名に見られるばかりだが、この先にあったいくつかの橋のうち、 昔の流れに沿って「新川橋」、「さつき橋」は今もその名をとどめている。 この写真にある橋の親柱が残されていたのをここに移設し、当時をしのぶよすがとした。
 (小川町町内会)
川崎宿には尻手方面から鶴沼(バンヌマ)を経て現在の銀柳街通りを流れ六郷川に至る排水用の古川堀があった。 六郷川の増水時に排水が出来ないこともあり、直接海へ排水するために新川堀が掘られた。 小土呂橋は、東海道が新川堀を横断するところに架かっていた。 昭和6年〜8年に埋め立てられたため、橋の欄干の親柱だけが交差点脇の歩道に保存されている。
小川町本通を真っ直ぐに進んでいきます。 マントを纏ったカエルの像や大きなカニの像などを眺めながら進んでいくと、 右手に「こゝに幸あり」と刻まれた石碑がありました。
こゝに幸あり
史跡東海道川崎宿入口(現在地)に馬嶋病院を経営して40余年、迫りくる超高齢化社会に対して、 特に寝たきり老人の医療の必要性を痛感、川崎市当局より病院に併設せるホーム設立の要望もあり、 発起人となり、行政を始め、日本自動車振興会、神奈川県共同募金会、地域の方々のご支援とご協力のもとに、 昭和54年3月、多年の念願であった特別養護老人ホーム恒春園を開園することができました。 ここに開設十周年を迎え、広く地域に開かれたお年寄りの憩いと安らぎの場として、 末永く幸せな老後が送れるよう心より祈念し碑を建立する。
 (社会福祉法人 馬島福祉会)
川崎警察署東側入口交差点の横断歩道を渡って更に真っ直ぐ進んでいきます。 川崎小学校前バス停を過ぎて川崎警察署の所まで来ると、 道路の右側に日進町町内会館「麦の郷」がありました。 その入口には由来を記した解説板が設置されていて、往時の川崎宿の絵図も載っていました。
日進町町内会館「麦の郷」の由来
京急八丁畷駅前に松尾芭蕉の句碑があります。 元禄7年(1694)5月11日、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へ向かいました。 芭蕉を見送りに来た弟子たちは、名残を惜しんで六郷川(多摩川)を渡って川崎宿に入り、 このあたりまで来ました。 そして別れを惜しんで弟子たちと句を詠みあいます。 弟子たちに対して、芭蕉が呼んだ句が 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。 芭蕉はこの年の10月大阪で不帰の客となりました。享年51才。 弟子たちにとって、この場所での別れが、本当の別れになりました。 弟子たちが詠んだ句は、旧東海道沿い川崎警察署のすぐ近く、 ビパース日進町1階「芭蕉ポケットパーク」で見ることができます。 平成16年(2004)、日進町町内会館は新しく建て替えっれ、 その機に、松尾芭蕉の句碑にちなみ会館名を「麦の郷」と名付けました。
芭蕉の句碑と川崎宿絵図 江戸時代後期
川崎宿は全長約1.5kmで、そのほぼ中央に宿駅業務をとりしきる問屋場と高札場があり、 その上手に佐藤、下手に田中の二つの本陣がありました。 旅籠には奈良茶めしで有名であった「万年屋」など72軒がありました。 そのほかに教安寺・一行寺・宗三寺などの寺院、川崎宿の鎮守である山王社(現在の稲毛神社)があり、 これらの寺社は現在も同じ位置にありますので、往時の宿場の様子を推察する手がかりとなりましょう。 この芭蕉の句碑は上手の棒鼻(宿場入口)附近に文政13年(1830)、俳人一種によって建立されたもので、 そののち現在の位置に移されました。 この棒鼻を出るといわゆる八丁畷の並木道になります。 旅人は、富士の雄姿をながめながら次の宿へと足をはやめたことでしょう。
 (日進町婦人会、川崎市教育委員会)
芭蕉の句碑
「麦の郷」を過ぎてその先へ進んでいくと、京浜急行の線路が近づいてきた所に芭蕉の句碑があります。 松尾芭蕉が、弟子達と最後の別れをした所なのだそうです。 立派な屋根付きの建物に入れられていて、丁寧に保存されていました。 歌碑には俳句が刻まれていましたが、達筆過ぎて、無学の私には読めませんでした。
芭蕉の句碑
俳聖松尾芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、 川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」 の句にたくしました。 芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、 すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の10月、大阪で 「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」 という辞世の句をのこし、51歳の生涯をとじました。 それから130余年後の文政13年(1830)8月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、 天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。
