久野の里
散策:2007年06月中旬
【里山散歩】 久野の里
概 要 久野の里は小田原市の北部の丘陵にあって、古墳などの遺跡も残る古い歴史のある里です。 今回は足柄駅から寺社などを訪ねながら久野諏訪ノ原丘陵へと登っていきます。 丹沢や箱根の山並みを見渡しながら畑地の続く丘陵地を歩いていきます。 山王川へ降って久野緑の小径を経て足柄駅へと戻っていきます。
起 点 小田原市 足柄駅
終 点 小田原市 足柄駅
ルート 足柄駅…白山神社…玉宝寺…坂下児童遊園地…山神神社…久野1号古墳…久野2号古墳…大畑観音…久野水神公園…久野兎河原公園…兎河原橋…天神橋…神山神社…久野川橋…久野緑の小径…潮音寺…足柄駅
所要時間 3時間10分
歩いて... 丹沢や箱根の山々を見渡せる眺めのいい所もあったりして、景色を愛でながらのんびりと歩いていきました。 色々な花が咲いていて彩りを添えていました。 久野緑の小径では、盛りは少し過ぎていたもののアジサイの花が沢山咲いていました。 久野古墳では解説板だけしか見られなかったのが残念でした。
関連メモ 久野の里
コース紹介
足柄(あしがら)駅
足柄駅(小田急小田原線)から歩いていきます。
改札口を出た所に「足柄駅周辺案内図」があります。 これから向う白山神社や玉宝寺も載っているので、道順を確認しておきましょう。 線路沿いに続く道を真っ直ぐに100mほど進んでいくとT字路に突き当たります。 正面には標柱が立っていて、左手の道は「潮音寺」、 右手の道は「玉宝寺(五百羅漢)・五百羅漢駅」となっています。 左手すぐの所には小田急の踏切がありますが、右手へと曲がっていきます。
車道を100mほど進んでいくと、歩道橋の手前から左手へ分かれていくT字路があります。 角の石垣の上に「久野遺跡巡りコース」の道標が立っていて、 左手の道は「五百羅漢・久野古墳」、今歩いてきた道は「小田急足柄駅」となっています。 道標に従ってT字路を左折していきます。 石垣沿いに真っ直ぐに100mほど進んでいくと、道が左右に分かれている所があります。 その正面に「白山神社」の扁額の架かる鳥居が立っています。 短い石段を登って鳥居の先へ進んでいくと白山神社の境内になります。 境内の左手には白山神社の社務所と多古公民館が入っている建物があります。 訪れた時には羽蝶蘭展示会が正に始まろうとしていて、 玄関付近には多くの人々が開館を待っていました。 交配優良花・奇花・葉芸品の展示即売会のようでした。 神社の参拝を終えた頃に玄関が開いて展示会が始まりました。 ちょっとだけ覗いてみましたが、何やら可憐な花をつけた鉢植えが沢山展示されていました。
白山神社
参道を真っ直ぐに進んでいくと、すぐに社殿があります。 それほど大きくはない社殿ながら、拝殿と本殿のある立派な姿をしていました。 手前の両側にある狛犬には何故だか金網が被せてありました。 一時的にという訳ではなくて、ずっと被せてあるような雰囲気でした。 社殿の右手には「産能大権現」の扁額の架かる鳥居と小振りの祠がありました。
白山神社
鎮座地 小田原市多古669番地
祭 神 伊弉諾尊
例祭日 十月九日
社 殿 本殿 流れ造り、間口一間四尺五寸、奥行一間二尺
幣殿 117坪、 拝殿 6坪、 向拝 133坪
境 内 258坪
由緒概要 新編相模国風土記に、「白山社 村の鎮守なり 本地仏正観音を安んず」とある。 古くより村の氏神として尊崇せられ、明治6年7月、白山神社と改称、村社に列格され、 同42年9月に神明社と日枝社を合祀す。 大正4年10月、神撰幣帛料供進神社に指定さる。 昭和30年、社殿が丘陵上にありしため、境内整備をかね土地引下げの工事をなし遷座し奉る。
白山神社から出て右手(駅から来た向きからすると左手)に曲がってその先へと進んでいきます。 五百羅漢保育園の前を過ぎていくと、水路に架かる短い橋を渡っていきます。 道はそこで二手に分かれています。 車道は正面から右手へと続いていますが、左手へ分かれていく道に入った所に玉宝寺があります。 入口の所には「小田原市指定重要文化財 五百羅漢」の標柱が立っています。 赤い頭巾とマントのようなものを着た六地蔵に出迎えられながら、山門から境内へと入っていきます。 山門には「天桂山」の扁額が架かり、左手には「五百羅漢尊像霊場」、 右手には「小田急沿線武相観世音 第廿四番霊場」の看板が掲げられていました。
