足柄峠
散策:2007年03月上旬
【低山ハイク】 足柄峠
概 要 足柄峠は神奈川県と静岡県の県境にあり、奈良・平安時代には足柄古道が峠を越えていました。 峠にある足柄城址からは裾野まで広がる富士山を望む素晴らしい景色が広がっています。 今回は東側から万葉ハイキングコースを足柄峠へと登り、 足柄古道や戦返り林道を通って足柄駅へと降るルートを歩きます。
起 点 南足柄市 地蔵堂バス停
終 点 小山町 足柄駅
ルート 地蔵堂バス停…地蔵堂…万葉ハイキングコース…あづま屋…足柄万葉公園…足柄万葉公園バス停…足柄明神跡…足柄之関跡…足柄峠…聖天堂…足柄城址…足柄古道…戦返り林道…虎御前石…古滝…銚子ヶ渕…不動之滝…戦ヶ入り…嶽之下宮奥宮…嶽之下宮…足柄駅
所要時間 4時間50分
歩いて... 息が切れるほどの急坂もなくて、比較的歩きやすいコースです。 朝方には綺麗に見えていた富士山は、足柄峠に着いた時には雲に隠れていて、 残念ながら雄大な姿を望むことはできませんでした。 一部には車道を歩く所もありますが、 虹の架かる不動之滝や伝説の残る渕などもあって、趣きのある散策ができました。
関連メモ 矢倉岳, 鷹落場, 足柄峠, 矢倉岳
コース紹介
地蔵堂(じぞうどう)バス停
大雄山駅(伊豆箱根鉄道大雄山線)の改札口を出た右手にあるバスターミナルから、 地蔵堂行きバスにて15分、朝は1時間に2本程度、日中は1時間に1本程度の便があります。
 土日曜 8:10 8:43 9:20 9:55 10:20 11:50...
冬季以外には地蔵堂から足柄万葉公園までのバスの便が1時間に1本程度あるのですが、 この時は冬季期間だったので運行していませんでした。 今回は万葉ハイキングコースを経て足柄峠へと登り、 足柄関所跡や足柄城址を訪ねてから足柄古道を足柄駅へと降っていきます。
地蔵堂
地蔵堂という地名の起こりは、この地に地蔵菩薩がまつられてからのことでしょう。 堂内の地蔵尊は鎌倉時代の作といわれ、大きさは人の背丈ほど、温顔で慈悲の心が満ちあふれています。 この地には金太郎が生まれ育ったという伝説が古くから伝わり、金太郎の産湯の水につかったという 夕日の滝や遊び石などがあります。 そのほか、お正月の松飾りにはかしの木を使う風習や、 田畑を四万町歩も持っていたという四万長者の物語も残っています。 足柄峠へ通じる道は、古くからひらけ、江戸時代には旅籠が数軒あってさかえていました。 今でも「富士屋」、「大黒屋」などの屋号が残っています。
地蔵堂
バス停の手前に地蔵堂があります。 お堂の脇には地蔵菩薩と厨子の解説板がありました。 無学のため読めない字もありましたが、その部分は"_"として載せておきます。 地蔵堂の前には「みなみあしがらハイキングマップ」と題した大きな案内図があります。 今回歩く万葉ハイキングコースも載っているので参考にしましょう。 地蔵堂の脇に立つ道標「足柄峠60分」に従って、右手へと続く車道「足柄道」を進んでいくと、 すぐに細い坂道が右手へと分かれていきます。 角に立つ道標によると、右手に分かれて降っていく道は「足柄万葉公園・万葉ファミリーコース」となっています。 今回はこの右手の道から万葉ファミリーコースを通って足柄峠へと登っていきます。
この先にも「万葉ハイキングコース」と「万葉ファミリーコース」という表記がありましたが、 同じコースを表わしているものと思われます。
神奈川県指定重要文化財
木造地蔵菩薩一躯】  鎌倉後期の作と云われ、像高は1メートル98センチ5ミリ檜材の寄木造りで_部の彩色に特徴があり、 朱地に銀泥で雲丈、蓮唐草、雷文、麻の葉つなぎ、七宝つなぎなどの文様が描かれている。 かなり強い目や張りのある頬、鋭い衣文線など東国で流行した鎌倉彫刻の様式が出ている。
地蔵堂内厨子一基】  桁行1メートル60センチ梁行92センチの大きさの入母屋造りで、軸部は禅宗様になっている。 軒は和様の二軒繁垂木の_裏様厨子でもあるのが特色。 年代は木鼻などの細部の性質から見て室町時代と推定される。 また木鼻が頭貫だけではく飛貫と腰貫にもつけられているのは県下では類例の少ない技法である。
 (南足柄市教育委員会、地蔵堂自治会)
みんなで守ろう山のエチケット
・ハイキングは体力を競うものではありません。マイペースで歩きましょう。
・ハイキングも登山と同様、登りの人が優先です。
・ハイカーに出会ったら"こんにちは"と声をかけましょう。
・空き缶の投げ捨てはやめましょう。
万葉ハイキングコース
「万葉うどん」を商う店の右手に続くコンクリート舗装の細い道を降って車道に出ると、 その右手10mほど先のガードレールが開いています。 そこに万葉ハイキングコースの道標が立っていて、左手へ降っていく道は「万葉公園・矢倉岳」となっています。 道標には小さなコース図も載っています。 これと同じ道標は足柄万葉公園に着くまでコースに沿って点々と設置されています。 道標の脇には大きな「万葉ハイキングコース案内図」があります。 ここから足柄万葉公園の尾根までのルートが載っているので参考にしましょう。 これらの図によると、途中にあるあずま屋まで30分、尾根まで更に25分、合計で55分となっています。 坂道を降った所に架かる短い橋を渡っていくと、左右の畑には梅の花が咲いていて、いい香りを漂わせていました。 早春の香りを感じながら、その先に広がる茶畑の脇に続く道を登っていきます。
山伏平分岐
道標「足柄万葉公園・山伏平」に従って斜面を登っていきます。 笹竹の生い茂る所や植林帯を過ぎていくと、茶畑の広がる高みに着きます。 その先へほんの少し降ると、左右に通る広い山道に出ます。 山道にしては幅が広くてしっかりとした道になっていました。 角には万葉ハイキングコースの道標が立っていて、左手の道は「万葉公園・矢倉岳」、 今登ってきた道は「地蔵堂」となっています。 ここは道標に従って左折していきます。 小さな車止めを過ぎて広くて緩やかな山道を進んでいくと、すぐに分岐があります。 角に立つ道標によると、右手に分かれて降っていく細い道は「山伏平」、 正面の広くて緩やかな道は「足柄万葉公園」となっています。 右手の道は矢倉沢林道から山伏平へと続く「山伏平ハイキングコース」の途中に出られるようですが、 今回はそのまま正面の広い道を進んでいきます。
燃やすまい みんなが来る山 歩く山
 (神奈川県)
火気に注意
 (神奈川県)
自然環境保全地域
自然を大切にしましょう。
 (神奈川県)
右手に植林帯、左手に雑木林が続く広い道を緩やかに登っていきます。 普通の山道にしてはかなり広くなっていて、 その昔には裏街道として利用されていたようにも思えるほどの歩きやすい道です。 道に沿って桃色テープが木の枝などに点々と括り付けられていました。 テープには「C.32」などと番号が振られていたりもします。 その袂には短い杭があって、それにも同じ番号が書かれていました。 このコースを歩くハイキング大会でもあったのでしょうか。 所々には「万葉ハイキングコース」の道標が立っていてコース図も載っていますが、 道標の立っている「現在地」が記されていないのが難点だったりします。
あしかりの郷分岐
