海老名国分
散策:2007年07月上旬
【街角散策】 海老名国分
概 要 神奈川県の中ほどにある海老名市の国分地区にある史跡や寺社などを訪ねていきます。 かつて旧国ごとに国分寺が置かれましたが、相模国の国分寺があった所になります。 今ではその跡が史跡として保存されています。 目久尻川沿いへ進んでいくと、河童伝説の残る川沿いには田んぼが続く眺めが広がっています。
起 点 海老名市 海老名駅
終 点 海老名市 海老名駅
ルート 海老名駅…海老名中央公園…相模国分寺跡…温故館…大ケヤキ…国分寺…国分八景公園…鳳勝寺…八坂神社…瓢箪塚古墳…長泉寺…小園橋…通学橋…伊勢山自然公園…伊勢山大神宮…逆川…目久尻橋…伊勢下村橋…龍峰寺…弥生神社…清水寺公園…海老名駅
所要時間 3時間30分
歩いて... 海老名市の各所には「郷土かるた」の標柱が設置されていたりもしました。 今回はその一部しか確認できませんでしたが、それらを訪ねて巡るのも面白そうでした。 相模ダム建設で湖底に沈む村から移ってきた人達の地区もあって、 古代や中世だけではなく近代の歴史にも触れることができました。
関連メモ 今のところ、関連メモはありません。
コース紹介
海老名(えびな)駅
海老名駅(小田急小田原線、相模鉄道)から歩いていきます。
小田急の橋上の中央改札口を出た所に「小田急海老名駅周辺案内図」があるので参考にしましょう。 駅前のロータリーの上に架かる陸橋を通ってビナウォーク方面へと進んでいきます。
現在、海老名駅では自由通路の建設工事が進められていて、 工事が完成すると様子がかなり変わる可能性があります。
(写真は中央改札口を出た所から陸橋方面を写したものです)
海老名中央公園
陸橋を渡ってビナウォークの間へ降りていくと海老名中央公園があります。 ビルの間にあるちょっとした公園で、人工の川が流れていたりします。 公園の先の方へ進んでいくと七重の塔が聳えていたりします。 どのような謂れがあるのかは分かりませんでしたが、 相模国分寺にあったと記録される七重塔を模しているものと思われます。 公園を出て左手へ進んでいくと、すぐに中央公園前交差点があります。 角の細い支柱の上にある道標「海老名市温故館0.5km、相模国分寺跡0.4km、海老名の大ケヤキ0.3km」に従って、 交差点を右手へと進んでいきます。
(写真は公園の出口付近から振り返って写したものです)
広い道を真っ直ぐに200mほど進んでいくと海老名市農協前交差点があります。 交差点の正面右手から続く海老色の細い道へ入っていくと、「相模国分寺跡」を指す看板が立っています。 石垣に沿って続く緩やかな坂道を登っていくと小さな十字路に出ます。 道標類は見当たりませんでしたが、ここを左手へと進んでいきます。 右手の方には大ケヤキが見えていますが、相模国分寺跡を訪ねてから向かっていきます。
国分寺とは…
天平13年(741)、聖武天皇の勅願によって、五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺と共に国ごとに建立された寺。 正式には金光明四天王護国之寺という。奈良の東大寺を総国分寺とした。
 (出典:広辞苑第五版)
国分寺建立の詔
(天平十三年三月二四日)乙巳、詔して曰はく、 『朕、薄徳を以て忝くも重き任を承けたまはる。 政化弘まらず、寤寐に多く慙づ。古の明主は、皆光業を能くしき。 国泰く人楽しび、災除り福至りき。何なる政化を脩めてか、能くこの道に臻らむ。 頃者、年穀豊かならず、疫癘頻りに至る。慙懼交集まりて、唯労きて己を罪へり。 是を以て、広く蒼生の為に遍く景福を求めむ。 故に、前年に使を馳せて、天下の神宮を増し飾りき。 去歳は普く天下をして、釈迦牟尼仏尊像の高さ一丈六尺なる各一鋪を造らしめ、 并せて大般若経各一部を写さしめたり。 今春より已来、秋稼に至るまで、風雨順序ひ、五穀豊かに穣らむ。 此れ乃ち、誠を徴して願いを啓くこと、霊きょう答ふるが如し。 載ち惶り載ち懼ぢて、自ら寧きこと無し。 経を案ふるに云はく、 「若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し、恭敬供養し、 流通せむときには、我ら四王、常に来りて擁護せむ。 一切の災障も皆消殄せしめむ。憂愁・疾疫をも亦除差せしめむ。 所願心に遂げて、恒に歓喜を生せしめむ」といへり。 天下の諸国をして各七重塔一区を敬ひ造らしめ、 并せて金光明最勝王経妙法蓮華経一部を写さしむべし。 朕また別に擬りて、金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各一部を置かしめむ。 冀はくは、聖法の盛、天地と与に永く流り、擁護の恩、幽明を被りて恒に満たむことを。 その造塔の寺は、兼ねて国華とせむ。必ず好き処を択ひて、実に久しく長かるべし。 人に近くは、薫臭の及ぶ所を欲せず。人に遠くは、衆を労はして帰集することを欲はず。 国司等、各務めて厳飾を存ち、兼ねて潔清を尽くすべし。 近く諸天に感け、臨護を庶幾ふ。遐邇に布れ告げて、朕が意を知らしめよ。 また、毎国の僧寺に封五十戸、水田一十町施せ。 尼寺には水田十町。僧寺は、必ず廿僧有らしめよ。 その寺の名は、金光明四天王護国之寺とせよ。 尼寺は一十尼。その名は法華滅罪之寺とせよ。 両寺は相去りて、教戒を受くべし。若し闕くること有らば、即ち補ひ満つべし。 その僧尼、毎月の八日に必ず最勝王経を転読すべし。月の半に至る毎に戒羯磨を誦せよ。 毎月の六斎日には、公私ともに漁猟殺生すること得ざれ。 国司等、恒に検校を加ふべし』とのたまふ。
 (出典:新日本古典文学大系 続日本紀)
相模国分寺跡
住宅地の中の道を真っ直ぐに進んでいくと、開けた芝地が右手に広がっています。 ここが相模国分寺跡になります。 「郷土資料館「温故館」(旧村役場庁舎)、国指定史跡 相模国分寺跡」と書かれた看板が立っています。 建物は建ってはいませんが基礎部分が残っていたりします。 また、解説板も立っていて、往時の様子を伺うことができました。
(写真は七重塔の基礎部分になります)
史跡相模国分寺跡環境整備事業