 (川崎市教育委員会)
麦の別れ
元禄7年(1694)5月11日(現在の6月下旬)に俳人松尾芭蕉が江戸深川の庵をたって 郷里伊賀国拓植庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所 八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休憩しました。 そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあいました。 弟子たちの句にたいし芭蕉は、 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」 と返歌し、弟子達の親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。 川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり、街道の両側は一面の田畑でした。 このあたりによしず張りの掛茶屋ができ、酒や一膳飯を売っていました。 芭蕉はこの年の10月、大阪で亡くなったので、これが関東での最後の別れとなりました。
 (芭蕉の碑保存会)
畷(なわて)
(1)縄のすじ。
(2)田の間の道。あぜ道。
(3)まっすぐな長い道。
 (出典:広辞苑第五版)
小祠に納められて道端に佇むお地蔵さんを過ぎて、線路沿いに進んでいきます。 八丁畷バス停を過ぎていくと、正面に京浜急行の八丁畷駅があります。 上にはJR南部線の線路も通っていて、立体交差しています。 手前にある京急川崎第1踏切を渡ってすぐに左折して線路沿いに進んでいくと、 JRの線路の直前に、柵で囲まれた慰霊塔がありました。 災害などで亡くなった身元不明の人々を埋葬した所のようでした。 赤ペンキで「旧東海道下並木」と書かれた丸まった石もありました。 脇には「東海道五十三次 川崎 六郷渡舟」のタイル絵と、 その元になった浮世絵も飾られていました。
八丁畷の由来と人骨
江戸日本橋を出発点とする東海道は、 川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場のあたり)へいたります。 この区間は八丁(約870メートル)あり、畷といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていましたので、 この道を八丁畷と呼ぶようになりました。 八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、 その数は十数体にも及びました。 これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、 江戸時代ごろの特徴を備えた人骨であることが判明しました。 江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、 多くの人々が落命しています。 おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、 川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。 不幸にして落命した人々の霊を供養するため、地元では昭和9年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てました。
 (川崎市教育委員会)
熊野神社
JRの陸橋の下を過ぎて、旧東海道をその先へと進んでいきます。 市場上町交差点を過ぎていくと、信号機のある分岐の角に熊野神社がありました。 房の下がった鳥居を過ぎて石畳の参道を進んでいくと、青銅葺きになった社殿があります。 ホームページによると、1200年の歴史を有する由緒ある神社のようです。 拝殿の奥にある本殿の屋根には3本の鰹木が乗り、外削ぎの千木が聳えていました。 合祀されている神社なのでしょうか、社殿の左側に4社、右側に1社の小祠がありました。
熊野神社略記
弘仁年中紀州熊野宮御神霊を勧請す。 旧市場村の熊野耕地通称八本松の所 に鎮座。其後天保年中道上耕地に遷 座(現在元宮)す。明治五年東海道線 敷設の為現地に遷座。
御祭神略記
国常立尊  天神七代の中第一代に座して天地別 れし時成りませる神にて国の底都知 として大地を司り給う神也
伊邪奈岐命 伊邪奈美命  天神七代の中の神にして二柱の神は 天津神の神勅に依り国土を修理固成 し給いて夫婦和合商工繁盛家内安全 の基を立て給い人々を守り給ふ神也
境内神社  八幡神社 稲荷神社 神明社 五社大神 大鳥神社
大祭日 毎年8月第1土曜、日曜
神事と行事 市場神代神楽 市場囃子
 (熊野神社氏子会)
天地のはじめ