五百羅漢踏切の先の橋に書かれている内容によると、 玉宝寺の前を流れている水路の名前は穴部排水路というようです。
蓮はにごれる水よりいでて ますます美しく華を開く
めぐりあいのふしぎに てをあわせよう
玉宝寺(五百羅漢)
玉宝寺の境内へと入っていくとすぐに本堂があります。 その前では庭木の手入れ作業が行われていました。 五百羅漢とは石仏のようなものが境内にずらりと並んでいるのかと暗黙のうちに思っていたのですが、 それらしいものは見かけませんでした。 解説板によると木彫りの像で、どうも本堂の中に安置されているようです。 残念ながら今回は拝むことができませんでした。
天桂山 玉宝寺(曹洞宗)
後北條氏の家臣垪和伊予守(天桂寺殿活翁宗漢居士)が、母玉宝貞金大姉の追福の為、 天文3年(1534)に開いた寺であると伝え、伊予守と母の法名をとって山寺号としたのである。 なお、この裏山の尾根筋は中世構築の多古城の跡があって、寺と城には浅からぬ関係があると考えられる。 また、当寺は、五百羅漢を安置する寺として知られ、多くの人々は寺名を呼ばないで多古の五百羅漢という。 像は木彫で立像のものは像長36〜60センチ、座像のものは20センチ余である。 造立の始まりは享保15年(1730)で、檀家添田氏の夢枕に隣村塚原の地増尊が立って造立を勧めたとも、 また添田氏がある時、秋の洪水で大きな流木を拾おうとすると大蛇であったので殺した処、 夜間に無数の小蛇に襲われた夢を見て、一念発起したともいわれる。 添田兄弟のうち兄は、僧籍に入り智徹沙弥となり七年勧進し170体を造ったが、 中途で病没したので弟の真澄が後をつぎ、宝暦7年(1757)に完成し、寺に安置したという。 この羅漢をたたえた御詠歌に、
わがおやに にたる仏もあるらかん まわりておがまん たこの寺かな
境内には絵馬掛けがありました。 五百羅漢なのでしょうか、僧侶の絵が描かれた絵馬が沢山掛けられていました。
本堂の裏山は墓地になってました。 その袂には沢山の観音像がずらりと並んでいました。 全部で30体以上はあったでしょうか、結構大きな仏像で壮観な眺めでした。 各々には仏像の名前が刻まれていました。
玉宝寺を出て左手へと進んでいくと、五百羅漢駅(伊豆箱根鉄道大雄山線)の裏手に出ます。 細くなった道を左手へと線路沿いに進んでいくと、田んぼが広がっていました。 田植えが終ったばかりの状態で、若い苗が整然と植えられていました。 その昔のことなどを懐かしく思い出しながら、しばらく佇んでいたのでした。
田んぼにはカエルや水生昆虫が沢山いたものです。 水面にはアメンボが泳いでいたり、水草が一面に生い茂った田んぼなども見かけたものでした。 土手にはカニが沢山いました。 ザリガニもいて、畦に穴を開けると水が流れ出てしまうので、 穴を開けられないように色々と工夫を凝らしてもいたようでした。 子供の頃にはそんなものを取ったりしながら、どろんこになって遊んだものでした。 今の時代には田植え機があるのでそんなことはしないのでしょうが、 その昔は中腰になって一つひとつ手作業で植えていったものです。 真っ直ぐな列になるように植えているつもりでも、慣れないと曲がっていってしまったりもしました。 真っ直ぐに植えるために補助の紐を田んぼに張って、それに沿って植えていったりもしたものです。 脇にいると田んぼ特有の香りが漂ってきたりもします。 そんなこんなも子供の頃の遠い思い出です。
小田急の大雄山線跨線橋の下をくぐっていきます。 大雄山線の線路と田んぼの間に続く道を進んでいくと、五百羅漢踏切があります。 正面に立つ久野遺跡巡りコースの道標によると、 左手に登っていく坂道は「久野古墳 1号まで700m、4号まで2,400m、15号まで2,700m」、 今歩いてきた道は「五百羅漢200m、小田急足柄駅400m」となっています。 道標「久野古墳」に従って左折して坂道を登っていきます。 すぐに穴部排水路の上に架かる妙泉寺橋を渡っていきます。
