観音崎
散策:2008年09月中旬
【海辺散策】 観音崎
概 要 観音崎は、三浦半島から東京湾に突き出た岬です。 古来から東京湾を守る要塞地帯として軍関係の施設が設けられてきた所です。 天気のいい日には、東京湾や対岸の房総半島が一面に広がる素晴らしい景色を望めます。 今回は観音崎灯台を訪ねてから、山手に続く散策路を走水神社へと向かっていきます。
起 点 横須賀市 観音崎バス停
終 点 横須賀市 走水神社バス停
ルート 観音崎バス停…敷石園路…寂光土…権現洞…海岸園地…観音寺跡…観音崎灯台…東京湾海上交通センター…北門第二砲台跡…海の見晴らし台…戦没船員の碑…メガネ橋…海の子とりで…花の広場…走水展望広場…ふれあいの水辺…いこいの水辺…走水神社…走水神社バス停
所要時間 2時間50分
歩いて... この時は雲が出ていて遠くの方は少し霞んでいましたが、 観音崎灯台からは東京湾や房総半島を見渡せる眺めが広がっていました。 今回は訪れなかった水の広場・たたら浜園地・観音崎博物館・森の広場・アスレチックの森・果実の森などもあるので、 一日かけてゆっくりと散策したい所です。
関連メモ 観音崎, 浦賀鴨居
コース紹介
観音崎(かんのんざき)バス停
浦賀駅(京浜急行本線)から、[浦3]観音崎行きバスにて13分、 1時間に3本程度の便があります。
横須賀駅(JR横須賀線)から、[須24]観音崎行きバスにて40分、 1時間に3本程度の便があります。
今回は海沿いを通って観音崎灯台を訪ねてから、山手に続く散策路を歩いて走水神社へと向かっていきます。 バス停の傍に「県立観音崎公園案内図」があって、 今回歩くルートが載っているので参考にしましょう。
バス停の先を左折していくと、すぐに海に出ます。 中ほどにある突堤のような先へ出てみると、左右には砂浜が広がっていました。 案内図によると観音崎海水浴場というようです。 沖の方には大型タンカーがゆっくりと進んでいました。 右手のこんもりとした丘の上には、東京湾海上交通センターの電波塔が見えています。 傍には「観音崎公園」と題した大きな案内図もあるので参考にしましょう。
観音崎の位置
観音崎は三浦半島のほぼ中央東南側の東京湾に突出した岬で、 東京都心部から約45km、対岸の房総半島の富津岬との距離は約6kmで、東京湾で最も幅が狭いところです。
花の名所づくり
神奈川県では「第9回都市緑化かながわフェア」の精神を継承するため、 県立の都市公園において「花の名所づくり」事業を展開しています。 ここ観音崎公園では、海や丘陵などの変化に富んだ風景や豊かな自然との調和を図りながら "観音崎フラワーストーリー"をテーマに四季折々の花が楽しめるよう整備を行っています。
【海辺の花コース】 船を見ながら海辺の花と生き物を観察できるコースです。約2.8km。
【丘の花コース】 丘の散策路を巡って野の花や生き物に親しむコースです。約3.0km。
【歴史探検コース】 観音崎のいろいろな歴史を探検するコースです。約4.0km。
【わんぱくコース】 遊び場とおもしろクイズを巡るコースです。約2.4km。
津波注意
地震を感じたら海浜から離れ安全な場所に避難しましょう。
▼この地点の海抜は2.6mです。
 (横須賀市消防局)
海辺に出た所から右手へと石畳の散策路が続いています。 入口には「かながわの景勝50選 観音崎」と刻まれた石碑が立っています。 道標も立っていて、「海岸園地400m、観音崎灯台600m、東京湾海上交通センター350m」となっています。
かながわの景勝50選 観音崎
フィールドの約束(や・さ・し・い・き・も・ち)
)野外活動は無理なく楽しく
)採集はしないで自然はそのままに
)静かにそーっと
)一本道、道はら外れないで
)着るものにも一工夫
)持って帰ろう、思い出とゴミ
)近づかないで、野鳥の巣
 (神奈川県環境部自然保護課)
利用ルール
バーベキューやキャンプ、たき火はしないでください。
公園内の植物や動物を大切にしましょう。
公園内の美化にご協力ください。
この公園は大蔵省(関東財務局横須賀出張所)所管の国有地を借り受け整備したみなさんのための施設です。
園内ではモラルを守って大切に利用して下さい。
 (神奈川県横須賀土木事務所)
敷石園路
散策路に入っていくと、山手を通って東京湾海上交通センターや観音崎灯台への道が分かれていきますが、 そのまま海辺の散策路を進んでいきます。 前夜に台風が通過した直後であまり条件は良くありませんでしたが、散策している人を多く見かけました。 散策路には解説板などが点々と設置されていて、この地域の自然などが紹介されています。
観音崎の地形
観音崎周辺は、海抜40〜50mの丘陵が海に迫って崖地をつくり、 その崖下には堆積岩が露出し波にあらわれ岩礁となっています。 砂浜は岩礁性の海岸線が発達しているため、小規模な砂浜が2箇所(三軒家、たたら浜)みられるだけです。 この砂浜(三軒家)は海水浴場として利用されています。
海浜の植物
海岸は土壌の発達が悪く、強い潮風や紫外線のような特殊な環境をもっているので、 植物が生育するには大変きびしい場所です。 植物は地下部では砂の中や岩のすきまに広く深く根ざし、 地上部では葉肉も厚くしたりかたくしたりして水分の蒸発を防ぎ、 海岸の環境に適した形態をしています。
少し進んでいくと、散策路が二手に分かれていました。 どちらの道を進んでも少し先で合流しますが、今回は左手の海岸沿いの道を進んでいきました。 すぐにある岩場の先へ出てみると、侵食された岩が層を成した岩畳が続いていました。 この時は比較的波が静かで、打ち寄せる波の飛沫がかかるようなことはありませんでした。 磯独特の香りを感じながら、目の前に広がる海をしばらく眺めていきました。
タイドプール
海は普通1日に2回動き、引き潮と上げ潮を繰り返します。 引き潮の時は、水中にかくれていた岩場が露出して、潮だまり(タイドプール)ができ、 岩場の生物が観察できます。
【岩場の生物】ヤツデヒトデ、ホンヤドカリ、ムラサキウニ、フジツボ、イソガニ
磯の生物
海辺は1日2回の潮のみちひきがあり、まず潮がひいている岩場の潮だまりタイトプールには いろいろな生物がいます。そっと観察しましょう。
カニ・エビ類 ヒライソガニ、イシガニ、イソガニ、ヒズメガニ、イソスジエビ、モエビ、ホンヤドカリ、カニダマシ
貝の類 クボガイ、ナガニシ、レイシ、アサリ、ハティラ、ムラサキガイ、ヨメガカサ、スガイ、ウチムラサキ
ヒトデ・ウニ類 ヤツデヒトデ、クモヒトデ、キヒトデ、バフンウニ、イトマキヒトデ、ムラサキウニ、アカウニ
小魚の類 アゴハゼ、ナカベ、イソギンポ、シマハゼ、メジナ、ドロメ、ヤガタイサキ、アミメハギ、アサヒアナハゼ
