鋸山
散策:2006年09月上旬
【低山ハイク】 鋸山
概 要 鋸山は上総と安房の国境に聳える低い山ですが、山頂からは360度の大パノラマが広がっています。 地獄のぞきもあって、ドキドキ感を味わうこともできます。 山頂から山麓にかけての日本寺の境内には散策路が縦横に巡っていて、1500体以上もの石仏が出迎えてくれます。 中でも総高31mの日本一の大仏は圧巻です。
起 点 富津市 金谷港
終 点 鋸南町 保田駅
ルート 金谷港…金谷漁港…金谷神社…鋸山ロープウェー…石切資料コーナー…鋸山…西口管理所…十州一覧台…百尺観音…瑠璃光展望台…地獄のぞき…通天閣…日牌堂…奥の院無漏窟…維摩窟…天台石橋…護摩窟…大仏口管理所…大仏広場…大黒堂…日本寺…通天窟…呑海楼…心字池…観音堂…仁王門…表参道…鋸山遊歩道…保田駅
所要時間 3時間50分
歩いて... 裾野に雲が棚引いてはいたものの、 鋸山の山頂からは三浦半島の奥に富士山の姿も望むことができる大パノラマが広がっていました。 日本寺を巡るコースには息が切れるような急傾斜の所はありませんが、 蒸し暑い日だったので、後から後から汗が噴出してきました。 今回は表参道から帰りましたが、公共交通機関の便があまり良くないのが難点です。 最初の西口管理所まで引き返して、鋸山ロープウェーに乗って降りた方が無難のように思われます。
関連メモ 今のところ、関連メモはありません。
コース紹介
金谷港(かなやこう)
久里浜港から東京湾フェリーにて40分、週末には40分に1本程度の便があります。
 土日曜 6:20 6:50 7:25 8:05 8:40 9:20 10:00 10:40 11:20 12:05...
金谷港の奥に横たわる鋸山の山頂付近には雲がかかっていて先行きが心配されましたが、 日が昇るにつれて次第に薄れていき、帰る頃にはすっかりと晴れてきました。
京急久里浜駅(京浜急行久里浜線)の東口のバスターミナルから、東京湾フェリー行きバスが出ています。 「連絡バス」ということで、フェリーの出発時刻に合わせた運行になっているので利用しましょう。 また、京急久里浜駅から久里浜港までの沿道にはポピーやコスモスの花壇が続いているので、 花の咲く季節には歩いてみるのもいいでしょう。25分ほどで着きます。
金谷漁港
物産店を抜けて金谷港(東京湾フェリ−)の建物の外へ出ると、 「マザー牧場 信号左折17K」の看板が左手の道を指していますが、 駐車場の左脇から正面へと続く道を真っ直ぐに進んでいきます。 駐車場の先に「金谷・鋸山ハイキングマップ」の大きな看板があるので参考にしましょう。 看板を過ぎて更に進んでいくと、国道127号フェリー南入口交差点に出ます。 そこを右手へと進んでいきます。 浜金谷駅入口交差点を過ぎていくと、金谷川に架かる金谷橋を渡った先に金谷漁港があります。 防波堤で囲まれた港には多くの漁船が係留されていたり陸揚げされてました。 防波堤の先の方では釣り糸を垂らしている人も見かけました。
遊漁者の皆さんへ
漁業者には海は生産の場であり、生活の基盤です。 漁業者と遊漁者の相互理解のなかで次のことを守って遊漁を楽しみましょう。
1. 豊かな漁場づくりのために空きかん・ビニール・釣り糸・釣り針等のゴミは 一人ひとりが持ち帰り、海をきれいに保ちましょう。
2. この地区の海面には漁業権が設定されており、様々な漁具が設置されていますので、 スキューバダイビング等を行う場合は漁業者の呼びかけを守り、操業の妨害となる行為はやめましょう。 また、地域の人に迷惑をかける行為はやめまhそう。
3. 航海についていのきまりを守りましょう。
4. 海面で遊漁者の使用できる漁具・漁法は、千葉県海面漁業調整規則では次のものに限られています。
(1)竿釣り及び手釣り (2)たも網及びすくい式手網 (3)投網(般を使用してはならない) (4)貝・藻類の歩行徒手採捕
5. 薬物(洗剤等を含む)を使用して水産動物を採捕することはできません。
6. 漁業権の内容となっているあさり・ばか貝等を採捕することはできません。
 (千葉県、千葉県警察、千葉県海面利用協議会、千葉県海面利用富津地区協議会)
金谷漁港から国道127号に戻ってその先へと進んでいきます。 左手からの細い道を合わせて更に進んでいくと、左手に「鋸山ロープウェー」と書かれたゲートがあります。 ここからロープウェー乗り場へと向かっていきます。
