戸塚宿
散策:2008年06月下旬
【街角散策】 戸塚宿
概 要 戸塚宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋から5番目の宿場になります。 宿場制度が始まった年から3年遅れて成立した宿場です。 前後には権太坂や大坂という難所があり、 江戸日本橋から丁度一日の道程でもあったことから多くの旅人が宿泊し、 神奈川県内では小田原宿に次ぐ規模の宿場でした。
起 点 横浜市 東戸塚駅
終 点 横浜市 大運寺バス停
ルート 東戸塚駅…白旗山公園…白旗神社…品濃坂…海道橋…赤石橋…瑞穂神社…大山道道標…不動坂交差点…不動坂…五太夫橋…寳蔵院…江戸方見附跡…八幡神社…戸塚一里塚跡…木之間稲荷社…吉田大橋…大踏切…戸塚駅…清源院…澤邊本陣跡…羽黒神社…海蔵院…八坂神社…冨塚八幡宮…冨塚…上方見附跡…第六天…大坂…お軽・勘平戸塚山中道行の場…原宿一里塚跡…浅間神社…大運寺…大運寺バス停
所要時間 3時間30分
歩いて... 戸塚宿の辺りの旧東海道は、現在では大部分が国道1号になっていて、車道を歩く部分がかなり多いコースです。 「歴史の道」として設定されてはいるようですが道標類は設置されておらず、 往時の遺構などもほとんど残っていません。 しかし、僅かにある解説板などによって往時を偲ぶことができました。
関連メモ 柏尾川, 保土ヶ谷宿, 藤沢宿, 上矢部ふれあいの樹林
コース紹介
東戸塚(ひがしとつか)駅
東戸塚駅(JR横須賀線)から歩いていきます。
東口から地上に降りると、左手のコンビニの先に「歴史の道 東海道戸塚宿周辺散策案内図」があって、 今回歩くコースがほぼ載っているので参考にしましょう。 戸塚宿と保土ヶ谷宿の境界は境木地蔵のある武相国境になりますが、 今回はその少し戸塚宿寄りの品濃坂の途中から歩いていきます。 駅前にあるバスターミナルに沿って右手へと進んでいきます。
(境木地蔵から品濃坂にかけての道は「保土ヶ谷宿」を参照)
歴史の道 東海道戸塚宿周辺散策案内図
東戸塚駅周辺の旧東海道は、保土ヶ谷方面から権太坂(一番坂)、二番坂の難所を越えたところにあり、 焼餅坂、品濃坂など大変起伏に富んだ地形になっています。 当時、焼餅坂の傍らには、坂を登って一息ついた旅人を相手に、 坂の名の由来と言われている名物の焼餅を売る茶店が開かれていました。 焼餅を焼く様子は浮世絵にも見ることができます。 また、戸塚宿方面から、難所である品濃坂を越えたあたりは尾根道となっており、 遠くの山々を望み、風光明媚なところでした。
 (戸塚区役所)
白旗山公園
東戸塚駅前交差点を渡って、ビルの間に続く坂道を登っていきます。 3分ほど登って十字路まで来ると、右手に白旗山公園の入口があります。 車止めの先に続く石段を真っ直ぐ登っていくと、小広い所に着きました。 周りは樹木に囲まれていてベンチがふたつ設置された静かな所です。 左手のこんもりとした所には「富士浅間大菩薩」と刻まれた石碑などが幾つかありました。 旧字体で刻まれていて無学の私にはよく分かりませんでしたが、 鎌倉郡品野村に造った富士浅間信仰の塔碑を、 区画整理に伴って白旗神社の中に移転したというような内容でした。
 先人造立富士浅間信仰塔碑前 後参基_鎌倉郡品野村通称御不 二山頂上矣 歳祀而壹百陸拾餘 事 今日偶該當区割整理地區塔 碑遷白旗神社神域 事専據新一 開発興業株式会社厚志 字縄島 石材店刻焉 依嘱青屋笠原清一  撰移轉之辞而爾云
白旗神社
白旗山公園の高みの左手の下には白旗神社がありますが、 社殿が造り直されるのか、この時には本殿と拝殿が建っていた礎石と思われる所に白い幕屋があるだけでした。 左手には赤い鳥居が二つ並んでいて、その先に小振りの祠が二つありました。 右手にも石碑などがありました。 幕屋の正面には石段が降っていて、その下には狛犬や鳥居や手水舎などがあったので、 そちらが正面の参道になるようでした。 神社の由緒を記したものは見かけませんでしたが、源義経を祭る神社のようです。
(写真は石段の下にある鳥居の所を写したものです)
品濃坂
白旗神社から元の坂道まで引き返して、正面に続く坂道を更に登っていきます。 植え込みや街路樹などが続いて雰囲気のいい坂を登っていくと、 県道17号(環状2号)の環2平戸交差点に出ます。 そこを右折して車道を降り気味に進んでいきます。 品濃坂歩道橋を過ぎた先から右手へ分かれていく道へ入っていくとすぐに二手に分かれているので、 左手の坂を降っていきます。 手元の地図によると、この辺りは品濃坂というようです。 今ではそれほどの傾斜ではありませんが、往時はかなり急な坂道であったようです。
品濃坂
品濃と平戸を分ける急坂。 現在は環状二号線の歩道橋をはさんで両側に坂が通じています。 坂の上から下までの高低差は約40mもあります。
 (戸塚区役所)
境木地蔵の辺りにあった案内図によると、焼餅坂を降ってから登っていく坂が品濃坂と書かれていましたが、 そこから品濃一里塚のある高みを越えて戸塚宿方面へ降っていく坂も品濃坂というようです。 武相国境を越える坂は、保土ヶ谷宿寄りを権太坂、戸塚宿寄りを焼餅坂というように別の名前になっていますが、 この「品濃坂」という名前は、高みを挟んだ両側の坂の呼称のようです。
海道橋
傾斜の急な坂道を降っていくと、程なくして緩やかになってきます。 左右の道を見送って真っ直ぐ進んでいくと、車道の高架の下にある坂下バス停を過ぎていきます。 立派な門構えの民家などを過ぎて道なりに進んでいくと、駐車場の先で道が四方に分かれています。 案内などは見かけませんでしたが、左から二つ目の路地を進んでいきます。 突き当たりを右折していくと、すぐに川上川に架かる霞橋があります。 その手前を左折して川沿いに進んでいくと、程なくして国道1号東戸塚駅入口交差点に出ます。 右手には海道橋がありますが、左手の横断歩道を渡って、 その先へと続く川上川に沿って進んでいきます。
赤石橋
程なくして川上川が右手へ離れていくと海道橋バス停があります。 半開きの目をした水鳥の絵が描かれた可愛いバス停です。 そこを過ぎていくと、左手には柏尾川が流れるようになります。 川面にいるカモを眺めたりしながら柏尾川に沿って進んでいきます。 外郷橋バス停の先に架かる外郷橋を見送っていくと、再び国道1号に出ます。 そのすぐ左手に赤石橋が架かっています。 両側の欄干の石には浮世絵風の絵が刻まれていました。 橋を渡った所から道が二手に分かれています。 国道1号は真っ直ぐに続いていますが、旧東海道は左手へと分かれていく道になります。
