極楽寺切通
散策:2006年07月下旬
【街角散策】 極楽寺切通
概 要 極楽寺切通は鎌倉七切通しの一つで、鎌倉市の坂ノ下地区と極楽寺地区とを結ぶ道にあります。 現在では舗装された車道になっていますが、道の両側には切り立った崖が残っていて、 往時の雰囲気が僅かに感じられます。 今回は寺社などを訪ねながら長谷駅から極楽寺切通を経て稲村ヶ崎へと向っていきます。
起 点 鎌倉市 長谷駅
終 点 鎌倉市 稲村ヶ崎駅
ルート 長谷駅…御霊神社…星月の井…星の井寺…日限六地蔵…極楽寺切通…成就院…桜橋…極楽寺…極楽寺駅…針磨橋…日蓮袈裟懸の松跡…十一人塚…鎌倉海浜公園(稲村ヶ崎地区)…稲村ヶ崎駅
所要時間 2時間20分
歩いて... このコースでは「鎌倉の名数」の鎌倉七口・鎌倉江ノ島七福神・鎌倉十井・鎌倉十橋の各々一つを訪ねていきます。 それぞれに長い歴史があって往時を偲ばせます。 稲村ヶ崎では磯浜や砂浜の向こうに相模湾を見渡せます。 天候に恵まれれば富士山も望めるようですが、今回は曇っていて見えませんでした。
関連メモ 稲村ヶ崎・磯づたいのみち, 鎌倉山, 源氏山公園, 夫婦池公園, 鎌倉広町緑地, 鎌倉七福神, 稲村ガ崎尾根
コース紹介
長谷(はせ)駅
長谷駅(江ノ島電鉄)から歩いていきます。
改札口を出て左折して江ノ電の踏切を渡り、その先へ続く車道を100mほど進んだ所にあるT字路を右折していきます。
江ノ島電鉄
江ノ島電鉄は鎌倉駅から藤沢駅までの全長10kmを34分で結んでいます。 現在では駅の数は15ですが、明治から大正の頃には駅が41もあったそうです。 長谷駅と次の極楽寺駅との間には権五郎前駅が、 極楽寺駅と次の稲村ヶ崎駅との間には車庫前駅と砂子坂駅があったようです。 現在の駅の平均間隔は10km÷(15-1)=710mですが、その昔には10km÷(41-1)=250mと非常に短かったようです。
程なくしてある星の井通り交差点を直進していくと、右手に分かれていく道があります。 角には「鎌倉名物 夫婦饅頭」の看板が掲げられた老舗があります。 そこに「五霊社鎌倉権五郎景政」と刻まれた石碑や「御霊神社(鎌倉江ノ島七福神)」と記された標柱が立っていて、 右手の道を指しています。 極楽寺切通へは車道をそのまま直進していくのですが、御霊神社へちょっと立ち寄っていきましょう。
御霊神社(権五郎神社)
紫陽花 たぶの木 梅 桃 桜
面掛行列(9月18日) 七福神めぐり
左右が少しずれた十字路を直進していくと、短い石段の先に江ノ電の踏切があります。 踏切を渡った先の鳥居をくぐっていくと御霊神社の境内になります。 境内に入った所の右手には、鎌倉市天然記念物や神奈川の名木100選に選ばれている大きなタブの木もあります。
かながわの名木100選 坂ノ下の御霊神社のタブノキ
神社境内の樹叢の中にあって、太枝が四方に大きく広がって巨大な樹冠を形成した古木である。 鎌倉市の天然記念物に指定されている。
樹高 20メートル、 胸高周囲 4.0メートル、 樹齢 約350年(推定)
タブノキは、本州から沖縄に分布する常緑高木で、照葉樹林の代表的な木である。 樹高25メートル、胸高周囲10メートル、樹齢約700年に達するものもあると言われている。
 (神奈川県)
御霊神社
祭神は鎌倉権五郎景正で鎌倉幕府成立以前から旧社といわれています。 またこの神社は坂の下の鎮守で9月18日に行なわれる例祭の面掛行列はたいへんめずらしく 神奈川県の重要無形文化財に指定されています。
御霊神社
境内の奥にある石段を登った一段高い所に御霊神社の本殿があります。 境内には、稲荷社・秋葉神社・祖霊社・第六天社・御獄社・地神社・金刀比羅社・石上神社などの小祠もあって、 長い歴史を感じさせます。
御霊神社(鎌倉権五郎神社)由緒