金谷神社
ゲートをくぐってすぐの所に金谷神社があります。 社殿の右手には小振りの祠があって、横には「大鏡鉄」の解説板が立っていました。
千葉県指定有形文化財 金谷神社の大鏡鉄
社伝によれば、文明元年(1469)6月、神谷神社西方0.55キロメートルの海中より引揚げられたものといわれる。 元来、円形であったものが折れたと思われる。 半円形を呈し、径1.60メートル、厚さ11センチ、重量1.571トンで片面の縁には幅6センチの枠があったと思われる。 工学博士長谷川熊彦氏は同鏡鉄を分析し、砂鉄を原料とし、猟鉄を鋳造したものであり、 砂鉄製錬炉「たたら」によって製作されたものとしている。 鉄尊又は鉄尊権現として民間信仰の対象ともされてきた。 製鉄技術を知るうえで貴重な資料である。
 (千葉県教育委員会、富津市教育委員会)
鋸山ロープウェー
金谷神社の右手に続く道を少し進んでいくと、ほどなくして鋸山ロープウェーの山麓駅があります。 鋸山ロープウェーはこの山麓駅から山頂駅まで斜距離680m・高低差223mを約4分で運行しています。 ゴンドラに乗る際、グループ毎に写真を撮ってくれます。 帰りの時に渡してくれるということなのでしょうが、 片道切符の私には受け取ることができないので、撮影は遠慮しておきました。
施設の概要
索道の種類三線交走式普通索道
線路全長680m
起終点高低差223m
最急勾配28度09分
平均勾配19度25分
客車定員41人(車掌を含む)
運転速度毎秒5.0m
所要時間3分20秒
中間支柱鉄骨構造 高さ18m
支 索ロックドコイル型 直径52粍
曳 索フィラー型 直径24粍
平衡索フィラー型 直径22粍
支索緊張索ヘルクレスロープ、フィラー型 直径70粍
主原動機150馬力三相誘導電動機
予備原動機50馬力ガソリンエンジン
起 工昭和36年9月20日
竣 工昭和37年12月21日
休日とあってゴンドラは満員でしたが、前面の席に座ることができました。 中間に立つ支柱を過ぎた辺りで降りのゴンドラとすれ違っていきます。 カメラを窓に押し付けて撮ったのですが、太陽の光が入ってきてうまく写せませんでした。 鋸山の山稜が次第に近づいてくると、山麓駅から4分ほどで山頂駅に着きます。 あっという間の短い空中の旅でした。
石切資料コーナー
山頂駅に着いて改札口を出ると、「展望台」や「石切資料コーナー」の案内標識が脇の階段を指していました。 出口は正面へと続いているようでしたが、気になったので階段を登っていきました。 上階へと登っていくと「石切資料コーナー」があって、 鋸山が誕生するまでの歴史や石切作業の様子や道具などが展示紹介されていました。 その昔に行われていた石材の切り出しや運搬は大変な作業だったようです。
ごあいさつ
今から200万年も昔、大地震の続く中で、永い間海の底に眠っていた巨大な岩山が生まれました。 それが鋸山です。 雨や風の侵蝕によってできた奇岩、怪石、目もくらむ絶壁、山頂からの眺めは思わず息をのむすばらしさです。 又、黒潮の影響で冬は暖かく、夏は涼しく、亜熱帯区と暖帯区の境界線でもあり、動植物研究にも大変興味ある所です。 又、ここで採れる石は房州石と言って古くから港湾の積石や建築物の材料として大変有名です。 石切場跡の景観も多くの人々を楽しませております。 本日、ご来訪の記念に鋸山を少しでも理解していただきたく、このコーナーを設けました。 後学の一助となれば幸いです。
 (鋸山ロープウェー株式会社)
鋸山の誕生
【海底国時代】 (新生代第3紀中新世・鮮新世)約2500万年前〜200万年前
第3紀の中頃にあたる中新世には、このあたりは一帯が海の底であった。 しかし第3紀終りの鮮新世になると、丹沢・三浦・房総南部が隆起し、火山活動が活発になり、 さかんに火山灰を降らし、それが海底に沈積して、鋸山の岩石、凝灰岩になった。
【古東京湾】 (新世代第4紀更新世)約200万年前〜1万年前
この時代になると、地震活動が活発になり、房総東部が隆起し、 更新世中期−後期には今の関東平野にあたる古東京湾が出現する。 そして長い間、湾内には、砂れき・粘土等が堆積して佐貫層・清川層・成田層などの地層が形成される。
【最後の大海進】 (新世代第4紀完新世)約1万年前〜5000年前
