藤沢宿
散策:2008年12月下旬
【街角散策】 藤沢宿
概 要 藤沢宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋から6番目の宿場になります。 東海道五十三次が整備される以前から遊行寺の門前町として栄え、 江の島・鎌倉・大山への参詣の拠点としても賑わう街でした。 遊行寺の東側に江戸方見附が、小田急江ノ島線を過ぎた所に上方見附があり、 その間が藤沢宿でした。
起 点 横浜市 大運寺バス停
終 点 藤沢市 辻堂駅
ルート 大運寺バス停…諏訪神社…鉄砲宿…旧東海道松並木跡…一里塚跡…諏訪神社…江戸方見附跡…長生院…遊行寺…宇賀神…遊行寺橋…蒔田本陣跡…板戸町問屋場跡…常光寺…済美館…妙善寺…永勝寺…源義経首洗井戸…白旗神社…上方見附跡…おしゃれ地蔵…大山道標…一里塚跡…二ツ家稲荷神社…辻堂駅
所要時間 5時間20分
歩いて... ほとんどが車道を歩くコースなので、あまり風情はありませんでした。 現存する史跡は少ないものの、標柱や解説板などが設置されていて往時を偲ぶことが出来ました。 詳細な地図を持参せずに出かけたので迷う場面もありましたが、 どうにか予定したルートを歩くことが出来ました。
関連メモ 藤沢大和自転車道, 戸塚宿, 平塚宿
コース紹介
大運寺(だいうんじ)バス停
戸塚駅(JR東海道線)の西口にある戸塚バスセンターから、 [戸50]ドリームハイツ行きバス、[戸52]ドリームランド行きバス,または,[戸81]藤沢駅北口行きバスにて9分、 便は頻繁にあります。
バス停の上には原宿町第二歩道橋が架かっていて、 その袂には馬頭観世音や庚申塔や五輪塔などが幾つも佇んでいます。 江戸の頃から行き来する旅人を見守ってきたのでしょうか。
大運寺バス停から国道1号をその先へ4分ほど進んでいくと原宿交差点があります。 左手は大船方面へ続く県道23号、右手は湘南台方面へ続く県道402号になります。 恒常的な渋滞を解消するため、交差点立体化の工事が進められています。 この国道1号は新春の箱根駅伝のコースになっていて、「一時通行止め」の看板が各所に立っていました。
交通規制 1月2日・3日
箱根駅伝のため、国道1号は一時通行止めになります。
2日 9時40分〜10時40分頃まで
3日 10時50分〜11時40分頃まで
 (戸塚警察署)
原宿バス停を過ぎていくと、中央分離帯に並木が続くようになって風情が出てきます。 「東海道五十三次 素朴な文化展示場」の看板が掲げられた家も見かけました。 聖母の園前バス停を過ぎていくと、道端に大きな松が生えていました。 その昔、東海道には松並木が続いていたということですが、 この松はいつ頃からここに生えているのだろうかと思いながら通り過ぎていきました。
諏訪神社
影取町第一歩道橋を過ぎて影取町交差点を直進していきます。 影取バス停を過ぎていくと、300m先で道が二手に分かれる旨の道路標識が掲げられていて、 右手は「江の島・藤沢」、左手は「小田原・茅ヶ崎・新湘南バイパス」となっています。 諏訪神社前バス停や影取町第二歩道橋を過ぎていくと、道路が二手に分かれていきますが、 歩行者としては左側に続く歩道をそのまま進んでいきます。 程なくして左手に諏訪神社がありました。 大運寺バス停から28分ほどの所になります。 「諏訪神社」の扁額が架かる鳥居をくぐっていくと社殿がありました。 神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。 境内には横浜市の名木古木に指定されているクスノキの大木がありました。
鉄砲宿
諏訪神社を後にして国道1号をその先へ進んでいきます。 左手に広がる畑地を過ぎていくと降り坂になってきます。 藤沢バイパスになっている国道1号は右手へ分かれていきますが、 旧東海道である県道30号は左手へと続いています。 立体交差している脇を登っていくと、藤沢バイパス交差点の先に東俣野町歩道橋が架かっています。 歩道橋の下を過ぎていくと、道路の左手の並木の袂に、外側を向いた祠がありました。 諏訪神社から8分ほどの所になります。 中には双体の道祖神が安置されていて、榊やリンゴがお供えされていました。 壁に取り付けられた板によると、この辺りは鉄砲宿という所のようで、 今から250年ほど前に建立された道祖神のようでした。
奉納 道祖神 宝暦九年(一七五九年)正月十四日
鉄砲宿村
旧東海道松並木跡
鉄砲宿バス停を過ぎていくと、道路の右側の所々に松が生えるようになります。 4分ほど進んでいくと、緑ヶ丘バス停のすぐ手前に松の木が何本か生えていて、 そこに「旧東海道松並木跡」と刻まれた石碑がありました。 脇には解説板が立っていて、ベンチも二つ設置されていました。 解説板には松並木が続く往時の東海道の様子を描いた絵も載っていました。
旧東海道松並木跡
この道は、その昔「東海道」と呼ばれた街道で、 江戸時代の浮世絵師安藤広重の描いた「東海道五十三次」には、みごとな松並木が見られます。 松並木はその後鬱蒼たる大木に成長し、ここ「緑ヶ丘」にふさわしい風情を保っていましたが、 1960(昭和35)年頃から全国各地に猛威をふるった松喰虫の被害で無残にも大半が枯れて失われてしまいました。 ここに、そのいしえの面影を偲ぶととともに、いま新たに、花と緑のある近代的な歩道が整備されたことを記念し、 この碑を建てます。
 (平成4年早春 藤沢土木事務所)
緑ヶ丘バス停を過ぎて緑ヶ丘歩道橋をくぐっていくと、 道路の左側に「東海道藤沢 並木茶屋」の看板の立つ植え込みがありました。 道路の右側の向かいには小振りの松が植えられていて、何やら良い雰囲気なのです。 そこを過ぎていくと、道路と左側の歩道の間に並木が続くようになります。 少し降って道路脇に出ると遊行寺坂上バス停があります。 その先の西富歩道橋を過ぎていくと降り坂になってきます。 道路標識では「遊行寺坂」となっていますが、 手元のガイドブックでは「道場坂」と書かれています。 両側は切通しのような崖になっていて、松の木もチラホラと植えられています。
一里塚跡
遊行寺坂を降っていくと、左手に登っていく階段の袂に「一里塚跡」の標柱が立っていました。 鉄砲宿から17分ほどの所になります。 その道路向かいの右側には解説板が設置されていて、 解説文と共に、天保12年(1841)に作られた「東海道分間絵図 藤沢」も載っていました。
一里塚跡
この辺りの道路両側の崖上。現在は何も残っていません。 崖上の高さまであった旧東海道を掘削改修したのが現在の道路です。 江戸時代には、街道の両側に盛土し榎を植えた一里塚があって、 旅程の目印とされていました。
 (藤沢市教育委員会)
一里塚跡
かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。 一里塚は、主要な街道の一里(約4km)ごとに江戸幕府が設けたもので、 旅程の目印として利用されていました。 崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、 一里塚も崖上にありましたが、今は残っていません。 左図は往時の面影を伝える資料の一つです。 両面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。 その右側に「一りづか榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。 今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、 盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。 急坂の上、榎が木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。