その他 アメフラシ、タラジャイソギンチャク、ケヤリムシ、ウメボイシソギンチャク、スゴカイ、フジツボ
海の鳥
海上を飛びまわっている海鳥は、泳いだり潜ったりして小魚や貝やカニなどを食べ、 磯に住む鳥はカニや磯虫などを食べています。
セグロカモメ、ウミネコ、ユリカモメ、うみう、アカシシギ、イソヒヨドリ
(神奈川県の鳥はカモメです)
寂光土
短い階段を登って、先ほど分かれてきた散策路に出て、その先へと進んでいきます。 海岸の間近ですが、散策路の両側には草木が生い茂っていて雰囲気のいい道が続いています。 1分ほど進んでいくと、海側に墓石などが沢山集まった所がありました。 脇に立つ手製の解説板によると「寂光土」というようです。 江戸から明治の時代を生きた人達の墓のようでした。 綺麗な花束や水が手向けられていて、脇には箒も置かれていました。 いまでも掃除したりして丁寧に守られているようでした。
寂光土
観音崎灯台を目前の東京湾に面する此の静かな地にひっそりと佇む数々の墓石に刻まれている仏様の生きた時代は、 現在の私たちには想像もつかない過酷な時代であったようです。 近代日本の夜明けを告げるペリ提督来航から既に150年、動乱の幕末に国を守る為に馳せ参じた諸藩の武士達や、 飢饉で亡くなった方々かも知れません。 訪れる人もない無縁仏の生きた時代があったればこそ、今、私達が生きてゐる世があります。 どうか暫しの間足を休めて、私達と決して無縁と思われない仏さまからの静かな語らひに耳を澄ませて下さい。 いま生かさせていただいてゐる貴方の尊い「いのち」の由来を知る為に。
【時代背景】 富士山大噴火(宝永4年1707)、天明の大飢饉(天明3年1783〜8に至る)、 全国の人口2720万人(文政11年1825)、全国的大飢饉(天保3年1832)、 異国船打払令(文政8年1825)、ペリー浦賀に来航(嘉永6年1853)
 (吉川弘文館刊日本央年表よ利)
権現洞
寂光土を過ぎて1分ほど進んでいくと、右手の岩壁にポッカリと開いた洞窟がありました。 名前は記されていませんでしたが、手元の地図によると権現洞観音崎洞窟と呼ばれているようです。 手前には柵が設置されていて「落石の危険あり 立入を禁ず」の立て札がありました。 脇にある解説板によると、鵜羽山権現や十一面観音として祀られてきた洞窟なのだそうです。 洞窟の入口付近には小振りの石祠が二つほどあり、奥にも祠があるようでしたが、暗くてよく見えませんでした。
洞窟の由緒
聖武天皇の御代、天平13年(741)の春、行基善薩は諸国修行の途中ここに来られ、 この洞窟に住んでいる大蛇が、漁民や運漕の人々を苦しめているのを聞かれ、 大蛇を退治してその霊を、鵜羽山権現として祀られました。 この近くの走水神社に日本武尊とその妃弟橘媛命がお祀りしてありますが、 この洞窟の沖で入水ぢて海を鎮められた弟橘媛命を、十一面観音として刻まれ、 側に安置されまして以来、海上安全、人命守護の霊地として信仰されてまいりました。 時代の変転により荒廃に帰しましたが、時来って今日は観光の地として復興されて、 再び海上安穏、人命守護、世界平和の祈りがなされています。
海岸園地
洞窟のすぐ先に海岸園地があります。 東京湾や房総半島が一望できる所で、正面の丘の上には観音崎灯台が見えています。 景色を眺めながらちょっと休憩していきましょう。
崖地の植物
植物が生育できそうにない崖地のような場所でも、わずかな岩のすきま・割れ目・くぼみに 深く根を張り、潮風や波しぶきに強い抵抗力のあるものが生育しています。
岩場の先にはちょっとした砂浜もありました。 親子連れが波打ち際で遊んでいたりもしました。 真夏には賑わっていたのかも知れませんが、秋口になってひっそりとした感じになっていました。 沖には荷物を満載したコンテナ船が浮かんでいて、ゆっくりとした時間が流れているようでした。
観音崎の歴史
観音崎は千葉県の富津岬と相対して東京湾の入口をしめているため、東京湾守備の重要地点として 利用されていました。古くは文化9年(1812)、江戸湾(東京湾)警備のための船見番所や 台場などが設けられました。明治となってからも砲台が各所に設けられ、終戦まで東京湾の 関門として重要な使命を果たしていました。
観音崎灯台
海難防止のため慶応2年(1856)5月、米・英・仏・蘭の4ヶ国との間に結ばれた江戸条約に基づいて、 明治2年1月1日に我国最初の洋式灯台がこの地に点灯されました。 現在の灯台は3代目のものです。 (横須賀製鉄所首長フランス人ウェルニーの設計で,明治元年9月18日起工式,明治2年1月1日完成,点灯, レンガ造り,光源1750燭光,光達距離14カイリ)
観音寺跡
山側にはコンクリート製のしっかりとした東屋があります。 脇にある解説板によると、「観音寺」があった所なのだそうですが、 砲台築造のために移転して、今ではその面影は残っていません。 解説板には往時の様子を描いた「浦賀道見取絵図」があったので載せておきます。
観音寺跡
観音崎の地名は、奈良時代の僧行基が船の安全のため 十一面観音(船守観音)を海蝕洞穴に納めたことに由来すると伝えられています。 このあたりに観音堂が創建され、江戸時代には本殿・般若堂などが建ち並び、 村民や漁民・船乗りたあちの信仰は大変厚いものでした。 天正19年(1591)仏崎山観音堂料三石の御朱印をいただいております。 明治13年(1880)陸軍砲台が築造され、翌年、観音寺は鴨居の亀崎に移されました。 鴨居観音寺は昭和61年(1986)の火災により焼失したため、 三浦三十三観音としての札所は吉井の真福寺が代行しています。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
東屋の前には、詩人西脇順三郎の「燈台へ行く道」と題したの詩碑がありました。
燈台へ行く道
まだ夏が終わらない燈台へ行く道
岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や
いろいろの人間や小鳥の国を考えたり
「海の老人」が人の肩車にのって木の実の酒を飲んでいる話や
キリストの伝記を書いたルナンという学者が少年の時みた「麻たたき」の話など
いろいろな人間がいったことを考えながら歩いた
解説