右手へと緩やかに曲がりながら続く坂道を登っていきます。 かなりの傾斜がある坂道になっています。 右手が開けていて、足柄の街並みの向こうには丹沢の山々が見えていました。 稜線の辺りには薄雲がかかっていて、はっきりとはしなかったのが残念ではあります。
送電線の鉄塔「西湘線15」を過ぎ、多目的会館のカルチャーBONDSを過ぎていくと、 傾斜が緩やかになって丘の上に出ます。 この辺りの丘陵地帯は久野諏訪ノ原丘陵と呼ばれているようです。 カルチャーBONDSの専用駐車場の右手には丹沢の山並みが広がり、 左手のお花畑の向こうには箱根の山並みを見渡せる景色が広がっていました。
下を通っている道路は国道271号(小田原厚木道路)になります。
坂下児童遊園地
専用駐車場を過ぎて緩やかな道路をその先へと進んでいくと、道の左手にはこんもりとした森が見えてきます。 そばまで寄っていくと、森のように見えたのは公園で、その周囲に樹木が生えていたのでした。 入口にある看板によると坂下児童遊園地というようで、 鉄棒やブランコがあるだけの静かな公園になっていました。 公園の脇に「久野諏訪ノ原丘陵の方形周溝墓群と中世墓」と題した解説板が設置されていました。 それによると、この辺りの丘陵地帯には古墳や墓などが多くあって、 古くから葬送の場として利用されていた所のようです。
久野諏訪ノ原丘陵の方形周溝墓群と中世墓
久野丘陵とは久野字諏訪ノ原を中心に東に延びる丘陵で、 ほかの尾根と区別して久野諏訪ノ原丘陵とも呼ばれています。 諏訪ノ原丘陵には「久野百塚」,「久野九十九塚」と言われるほど多くの古墳が点在していたことが知られ、 現在はこれらの古墳を「久野古墳群」と呼んでいます。 また、これまでの発掘調査で、諏訪ノ原丘陵では縄文時代初期(草創期)から近世に至る様々な遺跡が確認されています。 ここは諏訪ノ原丘陵東端の南側斜面に位置します。 この辺りには久野山神下遺跡・久野上山神遺跡・久野多古境遺跡などの遺跡があります。 これらの遺跡は諏訪ノ原丘陵の中でも方形周溝墓が最も集中する地域であり、 これまでに30基を超える方形周溝墓が確認されています。 方形周溝墓とは、弥生時代から古墳時代初頭に造られたお墓のことで、 埋葬主体部の周囲を囲むように方形に溝が巡らされているものです。 この辺りで見つかっているのは約2,000年前頃の弥生時代中期中葉(宮ノ台式期)のものであることが確認されています。 また、久野多古境遺跡第I地点では、中世初頭(12世紀末頃)の三筋壺が出土しています。 三筋壺とは胴部に三条の沈線が引かれた壺のことで、経典を納める経筒や蔵骨器(骨壺)として 用いられる例が確認されています。 久野多古境遺跡で出土した三筋壺は常滑窯(愛知県常滑市周辺)で焼かれたものですが、 中に火葬骨が充墳されていたため、蔵骨器として用いられていたことが解ります。 諏訪ノ原丘陵には、古墳時代の古墳だけでなく、弥生時代の方形周溝墓や鎌倉時代初頭の墓なども分布していますので、 各時代を通じて葬送の場として利用されていたことがわかります。
 (小田原市教育委員会)
山神神社
坂下児童遊園地の奥の方には左右に参道が通っていました。 左手には鳥居が立っていて、そのそばには「足柄郷発祥乃地」と刻まれた石碑がありました。 正面には閂が掛けられた神輿殿のような建物があり、 右手の短い石段を登った所に小振りの社殿がありました。 正面に掲げられた扁額によると「山神神社」というようです。 扉の中に賽銭箱がありました。 社殿の手前には石を刳り抜いた手水場があり、柄杓が二つ置いてありました。 神社の由緒などを記したものは見かけませんでした。
山の神社様は静かに見つめています。皆様のお願い祈っています。
浄財、ありがとうございます。役員の方に届けてあります。願いが叶えますように。
大きな花 咲せあんたは 優しい花 自分の花を 神に祈る
 (山神神社)
鳥居をくぐって車道に出て右手へ進んでいくと、元の車道に戻ってきます。 突き当たりには久野遺跡巡りコースの道標が立っていて、 左手の道は「久野古墳 1号まで100m、4号まで1,800m、15号まで2,100m」、 右手の道は「五百羅漢800m、小田急足柄駅1,000m」、今歩いてきた道は「小田原方面」となっています。 ここは道標「久野古墳」に従って左折して、車道をその先へと進んでいきます。
久野1号古墳