 (藤沢市教育委員会)
諏訪神社
遊行寺坂を更に降っていくと、道路の左側に諏訪神社があります。 左手へと曲がっていく石段を登っていくと、「諏訪神社」の扁額が架かる鳥居があります。 その先の祓所を過ぎて石段を更に登っていくと、諏訪神社の社殿のある境内に着きました。 拝殿の奥の本殿の屋根には6本の鰹木が乗り、内削ぎの千木が聳えていました。 社殿の左手には諏訪神社四神剣展示館があり、 右手の小広くなった所には太子堂・祖霊神・大黒天社・道祖神が合祀されていました。 また石段の袂には「長虫神社」と刻まれた石碑もありました。
諏訪神社
鎮座地 藤沢市大鋸3-7-2
祭神 建御名方富神(タケミナカタトミノカミ)、八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)
由緒 建御名方富神は大国主神(大黒さま)の御子にて兄神を事代主神(えびすさま)と申します。 農耕の神とも蚕業の神とも言われ、祭神が出雲から農耕・機織・その他の文化をたずさえて洲羽に参られ、 土民に教えられた伝説よりすれば、当然平和産業の神とも言うべきでしょう。
太子堂  祭神は聖徳太子、又の名を厠戸皇子とも云う。我が国文化発達に偉大なる功績を残している。 難波の四天王、大和の飛鳥の法興寺、多くの伽藍を建立せられたれば、建築に関係ある人々の信仰が篤い。
祖霊神  祭神は日清・日露の役、又大東亜戦争に諏訪神社氏子内より召出されし軍人等、百六十四柱を斎き奉る。
大黒天社  諏訪神社ご祭神の建御名方命は大国主命(大黒さま)の御子ということから、 昭和28年に藤沢七福神大黒天に選ばれました。 招福・戝福の神として信仰されています。
道祖神  道の四辻にお祭りしてある神様で、自然石、文字を刻みしもの、像を刻みしもの、いろいろの形がある。 祭神は八衢比古・八衢比売命、災害除去・疫病予防の神。 元の仲久保町の守護神であった。
江戸方見附跡
道路の右側に渡って降っていくと、すぐ先の樹木の脇に「見附跡」と書かれた標柱が立っています。 解説文は書かれていませんでしたがこの見附は江戸方見附で、ここからが藤沢宿になります。
見附跡を過ぎて20mほど進んでいくと、右手に遊行寺の東門があります。 大運寺バス停から1時間15分ほどで到着しました。 「時宗総本山遊行寺」と書かれた東門から入っていくと、すぐ左手に石塔などが幾つか並んだ柵で囲まれた所があります。 「藤沢御方供養塔」と云うのだそうで、よく知られたものとのことです。
国指定史跡 藤沢御方供養塔 総高149.5cm 安山岩製
この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永25年(1418)に造立されたものです。 基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。 銘文は、摩滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。
南無阿弥陀佛
自應永廿三年十月六日兵乱至同 廿四年於在々所々敵御方為箭 刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土 故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日
応永二十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同二十四年に至り、 あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。 亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。 この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。
この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、 その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。 結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。 銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。 時の遊行寺じゅうしょくは遊行十四代(藤沢八世)太空上人。 文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、 この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。 敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、 この他の類例としては、慶長4年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、 豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。 時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、 怨親平等碑とも呼んでいます。
 (藤沢市教育委員会)
長生院
東門から入って右手に続く道を進んでいきます。 諏訪神社の神輿殿の脇を過ぎ六地蔵を過ぎて坂道を登っていくと長生院小栗堂があります。
小栗判官照手姫の墓
浄瑠璃で名高い小栗判官照手姫ゆかりの寺です。 応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が足利持氏に攻められて落城、 その子判官助重が家臣11人と三河に逃げのびる途中、 この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。 このとき妓照手が助重らをのがし、一行は遊行上人に助けられました。 その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。 助重の死後、照手は髪をそり長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、 余生を長生院で終わったといいます。
 (出典:パンフレットより抜粋)
藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造阿弥陀如来坐像
当院の本尊である本像は、平安時代後期の作と推定され、市内屈指の古仏である。 像高は52.5cmで、上品下生印を結ぶ典型的な定朝様の尊像である。 定朝様は、大仏師定朝が完成した公家好みの様式で、宇治平等院鳳凰堂本尊を代表作とする。 構造は、桧材の寄せ木造りで、目は彫眼、頭の螺髪は彫出されている。 木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ更に前後に割り矧いでいる。 尊顔は穏やかで、尊体の抑揚少なく、彫技は浅く整えられている。 頭の躰そして組んだ両足の微妙な均衡、穏やかさと強さの調和に鎌倉期の足音を感ずる。
 (藤沢市教育委員会)
市指定重要文化財(建造物) 時宗板碑二基
