高取山
散策:2008年04月中旬
【低山ハイク】 高取山
概 要 高取山は丹沢の南麓にある低い山で、 小蓑毛から高取山や念仏山を経て善波峠の先まで続く「野菊と信仰のみち」が通っています。 高取山や念仏山からは街並みや山並みなどを見渡せる景色が広がっています。 今回は小蓑毛から続く「野菊と信仰のみち」を善波峠まで歩き、そこから弘法山へと向かっていきます。
起 点 秦野市 才戸入口バス停
終 点 秦野市 東海大学前駅
ルート 才戸入口バス停…久保橋…不動越…栗原分岐…高取山…聖峰分岐…巻き道…小ピーク…念仏山…14番鉄塔…300.1m峰…1番鉄塔…名古木分岐…善波峠…善波御夜燈…展望地…国道分岐…弘法山…自興院分岐…八幡神社…山王下バス停…東海大学前駅
所要時間 4時間50分
歩いて... 天気予報に反して、霧に煙る日でした。 念仏山から降る頃になると細かい霧雨が降ってきましたが、幸いにも善波峠に着く前には上がってくれました。 高取山や念仏山からの眺めも、生憎の空模様のために霞んでいました。 天候の悪い日でしたが、不動越から善波峠へと続く尾根道ではかなりのハイカーとすれ違いました。
関連メモ 弘法大師と桜のみち, 高取山, 聖峰, 弘法山公園, 高取山, 浅間山林道, 念仏山, 弘法山公園, 高取山, 弘法山公園,
弘法山公園, 念仏山, 弘法山公園, 浅間山, 弘法山公園, 弘法山公園
コース紹介
才戸入口(さいどいりぐち)バス停
秦野駅(小田急小田原線)の北口から、[秦20]蓑毛行きバス,または,[秦21]ヤビツ峠行きバスにて16分、 1時間に2本から3本程度の便があります。
バス停の先へ数10m進んでいくとT字路があります。 その右手の角に「野菊と信仰のみち」の道標が立っていて、 右手に分かれていく道は「大山7.5km・鶴巻9km・弘法山7km」となっています。 また道路の左手にも道標があって、正面の道は「田原ふるさと公園1.9km・50m先左」、 右手の道は「聖峰4.0km・大山7.5km・高取山3.0km」となっています。 今回はそのT字路を右折して高取山へと登っていきます。
この才戸入口バス停がある所は蓑毛地区のようですが、 このひとつ先に小蓑毛バス停があり、そこは小蓑毛地区の端にあたるようです。 蓑毛地区と小蓑毛地区の間は入り組んだ境界になっているようですが、 ここではこの辺りを「小蓑毛」として紹介しています。
野菊と信仰のみち
関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」の枝線で、 小蓑毛から高取山や念仏山を経て善波峠の先まで続く6.3kmのコースです。
民家が立ち並ぶ緩やかな坂道を登っていきます。 植林帯の脇を過ぎていくと、才戸入口バス停から1分半ほどでH字のような形をした四叉路があります。 角には石仏が二体佇んでいました。 石仏の右手に道標が立っていて、右手の道は「大山・鶴巻・弘法山」、今来た道は「バス停」となっていました。 ここは道標に従って右手へと緩やかに降っていく道を進んでいきます。
小さな沢を渡っていくと、両側には田畑が広がるようになってきます。 菜の花や桃色の花を咲かせた木もあったりして、雰囲気のいい道が続きます。 程なくして緩やかな登り坂になってきます。 正面から右手にかけて、これから向かう高取山や念仏山と思われる稜線が見えていましたが、 山頂の辺りは霧でモヤっていました。 日中は晴れるという天気予報だったのですが、何だか雲行きが怪しい天候でした。 土手には春の草などが生い茂っていました。 美味しそうなスカンポが生えていたので、ひとつ採って食べながら歩いていきました。 道標「大山・鶴巻・弘法山」を過ぎていきます。 右手に道が分かれていたりもしますが、道なりに真っ直ぐ進んでいきます。 八重の桃色の花木や桜などを愛でながら進んでいくと、 才戸入口バス停から15分ほどの所に「前田夕暮歌碑」がありました。 近くにあるそば処の店主が建てた碑のようでした。
前田夕暮歌碑
岡畑の あぜ道下り ふるさとの 匂かぎたり 秋そばのはな 夕暮
明治16年7月27日、神奈川県大磯郡南矢名村2134番地に生まれる。 大根小学校、中郡共立学校(現秦野高等学校)、国語伝習所、二松学舎に学ぶ。 明治37年22歳で上京し、若山牧水と相前後して尾上紫舟の門に入り、 25歳で雑誌「向日葵」を刊行、「哀楽第一」「哀楽第二」によって新しい歌風が歌壇に認められる。 明治44年「詩歌」を創刊し、「白日社」を創立、若山牧水とともに「比翼歌人」と併称され、 「自然主義歌人」として「牧水、夕暮時代」を築く。 大正13年42歳の時、雑誌「日光」を北原白秋と刊行し、 新鋭鮮烈な作風は歌壇の新感覚派と称され、「白秋、夕暮時代」をつくる。 昭和3年「詩歌」を復刊し、やがて口語自由律短歌を開拓し、その中心になる。 昭和18年61歳で文語定型短歌に復帰。 昭和26年4月20日、69歳で逝去。
この碑は石庄庵15周年に当り、社会文化の一端を担いたく、 郷土の歌人前田先生の歌碑を、平成5年当時の秦野市長柏木幹雄様の書により建立し、 この度平成19年9月吉日、石庄庵30周年移転に伴い、 この地、県道大山秦野線(そば店入口)に移させていただきました。
 (石庄庵 店主)
久保橋
右手の浅い谷筋の向こう側にゴルフ場を見ながら、道なりに進んでいきます。 「天社神」と刻まれた石碑群を過ぎていくと緩やかに登るようになってきます。 桃色や白色の綺麗な花木を眺めたりしながら進んでいくと、 右手に流れる中丸沢久保橋が架かっています。 才戸入口バス停から23分ほどの所になります。 舗装道はこの先へと更に続いているようです。 辺りには道標類は見かけずどちらへ行ったものか迷う所ですが、今回はこの久保橋を渡っていきます。 橋を渡ると道が左手へと分かれていますが、正面の道を進んでいきます。 すぐにゴルフ場の端に出ると、森へと入っていく所に道標「高取山」が立っていて、 森の中へと入っていく道を指しています。 注意書きにある「ハイキング道路」がその道になるようです。
