保土ヶ谷宿
散策:2008年06月上旬
【街角散策】 保土ヶ谷宿
概 要 保土ヶ谷宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋から4番目の宿場になります。 今回は旧東海道に沿って設定されている「歴史の道」を歩いていきます。 途中には武相国境を越えていく傾斜の急な権太坂や焼餅坂があり、江戸日本橋を発ってから最初の難所になっていました。
起 点 横浜市 横浜駅
終 点 横浜市 東戸塚駅
ルート 横浜駅…上台橋…勧行寺…浅間神社…追分…松原商店街…橘樹神社…旧帷子橋跡…古町橋跡…旧相州道…神明社…香象院…見光寺…天徳院…大蓮寺…遍照寺…旧中橋跡…助郷会所跡…問屋場跡…高札場跡…金沢新町…御所台地蔵尊…御所台の井戸…北向地蔵…本陣跡…脇本陣跡…大仙寺…八幡社…一里塚跡…外川神社…樹源寺…権太坂…投込塚の碑…境木立場跡…境木地蔵尊…武相国境…萩原代官屋敷…焼餅坂…品濃坂…品濃一里塚…福寿歩道橋…東戸塚駅
所要時間 6時間10分
歩いて... 今回歩いたのは神奈川宿の上方見附から戸塚宿の手前までで、かなり長めのコースになっています。 車道を歩く所も一部にありますが、概ねは車道からひとつ外れた細めの道が続いていました。 旧東海道から脇に外れた所の史跡や寺社などに立寄ったりしたこともあって、今回はかなり長い時間がかかりました。
関連メモ 神奈川宿, 戸塚宿, 児童遊園地
コース紹介
横浜(よこはま)駅
横浜駅(JR東海道線)から歩いていきます。
西口を出て、ダイヤモンド地下街を真っ直ぐに進んでいきます。 一番奥の突き当たりまで来て、左手にある「南12」出口から地上に出て左手へ進んでいきます。
保土ヶ谷宿
保土ヶ谷宿は慶長6年(1601)東海道に宿駅の制度が定められた際に、幕府公認の宿場として誕生しました。 江戸から約33km(8里9丁)で、品川・川崎・神奈川に続く4番目の宿場です。 保土ヶ谷宿は、芝生村追分から境木地蔵までの約5kmで、追分から北は神奈川宿、 境木地蔵から南は戸塚宿の管轄でした。 宿場としての街並みを整えていたのは約2kmの間で、この間は宿内と呼ばれました。 宿内には本陣を中心に旅籠・茶屋・商店が建ち並び、宿場町として賑わいをみせていました。
 (出典:横浜市ホームページより抜粋)
上台橋
すぐ先にある帷子川分水路に架かる北幸橋を渡ってその先へ進んでいくと、 鶴屋町3丁目交差点に鶴屋町歩道橋が架かっています。 歩道橋を渡って鶴屋町3丁目バス停を過ぎていくと、車道の上に陸橋が架かっています。 その手前の左手にある階段を登っていくと、左右に通る道に出ます。 左右に通るこの道が旧東海道になります。 正面には「神奈川宿歴史の道」の解説板と案内図が設置されています。 右手に架かっている陸橋は上台橋で、「神奈川宿歴史の道」の終点になります。 この辺りが神奈川宿の京都側の出入口にあたる上方見附だったようです。 案内図が描かれた標柱によると、右手の道は「神奈川台の関門跡」、 左手の道は「西区歴史街道」となっています。 今回はここから左手に続く旧東海道を保土ヶ谷宿へと向かっていきます。
(右手の道は「神奈川宿」を参照)
神奈川宿歴史の道
東海道五十三次の日本橋よりかぞえて三番目が神奈川宿である。 この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。 上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った『東海道分間延絵図』である。 図中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。 右端は江戸側からの入口で長延寺が描かれ、左寄りの街道が折れ曲がったあたりが台町である。 この上台橋は左端に当たる。 台町の崖下には神奈川湊が広がっている。 かつてこの上台橋のあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。 切り通しの道路ができるとともに、昭和5年ここに陸橋が架けられた。 この神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。 その4年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められた。 開港当時、この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。 神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象とし、 上台橋から神奈川通り東公園に至るおよそ4キロの道のりとなっている。
沢渡中央公園
降り気味に緩やかに続く道を2分ほど進んでいくと十字路があります。 その右手の先を見ると公園のようなものが見えたので、ちょっと立寄っていきました。 住宅が建ち並ぶ路地を50mほど進んでいくと沢渡中央公園がありました。 芝生の広場の周囲には大きな樹木が植えられていて、都会の中のオアシス的な公園でした。 ヒマラヤスギの巨木が並んで生えていたりもしました。 右手の方へ進んでいくと運動場があり、更にその先は舗装された広場になっていました。
軽井沢公園
沢渡中央公園から旧東海道に戻って、その先へと緩やかに降っていきます。 車道からひとつ入った通りなので、自動車などはほとんど通っていきません。 小さな駐車場を過ぎた先で、道が二股に分かれています。 その角には旧東海道の案内図付き標識が立っています。 それによると、右手の道は「勧行寺」、左手の道は「西区歴史街道」となっています。 旧東海道は左手すぐの所に通る県道83号へと続いていますが、 右手の先にある勧行寺を訪ねていくことにしました。 右手の道を少し進んでいくと軽井沢公園があります。 街中にある小振りな公園で、綺麗な花が咲く花壇や藤棚があり、遊具なども少し設置されていました。
軽井沢公園前地区急傾斜地崩壊危険区域
この区域内でのり切、掘削、伐採等を行う場合は知事の許可が必要ですから左記へ問い合わせて下さい。
 (神奈川県横浜治水事務所)
勧行寺
軽井沢公園を過ぎて高速道路の高架の下までくると十字路があります。 そこを右折して軽く登り気味に進んでいき、 石垣の間に続く坂を登っていくと勧行寺があります。 境内には赤い鳥居の立つ稲荷社や立派な鐘楼などがありました。 横浜市の名木古木に指定されているイチョウの大木もありました。 この時には本堂は工事中のようで、その脇に仮本堂が設置されていました。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでした。 勧行寺から先ほどの高速道路の下の十字路まで引き返してきます。 そのまま真っ直ぐ進んでいくと県道83号に出ます。 そこに「勧行寺」,「法華宗」と刻まれた石柱が立っていて、参道はそこから続いているようでした。 先ほどあった標識では、旧東海道を辿る西区歴史街道は県道83号を進んでいくのですが、 車道を歩いても趣きに欠けようというものなので、 今回は高速道路の下の十字路から南西に続く道を進んでいきました。
南軽井沢公園
勧行寺楠町会館を過ぎ、左手に分かれていく道を見送って道なりに進んでいくと、T字路に突き当たります。 正面には右手へと登っていく県道13号が通っていました。 旧東海道へは左手へ進んでいくのですが、 横浜市ホームページによると、右手の先に「軽井沢の庚申塔」や「原の地蔵」があるようだったので、 正面の壁に沿って右手へ進んでみました。 軽く登り気味に進んでいくと、すぐ正面に南軽井沢公園がありました。 先ほどの軽井沢公園と同様に、小振りな公園でした。 広場の周囲だけではなくて真ん中にも大きな木が生えていて木陰を作っていました。 周囲にはベンチが沢山設置されていて、ひと休みしていくのには良さそうな所でした。
浅間神社
南軽井沢公園の手前から県道13号の下をくぐっていく「宮ヶ谷地下歩道」があって、 その先へ続いているようでしたが、 今回は庚申塔や地蔵を訪ねるのは省略して、先ほどのT字路まで引き返していきました。 T字路を過ぎていくと、すぐに宮谷小学校入口交差点があります。 横断歩道を渡っていくと、左手に浅間下バス停があります。 その先から右手へ入っていく浅間下商店街があります。 「商店街」にしては店などのない道を少し進んでいくと、右手の丘へと続ている石段があります。 その石段を登っていくと、民家風の建物(浅間幼育園)の脇に出ました。 「あれぇ?」と思いながらもその脇を通っていくと、立派な鳥居の先に浅間神社がありました。 「浅間神社」の扁額の架かる鳥居には注連縄が渡され、 屋根付きの提灯や竹も立てられていました。 その先には拝殿があり、奥には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳える本殿が見えていました。 奇偶と内外が祭神である女神の木花咲耶姫命と合わないようにも思いましたが、何か謂れがあるのでしょうか。
浅間神社由緒沿革
祭神 木花咲耶姫命
相殿 天照皇大神、武甕槌命
境内末社 小獄社、稲荷社、招魂社
神殿 本殿二階建浅間造にして社殿丹塗総金具付にて元官幣大社浅間大社(静岡県富士宮市)と同様 国宝建造物類似楼閣にて近隣に比類なき構造なり
御神徳 産業振興、家内安全、安全子育、学業成就
由緒沿革 元神奈川区浅間町に鎮座し浅間町一円の氏神なり。 創祀は承暦4年(1080)といわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い、 且つは戦勝奉賽のため関東一円の社寺修築神馬神田の寄進に及べり。 然る処武蔵国橘樹郡神奈川芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし、 社殿の修築をなし報賽の至誠を致せる由といふ。 爾来900余年神威赫灼として遠近を光被し万民均しく渇仰崇敬せり。
社殿・境内整備について
浅間神社は承暦4年の創祀より歴史ある古い社であります。 明治の大火、関東大震災により焼失復興と度重なりしが、昭和3年御大典記念として御造営せる社殿は、 惜しくも昭和20年5月の戦災のために烏有に帰しましたが、 社殿復興再建の議が起り、昭和33年起工式、同34年に社殿落成、亦境内拡張整備工事に着手、 従来の3倍に造成し現在に至りましたが、昭和57年社殿前崖も急斜面崩壊危険区域に指定され、 工事着手完成を見るにいたり、昭和58年に社殿及び境内整備の奉賛会が結成され、 社殿塗装、神輿庫新築、神輿修理、社殿前玉垣、裏表参道玉垣工事をなし、 県下でも類を見ぬ社殿となりました。
