江の島
散策:2007年02月中旬
【海辺散策】 江の島
概 要 江の島は、湘南海岸に浮かぶ島です。 島内には、神奈川県および藤沢市指定の多くの文化財が遺され、 島先端の浸食海礁や自然美を加えて、全島が史跡・名勝に指定され、 四季を通じ参詣や行楽の人々が来遊している所です。 今回はヨットハーバーから神社などを訪ねながら岩屋へと向かっていきます。
起 点 藤沢市 湘南江の島駅
終 点 藤沢市 片瀬江ノ島駅
ルート 湘南江の島駅…江の島ヨットハーバー…聖天島公園…児玉神社…辺津宮…みどりの広場…中津宮…山ふたつ…奥津宮…龍宮…龍野ヶ岡自然の森…稚児が淵…岩屋…乗合船〜船着場…片瀬江ノ島駅
所要時間 3時間50分
歩いて... 島の東側と西側には岩畳の磯が広がっていて、海と間近に触れ合える所になっています。 頂上にある展望灯台からは360度の素晴らしい景色が広がっています。 一番奥にある岩屋は江の島の歴史などを知るのにはいい所で、是非訪ねてみたい所です。 お食事処や物産店も沢山あって、美味しい海産物にも出会えます。
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コース紹介
湘南江の島(しょうなんえのしま)駅
湘南江の島駅(湘南モノレール)から歩いていきます。
駅を出て南側のすぐの所に江ノ島駅入口交差点があります。 交差点を渡った先にある踏切を渡って江ノ島駅(江ノ島電鉄)の前を過ぎて 湘南すばな通りを南へと真っ直ぐに進んでいきます。
江の島へと続く通りを進んでいくと、江の島弁財天道標があります。
江の島弁財天道標
この道標は、管を用いた鍼治療をする管鍼術の考案者で江の島弁財天を厚く信仰したと言われる 杉山検校(1610?〜1694)が、江島神社に参詣する人々の道しるべに寄進したものと伝えられ、 現在市内にある10余基が市指定重要文化財に指定されている。 いずれも尖成岩製。ほぼ同じ大きさの尖頭角柱型であり、 多くが前面に「ゑのしま道」(上部の梵字は弁財天の種子「ソ」を著す)、横面に、「一切衆生」と 「二世安楽」と刻んであり、道中する一切衆生(=世の中に生きている全てのもの)の 現世及び来世の安楽を祈念した造立者の温情が偲ばれる。 この道標は平成10年1月、ここより170m南の州鼻通りの地下から、道路工事中発見されたものである。
 (藤沢市教育委員会)
国道134号に出ると、目の前に江の島が見えてきます。 地下道をくぐってその先へ出ると、 左手には腰越海水浴場・片瀬東浜海水浴場が広がり、右手には岩屋洞窟までの乗合船の船着場があります。 今回は乗合船には帰りに乗ることにして、先ずは正面に続く江の島弁天橋を通って江の島まで歩いていきます。
江の島の由来
江の島はまたの名を「絵の島」ともいわれ、昔から風光明媚と自然環境に恵まれた周囲約5km、面積0.38kuの島です。 島の頂上(海抜60.4m)からは、前面に伊豆大島、左手には三浦半島、右手には天城、箱根の連山、秀峰富士の 眺望を欲しいままにすることができます。 地質上第三紀凝灰質砂岩からなる島で、このため海浸洞窟や岩嘴が多く、奇異な形をなして、 古くからその名勝をうたわれています。 島の中央には、江島神社があり、弁財天が祀られて、安芸(広島県)の厳島、近江(滋賀県)の竹生島と並んで、 日本三大弁財天のひとつにあげられ、特に江戸時代から平和を招く神、福の神、音楽技芸の神として 善男善女の信仰を集めてきました。 このため島内には、神奈川県および藤沢市指定の多くの文化財が遺され、島先端の浸食海礁や自然美を加えて、 全島が史跡・名勝に指定され、四季を通じ参詣や行楽の人々が来遊しています。
江の島弁天橋の由来
江の島に最初に橋が架かったのは、明治24年(1891)のことであります。 片瀬川河口の砂州の先端と江の島を結ぶ簡単な木橋のため、暴風雨に洗われ幾度となく流失を 繰り返していました。 明治30年(1897)には現在橋が架かっている州鼻の入口から江の島までの橋が完成し、 渡り賃は1銭5厘の有料橋でした。 昭和24年(1949)には延労力25,000人を費やし、橋脚を鉄筋コンクリート、上部を木造に改築し、 渡り賃を大人5円、子供3円徴収したが、多いときは一日30,000人にものぼる通行量のため、 敷板の傷みが激しく、維持管理に多額の費用を必要としました。 橋の名前はこの時一般から公募し、「江の島弁天橋」と決まりました。 その後、昭和33年(1959)に全長389メートル、幅4メートルのコンクリートの永久橋を架橋し、 この近代的な橋が完成しました。 昭和39年(1964)には東京オリンピックが開催され、江の島がヨット会場となり、 それを機に、自動車専用橋が並行して架橋され、江の島弁天橋は人道橋となり、 渡し賃はこの年に廃止されました。
江の島ヨットハーバー
