横浜中区
散策:2008年10月下旬
【街角散策】 横浜中区
概 要 横浜は日本のほぼ中央に位置する神奈川県の県庁所在地で、東京23区に次いで日本で2番目の大都市です。 開国時代の面影も随所に残っていて雰囲気のある街です。 今回は港の見える丘公園から山下公園を経て大桟橋へと向かうルートを歩いていきます。
起 点 横浜市 元町中華街駅
終 点 横浜市 日本大通り駅
ルート 元町中華街駅…港の見える丘公園…山下公園…大桟橋…開港広場…日本大通…日本大通り駅
所要時間 2時間40分
歩いて... この時には港の見える丘公園のローズガーデンでは、バラが綺麗な大輪の花を咲かせていました。 ハロウィンが近いとあって、仮装した親子連れも多く見かけました。 大桟橋から眺める横浜の街並みも新鮮味があって印象的でした。 時間があれば、観光船やクルーズ船に乗ってゆったりとしたひと時を過ごすのもいいかも知れません。
関連メモ 横浜中区, 港の見える丘公園, 横浜みなとみらい21, 港の見える丘公園, 横浜中区, 横浜中区, 港の見える丘公園,
港の見える丘公園, 横浜みなとみらい21
コース紹介
元町中華街(もとまちちゅうかがい)駅
元町中華街駅(みなとみらい線)から歩いていきます。
エスカレータを乗り継いで4番出口から地上に出て、左手へと進んでいきます。
4番出口の右側の道を戻るようにして海側へ進んでいくと、 150mほどの所にマリンタワーがあり、その先の道路を渡った所に山下公園があります。 なお、港の見える丘公園へ向かうには5番出口の方が近い所にあります。 5番出口から出るには、電車の先頭車両に乗っておくと便利です。
4番出口から100mも行かない所に谷戸橋交差点があります。 その先には堀川が流れていて、上には高速道路が通っています。 堀川に架かる谷戸橋を渡っていくと、すぐに元町商店街の入口があります。 商店街の入口には三本足の大きなモニュメントがあり、その上には翼を広げた鳥がとまっています。 元町商店街は1970年代には「ハマトラ」ファッション発祥のメッカとして賑わったのだそうで、 その復活を願って造られた不死鳥(フェニックス)の像なのだそうです。 石川町駅側の入口にも同じようなモニュメントが建っていて、元町商店街のシンボルになっているようです。
谷戸橋の袂には「シドモア桜」の解説板があります。 一旦アメリカへ渡った桜が里帰りしたものなのだそうです。 突き当たりを右手へ進んでいくと、元町商店街を経て石川町駅(JR根岸線)へ続いていますが、 港の見える丘公園へは左手へと進んでいきます。
シドモア桜
ポトマック河畔からの里帰り
1912年、東京からワシントンへ友好・親善のため桜の苗木(ソメイヨシノ)3千本が贈られました。 その桜はポトマック河畔一帯に植えられ、世界的な桜の名所になりました。 桜の植樹にあたり、大きく貢献したのが紀行作家であり、 『日本・人力車旅情(英題Jinrikisha Days in Japan)』の著者であるアメリカ人女性エリザ・R・シドモアさんです。 シドモアさんは今、横浜の山手外国人墓地に眠っています。 そのポトマック河畔の桜が、1991年に里帰りし、シドモア桜の会によって、 シドマさんの墓碑の傍らに植えられました。 そしてシドモアさんと桜のエピソードを伝えるため、 その桜から接ぎ木により苗木が作られました。 ここに植えられた桜は、その苗木から育った桜です。
 (元町まちづくり協議会、シドモア桜の会、横浜市中区役所)
港の見える丘公園
左手へ進んでいくと、すぐに元町中華街駅の5番出口があります。 その先には元町入口バス停があります。 桜木町駅(JR根岸線)から1時間に6本程度の便があります。 その外にも「あかいくつ号」が桜木町駅から1時間に3本程度出ています。 元町入口バス停を過ぎたすぐ先の横断歩道を渡った所が港の見える丘公園の入口になります。 門の脇には公園の案内図があるので参考にしましょう。
港の見える丘公園
港の見える丘公園の現在展望台になっている高台の周りには、 幕末から明治の始めにかけてイギリス軍兵舎がおかれ、 山のすそにはフランス軍が駐屯していた記録があります。 この山は今でもフランス山と呼ばれ親しまれています。 その後、高台にはイギリス領事官邸が、山側にはフランス領事館が建てられ、 現在ではイギリス領事官邸がそのままイギリス館として市民に利用されています。 フランス領事館は既になくなっていますが、フランス領事館跡、フランス橋、 フランスより寄贈されたバルタールパビリオン等が今でもフランスのなごりを残しています。 園内の沈床花壇は、刈り込まれたカイズカイブキに囲まれて噴水や緑の芝生があり、 ローズガーデンにはバラや季節の花が訪れる多くの人々を楽しませてくれています。 海に臨んだ展望台や霧笛橋からは横浜港、山下公園、ベイブリッジが見え、 晴れた日には房総の山々を眺めることができます。 また、大佛次郎記念館、神奈川県近代文学館も公園にあり、市内外より多くの観光客が訪れています。
 (横浜市)
機械製氷発祥の地