少し先へ進んでいくと金網柵が現れます。 金網柵に沿って進んでいくと、 左手に分かれていく教会への道を見送った先の右手にこんもりとした森があります。 これが久野1号古墳になります。 手前には「小田原市指定 第一号古墳」と刻まれた石碑や解説板や立て札や標柱などがありました。 古墳があると思われる高みの周囲にはロープが張られていて、そばまで行くことができず、 その外観を見ることはできませんでした。 古墳のすぐ左手には久野配水池があります。
小田原市指定史跡 久野一号古墳
この古墳は、久野古墳群の一基で円墳です。 久野配水池内の発掘調査で、幅約12mの周濠が確認され、 周濠までを含めた規模は直径60m以上と推定され、県下でも最大級の円墳という事ができます。 箱根外輪山明神岳東側の裾は、いくつかの洪積丘陵を形成していますが、 この古墳はその丘陵上に展開する古墳群の内、最大の規模を持ち、 「王塚」とか「百塚の王」と俗称されていました。 以前は四基ないしは五基の陪塚(大きな古墳の周囲にある小古墳で、従者の墳墓ともいわれる)かと思われる 小円墳が存在したといわれますが、現在は二基が残るだけで、陪塚かどうかも明らかではありません。 内部主体については未調査ですが、古墳群成立の初期で、 6世紀前半までには築かれていたものと考えられます。
 (小田原市教育委員会)
久野古墳群
久野諏訪ノ原丘陵には「久野百塚」,「久野九十九塚」と言われるほど多くの古墳が点在していました。 近年の調査でも120基におよぶ古墳の存在が想定されています。 古墳には現在でも塚状の高まり(高塚)をもっているものもありますが、 すでに削平・埋没してしまい、発掘調査で初めて確認されるものもあります。 久野古墳群の中で、一番目を引くのが「百塚の王」とも称される久野1号墳です。 足柄平野を治めた首長の墓にふさわしく、この辺りからは足柄平野を一望することができ、 逆に足柄平野からも久野1号墳がよく見えます。 久野1号墳では、本格的な発掘調査は行われていませんが、久野坂下窪遺跡の調査で周溝が検出されており、 周溝を含めた直径は60mを超え、神奈川県内でも最大の円墳と言える規模であったと考えられています。 以前は、この辺りにも多くの古墳があったと言われていますが、 今ではここから150m西に所在する高塚を含め幾つかの高塚が確認されるだけとなっています。 しかし、久野2号墳・4号墳は良好な状態で残り、 久野15号墳・総世寺裏古墳は、石室の一部が見学できるように保存されています。 また、古墳から出土した遺物は、小田原市郷土文化館で展示・公開されており、従事の面影を知ることができます。 中でも、久野2号墳で出土した大刀や玉類・耳環などは優れたものであり、 久野15号墳でも須恵器や玉類など、様々なものが出土しています。 これらの出土遺物は、古墳に埋葬された人物の権力を示しています。
 (小田原市教育委員会)
久野1号古墳の石碑の脇から右手へと入っていく細い道があります。 その角には久野遺跡巡りコースの道標が立っていて、 右手へ入っていく道は「久野4号古墳1,700m、久野15号古墳2,000m、総世寺2,700m」、 今来た道は「五百羅漢900m、小田急足柄駅1,100m」となっています。 このまま舗装道路を真っ直ぐに進んでいってもいいのですが、 久野遺跡巡りコースは何故だか古墳の北側をグルリと巡るルートになっています。 今回は道標に従って、右手の道へ入っていきました。 ロープ柵に沿って続く道を進んでいくと、程なくして畑地の脇に出ました。 畑の向こうには丹沢の山並みが広がっていました。
写真を撮っていると、畑で農作業をしていた方が声をかけてきました。 /この辺りを散策しているんですか/はい そうです/いい眺めでしょう/ええ そうですね/ ここに古墳を作った気持ちがよく分かりますよ/…などと少し話をしていったのでした。
