舞岡公園
散策:2007年09月上旬
【里山散歩】 舞岡公園
概 要 舞岡公園は横浜市の戸塚区から港南区にかけて広がる自然公園で、 舞岡ふるさと村や舞岡ふるさとの森とも隣接しています。 谷戸田を取り巻くようにして森や丘が続いていて、 小谷戸の里を中心として保存活動が続けられている里山です。 今回は明治学院大学の西側から尾根筋に出て舞岡公園へと進んでいきます。
起 点 横浜市・戸塚駅
終 点 横浜市・戸塚駅
ルート 戸塚駅…子之八幡社…水神橋…上倉田原公園…戸塚ふたば幼稚園…下倉田第二公園…舞岡公園…もみじ休憩所…ばらの丸の丘…東門…谷戸…小谷戸の里…旧金子家住宅主屋…炭焼小屋…やとひと情報館…北門…さくらなみ池…舞岡町小川アメニティ…ふれあい広場…舞岡ふるさとの森…戸塚駅
所要時間 2時間50分
歩いて... その昔には明治学院大学の西側は畑地などが続く雰囲気のいい所だったのですが、 宅地化が進んですっかり様子が変わってしまいました。 道路建設のために尾根が切り開かれ、 尾根の東側の谷筋にも住宅が建ち並び、今では往時の面影はもう僅かしか残されていません。
関連メモ 舞岡ふるさと村, 舞岡ふるさとの森, 舞岡公園, 舞岡公園, 舞岡公園, 舞岡公園, 舞岡公園, 舞岡公園,
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コース紹介
戸塚(とつか)駅
戸塚駅(JR東海道線)から歩いていきます。
橋上改札口から東口へ出た所に「戸塚駅周辺広域案内」と題した案内板が設置されています。 これから向かう舞岡公園も載っていますが、今回歩く公園までのルートについては詳しくは載っていません。 案内板の脇から続く幅の広い階段を降って、バスターミナルを右手から回るようにして進んでいきます。 車道に出た右手に、柏尾川に架かる吉倉橋があります。
安全で快適な柏尾川をめざして
<柏尾川総合治水対策特定河川事業>
柏尾川は、戸塚区柏尾町の阿久和と平戸永谷川の合流点から藤沢市川名で境川本流に合流するまでの 延長約11km流域面積84kuの河川です。 流域の開発が進んだ典型的な都市河川で度重なる氾濫を受けてきました。 このため神奈川県では、現在、総合治水対策工事として、時間50mmの降雨量に対応するため 河床の掘り下げを行ない、河川の拡幅工事を実施しております。 今後も、環境に配慮しながら、安全で快適な柏尾川を目指して努力してまいりますので、 みなさまのご理解とご協力をお願いいたします。
 (神奈川県)
吉倉橋を渡って100mほど先にある上倉田交差点を右折して県道203号を進んでいきます。 水道局戸塚(営)前交差点を過ぎていくと、上倉田交差点から400mほどの所から左手へと道が分かれていきます。 角の民家の植え込みには菅笠を被って徳利を提げたタヌキの置物があったりします。 ここを左手へと入っていきます。
子之八幡社
住宅が建ち並ぶ路地を1分ほど進んでいくと、幟を立てる高い柱が左手にあります。 そこから左手へ入っていくと、注連縄が張られた鳥居があります。 鳥居をくぐって石段を登っていくと子之八幡社の境内になります。 正面の一段高い所に、本殿と拝殿から成る社殿が建っています。 屋根には鰹木が7個並び、両脇には外削ぎの千木が伸びる立派な姿をしていました。 上倉田地区の鎮守として歴史のある神社のようでした。 境内の左手には社務所があり、境内では子供たちがボール蹴りをして遊んでいました。
上倉田町鎮守 子之八幡社 略記
鎮座地 横浜市戸塚区上倉田町978番地
県道戸塚〜鎌倉線。 戸塚駅より二番目のバス停「表」で降りると左手の小高い森の木の間から御社殿と鳥居が見えます。
御祭神 大己貴命(大国主命)、應仁天皇(誉田別尊)
境内に山王社、道祖神等が祀られています。
神殿 神明造、木造、銅板葺き、11坪(36.3u)
境内坪数 500坪(1650u)
主な行事
元旦祭 1月1日、午前0時より午後3時頃まで氏子役員が奉仕しています。午前10時式典を行います。
左義長 1月15日、午前9時より午前中境内で行います。
例大祭 8月第1土曜日、午後2時式典を行います。 以前は例大祭を4月2日に行っていましたが、社会情勢や生活様式の変遷から、 上倉田を永住の地としている皆さんの希望で夏休み中の8月第1土曜日に改められました。 当日は神輿渡御、納涼おどり、演芸、模擬店等、老いも若きも祭に参加し、 氏神にお仕えして楽しい一日を過しています。
七五三祝 11月15日前の日曜日、午後1時より祝式を行います。
由緒沿革 子之八幡社はもと子之神社と云われ、勧請年月日は不詳ですが古くから村の鎮守でありました。 記録によると、享和2年(1802)3月及び、天保2年(1831)社殿が造営され、明治6年12月村社に列し、 同17年9月及び同22年9月の再度の暴風雨のため社殿が破損したが直ちに再建されました。 上倉田町1391番地に鎮座されていた八幡宮が大正4年1月1日の火災で社殿が焼失、 同年4月20日子之神社に合祀され、以後子之八幡社と改称されました。 現在の社殿は大正6年に造営され、大正10年7月神饌幣帛料供進神社の指定を受けました。 昭和46年に拝殿の草葺きを銅版葺きに改造して、社殿の様相を一段と整えることができました。 御祭神大己貴命(大国主命)は、出雲大社を本宗として、その分社はあまねく全国に行き亘っています。 大国主命は国造の大神、又は大物主命とも称され、物質界のみならず精神界の支配者であるという信仰もあり、 多方面に神徳があらわされました。 