開港から明治初期に至る期間、横浜にはボストンや函館から切り出された天然氷を扱う会社が いくつも作られました。 ホテルのレストランやアイスクリームサロンで氷が供されたという記録が残っています。 明治12年(1879)には、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」がこの地に設立され、 その後オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営されました。 設立当時の建物は関東大震災で倒壊したものの翌年には再建し、 平成11年(1999)12月31日まで、株式会社ニチレイの子会社である神奈川日冷株式会社山手工場として、 再建当時のままで稼動していました。
フランス橋の下をくぐって公園へと入っていきます。 左手の方の階段を登っていくと、「バビリオン・バルタール」という鉄製の骨組があります。 脇には港の見える丘公園の案内図もあるので参考にしましょう。 今回はバラの花が綺麗に咲いているというので、 イギリス館の周りにあるローズガーデンをお目当てに訪ねてきました。
バビリオン・バルタール
この純鋳鉄製骨組は、 1860年代フランスのパリに建てられ1973年まで100年余り存続したパリ中央市場(レ・アール)の地下の一部です。 設計者の名をとってバビリオン・バルタールと称されました。 この中央市場は、再開発のためすべて取り壊されました。 その際、横浜市が19世紀末の純鋳鉄製構造物としての貴重な学術的・文化的遺産であるため パリ市にその一部の移設を申し入れパリ市当局の好意により寄贈をうけ、 かつてフランス領事館のあったこの地に復元設置しました。
 (横浜市)
ここから右側にあるこんもりとした高台にかけてがフランス山と云われる区域で、 以前にはフランス領事館があった所のようです。 明治29年完成当時の写真が載せられた解説板もありました。
フランス領事館時代
明治27年(1894)、フランス人建築家サルダの設計により建築に着手、 明治29年(1896)3月に完成しました。 煉瓦造2階建て、建坪およそ36m×18mの規模でしたが、官邸とともに関東大震災で倒壊しました。 跡地からはジェラール瓦、煉瓦などが出土しています。 フランス橋の橋台壁面には、'RF'(フランス共和国Republique francaiseの略)と 彫られたメダイヨン(円形飾り)が保存展示されています。 領事館正面外壁に嵌め込まれていたもののうちの一つです。 また、展示していある遺構は工事の際、出土したものです。
 (横浜市緑政局)
左右の二手から回り込むようにして続く手摺の付いた階段を登っていきます。 左右からの階段が合流してその先の石段を登っていくと高みに着きます。 仏軍駐屯時代の階段・庭園をイメージして整備されたのだそうで、 綺麗に整備された植え込みになっていました。
フランス山の歴史
文久2年8月(1862)に起きた生麦事件など、攘夷派による外国人殺傷事件が相次いだため、 フランスは、横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的に、イギリスとともの軍隊の駐屯を決定しました。 文久3年5月(1863)フランス海兵隊が横浜に到着し、山手居留地185番に駐屯を開始、 7月、8月頃、駐屯軍兵舎が186番に3棟建設されました。 明治8年(1875)3月に撤退するまでの約12年間、部隊の交替をくり返しながら駐屯を続けました。 これがフランス山と呼ばれるようになった由来です。 撤退により兵舎が不要となったので、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡しました。 横浜駐在のフランス領事はここに領事館を建設する提案をしましたが、なかなか実現しないでいたところ、 明治18年(1885)になってフランス人居留民の有志らが領事館建設の請願書を提出しました。 このことがきっかけとなって計画が具体化し、明治27年(1894)にフランス人建築家サルダの設計で、 領事館と領事官邸の新築工事が始まりました。 明治29年(1896)3月、山手185番(フランス山下方)に領事館、12月に山手186番(フランス山上方)に領事官邸が完成します。 領事官邸には、風車の付いた井戸が掘られました。 大正12年(1923)、関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊します。 震災後、領事館は仮設の建物を使用していましたが、 官邸は、昭和5年(1930)、スイス人建築家ヒンデルの設計で山手186番に再建されました。 その官邸も、戦後まもない昭和22年(1947)には火災で焼失してしまいます。 現存している遺構は、その際に焼け残った1階部分です。
庭園風の所を奥へ進んでいくと、フランス領事官邸跡があります。 今残っているのは昭和22年に焼失した1階部分とのことですが、 写真や図面が載っている解説板がいくつも設置されていて、往時を偲ぶことができます。
仏軍駐屯時代のフランス山
フランス軍のキャンプは山手186番にあり、3,042坪の敷地に、3棟の建物が日本側の費用で造営されました。 1棟は建坪90坪、もう1棟は建坪15坪、煮炊所が12.5坪で、ほかに当初からの土蔵1棟1.555坪がありました。 初期の駐屯兵は、陸軍部隊20名にはじまり、その後、208名陸・海軍追加部隊などが加わり、 併せて300名以上が横浜に駐屯していました。
フランス領事館時代