…上の件、五柱の神は別天つ神。 次に成りませる神の名は、国の常立の神。 次に豊雲野の神。 この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。 次に成りませる神の名は、宇比地邇の神。次に妹須比智邇の神。 次に角杙の神。次に妹活杙の神。 二柱。 次に意富斗能地の神。次に妹大斗乃弁の神。 次に於母陀流の神。次に妹阿夜訶志古泥の神。 次に伊邪那岐の神。次に妹伊邪那美の神。 上の件、国の常立の神より下、伊邪那美の神より前を、并はせて神世七代と称す。…
 (出典:角川ソフィア文庫「新訂古事記」)
市場一里塚
熊野神社を後にしてその先へ進んでいくと、左手に「武州橘樹郡市場村一里塚」と刻まれた石柱があります。 脇には「市場一里塚」の標柱や解説板もありました。 境内には、市場中学校の美術部が描いた東海道五十三次の浮世絵風の絵画2点や、 手を繋いだ浮き彫りの双体の石像もありました。 奥の一段高い所には、赤い鳥居の先に小振りの稲荷社もありました。 この一段高い所が一里塚の跡なのでしょうか、 前には「市場一里塚370年顕彰之碑」と刻まれた石柱が立っていました。
市場の一里塚
慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、 あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。 里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4km)毎に 街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。 ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。 明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。 昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。 昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場村一里塚」(添田担書)の碑が建立されました。 平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました。
 (横浜氏教育委員会文化財課、横浜国際観光協会)
市場村一里塚由来記
昔街道一里毎に塚を築き塚上に榎を植えて標示とした。 これを一里塚といい、江戸日本橋を起点に東海道に造られた。 市場村一里塚もその一つで、今(昭和38年)から360年前、即ち慶長9年、 徳川家康が東海・東山・中山の諸道を修理する時築いたもので、明治初年までは 相対して道の両側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。 日本橋から数えて五里(二十粁)に当る。 永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるので、地元有志これを惜しみ、 昭和25年8月、大谷石をもって土止めをし、こえて38年5月補修を加え、この碑を建つ。
 (熊野神社宮司、一里塚保存会代表)
金剛寺
神社風の祠の庚申堂や下町稲荷を過ぎていきます。 金剛寺前バス停を過ぎていくと、右手の路地の先に金剛寺がありました。 「真言宗智山派 光明山金剛寺」と刻まれた石柱の立つ先の立派な山門をくぐっていくと、 綺麗な庭風の境内の奥に本堂がありました。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、 玉川八十八ヶ所霊場第11番、東国八十八ヶ所霊場第10番、東海三十三ヶ所観音霊場第9番になっているようでした。 境内には赤い頭巾を被った「子育地蔵尊」がありました。 立派な祠に安置されていて、前には旬の花束が手向けられていました。
子育地蔵尊
このお地蔵様は、皆様のお子様が、又これから生まれてくるお子様が健康で立派に成育されるよう 心から祈願する子育のお地蔵様です。
鶴見川橋
元の道に戻って、登り坂になってきた道を進んでいくと、鶴見川に架かる鶴見川橋を渡っていきます。 橋の手前には「バクの案内板」と題した鶴見川の案内板が設置されていて、 鶴見川沿いの寺社などが簡単に紹介されていました。 周辺の案内図も載っているので参考にしましょう。 多摩川が渡し舟になってからは、江戸日本橋から来た場合に最初に渡る橋だったようです。
バクの案内板 鶴見川
源流から39.7km 河口から2.8km (鶴見川流域はバクの形をしています)
旧東海道と
鶴見川橋
江戸日本橋から来た場合、最初に渡る橋であった鶴見川橋(当時の名称は「鶴見橋」でした)は、 「東海道五十三次」や「江戸名所図絵」に描かれ、ここからの眺めは海原や富士山が臨め、 茶屋などが多く賑わっていたといいます。