八幡宮が第15代應仁天皇を祭神としたことは、遠く奈良時代九州宇佐八幡宮を本宗として祀ったことに始まります。 貞観元年(859)山城(奈良)男山に分霊し、岩清水八幡宮として祀られました。 以来、氏族神、郷土神として深く信仰し、八幡様は八百万の神々の中で最も広く信仰されています。 中世の武士は武神として尊び八幡大菩薩として仏教と習合した。 八幡宮は全国神社の半数に及んでいます。 八幡太郎義家は源氏の氏神として、又、源頼朝は鎌倉に幕府を開き氏神として尊宗した。 上倉田八幡宮は勧請年月日が不詳ですが、 当時長尾郷主が民政安定を願って奉祀されたであろうことは、新相模風土記などから推察されます。 明治以降は神祇院がおかれ、神仏分離がされ、明治6年村社に列せられてから幣帛料が奉祀され、村長が祭礼に参列された。 行政区画も相州上倉田村から鎌倉郡豊田村上倉田に、昭和14年には横浜市に編入されて、戸塚区上倉田町に変った。 第二次大戦後は神社は宗教法人として発足することになって、 昭和28年9月28日宗教法人子之八幡社として、神社本庁から認証され法務局に登記されました。 このように行政改革や制度変遷に加えて上倉田町の急激な発展は いつか會っての農村が都市化されました。 ここを永住の地と定めた方々も急増しました。 永い歴史と共に上倉田の鎮守様として崇敬され立派に護持されてきました。 今後も愈々共に親しんで、氏神のお守りを戴き、和やかな明るい町づくりに努めてまいります。
 (宮司、総代代表)
子之八幡社の境内の右手から出て石段を降り、民家の間に続く路地を進んでいくとT字路に出ます。 そこを左手へと緩やかに数10m登っていくとY字路があります。 正面には「しらぎく幼稚園 100m先、右に入る」の看板が立っていて右手の道を指しています。 その看板に従って右手へ100mほど進んでいくとY字路があります。 先ほどの看板のしらぎく幼稚園は右手へ進んでいくのですが、今回はここを左手へと曲がっていきます。 以前にはこの右手にはこんもりとした小山がありましたが切り崩されて宅地化され、 今ではその面影もない住宅地になってしまいました。 Y字路を左折した少し先の左手には上倉田原町内会館があります。
水神橋
町内会館を過ぎていくと十字路があります。 その十字路を直進して、登り坂になった道を進んでいきます。 住宅地に続く坂道を3分ほど登っていくと、正面に高架になった水神橋が現れます。 上を通っている道路はまだ建設中で、 本郷台5丁目から明治学院大学を横切って小田急団地入口へと続く桂町戸塚遠藤線になるようです。 以前にはこの道路はなかったし周辺の工事なども行われて、すっかり様変わりしてしまいました。 道路の左手には横浜市倉田コミュニティハウスがあります。 多目的ホール・憩いの間・交流ラウンジ・音楽室などがある施設になっています。 水神橋の下をくぐり、左手から登ってくる道を合わせて、その先へと進んでいきます。
上倉田原公園
左右への分岐道を見送って道なりに進んでいくと、正面にこんもりとした森が現れます。 森の右手に沿うようにして続く道を進んでいくと、左手の石段を登った所に上倉田原公園があります。 ブランコや滑り台などがある小さな公園です。 以前には、道路の右手に市民農園があったのですが、今ではすっかり宅地化されてしまいました。
上倉田原公園から道路に降りてその先へ進んでいくと道が右手へと分かれていきます。 角にはコンビニがあります。 どちらの道を進んでいっても舞岡公園には行けるのですが、今回は正面に続く坂道を登っていきます。 坂道を1分半ほど登っていくと、右手へ細い道が分かれて降っていきます。 今回はこの右手の道へと進んでいきます。
坂道を降っていくとすぐに緩やかな道になります。 駐車場や建物などを過ぎていくと五叉路があります。 左手には明治学院大学の入口がありますが、正面の道を進んでいきます。 以前には左右に通る道はなく、右手には畑地が続き左手は山辺になっていましたが、 開発の波に押されて、今ではすっかりと様子が変わってしまいました。
少し降ってからなだらかになった道を進んでいきます。 両側には草木の生える道が続いていて、昔の面影が僅かに残っていたりもします。 右手が少し開けて住宅が迫ってくる所を過ぎていきます。
開けた所を過ぎていくと森の中へと入っていきます。 左手の一段高い所にはちょっとした畑があります。 その下に続く細い道を進んでいくと、右手には小さな植林帯が続くようになります。 この辺りだけはまだ昔の雰囲気のまま残されていて、何だか懐かしい感じがします。
小さな森を抜けていくと車道に出ます。 左手の道は明治学院大学を横切る道で、先ほどの水神橋のある道路から続いてきています。 ここから先は下倉田地区になります。 今回は車道に出てすぐ左手にある分岐道へと入っていきます。 左・右と曲がっていくと、正面のこんもりとした森の袂に通る道に出ます。 そこを左折して森に沿って進んでいきます。
軽く登り気味に進んでいくと、左手から道が合流してきます。 正面の窪地になった遊水池は大学の弓道場になっていて、この時も数人の学生が弓を引いていました。 明治学院大学の敷地は「緑地の協定区域」として協定されているようです。
明治学院第2遊水池
この池は大雨の時、雨水を一時貯水して下流へ少しずつ流し、 河川の氾濫を防ぐ大切な役目をします。
貯水量 5,725立方m、水深2.11m、貯水面積2,605u
 (明治学院)
緑地の協定区域
この区域は、緑の環境をつくり育てる条例に基づき協定された緑地です。 皆んなで緑の環境を大切に育てましょう!