当社の創建は平安時代末期と推定され、当初は関東平氏の祖霊を奉祀していたが、後鎌倉権五郎景政公一柱となる。 源頼朝公始め幕府の崇敬篤く、吾妻鏡に御霊社鳴動して奉幣するなど所処に記事散見する希瑞ある神社として有名である。 祭神景政公は桓武天皇の末裔、鎮守府将軍平忠道を祖父とし父鎌倉権守景成の代より鎌倉に住し、 鎌倉党武士団を率いる一方、現在の湘南地域一帯(戸塚・鎌倉・鵠沼・藤沢・茅ヶ崎)を開拓した開発の領守でもある。 景政公16才にて奥州後三年役(永保3年〜応徳4年)初陣す。 左眼に矢を射立てられしも屈せずして答の矢を射て相手を斃し陣中に帰り、 其の矢を抜かんと面部に足を掛けし三浦平太の無礼を刀を構えて叱咤した公の豪気と高い志は歌舞伎にもなり、 武士の鑑と永く仰がれている。
神徳 祭神の志の高さ強固さを慕う青少年の参拝多し。 又、江戸時代より右史表より眼病平癒・除災の神として祈祷多し。
例祭 9月18日、神奈川県指定無形文化財面掛行列が神輿渡御に従う。 当日鎌倉市指定文化財鎌倉神楽(湯立て神楽)の奉納あり。
末社 石上神社例7月25日に近い日曜日。 御霊の前浜沖の海神に御供(赤飯)を献げ流す「御供流し」の神事あり。
御霊神社の境内には、鎌倉江ノ島七福神のひとつである福禄寿が祀られています。 家禄栄盛・健康長寿の福神とのことです。
鎌倉江ノ島七福神 面掛 福禄寿 御霊神社
御霊神社は其の昔鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏五家があり、 これら五家の祖を祀る神社として五霊神社が建てられ、これが御霊神社となり祭神も いつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました。 この権五郎景政公の命日が9月18日で、この例祭日には昔から面掛け行列という珍しい行事があります。 これは伎楽や舞楽・田楽などに使われる特異な面を十人衆がつけ、古いいでたちで街の中をねり歩く県指定の文化財です。 此の十一面の中に「福禄寿」が含まれており、此れにちなんで「福禄寿」が宝物庫に安置されています。
鎌倉江ノ島七福神とは…
鎌倉江ノ島福神とは、 浄智寺(布袋尊)・旗上弁財天社(弁財天)・妙隆寺(寿老人)・本覚寺(夷神)・ 宝戒寺(毘沙門天)・御霊神社(福禄寿)・長谷寺(大黒天)・江ノ島神社(弁財天) となっています。 「七」福神なのに何故だか「八」箇所もあったりします。
星月の井
元の車道まで引き返してその先へと進んでいくと、程なくして右手に白い幟が沢山並んだ石段があります。 その前に「星月の井」があります。 以前には木の柵で囲われていたようですが、今ではその囲いはなくなっています。 昭和初期までは飲用として使用されていたようです。
星の井(ほしのい)
この井戸は、鎌倉十井の一つで、星月夜の井、星月の井ともよばれています。 昔、この井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。 奈良時代の名僧・行基は、井戸から出てきた光り輝く石を虚空菩薩の化身と思い、 お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあります。 井戸の水は清らかで美味だったので、昭和初期まで旅人に飲料水として売られていたそうです。
 (鎌倉青年会議所)
星月井
星月夜ノ井ハ一ニ星ノ井トモ言フ鎌倉十井ノ一ナリ 坂ノ下ニ属ス往時此附近ノ地老樹蓊鬱トシテ晝尚暗 シ故ニ称シテ星月谷ト曰フ後転ジテ星月夜トナル井 名蓋シ此ニ基ク里老言フ古昔此井中晝モ星ノ影見ユ 故ニ此名アリ近傍ノ婢女誤ツテ菜刀ヲ落セシヨリ以 来星影復タ見エザルニ至ルト此説最モ里人ノ為メニ 信ゼラルルガ如シ慶長五年六月徳川家康京師ヨリノ 帰途鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ以テ其名 世ニ著ハルルヲ知ルベシ水質清冽最モ口ニ可ナリ
 (鎌倉町青年団)
鎌倉十井とは…
鎌倉十井とは昔から鎌倉に伝わる「鎌倉の名数」のひとつです。 瓶の井・甘露の井・星月夜の井・底脱の井・扇の井・棟立の井・泉の井・鉄の井・銚子の井・六角の井が数えられていて、 この星月の井もその内のひとつになっています。
星の井寺