江の島弁天橋を渡り終えると、正面には青銅の大きな鳥居が立っています。 江島神社への参道はその鳥居をくぐっていくのですが、 今回は左手にある江の島ヨットハーバーなどを訪ねてから神社へと向かいます。 左へと曲がっていく車道を道なりに進んでいくと、程なくしてヨットハーバーがあります。 港や陸の上には沢山のヨットが並んでいました。 脇にあった掲示板によると、毎月のようにクルーザーレースが催されているようです。 昭和39年の東京オリンピックでヨットレースの会場になったのを記念する碑もあります。
センタープロムナード
江の島ヨットハーバーの脇にはセンタープロムナードが続いています。 中央部には樹木が植えられていて、その中に細い散策路が続いています。 ベンチやテント屋根なども各所にあって、憩いの場になっています。
センタープロムナード利用について
このセンタープロムナードはみんなの大切な財産です。 だれもが気持ちよく楽しく利用できるよう、つぎのことを守りましょう。
1.センタープロムナード区域以外への立ち入りは出来ません。
2.オートバイ・自転車の乗り入れは出来ません。
3.スケートボード・ローラーブレード等の使用は出来ません。
4.釣りは出来ません。
5.ゴミ類は持ち帰ってください。
サザエ島
センタープロムナードの中を進んで先まで行くと、正面には階段ピラミッドのようなサザエ島があります。 上に登ると、江の島ヨットハーバーや湘南海岸までの海を一望することができる眺めのいい所です。 上面にはライトが真上を向けて埋め込まれています。 その上部に円錐形の反射板があって、光が四方へ届くようになっているようでした。
壁面には「ハーモニー」と題した大きな絵が掲げられています。 海にイルカが飛び跳ね、沖の方では鯨が頭を出し、向こうに連なる山々の奥には富士山が聳えています。 その奥には大きな天体がその頭を覗かせています。 江の島から相模湾や伊豆半島・箱根連山・富士山などを眺めた景色をイメージした絵なのでしょうか。 太古の時代なのか、それとも未来の光景なのか、何だかとても幻想的な絵でした。
「ハーモニー」
この壁画はルミライトカラーで描かれており、夕日が沈みブラックライトが点灯すると、 幻想的で色鮮やかな異空間が浮かびあがります。
聖天島公園
サザエ島からセンタープロムナードを引き返して車道まで戻ってくると、正面に聖天島公園があります。 その右手には聖天島と呼ばれる海蝕された岩がありました。 以前は島だったのですが、昭和39年の東京オリンピックの時に埋め立てられて陸続きになったようです。 その昔には神聖な場所だったようで、公園には小振りながらも祠が建っています。
聖天島
もとは海に浮かぶ二つの岩からなる島でしたが、 昭和39年東京オリンピックのヨット競技場をつくるために海が埋め立てられ、現在のような陸続きとなりました。 聖天島の名称は、二つの岩の形が仏教守護神の一つである「歓喜天(かんきてん)」の姿に似ていることから名付けられました。 言い伝えでは建仁2年(1203)、僧良真が一千日の修行満願の夜、天女が現れたと伝えられています。 また、昔は八坂神社祭典の際、神輿を担ぐ者全員この場所で禊ぎをし、 新しい下帯をして神社に向かったという神聖な場所でした。 今も残る社の中には、、良真上人像が安置されています。
 (藤沢市観光課)
磯浜
聖天島公園からかながわ女性センターの裏手を通って堤防を越えていくと、 海蝕されて岩畳になった磯が続いています。 島の南側を経て岩屋まで続いている訳ではなくて、少し先で行き止まりになっています。 寒い季節ですが、海釣りを楽しむ人たちを多く見かけました。 波打ち際へ近づくと磯独特の香りが漂ってきて、磯浜に潜って貝採りをした子供の頃を思い出したりします。 沖を行く船や打ち寄せる波などを眺めながら、しばらく物思いに耽っていました。
立入禁止
この先の岩場は落石の恐れがあります。 荒天時には高波もあり立ち入ると危険です。
 (神奈川県藤沢土木事務所)
魚貝・海草類 採取禁止
共同漁業権が設定され、漁業者が生活の糧としています。 以下の行為をする者は違反者として処罰されます。
・この付近の磯で水中眼鏡をかけて、
・イソガイネやヤス・水中銃・アクアラング等を使用して、
・魚介、海草類を採る事。
 (神奈川県、湘南海上保安署、藤沢警察署、江の島片瀬漁業協同組合)
磯浜から聖天島公園まで引き返して裏通りを進んでいくと、参道入口にある青銅の鳥居の所に出ます。 そこから物産店やお食事処などが立ち並ぶ参道を緩やかに登っていくと、 「江島神社」と刻まれた大きな石柱が立っています。 その先の正面の階段の上には大きな赤い鳥居があり、その上には瑞心門があります。 今回は鳥居の前を左手へと進み、エスカー乗り場の左手から続く石段を登っていきました。
江島神社
