吾妻山公園
散策:2008年12月下旬
【街角散策】 吾妻山公園
概 要 吾妻山公園は二宮町にある低い山を利用した公園です。 広場には菜の花が咲き、展望台からは丹沢・箱根・伊豆・相模湾などを一望できる眺めが広がっていて、 条件がいいと富士山を望むこともできます。 今回は大応寺や知足寺を訪ねてから吾妻山へ登り、 釜野口から川匂神社を経て国道1号沿いに二宮駅へ戻ってくるルートを歩きます。
起 点 二宮町 二宮駅
終 点 二宮町 二宮駅
ルート 二宮駅…大応寺…知足寺…曽我兄弟の墓…登り口…吾妻社…展望所…浅間神社…吾妻山…中里口分岐…浅間大神…釜野口…八重久保横穴墓群…登り口…川匂神社…川匂の湯場…西光寺…川匂橋…茶屋薬師…宝蔵寺…火見櫓…等覚院…小澤寺…旧東海道…延命地蔵尊…二宮駅
所要時間 4時間10分
歩いて... 吾妻山の山頂には菜の花が四分咲きほどの花を咲かせていて、いい匂いが漂っていました。 この時は天候にも恵まれて、冠雪した綺麗な富士山を望むこともできました。 詳細な地図を持参せずに出かけたので、道に迷う場面もありましたが、 何とか予定したルートを歩くことができました。
関連メモ 吾妻山公園, 吾妻山公園, 吾妻山公園, 吾妻山公園, 吾妻山公園, 吾妻山公園, 吾妻山公園, 吾妻山公園
コース紹介
二宮(にのみや)駅
二宮駅(JR東海道線)から歩いていきます。
改札口を出て、北口の右側の階段を降っていきます。 横断歩道を渡ってバスターミナルの右側を進み、その先の道路を右折していきます。
吾妻山へ登るには、正面から左手へ曲がっていく道を進んでいけば近いのですが、 今回は遠回りして、北東側にある吾妻社の脇から登っていきます。
突き当たりにあるT字路を左折していくと、二宮町ITふれあい館の前に、軽便鉄道の解説板がありました。 明治の後期から昭和の初期にかけて、この二宮町から秦野市本町の間を走っていた鉄道で、 往時には大山への参拝客などで賑わったのだそうです。
軽便鉄道 二宮駅跡
馬車鉄道・軽便鉄道・湘南軌道の沿革
通称「けいべん」は、明治39年(1906)に湘南馬車鉄道株式会社が 吾妻村(現在二宮町二宮)〜井ノ口村(現在中井町井ノ口)〜秦野町(現在秦野市本町三丁目)間の 道路9.6キロメートルに幅二尺五寸(76.2センチメートル)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりとなっています。 馬車鉄道は、一頭の馬が小さな客車、または貨車を引くものでしたが、大正2年(1913)には動力を馬から 無煙炭燃料汽動車(蒸気機関)に代え、社名も湘南軽便鉄道株式会社とし、運転を開始しました。 当時の沿線は、わら葺屋根の民家がほとんどで火の粉の飛散を防ぐため、 独自に開発したラッキョウ型の煙突を付けた機関車が、客車や貨車を牽引していました。 二宮駅からの乗客は、大山への参拝者が多く、シーズンになると駅は活気にあふれ、 貨物ホームには葉たばこ、落花生、雑穀、肥料などがうず高く積まれていました。 特に二宮特産の落花生は、全国に名が知られていました。 二宮駅は、東海道線と軽便鉄道の乗換地点で、乗継切符が販売されていました。 石碑の北側には、湘南軌道株式会社本社「二宮駅」の上屋が、今でも当時の面影を残しています。 二宮には、このほか中里停留所、一色停留所がありました。 その後、軽便鉄道は、大正7年(1918)には湘南軌道株式会社への軌道特許権が譲渡され、 大正10年(1921)に秦野自動車株式会社が秦野〜二宮間の営業を開始、 大正12年(1923)の関東大震災による軌道の損害、昭和2年(1927)の小田急開通などにより鉄道の経営が厳しくなり、 昭和8年(1933)に旅客運輸を、昭和10年(1935)には軌道全線の営業を休止し、 昭和12年(1937)に軌道運輸事業を廃止しました。 明治、大正、昭和の時代を走り抜けた「けいべん」の歴史は100年の時を経て、今も人々の胸の中に生き続けています。 私たちは今、この地点に立ち、当時、勇姿に走っていた「けいべん」に思いを馳せ、後世に歴史を継承します。
 (秦野市・中井町・二宮町 軽便鉄道歴史継承事業実行委員会)
街路を進んでいくと、葛川内輪橋が架かっています。 川面を覗いてみると大きな鯉が沢山泳いでいました。 橋を渡って県道71号に出て左手へ進んでいくと、生涯学習センター前交差点があります。 その手前に道標が立っていて「吾妻山公園 700m先左・山頂まで1400m」となっていました。 葛川の支流に架かるこかどばしを渡っていくと、すぐに左手へ細めの道が分かれていきます。 向こうを向いた道標が立っていて、今来た道は「二宮駅約600m」となっていました。 ここで県道と分かれて左手の道を進んでいきます。
吾妻山公園への道標「700m先左」が指す地点は「中里登り口」を指していると思われますが、 今回はこの近くにある吾妻社の脇から登っていきました。
50mほど進んでいくと左手に分れていく道があって、その先には花月橋が架かっています。 分岐には「浄土宗知足寺・知足寺附属二宮保育園」の看板が出ていて左手の道を指しています。 知足寺へはその橋を渡っていけばいいのですが、今回は少し先にある大応寺を訪ねていくことにしました。 分岐を見送って200mほど進んでいくと五叉路があります。 角の左手には「曹洞宗大應禅寺」と刻まれた石柱が立っています。 そこを左折していくと、葛川に朱塗りの大応寺橋が架かっています。