相模国分寺は、天平13年(741)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つです。 弘仁10年(819)と元慶2年(878)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、 天慶3年(940)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、 平安時代中頃までは修理や再建が行われていたようです。 しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したといわれています。 相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿し絵にも遺跡が描かれているほど古くから知られていました。 明治時代後半から大正時代にかけて尋常高等海老名小学校(現在市立海老名小学校)の校長であった 中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、 矢後駒吉とともに「相模国分志」という研究書にまとめました。 こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により大正10年(1921)3月3日に相模国分寺跡は 「国指定史跡」となりました。 海老名市では貴重な文化遺産である史跡相模国分寺跡を現状のまま保存するだけでなく、 復原・整備をする環境整備事業を平成元年度(1989)から始めました。 昭和41年〜42年(1966〜1967)の発掘調査結果をもとに、 平成2年〜8年(1990〜1996)にかけて塔跡、中門跡、南面廊跡、僧坊跡等の発掘調査を行い、 史跡整備に必要な資料をそろえました。 基本的な整備計画は、相模国分寺の創建時の遺構を整備することにしました。 具体的には、塔・金堂・講堂の基壇復原、中門・廊跡・僧坊跡等の位置表示を行い、 現存する礎石は現位置で保存する計画です。
(て)天平の 礎石が語る 国分寺
 (海老名市)
解説板には「整備予想図」も載っていました。 それによると、一番奥に掘立柱建物跡、その前に僧坊跡・講堂跡・北面廊跡、 左手に塔跡、右手に金堂跡・築地塀跡、手前に中門跡・南面廊跡などから成るようです。
塔跡
ここは天平13年(741)の「国分寺建立の詔」を受けて建てられた七重塔の跡です。 国分寺の塔には、国家の平安を祈る金光明最勝王経が安置されていました。 昭和41年(1966)と平成4年(1992)に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土壇)は、 一片の長さが20.4m、高さは1.3mの規模であったことが確認され、 現存する礎石から塔の初重の広さは、10.8m四方であったと推定されています。 塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺物が出土しています。 また、基礎周辺で発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました。 創建時の基壇は、現在復原されているように、四辺ともに切り石積み(壇正積)でしたが、 後に北側の辺だけが川原石積み(乱石積)につくり替えられています。 石質調査の結果、切り石は相模川上流から、礎石は丹沢方面から運ばれたものと推定され、 両方とも凝灰岩質の石です。 10個の礎石は当時のままですが、失われた礎石は国分寺跡から運び出されたといわれる礎石3個と新たな石4個を 使って復原・補充しました。 基壇の高さは、基壇周辺の遺構を保護するために盛り土したので、 創建時の基壇よりも約35cm低く復原しました。
中門跡・南面廊跡
中門跡・南面廊跡は、昭和41年(1966)と平成5年(1993)に発掘調査が行われました。 中門の基壇土は、耕作などで削り取られてほとんど残っていませんでしたが、 南面廊との関係から正面20.7m(69尺)、側面10.8m(36尺)の基壇であったと推定されています。 南面廊の西側もすでに遺構面が削られて残っていませんでしたが、 東側の調査した範囲では10個の礎石が旧位置に残っていました。 この礎石から南面廊は梁行柱間が5.4m(18尺)、桁行柱間が3.0m(10尺)の等間隔になります。 また、礎石の上に残る柱の焼失痕から直径30cm(1尺)の柱であったと推定されています。 発見された廊跡の礎石は、遺構保護のため埋め戻し、同じ位置に河原石を使って再現しました。 中門の基壇は、推定範囲を図示していあります。
 (海老名市)
温故館
「中門跡・南面廊跡」の解説板の所から住宅沿いに続く細い道を進んでいくと、 国分バス停のある車道に出ます。 左手には海老名市立郷土資料館の温故館がありました。 その前には「えびな郷土かるた案内絵地図」と題した大きな看板がありました。 市内各地に「えびな郷土かるた」が設置されているようで、その場所が示されていました。 この温故館の玄関の脇にもひとつ立っています。
(と)土器・石器 瓦や板碑 温故館
 (神奈川県教育委員会)
大ケヤキ
温故館の前の車道を右手へ150mほど進んでいくと、 「海老名歩道橋」の手前に大ケヤキがあります。 とても太くて大きな老木で、何だか威圧感を覚えたりもします。 杭として打ったものが発芽してここまで大きくなったのだそうで、その生命力の強さには感服したりもします。
神奈川県指定天然記念物 海老名の大ケヤキ
このケヤキは、かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり、 以来、人々が保護し育ててきたものと伝えられている。 根回り15.3m、目通り7.5m、樹高20mに達する大木である。 ケヤキはニレ科の温帯性落葉高木で、県下でも沖積地や台地斜面などに自生しているため、 向かしたら親しまれてきた。 屋敷内に植栽されることも多く、しばしばケヤキの見事な屋敷林も見かける。 もともとこのあたりでは、ケヤキ林が自然植生として栄えていた。 昔の人が生活の知恵から打ちつけた杭も、ちょうどこの土地に合ったものを使ったため、 現在見られるほどの見事なケヤキに生長したものと推定される。 郷土を代表する木として、永く保存する必要があり、 県指定天然記念物に指定したものである。