少し降り気味になった細い道を進んでいくと、簡易舗装された道に降り立ちます。 正面に立つ道標「久野4号古墳、久野15号古墳、総世寺」に従って、その道を左手へと登っていきます。 送電線の鉄塔「西湘線13」の脇を過ぎて坂道を登っていくと、 丹沢などの眺めが再び拡がるようになります。 緩やかになった道を更に進んでいくと、久野1号古墳の所から直進してきた道に出ます。 ほんの6分ほどの回り道でした。 登り着いた所に久野遺跡巡りコースの道標が立っていて、 右手の道は「久野4号古墳1,600m、久野15号古墳1,900m、総世寺2,600m」、 左手の道は「久野1号古墳100m、五百羅漢1,000m、小田急足柄駅1,200m」となっています。 ここから丘陵地に続く舗装路を右手へと進んでいきます。
久野1号古墳までの車道から農道へと変わった舗装路を進んでいきます。 緩やかな丘陵地に続く舗装路の左右には畑地などが続き、右手には丹沢山塊、 正面から左手にかけては箱根の山々が連なる景色を眺めながら進んでいきます。 4分ほどの所にある左手に分かれていく道を見送ってそのまま進んでいきます。 道の脇にはガクアジサイや白色・桃色・赤色などの花が咲いていたりして彩りを添えていました。 送電線の鉄塔「西湘線11」の手前までくると、 右手に曲がっていく辺りに仏像が2つと石碑がひとつありました。 石碑には「馬頭観世音」と刻まれていました。
丘陵地にはミカン畑が続いていましたが、 季節柄、青々した葉ばかりで実は生ってはいませんでした。 正面に箱根の山々を眺めながら緩やかな道を進んでいきます。 赤と白に塗られた金属パイプの柵の所までくると、道幅が少し広がってきます。 道脇には「久野諏訪ノ原丘陵の縄文遺跡」と題した解説板が設置されていました。 その解説文によると、この辺りは「久野一本松遺跡」があった場所のようです。
久野諏訪ノ原丘陵の縄文遺跡
久野諏訪ノ原丘陵は、小田原市内でも屈指の縄文遺跡が発見されている場所です。 諏訪ノ原丘陵の縄文遺跡は、草創期(1万5,000〜9,000年前)から晩期(3,000〜2,400年前)までのもが確認されており、 最も古い遺跡は、縄文時代草創期の石器が出土した久野多古境遺跡第II地点です。 また、小田原市環境事業センター(久野諏訪ノ原遺跡第I地点)やフラワーガーデン(久野諏訪ノ原遺跡第III地点)でも 縄文時代中期の敷石住居跡や早期(9,000〜6,000年前)から後期(4,000〜3,000年前)の遺物が出土しています。 久野諏訪ノ原丘陵の尾根筋を通る市道0036号線を敷設する際にも発掘調査が行われ、多くの遺跡が見つかっています。 ちょうどこの辺りは、縄文時代早期から後期を中心とぢた久野一本松遺跡があった場所です。 この遺跡では、10基の埋甕や80軒以上の住居跡が見つかっています。 この辺りは日当たりも良く、居住域としては良好の場所であったと考えられます。 そして、久野諏訪ノ原遺跡などで、狩猟・採集などの経済活動を行って、生活していたものと考えられます。 このように、諏訪ノ原丘陵には縄文時代の遺跡が広い範囲に分布しています。 最も栄えたのは縄文時代中期から後期にかけてと考えられますが、 縄文時代草創期から晩期にわたる1万年以上の間、人々はこの辺りを中心に活発な生活を営んでいたのです。
 (小田原市教育委員会)
久野2号古墳
縄文遺構の解説板を過ぎて幅が広がった道を進んでいくと、右手に「久野2号墳」の解説板がありました。 その右手から続く細い道を進んだ先に古墳があるのかと思って入っていきましたが、 畑地が続くばかりでそれらしいものは見当たりませんでした。 左手の樹木が生い茂った辺りにあったのかも知れませんが、入っては行かれない状況でした。 畑地には三等三角点が設置されていたりもしました。
久野2号墳
久野2号墳は、久野古墳群の中でも久野1号墳に次ぐ規模の円墳です。 平成4年(1992)、墳丘が良好に残っている状況から、久野古墳群の性格を明らかにするための学術調査が行われました。 調査の結果、この古墳からは大型の河原石を小口に積んだ横穴式石室が発見されました。 見つかった時には、天井石は1枚を除いて全て崩落していましたが、閉塞部は石室側に仕切り石を用いた形態のもので、 玄室・羨道の区別のない古墳であることがわかりました。 床には10cmから40cmの石が敷かれ、粉末状となった人骨とともに鉄製銀象嵌倒卵形鐔付大刀や 喰出鐔を持つ金銅装装飾大刀を含む大刀の4点、刀子4点、鉄鏃26点などの鉄製品、 丸玉・勾玉・切子玉・管玉などの玉類117点、耳輪9点、土師器・須恵器などが出土しました。 出土した鉄製銀象嵌倒卵形鐔付大刀には多くの付属品が伴っており、 特に鐔は倒卵形八窓式で、表・裏面の周縁部には小型の渦巻文、窓と窓の間には楕円渦巻文、 窓の内側には円弧文、そして側面には小さな半円をモチーフとした銀象嵌が施されています。 また、金銅装装飾大刀はほぼ完全な形で、装飾品も極めて状態の良いものでした。 全体的に副葬品は多いとはいえませんが、高価な副葬品を伴っている状況から、 久野1号墳と同様に有力な首長の墓であった可能性も考えられています。 なお、久野2号墳の出土遺物は小田原市郷土文化館で展示・公開しています。