大応寺橋を渡っていくと、正面に大応寺の山門があります。 二宮駅から14分ほどで到着しました。 山門の柱には「曹洞宗(禅)大応寺・梅花保育園」の表札が掛かっています。 山門の手前の右側には、赤い頭巾と前掛けをした六地蔵が並んでいて、 六地蔵の謂れが刻まれた石碑もありました。
六地蔵さま縁起
人間には六つの心がかわるがわり起り苦しみ悩みます。 さらにこの世の行ないのむくいとして死んだ後に六つの世界に生れかわるといわれる。
地獄道 自らおかした悪のむくいとしておちいる者の世界
餓鬼道 むさぼりほっして満足することを知らない者の世界
畜生道 本能の命ずるとおりおこなう者の世界
修羅道 ねたみの心がさかんで常にとうそうしている者の世界
人間道 常に迷って苦しんでいる者の世界
天上道 お金もたくさんありひまもあると何かしたい気持ちがおこり不満がでてくる者の世界
六地蔵さまはいろいろの教えを聞き修養することにより、 苦しみや悩みをとり除き願いごとをかなえて下さると同時に、 死んでいった後の世までも慈悲の手をさしのべて下さると言われます。 合掌
大応寺
門は施錠された鉄製の扉で閉ざされていますが、右手に勝手口があって、 そこから大応寺の境内へ入っていけました。 境内に入っていくと、すぐ正面に本堂があました。 右手には鐘楼や庫裡と思われる建物があり、左手には梅花保育園があります。 大応寺と同じ敷地にあるようなので、お寺さんが経営している保育園なのだろうと思われます。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、 参考までに二宮町郷土史で紹介されている内容の一部を載せておきます。
大応寺(二宮)
妙見山盛唇庵という。 曹洞宗、豆州加茂郡宮上村最勝院末。 開山は麟正(本寺五世、天文8年3月29日寂)が、天文7年正月に高遁斎道応(当時、小田原城主)が 当所内の蔵屋敷ならびに山林、田畑を寄付した。 そのため、この人の法号、大森道応居士冠踏の二字を取って大応寺と改めたものであるという。 …(中略)… 本尊は釈迦、元禄2年に万年佐左衛門宗頼の寄付したものである。 寺宝の古文書三通のうち一通は前に記した。 一通は永禄元年10月の北条氏政が発した伐木禁制の掟書、一通は北条氏政の書翰。 鐘楼には元禄3年銘の鐘がかけてあったが、戦時中、鉄回収のため現存しない。
 (出典:二宮町郷土史)
知足寺
大応寺から右手へ続く道を進んでいきます。 葛川沿いに建ち並ぶ民家の間に続く路地を200mほど進んでいくと、先ほどの花月橋のある十字路に出ます。 そこを右折して200mほど進んでいくと、突き当たりの右手に「浄土宗知足寺」の表札の掛かる門柱が立っています。 左手には二宮保育園があります。 右手の門柱を抜けて六地蔵に出迎えられながら石段を登っていきます。 「塩海山」の扁額の架かる山門をくぐっていくと知足寺の境内になります。 正式名は「塩海山花月院知足寺」というようです。 正面には立派な本堂があり、右手には真新しそうな鐘楼がありました。 今時の鐘楼らしく、自動で鐘を突く装置が取り付けられていたりもしました。 左手には小振りの「山内社」という祠があり、 貴船大明神・稲荷大明神・八釼大明神・秋葉大権現・熊野大権現・山王大権現・津嶋天王宮・毘沙門天王・北野天満宮が 合祀されているようでした。
私たちの宗旨
名称 浄土宗
宗祖 法然上人[源空](1133〜1212)
開宗 承安5年(1174)
ご本尊 阿弥陀仏(無量寿仏)
称名 南無阿弥陀仏
教え 阿弥陀仏を深く信じてひたすら南無阿弥陀仏と称えるだけで、 どんな罪深い人でも必ず救われて明るい毎日を送り、浄土に生まれることができる教えです
お経 お釈迦さまが説かれた無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の三部経をよりどころとします
本堂のご本尊に先ず合掌
知足寺の御詠歌
日にみたび さとに流るる 鐘の音は 足るを知れとの 弥陀のおん声
曽我兄弟の墓
本堂の左手にある石仏群の脇に「曽我兄弟の墓 順路→」の立て札があったので、 立ち寄っていくことにしました。 立て札に従って、本堂の左手に続く墓地の中の道や石段を進んでいきます。 少し登って細い竹が生える脇を過ぎて軽く降るようになると、 角が取れて丸まった墓石が道の脇に四つ並んでいました。 それらと向き合うようにして、文字を刻んだ石碑がありました。 謂れなどが刻まれていたようですが、旧字体で書かれていて、無学の私にはよく読めませんでした。 脇には「曽我兄弟の墓(伝)」と書かれた標柱も立っていました。
登り口
