神奈川宿
散策:2008年05月下旬
【街角散策】 神奈川宿
概 要 神奈川宿は東海道五十三次のひとつで、江戸日本橋から3番目の宿場になります。 袖ヶ浦と呼ばれた海の傍を通り富士山も望むことができる所だったようです。 今回は浦島太郎の伝説が残る寺院や開港時代の史跡などを訪ねながら、 旧東海道に沿って設定されている「神奈川宿歴史の道」を歩いていきます。
起 点 横浜市 神奈川新町駅
終 点 横浜市 横浜駅
ルート 神奈川新町駅…神奈川通東公園…良泉寺…笠のぎ稲荷神社…能満寺…神明宮…金蔵院…熊野神社…高札場…成仏寺…滝の川…慶運寺…台場公園…神奈川台場跡…本陣跡…洲崎大神…普門寺…甚行寺…神奈川駅…青木橋…本覚寺…三宝寺…高島山公園…かえもん公園…大綱金刀比羅宮…台町…神奈川台の関門跡…上台橋…横浜駅
所要時間 3時間10分
歩いて... 開港の頃、現在の横浜駅のある辺りは袖ヶ浦という入り江になっていて、 旧東海道はその海沿いに続いていたのだそうです。 風光明媚な所で東海道有数の景勝地だったようですが、今では埋め立てられてその頃の面影はありません。 コースに沿って設置されている解説板を読みながら往時を偲んでみました。
関連メモ 保土ヶ谷宿, 川崎宿
コース紹介
神奈川新町(かながわしんまち)駅
神奈川新町駅(京浜急行本線)から歩いていきます。
中央口から出て、左手すぐの所にあるコンビニの先を左折し、川崎駅方向へと進んでいきます。
神奈川宿歴史の道
所在地:横浜市神奈川区台町〜新町、 延長:約4.3km、 幅員:4〜8m
「神奈川宿歴史の道」は、歴史や伝説を残す要所にガイドパネルを設けると共に、 道づくりと景観整備を行い、横浜市のルーツを楽しく訪ね歩くことができるようにした歴史の散歩道です。 パネル内の解説は絵図や古地図などの歴史的資料を用い、見て楽しい表現を採っています。 また、ガイドパネルの周りには樹木を植えるなど、道の雰囲気づくりや街の景観にも配慮しています。 主要ルートの歩道にはこげ茶色のレンガタイルを敷き、 それに沿っていくと自然にガイドパネルが立つ歴史的な場所に行き着くことができます。 パネル前の歩道や街路灯には、東海道に因んで青海波のシンボルマークがデザインされ、 歩道に設置された車止めには、浦島伝説に因んで亀がデザインされています。
 (出典:横浜市ホームページより抜粋)
神奈川通東公園
煉瓦敷きの道を真っ直ぐに2分ほど進んでいくと、 神奈川新町駅のホームの端の辺りに神奈川通東公園があります。 ここが今回歩く「神奈川宿歴史の道」の起点になります。 神奈川宿の江戸側の入口である「江戸方見附」でもあった所です。 開港時代にはオランダ領事館が置かれましたが、 今ではその面影はなく、石碑「史跡 オランダ領事館跡」が脇に立っているだけです。 公園には「神奈川宿歴史の道」の解説板が設置されています。 同様の解説板はコースの要所に設置されていて、史跡などが紹介されています。
長延寺跡(オランダ領事館跡)
「神奈川宿歴史の道」の起点である神奈川通東公園は、寛永8年(1631)から昭和40年までの330年間の間、 浄土真宗長延寺が所在した場所である。 長延寺は、開港当時、オランダ領事館に充てられた。 当時を偲ぶ狂歌の一節に「沖の黒船歴史を変えてオランダ領事は長延寺」とある。 昭和40年の国道拡幅に伴なう区画整理によって、長延寺は緑区に移転し、跡地は公園となった。 今は、わずかに旧オランダ領事館跡を示す石碑を残すのみである。
土居(桝形)
江戸時代の宿場町の入口には、しばしば桝形がつくられた。 本来、桝形は城郭の一の門と二の門の間の方形の地であるが、 宿場町では街道の両側から土居を互い違いに突き出すだけの場合もある。 神奈川宿の江戸方の入口に当たる長延寺前にも土居を互い違いに突き出した桝形があった。 旧本陣の石井家に伝わる「神奈川宿入口土居絵図」には、 街道両側に高さ2.5メートルほどの土居が築かれ、その上には75センチメートルほどの竹矢来を設けている。
良泉寺
神奈川通東公園から国道15号に出て、横浜駅方向へと進んでいきます。 歩道橋を過ぎていくと良泉寺があります。 その前には新町バス停があります。 「真宗大谷派 良泉寺」と刻まれた石碑のある山門から境内へ入っていくと、 日本庭園風の庭の先に本堂がありました。
良泉寺
良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す。 本願寺第八世蓮如上人に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創、 慶安元年(1648)入寂したこの寺の第四世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、 現在地に移転したと伝えられる。 開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、 本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。
「笠のぎ稲荷神社」の「のぎ」は、「禾」偏に「皇」と書きます。
笠のぎ稲荷神社
良泉寺を後にしてその先へ進んでいくと、すぐに「笠のぎ稲荷神社」と刻まれた石柱が立っています。 その石柱に導かれるようにして良泉寺の先を右折して京浜急行の線路の下をくぐっていくと、 正面に笠のぎ稲荷神社がありました。 朱塗りの神社で、「夫婦和合の大銀杏」と「子宝安全の大楠」の大きな御神木が生えていたりもします。
笠のぎ稲荷神社
笠のぎ稲荷神社は、社伝によると天慶年間(938〜947)に稲荷山の中腹に創祀され、 元寇に当たっては北條時宗より神宝を奉納されている。 元禄2年(1689)に山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、 社前を通行する者が笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と称された。 後に笠のぎ稲荷神社と改称され、明治2年に現在地に遷座された。 また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。 お礼に粢団子を供えるという。
笠のぎ稲荷神社由緒
御祭神 宇賀之魂命 [相殿]明治天皇、日本武尊
御神徳 御祭神の宇賀之魂命は「稲倉魂命」とも書き、或いは「保食神」とも申して、 稲の豊穣を司り、食物を守護する神様です。 我が国は往古より農業国であるため、人々は米を主食として生活し、 篤く農耕の神様である稲荷神社を信仰してきました。 また工業や商業が発達すると、稲荷神社の神徳は商売繁盛や家内安全へと広がり、 衣食住の全てを守護する神様として信心されるようになりました。 稲荷信仰は流行神として時代と共に幅広く普及していき、 現在稲荷神社は全国で最も数多い神社として崇敬されています。
由緒
 沿革