板碑は、鎌倉時代始めの嘉禄(1225)頃から、 近世初頭の天正・文禄(1573〜1595)頃までの間に流行した卒塔婆の一種である。 時宗板碑には、「南無阿弥陀佛」の名号を刻みつけたものが多いが、 この名号には、楷書体のものと行・草書体の二系統がみれれる。 長生院の板碑は、緑泥片岩でつくられた武蔵型板碑である。 長方形の板状の頂部を山形にし、その下の二条の切り込みを作る。 身部には楷書体でつぎのような銘文が刻まれている。
南無阿弥陀佛 延文元年 経阿弥陀佛 十二月三日
南無阿弥陀佛 本阿弥陀佛百ヶ日為 永和三年巳丁十月十七日
延文元年は1356年、永和三年は1377年にあてられている。 この二基の板碑は、江戸時代末に遊行寺境内から発掘された。
 (藤沢市教育委員会)
藤沢宿 遊行寺コース
(1)庚申堂
(2)江の島弁才天道標
(3)砂山観音堂
(4)小川泰堂・大窪詩仏の墓
(5)常光寺
(6)永勝寺
(7)伝源義経首洗井戸
(8)白旗神社
(9)妙善寺
(10)遊行寺
(11)諏訪神社
(12)感応院
遊行寺
長生院から東門まで引き返して遊行寺の境内を進んでいくと、右手に立派な本堂があります。 時宗の総本山というだけあって、堂々とした建物です。 本堂の右手前には宗祖の一遍上人の銅像が立っています。 両手を合わせて一心に祈る姿をしています。 また境内には「文化財ハイキングコース案内板」も設置されていて、「藤沢宿 遊行寺コース」が図示されていました。 藤沢駅から白旗神社を経てこの遊行寺へ続くコースになっていました。 旧東海道のルートから少し外れた所にあるものもありますが、今回はその中の幾つかを訪ねていくことにしました。
時宗総本山 遊行寺(ゆぎょうじ)
清浄光寺が公式の寺名であすが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれます。 宗祖は一遍上人(1239〜1289)で南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修行された(遊行といいます)念仏の宗門です。 この遊行寺は正中2年(1325)遊行四代呑海上人によって藤沢の地に開かれ、時宗の総本山となっています。 宝物として、国宝「一遍聖絵」、国重要文化財「時衆過去帳」など多数があります。 境内には日本三黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、 小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎の墓、有名歌人の歌碑などもあります。 また、桜・ふじ・花しょうぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。
藤沢地区の歴史を訪ねて
藤沢地区は、鎌倉時代に遊行四代上人呑海によって「清浄光院」(遊行寺)が創建され、 以後大鋸周辺を中心に門前町として栄えました。 江戸時代になると、徳川家康は関東各地に将軍宿泊用のために御殿を設置しました。 現在の藤沢公民館辺りから妙善寺辺りまでの間に藤沢御殿があったといわれています。 その後参勤交代が始まると御殿は廃止され、 宿場として本陣・脇本陣・問屋が置かれ東海道五十三次の六番目として藤沢宿ができ、 門前町に加えて宿場町として発展してゆきました。 また、江の島・鎌倉・大山などへの三渓や観光客も多くなり、旅籠屋や商家も繁昌してにぎわいました。 明治時代になると宿場制度が廃止され、問屋街として発展しました。 ことに、藤沢宿出身の医者、小川泰堂が、藤沢全町で一斉大安売りを行う現金元値市等を提唱して市場振興に努め、 その影響は三浦から伊勢原あたりまで及んで活気を集めました。 しかし明治20年、鉄道が藤沢に通ると、やがて商業の中心も駅周辺に移ってゆきました。 さらに度重なる大火、震災や戦災も続き、昔を語る資料もわずかに残るばかりです。 このように藤沢地区は、門前町・宿場町として発展し、藤沢の歴史と文化に大きな役割を担ってきたといえます。
 (藤沢市教育委員会)
境内には巨大な銀杏の木が枝を空に広げています。 現在の樹高は21mですが、かつては31mもあったのだそうです。 木の周りを取り巻くようにしてベンチが設置されています。 真夏には木陰を作る下でひと休みするのに良さそうでした。 11月下旬から12月上旬に黄葉するとのことですが、この時には既に落葉していて、 境内では落ち葉を掃き集める作業が行われていました。
市指定天然記念物 大イチョウ 樹高約21m 幹回り710cm
ひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。 境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。 かつては高さが31mありましたが、昭和57年(1982)8月の台風で地上6mの辺りで幹が折れてしまいました。 今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の損傷のためです。 折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。 雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。 平成4年(1992)の調査で686cmだった幹回りは、平成20年の計測では710cmと太くなっていました。 樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約650〜700年と推定されました。 その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では250年だったので、 それ以上の樹齢であることは確かです。 ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、 元来の樹齢は不明とせざるをえまえん。 イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても12世紀以降のこと、 遊行寺の創建は正中2年(1325)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。 雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。 例年11月下旬から12月上旬に色づきます。
 (藤沢市教育委員会)
境内の左手には広い寺務所があり、その前に中雀門があります。
中雀門
安政年間(1854〜60)に建造されました。 清浄光寺(遊行寺は通称)は創建以来たびたび火災にあっていますが、 この中雀門は明治13年(1880)の大火の際にも焼失を免れた、現在境内で一番古い建物です。 大正12年(1923)の関東大震災でも焼失はのがれましたが倒壊したものを、そのまま復元して今にいたっています。 向唐門づくりで、高さ6m、幅は3.7mです。 側面の大棟に菊の御紋、屋根の下に徳川家の葵の紋が刻まれています。 普段は閉じられていますが、春と秋の開山忌やお正月などには開門されます。
 (藤沢市教育委員会)
中雀門の左手にある門から中へ入っていくと、寺務所があります。 僧堂・受付・書院・遊行会館などがあり、左手には藤嶺記念館(宗務所)があります。 ここだけでもかなりの広さがあります。 受付の前には「東国花の寺百ヶ寺」の看板が掲げられていました。 入口にはお寺のパンフレットが置いてあるので、ひとつ貰っていきました。 また「遊行寺境内諸堂絵図」というのも販売されていました。
このお寺の宗旨
名称 「時宗(じしゅう)」
宗祖 証誠太郎 一遍上人(智真)
開宗 鎌倉期(1274)
本山 清浄光寺(遊行寺)神奈川県藤沢市
本尊 「阿弥陀佛」を本尊に仰ぎます
称名 南無阿弥陀佛
