弘法山公園
散策:2006年10月上旬
【低山ハイク】 弘法山公園
概 要 弘法山公園は丹沢の南側の低い丘陵にある公園で、弘法山・権現山・浅間山などがあります。 山頂にある馬場道には桜並木が続いています。 権現山の展望台からは富士山も見える素晴らしい景色を望めます。 今回は鶴巻温泉駅から自興院を経て弘法山へ登り、権現山を経て秦野駅へと降るルートを歩きます。
起 点 秦野市 鶴巻温泉駅
終 点 秦野市 秦野駅
ルート 鶴巻温泉駅…極楽寺…石座神社…菅原神社…自興院…弘法山…めんようの里…馬場道…権現山…浅間山…弘法山公園入口…命徳寺…弘法の清水…秦野駅
所要時間 4時間40分
歩いて... 低い山にしては弘法山への登り道はかなりの傾斜があるので、バテないようにゆっくりと登っていきましょう。 権現山からの降り道もかなりの傾斜があります。 休日とあって、弘法山や権現山には多くのハイカーで賑わっていました。 この日は天候に恵まれて、権現山の展望台からは綺麗な富士山の姿を望むことができました。
関連メモ 弘法大師と桜のみち, 弘法大師と丹沢へのみち, 高取山, 弘法山公園, 弘法山公園, 弘法山公園, 弘法山公園,
弘法山公園, 弘法山公園
コース紹介
鶴巻温泉(つるまきおんせん)駅
鶴巻温泉駅(小田急小田原線)の北口から歩いていきます。
弘法山へは、「弘法の里湯」の前を通って東名高速の下をくぐり、 石標の立つ比々多村分岐から吾妻山を経て尾根道を登っていくルートがよく整備されていて一般的なのですが、 今回は、菅原神社や自興院を経て弘法山へ直接登っていくルートを歩いていきます。
落幡村村名保存碑
鶴巻地区は、昔は「落幡村」といい、江戸時代の天保期(1830年代)には、 戸数119戸を数える米の有数な産地でした。 地名の由来にはいくつかの説がありますが、代表的なものは、 隣村の領主善波太郎が空を飛ぶ幡曼荼羅(はたまんだら)を射落とし、 落ちたところが「落幡」になったということです。 昭和2年の小田急開通時には、駅近くの小字名「鶴巻」をとって駅名とされました。 このため鶴巻の知名度が高くなり、昭和30年、秦野市への合併を機に落幡を鶴巻に改めました。 現在、落幡の名称は落幡神社に残されています。
 (秦野市)
改札口を出て左手すぐの所に短い階段があって、 「秦野弘法山コースクイズハイキングスタート」の看板がそこを指していますが、 今回はその階段は見送って、駅舎沿いにバスターミナルを進んでいきます。 バスターミナルの端まで行って道路を渡って「秦野警察署鶴巻交番」や公衆トイレの前を過ぎて、 その先へと続く車道を進んでいきます。 1分ほど進んでいった所にあるコンビニの先のT字路を左折していくと、道の右手には田んぼが広がっていました。 稲刈りは既に終わっていて、脱穀して残った稲藁が田んぼに立てかけてありました。 その奥には、吾妻山から弘法山へと続く丘陵が続いていました。
極楽寺
石仏を過ぎて石垣の続く道を登り気味に進んでいきます。 カーブミラーのある分岐を左手へと曲がってS字形に進んでいくと、左手には田んぼが広がるようになります。 田んぼが終わって坂道を進んで白壁が見えてくると極楽寺があります。 左手に「曹洞宗極楽寺」、右手に「萬陽山」と刻まれた石柱を過ぎて、 庚申塔や六地蔵に出迎えられながら参道を進んでいきます。 秦野市重要文化財に指定されている「十一面観音」が安置されたお堂を過ぎていくと、正面に極楽寺の本堂があります。 左右には問いかけ小僧と托鉢小僧の像が立っていました。 六角の塔も建っていて、各々の面には地蔵像が刻まれていました。 お寺の由緒書きのようなものは見かけませんでしたが、 慶長12年に開山され、現在のお堂は享保年間に再建されたもののようです。
浄妙裡 粗苦障
人は苦悩を憂うことなく こころの精進を重ねることにより からだとこころの調和をはかり 有為な人生を歩むものである
極楽寺を後にしてその先へと進んでいきます。 程なくしてあるT字路を右折して登り気味に進んでいくと、カーブミラーのあるT字路があります。 角には道標が立っていて、左手の道は「延命地蔵」、正面の道は「石座神社」となっています。 道標「石座神社」に従って正面へと進んでいくと、すぐにT字路があります。 そこを右折して、民家と畑地の間に続く道を進んでいきます。
鶴巻小学校の石垣までくると左手へ道が分かれていきますが、その道は見送って、 そのまま石垣沿いに坂道を登っていきます。 右手にビニールハウスを見ながら進んでいくと細い道が右手へと分かれていきますが、 その道は見送って道なりに左手へと曲がっていくとT字路があります。 そこを右折して鶴巻中学校の石垣の手前を左折していきます。 校門を過ぎて坂道を越えていくと、左手の畑地の奥の方には凸凹とした山並みが見えてきます。 方角からすると箱根の山々なのだろうと思われます。
上ノ窪橋
左手へと曲がりながら降っていくとT字路があります。 そこを右手へ曲がって更に降っていくと、東名高速道路に架かる「上ノ窪橋」があります。 「皇国の神」と刻まれた馬頭観世音の石碑を過ぎて橋を渡っていきます。 橋を渡った先にある「上の窪橋西側」の信号を直進していきます。
石座神社
民家の建ち並ぶ道を進んでいくと、送電線の鉄塔「鶴巻線6」を過ぎた右手に、こんもりとした森があります。 道が二手に分かれている所に立つカーブミラーと電柱の脇に狭い横木の階段があります。 その階段をひと登りすると、すぐに石座神社があります。 右手には砂場や滑り台などの遊具があり、ちょっとした公園になっているようでした。 社殿は左手の方に建っていました。 神社の由緒などを記したものは見当たりませんでしたが、 この先で見かけた案内板によると、日本武命が東征の際に腰掛けたとされる巨石が祀られているのだそうです。 社殿の正面の先には石段が降っていて、その下の方には赤い鳥居も見えていたので、 そちらが参道になるようでした。 地元の人でしょうか、社殿の写真などを写していると、犬連れの若い女性がやってきて、 神社に手を合わせていきました。