洪積世後期に古東京湾は堆質物や火山灰によって干上り、海面も現在より100m以上も低い所にあった。 洪積世の最後(2万年前)に地殻変動と海水の侵蝕(海進)が起り、現在の東京湾が出現した。
室町時代》  安房里見氏の出城(鋸城)にて、柱のツカ石として使用される。
江戸時代》  安政の頃、伊豆の石切職人が渡来し鋸山周辺で建築用に石切りをはじめる(土丹岩)。 更に万延・元治・慶応の頃になるとそれまでの悪い石(下石)から、質の良い石(上石)の採石が盛んになり、 石切場も鋸山本峰に移った。 1895年には横浜開港に伴い、護岸工事用材・土木工事材として優秀性が認められ生産も大規模化された。
明治時代》  文明開化にともない、房州石の需要もますますふえ、京浜地方、特に横浜市・横須賀市の 公共事業指定石材にもなり、金谷地区の総人口の80%が石材産業に従事していた。
大正時代》  この年12年9月1日発生した関東大震災で多くの護岸が崩れ、 石積みの時代からセメント工法による時代に移る。 しかし、横須賀追浜天神橋護岸・横浜高島桟橋護岸、更に多くの石塀や石倉が今でもビクともせず現存している。
昭和時代》  セメントの進出により採石産業も衰退し、更に軍国主義のなか、鋸山も登山禁止となる。 わずかに軍需用としての下石採石が細々と行われた。 戦後、採石も機械化され、一時パン焼きカマドなどに使用されたがそれも終りを告げ、 繁栄を誇った採石跡は、その奇岩・怪石とともにその景観美は現在国定公園にも指定され、 多くの人々の目を楽しませているのである。
鋸山 (標高329m)
「石切資料コーナー」の更に上階へと登っていくと建物の屋上に出ます。 屋上の右手の連絡橋を渡っていくと、ヨシズ張りの下にテーブルやベンチがあります。 その脇の岩場に「鋸山山頂 標高329m」の標識が立っています。 屋上や岩場には双眼鏡が幾つか設置されていて、展望台になっています。 北側から南側にかけて、東京湾から房総半島の先の方まで続く景色が広がっています。 東側には鋸山の背後の日本寺のある峰々が続いています。 この鋸山のある東西に続く山稜は、上総国と安房国の国境にもなっているようです。
名勝 鋸山
当山十万余坪(33万u)の境内地は千葉県指定の名勝で、十八勝、三十六景など数多くの秘境に富み、 三尊御来迎の姿といわれる瑠璃、日輪、月輪三峰の大偉観、富士を眼下に東京湾を始め、 全関東を一望にする頂上の大景観とともにその美しさは言葉ではいいつくせません。 総てを鑑賞する二日を要するといわれるほどです。 また、すぐれた景観だけではく、学術的にも貴重な存在で、 山中の地質、動植物を調査研究するものには「天然の大博物館」として注目されています。
 (出展:パンフレットより抜粋)
展望台の北から西側には東京湾が広がり、 三浦半島の向こうには、遠く富士山を望むことができる素晴らしい景色が広がっていました。
富士山の山麓には雲が棚引いていたのが少し残念でしたが、 「頭を雲の上に出した」まずまずの姿を見ることができました。
南側には伊予ヶ岳や富山、保田海水浴場から館山海岸にかけての海岸線が続いていました。 その先には伊豆七島の新島・利島・大島なども望めるとのことですが、 遠くの方は少し霞んでいていて、はっきりとは確認できませんでした。
西口管理所
「鋸山山頂」の標識のある岩場の右手から続く道を進んでいきます。 すぐに「竜悦庵」と書かれた小さな祠があります。 「大仏マデ往復ヤク90分、じごくのぞきマデ往復ヤク40分デス」の看板も立っていました。 雰囲気のいい尾根道を進んでいきます。 やがて角の丸まった石の階段を降るようになると、山頂から4分ほどで日本寺の「西口管理所」に降り立ちます。 「日本一の大仏」の看板が目に飛び込んできます。 脇には日本寺の大きな案内図があるので参考にしましょう。 登山自動車道が国道127号からここまで続いていて、多くの人々が訪れていました。 管理所で拝観料を払うと「鋸山日本寺案内図」がもらえるので、それを片手に散策していきます。
十州一覧台
入口から入ると、すぐに道が三方に分かれていますが、まずは左手の石段の上にある十州一覧台を目指します。 かなり急な石段を登っていきます。左右に小さく折れ曲がるようになると2分ほどで十州一覧台に着きます。 頂上は小さな広場風になっていて、小振りの「浅間神社」と「世界救世教記念碑」がありました。 「十州」とは「関八州」に伊豆と駿河を加えたもので、 上野・下野・常陸・武蔵・下総・上総・安房・相模・伊豆・駿河 の十ヶ国になります。 ここからも素晴らしい景色が望めました。 富士山も綺麗に見えていました。