星月の井の先の石段を登っていくと星の井寺があります。 日本三虚空蔵のうちの一体である虚空蔵菩薩が祀られているようです。 境内には舟守地蔵も祀られています。 小祠には石の舟に乗ったお地蔵さんが安置されていて、 千羽鶴や菊の花で飾られていました。 この先にある成就院の縁起によると、このお堂は成就院の境外仏堂とのことです。
明鏡山円満院星の井寺(御本尊虚空蔵菩薩安置)
天平年間、聖武天皇の御代に諸国行脚中の行基僧正が 当地の古井戸「星月の井」に明るく輝く明星の光りが移るとのうわさを地元民から聴き、 井戸をのぞくと中に虚空蔵菩薩のお姿が写し現われていた。 行基はそのお姿を仏像に彫り当地にお堂を建立し安置した。 かの像は明星の照曜の如き光を放ち、鏡に影の移る如くでありました。 以後数百年経って幕下の征夷大将軍源頼朝公はこの菩薩を崇敬し、 この菩薩像を内陣仏の秘仏とし、仏師運慶に外陣仏を作らせた。 これが前立尊であるという。 秘仏虚空蔵菩薩はわが国では唯三体の木彫の仏像で大変貴重な仏像であります。 これに加えてこの御仏は明星と一体で、その分身であり限りない知恵をそたえた御仏で、 経典では虚空蔵菩薩は、西方香集世界の教主で娑婆世界の苦難する人々の利益のために 無不畏陀羅尼を説くことを、釈迦・敷蔵の二仏に許された御仏であります。 即ちその本尊に礼するものは三世十万一切の諸仏を礼することと同じであるといわれます。 また、虚空蔵菩薩を本尊として修業する虚空蔵求聞持法では心を静かにしこの真言を唱えれば 天より明星が口に入り、菩薩の威はあらわれて頭脳は明晰となり記憶力は増進するといわれております。 秘仏であるが衆生に縁を結ばせるべきでるとして三十五年一度に開帳し衆生にそのお姿を拝する事が許されました。 近代に至り熱心な信仰者の意に添うようにと毎年正月十三日に開帳し、 善男善女もそのお姿を毎年拝することが出来るようになりました。 正月十三日の初護摩供養には、丑年寅年の人々の守本尊として、また、 知恵・記憶力をお授け下さる虚空蔵様として地元民をはじめ各地より善男善女が参詣に集ります。
舟守地蔵(虚空蔵堂境内安置)
いつの時代に開眼されたお地蔵であるか不明であるが、往年より海上安全・大漁満足・身宮安泰・海難・水難除け、 その他船舶水に関係した一切の事業に従事しておられる人々に大きな功徳をお授け下さるお地蔵として、 近郷・近在の人々に深く崇敬されております。 また、その昔より願主の心清く精進すれば願い事を数日で成就させていただける有難いお地蔵さまであるとも言い伝えられております。
 (虚空蔵堂護持会)
星の井寺を後にして車道をその先へと進んでいきます。 緩やかな登り坂を進んでいくと左手に墓地があり、そこから石段が続いています。 その石段を登っていくと成就院があります。 右手へと曲がっていくと祠に安置された日限六地蔵があり、極楽寺坂はその先になります。
日限六地蔵
日限六地蔵の前には金属性のシャッターが設置されていました。 心ない者によって仏像が壊されたことがあるので保護のためなのだそうです。
日限六地蔵
当地蔵尊は道行く人々をお守り下さり、お地蔵様の眼のとどく範囲で事故がおきても大事にはいたらないと云はれ、 また善男・善女が邪心を捨て心も清くもち願い事を期日を極めておすがりすれば、 その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様であるとして、 いつの世か日限地蔵と称されるようにあんったと云い伝えられております。 近年になり盗難・悪戯が激しく、こともあろうに心ない酔漢により佛像が破壊されるに至りました。 これ等保護のため、やむなく見苦しいシャッターを取り付けました。
 (日限六地蔵尊護持会)
極楽寺切通
日限六地蔵を過ぎていった辺りが鎌倉七切通の一つの極楽寺切通になるようですが、 現在では舗装された車道になっていて、道路の脇に「極楽寺坂」の石碑が立っているだけです。 しかし、道を開くときに削られたと思われる岩盤もあって、往時の面影が少しは残っていたりします。 石碑によると、極楽寺を開いた僧の忍性(にんじょう)が切り開いたので極楽寺切通というのだそうで、 元弘3年(1333)に新田軍が鎌倉攻めをした時に鎌倉軍と戦った場所でもあるようです。