浅間神社境内横穴古墳群
古墳(今から1700前頃から1000年前頃まで、6、700年の間につくられた古いおはか)には 盛り土をした高塚と自然の丘に横に穴をうがった横穴とが有ります。 この横穴古墳は宮谷や軽井沢にわたって群在しているもので、 神社の境内だけでも十幾つがありましたので標記の名をつけました。 その内部は羨門、羨道中のへやを玄室といいますが、 このたび神社境内の拡張、整地にあたり、玄室から須恵器の瓶、平瓶などが出ました。 横穴やそこから出たそれらの物でこの社地は少なくとも千年あまり前、 このあたりを開いた有力者が葬られた古いゆかりの地であることを知ることができます。
 (神奈川県文化在専門委員)
浅間神社の境内には招魂社がありました。 鳥居の前には狛犬が控え、屋根付きの提灯や笹竹も立てられていて、 社の屋根には3本の鰹木が乗り内削ぎの千木が聳えていました。 「境内末社」とのことですが由緒書きなどは見かけませんでした。 招魂社の脇には「誠愛剣法発祥地」と刻まれた石柱もありました。
鰹木が奇数は男神、偶数は女神、 千木が外削ぎは男神、内削ぎは女神というのが一般的のようですが、この通りではない場合もあるようです。 ここの浅間神社や招魂社はその例に当たるのでしょうか。
大きな赤い鳥居をくぐってその先の石段を降っていくと、 県道83号から分かれてきた旧東海道に降り立ちます。 そこに「浅間神社参道入口」の看板や案内板などが設置されていました。 どうやらこちらが表参道で、先ほど登ってきた石段は裏参道になるようでした。 鳥居の前には「浅間神社大祭」と書かれた雪洞が吊るされていました。 浅間神社大祭の案内書きによると、「 6月1日に例大祭式、6月7日に宮神輿巡幸、6月8日に氏子神輿(8基)連合渡御 」となっていて、何やら賑やかな祭りのようでした。 ここは旧東海道を右手へと進んでいきます。
追分
右手の崖際にある駐車場を過ぎてその先の神明下公園過ぎていくと、 左手に二階建てのようながあります。 蔵を過ぎて5分ほど進んでいくと、道が二手に分かれている追分に着きます。 角に立つ「歴史の道 追分」の標柱によると、 正面の道は「旧東海道」、右手の道は「八王子道」となっています。 保土ヶ谷宿が成立した江戸時代初期の東海道は右手の道を通っていたようで、 旧東海道と区別する意味で「古東海道」と呼ばれています。 現在では、右手の古東海道は「古町通」、その後に開かれた正面の旧東海道は「新町通」とも呼ばれているようです。 今回は正面の道を進んでいきました。
歴史の道 追分
追分は一般に道の分岐点を意味しますが、 ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。 八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、 安政6年(1859)の横浜開港以後は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、 「絹の道」とも呼ばれています。
 (保土ヶ谷区役所)
松原商店街
追分を過ぎていくと、すぐに道の上に半円形のモニュメントがあり、 「やすさ MATUBARA 来やすさ」や「満福寺松原商店街」と書かれていました。 その袂に「歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図」があるので参考にしましょう。 先ほどの浅間神社から境木地蔵尊までの範囲が図示され、該当する範囲の東海道分間延絵図も載っています。 それによると、追分から植木地蔵尊までは5.8kmとなっていました。 1648年に道筋が変わって、旧東海道は追分からこの松原商店街を通るようになりました。 江戸時代にはすぐ南側まで海が入り込んできていて、海辺に続く松並木の道だったようです。
歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図
保土ヶ谷宿は慶長6年(1601)に宿駅・伝馬制度が定められると同時に設置され、 東海道五十三次、江戸から4番目の宿場町(1601年発足時は川崎宿と戸塚宿は未整備)として栄えました。 また、慶安元年(1648)を境に大改修がされ、道筋がかわりました。 初代歌川広重の浮世絵で有名な帷子橋(新町橋)もこのとき架けられましたが、 現在、古道の正確な道筋に関して諸説があり特定されていません。 この案内図では、本陣跡や寺社、石碑等当時の面影を伝えている史跡を中心に散策できるようご案内しています。 保土ヶ谷と保土ヶ谷宿の歴史を感じてみてください。
 (保土ヶ谷区役所)
道の上に張られたロープに三角形の色とりどりの旗が取り付けられていて賑やかな雰囲気の松原商店街を進んでいきます。 縁日でもなさそうでしたが、道端には露店が出ていたりもしました。 松原商店街入口交差点を直進していくと、道の左脇に「江戸方見附跡」の解説板が立っていました。 この辺りが保土ヶ谷宿の江戸側の出入口にあたる江戸方見附のようです。
江戸方見附跡
「東海道分間延絵図」によれば、芝生の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附がありました。 保土ヶ谷区郷土史では、天王町391・393番地(現在の天王町1丁目11-3付近)にあったとされています。 江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、 土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(このため「土居」とも呼ばれています)。 こうした構造から、見附は本来簡単な防御施設として設置されたことがうかがえますが、 同時にまた宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。 ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、 家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、 保土ヶ谷宿では外川神社付近の上方見附まで19町(約2キロメートル)になります。 大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。
 (保土ヶ谷区役所)
橘樹神社
江戸方見附跡を過ぎて、その先の十字路を直進していくと、 道の右手に「橘樹神社」の扁額が架かる鳥居がありました。 そこから境内へ入っていくと、大きな石灯籠や参集殿を過ぎた先に社殿がありました。 拝殿の奥にある本殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 神社の由緒などを記したものは見かけませんでしたが、 創建は鎌倉時代初期の1186年で、江戸時代は牛頭天王社といい、 「天王町」というこの地区の名前の由来になっているようです。 大正時代に現在の橘樹神社と改称されたようで、祭神は素盞鳴尊とのことです。 入口の鳥居の脇には石盥磐と、丸い形をした力石というのがありました。
石盥磐
保土ヶ谷区郷土史に「天王社へ江戸より石盥磐寄進せらる延宝六年霜月」と明記されている。 延宝年間は350年前である。
力石
たすき石、さし石等の異名であるを思へば、人がその力のかぎりを神に捧げ、 或は天地神明に誓うと云う原始信仰の神事に由来するものであらう。 後世はこの石でもて遊び、民俗風習となって各地に分布した様である。
橘樹神社の社殿の左手には、横浜市最古と云われる青面金剛が屋根付きの祠に納められていました。 その横には「神田不動尊」と書かれた提灯が下がる祠があり、 その中に石像四基が納められていました。 解説板もありましたが、文字が剥がれていたりして読み難かったので、その内容の掲載は省略しておきます。
青面金剛
寛文9年(1669)2月合掌六手青面観音
青面金剛としては横浜市最古であり、また六手青面金剛としては県内でも最古の像と思われる。 青面金剛像は、寛文の始め頃から江戸の石工を中心に作られるようになり、やがて地方にも普及した。
青面金剛は下二手に弓と矢を持つのが普通であるが、この像は弓矢の代わりに羂索と棒を持っている。 青面金剛は、もと流行病を流行られる悪鬼であったが、のち改心して病を駆逐する善神になったとされている。 儀軌に示された青面金剛は、三叉戟、輪、羂索、棒を持った四手の青鬼であるが、 この像はこれに合掌二手を付け加えて、善神に変わったあとの姿を表現しようとしたもので、 青面金剛像の成立道程を示す貴重な像である。
青面金剛は必ず炎髪で作られるものであるが、この像は円い髪である。 円髪、後頭部の光輪、太く短い棒などは、 同じ時代に京都土産として各地に持ち帰られた大津絵の影響を示すもので他に類例を見ない。
青面金剛は江戸時代の代表的な像である。
 (橘樹神社宮司 謹書、区内桜ヶ丘在住郷土史家著「保土ヶ谷の謎と謎解き」による)
旧帷子橋跡
橘樹神社を後にしてその先の十字路を直進していくと、 帷子川に架かる帷子橋を渡っていきます。 橋を渡ってその先へ進んでいくと、高架の下にある天王町駅(相模鉄道本線)に突き当たります。 右手から高架の下をくぐって向こう側へ出ると天王町駅前公園になっていました。 そこに旧帷子橋跡があって、橋と燈籠を模したモニュメントや解説板があります。 脇には旧東海道の道標もあって、公園の左手から正面に続く道路は「問屋場跡900m」,「本陣跡1270m」、 右手に続く道は「旧古町橋跡230m」となっています。 旧東海道は公園の左手の正面へと続いていますが、今回は古東海道が通っていたという古町橋跡へと向かうべく、 右手の道を進んでいきました。
旧帷子橋跡