明治27年(1894)、フランス人建築家サルダの設計により建築に着手、明治29年(1896)12月に完成しました。 計画図によると、煉瓦造2階建で、建坪およそ24m×18mの規模でしたが、関東大震災で倒壊しました。 跡地からは建物に使用されていたと思われるジェラール瓦、煉瓦などのほか、 同時に建設された揚水用風車の基礎が掘り出されました。 官邸建設当時はまだ山手に上水道が敷設されていなかったため、井戸を掘り風車で水を汲み揚げていました。
震災後のフランス領事館(1)
大正12年(1923)9月1日の関東大震災によって領事官邸は倒壊したため、 マックス・ヒンデルの設計で昭和5年(1930)に新しい領事官邸が建てられました。 1階部分はコンクリート造、2・3階部分は木造の3階建ての建物でした。 一部に4階建てに相当する塔屋があり、また大きい屋根窓が設けられていることから、 4階に相当する屋根裏部屋があったものと推測されます。 天上高は3m、建築面積は222.5u、建設費用は53万3,000フランと伝えられています。
震災後のフランス領事館(2)
今回、公園の整備を行うにあたり、震災後に建てられたフランス領事官邸1階部分の建築遺構の調査を行いました。 1階部分は、14.5m×14mの正方形に近い矩形をしており、東隅に設けられた主玄関は、 幅5.5m、奥行2mのポーチとその奥の5.5m×5mのホールからなります。 ポーチは擬石積みで仕上げられており、ホールには壁と床のタイル張りが残されています。 西側には、同じく擬石積みの仕上げが施された脇玄関と思われる開口部があり、 そこかたわらに便所および2階に通じる階段がありまう。 その他の部屋は、使用人の部屋や厨房等と思われます。
フランス領事官邸跡の脇には、井戸に使われていた風車が再現されています。
フランス山の風車
明治29年(1896)にフランス領事館とその官邸が建設された時、 このフランス山には井戸水を汲み揚げるための風車が設置されました。 風車が設置されたのは、レンガ造り井戸の遺構が残されている場所です。 残念ながら、フランス領事公邸で使用されていた風車の形は、写真などの資料が残されていないため判りません。 しかし、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真から、 多翼型の風車であったろうと思われます。 なおフランス山の風車は、フランスに残されている資料から、明治42年(1909)頃までは存在していたようです。 今回、フランス山の公園整備に際し、かつてのフランス山をしのぶモニュメントとして、多翼型の風車を設置しました。 風車の色は、フランス国旗の色にちなんでトリコロール(青・白・赤)に塗り分けられています。 また、風車が回ると水を汲み揚げるようになっています。 今回の公園整備に伴う工事に際し、風車のレンガ造り基礎が見つかりました。 井戸の北側斜面に2基、南側にやや小さめの基礎が2基の合計4基です。 北側の基礎は、斜面の整備に支障をきたすため、掘り上げて新たに設置した風車を中心に、元の位置に合わせて展示しました。 また南側の1基はそのままで、もう1基は園路の下に現状保存しています。  (横浜市緑政局)
広場のようになった所に建つ「愛の母子像」を過ぎていくと、レンガ造り井戸遺構があります。 上部は鉄格子で覆われていますが、中を覗いてみると、地の底まで落ちていくように感じたりします。
レンガ造り井戸遺構
このレンガ造り井戸は、明治29年(1896)のフランス領事公邸竣工時に、 上水道が山手まで敷設されていなかったために設置されたものです。 水はすでに涸れていますが、井戸の深さは約30mで、使われているレンガは、円形に積むために扇形をしています。 また公園整備の工事に際し、井戸の周囲から井戸水汲み揚げ用風車の基礎4基も出土しました。 右側に現状保存したのは、そのうちの一つです。 今回、かつてのフランス山をしのぶ貴重な遺構として保存整備を行いました。
 (緑政局)
井戸の先でボードウォークと階段に分かれていますが、 いずれを進んでいっても、程なくして展望広場に出ます。 海側には「展望台」がありますが、低い階段の上にあるテラスのような所になっています。 左手にはマリンタワーやみなとみらい21地区のビル群を、正面にはベイブリッジなどを見渡せる眺めが広がっています。 マリンタワーは現在休業中で、2009年春のリニューアルオープンに向けて工事が進めれているようで、 この時にはタワーに青いシートが被せられていました。 展望広場の一角には「港が見える丘」の歌碑があります。 展望広場は正に港が見える丘になっていて、ぴったりの歌に思えました。
港がみえる丘  作詞:東辰三 作曲:東辰三 【♪演奏
 あなたと二人で来た丘は 港が見える丘
 色褪せた桜唯一つ 淋しく咲いていた
 船の汽笛咽び泣けば チラリホラリと花片
 あなと私に降りかかる 春の午後でした
この歌は昭和22年当時、戦後の荒廃した世相の中で、 港をテーマにした曲として広く人々の口ずさまれ、なにかしらほっとする安堵感を覚えたものです。 この港の見える丘公園が歌の舞台であったかについては、様々な説がありますが、 この歌が広く横浜市民に親しまれていたこともあって、多くの市民の共感を得て、 横浜市が「港の見える丘公園」と命名したものです。