詩人西脇順三郎は、明治27年(1894)、新潟県小千谷市に生まれた。 少年時代から絵が好きで、将来は画家になることを志し、17歳で中学を卒業するとともに上京して、 藤島武二や黒田清輝らを訪ねている。しかし、父の急死などの事情により画家への道を断念し、 慶応義塾大学理財科へ進み、さらにオックスフォード大学へ留学した。 留学中に再び絵筆を握る傍ら、大正14年(1925)、英文詩集「Spectrum」を刊行する。 同年、帰国し、翌年には慶応義塾大学文学部教授に就任したあ。新しいヨーロッパ文学の豊富な知識を背景に、 「三田文学」や「詩と持論」を通じて目覚しい批評活動を展開した。 一方、萩原朔太郎の詩を通して日本語の可能性を見出したという彼は、昭和8年(1933)、39歳の時に 詩集「Ambarvalia」を発表し、モタニズムによる画期的な詩風を確立した。この作品のみならず、 終生にわたり「眼の詩人」、「視覚の詩人」と呼ばれたのは、根底に少年時代の画家志望の夢があったからである。 その後、昭和22年(1947)に自己の内面に潜むもう一人の人間を「幻影の人」と名付け、作品「旅人かへらず」と これに続く詩集「近代の寓話」、「第三の神話」の中で追求し、西洋的教養と日本的感性を融合させた 独自の詩風を築き上げた。 さらに1960年代に入って、ブルーストやジョイスの手法を駆使した長編詩集「失われた時」を始め、 「豊饒の女神」、「えてるにたす」などの一連の詩集により、西脇地震の詩風は頂点に達し、 ノーベル賞の候補者にも名を連ねた。 70年代に入っても創作力の衰えを見せず、旺盛な想像力は、「礼記」、「壌歌」、「鹿門」といった詩集を 生み出したのみならず、さらに80歳代には詩集「人類」と「定本西脇順三郎全詩集」の刊行を見た。 昭和57年(1982)没。享年88歳。文化功労者、芸術院会員。
【西脇順三郎と観音崎】
昭和24年(1949)ご子息順一氏の遠足に同行して以来、当地を幾度か訪れており、 ここ観音崎をモチーフにした「燈台へ行く道」は、詩集「近代の寓話」に収められている。
海岸園地からその先へ向かっていくと、すぐに右手に登っていく階段混じりの道が分かれていきます。 角には道標が立っていて、右手の道は「観音崎灯台150m・東京湾海上交通センター450m」、 正面の道は「展望園地700m」となっています。 正面の道を進んでいくと、展望園地や博物館などがありますが、 今回はここから右手の道を観音崎灯台へと登っていきます。
横須賀市指定市民文化資産 観音崎灯台
日本発の洋式灯台として、明治元年11月1日に起工され、この日が日本の灯台記念日になっている。 初代の灯台はレンガを用いた四角形の建物で、現在は三代目である。
間隔の広い階段状の坂道を何度か折れ曲がりながら登っていきます。 岩壁にはシダ類やコケ類が生い茂っていて、しっとりとした雰囲気の道です。 「落石のおそれがあります 注意して下さい」の注意書きがあったりもします。 手摺や鎖が取り付けられていたりもする坂道を5分ほど登っていくと、 右手の岩壁を切り開いた道が分かれていきます。 角に立つ道標によると、右手の道は「東京湾海上交通センター310m」となっていて 東京湾海上交通センターや砲台跡へと続く道ですが、 先ずは正面にある観音崎灯台を訪ねていきましょう。
市制施行70周年記念横須賀風物百選 観音崎灯台
明治維新を2年後にひかえた慶応2年(1866)5月、 幕府は、イギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間に改税約定を結びました。 その第11条に、灯明台を備えなければならないことがうたってあります。 また、各国が提出した灯明台箇所書には、相模国三浦郡三崎及び観音崎が示されてありました。 幕府が倒れ、明治元年(1868)となりましたが、8月30日に灯台の建設が始められました。 横須賀製鉄所首長であったフランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニーが建設を担当することになりました。 横須賀製鉄所で作られたレンガと石灰を使い、四角形白塗装の建物とフランス製レンズを備えた灯台が、 12月29日に完成しました。 そして、翌明治2年1月1日に我が国最初の洋式灯台が光を発しました。 大正12年(1923)6月26日に先源として白熱電灯が用いられるまでは、 菜種油や落花生の油、パラフィン、石油などが燃料に用いられてきました。 その初代灯台は、大正11年(1922)4月26日の地震により大亀裂を生じました。 翌年3月5日に二代目の灯台が改築されましたが、5ヶ月を経た9月1日の関東大震災で崩壊してしまいました。 現在の灯台は、大正14年6月1日に完成した三代目のものです。 構内の左手に並ぶ句碑が、灯台守の厳しい生活と出船に対する情愛の深さを味わわせてくれます。
観音崎灯台
参観料を払って観音崎灯台へ入っていくと、すぐの所に白い灯台が聳えています。 灯台の周囲をぐるりと一周することも出来ますが、まずは灯台の上へと登っていきました。 螺旋階段をぐるぐると回りながら上へと登っていきます。 壁面には全国各地の灯台の写真が何枚も掲げられていました。
観音崎灯台 〜日本最初の近代灯台〜
この灯台は、慶応2年(1866)の江戸条約に基づき、明治政府の依頼により、 明治元年(1868)にフランス人ヴェルニーの手により起工されたもので、 三浦半島の東端に位置しています。 当時の建物は、フランス風の四角い洋館建て(レンガ造)の優雅なもので、 開国ご、日本で一番最初に建設された洋式灯台であり、我が国の近代灯台事業は ここにはじまったとされています。 現在の灯台は、大正14年(1925)に建て替えられ(コンクリート造)、三代目に当たります。 観音崎は房総半島の富津岬と相対して東京湾口の最も狭い水道を形成しており、 灯台は、船舶が安全に航行するための大切な施設です。 この施設の異常を発見した場合や何かお気づきの点がございましたら、 下記の管理事務所までお知らせください。
 (海上保安本部、燈光会、日本財団)
名称観音崎灯台
位置北緯35度15分22秒、東経139度44分43秒
光り方15秒毎に白光を2閃光(群閃白光)
光の強さ77,000カンデラ
光の届く距離19海里(34キロメートル)
高さ地上から灯台頂部 19メートル、水面から灯火 約56メートル
 (第三管区海上保安本部、横須賀海上保安部、燈光会)
注意
階段はせまいので右側を上り下りしてください。 機械やレンズには手をふれないでください。
地震の発生または緊急地震速報のあった場合は、速やかにその場で、下図のような体勢をとり、身を守って下さい。 なお、当灯台は、耐震補強を行っております。
 (社団法人 燈光会)
螺旋階段を1分半ほどかけて上階まで登っていくと、大きなレンズがありました。 輪状になった何枚ものフレネルレンズで構成されていて、 下部にはバネのような免震装置が取り付けられていました。 このレンズを通して灯台の光が発せられているのかと思うと、感慨もひとしおなのでした。 狭い灯台の中なので引きがなくて、全体を上手く写せなかったのが残念ではあります。