極楽寺坂
此所往古畳山ナリシヲ極楽寺開山忍性 菩薩疏鑿シテ一條ノ路ヲ開キシト云フ 即チ極楽寺切通ト唱フルハ是ナリ元弘 三年ノ鎌倉討入リニ際シ大館次郎宗氏 江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテ此 便路ニ向ヒ大佛陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ 将トシテ此所ヲ堅メ相戦フ
 (鎌倉町青年団)
歴史的風土特別保存地区指定図
昭和63年6月17日から、この地区は歴史的風土特別保存地区になりましたので、 建築物・工作物の新築・改築・増築、土地形質の変更、木竹の伐採、土石の類の採取、 建築物・工作物の色彩の変更、屋外広告物の表示又は掲載、及び水面の埋立又は干拓の 現状変更行為をするときは許可がいります。
 (神奈川県横須賀三浦地区行政センター環境部、鎌倉市役所)
鎌倉七口とは…
鎌倉七口とは、名越切通・朝夷奈切通・巨福路坂・亀ケ谷坂・仮粧坂・大仏切通・極楽寺切通を指していて、 鎌倉の内と外とを結ぶ要所に位置しています。 今回の極楽寺切通もその中のひとつに数えられています。 新編相模国風土記稿にも「極楽寺坂は坂之下村堺にあり(登り三十間余・幅四間)往古重山畳峰なりしを僧忍性疎鑿して一條の路を開きしと云う、即ち極楽寺坂切通しと唱えるはこれなり」として登場するようです。 鎌倉の内部にも「切通」と名の付く所があります。 その代表的なものに「釈迦堂切通」がありますが、これは鎌倉七口には含まれていません。
極楽寺切通の手前から左手に続く石段を登っていきます。 「東結界」と書かれた真新しい白木の門を過ぎて、坂道の先の石段を更に登っていきます。 振り返ると、石段の先には由比ヶ浜から材木座海岸にかけての 鎌倉の海を見下ろすことができる素晴らしい眺めが広がっていました。
開門 午前八時
閉門 午後五時
成就院
石段の登り切ると、左手の短い石段の先に山門があります。 そこをくぐって成就院へと入っていきます。 境内には、宗祖弘法大師の行脚像・縁結び不動明王像・子安地蔵菩薩などもありました。
成就院略縁起
弘法大師さまが全国を巡り修行された折、この地にて護摩行・虚空蔵求聞持法等を修められたと伝えられる。 その後、承久元年(1219)に北条泰時が深願を込め高僧を招き本尊に不動明王をまつり 普明山法立寺成就院と名付け建立した。 元弘3年(1333)新田義貞鎌倉攻めの時に堂宇は焼失し、近くの西ガ谷に移っていたが、 元禄年中、祐尊僧正が旧地に復興し現在に至っている。 本尊は縁結び不動明王さまとして信仰されている。
境外仏堂 虚空蔵堂
参道を坂ノ下側に下り星月夜ノ井の上に成就院が所有する堂がある。 本尊に虚空蔵菩薩をまつり、正・五・九月十三日には本尊さまが開廟される。
桜橋
成就院を後にして左手へと降っていきます。 「西結界」と書かれた真新しい白木の門を過ぎていくと、先ほどの車道に降り立ちます。 車道を登り気味に進んで坂の頂上までくると、道が二手に分かれています。 左手に降っていくと極楽寺駅へと続いていますが、 右手の桜橋を渡ったすぐの所に極楽寺があるので立ち寄っていきましょう。
江ノ電の線路の上に架かる朱塗りの桜橋を渡って左手へと曲がっていくと、すぐに極楽寺の山門があります。 茅葺屋根の趣きのある山門です。 山門自体は閉ざされていますが、その右側と左側に木戸があって出入口になっています。
極楽寺
霊鷲山極楽寺と号し、開山は忍性菩薩です。 忍性は広く慈善救済事業を行ない、人々から尊崇されました。 本尊の釈迦如来立像は秘仏で重要文化財に指定されています。 −真言律宗−
極楽寺
木戸から境内へ入ると、石畳の参道の両側には桜の木が並木を作っていました。 参道を真っ直ぐに進んでいくと本堂があります。 境内には本堂以外にも幾つかのお堂や見事な樹木などがありました。
霊鷲山感應院 極楽寺 真言律宗南都西大寺末
開基 北條重時公  開山 良観房忍性菩薩