墓を過ぎてその先へ10mほど進んでいくと、十字路があります。 右手は民家へ続く道のようで、正面の道は数件の民家を経て山道となり、その先は不明瞭になっています。 今回は十字路を左折して坂道を降っていきます。 かなり傾斜のある坂を降っていくと、細い川沿いに続く道に降り立ちます。 右手へも道が続いていますが、はやり行き止まりになっているので、左折して緩やかに降っていきます。 緑色の金網沿いに進んでいくと、工務店を過ぎた先で、右手へ分れていく細い坂道があります。 民家へ入っていきそうな感じもしますが、ここが吾妻山への登り口になります。 曽我兄弟の墓から2分ほど、大応寺から15分ほどで到着しました。
吾妻社
坂を登っていく白塀が現れます。 塀の右側に沿って進んで、その先の石段を登っていきます。 右へ曲がって白木の鳥居をくぐっていくと、玉垣に囲まれた小振りの社がありました。 屋根には3本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていましたが、由緒などを記したものは見かけませんでした。 何故だか蘇鉄の木が何本も植えられていたりもしました。 神社と蘇鉄という組合せも珍しいと思いながら、神社の歴史などを想像したりしました。 今朝の冷え込みのため、手水場には薄氷が張っていました。
白壁の所まで引き返してきて、間を抜けて、山へと登っていきます。 道の中ほどには細いコンクリートが敷かれている坂道を登っていきます。 左手には金網が続いています。 笹竹が生えるようになった高みまで登っていくと、道は右手へ曲がっていきます。 正面へ降っていく金網沿いにも僅かな道(*)がありましたが、右手の尾根に続く道を登っていきます。 尾根を登っていくと、すぐに竹林になってきます。 道標などは見かけないものの、かなりしっかりとした道になっていました。
*後日に歩きました。(「吾妻山公園」を参照)
2分ほどで竹林を抜けていくと、登り傾斜が増してきます。 かなり傾斜があって脹脛が痛くなってきたりします。 その上、落ち葉が厚く積もっていて、滑りやすくもなっていました。 コンクリート製の囲いのようなものを過ぎていくと、傾斜が少し緩んできます。 樹木の間から相模湾や三浦半島を眺めたりしながら登っていくと、真新しい縦板の階段が現れました。 柱も点々と設置されていますが、ロープなどはまだ張られてはおらず、 どうやら工事の途中のように思えました。 先ほどの登り口からの道を散策路として整備しようというのでしょうか。
展望所
30秒ほど階段を登っていくと、正面が開けて、吾妻山公園の「ツツジの丘」の端に出ました。 吾妻社から9分ほどで登って来られました。 出た所にはロープで柵がされていたので、やはり工事中のようでした。 山の斜面にはツツジの木が一面に植えられていますが、花の季節ではないので咲いてはいませんでした。 横木の階段混じりの散策路を右の方へ2分ほど登っていくと、テーブル・ベンチが幾つか設置された所がありました。 双眼鏡も設置されていて、展望所になっているようでした。
左手には湘南の街並みや相模湾の向こうに、三浦半島が海へ伸びているのが一望出来る眺めが広がっていました。 双眼鏡を覗いてみると江ノ島が間近に見えていて、その手前には烏帽子岩と思われる岩礁も見えていました。 相模湾には小船が沢山浮かんでいました。 双眼鏡の接眼レンズにデジカメを押し当てて、そんな様子をちょいと写してみました。 はっきりとしない写真になってしまいましたが、実際には綺麗に見えていました。
(左の画像にマウスポインタを乗せると、双眼鏡を通して写した写真が表示されます)
浅間神社
展望地からツツジの丘を更に2分ほど登って高みに着くと、浅間神社が建っています。 正面には「浅間神社」の扁額が掲げられていて、社殿の中には注連縄を渡された白木の祠がありました。 解説文にある「内宮」になるようです。
浅間神社
祭神は木花咲耶媛、二宮町上町地区の祭神で、 土地の人には浅間さんとして親しまれ、本社は富士浅間神社です。 木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、 良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。 今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、 曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。 この時、二宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。 後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて、自分の住いの前のこの山上に、 浅間神社をまつったと言われています。
この度社殿老朽にともない新築、内宮は大修理を施し装いも新たになりました。 尚、修復した内宮(一部の彫り物も含む)は1700年後期寛政の頃の作といわれています。
付記 修理されし内宮の各部
1.柱 2.像鼻 3.側面蛙股 4.左海老虹染 以上
 (平成19年3月吉日 二宮町二宮 上町町内会)