やがて左手に続く雑木林が明るくなって、樹間から山並みなどが見えるようになります。 少し右手に曲がって植林帯の中へと入っていきます。 軽い登り坂になってくると、「足柄万葉公園」を指す道標の先で道が二手に分かれています。 角に立つ「万葉ハイキングコース」の道標によると、右手の緩やかな道は「あしかりの郷」、 正面の坂道は「万葉公園・矢倉岳」となっています。 道標にある地図によると、右手のあしかりの郷を巡る道は先の方で再び合流するようです。 今回はこのまま正面の坂道を登っていきます。
あづま屋
1分ほど進んでいった所にあるあしかりの郷への二つめの分岐を見送って山道を更に進んでいきます。 少し右手へ曲がってツバキの咲く坂道をひと登りした所にあづま屋が建っていました。 最初の車道の所から、「万葉ハイキングコース」の道標に書かれたのと同じ30分ほどで到着しました。 あづま屋の前に聳える矢倉岳などを眺めながら、ここで少し休憩していきました。 あづま屋の脇には「あしかりの郷案内図」がありました。 それによると、あしかりの郷は東側にかけてかなりの広さがある植栽地になっていて、 民家などがある「郷」ではありません。
詳細は省略しますが、あしかりの郷に続く散策路を少し歩いてみました。 明るくなった斜面に若い樹木などが植えられていました。 まだ大きくは育っておらず、見通しが良くなっていました。 そんな斜面に沿うようにしてクネクネと散策路が続いていました。 南西方向には箱根の山々を見渡せる景色が広がっていたりもしました。 分岐もかなりあったりしてどちらへ行けばいいのか迷うような箇所もありました。 案内図ではかなり縦横に散策路が巡っているようでした。 利用する人が少ないのか散策路は少々荒れ気味で、 僅かな踏み跡程度の所や小さな流れを渡る所があったりしましたが、 若葉が伸びる新緑の頃には雰囲気のいい散策が出来そうな所でした。 郷のほんの一部を20分ほど散策してみましたが、所要時間には含めていません。
あしかりの郷
あしかりの郷には、さまざまな樹木が植栽されています。 樹形や木肌、葉の形などそれぞれ異なります。 あなたは何種類わかりますか? よく観察してみましょう。
イロハモミジ・イチョウ・イヌシデ・エゴノキ・エノキ・カツラ・クヌギ・ケヤキ・コナラ・サザンカ・サルスベリ・シモクレン・ソヨゴ・トチノキ・ナツツバキ・ハクモクレン・ヒメシャラ・ヤマモミジ・ヤマザクラ・ヤマボウシ・ヤブツバキ
 (生活環境保全林整備事業)
ひと休みしたら、道標「万葉公園・矢倉岳」に従って、あづま屋の先に続く植林帯へと入っていきます。 木の根が張り出していたり道が林床に広がって何処が道なのか分からない所もあったりしますが、 所々に立つ「万葉ハイキングコース」の道標を確認しながら上へ上へと登っていきます。 最初は緩やかな道ですが次第に傾斜が増してきて、 春浅い季節でしたが額に汗が滲んできたりもしました。 右へ左へと大きく曲がりながら登るようになると、尾根はもうすぐです。 やがて正面が明るくなってくると、道が二手に分かれています。 角に立つ道標によると、正面に登っていく道は「矢倉岳」、 左手へ分かれていく道は「万葉公園」となっています。 いずれの道も矢倉岳から足柄峠へと続く尾根道に出ますが、今回は左手の道を進んでいきました。
分岐から植林帯を1分ほど登っていくと尾根道に出ました。 あづま屋から22分ほどで登って来られました。 登り着いた所には道標が立っていて、右手の道は「矢倉岳・21世紀の森・酒水の滝」、 左手の道は「足柄万葉公園・足柄峠」、今登ってきた道は「地蔵堂・万葉ファミリーコース」となっていました。 別の道標も立っていて、今登ってきた道は「地蔵堂・万葉ハイキングコース」となっていました。 ここは足柄万葉公園へ向けて、緩やかな尾根道を左手へと進んでいきます。
すぐに植林帯を抜けていくと、右手に登っていく道が分かれていきます。 角に立つ道標によると、右手の道は「万葉広場」、正面の道は「県道・中央広場・便所・足柄古道」となっています。 どちらの道を進んでいってもその先で合流しますが、今回は右手の万葉広場への道を登っていきました。 矢倉岳から足柄峠へと向かうハイキングコースは、公園の一段低い所の斜面に沿って緩やかに続いています。
足柄万葉公園
横木の階段混じりの坂道をひと登りすると尾根に着きます。 そこから左手へ伸びる尾根に足柄万葉公園が続いています。 園内には万葉集の歌碑や樹木に因んだ和歌の立て札などが非常に多くあります。 無学の私にはよく分からないのですが、その幾つかを載せておきます。 東屋も一軒建っていて、その脇の歌碑の奥には矢倉岳が見えていました。 この辺りにはその昔に砦が築かれていたのだそうで、その解説板もありました。
鳥総立て 足柄山に 船木伐り 樹に伐り行きつ あたら船木を 巻3-391
(大意)神まつりして足柄山で船木を伐ろうとしていたのに、その木を他の人が伐ってしまった。 大切に思っていた木なのに。 「鳥総立て」とは樹を伐採するときに木霊をまつる信仰儀式の一つ。 他人のもとへ行ってしまったあの乙女は私と交際を始めていて本当にいい子だったのに。
足柄の 箱根の嶺呂の 和草の 花つ妻なれや 紐解かず寝む 巻14-3370
(大意)足柄の箱根の丘の上に生えている和草のようにやさしく可憐な花のような妻だから、 あまりの可愛さにとうとう紐を解かずに寝てしまった。 足柄古道がさかんに通行されていた奈良・平安時代には箱根山も足柄山の一部と考えられていた。
足柄の 吾を可鶏山の 穀の木の 吾をかづさねも 穀割かずとも 巻14-3432
(大意)あなたがそれほどまでに思ってくださるのなら、私を早く誘ってください。 可鶏山にあるかづのき(ぬるで)などを割っていないで。 「吾を可鶏山」とは竹の輪を空中に投げてそれを矢で射る民間行事を行う山の意。
古楢尾砦跡
古楢尾砦は、足柄峠から地蔵堂方面へと下向する尾根「楢尾」の頂部に位置している。 当砦は東西26m・南北24mの中部で、北・西・南の3方に堀が築かれており、 郭の西側には幅約10mの掘切が設けられ、沢道から攻め寄せる敵に備えている。 古楢尾砦は浜居場城・丹十尾砦・阿弥陀尾砦・通り尾砦・猪鼻砦と共に、国境防備の砦として、 足柄城を中心とした足柄城背部の角を守っており、 足柄城へは800m、阿弥陀尾砦までは…程の至近距離にある。
和歌などを鑑賞しながら10分ほどかけてゆっくりと足柄万葉公園を進んでいくと、 先ほどの分岐を直進してきた矢倉岳ハイキングコースが左手から合流してきます。 道を合わせてその先へと降っていくと車道の脇に降り立ちます。 車道を進んでいってもいいのです趣きに欠けようというものなので、 右手に続く山道を更に進んでいきます。 少し降ってから幅の広い横木の階段をひと登りすると尾根に出ます。 そこを左手へと進んでいくとふたたび足柄万葉公園が続いています。 こちらにも東屋が一軒たっていて、少し先にはその昔の砦に関する解説板もありました。
足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は 清に見もかも 巻20-4423
