屏風山
散策:2007年02月上旬
【低山ハイク】 屏風山
概 要 屏風山は芦ノ湖の南側にある山で、新期外輪山の一つです。 今回は須雲川自然探勝歩道や旧東海道の石畳などを歩いて甘酒茶屋まで行き、そこから屏風山へと登っていきます。 山頂からの展望は得られませんが、芦ノ湖畔の箱根関所跡へと降る途中からは富士山などを望むことができます。
起 点 箱根町 須雲川バス停
終 点 箱根町 関所跡入口バス停
ルート 須雲川バス停…須雲川自然探勝歩道…須雲川…箱根旧街道…畑宿本陣跡…畑宿バス停…見晴茶屋…甘酒茶屋…登山口…展望地…屏風山…林道終点…関所跡入口バス停
所要時間 3時間50分
歩いて... 旧東海道の石畳の道は雨の後などには滑りやすいので、降るよりも登る方が安心です。 屏風山から芦ノ湖畔へと降る途中に急な階段がある以外には、歩きやすい道が続いています。 芦ノ湖畔に降りてから時間があれば、すぐそばにある箱根関所跡や関所資料館を訪ねてみましょう。
関連メモ 箱根宿
コース紹介
須雲川(すくもがわ)バス停
箱根湯本駅(箱根登山鉄道)から、箱根旧街道経由の元箱根行きバス,または,上畑宿行きバスにて12分、 1時間に2本程度の便があります。
バスを降りて県道732号をその先へと進んでいきます。
鎖雲寺
1分ほど進んでいくと、左手に登っていく石段があります。 その上には駒形神社があります。 石段を見送ってその先へと進んでいくと鎖雲寺があり、その手前に小さな滝がありました。 脇に立つ石柱によると「霊泉の滝」と云うのだそうです。 「霊泉山 鎖雲禅寺」と刻まれた石碑の先にある石段を登った所にお寺があります。
鎖雲寺
鎖雲寺は、江戸の初め、当時早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺です。 この寺には「箱根霊験記」で有名な勝五郎と初花の墓があります。
此らあたりは 山家ゆえ 紅葉のあるのに 雪が降る」とは ご存じ歌舞伎狂言に名高い浄瑠璃の一句で、初花の夫勝五郎を恋うる名台詞であります。 父の仇敵を追って箱根山中に差しかかりましたが、不図したことから勝五郎の病は募るばかりに、 大望を抱く見の勝五郎の病状を案じた初花は夜毎に夫の眠るのを待って、 向山の滝で身を清め、箱根権現へ夫の病気平癒と仇討成就の願をかけ、 ひまさえあれば山中に深く分け入り、天来の薬餌で名高い自然薯を堀り集め、夫に薦めるのでした。 初花の一念天に通じ、慶長4年8月、遂に仇敵の佐藤兄弟にめぐり合い、見事に本懐を遂げさせたと言う。 貞女初花の伝説は400年後の今日でも、何か私達の心にひしひしと深い感銘を覚えさせるものがあります。 二人の眠る墓は、この寺の境内の墓地に誰か建てたか、哀惜の比翼塚として葬られております。 どうか皆様もご供養のつもりで香華を手向けて戴きたいと存じます。
 (はつ花そば店主 小宮吉晴)
須雲川自然探勝歩道
鎖雲寺を過ぎて県道をその先へと進んでいくと、道路が右手に曲がっていく所から左手へ道が分かれています。 これが須雲川自然探勝歩道の入口になります。 須雲川バス停から9分ほどで到着しました。 脇には須雲川自然探勝歩道の吊看板と大きな案内図がありました。 須雲川自然探勝歩道は県道732号を縫うようにしてこの先へと続いています。 車道によって分断されている箇所もありますが、 旧東海道の石畳の道も含まれていて、自動車の通らない歩行者だけの道になっています。 須雲川自然探勝歩道は何処から何処まで続いているのかは分かりませんでしたが、 吊看板の裏面には「奥湯本3,300米」と書かれていたり、「奥湯本3.5km」の道標が立っていたりもするので、 奥湯本から元箱根まで続いているということなのでしょうか。 それはともかくとして、道標「畑宿1.7km」に従って、県道732号から分かれて左手の歩道へと入っていきます。
須雲川自然探勝歩道
畑宿1,700米、元箱根6,200米、奥湯本3,300米
 (神奈川県)
須雲川増水時のご注意
この先約500メートルの須雲川を渡るところは、大雨のときや川の水が増えている間は通れませんので、 県道を利用してください。
 (神奈川県)
すぐに木橋を渡って、右下に流れる須雲川を眺めながら雑木林の斜面を進んでいきます。 1分ほど進んでいくと植林帯へと入っていきます。 横木の階段もあったりしますが、段差も低くて幅の広い道が続いています。 横木の階段を登って右手へと曲がって更に進んでいきます。 「落石注意」の看板を過ぎ「2号マンホール」を過ぎていくと、左手の斜面が網状に組まれた金属棒で補強されていました。 先ほどの注意書きはこのことなのかと思いながら通り過ぎていきます。
須雲川
やがて中ほどがコンクリートになった道を進むようになると、東京電力の三枚橋発電所の沈砂池に出ます。 そこを道標「畑宿」に従って右手へと降っていくと、須雲川の河原に降り立ちます。 河原には大きな石がゴロゴロとしていて、その上に木橋が渡されています。 探勝歩道の入口にあった注意書きに書かれた所のようで、改めて注意書きも立っていました。 三つの木橋を渡って向こう岸に着くと、幅の広い横木の階段が左手へと続いています。 道標「畑宿1.2km」に従って、その階段を登っていきます。
注意
この丸太橋は川の水が増えているときは危険です。 川の水が橋にふれているときは渡らないで下さい。
 (神奈川県)
割石坂