 (明治学院、横浜市)
左手からの道を合わせて右手へと進んでいきます。 大学構内に沿って続く道を進んでいくと、細めの道が右手へ分かれていきます。 その道を見送って柵沿いに進んでいくと左手へ道が分かれていて、 その先には大学構内へ登っていく階段が見えています。 その道も見送って少し右手へ曲がっていく道を進んでいくと、住宅地の中に続く軽い登りの坂道になってきます。 左右への分岐を見送って道なりに真っ直ぐに進んでいくと、 「下倉田幸ヶ丘自治会掲示板」や四角い郵便ポストのある分岐の先に、 少し曲がった感じのX字路があります。 左右の道の方が広めなのですが、ここは正面の少し右手へと登っていく坂道を進んでいきます。
戸塚ふたば幼稚園
坂道を登って道なりに左手へと曲がって、緩やかになった道をその先へと進んでいきます。 1分ほどして左手へと曲がって軽く登っていくと、少し曲がった十字路があります。 そこを右折してコンクリート壁の続く坂道を登っていきます。 青緑の金網が続くようになった坂道を更に登っていくと尾根筋に着きます。 その右手には戸塚ふたば幼稚園があります。 ここを左折して尾根筋に続く道を進んでいきます。 この尾根は横浜市の戸塚区と栄区の区境になっていて、 これまで歩いてきた西側が戸塚区下倉田町で、東側が栄区本郷台5丁目になります。
下倉田第二公園
尾根筋に続く道を少し進んでいくと十字路があります。 その左手の角に下倉田第二公園があります。 ブランコ・鉄棒・滑り台・砂場などがある静かな公園です。 戸塚ふたば幼稚園の手前にあった十字路を直進してくるとこの公園に来られます。
下倉田第二公園を過ぎて、尾根筋に続く道をその先へと進んでいきます。 住宅が増えてはきているものの、その昔の面影が少しは残っていたりもします。 以前は尾根の右側は谷になっていて、谷底に細い道が続くひっそりとした所でしたが、 今では道も広がって、一帯に民家などが建ち並ぶ住宅地になりました。
奥の方に横たわっている低い山並みは鎌倉天園へと続く尾根になります。 ここから谷を渡って尾根まで行って、 そこから鎌倉天園へと歩いていったことが何度もあったのを思い出したりしました。
僅かな登り坂の道を進んで正面に森が見えてくるとX字路があります。 正面に登っていく坂道の右手に続く道を森に沿って進んでいきます。 舗装されてはいますが、往時の面影がまだ残っている所になります。 以前にはこんな感じの道が尾根に沿って続いていました。
やがて右手に鉄線柵が続くようになると、開けた所に出ました。 以前にはこの先へと尾根道が続いていたのですが、 本郷台5丁目から小田急団地入口へと続く 「都市計画道路 桂町戸塚遠藤線」の建設のために尾根が切り開かれてしまいました。 以前に尾根道が通っていた所の少し西側に仮設橋が架けられています。 半年ほど前に来た時にはまだなかったのですが、仮設橋の西側には建設中の新設橋梁があり、 概ねの姿を現わしていました。 なぜ以前の尾根道の所に橋を架けないのかと思ったりしますが、 最終的には尾根が全て取り除かれてしまうということなのでしょうか。 その昔の面影がまったく残らない所になってしまいそうで、何だか寂しい気がします。
正面のこんもりとした森へと続く仮設橋を渡っていきます。 森の右手からその先へと続く尾根道を進んでいくと、先ほどの新設橋梁から延びる道が合流してきます。 その手前には大きなスダジイがあって、袂には庚申塔があります。 以前からずっとここにある供養塔で、 運よく道路工事の難を免れたと思っていたのですが、どうやらそれも怪しくなってきたようです。
後日に訪ねてみると、スダジイは舞岡公園の南の丘に移植され、 庚申塔は新たに出来た舞岡南の橋の傍に移設され、解説板も設置されていました。 (「舞岡公園」を参照)
舞岡公園
青緑の金網が続く尾根道を進んでいきます。 程なくして金網が途切れて道幅が少し広がってくると、左手の歩道の脇に「舞岡公園」の標柱が立っています。 この辺りが舞岡公園の南東部になります。 戸塚駅からここまで1時間15分ほどで来られました。 この道は横浜市の戸塚区と港南区の区境になっていて、 左手が戸塚区、右手が港南区になります。 舞岡公園の大部分は戸塚区に属していますが一部は港南区にかかっています。 右手のこんもりとした丘はおおなばの丘で、春には桜の花が綺麗に咲く所です。 その先の方にはけやき広場こぶし広場や公園管理詰所などがあります。 舞岡公園の南門への道を分けてその先へ進んでいくと車道に出ます。 その手前から分かれて左手へと入っていきます。 入口には大きな「舞岡公園案内図」が設置されているので参考にしましょう。
もみじ休憩所