展望広場の先には沈床花壇がありますが、その右手にはイギリス館があり、 その周りはローズガーデンになっています。 密生しているほどではありませんでしたが、色とりどりの大輪のバラが綺麗な花を咲かせていました。 脇に陣取って写生をしている人、花の間近まで寄って接写している人、 花をバックにして記念写真に収まっている人など、思い思いに花を楽しんでいるようでした。 ローズガーデンに咲いていた花の写真をいくつか載せておきます。
港の見える丘公園 ローズガーデン
港の見える丘公園のあるこの丘は、開港当時フランス軍とイギリス軍が駐屯し、 その後、フランス領事館、イギリス総領事公邸が建築されました。 現在、フランス領事館の遺構を残す地区をフランス山地区と呼び、 イギリス総領事公邸は、横浜市が買収し、横浜市イギリス館として市民に利用され、 平成2年度には横浜市文化財に指定されました。 平成元年9月に市制100周年、開港130周年を記念し、「市の花」としてバラが制定されいました。 バラはイギリスの国花であり、また、本公園は歴史的背景のあるイギリス館があります。 横浜港やベイブリッジの眺望もすばらしく、多くの人々が訪れることから、 この公園が「バラ園」を整備する最もふさわしい場所として選定され、平成3年5月に開園しました。 その後、山手111番館の整備に伴って平成11年3月に「ローズガーデン」として拡張整備しました。
ローズガーデン概要  面積 約8,000u、バラ品種 約80種、植栽数量 約1,800株
横浜とバラ
横浜とバラの関わりは、開港とともに数多くの西洋文化と一緒に上陸したことに始まります。 明治の初め、山手の外国人住宅の庭に梅、桜、菊、ぼたん等、日本の園芸植物と一緒に、 かつて見たこともない美しい花が咲き誇っており、これを見た人々は「いばらぼたん」とか 「洋ぼたん」と呼んで、この珍しい渡来植物を羨望のまなざしで見ていました。 その後、外国人との交流が盛んになるにつれて、市民の庭にも植えられるようになりました。 昭和6年、当時親交のあったアメリカのシアトルに高さ4mの桃山式太閤型の石燈籠を贈ったところ、 その返礼として200種3,000本のバラが届けられました。 このバラは「日米親善のバラ」として当時の野毛山動物園、山下公園、横浜市児童遊園地に植えられました。 また、昭和10年から「バラ祭」が催され、その行事のひとつに「バラ行進」があり、 馬車や自動車に市長を始め来賓やミス・ヨコハマが乗ってパレードしました。 これが、現在5月に開催する国際仮装行列のもとになりました。 これらの行事は戦争のため中止され、バラもすべて姿を消してしまいました。 昭和24年に「日本貿易博覧会」が山下公園等を会場に開催され、 当時最新の「ピース」を始め数種のバラの切り花がサンフランシスコから空輸され世界の注目を集めました。 平成元年9月市民投票で一番人気のあった「バラ」が「市の花」に制定され、 横浜博覧会(YES'89)の会場で発表されました。
もうすぐハロウィンということで、イギリス館の前では尖がり帽子や仮面などで仮装した親子連れをかなり見かけました。 その場でも仮装の衣装などを貸してもらえるようで、長い待ち行列が出来ていました。 この日はローズガーデンコンサートが開かれるようで、その準備も進められていました。
横浜市イギリス館
○名称/横浜市イギリス館(旧横浜英国総領事公邸)
○所在地/横浜市中区山手町115-3 ○建築年/昭和12年(1937)
○設計者/大英工部総署 ○規模/RC造2階建、地下1階
日本の開国はペリーの来航に端を発しましたが、最も中心的な役割を果たしたのは、 オールコック駐日総領事を代表とするイギリスの外交団です。 このイギリス館の建つ山手115番は、文久3年に横浜の居留地防衛のため軍隊が駐屯するなど 横浜開港直後からイギリスにゆかりの深い土地です。 横浜市イギリス館は、昭和12年に上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事公邸として建築された建物で、 広い敷地にゆったりと建てられ、条約開港年横浜にふさわしい規模と風格を持っています。 建物は、主屋と付属屋とが連結した形で建てられています。 主屋は南面して主要な部屋を配し、廊下を北側に設ける配置で、一つの理想的な形態を示しています。 意匠的には、近代主義を基調とした合理性が見られますが、単にモダニズムの踏襲ではなく、 英国調とも言える電灯を加味した穏健重厚な意匠が伺えます。 この横浜市イギリス館は様式・意匠ともに優れた貴重な建物として、 平成2年11月に横浜市指定文化財に指定されました。
イギリス館の左手から裏手へ進んでいくと噴水広場があります。 観光バスが止まっていたりして、観光客などでごった返していました。
左手の斜面には水路があって、東屋を過ぎて下の池へと流れ落ちています。 この辺りもローズガーデンに含まれるようで、バラの花が沢山咲いていました。
ローズガーデン草花マップ
ローズガーデンにはバラのほかにも毎年花を咲かせる宿根草と呼ばれる草花が多く植えられています。 それらは一年を通して四季折々の表情で私達を楽しませてくれます。 この草花マップにはその主な草花の名前と写真・花の咲く時期・植えられた場所のマークを表示しています。 これをヒントにローズガーデンの草花を楽しんでみませんか?