(け)県央に さすが海老名の 大欅
 (神奈川県教育委員会)
国分寺
大ケヤキの左手の道へ入って真っ直ぐに進んでいくと、正面に石段が現れます。 脇には「高野山真言宗 国分寺」と刻まれた石柱が立っています。 石段を登っていくと左手に本堂がありました。 境内には重要文化財の梵鐘があったりもします。 先ほどの相模国分寺と関係がありそうですが、お寺の謂れなどを記したものは見かけませんでした。 史跡の説明には「平安時代後期にこの場所へ移転した」という旨の記載があったので、 その時に出来たお寺なのでしょうか。
国指定重要文化財 梵鐘
国分寺建立の頃、薬師堂もこの丘陵の上に設けられ、のち火災等の災害により、 この地に移転されたのは室町時代であったろうといわれています。 鎌倉時代の末頃、国分に居館を構えていました海老名氏の一族国分季頼が当時の名工 物部國光に鋳造させ、正応5年(1292)国分寺国分尼寺が薬師堂に移されていた時 寄贈されたのがこの鐘であり、大正12年8月、重要文化財として国の指定を受けました。 尚、鋳工物部国光は鎌倉円覚寺の鐘(国宝)をも鋳造した人であり、 この鐘楼は昭和51年3月に完成したものであります。
 (東光山 国分寺)
(る)瑠璃光の 如来あらたか 薬師堂
(つ)釣鐘は 国分季頼の 銘残す
 (海老名市)
国分八景公園
国分寺を出て左手すぐの所に陸橋が架かっています。 その下には県道40号(横浜厚木線)が通っています。 橋を渡って左手へと続く坂道を登っていきます。 墓地の脇を過ぎていくと、右下には海老名小学校があります。 道が緩やかになってくると、道路の右手に国分八景公園がありました。 園内には東屋が一つ建っていて、竜峰寺八景を示す石庭がありました。 各々には詩と解説文が添えられているので、休憩を兼ねて各々を訪ねていきました。 一般的な「八景」は「暮雪・秋月・落雁・帰帆・夜雨・晴嵐・夕照・晩鐘」 という名称のようですが、 ここの「八景」はそれとは少し違う名前が付けられていました。
国分八景公園
国分村の瑞雲山竜峰禅寺はもと大字南原1114の地にあり、 南北に延びる丘陵(相模九里の土手)の中腹に位し、 眼下に大化の古田制条里制の名残を看取出来る海老名耕地の水田、 及び相模川を距てて相模の名山大山に正対し、その左方陸線上より富士の秀峰を望み、 更に眼を左に転ずれば、近くは大磯の高麗寺山を前景に箱根の双子山より伊豆天城の山脈を望見し得、 右方を望めば、冬ならば秩父の連山が白銀の波浪を青天の海に輝かせるまことに景勝の地であった。 鉄牛はおそらく鎌倉に錫を牽いた際、国分村に立ち寄ったと思われる。 竜峰寺に数日逗留してこの景を賞し、八景詩を賦した。
【島間の春耕】
漠々たる平田 緑蕪に接す 春鴻落つるところ 秩はじめて敷く 誰によってか 二三頃を乞い与えられなば 雨笠煙蓑 晩途をおえん
果てしなく広がる、天平の昔を偲ぶ一帯の水田は緑の森につづいている。 春になると雁がねが田に下り立つと田仕事がはじまるのである。 誰か私に二三頃の田をくれる人があれば、 私は雨の日も蓑笠を着て耕作に従事し晩年をおえようが、 まさかそんな人もあるまいて。
【大山の夕照】
遠野けぶり生じて晩色こし はるかに見る大麓に夕陽のうすずくを 半ばは錦織のごとく 半ばはまゆずみのごとし 満目滄瓏として千里かさなる
大山を望む夕ばえの景は春のように思われる。 野末遠く夕もやが立ちこめて夜のとばりはおりようとしている。 見はるかす彼方大山の山麓は夕日が沈むのをためらうかのごとく 半ばは錦や蝋けつ染めのように美しい色彩を呈しながら、 はや半ばはまゆずみのように山の端が黒く細く薄れてゆく。 見る見る中に見渡す限りの広い野は青黒く変って行って その濃淡が幾重にもかさなりつつ全ての景象を暗黒の中に包みこんで行く。
【鴨沢の瞑煙】
鴫(立)沢渺茫として沙路ながし 夕陽瞑色 一堆の愁 かつて円位の歌詠をのこせしより 千古人をして素秋をいたましむ
鴫立沢は遥か霧の彼方に薄れて定かにはわからないが、 そこに向かうらしい砂浜の道が一すじ長く見える、 夕日が沈むにつれて景色はほのぐらくなって秋のかなしびが胸に沁みる。 昔、西行法師が「心なき 身にもあはれば 知られけり 鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」 と和歌を残してから、後世いつまでも俗人の心にまで秋を悲しませている。
【菅社の秋月】
海嶽 雲おさまって桂輪転ず 上方秋色もっとも清新 佳句を求め 幽賞を写さんと欲し 蘋潦まずすすむ菅姓の神に
海上の彼方の雲も山のべの雲もすっかり消えうせて、 まん丸い月のみ中天に輝く、まことに空きの中空は清新そのものだ。 よい句を作ろうとこの月夜の幽賞をほしいままにする道すがら、 私はこの天神様まで来てしまった。 それでまず浮き草やにごり酒といった粗末な供物を捧げて どうかよい句が出来ますようにとお祈りをする。
【清水の鐘声】
清水(寺)の楼台 遠近晴れ 山を隔てて 聞き得たり □華鯨(華鯨を鏗くを) なに人をかよく解し 深省を発する 送りつくす百年 これこの声
清水寺水堂観音の堂宇のあるあたりは遠く近くよく晴れて、 この竜峰寺からは一山隔てているが、その梵鐘の音に耳をかたむけることが出来る。 この鐘の音で多くの人々が深い反省を以て信心の念をいだいたことであろう。 まことにこの鐘の声はもう百年も鳴り続いているのである。 (さぞ多くの人々を度脱させたことだろう)
【湘浦の渡船】
溶漾たる滄□ 水 天をうつ 行人いくたびか 湘川を渡りし つとに知る 世路風波の嶮なるを 来往 愛すべし艶預船
これは夏の景であろう。 相模川は水かさも増し、天を打つ程に流れは激しい。 旅人達はさぞ幾度かこの川を渡渉したことであろう。 この川をかち渡りするのを思うにつけても、 世の中をわたる道のまことに風波けわしいことが思いやられるのである。 しかし今は幸いに渡し船があって行くも来たるもエンヨエンヨとこの急流を難なくおし渡ってくれる。 まことに愛すべき存在だ。
【土峰の晴雪】
西嶺千秋積雪しげく 雲間に湧出しては 銀盆に至らん かぎりなきの景況 いつに清絶なり 欄干に倚偏して 暁昏を占む