浅間神社の奥へ続く広い道を緩やかに降っていきます。 道端に植えられたスイセンが白い花を咲かせ始めていました。 遊具や管理事務所などがある広場を左下に見ながら降っていくと、左右に通る舗装路に出ます。 そこから右手へ僅かに登ってに着くと、道が二手に分かれています。 周囲には道標や看板などが幾つも設置されています。 それらによると、正面へ降っていく道は「釜野口・中里口・小動物園」、 左手の道は「芝生広場・展望台」、 今来た舗装路は「吾妻神社・二宮駅」となっていて、簡単な地図もありました。 今回はここから釜野口へと降っていくのですが、 その前に左手にある吾妻山の頂上まで往復してくることにしました。
吾妻山 (標高136.2m)
道の左右にはツツジの木が並木を作っていて、その両側にはアスレチック器具が点々と設置されています。 ロープ製の吊橋の下を過ぎていくと左右に道が分かれる所に出ます。 その右手の道進んでいくと吾妻山の頂上に着きます。 麓の登り口から23分ほどで登って来られました。
山頂は広い芝生広場になっていて日当たりがよく、ピクニックには最適な所です。 広場には「吾妻山公園の由来」と題した大きな石碑や「山頂136.2m」の標識もあります。 この時には、山頂の西側に植えられた菜の花が四分咲きほどで、辺りには良い匂いが漂っていました。
吾妻山公園の由来
相模路の淘綾の濱の真砂なす 児らは憂しく思はるるかも 萬葉集第十四 東歌
(さがむじの よろぎのはまの まなごなす こらはかなしく おもはるるかも)
万葉の昔から淘綾の里二宮の美しい海浜と、それを眼下に一望できる吾妻山は、人々のふるさとでありました。 しかし、第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で、山は顧みられることもなく、 次第に荒廃が進んでいきました。 町はこれを深く憂え、子孫に誇れる山として残したいと思い、 地権者65名の協力と5年の歳月をかけて整備し、昭和62年7月18日に吾妻山公園として開園しました。 現在では健康づくりと自然とふれあうやすらぎの場として人々に喜ばれています。 この公園は名誉町民第17代柳川賢二町長の尽力により完成しました。
 (顕彰会)
淘綾の濱とは、ゆるぎ・こゆるぎの浜ともいい、二宮を中心に国府津から大磯あたりまでの白砂青松の海浜をいいます。
吾妻山の山頂には「展望台」と呼ばれる円形状の石積みがあります。 北側には丹沢山系、西側には箱根連山、南西側には小田原から伊豆にかけての海、 南東側には相模湾から三浦半島などを見渡せる素晴らしい景色が広がっています。 この時には条件がよくて、冠雪した富士山が綺麗に見えていました。 すでに多くの人達が登ってきていて、菜の花や富士山の眺めを楽しんでいるようでした。 菜の花を前景に入れた富士山を写真に収めようというのか、 地面に這うようにして写している人達も見かけました。 富士山の手前には矢倉岳、左手には金時山もよく見えていました。
ここはみんなの広場です。 次のことを守りましょう。
・芝生内、犬の立入は御遠慮ください。
・ゴルフ等、他の人の迷惑になること並びに芝を滑ることはできません。
中里口分岐
菜の花と富士山を堪能したら、30分ほどいた吾妻山から下山していきます。 どちらへ降ったものかと考えた末、今回は釜野口に降りて川匂神社方面へ向かっていくことにしました。 先ほどの標識などが沢山設置された峠まで引き返して、釜野口へ向かって舗装路を降っていきます。 傾斜が緩やかになってきた道を進んでいくと、道が二手に分かれています。 右手から巻くように降っていく舗装路と、正面へ真っ直ぐに降っていく横木の階段になりますが、 いずれを降っていってもすぐ下で合流します。 合流した所には「かながわの美林50選 吾妻山公園の森」の標柱が立っています。 広い道を更に進んでいくと、降り傾斜が増し始める所から左手へ山道が分かれていきます。 吾妻山の山頂から5分ほど降ってきた所になります。 角には道標が立っていて、左手の山道は「釜野トンネル10分」となっています。 以前に来た時には右手へ降っていく舗装路を指す板もあって「旧県道12分」となっていましたが、 この時にはなくなっていました。 右手の道は小動物園や中里口へと降っていけますが、今回はここから左手の道を釜野口へと降っていきました。
浅間大神
横木の階段が続く道を降っていくと、正面に小動物園が現れます。 少し登り返して小動物園の裏手を過ぎていくと右手にこんもりとした高みがあって、そこに東屋が建っています。 どんな様子なのかと思って登ってみました。 周りにある雑木林に邪魔されて展望は今ひとつでしたが、眼下にある小動物園を見渡すことができました。 また、東屋の脇には「浅間大神」と刻まれた石碑と「磐長姫大神」と刻まれた石柱もありました。
東屋を後にして、雑木林に続く山道を降り気味に進んでいくと、開けた感じの果樹園があります。 樹木越しには丹沢大山と思われる山がよく見えていました。 果樹園を回り込むようにして進んでいくと、 少し降り始めた途中から道が右手へと分かれています。 先ほどの東屋から2分ほどの所になります。 右手の道は、中里口への道の途中やその西側の谷筋へと降りていけますが、 今回は釜野口を目指して、正面の横木の階段を降っていきました。
(右手の道は「吾妻山公園」を参照)
釜野口