けやき広場から車道を渡ってくる道を合わせてその先へ進んでいくともみじ休憩所があります。 芝生の広場になっていて、周囲は樹木に囲まれている所です。 公園管理詰所から車道を渡って森を抜けてくる道が右手から来ています。 広場の先の方へ進んでいくと東屋が建っています。 脇には掲示板があって、近郷の小学生の書いた環境メッセージが貼り出してあったりもします。
ばらの丸の丘
東屋の左手から続く傾斜の増した坂道を降っていきます。 道の両側の森は生物保護区のため立入禁止になっています。 周囲の雑木林からはセミ達がこの夏最後の競演をしていました。 幅の広い坂道を1分ほど降っていくと、丸い尾根の背に続く広場に出ます。 ここはばらの丸の丘と云って、周囲には桜の木が沢山植えられています。 花の季節には綺麗に彩られる所でもあります。
舞岡公園憲章
私たちは横浜市の原風景である谷戸を愛する市民です。 舞岡公園は、水や土、それに私たち人間をはじめとする生きとし生けるものの調和によって 成り立ってきた谷戸の景観をとどめています。 この緑あふれる谷と丘を良好に維持保存し、 ながく後世に引き継ぐことを目的としてここに憲章を定めます。
・私たちは、舞岡講演で自然とふれ合い、様々な生き物たちと共にあることを大切にします。
・私たちは、谷戸で受け継がれてきた文化や農体験を大切にします。
・私たちは、舞岡公園を市民の手づくりによる市民のための公園にします。
 (横浜市南部公園緑地事務所)
生物保護区のため、立入り、動植物の採取を禁止します。
 (横浜市)
東門
ばらの丸の丘の先へ進んでいくと、宮田池さくらなみ池の畔へ降りて行かれますが、 今回は手前の左手にある舞岡公園の東門から谷戸へと降っていきます。 門の手前には道標が立っていて、正面の丘は「水飲み場」、 左手の東門から続く道は「谷戸・水田」となっていて、「小谷戸の里」の表示も添えられています。 舞岡公園の中心的な場所である谷戸には北門・南門・東門の三つの門がありますが、 自然等を守るために夜間は閉ざされています。 東門を抜けてその先へと進んでいきます。
お知らせ
ここより先は野生動植物の保護及び自然環境を維持して行くため、 犬(補助犬を除く)等を連れての立ち入りはできませんので、ご協力をお願い致します。
公園門(東・南・北)内の利用時間
夏期間(4月〜10月)… 8:30〜19:00
冬期間(11月〜3月)… 8:30〜17:00
なお野生動植物の保護及び自然環境の維持のため、夜間は公園門の開閉を上記の時間で行います。
 (横浜市環境創造局南部公園緑地事務所、舞岡公園田園・小谷戸の里管理運営委員会)
ここ舞岡公園には、四季の移りかわりを楽しませてくれる草花や木があり、 さまざまな生きものたちがすんでいます。 この大切な動植物たちの営みを末永く保ちつつ多くの人たちが楽しめるよう、 次のことにご協力くださいますようお願いいたします。
・火の使用はできません。(公園の催しを除く)
・ゴミは持ち帰る。
・大きな音を出さない。(音楽等は迷惑にならないように)
・動植物をとらない、持ち帰らない。
・ペットなどの生きものを捨てたり、草花や樹木を無断で持ち込んだりしない。
・道をはずれない。(貴重な動植物をふんだり、おどろかせたりすることがあります)
・生き物にエサをやらない。
 (横浜市南部公園緑地事務所)
谷戸
雑木林の中に続く緩やかな道の脇には笹竹などが生い茂っています。 少し進んでいくと、幅の広い横木の階段を降るようになります。 笹竹の生い茂る斜面に続く横木の階段を1分ほど降っていくと、浅い谷戸に降り立ちます。 谷戸には田んぼが続いていて、大きく育った稲が頭を垂れ始めていました。 米を守るために、田んぼの上にはネットが被せられていました。
田んぼの脇を流れる水路に沿って谷戸を進んでいくと、所々に案山子が立っていたりもします。 「ドリーム米」と書かれたTシャツを着たのや、赤ちゃんを抱っこしたのや、野良着に首手ぬぐいをしたのや、 拳銃などを下げた髭もじゃのなどがありました。
実家が農家で田んぼを作っていたこともあって、田んぼは私の心の原風景になっています。 田んぼの脇の畦道などに座って、働く親をじっと眺めていたものです。 人手が足らなくて少し手伝ったことはありますが、 農業は体が大変だからと云って、後継ぎをさせる気のなかった親は、 農作業の仕方を教えようとはしませんでした。
小谷戸の里
道端にある休憩所を二つ過ぎて畦道を進んでいくと、南門から続いてくる広めの道に出ます。 道に出た所は、畦道を合わせると十字路のようになっています。 角には大きな掲示板が設置されていて、色々なメモが貼り出してあります。 掲示板を過ぎてその先へと続く板敷きの坂道を進んでいくと、 「小谷戸の里」の表札の掛かる門があります。
「舞岡公園へようこそ」