教義 大慈悲の阿弥陀佛に帰命する只今のお念佛が一番大事なことです。 家業につとめはげみむつみあって只今の一瞬が充たされるなら人の世は正しく生かされて明るさを増し、 皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道はそこに開かれるとする教えです。
経典 無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経・六時禮讃などの経典を読誦します。
遊行会館の前は日本庭園になっていて、その中に放生池があります。 絶滅危惧種であるメダカが育てられているのだそうです。
放生池
この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄7年10月の日記によれば、
金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、 かつ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべし
と記録されている。 古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により 家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされている。
藤沢メダカの由来
有名な童謡「めだかのがっこう」の発祥の地である神奈川県のメダカは、 1999年に環境省の絶滅危惧種II類に認定されていたのです。 この時、野生のメダカは藤沢市内の自然環境の水辺や水田にも境川や引地川にも、 鵠沼にある蓮池にもいなくなっていたのです。 しかし、当時、神奈川県水産総合研究所内水面試験場長の城条義興さんがメダカ探しに奔走し、 鵠沼桜が岡の池田正博さんの庭池に40年間、蓮池から採取してきたメダカが生息していることを知り、 池田さんのご好意でメダカをいただくことができました。 このメダカを藤沢メダカと呼び、子どもたちに見せて、育て、増やし、いつの日か水辺に返せるようにしたいとの願いで、 現在市内小・中学校等で育てられております。 幸いここ遊行寺の放生池は江戸幕府五代将軍徳川綱吉の時代(1680〜1709)に、 生類憐れみの令によって、江戸中の金魚をあつめて放された所であります。 いま「藤沢メダカをまもる会」によって、藤沢メダカがこの池に放生されました。 この池でたくさんのメダカが増え、川に返してやりたい、メダカの楽園になって欲しいと思います。 そしてみんなで自然環境に目を向け、美しい地球を守り続けたいと思います。 そのためにも藤沢メダカ以外のメダカを放さないでください。
宇賀神
本堂の左手から奥の方へ進んでいくと、渡り廊下をくぐっていった先に鳥居が立っていて、 その奥に祠がありました。 開運招福弁財天の宇賀神というのだそうで、 祠の裏手の岩壁の前には琵琶を弾く姿の弁財天が座っていて、 竹のスノコの上にはザルや柄杓が幾つも置かれていました。 脇には小振りの池もあって、大きな鯉が何匹も泳いでいました。
遊行寺の宇賀神
遊行寺の宇賀神は、徳川家の祖先、有親公の守り本尊といわれています。 有親公は、遊行十二代尊観法親王の弟子となり、名を徳阿弥と改めました。 応永3年(1396)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。 宇賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていました。 のちに、徳川幕府により神殿を奉納されましたが、明治13年遊行寺が類焼にあった時に焼失し、 現在の神殿はのちに再建されたものであります。 宇賀神には賊施の意味があり、この宇賀神を供養尊信する者は、金・衣・食・住・田畑・豊饒の福を授かり、 徳に金福の徳を授かると伝えられています。 寛政6年(1794)11月に当山が焼失した際に宇賀神も類焼し、 徳川幕府より白銀参拾枚を再建費としていただいております。
 (時宗総本山 遊行寺)
本堂の裏手には歴代上人の墓があります。 墓地から石段を登っていくと、塀に囲まれた所に幾つもの墓が並んでいました。 入口の門は閉ざされていて中へ入っていくことは出来ませんが、 円筒形のような独特の形をした墓石が、正面と左右に沢山ありました。
解説板には、総門の脇にある家にて、 絵図のA4版コピー1枚が実費20円で入手できる旨のメモが貼り付けられていました。
45分ほどいた遊行寺を後にして、宝物殿の左手から境内を出て、階段混じりの石畳の参道を降っていきます。 途中の右手には真浄院、左手には真徳院があります。 並木が続く坂道を降っていくと、日本三大黒門のひとつにもなっている遊行寺の総門があります。 振り返ると、右手の柱には「時宗総本山」、左手の柱には「清浄光寺」と書かれていて、 「時宗総本山 遊行寺」と刻まれた大きな石柱も立っていました。 総門から出て正面に続く道を進んでいくと、すぐの所に解説板が立っていました。 往時の藤沢宿の絵図と、日本三大広小路の解説文が載っていました。 この藤沢宿は遊行寺の先に架かる大鋸橋(遊行寺橋)の所からほぼ直角に曲がって、 右手へと宿場町が続いていたようです。
日本三大広小路
広小路とはもともと火除地を意味する。 江戸ではたびたびの火災で多くの人家が焼失したので、幕府は1657年の大火前から火除地を計画していたが、 護持院の焼失を契機に八代将軍吉宗は、この地を火消地とし、さらに各所に設定した。 この頃江戸には、中橋広小路、長崎町広小路、大工町広小路、両国広小路などができたが、 その後各地の重要社寺等の門前に設けられた。
上野広小路 現在の上野公園全域が寛永寺境内であり歴代将軍の廟所だった。その門前町としては賑やかであった。 アメ横あたりまでをいう。
名古屋広小路 名古屋城正門前。現在広小路通り。
三島広小路 三島大社門前。現在広小路町。伊豆箱根鉄道の駅名に残る。
高山広小路 高山陣屋前。現在広小路通り。
藤沢広小路 遊行寺前。東海道五十三次の中でここは3曲がりとして有名であった。 (藤沢橋は関東大震災後つくられた)
調べればまだまだあるだろう。 広小路は類焼を防ぐとともに被災者の避難所にもあてた。 なお町火消の発達とともに廃止された広小路もあった。 藤沢の広小路の名は江戸時代の文書にたびたびでてくるが、 おおよそ現在の大鋸「小字大鋸」の範囲を広小路としている。 かつて日本三大広小路と呼ばれていたのは、実際に広かったことにもよるが、 時宗総本山遊行寺の繁栄時代、門前町として商家が櫛比し、人の往来繁く、 各地に知れ渡っていたためと思う。 大鋸広小路の範囲は古絵図を参照すると、ほぼイイジマ薬局から旧労働基準監督署の一帯と考えられる。 古絵図から見ると道巾も現在よりかなり広かった様に思える。 これは江戸時代中期までのことである。
 (大鋸広小路会)
黒門と「いろは坂」
遊行寺の総門の冠木門で、日本三大黒門のひとつといわれます。 参道の石段は四十八段あることから、「いろは坂」と呼ばれています。
解説板を過ぎてその先へ進んでいくと、境川に朱塗りの遊行寺橋が架かっています。 途中の真浄院や真徳院を訪ねたりしていたこともあって、遊行寺の境内を出てから10分ほどかかりました。 江戸時代には「大鋸橋」と呼ばれていて、左手すぐの所に架かる藤沢橋は当時はなかったようです。 遊行寺橋を渡って国道467号に出ると、左手には藤沢橋自動車排出ガス測定局があります。 建物の前には「東海道 藤沢宿 昔話のある町 旅籠町 仲久保町」の立看板もありました。 旧東海道はここを右折して国道467号に沿って右手へと続いています。 この辺りからが旅籠などが建ち並ぶ藤沢宿の中心になる所だったようです。