当神社は三宮から成り、奥津宮に多紀理毘売命、中津宮に市寸島比売命、辺津宮に田寸津比売命を お祀りする。社伝の「江島縁起」等は欽明天皇13年(552)の創建と伝える。 「吾妻鏡」には寿永元年(1182)源頼朝は祈願のため文覚上人をしてお岩屋に弁財天を勧請、 江島明神と称えて参詣し、幕府の祈願所とした。 以降、朝武の信仰を集めたが、江戸時代に至り、庶民の間に信仰が広がり、江島詣が盛んとなり、 江島寺、金亀山与願寺とも称し、岩本院上之坊、下之坊があった。 徳川家康はお岩屋に詣で、社領を寄進している。明治初年の神仏分離により江島神社と号した。 当社は江島弁財天として天下に名高く、日本三大弁財天の一つであり、財宝招福、学芸上達、 夫婦和合、交通安全等の神として広く信仰されている。弁財天御尊像は辺津宮境内奉安殿にお祀りしてある。
児玉神社
石段を少し登った左手に大きな鳥居が立っています。 脇には「←児玉神社」と書かれた看板があって、その鳥居の先を指しています。 辺津宮へは右手の石段を登っていくのですが、その前に児玉神社へ立ち寄っていきました。 鳥居をくぐって緩やかな坂道を進んでいくと、鳥居を二つくぐった先の小高い所に社殿がありました。 明治時代の陸軍の中枢として、また政堂の柱石として活躍された児玉源太郎氏を祭神とする神社とのことです。 近年の個人を祭る神社にしては大きな社殿でした。それだけ偉大な方だったということなのでしょう。
勝運の神 児玉神社
御祭神 児玉源太郎命
御神験 勝運授福
鎮座地 神奈川県藤沢市江ノ島1-4-3
例大祭 七月二十四日
児玉神社創建の由来
御祭神児玉源太郎命は生前、明治陸軍の中枢として、 また政堂の柱石として、縦横の働きをされた偉人であります。 陸軍大臣・陸軍大学校長・文部大臣・内務大臣・台湾総督等の要職を歴任され、 将来の宰相たるべき人物と、あまねく期待されておりました。 一方、教育文化方面にも多く寄与され、成城学校第七代校長など、 前途有為な青少年の育成に尽力されたことも、特筆せらるることであります。 明治36年、折しも日露の関係が急を告げ、もはや戦い避け得ずとの事態に、 児玉中将(後、大将)内務大臣は、国家のために一身を捧げる決意のもと、 内務大臣を辞し、自ら降格して、大本営参謀次長に就任。 対露作戦の索定に全力を傾注されたのでした。 いざ開戦となっては、満州軍総参謀長と印綬を帯びて出陣。 見事、祖国防衛の主導的役割を果たされたのであります。 ことに、難攻不落の旅順要塞に対しては、将軍が直接に指揮を取り、これを陥落せしめ、 その後の戦いに決定的な橋頭堡と築いたことは、「二〇三高地」の名とともに、広く知られる所であります。 しかし、惜しむ楽は、救国の英雄と称される将軍が、日露戦争で全てを燃焼されたかのごとくに、 明治39年7月23日、55歳にして急逝されたことであります。 将軍没後、三回忌を期して、将軍の親友であった杉山茂丸氏が、向島の私邸内に、 将軍の霊を祀る社を建立されたのが、児玉神社そもそもの始まりであります。 その後、経緯あって、向島から江ノ島の現在地に遷座いたしたのでありますが、 ここはかつて児玉将軍がその風光を愛して、度々訪れたゆかりの地でありました。 向島時代とあわせ、およそ10年の月日の間に、将軍の遺徳を慕う人々の輪は広がり、 自然、児玉神社の公認神社への昇格を望む声が高まってまいりました。 そして、大正7年、崇敬者各位による公認神社への昇格の請願は、内務大臣に受理されるに至ったのであります。 次には、公認神社(社格は県社)に相応しい社殿の新営が、後藤新平氏を中心とする崇敬者間で提唱され、 それを実現すべく、各界に向け、大いに運動されたのであります。 大正10年7月、主要社殿の落成をみて、その御尽力は結実し、 同月24日、新営社殿による例大祭が厳かに斎行されたのでありました。 なお、社殿の用材には、将軍が9年間、総督として治政に当った思い出の地、台湾の桧が用いられております。 設計には、当時の寺社建築の第一人者、伊藤忠太工学博士があたり、 当社社殿は現在でも、近代神社建築の模範と称せられております。 また、一対の狛犬像は、台湾の名工の手にかかるもので、鑑賞に価する逸品であります。 大正から昭和へと、時を重ね来て、戦後の混乱期には、社殿境内が荒廃の極みに達するなど、苦難の期間もありましたが、 幸い、崇敬者各位の御尽力により、徐々に復興の実を結び、今また新たなる時代へ向けて、歩みを続けております。
御神徳と勝運白だるま
児玉大将の御神徳は、知恵・勇気・勝利であります。 「勝運白だるま」は、このような御祭神の御神徳をあまねく世の人々が受けられますよう、 特に当社宮司・山本白鳥が自らの神感によって筆を取り、意匠をほどこしたものであります。 純白のだるまの頭上には、十二葉の月桂樹の冠を戴いておりますが、 これは当社拝殿前の左右一対の御神木の神気を受けたことを表わし、勝利の象徴でもあります。 また、両眼の開顕は、神の息吹が込められた証であります。 当社独自の授与品「勝運白だるま」を通じて、一人でも多くの方が、 御祭神の御神徳をいただかれますよう、祈念いたします。
辺津宮