ここ舞岡公園は、市内でも残り少なくなった昔ながらの田園風景が残され、 横浜の特徴的な景観である谷戸の地形をいかした公園です。 田んぼや畑、雑木林などの農的自然を四季折々に育み続け、 そこに息づく生きものたちへの心配りも大切にし、 さまざまな生きものが織りなす豊かな自然の営みが末永く続くことを願って開設されました。 ここで多くの市民の汗と創意が何よりも重んじられています。 横浜市環境創造局と市民団体が、1993年6月の開園までの約10年間、 他にほとんど例のない公園の維持と運営に向けて少しずつ試行錯誤を重ね、 その成果が実りさまざまな工夫と知恵が活かされて現在にいたっています。 公園内の「田園体験区域」では、田や畑の農作業、雑木林の維持作業、自然観察会、炭焼き、わら細工、 季節の行事などが行われています。 ここの管理運営を行っているのが「舞岡公園田園・小谷戸の里管理運営委員会」です。 指定管理者としてさまざまな事業を行っており、作業参加のボランティアの方々や、 散策の市民の歓声や笑い声がいつも絶えない日常です。 茅葺き屋根の古民家では、竃の煙が立ち上り、敷居を一歩またぐとそこにはもう明治・大正時代にタイムスリプ! 囲炉裏や太い大黒柱がピカピカに黒光りしている佇まいは、そこにいるだけで身体全体が「ほっ!」とします。 ボランティアとして会の活動を支えている登録者は約400口。登録内容も多種多様。 登録関連諸経費として年間2000円と3000円のどちらかを選択し、登録時に支払います。 他に主に資金面で協力してくださる登録もあります。 内容は、田んぼ・雑木林・畑・古民家・農芸・会報編集・生物環境・谷戸学校・こども谷戸教室・親子自然教室などがあります。 谷戸学校は、会の運営を担うスタッフ(指導員)の養成を目的にした1年間の講座で、座学と実習があります。 作業を共にして一緒に流す汗は、それだけで心をなごませ会話が弾みます。 老若男女どなたでも参加できます。 お気軽に声をかけてください。
"小谷戸の里"休館日
毎月第3月曜日(祝日の場合はその翌日)
開館時間 : 午前9時〜午後5時
年末年始の休み : 12月29日〜1月3日
 (舞岡公園田園・小谷戸の里管理運営委員会)
小谷戸屋
小谷戸の里の門から中へ入っていくと、 舞岡公園田園・小谷戸の里管理運営委員会事務所の前に小谷戸屋があって、 ボランティアの方々が作られた品物が売られています。 この時には、米ぬか・草木灰・もみ殻・竹炭・竹トンボ・わら馬・ポックリ・草鞋などが販売されていました。
小谷戸屋はこんな店
私達は、横浜の原風景である谷戸を愛し、いつまでもこの姿を残し育んでいきたいと考えておりますが、 現実の自然環境保全の活動は大変です。 当店では、ボランティアの方々の苦心作を取り扱っておりますので、 皆様のカンパによるご利用が頂ければ幸いです。 ご厚志は、全額当公園の維持運営の一助とさせて頂きますのでよろしくお願い申し上げます。
−お知らせ−
小谷戸屋の品は、ボランティアが作製しております。 また、公園内の産物は園内の行事や整備等に使うことを基本としており、 余った物を小谷戸屋の品の材料としています。 そのため、ご好評の品がいつも揃えられるとは限りませんので、どうぞご了承ください。
小谷戸屋の品物(竹細工・ワラ細工・竹炭焼き・などなど)を作るボランティア募集中
継続的に作る意思のある方なら、初心者でもお教えします。 詳しくは事務所まで。
旧金子家住宅主屋
小谷戸屋を過ぎて奥へ進んでいくと、古民家「旧金子家住宅主屋」があります。 この春には真新しい淡い色をしていた茅葺き屋根も、この時には落ち着いた色になっていました。 外には独楽やポックリなどの遊具が置いてあったりして、家族連れが休日のひと時を楽しんでいました。 主屋へ入っていくと、板の間の囲炉裏の上には天井から自在鉤が下がり、鉄瓶が掛けられていました。 土間の壁には、舞岡公園開園10周年を記念して、2002年9月に古民家で行われた結婚式の写真が掲げられていました。 白い角隠しをした和服姿の花嫁行列の写真でした。
私の実家にも囲炉裏があって天井から自在鉤が下っていたのを思い出しました。 周りは板の間ではなくて畳敷きになっていましたが、この写真のような雰囲気でした。 しかしそのうちに自在鉤はなくなり、囲炉裏は練炭の掘り炬燵になりました。 薪を入れて焚く竃もありましたが、ガスコンロや炊飯器へと変っていきました。 洗濯たらいに洗濯板もあってゴシゴシと洗っていたものですが、それも電気洗濯機になりました。 時代は進んでいきますが、心の中には昔の思い出がそのままに、 あるいは大きくなりながら残っています。
古民家 懐かしい明治後期の古民家「旧金子家住宅主屋」