山道にしては広めでしっかりとした道が続いています。 時折横木の階段があったりもしますが、段差は低くて歩き難くはありません。 分岐から3分ほど進んでいくと、幅の広い横木の階段を降った所で分岐があります。 右手の道は10mほど先にある送電線の鉄塔「西湘線55」の所で行き止まりになっているので、 左手へ続く緩やかな道を進んでいきます。 山の斜面から尾根を進むようになると、左手に小さなアンテナが見えてきます。 そこから右手へと曲がりながら続く横木の階段を降っていくと舗装路に降り立ちました。 吾妻山から21分ほどで降りて来られました。 この下には釜野隧道が通っていて、降り立った舗装路はその上の鞍部を越えていく脇道になります。 降り立った所には「吾妻山公園」の道標が立っていて、今降ってきた道を指しています。 釜野口はここから右手へ降っていったトンネルの入口付近になりますが、 今回はすぐ左手にある鞍部を越えて、その先へと降っていきました。
鞍部を越えて、その先の住宅地に続く急坂を降っていきます。 正面には相模湾が煌いていて、伊豆七島のひとつと思われる三角形をした島も見えていました。 T字路に降りて左手へ降っていくと車道に降り立ちます。 左手を振り返ると釜野隧道の入口が見えていますが、道路脇の歩道を正面へと進んでいきます。 程なくして、左手の上に山西小学校が見えるようになります。 車道に降りた所から2分ほど進んでいくと、 街路樹の傍にベンチが置かれた所を過ぎた所から、右手へ分れていく道があります。 その入口の右側には二宮町の設置する消火器を収めた赤い容器があり、 左側には二宮町広報板が設置されています。 ここから右手の道へと入っていきます。
住宅地に続く道を登り気味に進んでいくと、少しずれた十字路があります。 そこを左折して住宅地に続く道を進んでいきます。 右手から降ってくる道を合わせて少し降っていくとY字路があります。 そこを左手へ降っていくと左右に通る道に降り立ちました。 左手のすぐ先には車道が通っているで出てみると、少し先に釜野橋バス停がありました。 車道に出て右手へ歩いていってもいいのですが、今回はここから右手へと進んでいきました。
1分ほど軽く登っていくと、通学路の道路標識が立っていて左手へ分れていく坂道がありますが、 そのまま道なりに進んでいきます。 入居者募集中の幟が立つ集合住宅などの脇を過ぎていくと、こんもりとした森が見えてきます。 その左手を過ぎて進んでいくと「二宮みどり幼稚園」の裏口があります。 そこを過ぎて更に道なりに進んでいくと、少し左へ曲がっていった所で車道に出ます。 この車道は先ほどの釜野橋バス停があった車道になります。 釜野口の鞍部に降り立ってから21分ほどの所になります。 車道に出て左手10mほどの所から斜め前方へ分かれいく道へ入っていきます。
八重久保横穴墓群
岩壁とレンガ造りの塀に挟まれた道を進んでいきます。 岩壁には穴があいていたので中を覗いてみると、ゴミ置場になっていました。 崖を過ぎて畑地へ出ると、右手へ分れていく道があります。 その道へ進んでいくと民家の玄関先へ入っていきそうに思えますが、 その手前から民家の裏手へと道は続いています。 山際まで来ると、「八重久保横穴墓群」と書かれた標柱が立っていました。 その先へ進んでいくと、山際の崖には点々と穴が開いていました。 鎌倉にも似たような穴が沢山あって「やぐら」と呼ばれていますが、ここでは「横穴墓」というようです。 空っぽの穴もありましが、墓石がぎっしりと収められた穴もありました。
登り口
尾根へ出られないかと谷筋の奥へ進んでいきましたが、道は途絶えていたので、 先ほどの分岐まで引き返してその先へ進んでいきました。 細めの竹などが生えるこんもりとした所を過ぎていくと、先ほどの車道が近づいてきます。 その手前から右手へと分れていく道があります。 コンクリート塀の間に続く細い道ですが、ここが尾根を越えていく道の登り口になります。
壁に挟まれた坂道を登っていきます。 壁が終わって山際の畑地に出るとコンクリート舗装された道が途絶えた所で、道が二手に分かれています。 右手は民家の玄関先へ続く道なので、ここは正面に続く山道を登っていきます。 右手の生垣の向こう側には畑が続く谷筋の山際を登っていきます。 岩盤になっていたりもしますが、意外としっかりとした道になってきました。 左手の墓地への道を見送って、桧や竹が続く道を登っていくと、 登り口から4分ほどで舗装路に登り着きました。 この道は北側にある自由が丘から尾根を通って川匂地区へ降っていく道になります。
(右手に続く舗装路は「吾妻山公園」を参照)
舗装路に出て左へと降っていきます。 かなり傾斜のある道を真っ直ぐ降っていくと、道端のモミジが紅葉していました。 陽の光が透けて綺麗な眺めでした。 3分ほど降っていくと、左手からの道が合流してきたすぐ先から、右手へと道が分かれています。 坂道はその先へと更に降っていますが、この右手の道から川匂神社へと入っていきます。
川匂神社の境内へ入っていくと、正面に茅葺の随神門があります。 そこから右手へ進んでいくと、右手には社務所があり、左手には神輿庫がありました。 境内では間近に迫った正月の初詣の準備が進められていました。 真新しい茅の輪くぐりも設置されていました。 左手に生えている2本の杉の大木は「夫婦杉」というようでした。