横木の階段を登っていくと、左手から登ってくる舗装された坂道に出ます。 そこを右手へと登っていくと、すぐに県道732号に出ます。 すぐ脇には発電所前バス停があり、その下の方には艶やかな赤い色をした天聖稲荷大明神があります。 かなり大きな社が幾つか建っていて、箱根大天狗山神社分院とのことです。 須雲川自然探勝歩道は、県道の20mほど左手から更に続いています。 ここにも「須雲川自然探勝歩道」の吊看板が立っていて、「畑宿1,000米、奥湯本4,000米」となっていました。 「一部旧東海道」とも書かれていました。 また、この辺りは割石坂と云うようで、石碑や解説版も立っていました。 道標「畑宿1km」に従って、幅の広い石段を登っていきます。
割石坂
曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、 路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えれています。
石畳の道
植林帯に続く石段を登っていくと、すぐに石畳の道になってきます。 少し進んでいくと「これより江戸時代の石畳」の標識が立っていて、 正面を指していました。 角がとれて丸くなった石が敷き詰められた坂道を緩やかに登っていきます。 何人の人がどのような思いでこの道を通って箱根の山を越えていったのでしょうか。 何やら長い歴史を感じたりします。 1分ほどで再び「これより江戸時代の石畳」の標識が立っていて、来た方を指していました。 先ほどの標識との間が江戸時代のままの石畳の道のようですが、 これらの標識の前後にも同じような石畳が続いています。 その部分は近年になって整備された部分とのことですが、私にはその違いはよく分かりませんでした。 少し降るようになって県道の側まで近づいてくると、須雲川自然探勝歩道の解説板がありました。 解説板を過ぎて登り坂になると、再び「これより江戸時代の石畳」の標識が立っています。 江戸時代そのままの石畳は途切れ途切れに続いているようです。
須雲川自然探勝歩道について
この歩道は、須雲川のせせらぎを聞き、野鳥の声を聞きながら歴史を研究する 芦ノ湖の南岸元箱根〜奥湯本を結ぶ自然探勝歩道です。 この付近の石畳は、江戸時代のものを明治、大正時代に元の須雲川小学校の通学路として一部補修したものです。 前後の新しい石畳は、今回県が整備した歩道です。
 (神奈川県自然県境保全センター)
石畳の道を緩やかに登って少し明るくなってくると、舗装された道に出ます。 道は左手の県道から登ってきて右手へと続いていますが、 少し先でその道から分かれて正面の石畳の道を更に進んでいきます。
箱根路のうつりかわり
箱根路は、古来より東西交通の難所であり、文化の流通に大きな障壁となってきました。 この壁を通過する交通路は、地形の制約をうけながら常に箱根山を対象に設けられてきました。 箱根路のうつりかわりは、日本の歴史にも深いつながりをもち、 各時代のうつり変りと共に箱根越えの路も変わってきました。
碓氷道 箱根でもっとも古い峠道。
足柄道 奈良、平安時代に利用された路。
湯坂道 鎌倉、室町時代に開かれた路。
旧東海道 江戸時代に開かれた路。
国道(1号線) 現在の東海道。
 (環境庁、神奈川県)
斜面を降る太い導水管を過ぎていくと、これまでにあったのと同じ自然探勝歩道案内図があります。 案内図を過ぎて緩やかに降っていくと、程なくして県道732号に降り立ちます。 道路に出た所に「畑宿0.7km」の道標が立っていて、県道を指しています。 また道路を渡った所にも道標「畑宿・元箱根」が立っていて県道を指しています。 手前から右手へと続く山道もありますが柵がしてありました。 道標に従って、ここからしばらくは県道を歩いていきます。
接待茶屋
江戸時代後期、箱根権現の別当如実は、箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶や飼葉を施し大変喜ばれていましたが、 資金が続かず行き詰まってしまいました。 如実は、江戸呉服町の加勢屋与兵衛らの協力を得て施行の断続を幕府に願い出、 文政7年(1824)ようやく許可がおりました。 再開にあたって新しく設置する施行所を畑宿と須雲川に希望していましたが、2か所とも立場であるため許可されず、 東坂は割石坂のこの辺に、西坂は施行平に設置されました。  (箱根町)
箱根旧街道
県道732号を3分ほど進んでいくと、左手に道が分かれていきます。 角には「国指定史跡 箱根旧街道」の標柱が立っています。 ここで県道から分かれて石畳の坂道を降っていきます。
大沢川
植林帯に続くかなり急な坂道を2分ほど降っていくと堰提に出ます。 堰を越えて行くと、須雲川の支流である大沢川を木橋で渡っていきます。 角がとれて丸くなった石が河原にゴロゴロとしていました。
大澤坂
大沢川を渡って左手へと坂道を登っていくと、石畳の道になってきます。 この辺りは大澤坂と云うようで、石碑や解説版も立っていました。 角がとれて丸くなった石畳が続いていて、 解説板にもある通り、この辺りは往時の様子が一番残されている区間のようです。 石には苔も付いていて長い歴史が感じられます。 往時の草鞋で歩くのには優れた舗装手段である石畳も、現代の洋風の靴では滑りやすいので、 降るよりも登る方が安全のように思われます。
大澤坂
大沢川を渡ったところです。 幕末の下田奉行小笠原長保の「甲申旅日記」に、 「大沢坂又は坐頭転ばしともいうとぞこのあたり、つつじ盛んにて趣殊によし」 と書かれています。 当時の石畳の道が一番残っている坂で、苔むした石畳は往時をしのばせてくれます。
石畳特別保存地区 石畳の構造
この付近の石畳は、江戸時代初期、石畳施設当初の構造を今に伝えています。 石畳は、小石と土とを密に固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、 さらに石畳の横に縦の排水路を持っています。 また、並木が植っていた土手も人工的に造られたものです。