これは冬晴の早朝の富士の眺めである。 西の峯のいただきには千年の雪が降りつもり、その純白の峯は雲の間を抜け出して丸いお月様にまで届きそう。 さえぎるものとてないその景色はまことに清絶の一語につきる。 寺の欄干によりそうて暁の暗さの中にくっきりと浮かび上がっているその姿。
【祇林の緑樹】
葉風殿閣 清陰したたる 区々たる紫陌 紅塵の外 ここにきたりて まさにすべからく 客心を洗ふべし
うっそうとし緑樹におおわれた聖域。 今やさつきの快い風が寺の建物を包んで木陰も清く緑したたるばかり。 市街地の紅塵万丈の雑踏から遠く隔たったこの境内こそ、 ここに来ればきっと旅にけがれた心もすっかり洗い落とされることであろう。
国分八景公園を後にして住宅地に続く道をその先へと進んでいきます。 突き当たりの分岐を右へ曲がるとすぐに道が二手に分かれていますが、右の方の道を進んでいきます。 右手には集合住宅「View Terrace 1」があるので目印にしましょう。 少し降り気味になった道を200mほど進んでいくとT字路があります。 そこを左へと進んでいきます。 少し右へ曲がっていく坂道を降っていくと十字路があります。 右手に立つ電柱には「勝瀬3」、左手の塀には「勝瀬4」の住所表記があります。 ここを左手へと曲がっていきます。
住宅地の中の道を真っ直ぐに1分ほど進んでいくと十字路があります。 右手には丸まった石の「道祖神」がありますが、左手へと曲がっていきます。 勝瀬保育園の前を過ぎていくと、正面に「奉納 八坂神社」と「曹洞宗 鳳勝寺」の石柱が立っています。 この左手が鳳勝寺、正面が八坂神社になります。 まずは左手の鳳勝寺を訪ねてから八坂神社へ向かうことにしました。
鳳勝寺
山門を過ぎていくと、右手の一段高い所に鳳勝寺の本堂がありました。 境内にあった「春日山鳳勝寺の碑」によると、 以前は津久井町にあったものが、相模人造湖の建設によってこの地に移されてきたようです。 本堂の左手から裏手にかけては墓地が広がっていました。
石碑によると、津久井町(現相模原市)はその昔には湘南村といったようです。 「湘南」とは中国湖南省の洞庭湖に注ぐ湘江南方一帯の景勝地のことで、 相模川に沿った景色が中国の「湘南」に似ていたのでしょうか。 神奈川県の相模湾沿いも「湘南」といいますが、「湘南村」はその地域のことではないようです。
春日山鳳勝寺の碑
当山の開創縁起倶に審かならず。 僅かの記録と伝承とによってその一端を記す。 今より約450年前大永年間、法泉庵主と称する人、湘南村(現津久井町)より一族を率いて 日蓮庄勝瀬村に移り草庵を結ぶ。 庵主輜素の別_ぜずと誰もこの人を以って開基と為す。 130年後、本能恵松和尚、当寺を建立す。 開基悟空清頓居士一相妙純大姉とはこの時の寄進者の芳名なるか。 松和津久井根小屋功雲寺11世達燈州演和尚を開山に請す。 これより当山は曹洞宗に属す。 10世大翁峰全和尚の砌り岡部政右衛門氏の寄進により現存の本堂並びに開山堂・鐘楼・山門を建立す。 昭和16年第二次世界大戦勃発の前後、相模人造湖造成の為、勝瀬の大半湖底に埋没し、 この地海老名に強制移転せしめられる。14世近藤坦山和尚の時なり。 坦徒30戸協力により辛うじて本堂のみを移す。 この時、坦徒の7割は離坦す。 昭和45年、17世、横浜市法昌寺より晋住。 直ちに寺有の田地を処分して再建の事に当る。 本堂の修復並びに書院庫裡を完成す。昭和50年10月なり。 次いで相模湖畔に残存せる旧境内地墓地山林を整理して若干の資を得、 第二期工事に入り、山林を造成して新墓地を作り、 更に本堂の再修復並びに開山堂・鐘楼の改築及び客殿・東堂寮を新築す。昭和59年12月なり。 今亦鳳勝寺百観音と五重寿量塔(北尾氏寄進)の建立を見る。 本日を以って開眼法要を営_す。 此れ当山の沿革の大略なり。
 (維時 昭和61年10月27日 当山17世 現住)
八坂神社
鳳勝寺から引き返して緑色の苔が薄く生える坂道を登っていきます。 「移住記念碑」の所から石段を登って「八坂神社」の扁額の架かる鳥居をくぐっていくと、 その奥の一段高い所に八坂神社の社殿があります。 社殿は小振りながらも、本殿と拝殿の形をした立派なものでした。 本殿は海老名市の重要文化財に指定されているようです。 相模ダムの建設によって湖底に沈んだ津久井郡日連勝瀬地区の人達が この地に移り住んだのだそうで、「移住記念碑」にはその時の27人の氏名が刻まれていました。 先祖代々住み慣れた谷あいの村を離れて、 環境の全く異なるこの地への移住を余儀なくされた人達の思いは如何ばかりであったのでしょうか。
八坂神社本殿
勝瀬地区は、相模川上流のダム建設(現在の相模湖)により移住を余儀なくされた 旧津久井郡日連村勝瀬(現在の藤野町)の住民30余戸が昭和17年から19年にかけて 当地に移住して村落を存続させた場所で、村社であった八坂神社本殿も、昭和20年に旧地より移築されました。 本殿は、一間社流造り柿葺き、総欅、木地仕上げの建物で、 屋根の正面に千鳥破風と軒唐破風を付け、壁面と小壁を日本神話や物語、龍や松に鷹といった動植物の彫刻で飾っています。 このような細部意匠などから、江戸時代末期、19世紀中頃の建築と推定される良質の建物であり、 産土の地である日連村勝瀬より移住した住民の精神文化を伝える貴重な建造物です。
 (海老名市教育委員会)
移住記念碑
昭和18年5月、神奈川県相模川河水統制事業により、 相模湖底に埋没した津久井郡日連勝瀬より此の地に移住し海老名町勝瀬となる。 依って昭和53年10月吉日、記念碑を建てる。
瓢箪塚古墳
八坂神社から引き返して「移住記念碑」の所を左手へと進んでいきます。 畑地などが続く道を真っ直ぐに100mほど進んでいくとT字路に出ます。 そこを左折して坂道を登っていくと、八坂神社の横に出ます。 そこから土の坂道を登っていくと、住宅地の舗装道路に出ます。 正面には浜田三塚公園がありますが、左手へと舗装道路を進んでいきます。 鳳勝寺の墓地への入口を過ぎていくと、車道の上を越えていきます。 突き当たりのT字路を左折してすぐの所を道なりに右手へ進んでいくと、 正面にこんもりとした森が見えてきます。 突き当たりのT字路を右手から回り込むようにして進んでいくと、 森へ登っていく幅の広い階段があります。 脇には「ひさご塚公園」の標識が立っていて、その階段を指しています。 階段を登っていくと、すぐに瓢箪の形をした小山に着きます。 ここが海老名市指定史跡にもなっている瓢箪塚古墳になります。 市内唯一の前方後円墳とのことです。 脇には「相模国造之墳墓」と刻まれた石柱が立っていました。 前方後円墳の上には広い道が続いていて、先の方の円墳部の頂きには三角点がありました。