児玉神社から引き返して石段を登っていくと、 右手にある鳥居をくぐっていった先に江島神社の辺津宮があります。 江島神社は、辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮から成っていますが、 入口から一番近いということもあるのか、この時には辺津宮が一番賑わっていました。 きちんと調べた訳ではありませんが、社殿も一番大きいように感じました。 脇には社務所もあるし、江島神社の中心的な位置付けなのでしょうか。
辺津宮(へつみや)
御祭神 田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
江島神社は欽明天皇の御代(6世紀)島の南端のお岩屋にお祀りされたのが起源で、 文徳天皇の御代(835)に中津宮が、土御門天皇の御代(1206)にこの辺津宮が源実朝公により創建された。 現在の社殿は昭和51年の再建である。 後宇多天皇の蒙古撃退御礼の勅願、源頼朝公の為居寄進、徳川家康公の参詣等、朝廷幕府の信仰が隆盛を極め、 江の島弁才天とも称えられ、江の島詣が盛んとなった。 更には江戸人の要望に応えて度々の出開帳も行われた。 すぐれた風光は浮世絵の画題となり、多くの名作を今に残し、和歌・俳諧・川柳・紀行文等にも大いにうたわれている。 現在、四季を通じて多数の参詣者があり、佐藤栄作元総理大臣も大衛立を奉納される等、信仰は全国に及んでいる。
弁財天黄金浄水
辺津宮の境内には、弁財天黄金浄水があります。 お金を洗うと御利益があるのだそうで、そのための竹製の笊が幾つも用意されていました。
弁財天黄金浄水
弁財天の神使 白龍王は、高さ3m、相模彫 鏡碩吉氏の苦心の作で、 水源には徳力製の純金の小判が秘められております。 むかしから黄金の水は、
 一、健康によい
 一、運が開ける
 一、声がよくなる
 一、美しくなる
と称せられています。 日本三大弁財天の一つであり、関東における最も信仰の篤い江島弁財天の神使である白龍王です。 御玉よりほとばしる霊水を頂戴し、ご利益をうけられるようお祈りしましょう。
龍神と銭洗い
往昔より龍は雲、雨、嵐などをひき起す威大なものの象徴とされ、 我国では龍神の信仰が、山と湖、海や河川、沼を背景に発生し、 水の神と尊崇されてきました。 また、インド神話で河川(水)の神と崇められている弁財天は白龍(白蛇)との関係が深く、 頭にかぶる天冠にも蛇を頂いております。 只今も巳の年、巳の日にはご利益を願うたくさんの参拝者が当神社を訪れます。 当江の島弁財天は日本三大弁財天(厳島、竹生島)の一つで、近年まで岩屋洞窟に祀られ、 その御霊水で金銭を洗うと、金運向上・財宝福徳の御利益があると伝えられてきました。 現在は、ここの白龍池にお移し致しました。銭洗いは本来我身我心の不浄の念を洗い清めるもので、 それにより神の御守護をいただき、福徳がもたらされると言われております。
奉安殿
辺津宮のそばにある奉安殿には、 日本三大弁財天の一つに数えられる八臂弁財天と妙音弁財天の尊像が奉安されています。
八坂神社
奉安殿のそばには八坂神社もありました。 「神奈川の祭り50選」にも選ばれている祭りで有名なのだそうです。
八坂神社
御祭神 健早須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
御祭礼 江の島天王祭と言われ、毎年7月中旬に斎行される。 当日は島人列をなして天王囃子を始め、 能神・通り・松・神・龍神・唐人・新通り獅子が古風な囃子を奏でるなか、 故事により神輿は江の島大橋際より真裸体の若人達にかつがれ海に入り、 浮きつ沈みつし、陸・船上では夫々の囃子を奏でしあと、 夫婦神である対岸に鎮座される腰越・小動神社へと神幸し、 一年一度会いに行く湘南地方の夏の風物詩として華麗を極める勇壮な祭で、 「神奈川の祭り50選」にも選ばれている。
現在の社殿は江島神社御鎮座1450年記念事業の一環として、平成14年に御改築された。
みどりの広場
辺津宮から引き返して「猿田彦大神」の石碑を過ぎてその先へ進んでいくと、すぐにみどりの広場があります。 この時には花壇にパンジーが沢山植えられていて、黄・紫・青などの花を綺麗に咲かせていました。 広場にある展望デッキからは、江の島ヨットハーバーや海や対岸を一望できる景色が広がっていました。
中津宮
二段目のエスカー乗り場を過ぎて右手の石段を登っていくと江島神社の中津宮があります。 境内には、平成11年に催された「江の島大歌舞伎」に因んで植樹された 「梅幸のしだれ桜」,「菊之助のしだれ桜」,「菊五郎のしだれ桜」や、役者の手形などがあります。
中津宮(なかつみや)
御祭神 市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)(天照大神の御子神)