江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、 絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。 中でも初代広重の「東海道五十三次之内保土ヶ谷」は特に有名です。 大橋や新町橋などとも呼ばれた帷子橋について、「新編武蔵風土記稿」の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には、 「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられます。 昭和39年(1964)7月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、 帷子橋の位置も変わりました。 かつての帷子橋の跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。
 (横浜市教育委員会)
古町橋跡
帷子公園を過ぎて真っ直ぐ進んでいくと、T字路に突き当たります。 その角に「歴史の道 旧古町橋跡」の解説板がありました。 江戸時代初期の東海道は、先ほどの「追分」からここを通っていくルートだったようです。 古東海道だったこの通りは「古町通」とも呼ばれているようです。 以前にはここに橋が架かっていたようですが、帷子川の流路変更に伴って橋も移されたようです。 今回はここを左折して、古東海道を南西へと進んでいきました。
旧古町橋跡
江戸時代初期の東海道
現在知られている「旧東海道」は、慶長6年(1601)に保土ヶ谷宿が成立した当時のものではなく、 慶安元年(1648)に竣工されたもので、 それまでは追分(宮田町1丁目)から上方方面の東海道はここを通っていました。 現在、追分から神明社あたりまでの道筋は判明していますが、 そこから境木までの道筋には諸説があります。
古町通
このあたりには江戸初期まで屋敷や寺が多くありましたが、 新道の造成に伴い屋敷や新道沿いに移され、新しい街並みを形成しました。 ここから追分へ至る道は「新町」(現:岩間町、帷子町)に対比して「古町通」と呼ばれ、 元禄年間の書物には「古町通屋敷跡」の字が見られます。
旧古町橋
この場所には江戸時代初期の東海道が帷子川をわたる「古町橋」がありました。 慶安年間の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対して「新町橋」と呼ばれていました。 また、かねてから暴れ川として氾濫を繰り返していた帷子川の改修が昭和38年(1963)に決定され、 帷子川の流路は北側に変更されました。 それにともない、現在の古町橋は昭和41年(1966)に、ここから約120メートル北に架設されています。
 (保土ヶ谷区役所)
旧相州道
かつての古町橋の欄干だったような処を過ぎて真っ直ぐ進んでいくと十字路に出ます。 信号を渡った所に石標が立っていて、正面の道は「古東海道」、左右の道は「相州道」となっています。 左右に通っているのは旧相州道のようです。 石標の横には庚申堂があって、中には石仏が納められていました。 綺麗な花束や千羽鶴や草鞋などがお供えされていて、今でも篤く信仰されているようでした。 今回はここで古東海道と分かれて、左手の旧東海道へと戻っていくのですが、 この右手すぐの所に神明社があるので立寄っていくことにしました。
庚申堂改修再建趣旨
吾ガ神戸下町神明社前ノ庚申堂ハ元禄七年當時ノ當町有志各位ノ奉仕ニヨリ建立セラレタルモノニシテ 風雨星霜二百四十余年幾度カノ天災其他ニヨリテ毀損セラレタルコトアルモ 其都度有信家各位ノ精進ニヨリテ兎モ角原体ヲ維持シテ今日ニ逗モ誰ガ供ヘルトナク常ニ香煙ヲ絶タザルモ 本年九月七日夜半偶々一不徳運転手ノ車輌ニカカリ大毀損ヲ招キタリ様 而之ヲ椅縁トシテ有志相計リ尊体ヲ修理シ小堂ヲ再建シテ温故知新ノ_リトナスト共ニ 以テ交通ノ安全ヲ謀リ併而以テ町内ノ康寧ト福趾ノ増進ヲ祈ル所以ナリ矣
 (維持昭和十一年十月五日誌之)
十字路を右手へ進んでいくと、すぐに神明社の鳥居が立っています。 その脇には「鎮守 神明社」と刻まれた石柱や立派な燈籠が立っていました。 手前にある神社の由緒書きを読んでみると、かなり古い歴史を持つ神社のようでした。 鳥居をくぐって参道を真っ直ぐに進んでいきます。
神明社御由緒(旧伊勢神宮領榛谷御廚総鎮守)
今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷とよばれていた平安時代の中頃、 天禄元年(970)当時の御祭神 伊勢の天照大御神が、武州御廚の庄の内、榛谷の峯に影向し、 それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年(1225)神託があて、 神明の下宮を建て、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。 これにより榛谷御廚八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、 宮司以下数十人の禰宜、社人、供僧、巫女が仕え、年に七十五度の祭祀を営み隆盛を極めたという。 その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正18年(1590)徳川氏入国の時、 社殿の造営が行われ、御朱印地が安堵された。 また元和5年(1619)宮居を神戸山々頂から現在の処に遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた。 明治2年の修営時には、明治天王御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の御用材を下賜された。 明治6年村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定された。 平成10年10月、鎮座1030年祭、当地遷座770年祭、伊勢神宮鎮座2000年祭を記念して「平成の御造営」が行われ、 380年ぶりに御本社、摂末社、神楽殿等総ての境内建物12棟が一新された。 平成12年4月、神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定された。
祭神は、天照大御神
社殿建築様式は、本殿、拝殿とも神明造り
例祭日は、8月第4日曜日
 (社務所)
神明社
両側に樹木が植えられた参道を真っ直ぐ進んでいきます。 燈籠のある柵を過ぎて、両側に立つ柱の間に渡された注連縄をくぐっていくと、 正面に神明社の社殿がありました。 拝殿の屋根には8本の鰹木が乗り内削ぎの千木が聳えていました。 その奥の本殿の屋根には7本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 拝殿と本殿で、鰹木の奇偶と千木の内外が異なっているのはどういう意味なのかは分かりませんでした。 祭神である天照大御神に関する何か重大なことを現しているのでしょうか。 社殿は白木造りになっていて厳かな雰囲気が漂っていました。 右手には摂社の豊受大神宮がありました。 伊勢神宮に内宮と外宮があるのと同じような感じなのでしょうか。 周囲には、天満宮・厳島社・見目社・白鳥社・火産社・山王社・山神社・雷神社・鹿島社・日之王子社・切部之王子社・稲荷社・月読社・風宮など、 沢山の末社が取り巻いていました。 すべて白木造りの祠になっていて、大神域を形成していました。 祭神を見てみると、記紀に登場する神々がずらりと名を連ねていました。
摂社 豊受大神宮
御祭神 豊受大御神
御神徳 五穀豊穣、殖産振興、商売繁盛
■豊受大神宮の継ぎ接ぎ柱について
この建物は、平成10年に摂社・豊受大神宮の神殿として再建されましたが、 その御用材の一部に、江戸時代初期(約400年前)に建てられた旧御本殿の木材を使用しています。 柱に見える継ぎ接ぎの跡はそのためです。 また、社殿左方の石積みは、その当時の石垣を移設したものです。 更に、社殿後方の石積みは、江戸時代後期に建てられた旧石鳥居の礎石を用いました。 石積みの中に旧奉納者の名前が見えます。
 (社務所)
天満宮 御祭神:菅原道真朝臣、御神徳:学業成就・文芸振興・雷防除、根本社:京都府鎮座北野天満宮
厳島社 御祭神:市杵島姫命、御神徳:航海安全・交通安全、根本社:神奈川県鎮座江島神社
見目社 御祭神:見目大神、御神徳:航海安全・漁業振興・交通安全・眼病治癒、根本社:静岡県鎮座白浜神社
白鳥社 御祭神:日本武尊、御神徳:国土開拓守護、根本社:東京都鎮座御嶽神社
火産社 御祭神:火産霊命、御神徳:火防守護・竃守護、根本社:静岡県鎮座秋葉神社
山王社 御祭神:大山咋命、御神徳:五穀豊穣・家内安全、根本社:滋賀県鎮座日吉神社
山神社 御祭神:大山祇命、御神徳:産業守護・水利守護、根本社:神奈川県鎮座大山阿付利神社
雷神社 御祭神:別雷命・中筒男命、御神徳:農耕守護・海上安全、根本社:京都府鎮座賀茂別雷神社
鹿島社 御祭神:経津主神・武甕槌命、御神徳:武道振興・国土開拓、根本社:茨城県鎮座鹿島神宮
日之王子社 御祭神:天照大御神、御神徳:国家安寧・厄災消除、根本社:和歌山県鎮座日之王子社
切部之王子社 御祭神:天照大御神・天忍穂耳命・瓊瓊杵命・彦火々出見命・鵜茅葺不合命、御神徳:無病息災・子孫繁栄・癌封、根本社:和歌山県鎮座切目神社
稲荷社 御祭神:宇迦之御魂神・素盞鳴命、御神徳:五穀豊穣・商売繁盛・殖産興業・食物守護、根本社:京都府鎮座伏見稲荷大社
月読社 御祭神:月読命、御神徳:国土守護・農耕守護、根本社:伊勢神宮別宮月読宮
風宮 御祭神:志那津彦命・志那津姫命、御神徳:暴風守護・国土守護、根本社:伊勢神宮別宮風日祈宮
香象院
神明社から庚申堂のある先ほどの十字路まで引き返して、その先へと進んでいきます。 斜めに横切っている道を見送って真っ直ぐ進んでいくと、旧東海道の大門通り交差点に出ます。 そこを右折していくと程なくして「歴史の道」の道標が立っていて、 この先の道は「金沢横町道標800m・本陣跡1km」となっています。 道標の先の大門通りバス停を過ぎていくと、 右手に「高野山真言宗」,「普賢山香象院」と刻まれた石柱が立っています。 どういう謂れなのかは分かりませんが、左右の石柱の脇には大きな釜がありました。 石柱から境内へ入っていくと、「弘法大師」と刻まれた石碑や、立派な祠に安置された延命地蔵菩薩がありました。 象の石像もあったりして「香象院」の「象」と何か関連があるのでしょうか。 その先の石門の奥に、今風の建物の香象院があります。 お寺の謂れを記したものは見かけませんでしたが、 かつては保土ヶ谷で最大の寺子屋があって、明治6年(1873)には保土ヶ谷小学校の分校にもなったのだそうです。