ご注意
これより先は当倶楽部の所有地に付き、ゴルフ場ご利用の方以外の立入りは固く禁止します。
(ハイカーの方はハイキング道路をご利用下さい)
 (東京カントリー倶楽部)
森へ入っていくと、すぐに細い道が左手へと分かれていきます。 角には小祠がありました。 中を伺ってみると、「右 大山道」と刻まれた石柱が納められていました。 側面には「供養搭」や「文政三年」の文字も刻まれていました。 何の供養なのかはよく分かりませんでしたが、 石柱の上に乗っている小柄の石仏と関連がありそうにも思えました。 文政三年というと江戸時代の末期からこの地にあったもののようです。 また、小さな板切れもあって、「大山祇命神」や「旧道 不動越」とも書かれていました。 この右手に続く道は不動越を経て県道611号の通る谷へと続いているようです。 大山道ということは、ここから不動越を経て尾根に続く道を大山へと登っていったのでしょうか。 ここは小祠の右手に続く未舗装になった道を進んでいきます。
注意
ハンターのみなさん! この附近に人家、農耕地があります。 狩猟に注意しましょう。
 (神奈川県)
少し登り坂になった道を進んでいくと、程なくしてゴルフコースの脇に出ます。 コースとは金網で隔てられていて中に入っていくことは出来ません。 道はコースから離れて再び森の中へ入っていきます。 コンクリート塀の脇の道を登って竹林を過ぎていきます。 右・左とくねくねと曲がりながら登っていくと、小祠から12分ほどで左右に通る道に出ました。 出た所には道標が立っていて、右手の道は「高取山」となっていました。 左手の道には何も示されてはいませんでしたが、すぐに舗装路になってその先へと続いていました。 ここは道標に従って右手の道を進んでいきます。
(写真は右手の先から振り返って写したものです)
緑は森呼吸 山火事注意
たばこ・たき火はよく消そう!
 (神奈川県、森林国営保険)
緩やかになった道を進んでいきます。 笹竹が生い茂っていたりもしますが、道は広くて分かりやすくなっていました。 道標「大山・鶴巻・弘法山」を過ぎていくと、再びゴルフコースの脇に出ます。 桜が今を盛りと咲いていたりもして、綺麗な眺めでした。 この時は生憎の天候でしたが、そんな中でもプレイをしている人達を見かけたりもしました。 最近は歩いて回るのではなくて、カートに乗ってその次のティーやボールの傍まで行くようです。 ゴルフコースから少し離れて建物の脇を過ぎていくとまたゴルフコースの脇に出ます。 道なりに左手へ進んで森の中へ入って登っていくと、ティーグラウンドの脇に出ます。 そこでゴルフ場と分かれて、植林帯の斜面を登っていきます。
不動越
金網沿いに登っていくと道が二手に分かれていますが、 角に立つ道標「大山・鶴巻・弘法山」に従って左手へと曲がっていきます。 傾斜の増してきた道を右・左と大きく曲がりながら4分ほど登っていくと、 浅い鞍部になった不動越に登り着きました。 久保橋から33分ほどで登って来られました。 傍の樹木の幹に「不動越」と書かれた板切れが括り付けてありました。 角に立つ道標によると、右手の道は「弘法山5km、鶴巻7km」、左手の道は「大山5.5km」、 今登ってきた道は「小蓑毛2km、野菊と信仰のみち」となっています。 正面には大山ケーブル駅方面へと続く細い道が降っています。 ちょっと覗いてみるとしっかりとした道のようでしたが、道標には何も示されてはいませんでした。 左手すぐの所に不動明王の石碑が立っていますが、半分に折れて壊れていました。 これからの高取山への登りに備えて、ここで少し休んでいきました。
峠道…
麓にあった「右 不動越」の石碑と併せて考えると、 久保橋のある谷筋からこの不動越を越えて大山ケーブル駅のある谷筋へと降っていく道は、 その昔にはこの北東にある蓑毛越と共に、峠道としてよく利用されていたように思えます。 (正面の道は「高取山」を参照)
ひと息ついたところで、右手の道を高取山へと登っていきます。 植林帯に続く緩やかな尾根道を2分ほど進んでいくと、間隔の広い横木の階段が現れます。 折りしも霧がかかる生憎の天候で湿度が高く、汗が滲んできたりもするので、 何度も立ち止まって汗を拭いながらゆっくりと登っていきました。 そんな階段も2分もすると終わって緩やかな道になってきます。 道端には「銃猟禁止区域」の赤い標識が点々と設置されていました。
注意
ハンターの皆さん! この付近に銃猟禁止区域があります。 狩猟に注意しましょう。
 (神奈川県)
たき火・たばこに注意
 (秦野市東財産区)
栗原分岐
林床に低い常緑樹が生い茂る植林帯に続く広くてしっかりとした道を進んでいきます。 緩やかで歩き易いのはいいのですが、生憎の霧のため樹間からの眺めは得られません。 再び傾斜が増してくる道を登っていきます。 4分ほど登っていって緩やかになった道をその先へ5分ほど進んでいくと分岐があります。 不動越から15分ほどの所になります。 秦野市の設置する道標には、この正面の道は「弘法山・鶴巻」、今来た道は「大山・蓑毛」となっています。 伊勢原市消防署の設置する「山火事注意 通報番号39」の標識に「栗原→」と引っ掻いてあって左手の道を指してます。 以前に来た時には見え易くなっていたのですが、今回はかなり見え難くなっていました。 その裏面にはマジックで「←三の宮へ」と書き込まれていて、同じく左手の道を指していました。 ここを左手へ降っていくと栗原地区へ降りられますが、高取山へは正面の道を進んでいきます。
(左手の道は「高取山」, 「浅間山」を参照)
高取山 (標高556m)
栗原への分岐を見送って、雑木混じりの植林帯に続く緩やかな尾根道をその先へと進んでいきます。 やがて現れる横木の階段混じりの坂道をひと登りすると、 栗原分岐から7分ほど、不動越から23分ほどで、高取山の山頂に着きました。 ベンチも幾つか設置されていて休憩するのにはいい所ですが、 霧がかかる生憎の天候のため、ベンチも濡れていました。 山頂には二等三角点があり、右手すぐの所には日本放送協会の大山無線中継所の電波塔が立っています。 以前に来た時には脇にある樹木に「高取山566.3m」と書かれた板切れが括り付けてあったのですが、 この時にはその板切れはなくなっていて、 代わりに神奈川県の設置する「高取山 標高556m」と書かれた真新しい標識が立っていました。