西口管理所まで引き返して、「百尺観音、瑠璃光展望台」の道標が示す真ん中の石段を登っていきます。 幅の広い石段を2分半ほど登っていくと、左手へ小道が分かれています。 瑠璃光展望台へは正面の石段を更に登っていくのですが、左手へ少し行くと百尺観音があるので往復してきましょう。
百尺観音
垂直な岩壁の間を抜けていくと、窪んだ壁面に大きな百尺観音が彫られていました。 航空・航海・陸上の交通安全守護のご利益があるとのことです。 昭和41年に完成したということなので、仏像としては比較的新しいものになるようです。 百尺観音の上の方には「地獄のぞき」の岩が突き出していました。 すぐ先には金谷下山口の「北口管理所」もありました。
百尺観音
昭和41年5月、6ヶ年の歳月を費して完成した大観音石像です。 発願の趣旨は、一つには世界戦争戦死病没殉難者供養のため、また一つは航海、航空、陸上交通犠牲者供養のためです。 当山山頂に切りたつ、けわしいがけに囲まれた雄大な勝地に安置される大観音像は、 交通安全の守り本尊として、多くの人々の尊崇を集めています。
 (出展:パンフレットより抜粋)
瑠璃光展望台
百尺観音から先ほどの分岐まで引き返して、瑠璃光展望台へと石段を登っていきます。 かなり傾斜のある石段を4分ほど登っていくと、瑠璃光展望台のある頂上に着きます。 日本寺の中で、ここが一番標高の高い所になるようです。 コンクリート製の展望台には岩の階段が付いていました。 休日とあって、山頂には多くの人が訪れていて、とても賑わっていました。
地獄のぞき
瑠璃光展望台のすぐ先に小さな岩山があって、 その先が垂直に落ち込む絶壁に突き出た「地獄のぞき」になっています。 突き出た部分が縦に裂けて真下へ落ちてしまわないかと心配になったりもします。
先端に立って振り向いて記念撮影をしている人も多くいました。 私も勇気を出して岩の先まで行って下を覗いてみました。 先の方へ向かって下向きに傾斜しているのでドキドキものでしたが、周囲に柵がしてあるので安心です。 富士山も綺麗に見えていましたが、景色を愛でるほどの心の余裕はありませんでした。
山頂には「地獄のぞき」以外にも小さな岩山があって、その上からも素晴らしい眺めが広がっていました。 大学生と思われるグループも沢山やってきていて、岩の上で賑やかにはしゃいでいました。 私も岩山の上まで登って、360度の大パノラマを写真に収めたのでした。
通天閣
山頂からその先に続く階段を降っていきます。 4分ほど降っていくと「西国観音」がありました。 岩壁をえぐった所に多くの石仏が並んでいました。 「一法を見ざれば即ち如来、方に名けて観自在を為すことを得たり」との言葉が添えられていました。 更に少し降っていくと、岩壁に掘られたトンネルを抜けていきます。 振り返ると、両側には仁王像が立っていました。 パンフレットでは「二天門」となっていましたが、側にある立て看板は「通天閣」となっていました。 「巌険く関を通るが如く、柳面すれば天に登るに似たり」との言葉が添えられていました。 脇の岩壁には石仏が何体か並んでいました。 更に降っていくと分岐があります。 正面に降っていくと大仏のある広場に降りていきますが、今回は右折していきました。 程なくして岩壁に「百躰観音」が並んでいました。 「衆生被困厄、無量苦逼身、観音妙智力、能救世間苦、四国・坂東・秩父観音を合祀す」との言葉が添えられていました。
日牌堂
あせかき不動」まで往復してから「千五百羅漢道」を進んでいきます。 石仏を彫った「大野英令之墓」や石仏などを見ながら進んでいくと「宝印筐塔」が立っていました。 「無明の実性即仏性、本源自性天真仏、江戸蔵前、大口屋平兵衛寄進」との言葉が添えられていました。 ここは少し広くなっていて、「鋸山日本寺案内図」の大きな看板も設置されています。 看板の先に「日牌堂」があり、 「諸行は無常にして一切空なり、即ち是れ如来の大円覚」との言葉が添えられていました。
東海千五百羅漢