天慶年間(938〜947)に、淳和天皇勅願所浦島院勧福寺の僧侶が、隣域の山腹(稲荷山)に社殿を建立し、 伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられ、 同寺の守護神・附近一帯の産土神として崇敬を集めていました。 文永11年の蒙古来寇の折には、鎌倉の執権北条時宗が菊一の銘刀と神鈴を奉納して、 国家の安泰を祈願したと伝えられています。 戦国時代に兵火に罹災してしまったものの、永禄2年9月19日に再興なって大祭を行ない、 元禄2年9月19日には稲荷山の中腹より山麓に遷座する運びとなりました。 これより神威が益々加わり、社前を通行する者の笠が自然と脱げて地に落ちたことから、 「笠脱稲荷大明神」と称するようになり、後に別当能満寺の阿闇梨が「笠脱」の一字を「のぎ」と改め、 「笠のぎ稲荷大明神」と改称しました。 明治2年には旧社地が京浜間の鉄道敷設用地に接収されたため現在地に移り、 更に霊験あらたかとなって、同17年9月25日「村社」の社格に列し、 大正10年9月17日「神饌幣帛供進社」に指定されました。 大正12年の関東大震災により社殿が半壊に及び、昭和20年5月29日の横浜大空襲には、 社殿・神宝類の悉くを焼失する憂目を見たものの、終戦後いち早く仮社殿を再建しました。 昭和54年12月1日に新しい形式の社殿が完成すると共に、厳かに遷座祭が斎行され、 平成元年の「御社殿造営十周年記念大祭」には、社前に玉垣が完成するに至りました。
特殊
 信仰
古くよりカサノギ稲荷さんにお参りすると、カサ(性病・婦人病)が治るという特殊な伝承があります。 病気にかかった女性は土団子を作って神前に供え、お百度を踏んで祈願をし、 そして霊験を得て病気が治ると、粢団子を作って御礼参りをするという習慣が残っていて、 病気平癒の御利益にも秀でています。
 (笠のぎ稲荷神社)
境内には横浜市有形文化財に指定されている「板碑」がありました。 秩父産の緑泥片岩で出来ている高さ172.5cmの石碑です。 造立年代は不明ですが、鎌倉時代末期から南北朝時代初期と考えられているようです。
横浜市指定有形文化財(考古資料) 板碑
通称「稲荷山」と称した山の麓に位置していましたが、明治初期に現在地に移されました。 碑の形態は東部を三角形とし、その下部には二条の深い切り込みが施され、 身部は枠線によって長方形に区画されています。 身部の上位には阿弥陀如来をあらわす種子「キリーク」を、中位には天蓋を配し、 その下位中央には、六字名号「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研彫りで力強く刻まれています。 本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑ですが、天蓋を配した六字名号と一対の塔を刻した特異な板碑で、 本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です。
 (横浜市教育委員会)
能満寺
笠のぎ稲荷神社から引き返して、京浜急行の線路をくぐってすぐに右手へ進んでいくと神奈川通公園があります。 公園を斜めに横切っていくと、右手に土色の塀に囲まれた能満寺があります。 塀沿いに進んだ所に「高野山真言宗 能満寺」と刻まれた石柱の立つ門があります。 伏息地蔵尊・伏勝地蔵尊・諸龍地蔵尊・護讃地蔵尊・無二地蔵尊・禅林地蔵尊と刻まれた六地蔵に迎えられて境内を進んでいくと、 すぐに本堂があります。 解説板にある「神明宮」というのは、この寺のすぐ先にある神社のようです。
能満寺
能満寺は海運山と号し、古義真言宗に属す。 正安元年(1299)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、 光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。 本尊は高さ5寸(15センチ)木造坐像の虚空菩薩で、海中より出現したと伝えられる。 かつては、神明宮の別当寺で同一境内に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。
神明宮
能満寺を後にしてその先へ進んでいくと、すぐの所の十字路の角に神明宮があります。 角の鳥居から境内へ入っていくと、小振りな社がありました。 屋根には3本の鰹木が乗り、内削ぎの千木が聳えていました。
神明宮
神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。 「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ正安元年(1299)の勧請としており、 この神社と能満寺が草創当初より極めて密接な関係にあったことを伺わせる。 かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現われ、 洲崎神社およびこの神社に牛頭天王を祀ったとの伝承もある。 また、境内にある梅の森稲荷には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。
神明宮を出てその先へと進んでいきます。 突き当たりの神奈川小学校の所を左折していくと、 校庭の角に東海道分間延絵図の神奈川宿の部分のタイル絵があります。 神奈川宿や「神奈川」の地名に関する解説文も載っていました。
東海道分間延絵図
江戸幕府が東海道の状況を把握するために文化3年(1806)に作成した詳細な絵地図です。 沿道にある主な問屋・本陣・脇本陣・寺社などが丹念に描かれ、一里塚・道標・橋・高札なども描かれています。 東海道の他にも、中山道・甲州道・奥州道・日光道の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成されました。
絵図にみる神奈川宿
神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町。 右の図は、江戸後期・幕府の道中奉行所が作った「東海道分間延絵図」のうち、神奈川宿の部分である。 図の中央には滝ノ橋が描かれ、この橋の東側に神奈川本陣、西側に青木本陣が見えている。 右端は江戸側からの入口で、長延寺が描かれている。 左端の街道が折れまがったあたりが台町であり、その崖下には神奈川湊が広がっている。 開港当時、この図に見られる多くの寺が、諸外国の領事館などにあてられた。
絵図併に大概書
寛政(1789〜1801)中、あらたに命を承けて五街道及びそれに附属する道路の若干の絵図を編修した。 縮尺は一里を曲尺七尺二寸とし、道路の迂回曲折は方位に従って真直に伸して衝図としたから、 国や郡の境界、宿や村の区分、河川の源や未派、及び寺院や宮祠の区域、それ以外のことなどは、 一層明らかとなったが、これらには悉く図の傍に註記し、集落の両境を道路に接するものは朱の丸印で区分した。 また、見聞できる範囲の山川、城市、寺観、霊廟、古跡、古墳などで道路の傍にあるものについては、 遠近にしたがって具に載せた。 かの三山五湖(この場合は富士山、箱根、木曽などの山々や、琵琶湖、浜名湖などの湖をさす)を塊視し、 杯看するが如きはそうである。 また、大概書というのは、顛末の事を述べて煩雑な諸書、錯綜せる駅路、庶事は、その要事をとり、 深くしらべてただし、総目に具にのせた。 こうして、文化3年(1806)の冬にことごとく献上し、幕府の書庫に蔵めた。 そしてこれらの完成を報告したところ、また命を受けたから、 手写して藁本を作り幕府に永蔵して後人の参考に備えるのである。 その図は、文飾をはぶき、事実をくわしく記した。 それ故、必ずしも名文をこととはしていない。 また、この絵図の意図は、これを見る人に、居ながらにして歩きなれた路を歩いているかのようにすることにある。 庶鰻、遺脱なかれと思うのみ。
上無川