石座神社御神徳
家内安全、交通安全、病気平癒、商売繁昌、厄災消除、学業成就
参拝作法 二拝二拍手一拝
蛇久保橋
石座神社から二手に分かれている道に戻って、左手へ降っていく方の道を進んでいきます。 ビニールハウスを過ぎて坂道を降っていくと、田んぼがありました。 その先に細い川が左右に流れていて、正面には蛇久保橋が架かっています。 橋の手前は十字路になっていて、「弘法山・吾妻山」の道標が右手の道を指していました。 角には「野仏と温泉のみち案内図」が設置されていました。 その図によると、右手の道は吾妻山から弘法山へと続くハイキングコースの途中へ登っていけるようでしたが、 今回は正面にある蛇久保橋を渡って、その先の坂道を登っていきます。
(右手の道は「弘法山公園」を参照)
主な見どころ
鶴巻温泉 鶴巻温泉は、温度約17℃〜26℃で、カルシウム含有量世界一を誇り、 リウマチ・神経痛・外傷・婦人病等に効果があります。
延命地蔵 約250年前、江戸の豪商が米寿記念に先祖供養のため建てた地蔵で、 長寿祈願と厄おとし地蔵として信仰されている。
極楽寺 慶長12年に開山された曹洞宗の寺で、現在の建物は享保年間に再建された。 本尊として釈迦如来像をまつり、境内には旗の市指定文化財、木造十一面観音立像もあります。
石座神社 日本武命東夷東征の際に於ける御跡地に、命を追慕敬仰して建立されたもので、 社殿には東夷東征の際、命が腰掛けて休息されたといわれる巨石がまつられているが、 開帳はされていない。
 (秦野市役所商工観光課)
石垣の前から右手へ戻るようにして登っていく道を見送って、左手へと曲がっていく坂道を道なりに登っていきます。 石垣に沿って進んでいくと、道が二手に分かれています。 左手の道は降っていきますが、今回は右手へと登っていく道を進んでいきます。
おおね台
民家の脇に続く傾斜の増した坂道を登っていきます。 少し緩やかになった道を進んでいくと、右手には畑地が広がっていました。 畑地が終わった先の坂道をひと登りして丘の上の住宅地に出るとT字路があります。 正面の道は降っていきますが、そこを右手へと曲がっていきます。 この辺りは「おおね台」という住宅地のようです。 住宅地には広い道が通っていて、その両側には桜並木が続いていました。
桜並木の続く広い道を真っ直ぐに進んでいきます。 並木が途切れた所の十字路を更に真っ直ぐに進んでいくと、 道路の左手の一段低い所に沿っておおね台すがわら公園があります。 公園を見送ってその先へと進んでいくと、左手に降っていく坂道が分かれていきます。 脇には秦野市の保存樹木に指定されている目通り周囲3mのタブノキがありました。
菅原神社
左手の坂道を降っていくと、程なくして菅原神社の境内の中ほどに着きます。 右手の一段低い所に鳥居があり、社殿は左手にありました。
菅原神社由緒
御祭神菅原道真公
御神徳正義・誠・学問・書道の守護
例祭日4月25日に近い日曜日(旧祭日7月25日)
鎮座地秦野市北矢名395番地
沿革 古老の話では、その昔「石名坂」・通称「石の坂」と云い、おおね台の北はずれ、弘法山への登り口に祠があって、 いつの頃か現在の所に遷され以来「お天神さま」として親しまれている。 新編相模風土記(天保12年(1841)凡そ150数年前)には「北矢名天神社」と明記されているので、 少なくともそれ以前にこの地に祀られ、地域住民の信仰の中心となってきたと思われます。
略記 御祭神「菅原道真公」は平安前・中期の公卿菅原是善の子。 文章博士、蔵人頭、参議を経て、宇多天皇の時に遣唐大使となるが派遣中止を奏上。 醍醐天皇即位に際し、宇多天皇より菅原時平と共に補佐を命ぜられ、右大臣従二位に昇る、 が権勢の拡大を藤原氏から疎まれ、 延喜元年(901)醍醐天皇の廃位と斉世親王の擁立を企てたとの作り話で大宰府に左遷されその地で没す。 没後「天満大自在天神」として崇敬され、大宰府天満宮・北野天満宮などに祀られ、 のちに「正一位左大臣」を追贈された。
追記 いつの時代にも他人の立身出世を妬んで追い落とすのは今も昔も変わらない。 道真公は大宰府に左遷された無念遣る方ない気持ちを歌に託して京の都を後にしたのです。 そのせいかお祭りに不思議と雨の日が多いのも或は藤原時平を怨んでの涙雨かも知れません。
東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
注連縄の渡された鳥居をくぐって参道を降っていくと、 これから向かっていく弘法山や権現山が右手に見えるようになります。 笹竹の脇の石段を降っていくと道路に降り立ちます。
真っ直ぐに進んでいった突き当たりのT字路を右手へ曲がると、すぐに道が二手に分かれています。 その分かれ道の角に道標が立っていて、左手の道は「自興院」、 手前のT字路を左手へ曲がっていく道は「東海大学前駅歩15分」、今歩いてきた道は「菅原神社」となっています。 道標「自興院」に従って左手の道を進んでいくと、またすぐに左手へ道が分かれていますが、 そのまま真っ直ぐに進んでいきます。
小さな沢を渡って小川沿いの道を真っ直ぐに進んでいくと、カーブミラーのある分岐があります。 坂道が右手へ分かれていきますが、白いガードレールの付いた正面の橋を渡って、 左手へと曲がていく坂道を登っていきます。 右手に分かれていく土の道(*)を見送って坂道を更に登っていくと、次第に右手へと曲がっていきます。 左手へ道が分かれるT字路を直進して、畑の脇に続く坂道を更に登っていきます。 畑にはミカンが栽培されていて、美味しそうな実が沢山生っていました。 民家の脇を過ぎていくと、道が二手に分かれています。 角には「この先 左の道路は通り抜けできません」との看板が立て掛けられていました。 それ以外に道標類は見当たりませんでしたが、ここは右手の道を進んでいきます。