藤沢橋自動車排出ガス測定局
藤沢橋交差点は交通の要所であり交通量も多い場所のため、 この測定局では、自動車排出ガスの主成分である窒素酸化物(NOx)や浮遊粒子状物質(SPM)等の測定を行い、 環境への影響を調べています。
 (藤沢市)
浄化のしくみ
土にはいろいろなものを捕まえる力(土壌粒子の吸着・吸収現象)や、 分解する力(土壌中微生物の代謝作用)があり、空気をきれいにする能力があります。 この施設は、道路沿いの汚れた空気を歩道内の土壌にゆっくりと押し込み、 土壌を通って外に出します。この間に汚れた空気は浄化されます。
蒔田本陣跡
国道467号を西へと進んでいきます。 「紙」の看板の出ている蔵風の建物を過ぎていきます。 遊行寺前バス停を過ぎていくと、藤沢公民館前バス停の先の道路の左手に藤沢本町郵便局があります。 右手に分れていく道を見送って真っ直ぐ進んでいくと、 オートバイ店と内科医院の間のラーメン店の前に、「蒔田本陣跡」の標柱が立っていました。
蒔田本陣跡
本陣は、大名・幕臣・公家などの公認宿舎のことで、 藤沢宿では大久保町と坂戸町の境付近に蒔田源右衛門が勤める本陣がありました。
 (藤沢市教育委員会)
板戸町問屋場跡
本陣跡を過ぎていくと、道路の左側の藤沢市消防署本町出張所の前に 「藤沢宿板戸町問屋場跡」の標柱が立っていました。 この辺りは藤沢宿の中心となる所だったようで、 本陣や旅籠や問屋などが建ち並んでいたようです。 東海道線の藤沢駅が出来てからは、街の中心が駅周辺へ移りましたが、 「本町」という地区名に、往時の藤沢宿の中心地であった記憶を伝えています。
藤沢宿板戸町問屋場跡
問屋場では公用書状の宿送り、人馬手配、助郷村への賃金支払いを行なった。 問屋役は有力町民が担い、幕末、西隣の杉山弥兵衛が務めた。
 (藤沢市教育委員会)
常光寺
消防署の先を左折して路地を真っ直ぐ進んでいくと、正面に常光寺があります。 山門の左手には「藤沢警察署創設百年記念碑」があり、その解説文も載っていました。
藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造阿弥陀如来立像
木造寄木造り、玉眼。金色相は後補。 当寺本尊で通常の立像来迎三尊。 中尊は上品下生印で、今回は中尊のみを対象とする。 像高99.0cm 総高204.5cm(両脇侍は江戸時代の後補か)。 阿弥陀仏の相好は知的で親しみ深く、尊体・衣文は丁寧でよくまとまり、 写実表現のなかに装飾性がうかがわれ、剛健さと華やかさを兼ね備える。 14世紀の特徴が顕著であり、同形像としてはしないでも稀にみる南北朝時代の優作である。 寺伝では、鎌倉扇ヶ谷阿弥陀堂(未詳)から移されたという。
 (藤沢市教育委員会)
藤沢警察署創設百年記念碑
藤沢警察署発祥の地
明治5年8月、常光寺に邏卒屯所が設置され、以降境内地の提供により、警察出張所警察署に昇格、 大正14年洋風庁舎を建築し、昭和39年4月本鵠沼の新庁舎に移転するまで90年間、署が置かれていた発祥の地である。 藤沢警察署創設百年を記念して碑を建立す。
自分を生かそうとするならバ 他人とともに生きることである
「浄土宗 常光寺」の表札が掲げられた山門から境内へ入っていくと、両脇に生える大木の奥に本堂がありました。 右手には庫裡と思われる建物があり、左手には墓地などがありました。 境内には大きな樹木が幾つも生えていて、天然記念物に指定されているようでした。 また重要文化財に指定されている庚申供養塔もありました。
藤沢市指定重要文化財(天然記念物) 常光寺の樹林
この樹林は、旧藤沢宿の南側に残る寺林で、この地区の貴重な緑地帯となっている。 境内の一部を除く約7900u(約2400坪)が天然記念物として指定され、 大小さまざまな樹木が繁茂し、静寂な環境が保たれている。
カヤ 常緑高木。雌株1株で、樹高約25m・幹回り約5.2mある巨木で、推定樹齢は約300〜400年である。 昭和59年には、県選定の「かながわの名木百選」に選ばれた。
タブノキ 常緑高木。古木として目立つものは3株で、いずれも樹高約20m・幹回り約3m以上あり、 推定樹齢は約300年ほどである。
クスノキ 常緑高木。本堂に至る石畳の両側に1株づるある。 樹高20m、幹回り約3mで、推定樹齢は約100年以上である。
イチョウ 落葉高木。古木は境内西側、子供広場の上にあり、約1mにも及ぶ乳状突起がその古さを物語っている。
ムクノキ エノキ・ケヤキ群。落葉高木。境内各地に見られ、往時、非常の際の緊急用材として植樹されたものらしい。
クロマツ かつては南側の高台一帯に群生していたらしいが、現在では数株みられるだけとなってしまった。
その他 シラカシ・サンゴジュ・ツバキ等多数。
 (藤沢市教育委員会)
かながわの名木100選 常光寺のカヤ
幹がまっすぐに伸び、中ほどから大きく枝を四方に張り出した巨木で、樹勢も旺盛で堂々としている。 周辺の樹林を含めて藤沢市の天然記念物に指定されている。
樹高25メートル 胸高周囲5.0メートル 樹齢約300年(推定)
カヤは、宮城県から屋久島の山地に生える常緑高木で、幹は直立し、よく分枝し、横枝は水平に出る。 樹高35メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。
 (神奈川県)
藤沢市指定重要文化財(有形民俗文化財) 庚申供養塔
万治2年(1659) 寛文9年(1669)
庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって、60日に一度めぐってくる「庚申の日」に、 その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。 この源流は「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、 天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする中国の道教の教えに由来している。 江戸時代、万治・寛文頃(1658〜1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、 「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、 徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。 常光寺にある万治2年庚申供養塔は笠塔婆型で、正面下方に一猿像と、一雌鶏を陽刻し、 両側面に「南無阿弥陀佛」の文字が刻まれている。 寛文9年庚申供養塔は笠塔婆型で、三猿像を前面および左右面に各一体ずつ配している。
 (藤沢市教育委員会)
済美館
常光寺から国道467号に引き返してその先へ進んでいきます。 本町消防出張所前バス停を過ぎていくと、左手に近代的な藤沢公民館分館の済美館があります。 碑文によると藤沢の歴史の1ページを飾る建物のようです。
済美館の由来 済美館記念碑文
この地域は、江戸時代以前から、遊行寺の門前町、東海道の宿場町として栄え、 商業(問屋街)も盛んで、近隣の町村から多数の人が集まりました。 また、大正初年から町役場があり、市制が布かれてからも昭和26年(1951)まで市役所が置かれ、 本市の歴史・文化並びに経済の中心地でもありました。 済美館は、昭和17年(1942)1月武道場として飛嶋繁氏によってこの地に建設、藤沢市に寄贈されました。 この「済美館」の名称は明治3年(1870)10月大久保町の名主堀内悠久の子郁之助氏により、 土地の子弟教育のため藤沢宿に創設された藤沢郷学所済美館の名にあやかり命名されたものです。 その後、一時期市議会議場として使用されたほか、昭和62年(1987)まで 主に市民の武道練成の場として利用されてきました。 当館は、建築後50年近くを経、この度、地域住民の熱望により、 地域の活性化と、住民の交流を図るための機能を加え、 新しい済美館(藤沢公民館分館)として生まれ代わり、ここに完成をみました。 これを記念するとともに、「世々その美を済す」という済美館の原意通り、 当館が生涯学習の拠点として、これを利用する人々の創意と工夫により、 将来に向けて、今後ますます発展していくことを祈り、この碑を建てます。