仁壽3年(853)島の東山の頂きに宮居を建つとあり、これが上之宮(現中津宮)の起りで、 天文18年(1549)には北条氏綱の寄進により修復が加えられ、元禄2年(1675)に再建されました。 昭和55年、御屋根の葺替が成され、300年余りの歳月から、御社殿の土台腐朽、彫刻の破損等甚しき為、 平成8年から御改修が進められ、基礎補修、彫刻の復元をはじめとして、幣殿拝殿の格天井には 四季折々の花鳥画を施こし、一層典雅な趣をもって極彩色の御社殿が甦えりました。 境内には江戸時代に寄進された中村座、市村座の石灯籠、狛犬、手水鉢等、当時の江の島信仰の 深さを眼前に見ることが出来ます。
(元禄2年の「1675年」は1689年の誤記かと思われますが、そのまま載せておきます)
謡曲「江島」と弁財天
謡曲「江島」は、弁財天影向の縁起を説いた曲である。 欽明天皇の13年、相模国江野の海上に島が湧き出て、福徳円満の願いをかなえる弁財天が 影向せられたというので勅使が下向する。 折から現われた老漁夫は勅使の尋ねに応じて詳しく島の成立を語り、 その功徳を讃歎した後、自分はこの島の鎮守である弁財天の夫神の五頭龍王、即ち龍口明神である といって消え失せる。 やがて弁財天が15童子を伴って出現、勅使に如意宝珠を捧げると、五頭龍王も現われ出で、 国土の守護を誓いつつ上天したのであった。 弁財天は白蛇を飾る宝冠の戴き、一蓮葉に乗って、右手に剣、左手に宝珠を捧げて、 延命長寿、怨敵退散、財宝満足の利益を施すという。
 (謡曲史跡保存会)
三段目のエスカー乗り場を過ぎて石段を更に登っていくと江の島の頂上に着きます。 頂上はとても広くなっていて、 サムエル・コッキング苑江の島大師亀ヶ岡広場や売店などがあります。 脇には江の島全体を図示した大きな案内図もあるので参考にしましょう。 サムエル・コッキング苑には、ウィンザー広場、マイアミビーチ広場、昆明広場、 保寧広場、松本広場、芝生広場、郷土資料館、江の島展望塔、植物園などがあります。 特に展望灯台の屋上からの眺めは最高です。 エレベータで上までいって更に階段で屋上階へ登ると、何も遮るものがない360度の大パノラマが広がっています。 今回は省略しましたが、時間があれば是非訪ねてみましょう。
江の島サムエル・コッキング苑 江の島展望灯台
江の島サムエル・コッキング苑という施設名は、 この地に最初に庭園を造ったイギリスの貿易商サムエル・コッキングに由来します。 コッキングは1842年にアイルランドに生まれ、1869年(明治2)日本にやってきました。 横浜で貿易商として成功し、1883年(明治15)から数年をかけて江の島の頂上に和洋折衷の大庭園を築造しました。 庭園の総面積は1万平方メートルを超え、園路、石垣、築山、池、花壇のほか、広さ660平方メートルもの温室が 造られました。この温室は、当時日本一の広さで、温室の中はもちろん庭園内には熱帯・亜熱帯の植物が生い茂り、 さながら南国のたたずまいを現出していたと言われます。いまでも苑内には当時を偲ばせるシマナンヨウスギ、 クックアロウカリア、タイミンチクなどが残っています。 コッキングの造った庭園は、時代の変遷、とりわけ関東大震災の災禍などによって荒廃し、温室も昭和24年の 整備時に地中に埋められてしまいましたが、このたびの再整備にあたって掘り起こし、歴史上貴重な温室遺構を 観覧いただけるようになりました。 苑内には様々な南洋植物や四季折々の草花が植えられていて、訪れる人の目を楽しませます。 そして12月から4月にかけては数多くの椿が見事に花開きます。 また、藤沢市と姉妹友好都市を結ぶ広場には、四阿(中国・昆明市)、 海鼠壁の松本館(松本市)などが設えられています。
江の島大師 最福寺別院
江の島大師では、毎朝8時より約2時間ほど護摩行を修行しています。 護摩行ではその日お参りされた方々皆さんの氏神さま(その方のご先祖さまが代々お祀りされてきた神様)・ ご先祖さまの供養をさせて頂いております。どうぞ本堂にお入りになり、手を合わせて、あなたさまの 氏神さま・ご先祖さまの日頃の御加護に感謝の祈りをお捧げ下さい。 お不動さまと共にあなたさまの氏神さま・ご先祖さまが喜ばれ、あなたとご家族を光の世界に導かれることでしょう。 また、ご希望の方には、随時、半や心経をお唱えし、あなたとご家族の健康と末永い繁栄をお祈りし、 お不動さまのご真言をお唱えしつつ、お加持をさせて頂きます。受付へお気軽にお声をお掛け下さい。 どうぞお不動さまのお力を江の島参りのお土産にお持ち帰り下さい。
山ふたつ
サムエル・コッキング苑を後にして、物産店やお食事処が立ち並ぶ道を先へと進んでいくと、 山が二つに割れて眼下の海が見える山ふたつと呼ばれる所があります。 ここで江の島が二分されているのだそうです。
山ふたつ