こんもりとした森を左手に見ながら進んでいきます。 国道1号を跨ぐ右手の道路の高架が次第に高くなってくると、再び国道1号に出ます。 その出口に立つ電柱には「旧東海道」の貼り紙があって、今歩いてきた道を指していました。 戸塚区役所や神奈川東海道ルネッサンス推進協議会が設置したようですが、 少し曲がって外れそうになっていました。 どうせなら貼り紙ではなくて、しっかりとした独立した道標や看板などにした方がいいように思いました。 国道1号に出て上柏尾歩道橋を過ぎていくと、 左手へ入っていく路地に「瑞穂神社」を示す看板があったので、 どんな所かと思って立寄っていくことにしました。
瑞穂神社
横浜柏尾郵便局を過ぎて坂道を登っていきます。 分岐道には「瑞穂神社」を示す看板が設置されているので、それに従って進んでいくと、 国道から4分ほどで、山際に「瑞穂神社」の表札が掲げられた石門がありました。 その脇にある掲示板には、神道に関する解説や、 この瑞穂神社が山蔭神道という古神道の神社であることなどが連綿と記されていました。 石門から続く石段や石畳の坂道を登っていくと、正面に社務所がありました。 その手前から右手へ分かれていく道をひと登りすると、瑞穂神社の社殿がある小広い境内に着きました。 敷かれたゴザの上に丸い座布団が幾つも置かれた拝殿の奥に本殿がありました。 本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 境内にあった立て札によると、主祭神は天之御中主大神、 配神は丹生都比売神・火産霊神とのことです。 神社の創建は新しいようですが、 古事記における最高神である天之御中主大神を祭神にしているところをみると、 古神道の奥深さを感じたりもしました。
瑞穂神社
由緒 瑞穂(水火)神社は、文部大臣認証宗教法人「山蔭神道」の神社であり、 元宮は愛知県の幸田町にあり、「貴嶺宮」と云います。 山陰神道は約2000年の伝承を有する古神道であり、 宗家の山蔭家は応神天皇の御代より歴代宮中に仕え、国家の重要な祭務を司って参りました。 当地は、旧名「川上村柏尾」と称し、それは、奈良県吉野郡樫尾に由来し、 鎌倉時代の移住者により開かれた土地であります。 もともと水源の地にして、今に湧水は絶えません。 里人に、水神の眷族「龍神」の信仰がありましたが、今は隠れてしまい、 「霊験の秘儀」を見失ってしまいました。 そこで、平成9年に、天地創造の神である太元霊を主祭神に、 その御顕れ神である水の神「丹生都比売神」と火の神「火産霊神」を併せ祀り、 瑞穂(五穀)を養う神として「瑞穂神社」を建立したのであります。
 (出典:パンフレットより抜粋)
瑞穂神社から国道1号に戻ってその先へ進んでいきます。 柏尾バス停の先の柏尾小学校入口交差点を直進していきます。 王子神社前交差点を過ぎポーラ前バス停を過ぎていくと、 コンビニの先に白壁の蔵がありました。 いつの頃から建っているのは分かりませんが、昔のこの辺りの雰囲気が伝わってくるようでした。 今でも現役で使われているようで、上の方にある小窓が開いていたりもしました。
大山道道標
蔵を過ぎていくと、道路の右手に「柏尾の大山道入口 ここを入る」の看板が立っていて、 右手に分かれていく道を指していました。 旧東海道は正面へと続いていますが、ちょっと立寄っていくことにしました。 右手の「柏尾通り大山道」を50mほど進んでいくと、小振りの祠が建っていました。 手前には「従是大山道」と刻まれた石柱や石碑などがありました。 左手には「雨降山」,「松戸宿」と刻まれた大きな石灯籠もありました。 祠の中を伺ってみると、「是より大山道」と刻まれた石柱がありました。
横浜市地域史跡 柏尾の大山道道標
大山は江戸時代から広く関東一円の人びとのあいだに信仰されていました。 大山道はこうした参詣者の道で、旧東海道から大山への入口が柏尾です。 大山道への道標は次ぎの四基で、ほかに燈篭一基と庚申塔一基があります。
(1) 寛文10年(1670)の建立。建立者は柏尾村。五處の橋供養をかねます。
(2) 正徳3年(1713)の建立。半跏の不動明王像(石造)を主体とします。建立者は柏木藤左衛門ほか。
(3) 享保12年(1727)の建立。建立者は江戸神田三河町の商人越前屋小一兵衛。
(4) 明治5年(1872)の建立。建立者は下総葛飾郡加村、船大工鈴木松五郎。
庚申塔は延宝8年(1680)、柏尾町施主15人により、 燈篭は元治2年(1865)、松戸宿の商人によって建立されたもので、大山信仰のひろがりが知られます。 道標をふくめた六基は、近代になって現在地に集められたと考えられます。
 (横浜市教育委員会)
国道1号に戻ってその先へ歩き始めると、道路の左側の上に大きなモチノキがありました。 高さ19mあって神奈川県で最大の木なのだそうです。
神奈川県指定天然記念物 益田家のモチノキ
モチノキ(モチノキ科)は暖地に生育する雌雄異株の常緑広葉樹で、高さは通常3〜8メートルに達し、 4月頃に黄緑色の群生した小さな花を咲かせ、球形の果実を付けて赤く熟する。 この樹皮より鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり、 古くから人々によく親しまれている木である。 指定された「益田家のモチノキ」は、国道1号の旧東海道に面し、 樹高18メートル、目通り2.4メートル、根回り3.1メートルの雌株と、 これより0.75メートルほど離れて並ぶ、 樹高19メートル、目通り3.2メートル、根回り4.9メートルの雌株の2本である。 これほどまで生長した大木は他にほとんど類を見ないばかりか、共に美しい樹冠で接しているのも珍しい。 「相模モチ」の愛称で郷土の人たちから愛され、なじまれていきたこのモチノキ2本は、 稀有な大木となって今なお樹勢もきわめて旺盛であり、 旧東海道に面してきたという歴史的背景もあるので、将来にわたり永く保護することが望ましく、 神奈川県指定天然記念物に指定するものである。
 (神奈川県教育委員会)
かながわの名木100選 益田家のモチノキ
樹形が整い樹勢も旺盛な県下最大のモチノキの巨木である。 古くから「相模モチ」の愛称で親しまれている。 県の天然記念物に指定されている。
 樹高19メートル、胸高周囲2.4メートル、樹齢約300年(推定)