市場一里塚 江戸幕府は東海道に、日本橋から一里(約4km)毎に5間四方の塚(里程の目標と人馬の休憩のための目安になるよう道の両側に榎などの木を植えたもの)を築きました。 ここは5番目の塚に当たり、市内最初の一里塚です。 現在は左側が残されています。徒歩約6分。
箱根駅伝記念像 お正月に開催される東京箱根間往復大学駅伝競走の鶴見中継所に、鶴見区制70周年を記念して建てられました。 鶴見区制実施は昭和2年(1927)10月1日です。徒歩約11分。
鶴見神社 推古天皇の時代の創建と伝えられる横浜最古の社です。 境内より弥生時代から鎌倉期に及ぶ多数の祭祀土器が出土しました。 神社のお神輿は鶴見川に流れ着いたと伝えられています。 昔の祭礼で行われた田祭神事が昭和62年(1987)に再興され、 毎年4月29日に「鶴見の田祭り」として盛大に行われています。徒歩約8分。
総持寺 曹洞宗の大本山。元享元年(1321)、能登(現在の石川県)に開かれましたが、 明治31年(1898)の火災で焼失し、明治44年(1911)に現在地に移転しました。 広大な約50万uの敷地には、大祖堂をはじめ数々の伽藍が緑の木々の中に点在しています。 宝物殿には国重要文化財、市指定文化財などが所蔵されています。徒歩約15分。
佃野公園 面積約7,400uの公園。 鶴見の夏の風物詩「鶴見川いかだフェスティバル」の会場となっています。 災害時には物資揚陸地点としても活用されます。徒歩約7分
 (国土交通省京浜河川事務所流域調整課、鶴見区役所区政推進課企画調整係)
鶴見川橋の手前の左側がちょっとした公園風になっていて、そこに鶴見川橋の解説板がありました。 その先の土手道には桜並木が続き、菜の花も植えられていました。 桜はまだ咲いていませんでしたが、菜の花は綺麗な花を咲かせていて、いい香りを漂わせていました。
「鶴見橋」界わいの情景
鶴見橋(現、鶴見川橋)からの風光明媚な眺めや、 市場・鶴見界わいの様子を記した紀行文、歌、俳句、絵などが数多く残されています。 江戸時代の書物や歌から、当時の風景を抜粋してみますと、
右のかなた、はるかに田の面を打ちこえて山々つられり。 左は青海原にて、いと景よろし…。
 (「甲申旅日記」下田奉行・小笠原長保)
この橋から見えた富士や箱根の山々や、海原に浮かぶ帆かけ舟などは、多くの旅人や文人たちの心をとらえました。
うち見れば碁盤のような梨の棚、白勝ちに咲く花のひと村
 (蜀山人(大田南畝))
界わいは、名産だった梨の木が一面に続き、街道沿いの茶店では鶴見名物の「よねまんちゅう」が売られていました。 また、橋のたもとには当時の産物などが運ばれた「市場河岸」があったことを伝える風景画も残されています。
鶴見川橋
「鶴見川橋」は徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)ごろ架けられたといわれており、 東海道とほぼ同じ歴史をもっています。 大正末期頃までは「鶴見橋」の名前で多くの人に親しまれ、 日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋で、長さ25間、幅3間といわれておりました。 (多摩川は元禄元年の大洪水以降"渡し舟"でした) 橋の周辺は視界が開け、橋上から大山や箱根連山が見えたという風光明媚な場所でありました。 暴れ川と呼ばれた鶴見川は、いくたびも洪水をくり返し、橋は流され架け替えられてきました。 古くからの歴史に育まれた鶴見川橋は、平成8年に鶴見川をひとまがきするアーチ橋として生まれ変わりました。
 (鶴見区役所、鶴見歴史の会)
鶴見橋関門旧跡
鶴見川橋を渡ってその先へ数10m進んでいくと、道路の左手に「旧東海道鶴見橋」の標柱が立っていて、 その袂に「鶴見橋関門舊蹟」と刻まれた石碑とその解説板がありました。
旧東海道鶴見橋 旧名称 武州橘樹郡鶴見村三家
鶴見橋関門舊蹟
東海道武蔵国橘樹郡神 奈川領鶴見村字三軒家 茲領付属者明治三年午 三月従民部省被差免也
鶴見橋関門旧跡
安政6年(1859)6月、横浜開港とともに、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、 横浜への主要道路筋の要所に、関門や番所を設けて、横浜に入る者をきびしく取り締まりました。 鶴見関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅四間(約7メートル)を除き、 左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られたものでした。 文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために、 川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20ヶ所の見張番所が設けられました。 鶴見村には第五番の番所が鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、また、 第六番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。 明治時代に入り、世情もようやく安定してきましたので、明治4年(1871)11月、各関門は廃止されました。 なお第五番・第六番の御番所は、慶応3年(1867)に廃止されています。