手前の樹木が邪魔をしていて、高取山の山頂からの展望は余り良くありません。 それでも天候がいいと樹間からは下界の街並みなどを見下ろすこともできますが、 この時には霧に包まれていて、残念ながらほとんど見えませんでした。
(高取山から寺山地区へ降る道は「高取山」,「浅間山林道」を参照)
自然と見晴
ようこそ高取山へ
 (栗原ふれあい里づくり研究会)
聖峰分岐
高取山からは道が左右に分かれています。 山頂に立つ道標によると、右手の大山無線中継所の前を過ぎていく道は「寺山」、 左手の道は「弘法山4km・鶴巻6km・聖峰」となっていますが、 今回は左手の道から念仏山へ向かっていきました。 いきなり始まる急な横木の階段を降っていくと、4分ほどで道標の立つ分岐があります。 正面の道は「弘法山3.8km」、今来た道は「小蓑毛3.2km・田原ふるさと公園5.1km」となっています。 また別の道標もあって、左手の道は「聖峰25分、神戸バス停1時間20分」となっています。 脇には「眺望と自然、聖峰不動尊」と書かれた看板があり、左手の道を指しています。 今回は聖峰へ降っていく左手の道は見送って、正面に続く尾根道を念仏山へと進んでいきます。
(左手の道は「聖峰」,「高取山」を参照)
雑木林と植林帯を分ける尾根を降っていきます。 左右の樹間からぼんやりとした山並みなどを眺めながら広めの尾根道を降っていきます。 正面には、手元の地形図にある454m峰と思われる山が聳えていました。 木の根が張り出したり傾斜が急な所も一部にありますが、比較的歩きやすい道が続いています。 聖峰分岐から8分ほど降っていくと、道端に丸太のベンチがふたつ設置されていました。 そのすぐ先で道が左手へと分かれていきます。 手元の地形図では、高取山の南南東250m辺りの標高460mほどの尾根になるようです。 尾根道は正面へと更に続いているようでしたが、 角に立つ道標「鶴巻・弘法山」に従って、左手へと鋭角に曲がって降っていきます。
巻き道
植林帯の斜面を横切るようにして降っていきます。 程なくして尾根の背を進むようになると緩やかな道になってきます。 ちょっとした高みを越えて植林帯の縁に沿って進んでいきます。 正面に見える454m峰と思われる山が更に近づいてくると、 鋭角に曲がってきた道標のあった尾根から6分ほど、聖峰分岐から15分ほどで、 道は正面の山を巻くようにして右手へと曲がっていきます。 脇には道標が立っていて、右手へ曲がっていく道は「鶴巻・弘法山」、 今歩いてきた道は「大山・蓑毛」となっています。 手元の地形図によると、454m峰の北西100mほどの地点になるようです。 地形図では454m峰へ登っていく道と、その山頂から東の栗原地区へと分かれていく道が二つ描かれていますが、 今では余り歩かれていないのか、ここから454m峰へと続いていると思われる正面の道は、 かなり不明瞭になっていました。 ここは道標に従って、454m峰を右手から巻いていく道を進んでいきます。
(正面の道は「高取山」を参照)
背の低い常緑樹が生い茂る植林帯を横切っていきます。 少し登っていって緩やかになった道をその先へ進んでいくと、 先ほどの道標のあった所から4分ほどで尾根に着きました。 ここにも先ほどと同じような道標が立っていて、右手の道は「鶴巻・弘法山」、 今歩いてきた道は「大山・蓑毛」となっています。 また、伊勢原市消防署の設置する「山火事注意 通報番号51」の標識も立っています。 ここで454m峰を巻き終わったようです。 手元の地形図によると、ここは454m峰の南西150m辺りの地点になるようです。 ここから左手の454mへ続く道があるようなのですが、ここでも不明瞭になっていました。 ここは道標に従って、右手へと続く緩やかな尾根道を進んでいきます。
(左手の道は「念仏山」を参照)
雑木混じりの植林帯に続く尾根道を2分ほど進んでいくと、右手に目の粗い金網柵が現れます。 雑木林になった尾根道を金網柵に沿って登っていきます。 3分ほど登っていくと、正面に現れる高みの手前で、金網柵から離れて左手へと道が曲がっていきます。 正面の高みへと真っ直ぐに続く金網柵に沿っても細い道がありましたが、道なりに左へ進んでいきました。 左へ曲がっていくとすぐに伊勢原市消防署の設置する「山火事注意 通報番号52」の標識が立っていて、 そのすぐ先から高みへと細い道が分かれていました。 道標はないものの、念仏山へはそのまま緩やかな道を進んでいけばいいとは思っても、 右手の高みには何があるのか気になって、ちょいと右手の道を登っていきました。
小ピーク
坂道を登っていくと、程なくして金網柵に沿って登ってくる道に出ました。 そこから左手へと続く道を登っていくと、尾根道から1分ほどでちょっとした高みに着きました。 周りは植林帯になっていて展望は得らず、特に何があるという訳でもありませんでした。 手元の地形図によると、454m峰の南西450m辺りにある標高430mほどの高みのようです。 金網柵に沿ってその先へ降っていくと、直進してきた尾根道に降り立ちました。 そこには道標が立っていて、金網柵に沿って降っていく正面の道は「鶴巻・弘法山」、 左手から合流してくる尾根道は「大山・蓑毛」となっていました。 ここは道標に従って、正面に続く金網柵沿いの道を降っていきました。
雑木林と植林帯を分ける尾根に続く金網柵沿いの道を降っていきます。 途中で僅かな道が左手へ分かれていましたが、金網柵に沿って真っ直ぐに降っていきます。 かなり傾斜があったりもしますが、8分ほど降っていくと緩やかな道になってきます。 鞍部の一番浅い所だろうと思われる辺りまで進んでいくと道標が立っていました。 これまでと同様の内容で、この先に続く道は「鶴巻・弘法山」となっていました。