明治後期に建築されたと思われる旧金子家住宅主屋は、戸塚区品濃町にあったものを平成7年6月に 納屋なども含めて舞岡公園小谷戸の里に移築し、復元したものです。 建築様式は、木造平屋建て、寄棟茅葺屋根で、平成7年度に横浜市認定歴史的建造物に指定されました。 間取りは整形四間取りと呼ばれ、8畳の部屋を4室、田の字に並べたもので、 間仕切りにはすべて戸・障子が用いられて開放的になっています。 こうした間取りは、江戸時代末期から明治初期にかけて座敷で蚕の飼育をしたために、 間取りの壁を取り払った結果できたものと考えられています。
人生は七十才より
七十才にてお迎えあるときは 今留守と言へ
八十才にてお迎えあるときは まだまだ早いと言へ
九十才にてお迎えあるときは そう急がずともよいと言へ
百才にてお迎えあるときは 時機を見てこちらからボツボツ行くと言へ
ミニミニ博物館
古民家の一角に小谷戸の里ミニミニ博物館があります。 この辺りに生息している鳥や小動物や昆虫などが展示されていました。 また金子家の所蔵品の日記や高等小学読本や高等小学国史などもありました。 高等小学読本をちょっとめくってみると、難しい漢字が並んでいました。 よくは知らないのですが、「高等小学校」というのは現在の中学校に相当するのでしょうか。 「巻三」とあったので、今の中学三年生の国語の教科書に相当するということでしょうか、 かなり難しい読本のようでした。 参考までに、その最初の部分を載せておきます。 東京から汽車に乗って京都まで旅をする情景などを記した内容のようでした。 高等小学国史の最初のページには天照大神から今上天皇へと続く系譜が載っていました。
第一課 春晴千里
春晴千里、山又山、水又水。 近き水は澄みて山の緑を浮かべ、遠き山は霞みて水に藍を流す。 東京を発せし我が汽車は、此の間に一線を引きて、今や東海道を下りつゝあり。 海に面して窓に倚る客、筆と紙とを手にして寫し出せるは、歌か、詩か、そもそも繪か。 七砲臺(品川菖砲臺)邊波穏やかにして、高く低く群れぶ鴎、落花の風にひるがへるに似たり。 帆を半ば張りて出で行く舟あり、櫓を繰りて横ぎる舟あり。 房總二州の山は霞に消えて探れども見えず。 松き處、色どり添ふるに桃の紅なるを以てす。 自然は是等の美を贈りて旅客を慰め、詩人は其の美を詠じて春に謝せんとす。 藤澤の野、山北の谷、人々唯美しと叫ぶ。 三保の磯に砕けて折れかへる波、波路の末に浮立つ雲、何ものか造化の妙筆に濡れん。 近き舟は行けども、遠き帆影は動かんともせず。 遠くかすかに横たはれるは伊豆なるべし。 富士は水彩もてゑがかれたるが如く、窓の右に立ち、又左に現る。 平原十里、麥は緑に、菜の花は黄なり。 熱田の社を左に見て春風に吹かれ行けば、名古屋の城はまがはぬ影を見せ初めたり。 彦根去り、草津来り、瀬田川を渡れば、京都も早近くなりぬ。 朝日将軍の遺蹟は何れの處ぞ。 霞に包まるゝ遠近の山影、或は淡く或は濃く、鳰の浦風波に眠りて、粟津の松原濁り昔に似たり。
炭焼小屋
小谷戸の里の入口の手前から左手へ進んでいくと、小さな木橋の先に炭焼小屋があります。 以前にはなかったのですが、小谷戸池の畔に出来ていました。 奥には煉瓦製の「竹炭焼き窯」、手前には「ドラム缶窯」がありました。 奥の窯は「本格的な炭焼窯」とのことで、桜・楢・櫟などを炭材として、 連続約70時間で焼き、炭材800kgに対して約200kgの焼き上げ量になるようです。 ドラム缶窯の方は、煙突を取り付け石油缶のかま口で蓋をして、口焚きをするようでした。
やとひと情報館
小谷戸の里を後にして、谷筋に続く道をその先へと進んでいきます。 小谷戸池を過ぎていくと、水車小屋の先にやとひと情報館があります。 舞岡公園の一年の移り変わりや作業などが紹介されています。 また1993年から毎年恒例になっている「案山子祭り」の優賞作品の写真が展示されていました。 2006年は「カブ」,「やっぱだけ」,「豊作!!稲妻王子」,「稲藁乳母」,「みみずくパパ」,「谷戸の原始人」が 人気があったようです。
やとひと情報館
「雑木林」や「里山」と言った言葉が最近流行っている。 農的な営みの中で成立してきた人の手の入った自然−雑木林−は、 その分だけ「親しみ」や「懐かしさ」を感じることが出来る等、 雑木林の魅力については様々な方面で論陣が張られ讃歌されている。 ここ舞岡公園での雑木林の価値も、田んぼの水の水源として、 生き物の生活の場として、その他いろんな必要性・魅力があげられるのは言うまでもない。 しかし、あえて一言で言うなら「それがあることで、自分が、地域が、世の中が元気になる」存在なのである。 例えば、1年間の雑木林活動を示した図「雑木林の曼荼羅」を見れば、 この公園での市民の元気さが伝わってくるはず。 今、夢でも幻でもなく現実のものとして見事な曼荼羅が広がっているこの雑木林に、 市民が始めて鎌をいれたのはいつのころか。 改めて雑木林の持つ「関わり続けていく面白さ」を感じないわけにはいかない。
さあ、胸を張って謂おう! 「雑木林はわたしたちのまちの恋人!!