(大意)足柄の御坂に立ってふるさとに向って別れを告げるとき、 家に残してきた妻や私が力の限り袖を振っているのをはっきり見ているであろうか。 この歌は防人の歌で、再び故郷にかえることが困難な時代であったことがうかがわれる。
通り尾砦跡
足柄峠は、神奈川県と静岡県の県境に位置しており、 戦国時代には、小田原の北条氏によって足柄城を中心として、国境防備の城砦群が形成されていた。 この通り尾砦もそのうちの一つである。
金時山−猪鼻砦−足柄城−通り尾砦−古楢尾砦−阿弥陀尾砦−浜居場城
足柄万葉公園バス停 (標高744.6m)
東屋を過ぎて、左手の矢倉岳などを眺めながら緩やかに降っていくと、程なくして車道が見えてきます。 「足柄萬葉公園」、「南足柄市」と刻まれた石の間を過ぎていくと、足柄万葉公園バス停に着きます。 尾根に出てから15分ほど、地蔵堂バス停から1時間20分ほどで到着しました。 週末にはここから地蔵堂までのバスの便があるのですが、冬季期間は運休になっていています。 1時間に1本程度の便があるのですが、この時には時刻表もなくなっていました。 手前には大きな「足柄万葉公園」の案内図があります。 その裏面には「足柄峠」の解説文も載っていますが、 関所のあった足柄峠は車道をもう少し行った所になります。 また案内図の脇には大きな円盤があって、周囲の山々などの名前が記されていました。 それによると、東側には矢倉岳・21世紀の森・三浦半島・房総半島・相模湾・足柄平野・酒匂川、 南側には明神ヶ岳・箱根大湧谷・箱根連山・金時山、 西側には愛鷹山・富士山・籠坂峠、北側には丹沢連山が広がっているようですが、 ここからは樹木に邪魔をされてそれほどの展望は得られません。
足柄峠
古代、足柄峠は都と東国とを結ぶ要路であった。 大和朝廷の昔、日本武尊が東征の帰路この峠に立ち、弟橘姫をしのんで「あづまはや」と叫んだという記述が 古事記にある。奈良時代、東国の任地に赴く役人たちが、ここで都に最後の別れを告げ、 また防人の任におもむく東国の農民たちも、この峠で故郷に残した肉親を思い、心の叫びを詠じている。 こうした万葉人の痛切な声は、時代を越えて今もなお私たちの胸をうつ。 ここ足柄峠は標高759メートル、当時の旅人たちは畏怖のあまり思わず 「足柄の御坂かしこみ」と峠の神に手向けせずにはいられなかったというが、 往時の森厳さと神秘感寂寥感は今もその名残りをとどめている。
バス停からその先へと続く舗装道路を進んでいきます。 「かながわの景勝50選 足柄峠」の石碑を過ぎていくと、すぐに右手のトイレの脇から山道が始まっています。 そのまま車道を進んでいってもいいのですが趣きに欠けようというものなので、 ここでも山道へと進んでいきました。 足柄峠観測局の脇を過ぎて尖った感じの可愛らしい建物を過ぎて潅木の生える緩やかな尾根を登っていくと、 1分半ほどでベンチの設置された高みに着きました。 周りは樹木に囲まれていて展望は良くありません。
樹木草花を大切にしましょう
足柄明神跡
松林の中を緩やかに降って車道に降り立って、その先へと進んでいきます。 車道を1分ほど進んでいくと、「静岡県」,「小山町」の標識の先から左手に分かれていく山道があります。 脇に立つ「足柄神社跡・足柄古道」や「足柄明神入口」の道標が左手の道を指しています。 また「竹之下合戦史跡 足柄明神」の標識も立っていて左手の道を指しています。 足柄峠へは正面の車道をそのまま進んでいくのですが、 すぐの所に足柄明神跡があるのでちょっと立ち寄っていきましょう。 「足柄明神」の扁額の架かる赤い鳥居をくぐって、左手に広がる景色を眺めながら緩やかで広い道を1分ほど進んでいくと、 石積みの上に足柄明神跡の小さな祠があります。 脇にはその解説板もありましたがかなり擦れていて読めない部分が大半でした。 「足柄明神」と書かれた白い幟もありましたが、倒れていたので立て直しておきました。
足柄明神跡(足柄神社)
足柄明神は、最初天慶3年(940)頃の地元の系図に「家相、鬼門除けの神と崇む」と記す。 ・・・足柄神社の縁起にあ・・・移され、鎌倉時代末期に現在の苅野に祀られるようになりました。 名称も寛延3年(1750)の文書には「苅野村大明神」とあり、・・・には矢倉神社と称し、 昭和14年(1939)に足柄神社と改められました。 また、奈良平安時代の官道であったが・・・「更級日記」などに書かれています。 ここで・・・
足柄古道分岐
元の車道まで引き返してその先へと進んでいきます。 マサカリを担いで熊に跨った金太郎の看板を過ぎていくと、左手に足柄古道が分かれていきます。 大きな案内板が立っていて、ここから地蔵堂を経て楽山荘へと至る足柄古道の東側ルートが図示されていました。 角に立つ道標によると、左手に分かれて降っていく道は「足柄古道・足柄神社跡・地蔵堂」、 正面の車道は「聖天堂・至金時山約4.0km」となっています。 また「足柄古道入口」の道標も立っていて左手の道を指していました。 ここは足柄峠を目指して車道をその先へと進んでいきます。
「中央広場・万葉広場・至矢倉岳」の道標が道の右手を指していましたが向きがおかしいようです。 右手には道などはなくて今歩いてきた道を指すべきで、90度ほども向きがずれています。 中年女性の2人グループが道端にしゃがみ込んで地図を広げて何やら検討していました。 話を聞いてみると矢倉岳へ行きたいとのことですが、 道標の向きが変なのでどう行ったらいいのか悩んでいるようでした。 幸いにも私は矢倉岳へ何度か登ったことがあったので、 この車道を進んでその先の山道を登っていけばいいと教えてあげたのでした。 製作上の都合があるのかも知れませんが、 ここの道標に限ったことではありませんが、きちんと正しい方角を向くように設置してほしいものです。
足柄道
足柄道は、今から約1200年前の奈良・平安時代の官道で、 西の都こあら静岡へ、さらに御殿場からこの地(足柄峠)を越えて坂本(関本)をとおり、 小総(国府津)から蓑輪(伊勢原)、武蔵へと続いていました。 802年に富士山が噴火して足柄道が埋ってしまった時は、 御殿場から箱根へ出て碓氷峠から明神を越えて、関本に下る碓氷道が利用されたこともありますが、 古代の官道はほとんど足柄道であったのです。 その後、今の東海道が主流となり足柄道の往来も少なくなりました。 南足柄は都から関東に入る玄関口であったわけで、 中央の文化の一番早く伝えられる所でもあったといえます。
足柄之関跡
足柄古道を見送って広い車道を1分ほど進んでいくと、左手に足柄之関跡があります。 足柄明神跡への立ち寄りなども含めて、足柄万葉公園バス停から15分ほどで到着しました。 「足柄之関」と書かれた門と、その脇には「足柄之関跡」の標柱や解説板や、 旅人が手をついておじぎをして手形を差し出したという「おじぎ石」などがありました。 おまけながら、山伏姿の顔出し看板人形もあったりします。
古代の足柄の関