 (藤沢市教育委員会)
妙善寺
済美館のすぐ先に市民病院入口交差点があります。 そこを右折して100mほど進んだ路地を右へ入っていくと、石塀に囲まれた一角があります。 塀に沿って進んでいくと「長藤山」の扁額が架かる赤い山門があります。 その脇には「日蓮宗 長藤山妙善寺」と刻まれた台の上に「南無妙法蓮華経」と刻まれた石柱があります。 山門から妙善寺の境内へ入っていくと、正面に立派な本堂がありました。 由緒を刻んだ石碑もありましたが旧字体で書かれていて、無学の私には読めない文字もあったので、 間違っている部分もあるかも知れませんが載せておきます。
由緒沿革略記
当山ハ長藤山妙善寺ト称ス
文永八年九月十二日日蓮大聖人龍口ノ刑戮ヲ免レ給ヒ依智ノ郷本間 ノ屋敷ニ御渡リノ砌リ御休息ノ舊跡ナリ 九老僧日山上人ヲ開山トス古ハ大本山池上本門寺貫主猊下御退隠ノ 寺ナリ故ニ開山以来二百余年本山ニテ兼務セラル大聖人御休息以前 ハ真言宗ノ寺ナリ当時ノ住職ヲ長藤法印ト云フ依テ山号ヲ長藤山ト 称ス長藤法印ハ大聖人ノ御高徳ヲ仰キ御弟子トナリ名ヲ日聞ト賜ヒ 宗ヲ改メ本化ノ道場トナセリ 境内ニ奉安セル稲荷大明神ノ御尊像ハ桓武天皇延暦廿一年正月元日 傳教大師ノ御自作ニシテ大師御入唐ノ際ハ海上安全ヲ守護シ給ヒ御 帰朝ノ後ハ比叡山鎮護ノ尊神ナリシヲ井伊致重播州法華山ニ奉遷ス 北條径時崇敬シ鎌倉営中ニ奉移勧請ス然ル後ニ当山ニ奉遷勧請ス三 條小鍛冶宗近御分躰ヲ江州ニ勧請ス鎌倉五郎入道正宗正安元年實剱 ヲ鍛ヘ捧グ可キ綸令アリ其ノ頃正宗扁手疼痛シ職業困難ニヨリ此ノ 稲荷神ニ祈願シ實剱ヲ鍛へテ誉ヲ顕ス正宗ノ弟子綱廣来リテ御分躰 ヲ受ケ帰リ入道正宗邸ニ勧請ス徳川幕府ノ頃ハ紀州公崇敬セラレ紀 州家ノ祈願所トナリキ
正宗稲荷大明神トハ文永八年日蓮大聖人ノ崇称セラレシナリ
本堂の左手には藤沢会館の建物があります。 手前の左手には「傳教大師御真作 開運正宗稲荷大明神」と刻まれた石柱の先に 「正宗稲荷」の扁額が架かる鳥居があり、その奥に「正宗殿」の扁額の架かる社があります。 妙善寺の由緒書きに出てくる稲荷大明神のようです。
永勝寺
妙善寺から国道467号に引き返してその先へ進んでいくと、道路の左手にJAさがみの藤沢支店があります。 その手前から左手へ分れていく路地に入って100mほど進んでいくと、左手に永勝寺があります。 「浄土真宗 本願寺派 鳳谷山永勝寺」と刻まれた石柱を過ぎて参道を進んでいくと山門があります。 山門から境内に入っていくと、正面の奥に本堂があり、左手には太子堂が、 右手には鐘楼や庫裡と思われる建物がありましたが、 お寺自体に関する解説文などは見かけませんでした。
永勝寺(飯盛女の墓)
墓地の中に飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があります。 飯盛女の墓はこの源蔵が建てたものです。 三十九基の墓石には四十八体の法名が刻まれていて五体は男です。 飯盛女のいる旅籠は繁昌しました。 藤沢宿には旅籠が四十九軒あり、このうち飯盛女をかかえたのは二十七軒ありました。 一軒に二人ずつ置かれました。 飯盛女は近くの農村や他国からも両親の借金の代償としてなかば売られて藤沢に来たのです。 旅人の世話や食事の給仕だけではなく男たちの相手にもなりました。 飯盛女として悲しい一生を終えたのです。
山門から境内へ入ってすぐ左手に飯盛女の墓があります。
永勝寺「飯盛女」の墓
飯盛女とは江戸時代、宿場の旅籠屋で給仕をする女として公認されていたが、遊女としての側面ももっていた。 藤沢宿大鋸町では、飯盛女のいない宿場がさびれたため、万延2年(1861)宿民のためとして 一旅籠屋二名の飯盛女を置く許可を役人から得ている。 永勝寺に眠る小松屋の抱えた飯盛女の墓は三十九基あり、内三十八基が宝暦11年(1761)から 享和元年(1801)まで、小松屋の墓域に建てられている。 このように供養された者は少なく、借金の形など苦界の中で身を沈めた者が多い中、 小松屋の温情がしのばれる。
 (藤沢市教育委員会)
源義経首洗井戸
永勝寺から国道467号に戻ってその先へ進んでいくと、 白旗交差点の手前の右側の少し奥まった所に藤沢警察署本町白旗交番があります。 街路樹の袂には「伝源義経首洗井戸 この奥」の標柱が立っていて、交番の右手に続く路地を指しています。 その路地へ入っていくと、突き当たりが小広くなっていて、その右手に源義経首洗井戸がありました。 竹塀に囲まれた井戸には桟がされていました。 中を覗いてみると、四角い井戸の底にが円筒形の穴がありました。 井戸の脇には「武蔵坊辧慶公之霊 九郎判官 源義経公之首塚」と刻まれた石碑もあって、 綺麗な花が手向けられていました。
(標柱の「首実験」は「首実検」の誤記かと思われます)
伝源義経首洗井戸
平泉で討れた義経の首は首実験後片瀬の浜に捨てられ、境川を逆り白旗に漂着したものを 里人がこの井戸で洗い清めたということです。
 (藤沢市教育委員会)
伝 源義経首洗井戸
「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり 文治5年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。 義経の首は首実検ののち腰越の浜へ捨てられました。 それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。 ここから北方40メートルに義経首塚と伝える遺跡もありました。
国道467号まで引き返してその先へ進んでいくと、すぐに白旗交差点があります。 角には信用金庫があって、その前に周辺の地図を載せた看板があるので参考にしましょう。 国道467号は交差点から右手へ曲がっていきます。 旧東海道はそのまま真っ直ぐに進んでいくのですが、右手の先に白旗神社があるようなので、 立寄っていくことにしました。 旧八王子街道である国道467号を右手へ進んでいくと、 白旗神社前バス停を過ぎた先に、白硯川に御典橋が架かっています。 その先の鳥居をくぐっていくと、こんもりとした高みが現れます。 ここが白旗神社のある森になります。 正面の石段の右手には「永代御供米三俵」,「八海山大神」,「御嶽大神」,「三笠山大神」と刻まれた石碑が並んでいました。
右手には広くなった所があって、社殿や社務所があり、 その前には鎖で囲まれた四角いお祓所があり、湯立神楽の解説板が設置されていました。
藤沢市指定重要無形民俗文化財 湯立神楽
白旗神社を中心に神官により継承されている神事芸能。 湯立てを伴う神楽で、湯花神楽、鎌倉神楽等の名称で、藤沢、鎌倉から三浦半島一円におよんでいる。 古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の神楽男が伝承し、 次第に近隣に定着したものとされる。 「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。 演目は十一で打噺子、初能、御祓、御幣招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、 最後の剣舞・毛止機で神人共楽の内に終了する。