夫婦杉 縁結び・安産
川匂神社の御祭神の一柱である衣通姫命は允恭天皇と結ばれました。 名前のとおり美しさが衣を通して光り輝くといわれ、皇子の誕生には当社に安産を祈願したといわれています。 衣通姫命を縁結び・安産の神様と敬い、良縁・安産を願う方は夫婦杉の間を祈願しながらお通り下さい。
社殿の手前には以前に使われていた石の鳥居が置かれていて、解説板も設置されていました。 その前には川匂神社例大祭奉納句に選ばれた俳句が沢山掲げられていました。
この石鳥居は文久元年第三十三代神官二見景賢代に大門参道入口に建立されたものです。 昭和四十五年道路改良工事による大鳥居新設に伴い撤去されたものです。 社号額字は明治ん叉十念大磯別邸に住まわれた侯爵伊藤博文公の揮毫によるものです。
川匂神社
玉垣から先へ入っていくと、正面に川匂神社の社殿がありました。 歴史を感じさせる社殿の奥には本殿があって、4本の鰹木と外削ぎの千木が聳えていました。
川匂神社
御祭神
大名貴命 日本の国土を御開拓なされた神様です
大物忌命 殖産興業に御功績のあった神様です
級津彦命 相模国が昔相武と磯長に分かれていた頃、
級津姫命 磯長の国を御開拓なされた神様です
衣通姫命 安産守護の神様です
御由緒
当社は相模国二宮で古くから二宮大明神と称し、延喜式所載の名社である。 十一代垂仁天皇の朝、当国を磯長国と称せし頃、その国造阿屋葉造が勅命を奉じて、当国鎮護のため崇招せり。 日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願ありしを始め、武将の崇敬深し。 人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫命、皇子御誕生安穏のため奉幣祈願あらせらる。 一條天皇の御宇、永延元年栗田中納言次男次郎藤原景兵当社の初代神官となり、爾来今日に及ぶ。 建久三年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。 建長四年、宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納めらる。 北條相模守小田原北条、小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず。 徳川の朝に至り、家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上、殊の外喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。 爾来徳川累代将軍に及ぶ正月には必ず江戸城に登城して、親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり、 幕末まで続行せり。 明治六年郷社に列せられ昭和七年県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。
社殿から引き返して随神門を過ぎていきます。 門の両側にはガラスケースに収められた豊磐間戸命と櫛磐間戸命の像がありました。
古文書・田舟 川匂神社所蔵 二宮町指定重要文化財
一、古文書 小田原北条氏の臣山角刊部左衛門の書状
北条氏鬼門除守護神として信仰あつく元亀3年(1572)正月三嶋麻役銭など寄進のもの
徳川家康公五十石の寄進状の写し 天正19年(1591)
徳川家康公の書状
文禄の役家康九州名護屋財人のときの礼状など十一点
これら多くの古文書により、当川匂神社が古くから幕府および有力な武家の深き信仰を受けていたことがわかる。
二、田舟 長141.0cm 厚さ4.8cm 巾31.0cm
全容の左半形のみで、原木をくりぬいて作られ、 わが国古代奈良朝の頃まで田植えの苗運びに使用されたものと推定される。 大正4年5月当神社浦旧神領地より発掘されたものである。
 (二宮町教育委員会)
川匂の湯場
石段を降り「川匂神社」の扁額が架かる鳥居をくぐって、10ほどいた川匂神社の境内を後にします。 道路に降りた右手は駐車場になっています。 そこを横切ってその先に続く道を進んでいきます。 畑の脇を過ぎて軽く右手へ曲がりながら降っていくと、山際に川匂の湯場があります。 金網で囲まれた湧水で、脇には標柱と解説板が設置されていました。
川匂の湯場
ここは、古くから「川匂の湯」として広く知られ、神経痛や皮膚病に効能があるとして、 湯治に訪れる人が多く、明治37、8年頃の最盛期には、東京・横浜方面からくる人で賑わったという。 当時は、三階建ての湯宿があり、ここから湧出した鉱泉を沸かして用いていた。 大正12年の関東大震災で打撃を受け、建物は倒壊、地下水脈が変わってしまった。 なお、僅かではあるが現在でも湧出している。
 (二宮町教育委員会)
元の駐車場の所まで引き返していくと十字路があります。 角には「郷社 川匂神社」と刻まれた石柱や「延喜式内社 相模国二宮 川匂神社」と書かれた看板などが立っていました。 そこを右折して道路を進んでいきます。 トーテムポールが立つ「老人憩いの家」を過ぎていくと、二宮西中学校の校門があります。 その先の切通しへ進んでいくと、左手に「真言宗無量山 西光寺」と刻まれた石柱が立っています。 その後ろの石段の上には大日堂が建っていて、中には三重寶塔が収められていました。 その右手から続く道を奥へと入っていきます。