足柄の関は、昌泰2年(899)、足柄坂に出没する強盗団、就馬の党を取り締まるために設けられた。 関の通行には、相模国の国司の発行する過所(通行手形)が必要だった。 関の設置された場所や規模、関の停廃の時期などは分かっていない。 「源平盛衰記」に治承4年(1180)のこととして、土屋宗遠が甲斐に越える時、 「見レハ峠ニ仮屋打テ、(中略)夜半ノ事ナレハ、関守睡テ驚カス」と見える。 また、鎌倉時代の歌人 飛鳥井雅経が、 「とまるべき せきやはうちも あらはにて 嵐ははげし あしがらの山」 (明日香井和歌集)と詠んでいることから、源平の動乱の時代に、足柄峠に臨時の関が設けられ、 鎌倉時代初期にはその残骸が残っていたことがわかる。 峠付近の路傍から採取された4000年前の縄文土器片が語るように、この峠道の歴史は古く、 鎌倉時代に箱根道が開かれるまでは官道・公道として利用され、東海道最大の難所として有名であった。 また、歌枕として関・峠とともに、多くの歌に詠まれている。 この関は、昭和60年、黒沢明監督の映画「乱」の撮影で使われた城門のセットを 足柄の関伝承地へ移築したものである。
 (小山町観光協会)
足柄峠 (標高759m)
足柄之関跡のすぐ先に「あづまはや 足柄峠」と記された標識が立っていて、 「あづまはや」と云ったといわれる倭建命の解説板が設置されています。 また景行4年(115)の倭建命の東征から天正18年(1590)の徳川家康の小田原攻め参加までの 足柄峠にまつわる略史も掲示されていました。 脇には大きな「足柄城址遊歩道案内図」もあります。 先ほどの足柄明神跡のあった辺りからこの先にかけてが足柄城址で、 ここから小高い尾根に遊歩道が続いています。 車道のすぐ先には聖天堂が見えていますが後ほど訪ねるとして、 先ずは案内板の左手から続く幅の広い横木の階段を登って遊歩道を歩いていきます。
足柄城
足柄城は、後北条氏によって築城された戦国時代の出城です。 この城は、足柄峠を中心に尾根上のいくつかの城郭群に守られた堂々たる城でしたが、 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻め後、廃城となりました。
倭建命(日本武尊)
古事記(和銅5年・712年完成)によれば、景行天皇の皇子 小碓命は、九州の熊襲建を征服した後、 倭建命と名を改めた。九州から大和へ帰った命は、天皇より東征の命令を受け、上総(千葉県)へと出発した。 相模(神奈川県)では野火の難を草薙の剣で無事切りぬけ、いよいよ相模半島(三浦半島)から海路、 目的地へ向った。船が大海原にさしかかった時、海の神の怒りにふれたか、平穏な海は一瞬にして 怒涛さかまく荒海に変った。この時連れの弟橘媛は、荒狂う波間に身を投じ、神をなだめ海を静めた。 上総の岸へ無事着いた命は、任務を果したその帰路、足柄峠の頂に立ち、 再び見ることはないであろう東の海をながめ、あの橘媛を思い「吾妻はや」(あゝわが妻よ)と 嘆き悲しんだのだった。
山の神社
幅の広い横木の階段を登っていきます。 右手へと曲がっていくとやがて緩やかな道になってきます。 少し凹んだ所の左手に小さな石祠がありました。 脇にある解説板によると山の神社というようです。
山の神社
足柄峠は古くから官道として往来が盛んであったので、 峠越えの旅人の道中安全と富士の裾野の人々の安泰を祈願する為、 富士山の一望出来るこの地を霊地として山の神社を建立、心の拠所とした。 戦後関西大学の教授が足柄山を訪れ、「 昔から高い山は神の宿り給う処と云われ富士山は神格化されたが、 その富士山を真正面に見通す所には必ず旅人の富士山遥拝の地としての神の祠がある筈である」と調査の為来山。 この山の神社を見て満足して帰って行ったことがあった。
玉手ヶ池
先ほどの車道の上に架かる吊橋「あづまはやはし」を渡っていくと、広場のようになった一の郭に着きます。 右手の林の中には玉手ヶ池があります。 右手から林の中へ入っていくと、池の前には御幣の下がった注連縄が張られていました。 池の奥には小さな石祠もありました。
史跡と伝説
此の池は底知らずの池、又は雨乞いの池と云われ、底は小田原に通じて居るとも云われて居り、 又干ばつ続きの折には、池の水をかきまわし雨乞いをすれば必ず雨が降り、 それこそ干天の慈雨とされたと云われ、干日続きには遠近の村人達が雨乞いにきたものです。 池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫玉手姫から付けられたものですが、 もともとこの池があったものか又足柄城の本丸井戸跡かそのいずれかと思われますが、 井戸の大きさと池の大きさがやや一致するぐらいの面積であることは、 史実と伝説の関連が非常に興味深く思えるではないでしょうか。
聖天堂
玉手ヶ池から林の中を右手へと降って車道に降り立つと、すぐ左手に聖天堂があります。 入口には、マサカリを担いで熊に跨った金太郎の石像がありました。
聖天尊のいわれ
足柄山聖天堂に鎮座いたします御本尊は大聖歓喜双身天(石像高さ1.8m)で、元は京都にあったものといわれ、 昔、宮中の女官と武士が相思の仲となっていたのが、この聖天像に願をかけて一緒になる事が出来ました。 然し有司(役人)は「こんな物を置いては風紀上よろしくない」と云って、空舟に乗せ海に流したところ、 舟は海上を漂流し相模国(神奈川県)早川に着いたので、土地の者が拾い上げて祭っていたのを、 弘法大師が見出して足柄山に勧請、自筆の「足柄山」と云う額と共に奉納したと伝えられる。 この聖天尊の御利益はあらたかで、衆生の迷いを救い、願をかなえさせ、 紋所である大根は、一家和合、商売繁昌、縁結び、厄除、開運をあらわし、 その霊験あらたかなことは広く知られ、 「日本三体聖天尊」(浅草聖天・生駒聖天・足柄聖天)の一つとして数えられている。
「下」の安穏由来
昔相模の国、小田原在の姥、足柄山聖天尊に祈願し曰く、 『吾、年老いて余命いくばくもありと覚えず、大往生遂げたしと願ふても叶わざる事往々にしてあり。 永年病床に臥し家人に「下」の面倒を受くるは堪え得ざるものあり。 されば日頃信仰せし聖天尊の功徳を何卒吾に垂れ給え』と姥は持参せし「腰の物」を差し出したり。 堂主、信心深き姥に応え心を込めて誦経し、差し出せし「腰の物」に印授を書きしるし、 終生之をまとわば汝の願望必ず叶ふべし、と与えたり。 幾星霜年経て、姥の若者山を尋ねて曰く、 『吾が母、米寿の祝を経て大往生せり。遺言に「下」の世話にならぬはこれ大聖天歓喜双身天の法徳なり。 願わくば功徳を後世に垂れ給え…これ母の意志なりと』 かくて堂主、この妙果と功徳を永く伝ふべく念力こめし護法の品を里人の善男善女に分ち与ふる事となりぬ。 それ以来、老若男女を問わず「下」の安穏の為、行楽がてら参詣に来られる方々を数多く見受けます。 お年寄りになりましても嫁御や子供達に「下」のお世話にならぬために安穏祈願を済まされる様、 皆様におすすめ致します。
 (足柄山聖天堂)
聖天堂の境内には御神木の古木がありました。 突風で倒伏した所から新たな木が育ってきたものなのだそうです。
御神木縁起