当山曹洞宗第九世、高雅愚伝禅師の発願により、上総桜井(現木更津市)の名工、大野甚五郎英令が 安永8年(1779)から寛政10年(1798)に至る前後21年間、門弟27名とともに生涯をかけて 千五百五十三体の石仏を刻み、太古よりの風蝕によってできた奇岩霊洞の間に安置し奉ったものです。 これは実に、くらべるものがないといわれた中華民国懐安大中寺の八百羅漢をしのぐもので、 鋸山は世界第一の羅漢霊場として遠く海外にも知られています。 海を経て伊豆から運ばれた石材に真心をこめて彫刻された千態万状の尊像は、 すべて久遠の慈容を湛える驚くべき名作です。 当山の貴重な寺宝であることはもちろん、わが国の文化財としてもかけがえのないものですが、 惜しくも明治維新の排仏毀釈以来、荒廃したままで現在に至り、 目下、「羅漢様お首つなぎ」を初め、全山の復興に努力しております。
 (出展:パンフレットより抜粋)
奥の院無漏窟
分岐の先に岩壁に掘られた「薜蘿洞」があります。 「薜蘿掛って錦の如く、洞中竜の蟠るに似たり」との言葉が添えられた洞穴に 続く石段を登っていくと「奥の院無漏窟」があります。 手前には鉄格子がしてあって、側までは行けないようになっていました。 「無上法王の奥、十方の諸仏集まる」との言葉が添えられていました。
維摩窟
「薜蘿洞」の手前の分岐まで引き返してその下へと降っていくと「維摩窟」があります。 岩壁の洞穴に沿って多くの石仏がありました。 「不思議解脱の力、妙用恒沙、也た極まり無し」との言葉が添えられていました。 日本寺にある石仏たちは、何やら考え事をしていたり苦しそうだったり穏やかだったりと、様々な表情をしています。 それにしても物凄い数の石仏です。 28名の人々が21年に渡って彫ったということですが、どのような想いで彫っていったのでしょうか。
天台石橋
維摩窟から石段を登っていきます。 右手に「聖徳太子」の石像を見ながら登っていくと「天台石橋」があります。 橋を渡った右手の石段の上には「不動滝」がありますが、 この時には水はほとんど流れ落ちてはいませんでした。 「茫々たる宇宙人無数、幾箇の男児が是れ丈夫」との言葉が添えられていました。 滝に打たれて修行したのでしょうか。
護摩窟
天台石橋から左手へと降っていきます。 岩壁に開けられたトンネルをくぐっていくと「護摩窟」があります。 「弘法の護摩窟、千年香烟薫る」との言葉が添えられていました。 円く開けられた穴に石像が安置されていました。
大仏口管理所
「護摩窟」を過ぎて石段を更に降っていくと「大仏口管理所」に降り立ちます。 ここから左手へと続く幅の広い「大仏前参道」を緩やかに降っていきます。 脇には日本寺を詠んだ小林一茶の歌碑もありました。
阿羅漢の 鉢の中より 雲雀かな
作者小林一茶は、江戸後期葛飾派の俳人。 信濃柏原の人。 14才で江戸へ出、俳諧を二六庵竹阿に学んだ。 一茶は、いわゆる「一茶調」の独特の句を詠み、 俳句を庶民の親しめるものにしたことで有名である。 この「阿羅漢」の句は、一茶の「七番日記」と題する句帖の中の、 日本寺と前書きのある句の最初のものである。
大仏広場
竹林の脇を過ぎて竹垣を過ぎていくと「大仏広場」に着きます。 売店や休憩所などもある広い場所になっています。 広場には日本一と云われる大仏があります。 奈良東大寺の蘆遮那仏は総高18.18m・御丈14.85m、鎌倉高徳院の阿弥陀如来は総高13.35m・御丈11.312mですが、 この鋸山日本寺の「薬師瑠璃光如来」は総高31.05m・御丈21.3mあって、正に日本一の大仏です。 また、広場には「お願い地蔵尊」もあります。 様々な願いが叶えられると尊崇を集めていて、 お願い事をする人の名前が記された小さなお地蔵様が無数に奉納され、花束も手向けられていました。
日本一の大仏さま
昭和44年6月、4ヶ年にわたる復元工事によって再現した名実ともに日本最大の大仏さまです。 原型は天明3年(1783)に、大野甚五郎英令が門弟27名とともに3ヶ年を費して現在の地に彫刻完成したものです。 当時は御丈八丈、台座とも九丈二尺あり、天下にその偉観を知られていましたが、 江戸時代末期になって、自然の風蝕による著しい崩壊があり、 昭和41年に至るまで荒廃にまかされておりました。 この大仏さまは、正しくは《薬師瑠璃光如来》と称し、宇宙全体が蓮華蔵世界たる浄土であることを現わしたもので、 世界平和、万世太平の大象徴として復元建立されたものです。
 (出展:パンフレットより抜粋)
大仏 薬師瑠璃光如来