谷戸ってな〜に?
横浜市やその近辺には、小さな丘に囲まれた小さな谷がたくさんあり、 この谷を谷戸と呼びます。そこでは、雑木林に育まれた湧水が小川となり、 人々は田んぼや畑をつくって、ホタルやトンボ、タヌキやノウサギなど、 生き物たちと共にくらしていました。 都市化の前の横浜ではあちこちで見られた原風景です。
舞岡公園は谷戸の公園
この自然と農文化の息づく風景を残したいと願う市民が、 横浜市緑政局とともに試行錯誤を重ね、谷戸を中心にした公園が生まれました。 現在、市民団体「やとひと未来(舞岡公園田園・小谷戸の里管理運営委員会)」が 市からの委託を受け、市民の手で公園の田圃体験区域を運営しています。
あなたもいっしょに…
田んぼ、畑、雑木林、古民家、広報などなど、赤ちゃんからお年寄りまで、 好きなこと、得意なことで力を出しあい、楽しみながらこの公園をささえています。 詳しくは、小谷戸の里 事務局へ、ぜひいちどお立ち寄りください。
北門
きざはし池を過ぎていくと北門があります。 ここにも東門と同じ「お知らせ」が掲げられています。 この左手の丘は中丸の丘で、舞岡公園の谷戸や谷向かいのばらの丸の丘などを見渡せます。 以前には菜の花の咲く丘だったのですが、公園の整備が進められて、最近では菜の花は見かけなくなりました。
愛犬家のみなさんへ
舞岡の谷戸はやしは市民に残された数少ない野生動物たちの貴重な生息地の一つです。 このため、これより先へは愛犬と一緒には入場できません。 タヌキ・ノウサギ・キジなど、ふるさとの動物たちが安心して暮らすための環境作りにご協力下さい。 家族一員の愛犬に社会のルールを教え守らせることも飼い主の責任の一つです。
北門を過ぎた所にも「舞岡公園案内図」があるので参考にしましょう。 そのすぐ先から右手の浅い谷筋へと降りていく道が分かれています。 板が敷かれた桟橋になっていて、葦原の湿原に続いています。 以前にはこの辺りも田んぼだったものと思われます。 東門から降りてきた辺りからこの谷筋全体に田んぼが作られていたのでしょうが、 今では下の方は畑地や宅地になっていて、奥の方にわずかに田んぼが残されている状況です。
大きな川の河口付近にある中州に、実家の田んぼがありました。 収穫の時期になると、竿をさしながら進める小舟に乗って田んぼまで行ったものでした。 途中の川には葦が生い茂っていて、こんな感じになっていました。 その中を水路のようにして舟が通っていけるだけの空間が開いていました。 刈り取った稲を舟一杯に積みこんで、家の近くの稲木まで運んでいったことを思い出したりしました。 川独特の匂いが漂ってきて、普段とは少し違う環境を新鮮に感じたものでした。
さくらなみ池
湿原の向こう側へ着くと、ばらの丸の丘から降ってくる横木の階段があります。 その手前から左手へ進んでいくとさくらなみ池宮田池があります。 池の畔には枝垂れ柳の木が生えていて、絵になりそうな雰囲気のいい所です。 バードウォッチングでしょうか、超望遠レンズを付けたカメラを三脚に乗せて、 鳥がやってくるのを待っている人たちも見かけました。 池のそばには田んぼがあって、ここでも青々とした稲が頭と垂れ始めていました。
舞岡町小川アメニティ
もみじ休憩所の近くへ登っていく道を右手に分け、階段を右手に分けて山際を進んでいくと、 左手の浅い谷戸には田んぼが広がります。 その先で北門から続く広めの道へと合流する道もありますが、 そのまま山際に流れるせせらぎに沿って続く細い道を進んでいきます。 この道は舞岡町小川アメニティになっていて、所々にはベンチもあったりします。
畑地の脇に続く小径を進んでいくと、やがて民家の裏手に出ます。 小さな木橋を渡ってせせらぎに沿って左手へ曲がっていくと、北門から続く広めの道に出ます。 正面の森は竹林になっています。 右手へと曲がっていくせせらぎに沿って進んでいくと車道に出ます。 角には道標が立っていて、左手の道は「舞岡駅へ」、右手の道は「原古御堂を経て舞岡公園へ」、 今歩いてきた道は「松原越しを経て舞岡公園へ」となっています。 左手へと曲がっていくせせらぎに沿って車道を進んでいきます。 藤棚の下を通り坂下口バス停を過ぎていくと、車道に出て4分ほどの所から左手へ道が分かれていきます。 舞岡駅へは正面の道を進んでいくのですが、今回は左手の道から尾根を越えて上倉田地区へと向かっていきます。