*後日に歩きました。「弘法山公園」を参照。
ミカン畑などを見ながら進んでいくと、道の両側に大きな石柱が立っています。 右手は「金鳳凰山」、左手は「自興禅院」と刻まれていました。 右手の脇には赤い頭巾を被った六地蔵が並んでいました。 ここからが自興院の参道ということなのでしょうか、石柱の脇に「自興院」の解説板も立っていて、 「不許葷酒入山門」と刻まれた石柱も立っていました。
自興院
山号を金鳳山と号す。曹洞宗。 本尊は釈迦如来坐像で文殊菩薩・普賢菩薩を脇侍としてまつる。 平塚市下吉沢松岩寺の末寺として陽始ァ甫大和尚(天文19年10月示寂)によって開山された。 その年代は不祥であるがおよそ500年位前の室町時代と思われる。 開山当時の本堂その他の諸堂は焼失したかどうかは不明である。 現在の本堂は今から240年あまり前の寛保元年(1741)3月に当寺九世拈毛一吹大和尚の代に建立されたものである。
 (秦野市観光協会)
自興院
石柱を過ぎてその先へと進んでいきます。 浅い谷間に広がる畑地などを眺めながら進んでいくと、右手に曲がっていった所に自興院があります。 鶴巻温泉駅から1時間10分ほどで到着しました。 短い石段を登っていくと境内になります。 本堂の右手の方には庫裏のような建物もありました。 本堂は歴史を感じさせる佇まいで、境内は苔むしていたりもして、古刹の雰囲気を漂わせていました。
いつの時も 心安らふ 峡のみ寺 精藍を求めぬ 禅の簡素に 正一
石段から自興院の境内を出て左手へと曲がっていきます。 少し登っていくと、墓地の前で道が左右に分かれています。 左手の竹林沿いに左折していくと墓地はすぐに終わって、 コンクリート舗装されたかなり傾斜のある坂道を登るようになります。 左手にはミカン畑が続き、振り返ると樹木越しに秦野の街並みも見えていました。 土の道になったミカン畑の脇の道を更に登っていくと、自興院から5分ほどで、細い道が右手へと分かれていきます。 「←弘法山」と書かれた小さな道標が立っていて、右手の道を指していました。 ここから弘法山へと続く山道が始まります。 一段と傾斜の増した細い山道を登っていきます。 余り歩かれていないのか道が左右に傾斜していて、何だか先行きが不安になってきたりもします。
八幡神社分岐
ミカン畑の脇に続く細い道をZ字形にジグザグに登っていくと、2分ほどで畑が終わって森の中へと入っていきます。 雑木林の中を登っていくと、しっかりとした山道が続くようになります。 しかし余り歩かれてはいないようで、倒れた細い木が道に横になっていたりもしました。 各所には蜘蛛の巣があったりもして、鬱陶しい思いをしながら登っていきます。 夏草が生い茂った所を抜けていくと、畑地から森へ入ってから7分ほどで、少し開けて明るくなった分岐に出ます。 左手からも山道が登ってきていますが、そちらの方がしっかりとした道になっていました。 角には道標が立っていて、左手へ降っていく道は「東海大学前駅 八幡神社経由」となっていました。 今登ってきた道には何も示されてはいなかったので、左手の道の方がよく歩かれているようでした。
(後日に左手へ降っていく道を歩きました。 「高取山」,「弘法山公園」を参照)
八幡神社分岐を右手へと登っていくと、すぐに道が二手に分かれています。 正面の道は坂道で、左手の道は傾斜の増した横木の階段になります。 道標が立っていないのでどちらへいったものかと暫し考えた末、今回は左手の横木の階段を登っていきました。 1分ほど登って緩やかな道になると、半球の上に石碑が立っていました。 脇には壊れた解説板が落ちていました。 読めない部分もかなりありましたが「浅間大神」の跡のようでした。
浅間大神の碑
江戸時代富士山信仰が盛んだったころ村の人々が富士山の神(浅間大神)をまつり___したものです
ここからは富士山は見えませんでしたが、箱根の山々を望むことができました。
緩やかになった道を2分ほど進んでいくと、先ほど分かれた道が右下に続いていて、 そこへ降りていく横木の階段が分かれている所がありました。 正面の先にある丸太のベンチを過ぎていくと、弘法山の山頂へ続く横木の階段が始まります。 道はしっかりとしていて歩きにくくはありませんが、傾斜が結構あるのでゆっくりと登っていきましょう。 振り返ると秦野の街並みの眺めが広がる所もあったりします。
弘法山 (標高235m)
横木の階段を5分ほど登っていくと弘法山の山頂に着きます。 自興院から30分ほどで到着しました。 山頂は広くなっていてベンチも設置されています。 樹木に覆われていて展望は余りよくありませんが、東側が開けていて、 手前の樹木に邪魔をされながらも秦野の街並みなどを望むことができます。 山頂にある釈迦堂は御開帳されていて、中に安置されている弘法大師像を見ることができました。 釈迦堂は大師堂とも呼ばれているようです。 休日とあって多くのハイカーが登ってきていて、休んだり食事をしたり眺めを楽しんだりと、 思い思いにひと時を過ごしていました。 どういう訳だか山頂には猫が沢山いたりもします。 こんな所で飼われているようにも思えないので野良猫なのだろうと思います。 ハイカーを目当てにして集まってきているのでしょうか。
弘法山の歴史
弘法山の名前は弘法大師(774〜835)がこの山頂で修業したことから名付けられたとの伝承があり、 権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある。 弘法山は麓の龍法寺と深い関わりを持ち、戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。 鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。 弘法山の鐘は、享保頃(1716〜35)に龍法寺5世無外梅師と行者の直心全国が発願し、 弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。 明和3年(1766)に山火事でひび割れ、 再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の松操智貞尼の尽力により 徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て享和元年(1801)5月に完成した。 鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。 現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである。