免震装置
縦横のレール上に灯器を乗せ、全方向に約40cmの幅で自由にスライドできる仕組みになっており、 地震などの揺れに対応し灯器部分がスライドし揺れを緩和するための緩衝装置です。
レンズの正面には扉があって、外へ出られるようになっています。 外側には灯台を取り巻くデッキが設けられています。 この時は風も穏やかな日だったので、デッキに出て周囲に広がる素晴らしい眺めを楽しみながらい一周してみました。 目の前に広がる東京湾の向こうには房総半島が横たわっていました。 眼下には先ほど訪ねてきた海岸園地や、この先にある海に突き出た芝地なども見えていました。
灯台から降りて周囲を回ってみると、往時の装置などが野外展示されていました。 また歌碑があったり、双眼鏡も設置されていました。 入口にある建物には灯台資料展示室が併設されていますが、写真撮影は禁止とのことでした。 展示室では観音崎灯台の歴史などが紹介されていて、初代灯台の模型もありました。
霧信号吹鳴器
霧や雪により視界が不良になった場合に、 音を発して付近を航行する船舶に音の出る位置を知らせる施設を「霧信号所」といいます。 この吹鳴器は、平成元年4月まで観音崎霧信号所で使用されたモーターサイレンで、 15秒毎に5秒間の音を発していました。
灯ろう
灯台の頂部にはレンズ・電球があり、定められた光(灯質)を発光していますが、 このレンズ、電球を風雨から守る部分を灯ろうといいます。 この灯ろうは、平成2年11月まで神湊灯台(東京都八丈島神湊港)に使用されていたものです。 中のレンズは、六等不動フレネルレンズです。
日き儀台
日き儀は、太陽の動きを利用した日時計です。 明治・大正時代に建設された灯台には日き儀を構内に作り、時刻を知ることができました。 この台は、観音崎灯台の中にあったものを移したものですが、 日き儀は展示室にあります。
霧いかに深くとも嵐強くとも 虚子
昭和23年秋、高浜虚子翁が観音崎を訪れ、緑の岬角に屹然と立つ、白亜の雄姿と灯台に勤める職員が困難とたたかう姿を詠まれたといいます。 この年、海上保安庁が創設され、灯台80周年記念式典が挙行された年でもありました。
汽笛吹けば霧笛答ふる別れかな 橙青
昭和43年、初代海上本庁長官大久保武雄氏が、全国に勤める灯台職員と家族の労をねぎらい、この句を詠まれたといいます。 この年、灯台百周年記念式典が盛大に挙行された記念の年でもありました。
観音崎灯台から引き返してきて、手前にあった岩を切り開いた道を抜けていきます。 灯台の裏手に出て右手へ降っていくと、道が二手に分かれています。 角に立つ道標によると、左へ曲がっていく道は「展望園地680m」、 右手に登っていく階段は「東京湾海上交通センター260m」となっています。 左手の道は以前にも歩いたので、今回は右手の階段を登っていきました。
がくあじさい(ユキノシタ科)
ここ観音崎では梅雨の頃に、がくあじさいの花がみられます。 −特徴− 海岸付近に野生する落葉性低木で、高さ2mくらい。 葉は対性で2cmぐらいの柄があって光沢があり、広台円形で先端は尖りヘリに鈍い鋸歯をもつ。 花は枝の先端に密生する。 少数の大きな装り花(がく片)が周囲を囲み、その内側に多数の小さな花をつける。 花の色は緑色・白色・青紫・紅色と変化する。 園芸用のアジサイはがくあじさいを母体として日本でつくられた。
分布 … 関東南部、伊豆半島、伊豆諸島、小笠原諸島
花期 … 6〜7月
公園利用者の皆様へ
みんなの公園です。次のことを守って楽しく過ごしてください。
施設をこわしたり落書きをしないでください。
花や木を採ったり折ったりしないでください。
鳥類をとったり害を与えたりしないでください。
柵の外や危険なところには入らないでください。
ごみはくずかごに入れるか家に持ち帰ってください。
キャンプ、バーベキュー、たき火をしないでください。
車は園内へ乗り入れないでください。
行商、物品販売をしないでください。
お互いに迷惑をかける行為はしないでください。
 (神奈川県横須賀土木事務所)
何度か折れ曲がりながら続く階段混じりの坂道を登っていきます。 緩やかな高みに着いて岩の間を抜けていくと降るようになります。 沿道に設置された解説板を読んだり、右手の樹木の間から東京湾を眺めたりしながら進んでいきました。
アシタバ(セリ科)
アシタバは本州暖地の浜辺でそのたくましさで目をひくもののひとつでありますが、 ここ観音崎でも岩地の斜面や林内に数多く見られます。 アシタバは「明日葉」の読みであるといわれ、幼葉を摘むと翌日にはもう新しい葉を出すため、 この植物のたくましい生活力を示した言葉といわれています。
「特徴」 多年生の草本で、茎は直立して高さ80〜150cm、 葉は発達のよいもので長さ30cm内外、過日は扁平な楕円形で長さ10mmぐらいになる。
分布 … 房総半島、三浦半島、伊豆七島
花期 … 5〜10月
東京湾海上交通センター
緩やかな坂道を降っていくと、東京湾海上交通センターの脇に出ます。 脇には「県立観音崎公園案内図」があるので参考にしましょう。 今回はここから山手に続く道を通って、花の広場やふれあいの森へと進んでいきます。 突き当たりを左手へ進んで建物の前に出ると、案内板が設置されていました。 東京湾海上交通センターの業務や関係施設配置図などが載っていました。
東京湾海上交通センターのご案内
東京湾海上交通センターは、浦安、木更津(海ほたる)、本牧及び当センター内に設置されている 高性能レーダーで捉えた湾内の船舶映像や気象観測所・船会社・海上保安部署等からの情報をもとに、 東京湾内を航行する船舶に対し安全運行に必要な情報の提供と航路管制を行っています。
 (第三管区海上保安本部 東京湾海上交通センター)
【情報提供の内容】
1. 巨大船等の航行予定、リアルタイムの気象状況、航行制限の状況、海難の発生状況、 漁船の集中状況、工事作業等の情報を提供しています。
・ラジオによる定時放送/毎時の00分〜15分、30分〜45分
・ラジオによる臨時放送/随時
・電話による情報提供/巨大船の入航予定、航行制限の状況及び気象状況
2. 船位、他船の動静、漁船の集中状況、危険な見合い関係等の情報をVHF通信によって提供しています。
・呼出し名称 「東京マーチス」VHF13ch,14ch,16ch,22ch
【航路管制の内容】
1万総トン以上の船舶等から航路通過予定時刻の連絡を受け、航路への入航時刻の調整を行うとともに、 必要に応じ航路の航行制限等を行っています。
北門第二砲台跡