左の写真は解説板に載っていたもので、昭和25年頃に瓢箪塚古墳の西側から写したものとのことです。 当時は古墳の周辺は畑地になっていたようです。 畑地からの高さはそれほどないように見えますが、 現在では背の高いコンクリート崖で周囲を補強された高台になっていて、もっと高さがあります。 古墳の全容を現すために、周囲が掘り下げられたということなのでしょうか。
瓢箪塚古墳
相模川とその両岸の平野を見下ろすここ座間丘陵上には7基の古墳が確認され、 上浜田古墳群を形成しています。 上浜田古墳群は、円墳・方墳・前方後円墳からなる4〜5世紀代にかけての古墳群であり、 瓢箪塚古墳は同古墳群内で現存する唯一の前方後円墳で、市内最大の古墳です。 瓢箪塚古墳は、地元では「ひょうたん山」と呼ばれ、古くから親しまれてきました。 また、明治43年には郷土史家中山毎吉によりその著書「神社名勝古蹟誌」のかなで、 瓢箪塚古墳の計測結果が記されるなど、古墳としても古くから認識され、 大正8年には、当時の海老名市村が墳丘部分を保存のために購入し、村有地としました。 平成8年の発掘調査の結果、神奈川県内では最古級とみられる埴輪片が出土し、 4世紀から5世紀初頭にかけて造られた古墳であることが判明しました。 造られた当時は前方部がもう少し南に延び、 墳長80m級の規模であったろうと推定されます。
 (海老名市教育委員会)
瓢箪塚古墳から元の道へ降りて左手へと進んでいくと、すぐに県道406号のT字路に出ます。 そこを右折して車道を進んでいきます。 国分寺台第2バス停を過ぎていくと、左手にこんもりとした森が見えてきます。 森の脇まで来ると、道が左手へと分かれていきます。 角には「曹洞宗(禅宗)長泉寺入口」の看板が設置されていて、この道を指しています。 長泉寺への裏道のようですが、ここから入っていきます。
緩やかな坂を登って民家の前を過ぎていくと森の縁に着きます。 そこで舗装された道は左右に分かれていますが、幅の広い土の道が正面の森の中へと降っていきます。 道標などは見当たりませんでしたが、この正面の道を降っていきます。 雑木林の中に続く幅の広い道を緩やかに降っていきます。 途中で左手からの道を合わせて更に降っていくと、正面に墓地が現れます。 その手前から右手へ降っていく細めの土の道があります。 脇には「車止め 車で入れません」の看板が立っています。 道標などはありませんが、この右手の道を降っていきます。
崖沿いの道を降っていくと、民家の庭のような所に出ます。 一瞬、道を間違ったかなと思ったりしますが、民家のような建物は長泉寺の庫裡になります。 庭先に続く細い道をその先へと進んでいきます。 放し飼いされているのか、鶏が二羽、道をゆっくりと歩いていました。 近寄っても逃げていくこともなく、人馴れしているようでした。
長泉寺
庭先を進んでいくとお堂が建っています。 その右手の先の方に本堂がありました。 「崇福山」の扁額が架かる本堂は、歴史のある雰囲気が漂っていました。 この境内には由緒書きなどは見当たりませんでしたが、 目久尻川の方の入口の脇にあった解説文をここに載せておきます。 本堂の左手にも新しい庫裡のような建物がありました。 本堂の正面に、正門から続いている参道がありました。
長泉寺
山号を宗福山といい、曹洞宗(禅宗)の寺です。 本尊は釈迦入来で、寛永11年(1634)亡の僧格雲守存により開山されました。 かつてここには、中世の在地領主渋谷氏の菩提寺と伝えられる祖師山菩提寺という寺がありました。 渋谷庄司重国の孫、曽司五郎定心(入来院氏)とのゆかりも考えられる一帯と言えましょう。
 (綾瀬市教育委員会)
左右に立つ石灯籠の先の石段を降っていくと、左右には赤い前掛けをした六地蔵などが並んでいました。 その先に大きな石柱が立っていて、正門になっているようでした。 外からお寺へ向かって左手には「長泉寺」、右手には「崇福山」と刻まれていました。 門から外へ出て、畑地の中に続く広い土の道を進んでいきます。
(写真は正門から外へ向かって写したものです)
正面のこんもりとした森の手前までくると舗装された道になります。 森を左手から回り込むようにして続く道を緩やかに降っていきます。 左手に続く畑地や民家などを過ぎていくとT字路に降り立ちます。 この右手に「曹洞宗 崇福山 長泉寺」の看板と、その脇に解説板が立っています。 道標などは見当たりませんでしたが、ここを左手へと進んでいきます。
小園橋
左折してすぐに右手からの道を合わせて、その先へと進んでいくと、 1分ちょっとで目久尻川沿いの道に出ます。 川沿いに続く海老色の舗装道路を200mほど進んでいくと、右手に小園橋が架かっています。 この目久尻川沿いの道は目久尻川サイクリングロードになっているようです。 サイクリングだけではなくてウォーキングもできるようで、 歩数と時間を記した看板が設置されていました。 それによると、この小園橋から新武者寄橋までの2350m/3360歩/34分のコースになっているようです。
目久尻川サイクリングロード距離表示板
ウォーキングの歩数と時間(歩幅約70cm)
●新武者寄橋…(860m)…瀬端橋…(230m)…丸山橋…(260m)…虚空蔵橋…(200m)…内藤橋…(290m)…新橋…(510m)…小園橋
●新武者寄橋…(1230歩)…瀬端橋…(330歩)…丸山橋…(370歩)…虚空蔵橋…(290歩)…内藤橋…(410歩)…新橋…(730歩)…小園橋
●新武者寄橋…(13分)…瀬端橋…(3分)…丸山橋…(4分)…虚空蔵橋…(3分)…内藤橋…(4分)…新橋…(7分)…小園橋
目久尻川サイクリングロードは、河川管理用通路を兼ねています。
管理用車両などが通行することがありますので、利用者の方はご注意願います。
 (綾瀬市道路管理課)
川をきれいにしましょう