 (鶴見区役所)
鶴見橋関門旧跡を過ぎて1分半ほど進んでいくと、右手に「馬上安全 寺尾稲荷道」と刻まれた石柱が立っていて、 その横には解説板もありました。 以前にはここから寺尾稲荷社への道が分かれていたようです。
寺尾稲荷道 道標
江戸時代、ここは寺尾稲荷社(現、馬場稲荷社)へ向かう道との分岐点で、 このように「寺尾稲荷道」と記された大きな道標がたてられていました。 寺尾稲荷社は、馬術上達や馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者も多かったといいます。 また、この道は菊名へ向かう寺尾道や川崎へ向かう小杉美智にもつながる、この地域の大切な道でした。 なお、当時の道標は、現在、鶴見神社境内にあり、ここにあるのはその複製です。
寺尾稲荷社への分岐を見送って真っ直ぐ進んでいくと、すぐの所に鶴見図書館があり、 その前に「旧東海道」と題した案内図がありました。 多摩川から東子安村にかけての街道の絵図や、 川崎宿から神奈川宿にかけての地図が載っていました。 鶴見から生麦にかけては、 往時は川崎宿と神奈川宿の間にある「間の宿」として賑わっていたようです。
旧東海道
古代から多くの人に利用されていた東海道は、 17世紀のはじめ、徳川家康により江戸と京都を結ぶ重要な街道として整備されました。 宿場が設けられ、距離の目安として一里(約4km)ごとに道の両側に一里塚を築きました。 市場西中町には、この一里塚が片側だけ、今も残っています。 海に面して景色が優れていた鶴見や生麦は、川崎宿と神奈川宿の間の「間の宿」としてにぎわい、 名物「よねまんじゅう」を商う店や茶屋が繁盛したといいます。
鶴見神社
鶴見駅東口入口交差点を渡ってその先へ進んでいきます。 鶴見神社前バス停を過ぎていくと、右手から道が合流してきます。 旧東海道は正面へと続いているのですが、右手の道の先に「鶴見神社参道」と書かれた標柱が立っていて、 その奥には鳥居が見えていたので、立ち寄っていくことにしました。 50mほど進んでいくと、道が分かれる角に、 「鶴見神社」の扁額が架かる鳥居や「鶴見神社」と刻まれた石柱が立っていました。 鳥居をくぐって石畳の参道を真っ直ぐ進んでいくと、両側に溶岩のような大きな石の上に狛犬が控えていて、 その先に社殿がありました。 屋根には6本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 由緒などを記したものは見かけませんでしたが、推古天皇の時代の創建と伝えられる横浜最古の神社とのことです。
横浜市指定史跡 鶴見神社境内貝塚
時代 弥生時代末期〜古墳時代前期
この貝塚は、横浜市よく部を流れ東京湾に注ぐ鶴見川の河口近くの沖積低地に位置します。 平成20年2月の発掘調査で、本殿前の東西約5〜8m、南北約10mの範囲に、 厚さ70〜80cmの貝層が良好な状態で遺存することが確認されました。 また、周辺からは、貝塚と関連が想定される古墳時代前期の縦穴住居跡も発見されています。 この貝層を構成する貝種は、二枚貝ではカガミガイ・ハマグリ、 巻貝ではイボキサゴが主体であり、八種類以上の鹹水産貝種からなっています。 一般に貝塚は、縄文時代のものが多く知られますが、 この時期のものが良好に保存されている例は少なく、貴重な遺跡です。
 (横浜市教育委員会)
鶴見神社では、再興された「鶴見の田祭り」が行われているようです。 合祀された神社なのでしょう、社殿の右側には、大鳥神社・稲荷神社・秋葉神社・関神社の祠が並んでいました。 奥には「馬上安全 寺尾稲荷道」と刻まれた石柱が立っていて、脇には解説板もありました。 柵の先のこんもりとした高みへ続く石段の上には、「浅間神社」の扁額の架かる鳥居と石祠も見えていました。
鶴見の田祭り再興の碑
昔より当社旧杉山大明神に田祭りの行われしが明治初年廃絶せり。 復活の念篤き有志相集いて昭和62年再興せり。 10年の春秋を経ぬればこれを後世に絶ゆることなく伝承せむとして記念の碑を建立するものなり。
 (鶴見田祭り保存会)
横浜市地域有形民俗文化財 寺尾稲荷道道標
寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(元鶴見川橋)附近から寺尾・小杉方面への分岐天にあった三家稲荷に建てられていたもので、 一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。 昭和30年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、 道標が埋没しているのが発見されました。 正面には「馬上安全 寺尾稲荷道」、右側面には「是より廿五丁」、 左側面には「宝永二乙酉二月初午・寛延三庚午十月再建・文政十一戌子四月再建之」とあり、 二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。 寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、げんざいは地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれいますが、 古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。 江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。
 (横浜市教育委員会)
鶴見駅
「名主・佐久間家」の解説板を過ぎて東口駅前通を進んでいくと広い道路に出ます。 正面には京急鶴見駅、右手にはJR鶴見駅があります。 手前の角には「旧東海道」の案内板が設置されていますが、 鶴見図書館の前にあったのと同じ内容でした。 鶴見駅前歩道橋の下にある横断歩道を渡っていくと、京浜急行の線路のガード下に、牛丼屋や天丼屋がありました。 お昼には少し早かったものの、六郷土手駅から3時間近く歩いてきて小腹も空いたので、 休憩も兼ねて食事をしていきました。
名主・佐久間家
ここには、江戸時代に、代々、鶴見村の名主を務めた佐久間家の屋敷がありました。 代官用の玄関・敷台をもつ当時の建物が平成13年(2001)まで、ここに残っていました。 名主は村人に年貢やお触書など幕府の命を伝える一方、さまざまな交渉事に村人を代表してあたる村の世話役でした。 当時、鶴見川がしばしば氾濫し、村に大きな被害を与えていましたが、 こうした災害時にも、村人のために尽くしたと伝えられています。
お腹も満ちて疲れも癒えたところで、 京浜急行の線路の左側に沿うように続く鶴見銀座商店街を進んでいきます。 道端にあった看板によると、通りは「すず風舗装」が施されていて、 日射・大気の熱による水の蒸発に基づく冷却効果で、人が感じる暑さが通常の舗装に比べて和らぐのだそうです。 この時には歩行者天国になっていて、バザーなどが催されていて賑わっていました。
鶴見銀座商店街のすず風舗装
横浜市では「ヒートアイランド現象の緩和への取組」を積極的に進めております。 ここ鶴見銀座商店街では「すず風舗装整備事業」として車道舗装面に保水性舗装を実施しました。 この舗装は、舗装内に保水した水分の気化熱で舗装表面の温度を低下させます。
 (横浜市鶴見土木事務所)
慶岸寺
歩行者天国が終わって、その先へ真っ直ぐ進んでいくと、国道15号下野谷町入口交差点に出ます。 少し右手にある横断歩道を渡って正面に続く細めの道へ入っていきます。 JR鶴見線のガード下を過ぎていくと、右手に「子育地蔵尊」の扁額が架かるお堂があります。 その右側の路地へ入っていくと、「浄土宗 慶岸寺」と刻まれた石柱と門があります。 そこから石畳の続く参道を進んでいくと、正面に慶岸寺の本堂がありました。 参道の両側にはシュロの木が生えていて、何だか南国情緒を感じたりもしました。 左手には赤い頭巾と前掛けをした六地蔵が並んでいて、右手には庫裡と思われる今風の建物がありました。 本堂は趣のある建物になっていましたが、謂われなどを記したものは見かけませんでした。
道念稲荷神社
慶岸寺を後にしてその先へ進んでいきます。 この通りは生麦魚河岸通というようで、道の両側には魚屋が沢山並んでいました。 近くに漁港があるのでしょうか。 少し右へ曲がり始める辺りまで来ると、右手に「参道」と書かれた石柱があり、 脇には「道念稲荷」と刻まれた円い石碑もありました。 「道念稲荷神社」の扁額の架かる鳥居の先には、 赤い鳥居や「正一位道念稲荷大明神」と書かれた赤い幟が沢山並んでいましたが、 老朽化が進んでいるのか、ロープが張られていて通行止めのようになっていました。 立ち並ぶ鳥居の右側にはしっかりとした道があるので、その道から中へ入っていくと、 道念稲荷神社のお堂がありました。 この神社には「蛇も蚊も」という祭りが伝わっているようです。
道念稲荷神社
當道念稲荷は新編武蔵国風土記稿橘樹郡巻之九神奈川領生麦村の条に記述ある古祠なり。
 (當社別當生麦山龍泉寺)
蛇も蚊も発祥の地
蛇も蚊も 出たり 日よりの雨け
 (東部本宮町、西部本宮町)
横浜市指定無形民俗文化財 蛇も蚊も
行事の日 6月第1日曜日
保存団体 本宮蛇も蚊も保存会