当山は、北條重時公の発願にして、正元元年(1259)の創建と伝えられる。 重時はその業半ばにして薨じ、その男執権長時及び業時兄弟によって、 文永年間(1264〜1266)東西八丁、南北七丁に及ぶ寺域に七堂伽藍四十九院を完備せる壮大な寺院が完成された。 その後相次ぐ天災兵火の為、当初の建物は失われ、現在、文久3年(1863)の再建になる山門、 及び本堂、大師堂、客殿が残るのみである。 開山忍性菩薩は勧学院を興して律の教学を広める一方、施薬院、悲田院、施益院、癪宿、馬病舎等を設け、 病者、貧者の救済に努めた。 現在境内に残る千服茶臼、石造製薬鉢にその名残りを止めている。 又土木事業も盛んにし、極楽寺切通しを開いたことも有名である。 その徳行は世に称えられ嘉元元年(1303)八十七才で没した後、後醍醐天皇により菩薩号を送られている。
寺宝  釈迦如来立像(重要文化財)、釈迦如来坐像(重要文化財)、十大弟子(重要文化財)、 不動明王像(重要文化財)、密教法具(重要文化財)、忍性塔(五輪塔)(重要文化財)、 約に如来像、文殊菩薩像、その他
極楽寺駅
極楽寺から桜橋のある分岐まで引き返して極楽寺駅へと向っていきます。 坂道を降っていくと、右手に極楽寺駅(江ノ島電鉄)があります。 ここから電車に乗って帰ってもいいのですが、まだ時間に余裕があったので、 稲村ヶ崎まで散策することにしました。
極楽寺切通
極楽寺開山忍性が開いた道と伝えられ、京都・鎌倉間の往還路だった。 鎌倉・南北朝時代の武将・新田義貞は、元弘3年(1333)5月、一族を集めて討幕の挙兵をした。 各地の合戦で幕府軍を撃破し、鎌倉に迫ると、義貞は軍勢を三隊に分け、 極楽寺切通、巨橋呂坂、化粧坂の三方から攻めた。 一方、幕府軍も三方に手分けして防戦。 「太平記」(巻第十 稲村崎干潟と成る事)はこの合戦のありさまを次のように記している。
さる程に、極楽寺の切通しへ向はれたる大館次郎宗氏、本間に討たれて、 兵ども片瀬・腰越まで引き逃きぬと聞えければ、新田義貞、逞兵二万余騎を率して、 21日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。 明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、 木戸をかまへかい楯を掻いて、数万の兵陣を並べて並みゐたり。
 (鎌倉市教育委員会、鎌倉文学館)
針磨橋
線路沿いの道を進んでいきます。 極楽寺公会堂を過ぎていくと、極楽寺駅から7分ほどで十字路があります。 正面には短い針磨橋があります。 「鎌倉十橋」のひとつなのだそうですが、 今では道路の一部のようになっていて「橋」という雰囲気はほとんどありません。 鎌倉十橋のひとつに数えられた往時にはもっと立派な姿をしていたのでしょうか。 橋の左側に欄干が残っていて「針磨橋」と刻まれた石標も設置されていましたが、 右側の欄干はなくなっていて、うっかりしていると通り過ぎてしまいそうになります。
針磨橋
鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ 附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセ シ者住ミシケリトテ此ノ名ア リトイフ
 (鎌倉町青年団)
鎌倉十橋とは…
鎌倉十橋とは昔から鎌倉に伝わる「鎌倉の名数」のひとつです。 新編鎌倉志では、 琵琶橋・筋違橋・歌の橋・勝の橋・裁許橋・針磨橋・夷堂橋・逆川橋・乱橋・十王堂橋として紹介されているようで、 この針磨橋もその内のひとつになっています。
日蓮袈裟懸の松跡
針磨橋を過ぎて緩やかな坂道を登っていくと、江ノ電の線路の脇に出ます。 そのまま線路に並行して進んでいくと稲村2号踏切があります。 踏切を渡って少し行くと、道路の右手に「日蓮大菩薩 御袈裟懸松」と刻まれた石碑が立っています。 謂れなどを記した解説板は見当たりませんでしたが、 立正安国論を唱えて幕府に捕えられた日蓮が龍の口刑場に引き立てられる途中、 この地にあった松に自分の袈裟を掛けたという場所のようです。 現在ではその松の木はなくなっていますが、生えていた場所に石碑が立てられています。