あぶないので、かわのみずがおおいときは、おりないこと。
保護者の方へお願い : 水かさが急に増えますので、子供だけで遊ばせないで下さい。
 (神奈川県厚木土木事務所)
小園橋を渡った所に河童の像がありました。 石の上で膝を抱えている河童、腹這いになって頬杖をついている河童、 水の中から上半身を出して陸を覗いている河童の3匹の像でした。 脇の石には目久尻川と河童に関する解説が刻まれていました。 何だかちょっと悲しい話です。
河童伝説
古老の語るところによると、目久尻川は古くは目穿川と記された。 昔々、カッパが住んでいて田畑の農作物を荒らしたので、 これに困った農民がカッパを捕まえて、この目があるから悪さをするのだと言って目をえぐりとった。 これが川名の由来である。
河童の像を過ぎて目久尻川に沿って左手へと進んでいきます。 川の右手には田んぼが広がっていて、50cmほどに育った稲が青々としていました。 稲の株の周りに水草が沢山付いていたりもします。 田んぼの脇の水路には水が勢い良く流れていて、堰や段差のある所では心地よい音を響かせていました。 稲が植えられていなくて休耕田と思われる田んぼも見かけました。 それでも水は張られていて、いつでも再開できるように手入れをされているようでした。
通学橋
目久尻川沿いの道を進んで行って民家が建っている所まで来ると、左手に通学橋が架かっています。 橋を渡ってその先の十字路を真っ直ぐに進んでいきます。 右手にはサトウキビ畑、左手には田んぼが続います。 サトウキビ畑を過ぎていくと「ふれあい農園」の看板が設置されていました。 海老名市助成金事業として行われている農園のようでした。
(写真は通学橋を渡った所から正面の道を写したものです)
五叉路
畑地が終るとT字路に出ます。 正面には赤い鳥居が立っていて、「正一位 稲荷大明神」と書かれた板が取り付けられていました。 その奥には小祠がありました。 中を伺ってみると、素焼きの狐像が幾つもあって、その手前には榊がお供えされていました。 T字路を右折して真っ直ぐに150mほど進んでいくと県道40号(横浜厚木線)に出ます。 左右の県道と、正面のこんもりとした森に沿うように続く左右の道があって五叉路になっています。 道標類は見当たりませんでしたが、ここは正面右手の道を進んでいきます。
伊勢山自然公園
森に沿って100mほど進んでいくと、左手の石垣が開いていて階段が続いている所があります。 そこが伊勢山自然公園東口2になります。 大きな「伊勢山自然公園案内図」も設置されているので参考にしましょう。 公園の入口はこの東口2の他に、東口1、南口、西口があります。 西口の脇には伊勢山大神宮があるようなので、そこまで歩いていくことにしました。 階段を登っていくと、東口1から登ってくる車道に出ます。 そこから車道を登っていくと山頂部に着きます。 東屋が1軒建っている山頂部には周回園路コースが巡っています。 コースにはベンチが点々と設置されていて、休んでいくのに良さそうな所でした。
公園利用案内
ここはみんなの公園です。 だれでも気持ちよく楽しく利用できるよう、次の事を守りましょう。
・花をとったり、木をおったりしないこと。
・公園内の施設をこわしたり、よごしたりしないこと。
・ゴミ、クズは持ち帰ること。
・危険な球技(ゴルフ・野球・サッカーなど)はしないこと。
・花火をしないこと。
・公園内にはり紙や立看板をしないこと。
・公園内に自動車、バイクを乗入れないこと。又、自転車を乗りまわさないこと。
・公園内で出店・募金・映画・興行・展示会その他これに準ずる催し、火気の使用を行う者は、市役所に届を出して許可を受けて下さい。
 (海老名市)
周回園路コースの途中から間隔の広い横木の階段が降っています。 角に立つ道標「西口 相模国分寺跡」に従って、その階段を降っていきます。 畑地に降り立った所にも道標が立っています。 正面の道は南口へと続いていますが、道標「西口 相模国分寺跡」に従って、 右手に戻るようにして続く道を進んでいきます。 軽く登ってから降っていくと舗装道路に降り立ちます。 ここが西口になります。 ここにも「伊勢山自然公園案内図」があります。 案内板のすぐ脇に「伊勢山大神宮」の看板や石柱が立っています。
伊勢山大神宮
石柱の横から鉄製の階段が続いています。 少しグラグラする階段を登っていくと金属製の鳥居が立っています。 その先が伊勢山大神宮の境内になります。 「大神宮」という名前が付けられているので大きな社殿を想像していたのですが、 小振りの社殿が鎮座していました。 石碑の脇の石柱には「天照大神」,「倉稲魂命」と刻まれていました。 この神社の祭神ということなのでしょうか。
国分は相模国分寺の所在により天平文化の華開きし処にして、 何時の頃よりかこの地一帯を伊勢山と称す。 けだし我等の遠き祖先が守護神として伊勢神宮をここに勧請せしに拠るならん。 爾来、谷戸・日久保・滝之下・辻逆川の五最寄その神徳の宏大無辺に崇敬措く能はざりしも、 移る世の開発の波に災ひされ、その安泰も危殆に頻せり。 たまたま社地の所有者森下一郎君の理解と協力により、全敷地永久無償貸与の特志を得たり。 ここに於て氏子一同相議し相謀り、社殿の修復、階段設置の再建事業を完成するに至れり。 依ってここに碑を建て、もって後昆に伝ふと爾云ふ。
 (昭和48年10月 氏子一同)
逆川
伊勢山大神宮から鉄製の階段を降って正面の道路を進んでいくと、小さな公園の前に出ます。 そこを左折して100mほど進んでいくと、先ほどの五叉路の所に戻ってきます。 その手前の道路が合流している所に「史跡逆川」と刻まれた石碑があります。 脇には「逆川の由来」と題した解説文と「逆川史跡図」がありました。
逆川の由来
逆川(さかさがわ)は大化の改新が行われたころ、 条里制による海老名耕地のかんがい用と運送用に掘られた川といわれています。 その全長は約2.5km。 ここから凡そ1km上流で目久尻川を堰き止めて分水し、 この地点で相模横山をよこぎり、西北方に流れをとり、今泉境で耕地に注ぎ出ました。 このような逆の流れ方をしていたので「逆川」の名が生れたのでしょう。 なお、舟着場と呼ばれたところから下流は日本最古の運河として平安中期まで利用されていたようで、 その遺構は今なお地下に眠っています。 後世、流れの向きを変えて「新堀」といい、 昭和15年ころまで国分・大谷・今里・杉久保・上河内・中河内・本郷・門沢橋・倉見・宮山などの田を うるおしていました。 現在kの地点より先は埋め立てられ、舟着場付近のみわずかにむかしの面影を残しています。