噴水広場の隣には山手111番館があります。 裏手は喫茶店「ローズガーデンえの木てい」になっています。 バラのメニューが多数用意されていて、ケーキ・お茶・ソフトクリームがお勧めとのことです。
(写真は山手111番館の裏手から写したものです)
水路の脇を降っていくと池があります。 道路を挟んだ向かい側には神奈川近代文学館があります。 この時には「スタジオジブリが描く乱世」と題して「堀田善衛展」が催されていましたが、訪ねるのは省略しました。 再び登り坂になってくると、道路の上に霧笛橋が架かっています。 赤レンガで出来た趣きのある橋で、往時を偲ばせるような街灯も設置されています。 橋からは横浜の海を一望でき、ベイブリッジもよく見えていました。 ロマンチックな雰囲気がする所のようで、 モデルとカメラマンの組み合わせと思われる男女が写真を撮っていたりもしました。
霧笛橋から左手へ進んでいくと大佛次郎記念館があります。 霧笛橋と同じような赤レンガ造りになっています。
大佛次郎記念館
横浜市に生まれ横浜をこよなく愛した作家大佛次郎(1897年〜1973年)の作品には、 横浜を舞台としたものが数多くあります。 この山手の地も「霧笛」、「幻燈」などの作品の舞台となった所です。 没後、膨大な遺品が遺族から横浜市に寄贈されたのを機にこの記念館が建設され、 昭和53年(1978)5月に開館いたしました。 館内には、貴重な遺品や文筆活動に使われた数々の資料、愛猫家であった氏を偲ばせる猫の置物等が 保存・展示されております。また、和室や会議室などの貸室や図書閲覧のための閲覧室も設けられております。 お気軽にご利用ください。
観覧時間
 4月〜9月 午前10時〜午後5時30分(入館は午後5時まで)
 10月〜翌年3月 午前10時〜午後5時(入館は午後4時30分)
休館日(施設点検日)
 ・第4月曜日(国民の祝日・振替休日の時は火曜日)
 ・年末年始(12月29日から翌年1月3日まで)
 ・この他不定期に休館日(施設点検日)があります
大佛次郎記念館の左手にはTEA&COFFEEの「霧笛」があります。 大佛次郎の作品の題名から名付けられたようです。 愛猫家であった大佛次郎に因んで置かれているのか、 入口の脇にはネクタイをした猫の像が立っています。 左の前脚を少し持ち上げていて、お客を手招いているのでしょうか。
大佛次郎記念館の前には沈床花壇があります。 刈り込まれた植木が周囲を取り巻いていて、雰囲気のいい空間になっています。
展望広場を過ぎてフランス山を降っていきます。 堀川に架かるフランス橋を渡って横浜人形の家へと向かっていきます。 橋を渡った少し先の右手にあるゲートへ入っていきます。 館内へ入っていくのは省きましたが、窓から中を覗いてみると人形がいくつも展示されていました。 外には青い目の人形の像があります。 「ポーリン」という名前のようです。
横浜人形の家
開館時間午前10時〜午後6時30分
休館日第3月曜日(月曜日が祝日の場合、翌日)
12月29日〜1月1日
青い目の人形
昭和2年の春、ひな祭りにあわせて、日米の親善と平和を願う米国市民の思いをこめた 13,000体の青い目の人形が、はるばる太平洋の波とうをこえて横浜の港に着きました。 「かわいい親善大使」たちは、日本の津々浦々の小学校や幼稚園に贈られ、友好促進に尽くしました。 この人形彫刻のモデル「ポーリン」ちゃんはそのなかで一体で、 今も横浜市西区の西前小学校に大切に保存されています。  (横浜市)
横浜人形の家の先に架かるポーリン橋を渡っていきます。 下を通る「山下公園通り」にはイチョウ並木が続いています。 僅かに色付いている樹木もあったりしましたが、黄葉のシーズンはまだこれからのようでした。
山下公園
ポーリン橋を渡って山下公園へ入っていくと、幾重にも連なるアーチ型のゲートがあります。 ゲートに巻きつけるようにして蔓性植物が植えられていますが、この時には花は咲いていませんでした。 ゲートをくぐっていくと世界の広場があります。 大きな柱が何本も立ち、周りを茶色の壁で覆われた円い広場です。 ギリシャなどの古い神殿を模しているのでしょうか、どことなく異国情緒を感じます。
世界の広場から水の階段・石のステージを降っていくとおまつり広場に着きます。 海辺に出ていくと横浜港観光船の乗り場があります。 マリーンシャトル、マリーンルージュ、シーバスなどが運航されています。 写真の手前の船がマリーンルージュで、その奥に停泊しているのがマリーンシャトルになります。 船上では結婚式や忘年会などのパーティーなども行えるようです。