念仏山 (標高347m)
道標を過ぎていくと登り坂になってきますが、これまでの降りよりも傾斜は緩やかで歩きやすくなっていました。 木の根が張り出したような道を登っていくと、鞍部から5分ちょっとで念仏山に着きました。 高取山から45分ほどで到着しました。 ベンチも設置された山頂には「念仏山 標高357m」と書かれた真新しい標識が設置されてました。 高取山にあったのと同じ頃に設置されたもののようでしたが、ずっと太くて立派な標識でした。 標高がマジックで347mに訂正されていました。 手元の地形図には念仏山の表記はありませんが、 この辺りは標高340mの等高線で囲まれているのを考えると、347mの方が正しいように思えます。 また、伊勢原市消防署の設置する「山火事注意 通報番号53」の標識も立っていて、 その袂には「ここは念仏山、高取山・大山・右へ」と書かれた標識もあって、今登ってきた道を指していました。
山頂からは、樹木越しに秦野の街並みなどを眺められる景色が広がっていましたが、 生憎の霧雨模様のため、残念ながら霞んでいてよく見えませんでした。 条件がいいと富士山も望めるのだそうですが、まったく見えませんでした。
念仏山の右手の方へ僅かに進んでいくと、赤い頭巾をした石仏と丸い感じの石碑と石祠がありました。 各々の前には赤い前掛けをした小さな地蔵が幾つか並んでいて、 賽銭受けになっている真新しい一合枡も置いてありました。 石祠の前には「太郎坊」と刻まれた石もありました。 脇には「念仏山の由来」と題した解説板が設置されていました。 それによると、この山は古くからこの地区の信仰の山であったようです。 野菊が群生する所とのことですが、この時は花の季節ではなかったので、確認は出来ませんでした。 小蓑毛から善波峠の先まで続くこの尾根道を「野菊と信仰のみち」と呼ぶのは、 どうやらこの念仏山にその源があるようです。
念仏山の由来
この山は、地図に記載されていない山ですが、 昭和15年頃(1940)まで旧名古木村の村人によって、この山頂で念仏講が行なわれていました。 念仏とは、仏を信じて南無阿弥陀仏を唱えることであり、 この山頂で南無阿弥陀仏を唱えると山裾の集落まで聞こえたと言われております。 相模風土記によると、 秋葉・愛宕・金比羅を合社、 太郎坊・次郎坊・山乃神・稲荷を合祀して末社と記載されている。
秋葉とは、静岡県の秋葉神社 祭神 火之迦具土神・総本社は火伏の神
愛宕とは、京都府の愛宕神社 (おおむね小高い丘や山頂にまつり信仰されている)
金比羅とは、香川県の金比羅宮 祭神 大物主神
山乃神とは、大山阿夫利神社 祭神 大山津見神
稲荷とは、京都府伏見稲荷大社 祭神 宇迦之御魂神
太郎坊・次郎坊とは、天狗
 (平成18年3月吉日 名古木里山保全協議会)
14番鉄塔
念仏山を後にして、道標「鶴巻4.2km・弘法山2.2km」に従って、 左手の雑木林に続く広い尾根道を降っていきます。 間隔の広い横木の階段混じりの道を降っていくと、右手から再び金網柵が近づいてきます。 柵に沿って緩やかになった尾根道を進んでいきます。 少し降るようになると、念仏山から4分ほどで、 送電線の鉄塔「東秦野線No.14」が立っています。 左右が開けていて街並みなどを見渡せる眺めが広がる所ですが、生憎の天候のため霞んでいました。
鉄塔の下の過ぎてその先に続く道を1分ほど進んでいくと、鹿避け柵があります。 先ほどから続いていた金網柵が道を横切っている所です。 扉を開けていくと、向こう側から見える向きに 「大山・高取山・念仏山 直進」と書かれた板切れが取り付けられていました。 扉を閉めてその先へ緩やかに降っていくと、14番鉄塔から3分ほどで、道が二手に分かれています。 脇にはベンチがひとつ設置されていました。 角に立つ「野菊と信仰のみち」の道標によると、正面の道は「鶴巻・弘法山」、 今来た道は「大山・蓑毛」となっています。 右手に分かれて降っていく道もかなりしっかりとしていましたが、道標には何も示されてはいませんでした。 ここは道標に従って、正面に続く尾根道を進んでいきます。
右手の道を後日歩いてみると、広くて歩き易い道が続いていました。 15分ほど降った所からは舗装路になってきます。 高台の畑地に出て更に降っていくと、ここから30分ほどで名古木地区の住宅地へ降りていけました。 (「念仏山」を参照)
お願い
この柵は有害鳥獣(鹿、猪等)の被害対策用の柵です。 開けたら必ず扉を閉めて縛って下さい。
300m.1峰
植林帯と雑木林を分ける尾根に続く道を緩やかに降っていきます。 程なくして軽く登るようになると、ちょっとした高みの左手から回りこむようにして進んでいきます。 右手の高みと肩を並べるほどの高さになると、 伊勢原市消防署の設置する「山火事注意 通報番号54」の標識が立っています。 念仏山から12分ほどの所になります。 尾根道はそこから降り気味に続いていますが、右手の高みへ踏み跡が分かれていました。 善波峠へは正面の尾根道を降っていくのですが、試しに右手の道をちょっと歩いてみました。 すぐに尾根に出て左手へ少し進んでいくと、ここが最も高い所だろうと思われる辺りに四等三角点がありました。 手元の地形図にある300.1m峰だと思われます。 三角点を確認してから元の尾根道まで引き返して、その先へ降っていきます。
1番鉄塔
最初のバス停を降りた時から怪しい空模様が続いていましたが、ここへきて遂に細かい霧雨が降り始めました。 レインコートなども持参してはいるのですが着るほどの降り方でもないので、 小型の折り畳み傘を差して歩き続けました。 緩やかで歩きやすい道が降り気味にしばらく続きます。 雑木林の尾根に続く道を6分ほど進んでいくと、送電線の鉄塔「鶴巻線1」が立っています。 先ほど降り始めた霧雨でしたが、何時しか止んでいました。 ほんの束の間の雨でした。 傘をしまってその先へと降っていきました。
名古木分岐