いつまでも はてのしれざる たびのそら いづくのたれと とうひともなし 木喰上人
お地蔵様ご真言
『オン・カ カ カ ビ・サンマエイ ソワカ』 七遍お唱え下さい。
真言
地蔵の前には「真言」が書かれた板が置かれていました。 無学の私にはその意味は分かりませんが、 「真言」とは仏教発祥の地インドの当時の言葉である梵語(サンスクリット語)のことで、 「真理を表す秘密の言葉」なのだそうです。 中国を経由して日本に入ってきた仏教のお経の大部分は中国語のようですが、 真言宗のお経である般若心経の中には、「真言」を中国文字(漢字)で音写した部分があります。
  『ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボジソワカ』
  (ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー)
僧侶がお経をあげる時、この「真言」の部分に差し掛かると、 片手を高く掲げて厳かに唱えていたのを思い出したりしました。
見光寺
香象院を後にして旧東海道を進んでいくと、 すぐの所の右手に「浄土宗大誉山見光寺参道」と刻まれた石柱が立っています。 その石柱に導かれるようにして右手へ入っていくと、 コンクリートブロックで囲まれた一角がありました。 入口から入っていくと、「浄土宗」や「見光寺」と刻まれた石柱が立っています。 六地蔵に出迎えられながらその先へ進んでいくと、今風の建物になった見光寺がありました。 テーブル・ベンチも設置された庭園風の境内になっていました。 お寺の謂れを記したものは見かけませんでしたが、 開山は江戸時代初期の1629年で、保土ヶ谷の熱心な浄土宗の信者夫妻が建てたお寺なのだそうです。
欲が深けりゃ 重みで沈む 三途の川の 渡し舟
天徳院
見光寺を後にしてその先へ進んでいくと、信号機のあるT字路があります。 旧東海道はその先へと真っ直ぐ続いているのですが、 天徳院や大蓮寺などに立寄るべく、角にある理髪店の所を右折していきました。 「岩間子供の遊び場」を過ぎて、先ほどの庚申堂のある十字路を直進してきた古東海道に出ると、 正面に天徳院があります。 脇に「本尊地蔵大菩薩 曹洞宗天徳院」と刻まれた大きな石碑が立つ山門から入っていくと、 新しい雰囲気の天徳院がありました。 その右手には庫裡と思われる建物があり、左手には墓地が続いていました。 お寺の謂れを記したものは見かけませんでしたが、 開山は安土桃山時代の1573年、本尊は地蔵菩薩坐像で、 土地の豪族が帰依して建立した寺院とのことです。
大蓮寺
天徳院を後にして、白壁に沿って古東海道を進んでいきます。 白壁が終わるとY字路があります。 遍照寺へは左手の道を進んでいくのですが、右手の道の先に大蓮寺があるので立寄っていきました。 「古東海道 保土ヶ谷宿 神奈川宿へ一里九町・戸塚宿へ二里九町」と刻まれた石碑を過ぎていくと、 正面に石段があります。 道はその左手へと続いているのですが、脇に立つ「日蓮大聖人 帷子の里 御霊跡 大蓮寺」の標柱に従って、 その石段を登っていきます。 石段を登り切って山門から入っていくと大蓮寺の境内になります。 山門から入ってすぐ右手には釋迦堂がありました。 庭木が沢山植えられた境内を真っ直ぐ進んでいくと、正面に本堂があります。 本堂の前には「徳川家康公側室おまんの方御手植 拓榴」と刻まれた石碑があり、 傍にはその柘榴と思われる木がありました。
宗祖感得釋尊像安置
仁治3年(1242)日蓮大聖人御都市21才の時、房州清澄山より比叡山へ陸路御遊学の途次、 東海道保土ヶ谷宿、浄土宗の一民家に御宿泊の砌り、家兌釋尊像を玩弄せるを見たまいて、 その本末の誤れるを教示し、自ら開眼感得せられたる釋尊像を安置す。 建長5年(1253)4月、大聖人開宗の際、その家主、大聖人に帰依し、己が邸宅を法華堂と改め、 寛永2年正住院日圓上人の代に、御霊跡妙栄山大蓮寺と称するに至りたるものなり。 後、養珠夫人(おまんさま)帰依参籠の折、 中老僧日法上人御真作の宗祖木像及び境内に柘榴一株の寄進を受け、法運愈々隆昌に現在に至る。
 (御霊跡 大蓮寺)
遍照寺
大蓮寺から古東海道へ戻ってその先へ進んでいくと車道の十字路に出ます。 その右手の角に、仁王像が壁面に二体取り付けられた建物があります。 その横には「医王山遍照寺」,「高野山真言宗」と刻まれた石柱が立っています。 その先へ続く参道を進んでいくと、建物の壁面には多くの石仏が並んでいました。 門柱を過ぎていくと遍照寺がありました。 脇には「修業大師」と題した弘法大師の石像と、解説文を刻んだ石碑がありました。 遍照寺の謂れを記したものは見かけませんでしたが、開山は876年とも伝えられているようです。
木造 薬師如来坐像
所有者 宗教法人 遍照寺
所在地 保土ヶ谷区月見台38番地31号
時代 鎌倉時代
構造及び形式 技法 寄木造、玉眼、肉見武漆箔、着衣部古色仕上げ
寸法 像高85.4cm
この像は、量感に富み、目鼻立ちの整った面部は張りが強く、 運慶の作風を継承していますが、面長の顔だちや左肩に大きな折返しをつくった着衣の形式に、 宋元風の影響も認められます。 市内の伝わる当代の彫刻の中では屈指の佳作で、遍照寺の本尊です。
 (横浜市教育委員会)
修業大師 生かせいのち
四国で修業したのち唐にわたり帰国後真言宗 の開祖として高野山を開かれ「世を救い人々に ご利益を与える」ことに尽力された弘法大師の 青年時代から壮年時代のお姿でです。 四国八十八ヶ所ご霊所を巡拝するお遍路さんは この修業大師を習っていると申せます。
旧中橋跡
遍照寺を後にして十字路を直進(大蓮寺から来た方角からは左折)していくと、 すぐに旧東海道の反則センター交差点に出ます。 その左手の角に「歴史の道 旧中橋跡」の解説板が設置されています。 解説板を確認して、交差点を右折していきます。
旧中橋跡
今井川の改修
かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。 その川筋は慶安元年(1648)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。 しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することになりましたが、 なかなか改善されませんでした。 しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、 嘉永5年(1852)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の借用を代官へ陳情し、 認められるとただちに現在の川筋に改修されました。
保土ヶ谷宿と品川台場建設
今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、 当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上することを申し出、 3000立坪(約18,000立方m)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています。
 (保土ヶ谷区役所)
助郷会所跡
帷子町会館前バス停を過ぎていくと、道が二手に分かれています。 左手の広い道の先には保土ヶ谷駅(JR横須賀線)が見えていますが、 手前に立つ「歴史の道」の道標によると、 右手へ分かれていく道は「金沢横町道標300m・本陣跡500m」、 今来た道は「旧帷子橋跡800m」となっています。 ここは道標に従って、右手へ分かれていく細めの道を進んでいきます。 程なくして、帷子町2丁目自治会掲示板の脇に、「歴史の道 助郷会所跡」の標柱が立っています。
歴史の道 助郷会所跡
助郷村々の人馬を手配するため設けられたのが助郷会所です。 各助郷村の代表はここに出勤して問屋場の指示に対応するとともに、 村が手配した人馬が不公平な割り当てを受けたり、不当に使用されないよう監視する場所でもありました。
 (保土ヶ谷区役所)
問屋場跡
助郷会所跡を過ぎて1分ほど進んでいくと、「歴史の道 問屋場跡」の解説板が設置されています。 この辺りからが保土ヶ谷宿の中心の場所だったのでしょうか。
歴史の道 問屋場跡
問屋場
宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、 幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、 宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。 宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていました。 問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。
助郷
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村といいます。 助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に次第に制度化されていきました。 享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は全部でおよそ40か村、 現在の保土ヶ谷区のみならず、旭・西・中・南・港南・磯子・戸塚等の各区域に及びました。 こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。
高札場
高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。 通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。 宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。
 (保土ヶ谷区役所)
高札場跡
左手へ分かれていく道を見送って旧東海道を進んでいくと、民家の車庫に 初代広重の「東海道五十三次之内 程が谷 新町入口」の浮世絵が描いてありました。 町全体で旧東海道を盛り上げようということなのでしょうか。 その民家を過ぎていくと、右手へ道が分かれていく角に「歴史の道 高札場跡」の標柱が立っています。
