材木座
散策:2008年04月中旬
【街角散策】 材木座
概 要 材木座は鎌倉市にある地区で、海岸まで続く街に寺社などが幾つもあります。 今回は寺社などを訪ねながら材木座海岸へと向かっていきます。 鎌倉の海岸は、真ん中を流れる滑川を挟んで、南東側が材木座海岸、北西側が由比ヶ浜となっていて、 江の島や丹沢山塊・富士山などを望む景色が広がっています。
起 点 鎌倉市 長勝寺バス停
終 点 鎌倉市 飯島バス停
ルート 長勝寺バス停…長勝寺…来迎寺…五所神社…實相寺…九品寺…光明寺…秋葉大権現…良忠上人御廟…内藤家墓地…材木座海岸…飯島バス停
所要時間 2時間20分
歩いて... この日は曇勝ちの天候でしたが、歩いている内に次第に青空も覗くようになってきました。 材木座海岸に出てみると稲村ヶ崎や江の島はよく見えていましたが、 丹沢には雲がかかっていて、残念ながら富士山は見えませんでした。
関連メモ 逗子小坪
コース紹介
長勝寺(ちょうしょうじ)バス停
鎌倉駅(JR横須賀線)の東口のバスターミナルから、[鎌30]新逗子駅行きバス,または, [鎌31]緑ヶ丘入口行きバスにて6分、日中は1時間に2本程度、朝夕は3本から4本程度の便があります。
(写真はバス停の手前にある横断歩道です)
長勝寺バス停の手前にある横断歩道を渡って、鎌倉駅方面のバス停を過ぎていくと、 踏切の手前で道が左手へ二つ分かれていきます。 その手前の道には「厄除開運 帝釈天石井山 長勝寺」と刻まれた大きな石柱が立っています。 また大きな木の袂には鎌倉の街中でよく見かける道標が立っていて、「ここは長勝寺」となっています。 手前の道の先にはそれらしい建物は見えないのですが、この道へと入っていきます。
長勝寺
お寺のような建物が見えないのでこの道で合っているのかと思いながら民家の間に続く道を進んでいくと、 すぐにちょっとした駐車場が右手にあります。 その脇には霊園の小綺麗な総合案内所があります。 右折して案内所と駐車場の間を進んでいくと、すぐに立派な山門があります。 左手には長勝寺の解説板が立っていました。 山門をくぐって境内へと入っていきます。
長勝寺(ちょうしょうじ)
石井山長勝寺と号し、開山は日蓮上人で、本尊も日蓮上人です。 上人の四大法難のひとつである「松葉ヶ谷焼討」はこのあたりで行われたといわれます。 またこの寺の法華堂は県指定重要文化財でもあります。 −日蓮宗−
境内に入って、千羽鶴が沢山納められた六地蔵を過ぎていくと、右手の一段高い所に 八角屋根をした本師堂がありました。 縁起にはタイ国のお寺から奉献された釈迦牟尼世尊は八尺とありますが、 中を伺ってみると金ピカのお堂が納められていて、その中に小振りの仏像が安置されていました。 八尺は八寸の誤記なのでしょうか。 本師堂の隣には、鐘楼や古刹の法華堂がありました。
奉安 本邦最初タイ国渡来金色釈尊像縁起
當八角円堂に安置する釈迦牟尼世尊(八尺御座像)は、 私の敬愛する早坂太吉様並に御當山住職久村日鑒猊下を通じて、佛都鎌倉の名刹長勝寺に末永く奉祀せられ、 この御佛の御魂と神通力により、日本中から、世界各国から詣らる々人々の上に、 平安と幸運がもたらされるよう、入魂開眼して奉献させていただいたのであります。
 (昭和60年6月24日訪日開眼式の砌 タイ国立ワサケ寺 大僧正 スリウイスメスイ)
境内の奥には「帝釈尊天」の扁額が架かる長勝寺の大きな本堂があります。 その前には巨大な日蓮上人と大持国天王・大毘沙門天王・大廣目天王・大増長天王の四天王の青銅像が立っていて、 独特の雰囲気が漂っていました。 日蓮上人の台座には「知法思国」と刻まれていました。 本堂の前には水行のための建物もありました。 周囲は「土足厳禁」の板敷きになっていて、説明板もありました。 漢字ばかりで無学の私には意味はよく分かりませんでしたが、 知っている漢字を拾い読みしてみると、少しは雰囲気が伝わってくるような気もしました。