観光船の乗り場を過ぎていくと氷川丸が係留されています。 1年半ほど営業を停止していましたが、この春からリニューアルして再度一般公開されています。 係留している鎖にはカモメが列をなしてとまっていたりもします。
氷川丸
横浜−山下公園 総トン数:12000トン 全長:163メートル
氷川丸は、日本郵船のシアトル航路の新鋭船として19304月三菱重工業横浜造船所で建造されました。 太平洋戦争中は病院船、戦後は引き上げ船等として従事の後、 1953年7月我国唯一の外航客船としてシアトル航路に再デビューしました。 本船は戦前戦後を通じて248回太平洋を横断しています。 1961年5月、横浜開港100年記念事業の一つとしてこの地に係留されて以来、 マリンタワーと共に、山下公園のそして横浜港のシンボルとして市民に親しまれています。
カモメやハトにエサをあげないで!!
カモメやハトによる被害には、フンや羽毛による汚れ、悪臭だけではなく、 これらが原因で、アレルギーや病気を引き起こすきっかけになる場合があります。
トビに注意!!
また、エサをもらった野鳥は人をねらうようにもなり、山下公園内でも、トビによる被害が起きています。 野鳥にエサを与えるのはやめましょう。
 (横浜市南部公園緑地事務所)
「カモメの水兵さんの歌碑」や中央広場の「水の守護神」の噴水を眺めてから芝生広場へ向かっていきました。 「赤い靴はいていた女の子像」を過ぎていくと、大桟橋が間近に横たわっています。 左手に建っているのは「大さん橋ふ頭ビル」で、シーバスなどの乗り場になっています。 今回はこの大桟橋へ立寄っていくことにしました。
潮位標尺について
横浜港における海面の変動を身近に感じられるように潮位標尺を設置しています。
●海面の変動の原因について
海面の変動は主に以下の要因で起こります。
・月や太陽のおよほす引力と地球の自転によって起こる海面の周期的昇降(潮汐)
・風によって起こる波浪
・台風による気圧低下に伴う海面の吸い上げと強風による海水の吹き寄せによって起こる高潮
・地震による津波
●横浜港における海面の高さの基準について
港に出入りする船舶の安全な航行のためには干潮時においても充分な水深が必要となります。 そのため海面の高さは、海面が最も下がった状態を基準としており、これを基本水準面といいます。 基本水準面は各港ごとに設定されており、この標尺は横浜港の基本水準面からの高さで表示しています。 船舶の航行に使用される海図には水深が記入されていますが、 水深はこの基本水準面からの深さ(メートル)で表されます。 また港湾工事の基準となる横浜港工事基準面(Y.P.)も基本基準面です。 なお山などの標高を表すときの基準はこれとは異なり、東京湾の平均海面(T.P.)からの高さとして表され、 横浜港の基本水準面より1.09m高い位置になります。
●警戒水位について
横浜地方気象台が定めている神奈川県の高潮に関する注意報や警報を発令する際の 潮位の基準は以下のとおりです。(いずれも基本水準面からの高さ)
 注意報:2.49m以上、警報:2.89m以上
 (横浜市港湾局)
山下公園の端まで来ると、左手から「開港の道・山下臨港線プロムナード」が始まります。 プロムナードは地上の少し上に続いていて、大桟橋へ向かうには少し不便なので、 今回はイチョウ並木が続く車道の山下公園通りを進んでいきました。
公園開設以前のようす(明治〜大正期)
現在の山下公園通り(当時は海岸通りと呼ばれていました)は海に面していて、 散策道としても多くの人に親しまれていました。 1871年(明治4年)に描かれた「横浜弌覧之真景」によると、 当時も多くの船が航行していた様子がうかがえます。
公園の開設(昭和5年)
1923年(大正12年)の関東大震災のため、海岸通り前の海は瓦礫の山となりました。 そして、震災復興事業の一つとして、ここに公園をつくることになり、 昭和5年、日本初の臨海公園、山下公園が誕生しました。 中央の噴水広場と左側(西側)の芝生広場は、現在でも開園当初の基本形態が残っています。 1935年(昭和10年)3月には震災復興を祝う復興博覧会が開催されました。 多くのパビリオンが立ち並び、公園前の海面ではクジラも展示されました。
山下埠頭臨海鉄道の建設と撤去
1965年(昭和40年)に、山下埠頭臨海鉄道線(国鉄貨物線)が開業しました。 公園内を高架で通過する計画には着工前から大佛次郎ら文化人が景観を損ねると反対しましたが、 計画どおり高架でつくられました。その後、貨物の取扱量の減少から、 1986年(昭和61年)に臨海鉄道線は営業を中止し、2000年(平成12年)には高架の建造物が撤去されました。 また、この撤去に合わせ、公園と街(山下公園通り)との景観の一体化を図るなどを目的に、 公園の再整備が実施されました。