「神奈川」は、鎌倉幕府の執権、北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名であるが、 その由来にはさまざまな言い伝えがある。 その一つとして「江戸名所図会」の上無川の項には「 神奈川本宿の中の町と西の町の間の道を横切って流れる小溝で、 水が少ししか流れておらず、水源が定かでないため上無川という。 カミナシガワのミとシを略してカナガワというようになった」という説が記してある。 上無川は、現在の神奈川小学校東脇にあったとされているが、 関東大震災後の復興計画による埋め立てられ、今では川の姿を見ることはできない。
タイル絵のある角を右折して小学校に沿って進んでいきます。 校門を過ぎていくとT字路に突き当たります。 そこを左折していくと国道15号に出ます。 右折して国道を100mほど進んでいくと神奈川二丁目交差点があります。 横断歩道を渡っていくと、右手の脇に「神奈川宿歴史の道」の案内図が立っています。 付近の地図が載っているので参考にしましょう。 交差点を左手に進んでいくと瑞穂橋や龍宮橋などがある「海辺を巡る道」が続いているようですが、 今回はその地図に載っている「神奈川宿歴史の道の松並木」へと進んでいきました。
金蔵院
東神奈川駅入口バス停を過ぎてコンビニの先を左折していきます。 東神奈川駅前郵便局の前を過ぎていくと、十字路の角に金蔵院があります。 十字路の右手に入口がありますが 「当寺に無用の者の境内立入りを禁ず」となっています。 十字路を直進して白壁に沿っていくと山門がありますが、その前も木柵で閉ざされています。 どうやら一般には公開されていない寺院のようでした。
金蔵院
金蔵院は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。 その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。 「金川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。 参道ま街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。 本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。 かつては毎年1月に当院の住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。
熊野神社
金蔵院の山門を過ぎていくと、すぐ左手に熊野神社があります。 境内の裏手から入って正面へ回っていくと、朱塗りの立派な社殿がありました。 正面には大きな鳥居があり、その両脇には特大の狛犬が控えていました。 立派な舞殿もあり、金刀比羅社・大島社・稲荷社・香取社・鹿島社も合祀されていました。 由緒書きを見てみると、記紀に登場する有名な神の名がずらりと並んでいました。 また社殿の右手の奥には樹齢400年の御神木であるイチョウの古木「公孫樹」があります。
神奈川熊野神社(熊野権現)御由来
旧社格 郷社(明治17年4月4日列格))
鎮座地 横浜市神奈川区東神奈川1丁目1番地(武蔵国橘樹郡神奈川宿)
御祭神 (主祭神)国常立尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊
(合祀神)天照皇大神、素盞嗚尊、大己貴命、小名彦名命、武御名方命、五十猛命、大物主命、倉稲魂命、速玉之男命、船玉神
御由緒
 概要
当社の御創建は寛治元年(1087)6月17日、醍醐三宝院宮勝覚僧正が紀伊国(和歌山県)牟婁郡熊野に坐す 熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、 神奈川郷の総鎮守として熊野三社大権現と号し奉る。 口碑によれば、後三年の役に、源義家公社参せられ、帰路再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝へられる。 その後応永5年、山賊等のため社祠を焼かれ、僅に草祠ばかりが存していたが、 明応3年(1494)6月、上田蔵人が普請奉行となり、宏荘なる社殿が再建せられた。 また、永正7年(1510)6月20日、権現山合戦の砌、兵火に罹り、烏有に帰してしまった。 次で天正5年(1577)6月、時の別当恵賢僧都等が相はかり社殿を建立し奉る。 天正10年7月、徳川家康公、北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、 別当が社前に傳し秘法を修し奉りしことなど、徳川家との関係深く、 別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、 御祈祷の宝とく(おふだ)を献上し奉ったと伝へられる。 その後、正徳2年(1712)6月、山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ移し奉り、 旧地には小祠を安置し、社地三反八畝十歩を有していたが、明治4年之を上地す。 慶応4年(1868)1月7日、神奈川大火により烏有に帰したが、逐次再建整備し、 明治17年8月に郷社に列せられ、明治40年4月、神饌幣帛料供進社に指定せらる。 昭和11年8月、御鎮座850年祭を斎行、20数台の山車が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。 昭和20年5月29日、戦災により焼失、剰え境内地をも駐留軍に接収せられたるため、 やむを得ず西神奈川1丁目(二ッ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉祀す。 同27年8月、宮神輿を奉製、その後接収解除となり、再建復興に努め、 同38年8月、現社殿を完成、遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌39年8月、竣工奉祝祭を執行した。 その後、41年11月、地区内戦没者慰霊碑を建立、 同49年8月再建10周年記念事業として舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。 昭和61年、御鎮座900年祭に当り、記念事業奉賛会を結成し、 氏子24ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、 神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し、社域の整備を達成した。 謹んで御事歴の概要を誌し奉る次第であります。
御神木 公孫樹
樹令400年(昭和48年横浜市名木古木指定)
慶応4年(1868)神奈川大火、昭和20年(1945)戦災に焼失したが見事に再生し、 毎年秋にはギンナンがみのり、俗に「火防のイチョウ」として広く親しまれている。
 (社務所)
熊野神社を後にしてその先へ進んでいくと、道の両側には松並木が続くようになります。 往時の東海道にも街道に沿って松並木が続いていたとのことですが、 ここの松はまだ若い木なので、江戸時代から生えている松ではないようでした。
高札場
左手の広場を見ながら真っ直ぐに進んでいくと高札場がありますが、 江戸時代にはここよりもう少し南の方にあったようです。 上段に二つ、下段に三つの高札が並んでいて、 上段の右手の高札には解説文が、左手の高札には当時の高札の一例が掲げられていました。 小さな屋根付きとは云っても長年の風雨により、墨で書かれた文字は擦れてくるだろうし、 維持するのも大変だったのだろうと思います。
高札場