1番鉄塔を過ぎて傾斜の増した坂道を降っていくと、すぐに道が二手に分かれています。 角にはベンチがひとつ設置されていました。 脇に立つ「野菊と信仰のみち」の道標によると、左手の道は「鶴巻・弘法山」、 右手の道は「市内・名古木」、今降ってきた道は「大山・蓑毛」となっています。 右手の道もしっかりとしていましたが、ここは左手の道を降っていきます。
善波峠
雑木林に続く少し細くなった道を2分ほど降っていくと、トタン張りの小屋の脇に降り立ちます。 左手へ分かれていく道を見送っていくと、すぐに広くなった道に出ました。 そこから左・右と曲がりながら降っていくと、切通しになった善波峠に降り立ちました。 念仏山から26分ほどで降りて来られました。 切通しの脇には石仏が幾つか並んでいて、その前には花が植えられていました。 どういう訳か石仏の頭はなくなっていて、代わりに小石が乗せてありました。 脇には「矢倉沢往還」の解説板が立っていましたが、かなり擦れていてほとんど読めなくなっていました。 以前にここへ来た時にはまだ何とか読めていたので、その時の内容を載せておきます。
矢倉沢往還
近世の交通路は五街道を中心に、本街道の脇にある脇往還が陸上交通の要として整備され、 矢倉沢往還は東海道の脇往還として発達し、江戸から厚木・伊勢原・秦野・関本を抜け、 足柄峠を越え駿州まで延びていまいした。 大山への参詣路として多く利用されていたため、大山街道と呼ぶ所もありました。 また、十日市場(曽屋村)の市立の日の物資運搬にも大きな役割を果たしていました。
解説板にはこの峠が矢倉沢往還の一部だったということは書かれていません。 現在ではこの下に善波隧道が通っていますが、 その東側から山際に矢倉沢往還だった道が今でも続いていて、 関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」の一部にもなっています。 善波御夜燈の話などからすると、 善波隧道がなかった当時の矢倉沢往還は、この峠を越えて続いていたように思われます。
善波峠からは道が三方に分かれています。 広くなった道は右手の切通しになった善波峠を抜けて続いています。 また山道が左手と正面の高みへと分かれていきます。 角に立つ「野菊と信仰のみち」の道標によると、左手の道は「鶴巻3.1km・弘法山」、 今降ってきた道は「大山・蓑毛」となっています。 また別の道標もあって、左手の道は「弘法山1.1km・鶴巻3.1km」、 今降ってきた道は「聖峰3.5km・高取山2.9km」となっていました。 正面の高みへ登っていく道の脇にも道標が立っていて「善波御夜燈」となっていました。 右手の切通しを抜けていく広い道は何も示されてはいませんでした。 今回は正面の高みにある善波御夜燈を経ていくことにしました。
小蓑毛から続いてきた「野菊と信仰のみち」は左手の道を2分ほど進んでいって尾根道に出た所で終わりになっています。 その尾根道は弘法山から吾妻山へと続く道で、その道も関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」の枝線になっています。 そこに今回歩いてきた「野菊と信仰のみち」の案内板が設置されています。 左手の道から尾根道に出てそこから右手へと進んでいってもいいのですが、 善波御夜燈を経ていく道よりも遠回りになりそうだったので、今回は正面の高みへと登っていく道を選びました。
善波御夜燈
道標「善波御夜燈」に従って、正面の高みへと左手から回りこむようにして登っていきます。 左手に分かれていくロープが張られた道を見送って右手へ曲がっていくと、 善波峠から1分ちょっとで善波御夜燈があります。 石積みの上に設置されていて、脇には解説板もありました。
御夜燈(おんやとう)
この御夜燈は文政10年(1827)に、旅人の峠越えの安全のために道標として建てられました。 点灯のための灯油は、近隣の農家が栽培した菜種から抽出した拠出油でした。 この下に峠の茶屋があり、その主人八五郎さんの手により、明治末期まで点灯し続けられていました。 その後放置されたままになっていましたが、平成6年(1994)地元の 「太郎の郷づくり協議会」の手により復元されました。
 (伊勢原市)
御夜燈を過ぎてその先へ続く道を左へ曲がりながら登っていくと、すぐに尾根に出ます。 御夜燈の手前から分かれてきた道を合わせて、その先に続く広くて緩やかな尾根道を進んでいくと、 御夜燈から3分ほどで、正面から左手へと続く広い尾根道に出ます。 この尾根道は弘法山から吾妻山へと続く尾根道で、善波峠から左手へ分かれていく道もこの道に続いています。 出た所にはベンチがひとつ設置されていて、 角の樹木に「鶴巻温泉」と書かれた板切れが括り付けられていて、左手の道を指していました。 他に道標類は見かけませんでしたが、弘法山へは正面の広い尾根道を進んでいきます。
(左手の道は「弘法山公園」, 「弘法山公園」を参照)
広くて緩やかなな尾根道を進んでいきます。 樹木の幹には小さな解説板が取り付けられていたりもするので、 それらを読んだりしながらゆっくりと歩いていきました。 周囲の樹木の若葉が芽吹きだしていて、新緑の季節がやってきたようでした。 こんな快適な道がずっと続けば散策も楽なのにと思ったりしますが、そうもいきません。
クヌギ ブナ科、コナラ属。分布=本州〜沖縄、アジア。 落葉高木。樹液に昆虫が集まる。堅実(ドングリ)は大きい。
コナラ ブナ科、コナラ属。分布=日本〜アジア。 雑木林の代表樹。新葉・紅葉ともに美しい。ドングリは細長い。
ミズキ ミズキ科:属。分布=北海道〜九州、東アジア。 早春に枝を切ると水が出る。あれ地に早く生える。
イチョウ イチョウ科:属。分布=中国。 生きた化石と呼ばれる。成長が早く端正な樹形。
ヒノキ ヒノキ科:属。分布=本州、四国、九州。 葉の先はあまりとがらない。葉裏の気孔線が白いY字形。
スギ スギ科:属。分布=本州〜九州(日本特産)。 ヒノキと共に有用材。鑑賞用品種も多い。
展望地