蛇も蚊もは約300年前に悪疫が流行したとき、 萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。 この行事は端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、 近年は6月の第1日曜日に行われるようになっています。 萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで、 「蛇も蚊もでたけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。 もとは本宮と原で一体づつ作り、本宮のものが雄蛇、原のものが雌蛇だといって、 境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、 現在は両社別々の行事となっています。
 (横浜市教育委員会)
道念稲荷神社を後にしてその先へ進んでいくと、右手の民家の入口に 「生麦事件発生現場」と題した解説板が設置されていました。 旧字体で書かれていて読みにくい文字もあったので、 間違った箇所があるかも知れませんが、一応載せておきます。 意味もよく分かりませんでしたが、 ここが幕末の歴史的な生麦事件が発生した現場だということなのでしょう。
生麦事件発生現場
文久2年8月21日辛未晴天
島津三郎様御上リ異人 四人内女壱人横浜与来 リ本宮町勘左衛門前ニ 而行逢下馬不致候哉異 人被切付直ニ跡ヘ逃去 候処追被欠壱人松原ニ 而即死外三人ハ神奈川 ヘ疵之儘逃去候ニ付御 役人様方桐屋ヘ御出当 村役人一同桐屋ヘ詰ル 右異人死骸ハ外異人大 勢来リ引取申候
生麦村名主 関口日記ヨリ
 (生麦事件参考館設置)
明神社
幅の広い産業道路を渡ってその先へ進んでいくと、右側の路地の先に赤い鳥居が見えたので、 ちょいと立ち寄っていきました。 路地を抜けて左右に通る道の向かい側に鳥居が立っていました。 その先が広い境内になっていて、正面に赤い屋根をした祠がありました。 屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 明神社というようですが、由緒などを記したものは見かけませんでした。 ここにも「蛇も蚊も」という祭りが伝わっているようです。 解説板には「本宮」と「原」となっていますが、先ほどの道念稲荷神社が「本宮」で、 この明神社が「原」に該当するようです。 境内には鉄棒やブランコなどがあって、子供の遊び場にもなっているようでした。
横浜市指定無形民俗文化財 蛇も蚊も
行事の日 6月第1日曜日
保存団体 生麦蛇も蚊も保存会
蛇も蚊もは約300年前に悪疫が流行したとき、 萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。 この行事は端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、 近年は6月の第1日曜日に行われるようになっています。 萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで、 「蛇も蚊もでたけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。 もとは本宮と原で一体づつ作り、本宮のものが雄蛇、原のものが雌蛇だといって、 境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、 現在は両社別々の行事となっています。
 (横浜市教育委員会)
生麦事件の碑
明神社を後にしてその先へ進んでいくと、左側にはキリンビールの横浜工場が続くようになります。 工場が終わると国道15号に出ます。 道なりに左手へ進んでいくと、すぐの所の一段高い所に「生麦事件之跡」の立札があって、 その奥に屋根で覆われた「生麦事件の碑」があります。
横浜市地域史跡 生麦事件の碑
朝廷は幕府に攘夷断行を求め、江戸に赴く大原勅使の護衛として薩摩の島津久光が同行し、 その帰途、文久2年8月21日(1862年9月14日)午後2時、行列を横切ろうとしたイギリス人一行を生麦で殺傷しました。 この事件を土地に因んで生麦事件といい、薩英戦争の契機となりました。 明治16年、鶴見の人、黒川荘三が中村敬宇の撰文を得てイギリス商人リチャードソン落命の地に、 遭難の碑を私費で建立したものです。
(碑文)舊蹟
文久二年壬戌八月二十一日英国人力査遜 殞命干此處乃鶴見人黒川庄三所有之地也 荘三乞余誌其事因為之歌々曰 君流血号此海_我邦変進亦其源強藩起首 王室振耳目新号唱民権擾々生死疇知聞萬 国有史君名傳我今作歌勒貞a君其含笑干 九原
 (横浜市教育委員会)
遍照院
キリン横浜ビアビレッジの入口を過ぎて、JR貨物線の東海道生麦ガードをくぐって、国道15号を進んでいきます。 滝坂踏切入口交差点を直進し、滝坂バス停を過ぎていくと、右手に「密巌山遍照院」と刻まれた石柱が立っています。 そこから右手へ続く参道を進んでいくと、 京浜急行の生麦第4踏切を渡ったすぐの所に、「遍照院」の扁額の架かる山門があります。 山門から境内へ入っていくと、正面に遍照院の本堂がありました。 左手には赤い頭巾と前掛けをした六地蔵が並んでいて、 横浜市の名木古木に指定されているイチョウの老大木もありました。
頌徳碑