 (秦野市)
釈迦堂(しゃかんどう)
山頂には弘法大師の旧跡であることから、古くより福泉庵という堂があった。 江戸時代の中頃に龍法寺の僧馨岳永芳はこの荒廃を嘆き新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を祭って釈迦堂としたが、明和3年の火災で釈迦像が焼失し、石造であった弘法大師像はこの時から露座となった。堂の再建後は弘法大師の木造のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の台風で被害を被り長く仮堂であったが、昭和39年に現在の釈迦堂が完成した。
経塚】 釈迦堂の後部には鎌倉時代後期の経塚があった。 経塚は経典を書写したものを埋納した仏教上の施設で、末法思想から生まれた。 日本では平安時代末期に出現し、藤原道長が金峰山に般若心経一巻他を埋納した事が知られている。 弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され当時は大甕の口縁部が露出した状態で、経石も散乱していた。
】 口縁部が楕円形をし、長径68cm、深さ75cm、腹部から急に細くなっている。
経石】 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石経、経題のみ大型石に記載されていた。
経筒】 鋳銅製経筒の一部と見られる破片が出土、推定直径12cm。その他陶製の灯明皿が出土している。
 (秦野市)
弘法山の山頂には「弘法の乳の水」という井戸もあり、手押しポンプで汲み上げて飲むことができます。 私もポンプを押して水を汲んで飲んでみました。 キューンするような冷たい水という訳ではありませんが円やかな味がしました。
弘法の乳の水
この井戸は、昔から「弘法の乳の水」と呼ばれています。 この井戸から湧き出た水は、白くにごり、いつも乳の香りがしていたそうです。 いつの頃からか「真夜中に、誰にも知られずに山に登り、 乳の水を飲むと、乳がどくどくと出るようになる」と伝えられ、 この水をいただきに山に登る人が後を断たなかったと言われています。 いつの世も、子を持つ親の心は変わりません。 乳の出ない辛さにワラをもつかむ気持ちだったのでしょう。 その救いの神がこの白い井戸水でした。 なぜこんな山頂に不思議な白い水が・・・。 それは弘法さまのお力だと伝えられています。
 (秦野ラインズクラブ)
乳の井戸
山頂に白色の水の湧く古井戸がある。 これで粥を炊き食すれば乳が出るという信仰から「乳の水」と称して 昭和30年代初めまで授乳期の母親や妊婦が遠方からも水を求めてきた。 かつてはこの井戸の脇に二つの池があり、夏には太い柳の下で蛙が鳴き、 金魚の紅い色が水面に映じて美しく静かな時が流れていたが、 関東大震災の後に水涸れが起こり一つを埋めてそこに桜を植えた。
 (秦野市)
鐘楼
ハイカーの皆様へ
この鐘は、時を知らせる鐘として、正午、3時、夕刻等につかれ、長い間地域の人達に親しまれておりました。 大切に扱うとともに、むやみに鐘をつくことは御遠慮下さい。
 (秦野市観光協会)
めんようの里分岐
弘法山で30分ほど休憩して疲れも取れたところで、権現山を目指して進んでいきます。 道標「弘法山公園権現山0.8km」、「弘法山公園浅間山1.2km」、「秦野駅3.1km」に従って、 正面に真っ直ぐに続く坂道を降っていきます。 両側が坂になっていて中央部は階段状になっていて歩きやすくなっています。 ベンチのある広場を過ぎていくと、やがて普通の緩やかな道になります。 右手に丹沢の山々を眺めながら進んでいくと、山頂から5分ほどで分岐があります。 角には「かながわの景勝50選 弘法山」の石碑があります。 「弘法山公園」と題した木の案内図や「弘法山公園案内図」も設置されているので参考にしましょう。 弘法山・権現山・浅間山にかけてのこの辺り全体を「弘法山公園」と呼ぶようですが、 「公園」とは云っても低いながら「山」なのであります。 この弘法山公園は「かながわの探鳥地50選」にも選ばれていて、 メジロ・シジュウカラ・エゾビタキ・ホオジロ・コジュケイ・エナガ・アオジ・ コゲラ・イカル・キジバト・ウグイス・ヤマガラ・ヒバリなどが見られるようです。
角に立つ道標によると、正面の道は「弘法山公園権現山0.5km」、 右手に戻るようにして続く道は「めんようの里・木里館」、今降ってきた道は「弘法山公園弘法山0.3km」となっています。 また関東ふれあいの道の道標も立っていて、 正面の道は「権現山・南平橋」、右手の道は「蓑毛」となっています。 権現山へは正面の道を進んでいくのですが、右手のすぐ下に「めんようの里」があるので、 ちょっと立ち寄っていきましょう。
弘法山公園鳥獣保護区区域図
この区域は鳥獣の捕獲が禁止されております。 鳥獣の保護にご協力をお願いします。
 (神奈川県)
自然の草花を大切にしましょう。
 (秦野市商工観光課、秦野市観光協会)
めんようの里
広くて緩やかな坂道を降っていきます。 左手に大きく曲がって傾斜が少し増してくると、右手の斜面には牧草地が広がっています。