東京湾海上交通センターの先で、道が二手に分かれています。 角に立つ道標によると、右手の道は「観音崎園地380m」、 左手の道は「海の見晴らし台490m」となっています。 左手の道を進んでいくと、左手には北門第二砲台跡が幾つか並んでいました。 地下弾薬庫への入口だったと思われる扉もあったりします。 今では砲座の周囲の囲いだけしかありませんが、大きな大砲だったようです。
北門第二砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため、古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。 この砲台は、明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。 24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが、現在は4砲座と弾薬庫が残っています。
砲台跡のすぐ先にはトンネルがあります。 降り坂の真っ直ぐなトンネルで、先の方には出口が見えていました。 歩いてみたい気持ちもありましたが、残念ながら通行禁止になっています。 その手前から右手に分かれていく道を進んでいきます。 角に立つ道標「海の見晴らし台440m」,「戦没船員の碑460m」が右手の道を指していますが、 二つの板が少しずれた方角を指していたりします。
トンネル内は落盤の危険がありますので、関係者以外の方の通行を禁止しています。
 (第三管区海上保安本部 東京湾海上交通センター)
道標に従って右手の道を進んでいくと、道端にベンチが列を作って並んでいました。 特に眺めがいい訳でもありませんが、樹間からは先ほどの電波塔が頭を覗かせているのが見えたりもしました。
森の植物
三浦半島の自生植物(シダ類)以上は約1千種を数えることができます。その約半数以上が 観音崎に自生し、面積のせまい割に種類が豊富です。植物群落上からみれば、 気候が温暖であるため、シイを主体としてトベラ、ヤブツバキ、ヒメユスリハ、タブ、 ヤブニッケイ、ハチショクススキなどの暖地性海浜植物がよく発達して、 観音崎の地勢的特長を示しています。
観音崎周辺の四季の自然音
鳥類 蛙類昆虫類
1月 ウミネコ、ヒヨドリ、コジュケイ、フクロウ
2月 ヒヨドリ、シジュウカラ、コジュケイ アオガエル
3月 イソヒヨドリ、シジュウカラ、コジュエイ、オジロトビ アオガエル、ヒキガエル、アマガエル クビキリ
4月 アオジ、アカハラ、メジロ、トビ、ホオジロ、コジュケイ、ツバメ アオガエル、ツチガエル、アマガエル クビキリ
5月 アオバズク、オオルリ、さしば、メジロ、キジバト アオガエル、ツチガエル、アマガエル、ウシガエル ハルゼミ、タイボコウロギ
6月 アオバズク、サシバ、キアシシギ アオガエル、ツチガエル、アマガエル、ウシガエル ニイニイゼミ、キリギリス
7月 ゴイサギ アオガエル、ツチガエル、アマガエル、ウシガエル ヒグラシ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、キリギリス
8月 キアシシギ、イソシギ、キュウジョウシギ、ムクドリ アマガエル 同上、コオロギ、ツクツクボウシ、マツムシ
9月 アオバズク、ムクドリ、キアシシギ、イソシギ アオガエル、アマガエル 同上、スズムシ、マツムシ
10月 ウミネコ、ヒヨドリ、ツグミ アマガエル アブラゼミ、ツクツクボウシ、カネタタキ
11月 ヒヨドリ、コジュケイ、ジョウビタキ、ウミネコ カネタタキ
12月 フクロウ、ヒヨドリ、ツグミ、アカハラ、地鳩
ベンチを過ぎて緩やかな散策路を進んでいくとT字路に出ます。 角に立つ道標によると、右手の道は「海の見晴らし台250m」となっています。 左手の道は何も示されてはいませんが、 切通しを過ぎたすぐ先に海上自衛隊の観音崎警備所の水上見張所があって、 道はそこで行き止まりになっています。 ここは道標に従って右手へと進んでいきます。
照葉樹の落葉
観音崎には照葉樹が多くありますが、秋から翌春にかけて葉が落ちてしまう落葉樹とは違い、 照葉樹は秋に落葉することなくそのまま樹上にとどまり、新しい葉が出た5〜6月頃、 徐々に落葉していきます。
【観音崎の主な照葉樹】 マテバシイ、スダジイ、タブノキ、シロダモ
緩やかな降り坂になった道を進んでいくと、道が二手に分かれています。 角に立つ道標によると、右手の道は「海の見晴らし台160m・ふれあいの森1350m」、 左手の道は「観音崎灯台470m・海岸園地700m」となっています。 傍には「県立観音崎公園案内図」があるので参考にしましょう。 今回は右手の道からふれあいの森へと向かっていきます。 車止めを過ぎて、レンガ敷きになった散策路を進んでいきます。
1分ほど進んでいくと、左手にトンネルがあります。 角に立つ道標によると、正面の道は「ふれあいの森1280m」、 左手のトンネルは「海の見晴らし台90m」となっています。 正面へと向かう前に、左手のトンネルを抜けた先にある海の見晴らし台を訪ねていくことにしました。
海の見晴らし台
真っ直ぐなトンネルの中は薄暗くなっていますが、所々には電灯が付けられていて、難なく歩いていけます。 トンネルを抜けて砲台跡の手前を左手から回り込むようにしていくと、 右手に海の見晴らし台があります。 広場の中ほどに、背の低い石造の「見晴らし台」があります。 素人目にはどこも壊れているようには見えませんでしが、この時には立入禁止になっていました。 正面の芝地の先には、海を見渡せる眺めが広がっています。
丘の花のエリア
森の中に切り開かれた小広場に装飾性のある花木より、季節感の強い特色ある花景色をつくりだします。
【スポットの花ゾーン】 セイヨウサンザシ、カルミヤ、ムレスズメ、シバザクラ、フヨウ
戦没船員の碑
トンネルをくぐって元の散策路まで引き返してきて、その先へと進んでいきます。 1分ほど先の所から左手に分かれていく道を見送っていくと、 散策路の左手に、戦没船員の碑の広場があります。 ここにも「観音崎公園」と題した案内板があるので参考にしましょう。
戦没船員の碑
第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、 かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。 高さ24メートルの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、 かってのれん終戦の錨などを配し、太平洋を望む恰好のモニュメントとなっています。
戦没船員の碑建立記