この大仏さまは、宇宙全体が蓮華蔵世界たる浄土であることを現し、 人々の本性の限りない解脱自由と世界平和万世太平の大象徴であります。 原型は天明3年に名工大野甚五郎英令を棟梁として彫刻完成されましたが、 惜しくも江戸時代の末期に、自然の風蝕と岩石の亀裂によって著しく崩壊し、 その後荒廃にまかされておりました。 昭和40年、二紀会審査員(故)八柳恭次氏の指導を受けて復元工事に着手し、 昭和44年6月に現在のお姿に彫刻再現されました。 名実ともに日本最大の磨崖仏であります。
大黒堂
大仏広場の手前から石段を降っていきます。 大きな木の前に降りて右手へと進んでいくと「大黒堂」があります。 「弘法大師一夜彫刻、爪彫大黒堂を奉る」との言葉が添えられていました。 再建されてからあまり年月が経っていないのか、真新しい白木の雰囲気が残っていました。 この大黒堂の左手には「東口管理所」がありますが、正面の道を緩やかに降っていきます。
日本寺
「薬師堂跡」の更地や赤い鳥居の立つ「乾坤稲荷」を過ぎていきます。 竹垣に沿って進んでいくと、日本寺の本堂があります。 右手に「乾坤山日本寺」、左手に「曹洞宗参禅道場」の看板が掲げられていました。 建てられてからかなり年月が経つような感じでした。 奥の一段高い所には真新しいお堂が建っていましたが、まだ完成していないのか、立入は出来ないようでした。 この日本寺は昭和14年に登山者の失火によって全焼し、現在も復興事業の途中とのことです。 境内にはこの鋸山を詠んだ歌碑がふたつほどありました。 また、源頼朝公御手植の「大蘇鉄」や重要文化財の「日本寺鐘」もありました。
鋸山日本寺の由来
日本寺は今から約1300年前、聖武天皇の勅詔と、光明皇后のおことばをうけて、 神亀2年(725)6月8日、高僧行基菩薩によって開かれた関東最古の勅願所です。 正しくは乾坤山日本寺と称し、時に帝よりはわが国の国号を冠する「日本寺」の勅額、宸翰ならびに黄金五千貫を、 皇后よりは御手づからの刺繍になる三十三観音の軸物および御戸帳料綾錦十匹を賜りました。 初めは法相宗に属し、次いで天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公治世の時、曹洞禅宗となって今日に及んでいます。 現存の古碑銘にあるように、かつては七堂、十二院、百坊を完備して、 良弁僧正、慈覚大師、弘法大師などの名僧が訪れ修行した我が国でもまれにみる古道場です。 本尊の薬師瑠璃光如来は日本三薬師の随一として尊敬を集め、 江戸時代の最盛期には実に三百万人講の名をもって東海千五百羅漢彫刻の大工事が行われました。
 (出展:パンフレットより抜粋)
御来山各位へのお願い
鋸山日本寺は正しくは乾坤山日本寺と称し、約1300年前の神亀元年(724)6月、聖武天皇の勅詔と光明皇后の令旨を受け 「日本国の平和と繁栄を祈る寺」として高僧行基菩薩が開創された関東最古の勅願所であります。 (初め法相宗に属し次いで天台・真言宗を経て徳川三代将軍家光公治世の時、曹洞禅宗となって今日に及ぶ) 然るに昭和14年11月、登山者の失火によって惜しくも堂宇悉くと、貴重な国宝仏像等の総てを烏有に帰し、 更に日華事変に続く大戦の勃発は当山を要塞と化し、ここに復興の機運を遅らせ、 今も焼残の野に空しく鳥虫を嘆かしめる惨状にあります。 方今人心の混迷、風教えの頽廃は誠に憂慮すべきものあり、この秋に当って由緒正しき仏閣を復興し、 広く心ある者の修道を資け多くの人心の帰するところを求むることは、極めて緊要事であると申せましょう。 茲に、御来山各位の絶大な御理解を得て、当山復興の大業を成就いたしたく、 偏に御協賛御支援をお願い申し上げます。
 (乾坤山日本寺 住職)
国指定重要文化財 日本寺鐘
この鐘は、はじめ下野国佐野庄掘籠郷(栃木県佐野市掘米町)の天宝寺(現称天応寺)鐘として寄進され、 60年を経て鎌倉五山の一である浄妙寺鐘となり、のち江戸湾を渡って日本寺鐘となった歴史的名鐘である。 日本寺に移った時代は不明。 鋳工は、幾多の国宝や重文の茶の湯釜を残した佐野天命(佐野市天明町)の助光である。
引きおろす 鋸山の 霞かな
作者長谷川馬光は、葛飾派山口素堂の弟子で、二六庵竹阿の師である。 有名な小林一茶は孫弟子にあたる。 この碑の除幕式は、寛政2年(1790)4月1日に行われたが、 一茶は師の竹阿が3月13日大阪高津に歿したので、二六庵をついで故師の代参として列席した。 一茶28才の春で、房州に足を入れた初めでもあった。