モチノキは、本州から沖縄の照葉林帯に分布する常緑高木で、 庭木として植えられるほか、樹皮からはトリモチが作られる。 樹高20メートル、胸高周囲4メートル、樹齢約500年に達するものもあると言われている。
 (神奈川県)
不動坂交差点
モチノキを過ぎていくと、国道1号が二手に分かれています。 正面へ続く道はバイパスで、左手の道が戸塚の街を通っている道になります。 正面の道のすぐ先には不動坂交差点があって、 そこから右手へと大山跨線橋を渡っていく県道401号が分かれていきます。 左手の国道1号の手前から更に左手へと細い道が分かれていて、旧東海道はその一番左手の道になります。 道の脇には大きな桜の木が生えていて、袂には「奉祝の櫻」と刻まれた石碑がありました。 緩やかな坂を少し登った所には「奉祝の松」という木標が立つ松の木もありました。
奉祝の櫻
昭和34年4月10日、皇太子殿下御成婚に当り、王子神社氏子一同心より謹んで奉祝させて戴きます。 両殿下の千代に八千代に永き御降服と皇室の彌栄を祈願致して、 日本国の国花である櫻の苗木を当時樹高50米3糎、枝張50糎の苗を記念植樹致しました。 20年を経た今日、皇室の繁栄と我が国の隆昌を象徴する如き樹勢豊かな櫻と成りました。 御成婚30年を記念し「奉祝の櫻」と銘して木標を設置、 昭和63年12月6日、更に伊勢神宮第61回式年御遷宮の「お白石持」に一日神領民として奉仕を記念し、 木標を改め本石標を建立する。
 (平成5年8月吉日 王子神社氏子中)
不動坂
僅かな高みを越えて緩やかに降っていく旧東海道を進んでいきます。 この辺りは不動坂と呼ばれているようです。 坂道を降っていくと、道端に「史蹟への小径」と刻まれた石碑が立っていました。 裏面には「護良親王 首洗井戸へ二丁」の文が刻まれていました。 そこから左手へ道が分かれていたので、その先に首洗井戸があるのかも知れませんが、 今回は訪ねるのを省略して、そのまま真っ直ぐに進んでいきました。 赤レンガの倉庫のような建物を過ぎていくと、屋根付きの土塀が続く民家がありました。 立派な門構えで古くからある旧家のようでした。
史蹟への小径
歴史は 古く 永く そして悠久に 継承される
護良親王 首洗井戸へ二丁
御料馬の供養と伝はる馬頭観世音碑へ五丁
建武中興六百五拾年記念事業委員会 建立
 (平成元年11月12日 用地寄附秋元)
五太夫橋
生花店を過ぎていくと舞岡川沿いの道に出ます。 正面には元舞橋が架かっていますが工事中のようでした。 橋の手前を右折して舞岡川沿いに進んで舞岡街入口バス停を過ぎていくと、再び国道1号に出ます。 そのすぐ左手にある五太夫橋を渡ってその先へと進んでいきます。 ここから今回の終点の大運寺バス停までの旧東海道は、国道1号を歩くルートになります。 自動車が引っ切り無しに通っていて、旧東海道を散策しているという雰囲気が薄れてしまうのが難点ではあります。
「五太夫」とは人の名前のようで何か謂れがありそうだと思って後で調べてみると、 小田原北条氏の重臣であった三河武士の石巻五太夫康敬という人のようでした。 天正18年(1590)に豊臣秀吉に謁見しますが、北条氏の上洛がないことを攻められて駿河の三枚橋城に監禁され、 小田原落城の後、身柄を徳川家康に預けられ、泉区中田町に蟄居させられましたが、 後に国替えを命ぜられ、江戸に赴く際にこの橋付近で会見したという言い伝えが、 この橋の名前の由来になっているようでした。
寳蔵院
ブリジストン前バス停を過ぎていくと、「準別格本山 寳蔵院」と刻まれた石柱が立っています。 そこから入っていくと坂を登った所に寳蔵院の本堂がありました。 手前には藤棚があって石碑や石仏などが取り囲んでいました。 本堂の左手には慈母観世音や地蔵が並んでいて、「水子子育 地蔵菩薩」の赤い幟も立っていました。 その奥に「地花堂」の扁額が掲げられたお堂がありました。 中を伺ってみると、小振りの地蔵が沢山並んでいて、手前には綺麗な花束が沢山お供えされていました。
謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、 平安時代初期、弘法大師が東国巡錫した時、現在の戸塚税務署辺りの大日谷に留まって、 東高野と称するお寺を建立したことに始まり、中興は阿闍梨朝興法印とのことです。 本尊は不動明王で戸塚不動尊として近隣に名を馳せたようです。 江戸時代初期の寛永9年(1632)に戸塚駅前へ移転し、更に昭和18年に現在地へ移転したようです。
戸塚不動尊
寳蔵院は天文16年(1547)に中興され、御本尊は寛永9年(1632)御作の不動尊である。 以来衆生を守護し導く如来界の使者として御活動下さっている。
 (真言宗準別格本山東峰山寳蔵院、戸塚観光協会)
先ず、合掌 懺悔、(赤ちゃんごめんなさい)
次、オンカカカビサンマエイソワカ (南無お地蔵様でも結構)
お地蔵様は赤ちゃんの守り本尊です。
江戸方見附跡
大型スーパー店を過ぎていくと、ファミリーレストランの前に「江戸方見付跡」と刻まれた石碑があります。 ここが戸塚宿の江戸側の入口にあたる江戸方見附があった場所になります。 ここから吉田町・矢部町・戸塚町の三町にまたがる街並みが東海道の宿場町として整備されたのは慶長9年(1604)で、 隣の保土ヶ谷宿よりも3年ほど遅れて成立したようです。
(後日に来てみると、新たに「旧東海道 江戸方見付跡」の標柱が出来ていました)
江戸方見付跡
江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、 その両脇に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。 貴賓の送迎はこれから行はれ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。
旧東海道 江戸方見付跡
見付とは、宿場の出入り口のことです。 ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。 旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。 参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。
 (戸塚区役所)