 (小田原市教育委員会)
久野2号古墳の看板を過ぎて1分ほど進んでいくと、送電線が交差している所があります。 左手には「頭上電線注意」と書かれた送電線の鉄塔「二-湯60号」が立っています。 その袂から左手に降っていく道が分かれていきます。 角には久野遺跡巡りコースの道標が立っていて、 正面に続く道は「久野4号古墳600m、久野15号古墳800m、総世寺1,500m」、 今来た道は「久野1号古墳1,100m、五百羅漢2,000m、小田急足柄駅2,200m」となっています。 丘陵地はこの先へもまだまだ続いていますが、今回はここから左手へと降っていきました。
背の高い樹木の生垣のような脇を過ぎて坂道を降っていきます。 作業小屋が点在する畑地に続く坂道はかなりの傾斜があったりします。 正面の先の方には小田原の街や海が見えていました。 道なりに降っていくとT字路があります。 そこを左折して円筒形の貯水槽を過ぎて更に降っていきます。
ビニールハウスを過ぎていくと民家が現れるようになります。 小さな橋を渡ってその先へと道なりに進んでいくとT字路に出ます。 左手には北久保公民館がありますが、右手へと進んでいきます。 すぐに左手に道が分かれて行きますが、正面の坂道を登っていきます。 脇には「寒念佛供養塔」と刻まれた石碑や仏像などが並んでいました。
坂を越えて降っていくと、横断歩道のある十字路があります。 右手には「狩野街道入口」と刻まれた石柱と双体のお地蔵さんがありました。 山王川へと向っていく前に、このすぐ左手にある大畑観音に立ち寄っていきました。
大畑観音
十字路を左折して20mほど進んだ所に大畑観音があります。 入口に立っている観音像を見ながら境内に入っていくと、正面に小さめの本堂がありました。 お堂には「大悲閣」の扁額が掲げられていました。 境内には角が取れて丸くなった小さな仏像が沢山ありました。 また子供を抱いた姿の仏像が彫られた石碑もありましたが、 由緒書きなどは見かけませんでした。
久野水神公園
元の十字路に戻って坂道を降っていきます。 2分ほど降っていった所から左手へと数10m入っていくと久野水神公園があります。 細い流れの先には小さな池があり、その畔には完成記念碑が立っていました。 脇には「水神」と刻まれた石碑もありました。 池の畔には枝垂れ柳が生えていてベンチも設置されていました。 持参したおにぎりなどを食べながら、ここでひと休みしていきました。
水辺と枝垂れ柳の組み合わせは各地で見かけますが、何だか風情を感じたりします。 私の故郷でも、街中を流れる川の両岸には枝垂れ柳が並木を作っています。 子供の頃にはかなりの老木でしたが近年に植え替えられた株もあって、少し若返ったようです。 冬には雪の綿帽子を被り、春には若芽を出した枝が風になびいていたりもします。 枝垂れ柳の並木の先の方には桜並木が続いています。 保育園までの1kmほどの並木道を、近所の友達と手をつないで歩いて通ったものです。 そんな川辺の並木道は、今でも街の風情を醸し出す代表的なものになっています。
久野兎河原公園
久野水神公園から元の道に戻ってその先へと進んでいくと、 山王川の手前の十字路の左手数10mの所に久野兎河原公園があります。 公園の一角には「電子基準点」という太くて大きなステンレス製の柱が設置されていました。 GPS衛星を利用した測量を行っているようです。 近年までは三角点などを利用して測量していたようですが、 この分野にもハイテク化の波が押し寄せてきているようです。
電子基準点(GPS観測局)