 (箱根町教育委員会)
石畳特別保存地区 斜めの排水路
ここには石畳の上を流れてきた雨水を石畳の外へ追い出すための斜めの排水路があります。 排水路は上流側に小さな石、下流側に大きな石を斜めに置き、段差を造り出すというかたちをしています。 水はこの大きな石の側面を伝わり、並木・敷土手の外にある沢へと流れ出るようになっています。
 (箱根町教育委員会)
畑宿本陣跡
植林帯に続く石畳の道を緩やかに登っていくと、やがて正面が明るくなって民家が見えてきます。 民家の脇を過ぎて短い石段を登ると、ヘアピンカーブになった県道732号に出ます。 大沢川から7分ほどで登って来られました。 この辺りが畑宿地区になるようです。 ここにも「国指定史跡 箱根旧街道」の標柱が立っていました。 標柱に書かれた「←箱根方面」に従って県道を左手へ1分ほど進んでいくと本陣跡バス停があります。 道路の右手には「畑宿本陣茗荷屋跡」の石柱と解説板が立っていました。 明治天皇が小休止された所で、開国時代のアメリカ外交官のハリスも感嘆したという日本庭園があったようです。
本陣跡
ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋と呼ばれた旧名主の本屋敷跡です。 家屋は約70年前大正元年、全村火災の折焼失しましたが、庭園は昔を忍ぶそのままの姿で残されました。 本庭園はご覧のように小規模ですが、街道に日本庭園として他に無かったようです。 畑宿は今から12、30年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落です。 この本陣をめぐり一般に余り知られていない事柄があります。 安政4年11月26日、米国初代総領事、伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリスタウンゼントが江戸入りの途中、 ここに休息鑑賞したことです。 ハリスの箱根越えはエピソードが多く、大変だったようです。 下田から籠で上京したハリスは箱根関所で検査を受けることになった。 その際、ハリスと関所側は、検査をめぐってトラブルが起き、下田の副奉行が中に入って、 ほとほと困り抜いたと云う。 ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否したことから、 副奉行がハリスを馬に乗せて籠だけ検査することで関所側と妥協した。 ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通った。 そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本庭園の良さに心なごみ、 機嫌はすこぶる良好になったといいます。
旧茗荷屋庭園
畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は、山間から流れる水を利用して滝を落とし、 池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭園で、当時街道の旅人たちの評判になりました。 ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆しています。
駒形神社
本陣跡を過ぎていくと、すぐに駒形神社への石段が右手に続いています。 すぐそこにあるのでちょっと立ち寄っていきました。 石段を登って両側に生える大きなイチョウの木を過ぎ、鳥居の先の石段を登っていくと社殿がありました。 無学なのでよくは知らないのですが、 古事記に登場する第一位の神である「天之御中主大神」を祀る神社は珍しいように思いました。 境内には末社の照心明神・菅原神社や太子堂もありました。
駒形神社
御祭神 天之御中主大神、火産霊大神、大山祇命
御神徳 村内守護・心願成就
勧請の年月不詳ではあるが、口碑によれば、 当村創立の頃、早くも箱根泰禄山に奉斎する駒形大神を勧請して駒形大権現と崇めた。 宝暦7丁丑6月、高栄山神守源寺別当、社殿を再建し、明治維新の際、別当持を廃され、明治6年7月30日に村社に列した。 明治44年、無格社・愛宕神社・同山神々社を合祀した。 畑宿の歴史はかなり古く、小田原北条時代には木地細工が作られていた記録があります。
古事記上つ巻
天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は天の御中主の神。 次に高御産巣日の神。 次に神産巣日の神。 この三柱の神はみな独神に成りまして身を隠したまひき。 次に国稚く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へる時に、 葦芽のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は宇摩志阿斯訶備比古遅の神。 次に天の常立の神。 この二柱の神もみな独神に成りまして身を隠したまひき。 上の件、五柱の神は別天つ神。・・・
 (出展:角川書店 新訂古事記)
畑宿バス停
「あんの茶屋」を過ぎていくと、道路が右へ大きく曲がっていく角に畑宿バス停があります。 須雲川バス停から1時間ほどで到着しました。 左手には東屋風の「畑宿 御休処」があるので、ちょっと腰をかけて休憩していきましょう。 そばには大きな「箱根寄木の里 畑宿地区案内板」があります。 これから向かう甘酒茶屋から屏風山へ至る道も示されているので参考にしましょう。