この時には沢山の「めんよう」が牧草地に放牧されていました。 間近にも寄ってきてくれてなかなか愛いヤツでした。 「綿羊」と書くことからも推測されるように、「メエ〜」という声で鳴いていました。
木里館(もくりかん)
牧草地の下の方には「茶屋弘法」の木里館があります。 「季節料理とじんぎすかん」を商う店で、営業時間は月曜日以外の11:30〜22:00とのことです。 メニューとしては、ジンギスカン焼・テラスバーベキュー・鍋料理や、 アジたたき定食などの定食や弁当などがあるようです。 権現山・伊豆・弘法山という名前のメニューもありました。 内訳を見ると美味しそうでしたが、 オニギリを持参してきていたので、お店に入って食べるのはまたの機会にしておきました。
馬場道
先ほどの分岐まで引き返して、権現山へと向かっていきます。 弘法山から権現山へと続く尾根道は、山の上にある道とはとても思えないほど広くなっています。 このなだらかな道は「馬場道」とも呼ばれていて、戦前に近在の農民が草競馬を楽しんだ所なのだそうです。 道の両側には桜の木が植えられていて、桜の名所にもなっています。 分岐から1分ほど進んでいくと、東海大学前駅へと降っていく道が左手に分かれていきます。 その脇には「百八松明」の解説板がありました。
(東海大学前駅への道は「弘法山公園」, 「弘法山公園」を参照)
百八松明(ひゃくはったい)
秦野市南矢名瓜生野地区に室町時代から伝わる旧盆の行事として続いている厄除、豊作を祈る火の祭りです。 旧盆の8月14日と15日の夕刻、麦わらで作った直径30〜40cm、長さ1.0〜2.5mのたいまつ約70本を権現山に運び、 午後7時過ぎに辺りが暗くなるのを見計らって大きく積み上げた麦わらに点火、 参加者銘々がその火から自分の松明に点火し、 年少者から順次麓の龍法寺の山門付近までおろします。 麓では、女性を中心に今や遅しと待ち受け、一年の無病息災を祈って火の粉をかぶる慣わしがあります。 暗い山の斜面を延々と動く松明は火の帯となってたいへん壮観です。
 (秦野市観光協会)
関東ふれいあいの道の里程標を過ぎていくと、女坂が右手へと分かれて降っていきます。 その先の方からは富士山が綺麗な姿を覗かせていました。 女坂を見送って広い道を更に進んでいきます。 「森に生きる」と題された彫像や公衆トイレを過ぎていくと、男坂が右手へと分かれて降っていきます。 男坂も見送って広い道を更に進んでいきます。
(女坂は「弘法山公園」, 「弘法山公園」を参照)
とって良いのは写真だけ 残して良いのは思い出だけ
ビン、カンの投げ捨て禁止!! ごみは持ち帰りましょう!!
 (秦野あづまライオンズクラブ)
燃やすまい みんなが来る山 歩く山
 (神奈川県)
ベンチやテーブルが並んだ展望地を過ぎていくと、「秦野たばこ」の解説板や記念碑が立っています。 そのすぐ先で道が二手に分かれています。 右手の道は「弘法山公園権現山(展望台)まわりみち」、左手の道は「弘法山公園権現山(展望台)0.2km」となっています。 今回は左手の坂道を登っていきました。 弘法山からの降り道と同じく、中央に階段があって両側は坂になった道が続いています。 かなり傾斜があるのでゆっくりと登っていきましょう。
秦野とたばこの歴史
秦野は、江戸時代初期から、「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及ほし、 味の軽いことから吉原のおいらんに好まれるなど、高く評価されていました。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。
水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る。
と歌にも謳われたように、秦野たばこの特色は優れた耕作技術にありました。 特に苗床は、秦野式改良苗床として、全国の産地に普及したほど優秀なもので した。この苗床には弘法山をはじめ各地区の里山から落ち葉がかき集められ、 堆肥として使用されました。秦野盆地を囲む山林はたばこの栽培に欠かすことのできない場所でした。 明治時代には、秦野煙草試験場や葉煙草専売所が設置され、たばこの町秦野 が発展しました。秦野たばこは水車きざみ機の開発により、大いに生産が拡大 しました。また品質の高さから、御料用葉煙草も栽培されました。 昭和に入って両切りたばこの需要が増えると、次第に秦野葉の栽培は減少し ていきました。秦野市が誕生してからは都市化が進み、昭和59年にはた ばこ耕作そのものが終わりを告げました。 秦野のたばこ栽培は300年以上の長い歴史を持ち、多くの篤農家や技術者を 生み出し、その高い農業技術には今日に今なお継承され、秦野地方を埋め尽くし たたばこ畑はなくなっても、優秀な葉たばこを作った先人たちの心意気はこの 土地にしっかりと息づいています。
 (秦野市)
「秦野たばこ」の一生
たばこの里、秦野のたばこ作りは江戸時代初期からの歴史があり、その最盛期には、 ほとんどの農家がたばこを作りました。「秦野たばこは技術で作る」といわれ全国に名声を博すほどに なりましたが、時の移り変わりとともに衰退し、昭和59年には、ついにその幕を閉じることとなりました。 秦野の経済発展の源となった「たばこ耕作」が、時とともに人々の心から失われぬよう、 たばこ耕作終息10周年に当たり、秦野の「たばこ作り」をここに記します。 なお、たばこの廃作に当たっては、「秦野たばこ作りの火を消すな」と耕作の継続を希望する多数の 農家があったことを付記します。
 (昭和59年度廃作者一同)
1〜3月
(苗床期)
たばこ作りは、正月早々からの苗作りから始まります。 たばこの種子は、1グラムで1万2千粒あるといわれるほど小さいので、 苗床の管理には細心の注意を図り、たばこの芽が出ると、 自分の子供以上に大切に育てます。
4〜6月
(本畑期)
畑に肥料を施し、10アール当たり約4千本もの苗を移植します。 土寄、心止、芽かき、そして台風から苗木を守るための準備など、 休む間もなく仕事は続き、畑の品評会で入賞すると、畑に入賞旗が立てられます。