ここに建っているステンレス製の柱は電子基準点と呼ばれています。 この先端部にはGPS衛星から出されている信号電波を受信するアンテナが取り付けられており、 柱の中には受信機と受信したデータを転送するための装置が入っていて、24時間の連続観測が行われています。 GPS(Global Positioning System)は米国で開発された位置を求めるシステムで、 上空およそ2万kmを飛行する人工衛星から出される信号電波を受信し、 衛星と電子基準点との間の距離を計算することにより、電子基準点の位置を求めることができます。 国土地理院は同様の電子基準点を全国に配置し、各地で得られたデータを茨城県つくば市にある庁舎に電話回線で転送し、 コンピュータで計算処理して電子基準点の位置を正確に求め、 各種測量の基準として利用するととともに、地震予知等に重要な地殻変動の監視も行っています。
基本電子基準点(GPS観測局)No.950230
電子基準点は、地上約2万kmの高さを周回するGPS衛星が発信する電波を受信し、 この地点の位置を観測するための施設です。 受信データは、つくば市にある国土地理院に毎日転送しています。 この受信データは、土地の測量、地図の作成、地震・火山噴火予知の基礎資料に利用されます。
 (建設省国土地理院)
兎河原橋
久野兎河原公園から元の道に戻ってその先へと進んでくと、すぐに兎河原橋際交差点があります。 正面を流れる山王川には兎河原橋(うさんがわらはし)が架かっています。 ここを左折して山王川沿いの車道を進んでいきます。
(写真は兎河原橋から山王川の上流に向って写したものです)
川をきれいにしましょう
 (山王川・久野川を美しくする会)
天神橋
山王川沿いに続く車道を進んでいきます。 協和橋バス停を過ぎていくと、兎河原橋から4分ほどの所に天神橋が架かっています。 橋を渡り、コンビニの右手に続く道を真っ直ぐに進んでいきます。
神山神社
2分ほど進んでいくとT字路に出ます。 その右手の先から続く坂道を登っていくと神山神社があります。 本殿と拝殿に分かれた立派な社殿でした。 少し離れた感じの本殿と拝殿が繋がったようになっていて、かなり奥行きのある造りになっていました。 由緒書きもありましたが、風化が進んでいて読めない部分もかなりありました。 それによると神山神社は久野地区の総鎮守とのことで、1000年以上の歴史があるのだそうです。
神山神社
神山神社は久野地区の総鎮守。 その祭神は伊弉諾命・伊弉冉命・天照大神です。 むかしは神山権現と呼ばれ、伝承では第66代一条天皇の永延2年(988)に創建されたといわれています。 応永23年(1416)鎌倉公方足利持氏とその補佐役であった関東管領上杉氏憲(禅秀)が不和(仲が悪いこと)となり、 10月にはついに氏憲が挙兵し、持氏は鎌倉を追われて小田原から箱根山に逃れました。 この時の戦火によって社殿や宝物などがすべて焼けてしまいました。 その後、小田原北条氏二代氏綱は、神山権現を信仰…大永4年(1524)には社殿を改修し、 さらに社領を寄進する等、神社の復興に貢献しました。 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの時に、神主であった窪倉中務正広は小田原城に籠城して戦死したため、 これまでの繁栄を失ったといわれています。 天保12年(1841)に作成された「新編相模国風土記稿」によれば、 江戸時代初期には…18箇村の総鎮守であったが、後期には久野・池…3箇村の総鎮守となってしまったことが記れ… この他、寛文12年(1672)の「久野村…」にも江戸時代初期の神社のことが記録されています。 なお、現在の社殿は、明治13年(1880)に再建されたものです。 例祭…10月9日です。
久野川橋
鳥居をくぐって石段を降った所に手水場がありました。 その先の鳥居をくぐって神山神社から出て行きます。 鳥居の脇には「郷社 神山神社」と刻まれた大きな石柱が立っていました。 塀沿いに進んでいくとすぐにカーブミラーの設置されたT字路があります。 そこを左折していきます。 小田原市勤労者会館を過ぎていくと、先ほどの山王川に出ます。 右手にある神奈川県産業技術センター工芸技術所の前に橋が架かっています。 その橋を渡って右手へと山王川沿いの車道を進んでいくと、 国道271号(小田原厚木道路)の高架の下をくぐっていきます。 そのすぐ先に久野川橋際交差点があります。 右手には久野川橋が架かっていますが、交差点を渡って左手へと進んでいきます。