江の島をちょうど二分する境となっていることから、俗に「山ふたつ」と言われています。 奥津宮のある西側は、昔から全く地震を感じなかったことから「地震知らずの山」とも呼ばれ、 岩屋に属する部分は全体が一つの巨岩から成り立っているからだろうと言われていましたが、 関東大震災には奥津宮の本殿は倒壊一歩手前まで揺り動かされたそうです。 南側の暗礁に砕け散る激しい波を見下ろす絶壁の頂きには、潮風に吹きさらされる老松が佇むのが見えます。
 (藤沢市観光課)
奥津宮
「頼朝寄進の鳥居」を過ぎていくと江島神社の奥津宮があります。 拝殿の先の少し離れた奥に本殿があります。
奥津宮(おくつみや)
御祭神 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)
辺津宮の田寸津比売命、中津宮の市寸島比売命、当宮の多紀理毘売命の三女神は、 世に江島大神と称えられる。江島神社の草創は、島の南端のお岩屋であったが、 度々の大波を避ける為、この地にお社が創建され、当神社の本宮御旅所とも称された。 役小角(奈良時代)、弘法(平安時代)、日蓮(鎌倉時代)の高僧が参籠・祈願をこめて 御神威を戴き、源頼朝公は、奥州の藤原氏征伐祈願の為、鳥居(拝殿前)を寄進された。 現社殿は、天保13年(1842)の御造営で、拝殿天井の八方睨みの亀(酒井抱一画)は名高い。 当境内には、岩屋洞窟を模した竜宮がお祀りされている。
八方睨みの亀
奥津宮の拝殿の両側には大きな杓文字があって、 「神明霊瑞」と書かれた竜の絵と、「天壌無窮」と書かれた弁財天の絵が描かれています。 天井を見上げると、八方睨みの亀と云う大きな亀の絵が描いてあります。 どこから見ても睨まれているように見えるということなのでしょうか。
八方睨みの亀
亀は古来めでたく、蓬莱山を背負い不老長寿の象徴とされています。 奥津宮御祭神のお使いとして、皆様の祈願成就を見守ります。
原画 享和3年 酒井抱一筆
模写画 大正15年 野澤提翠筆
復元画 平成6年 片岡華陽筆
 (江島神社)
八方睨みの亀の絵
江戸時代、享和3年(1803)画家・酒井抱一が描いた「正面向亀図」です。 正面向きの亀を桐材に金箔を押し、力強い線で描かれ、もとは胡粉緑青、丹色で彩色されていたのですが、 現在は亀の甲に三カ所に緑青が残り、また唇及び目の周辺に丹色がわずかに残っているだけです。 原絵は海風の浸害からまもるために、江島神社の宝殿に納められています。 いま奥津宮にかかげられているのは大正15年4月、東大史料編纂室長の浦永峯光氏が、 酒井抱一の末流野沢提翠画家に模写されたものです。 酒井抱一(1772〜1840)は江戸時代の加賀でもあります。 その画技は特にすぐれ、尾形光淋派の総師としても広く知られていました。 酒井抱一がなぜここに亀絵を奉納したのかはわかりませんが、 この絵が因縁となって、いま奥津宮の広場は亀寿の祝意が充満しています。
 (藤沢市教育委員会、藤沢市観光課)
龍宮
奥津宮の左手には竜宮があります。
龍宮(わだつみのみや)
御祭神 龍宮大神(わだつみのおおかみ)
江の島は、湧出以来、龍の棲む所となり、古来龍神様の御信仰は弁財天信仰と習合せられ、 共に密接な結び付きから、江島縁起をはじめ、多くの伝説が残されております。 一例を挙げますと、「太平記」に、大蛇が現われ三つの鱗を落せり。時政祈願成就したと喜び、 その鱗を旗の紋に押したる。・・・これが江島神社御社紋の起りであります。 北条貞時は霊夢を蒙り、龍池に赴くと金銅の龍頭を見たと。 「足利治乱記」には、海に夜毎光ありて、白龍長さ廿丈許なるが海中より出で、絵島石穴に飛入る。諸人多見之と。 更に謡曲「江ノ島」には、天女が龍神と姿を現じて、七難即滅・七福即生:悪事災難を払ひて、 所願成就を宣ふ。御声もあらたに聞こえとあります。 然るに、この御神秘なる趣意を鑑み、御崇敬各位様の御篤志に依りまして、御宮の御造営と相成りました
龍宮祝祷
天地の開けし御世は平成の天の戸明けゆく東天紅蒼海漫々と立ち渡り舞う老の波音こそ潮の満干なれ 今ぞ時なる重陽に龍神の吟ずる声ありて波浪を蹴たてて逆巻く潮の迫るとともに 龍神海上翔け昇り五色の綵雲煌々普くにその雲上に顕ずなり 願事叶ふ如意宝珠三光を発し島上の竜宮に天降り給ひぬ 衆生済度の方便生死の相助けんと… 御神慮幽くにありて嗚かたじけなきかな
龍野ヶ岡自然の森
龍宮を過ぎていくと、すぐに龍野ヶ岡自然の森への入口があります。 脇には大きな「江の島龍野ヶ岡自然の森」と題した案内板があるので参考にしましょう。 森には、展望台、龍恋の鐘、東屋、曽荒禰助子爵の石碑などがあります。 東屋を右手に見ながら幅の広い横木の緩やかな階段を登っていくと、樹木が切り開かれた小広い所に出ます。 南側には木組みの展望台があります。 手前の樹木に少し邪魔されながらも相模湾を見渡すことができます。
敷地の下には「岩屋の洞窟」と呼ばれる海食洞窟があり、 洞窟中に龍が住んでいたという伝承があることから、 その上にあたるこの丘を「龍野ヶ岡」と言うようになったのではないかとも思われます。
龍恋の鐘