広い尾根道に出てから5分ほど進んでいくと、道の左手にベンチなどが設置された所がありました。 その先が開けていて展望が得られます。 これから向かう弘法山もよく見えていました。 写真などを撮りながらしばらく休んでいきました。
国道分岐
展望地を後にしてその先へと進んでいきます。 少し降り坂になってきた道を進んでいくと、左手に果樹園への入口があります。 そこを過ぎていくと簡易舗装された道になってきます。 その先へと緩やかに降っていくと、展望地から2分ほどの所から右手へと道が分かれていきます。 角には道標が立っていて、右手の道は「関東ふれあいの道 国道246号」、 正面の道は「弘法山0.5km」、今歩いてきた道は「鶴巻3.4km・聖峰4.1km・高取山3.5km」となっています。 弘法山から降ってきて右手の坂へと続く道は、関東ふれあいの道「弘法大師と桜のみち」になります。 今回は弘法山を目指して正面の道を進んでいきます。
(右手の道は「弘法大師と桜のみち」, 「弘法山公園」を参照)
国道への分岐を見送って正面へ進んでいくと、道は高みの手前から右手へと曲がって降っていきます。 その角から正面の高みへと横木の階段混じりの道が分かれていきます。 その道に入った所に関東ふれあいの道の道標が立っていて、正面の高みへ登っていく道は「弘法山0.5km」、 今歩いてきた道は「吾妻山へ」となっています。 また登り口の所から左手へ分かれて降っていく細い山道もあって、「長坂を経て自興院に至る」となっていました。 ここは正面の高みにある弘法山の山頂を目指して、横木の階段混じりの道を登っていきます。
(後日に左手の道を歩きました。「弘法山公園」を参照)
右手には丹沢の山並みや、これまで歩いてきたと思われる稜線などを見渡せる眺めが広がっていますが、 生憎の天候のために遠くの方は霞んでいました。
弘法山 (標高235m)
広くてしっかりとした道を登っていきます。 傾斜はそれほどなくて歩きやすくなっています。 途中で分岐が二度ありますが、いずれも左手の道を進んでいきます。 分岐の所の脇には「弘法山」を指す道標が立っています。 やがて登りの傾斜が増してくると、幅の広い横木の階段が現れます。 その階段を登っていくと弘法山の山頂に着きました。 登り着いた所は釈迦堂の裏手になります。 国道分岐から10分ほど、善波峠から24分ほどで登って来られました。
弘法山の歴史
弘法山の名前は弘法大師(774〜835)がこの山頂で修業したことから名付けられたとの伝承があり、 権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある。 弘法山は麓の龍法寺と深い関わりを持ち、戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。 鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。 弘法山の鐘は、享保頃(1716〜35)に龍法寺5世無外梅師と行者の直心全国が発願し、 弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。 明和3年(1766)に山火事でひび割れ、 再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の松操智貞尼の尽力により 徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て享和元年(1801)5月に完成した。 鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。 現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである。
 (秦野市)
釈迦堂(しゃかんどう)
山頂には弘法大師の旧跡であることから、古くより福泉庵という堂があった。 江戸時代の中頃に龍法寺の僧馨岳永芳はこの荒廃を嘆き新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を祭って釈迦堂としたが、明和3年の火災で釈迦像が焼失し、石造であった弘法大師像はこの時から露座となった。堂の再建後は弘法大師の木造のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の台風で被害を被り長く仮堂であったが、昭和39年に現在の釈迦堂が完成した。
経塚】 釈迦堂の後部には鎌倉時代後期の経塚があった。 経塚は経典を書写したものを埋納した仏教上の施設で、末法思想から生まれた。 日本では平安時代末期に出現し、藤原道長が金峰山に般若心経一巻他を埋納した事が知られている。 弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され当時は大甕の口縁部が露出した状態で、経石も散乱していた。
】 口縁部が楕円形をし、長径68cm、深さ75cm、腹部から急に細くなっている。
経石】 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石経、経題のみ大型石に記載されていた。
経筒】 鋳銅製経筒の一部と見られる破片が出土、推定直径12cm。その他陶製の灯明皿が出土している。
 (秦野市)
広くなった境内にはベンチも幾つか設置されていて、 既に登ってきていた多くのハイカーが昼食などをしながら休んでいました。 丁度昼時になったので、私も脇に腰掛けて昼食タイムにしました。 左手が開けていて街並みなどを眺められる景色が広がっているのですが、生憎の天候のために霞んでいました。 弘法山の山頂には「弘法の乳の水」という井戸があり、手押しポンプで汲み上げて飲むことができます。 家に持って帰ろうとういうのか、ペットボトルに一杯入れている人もいたりしました。 私もポンプを押して水を汲んで飲んでみました。 キューンするような冷たい水という訳ではありませんが円やかな味がしました。