水行肝文
若持法華経 其身甚清浄 不染世間法 如蓮華在水 得聞此経 六根清浄 神通力故 増益壽命
頭頂礼敬 一切供養 面目悉端厳 為人所喜見 口中常出 青蓮華香 合掌以敬心 欲聞具足道 身意泰然 快得安穏 婬欲皆己絶 純一変化生 有大筋力 行歩平正
謹啓言上 南無仏 南無法 南無僧 南無本師釈迦牟尼仏 南無一乗妙法蓮華経 南無末法唱導師日蓮大菩薩 護世護法之天神地祇 別法華行者擁護 南無鬼子母大善神 十羅利女 経王瓶水無漏相承修法之先師常修院日常上人 佐渡阿闍梨日向上人 最蓮房日浄上人等 先師経王院日祥上人 心性院日遠上人 仙壽院日閑上人 遠壽院日久上人 智泉院日住上人等 祈祷勲功之先哲 各々来臨影響知見照覧ナサシメ給ヘ
仰願天地清寧妙法広布 天長地久 五穀豊穣 国家安全 万民快楽 遠近檀越現当願満 沙門某罪障消滅 降伏怨魔 経力不唐 加行成弁 感応道交 真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常勝仰 無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間 悲体戒雷震 慈意妙大雲 樹甘露法雨 滅除煩悩焔
澡欲塵穢 暑新浄衣 内外但浄 安処法座 我不愛身命 但惜無上道 一心欲見仏 不自惜身命 如那羅延堅固之身 世尊大恩以稀有事 憐愍教化利益我等 乃能問釈迦牟尼仏 如此之事利益無量一切衆生 有供養者福過十号 是真精進是名 真法供養如来 南無妙法蓮華経 是人意清浄 明利無穢濁 六番神咒
 (長勝寺 伝主)
本堂の右手前にある「久遠」の扁額の架かる六角堂の脇にある通用門から長勝寺を出ていきます。 車道に出て左手へ進んでいくと、すぐに道が二手に分かれています。 角には庚申供養塔が立っています。 その左手の細めの路地へ入って150mほど進んでいくとY字路があります。 道標類は見かけませんでしたが、そこを左手に進んでいくと、 電柱に「来迎寺50m先」の看板が括り付けられています。 その先の電柱には「五所神社100m先」の看板が括り付けられています。 「50m」とは云うものの結構長いと思いながら進んでいくと、左手に原っぱのような所があります。 その端まで来ると、電柱に「来迎寺入口」の看板が括り付けられていて、左手に入っていく道を指しています。 角には「鎌倉十四番子育観音 時宗 来迎寺」や「三浦大介義明公之墓」と刻まれた石柱も立っています。 看板などに従って左手の道へ入っていきます。
来迎寺
左手にある原っぱのような所は来迎寺の駐車場でした。 右手にある来迎寺会館を過ぎて真っ直ぐに進んでいくと、程なくして来迎寺があります。 正面に本堂があって、左隣には民家風の庫裡があります。 右手には墓地があり、境内の奥の柵の外には「三浦大介公家来之墓」というのもありました。 小さな五輪塔のような墓石が沢山並んでいました。 以前には本堂の裏山に観音堂があって、鎌倉の街や海が一望でき、長谷観音と相対していたようですが、 先の大戦の時に取り壊されたのだそうです。
(縁起には「義昭」と「義明」の二通りの表記がされていましたがそのまま記しておきます)
時宗 来迎寺 縁起