高野山宿老大僧正主教山本芳遵大和尚 明治二十六年二月十日神之 木油久保横山氏ニ生ル天性慈潤実践ノ人ナリ幼年遍照院ニ入寺芳善阿遍梨資トシ テ慈薫ヲ受リ金澤龍華寺玉野慈海和尚ノ下ニ加行成満大正六年先師ノ芳躅ヲ継ギ 四十一世住職トナリ寺門ノ興隆密教ノ宣布ニ専念昭和九年御遠忌ヲ機トシテ金剛 講雅楽ヲ振興ス又若クシテ宇會議員ニ選出サレ同十二年総本山金剛峯寺執行同 年中国大陸戦没英霊追悼法要並ビニ布教為中国ニ巡錫昭和廿年戦禍ヲ被リ 堂宇ヲ焼失同丗一年本堂ヲ同四十六年客殿庫裡ヲ再建昭和廿七年ヨリ同四十 八年ノ間高野山東京別院主監関東専修学院長幼稚園長トシテ多数ノ子弟ヲ 育成就中事相ニツイテハ勧論懇切自ラ範ヲ示サル本堂鐘楼書院ヲ修築ス在住中立教 開宗庭儀大蔓供ヲ開筵同四十年高野山開創法會ニハ関東甲信東北地区傳 道国長又奥之院燈籠堂導師ヲ勤メ翌年ハワイ開教五十周年式典ニ渡布同四 十二年国立劇場聲明公演ニ中曲理趣_昧法要導師ヲ勤メ聲宇實相ノ法味ヲ 弘ム神奈川支所学頭自治布教團長金剛講顧問司法保護司民生委員等歴任
新子安駅入口交差点を過ぎて、新子安橋の下をくぐっていきます。 子安通2丁目第2公園を過ぎていくと、小さな川に架かる入江橋を渡っていきます。 その先の入江橋交差点を直進して、子安通一丁目歩道橋の下を過ぎていきます。 京浜子安駅入口交差点、子安通一丁目交差点と過ぎて浦島町交差点まで来ると、右手にコンビニがあります。 浦島町バス停を過ぎていくと、鮨処の隣にそば屋の大勝軒があります。 人気のある店なのか、お昼を過ぎた時刻でしたが、小さな店の前には行列が出来ていました。 「特製もりそば(つけ麺)」が有名のようで、その口上書が貼り出されていました。 大勝軒の先には神奈川通交番があり、その間の路地を右手へ曲がっていきます。
神奈川通東公園
右手の路地へ入っていくと、すぐ先の十字路の角に神奈川通東公園があります。 公園の入口には「神奈川宿歴史の道」の解説板が設置されていて、 土居と長延寺跡の解説が載っていました。 ここに神奈川宿の江戸方見附があったようです。 開港時代にはオランダ領事館が置かれたようですが、 今ではその面影はなく、石碑「史跡 オランダ領事館跡」が脇に立っているだけです。
長延寺跡(オランダ領事館跡)
「神奈川宿歴史の道」の起点である神奈川通東公園は、寛永8年(1631)から昭和40年までの330年間の間、 浄土真宗長延寺が所在した場所である。 長延寺は、開港当時、オランダ領事館に充てられた。 当時を偲ぶ狂歌の一節に「沖の黒船歴史を変えてオランダ領事は長延寺」とある。 昭和40年の国道拡幅に伴なう区画整理によって、長延寺は緑区に移転し、跡地は公園となった。 今は、わずかに旧オランダ領事館跡を示す石碑を残すのみである。
土居(桝形)
江戸時代の宿場町の入口には、しばしば桝形がつくられた。 本来、桝形は城郭の一の門と二の門の間の方形の地であるが、 宿場町では街道の両側から土居を互い違いに突き出すだけの場合もある。 神奈川宿の江戸方の入口に当たる長延寺前にも土居を互い違いに突き出した桝形があった。 旧本陣の石井家に伝わる「神奈川宿入口土居絵図」には、 街道両側に高さ2.5メートルほどの土居が築かれ、その上には75センチメートルほどの竹矢来を設けている。
神奈川新町(かながわしんまち)駅
神奈川通東公園から左手へ続く煉瓦敷きの道を真っ直ぐに2分ほど進んでいくと、少しずれた十字路に出ます。 角にはコンビニがあります。 そこを右折すると、すぐに神奈川新町駅(京浜急行本線)があります。 鶴見駅から1時間25分ほどで到着しました。 駅前には「神奈川宿歴史の道」と題した解説板が設置されていて、 先ほどの神奈川通東公園から上台橋(横浜駅の北西)へ至る神奈川宿の絵図も載っていました。
神奈川宿歴史の道
東海道五十三次の日本橋よりかぞえて三番目の宿場が神奈川宿である。 この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。 上図は、江戸後期に幕府の道中部郷が作った「東海道分間延絵図」である。 図中央に滝の橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。 右端は江戸側からの入口で長延寺が描かれ、左寄りの街道が折れ曲がったあたりが台町である。 台町の崖下には神奈川湊が広がっている。 この神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。 その四年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められた。 開港当時、本覚寺がアメリカ領事館、長延寺がオランダ領事館になるなど、 この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。 神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象とし、 神奈川通東公園から上台橋に至るおよそ四キロの道のりとなっている。