昭和12年7月に端を発したさきの戦争において、がわ国の海運水産界は6万余人の及ぶ 尊い船員の生命と2500隻840万総頓を越える船舶を失うというまことに大きな犠牲を払いました。 それから25年、わが国の海運水産界は再び隆盛をとりもどし、昔日にまさる繁栄をみるに至りましたが、 私どもはこれら多くの戦没の霊を慰めるとともに、世界の海に二度とこのような悲劇を くり返さないようにいたさねばなりません。 こうした私どもの願いは昭和44年7月、財団法人戦没船員の碑建立会の発足となり、 多数の人びとの協力を得て、ここに記念碑を建てて、戦没船員の名簿を納めることになりました。 見渡す限りの大海原の変ることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人びとと、 また沖をゆく船の人びとと共に心をあわせて、この記念碑が永遠の平和の下となりますよう、 深い祈りを捧げるものであります。
 (昭和46年3月25日 財団法人 戦没船員の碑建立会)
殉職船員追悼式の記
昭和46年5月6日、この碑前において、皇太子同妃両殿下ご臨席のもとに、全国遺族代表を招いて 戦没船員追悼式を挙行し、以来毎年5月に式典を実施して参りました。 近来、海難殉職船員の慰霊に対する要望が高まって参りましたので、 本年4月、財団法人日本殉職船員顕彰会を設立し、本日、第一回殉職船員追悼式を執り行い、 以後5月15日を式日と定めて、戦没海難全殉職船員の労苦に思いをいたし、そのみ霊を 慰めるとともに、海洋永遠の平和を祈る式典を行なうことにいたしました。 この追悼式には、大戦中、輸送船船長として活躍された宮越賢治氏の自作能「海霊」が、 鎮魂と平和を祈念して奉納されます。 殉職船員追悼式がわが国民の海洋精神高揚の一助となって、海洋立国の認識を深めることを 切に念願するものであります。
 (昭和56年5月15日 財団法人 日本殉職船員顕彰会)
広場へ入っていくと、右手の芝地には大きなイカリがありました。 「進徳丸」という練習帆船のイカリとのことです。
この錨は、大正13年に神戸高等商船学校の練習船として建造された帆船進徳丸2518総トンの左舷錨であります。 進徳丸は、戦前四本マストの帆船として活躍しましたが、昭和18年、航海訓練所の所属となり、 20年兵庫県二見港において空襲を受け擱座しました。 その後汽船練習船に改造されて昭和37年まで就航しました。 この間31万海里に及び帆走航海と20万海里の汽走航海の輝かしい歴史を有し、 世界に雄飛する幾多の帆船職員を育てましたが、 昭和42年からは財団法人進徳丸保存会により、青少年の海洋訓練施設として神戸商船大学構内に保存されております。
その後の進徳丸
神戸商船大学構内に保存されていた進徳丸は、平成7年1月17日、 阪神・淡路地方を襲った大震災により、設置地盤が崩壊したため、 老朽化していた船体は解体撤去されることになり、 平成8年2月、多くの人々に惜しまれつつ、その波乱に満ちた生涯を閉じました。 解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。
尖った白いモニュメントの間を抜けていくと、テラス状になった所に出ます。 「安らかに ねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻まれた先には、 東京湾や房総半島を見渡せる眺めが広がっていました。 中ほどの高い所には3人の青銅像がありました。
御歌 戦没船員の碑
戦日に逝きし船人を悼む碑の彼方に見ゆる海平らけし
天皇陛下には平成4年1月20日、皇后陛下とこの碑に行幸啓遊ばされお詠みになられました。
皇后陛下御歌
かく濡れて遺族らと祈る更にさらにひたぬれて君ら逝き給ひしか
観音崎戦没船員の碑序幕式 激しき雨の中にとり行はれぬ
昭和46年5月6日、皇太子同妃両殿下の行啓を仰ぎ、雨降りしきるなか戦没船員追悼式を執り行いました。 御歌はその時賜ったものです。 御心が末永く語り継がれることを念願いたします。
 (財団法人 日本殉職船員顕彰会)
戦没船員の碑の広場から散策路に戻って、レンガ敷きの道をその先へと進んでいきます。 沿道には樹木が生い茂っていて、雰囲気のいい道が続きます。
光を求める競争
周りの木々は、途中にはほとんど葉がなく、上にばかり伸びています。 これは、光を求めて周りの木々と競争になるからです。 芽を出したらまず上の方に伸び、その後横へ枝を広げていきます。
伝説 −船守観音−
昔、仏崎と呼ばれていた観音崎にはウミウと大蛇が住んでいました。 彼らは船が通るたびに航海の邪魔ばかりしていました。 村人が困り果てていると、行基という僧が仏像を彫り洞窟に収め、大蛇の霊をまつりました。 すると海は静まり無事に航海できるようになりました。 村人はそれを喜んで、小さなお堂を建てて仏様をまつったのですが、 誰と言うともなく「船守観音」と呼ぶようになりました。 現在、観音寺の観音様は消失してしまい存在しません。
緩やかで広い散策路を進んでいくと、右手が少し膨らんで展望地のようになった所がありました。 樹木が低くなっていて、東京湾を見渡すことが出来ました。 LNG船でしょうか、海には丸いドーム状のものを幾つか積んだタンカーがゆっくりと航行していました。 手前の山には、先ほど訪ねてきた東京湾海上交通センターの電波塔も頭を覗かせていました。
丘の花のエリア
濃い森の中に自生する貴重な草花(タシロラン)を保護するとともに、園路沿いには野生種の花木により彩りをつくりだします。
【自然生態の保全ゾーン】 タシロラン、ガマズミ、コマユミ、ムラサキシキブ、アセビ
観天望気 −動植物編−
各地に伝わる古くからの天気のことわざや言い伝えの中には、 地元の人々の経験から生み出されてきて、科学的な照明ができるものも多くあります。 植物を見て、明日の天気を予測してみましょう。
Q.次のうち晴れるのはどれでしょう?
)クモの巣が朝かかっている。
(2)タンポポの花が閉じる。
(3)スズメが朝早くさえずる。
)木の葉の裏が見える。
メガネ橋
展望地を過ぎていくとメガネ橋が架かっています。 下は岩盤を深く切り開いた切通になっていました。 下から見上げるとどんな感じになるのだろうかと興味が湧いてきたりもします。 今では使われていない道とのことで、落ち葉が深く積もっている様子でした。
切り通し
メガネ橋の下は、切り通し(切り開いた道)になっています。 この切り通しは、明治時代に軍の資材運搬通路として開かれたようです。 現在は使われておらず植物が繁茂し、中でもシダの仲間が多く見られます。
観天望気 −天空編−
各地に伝わる古くからの天気のことわざや言い伝えの中には、 地元の人々の経験から生み出されてきて、科学的な照明ができるものも多くあります。 空を見て、明日の天気を予測してみましょう。
Q.次のうち言われているのはどれでしょう?