7〜8月
(収穫,乾燥期)
いよいよ収穫が始まります。この時期が一年で最も忙しい時期であり、 子供たちも学校が夏休みになるので、炎天下でまっ黒になって収穫を手伝います。 そして、収穫した「たばこの葉」は一枚一枚丁寧に縄に編み、竹につるして天火で乾燥します。
9〜10月
(葉のし,調理)
たばこの乾燥が終わると、互いに向き合って、葉のしわを一枚一枚手で伸ばす「たばこのし」が 始まります。この作業は「夜なべ仕事」といって、どの農家でも夜12時ごろまで裸電球の下で行います。 そして、伸ばした葉は、葉の質により等級に分別「調理」し、一束30枚ほどに束ねます。 たばこ葉は「お札」ともいわれ大切に取り扱われました。
11〜12月
(納付)
いよいよ牛車や荷車にたばこの葉を載せ、専売局に納入します。 専売局では、鑑定人が葉を鑑定し、値段を決めます。 この時が一番緊張しますが、この一瞬で農家の1年間の苦労が報われるかどうか決まり、 この瞬間悲喜こもごものドラマが展開されました。専売局の帰りには、夏休みに手伝いをした 子供たちへの土産や、正月の晴れ着などを買い込んで家路につきます。
 (秦野市観光協会)
権現山 (標高243.5m)
坂道を4分ほどで登りきると権現山の山頂に着きます。 弘法山から40分ほどで到着しました。 ここは関東ふれあいの道の「弘法大師と桜のみち」と「弘法大師と丹沢へのみち」のコースにもなっていて、 その案内板も設置されています。 権現山の山頂は弘法山よりも広くなっていて、多くの人たちがやってきていました。 丁度昼時になったので、持参したオニギリなどを頬張りながら休憩していきました。
権現山の歴史
通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を千畳敷きとも呼ぶ。 権現山は元々その名の由来とする権現堂があったために名付けられたものである。 龍法寺の伝えに依れば権現山には白山妙理権現が祭られ、 その本地仏として現在龍法寺に安置されている十一面観音菩薩が字観音山に祭られていたという。 また、明治の末頃までは堂の位置を示す土壇も認められたという。 最近の城郭調査によると山頂の北西端には二段の腰郭、東端近くの西南側にも細長い腰郭が 取り巻き大小14箇所もの平場がある。いずれも西北を向いていることから権現山からみて西 (秦野方面)に対する備えを目的としているようである。 築造の時代は室町期の城郭址との報告もだされているが、権現堂との関わりは不明である。
 (秦野市)
フィールドの約束
)野外活動は無理なく楽しく
)採取はしないで自然はそのままに
)静かにそーっと
)一本道、道から外れないで
)着るものにも一工夫
)持って帰ろう、思い出とゴミ
)近づかないで、野鳥の巣
シジュウカラ 胸に黒いネクタイの模様があり、平地から山地の林に棲む。ツピーツピーと歌う。
メジロ 黄緑色の体で、目の周りに白いリング。林で昆虫や花の蜜を食す。都市にも増加中。
コゲラ 黒褐色と白のまだら模様の小形のキツツキで、木の幹を叩いたりギィーッと鳴く。
 (神奈川県環境部自然保護課)
関東ふれあいの道 弘法大師と丹沢へのみち
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 自分の足でゆっくり歩いて、豊かな自然にふれ、歴史などをたずねながら、ふる里を見なおしてみませんか。 このコースは、県内17コースの一つで、 権現山・弘法山・龍法寺・前田夕暮の歌碑・鐘楼・大師堂・波多野城址・源実朝公御首塚・金剛寺・宝蓮寺などがみどころです。
 (環境庁・神奈川県)
左手の方にある「公園展望台」からの眺めは素晴しく、 丹沢山塊や三浦半島、房総半島、関東平野の雄大な展望を楽しむことができます。 この時は天候もよくて、富士山や箱根連山や伊豆大島なども見えていました。
公園展望台
弘法山公園には、市内外から多くの観光客が訪れています。 また、元旦の「歩け歩け運動推進大会」や「弘法山桜まつり」「瓜生野百八松明」等 伝統行事の舞台にもなっています。 眼下に秦野の街を、そして、相模湾、霊峰富士、丹沢大山連峰を望む権現山のこの場所には、 昭和25年に神奈川県及び神奈川新聞社の主催による「神奈川県新八景」に当選したことを 記念して建てられた見晴台がありました。 建築後50年を経て老朽化していたこともあり、21世紀を迎える記念事業として、 このまちの限りない発展と世界の恒久平和を祈念し、この展望台に建て替えたものであります。
  (秦野市長)
「関東の富士見百景」選定地
弘法山公園展望台は、2001年に建て替え、雄大な霊峰「富士山」を背景に 「水とみどりのゆたかな里」秦野盆地を望む展望ポイントとして、市民や来秦のハイカーの皆さんに親しまれています。 そして、良好な景観の維持・保全のため多くの市民が行う清掃やゴミ拾い等の活動が高く評価され、 2005年11月「関東の富士見百景」に選定されました。 また、市政施行50周年記念事業で公募した「ふるさと秦野景観100選」でも、 ここからの富士山の眺望が最も多くの市民の支持をあつめました。
 (秦野市)
弘法山公園「公園展望台」竣工記念 「短歌・俳句で祝う新世紀」入選作品
 一席 若き日を 戦時での農に 耐え抜きて いま新世紀の 初日拝む
 一席 赤富士に 託す初日よ 新世紀
 二席 あらたまの 光を浴びる 八角の 展望台は 富士と真向ふ
 二席 雲の間に 初日出でたり 展望台
 三席 新しき 展望台に 雪富士を 仰ぎあらたな 世紀を踏み出す
 三席 初富士の 桃いろの染む 世紀かな
 佳作 夕暮の 歌碑て喜び ゐるならむ 権現山に 展望台成りて
 佳作 日の出まつ このひとときに 夢たくし ごんげん山に 年の明けゆく
 佳作 新世紀 背筋正して 初日の出
 佳作 初日の出 ぼくらの未来 照らし出せ