高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。 宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれて、やがて姿を消しました。 かつて神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にありました。 その規模は、間口約5m、高さ3.5m、奥行1.5mと大きなものでした。 この高札場は、資料をもとに復原したものです。
高札と高札場
東海道神奈川宿のほぼ中央、滝ノ川のすぐ脇に高札場があった。 高札場は、幕府の定めた法度や掟などと呼ばれる法令を庶民に徹底させるために設けられた施設である。 高札と呼ばれる板にキリシタン禁令、道徳的規範など、さまざまな事項を書き、 これを掲示し、風雨を避けるための屋根をかぶせた施設を作っていた。 神奈川宿の高札場は、横5.7メートル、奥行1.7メートル、高さ3.5メートルほどの大きなもので、 当時の寸法通りに復原したのがこの高札場である。 復原の根拠に使用した史料は、神奈川宿の本陣を勤めた石井家に伝わった文献で、 江戸時代末期に高札場が損傷したため、これを作りなおした際、材木の寸法や値段等を詳細に書き出したものである。 これをもとにして当時の姿を再現した。
左に掲げるのは高札の一例である。 街道を往来する祭に荷物や人を運ぶために要する伝馬賃などを列記している。 すなわち第一項では馬に載せる荷物は四十貫目(150キログラム)、 人が持つ荷物は五貫目、長持は三十貫目を基準とすることなどについて述べ、 第二項では朱印伝馬人足を規定以上に出さぬこと、 第三項ではたとえ国持大名でも東海道では一日人速五十人、馬五十頭を超過していはならぬこと、 第四項では伝馬は町中の馬を全部出し遅滞せぬようにすること、 第五項では規定以上の料金を取ってはならぬこと、などと述べている。 その後に、無理難題を言ってはならぬことを付け加え、最後にこの規定に違反せぬようにせよと述べている。 この規定は正徳元年(1711)5月に決められた。 以後、物価変動にともない料金が改定されるなどの修正はあるが、 幕末に至るまで街道の伝馬人足に関する基本的な規定となった。
 (横浜市)
成仏寺
高札場を後にして松並木の道を進んでいきます。 横浜市神奈川地区センターを過ぎていくと十字路があります。 そこを直進して壁沿いに進んでいくと、右手に成仏寺があります。 右手には「浄土集 成佛寺」、左手には「史跡 外國宣教師宿舎跡」と刻まれた石碑が立つ門から境内に入っていくと、 正面すぐの所に今風の建物の本堂があります。 開港当時はアメリカ人宣教師の宿舎に充てられていたのだそうです。
成仏寺
成仏寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。 徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。 安政6年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、 ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだという。 ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した。 またブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力した。
滝の川
成仏寺を後にしてその先へと進んでいきます。 T字路を直進して滝の川公園を過ぎていくと、滝の川沿いの道に出ます。 滝の川は神奈川宿の中ほどを流れていた川だったそうです。 角には「神奈川宿歴史の道」の案内図が立っています。 それによると、左手の道は「神奈川の台場跡」、右手の道は「慶運寺」となっています。 付近の地図も載っているので参考にしましょう。 左手の海側にある「神奈川の台場跡」は後ほど訪ねるとして、先ずは右手にある慶運寺へと向かっていきました。
(写真は左手の先にある滝の橋から写したものです)
滝の川
みんなの心がけできれいな川
 (飯田町町内会、横浜市下水道局)
慶運寺
T字路を右折して滝の川に沿って進んでいきます。 京浜急行の線路の下をくぐっていくと、右手に慶運寺があります。 入口には「慶運寺 うらしま寺」と書かれた標識があり、 亀の台座に乗った「龍宮傳来 浦島観世音浦島寺」と刻まれた石柱もあります。 また「史跡 フランス領事館跡」と刻まれた石碑もありました。 「浄土宗 慶運寺」と刻まれた門柱から中へ入っていくと、奥に本堂がありました。 その正面には六地蔵があり、左手には「浦島観世音」の扁額の架かるお堂がありました。 このお寺には浦島太郎の伝説が残っているようです。
慶運寺
慶運寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観によって開かれた。 京の連歌師谷宗牧は、「東国紀行」の条に「 ほどなくかな川につきたり、此所へもこづくへの城主へいひつけられ、旅宿慶運寺にかまえたり 」と書いている。 開港当初はフランス領事館に使われた。 また、浦島寺とも呼ばれている。 浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。
横浜市地域有形民俗文化財 浦島太郎伝説関係資料
横浜市神奈川区にも伝わる浦島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考えられますが、 同寺は慶応4年(1868)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。 しかし、『江戸名所図会』『金川砂子』などの文献には縁起に関する記述がみられます。 それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。 太郎が20歳余りの頃、燈の江の浦から龍宮にいたり、そこで暮らすこととなった。 三年の後、燈の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、 やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、三百年前に死去しており、 武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。 これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。 そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。 この浦島伝説が伝わっていた観福寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(本寺)と、 大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた蓮法寺(神奈川区七島21番地)に残されています。 慶運寺に移された浦島観世音は、浦島太郎が龍宮から玉手箱とともに持ち帰ったとされるもので、 亀の形をした台座の上に「浦島寺」と刻まれた浦島寺碑や浦島父子塔とともに、 浦島伝説を今日に伝えるものです。
 (横浜市教育委員会)
台場公園