すぐ先にある開港広場前交差点を右折して、 「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」と書かれたプロムナードの下を過ぎていきます。 橋脚の壁面には明治の終り頃の横浜港の大写しの写真が掲げられていたりもします。 水上警察署などを過ぎていくと、大さん橋ふ頭ビルの脇に、 101年間使われていたという「螺旋杭」が野外展示されていました。
101年間旧大さん橋を支えた螺旋杭
明治27年〜平成7年
螺旋杭は桟橋を支えるため下端に螺旋状の円盤が付いた杭で、 その形状を利用し人力で海底にねじ込まれたものです。 展示してある杭は関東大震災の復旧工事(大正13年〜14年)で施工されたものです。 長さ21m、円盤直径1.8m、重量約6t
大桟橋
大さん橋ふ頭ビルを過ぎたすぐ先に大桟橋があります。 1階は駐車場、2階は出入国ロビーや税関などになっていて、 屋上は一般公開されていて板敷きの広場になっています。 屋上には「くじらのせなか」という愛称が付けられていて、まるで滑走路のように思えたりもしました。 中ほどには屋上広場があり、その先の大さん橋ホールでは「リサイクルデザインフォーム2008」が開催されていました。
くじらのせなか
この屋上広場を多くの方々により一層親しみを持っていただくために、 平成18年7月13日(木)から9月30日(土)まで愛称を公募しました。 約4,000件の応募があり、審査の結果、上記の愛称「くじらのせなか」(最多26件)に決定いたしました。
ウッドデッキと芝生におおわれた屋上広場に公募で選ばれた愛称がつけられました。 その名のとおり、海に浮かぶ雄大なくじらのせなかをイメージさせる大空間がひろがります。
 (大さん橋プロジェクト)
屋上の先の方にはネット敷きの上に芝が植えられていて、雰囲気が良くなっていました。 振り返ると、「くじらのせなか」の向こうには、 右手にはみなとみらい21地区のビル群が、左手には山下公園が一望できました。 いつもの陸地側からとは違った角度からの横浜を楽しめたのでした。 横浜港を一周する大型クルーズ船「ロイヤルウイング」が大桟橋から丁度出航していくところでした。 銅鑼が高らかに鳴らされたりして賑やかなのでした。 ランチクルーズ・ティークルーズ・ディナークルーズと、1日に3回出航するようです。
芝生を大切に
この芝生は、人工土壌を土留めアングルで留めています。 また、給水ホースが芝生のすぐ下を通っています。 芝生に立ち入ると土壌の流出、ホース破れの恐れがありますのでご遠慮ください。  (大さん橋プロジェクト)
日本唯一のエンターテイメントレストラン船 ロイヤルウイング
ロイヤルウイングは大さん橋より出航し「横浜ベイブリッジ」・「本牧シンボルタワー」・ 「みなとみらい21」などをめぐり再び大さん橋にもどる港内クルーズ船です。 船内では本格中華広東料理のバイキングやコース料理をはじめ、 ケーキ&フルーツバイキングや飲茶セットなどもお楽しみいただけます。 もちろん乗船だけでもご利用いただけます。
開港広場
大桟橋から引き返してきて開港広場前交差点を渡っていくと、正面に開港広場があります。 歴史的な日米和親条約がここで調印されたのだそうです。
日米和親条約締結の地
安政元年(1854)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。 これは、神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。 歴史的舞台となった応接所のあとは、現在の神奈川県庁の付近である。
 (横浜市、神奈川県、横浜市観光協会)
横浜開港広場
大さん橋付近は日本の開港の地であり、横浜の都心地区として発展した現在も、 外国船の入港など横浜の玄関として市民に親しまれております。 ここに「港町・ヨコハマ」の歴史や国際性のシンボルとして広場をつくり、 横浜開港(1859年)にちなんで「開港広場」と名づけました。 開港広場は、山下公園や大さん橋とともに訪れる人々の憩いの場となり、 将来はみなとみらい21地区など新しい都心地区との接点となるものです。
1 開港の泉(円形池と噴水)  この広場の中心に海を表現した池と噴水が設置されています。 このような池と噴水は、ヨーロッパの都市広場にも見られる浅床式の池と樹氷形の噴水です。 水面は、潮の干満を表わし、最大直径6メートルまで広がり、また噴水の高さは約2.0メートルまで噴き上がります。 池の底には、ペリー来航当時のアメリカの軍艦に多く使用されていた羅針盤を型どった鋳鉄板が敷かれています。