歴史の道 高札場跡
宝暦13年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅二間半(約4.5メートル) 高さ一丈(約3メートル)の規模でした。 宿場の高札場には一般の法令等に関するものだけでなく、 隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲出されました。
 (保土ヶ谷区役所)
金沢新町
高札場跡を直進して保土ヶ谷税務署を過ぎていくと、簡易信号機が設置された十字路があります。 その角に「歴史の道 金沢新町」の標柱が立っていて、 正面に続く道は旧東海道で「本陣跡200m」、 左手の道はかなさわ・かまくら道で「道標四基8m」,「政子の井戸300m・北向地蔵590m」となっています。 旧東海道は正面へと更に続いているのですが、 左手の道の先に政子の井戸や北向地蔵などがあるようなので立寄っていくことにしました。 十字路の左手の角には、住宅に沿うようにして石標が四つ並んでいて、その解説板も設置されていました。
横浜市地域有形民俗文化財 金沢横町道標四基
この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。 金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、 道標として四基が建立され、現在残っています。
四基の道標は、それぞれ次のとおりです(右側から番号を付す)。
(1) 円海山之道[天明3年(1783)建立]
左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。 建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。 円海山は「峯のお灸」で有名でした。
(2) かなさわ、かまくら道[天和2年(1682)建立]
左面に「ぐめうし道」と刻されています。
(3) 杉田道[文化11年(1814)建立]
正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。 句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の家元です。
(4) 富岡山芋大明神社の道[弘化2年(1845)建立]
建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。 芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。
 (横浜市教育委員会)
御所台地蔵尊
何やら趣きのある「程ヶ谷宿番所」を過ぎていくとJRの上岩間踏切があります。 踏切を渡ってその先の民家の間を進んでいきます。 程なくして国道1号に出ると、正面には細めの坂道が続いています。 その入口に「歴史の道」の道標が立っていて、 その細めの道は「かなさわ・かまくら道」で、「政子の井戸150m・北向地蔵450m」となっています。 横断歩道を渡って正面の坂道を登っていきます。 福聚寺への石段を見送って坂道を道なりに登っていきます。 岩井町自治会館を過ぎていくと、左手の崖に石段がありました。 上には何があるのだろうと思って、袂に佇む石仏を眺めながら石段を登っていくと、 屋根付きの御所台地蔵尊がありました。 それ以外にもたくさんの石仏がありましたが、謂れなどを記したものは見かけませんでした。 この先にある「御所台の井戸」と関係があるのでしょうか。
御所台の井戸
御所台地地蔵尊から坂道に戻ってその先へ登っていくと、すぐに御所台の井戸があります。 周りは庭木などで囲まれていました。 季節柄、紫色のアジサイの花が咲いていたりもして、小綺麗になっていました。 その中に井戸があって、上には屋根もありました。 井戸の上面には覆いがされていて、中は見えませんでした。
御所台の井戸(政子の井戸)
この道は旧金沢道(金沢・浦賀往還)、俗称金沢横町と呼ばれる道で、 古くより鎌倉へ至る道として知られていました。 この坂は石難坂(石名坂)といい、坂の上の辻に北向地蔵があります。 鎌倉時代、源頼朝の妻政子がここを通りかかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝えられ、 「御所台の井戸」と呼ばれています。 また、保土ヶ谷宿の苅部本陣(保土ヶ谷町1丁目68番地)に江戸時代、将軍が休息した時、 御膳水としてこの井戸の水を使用したと伝えられています。
 ((社)横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)
北向地蔵
御所台の井戸を後にして、傾斜が一段と増してくる坂道を登っていきます。 坂を登り切ると横浜清風高等学校があります。 右手には校舎が、左手にはグラウンドがありました。 グラウンドでは女子ソフトボール部が元気良く練習していました。 高校を過ぎた所の十字路の角に北向地蔵がありました。 高い石柱の上の蓮華座に、赤い帽子と前掛けをしたお地蔵さんが乗った形になっていました。 祠の周囲には雪洞や幟が立てられ、 綺麗な花束もお供えされていて、今でも篤い信仰で守られているようでした。
横浜市地域有形民俗文化財 北向地蔵
所在地 保土ヶ谷区岩井町405番地
時代 享保2年(1717)
寸法 地蔵坐像 総高73cm
蓮華座 総高31cm、径94cm、厚52cm
角柱 総高150cm、幅55.5m
北向地蔵は、僧三誉伝入が享保2年(1717)に、天下泰平・国土安全を祈念するとともに、 旅人の道中安全を祈願して建立したものです。 この場所は東海道の保土ヶ谷宿の通称金沢横町から分岐した金沢・浦賀往還への途中に所在するため、 角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、 金沢方面と弘明寺方面への道案内も兼ねています。
 (横浜市教育委員会)
本陣跡
北向地蔵から元来た道を金沢新町の十字路まで引き返して、旧東海道を進んでいきます。 東海道踏切を渡って保育園の脇を過ぎていくと、 国道1号(現東海道)の保土ヶ谷1丁目交差点に出ます。 その正面に本陣跡があります。 塀があって建物などはよく見えませんが、今では使われていない様子でした。 傍には「歴史の道 本陣跡」の解説板が設置されていて、往時の建物の図が載っていました。 脇には「歴史の道 旧東海道」の標柱もあって、右手の道は「上方見附・一里塚跡500m」、 今歩いてきた道は「金沢新町200m・問屋場跡350m・旧帷子橋跡1250m」となっています。 標識に従って、国道1号を右手へと進んでいきます。
歴史の道 本陣跡
慶長6年(1601)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より 「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。 保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。 同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、 安政6年(1859)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。 明治3年(1870)に軽部姓に改称し、現在に至っています。 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。 保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣がありました。
 (保土ヶ谷区役所)
保土ヶ谷宿本陣跡(1601〜1870)
江戸時代に幕府が諸大名に参勤交代をさせため、東海道五十三接ぎの宿場毎に本陣を置いたもの。 横浜開港東京遷都の頃までありました。
 (1965 横浜市長 飛鳥田一雄記)
脇本陣跡
保土ヶ谷1丁目交差点の手前の右手すぐの所に「脇本陣 大金子屋跡」の標柱があります。 国道1号の左手に続く歩道を進んでいくと、「脇本陣 藤屋跡」の標柱があります。 その先の集合住宅の塀には「東海道五十三次 保土ヶ谷宿」と題した案内板があり、 当時の本陣などの並びが図示されていました。 それによると、街道の左手には、 本陣・苅部清兵衛・苅部屋・新屋・沼津屋・尾張屋・脇本陣藤屋・村田金子屋・石崎屋・田中屋・桔梗屋・脇本陣水屋・新玉屋・夷屋・石川屋・本金子屋と続いていたようです。 保土ヶ谷橋バス停の先にある保土ヶ谷消防団の車庫には 「東海道 程ヶ谷(芳艶)」の浮世絵が描かれていました。 保土ヶ谷消防署本陣消防出張所の前には「歴史の道 保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設」の解説板や 「脇本陣 水屋跡」の標柱があります。 その先に「旅籠屋 本金子屋跡」の標柱があります。
(写真は旅籠屋「本金子屋」跡です)
歴史の道 保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設
本陣・脇本陣
公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、 明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。 しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。
茶屋本陣
正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。 苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。
旅籠屋
はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、 元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。 保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。