時宗来迎寺の開基は、建久5年(1194)源頼朝が己の鎌倉幕府の基礎となった三浦大介義昭の霊を弔う為、 真言宗能蔵寺を建立したときに始まる。(能蔵寺の名はこの付近の地名として使われていた)。 尚、開山上人は明らかでない。 おそらく頼朝が亡くなった後、現在の「時宗」に改宗したと思われるが改宗年代は不詳である。 山院寺号を随我山能蔵院来迎寺と号し、音阿上人(当時過去帳記載)が入山以後法燈を継承している。 能蔵寺から起算すると実に八百余年の歴史がある。 …(中略)… 義明が後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれる由来は、頼朝が衣笠の満昌寺において、 義明の十七回忌法要を供養したとき、義明がまだ存命して加護していてくれるのだという心からの事で、 自刃したときの89歳と17年を加えた数と思われる。 私たちは、このような幾多の先祖の遺業、遺徳を懇ろに偲び、人生の心の糧として、 何時までもこの行跡をたたえ続けていきたいものである。
 (来迎寺)
となふれば ほとけも われも なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 宗祖 一遍上人
たちゐにも 念佛のこゑをたづねつつ むかふる慈悲の ふかきみほとけ 鎌倉十四番観音御詠歌
来迎寺から石柱の立つ所まで引き返してきてその先へ1分ほど進んでいくと、左手に鳥居が立っています。 脇には「村社 五所神社」と刻まれた石柱と、「ここは五所神社」の道標が立っています。 鳥居をくぐって真っ直ぐ続く参道を進んでいきます。
五所神社
参道の両脇に立つ真新しい狛犬を過ぎていくと、その少し先には古くからありそうな狛犬が控えていました。 そこを過ぎて民家風の社務所の先にある短い石段を登っていくと五所神社の境内になります。 正面には神輿庫があり、社殿はその左側に横を向いて建っていました。 境内には、赤い前掛けをした狐像が見守る石祠や、市指定有形民俗文化財に指定されている庚申塔などもありました。 神社や庚申塔の解説板もありましたが、文字が消えかかっていてほとんど読めませんでした。 神社の由緒書きの読める所を見てみると、五所神社は材木座の鎮守とのことで、 祭神は天照大御神・素盞鳴尊・大山祇命・建御名方命・崇徳院霊となっていました。 明治の頃にこの付近の五つの村が合併した時、この村にあった三島神社に、 他の村の鎮守であった諏訪神社・八雲神社・金比羅宮・見目明神の四社を合祀して、 現在の五所神社となったようでした。 神輿は三基あって、一基は諏訪神社持ち、二基は見目明神持ちであったようです。
また天王謡という歌の由来も記されていました。 こちらも消えかかっていて判読し難い箇所もありました。 誤読している所があるかも知れませんが載せておきます。
天王謡の由来
はっきりといつの頃からと正しいことはわかりませんが、歌い傳られ ている歌詞から判断すると、恐らく鎌倉時代、今の材木座が和賀と いわれた頃(約800年前)の昔から、土地の人々によって愛誦されてきたといわれます。 治承4年(1180)源頼朝が鶴岡八幡宮を造営の際、また建久2年(1191) の再建のときにもその用材は海上を運ばれて、和賀江(材木座海岸)に陸揚 げされ、そこから若宮大路をこの謡の声勇ましく境内に運ばれたと傳えら れております。その後貞永元年(1232)執権北條泰時のときに、飯島の磯に 抱かれた浦に築港された和賀江島(_史跡指定)は海路諸国から潮に乗せて 運び込まれた筏木の集る港であって、里人たちがこの筏木を岸に寄せ あるいは浜揚げをしながら声をそろえてこの謡を歌った情景がしのばれます。 これが里の夏祭り、すなわち天王祭りの神輿渡御に歌う天王謡と して取り入れられるようになり、永い間すたれことなく、いまなお愛誦されて いるのです。この謡は一種独特の寂のある調子が特徴であります。
古来からの謡
伊勢の鳥羽から朝山まいて アーラヨイ 晩にや下田か ヤレコラ わかの浦 オモシロヤ
潮にもまれて あと一流し アーラヨイ 筏のせたや ヤレコレ 和賀の茶屋 オモシロヤ