元町交差点までくると、左手に「八幡神社参道」と刻まれた石柱がありました。 どんな所かと思って、左手へ分かれていく道へ入っていきました。 緩やかな登りが続く道を4分ほど進んでいくと、左手にこんもりとした森が現われました。 手前には「八幡宮」の扁額の架かる鳥居や石碑などがありました。 そこから続く参道を進んでいきました。 両側には桜の大木が並木を作っていました。
八幡神社
桜が木陰を作る参道を進んでいきます。 参道を横切っている道を過ぎてその先の藤棚の下をくぐっていくと、 鉄棒やブランコなどがある「子供の遊び場」がありました。 そこから正面に続く石段を登っていくと八幡神社の社殿がありました。 朱塗りの柱と白壁になった真新しい社殿になっていました。 境内には圧倒されるほど巨大なシイの木があって、横浜市の名木古木にも選ばれているようでした。
旧本田遺跡之碑
八幡大神由緒
祭神 第十五代應神天皇  例祭 九月十五日
鎮座地 戸塚区吉田町字東ノ峯1263番地
當地累代の名主渡邉三左衛門の祖先が永久2年11月15日(紀元1774、西暦1114)當町字中村越に勧請したのが始めであって、 其の凡そ650年後の明和2年9月6日、現在地に遷座した。 爾来東ノ峯八幡と俗称し、當地一帯を八幡山と呼ぶ。 明治までは東峯山金剛寺寶蔵院持、現在は神社本庁所管。 本殿は安政5年4月に改築し、昭和37年には再建百年記念祭を行った。 拝殿は昭和41年4月16日の改築である。 社前の椎の大木は源義家が東征の折、休息したとの伝承に因み、「白旗の椎」と呼び、横浜市指定の名木である。
 (昭和46年4月16日)
絵馬の由来
神社に供物を奉献することは古代から行はれて居り、神馬の献上もその一つであったが、 平安時代の中頃になると、生き馬にかえて土馬、木馬、紙馬の献上が行はれ、 やがて神馬の姿を絵に描いた額を奉献するやうになった。 これが絵馬の始まりである。 絵馬の奉納は祈願が第一で、報謝がこれに次ぐが、先に絵馬を奉納して願意を祈念し、 のち願意達成の謝礼として絵馬を奉納するすることもある。
願意 開運招福・入試合格・病気平癒・厄除・良縁・安産・商売繁盛・交通安全・家内安全・旅行安全
戸塚一里塚跡
元町交差点まで引き返して国道1号を進んでいくと、 程なくして道端に「戸塚一里塚跡」の標識が立っていました。 江戸日本橋から10番目の一里塚ですが、今ではその遺構などは残っておらず、標識が立っているばかりです。 往時の旅人は江戸方見附を過ぎてこの一里塚まで来て、やっと戸塚宿に着いたことを実感したのでしょうか。 戸塚宿は日本橋から約10里(約40km)の所にあって、 江戸を早朝に出立した旅人が第1日目の宿泊地として利用することが多かったようで、 「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次郎兵衛と喜多八もこの戸塚宿に泊まっています。
戸塚一里塚跡
旧東海道の一里塚は江戸日本橋から10里で、慶長9年、街道の附属施設として1里ごとに造られたが、 国道拡幅により遺跡保存となった。
 (戸塚観光協会)
木之間稲荷社
一里塚跡を過ぎていくと、吉田大橋の手前に、植え込みに囲まれるようにして小振りの赤い祠がありました。 赤い鳥居には「木之間稲荷」の扁額が架かっていて、手前には縁起を刻んだ石碑もありました。
木之間稲荷社縁起
當木之間稲荷社は伏見稲荷大社の御分霊を祭祀した社です。 相州戸塚宿吉田本町字宿下の住民が五穀豊穣を祈願する素朴な敬神の心を以て、 江戸時代中期(約200年以前)に創建されました。 以来人々の厚い信仰を得て今日に至る由緒深い稲荷社です。 昭和61年柏尾川の拡幅工事に伴い、現在の地を基として遷座いたしました。 ここに記念として石碑を建て後日の記と致します。
 (氏子一同)
吉田大橋
木之間稲荷社のすぐ先に、柏尾川に架かる吉田大橋があります。 手前にある交差点は「吉田大橋」となっていますが、橋の欄干に書かれた文字は単に「大橋」となっています。 吉田大橋交差点から左手へと柏尾川沿いに分かれていくのは鎌倉道で、 旧東海道はこの吉田大橋を渡っていきます。 大橋の欄干にはこの戸塚宿を描いた浮世絵が掲示されていたりもします。 また大名行列の長柄のバレンを模した街灯も設置されています。 手前には初代歌川広重画「東海道伍拾三次之内戸塚」が描かれた銘板もありました。 その絵に描かれているのが丁度この吉田大橋のある辺りになるようです。 ゆったりと弧を描く美しい木橋や「こめや」のある浮世絵です。 「こめや」は米の商いのほか、東海道と鎌倉道の分岐点という地の利を活かし、 旅人に軽食などを出す茶屋を営んでいたようです。 「大山講中」「百味講」などと書かれた数々の木札が掲げられていて、 東海道だけでなく大山や江ノ島などへの旅人で賑わっていた様子を伺わせます。
戸塚区制50周年記念 東海道伍拾三次之内戸塚
この銘板の浮世絵は、天保4年(1833)に安藤広重が東海道五十三次の戸塚宿(大橋附近)を描いたものです。 宿場町として栄えていた頃の様子がしのばれます。
 (平成元年4月 横浜市戸塚区役所、戸塚土木事務所)
大踏切
吉田大橋を渡ってその先へと進んでいきます。 矢部団地入口交差点やその先の矢部町バス停を過ぎて戸塚駅東口交差点の辺りまで来ると、 道路の右手が工事柵で囲まれています。 戸塚駅西口の再開発に伴って、 JRの線路の下をくぐる国道1号のバイパス「柏尾戸塚線」を建設するための工事が進められているようです。 戸塚駅東口交差点を直進していくと、東海道踏切No30、通称「大踏切」があります。 左手には戸塚駅のホームがすぐ傍まで伸びてきています。 朝方と夕方の時間帯は電車の運行本数が多いので車両通行止めになる「開かずの踏切」でもあります。 踏切を渡ってその先へと進んでいきます。
戸塚駅
踏切を渡って左手すぐの所にある戸塚駅(JR東海道線)へ立寄っていくと、 駅前には「歴史の道 東海道戸塚宿周辺散策案内図」と題した大きな看板があります。 東戸塚駅にあったのとほぼ同じ内容ですが、文面や掲載範囲が若干異なっています。 また地下改札口を出た所には、安藤広重の巨大な浮世絵「東海道伍拾三次之内戸塚」もあります。
戸塚駅西口は再開発が進められています。 以前あった商店街はすべて取り壊されて、建設工事が始まっています。 駅前にある「戸塚駅西口第1地区第二種市街地再開発事業」の完成予想図によると、 これまでとはすっかり様変わりするようです。 2009年秋に第1交通広場、2010年春に商業施設、2012年秋に第2交通広場・公益施設が出来て、 再開発工事が完了する予定のようです。