畑宿バス停からは、県道から分かれていく正面の石畳の道へと入っていきます。 入口には「箱根旧街道一里塚 江戸より二十三里」と書かれた標柱や、「箱根路 東海道の碑」が立っています。 また脇には箱根旧街道の解説板も設置されていました。
畑宿
畑宿は、郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ育ったところです。 畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北條氏時代までさかのぼります。 江戸時代、畑宿は箱根旧街道の間ノ村として栄え、沢山の茶屋が並び、 名物のそば、鮎の塩焼、箱根細工が旅人の足をとめました。
箱根旧街道
江戸幕府は元和4年(1618)、十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山−浅間山−鷹ノ巣山−芦ノ湯を経て、 元箱根に至る湯坂路(現ハイキングコース)を廃し、 湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ、 世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。 この街道は、寛永12年(1635)参勤交代の制度ができて、一層交通が盛んとなり、 そのありさまは詩歌、物語等にも多く歌われた。 延宝8年(1680)幕府の手によりはじめてこの街道に石が敷かれたが、 この石敷の道は現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。 現在、残っている石畳は、文久3年(1863)2月、孝明天皇の妹、和宮内親王が14代将軍、徳川家茂のもとに 降嫁されるにあたり、幕府が時の代官に命じ、文久2年(1862)に改修工事を完成させたものだといわれている。 平均、約3.6メートルの道幅の中央に約1.8メートル幅に石が敷きつめられていたという。
畑宿一里塚
石畳を30mほど進んでいくと、道の両側に一つずつ一里塚があります。 東海道の一里塚の中でも、往時の形態を留めている唯一のものだということです。 おぼろげながら想像していたよりもずっと大きなものでした。 脇には「箱根旧街道一里塚碑」と刻まれた石柱も立っていました。 ここで弁天山清流公園や畑宿ます釣場への道が左手へと分かれていきますが、 道標「旧街道石畳、元箱根」に従って、正面に続く石畳の道を進んでいきます。
箱根旧街道・畑宿一里塚
江戸時代、徳川幕府は旅人の目印として、街道の一里(約4km)ごとに「一里塚」をつくりました。 石畳の両側に残る畑宿の一里塚は、江戸日本橋から23里に当たり、 東海道中唯一その形態を留めるものです。 山の斜面にあるこの塚は、周囲を切土・盛土と石貼で平坦面をつくり、 直径が30尺(9m)の円形に石積を築き、礫を積み上げ、表層に土を盛って、 頂上に植樹したものであることが発掘調査から分かりました。 保存整備では、塚の構造を復元し、標識樹として畑宿から見て右側の塚には樅(もみ)を、 左側には欅(けやき)を植えました。
 (箱根町教育委員会)
西海子坂
一里塚を過ぎて、植林帯の中に続く石畳の道を緩やかに登っていきます。 1分半ほど登っていくと、国道1号(箱根新道)の上を越えていきます。 植林帯を更に進んでいくと、大澤坂にあったのと同じ内容の「斜めの排水路」と「石畳の構造」の 解説板が立っていました。 そこを過ぎて傾斜が少し増してきた石畳の道を登っていくと石段が現れます。 石段の袂には「西海子坂」と刻まれた石碑と解説板が立っていました。
箱根旧街道
江戸幕府は延宝8年(1680)、箱根道を石畳道に改修しました。 それ以前のこの道は雨や雪のあとは大変な悪路となり、 旅人はひざまで没する泥道を歩かねばならないため竹を敷いていましたが、 毎年竹を調達するのに大変な労力と費用がかかっていました。
橿木坂
石段を登っていくと県道732号に出ます。 県道を左手へと進んでいきます。 この辺りは「七曲がり」と云われているようで、 県道732号と国道1号が交錯するようにしてクネクネと折れ曲がりながら続いています。 少し先の石段を登って近道をしながら県道を更に進んでいきます。 陸橋をくぐって少し行くと、大きな陸橋が架かっています。 その下を過ぎていくと橿の木坂バス停があります。 バス停を過ぎていくと再び石段があります。 脇には「橿木坂」と刻まれた石碑と解説板が立っていました。
橿木坂
「新編相模国風土記稿」に「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得」とあります。 「東海道名所日記」には、けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。 「橿の木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼる」と書かれています。
見晴橋
石段を登っていくと再び県道732号に出ます。 その先へと少し進んでいくと、再び石段が現れます。 両側に熊笹の生い茂る石段を2分ほど登っていくと、道が二手に分かれています。 角に立つ道標によると、正面の道は「元箱根・車道」、 左手の道は「須雲川自然探勝歩道 元箱根3km」となっています。 ここは道標に従って、左手の見晴橋を渡っていきます。 短い見晴橋を渡っていくと「箱根旧街道(新設歩道)」の吊看板がありました。 「甘酒茶屋1,300米、元箱根3,000米」となっていました。
見晴茶屋