(1)朝焼けは晴れ、夕焼けは雨。
)うろこクモがでた翌日は雨または風。
(3)雲が西へ行くと晴れ、東へ行くと雨。
)多くの星が遠く見えれば雨。
海の子とりで
メガネ橋を渡っていくと、すぐの所に海の子とりでがあります。 芝地になった丘には、風のデッキ…船のデッキ…無人島デッキなどを結ぶ遊具が続いています。 花の広場とも隣接していて、広い場所になっています。 地区の子供会だったのでしょうか、この時には親子連れの団体が来ていて賑わっていました。 木の実の解説板を眺めていると、写真の上をカタツムリが這っていました。 雨後だったので活発に活動できるようで、ツノを伸ばしてゆっくりと動いていました。
木の実
植物は花を咲かせ、やがては実を付けます。 この森で目につく木の実を紹介します。
【観音崎の木の実】 カジイチゴ(5〜7月)、クワ(7〜8月)、ガマズミ(9〜10月)、スダジイ(秋)、 マテバシイ(秋)、クサギ(秋)、オオムラサキシキブ(秋)、シロダモ(10〜11月)
四季の植物観察 −エノシマキブシ−
エノシマキブシはキブシの変種で、キブシより枝は太く、葉や花が大きく、海岸近くの山地に生えます。 3月、樹木の中では一番に穂のような花を咲かせます。 公園のいたる所で見られます。
分布 … 関東南部の海岸に近い所にはえる
花期 … 3〜4月
花の広場
海の子とりでを過ぎていくと十字路があります。 角に立つ道標によると、右手の道は「三軒家園地370m・横須賀美術館590m・青少年の村970m」、 正面の道は「防衛大学1100m」となっています。 左手には大きな石柱が何本も立っていて、その向こう側には草原が広がっていました。 ここが花の広場のようで、石柱のひとつに「花の広場」と刻まれていました。 季節外れだったのか、一見したところ花は咲いてなさそうでした。 ここにも「観音崎公園」の案内図があるので参考にしましょう。 右手の道は三軒家園地や横須賀美術館へと降りていけるようですが、 今回は正面に続く広い散策路を進んでいきました。
丘の花のエリア
伸びやかな原っぱの中で草花に触れ合うことができます。 落葉樹を主体に、花だけでなく紅葉や果実、葉の色も楽しめる、季節により変化する多様な「花」の広場です。
【"丘の花"拠点ゾーン】 ヤマツツジ、セイヨウアジサイ、キツネノカミソリ、タチツボスミレ、ヒガンバナ
虫の観察 −セミのぬけがら探し−
観音崎には7種類のセミがいますが、ぬけがらで区別できます。 中でもアブラゼミは街のなかに多く、自然の残っている所では少なくなります。 公園の中でぬけがらを探してみましょう。
【観音崎にいるセミ】 クマゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ、チッチゼミ、ニイニイゼミ
走水展望広場
引き続き樹木に覆われていて、広くて雰囲気のいい散策路が続いています。 花の広場へ入っていく道を左手に分けて更に進んでいくと、 こんもりとした塚のような所の手前で、道が左右に分かれています。 正面には「ふれあいの森」の案内図があるので参考にしましょう。 先ほどの花の広場を過ぎた辺りからが「ふれあいの森」になるようです。 正面にあるのは走水展望広場で、右手はふれあいの水辺やいこいの水辺へ降っていく道、 正面は森の広場や果実の森などへ続く道になります。
走水展望広場は、歩いてきた方角からは一里塚のようにも見えますが、尾根の肩のような感じの所になっています。 上に登ってみるとテーブルベンチが一組あって、脇には解説板もありました。 山際の高みへ登ってみると、展望広場の名に相応しく、東京湾を一望できる眺めが広がっていました。 解説板によると、左手には横浜のランドマークタワーやベイブリッジや鶴見つばさ橋が、 正面には第一海堡・第二海堡・第三海堡や東京湾アクアラインが見えるようです。 その向こう側には川崎・東京・千葉・富津・君津などの街も見えるようですが、 この時には遠くは霞んでいて、あまりはっきりとはしませんでした。
東京湾の遠景
神奈川県立観音崎公園は、三浦半島のほぼ中ほどの東京湾内に突き出した岬に位置し、 よく晴れた日には、房総の山々や東京湾に出入りする船、横浜のランドマークタワーなどが眺められます。
走水展望広場からは道が二手に分かれていますが、 今回は「いこいの水辺」や「ふれあいの水辺」へと向かっていきました。 道標「いこいの水辺・ふれあいの水辺280m」に従って、右手に続く階段混じりの道を降っていきます。 これまでよりも道幅が狭まってきますが、散策路としてはしっかりとした道になっています。 横木の階段状になった所もあったりしますが、段差は低くて歩き易くなっていました。 3分ほど降っていくと、道が二手に分かれています。 角に立つ道標によると、右手の道は「横須賀市走水公園170m」、 左手の道は「いこいの水辺・ふれあいの水辺130m」となっています。 ここは左手の道を進んでいきます。 左手へ進んでいくと、すぐに階段が左手に分かれて降っていきます。 角に立つ道標によると、正面に続く道は「いこいの水辺170m」、 左手の階段は「ふれあいの水辺110m」となっています。 いずれの道を進んでも「いこいの水辺」へ出られますが、 今回は「ふれあいの水辺」を経ていくべく、左手の階段を降っていきました。
ふれあいの水辺
階段を2分ほど降って緩やかになってくると、道が二手に分かれていますが、 ふれあいの水辺は左手の道のすぐ先にあります。 前日の雨による水溜りが残る道を進んでいくと、木道が架けられた池に出ました。 ここがふれあいの水辺になるようです。 谷筋にあるこじんまりとした池で、静かな佇まいになっていました。 木道の両端には解説板が設置されていました。
池で見られるトンボ
シオカラトンボ、オニヤンマ、ギンヤンマ、アジアイトトンボ、オオシオカラトンボ、ヤブヤンマ
池で見られる生物
メダカ、ヨシノボリ、アメンボ、ハイイロゲンゴロウ、ニホンアカガエル、シュレーゲルアオガエル
いこいの水辺
木道を渡り終えてその先へ進んでいくと、正面にはいこいの水辺があります。 手前で分かれてきた道が右手から合流してきます。 その道を合わせて池を左手から回り込むようにして進んでいくと、池の畔に東屋が建っています。 正面には集合住宅がすぐ傍まで迫ってきています。 池の右手へ進んだ所にも「ふれあいの森」の案内板が設置されているので参考にしましょう。 東屋の先から左手の山へ登っていく道が分かれてきます。 道標によると、右手の道は「横須賀市走水公園220m」、 左手の道は「森のロッジ340m・アスレチックの森310m」となっていますが、 今回は走水神社へ向かうべく、左手に続く階段混じりの道を登っていきました。
池で見られる水草
オオフサモ、オオカナダモ、アサザ、コウホネ、スイレン、マコモ
池の左手に続く階段を登っていきます。 緩やかになった舗装路を進んでいくと、幅の広い横木の階段が始まります。 コンクリート補強された崖を過ぎて土の道になってくると、道が二手に分かれています。 ちょっとした広場のようにもなっていてテーブルベンチが設置されていたりもします。 角に立つ道標によると、右手の道は「果実の森280m」、 左手の道は「森のロッジ180m・アスレチックの森150m」となっています。 左手にはローラー滑り台のようなものが見えていました。 アスレチックの森や森の広場などへと続いているようですが、 今回は走水神社へ向かって右手の道を進んでいきました。