弘法の乳の水
この井戸は、昔から「弘法の乳の水」と呼ばれています。 この井戸から湧き出た水は、白くにごり、いつも乳の香りがしていたそうです。 いつの頃からか「真夜中に、誰にも知られずに山に登り、 乳の水を飲むと、乳がどくどくと出るようになる」と伝えられ、 この水をいただきに山に登る人が後を断たなかったと言われています。 いつの世も、子を持つ親の心は変わりません。 乳の出ない辛さにワラをもつかむ気持ちだったのでしょう。 その救いの神がこの白い井戸水でした。 なぜこんな山頂に不思議な白い水が・・・。 それは弘法さまのお力だと伝えられています。
 (秦野ラインズクラブ)
乳の井戸
山頂に白色の水の湧く古井戸がある。 これで粥を炊き食すれば乳が出るという信仰から「乳の水」と称して 昭和30年代初めまで授乳期の母親や妊婦が遠方からも水を求めてきた。 かつてはこの井戸の脇に二つの池があり、夏には太い柳の下で蛙が鳴き、 金魚の紅い色が水面に映じて美しく静かな時が流れていたが、 関東大震災の後に水涸れが起こり一つを埋めてそこに桜を植えた。
 (秦野市)
山頂には関東ふれあいの道の案内板があって、 「弘法大師と桜のみち」の簡単な解説とコースタイムとイラスト図が載っていました。 また、鐘楼や原久胤の歌碑などもありました。
原久胤 歌碑
我庵は 盛も人も とはぬかな をしまれて ちる花もあるよに 平久胤
平久胤は国学者・歌人。相模の国下大槻村(現・秦野市下大槻)の人。本姓 原。 通称新左衛門。号を契月。つきの屋と称した。 寛政4年(1792)に生まれ、弘化元年(1844)9月19日に没した。享年53歳。 初め奥村梁・山平伴鹿らに学び、さらに本居春庭に入門し学究につとめた。 久胤は万葉調の歌にすぐれ、江戸・相模・駿河で活躍し、黒羽・出石の諸侯などにも歌道を指導した。 また、歌集には門人日善の編集した「五十槻掻葉集」三巻等がある。 この歌碑は、辞世の和歌で、東京都品川区の長応寺の庭にあったが、 没後150年にして初めて故郷を望むこの地に再建した。
 (原久胤歌碑再建懇話会、秦野郷土文化会)
歌碑由来
この歌碑は原久胤の研究者であり、久胤の子孫でもある原孝郎氏が研究の過程で平成5年に発見されたもので、 折りしも久胤没後150年にあたる年でもありました。 原氏には久胤縁の地に1基の歌碑も無いことを憂い、長応寺尊_の深い御理解を戴き譲り受けられました。 従って建碑の実現には原孝郎氏の一方ならぬお骨折りの結果実現いたしました。 建碑に地については、秦野市の御協力により実現したものです。 また、説明板の建立については、多くの方々のご協力を得ました。
 (秦野郷土文化会)
鐘楼
ハイカーの皆様へ
この鐘は、時を知らせる鐘として、正午、3時、夕刻等につかれ、長い間地域の人達に親しまれておりました。 大切に扱うとともに、むやみに鐘をつくことは御遠慮下さい。
 (秦野市観光協会)
お腹も満ちたところで弘法山から下山していきます。 権現山へと続く右手の道は見送って、今回は左手に立つ道標「東海大学前駅へ」に従って、 石仏群の脇から続く幅の広い横木の階段を降っていきました。 階段の修復作業が進行中のようで、真新しい材料が道の脇に置かれていたりもしました。
明るい雑木林の尾根に続く横木の階段を降っていくと、右手が開けて展望が得られます。 条件がいいと箱根連山も見えるのですが、この時にははっきりとはしませんでした。
左手の浅い谷筋へ降りていく横木の階段を見送って正面に続く尾根道を更に降っていくと、 半球の上に石碑が立っていました。 袂には「浅間大神の碑」と書かれた板があり、壊れた解説板もありました。 読めない部分もかなりありましたが「浅間大神」の跡のようでした。
浅間大神の碑
江戸時代富士山信仰が盛んだったころ村の人々が富士山の神(浅間大神)をまつり___したものです
自興院分岐
石碑を過ぎて傾斜の増した横木の階段を降っていくと、左手から続く浅い谷筋に続く道に降り立ちます。 そのすぐ右手の所で道が二手に分かれています。 弘法山から8分ほど降ってきた所になります。 脇に立つ道標によると、右手に降っていく抉れ気味の道は「東海大学前駅 八幡神社経由」となっています。 左手の道には別の手製の標識が立っていて「北矢名方面(東海大駅)3km」となっています。 左手の道はミカン畑などを経て自興院へと降っていけますが、今回は右手の道を降っていきました。
(左手の道は「弘法山公園」を参照)
雑木林を進んでいくと、ちょっとした植林帯を抜けていきます。 道端には丸太のベンチが設置されていたりもしました。 浅いU字形に抉れた道には落ち葉が沢山積もっていました。 やがて抉れもなくなって緩やかな尾根道になってくると、 自興院分岐から4分半ほどの所で道が二手に分かれています。 正面に続く尾根道の方がしっかりとしていて、これまで歩いてきた道の延長として自然な感じで続いています。 右手には道標が立っていて、この先の道は「東海大学前駅」、今降ってきた道は「弘法山」となっています。 この先の道を指す板の向きは正面の道を指しているとしか思えないのですが、 道の右側に立っていることを考えると、右手に分かれて降っていく道を指しているものと判断しました。 正面の尾根道も何処かへ降りていけるのでしょうが、今回は右手の道を降っていきました。
(後日に正面の道を歩きました。「弘法山公園」を参照)
右斜面に沿って雑木林を降っていきます。 所々の樹間からは、先ほど登ってきた弘法山が見えたりもしました。 再びU字形に抉れてきた道を降っていくと、先ほどの分岐から5分ほどで、再び分岐があります。 ここにも道標が立っていて、右手の道は東海大学前駅」、今降ってきた道は「弘法山」となっていました。 左手へ曲がっていく道もしっかりとしていましが、道標に従って右手へと降っていきました。
八幡神社