白旗神社神事 十月ニ八日
 (藤沢市教育委員会)
森へと続く石段を登っていくと、なだらかになった参道の先で再び石段が現れます。 その左脇に「斎源義経公鎮霊碑」と刻まれた石碑があります。
源義経公鎮霊碑
文治5年(1189)閏4月30日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。 その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、 同年6月13日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき、 藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。 本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々より「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、 茲に源義経公鎮霊碑を建立する。
 (平成11年6月13日 白旗神社)
白旗神社
石段を登っていくと、白旗神社の社殿があります。 「忠友殿」の扁額が架かる拝殿の正面はガラス戸になっていて、中には円い鏡が煌いていました。 配神の天照皇大神を顕しているのでしょうか。 拝殿の奥にある本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。
白旗神社
御祭神 寒川比古命、源義経公
配神 天照皇大神、大国主命、大山祇命、国狭槌命
由緒 古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよばれていた。 しかし、創立年代はくわしくはわからない。 鎌倉幕府によって記録された「吾妻鏡」によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、 文治5年(1189)閏4月30日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害された。 その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。 高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行なわれたという。 伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。 このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗神社として此の神社に祀るようにとのことで、 義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。 弁慶の首は八王子社として祀られた。
白旗神社のあるこんもりとした森の左手には庚申供養塔などが並んでいました。 その一番右手には江の島弁才天道標が立っています。
市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形民俗文化財)
庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって、60日に一度めぐる庚申の日に、 徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。 「人の体内にいる三尸の虫が庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする道教の教えに由来している。 この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字はナモアミダブソワーカーの一呪、 下の梵字はここでは青面金剛を表している。 猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。
江の島弁才天道標(建造物)
その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。 もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。 いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に、 「一切衆生」,「ゑのしま道」,「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。
 (藤沢市教育委員会)
白旗交差点まで引き返してきて、国道467号から分かれて、旧東海道である県道43号を進んでいきます。 遊行寺橋から藤沢宿にある幾つかの寺社を巡るのに、合わせて1時間30分ほどを要しました。 県道43号を2分ほど進んでいくと、伊勢山橋が架かっています。 下には小田急江ノ島線が通っています。 両側には小さな円い穴が幾つも開いた塀が続いています。 ちょいと穴から覗いてみると、線路が2本並んで通っていました。
上方見附跡
伊勢山橋を渡っていくと、1分もしない所の道路の右側に「見附跡」の標柱が立っています。 この見附は上方見附で、藤沢宿の範囲はここまでになります。 お昼をかなり過ぎてお腹も空いたので、脇にある中華料理店に入って食事をしていきました。 私的には量が多過ぎでしたが、時間をかけて何とか食べ終え、 藤沢宿を後にして、次の宿場である平塚宿へと続く旧東海道を進んでいきました。
見附跡
見附は宿場の入口に設けられた見張所で、有事の際には関所としても機能しました。 石垣の土居を築き榎が植えてあったようです。
 (藤沢市教育委員会)
湘南高校入口交差点を直進し、湘南高校前バス停と一中入口バス停を過ぎていくと、 引地橋バス停の先に、引地川に架かる引地橋があります。 見附跡から10分ほどの所になります。 引地川に沿って右手へ進んでいくと、大庭城址公園や引地川親水公園などがあって散策するにはいい所ですが、 このまま県道43号を進んでいきます。
おしゃれ地蔵
引地橋を渡った所にある引地橋西交差点を直進して2分ほど進んでいくと、 道路の左側に祠があって、双体の地蔵が納められていました。 「おしゃれ地蔵」というのだそうで、赤い口紅を差していました。 前には綺麗な花などが手向けられていて、今でも篤く信仰されているようでした。
おしゃれ地蔵
「女性の願い事なら何でもかなえて下さり、満願のあかつきには白粉を塗ってお礼をする」と伝えられており、 今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。 そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。 形態的には「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、 土地の言い伝えを大切にしていきたい。
 (藤沢市教育委員会)
メルシャン前バス停を過ぎて羽鳥中学校入口交差点を直進していくと、 羽鳥バス停の先に羽鳥交差点があります。 ここで県道43号は右手へ分かれていきますが、正面に続く旧東海道の県道44号を真っ直ぐに進んでいきます。 羽鳥歩道橋をくぐっていくと、国道1号へ続く広い道が右手へ分かれていきます。 交差点をそのまま直進していくと、信号の先に辻堂入口バス停があります。 そこを過ぎて道なりに進んで四ツ谷バス停を過ぎていくと、 引地橋を渡ってから20分ほどで国道1号四ツ谷交差点に出ます。 植え込みなどがあって綺麗になっていました。 旧東海道はここを左折して国道1号を進んでいきますが、 国道1号を渡った向かい側に大山道標があるので、立寄っていきました。