當山御神木として400数十年の樹齢を重ね、皆様に親しまれておりました欅の大樹は、 平成11年5月27日瞬間風速41米余の突風におり倒伏し、根囲りを留めるのみとなりましたが、 その際空洞となっておりました根幹部の中にはすでに次代に続く子木が育くまれており、 親木倒伏の後に出現したものが現在の欅であります。 まことに和合、除疫、家運護持の霊験あらたかな神として広く信仰をあつめる六聖歓喜天の法力を 実証するものであろうと存じます。 この御神木がさらに永く後世へ命脈を保ち、御参詣の皆様に功徳を垂れ給わんことを 謹んで祈願する次第であります。
 (足柄山聖天堂世話人会)
足柄城址
聖天堂を出て車道を進んでいきます。 先ほどの「あづまはやはし」の下を過ぎていくと道が左右に分かれています。 道標によると、左手は「金時山90分」、右手は「駿河小山駅130分、足柄駅70分」、 今来た道は「聖天堂1分、地蔵堂45分」となっています。 今回はここから足柄駅へと降っていくのですが車道ばかり歩いても趣きがないので、 右手の階段を登って、丘の上に続く足柄城址を経ていきます。 階段を登ると先ほどの広場のような一の郭に戻ってきます。 その先の方へと進んでいくと、コンクリートで固められた石積みの上に歌碑が立っています。 裏面に刻まれた解説文によると、先の大戦の時に小山町に疎開してきた歌人の生田蝶介の歌碑とのことで、 表面にはその歌が刻まれているようです。 達筆すぎて無学の私には読めませんでしたが、この足柄山に登って詠んだ富士山の歌のようでした。
足柄峠
足柄峠は標高759mの箱根外輪山から派生する尾根上に位置し、静岡県小山町と神奈川県南足柄市との境にあり、 古くから官道として防人や旅人の往来も盛んであった。 また軍事的にも重要な場所であったため、多くの史跡や遺跡、石仏、文学碑等が残され、 その上旅情豊かな風景は訪れた人達の心を離さない。
足柄の関 昌泰2年(899)盗賊(しゅう馬の党という)を防ぐ目的で設置された関である。
足柄城址 創築者・年代は不明であるが、平安末期ごろから戦略上の要地として何度か軍事的な施設が設けられた形跡がある。 城郭としては、小田原後北条氏の属城で、数ヶ所の曲輪と土塁、井戸跡、倉屋敷跡、数地点に砦(矢倉)等があり、 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの後、廃城となった。
笛吹塚 新羅三郎義光は、兄八幡太郎義家の苦戦している後三年の役(1083〜1087)に参戦する途中、 足柄峠において笙の笛の師豊原時元の子時秋に笙の秘曲を伝授したといわれる。
聖天堂 弘法大師の建立と云われ、本尊は等身大の石仏で、秘仏として公開されない。 福運厄除、縁結びのご利益があるとして参拝者が絶えない。 毎年、4月20日に大祭が行われる。
万葉公園 足柄峠は古来から官道であったため、多くの人々が通り、歌を詠んでいる。 万葉集にも数首詩われているのが見られる。 万葉の歴史を記す公園として、昭和57年度に南足柄市によって設置された。
万葉集から 足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は 清み見もかも
その他の
遺跡,句碑など
あずまはや橋、六地蔵、芭蕉句碑、足柄明神、唯念上人名号碑、生田蝶介歌碑、足柄古道など。
 (小山町観光協会、小山町)
生田蝶介歌碑
生田蝶介先生は歌誌「吾妹」の主事。 日本歌人クラブの名誉会員として歌壇の重鎮をなす。 戦火を避けてこの地に疎開され5年間小山町の人たりし。 幾度か足柄山に足を運ばれ秀麗な富士に対いて名歌あり。 その一首を永く残さんと、此処に第八歌碑として建立するもの也。
歌碑の裏手には裾野まで広がる雄大な富士山を眺められる景色が広がっています。 朝方は車窓から箱根越しに山頂部が綺麗に見えていたのですが、 ここに着いてみると富士山は雲の中に隠れてしまっていて、時折山頂部が顔を覗かせる程度でした。 時間が経てば見えるようになるかも知れないと思ってしばらく待ってみましたが、状況は好転しませんでした。 富士山よりも近い所にあるためか、愛鷹連邦や丹沢山塊はかなりはっきりと見えていました。 条件がいいとすばらしい眺めが広がる所なのですが、今回は残念な結果になりました。 足柄城址のある丘には一の郭から五の郭までが連なっています。 お昼にはまだ時間がありましたが、二の郭にあるベンチに腰を掛けて、 ぼんやりした富士山を眺めながら昼食タイムにしました。 振り返ると、金時山や箱根外輪山などの山々が連なっているのが見渡せました。
お腹も満ちたところで、散策や休憩などで45分ほどいた足柄峠を後にして足柄駅へと下山していきます。 緩やかな尾根に続く三の郭四の郭と過ぎていきます。 幅の広い横木の階段を降って少し先にある五の郭を過ぎていくと、道は左手へと曲がっていきます。 浅い谷筋のような所を進んで最後に横木の階段をひと登りすると、二の郭から6分ほどで車道に出ました。 出た所には立派な道標が立っていて、 左手は「足柄峠」、右手は「小山・足柄方面」、今歩いてきた道は「遊歩道入口」となっていました。 ここは道標に従って、車道を右手へと進んでいきます。
六地蔵
車道を歩き出して1分もしない内に、道路の右手に六地蔵がありました。 屋根の下に赤い前掛けをして一列に並んでいました。 柱には「六地蔵」と書かれた庇付きの板が取り付けられていました。 真ん中の柱には「南無妙法蓮華経 六地蔵菩薩」と書かれた塔婆が立て掛けられていました。 謂れなどを記したものは見かけませんでした。 線香を立てたりお供えをしたりするためのものなのでしょうか、お地蔵さんの前には四角い物がありました。 建屋の前には座るのに具合が良さそうな丸太の輪切りが4つ並んでいました。 休憩所の代わりということでもないのでしょうが、目的はよく分かりませんでした。
六地蔵を過ぎて車道をその先へと進んでいくと、1分もしない内に再び道路の右手に地蔵が並んでいました。 先ほどの六地蔵と同じような建屋に納められていましたが、こちらのは八体が並んでいました。 赤い頭巾と前掛けをして黄色い頭陀袋を袈裟掛けにしていました。 誰が手向けたのか、前には赤や白の花がお供えされていました。 こちらにも四角い物と丸太の輪切りが5つ並んでいました。 真ん中の柱には「南無妙法蓮華経 地蔵菩薩」と書かれた塔婆が立て掛けられていましたが、 「八」という文字は見かけませんでした。 八体の内の1体は小振りだったので子供のお地蔵さんなのでしょうか。
お地蔵さんを過ぎて更に1分ほど進んでいくと、右手の林に芭蕉の句碑がありました。
芭蕉の句碑文
目にかかる 時やことさら 五月富士 (芭蕉翁行状記)
【解説】 くもり空で、とても富士など見えないと思っていた所、 山を越える頃ふとその雲が切れて、実に目にもあざやかに富士の姿が現れた。 その山容の美しさ、このように予期もしない時にふと目に入った時こそ、 殊更美しく感じられるよ富士の峰は、という句である。(芭蕉俳句大成)
【句を詠んだ年代】 元禄7年(1694)夏の作
【建碑】 嘉永3年か4年頃(1850年頃)牛負庵牛翁が願主で、 小山、生土、藤曲、茅沼の俳人関係者が補助して建てた。
 (小山町教育委員会)
足柄古道