看板を過ぎていくと、これまでにあったのと同じ「自然探勝歩道案内図」があります。 そのすぐ先にベンチが幾つか設置された小広い場所があります。 歩道は正面へと続いているのですが、右手の急な階段を登っていくと、 とろろそばや山菜そばで有名な見晴茶屋があります。 かなりの傾斜の階段を登っていくと、道路の脇にある見晴茶屋に着きます。 店の前は広くなっていて、その右手の方には「箱根旧街道 県道湯本元箱根線 道路完成記念碑」がありました。 その向こうには小田原と思われる街並みや海が見えていました。 しかし、下の方に少し見える程度で、「見晴」と名が付くほどの広がりはありませんでした。 箱根から旧街道を降ってきて初めて眺望の広がる所だったのでしょうか。
樫の木平
「ここが箱根の樫の木平、下に見ゆるは畑の茶屋」と馬子唄にも歌われた見晴茶屋の跡がここです。 また江戸時代の紀行文には「樫の木の坂をこゆればくるしくてどんぐりほどの涙こぼるる」と唄われているように、 街道きっての急な坂道だったようです。
山根橋
見晴茶屋から急な階段を降って、下にある小広い所へ戻り、石畳の道をその先へと進んでいきます。 「雲助」の解説板を過ぎていくと、すぐに小さな山根橋があります。 橋を渡って、石畳の道をその先へと進んでいきます。
雲助とよばれた人たち
「箱根の雲助」というと知らない人はいません。 ところが雲助とよばれた人たちは、実はこの小田原の問屋場で働く人足たちだったのです。 しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、 問屋場では人足を登録させ仕事を割当てていましたので、わるさをした人などはいなかったといいます。 日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。 その内容をみると、なかなかむずかしく、誰でもすぐなれるという職業ではなかったようです。
一、 力がひじょうに強いこと。(これは仕事の性質上ぜひ必要です)
二、 荷物の荷造りがすぐれていること。(荷物を見ると、だれがつくったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都まで決してこわれなかったそうです)
三、 歌をうたうのがじょうずでないと、一流の雲助とはいわれなかったそうです。こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、かごをかつぐ「かごかき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み、通行や温泉遊覧のたすけをしていました。
 (環境庁、神奈川県)
須雲川自然探勝歩道について
この歩道は、須雲川沿いに畑宿より元箱根に至る旧東海道(江戸時代、三百有余年前)に沿った 歴史的なたたずまいをもつ自然歩道です。 途中には旧東海道そのままの石畳が残され、当時の面影をしのばせております。 元箱根までは、甘酒茶屋を経て杉並木に至る約3キロメートルの道のりとなっております。
 (神奈川県)
車道分岐
雑木林や熊笹の生える尾根に、緩やかな石畳の道が続いています。 小さな橋を渡りその少し先の石段を登っていくと分岐があります。 角に立つ道標によると、右手の道は「車道」、正面の道は「元箱根2.7km」となっています。 道標「元箱根」の指す正面の石段を登っていくと、すぐに小さな甘酒橋があります。 甘酒橋を渡っていくと次第に登り坂になってきます。 少し降って小さな橋を渡り、明るい雑木林の中に続く登り坂の石畳を更に進んでいきます。
山火事注意 火の用心!
たばこ・たきびは確実に消そう! みどりとのふれあいでリフレッシュ
 (森林共済セット保険、神奈川県)
猿滑坂
石畳の登り坂を更に進んでいくと、正面に県道の石垣が見えてきます。 その手前に猿滑坂の石碑と解説板が立っていました。 その少し先にある石垣に沿って続く石段を登っていくと県道732号に出ます。 横断歩道を渡って左手にある今風の石段を登っていきます。
猿滑坂
「新編相模国風土記稿」には、「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と、 難所らしい坂の名の由来が書かれています。 県道の横断歩道橋がかかっている辺りが、当時の坂でした。
石畳歩道について
この石畳は旧東海道(江戸時代、1680)の歴史的な街道に沿った歩道です。 旧東海道は、関東大震災(1923)及び北伊豆地震(1930)等たびかさなる災害により、 大半が崩壊・埋没しましたが、残された一部の石畳を再現し、 自然歩道として神奈川県が整備したものです。
 (神奈川県)
追込坂
今風の石段を登っていくと、県道の右側の上を並行するようになります。 やがて現れる階段を降っていくと県道732号に降り立ちます。 県道を2分ほど進んでいくと、右手に追込坂の石碑と解説板が立っていました。 また「自然探勝歩道案内図」もあるので参考にしましょう。 そのすぐ先には親鸞上人と弟子が別れた場所を示す記念碑が立っていました。 このまま真っ直ぐに県道を進んでいってもすぐに甘酒茶屋へ着きますが、 道標「元箱根」に従って、右手に続く横木の階段を登っていきます。
追込坂
「新編相模国風土記稿」のふりがな(万葉がな)とみると、フッコミ坂といったのかもしれません。 甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。
親鸞上人と笈ノ平
東国の教化を終えての帰路、四人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来たとき、 上人は弟子の性信房と蓮位房に向かい、 「師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい」と頼み、 師弟の悲しい別れをした場所と伝えられています。