大山道標
国道1号の向かい側から細めの道が分かれていて、その角にお堂に納められた大山道標が立っています。 解説板によると、道標の上に座っているのは大山不動のようです。 お堂の脇には記念碑もありました。 ここから右手へ分かれていくのが「大山道」のようで、すぐ先に大きな鳥居が立っていました。 柱には「天保十一庚子歳六月再建之」の文字も刻まれていて、 江戸時代から大山阿夫利神社へ続く参詣道としてよく利用された道であったことが伺えます。
四谷不動(大山道標)
東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、 大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。 延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。 堂外の道標が初代のもので、万治4年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。 江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。 四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。 今でも7月1日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、 辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行なわれています。
 (藤沢市教育委員会)
記念碑
藤沢バイパス道路新設工 事ノタメ四ツ谷不動尊移 転トナリコレガ敷地 藤沢市辻堂字餅塚一番地 鈴木得郎氏ノ御好意ニ依 奉納サレタ依ツテコレヲ 祈念シ永遠ニ傳ヘンガ為 此ノ碑ヲ建立シマシタ
昭和三十八年二月三日 四ツ谷町内会一同
一里塚跡
羽鳥交番前交差点を直進していくと、道路の両側に松並木が続くようになります。 江戸時代から生えている木なのかどうかは分かりませんが、なかなか風情があります。 並木が始まってすぐ右側に「一里塚跡」の標柱が立っています。 解説文などは特に記されていませんでした。
二ツ家稲荷神社
一里塚跡の先に続く松並木を2分ほど進んでいくと、二ツ谷公民館前交差点があります。 その手前の右側の角に二ツ家稲荷神社がありました。 「谷」と「家」が混じった標記になっていましたが同じ意味のようです。
二ツ家稲荷神社歴表
当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七 年六月并ニ天明六年九月再築享 和三年二月新築天保九年二月再 建是マデ修繕致シ束リ今回大破 ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ 度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼 テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築 費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也 明治三十九年氏子一同協議之上新 築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格 社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠 右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大 正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ 神台四二六番地ニ新築セリ 昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時 ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地 (参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城 南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年 屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外 装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志 ニ依リ玉垣ヲ奉献ス
 (二ツ家稲荷神社氏子中)
神社の境内には二ツ家公民館や庚申供養塔があり、「二ツ谷」の由来を記した看板もありました。
二ツ谷
江戸時代、大山詣で帰りの道者や信者たちが宝泉寺へ詣り、 さらに江ノ島・鎌倉方面へ向う途中の休憩所(立場茶屋)として二軒茶店があったことからといわれています。 又、「二ツ家」が本来の地名であったとも伝えられています。
 (藤沢市)
藤沢市指定重要文化財 庚申供養塔
庚申信仰は、十干・十二支の組合せにおって六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、 その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。 その源流は、「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする中国の道教の教えに由来している。 江戸時代、万治・寛文頃(1658〜1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、 「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、 徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。 二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高105cm、蓮辧型で、 造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。
 (藤沢市教育委員会)
二ツ谷公民館前交差点を直進していくと、すぐの所から左手へ入っていく路地があります。 今回はここで旧東海道と別れて辻堂駅へ向かっていきました。 すぐにあるY字路の左手を進み、左右に分れていく道を見送って道なりに真っ直ぐ進んでいきます。 公園の左側を過ぎて塀沿いに進んでいきます。 工事中の広い道路を横切って路地を進んでいくと、生垣を過ぎた所の両脇に松の木が生えています。 左手の角には本立寺墓園があります。
辻堂(つじどう)駅
右手へ曲がっていく道から分かれて本立寺墓園に沿って進んでいくと広い車道に出ます。 右折して交差点を二つほど過ぎていくと、辻堂駅北口交差点のT字路に出ます。 そこを右折して線路沿いに進んでいくと、二ツ家稲荷神社から20分ほどで辻堂駅(JR東海道線)に着きました。
湘南C−X(シークロス)都市再生プロジェクト
辻堂駅の北口は再開発工事が行なわれていて雑然としていました。 「湘南C−X(シークロス)都市再生プロジェクト」というのだそうで、 北口交通広場の完成予想図が掲示されていました。