大きな樹木の生える門から西光寺の境内へ入っていくと、 左手には子育延命地蔵尊が、右手には六地蔵が並んでいました。 奥には「悠響の鐘」の鐘楼がありました。
悠響の鐘
この鐘楼堂、梵鐘は、篤信の母親が愛娘恵子様の菩提を祈る慈悲の証として発願され、 浄財を寄せられ、縁者の協力の中で完成せり。 更に梵鐘は、四国板村真民先生より贈られし詩が鋳込まれ、20世紀より21世紀に響き続け、 世界の平和と万民豊楽の願いをこめて、「悠響の鐘」と命名せり。
梵鐘に寄せられし真民先生のことば。
千年の鐘になり、二千年代を響き続けて大和の国日本の平和と幸福とを響かせてくれることでしょう。 まさに新時代の発展を告げる鐘の思いが伝わって参ります。 仏縁詩縁を感謝いたします。
この鐘楼堂完成にむけ布施の手をさしのべられし、多くの方々に感謝の誠を捧げこれを記す。合掌
 (西光寺二十世光洋)
子育延命地蔵尊
今から200年ほど前、寛政9年、大津波と疫病蔓延のため、多くの子供がその命をなくした。 病児を船に乗せて隔離するしかすべが無く、命絶えていく子らを涙ながら浜辺で見送る親の悲しみは、 言葉で言い尽くせるものではなかった。 これを悼んで押切の人々は、子供の慰霊と子育て延命、厄除けを願い、この地蔵尊を建立された。
 (山主)
西光寺
左手には天然記念物に指定されているカヤの巨木があり、その奥に西光寺の本堂があります。
かやの木 天然記念物 真言宗 西光寺
樹高実測18.25m 胸高周囲実測3.27m(直径1.04m)
樹齢は推定500年であり、高さ15.5mで分枝し、直径15〜30cmの太さの幹40数本を四方に張り出し、 見事な樹冠を形成している。 室町期文明年間(1470)年代に当る古樹で、しかも郷土固有の樹種である。
 (二宮町教育委員会)
本堂の左手には慈母観音があり、その奥には太鼓橋の形をした不動橋が架かっています。 橋の左手には池があって大きな鯉が沢山泳いでいて、滝のように水が流れ落ちていました。 橋の先には「三寶洞」という名前のトンネルがあって、その向こうの墓地へ続いています。 トンネルの中には「慈光殿」という空間があり、赤い前掛けをしたお地蔵さんがずらりと並んでいました。
川匂橋
10分ほどいた西光寺を後にしてその先へ降っていきます。 畑地に出て真っ直ぐ進んでいくと、車道のT字路に出ます。 正面には道標が立っていて、右手の道は「茶屋薬師堂・東海道一里塚の跡」、 左手の道は「吾妻山公園 梅沢登り口,釜野登り口・二宮駅」となっていました。 道標に従って右手へ進んでいくと、道は左手へと曲がっていきます。 二宮町コミュニティバスの「かわわの家入口バス停」を過ぎて車道を進んでいきます。 少し登り坂になってくると、西光寺から8分ほどで川匂橋が架かっています。 橋の下にはJR東海道線が通っています。
茶屋薬師
川匂橋を渡って降っていくとすぐに十字路があります。 今回はそこから二宮駅へ向かっていくのですが、そのまま坂道を降った所に茶屋薬師があるので立寄っていきました。 山西防災コミュニティーセンターや茶屋町会館を過ぎていくと、 国道1号の川匂神社入口交差点の手前の左手に茶屋薬師があります。 川匂神社から40分ほどで到着しました。 中を覗ってみると、大きな薬師像があって、天井からは千羽鶴などが幾つも垂れ下がっていました。
薬師如来坐像 薬師堂
像高 261.5cm
面長 48.5cm
頭頂〜顎 85.0cm
面巾 54.5cm
肩張 95.0cm
胸厚 71.0cm
膝張 251.0cm
膝高 右49.0cm、左48.0cm
寄木造り彫眼漆箔の坐像で、江戸時代の作と推定されます。 顔は扁平で顎を突出し、眼が大きく特徴があります。 胸は比較的薄く、衣紋は形式化して彫りが浅くなっています。 左手掌の上に薬壺をのせ、右手を曲げて前向き開き、衆生済度の表現に満ちた仏像です。
 (二宮町教育委員会)
宝蔵寺
茶屋薬師から引き返して、手前にあった十字路を東へと曲がって、住宅が建ち並ぶ道を進んでいきます。 ミカン畑を過ぎていくと、茶屋薬師から8分ほどの所に宝蔵寺があります。 「曹洞宗 宝蔵禅寺」と刻まれた石柱の立つ門は閉ざされていますが、 右手の勝手口から境内に入っていくと、すぐ正面に本堂がありました。 右手には庫裡と思われる民家風の家があり、左手には鐘楼や墓地がありました。 墓地の中には六地蔵や石仏などをピラミッド型に積み上げた萬霊塔もありましたが、 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでした。 本堂の前に設置された掲示板によると「延命山宝蔵寺」というようでした。
火見櫓
宝蔵寺からその先へ1分ほど進んでいくとT字路があります。 そこを右折して国道1号に出ると、左手に火見櫓が立つ山西交差点があります。 火見櫓の袂には、「天社神」や「道祖神」と刻まれた石碑や、 「朝日清正光大薩_道」と刻まれた石柱や双体の道祖神などが並んでいました。 国道1号から左手へ分かれて、東海道線の線路との間に続く道を進んでいきます。