鋸山に遊ぶ
流丹万丈芙蓉を削る 寺は磅唐の第幾重にか在る
地を捲くの黒風海角より来り 時有りて微雨山容を変ず
三千世界孤掌に帰し 五百の仙人一峰を共にす
怪しみ得たり残雲の腥気を挟むを 老僧夜降す石潭の竜
 梁川星巌
梁川星巌は、幕末、神田お玉ヶ池に玉池吟社を開き、江戸詩壇を風びした漢詩人。 美濃(岐阜県南部)の人。
通天窟
日本寺の左手にある石段を登っていくと「百躰不動」があります。 「生死路頭君自ら看よ、活人は全く死人の中に在り」との言葉が添えられていました。 「百躰不動」を過ぎて更に石段を登っていくと、道の脇に「通天窟」があります。 「当山中興高雅愚伝禅師、永平総持両開山を安置す」との言葉が添えられていました。 普通のお堂のような形をしていますが、岩壁に掘られた所に石仏が並んでいて、 その前に石製のお堂が付いているような形になっていました。 この日本寺の窟や堂の中にあっても特異な構造になっているようでした。
呑海楼
日本寺の境内まで引き返して正面の石段を降っていくと、 左へ曲がっていく角に茶処「呑海楼」があります。 「Japanese Tea House」との事で、抹茶セットを頂けるようでした。 建物の小奇麗な玄関から庭風の処を過ぎて建物の脇を抜けていくと、 芝生の上に赤い敷きものが掛けられたベンチと傘が立っていました。 その向こうには房総半島の先端部を望む景色が広がる眺めのいい所でした。 建物の中ではお茶を点てておられてとても気品のある所でした。 私のような下賤の者には何だか場違いに思えて、 写真を一枚撮っただけで、そそくさと出ていったのでした。 後から確認してみると、「喫茶以外の方はご遠慮願います」との断り書きがありました。
心字池
「保田方面下山道」に従って、石段を更に降っていきます。 右手へ曲がる角までくると、左手の斜面には竹が沢山生えていました。 パフレットによると「四方竹」と呼ぶようです。 右手に曲がっていった先に「心字池」があります。 「心にかかるちりもなし、心の池に心あらいて、濁りなき心の水にすむ月は、波もくだけて光とぞなる」との言葉が添えられていました。 池には石橋が幾つか架けられていて、趣のある日本庭園のようになっていました。
観音堂
表参道管理所」から出ていくと、左手に「観音堂」がありました。 「安房国札第八番 十一面千手観世音菩薩、はるばると のぼれば日本の 山おろし まつのひびきも みのりなるらん」との言葉が添えられていました。 その右手の方には「行基椎」と名付けられた大きな木が生えていました。 「一樹の春風両般あり、南枝は暖に伺い、北枝は寒」との言葉が添えられていました。
安房国札第八番 十一面千手観世音菩薩 日本寺
はるばると のぼれば日本の 山おろし まつのひびきも みのりなるらん
仁王門
観音堂の正面に続く参道を進んでいくと、すぐに「乾坤山」の扁額の架かる「仁王門」があります。 「仁王像は慈覚大師作 平成16年修復、扁額は李呵O公書」との言葉が添えられていました。 左右には白目に金色の瞳をした仁王像が立っていました。 仁王門をくぐって、その先の参道を進んでいきます。
(写真は門をくぐってから振り返って写したものです)
表参道
弘法井」や「蝸牛石」を過ぎて降っていくと、「日本寺表参道」の標識の架かる柱が立っていて、 その脇には「鋸山と羅漢石像群」の解説板も設置されていました。 「表参道」という割りには交通の便があまり良くないためか、 西口と比べてみると、ひっそりとした感じになっていました。
(写真は振り返って写したものです)
千葉県指定名勝 鋸山と羅漢石像群
鋸山は、房総における名山で、すぐれた風致景観の芸術的価値はもちろん、 山中の地質や動植物は学術的にも貴重な存在である。 この鋸山の中心部25ヘクタールは、聖武天皇の勅願によって、神亀2年6月8日、 行基菩薩が開創したと伝える乾坤山日本寺の境内地で、十八勝、三十六景などの勝地秘境に富んでいる。
だれもかも 鋸山は めづらしと 来るたびごとに 目をひきたててみん」(大田蜀山人)