慶運寺から先ほどのT字路まで引き返してその先へ進んでいくと、すぐ先で道が二手に分かれています。 道標類はありませんが、先ほどの案内図を思い出して、左手の道を進んでいきます。 先ほど過ぎてきた滝の川公園の脇を過ぎて道なりに進んでいくと、国道15号に出ます。 左手には神奈川警察署があります。 国道の上には高速道路の横羽線が通っています。 出た所の神奈川署前交差点の歩道橋を向こう側へと渡っていきます。 すぐ右手にあるコンビニの横から続く道へ入って道なりに真っ直ぐ進んでいきます。 突き当たりのT字路を右折して50mほど先を左折していくと、左手に小さな台場公園があります。 入口から続くコンクリート敷きの道を進んでいくと、奥に「神奈川台場跡」の解説板がありました。
神奈川台場跡
先ほどの「神奈川宿歴史の道」の案内図によると、台場跡はこの少し先にあるように描かれていたので、 公園の先へ向かっていきました。 奥から出て民家の間を進んていって突き当たりのT字路を左折していくと、 右へ折れ曲がっていく角に「史跡 神奈川台場跡」と刻まれた石碑が立っていました。 その脇には「神奈川台場跡」の解説板があって、内容は先ほどの台場公園にあったのと同じでした。 この辺り一帯に台場があったということのようです。 『現在では石垣の一部を残すのみ』とのことですが、 この石標の後ろにある石垣がそれなのだろうと思います。
神奈川台場跡
安政6年(1859)5月、幕府は伊豫松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築しました。 当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇形で、 約7万両の費用と工期約1年を要し、萬延元年(1860)6月竣工した。 明治32年2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、 大正10年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。
本陣跡
神奈川台場跡から右手へ進んでいきます。 突き当たりを道なりに右折していきます。 民家の脇にある小振りの笠間稲荷大明神を過ぎていき、 左手への道を見送った先の十字路を左折していくと、 軽く登った所に滝の川に架かる棉花橋を渡っていきます。 少し降り気味に進んでいくと広い車道に出ます。 そこを右折していくと、国道15号の中央市場入口交差点に出ます。 国道の上には高速道路の横羽線が通っていて、 それと交錯するようにして幸ヶ谷歩道橋が架かっています。 その袂に「神奈川町本陣跡と青木町本陣跡」と題した解説板がありました。
神奈川町本陣跡と青木町本陣跡
慶長6年(1601)、東海道に宿駅・伝馬の制が定められたとき、 市域では神奈川、保土ヶ谷の二宿(戸塚宿はその後の設置)が設けられました。 神奈川宿では、滝の橋をはさんで、東の神奈川町、西の青木町に本陣ができ、 神奈川は石井家(源左衛門)、青木は鈴木家(源太左衛門)が任命されました。 神奈川町本陣跡は、現小野モータースあたり、青木町本陣跡は、現横浜銀行中央市場支店あたりです。 本陣は、幕府により指定された大名・公家・役人などの宿泊・休憩する施設です。
 ((財)横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)
幸ヶ谷歩道橋を渡って国道15号の向こう側へ渡っていくと、正面には幸ヶ谷小学校があります。 国道を左手へ進んで神奈川公園前バス停を過ぎていくと、 程なくして右手に「宮前商店街」の看板が掲げられた道が分かれていきます。 今回はこの宮前商店街へと入っていきます。
洲崎大神
宮前商店街を1分ちょっと進んでいくと、右手に鳥居が立っています。 脇に立つ「洲崎大神」と刻まれた石柱を見ながら鳥居をくぐってその先の短い石段を登っていくと境内に着きます。 鳥居や石燈籠などを過ぎて、その先にある石段を登った一段高い所に洲崎大神があります。 幅の広い拝殿の屋根には5本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 奥の本殿にも鰹木や千木がありましたが、数は確認し忘れました。 拝殿の前に寄り添うように生える三本の大木が印象的だったりします。
洲崎大神
洲崎大神は、建久2年(1191) 、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祠ったことに始まると伝えれている。 『江戸名所図会』の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。 神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。 そこが、かっての船着場である。 横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、 付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。
洲崎大神由緒略記
祭神 天太玉命、天比理刀賣命
相殿 素盞男命、大山咋命
例祭 6月6,7,8日
創立 建久2年6月26日
祭神天太玉命は神祇政治の祖神天比理刀賣命はその御地の神にまします。 源頼朝公石橋山の合戦に破れ相州に真鶴より海路安房に渡り 安房洲崎なる__神社に参籠再起を祈る。 後に天下を平定して鎌倉幕府を開くや神恩を忘れず、安房神社に幣帛を献ると共に この地を選定し__勧請して一祠を創建し鎌倉幕府勅轄の神社とて、 代々祭典を厳修せるる。 頼朝公奉献の神鏡今に伝承す。 昭和15年に御鎮座750年祭執行す。 大正12年9月1日の震災、昭和20年5月10日戦災等氏子と共に度々火災に社殿炎上せるも、 その度氏子_力奉仕により茲に現存の社殿を完成し、 昭和31年6月竣工奉告祝賀祭を執行す。
洲崎神社
源頼朝がこの地に安房国安房神社の分霊を勧請して 建久2年(1191)幕府直轄の神社として創建した。 明治元年明治天皇東行に__に内侍所を設置された。 昔、境内に檍(あわき)のご神木があって青木町の地名がこれから生まれた。
 (神奈川区役所)
普門寺
洲崎大神を後にして宮前商店街を進んでいくと、1分もしない所に「普門寺」の解説板が立っています。 その右手の路地を入っていくと、「真言宗智山派 普門寺」と刻まれた石柱が立っています。 その先の坂道をひと登りすると普門寺があります。 一見して普通の民家のように思えて入り辛いのですが、 奥には墓地が見えているので、今でもお寺として営まれているのだろうと思います。
普門寺
普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属す。 山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことにより起こった。 また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、 観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。 江戸後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。
甚行寺
普門寺を後にして宮前商店街をその先へ進んでいくと、程なくして右手に分かれていく路地があります。 その道へ入っていくと、左手へ曲がっていく角に甚行寺があります。 山門の脇には「史跡 フランス行使館跡」の石碑が立っています。 「真宗高田派 真色山清浄之院 甚行寺」の表札が架かる山門をくぐって境内へ入ると、 今風の堂々とした本堂がありました。
甚行寺