飯島港へ かかろじやないか アーラヨイ おたせ見たさの ヤレコラ 潮がかり オモシロヤ
おたせばかりにや とらせておかぬ アーラヨイ わしもでてとる ヤレコラ とも綱を オモシロヤ
沖のせのせのま たせのあわび アーラヨイ 潮にもまれて ヤレコラ みを廻す オモシロヤ
沖のとなかに 茶屋町たてて アーラヨイ 登り下りの ヤレコラ 舟をまちる オモシロヤ
飯島てるてる 小坪はくもる アーラヨイ あざの材木座に ヤレコラ 金がふる オモシロヤ
 (昭和42年7月 五所神社)
人懐こい猫に導かれるようにして神輿庫の右手へ入っていくと、小祠の先から裏山へと石段が続いていました。 何があるのかと思って登っていくと、左へ折れ曲がった先に、石碑などが並んだ所がありました。 石碑には、「道祖神」,「御嶽大神・八海山大神・三笠山大神」,「覚明霊神・普寛霊神」, 「智恩童子」,「由嶽神社」,「馬頭観世音」などと刻まれていました。 他にも石碑はありましたが文字は読めませんでした。 こんな所もあるんだよと猫に教えられたように思えたりもしました。
五所神社境内一円(指定喫煙場所除く)たき火・たばこ禁止
 (鎌倉市消防本部)
五所神社から鳥居の立つ参道の入口まで引き返してきてその先へ1分ほど進んでいくと、左手に山門があります。 脇には「ここは実相寺」と書かれた道標が立っていました。 山門の柱には「日昭尊者濱土法華堂霊跡」と刻まれた表札が掲げられていました。
日昭尊者濱土法華堂霊跡
當山ハ宗祖嫡弟六老僧第一大成辨阿闍梨日昭尊者潜居の地
宗祖佐渡流竄後門下僧俗を統率したる濱土法華堂(祖滅後法華寺と称す)乃霊跡にて
玉澤妙法華寺の旧知也傳つ工藤祐経邸址と云ふ
裏山の麓にあり往古八峯の岩屋ニ有しを元禄3年現所ニ移せり
 (弘延山 實相寺)
よく忍耐する者は よくその希望を遂げる
實相寺
山門をくぐって境内へ入っていくと、正面に實相寺の本堂がありました。 謂れなどを記したものは、山門に掲げられた表札以外には見かけませんでした。 本堂の左手には庫裡と思われる建物がありました。 境内の右手には「三日月大月天子」と刻まれた石碑に寄り添うように小振りの五輪塔が並んでいて、 綺麗な花も手向けられていました。
實相寺を後にしてその先へ2分ほど進んでいくとT字路があります。 正面には赤い小祠があって、両脇には狐像が控えていました。 また右手の角には、今歩いてきた道を指すようにして「右 大師道 雲照仏徳会」と刻まれた石碑が立っていました。 ここには道標類は見かけませんでしたが、實相寺に脇に立っていた道標には、 九品寺は右折である旨の表記があったので、ここは右手へと曲がっていきました。
T字路を右折していくとすぐにバス道路に出ます。 そこを左折して行った所にある九品寺前交差点を過ぎてすぐの所に山門があります。 入口には「南無阿弥陀佛 九品寺」と刻まれた石柱と、「ここは九品寺」の道標が立っています。 山門の手前には簡単な解説板も立っていて、 「鎌倉三十三観音霊場 第十六番札所」と刻まれた石碑と、 「廿一ヶ所第九番 弘法大師」と刻まれた石碑が左右に立っていました。
九品寺
内裏山九品寺と号する浄土宗の寺で、早創は新田義貞といわれ、開山は風航順西、本尊は阿弥陀三尊です。 寺には石造薬師如来坐像(現在は国宝館に出陳中です)があり、 神奈川県の重要文化財に指定されています。
九品寺
「内裏山」の扁額が架かる山門をくぐって九品寺の境内へと入っていくと、 一つの石に小さな地蔵が六つ彫られた六地蔵が出迎えてくれます。 正面には立派な本堂がありましたが、山門の前にあったもの以外に解説板は見かけませんでした。
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 (当山)