照葉樹の森に住む爬虫類
アオダイショウ、シマヘビ、ヤマカガシ、マムシ、トカゲ、ジムグリ
短い横木の階段を登っていくと、すぐに緩やかな道になっていきます。 竹柵が続くようになった道を進んでいくと、左手に道が分かれていきます。 角に立つ道標によると「森のロッジ210m」となっていますが、 「走水神社250m・国道16号300m」に従って、正面に続く道を進んでいきます。 引き続き竹柵が続く道を進んでいくと、小さな広場がありました。 ベンチも設置されていましたが、手前の樹木に遮られて、展望はあまり良くありません。 広場の左手から続く横木の階段を降っていきます。
照葉樹の森に住む昆虫
モンキアゲハ、ムラサキシジミ、ヒナカマキリ、ホシベニカマキリ、アオオサムシ、ヒメマイマイカブリ
両側に笹竹や細木などが生い茂る横木の階段を降っていきます。 正面の樹間から街や海を眺めながら2分半ほど降っていくと、緩やかなになった踊り場のような所に着きました。 右手には解説板やベンチが設置されていました。 そこを過ぎて再び始まる横木の階段を1分ほど降っていくと、金網柵に突き当たります。 その右手の開いている所を抜けていくと住宅地に出ます。 ここにも「県立観音崎公園 ふれあいの森」の案内図があります。 観音崎公園はここで終りになります。 短い坂を降っていくと左右に通る道路に出ます。 角に立つ道標によると、右手の道は「国道16号100m」、左手の道は「果実の森420m」となっています。 正面には駐車場があって、手製の道標「走水神社近道」がその駐車場を指しています。 駐車場の先にはこんもりとした森が見えています。 あれが走水神社なのだろうと思って、駐車場を抜けていくことにしました。
(写真は金網柵を出た所から振り返って写したものです)
照葉樹の森に住む鳥
コゲラ、メジロ、シジュウカラ、ヒヨドリ、キジバト、シメ
走水神社
駐車場の奥にある車止めを過ぎて境内に入っていくと、左手に登っていく石段があります。 登り口には大きな船の舵があって、弟橘媛命の青銅画が取り付けられていました。 左手の石段を登っていくと走水神社の社殿があります。 拝殿の奥にある本殿には、5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 右手には「露国機械水雷」や稲荷大明神や別宮があり、奥にはかっぱを祀った水神社もありました。 岩壁に掘られた洞に納められた赤い小祠の中を窺ってみると、三体の小振りの像がありました。 人間のようには見えなかったので、かっぱを現した像のようでした。
横須賀風物百選 走水神社
走水の地名は、すでに古事記(712年)や日本書紀(720年)の中に表れています。 大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、 この地方に古東海道が通じておりました。 走水神社の祭神は、日本武尊とその后弟橘媛命のニ柱です。 神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。 伝説では、景行天皇の即位40年(110年)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ 渡られるにあたり、村民に「冠」を賜わりましたので、冠を石櫃に納めて、その上に社殿を建て、 日本武尊を祭ったことに始まると伝えています。日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、 いまにも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、
 さねさしさがむのをぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも
の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。 弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、 明治42年、この神社に祭られました。 明治43年6月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられました。 社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、 航海の安全を願って国際婦人年(昭和50年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、 走水の住人大伴黒主が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、 包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和48年に建てられたものです。
 (横須賀市)
水神社
かっぱ(河童)河わらは→河わっぱは想像上の動物で、子供の形をし頭上の皿に水が入っている。 子供や動物を水中に引き込み、その血を吸うという。 悪さの反面、泳ぎの達人で、水の化身、水神として尊ぶ所もある。 漁業の手引きをして大漁をもたらしたり、又遭難した時に人命救助をするとも伝えられえいる。 ここ走水は特に水との縁が深く、昔から水神として祀られている。
 (平成18年正月吉日 走水神社 氏子総代)
走水神社の社殿の左手から少し登った所に弟橘媛命記念碑があります。 表面には御歌が刻まれ、裏面には謂れが刻まれています。 振り返ると、走水の街や東京湾などを見渡せる眺めが広がっています。 記念碑の左手から続く階段の先に立つ「神明社」の扁額の架かる鳥居を過ぎて登っていくと、 須賀神社・神明社・諏訪神社の石祠が三つ並んでいる所があります。 更にその上へ山道を登っていくと車道へ出られます。
弟橘媛命の記念碑
日本武尊、弟橘媛命の御遺蹟を偲奉りて
(弟橘媛命の記念碑裏面 東郷平八郎閣下の草案に成ると曰ふ)
嗚呼此は弟橘媛命いまはの御歌なり。 命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ、駿河にては危き野火の禍を免れ、 此の走水の海を渡り給う時無く暴風に遭ひ、 御身を犠牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり。 御歌に溢るる心情はすべて夫君の御上に注ぎ、露ばかりも他に及ばず。 其の貞烈忠誠まことに女子亀鑑たるのみならず、亦以て男子の模範たるべし。 平八郎等七人相議り、同感者を得、記念を不朽ならしめむと御歌の御書を 竹田宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り、彫りてこの石を建つ。
さねさしさがむのをぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも
 (勲一等竹田宮昌子内親王御染筆)
走水神社(はしりみずじんじゃ)バス停
石段を降って引き返してきます。 包丁塚・針の碑・歌碑・神輿庫・湧水などを訪ねながら走水神社を後にします。 大きな鳥居を出た先の道を進んでいくと、すぐに国道16号に出ます。 その左手20mほどの所に走水神社バス停があります。
馬掘海岸駅から横須賀中央駅にかけての京浜急行本線の駅や横須賀駅(JR横須賀線)まで、 横須賀駅行きのバスが1時間に3本程度あります。