久野緑の小径
左手へ1分ほど行った所にある川端交差点を直進していくと、すぐ右手に久野緑の小径があります。 住宅地の中に続く道で、その名前の通り、沿道には樹木などが沢山植えられています。 アジサイも沢山植えられていて、盛りは少し過ぎていたものの、まだ多くの花を咲かせていました。 途中には左手へ分かれていく道もありますが、そのまま道なりにまっすぐ進んでいきます。
自転車・オートバイの通行は禁止です。
ペトを連れての散歩はご遠慮ください。
吸殻やごみのポイ捨ては止めましょう。
植物や施設を大切にしましょう。
久野緑の小径を4分ほどで通り抜けると車道に出ます。 その道路向かいに架線の支柱のようなものが立っている所があります。 手前にはパイプで柵がしてありますが、一部が開いていて通れるようになっています。 そこから中へと入っていくと、広くてしっかりとした道が続いていました。 少し進んでいくと最初の足柄駅の裏手に出ます。 以前にはここには線路が敷かれていて、駅の敷地の一部になっていたようです。 どういう理由なのかは分かりませんが今では線路はなくなっていて、道として一般開放されているようでした。 しかし、道の上にはまだ架線が張られたままになっていて、往時の面影が色濃く残っていたりもします。
線路跡の道を4分ほど進んでいくと車道に出ます。 右手すぐの所には小田急の踏切があります。 その踏切を渡った先のT字路を右手へ進んでいくと足柄駅に着きますが、 その前に、この左手200mほどの所に潮音寺があるので、ちょっと立ち寄っていきました。
東京電力の多古変電所を過ぎていくと、右手に潮音寺前バス停があります。 その脇には久野遺跡巡りコースの道標が立っていて、 右手は「潮音寺」、今来た道は「足柄駅300m、玉宝寺(五百羅漢)400m」となっています。 両脇には大きな石柱が立っていて、左手は「毘沙門天霊場」、右手は「曹洞宗大徳山 潮音寺」と刻まれていました。 立派な山門をくぐって中へと入っていきます。
悟りとは自分の花を咲かせることだ。 どんな小さい花でもいい。 誰のものでない独自の花を咲かせることだ。
潮音寺
山門の先で坂道と石段とに分かれています。 白い前掛けをした六地蔵に出迎えられながら左手の石段を登っていくと潮音寺があります。 正面に本堂があり、左手には鐘楼と毘沙門堂があります。 本堂の左手には平和観音像が立っていました。
潮音寺毘沙門天と平和観音
この寺は大徳寺潮音寺と号し、天文23年(1554)大休宗恵大和尚により開創され、 聖観世音菩薩をご本尊とする霊場である。 毘沙門堂には七福神の一つである毘沙門天が安置され、特に小田原七福神として広く知られている。 尊像は総丈1m余り、室町中期の傑作といわれ、勇壮破邪の相を現じている。 毘沙門天は北方多聞天とも称せられ、財宝・智慧福徳を授け、仏法加護の天王として篤い信仰を集めている。 寅の日が縁日であり、年頭の初寅の日には大祈祷会が厳修され、大勢の善男善女で賑わっている。
「初寅晴れ毘沙門天の破邪心」(冬城)
境内には平和観音像が建立されており、慰霊供養と世界平和を祈念する平和観音祭が行われる。
毘沙門堂
「毘沙門尊天」の扁額の架かる毘沙門堂には赤・緑・青・黄・白の帯状の幕が巻かれていて、 華やいだ雰囲気になっていました。 ここに祀られている毘沙門天は小田原七福神の一つなのだそうです。 この時にはご開帳されていて、中を見ることができました。 手前には「開運七福神」と題した宝船に乗った七福神の絵が描いてありました。
健康十守 健康増進
少肉多菜・少塩多酢・少糖多果・少食多噛・少衣多浴・少言多行・少欲多施・少憂多眠・少車多歩・少憤多笑
足柄(あしがら)駅
潮音寺から引き返してきて小田急の踏切を渡っていくと、すぐの所にT字路があります。 角に立つ標柱「足柄駅」に従って右折し、線路沿いに続く元来た道を100mほど進んでいくと、 最初の足柄駅(小田急小田原線)に戻ってきます。
(写真は踏切の手前から足柄駅の方向を写したものです)