宗祖法然上人讃仰
浄土宗開宗八百年記念 宗歌
月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ
光明寺
九品寺を出てその先へ200mほど進んでいくとT字路があります。 角には材木座バス停があります。 正面のすぐ先には海が見えていますが、道なりに左手へと進んでいきます。 左折して200mほど進んでいって道なりに右へ曲がっていくと、すぐに光明寺バス停があります。 そのすぐ先の所から光明寺への道が左手へ分かれています。 角に立つ道標には「ここは光明寺」となっています。 左手への道を進んでいくと、正面に光明寺総門があります。 右手には「大本山 光明寺」と刻まれた石柱が立っています。 左の手前には「浄土宗大本山光明寺案内図」があるので参考にしましょう。 三門の先の広い境内には、大傳・開山堂・庫裡・本坊・書院・大聖閣などがあり、 記主庭園池や三尊五祖の庭もあります。 その裏山である天照山には、秋葉大権現や開山良忠上人御廟・開基経時公墓所などがあります。
光明寺
天照山蓮華院光明寺と号し、開山は然阿良忠で、開基は四代執権の北條経時と伝えられています。 浄土宗の大本山で、もと関東総本山と称しました。 この寺で毎年10月12日から15日まで行われるお十夜法要は植木市などがたち有名です。 −浄土宗−
総門をくぐっていくと、広い境内の先に立派な三門があります。 浄土宗の「大本山」なのだそうで、それに相応しい超特大の三門です。 前に立つと何だか威圧されてしまいそうな感じがします。 上の方には「天照山」と書かれた扁額が掲げられています。
本山…
本山とは仏教の特定の宗派内に於いて特別な位置付けをされている寺院を指す言葉で、 総本山・大本山・別格本山・本山などの区別があるようです。 また宗派によって用法が異なっていたり、使用されない事もあるようです。
山門(三門)
弘化4年(1847)に再建された鎌倉に現存する最大の山門です。 建築は和様と唐様の折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えています。 「天照山」の扁額は永亨8年(1436当初の建築年)の裏書きのある後花園天皇の御宸筆です。 楼上には次の諸尊が安置されています。
釈迦三尊像、四天王像、十六羅漢像(いずれも江戸時代後期作のすぐれたお像です)
 (大本山 光明寺)
三門をくぐっていくと、左手には寺務所や新しい感じの開山堂があります。 その前には「禅導塚」と刻まれた石碑と銅像がありました。
開山堂
当寺開山良忠上人(記主禅師)の尊像及び当寺歴代の法主(住職)を祀るお堂です。 開山の良忠上人は、浄土宗の第三祖(宗祖法然上人から三代目)として関東にお念仏の教えを弘めました。 上人は島根県那賀郡に生まれ、各地で修行と修学を積み、正嘉2年(1258)の頃鎌倉に入り、 鎌倉幕府第四代執権北條経時公の帰依を受けて、この寺を開かれました。 上人は学徳を備えた高僧で、多くのすぐれた僧侶を育てました。 また多くの書物を著し、今日の浄土宗の基盤を作るという大きな働きをされました。 この功績を称えて、没後伏見天皇から「記主禅師」の称号を贈られました。 毎年7月6日のご命日には開山忌法要を勤めています。
 (大本山 光明寺)
禅導 大師像
中国唐代に活躍された浄土教の高僧で、宗祖法然上人はこの禅導大師の教えに導かれて浄土宗を開かれました。 浄土宗では大師を高祖として崇拝しています。 当寺は御開山良忠上人も厚く大師を敬い、修業時代から大師と深く心の結びつきを持たれていました。 良忠上人はこの地に光明寺を開かれると禅導塚を作り、大師を顕彰されました。 この銅像は寛文3年(1663)当寺第41代玄誉知鑑上人が造立されたものです。