小広い所で道が二手に分かれています。 右手の道の先には龍恋の鐘、左手の道の先には曽荒禰助子爵の石碑があります。 鐘の周りの柵には鍵がびっしりと取り付けらていました。 余りにも多くて鍵の重みに耐え切れずに倒壊の危険があるので、定期的に撤去されているようです。 鐘の両側には{番号・日付・二人の氏名}がびっしりと書き込まれています。 実際に鐘を鳴らすことが出来るようになっていて、この時にも何組かのカップルが鳴らしていました。 12月に行われる「江の島展望灯台ライトアップ」では、この場所もライトアップされるようです。
天女と五頭龍(江の島生まれの伝説)
昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に、五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていました。 子供をいけにえに取られることから、この地を子死越と呼んで恐れられていました。 ある時、子死越前方の海上に密雲が何日にもわたって垂れ込めましたが、 天地が激しく揺れ動いた後、天女が現われ、雲が晴れると、今まで何も無かった海上に、 一つの島ができていました。 これが現在の江の島とか。 天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むのですが、悪行が止むまではと断られてしまいました。 その後、心を改め結婚することができたと言われています。 この伝説の天女が、江の島に祀られている弁財天といわれ、 五頭龍が龍口明神社として鎌倉市腰越に祀られている。
この鐘は社団法人藤沢観光協会の設立記念事業として、天女と五頭龍の伝説にちなみ設置したものです。 また、両サイドの銘板は、二人の記念日・名前を刻み、 二人の永遠の愛を祈念する趣旨に賛同いただいた方々です。
曽荒禰助子爵の石碑
日露戦争時の大蔵だ人等、明治政府の要職を務めた曽荒禰助子爵(1849〜1910)の功績をたたえた石碑が 明治44年(1911)に、首相にもなった同郷人でもある桂太郎(1847〜1913)の資金援助で建立されました。 彼はフランス留学塔の経験から、海外と日本との関係を常に考えていたことから、 その遺志を尊重すべく、遠く海外を望める太平洋が見えるこの地が選ばれたようです。
稚児が淵
龍野ヶ岡自然の森から龍宮の所まで引き返して、その先へと進んでいきます。 すぐに急な石段を降るようになります。 物産店やお食事処などが続く石段を降っていくと、眼前に海が広がってきます。 ここが「なかがわ景勝50選」にも選ばれている稚児が淵です。 下の方には海蝕で出来た岩畳がかなりの広さで続いています。
稚児が淵は島の両端に位置し、大正12年の関東大震災で1mほど隆起した海蝕合地です。 この名勝の由来は、建長寺の修行僧自休が、江の島へ百ヶ日参詣の帰り、相承院の稚児白菊と 出会ったのが縁で恋におちいりました。しかしその恋も実らず、ついに白菊はこの断崖から 身を投げ、自休もそのあとを追ったという悲恋物語からおこっています。 ここから眺める富士山夕焼けの相模灘の美しさは、まさしく神奈川県景勝50選のひとつに 数えられるものであります。
 (藤沢市観光課)
岩屋
岩畳へと降りていく分岐を見送って陸橋を進んでいくと岩屋があります。 入口から中へ入っていくと、洞窟内の壁面には岩屋の生い立ちや歴史などがパネル展示されています。 それらを読んで勉強しながら奥へと進んでいきます。
江の島岩屋
長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(152m)と第二岩屋(112m)から成ります。 昭和46年以来、長期閉鎖されていましたが、周辺施設を一新し、平成5年4月から再開されています。 古くから信仰の対象にもされてきた岩屋。 弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また、源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われています。 照明や音響で演出された洞内では、様々な展示物から江の島が歩んできた歴史と文化の一端をご覧いただけます。 また、全長128mのオープンスペースからは相模湾とその向こうに広がる富士・箱根・伊豆方面の景観が一望でき、 開放感をご満喫いただけるでしょう。
 (出展:「江の島岩屋」パンフレットより)
今からおよそ3000万年位前、神奈川県下はほとんど海底で、江の島付近は静かな海であったらしく、 砂や泥が厚く積りました。 この地層を葉山層群と呼んでいます。 今から2500万年程前になると葉山層は隆起し、 丹沢から江の島を通り三浦半島・房総半島まで続く長い山脈のようになったのです。 その後、葉山層は削られ、その上に次々に新しい地層が積りました。 島の北側には葉山層の上に積った逗子層が見られます。 現在、藤沢附近では江の島にのみ葉山層が露出しています。 岩屋も葉山層から出来ていて、多くの断層や細かいひび割れが入り、 外観からは堆積した面がはっきりしない地層です。 江の島は度々隆起を繰り返し、島が海面に姿を現したのはおよそ7〜8万年前の事と考えられています。