甚行寺は、真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。 明暦2年(1656)第一世意圓上人が本山専修寺の第十四世尭秀上人を招いて、この寺を草創したと伝えられる。 開港当時、本堂は土蔵造であったが、改造を加えてフランス行使館に充てられたといわれている。 大正12年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失し、さらに昭和20年の横浜大空襲にも再度全焼した。 その後、昭和46年に本堂・客殿を鉄筋コンクリート造で再建し、現在に至っている。
人は去っても その人のほほえみは去らない
人は去っても その人のぬくもりは去らない
人は去っても 拝む手の中に帰ってくる
神奈川駅
甚行寺から宮前商店街に戻ってその先へ進んでいくと、程なくして広い国道1号に出ます。 そこを右折していくと、趣きのある姿をした神奈川駅(京浜急行本線)があります。 駅舎の脇には青木橋が架かっています。
神奈川宿歴史の道
東海道五十三次の日本橋よりかぞえて三番目が神奈川宿である。 この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。 上図は、江戸幕府の道中奉行が作った『東海道分間延絵図』である。 図の中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。 折れ曲がったあたりが台町である。 ここ神奈川駅は、折れ曲がった道のすぐ右にあたる。 明治5年の鉄道開通の際に設けられた神奈川停車場はすぐこの南側に位置していた。 そのため、神奈川駅は、神奈川宿の名前を今でも残している。 平成4年の改築にともない、京浜急行の協力のもと、 神奈川宿歴史の道にふさわしい和風で瀟洒なデザインの駅舎に生まれ変わった。 ここ神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。 開港当時、この図にみられる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。 神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象に、 東は神奈川通東公園から西は上台橋に至るおよそ4キロの道のりとなっている。
青木橋
京浜急行とJRの線路の上に架かる広い青木橋を渡っていくと、正面の丘の上に本覚寺が見えてきます。 橋を渡った先の横断歩道を渡って石垣の前を左手へ進んでいくと、右手へ道が分かれていきます。 また、そこから右手に戻るようにして登っていく坂道も分かれていきます。 その角には「神奈川宿歴史の道」の案内図があるので参考にしましょう。 右手の道は「台町の茶屋」、戻るようにして登っていく坂道は「本覚寺」となっています。 右手の道は台町の茶屋から神奈川台の関門跡へと続いていますが、 神奈川宿歴史の道は右手に戻るようにして登っていく坂道へと続いています。
本覚寺
坂道を登っていくと左手へと曲がっていきます。 その角から正面へ分かれていく道の両側に、 「曹洞宗青木山 本覚寺」と刻まれた石柱と「神奈川宿歴史の道」の解説板があります。 その先の石段を登っていくと、「史跡 アメリカ領事館跡」と刻まれた石碑の先に本覚寺の山門があります。 振り返ると、開港時代には入り江だった所を一望できますが、 今ではビルなどが建ち並んでいて、すっかり様変わりしています。 山門をくぐっていくと、右手には「子育て地蔵」の祠があり、左手には鐘楼や墓地などがありました。 その先の正面に立派な本堂があり、右手に社務所がありました。
本覚寺
本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。 もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、 天文元年(1532)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。 開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、 さらには湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという。 領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。
毛虫が蝶に変わる わたしも変わらねばならぬ
三宝寺
本覚寺の山門の手前の右手にある駐車場を抜けていくと、下から登ってくる坂道に出ます。 その坂道を右手へ登っていくと、坂の途中から崖に迫り出すような形で三宝寺があります。 入口には小振りの五輪塔と石仏が佇んでいて、白色や桃色のツツジが咲いていました。 解説板に往時の絵が載っていますが、その頃は崖に迫り出すような所にはなかったようです。 何かの理由で場所が少し移ったのかも知れません。
三宝寺
三宝寺は、瑠璃光山と号し、浄土宗に属す。 慶長2年(1597)に寂した嘆誉和尚の草創である。 弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが、関東大震災で被害を受け、第二次大戦で焼失した。 現在の本尊は、その後、東京芝の大本山増上寺より遷座したものである。 当時で忘れてならない人物として第21世住職弁玉和尚がいる。 和歌を橘守部・岡部東平に学んだ弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人である。
三宝寺を後にして坂道を更に登っていくと、傾斜が少し緩やかになった辺りで道が二手に分かれています。 その左手に生える大きな樹木の袂に「神奈川宿歴史の道」の解説板が立っています。 解説板には、入り江の向こう側にある横浜へと鉄道を通すべく、 砂州のように埋め立てた様子の写真が載っていました。 まるで京都府北部にある「天の橋立」を思わせる感じで、海の中に鉄道が敷設された様子が伺えます。 今では左右の海も埋め立てられてビルが建ち並び、当時からは想像できないほどすっかり様変わりしました。 (当時の写真を拡大表示)
鉄道の開通と埋立
上図は、明治初年に当地付近から横浜駅西口・高島町方面を写した写真である。 青木町から野毛浦まで弓なりに延びる埋立地が高島嘉右衛門が請負った鉄道用地である。 湾の付け根をショートカットして、鉄道を通した様子がよくわかる。 今は横浜一の繁華街である西口あたりは、当時は海の中であった。 今では、西口は勿論のこと、21世紀に向けて開発が進む「みなとみらい21地区」を一望でき、 未来に向かって発展する横浜の街と湊の眺望を楽しむことができる。
高島山公園
分岐の右手のすぐ先には高島山公園があります。 道に沿って二段になっていて、下段に「望欣台の碑」、上段に「弁玉の歌碑」があります。 公園の東側が開けていて街並みを見渡すことができます。
望欣台の碑と弁玉の歌碑
この丘は、高島山と呼ばれている。 高島嘉右衛門が別邸を営んだためにこう呼ばれるようになった。 鉄道用地埋立などの事業の後、嘉右衛門がこの丘に閑室を設け港内の繁栄と事業の功績を望み、 欣然として心を慰したことから望欣台と名付けられた。 高島山公園には、明治10年に立てられた嘉右衛門を顕彰する「望欣台の碑」が今も残っている。 また、「弁玉の歌碑」もある。 三宝寺の住職であった大熊弁玉は長歌をよくし、横浜の幕末から明治初期の文明開化を歌に残している。
カラスにご注意
カァーッ(近づかないで!)