歴史の道 東海道戸塚宿周辺散策案内図
戸塚宿は、品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷に次ぐ五番目の宿場として、 神奈川・保土ヶ谷に3年遅れた慶長9年(1604)に成立しました。 戸塚宿は江戸から約10里(40km)で、当時の一般的な旅人の一日の行程の位置にありました。 しかも、隣接する宿場の保土ヶ谷宿と藤沢宿寄りに、県内では箱根に次ぐ難所の権太坂と大坂があることから、 江戸を出発した旅人の最初の宿泊地となったようです。 また、戸塚宿付近は大山道や鎌倉道への分岐点であり、 大山詣や鎌倉の寺社参詣の人々で大いににぎわったと伝えられています。
 (戸塚区役所)
清源院
国道1号に戻ってその先へ進んでいくと、清源院入口交差点の少し手前から右手へ分かれていく道があります。 その道へ入って先にある坂を登っていくと清源院があります。 本堂はコンクリート製の今風の建物になっていました。 本堂の右手に寄り添うようにしてあるお堂は「千手観音堂」というようです。 お寺の謂れを記したものは見かけませんでしたが、 京都の総本山知恩院の末寺で、南向山長林寺とも云うようです。 徳川家康の死後、側室であった於万の方が尼になったお寺なのだそうです。 千手観音堂の右手から続く石段の左右には句碑があります。 一つは若くして心中した二人を当寺の住職が詠んだ歌で、もう一つは松尾芭蕉の句碑です。
井にうかふ 番ひの果や 秋の蝶 心中句碑
世の人の 見つけぬ花や 軒の栗 芭蕉翁
歌碑の間から続く石段を登っていくと墓地になっていました。 墓以外にも石碑や地蔵や鐘楼などがありました。 墓地の先へ出てみると、すぐ傍まで再開発の波が押し寄せていて、 工事が進む戸塚駅周辺を一望できる眺めが広がっていました。 更に石段を登って丘の一番上まで行くと、於万の方の墓がありました。 「於万の方火葬趾 供養碑 安政五年」と書かれた立て看板があり、 墓石の正面には「當山開基清源院殿尊骸火葬之霊迹也」、 右面には「以霊勅而著往事之碑矣」、 左面には「寛永三丙寅年正月廿日遷化乃安政五戌午當二百三十三回上酬霊恩造之焉」と刻まれていて、 墓前には黄色い菊の花が一輪お供えされていました。
澤邊本陣跡
清源院から国道1号へ戻って、清源院入口交差点やバスセンター前交差点を直進していきます。 バスセンターや戸塚郵便局を過ぎていくと、道の脇に蔵がありました。 壁はコンクリート製でしたが礎石は赤レンガで出来ていて、趣きのある佇まいでした。 蔵を過ぎていくと、戸塚消防署の手前に石垣で囲まれた所があります。 ここが澤邊本陣跡になります。 「東海道戸塚宿 澤邊本陣跡」の標柱や解説板が立っていました。 奥には「明治天皇戸塚行在所阯」の石柱もありました。 本陣跡の裏手には今でも「澤邊」の表札のかかる民家がありますが、 本陣であった家の子孫の方が住んでおられるのでしょうか。 戸塚宿にはこの澤邊本陣の他に内田本陣があり、脇本陣は3軒あったようです。 また大小合わせて75の旅籠があり、江戸からの旅人の第一泊目の宿となることが多かったことから、 神奈川県内では小田原宿に次ぐ規模の宿場だったようです。
本陣跡
戸塚が東海道の宿場になったのは慶長9年(1604)11月のことであった。 澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。 本陣とは公郷、門跡、大名などの宿泊する公の宿のことを云ふ。
 (戸塚観光協会)
後日に来てみると、新たに戸塚郵便局の手前に「旧東海道 内田本陣跡」、 蔵の前には「旧東海道 脇本陣跡」の標柱が出来ていました。 「澤邊本陣跡」の標柱も新たなものが設置されていました。
旧東海道 内田本陣跡
本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設です。 この辺りに、戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ内田本陣がありました。 内田本陣は間口十八間(32.8m)、奥行十四間(25.5m)で、畳数は152畳もあったということです。
 (戸塚区役所)
旧東海道 脇本陣跡
脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用されました。 本陣とは異なり、大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に供することができました。 規模は本陣よりも小さいですが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあります。 戸塚宿には三軒の脇本陣がありました。
 (戸塚区役所)
旧東海道 澤邊本陣跡
澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。 本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。 明治天皇の東下の際には行在所になりました。 敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。 弘治2年(1556)に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。
 (戸塚区役所)
羽黒神社
澤邊本陣跡の左手から続く路地へ入っていくと、 大きな樹木の先に「羽黒神社」の扁額のかかる鳥居があります。 右手にある民家のような社務所を過ぎて短い石段を登った所に羽黒神社の社殿があります。 右手には小祠に納められた石祠があり、左手には赤い鳥居と祠や石仏などがありました。 由緒などを記したものは見かけませんでしたが、 本陣を営む澤邊家が守り神として建立した神社なのだそうです。
海蔵院
戸塚消防署の先にある消防署前バス停を過ぎていくと、「臨済宗 圓覚寺派」と刻まれた石碑があります。 そこから右手へと参道が続いているので、ちょっと立寄っていきました。 坂道を登っていき、その先の石段を登っていくと山門があります。 山門には龍が彫られていて、左甚五郎の作と言い伝えられているようです。 山門をくぐっていくと海蔵院の境内になります。 二列に並んだ赤い帽子と前掛けをした六地蔵に出向かえられて境内を進んでいくと、正面に本堂がありました。 右手には鐘楼があり、本道の右隣には庫裡と思われる建物がありました。 庭木も沢山あって雰囲気のいい場所でしたが、お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでした。