 (大本山 光明寺)
開山堂を過ぎた正面に大殿があります。 風格を感じさせる堂々とした殿堂です。 開帳されていて「ご自由に参拝下さい」となっています。 靴を脱いで備え付けのスリッパに履き替えて入っていくと、広い座敷の奥に立派な仏像が鎮座していました。
御案内
この寺は、天照山蓮華院光明寺と称し、浄土宗の大本山で、「お十夜さんの寺」として、 多くの方々に親しまれております。 その十夜法要は明応4年(1495)当山第9代観誉祐崇上人が後土御門天皇の勅許によりつとめられたのを始めといたします。
創立 鎌倉時代・寛元元年(1243)
開基 鎌倉幕府 執権職第四代 北條経時公 法号は蓮華寺殿安楽大禅定門
開山 浄土宗第三祖然阿良忠記主禅師大和尚 御入滅・弘安10年(1287)7月6日89才
御本尊 阿弥陀如来「伝 鎌倉中期作」(大殿中央)
札所 鎌倉三十三観音霊場大十八番如意輪観音(大殿右手)
鎌倉廿四地蔵尊霊場第廿二番延命地蔵(境内右手)
鎮守 天照皇大神(天照山中腹)、秋葉大権現(天照山山頂)、繁栄稲荷大明神(境内右手)
建物 総門 承応4年(1655)、 山門 弘化4年(1847)、 大殿 元禄11年(1698)、 開山堂 昭和2年改修
施設 小堀遠州作「記主庭園」、 昭和の石庭「三尊五祖の庭」
主な行事
1月元旦修正会
5月中旬秋葉山大祭
6月11日大施餓鬼会
7月6日開山忌
7月下旬献灯会
10月12日夜
 〜15日朝
十夜大法要
12月25日お身拭い式
12月31日除夜の鐘
光明寺の御歌
出る日の 入る日もともに 南無阿弥陀 佛の光り うけぬ日ぞなき
大殿の周囲には廊下が巡っていて、お堂を一周することができます。 左手へ進んでいくと、開山堂との間に記主庭園池があります。 建物と山に囲まれた静かな池です。 池の中を覗いてみると、錦鯉や亀などがいました。 山際には桜も咲いていて、雰囲気のいい所でした。 正面に見えている山が、秋葉大権現のある天照山のようです。
大殿の周囲に続く回り廊下を左から時計方向に回っていきます。 大殿の左側には小振りな五輪塔が沢山並んでいました。 裏手を回って右側まで来ると、三尊五祖の石庭がありました。 廊下には簡単な解説板が設置されていました。 この写真ではよく分かりませんが、三尊と五祖に対応する8個の石があって、 後段の右手から観音・弥陀・勢至、前段の右手から釈尊・善導・法然・鎮西・記主(良忠)と並んでいます。
三尊五祖の石庭
三尊五祖について
三尊 阿弥陀如来、観音、勢至両菩薩(極楽浄土の仏様)
五祖 お釈迦様から、当寺開山良忠上人に至るまでの念仏を弘めた五人の高僧
お釈迦様 仏教の始祖、約2500年前インドで仏教を開かれた。
善導大師 中国、唐時代の浄土教の僧で、宗祖法然上人に心の師として大きな影響を与えた高僧です。
法然上人 浄土宗の宗祖。鎌倉時代に民衆を対象として念仏による救いの教えを説かれた。
鎮西上人 浄土宗の第二祖。良忠上人の師で主として九州に於いて念仏を弘められた。
良忠上人 当寺の開山。浄土宗の第三祖として浄土宗の基礎固めに貢献された。
 (大本山 光明寺)
「三尊五祖之庭」作庭由来碑
阿弥陀如来が衆生を浄土に導くため来迎される壮大な山越弥陀をテーマとした石庭で、 そこの浄土五祖が拝される構図である。 長い敷石は紫雲を表現する。
大殿の右手にある延命地蔵尊が納められた祠を過ぎていくと、 「秋葉大権現参道」,「開山記主禅師 良忠上人御廟所・開基第四代執権 北條経時公墓所」の立て札が立っています。 材木座幼稚園の前を左折して、大殿の周囲を取り巻いている白壁を巡るようにして右手から進んでいきます。 大殿の裏手に出て坂道を登っていくと途中に小振りの神社がありましたが、名前などは記されてはいませんでした。 その神社を後にして坂道の先にある石段を登っていくと舗装路に出ます。 道標類は見かけませんでしたが、右手には御廟所や墓所がありますが、 先ずは左手の山にある秋葉大権現へと向かっていきました。