ヒナや巣を守るためにいかくすることがあります。 注意して通行して下さい。
このような方法も効果があります。 「かさをさす」,「ぼうし」,「かばん」
 (横浜市)
横浜市地域史跡 望欣台の碑
望欣台の碑は、横浜の都市形成期における恩人の一人である高島嘉右衛門を顕彰する碑です。 嘉右衛門は、高島学校などの洋学校の創設・経営や瓦斯事業、高島町埋立てなどの土木事業のほか、 洋館の建築、港座(洋式劇場)の経営など多方面に貢献しました。 碑は、現在、高島山公園にありますが、もとは近くの高島邸にあったものです。
碑高285.0cm、碑幅150.0cm、碑厚30.0cm
 (横浜市教育委員会)
横浜市地域史跡 弁玉歌碑
寸法 碑高246cm、碑幅153cm、碑厚15cm
この碑は、幕末・明治初期にかけて、神奈川三宝寺の住職であった歌人弁玉の歌碑兼顕彰碑です。 弁玉は、文政元年(1818)江戸浅草俵町に大熊卯八の四男として生まれています。 天保元年(1830)13歳で江戸下谷の清徳寺大潮のもとで得度し、 下総国飯沼の弘経寺で修業したのち、芝の増上寺に入り、嘉永3年(1850)三宝寺の住職に転じ、 以後、明治13年に没するまで神奈川の人となっています。 和歌は、橘守部、岡部東平、普門寺瓊音などに学んだ。 とくに長歌に秀れ、文明開化初期には、石鹸玉、伝信機などの新事物を巧みに捉えて長歌にうたい注目されています。 また、明治10年、横浜の発展に尽した高島嘉衛門の功績を称え建立された「望欣台碑」の碑文を揮毫し、 文明開化期の横浜の発展経路を明確に伝えています。 長歌集「由良牟呂集」は、明治12年(1879)弁玉が没する1年前に門人によって出版されています。 文明開化期の横浜の発展を知るうえで貴重な史跡です。
 (横浜市教育委員会)
(ここの解説板は、「嘉右衛門」ではなくて「嘉衛門」となっていました)
かえもん公園
高島山公園を後にして、その先へと坂道を登っていきます。 坂を登り切ってなだらかになった道を1分ほど進んでいくとT字路があります。 そこを左折して「高島先生顕彰碑」の前を過ぎていくと、左右に通る道に出ます。 正面の下にはかえもん公園があります。 高島嘉右衛門氏に因んだ名前の公園です。 そこを右折して、坂道を緩やかに降っていきます。
高島先生顕彰碑
呑象高島嘉右衛門先生ハ 壮年明治維新ノ風雲ニ際 會シ志ヲ國運ノ興隆ニ致 シ近代産業ノ先駆ヲ為シ 就中横浜市発展ノ基礎ヲ 築ケル功績大ナリ殊ニ其 ノ経綸ノ易理ニルテ實践 セラレシハ最モ偉ナリト 称スベシ仍チ先生幼ヨリ 周易ヲ喜ビ研鑽捲ズ其ノ 堂奥ニ_ジ是ガ功ト利ト ヲ公益ニ顯揚セラレ其ノ 学ト術トハ大成シテ高島 易断ノ著トナル傳ヘテ五 十年茲ニ其ノ稿成ルノ地 ニ記念ノ碑ヲ建ツ
 (汎日本易学協會)
私学会館にある大きな内山岩太郎翁之像を過ぎて真っ直ぐに進んでいくと十字路があります。 右手の石段を登っていくと上台町公園がありますが、十字路を左折していきます。 左折して右手へ分かれていく道を見送って坂道を降っていくと、 「神奈川台の関門跡」の解説板が立つ道に降り立ちます。 歴史の道は右手へと続いているのですが、左手の先にも少し続いているので、立寄っていくことにしました。 本覚寺へ登っていく坂道の登り口の所から左手に続く道を進んでくるとここまで来られます。 実際にはそこまで往復してきたのですが、 今回はそこまで一気にワープして、こちらへやって来る向きに紹介します。
大綱金刀比羅宮
青木橋の先の横断歩道を渡って左手へ進んでいくと、 本覚寺へ登っていく坂道が右手に戻るようにして分かれていきますが、 その左手に続く道を進んでいきます。 三宝寺を上に見ながら突き当たりを道なりに左折していくと左右に通る道に出ます。 そこを右折していくと「三宝寺」と刻まれた石柱が立っています。 その先に赤い鳥居が立っていて、脇には「大綱大神金刀比羅宮鎮座」と刻まれた石柱があります。 鳥居をくぐって、「大綱大神」や「金刀比羅宮」の青い幟が並ぶ石段を登っていくと、 左手に大綱金刀比羅宮があります。 社殿の右横には顔だけの天狗の像があったりもします。 手前の右手には「稲荷社」の扁額の架かる赤い鳥居と小祠があり、 「正一位 稲荷大明神」と書かれた赤い幟がはためいていました。 その奥には小さな池があって、錦鯉などが泳いでいました。 その奥の岩壁には洞があって注連縄が張られていました。
大綱金刀比羅神社
この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯鋼社といわれ、今の境内後方の山上にあった。 その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。 かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、 大天狗の伝説でも知られている。 また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。 この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった。
台町
大綱金刀比羅宮を過ぎていくと登り坂になってきます。 道端には安藤広重の『東海道五十三次之内神奈川』の浮世絵が掲げられていました。 丁度この辺りになるのでしょうか、 往時は坂道に沿って茶店などが並び、そのすぐ左手は袖ヶ浦と呼ばれる海になっていて、 東海道有数の景勝地だったようです。 今では海は埋め立てられて集合住宅などが建っていて、往時の面影はありません。 「文久三年 田中家」の看板が架かる料亭があったりもします。 文久3年(1863)と云えば江戸時代の末期から続いている老舗のようです。 田中家を過ぎて少し行った所に「神奈川宿歴史の道」の解説板がありました。 (浮世絵「神奈川」を拡大表示)
神奈川宿 袖ヶ浦
たどり行くほどに金川(神奈川台町)の台に来る。 爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、 浪うちぎわの景色いたってよし。
 (十返舎一九「東海道中膝栗毛」より)
神奈川の台と茶屋
ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地であった。 弥次さん、喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも、 「爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎわの景色いたってよし」とある。 「おやすみなさいやァせ」茶屋女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、 鯵をさかなに一杯ひっかけている。 上図の「櫻屋」が現在の料亭田中屋のあたりだといわれている。
神奈川台の関門跡
解説板を過ぎて坂道を更に登っていくと、坂を登り切って緩やかになってきた所で、右手から道が降ってきます。 その角に先ほどの「神奈川台の関門跡」の解説板や案内図が立っています。 「神奈川台関門跡・袖ヶ浦見晴所」と刻まれた石碑や歌碑もあります。 石碑の裏面には由来が刻まれていました。 道標によると、右手へ登っていく道は「上台町公園」、正面の道は「上台橋」、 今登ってきた道は「台町の茶屋」となっています。 ここは緩やかになった正面の道を進んでいきます。
神奈川台の関門跡
ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。 開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。 幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。 この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。 そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。 明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。
神奈川台関門跡由来
嘉永6年(1852)ペリー来朝以来、国内騒然として治安乱れ、外国人に対する暴力行為目に余るものあり、 生麦事件などが勃発した。 このような事を未然に防ぐ為、安政6年(1859)10月、英国総領事オールコックは、 横浜の神奈川に関門及び見張番所を設けることを呈義し、当時の神奈川奉行新見豊前守堀織部正はこれに同意、 直ちに関門十箇所、即ち、神奈川台下・西子安村・戸部村字石崎・吉田橋脇・海岸通4丁目渡船場入口・ 石川中村・西ノ橋に、 番所の十箇所は、神奈川台下・西子安村・宮ノ河岸・暗坂上・石崎・吉田橋脇・海岸通渡船場・ 一郷渡船場・石川中村・西ノ橋に設置、それぞれ衛士を配置、通行人の看視に当って、世情の安定を図った後、 世の秩序保持された明治4年(1871)9月、これらの関門は撤廃され、 諸人は漸く自由に通行でき得るようになった。 これは甞ての神奈川台関門の置かれた所で、当時の歴史を語る唯一の記念として、在りし日を偲ぶ為、 斎藤由蔵氏の篤志により建立したものである。
題字 横浜市長 飛鳥田一雄、 神奈川県知事 長洲一二
撰文 堀田愛泉
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上台橋
神奈川台の関門跡を後にして緩やかな道を2分ほど進んでいくと降り坂になってきます。 坂を降り切って緩やかになると、下の切通しを通る道路の上に上台橋が架かっています。 橋を渡った所に「神奈川宿歴史の道」の解説板と案内図があります。 神奈川駅の傍にあった解説文と同じ箇所もありますが、そのまま載せておきます。 この辺りが神奈川宿の京都側の入口である「上方見附」だったようで、 「神奈川宿歴史の道」はこの上台橋で終りになります。 旧東海道はこの先へと更に続いていますが、今回はここで散策を終えて横浜駅へと向かっていきました。
(正面の道は「保土ヶ谷宿」を参照)
神奈川宿歴史の道
東海道五十三次の日本橋よりかぞえて三番目が神奈川宿である。 この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。 上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った『東海道分間延絵図』である。 図中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。 右端は江戸側からの入口で長延寺が描かれ、左寄りの街道が折れ曲がったあたりが台町である。 この上台橋は左端に当たる。 台町の崖下には神奈川湊が広がっている。 かつてこの上台橋のあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。 切り通しの道路ができるとともに、昭和5年ここに陸橋が架けられた。 この神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。 その4年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められた。 開港当時、この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。 神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象とし、 上台橋から神奈川通り東公園に至るおよそ4キロの道のりとなっている。
横浜(よこはま)駅
上台橋を渡ってすぐ先の左手にある階段を降りていきます。 下に通る広い車道に出て右手へ進んでいきます。 鶴屋町3丁目バス停の先にある鶴屋町3丁目交差点に架かる鶴屋町歩道橋を渡って真っ直ぐ進んでいきます。 帷子川分水路に架かる北幸橋を渡ってその先へ進んでいくと、 上台橋から600mほどで横浜駅(JR東海道線)の西口に着きます。
(写真は横浜西口第一歩道橋から写したものです)
横浜の歩み
江戸時代の横浜には200か村を越える村々が存在し、 その多くは幕府領や旗本領でしたが、享保6年(1721)には武州金沢藩が成立しています。 慶長6年(1601)には東海道の宿場として神奈川宿保土ヶ谷宿が、 慶長9年(1604)には戸塚宿が成立し、地域の経済・文化の中心となっていきました。 安政元年(1854)日米和親条約(神奈川条約)を締結、 安政5年(1858)日米修好通商条約を締結、 安政6年(1859)横浜が開港、 安政6年(1859)横浜町が成立、 明治22年(1889)横浜市が成立、 以降、市域を拡大しながら現在に至ります。
 (出典:横浜市ホームページより抜粋)