U字形の抉れが次第に浅くなってくる道を1分ちょっと降っていくと、 道の左側に八幡神社がありました。 弘法山から20分ほどで降りて来られました。 これで山道は終わりになります。 無事に下山出来たことを報告していきましょう。 境内へ入っていくと、本殿と拝殿になった立派な社殿がありました。 本殿の屋根には七本の鰹木が乗り外削ぎの千木が聳えていました。 拝殿の横幅がかなり広くて正面からでは全体が収まらないので、斜め横から写しました。 社殿の左手には赤い鳥居の奥に小振りの祠がありました。 中を伺ってみると、小さな白狐像が幾つか置かれた小祠が納められていました。 解説板を読んだりしながら、ここでひと休みしていきました。
秦野市指定重要文化財 南矢名八幡神社本殿
この本殿は「三間社入母屋造」という形式です。 正面から見ると柱が四本ありますから、柱と柱の間の数は三つになります。 こういう形式を「三間社」といいます。 大きさは正面が約4.1m、奥行き約2.6mで、市内の神社本殿では最大規模です。 建立年代は棟札によって元禄3年(1690)と考えられます。 この社殿のみどころは、柱の上部に付けられた獅子や獏の彫物や、 正面柱の背面上部の「篭彫」という手法で作られた「手挟」という部材など、 たいへん豊かな装飾で飾られていることです。 また社殿の四周に設けられた廻り縁は「腰組」で支えられていますが、 こうした手法はこの社殿が造られた時期としてはたいへん進んだものです。 柱などの主要な部材には良質の欅が用いられています。 神社の屋根は切妻造が一般的ですが、秦野市内の神社には入母屋造が多いのも特徴のひとつです。
 (秦野市教育委員会)
八幡神社の正面にある石段を降り、木製の六脚の鳥居をくぐっていくと住宅地に降り立ちます。 住宅地に続く道路を真っ直ぐに進んでいき、突き当たりのT字路を左折していきます。 畑の脇を過ぎて正面に林が見えてくるとT字路があります。 そこを右折して降り坂になってきた道路を降っていきます。 右手に曲がっていく道を見送ってその先へ進み、突き当たりを道なりに左へ曲がっていくと、 大きな樹木の生えるT字路があります。 そこを右折して降っていくと、道標の立つT字路に出ます。 道標「至.東海大学前駅」に従って左折していくとY字路があります。 脇には石碑が二つあり、「天社神」と「道祖神」と刻まれていました。 綺麗な花が手向けられていたりもして、地元の人達の変わらぬ信仰心を感じたりしました。 道祖神の石碑には「嘉永七年」の年号もあったので、江戸時代末期に建立されたようでした。
弘法山から降ってくる今回の道は「小田急沿線自然ふれあい歩道」のサイトにも紹介されているので参考にして下さい。
山王下バス停
石碑のあるY字路を右手へ1分ほど降っていくと、車道の十字路に降り立ちます。 角に立つ道標によると、正面の道は「至.県道曽屋鶴巻線」、 左手の道は「至.瓜生野」、今降ってきた道は「至.八幡神社・弘法山」となっています。 十字路を左折していくと、程なくして山王下バス停があります。 東海大学前駅までの便が1時間に3本ほどありますが、 今回は東海大学前駅まで歩いていくことにしました。
この時には午後の閑散とした時間帯で、次のバスまで1時間ほどもありました。 当初はここを散策の終点にする予定だったのですが、 バスが行った直後で待ち時間が長かったので、東海大学前駅まで歩いていくことにしたのでした。 散策した明後日にバスのダイヤ改正が行なわれるようで、 それにより閑散時間帯はなくなって、一日を通して1時間に3本程度の便が運行されるようでした。
山王下バス停の先の東名高速道路の下をくぐっていくと、小田急の線路の脇に出ます。 線路に沿って続く車道をその先へ進んでいくと、根古屋入口バス停の先にT字路があります。 その角に「前田夕暮生誕の地の碑入口」と書かれた柱が立っていて「←25m」となっていました。 その案内に従って坂道を少し登っていくと、 民家の横に「前田夕暮生誕の地」と刻まれた石碑と解説板がありました。
前田夕暮について
前田夕暮(本名洋造)は明治16年(1883)7月27日、神奈川県大住郡南矢名村字小南(現秦野市南矢名2134番地)に生まれる。 同22年、村立大根小学校に入学。同31年中郡共立学校(現県立旗の高等学校)に入学、中途退学。 同35年、19歳の時、大磯の天野医院の食客となる。 大磯の文学青年たちと「湘南公同会」を結成。 西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」からとった夕暮の号を初めて用いる。 同37年上京、尾上柴舟の門に入る。 同39年、白日社創立。同43年、処女歌集「収穫」を出版。 若山牧水と共に自然主義の「比翼詩人」と称され、歌壇に「夕暮・牧水時代」を画す。 同44年、雑誌「詩歌」を創刊。大正3年、「生くる日に」を出版。 同8年、亡父の経営していた山林事業を継承し、事業地を秩父に移す。 昭和4年、斎藤茂吉らと小型機に搭乗、「空中競詠」を行い、以後10余年、口語発想の自由律短歌に専念。 その後定型に復帰す。 昭和26年4月20日、東京荻窪の自宅にて永眠。時に69歳。この日を菜の花忌といようになる。 この年、弘法山に秦野高校生の労力奉仕により歌碑が建立された。
木に花咲き 君わが妻と ならむ日の 四月なかなか 遠くもあるかな
うつばりに 青き烟草を 吊したり そのもとにゐて 楽しかるべし
岡畑の 畦みちくだり ふるさとの 匂ひかぎたり あきそばの花
 (前田夕暮生誕百年記念事業実行委員会)
東海大学前(とうかいだいがくまえ)駅
石碑から元の車道まで引き返して、その先へと線路沿いに進んでいきます。 小南バス停を過ぎて弘済学園への道を見送って進んでいくと、 井戸窪バス停のすぐ先で、青い歩道橋が線路に架かっています。 線路か少しら離れるようにして道なりに左へ曲がっていくと、その先で再び線路沿いを進むようになります。 北矢名郵便局前バス停を過ぎていくと、左手の小広くなった所に東海大学前バス停があります。 そこを過ぎて分岐の先の階段を登っていくと東海大学前駅(小田急小田原線)に着きます。 山王下バス停から22分ほど、八幡神社から34分ほどで到着しました。