民家の建ち並ぶ中を進んでいきます。 右手からの道を合わせて左手の山際に続く道をその先へ進んでいくと畑地に出ます。 畑地の中に続く道を正面の山に向かって進んでいくと、細い道が右手へと分かれていきます。 「農地への立入り禁止です」の看板が立っていますが道標類はありません。 尾根へは右手に分かれていく土の道を進んでいくのですが、 左手のすぐ先にふれあい広場があるので、ちょっと立ち寄っていきました。
ふれあい広場
右手の道を見送ったすぐ先に「舞岡公園・舞岡ふるさとの森・舞岡ふるさと村案内図」があります。 その図によると、この辺りは舞岡ふるさとの森で、 車道から分かれてきた道はその散策路になっています。 ここから尾根に登っていく道も図示されているので参考にしましょう。 案内板を過ぎていくとすぐにふれあい広場があります。 広い草原になっていて東屋とトイレが設置された所です。 草原を歩いていると、何だか子供の頃を思い出したりもします。
こんなに広くはありませんが、私の実家の近くにも原っぱがありました。 後になってソフトボールなどができるように整地されましたが、 それまではこのような感じの草原になっていました。 近所の仲間と一緒に捕まえたヘビを穴を掘って埋めたりもした記憶があります。 その頃から私はヘビが嫌いで触ることはできませんでしたが、 その友だちは平気で掴んで振り回していました。 シロツメクサで花輪を作ったり、 オオバコの茎を絡めて「相撲」と称して引っ張り合いをして遊んだりしたものです。
農林水産省補助事業
−農業農村活性化農業構造改善事業−
地区名横浜市戸塚区舞岡地区
設置年度平成4年度
事業主体横浜市
施設概要施設名 ふれあい広場
事業量 広場及びトイレ 4,187u
舞岡ふるさとの森
先ほどの分岐まで引き返して畑地に続く土の道を進んでいきます。 山際に着いて左手へ登っていくと、両側に縦杭が続く階段が現れます。 その階段を登っていくと舞岡ふるさとの森の尾根道に出ます。 登り着いた所には道標が立っていて、左手の道は「舞岡公園」、右手の道は「舞岡駅」、 今登ってきた階段は「ふれあい広場」となっています。 今回は右手の道から尾根を越えていく舗装道路に出て上倉田地区へと降っていきます。 広い尾根道を進んでいくと畑地の脇に出ます。 そこから少し降り気味に進んでいくと、左手に上倉田地区の街並みが見えるようになります。 緩やかに降っていくと分岐があります。 右手は舞岡ふるさと村へ降っていく道で、今回は左手に見えている舗装道路に向かって左手へ曲がっていきます。
舞岡ふるさと村から尾根を越えて上倉田地区へ続いている舗装道路に出ると、正面に階段があります。 舗装道路を左手へ降っていってもいいのですが少し遠回りになるので、 今回は正面に続く階段を降っていきました。 階段はすぐに終って、左手に広がる畑地に沿って続く坂道になります。 街並みなどを眺めながら降っていくと、広めの舗装道路に降り立ちます。 正面には造園業者の畑があります。 ここを右手へ進んでいくと、民家が建ち並ぶ上倉田地区になります。
戸塚(とつか)駅
突き当たりのT字路を右折して真っ直ぐに進んでいきます。 やがて道なりに少し左へ曲がっていくと、五叉路になった広い車道に出ます。 車道を右手へと進み、左手からの道を合わせて緩やかに登っていくと小田急団地入口交差点に出ます。 そこを左折して、戸塚の街並みを正面に眺めながら車道を降っていきます。 日立和敬寮前バス停・吉田町バス停・東戸塚小学校入口バス停を過ぎ、 上倉田交差点を直進して柏尾川に架かる吉倉橋を渡っていくと、 元の戸塚駅(JR東海道線)の東口に戻ってきます。 上倉田地区に降り立ってから25分ほどで到着しました。
戸塚駅の地下通路の壁には、安藤広重の「東海道五拾三次之内戸塚」の特大の浮世絵があります。 戸塚の街には、原宿の一里塚跡・大坂上の松並木・上方見附跡・富塚八幡宮・沢辺本陣跡・大橋・ 戸塚の一里塚跡・江戸方見附跡など、当時を偲ばせる史跡が旧東海道沿いに残っています。 駅の側を流れる柏尾川の土手道には桜が並木を作っていて、桜の名所にもなっています。
歴史の道 東海道戸塚宿周辺散策案内図
戸塚宿は、品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷に次ぐ五番目の宿場として、 神奈川・保土ヶ谷に3年遅れた慶長9年(1604)に成立しました。 戸塚宿は江戸から約10里(40km)で、当時の一般的な旅人の一日の行程の位置にありました。 しかも、隣接する宿場の保土ヶ谷宿と藤沢宿寄りに、県内では箱根に次ぐ難所の権太坂と大坂があることから、 江戸を出発した旅人の最初の宿泊地となったようです。 また、戸塚宿付近は大山道や鎌倉道への分岐点であり、 大山詣や鎌倉の寺社参詣の人々で大いににぎわったと伝えられています。