芭蕉の句碑のすぐ先で、車道の左手から山道が分かれています。 角に立つ道標によると、左手に降っていく山道は「足柄駅60分」、 正面の車道は「駿河小山駅120分」、今歩いてきた道は「金時山100分、足柄峠10分」となっています。 このまま車道を降っていっても足柄駅に着くのですが、今回は左手の山道を降っていきました。 この山道は足柄峠を越えていく足柄古道の西側ルートで、 足柄之関跡の手前にあった足柄古道は東側ルートになります。
階段を降るとすぐに緩やかな道になってきます。 雑木林に歩きやすい道が続いていました。 笹竹が生える所を過ぎていくと少し降るようになります。 やがて植林帯に入っていくと、古道に入ってから5分ほどで再び車道に出ます。 出た所には「足柄古道」と書かれた標柱が立っていました。 車道を横切って右手すぐの所から再び足柄古道が続いていて、 こちらにも「足柄古道」と書かれた標柱が立っていました。 歩き始めの部分は石畳になっていますが、すぐに土の道に変わります。
樹木が疎らで明るい雑木林に続く広めの道を降っていきます。 普通の山道よりも幅があって、官道としても使われていたという往時を偲ぶものがあります。 2分ほど降っていくと、「地名 赤坂」,「足柄峠路」と書かれた標柱が立っていました。 この辺りは「赤坂」と呼ばれていたようです。 左手に続く植林帯に沿うようにして道が続いています。 「県道まで100メートル 足柄古道」と書かれた板が登ってくる向きに掛けられていました。 やがて笹竹が生える明るい雑木林の尾根を降るようになります。 振り返ると金時山の特徴的な姿を望むこともできました。 広くて歩きやすい古道を道なりに降っていきます。 浅くU字形に抉れた所や岩が頭を出した所もあったりしますが、歩き難いというほどではありません。 やがて植林帯の縁を降るようになると、 「県道まで500メートル 足柄古道」と書かれた板が登ってくる向きに掛けられていました。
植林帯を抜けて笹竹の生い茂る道を左手へと曲がりながら降っていきます。 再び植林帯へと入って石畳の道になってくると、再び車道に降り立ちます。 車道を横切って古道に入ってから13分ほどで降りて来られました。 ここにも「足柄古道」の標柱が立っていました。 角に立つ道標によると、右手の道は「足柄駅45分」、左手の道は「金時山120分、足柄峠30分」、 今降ってきた道も「金時山120分、足柄峠30分」となっていました。 道標には、金時山の周辺でよく見かける20cmほどの金太郎の像が取り付けられていました。 車道に出る手前には馬頭観世音が立っていました。 脇には解説板も設置されていましたが、文字が擦れていて読めない部分がかなりありました。 先ほどの標柱にもあったように、この辺りの古道は「赤坂」と呼ばれていたようです。
(写真は車道に出て振り返って写したものです)
赤坂古道と馬頭観世音
この古道は千年以上の歴史を経ているが江戸時代 より明治末期まで旅人の往来も多く、相模国・・・ から甲斐の国(山梨県河口湖船津)への海産物を・・・ 「塩の道」として賑わっていた。「赤坂」の由来は陶器(須恵器)に 使う赤土が出たところから名付けられたと云う。 馬頭観世音像は頭の上に馬の顔を・・・ 石仏文化財であります。当時峠越えの・・・ 頼るほかなく難所も多かったので荷主の遭難もしば しばありこれを憐れんだ村人達が観音像を建て供養し 道中安全を祈願したものである。
水飲沢
道標「足柄駅」に従って、植林帯に続く車道を右手へと降っていきます。 左手の下の谷筋には沢が続いていましたが、流れる水は見えませんでした。 緩やかに2分ほど降っていくと、左手へ曲がっていく所の右手に浅い谷筋があります。 「水飲沢」と云うのだそうで、足柄古道を行き来する旅人が利用した水場だったのだそうです。
水飲沢
けわしい足柄峠越えの荷場や往来する旅人達が命の水と称して喉をうるおした所で、 通称「水飲場」と云われている。
戦返り林道
水飲沢を過ぎて更に車道を降っていきます。 真上に送電線が通る辺りまでくると、道が左右に曲がりくねるようになります。 電力会社の巡視路No.28の階段を右手に分けて車道を更に降っていくと、 左手に続いてきた沢がすぐそばまで近づいてきます。 沢に架かる木橋のある巡視路No.29を見送っていくと、やがて道幅が広がって二車線になってきます。 二車線になった車道を1分ほど進んでいくと、 「竹之下合戦史跡 戦ヶ入り」の標柱を過ぎた所に赤く塗られた伊勢宇橋が架かっています。 車道に出てから8分ほどの所になります。 橋の手前から土の道が右手へと分かれています。 角には道標が幾つか設置されていました。 それらによると、右手へ分かれていく道は「林道戦返り線」というようで、 「銚子ヶ渕1.5km」となっていました。 古びた別の道標には、正面の道は「足柄駅2.4km35分」、 今降ってきた道は「足柄峠2.5km42分」となっていました。 更に別の道標には、正面の道は「足柄駅35分」、右手の道は「足柄駅35分」、 今降ってきた道は「金時山130分、足柄峠40分」となっていました。 このまま車道を進んでいっても足柄駅に着くようですが、 今回は少しでも趣きが良さそうな右手の林道を進んでいきました。
「戦返り」には「せんがえり」との振り仮名が付けられていて、 標識の「戦ヶ入り」とよく似た発音なので、同じことを指しているように思われます。
伊勢宇橋
江戸時代、浅草の商人・伊勢屋宇兵衛は一代で大金持になった。 晩年、世の為にと交通不便な地に八十八ヶ所の橋をかけることを思い立ち各所にかけたが、 この地蔵堂川にかけられた伊勢宇橋は八十五番目の橋と伝えられている。 但し、往時の面影(木橋 長さ3.6m巾1.5m)はない。
虎御前入口
幅が広くて緩やかな林道を1分ほど進んでいくと、右手に道が分かれていきます。 角には「虎御前入口」の標柱が立っていました。 その袂には倒れた解説板がありましたが、文字は明瞭ではありませんでした。 道標も立っていて、右手に分かれていく道は「虎御前石0.5km」、正面の道は「足柄駅2.5km」となっています。 足柄駅へは正面に続く林道を真っ直ぐに進んでいくのですが、 まだ陽は高かったし500mとのことなので、虎御前石というのを訪ねていくことにしました。 右折して広くて緩やかな道を進んでいきます。 このままの感じで500m続いているのかと思ったりもしましたが甘かったようです。 すぐに細い登り坂の山道になってきました。 砂防ダムの左手を越えていくとすぐに二つ目の砂防ダムがあります。 その手前から左手へと曲がって植林帯の中を登っていきます。
ここに倒れていた解説板の内容は、虎御前石の脇にあった解説板と同じものでした。 500mなので15分もあれば往復できるだろうと思って歩き出しましたが、 虎御前石まで行ってここまで戻ってくるのに25分ほどもかかりました。
虎御前石 (標高616m)