十一人塚
更に道なりに進んでいくと、江ノ電の稲村1号踏切があります。 稲村ヶ崎駅は踏切の手前を右手へと進んでいくのですが、今回は海辺の稲村ヶ崎まで歩いていきます。 踏切を渡って少し進んでいくとT字路があり、その左手の角に十一人塚があります。 新田勢の大館軍が鎌倉軍に攻め込まれて主従十一人が戦死して、その遺骸を葬った所とのことです。
十一人塚
元弘三年五月十九日新田勢大館又次郎宗氏ヲ 将トシテ極楽寺口ヨリ鎌倉ニ攻入ラントセシ ニ敵中本間山城左衛門手兵ヲ率ヰテ大館ノ本 陣ニ切込ミ為メニ宗氏主従十一人戦死セリ即 遺骸ヲ茲ニ埋メ十一面観音ノ像ヲ建テ以テ其 ノ英魂ヲ弔シ之ヲ十一人塚ト称セシト云フ
 (鎌倉町青年団)
十字路
十一人塚の所を左折していくと、稲村ヶ崎自治会館の先に、極楽寺川に架かる極楽寺橋があります。 橋を渡って少し進んでいくと小さな十字路があります。 十字路を右折して細い路地を進んでいくと、すぐに国道134号に出ます。
鎌倉海浜公園(稲村ヶ崎地区)
国道134号の稲村ヶ崎公園前の押しボタン式の横断歩道を渡った所に鎌倉海浜公園(稲村ヶ崎地区)があります。 海の方は磯浜になっていて、白い波が岸の岩に打ち寄せていました。
右手の稲村ヶ崎海水浴場の向こうには江ノ島も見えていました。 天候に恵まれれば江ノ島と陸地との中ほどに富士山が望めるようですが、この時は曇っていて見えませんでした。
海のルールのお知らせ
この海は漁業権が設定されています。 一般の方がアワビ、サザエ、トコブシなどの貝類やワカメ、ヒジキなどの海藻類、 イセエビやタコなど、漁業権で指定された水産物は採ることが禁止されています。 また、指定のない水産物についても、次の行為は禁止されています。
1 水中めがねをかけてイソガネやヤスを使用したり、水中銃、潜水器具を使用して、魚や貝、海藻類を採ること。
2 魚や貝、海藻類に有害なものを海に捨てたり流したりすること。
3 電流や薬品を使用して魚や貝、海藻類を採ること。
 (神奈川県横須賀三浦地区行政センター環境調整課、神奈川県警、海上保安庁、漁業協同組合)
トビに注意
手に持った食べ物をトビが狙って空から襲ってきます。 トビに餌をあげてはいけません。
餌をもらったトビは、人の食べ物を狙うようになります。 トビにかぎらずハトやカラスなどの野生生物に餌をあたえることはやめましょう。
 (神奈川県横須賀三浦地区行政センター環境調整課、鎌倉市)
新田義貞碑
公園に入った左手には新田義貞碑があります。 現代文にした解説板は右手の高台の広場にあります。
稲村崎
今ヲ距ル五百八十四年ノ昔元弘三年五 月二十一日新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌 倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジ テ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ祈レリト言 フハ此ノ処ナリ
 (鎌倉町青年会)
新田義貞碑
今を距る584年の昔、元弘3年5月21日、新田義貞此の岬を廻りて鎌倉に進入せんとし、 金装の刀を海に投じて潮を退けんことを海神に祷れりと言ふは此の地なり
 (大正6年3月建之)
明治天皇御製 新田義貞
投げ入れし 剣の光あらわれて 千尋の海の くがとなりぬる
ボート遭難碑
海の方へ進んでいくとボート遭難碑があります。 遭難して死を直前にした中学生たちの友愛が語られています。
ボート遭難碑