八坂神社
海蔵院を後にして国道1号を進んでいくと、日立入口バス停の先に鳥居が立っています。 鳥居の脇には石燈籠や水準点がありました。 鳥居をくぐった先の石段を登っていくと八坂神社の境内になります。 ちょっとした広場のようになっていて、正面に拝殿と本殿があり、右手には横長の建物がありました。 左手には小振りの赤い鳥居と祠がありました。 「お札まき」という無形民俗文化財に指定されている踊りが伝わっているようです。
由来
元亀参年六月郷の庄司内田兵庫源政親が牛頭天王社を草創勧請したものであるが、 いつしか社殿敗壊眞躰の神器は草もうの中に散在し、止むなく地中深く埋め祭祀を欠くこと弐百年に及んだ。 内田氏の末葉内田佐衛門蔚源政利これを憂い、元禄元年矢部村庄司河原氏の霊夢により土壌を起し眞躰を得て その再興をはかり祭祀を行った。 明治初年八坂社と改め、更に昭和七年九月十九日八坂神社と改称した。 祭典は七月七日、拾四日まで、行事は七月十四日。 無病息災を祈願して行われるお札まきは、 町内男子拾名が女装し渋団扇を打ち原始的踊をしつつ五色のお札を中天に撒く。
横浜市指定無形民俗文化財 お札まき
お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと伝えられています。 この踊りは、江戸時代中期、江戸や大阪で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、 現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されています。 男子十数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、 うち音頭取り一人はボテカズラをかぶります。 音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。 踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の紙札を渋うちわで撒き散らします。 人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。 神社境内で踊り終わると、町内各所で踊り、神社に戻ります。 風流歌の歌詞に「 ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる 」という文句があることから、 祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であることがわかります。 神札を路上に撒き散らして人々に拾わせる御符配りは、現在では極めて珍しく、民間信仰資料として貴重です。
 (横浜市教育委員会)
後日に来てみると、新たに「旧東海道 八坂神社」の標柱が出来ていました。
旧東海道 八坂神社
通称「お天王さま」として親しまれている戸塚宿の鎮守です。 元亀3年(1572)に、牛頭天王社を勧請したのが始まりと言われています。 毎年7月14日に行われる「お札まき」は、無病息災を祈願して市の指定無形文化財になっています。 神社脇の東海道と鎌倉道が交差するあたりに高札場がありました。
 (戸塚区役所)
冨塚八幡宮
八坂神社前交差点を直進していくと、戸塚町交差点の角に冨塚八幡宮があります。 鳥居の先には社務所や神輿殿などがある境内があり、社殿へと登っていく石段が正面に続いています。 その脇には松尾芭蕉の句碑があります。 40段ほどある石段を登っていくと、正面に社殿があります。 社殿の左手には小振りの冨塚天満宮が、その奥の一段高い所に玉守稲荷社がありました。 由緒書きによると、冨塚八幡宮は戸塚近郷の鎮守なのだそうです。
冨塚八幡宮
戸塚の鎮守様 勝負開運・厄除けの神社
御祭神 誉田別命(応神天皇)、富属彦命(相模国造二世孫)
例大祭 8月第1日曜日(前日宵宮)
御由緒
平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、 この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を蒙り、 其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、 延久4年(1072)社殿を造り両祭神をお祀りしました。 社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により、 戸塚の地名が発祥したと伝えられています。 戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。 現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあります。 現在の本殿は天保14年、拝殿は昭和9年の造営になります。 明治6年には其の由緒を以って、戸塚・泉・瀬谷・栄区唯一の郷社(近郷を鎮守する神社)に列せられました。
宮御神輿
宮御神輿は江戸時代天保14年の作で、平成元年から2年かけて大修理を行いました。
鎌倉を 生きて出けむ 初松魚 芭蕉翁
後日に来てみると、新たに「旧東海道 冨塚八幡宮」の標柱が出来ていました。
旧東海道 冨塚八幡宮
戸塚宿の総鎮守で、祭神は誉田別命(応神天皇)と冨属彦命の二柱です。 源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利した事に感謝し、 延久4年(1072)に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。 山頂の古墳は冨属彦命の古墳とされており、「冨塚」と呼ばれ、 これが「戸塚」の地名の起こりとも言われています。 境内には松尾芭蕉の句碑もあります。
 (戸塚区役所)
富塚