自然の中にあって、ひときわ光彩を放っているのが千五百羅漢の像で、 日本寺の後背をなす中腹の至る所に、数多くの石仏を安置している。 この石仏群を総称して東海千五百羅漢という。 羅漢建像の由来は、日本寺曹洞宗第九世の高雅愚伝禅師が安永9年6月8日に発願し、 安房・上総・江戸をはじめ各地の信者の浄財をもとに建立されたものといい、 愚伝禅師は自ら伊豆の石山を尋ねて石材を求めたといい、 上総国桜井(現在の木更津市桜井)の大野甚五郎英令らがこれを彫った。 それらの像は奇岩・怪石・霊洞の間に安置されている。 その数と質は、羅漢尊者応現の道場として名高い中国懐安大中寺の八百羅漢をしのぎ、世に羅漢山の別名がある。 昔中腹の岩壁に彫った大仏の復元工事は、県・町の補助事業で、昭和44年3月完了し、往時の偉容が再現された。 像高21.3メートルの日本寺大仏は、奈良の大仏より総て一廻り大きく、一大偉観といえよう。 なおここは南房総国定公園に指定されている。
 (千葉県教育委員会、鋸南町教育委員会)
ご来山の皆様へ
拝観時間午前8時より午後5時まで
拝観料大人600円 小人400円
拝観心得
・石仏像にさわらないこと。
・草花を採らないこと。
・境内を汚さないこと。
・タバコの投げ捨てをしないこと。
・ゴミはお持ち帰り下さい。
 (鋸山 日本寺)
鋸山遊歩道
左手に流れる沢沿いに続く道を3分ほど進んでいくと、道が二手に分かれています。 角に立つ案内標識によると、左手の橋は保田駅へと続いているようです。 「鋸山遊歩道」という名前も書かれていました。 保田駅から鋸山までの道のことのようです。 左手の橋を渡っていくと、すぐに道が左右に分かれていますが、右手の道を保田駅へと向かっていきます。 (保田駅へは25分ほどで着きます)
この分岐を真っ直ぐに降っていくと、JRの線路をくぐった先に国道127号があります。 角に立つ道標によると、右手は「金谷方面 鋸山〜フェリー3km」、左手は「保田方面 鋸山〜保田1.5km」となっています。 国道に出て左手の少し先に鋸南町営循環バスの鋸山保田口バス停があります。 鋸南町の中を循環していて、赤バスと青バスが逆方向に運行されています。 これから向かう保田駅までの便もあるのですが、便数がとても少ないので当てにはできません。
 赤バス 8:59 15:24  青バス 7:50 12:50
この循環バス以外にも別会社のバス停があったようですが、どの程度の便数なのかの確認は漏らしてしまいました。
緩やかな坂道を越えていくと十字路があります。 角に立つ「鋸山遊歩道 保田駅へ徒歩20分」の看板に従って、左手の坂道を登っていきます。 東京都台東区立保田学園の門を見送って、右手の畑地の向こうに広がる房総の海を眺めながら進んでいきます。 ビニールハウスの先の分岐を、道標「保田駅1300m」に従って右手へと降っていきます。 道なりに左手へと曲がってJR内房線の線路沿いに進んでいくと、田畑が続くようになります。 田んぼには黄金色の穂を付けた稲が重たそうに頭を垂れていました。 中には既に刈り取りが終わった田んぼもありました。 そろそろ本格的な秋の到来を感じながら、田畑の続く道を進んでいきます。
民家の脇を過ぎて竹林が現れると、カーブミラーの設置された十字路があります。 道標「保田駅900m」に従って、右手の竹の生い茂る路地へと曲がっていきます。 突き当たりを右手へ進んでいくと、JR内房線の「平田踏切」の前に出ます。 角に立つ道標「保田駅800m」に従って、踏切の手前を左折して線路沿いの道を進んでいきます。
道なりに真っ直ぐ進んでいくと十字路があります。 角には関東ふれあいの道の道標「JR保田駅0.4km」が立っていて、正面の道を指しています。 道なりに更に直進していくと、元名川に架かる橋が現れます。 橋を渡った所から「元名川橋梁」の下をくぐっていく道が分かれています。 角に立つ関東ふれあいの道の道標「JR保田駅0.2km」に従って右手の線路の下をくぐっていきます。 突き当たりにある鋸山遊歩道の「保田駅250m」の道標に従って左折し、線路の右手に沿って進んでいきます。
保田(ほた)駅
やがて家が建ち並ぶようになると、保田駅(JR内房線)に着きます。
千葉方面への便は1時間に1本程度しかないので、事前に確認しておいた方がいいようです。
今回は隣の浜金谷駅まで電車で行き、そこから金谷港まで歩いて行って、 東京湾フェリーに乗って久里浜へと帰っていきました。 来るときには山頂付近には雲がかかっていたのですが、この頃になると晴れてきて、 フェリーからは鋸山の稜線を綺麗に望むことができました。