甘酒園地
横木の階段を登って左手へと曲がり、山際に続く緩やかな土の道を進んでいきます。 六角形の東屋を左手に見ながら真っ直ぐに進んでいくと、 潅木を抜けた先に小広くなった甘酒園地があります。 芝生の広場になっていて、陽だまりに女性グループがシートを広げて笑談していました。 このすぐ先で道が二手に分かれています。 右手にある送電線の鉄塔「元箱根線No.3」の脇を過ぎていくのが元箱根へと続く箱根旧街道ですが、 左手へ分かれて県道へと続く方の道を進んでいきます。
神奈川県指定天然記念物 箱根二子山の風衝低木植物群落
二子山の山頂部は風当たりが強く、土壌堆積が薄く、岩が露出しています。 そのような場所に、ハコネコメツツジを主体にしたオノエラン・ハコネコメツツジ群集と呼ばれる植物群落が見られます。 これは風の影響で他の植物が成長し得ない岩場などにしがみついて発達する背丈の低い群落で、 ハコネコメツツジ、ハコネハナヒリノキなどの低木類と、 ウラハグサ、ハコネギク、オノエランなどの草本植物から構成されています。 オノエラン・ハコネコメツツジ群集と命名されているこの群落は、 フォッサマグナ地域特有の植物に富んでおり、土壌が悪く、乾湿差が大きく、 風当たりが強いなどのきびしい立地条件のもとに生育しています。 この植物群落は、県内の他の地域では、ほとんど見ることのできない貴重なもので、 群落の発達している二子山山頂部付近を天然記念物に指定しています。
※お願い この天然記念物を伐採したり荒らしたりしないで大切にしてください。
 (神奈川県教育委員会)
甘酒茶屋
公衆トイレを過ぎていくと箱根旧街道資料館があります。 その隣に甘酒茶屋があります。 茶屋の前には甘酒茶屋バス停もあります。 畑宿バス停から1時間ほどで到着しました。 資料館では、東海道五十三次や箱根八里・箱根宿・箱根七湯などや、五街道・脇街道などが紹介されていました。 甘酒茶屋に入ってみると、昔風の土間に囲炉裏やテーブルなどがある雰囲気のいい店でした。 多くの人が飲食などしながら休憩していました。 私も甘酒などを飲んでみようかとも思いましたが、これから屏風山への登りが控えている身なので、 ぐっと我慢しておきました。
旧街道資料館
箱根旧街道の面影を偲んで訪れる人々のために、休憩所と併設して建てられたのがこの資料館です。 江戸時代、旧街道を往来した旅人たちの衣装、道具などが展示してあります。
甘酒茶屋
赤穂浪士の一人、神崎与五郎の詫状文伝説を伝えるこの茶屋は、畑宿と箱根宿のちょうど中ほどにあり、 旅人がひと休みするには適当な場所でした。 当時この茶屋は箱根八里間で十三軒あり、甘酒を求める旅人でにぎわいました。
甘酒茶屋について
この甘酒茶屋の付近は江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎与五郎が吉良邸討入りに向う途中、 ここで馬子にいいがかりをつけられ、大事の前であったため、馬子に詫証文を書いたと 忠臣蔵「甘酒茶屋」のくだりとして講談、戯曲で有名なところです。 しかし、この話は残っている証文から、神崎与五郎でなく同じ浪士の一人、大高源吾で、 その場所は三島宿だったといわれています。 又、当時の諸大名は小田原城下入りをする際、この付近でひと休みし、小田原に下りました。 江戸時代にはこの付近に茶屋があり、急坂な箱根路への休憩地点として賑わっていました。
 (神奈川県)
登山口
甘酒茶屋の前にある道標「元箱根」に従って、県道732号をその先へと進んでいきます。 緩やかな県道を3分ほど進んでいくと、道路の左手に「ハイキングコース」の道標が立っています。 ここが屏風山への登り口になります。 道標によると、左手の道は「箱根関所70分、屏風山40分」、 正面の道は「元箱根40分」、今歩いてきた道は「甘酒茶屋5分」となっています。 また、道標には、箱根外輪山などのハイキングコースに設置されているのと同じ雰囲気をした 「屏風山コース案内図」も付いていました。 それによると、ここから屏風山まで「登り40分・降り30分」、 屏風山から芦ノ湖畔のバス停まで「降り30分・登り40分」となっていました。 合わせて1時間10分ほどでバス停まで行かれるようです。
実際に歩いてみると、ここから屏風山までは案内図に書かれた時間と同じくらいで着きましたが、 屏風山から芦ノ湖へ降るのには案内図よりもかなり余計にかかりました。 芦ノ湖から屏風山への登り道も同様に余計にかかるものと思われます。 Webサイトで調べてみても同様な感じなので、芦ノ湖側の登り降りに要する時間は、 案内図に書かれているよりも10分〜15分ほど余計にかかると考えておくのが無難のようです。
屏風山コース案内図
・ここに表示されているハイキングコースの所要時間は、健康な成人男子の標準時間です。
・コースの途中にはトイレがありません。最寄の公衆便所は、関所前公衆便所と甘酒茶屋公衆便所です。
★自分で出したゴミは必ず自分で持ち帰りましょう。
 (箱根町)
道標に従って横木の階段を降っていくと、すぐに植林帯の浅い谷筋に降り立ちます。 細い流れに架かる木橋を渡って、涸れ沢の流れる谷筋に続く山道を緩やかに登っていきます。 笹竹が少し生えるようになった谷筋の右側を登っていくと、 登山口から6分ほどで涸れ沢を渡って谷筋の左側を登るようになります。
少し先へ進んで植林帯から雑木林へと変わってくると、横木の階段が現れます。 10段もない階段を登った所に、大きな「屏風山コース案内図」がありました。 内容的には登山口にあったのと余り変わりはありませんでしたが、 周りには苔が付いていて、設置されてからかなり長い年月が経っているようでした。 そこから右手へと曲がって、笹竹が更に生い茂るようになった道を進んでいきます。 程なくして石がゴロゴロした道になってきます。 先日に雪が降ったのか、日陰になったこの付近には雪が少し残っていました。 気温が低い日だったので少し凍っていて、滑りやすくなっていました。 道の所々には霜柱もありました。