茶屋
往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。 文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。
歴史の道 脇本陣(大金子屋)跡
天保年間の大金子屋(八郎右衛門)の規模: 建坪119坪(約393u)、間口7間(約12.7m)、奥行17間(約30.9m)、室数14、玄関付
歴史の道 脇本陣(藤屋)跡
天保年間の藤屋(四郎兵衛)の規模: 建坪119坪(約393u)、間口6間半(約11.8m)、奥行18間(約32.7m)、室数14、玄関付
歴史の道 脇本陣(水屋)跡
天保年間の水屋(与右衛門)の規模: 建坪128坪(約423u)、間口8間(約14.5m)、奥行16間(約29m)、室数14、玄関門構付
歴史の道 旅籠屋(本金子屋)跡
天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模: 建坪79坪(約261u)、間口7間(約12.7m)、奥行11間(約20.9m)、室数13
 (保土ヶ谷区役所)
東海道五十三次 保土ヶ谷宿
東海道五十三次は西暦1601年徳川幕府が宿駅制度を制定してから日本の交通の主要な街道として、 明治の初期にその制度が廃止されるまで栄えました。保土ヶ谷宿は江戸から数えて4番目の宿で、 上の街並みは元治元年(1864)将軍上洛の際に幕府が調査した往還街並絵図のデータをもとに 想像復元したものです。
 (保土ヶ谷宿四百倶楽部)
大仙寺
消防署の道路向かいの辺りから右手へ分かれていく路地を進んでいくと、 JRの大仙寺踏切を渡ったすぐ正面に大仙寺があります。 石段を登って山門から境内へ入っていくと、正面に本堂がありました。 その左手には立派な鐘楼や金剛講神奈川本部の建物や墓地などがあり、 右手には毘沙門天王を祀る祠や石仏が納められた祠などがありました。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、 開山は平安時代中期(970年頃)と云われ、本陣を勤めた軽部家の菩提寺であり、 東海道からは山門をくぐり参道が続いていたようです。
参道の入口近くの集合住宅の塀にも「東海道五十三次 保土ヶ谷宿」と題した案内板があり、 当時の旅籠屋などの並びが図示されていました。 それによると、街道の右手には、大仙寺参道を挟んで、 向かって左側には、釜屋・釜屋・中屋・藤田屋・津の国屋・新金子屋・玉屋・南橋屋・澤潟屋があり、 向かって右側には、つたや・江戸屋・清水屋・尾張屋・幸田屋・松本屋・南橋屋・池田屋・脇本陣大金子屋・豊田屋・床屋・さくら屋・原田屋・青梅屋があったようです。
東国第28番 本尊 大日如来
つゆしもと つみをてらせる だいにちじ などかあゆみを はこばざるまじ
 (西方山 大仙寺)
この世に存在するもので 無駄なものは何ひとつない
プラスになるように プラスになるように 考えて生きることが大事ですぞ
八幡社
本金子屋跡を過ぎた所に信号機のあるT字路があり、その角に「八幡社入口」と書かれた看板が立っていて、 左手に分かれていく道を指していました。 それほど遠くではなさそうだったので立寄っていくことにしました。 民家の建ち並ぶ路地を進んでいくと、今井川八幡橋が架かっています。 橋を渡って正面へ進んでいくと少し登り坂になってきます。 突き当たりのT字路を右折していくと、左手に鳥居が立っています。 鳥居をくぐってその少し先の石段を登っていくと八幡社がありました。 由緒などを記したものは見かけませんでしたが、 創建は鎌倉時代末期の1318年で、祭神は應神天皇、 拝殿の裏手にある本殿は江戸時代初期の建立とのことです。 また菊水観音出現の伝説が残っていて、社殿の手前の右手の方には祠に囲まれた井戸がありました。
八幡社境内社 菊水観音 御由緒
新編武蔵風土記稿に、「 菊水観音出現跡、鳥居に向ひて右の方なり。 楠の株ありてその根の際に少しく窪きところあり。 その底に清水をたたへきはめて清冷なり。 病者、常にこの水を服し(て)平癒し、あるいは眼病を患ふもの、この水にてあらふうときは験ありと云ふ 」と書かれ、近年まで多くの人々がこの霊験に肖っていた。 現在も僅かであるがその霊水を産している。
菊水観音とは、古代中国の時代に周の穆王の侍童が南陽郡れき県、現在の河南省内郷県に流されたが、 そこの菊の露を飲んで不老不死になった「菊慈童」を観音の垂迹とする。 我国では後醍醐天皇に忠節を貫いた楠木氏は菊水紋を家紋に用い、 「大楠公・「小楠公」はその死後、皇室護持の神仏「菊水観音」になったと云われている。
一里塚跡
八幡社から国道1号まで引き返してその先へと進んでいくと、 道路の右側に「歴史の道 茶屋本陣」の標柱が立っています。 その標柱を過ぎていくと、信号機のあるT字路があります。 左手に流れる今井川には瀬戸ヶ谷中橋が架かっています。 橋を見送ったすぐ先に「歴史の道 一里塚跡・上方見附跡」の解説板があり、 その脇には「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」と題した解説板もありました。 この辺りが保土ヶ谷宿の京都側の出入口にあたる上方見附だった所のようで、 小振りの一里塚も復元されていました。
歴史の道 茶屋本陣跡
元治元年(1864)の茶屋本陣(九左衛門)の規模: 建坪63坪(約208u)、間口10間(約19.1m)、奥行6間(約10.9m)、室数、門構付
 (保土ヶ谷区役所)
歴史の道
一里塚跡
街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。 一里つかは、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。 この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。
上方見附跡
程が山宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、 外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。 この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。
 (保土ヶ谷区役所)
東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚
保土ヶ谷宿の松並木  我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、 全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。 慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。 以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、 官民挙げて大切に保護されてきました。 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、 広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。 その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されましたが、時代とともに減り続け、 現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。 この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に 松などの木々数十本を植えました。
保土ヶ谷宿の一里塚  松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれたのが一里塚です。 一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられました。 保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、 古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。 その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方)」の相当する大きさの 塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、 松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。
 (東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会、横浜市保土ヶ谷区役所)
外川神社
瀬戸ヶ谷中橋の少し右手に架かる小振りで小綺麗な仙人橋を渡っていくと、 右手の坂道の上に外川神社がありました。 「外川神社」の扁額の架かる社殿はコンクリート製になっていて、 手前には石灯籠や真新しい狛犬もありました。 社殿の右手には赤い鳥居と祠もありました。 仙人橋の袂には横浜市の名木古木にも指定されている御神木のケヤキの大木があります。
外川神社の由来
外川神社は、保土ヶ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達であった清宮興一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝し、 明治2年、この地に羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したもので、 以来、小児の虫封じ、航海安全に利益があるとされてまいりました。 明治初年、神仏分離令の発布によって祭神を日本武尊とし、外川神社と改称しました。 そして平成6年9月13日、今井川河川改修工事にともない、 無格外川神社は宗教法人として認可され現在に至りました。