等覚院
正面に吾妻山を眺めながら住宅地を2分ほど進んでいくと等覚院があります。 「真言宗 梅澤山藤巻寺 等覚院」と刻まれた石柱が立つ門から境内へ入っていくと、正面に本堂があります。 境内の左手には赤い帽子と前掛けをした六地蔵尊が並び、 その横には水子地蔵尊・万霊供養塔・正徳地蔵尊がありました。 また立派な梵鐘や藤棚もありましたが、ここでもお寺の謂れなどを記したものは見かけませんでした。
梵鐘 等覚院
二宮町重要文化財 高さ101.0cm 径 外60.0cm、内45.0cm
もと吾妻社の別当坊・千手院にあり、明治のはじめ当等覚院に移されたと伝えられている。 寛永8年(1631)の銘があり、町内に現存する最古の梵鐘です。 鐘鳴音は清澄でその響きもまた格別によい。
 (二宮町教育委員会)
フジ 等覚院
二宮町天然記念物 樹齢約400年 高さ240cm
このフジの木は古くから有名で、元和9年(1623)将軍家光上洛のおり、 当地に駕を止めてフジの花をご覧になったと伝えられています。 また、寛文の頃、仁和寺宮が関東に下向されたとき、フジの花をご覧になり、 「藤巻寺」の別号を与えられたとも伝えられています。 永く旅人からも関心をもたれ、他の文学書にも記されている木です。
 (二宮町教育委員会)
小澤寺
等覚院を出て100mほど進んでいくと、右手に曲がっていく角から、 国道1号の下を通って海へ続く道が分かれていきます。 その曲がり角から左へ少し入った所に、小澤寺がひっそりと佇んでいました。 手前には石仏などが数体並んでいました。
相模三番観音 小澤寺
いくたびも まいりておがむ 観世音 心のあかを すすぐ梅川
(梅川というのは、ここを経て相模湾へ流れ込んでいる梅沢川のことでしょうか)
旧東海道
小澤寺からその先へと坂道を登っていくと、再び国道1号に出ます。 出た所の左手には「吾妻村梅澤 吾妻神社」と刻まれた石柱と大きな鳥居が立っています。 鳥居の先へ続く道を進んでいくと、線路を越えて吾妻山の上にある吾妻神社へと続いています。 国道との角には「約250m先 等覚院(藤棚)」や「約100m先左折 梅沢海岸」の標柱が立っていて、 今来た道を指していました。 また「旧東海道の名残り」と書かれた標柱も立っていました。 右手には吾妻神社前バス停があって、二宮駅南口や平塚駅北口行きの便が各々1時間に2本程度ありますが、 国道1号をその先へと進んでいきます。
延命地蔵尊
吾妻山入口交差点を直進していくと、「日本橋まで74km」の道路標識を過ぎた先に梅沢交差点があります。 そこで国道1号と分かれて左手の道へ入っていきます。 住宅地の中を進んでいくと、線路を越えていく歩道橋の脇に出ます。 手前には「梅沢内原 子どもの広場」があります。 細くなった道をそのまま線路沿いに進んでいきます。 突き当たりから少し右手へ曲がって道なりに進んでいくと、赤く塗られた小祠が道端にあります。 中には「南無延命地蔵尊」と刻まれた石碑と赤い前掛けをした地蔵が安置されていました。
二宮(にのみや)駅
延命地蔵尊の先のY字路を左手へ1分ほど進んでいくと二宮駅(JR東海道線)の南口に着きました。 茶屋薬師から40分ほどで到着しました。
駅前はバスターミナルやタクシー乗り場になっています。 その中ほどには大きな木が植えられていて、 「ガラスのうさぎ」と題する像や伊達時彰徳碑も立っています。
ガラスのうさぎ
太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機P51の機銃掃射を受け、 幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。 この時、目の前で父を失った12歳の少女がその悲しみを乗り越え、 けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は、国民の心に深い感動を呼び起こし、 戦争の悲惨さを強く印象づけました。 この像は私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、 また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、 多くの方々のご協力をいただき建てたものです。 少女が胸に抱えているのは父の形見となったガラスのうさぎです。
ここに平和と友情よ永遠に。
 (「ガラスのうさぎ」像を二宮駅に建てる会)
伊達時彰徳碑
この碑は、明治維新以降に郷土二宮の発展と社会福祉の増進に尽力された、伊達時氏の功績を後世に伝えるため、 二宮駅開設50周年を記念し、昭和26年(1951)町民有志により建てられたものです。 伊達時氏は、医師として、中郡、神奈川県の医療の発展・充実に努めると共に、 衆議院議員としても、憲政の発展と地方自治の振興のために活動し、二宮駅の開設や、 二宮駅を中心とした交通網の整備、教育の振興を図るなど、多方面にわたる公共事業に尽力されました。
石碑には、次のように碑文が刻まれています。「…(省略)…」
 (二宮町教育委員会)