みぞれまじりの氷雨が降りしきるこの七里ヶ浜の沖合いで ボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら12人が遭難転覆したのは 明治43年(1910)10月23日のひるさがりのことでした。 前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は当時世間をさわがせましたが、 その遺体が発見されるにおよんで、さらに世の人々を感動させたのは 彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした。 友は友をかばい合い、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです。 死にのぞんでもなお友を愛し、はらからをいつくしみ、 その友愛と犠牲の精神は生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか。 この像は「真白き富士の嶺」の歌詞とともに永久にその美しく尊い人間愛の精神を賞賛するために建立したものです。
 (逗子開成校友会、鎌倉開成会)
左手にある石段を登っていくと、高台には東屋のある小さな広場があります。 東屋からは江ノ島へと続く海の眺めが広がっていました。 また稲村ヶ崎に関する文学案内板もありました。
太平記
鎌倉・南北朝時代の武将、新田義貞は、元弘3年(1333)5月、 一族を集めて討幕の挙兵をし、22日、干潟になった稲村ガ崎の 海岸線を突破して鎌倉になだれ込んだ。鎌倉中が戦場と化し、 幕府軍の善戦及ばず、東勝寺へ逃れた北条高時ら一門は自害し、 幕府は滅亡した。「太平記」(巻第十稲村ガ崎干潟と成る事)に 次のように記されている。 げにもこの陣の寄手、かなわで引きむらんも理なりと見給ひければ、 義貞馬より下りたまひて、冑を脱いで海上を遥々と伏し拝み、 龍神に向かって祈誓したまひける。(略)みづから佩きたまへる 金作りの太刀を抜いて、海中へなげたまひけり。 まことに龍神納受やしたまひけん、その夜の月の入り方に、 先々さらに干る事も無かりける稲村ガ崎にはかに20余町干あがって 平沙渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に 誘はれて、遥かの沖に漂へり、不思議と云うもたぐい無し。
 (引用文献 新潮日本古典集成 新潮社 昭和55年)
コッホ博士記念碑
高台の広場には、コッホ博士の記念碑とそれを現代文にした解説板が設置されています。
ローベルト・コッホ碑(解説)
この碑は、世界的細菌学者ドイツのローベルト・コッホ博士の来日を記念して、 弟子である北里柴三郎博士と鎌倉市関係者により大正元年(1912)9月、建立されたものです。 当初、霊仙山頂に建立されたが地盤の脆弱化により、昭和58年(1983)10月、 鎌倉市医師会等によりこの地に移設された。 コッホ博士は、病気と病原菌の関係を客観的に証明する方法を提案し、 病原細菌学という新しい分野を開拓した人である。 明治35年(1905)「結核に関する研究」でノーベル生理学・医学賞を受賞している。 北里は破傷風菌の純培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見、 それを応用した血清療法を確立し、現代免疫学の祖と言われている。
【碑文の大意】 明治42年(41年の誤り)7月、ドイツの大医コッホ先生が北里博士と一緒に鎌倉に遊び、富士山を望みて大変喜ばれた。 霊仙山頂でコッホ先生は日の出の日暮れの素晴らしさを見て堪能された。 帰国後数年も経たないうちに亡くなられたので、山の所有者である村田氏らと相談し、 石碑を建てて事蹟を遺そうと考えた。 山の下の稲村ヶ崎は新田義貞中将が武運を祈って刀を沈めたといういわれのある地である。 海と富士山のおりなす絶景のこの地を今は海外の偉人がここに留まって風景を賞した所として世に伝えるべきと考える。
 (永坂周記弁書)
鎌倉海浜公園を後にして、稲村ヶ崎駅へと向っていきます。 稲村ヶ崎公園前の信号を渡って、国道134号を左手へと進んでいきます。 100mほど進んでいくと、右手に登っていく坂道があります。 角には食事処の看板などが出ています。 この坂道を登っていくと、少しズレた十字路があります。
稲村ヶ崎(いなむらがさき)駅
十字路を直進してコンビニのあるT字路を右折していくと、踏切を渡った右手に稲村ヶ崎駅(江ノ島電鉄)があります。
鎌倉駅までは10分、藤沢駅までは23分、1時間に5本程度の便があります。