秋葉大権現
植え込みの中にある立派な鬼瓦を見ながら民家を2軒ほど過ぎていくと、山際に鳥居があります。 その鳥居をくぐって石段を登っていくと、道端には点々と石仏が立っていたりもします。 尾根に出ると道が左右に分かれていますが、広くてしっかりとした左手の道を進んでいきます。 緩やかな尾根道を進んでいくと、木製の鳥居が倒れていました。 その先へ進んで小広い所に出ると、秋葉大権現の祠が建っています。 祠の扉には「秋葉三尺坊大権現の由来」と題した貼り紙がありました。 扉が開いていたので中を伺ってみると、白木の小社がありました。 屋根には6本の鰹木が乗り内削ぎの千木が伸びている形の社でした。 光明寺の裏手にある小高い所ですが、周りに樹木が生い茂っていて展望は得られません。
秋葉三尺坊大権現の由来(伝記)
天照山光明寺第三十二世傳察上人は、当山の鎮護と火防の守護神として秋葉大権現を念じ給う御年80の時、 傳察上人は生身を天狗と現われて天照山の頂上に飛び、吾れ当山の火防の神となりて守護すべしと曰いてその姿は消え、 やがて空中に声ありて『われは秋葉三尺坊大権現なり、全市全町の火災を防ぎまた盗難を除かん、 吾を念ずる者には火の災いをのがれしめ、願いある者はその願いを成就せしめ、 各家無病息災ならしめん、生業繁盛し家栄え家内安全を守護せん』と曰う。 この日以後数百年、当秋葉講は江戸時代、江戸の人々も参詣したのでしたが、 当今は地元の我々がお祭をして居り、鎌倉近辺の方々が講員となられ、 講員数も1000余家と相成り、年々御賛同御入講下さる方も多くなりつつあります事は、 誠に御同慶の至りと存じます。 なにとぞ一層皆々様の御支援と御協力の程を切にお願い申し上げます。
秋葉大権現から引き返してきます。 石段を登って尾根に出た所の分岐をその先へ進んでいくと、 樹間からは鎌倉の街や海を見下ろせる景色が広がっていました。
(細い尾根道を更にその先へ登り気味に進んでいくと、高台にある民家の庭へと続いています)
良忠上人御廟
光明寺から登ってきた舗装路まで引き返してその先へ進んでいくと、 「浄土宗三祖光明寺開山 良忠上人御廟参道」と刻まれた石柱が立っています。 その路地へ入っていき、道端に並ぶ墓を過ぎていくと、突き当たりの民家の手前に手水舎があります。 そこから左手に続く短い石段を登っていくと御廟があります。 角張った普通の墓石とは違って、円い形をした墓石が沢山並んでいました。
御廟から引返して、舗装路を先へと進んでいくと、 道端に「光明寺裏山の展望」と刻まれたかながわの景勝50選の石碑があります。 以前には展望が良かったのかも知れませんが、 今では樹木が育ってしまっていて、残念ながら景勝といえるような展望は得られません。 それでも、樹木の間からは、材木座海岸や由比ヶ浜海岸やその奥の方には江の島の先端部も見えていました。 以前にはこれらが一望できるすばらしい景色だったのでしょう。 手前にある大きな屋根は、光明寺の大殿のようです。
内藤家墓地
石碑のすぐ先にある鎌倉市立第一中学校の校門の所で道が二手に分かれています。 左手に登っていく坂道は「小坪坂」というようですが、右手の短いトンネルを通って降っていきます。 トンネルを抜けて少し降っていくと分岐があります。 鋭角に右手へ曲がった所に内藤家墓地があります。 大きな墓石やお地蔵様が沢山並んでいました。 あまり見かけない形の墓石が林立していて、なにやら不思議な雰囲気が漂っていました。 桜の花も咲いて彩りを添えていましたが、入口は施錠されていて中に入っていくことは出来ません。