社殿の裏手がこんもりとした森になっているので、ちょっと登ってみました。 玉守稲荷社の左手から続く踏み跡を登っていくと 「冨塚八幡宮九百年式年記念 冨塚之碑」と刻まれた石碑がありました。 このこんもりとした丘は、この地方の豪族だった富属彦命の古墳で、「富塚」というようです。 現在の「戸塚」の地名の元になったようです。 塚のある高みの右手から奥にかけてはちょっとした公園のようになっていて、ベンチや広場などがあります。 手元の地図によると「冨塚八幡緑地」というようです。 以前に訪ねた時には案内図もあったのですが、この時には枠組みだけになっていました。 冨塚八幡宮の入口の手前にある電気製品修理店と民家の間の路地の奥から続く縦杭の階段を登ってきても、 ここま来ることが出来ます。 その途中には小振りの田町稲荷社があったりもします。
境内社
玉守稲荷 豊作・商売繁盛の神様
冨塚天神 学問成就・合格祈願の神様
冨塚天満宮(天神様)
御祭神 菅原道真公 学問成就・合格祈願の神様
江戸時代末、当宮神主が開いていた私塾の門弟達が、学問の成就を願い、明治元年に建立しました。 ながらく境内奥まった所に在りましたが、その霊験あらたかなるを以って、 平成11年、この処に遷しました。
上方見附跡
冨塚八幡宮を後にして国道1号をその先へ進んでいきます。 下郷入口交差点を直進していくと、大坂下バス停の脇に「上方見附跡」があります。 道路の両側にありますが左手の方が規模が大きく、この付近を描いた浮世絵も掲げられています。 ここが戸塚宿の京都側の入口にあたる上方見附があった場所になります。 石積みの上には小振りの松が植えられていて、その根元を丸い石が取り囲んでいました。 上方見附の切石には、当時の姿が残されているのだそうです。 ここで戸塚宿と分かれて、旧東海道である国道1号を、次の藤沢宿へと向かっていきます。
後日に来てみると、新たに「旧東海道 上方見付跡」の標柱が出来ていました。 いつ頃に撮ったものかは記されていませんでしたが、 この上方見附の写真も載っていました。
上方見付
見付は宿の入口にあり、この藤沢側にあるものを上方見付、 保土ヶ谷側のものを江戸方見付といい、両見付の内側が宿内。
 (みんなで探ろう郷土の歴史実行委員会、戸塚区役所)
戸塚区制50周年記念 東海道六 五十三次戸塚
この銘板の浮世絵は、嘉永(1848〜1853)時代に安藤広重が東海道五十三次の戸塚宿を描いたものです。 宿場町として栄えていた頃の様子がうかがえます。
 (平成元年4月 横浜市戸塚区役所、戸塚土木事務所)
旧東海道 上方見付跡
江戸方見付から、約2.2kmの距離にある戸塚宿京方の出入口です。 現在は道の両側に1.5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向って左に松の木、 右に楓の木が植えられています。 ここから京方は数々の浮世絵の背景に登場する長大な大坂の上りが続いています。
 (戸塚区役所)
第六天
大坂下交差点や横浜富塚郵便局を過ぎていくと、「第六天宮」の扁額の架かる鳥居があります。 手前には真新しい石燈籠があり、「藤行翁之碑」と刻まれた石碑もあります。 ここが第六天で、狭い境内の奥に「第六天神」の扁額の架かる小振りの社殿があります。 由緒などを記したものは見かけませんでした。
第六天とは
第六天という神社は相模国や武蔵国に数多く存在していたようで、今でも時折見かけたりします。 どういう神社なのだろうと調べてみると、仏教や神道に関する話のようでした。 仏教では天上界の中の六欲天の最上界(第六天)に住む天魔波旬だという話、 神道では記紀神話の神世七代の六番目の神すなわち淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神だという話や、 伊邪那岐神が黄泉国から逃げ帰る時に六番目に投げ捨てた冠から生まれた神だという話がありました。 神仏習合とも関連しているという話もあって、無学の私にはよく分かりませんでした。
大坂
第六天を過ぎていくと登り坂が始まります。 この坂が「大坂」と呼ばれる坂で、 戸塚宿を発って藤沢宿へ向かう旅人が、上方見附を過ぎていきなり出合う難所だったようです。 手元の地図によると、1kmほどの長さに渡って坂が続いています。 今よりずっと道幅が狭く勾配もきつい当時の大坂は、旅人にとってはかなり辛い坂だったようで、 宿の馬子や人足が副業で荷物や人を運んで手間賃を稼ぐ格好の場になっていたようです。 少し進んでいくと、道端に庚申塔が七基並んで佇んでいます。 下の方には「見ザル・言わザル・聞かザル」の三猿が彫られていたりもします。 「延宝五年」や「元禄四年」などと刻まれているので、江戸時代の始め頃に建てられた庚申塔のようです。 「大坂」を行き交う旅人の安全を見守ってきたのでしょうか。 大坂台交差点を過ぎていくと、大坂台バス停の先の植え込みの中に 「大坂」と刻まれた石柱があります。 今では「大坂」という名前は地名としては残っていませんが、 大坂下・大坂台・大坂上というバス停や交差点の名前として今に伝えられています。
(後日に来てみると、新たに「旧東海道 大坂」の標柱が出来ていました)
大坂
第六天あたりからの坂を大坂といい、当時は急勾配の坂が続き、松並木のある坂上へと出ました(標高差約40m)。
 (戸塚区役所)
旧東海道 大坂
かつては二つの坂から成り立っていたようで、「新編相模国風土記稿」によれば、 一番坂登り一町余(110m余)、二番坂登り三十間余(54m余)と書かれています。 大坂では、嘉永6年(1853)に仇討ちがあったという記録があります。
 (戸塚区役所)
戸塚警察署下交差点を過ぎて大坂上交差点まで来ると道が二手に分かれていますが、 左手の道を進んでいきます。 大坂上バス停やその先の十ノ区あじさい公園を過ぎていくと「大坂」の上に出ます。 右手から合流してくる道は横浜新道へと続く道で、 不動坂交差点を直進してきたバイパスになります。 ここから国道1号を左手へと進んでいきます。 大きな歩道橋を見送っていくと、樹木が植えられた幅の広い中央分離帯が暫く続くようになります。 以前には中央分離帯に立派な松並木が続いていました。 江戸時代から生えている松とは違うもののなかなか雰囲気のいい所でしたが、 今では松は僅かに残っているだけで、代わりに別の種類の樹木が植えられ、随分と雰囲気が変わってしまいました。
新道大坂上バス停を過ぎていくと、左手の視界が広がってきて、戸塚の街を一望できるようになります。 この辺りの高台は江戸時代には松並木が続く眺めのいい所で、富士山も眺められたのだそうです。 今でも少し脇へ行くと、空気の澄んだ冬晴れの日には見えたりもします。