山頂の右手の方にある前田夕暮の碑の先には権現山バードサンクチュアリがあります。 木製の壁には小窓が幾つも開いていて、そこから覗くことができます。 この時には超望遠レンズをつけたカメラを三脚の乗せて鳥を狙っている人たちが多くいました。
水場にくる野鳥たち
メジロ 全長11.5cm。うぐいす色で目のまわりが白い。チーチーと鳴く。
ヤマガラ 全長14cm。オレンジ色のおなかが目立つ。ツーツーピー、ツーツーピーとゆっくりさえずる。
シジュウカラ 全長14.5cm。ほほが白く、白いおなかに黒いネクタイもよう。ツツピーツツピーとさえずる。
エナガ 全長13.5cm。白いおなかに黒とピンク色の翼が目立つ。尾が全体の半分の長さ、群れで生活。チーチーチー、チャッチャッ、ジュリリと鳴く。
ホオジロ 全長16.5cm。白い顔で目の下と口元に黒い線。飛ぶと尾の外側の白が目立つ。チチッ、チチッと鳴き、「一筆啓上仕候」のききなしでさえずる。
ジョウビタキ 全長14cm。オスのオレンジ色のおなかと、オス・メスのつばさの白い斑が目立つ。ヒッヒッと鳴き尾をふる。
ルリビタキ 全長14cm。背のるり色があざやか。脇のオレンジ色もポイント。ヒッヒッ、ギュッギュッなどと鳴く。
キビタキ 全長13.5cm。黒い体に黄色の胸、腰、まゆが鮮やか。さえずりが美しい。ピッコロピッコロ、オーシイー、ツクツク、チンチロリン。
オオルリ 全長16.5cm。顔が黒く背がるり色。昆虫などをフライキャッチでとらえて食べる。ピーリーリー、ポイヒーピヒ、ピールリピールリ、ジェッジェッなどとさえずる。
エゾビタキ 全長14.5cm。オス・メス同色で胸の縦じま模様が特色。ハエなどをフライキャッチしたり木の実を食べたりする。渡り途中にチリリ・・・・と鳴く。
小鳥たちにエサを与えたり、まいたりしないで、自然の小鳥を観察しましょう。 みんなの協力で楽しい公園にして下さい。
権現山で30分ほど休憩して、お腹も満ちて景色も堪能したところで、浅間山へと向かっていきます。 道標「秦野駅2.3km」、「弘法山公園浅間山0.4km」、「弘法山公園浅間山駐車場」に従って、 公園展望台の右手から続く幅の広い横木の階段を降っていきます。 森の中へと入っていくとロープが張られていたりもしますが、危険な感じはありません。 しかし、段差が結構あって傾斜も急なので、歩きにくい思いをしながら降っていきます。 5分ほど降っていって車道に降り立つと、目の前には弘法山公園浅間山駐車場があります。 車道を左手へと曲がっていくと、すぐに車道から右手へと分かれていく階段があります。 角に立つ道標「弘法山公園浅間山0.2km」に従って、その短い階段を登っていきます。
階段の先の緩やかな尾根道を右手へと曲がっていくと、 ベンチやテーブルが設置されていて、丹沢の山並みなどが望める見晴らしのいい所がありました。 そこを過ぎて広めの緩やかな尾根道を進んでいきます。
浅間山
明るい尾根道を真っ直ぐに進んでいくと、程なくして浅間山に着きます。 権現山から10分ほどで到着しました。 小広くなった広場になっていて、先の方へと尾根に沿って細長く続いています。 山頂には「浅間山」と記された大きな標識や東屋もありました。 手元の地形図によると、標高190mほどはあるようです。
南西側が開けていて、秦野の街並みやその奥には箱根の山々を望むことができました。 道標「秦野駅1.9km」に従って広い尾根を少し先の方へと進んでいくと、 木材を縦に埋め込んだ道が続いていました。 テーブルやベンチのある所までくると「浅間山」の標識が立っていて、 その辺りからは富士山を望むことができました。
標識を過ぎていくと、降りの傾斜が次第に増してきます。 右手にあるこんもりとした開けた所を見送って、雑木林の斜面に続く坂道を降っていくと、 程なくして横木の階段が現れます。 かなり傾斜のある階段なので滑ったりしないよう気をつけながら降っていきます。 右・左とジグザグに折れ曲がりながら降っていくと、植林帯へと入っていきます。
植林帯の中を更にジグザグに降っていくと、ふたたび雑木林になってきます。 途中の角にはテーブルがひとつポツンと設置されていたりもします。 雑木林の中を更に降っていって正面に赤い屋根の建物が見えてくると、 浅間山から15分ほどで小さな川の畔に降り立ちます。 これで山道は終わりになります。
弘法山公園入口
川沿いに左手へと進んでいくと、神奈川県内広域水道企業団の水道設備が見えてきます。 そこに架かる小さな橋を渡り、柵に沿って続く細い道を右手へ進んでいくと県道71号に出ます。 県道に出た所には「弘法山公園入口」の大きな看板が立っています。 その袂には道標も立っていて、これまで歩いてきた道は「権現山(展望台)0.9km・浅間山0.5km」、 「鶴巻温泉駅5.6km・吾妻山4.7km」、「弘法山公園弘法山1.7km」となっていました。 道標「秦野駅1.4km」に従って、県道を左手へ進んでいきます。
金目川に架かる弘法橋を渡った先の河原町交差点を直進していきます。 水無川に架かる新常盤橋の手前の新常盤橋交差点を右折して、水無川沿いに進んでいきます。 橋の手前に立つ道標「秦野駅」が右手の道を指していました。
命徳寺
川沿いに少し進んでいくと、右手に命徳寺があります。 赤い頭巾や前掛けをした六地蔵に出迎えられて参道を進んでいくと、 秦野市の重要文化財にも指定されている茅葺き屋根の山門があります。 山門をくぐっていくと本堂があります。 大きな樹木に囲まれて静寂な佇まいでした。
天台宗
総本山 比叡山 延暦寺
高祖 天台大師 智
宗祖 伝教大師 最澄
立教開宗 桓武天皇 延暦25年(平安時代の初期)
本尊 法華経に説かれている久遠実成の釈迦如来と、すべての諸佛・諸菩薩等は同類一体である。 よって、それぞれの縁に随って奉安敬信する。
教義 法華経に述べられている一乗真実の教説を根本として、密教・禅法・念佛等をその実践門とする。