鎌倉市指定史跡 内藤家墓地
日向延岡の城主内藤家の歴代墓地で、江戸時代初期以来、代々のものが一墓地に建立されている。 高さ3mに及ぶ大宝筺印塔などが多く、他に笠塔婆、仏像形、五輪塔形、各塔婆形がある。 これに加えて灯籠、手水鉢があり、宝筺印塔と共に大名墓地の時間的変化を知ることができる好資料である。 江戸時代初期以降代々にわたる墓碑をよく保存する大名の墓地ちして貴重である。
墓碑五十八基(宝筺印塔四十基、笠塔婆十二基、仏像形四基、五輪塔形一基、角塔婆形一基)、 灯籠百十八基、手水鉢十七基、地蔵尊等九基
 (鎌倉市教育委員会)
内藤家墓地の入口を過ぎていくと、左手に降っていく短い階段があります。 その階段を降ってその先に続く路地を進んでいきます。 ウィンドサーフィンスクールの青い建物が近づいてくるとバス道路に出ます。 右手のすぐの所に飯島バス停があって、鎌倉駅までの便があります。 そこからバスに乗って帰る前に、左手のすぐ先にある材木座海岸まで往復してきましょう。 左折して車道を少し進んでいくと、国道134号の陸橋があります。 この先にある小坪海岸トンネルを通っていくと逗子マリーナへ続いていますが、 材木座海岸は陸橋の袂から右手へと入っていきます。
材木座海岸
陸橋をくぐった所から右手へほんの少し降っていくと材木座海岸に出ます。 出た所には「和賀江嶋」と記された石碑が立っていて、解説板も設置されています。 少し沖合いには砂州のような平らな和賀江嶋(わかえじま)が波間に浮かんでいました。 夏まで待ちきれないのか、岸近くの海はウィンドサーフィンをする若者達で賑わっていました。
国指定史跡 和賀江嶋
現存する最古の築港遺跡である。 材木座海岸は鎌倉時代に和賀江嶋と呼ばれ、諸国から鎌倉に入る船で大いに賑わったが、 遠浅で荷の上げおろしが不便で風波が強く難破する船も多かったところから、 往阿弥陀仏が築島を思いたち、貞永元年(1232)に幕府に申し出て認められ、 執権北條泰時らの協力で同年7月15日に着工し8月9日に完成した。 嶋は、まず大きな根石を置き、その上に丸石を積みあげて作られていたらしく、 現在でも所々に根石と思われる相当大きな石がみられる。 石材から相模川、酒匂川、伊豆海岸など遠くから運ばれてきたものと考えられ、 その膨大な量とともに大土木工事であったことが推測される。 その後、破損に伴い着岸する船から関銭をとって極楽寺忍性が修繕することを始め、 極楽寺長老がその任をついだ。
注意
この史跡の現状をみだりに変更し、滅失、き損、衰亡等、保存に影響を及ぼす行為は禁止されております。
 (神奈川県教育委員会)
砂浜を左手の方へ進んでいくと、石がゴロゴロし始めます。 大きな岩の上に「和賀江島」と刻まれた石碑が立っていました。 正面には海に突き出た稲村ヶ崎の奥に江の島が浮かんでいて、 更にその奥には丹沢の山並みが横たわっていました。 条件がいいと富士山も望めるのでしょうが、この時には雲がかかっていて見えませんでした。
和賀江島
和賀トハ今ノ材木座ノ古名ニシテ此ノ 地注昔筏木運送ノ港タリシヨリヤガテ 今ノ名ヲ負フニ至レルナリ和賀江島ハ 其ノ和賀ノ港口ヲ扼スル築堤ヲ言ヒ今 ヲ距ル六百九十余年ノ昔貞永元年勧進 聖人往阿彌陀佛カ申請ニ任セ平盛綱之 ヲ督シテ七月十五日起工八月九日竣工 セルモノナリ
 (大正十三年三月建 鎌倉町青年団)
飯島(いいじま)バス停
材木座海岸から国道134号の陸橋をくぐって元来た道を飯島バス停まで引き返してきます。
鎌倉駅(JR横須賀線)まで、[鎌40][鎌41]鎌倉駅行きバスにて10分、 1時間に3本から4本程度の便があります。