 (海老名市教育委員会)
目久尻橋
逆川の史跡から五叉路を過ぎて県道40号を進んでいきます。 五叉路の角には「道祖神」と刻まれた石碑などが幾つか並んでいました。 東国分バス停を過ぎていくと、目久尻川に架かる目久尻橋があります。 橋を渡った所にあるガソリンスタンドの右手に続く道へと入っていきます。
(写真は目久尻橋の中ほどから上流方向を写したものです)
ガソリンスタンドの建物が終ると舗装道路は右手へと曲がっていきますが、 その手前から川へ向かって細い道が分かれているので、その道を進んでいきます。 川沿いに続く細い土の道を進んでいくと、右手には青々とした田んぼが広がっていました。 以前は一面に田んぼが広がっていたようですが、今では畑地などへの転用がかなり進んでいて、 田んぼは少なくなってきていました。 川面ではカモが何羽も泳いでいたりして、長閑な景色が続いていました。
やがて川に沿って柵が続くようになります。 民家の裏手を過ぎていくと、道端にこんもりとした小さな林がありました。 そこには石塔などが幾つも立っていました。 両側に幾つか石塔や石仏が並び、正面奥に仏像のようなものがありました。 脇の石塔には、「月山・湯殿山・羽黒山 供養塔」と刻まれていましたが、 どういう謂れの石塔群なのかは分かりませんでした。
伊勢下村橋
石塔群を過ぎて柵沿いに続く小径を進んでいくと、目久尻川に伊勢下村橋が架かっています。 道標類は見当たりませんでしたが、この橋を渡っていきます。 橋の欄干には身長50cmほどの河童の像が立っています。 こちら側が赤い半纏、向こう側は青の半纏を着てました。 橋の袂には「めくじり川散策絵図」があって、 小田急小田原線の辺りから東名高速道路の辺りまでの目久尻川流域の史跡や公園や社寺などが紹介されていました。 今回訪ねてきた相模国分寺跡・温故館・海老名の大けやき・伊勢山自然公園・史跡逆川の碑や、 これから訪ねる弥生神社なども紹介されていました。 また、「目久尻川」の名前の由来も書かれていましたが、 小園橋の所にあった河童に絡めた話とは違っていて、 「大水の時に川岸がえぐり(くじり)取られる所」ということから起こったとされています。
めくじり川散策絵図
目久尻川ウォーキングマップ
目久尻川のクリーンアップ活動をしている流域市民グループ「目久尻川ふるさとネットワーク」が 目久尻川を案内いたします。
座間市  目久尻川は延長19.2kmの一級河川で、座間市はその源流域にあたる。 流域は、両岸に台地が迫っていて、昔は小池谷とも呼ばれ、渓流を思わせる流れだったらしい。 上流に向かって右手の台地は畑地で、川をはさんで農民が畑に行き来するため、坂と橋が非常に多い。 市内は流れの随所に湧水があり、下流になるほど水が澄んで、往時の清流をしのばせる。
海老名市  昭和3年発行の海老名村地図によると、目久尻川の流路は極端なU字型や直角をなしている所がある。 字杉本の地先はノコギリの歯のように屈曲している。 この形は、逆川用水の取水口を作るのに好条件だったろうが、 大水の際はその水勢が川岸を直撃し、土をえぐり取ったに違いない。 そのように、川岸をえぐり(くじり)取るところから目久尻川の名が起こったものと思われる。
伊勢下村橋を渡って真っ直ぐに数10m進んでいくと、少しずれた十字路があります。 そこを右折していくと、コミュニティバスの伊勢山バス停があります。 1時間に1本程度の便があって、海老名駅とかしわ台駅を結んでいるようです。 写真を写したりしていると、丁度バスが通っていきました。 小振りの可愛らしいバスでした。 相模鉄道の線路の下にある目久尻隧道をくぐって、 少し登り坂になった車道を進んでいきます。 坂道を登り切った辺りで左手に道が分かれていきます。 角には「山王大権現」と刻まれた石碑や三ザルの浮き彫りのある石碑などがありました。 その分岐を直進したすぐの所から左手へ入っていく細い坂道があります。 そばには「制限速度40km」の道路標識や地域の掲示板があります。 この道へと入っていきます。
アジサイの咲く坂道を登っていきます。 緩やかな道になってくると民家の建ち並ぶ所に出ます。 突き当たりを右手へと曲がって一つ目の左への分岐を曲がっていきます。 角に立つ電柱には「国分北三丁目15」の住所表記がありました。 そのT字路へ入っていくと、住宅地の広めの車道に出ます。 右手の角には国分緑苑自治会館があります。 そこを右折して広めの車道を進んでいくと、すぐにT字路があります。 そのT字路を見送った先から細い路地が左手へと続いています。 道の両側には丸く剪定された植え込みが続いていました。
龍峰寺
植え込みが終ると十字路に出ます。 正面にはこんもりとした森が見えています。 その森を目指して真っ直ぐに進んでいきます。 80mほど進んでいくと再び十字路があります。 そこも直進して道なりに右手へと曲がりながら坂道を登っていきます。 直角に左へ曲がっていくと、コンクリート塀に囲まれた龍峰寺があります。 塀を右手から回り込むようにして進んでいって短い階段を登っていくと、 龍峰寺の裏手から境内へと入っていきます。 「瑞雲山」の扁額の架かる新しい本堂、観音堂、瑞龍殿などが建ち並んでいました。 建物がかなり接近して建てられていて、少し狭苦しい感じがしました。 また立派な鐘楼や水屋などもありました。 本堂の左手には小さな祠がありました。
(写真は観音堂です。本堂はこの右手にあります)
海老名市指定重要文化財 観音堂(水堂)
この堂は、相模国分尼寺ゆかりの古刹で、水堂の名で親しまれている旧清水寺の本堂です。 元禄12年(1699)に現在の地に建立され、元文2年(1737)に再建されたものです。 単層三間四面、桁行・梁間ともの8.25m、向拝付の入母屋造りで、 格天井、総欅材で造られ、古刹の面影を残していまう。 昭和63年(1988)に解体修理されています。
 (海老名市教育委員会)
(せ)千手観音 仁王が守る 清水寺