経典 法華経に示されている諸法実相の立場を基本として、ひろく大乗経典を讃仰・読誦。
当山本尊 不動明王
本堂のご本尊さまに先ず合掌
秦野市指定重要文化財 命徳寺山門
この山門は「薬医門」といわれる形式で、二本の本柱とその背後の二本の控え柱の、計四本の柱でできています。 正面2.4m、側面約1.5mで、寺院の門としては比較的小規模です。 屋根は茅葺きの切妻造です。 茅葺がそのまま残された門は珍しく、たいへん貴重です。 また小規模ではあっても細部の構造はなかなか複雑で、大きくそりあがった太い垂木とともに 繊細でありながら力強い表現がこの門の特徴です。 主要な部材は欅で、当初の部材が多く残されています。 建立年時を確定する資料は残されていませんが、細部の様式などから17世紀初期ごろの建築と推定され、 市内では最古の山門です。
 (秦野市教育委員会)
命徳寺を後にして水無川沿いにその先へと進んでいきます。 常盤橋を渡った所にある太秦町交差点を右折して 水無川沿いに進んで携帯電話販売店の所まで来ると、 歩道の中ほどに立っている短い支柱に「←弘法の清水」と書かれていました。 ここを左折して100mほど行った所にあるので、ちょっと立ち寄っていきましょう。
弘法の清水
路地を真っ直ぐに進んでいくと、程なくして「弘法の清水」があります。 「全国名水百選 秦野盆地湧水群復活宣言」と書かれた柱が脇に立っていました。 屋根をされた出口からは水が勢いよく流れ出ていました。 柄杓も置かれていて飲めるようでした。 私もすくって飲んでみました。 大きなポリ容器を持参して水を汲みにきている方も見かけました。 そばにあった解説板によると、一時期に於いて水が汚染されたこともあったようですが、 公民協働で浄化事業に取り組まれた結果、 平成16年に「秦野盆地湧水群復活宣言」をする運びとなったようです。
弘法の清水(臼井戸)の由来
地元では臼井戸と呼び、湧水地主の代々の言い伝えは次のとおりです。
夏の暑い日盛りに、一人の法師が立ち寄られ水を所望された。 妻女は水がめを見たが一滴の水もありません。 「ただいま汲んでまいりますのでしばらくお待ちください」と、寺の地まで水を汲みにいって立ち返った。 法師は恐縮し、その親切と労に感謝をし、錫杖を地面に突きさし穴をあけ、 「三日たったら、底をくり抜いた臼をここに据え置きなさい。必ず水が出るであろう」と立ち去られた。 法師の言ったとおりにしたところ臼の中から清水が湧き出してきた。 臼の中から湧き出る水、臼井戸と呼ばれ、古来この地の地名となり、後に、 子々孫々へ語り継がれる中で弘法大師の伝説と結びつき、立派な民話となった。 この天然の清水は、深い地層の洪積層から湧き出ており、 どんな日照りの年でも水が枯れることはなく、水量が日量130トンと安定している。
 (地元管理者臼井戸水神講、秦野市観光協会)
全国名水百選 秦野盆地湧水群
秦野市前身の曽屋村は、横浜市・函館市水道に次ぎ全国で三番目の歴史を有する近代水道を、 明治23年3月に湧水を水源として始めた。 秦野盆地の地下構造は、地下水を貯留する天然の水がめとなっており、 3億トン(芦ノ湖の1.5倍)と推計される豊富な地下水の恩恵を享受してきた。 しかし、昭和40年代に入り水需要の増大と広域水道の導水路築造工事により、 地下水の水位低下と一部井戸の枯渇を経験し、 これを契機に昭和45年から秦野盆地の地質や地下水の水収支調査に着手した。 昭和50年からは、地下水の人工かん養事業と地下水利用協力金制度を始めるなど、 水とのかかわりや水に対する意識が大変高い土地柄です。 昭和60年には、こうした地下水利用の歴史や地下水保全活動が評価され、 「秦野盆地湧水群」が環境庁(現環境省)の選定した全国名水百選に選ばれ、自他ともの認める名水の里となった。 「弘法の清水」は、長年にわたり地元水神講の皆様が管理・保全し、秦野盆地湧水群を代表する湧水です。 秦野駅周辺には、多くの湧水や自噴井戸が点在しており、おいしい水の里を散策してみてはいかがでしょう。
名水復活への道のり
名水選定の喜びも束の間、平成元年1月にこの「弘法の清水」が、 発がん性の疑いのある化学物質「テトラクロロエチレン」に汚染されていると判明、 市民に大きな衝撃と不安を与えた。 当時、地中の汚染物質を取り除く技術は未確立、地下水の入れ替えも困難、不治の病といわれた。 暗中模索の中で、地下水汚染機構の解明調査に着手し、幸いにも表層土壌の汚染状況や 地層・地下水流動を明らかにすることができた。 平成6年1月、全国に先駆けて「秦野市地下水汚染の防止及び浄化に関する条例」を施行、 市が対象物質を使用した131社を調査、うち基準値を超過した45社を関係事業者に指定し、 汚染原因者の負担で詳細調査を行った。 汚染状況から浄化費用が200億円と積算され、関係事業者の費用負担が新たな課題となった。 市では中小時御者の支援策として、土壌ガスを吸引する掃除機のような小型の浄化システムを開発し、 無償で貸与する制度を新設。 大手企業は自ら浄化装置を設置するなd、公民協働で本格的に浄化事業に取り組んだ。 地中からの回収汚染物質総量は1万7千kg(飲料水に換算すると約60年分の汚染量)を超え、 汚染地直下の地下水は急速に改善をみた。 この効果を早急に波及させるため、市は独自に地下水の人工透析的浄化装置を考案し 平成8年から浄化事業の更なる推進に努めた。 こうした市民全体の懸命な努力が結実し、浄化費用を当初積算額の40分の1(5億円)に軽減し、 2年間の測定結果、市条例の基準に全て適合したので、 兵営16年1月1日、地元水神講の皆様と共に「秦野盆地湧水群」の「弘法の清水名水復活」を宣言した。
 (秦野市)
秦野(はだの)駅
「弘法の清水」から元の道まで引き返して水無川に沿って進んでいきます。 平成橋の信号を直進していくと、まほろば大橋の手前にT字路があります。 そこを左手へ曲がっていくと、秦野駅(小田急小田原線)に着きます。