真っ直ぐに進んでいくと、突き当たりに小さな池があって、その中に与謝野晶子の歌碑が立っています。
沖つ風 吹けばたたく 蝋の灯に しづく散るなり 江の島の洞 晶子
こよなく江の島を愛した歌人与謝野晶子は、歌壇、文壇に止まらず、教育、評論、社会運動等、 多彩な活動により不滅の金字塔を樹立しました。 二十世紀を代表する文化人であります。 歌集「青海波」(明治45年1月刊行)にあるこの歌は、明治44年7月に詠まれました。 それから90年余り、蝋の火は今なお灯され、岩屋を訪ねる人の足許を照らしております。
書は、晶子研究の第一人者、歌人尾崎左永子女史の筆になります。 碑は、藤沢市在住の中山成彬氏の発願によりて建てられ、市に寄贈されたものであります。
 (藤沢市)
第一岩屋
第一岩屋の入口では、竹ベラが付いて紙で囲いをされた蝋燭を係の方から手渡されます。 これを頼りにして狭い洞窟内を進んでいきます。 立っていると頭を天井にぶつけそうになるので、中腰になって進んでいきます。 石仏などが並ぶ洞を奥へと進んでいくと二手に分かれていて、一番奥には石の祠が幾つか並んでいました。
亀石
第一岩屋から第二岩屋へは一旦洞窟から出て橋を渡っていきます。 その途中の岩場の海には亀石があります。 巨大な亀が竜宮へ帰っていく姿なのだそうで、何だかロマンチックな話ではあります。 この時には満ち潮だったようでかなり海水を被っていましたが、 引き潮の時には全体の姿がよく分かるようです。
亀石
今から3000万年程前、神奈川県下はほとんど海底で、江の島附近は静かな海であったらしく、砂や泥が厚く積りました。 2500万年程前になると隆起し、丹沢から江の島を通り三浦半島、房総半島まで続く山脈のようになりました。 江の島は度々隆起を繰り返し、島が海面に姿を表したのは7〜8万年程前の事と考えられています。 この亀石は弁財天信仰のために誰かが自然の岩を彫ったものと思われますが、 誰がいつ彫ったものか詳しい記述は伝わっていません。 古老の話によりますと、子供の頃、亀石に乗って遊んだとのこと。 かなり古いものと思われます。 満潮のとき波に洗われている姿は、巨大な亀が龍宮城へ帰っていくかの様に見えます。
第二岩屋
第二岩屋では光る神秘的な小石があちこちにあったりします。 摩訶不思議な感じのする微かな効果音も流されていて、何やら雰囲気も盛り上がってきます。 一番奥までいくと、光る小石の上には龍がいたのでした。
岩屋を訪ねたら引き返していきます。 稚児ヶ渕から元来た道を戻っていってもいいのですが、今回は乗合船に乗って帰ることにしました。 岩屋を出て陸橋を渡っていくと、海側の岩畳の上に降りていく階段が分かれています。 そこから幅1mほどのコンクリート舗装された道が乗り場へと続いています。 「乗合船 この先のりば→」の看板に従って、その道の上を進んでいきます。
乗合船
岩畳に続く道を少し進んでいくと、乗合船の乗り場があります。 ここから江の島弁天橋の陸側の袂(境川の河口)まで運航しています。 係りの人が寒空の下、小さな机を前にして椅子に腰掛けて乗船券を販売していました。 少し待っていると、客を乗せた船が向こうから一艘やってきました。 一艘だけで遣り繰りしているか、何艘かあって交替しながら運航しているのかは分かりませんでしたが、 この時にやってきたのは「第十八べんてん丸」という名前でした。 乗客が下船してから帰りの客が乗り込みます。 船倉と船上デッキとに分かれて乗ります。 操舵は船上デッキで行われていました。 小さな船で、救命胴衣は37個設置されているとのことでした。 最高でもその位の人数しか乗れないということなのでしょうが、 この時には座席がほぼ埋まるほど乗っていましたが、それほどの人数はいなかったように思いました。
船着場
白波をたてて海を進んでいきます。 次第に後ろに遠退いていく江の島を眺めながら乗っていると、 程なくして境川の河口にある船着場に着きました。 ほんの10分足らずの束の間の船旅なのでした。
江の島乗合船
この乗合船は「江の島乗合船」というようで、(有)江の島遊覧船によって運航されています。 「江の島遊覧コース」とのことですが、「遊覧」というよりも「渡し舟」といった感じがします。 夏場以外の平日は運航していないようで、朝早くや夕刻近くになると運航していません。 時刻表もなくて不定期なのだそうですが、かなりの頻度で運航しているようでした。 荒天時には運航しておらず、運航している時には「本日運行中」の看板や幟が出ているようです。
片瀬江ノ島(かたせえのしま)駅
国道134号の下の地下道をくぐってその先の左手に架かる弁天橋を渡っていくと、 片瀬江ノ島駅(小田急江の島線)があります。