箱根町美化憲章
・美しい箱根をよごさないようにしましょう。
・美しい箱根をこわさないようにしましょう。
・美しい箱根を育てるようにつとめましょう。
石ゴロゴロの道を少し進んでいくと、左手に横木の階段が現れます。 かなり上の方まで続いているように思えるその階段を登っていきます。 右手の方を振り返ると、樹木の間から箱根の山々が見えていました。 方角からすると、正面に見えているのは二子山でしょうか、 山頂には電波塔のようなものが幾つか見えていました。 その左手の方には駒ヶ岳が聳えていて、山頂にある神社やロープウェイの駅なども見えていました。
小広場
横木の階段を4分ほどで登りきると、「箱根関所・屏風山」を指す道標が立っています。 道標に従って広くて緩やかになった尾根道を進んでいくと、 テーブルとベンチがひとつ設置された小広くなった所があります。 麓の登山口から16分ほどで到着しました。 周りは樹木に囲まれていて展望は得られませんが、ひと息入れていきましょう。
小広場を後にして、尾根道を更に登っていきます。 やがて樹木が疎らになって少し明るくなってくると、次第に笹竹が生い茂るようになります。 傾斜も緩やかで幅も広く、歩きやすい道が続いています。
この付近、先ほどの小広場からこの先の展望地にかけてが、 屏風山の山頂の案内図にある「景観施業施工地」なのでしょうか。
展望地
次第に笹竹が道を覆うようになってきます。 笹竹を掻き分けるようにして登っていくと、笹竹が切り払われて小広くなった所に着きました。 先ほどの小広場から11分ほど、麓の登山口から28分ほどで到着しました。 テーブルやベンチが幾つか設置されていて、休憩するのにはいい場所です。
右手の方には山の間から小田原の街などが少し見えていて、ちょっとした展望地にもなっています。 ベンチに腰を掛けて少し休憩していきました。
郷土の緑 山火事注意
自然を守りましょう。
 (森林国営保険、神奈川県)
屏風山 (標高948m)
展望地を後にして、少し傾斜の増した道を登っていきます。 笹竹が生い茂る斜面に続く横木の階段混じりの道を登っていくと、数分で尾根に着きます。 雑木や笹竹の生い茂る緩やかになった尾根道を進んでいくと屏風山の山頂に着きました。 先ほどの展望地から9分ほど、麓の登山口から40分ほどで到着しました。 山頂の周りは樹木に覆われていて展望は得られません。 道標と解説板と「屏風山ハイキングコース」の案内図があるだけで、腰を掛けられるベンチなどはありません。 周囲に比べてそれほど高くなっている訳ではなく、切り開かれて広くなっている訳でもないので、 解説板などがないとうっかりと通り過ぎてしまいそうな感じの所です。 手元の地形図によると「948.1m」の三角点があるようですが見当たりませんでした。 解説板の後ろの方が少しこんもりと高くなっていたので、そこにあるのかも知れません。 確かめてみようかとも思いましたが、笹竹や樹木が生い茂っていて道らしい跡が見当たらなかったので、 確認するのは止めておきました。
展望が得られずベンチも設置されていないので、昼食をするなら先ほどの展望地が良さそうです。 今回はお昼までにはまだ時間があったので、芦ノ湖へ降りてから、 箱根関所跡の高台で少し遅めの昼食を摂りました。
屏風山(948m)
新期外輪山の一つです。 須雲川上流沿いの絶壁を屏風に見立てて、その名が付いたといわれています。 山頂には、小田原北条氏の砦の跡が残っています。
緑は森呼吸 山火事注意
 (森林国営保険、神奈川県)
谷筋
道標「箱根関所30分」に従って、笹竹の生い茂る雑木林に続く尾根道を進んでいきます。 緩やかで広い尾根道を進んでいくと、程なくして笹竹が疎らになってきます。 屏風山から3分ほど進んでいくと横木の階段を降るようになります。 短い階段を降って斜面に沿って進んでいき、再び現れる横木の階段を降っていくと、 屏風山から4分ほどで浅い谷筋に降り立ちます。 周りは笹竹が生い茂っていて、真ん中にポツンと道標が立っています。 道標「箱根関所」の指す右手へと進んでいきます。
少し進んでいくと、道は左手へと曲がって尾根を登るようになります。 笹竹の生い茂る雑木林の尾根に続く広めで歩きやすい道を緩やかに登っていきます。 この辺りにも先日の雪が少し残っていました。 樹間からは冠雪した富士山が頭を覗かせていました。 手前の樹木がなければ素晴らしい景色が望めるようになって、人気のあるハイキングコースになるのにと、 ちょっぴり残念に思ったりもしました。
分岐1
緩やかで歩きやすい尾根道を進んでいくと、先ほどの谷筋から7分ほどで分岐があります。 角には大きな「屏風山保健保安林案内板」がありました。 それによると、ここから右手へと道が分かれていて、北側をぐるりと廻って屏風山へと続いているようでしたが、 あまり歩かれていない道なのか笹竹が生い茂っていて、はっきりとはしない様子でした。 芦ノ湖へは角に立つ道標「箱根関所」に従って、左手へと続く坂道を登っていきます。
たき火・たばこに注意
 (神奈川県)
分岐2