 (海老名市)
開山 円光大照禅師。 600年遠い諱にあたり、縁寺妙興報恩禅寺と同様の水屋を創り、 禅師の遺徳を偲ばん。
植え込みが続く石畳の参道を進んでいくと、立派な仁王門があります。 真ん中には「観世音菩薩」と書かれた大きな丸い提灯がぶら下げられていました。 ここが龍峰寺の正門のようです。 仁王門を通って龍峰寺を後にします。
海老名市指定重要文化財 仁王門・仁王像
この仁王門は、元禄12年(1699)この地に観音堂と共に建立され、 寛延4年(1751)に再建、昭和51年に解体修理されたもので、 木造平屋切妻造りの四脚門です。 中の仁王像は密述金剛力士で、共に魔を払い山内の鎮静を守護する像で、像高約210cm。 寛延4年(1751)大仏師蘭麿によって造られた忿怒形相でよく整った見事な容姿です。
 (海老名市教育委員会)
こころの掲示板…
坐禅(ざぜん) 私の心がキレイになる時間(とき)
坐禅でもしてみようか。そんな気分になる時ありませんか。 喧騒を離れ、静かに自分を見つめなおす。 不思議ですが、普段気がつかない自分に気づくことがあります。 あなたのかけがえのない命、再発見。 静かに坐ってみませんか。
 (臨済宗建長寺派 大本山建長寺)
弥生神社
仁王門を出てすぐ右手に「相州相模 弥生神社 入口」の立て看板があります。 その脇から続く石段を降っていくとすぐに弥生神社の社殿があります。 本殿と拝殿から成る立派な社でした。 拝殿の扉が開けられていて、祭壇などが置かれた内部が見えるようになっていました。 境内には絵馬が沢山掛けられていました。 絵馬には酉・戌・亥の絵が描かれているのが混じっていたので、 一年で外されるのではなくて、何年間かは掛けておかれるようです。 また、社殿の左手には「蚕影神社」という小さな祠があって、赤い幟が幾つも立っていました。 正面の石段を降った一段低い所に社務所があり、更に石段を降っていった所に大きな鳥居が立っていて、 その両脇には立派な狛犬が控えていました。 そちらの方が正面になるようで、今回入ってきた所は裏口のようでした。
弥生神社の概略
御祭神 誉田別命、猿田彦命、高産霊命、日本武男命
由緒 當神社は明治42年3月、旧四箇村に鎮座の四社を合祀してここに創建された。
弥生神社改修工事記念碑
戦後の混乱期を漸く落着しつつある現在、先輩諸兄の御力により、守り続けて 来て戴いたこの神社に於て、今日茲に御社殿をはじめ境内の改修工事が 立派に完成し、社頭の面目一新をはかることが出来ましたことは、吾々総代はもと より氏子一同の深く喜びとする処であります。 ここに工事の概要を記録し永久に残したいと思います。 関東大震災直後わずか四部落参百参拾世帯の小戸数の氏子の方々の多大 なる犠牲と努力により、立派なる社殿を再建されました偉業に対し深甚なる 感謝を捧げるもので有ります。 其の後五拾有余年、幾多の歳月を経て風雪に堪えた社殿も破損が甚しく、吾々 総代と致しましても、一日も早く補修工事を行うべく念願致し、再三にわたり 会議を開きましたが結論を得ず、着工の時期も一時遷延されました。 其の後総代の間に改修工事に対する機運が次第に盛上り、遂に昭和五拾弐年五月 総代会に於て、天皇陛下御在位五拾年記念事業として、改修工事を行うべく 決定致しました。即日総代全員が建設委員として工事実現に着手致しました。 幸にも氏子各位の御理解と御協力に依りまして、約弐千世帯全額にして壱千 六百万円の浄財を戴き、これを以て同年七月着工することが出来ました。 本殿及び蚕影神社の屋根の吹替へ、神楽殿・石段等の改修工事を行い、昭和五 拾参年参月、立派に竣工致しました。これ一重に氏子各位の敬神の念の現れと 信じ、暑く御礼申し上げます。尚此の社を中心に氏子・市民の方々の幸福を祈 念すると共に、鎮守の森の緑を永遠に保全されますことを後世に伝えたいと思います。
 (弥生神社氏子総代会)
弥生神社境内整備記念碑
戦後五十余年、漸く安定しつつある現在、諸先輩諸兄の御力により守り続けて来て 戴いたこの神社に於て、今日茲に御社殿をはじめ社務所、擁壁、幟等、境内の改修工 事が立派に完成し、社頭の面目一新をはかる事が出来ましたことは、吾々総代は もとより氏子一同の喜びとする処であります。ここに工事の概要を記録し永久 に残し度いと思います。 社務所新築・擁壁工事、便所・下水道・柵工事等、合計金四千万円の費用をかけて完成 致しました。其の間氏子各位の御理解と御協力に依り金弐千万円也の浄財を戴 き、役員一同心から感謝し厚く御礼申し上げます。 不足金は一般会計より繰入れ、亦農協より一部借入して完成致しました。 平成九年三月、幟旗竿工事・参道補修工事を行い、白みかげ石に高さ十五米のアル ミポールで完成致し、四月吉日の大祭に披露致しました。 尚此の社を中心に氏子市民の幸福を祈念すると共に、鎮守の森の緑を永遠に保 存されます事を後世に伝え度いと思います。
 (弥生神社氏子総代会)
清水寺公園
弥生神社から仁王門の所まで引き返してきて、その先に続く道を進んでいきます。 周囲には樹木が生い茂っていて、その中になだらかな道が続いていました。 龍峰寺への参道のような雰囲気の道でした。 龍峰寺と弥生神社があるこの辺り一帯が清水寺公園になるようです。 公園とは云っても広場や遊具などはなくて、道端に小さな池があるだけの、 こんもりとした丘に続いている静かな所です。
清水寺公園鳥獣保護区区域図
この区域は鳥獣の捕獲が禁止されております。 鳥獣の保護にご協力をお願いします。
 (神奈川県)
かしわ台1号踏切
少し降るようになると道が二手に分かれていますが、右手の道を進んでいきます。 ふたば愛子園への入口を過ぎていくと、降り傾斜が一段と増してきます。 道なりに降っていくと、相模鉄道沿いの道に降り立ちます。 そこを右手へと線路に沿って進んでいくとかしわ台1号踏切があります。 踏切を渡ってすぐに右折して、線路沿いに続く車道を進んでいきます。
海老名(えびな)駅
少し登り坂になった車道を進んでいくと並木橋が架かっています。 並木橋は見送ってその先へと降っていきます。 やがて緩やかになると、車道は線路から少し離れていきます。 道なりに進んでいくと、元の海老名駅(小田急小田原線、相模鉄道)の前にあるロータリーの所に戻ってきます。