足柄峠を越えてきた身には、また山道を登っていくのは結構応えたりします。 もうかなり歩いてきたと思えるのにまだ500mにならないのかと思いながら登っていきます。 「虎御前石・足柄峠へ」と書かれた手製の道標を過ぎていくと、 林道から8分ほどで「虎御前石150m」の手製の道標が木に括り付けられていました。 「まだ150mもある/いやもう150mしかない」などと考えながら植林帯を更に登っていくと、 少し明るくなった高みに着きました。 そこに「虎御前石・足柄駅」の標識が立っていて今登ってきた道を指していました。 どうやらこの辺りに虎御前石がありそうだと思って周囲を見回していると、 左手の尾根に黒色と黄色のトラロープが張られていました。 山道は正面へと続いていましたが、試しにそのロープに沿って進んでいくと、 程なくして植林帯の中に大きな岩が幾つか頭を出していました。 そばには「竹之下虎御前山」という標識もありました。 脇には「虎御前石」の解説板が立っていました。 どうやらこれらの岩が虎御前石のようです。 林道から12分ほどで到着しました。 汚れていたりして読み難い箇所もあったので間違っている所があるかも知れませんが、 解説板の内容を載せておきます。
ロープが必要なほど危ない場所とは感じませんでした。 山道から虎御前石への道を指す道標は見かけなかったので、 トラロープがその役割を果たしているのかも知れません。
足柄竹之下 虎御前石
建久4年(1193)5月、源頼朝が富士の 裾野に巻狩りの折、曽我兄弟は父の仇 の工藤祐径を討ちとり本懐を遂げた。 この時兄十郎祐成を慕う大磯の長者 の娘虎女(後に虎御前)はひそかに相模国 を経ち、足柄峠を越えて富士の見える 古道の傍の石に座し、兄弟の悲願達成 と安否を気づかい夜を明かしたという。 後に里人たちは虎女の愛情を称え この石を「虎御前石」と命名した。 別名 虎御石。
クラモンザ湧水花園
虎御前石から林道まで引き返して、広くて緩やかな林道をその先へと進んでいきます。 左手に続く沢からは水音が聞こえるようになってきます。 4分ほど進んでいくと、左手へと曲がっていく角から幅の広い道が右へと分かれている所があります。 角にある手製の道標によると、右手の道は「行き止まり」とのことなので、 左手へと曲がっていく林道を道なりに降っていきます。 次第に沢の流れとの高さの差がなくなってきて、沢へ降りていける所もあったりします。 暑い夏場では火照った顔を洗ったりするのには良さそうでした。 林道に沿って流れているのは地蔵堂川というようです。 その先へと更に林道を緩やかに降っていくと、道の右手に小さな流れやススキの生えた所がありました。 虎御前入口から9分ほどの所になります。 脇に立つ解説板によると「クラモンザ湧水花園」というようです。
クラモンザ湧水花園
ふもとの竹之下より足柄峠越えに最古の東海道で稜線等ありますが この地蔵堂川沿いの戦ヶ入り道は縄文初期(約五千年前)の遺跡や平安時代の土師器(はじき)片も出土します。 この湧水が枯れることなく人命を育ててきました。 この度東海道400年祭を記念し往時の旅人達を偲びこの湧水地帯に花園として整備をはじめました。
 (東海道400年祭足柄竹之下宿場祭実行委員会)
古滝
湧水花園を過ぎて林道を更に進んでいくと、2分ほどで右手に道が分かれていきます。 足柄駅はどちらなのかを示す道標はありませんでしたが、 左手からくると正面に見える向きに「足柄峠」の標識が立っていて今歩いてきた道を指していたので、 ここは左手へと進んでいきました。 砂防ダムを流れ落ちる水音を聞きながら林道を緩やかに降っていくと、右手から細い沢が流れてきます。 沢に沿って道が続いていてその奥に滝が見えていたので、ちょっと立ち寄っていくことにしました。 小さな谷筋へと入っていくと、すぐに「古滝」と書かれた解説板が立っていました。 丸太の渡された沢を渡ってその先へ行くと、林道から1分ちょっとで古滝の真下に着きました。 規模は余り大きくはありませんが、垂直に切り立った崖から水が流れ落ちていました。 縄文のころからの滝なのだそうで、そう云われてみると何だか厳かな雰囲気が漂っていたりもします。
古滝
縄文初期(約五千年前)の遺跡と竹之下宿より熊野権現・滝の不動尊で参籠した後、 この古滝で禊をして金時山・聖天社・矢倉嶽で修験者達は修業したと言はれる。
治山事業施行地 小山町竹之下 古滝
静岡県は、豊かな森林の維持造成を通じ、山地に起因する災害から県民の生命・財産を守ることを目的とし、 治山工事を行っています。特に災害の発生の危険がある箇所については、山地災害危険地区に指定し、 重点的に治山事業を実施しています。 今後、山に異変が見られた時は、下記まで連絡されますようお願いいたします。
 (東部農林事務所、小山町役場)
銚子ヶ渕
古滝から林道へ戻ってその先へと進んでいきます。 金属製の網で補強された崖を過ぎていくと、古滝への分岐から4分ほどで、 左手を流れる地蔵堂川の河川敷が広がってきて、開けた感じの所に着きました。 川の中ほどへと向って歩いていける堤防のようなものが突き出ていたりします。 上流の方には岩肌を滑り落ちるような低い滝があり、その下は渕のようになっていました。 脇には「銚子ヶ渕」の標識が立っていて、解説板も設置されていました。 それによると、悲しい伝説が残っている渕のようでした。
銚子ヶ渕
昔花嫁が厳粛な祝言の最中に「おなら」をして大笑になった。 年若い初な嫁はこれを深く恥じて席にいたたまれず抜け出して、 銚子を抱いてこの渕に身を投げてしまった。 その後女の履いた草履が時々水の面に浮かぶので村人達は恐れ、 地蔵像を安置してねんごろに弔ったので、再び浮んでこなかったと云う。 この悲しい物語りを忘れるため、里人はこの池を縁結び「銚子ヶ渕」と名付け伝えたので、 良縁を望む多くの男女が池に願をかけ成就したと伝えられている。
銚子ヶ渕を過ぎて更に3分ほど進んでいくと、林道の右手に、 「不動之滝入口」と刻まれた石碑と「頼光対面の滝」の標柱や解説板が立っていました。 ここから谷筋へ少し入っていくと滝があるようなので、ちょっと往復してくることにしました。
金太郎ゆかりの地 頼光対面の滝
足柄峠から源頼光は赤い雲のたなびく峰を見つけ、 家来の渡辺綱にあの雲の下には偉人がいるに違いないとして、急いで見てくるように命じました。 渡辺綱は金太郎親子に頼光の意を告げ、この場所まで二人をともなってきました。 頼光は早速金太郎を家来の一人に加え、渡辺綱・碓井貞光・卜部季武の四人を頼光の四天王としました。 初めて金太郎が頼光に対面した場所の滝としてこの名がつきました。
不動之滝
小さな谷筋に続く山道を2分ほど登っていくと大きな滝がありました。 これが不動之滝のようです。 右手には「不動の滝信行道場」の表札が掲げられた建物もあったりして、信仰の場所にもなっているようでした。 先ほどの古滝に比べると規模が大きく水量も豊富でした。 垂直な岩壁から滝壺へと流れ落ちる水が心地よい音を響かせていました。 水の飛沫が周囲に満ちていて、滝壺の辺りはヒンヤリとした空気に包まれていました。 暑い夏場には心地よい涼を得られる天然のクーラーになりそうです。 この時には日差しもあったので、滝壺には小さいながら虹が架かっていて、何やら神秘的な雰囲気が漂っていました。
(左の写真にも下の方に虹が少し写っています)
戦ヶ入り
不動之滝から林道へ戻り、滝から流れてくる沢を渡っていくと、 すぐに左手を流れる地蔵堂川へと降りていける場所がありました。 幅の広い石段が川面へと降っていました。 川辺へ降りてみると、綺麗な水の流れがありました。 このすぐ先に「戦ヶ入り」の標柱が立っていて、その脇には解説板も設置されていました。 ここが後醍醐天皇軍と足利軍が最初に激突した場所なのだそうです。