後日に来てみると、新たに「旧東海道 大坂松並木」の標柱が出来ていて、 この大坂を描いたと思われる浮世絵も載っていました。
旧東海道 大坂松並木
大坂では天気の良い日に松並木から素晴しい富士山が眺められることから、 多くの浮世絵の画題となりました。 昭和7年(1932)に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は10mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。 現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。
 (戸塚区役所)
お軽・勘平戸塚山中道行の場
汲沢町第二歩道橋の下を過ぎていくと、西横浜国際総合病院前バス停の脇に石囲いがあります。 「横浜市戸塚区観光協会」,「お軽・勘平の碑建設実行委員会」の名が刻まれた石柱から入っていくと、 自然石の上に「東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場」と刻まれた石碑があり、 手前にはその由緒書きの石碑がありました。
碑石の由緒
落人も見るかや野辺に若草の…」は、清元の名曲道行旅路の花婿の語り出しとして 江戸以来人口に膾炙されているが、お軽・勘平の道行の場 「ここは戸塚の石高道…」の旧跡という。 この曲は天保4年3月、江戸河原崎座の初演以来140数星霜を経てなお上演を重ね、 戸塚の名は墨絵の夜の富士とともに 「ほんの旅寝の仮枕嬉しい…」。 舞台の華やかな思い出を多くの人の脳裡に深くきざみこんでいるお軽・勘平の道行は 戯曲上の設定であれ史実にまごうほど戸塚の地名とは離れぬ仲。 「かわいかわいの夫婦づれ…」のゆかりはつきぬ道行の名勝に建碑の由緒を記す。
 (昭和46年7月 文学博士 松本亀松 撰)
原宿一里塚跡
「日本橋から46km」の道路標識を過ぎ、原宿第一歩道橋の下を過ぎていくと、 道は緩やかに降るようになってきます。 吹上交差点まで来ると、これまで続いてきた中央分離帯は終りになります。 大坂を登り切って緩やかになった高台に着いてから降り始める所までの区間に続いてました。 江戸時代にはこの辺りに松並木が続いていたようで、 中央分離帯はその保存の目的もあって造られたのでしょうか。 吹上交差点のすぐ先にある吹上バス停を過ぎていくと、 左手の民家の石垣の上に「原宿一里塚跡」の解説板がありました。 江戸日本橋から11番目の一里塚ですが、今ではその遺構などは残っておらず、解説板が立っているばかりです。
原宿一里塚跡
一里塚は、慶長9年(1604)2月、江戸幕府が大久保石見守長安を総奉行に任命し、 東海道の整備にあたらせたとき構築したもので、 一里(4キロ)ごとに街道の両側に円形の塚を築き、距離をしめした。 また、塚の上には榎を植えて木陰をつくり、旅人の休憩にも便宜をあたえた。 原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って11番目にあたっている。 塚の付近に茶店などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。 戸塚区内には、品濃・吉田・原宿の三ヶ所にあったが、 品濃街のものは道を隔てて二基、ほぼ原形のまま当時のすがたを残しているので、 神奈川県の史跡に指定されている。 当地原宿にあったものは、明治9年(1876)10月、里程標の杭をたてるとき、 一里塚は事実上不要となったので取り払われてしまい、現存していないが、 一里山の名を残してその位置をしめしているのが現在地である。
 (戸塚区役所、戸塚区観光協会)
原宿一里塚跡を過ぎて国道1号を更に降っていくと浅間神社前交差点があります。 横断歩道を渡って道路の右手へ行くと、「浅間神社」と刻まれた石柱や石燈籠や鳥居などが立っています。 ここが浅間神社の参道の入口になります。 短い石段を登って鳥居をくぐり、緩やかな坂道を登っていきます。 左右には横浜市の名木古木に指定されている大きなシイの木が並木を作っていて、 雰囲気のいい参道が続いています。
浅間神社
参道を登ってひと際大きなシイの木を過ぎていくと、浅間神社の境内になります。 左手にある建物を見ながら石畳の道を真っ直ぐ進んでいくと社殿があります。 左手には赤い鳥居と石祠がありましたが、名前などは分かりませんでした。 右手には倉庫のようなものがありました。
村社 浅間神社
一、御祭神 木ノ花之佐久夜姫ノ命
火難消除安全航海濃漁業の守護神
総本社 富士山本宮官幣大社浅間大社
一、御由緒 永禄年中、村安全を祈願し当社を勧請す。 玉縄城主北條左エ門大夫の崇敬厚く、社殿を建立せり。 安永9年造営、安政5年再建、明治9年改築、浅間社として村社別格。 大正初期本殿改築、昭和7年9月浅間神社と改称、昭和51年9月本殿拝殿社屋を中心に改修、 参道境内整備築造される。
一、境内地 五百八十四坪
一、社殿 本殿、拝殿
大運寺
浅間神社を後にしてその先へ進んでいくと、コンビニを過ぎた先に戸塚区原宿町第二歩道橋があります。 その下に大運寺バス停があり、右手にはバス停の名前にもなっている大運寺があります。 路地を入っていくと「浄土宗大運寺」の表札が掛かる石門がありますが、 扉で閉ざされていて境内へは入っていけませんでした。 扉には三つ葉葵の紋が掲げられていたので、徳川家と何か関連のあるお寺のようでした。 謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、安土桃山時代からあるお寺とのことです。 今では周囲に住宅が迫ってきていて境内は狭まっていますが、その昔にはもっと広い境内だったようです。
大運寺(だいうんじ)バス停
旧東海道はこの少し先にある原宿交差点を直進して藤沢宿へと続いていますが、 今回はここで散策を終えることにしました。
戸塚駅(JR東海道線)まで、戸塚バスセンター行きバスにて9分、 1時間に11本から12本程度の便があります。 道路向かいのバス停からは、藤沢駅(JR東海道線)まで、藤沢駅北口行きバスにて16分、 1時間に3本から4本程度の便があります。
原宿交差点の立体交差化
この大運寺バス停の少し先には原宿交差点があります。 いつも大渋滞になっている交差点ですが、現在は立体交差にすべく工事が進められています。 その影響もあって、この大運寺バス停の辺りは以前とはかなり様子が変わってきています。