外川神社から国道1号まで引き返して、保土ヶ谷宿の上方見附を発って、次の戸塚宿へと向かっていきます。 保土ヶ谷町2丁目バス停を過ぎていくと、岩崎ガード交差点保土ヶ谷歩道橋が架かっています。 すぐ右手にはJRの線路の下にガードがありますが、歩道橋を渡って、国道1号を更にその先へ進んでいきます。 反対側の保土ヶ谷町2丁目バス停を過ぎた所で道が二手に分かれている保土ヶ谷2丁目交差点があります。 角には「歴史の道」の道標が立っていて、右手の道は「旧本町橋跡450m」、 今来た道は「茶屋本陣跡400m・一里塚跡320m・上方見附320m」となっています。 国道1号は正面へと続いていますが、旧東海道は右手に分かれていく細めの道へと入っていきます。
樹源寺
保土ヶ谷町バス停を過ぎていくと樹源寺バス停があります。 その先の右手にある石段を登って山門から境内へ入っていくと樹源寺になります。 正面にある大きなお堂の前を左折していくと、綺麗な庭園の奥に本堂がありました。 手前にある池では綺麗な錦鯉が沢山泳いでいました。 お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでしたが、 鎌倉時代の建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期の1628年に、 苅部家により身延山久遠寺の末寺として開山したようです。
他人を妬みうらやむ人の心には やがて不幸と衰微がおとずれる
 (日蓮宗 樹源寺)
樹源寺を後にしてその先へ進んでいくと、 横浜市保土ヶ谷消防団の器具置場の先に、「歴史の道 旧元町橋跡」の標柱が立っています。 元町橋バス停を過ぎていくとT字路に突き当たります。 その脇には「歴史の道」の道標が立っていて、左手の道は「権太坂」、 今来た道は「上方見附1km・一里塚1km・本陣跡1.5km」となっています。 T字路を左折して元町橋を渡っていくと、正面に歩道橋が見えてきます。 その手前から右手へと坂道が分かれていきます。 角には「歴史の道」の道標が立っていて、右手の坂道は「権太坂・境木地蔵尊1.5km」、 今来た道は「本陣跡1.7km」となっています。 この右手の坂道が、江戸から上方へ向かう東海道で最初に出会う難所だった権太坂になります。
歴史の道 旧元町橋跡
保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)によれば、明治時代の東海道線鉄道工事以前の今井川は ここで街道を横切っていました。 橋は江戸時代の「東海道分間延絵図」にも描かれています。 また、かつての字名は、ここから東側を「元保土ヶ谷」、西側を「元保土ヶ谷橋向」となっていました。
 (保土ヶ谷区役所)
権太坂
かなりの傾斜がある権太坂を登っていきます。 今でもかなりの傾斜がありますが、当時はもっと急な坂道だったようです。 権太坂を1分ほど登っていくと、道の左手に赤い鳥居が立っていて、その奥に石碑がありました。 碑面には「旧東海道 権太坂改修記念碑」と刻まれていて、その裏手には小祠もありました。
権太坂改修記念碑を過ぎて坂道を更に登っていって傾斜が少し緩やかになってくると権太坂陸橋が架かっています。 掘割になった下には横浜横須賀道路が通っています。 陸橋を渡って次第に傾斜が緩やかになってくる権太坂を登っていくと、右手にこんもりとした森があります。 石垣の前に「権太坂」と刻まれた石柱が立っていて、その脇には解説板もありました。
横浜市地域史跡 権太坂
この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。 日本橋から4番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、 宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。 「新編武蔵風土記稿」に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、 耳の遠いこの老人は自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。 また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。 旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所ともなりました。
 (横浜市教育委員会)
石垣に沿って続く緩やかになった道を進んでいきます。 右手にある光陵高等学校の校門の前を過ぎていくと、再び登りの傾斜が増してきます。 先ほどまでの坂を「権太坂一番坂」、この先の坂を「権太坂二番坂」とも云うようです。 現在では一番坂の方が傾斜が急になっていますが、当時はどうだったのでしょうか。 傾斜が増してきた権太坂を登っていくと、坂の途中に信号機の設置された分岐があります。 その道端に「歴史の道 権太坂」の解説板が設置されていて、 「権太坂」という名前の由来に関する説が二つ紹介されていました。
歴史の道 権太坂
権太坂はかつては今より勾配もきつい相当な急坂で、 江戸から上方へ上る旅人が初めて出会う難所として知られていました。 松並木が続く景色もよかったため多くの浮世絵にも描かれています。 しかし、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)の鉄道開通により 旧道は通行量も減って道幅も狭くなりました。 権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修されて、 宅地開発が進むまで往時の街道のおもかげを残していました。
「権太坂」の名前の由来に2つの説
その1 「老人の返事」説
ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名をたずねたところ、 自分の名前をきかれたと思いこみ、「ごんたでございます」と答え、 その名が坂の名になったということです。
その2 「本当は権左坂」説
昔、権左衛紋という人が代官の指図によりひらいてできた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、 いつのころか「権太坂」と呼ばれるようになったということです。
さて、あなたはどちらを信じますか?
 (保土ヶ谷区役所)
次第に緩やかになってくる権太坂を登っていくと、 「権太坂富士見台商店会」の看板が架かる街灯が立つようになってきます。 中華料理店のある辺りまでくると緩やかに降るようになります。 左右の道を見送って道なりに進んでいくとT字路に出ます。 角には境木中学校前バス停があります。 その脇にある保土ヶ谷消防団の車庫の壁には、初代広重の 「五十三次名所図会 五 程ヶ谷 境木立場 鎌倉山遠望」の浮世絵が描いてありました。 正面には境木中学校と境木小学校が隣り合わせにあります。 正面の道を渡った所に「歴史の道」の道標が立っていて、 右手の道は「境木立場跡170m・境木地蔵尊200m」、左手の道は「投込塚の碑160m」、 今来た道は「権太坂」となっています。 旧東海道はこのT字路を右手へと進んでいくのですが、 左手に「投込塚の碑」があるようなので立寄っていきました。
投込塚の碑
境木中学校を過ぎて降り坂になっってくる道を進んでいくと、 集合住宅の脇の樹木や植え込みに囲まれた一角に投込塚の碑がありました。 中央には「投込塚之跡」と刻まれた真新しい御影石の石碑があり、 その両側には馬頭観世音の石碑などがありました。 前には綺麗な花束がお供えされていて、地域の人々に大切にされているようでした。
投込塚之跡
此の地は権太坂投込塚と称し、旧東海道品濃坂につぐ難所であって、 往時旅人の行倒れせし者多く、之を埋葬せる処也。 偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘、現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て、 之が菩提を弔ひ在者也。  昭和三十九年四月建之
境木立場跡
投込塚の碑から先ほどのT字路まで引き返して、その先へと進んでいきます。 境木中学校や境木小学校を過ぎてなだらかになった道を進んでいくと、右手に立派な門がありました。 その道路向かいには「歴史の道 境木立場跡」の解説板が立っていました。
歴史の道 境木立場跡
立場茶屋  宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。 中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、 見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。 また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。 「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、 こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物がったとされ、 参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。
 (保土ヶ谷区役所)
境木地蔵尊
境木立場跡を過ぎていくと、すぐの所に境木地蔵尊があります。 両側に手摺の付いた石段を登っていくと、すぐに境内になります。 境内へ入って右手には石仏などが並んでいて、千羽鶴や花束などが沢山お供えされていました。 左手には手水舎があり、可愛い小僧さんの掲げる手先から水が流れ出ていました。 正面の一段高い所にお堂がありました。 「見光寺飛地境内」と刻まれた石碑もありました。 大きなケヤキも生えていて、袂には「境木大欅」と刻まれた石碑がありました。
保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来