竹之下の合戦伝説地「戦ヶ入り」
建武2年(1335)、竹之下に陣を敷く尊良親王をはじめ、二条為冬、脇屋義助らを将とする後醍醐天皇の軍七千、 これに対して足柄峠に陣する足利尊氏軍十八万。 両軍は12月11日早朝激突する。いわゆる「竹之下の合戦」である。 この合戦は、大友、塩谷といった将たちの寝返りにあい、足利軍の勝利に終るが、 後に足利氏が室町幕府を築く基礎となる戦いであった。 「太平記」の記すところである。 ここ「戦ヶ入り」は、戦いに入る、 つまり合戦で両軍が最初に激突した場所という意味で名付けられたと伝える所である。
嶽之下宮奥宮
「戦ヶ入り」の少し先に「馬蹄石」と書かれた標柱が立っていました。 解説板は見かけませんでしたが、源頼朝が駒を止めた所なのだそうで、 川辺の大石に馬の蹄の痕跡が三つ残っているのだそうです。 馬蹄石を過ぎていくと、林道は左手へと曲がって地蔵堂川を渡り、左岸を進むようになります。 右手の樹木に沿って進んでいくと、道が膨らんだ所があります。 そこに嶽之下宮奥宮があって、右手に戻るような向きに続いていました。 「奥宮」の扁額の架かる立派な木の鳥居をくぐっていくと、朱塗りの太鼓橋「縁結びの橋」があります。 橋には緑色の絨毯が敷かれていたりします。 そのまま歩いていってもいいのかと躊躇したりもしましたが、 野外にあることだしダメと書いた物も見当たらなかったのでそのまま橋を渡っていきました。 日本庭園のような感じの所になっていて建物も二棟ありました。 奥の鳥居の先には大黒様と恵比寿様と思われる石像と、注連縄が張られた大きな岩がありました。 その左下には地蔵堂川が流れていて、大きな岩は滝の上に位置しているようでした。 しぶきを上げながら水が勢いよく流れ落ちていました。 奥宮の謂れなどを記したものは見かけませんでした。
嶽之下宮奥宮を後にして左岸に続く林道をその先へと進んでいきます。 茶畑を過ぎていくと、再び地蔵堂川に架かる橋があります。 その手前には「林道戦返り線」と書かれた標識が倒れていました。 先ほどの伊勢宇橋の所からこの橋の手前までが「戦返り林道」ということなのでしょう。 橋を渡って地蔵堂川の右岸を進んでいきます。 少し進んだ所で右手に広めの道が分かれていきますが、そのまま正面へと進んでいきます。
砂防指定地 地蔵堂川
左図赤枠内の区域は砂防指定地です。 この中で作業(伐採・土石の採取・土地の掘削・盛土・その他)工事等をする時は知事の許可が必要です。 くわしくは市町村又は県土木事務所へ
 (静岡県、小山町)
土石流危険渓流
鮎沢川水系神田平沢
土石流が発生する恐れがありますので大雨の時などは十分注意して下さい。
 (静岡県、小山町)
植林帯を掠めていくと、先ほどの橋から1分ほどで民家が点在する畑地に出ます。 足柄峠からは雲に隠れていてよく見えなかった富士山ですが、 ここまで降りてくると、正面にその姿を見せてくれました。 もう少し遅い時刻に登っていれば綺麗な姿が望めただろうにと残念に思ったりもしました。 正面に富士山を眺めながら、傾斜の増した舗装された坂道を降っていきます。
坂道を降っていくと、左手へ曲がっていく角に道標が立っています。 それによると、左手へと降っていく道は「足柄駅6分」、 今降ってきた道は「金時山170分、足柄峠80分」となっていました。 その辺りから次第に民家が増えてきます。 地蔵堂川に架かる神田橋を渡って、その先の集落に続く緩やかな道を進んでいくと、 少しずれた感じの十字路があります。 その角には石仏が佇んでいました。 脇には金太郎の人形が設置された道標も立っていて、 正面の道は「足柄駅1分」、左手の道は「金時山180分、足柄峠90分」、 今歩いてきた道は「金時山180分、足柄峠90分」となっていました。 左手の道は伊勢宇橋の所からそのまま車道を降ってきた道に続いているようでした。 別の標識もあって、右手の道は「この先行き止まり」,「嶽之下宮」となっていました。 足柄駅はこの正面のすぐ先にあるようですが、まだ陽も高かったので嶽之下宮を訪ねてみました。
嶽之下宮
十字路を右折して小さな橋を渡った先にあるT字路を右折して坂を登っていくと、 十字路から2分半ほどの所に嶽之下宮がありました。 名前からすると、先ほどあった嶽之下宮奥宮の本宮になるようです。 境内には千木のある今風の大きな社と八角形の帝釈殿がありました。
たいしゃく様の由来
この辺を村人は「たいしゃく様の森」と称した。 帝釈天はインドにおける宇宙の根源神で天御中主神に比肩される。 最も尊い神を奉斎した聖地に村人が誤って足を踏み入れ、 不敬不浄行為をなしたる時の障りを祟りと猥れ、下総の八幡知らずの森と同一視したことは、 かつて静岡県駿東郡誌に竹の下八幡知らずの森として記録されたところである。 この地は南北朝時代の「箱根竹の下の合戦」の古戦場でもあるが、 地名の竹の下字狛畑は上古渡来民族の高麗・秦一族の東国移植の歴史を物語るものである。
 (嶽之下宮 宮司)
足柄(あしがら)駅 (標高331m)
嶽之下宮から十字路まで引き返して足柄駅へと向っていきます。 すぐにある竹の下踏切を渡った左手に足柄駅(JR御殿場線)があります。 寄り道なども含めて、足柄城址から2時間30分ほどで降りて来られました。 足柄峠にあった道標では70分となっていましたが、 寄り道をしていたこともあって予想外に長い時間がかかりました。 国府津や沼津まで、1時間に1本から2本程度の便があります。 駅舎の前には、大きな「足柄地区観光案内図」があって、足柄峠から降ってきた道も記されていました。 また金太郎の像や足柄駅の歴史に関する解説板もありました。
足柄駅
明治22年(1889)2月1日、東海道線開通と駿河駅が開設される。 後に駿河小山駅に改称される。 昭和5年(1930)10月1日、特急富士・さくら運行開始。 後部に展望車を連結し、国際列車ともいわれた。 昭和9年(1934)丹那トンネル開通により御殿場線となる。 第二次世界大戦中に鉄不足と緊急輸送力増強地区に振り向ける為複線レールを取りはずし、 昭和18年11月10日単線となる。 汽車が通っていても、乗るには徒歩で御殿場駅に1.5時間、駿河小山駅には1時間もかかった。 駅のない悲劇を味わっていた足柄村民の願いが天に通じ、 遂に昭和22年(1947)9月15日、職員3名の「足柄駅」が誕生しました。 建設費は858千円、村民等協力人員は延べ19,000人の請願駅であった。 昭和31年(1956)ディーゼル化、昭和43年(1968)に電化、 昭和45年鉄道弘済会売店閉鎖、平成元年(1989)には、自動列車制御化により、 職員1名による御殿場駅の枝管理となった。 平成9年(1997)からは駅員無配駅となってしまった。 しかし翌年、町当局の協力により、駅前ロータリーやトイレ等も整備され、 足柄峠や金時山の金太郎富士見ライン、ウォーキングルートの発着点として脚光を浴びており、、 又平面交叉のバリアフリー駅として老人や身障者の人達には大変喜ばれています。