2 石の舗装  噴水囲りの路面は金峰石と白大理石の小鋪石を使い、波模様をデザインしたもので、 海と横浜との関係を表現しています。
3 サークルミラー  噴水の周囲に12基設置してあるステンレス柱で、表面が鏡面状にみがかれています。 このため、周辺の風景や空が映り、独特の空間を形成しています。 また夜間サークルミラーの足もとから放たれる光は、噴水を照らします。
4 友好・姉妹都市の市章と姉妹港のシンボルマークのプレート  横浜市との姉妹都市・友好都市・横浜港との姉妹港の市章とシンボルマークを真鍮製の鋳物板に型どり、 噴水の周囲に配置してあります。 各プレートの位置は、噴水の中心を横浜として横浜からの方位と距離を表わしています。
5 街路灯  ガス灯は、明治5年、横浜で点灯され、日本で最初といわれていますが、 開港広場周辺の街路灯は、米国型のガス灯をモチーフにして製作したものです。 灯具の笠は銅製、柱上部にはアームが取り付けられていて、 催し物や祭典の際には、旗(バンナー)を取り付け、華やかさを演出するデザインとなっています。
6 レンガ造マンホール(人孔)と卵形管  明治14年〜20年(1881〜1887)ごろ館内居留地(現在の中央山下町と日本大通の一部)の一帯に 整備されたレンガ造の下水道マンホール(人孔)と卵形の断面をした下水管です。 この広場公園の工事中に発掘されたもので、わが国の近代的下水道施設として歴史的価値が高く評価されており、 現形のまま保存したものです。
7 「日米和親条約締結の地」碑  日本の開国を告げる「日米和親条約」が調印されたのは安政元年(1854)3月3日のことです。 その調印の地は、この開港広場から神奈川県庁にかけての一帯で、 横浜開港資料館中庭の「玉楠の木」附近ともいわれています。 昭和29年(1954)6月2日の開国百年際に、これを記念し横浜市と神奈川県と横浜諸侯会議所の三者によって 「日米和親条約締結の地」碑が建てられました。
歴史的資産と広場  広場周辺には横浜開港資料館(旧英国領事館)や海岸教会、税関、県庁旧館があり、 広場のデザインは、こうした歴史的建設物との調和をはかり、 照明やストリートファニチャーには、大さん橋からの軸線を配慮しています。 また開港広場前交差点の改修と大さん橋入口プロムナード道路の整備を合わせて行なっています。
 (横浜市中土木事務所)
日本大通
開港広場から右手へと進んでいきます。 横浜開港資料館を過ぎていくと開港資料館前交差点があります。 そこを左折して、イチョウ並木が続く日本大通(国道133号)を進んでいきます。
日本大通
慶応2年10月20日(1866.11.26)に運上所・改所・官舎など日本人街の3分の2、 英一番館など居留地の4分の1を焼失した豚屋火事が契機となり、 「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」(第3回地所規則)が、同年11月23日締結されました。 約書には、居留地と日本人街に区画整理を行い、そのまん中に延焼を防ぐため、 広さ120フィート(36m)の街路を海岸より公園(後の横浜公園)まで通すように規定しましたが、 約束どおりにはできずに明治政府に引継がれました。 明治4年(1872)英国人プラントンの設計により工事が進められ、 中央車道60フィート、歩道・植樹地帯左右各30フィートの近代的な道路として誕生し、 明治12年、町名にもなりました。
 (横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)
横浜開港資料館旧館 旧英国総領事館
この建物は昭和6年(1931)に英国総領事館として建てられ、 昭和56年(1981)から横浜開港資料館として使われている。 英国工務局によって設計され、18世紀のジョージアン・スタイルの都市邸宅を思わせるデザインである。 その特徴は玄関周りによく現れている。 敷地はかつて日米和親条約が結ばれた由緒ある土地である。
日本大通の右手には神奈川県庁があります。
神奈川運上所跡
開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、 神奈川奉行の支配に属していた。 慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。 明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた。
日本大通り(にほんおおどおり)駅
日本大通を真っ直ぐに進んでいくと港郵便局前交差点があります。 右手の横断歩道を渡った所に、日本大通り駅(みなとみらい線)の2番入口があります。