ここ境木は武蔵相模の国境で、江戸時代にはそのしるしが建てられていて、 境木の地名はそれからおきたといわれています。 また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり、 名物の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて、大変賑わったとも伝えられています。 境木の名を有名にしたものは地蔵で、江戸の人達にも崇敬され、今でも境内に寄附された燈籠が残っています。 なおこの地蔵には次ぎのような珍しい伝承があります。 即ち、いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、 「俺は江戸の方へ行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告たので、 漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなった為、 村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁昌したということです。 地蔵堂の鐘は明治になって野毛山の時の鐘に使用され、 横浜市民に大正の大震災まで親しまれました。
 (岩間町 見光寺)
鐘楼(野毛山の時の鐘)
以前お堂の後ろに鐘楼(鐘は安永9年の銘)があり、此の境木の鐘は野毛山に移され「野毛山の時の鐘」として、 明治元年より大正12年9月1日まで親しまれ、同日、午前11時58分に起こった関東大震災まで、 横浜市民に時を知らせてくれました。
 (戸塚観光協会)
目覚めよう 縁といのちの 不思議さに
武相国境
境木地蔵尊から道路に戻ってくると境木地蔵尊前交差点があります。 手前には境木地蔵尊バス停があり、傍には「武相国境之木」と題したモニュメントがあります。 ここは武蔵国と相模国の国境にあたる所で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の境でもあり、 今では保土ヶ谷区と戸塚区の区境になっています。 モニュメントの台には武蔵国・相模国・武相国境・江戸湾・東海道・相模湾などを描いた図が載っていて、 「日本橋 九里九丁」,「京都 百十七里」となっていました。 台の側面には江戸日本橋から京都三条大橋まで続く宿場の名前が列挙されていました。 中央の木柱には、これまで歩いてきた道は「これより武蔵国保土ヶ谷宿一里」、 この先の道は「これより相模国戸塚宿一里九丁」と書かれていました。 手前に生える樹木には「旧東海道品濃一里塚」は左手の道である旨の標識が立っていました。 また、松原商店街にあったのと同じような「歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図」も設置されていました。
境木の由来
ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはそのしるしとして傍示杭(ぼうじぐい)あるいは 境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられ、「境木」の名の由来になったと伝えられます。 またケヤキの大木があったとの説もあります。 この武相国境モニュメントは、ほどがや協働まちづくり工房が企画し、 保土ヶ谷在住の横浜マイスターにより制作されました。
 (保土ヶ谷区役所)
萩原代官屋敷
品濃一里塚へは境木地蔵尊前交差点を左手へ進んでいくのですが、 この左手の谷筋に萩原代官屋敷跡があるので立寄っていきました。 交差点の手前から戻るようにして左手へ続く坂道を降っていきます。 突き当たりを道なりに右折していくと、T字路の先に立派な竹林があります。 その竹林を右手から回り込むようにして続く急傾斜の坂道を降っていくと、谷筋の住宅地に降り立ちます。 その左手の奥まった所に萩原代官屋敷があり、門の前には解説板がありました。 門の先からは人の声が聞こえてきました。 今でも住居として使用されているのかと思って、中に入っていくのは遠慮しておきました。
萩原代官屋敷・萩原道場跡
萩原家は代々旗本杉浦海の代官職として、この地に屋敷を構えました。 旗本杉浦氏は、県下では茅ヶ崎市小和田・菱沼・平塚市四之宮・寒川町宮山・市内では平戸を所領としていました。 幕末から明治初年の当主太郎行篤は嘉永4年(1851)直心影流の免許皆伝を得、ここに道場を開きました。 道場には数多くの剣客が訪れ、萩原家所蔵の「剣客名」には「安政5年(1858)8月、天然理心流近藤勇」の名が記され、 慶応2年(1866)9月までの入門者の総計が225名に達したといいます。 現在の保土ヶ谷区・戸塚区・鎌倉市から三浦市にかけて、 また、平塚市・茅ヶ崎市・寒川町等の広範囲にわたる門弟のため、出稽古を行っていました。 明治45年には萩原家敷地内に「県道師範萩原君碑」が建立されています。
 ((社)横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)
焼餅坂
萩原代官屋敷から境木地蔵尊前交差点まで引き返してくると、 交差点の左前方の角には大きな石柱が立っていて、正面の道は「右 環状二号線」、 左手の道は「左 旧東海道」となっていました。 その脇には旧東海道の案内図や焼餅坂の解説板などがあり、ちょっとした公園のようになっていました。 ここから左手に続く急傾斜の坂道は焼餅坂というようです。 保土ヶ谷宿から権太坂を登って武相国境に着き、そこから焼餅坂を降り、その先の品濃坂を登って 戸塚宿へと向かっていったようです。 いまでもかなりの傾斜がある焼餅坂を降っていきます。
旧東海道
ここは、江戸時代に整備された旧東海道の保土ヶ谷宿と戸塚宿の中間地点で、 武蔵国と相模国の国境にあたります。 この周辺には下記のような史跡スポットがあります。
境木地蔵
階段脇にケヤキの大木がある境木じぞは、休息によいスポットです。 このあたりの高台は、かつて武蔵国と相模国の国境で、その眺望は素晴らしかったようです。
品濃一里塚
江戸日本橋から9里(約36km)の距離にあたり、 道の両側の塚がほぼ当時の形で残っている貴重な史跡です。 当時は旅の休憩所としてにぎわっていたようです。
白旗神社
東戸塚駅東口の近くに鬱蒼とした森があります。 ここが源義経を祭った白旗神社のある白旗山公園です。
焼餅坂
・旧東海道・焼餅坂
旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。 武蔵国と相模国の国境にある権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。 このあたりには、一服する旅人の目当てにした茶屋が並んでおり、 坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。
品濃坂
焼餅坂を降り切って緩やかな道になってくると、細い川に架かる短い品平橋を渡っていきます。 品平橋を渡っていくと登り坂になってきます。 先ほどあった案内板によると品濃坂というようです。 往時はどうだったのか分かりませんが、現在ではそれほどの急坂ではありません。 山際にある石碑などを眺めながら坂道を登っていきます。 坂を登り切った所の右手にこんもりとした森があり、その手前から細い道が分かれています。 「品濃一里塚公園入口」の標識がその右手の道を指しています。 また旧東海道の石標もあって、これまで登ってきた道は「保土ヶ谷宿」、 この先へと降っていく道は「戸塚宿」となっています。 その脇には「品濃一里塚」と題した解説板が設置されていました。
品濃一里塚
慶長9年(1604)徳川幕府は、五街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。 それと同時に、当時あいまいであった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離が判るように、 明確な里程標が必要となりました。 そのため街道の両側には、一里(約4キロメートル)ごとに五間(約9メートル)四方の塚が造られ、 塚の上にはエノキやマツが植えられました。 これが一里塚です。 一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、 塚の上に植えられた木は、夏には小陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、 旅人の格好の休憩場所にもなりました。 そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。 ここ品濃の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。 旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。 東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。 このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、 神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和41年には県の史跡に指定されました。
 (横浜市教育委員会)
品濃一里塚
戸塚宿へは正面に続く坂道を降っていくのですが、 その前に、右手にあるこんもりとした森になった品濃一里塚公園へ立寄っていきました。 案内に従って右手の道を進んでいくとすぐに「品濃一里塚公園」があります。 短い石段を登っていくと、左手にこんもりと丸い盛り土のような所があり、 その手前に「神奈川県指定史跡 品濃一里塚」と書かれた標柱が立っていました。 これが品濃一里塚のようですが、今では大きな樹木が根を張っていて、 往時とは少し様子が違うように思えました。
品濃一里塚
旧東海道の一里塚で、江戸日本橋から9ッ目。 街道の付属施設として道の両側にあったもので、旅人の休息やかご賃計算の目安となった。
 (みんなで探ろう郷土の歴史実行委員会、戸塚区役所)
福寿歩道橋
住宅などが建ち並ぶようになった坂道を降っていきます。 坂を降り切った所にある十字路を直進していくと、程なくして右手に福寿歩道橋が架かっています。 道は正面へと更に続いていますが、今回は右手の歩道橋を渡って東戸塚駅へと向かっていきました。
東戸塚(ひがしとつか)駅
福寿歩道橋を渡り、ビルの間に続く階段混じりの道を進んでいきます。 エスカレータを二つほど乗り継いで降っていき、最後に広い歩道橋を渡っていくと、 東戸塚駅(JR横須賀線)に着きます。