坂道を登っていくとすぐに緩やかな尾根道になります。 道標「箱根関所」を過ぎていくと、再び笹竹が生い茂るようになってきます。 笹が道の上まで覆いかぶさってトンネルのようになった所を過ぎていくと、次第に降り坂になってきます。 浅いV字形に抉れた所を過ぎて降っていくと、植林帯へと入っていきます。 再び現れる笹竹の生い茂る道を軽く登っていくと分岐があります。 先ほどの案内板のある分岐から11分ほど、屏風山から24分ほどの所になります。 角に立つ道標によると、右手へ降っていく道は「箱根関所15分」、 今来た道は「甘酒茶屋50分、屏風山20分」となっています。 左手へと登っていく道には何も示されてはいませんでした。 ここは道標に従って、右手へ直角に曲がっていく坂道を降っていきます。
左手へ登っていく道もしっかりとしていたので試しに登っていってみると、 1分ほどでアンテナ設備が立つ刈り込まれた小広い所に出ました。 道はそこで行き止まりになっていました。 分岐まで引き返してくる途中で、正面には芦ノ湖や冠雪した富士山を望む景色が広がっていました。
急坂
笹竹の生い茂る道を降っていくと横木の降り階段が現れます。 最初はそれほどでもありませんが、次第に傾斜が増してきて段差も高くなってきます。 鎖が設置されていたりもするかなり傾斜のある階段で、とても普通に降っていくことはできません。 体を少し斜めに向けて右足を下の段まで伸ばして着地して左足を引き寄せ、 また右足をその下の段まで伸ばして着地して…という様にして一歩一歩降っていきます。 ずっと同じ向きだと疲れるので、時々は左右の足を交代させながら降っていきます。 7分ほどして電柱のある辺りまで降りてくると傾斜も少し緩んできて、普通に歩けるようになります。
林道終点
最後に大きな石のある階段をひと降りすると舗装された所に降り立ちます。 先ほどの道標のあった尾根の分岐から10分ほど、屏風山から37分ほどで降りて来られました。 左手へと舗装された道が延びていました。 どうやら林道のようで、ここがその終点のようでした。 降り立った所の正面に道標が立っていて、正面の笹竹の生い茂る道は「箱根関所10分」、 今降ってきた道は「屏風山30分」となっていました。 左手の林道はどこへ続いているのかは分かりませんでしたが、 道標に従って正面の山道へと進んでいきました。
分岐3
笹竹の生い茂る道を進んでいくと、すぐに植林帯へと変わっていきます。 再び笹竹の生い茂る広い道を緩やかに降っていくと分岐があります。 角に立つ道標によると、右手へ分かれていく道は「箱根関所・国道1号」、 今降ってきた道は「甘酒茶屋・屏風山」となっています。 正面の道も広くてしっかりとしていましたが何も示されてはいませんでした。 ここは道標に従って右手の道を進んでいきます。
分岐4
笹竹の生い茂る道を抜けていくと、分岐から3分ほどで植林帯に降り立ちます。 左右には広めの道が通っていました。 角に立つ道標によると、右手の道は「箱根関所」、今降ってきた道は「屏風山・甘酒茶屋」となっていました。 左手の道は何も示されてはいませんでしたが、先ほどの分岐を直進していく道と続いているのでしょうか。 ここは道標に従って右手へと降っていきます。
写真は道に降り立ってから振り返って写したものです。左手の道から降ってきました。
緑は友だち 山火事注意
 (森林共済セット保険、神奈川県)
国道1号
笹竹の生い茂るようになった植林帯を降っていきます。 箱根の山越しに富士山の頂きが見えるようになると、林道終点の所から8分ほどで民家の脇に降り立ちます。 民家の前の路地を真っ直ぐに進んでいくと、程なくして国道1号に出ます。 右手にはガソリンスタンドがあります。 屏風山から47分ほどで降りて来られました。 角には、甘酒茶屋の先の登山口にあったのと同じような案内図の付いた道標が立っていて、 「甘酒茶屋70分、屏風山40分」となっていました。
関所跡入口(せきしょあといりぐち)バス停
国道に出て左手すぐの所にT字路があります。 横断歩道を渡っていくと、左手に関所跡入口バス停があります。
箱根湯本駅(箱根登山鉄道)まで、小田原駅東口行きバス,または,箱根湯本駅行きバスにて37分、 1時間に4本程度の便があります。
箱根関所跡
T字路の角には「箱根関所入口」の大きな看板が立っています。 看板に従って真っ直ぐに100mほど進んでいくと箱根関所跡があるので、時間があれば立ち寄っていきましょう。 往時の関所の様子が復元展示されていました。 奥の方へ進んでいくと関所資料館もあります。 高台には遠見番所があり、関所や芦ノ湖を一望できます。 また小さな広場もあってベンチが幾つか設置されています。 芦ノ湖などを眺めながらひと休みするのに良さそうな場所でした。 箱根の外輪山の向こうには、富士山が冠雪した頭を少し覗かせていました。
(箱根関所跡の見学時間は所要時間に含めていません)
箱根関所
箱根関所は、江戸時代の元和5年(1619)に設けられたといわれています。 しかし、それ以前の慶長年間にはすでに箱根関所が設けられていたとするのが最近の説です。 全国的に関所は「入鉄砲・出女」を厳しく取り締まりましたが、 箱根関所では鉄砲改めはせず、出女の調べに重点がおかれました。
 (出展:箱根御関所パンフレットより抜粋)
関所の掟
正徳元年(1711)に出された箱根関所の掟には次のように書かれています。
一、 関所を出入る輩、笠、頭巾をとらせて通すべき事
一、 乗物にて出入る輩、戸をひらかせて通すべき事
一、 関より外に出る女は、つぶさに証文(手形)に引き合わせ通すべき事
付−乗物にて出る女は、番所の女を指出し相改むべき事
一、 手負、死人並不審成るもの、証文なくして通すべからざる事
一、 堂上の人々、諸大名の往来かねてより其聞えあるにおいては沙汰に及ばず
もし不審あるにおいては誰人によらず改むべき事
右之条々厳密に、可相守者也仍執達如件
 (正徳元年五月 奉行)
このきびしい掟は、今の「見返りの松」の下に、高札として立てられていました。